国民史サンプル青空形式
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近世日本国民史の新字新仮名版です。青空文庫の形式を踏襲したつもりです。至らない点はご指摘下されば幸いです。

近世日本国民史
織田氏時代前篇

第四章 少壮時代の信長
【二七】信長の時代
漸《ようや》く織田信長《おだのぶなが》の時代に到着した。応仁《おうにん》の大乱以来、七八十年、蜂の巣を突き壊したる如《ごと》き、騒乱の結果は、日本全国に群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の形勢を来たし、世の中は自動的に、統一の傾向を生じた。但《た》だ此《こ》の傾向を促進して、各個の小丸《しょうがん》を打って、一|大丸《だいがん》となすは、英雄漢《えいゆうかん》の事業じゃ。舞台は開いた、役者は誰乎《だれか》。第一幕は、信長じゃ。
時機は、信長の製造した時機でない。此の乗ず可《べ》き時機は、群雄に対して、一切平等であった。毛利元就《もうりもとなり》にも、北條氏康《ほうじょううじやす》にも、上杉謙信《うえすぎけんしん》にも、武田信玄《たけだしんげん》にも、今川義元《いまがわよしもと》にも、乃至《ないし》九州の島津《しまづ》、奥州《おうしゅう》の伊達《だて》にも、皆《み》な同一だ。但だ之《これ》に乗じ得たのは、信長のみであった。其故《そのゆえ》は何ぞ、手近き理由の一としては、彼が地の利を得たからと云《い》わねばならぬ。
地の利とは、尾張《おわり》が京都に近からず、遠からず、恰《あたか》も適当の距離を保ったからだ。畠山氏《はたけやまし》の河内《かわち》に於《お》ける、三好《みよし》、松永《まつなが》等の摂津《せっつ》、山城《やましろ》に於《お》ける、形勝《けいしょう》の地を占めて居《お》るに相違ない。併《しか》し動《やや》もすれば其の領地が、交戦の巷《ちまた》となるを免がれぬ。乃《すなわ》ち恒《つね》に震源地たる虞《おそれ》あるが為めに、一日も其の民人《みんじん》を安息せしめる?が能《あた》わぬ。之《これ》に反して毛利、北條の如きは、一方に雄長《ゆうちょう》たるには、余りあるの勢力じゃが、幡《はた》を京都に立て、天下に号令するには、甚だ飛び離れて、二階から目薬の嫌《きらい》がある。特に謙信、信玄の如きは、畢生《ひっせい》の目的、唯《た》だ此に存《そん》したるに拘らず、遂《つい》に之を果たすことの能はなかったのは、越後《えちご》や、甲斐《かい》の地の利が、悪《あ》しかった為めと云《い》う可《べ》き事情も、確かにある。彼等は進まんとすれば、背《はい》を襲われ、後を顧れば、前を塞《ふさ》がる。単騎長躯《たんきちょうく》、とても思う様には参らなかった。信長も当初から、安土迄出張ることが出来たならば、猶更《なおさ》ら好都合であったかも知れぬが。何《いづ》れにせよ、彼は同時の群雄に比して、多大の便宜を占めて居た。
且《か》つ尾張は、木曽川流《きそせんりゅう》の沖積層《ちゅうせきそう》で、豊沃《ほうよく》の地じゃ。木曽川を控えたる、南東は一望平野で、美田、饒土《じょうど》じゃ。東方|三河《みかわ》に接したる地、及び知多半島、何れも岡陵《こうりょう》で、其の一州中、三百メートル以上の山は無い。信長が此処《ここ》より起ったは、良《まこ》とに仕合と云はねばならぬ。如何なる原始的戦争でも無代価では出来ぬ。若し商売とすれば、戦争は最も資本を要する商売じゃ。まして戦争が漸く節制的となり、大部隊の駆け引きを事とし、長槍《ちょうそう》、火銃《?》の使用せらるるの時に於ては、人と、貨とは、戦争に必需の要素じゃ。然《しか》るに尾張は人多く、家富む、信長の覇業《はぎょう》の基《もとい》は確かに此より成るとも云い得可《うべ》きではない乎《か》。
仮りに信長が、応仁の頃、奥州に生れたならば、彼は果して日本統一の業を、大成し得可き乎。将《は》た今川氏真《いまがわうじざね》、織田信雄《おだのぶお》の如き輩をして、信長の時と、地とを占めしめば、果して信長程の仕事を成し遂ぐ可き乎。何れも覚束なしと云はねばなるまい。単に人物のみに重きを惜《お》くも、偏見じゃ。さりとて単に境遇、気運のみに重きを惜くは、猶更《なおさ》らの偏見じゃ。船は潮に浮び、帆は風に従う、されど船を目的の港に達するは、船頭の力である。龍は雲に乗じ、人は勢に乗ず。吾人は信長に就《つい》て語るにも、時と、地とに関する、若干の風袋《ふうたい》を控除《こうじょ》せねばならぬ。併《しか》し控除しても、正味《しょうみ》の信長は、愈《いよい》よ偉大の英雄である事を、識認《しきにん》せねばならぬ。
但《た》だ然《しか》らば何故に、信長の如き人物は生じたる乎と云えば、其の一半は、時勢が加工したとも云い得可きであろう。併し如何に加工しても、石を珠と為す事は出来ぬ、鉛《なまり》を鋼《はがね》と為す事は出来ぬ。一切外来の感化を控除しても、信長は、天成の英雄であったと云わねばならぬ。然らば彼は何故に生じた、之を答え得る者は、唯だ天のみである。

【二八】信長の家系
信長は桓武天皇《かんむてんのう》より出でたる、平重盛《たいらのしげもり》の子孫と称せられて居る。秀吉は恐れ多くも、至尊《しそん》の御落胤《ごらくいん》との説もある。徳川家康《とくがわいえやす》は新田義貞《にったよしさだ》と同宗と云う事である。秀吉の御落胤説は勿論、他の二者に就《つい》ても、研究の余地がある。但だ秀吉は筑阿彌《ちくあみ》の継子《まゝこ》で、家康は徳阿彌《とくあみ》の裔《えい》であることは確実だ。英雄が風雲に乗じて興った後には、種々の付会説が出て来るものじゃ。
月並的の説では、小松重盛《こまつしげもり》の次子が資盛《すけもり》で、彼が壇の浦に没する前、其の妾は一子|親眞《ちかざね》を懐にしつつ、近江国《おうみのくに》津田邑《つだのゆう》に匿れた。妾は美人であって、津田の邑長《ゆうちょう》に嫁《か》した。親眞は追々成長したが、容貌端麗で、越前《えちぜん》の織田神社の神主に見込まれ、其の養子となった。よって織田氏を名乗り、又た津田権大夫《つだごんだゆう》とも云うた、後ち入道して覚盛《かくせい》と号《ごう》した。其の子孫、爾来《じらい》越前《えちぜん》の斯波家《しばけ》に仕え、同家が尾張の守護じゃによって、尾張に移った。
併し此の説は、浮かと信じる訳には参らぬ。覚盛と云う坊主は、叡山《えいざん》に居たが、信長の祖先たる証拠はない。然《しか》も織田氏は元来|藤原氏《ふじわらし》で、現に天文十八年付の制札《せいさつ》に、藤原信長《ひじわらのぶなが》と署してある。越前の織田剣神社《おだつるぎじんじゃ》は、其の氏神《うじがみ》である。よって其の先祖は、越前|丹生郡《にゅうぐん》織田荘《おだのしょう》の、荘官《しょうかん》ではあるまいかとの説〔文学博士田中義成〕もある。併し平氏にせよ、藤原氏にせよ、重盛の子孫であるにせよ、なきにせよ、信長の歴史には、多少の関係あるが、歴史の信長には、先《ま》づ没交渉《ぼつこうしょう》じゃ。但だ信長の家も、当時流行の下克上《げこくじょう》にて、其の門戸を拡大した事を、知れば足る。
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去程《さるほど》尾張国八郡也。上の四郡、織田伊勢守《おだいせのかみ》、諸将《しょしょう》手に付進退して、岩倉《いわくら》と云う處《ところ》に居城也。半国下の四郡|織田大和守《おだやまとのかみ》下知《げち》に随《したが》え、上下川を隔|清洲《きよす》

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