國民史サンプル
ホーム 上へ 進む

 

近世日本國民史
織田氏時代前篇

第四章 少壮時代の信長
【二七】信長の時代
漸《やうや》く織田信長《おだのぶなが》の時代《じだい》に到着《たうちやく》した。応仁《おうにん》の大乱《たいらん》以來《いらい》、七八十|年《ねん》、蜂《はち》の巣《す》を突《つ》き壊《こは》したる如《ごと》き、騒乱《さうらん》の結果《けつくわ》は、日本全國《にほんぜんこく》に群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》の形勢《けいせい》を來《き》たし、世《よ》の中《なか》は自動的《じどうてき》に、統一《とういつ》の傾向《けいかう》を生《しやう》じた。但《た》だ此《こ》の傾向《けいかう》を促進《そくしん》して、各個《かくこ》の小丸《せうぐわん》を打《うつ》て、一|大丸《だいぐわん》となすは、英雄漢《えいゆうかん》の事業《じげふ》ぢや。舞台《ぶたい》は開《ひら》いた、役者《やくしゃ》は誰乎《たれか》。第《だい》一|幕《まく》は、信長《のぶなが》ぢや。
時機《じき》は、信長《のぶなが》の製造《せいざう》した時機《じき》でない。此《こ》の乗《じよう》ず可《べ》き時機《じき》は、群雄《ぐんゆう》に対《たい》して、一|切《さい》平等《びやうどう》であつた。毛利元就《まうりもとなり》にも、北條氏康《ほうでううぢやす》にも、上杉謙信《うへすぎけんしん》にも、武田信玄《たけだしんげん》にも、今川義元《いまがはよしもと》にも、乃至《ないし》九|州《しう》の島津《しまづ》、奥州《あうしう》の伊達《だて》にも、皆《み》な同《どう》一だ。但《た》だ之《これ》に乗《じよう》じ得《え》たのは、信長《のぶなが》のみであつた。其故《そのゆゑ》は何《なん》ぞ、手近《てぢか》き理由《りいう》の一としては、彼《かれ》が地《ち》の利《り》を得《え》たからと云《い》はねばならぬ。
地《ち》の利《り》とは、尾張《をはり》が京都《きやうと》に近《ちか》からず、遠《とほ》からず、恰《あたか》も適当《てきたう》の距離《きより》を保《たも》つたからだ。畠山氏《はたけやまし》の河内《かはち》に於《お》ける、三|好《よし》、松永《まつなが》等《ら》の摂津《せつつ》、山城《やましろ》に於《お》ける、形勝《けいしよう》の地《ち》を占《し》めて居《を》るに相違《さうゐ》ない。併《しか》し動《やゝ》もすれば其《そ》の領地《りやうち》が、交戦《かうせん》の?《ちまた》となるを免《まぬ》かれぬ。乃《すなは》ち恒《つね》に震源地《しんげんち》たる虞《おそれ》あるが為《た》めに、一|日《にち》も其《そ》の民人《みんじん》を安息《あんそく》せしむる?が能《あた》はぬ。之《これ》に反《はん》して毛利《まうり》、北條《ほうでう》の如《ごと》きは、一|方《ぽう》に雄長《ゆうちやう》たるには、余《あま》りあるの勢力《せいりょく》ぢやが、幡《はた》を京都《きゃうと》に立《た》て、天下《てんか》に号令《がうれい》するには、甚《はなは》だ飛《と》び離《はな》れて、二|階《かい》から目薬《めぐすり》の嫌《きらひ》がある。特《とく》に謙信《けんしん》、信玄《しんげん》の如《ごと》きは、畢生《ひつせい》の目的《もくてき》、唯《た》だ此《これ》に存《そん》したるに拘《かゝは》らず、遂《つひ》に之《これ》を果《は》たすことの能《あた》はなかつたのは、越後《えちご》や、甲斐《かひ》の地《ち》の利《り》が、悪《あ》しかつた為《た》めと云《い》ふ可《べ》き事情《じじやう》も、確《たし》かにある。彼等《かれら》は進《すゝま》んとすれば、背《はい》を襲《おそ》はれ、後《うしろ》を顧《かへりみ》れば、前《まへ》を塞《ふさ》がる。単騎長?《たんきちやうく》、とても思《おも》ふ様《やう》には参《まゐ》らなかつた。信長《のぶなが》も当初《たうしよ》から、安土《あづち》迄《まで》出張《でば》ることが出來《でき》たならば、猶更《なほさ》ら好都合《かうつがふ》であつたかも知《し》れぬが。何《いづ》れにせよ、彼《かれ》は同時《どうじ》の群雄《ぐんゆう》に比《ひ》して、多大《ただい》の便宜《べんぎ》を占《し》めて居《ゐ》た。
且《か》つ尾張《をはり》は、木曽川流《きそせんりう》の沖積層《ちうせきそう》で、豊沃《ほうよく》の地ぢや。木曽川《きそがは》を控《ひか》へたる、南東《なんとう》は一|望《ぼう》平野《へいや》で、美田《びでん》、饒土《ぜうと》ぢや。東方《とうはう》参河《みかわ》に接《せつ》したる地《ち》、及《およ》び知多半島《ちたはんたう》、何《いづ》れも岡陵《かうりょう》で、其《そ》の一|州中《しうちう》、三百|米突《めーとる》以上《いじやう》の山《やま》は無《な》い。信長《のぶなが》が此?《ここ》より起《おこ》つたは、良《まこ》とに仕合《しあはせ》と云《い》はねばならぬ。如何《いか》なる原始的《げんしてき》戦争《せんさう》でも、無代?《むだいか》では出來《でき》ぬ。若《も》し商売《しやうばい》とすれば、戦争《せんさう》は最《もつと》も資本《しほん》を要《えう》する商売《しやうばい》ぢや。まして戦争《せんさう》が漸《やうや》く節制的《せつせいてき》となり、大部隊《だいぶたい》の駆《か》け引《ひ》きを事《こと》とし、長槍《ちやうさう》、火銃《くわじう》の使用《しよう》せらるゝの時《とき》に於《おい》ては、人《ひと》と、貨《くわ》とは、戦争《せんさう》に必需《ひつじゆ》の要素《えうそ》ぢや。然《しか》るに尾張《おはり》は人《ひと》?《おほ》く、家《いえ》富《と》む、信長《のぶなが》の覇業《はげふ》の基《もとゐ》は、確《たし》かに此《これ》より成《な》るとも云《い》ひ得可《うべ》きではない乎《か》。
仮《か》りに信長《のぶなが》が、応仁《おうにん》の頃《ころ》、奥州《あうしう》に生《うま》れたならば、彼《かれ》は果《はた》して日本統《にほんとう》一の業《げふ》を、大成《たいせい》し得可《うべ》き乎《か》。将《は》た今川氏真《いまがはうぢざね》、織田信雄《おだのぶを》の如《ごと》き輩《はい》をして、信長《のぶなが》の時《とき》と、地《ち》とを占《し》めしめば、果《はた》して信長《のぶなが》程《ほど》の仕事《しごと》を成《な》し遂《と》ぐ可《べ》き乎《か》。何《いづ》れも覚束《おぼつか》なしと云《い》はねばなるまい。単《たん》に人物《じんぶつ》のみに重《おも》きを措《お》くも、偏見《へんけん》ぢや。さりとて単《たん》に境遇《きやうぐう》、氣運《きうん》のみに重《おも》きを措《お》くは、猶更《なほさ》らの偏見《へんけん》ぢや。船《ふね》は潮《しほ》に浮《うか》び、帆《ほ》は風《かぜ》に従《したが》ふ、されど船《ふね》を目的《もくてき》の港《みなと》に達《たつ》するは、船頭《せんどう》の力《ちから》である。龍《りう》は雲《くも》に乗《じよう》じ、人《ひと》は勢《いきほひ》に乗《じよう》ず。吾人《ごじん》は信長《のぶなが》に就《つい》て語《かた》るにも、時《とき》と、地《ち》とに関《くわん》する、若干《じやくかん》の風袋《ふうたい》を控除《こうぢよ》せねばならぬ。併《しか》し控除《こうぢよ》しても、正味《しやうみ》の信長《のぶなが》は、愈《いよい》よ偉大《ゐだい》の英雄《えいゆう》である?を、識認《しきにん》せねばならぬ。
但《た》だ然《しか》らば何故《なにゆえ》に、信長《のぶなが》の如《ごと》き人物《じんぶつ》は生《しやう》じたる乎《か》と云《い》へば、其《そ》の一|半《ぱん》は、時勢《じせい》が加工《かこう》したとも云《い》ひ得可《うべ》きであらう。併《しか》し如何《いか》に加工《かこう》しても、石《いし》を珠《たま》と為《な》す?は出來《でき》ぬ、鉛《なまり》を鋼《はがね》と為《な》す?は出來ぬ。一|切《さい》外來《ぐわいらい》の感化《かんくわ》を控除《こうぢよ》しても、信長《のぶなが》は、天成《てんせい》の英雄《えいゆう》であつたと云《い》わねばならぬ。然《しか》らば彼《かれ》は何故《なにゆえ》に生《しやう》じた、之《これ》を答《こた》へ得《う》る者《もの》は、唯《た》だ天《てん》のみである。

【二八】信長の家系
信長《のぶなが》は桓武天皇《くわんむてんわう》より出《い》でたる、平重盛《たひらのしげもり》の子孫《しそん》と称《しよう》せられて居《を》る。秀吉《ひでよし》は恐《おそ》れ多《おほ》くも、至尊《しそん》の御落胤《ごらくいん》との説《せつ》もある。徳川家康《とくがはいへやす》は新田義貞《につたよしさだ》と同宗《どうそう》と云《い》ふ事《こと》である。秀吉《ひでよし》の御落胤説《ごらくいんせつ》は勿論《もちろん》、他《た》の二|者《しや》に就《つい》ても、研究《けんきう》の余地《よち》がある。但《た》だ秀吉《ひでよし》は筑阿彌《ちくあみ》の継子《まゝこ》で、家康《いへやす》は徳阿彌《とくあみ》の裔《えい》であることは確實《かくじつ》だ。英雄《えいゆう》が風雲《ふううん》に乗《じよう》じて興《おこ》つた後《のち》には、種々《しゆ/″\》の附会説《ふくわいせつ》が出《で》て來《く》るものぢや。
月並的《つきなみてき》の説《せつ》では、小松重盛《こまつしげもり》の次子《じし》が資盛《すけもり》で、彼《かれ》が壇《だん》の浦《うら》に没《ぼつ》する前《まへ》、其《その》妾《せふ》は一|子《し》親眞《ちかざね》を懐《ふところ》にしつゝ、近江國《あふみのくに》津田邑《つだのいふ》に匿《かく》れた。妾《せふ》は美人《びじん》であつて、津田《つだ》の邑長《いふちやう》に嫁《か》した。親眞《ちかざね》は追々《おひ/\》成長《せいちやう》したが、容貌《ようぼう》端麗《たんれい》で、越前《ゑちぜん》の織田神社《おだじんじや》の神主《かんぬし》に見込《みこ》まれ、其《そ》の養子《やうし》となつた。よつて織田氏《おだし》を名乗《なの》り、又《ま》た津田権大夫《つだごんだいふ》とも云《い》うた、後《の》ち入道《にふだう》して覚盛《かくせい》と号《がう》した。其《そ》の子孫《しそん》、爾来《じらい》越前《ゑちぜん》の斯波家《しばけ》に仕《つか》へ、同家《どうけ》が尾張《をはり》の守護《しゆご》ぢやによつて、尾張《をはり》に移《うつ》つた。
併《しか》し此《こ》の説《せつ》は、浮《う》かと信《しん》ずる訳《わけ》には参《まゐ》らぬ。覚盛《かくせい》と云《い》ふ坊主《ばうず》は、叡山《えいざん》に居《ゐ》たが、信長《のぶなが》の祖先《そせん》たる証拠《しようこ》はない。然《しか》も織田氏《おだし》は元來《ぐわんらい》藤原氏《ふぢはらし》で、現《げん》に天文《てんぶん》十八|年付《ねんづけ》の制札《せいさつ》に、藤原信長《ふぢはらのぶなが》と署《しよ》してある。越前《ゑちぜん》の織田剣神社《おだつるぎじんじや》は、其《そ》の氏神《うぢがみ》である。よつて其《そ》の先祖《せんぞ》は、越前《ゑちぜん》丹生郡《にふぐん》織田荘《おだのしやう》の、荘官《しやうくわん》ではあるまいかとの説《せつ》〔文学博士田中義成〕もある。併《しか》し平氏《へいし》にせよ、藤原氏《ふぢはらし》にせよ、重盛《しげもり》の子孫《しそん》であるにせよ、なきにせよ、信長《のぶなが》の歴史《れきし》には、多少《たせう》の関係《くわんけい》あるが、歴史《れきし》の信長《のぶなが》には、先《ま》づ没交渉《ぼつかうせふ》ぢや。但《た》だ信長《のぶなが》の家《いへ》も、当時《たうじ》流行《りうかう》の下克上《かこくじやう》にて、其《そ》の門戸《もんこ》を拡大《くわくだい》した事《こと》を、知《し》れば足《た》る。
[#ここから1字下げ]
去程《さるほど》尾張國《をはりのくに》八|郡《ぐん》也《なり》。上《かみ》の四|郡《ぐん》、織田伊勢守《おだいせのかみ》、諸将《しよしやう》手《て》に付《つき》進退《しんたい》して、岩倉《いはくら》と云《いふ》處《ところ》に居城《きよじやう》也《するなり》。半國《はんこく》下《しも》の四|郡《ぐん》織田大和守《おだやまとのかみ》下知《げち》に随《したが》へ、上下《じやうげ》川《かは》を隔《へだて》清洲《きよす》の城《しろ》に武衛様《ぶゑいさま》置申《おきまをし》、大和守《やまとのかみ》も城中《じやうちう》に候《さふらふ》て守立《まもりたて》申也《まをすなり》。大和守《やまとのかみ》内《うち》に三|奉行《ぶぎやう在《あり》[#レ]之《これ》、織田因幡守《おだいなばのかみ》、織田藤左衛門《おだとうざゑもん》、織田弾正忠《おだだんじやうのちう》、此《この》三|人《にん》奉行人《ぶぎやうびと》也《なり》。弾正忠《だんじやうのちう》と申《まをす》は、尾張國端《をはりのくにはづれ》勝幡《かつばた》と云《いふ》所《ところ》に、居城《きよじやう》也《するなり》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは信長《のぶなが》の伝記《でんき》として、最《もつと》も信憑《しんぴよう》す可《べ》き、織田家《おだけ》の祐筆《いうひつ》太田《おほた》牛《うし》一の、『信長公記《のぶながこうき》』の冒頭《ぼうとう》ぢや。乃《すなは》ち信長《のぶなが》は、斯波家《しばけ》―所謂《いはゆ》る武衛様《ぶゑいさま》の被官《ひくわん》、尾張《をはり》守護代《しゆごだい》の織田家《おだけ》に生《うま》れたのでなく。其《その》家《いへ》の一で、尾張《おはり》下《しも》の四|郡《ぐん》の清洲《きよす》にある、織田大和守《おだやまとのかみ》の奉行《ぶぎやう》の織田弾正忠《おだだんじやうのちう》、後《のち》に備後守《びんごのかみ》と称《しよう》したる者《もの》の子《こ》ぢや。門閥《もんばつ》は信長《のぶなが》に取《と》りて、何等《なんら》の特典《とくてん》を與《あた》へなかつた。彼《かれ》は唯《た》だ時勢《じせい》の?《こ》であつた。併《しか》し又《ま》た其《その》父《ちゝ》の子《こ》であつたことを看過《かんくわ》してはならぬ。信長《のぶなが》は、其《その》父《ちゝ》信秀《のぶひで》を辱《はづか》しめぬ子《こ》であると云《い》ふよりも、信秀《のぶひで》は、其子《そのこ》信長《のぶなが》の父《ちゝ》たる価値《かち》あいと云《い》ふが、或《あるひ》は妥当《だたう》かも知《し》れぬ。何《いづ》れにしても信秀《のぶひで》は、池中《ちちう》の物《もの》ではなかつた。
信秀《のぶひで》の志《こゝろざし》は、恐《おそ》らくは大《だい》であつたらう。『備後殿《びんごどの》は取分《とりわけ》器用《きよう》の仁《じん》にて、諸家中《しよけちう》の能者《のうしや》、御地音《ごちおん》成《な》され、御手《おて》に付《つけ》られ』とあれば、〔太田牛一〕其《そ》の廣《ひろ》く人材《じんざい》を収攬《しうらん》したる様《さま》、想《おも》ひやらるゝ。而《しか》して時世柄《じせいがら》とは申《まを》せ、頗《すこぶ》る権詐《けんさ》に長《た》けて居《ゐ》た。享禄《きやうろく》年中《ねんちう》、彼《かれ》は清洲《きよす》奉行《ぶぎやう》であり、今川氏豊《いまがはうぢとよ》は、那古野城《なごやじやう》に住《ぢう》し、互《たが》ひに連歌《れんか》の親友《しんいう》で、書筒《しよとう》往來《わうらい》の余《よ》、氏豊《うぢとよ》は遂《つひ》に信秀《のぶひで》を那古野《なごや》に誘《いざな》ひ、天文《てんぶん》元年《ぐわんねん》に至《いた》りて、彼《かれ》を其《そ》の城中《じやうちう》の一|室《しつ》に寓《ぐう》せしめた。然《しか》るに信秀《のぶひで》は病氣《びやうき》と称《しよう》して、其《そ》の従者《じうしや》を招《まね》き、虚《きよ》に乗《じよう》じて那古野《なごや》の牙城《がじやう》を襲《おそ》ひ、氏豊《うぢとよ》を放逐《はうちく》して、之《これ》を占領《せんりやう》した。〔濃陽戦記〕
但《ただ》し其《そ》の勤王《きんわう》の志《こゝろざし》も、尋常《じんじやう》ではなかつた。彼《かれ》は天文《てんぶん》十二|年《ねん》二|月《ぐわつ》、其臣《そのしん》平手《ひらて》中務丞《なかつかさのじよう》政秀《まさひで》を遣《つか》はし、内裏《だいり》四|面《めん》の築地蓋《ついぢおほひ》の修理《しうり》の為《た》めに、四千|貫文《ぐわんもん》を朝廷《てうてい》に献《けん》じた。又《ま》た伊勢外宮《いせげぐう》の造営《ざうえい》にも、其《その》力《ちから》を?《つく》した。而《しか》して朝廷《てうてい》よりは、其《そ》の翌年《よくねん》連歌師《れんかし》宗牧《そうぼく》の東下《とうか》に託《たく》し、女房《にようばう》奉書《ほうしよ》、古今集《こきんしふ》等《とう》を賜《たまは》つた。『今度《こんど》於《おいて》[#二]濃州《じやうしう》[#一]不慮《ふりよ》の合戦《かつせん》、勝利《しようり》を失《うしな》ひて、弾正忠《だんじやうのちう》一|人《にん》やうやう無事《ぶじ》に帰宅《きたく》、無興《ぶきよう》散々《さん/″\》の折節《をりふし》ながら、早々《はや/″\》まかり下《くだ》る可《べ》きよし』とは、宗牧《そうぼく》の照会《せうくわい》に対《たい》して、彼《かれ》の答《こた》へ振《ぶ》りであつた。彼《かれ》は平手《ひらて》をして宗牧《そうぼく》を接伴《せつばん》せしめ、其《そ》の殷勤《いんぎん》を極《きは》めた。彼《かれ》は宗牧《そうぼく》に面会《めんくわい》し、恩賜品《おんしひん》を頂戴《ちやうだい》した。『今度《こんど》不慮《ふりよ》の存命《そんめい》も、このためにこそありける、家《いへ》の面目《めんもく》不《からず》[#レ]可《べ》[#レ]過《すぐ》[#レ]之《これは》など、敗軍《はいぐん》無興《ぶきよう》の氣色《けしき》も見《み》えず。濃州《じやうしう》の儀《ぎ》一度《ひとたび》達《たつする》[#二]本意《ほんいを》[#一]事《こと》も侍《はべ》らば、重《かさ》ねて御修理《ごしうり》の儀《ぎ》ども仰《おほ》せ下《くだ》され候《さふらふ》やうに、内々《ない/\》可申上《まをしあぐべし》』とは、宗牧《そうぼく》によりて描《ゑが》き出《い》だされたる、彼《かれ》の言動《げんどう》であつた。〔東國紀行〕而《しか》して彼《かれ》は此《こ》の急迫《きふはく》の際《さい》にも、平手《ひらて》をして、宗牧《そうぼく》の為《た》めに、連歌《れんか》の会《くわい》を興行《こうぎやう》せしめた。彼《かれ》は實《じつ》に英雄《えいゆう》の父《ちゝ》たる英雄《えいゆう》ぢや。

織田信秀勤王心の事
其年織田弾正(信秀)禁裏御修理の儀依[#レ]被[#二]仰下[#一]。平手中務丞?上り。御料理進納。其後?感の趣を仰下されたくは覚しめしながら。所ゝ出陣など聞召及ばれ旁とかく怠られしを。?勅使をなど下さるべき事は。國の造作なれば。我等下國に。女房奉書な?こと?らるべきよし。廣橋殿より仰聞せられたり。便路とは申ながら?おほくて。しんさくの趣再三申上たれども。?て仰なれば御請を申たり。この次参河へまかり可[#二]仰下[#一]とて。是は典侍殿の御局より。三條右府(公條)へ仰の旨?へ上られて。御局様御盃御服など頂戴の事也。面目身に余れる事なり。友軌平手方まで遣して内議申たれば。今度於[#二]濃州[#一]不慮の合戦。勝利を失なひて。弾正忠一人やう/\無事に帰宅。無興散々の折節ながら。早々まかり下るべきよし返事あり。宗丹伊勢まで迎にきたれば。桑名より川舟にて津島に着たり。翌日やがて那古野に下着。平手出迎ひて。けふの寒ささこそな?。先何やらむ手を温めよ。口を温めよ。湯風呂石風呂よな?。念比に人をもてなす事。生得の数奇の様なれば。さまで?にも及ばず。誠におほかたなる所へ落着たらば。發病もすべきあらしにぞ有ける。岸宗?賢桃知春など尋來られ。夕食のしたで手づからの為[#レ]?。息三郎次郎菊千代盃取々。けふのてい身をも忘れたり。翌日霜?に見参。朝食巳前女房奉書古今集など拝領。今度不慮の存命も。このためにとぞ有ける。家の面目不[#レ]可[#レ]過[#レ]之など。敗軍無興の氣色も見えず。濃州之儀一度達[#二]本意[#一]事も侍らば。重ねて御修理の儀とも仰下され候やうに。内々可?[#二]?申上云々。武勇の心きはみえたる申されやう。御言?迷惑も忘れて。老後満足也。御書の御返事催して罷立べきよし申たり。一座興行の事。この?など一かう其さたも有まじくおぼえしを。於[#レ]愚ては難[#レ]去故障の事有。平手に興行すべき由内議にて。發句の事申されて。はや連衆の事方々へ人遣しつゝ。?坊織田丹波守。喜多野右京亮。遙々來り。今度残命高名虎口を遁れし物語。誠に不慮の再会なり。發句めされて。
 色かへぬ世や雪の竹霜の松
王?公か昔を思ひよせたり。わが興行の外聞に。脇をば霜?作名にと内識有けん。?きせい成べし。〔東國紀行〕

【二九】父は子の縮図
尾張《をはり》は四|通《つう》八|達《たつ》の地《ち》ぢや、攻むるに善《よ》い丈《たけ》、守《まも》るには悪《わる》い。進攻《しんこう》を以《もつ》て防御《ばうぎよ》となす他《ほか》には、妙策《めうさく》がない。織田信秀《おだのぶひで》が、征戦《せいせん》に虚日《きよじつ》なかつたも、要《えう》するに已《や》むを得《え》ぬ訳《わけ》ぢや。参河《みかは》には徳川氏《とくがはし》が在《あ》つた、徳川氏《とくがはし》は清康《きよやす》、其《そ》の臣下《しんか》に殺《ころ》され、家変《かへん》の為《た》めに、一|時《じ》頓挫《とんざ》したが、其《そ》の背後《はいご》には、駿河《するが》の今川氏《いまがはし》があつて、寧《むし》ろ織田氏《おだし》に取《と》りては、より大《だい》なる敵《てき》と接近《せつきん》する事《こと》となつた。美濃《みの》には斉藤道《さいとうだう》三が興《おこ》つた。極端《きよくたん》なる下克上《かこくじやう》の標本《へうほん》だけありて、是亦《これま》た容易《ようい》の敵《てき》ではなかつた。信秀《のぶひで》は内《うち》にしては、尾張《をはり》八|郡《ぐん》を取《と》り纏《まと》むるの必要《ひつえう》があり、外《ほか》にしては、是等《これら》の敵《てき》に当《あた》るの必要《ひつえう》があつた。
信秀《のぶひで》が如何《いか》に腹背《ふくはい》の敵《てき》に対《たい》し、奇抜《きばつ》の戦法《せんぱふ》を實行《じつかう》したかは、『備後殿《びんごどの》は、國中《こくちう》?《たの》み勢《ぜい》をなされ、一|個月《かげつ》は美濃國《みののくに》へ御働《おはたらき》、又《ま》た翌月《よくげつ》は参河《みかは》の國《くに》へ御出勢《ごしゆつぜい》』と云《い》ふにて推察《すゐさつ》せらる。天文《てんぶん》十一|年《ねん》には、今川義元《いまがはよしもと》が四|萬《まん》と称《しよう》する大兵《たいへい》に対《たい》し、其《そ》の十|分《ぶん》の一なる四千の兵《へい》を率《ひき》ゐて、小豆坂《あづきざか》に迎《むか》へ撃《う》つた。彼《かれ》の部下《ぶか》は善《よ》く戦《たゝか》うた。小豆坂《あづきざか》の七|本槍《ほんやり》とは、此時《このとき》の事《こと》ぢや。同《どう》十六|年《ねん》には美濃《みの》に打《う》ち入《い》つた。
[#ここから1字下げ]
九|月《ぐわつ》三|日《か》尾張《をはり》國中《こくちう》の人数《にんず》を被成御?《おんたのみなされ》、美濃國《みののくに》へ御乱入《ごらんにふ》、在々《ざい/\》所々《しよ/\に》放火《はうくわ》候て、九|月《ぐわつ》廿二|日《にち》齋藤山城道《さいとうやましろだう》三|居城《きよじやう》稲葉山《いなばやま》山下村《やましたむら》に推詰《おしつめ》焼払《やきはらひ》、町口《まちぐち》まで取寄《とりよせ》、既《すでに》及《および》[#二]晩日《ばんじつ》申刻《さるのこくに》[#一]、御人数《ごにんず》被《られ》[#二]引退《ひきしりぞけ》[#一]、諸手《もろて》半分《はんぶん》計《ばかり》引取《ひきとり》候《さふらふ》所《ところ》へ、山城《やましろ》道《だう》三|?《どつ》と南《みなみ》へ向《むかつ》て切《きり》かゝり、雖《いへども》[#二]相支候《あひさゝへさふらふと》[#一]、多人数《たにんず》くづれ立《たち》の間《あひだ》、守備《しゆび》事《すること》不《ず》[#レ]叶《かなは》、備後殿《びんごどの》御舎弟《ごしやてい》織田與《おだよ》三|郎《らう》……を初《はじ》めとし、歴々《れき/\》五千|計《ばかり》討死《うちじに》也《なり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
彼《かれ》は敵《てき》の城下《じやうか》に肉薄《にくはく》し、凱歌《がいか》を奏《そう》して、軍《ぐん》を還《かへ》すの刹那《せつな》に於《おい》て、?《たちま》ち逆襲《ぎやくしふ》せられ、意外《いぐわい》の大敗《たいはい》を招《まね》いた。五千の討死《うちじに》とは、?ゝ《やゝ》受取《うけと》り難《がた》きも、彼《かれ》が僅《わづ》かに身《み》を以《もつ》て免《まぬか》れたる、痛楚《つうそ》なる敗北《はいぼく》の模様《もやう》は、分明《ぶんみやう》である。
其《そ》の十一|月《ぐわつ》には、齋藤道《さいとうだう》三が、尾張《をはり》の者《もの》は、最早《もはや》足《あし》も腰《こし》も立間敷《たつまじ》く、此際《このさい》大垣《おほがき》を取詰《とりつ》む可《べ》しとて、近江《あふみ》より援兵《ゑんぺい》を借《か》り、攻《せ》め寄《よ》せた。然《しか》るに信秀《のぶひで》は木曽川《きそがは》、飛騨川《ひだがは》の大河《おほかは》舟渡《ふなわたし》を打渡《うちわた》り、美濃國《みののくに》に乱入《らんにふ》し、処々《しよ/\》に放火《はうくわ》し、道《だう》三をして、退却《たいきやく》せしめた。『備後守《びんごのかみ》軽々《かる/″\》と御發足《ごはつそく》、御手柄《おてがら》無《なき》[#二]申計《まをすはかり》[#一]次第《しだい》也《なり》』とは、簡《かん》にして、能《よ》く?《つく》した言《げん》ではない乎《か》。軽々《かる/″\》の二|字《じ》は、?神《でんしん》の筆《ふで》ぢや。
彼《かれ》は児福者《こぷくしや》ぢや、十二|男《なん》七|女子《ぢよし》があつた。信長《のぶなが》は天文《てんぶん》三|年《ねん》五|月《ぐわつ》、古渡城《ふるわたりじやう》に生《うま》れた。彼《かれ》は那古野城《なごやじやう》を築《きづ》き、信長《のぶなが》を居《を》らしめ、林《はやし》、平手《ひらて》、青山《あをやま》、内藤《ないとう》の四|人《にん》を、守役《もりやく》とした。其小《そのこ》字《あざ》は吉法師《きちはふし》、天文《てんぶん》十五|年《ねん》、十三|歳《さい》で古渡城《ふるわたりじやう》で元服《げんぷく》し、信長《のぶなが》と称《しよう》し、三|郎《らう》と字《あざな》した。其《そ》の翌年《よくねん》、十四|歳《さい》で、始《はじ》めて戦陣《せんぢん》の洗礼《せんれい》を受《う》けた。
[#ここから1字下げ]
織田《おだ》三|郎《らう》信長《のぶなが》、御武者始《おんむしやはじ》めとして、平手中務丞《ひらてなかつかさのじよう》、其時《そのとき》の仕立《したて》、紅筋《べにすぢ》の頭巾《づきん》羽織《はおり》、馬鎧出立《うまよろひいでたち》にて、駿河《するが》より人数《にんず》入置《いれおき》候《さふらふ》、参州《さんしう》の内《うち》吉良大濱《きらおおはま》へ御手遣《おんてをつかはし》、所々《しよ/\》放火《はうくわ》候《さふらふ》て、其日《そのひ》は野陣《のぢん》を懸《かけ》させられ、次日《つぎのひ》那古野《なごや》に至《いたつ》て御帰陣《ごきぢん》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
なんと勇壮《ゆうさう》の武者始《むしやはじ》めではない乎《か》。而《しか》して信秀《のぶひで》が、平手《ひらて》の肝煎《きもいり》で、信長《のぶなが》の為《た》めに、美濃《みの》の齋藤道《さいとうだう》三の女《むすめ》と、婚約《こんやく》を結《むす》びたるも、此年《このとし》ぢや。?《か》くて信秀《のぶひで》は、天文《てんぶん》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》、四十二|歳《さい》で逝《ゆ》いた。此時《このとき》信長《のぶなが》は十六|歳《さい》であつた。
信秀《のぶひで》は、信長《のぶなが》の縮図《しゆくづ》とも云《い》ふ可《べ》きぢや。彼《かれ》は活動的《くわつどうてき》の漢《をのこ》で、寸時《すんじ》も愚図々々《ぐつ/\》して居《を》らぬ。彼《かれ》は如何《いか》なる危険《きけん》にも、恐怖《きようふ》せず、如何《いか》なる不幸《ふかう》にも、失望《しつばう》せぬ。彼《かれ》の脊椎骨《せきつゐこつ》は、全《まつた》く弾機《だんき》で作《つく》られた様《やう》だ。全身《ぜんしん》皆《み》な弾力《だんりよく》ぢや。彼《かれ》は引込思案《ひつこみじあん》するよりも、寧《むし》ろ自《みづ》から進《すゝ》んで押《お》し出《だ》した。彼《かれ》は人心《じんしん》を収攬《しうらん》し、人材《じんざい》を吸集《きふしふ》するに、最《もつと》も力《ちから》を?《つく》し、且《か》つ此?《このてん》に於《お》て、最《もつと》も成功《せいこう》した。其《そ》の証拠《しようこ》には、彼《かれ》が信長《のぶなが》に遺《のこ》した、諸将《しよしやう》の顔触《かほぶれ》を見《み》ても、?《には》か大名《だいみやう》としては、抜群《ばつぐん》と云《い》はねばなるまい。彼《かれ》は相応《さうおう》に文雅《ぶんが》の嗜《たしな》みもあつた。彼《かれ》は道《だう》三や、久秀《ひさひで》程《ほど》の?人《にんじん》ではなかつたであらう。併《しか》し目的《もくてき》の為《た》めに、手段《しゆだん》を択《えら》まぬ位《くらゐ》は、彼《かれ》に取《と》りては何《なん》でもなかつた。彼《かれ》の勤王心《きんわうしん》は、彼《か》れ独特《どくとく》のものではなかつた、当時《たうじ》の大名《だいみやう》、若《もし》くは其他《そのた》にも、彼《か》れ同様《どうやう》の奉公《ほうこう》をなした者《もの》が少《すくな》くない。併《しか》し彼《か》れは確《たし》かに、勤王心《きんわうしん》を有《いう》した者《もの》の一|人《にん》であつた。

【三〇】少壮の信長
蛇《じや》は一|寸《すん》にして、人《ひと》を呑《の》む氣象《きしやう》がある。信長《のぶなが》も生《うま》れながらに、人《ひと》を人臭《ひとくさ》しと思《おも》はぬ、面魂《つらたましひ》を具《そな》へて居《ゐ》た。彼《かれ》は手《て》に終《を》へぬ大腕白者《おほわんぱくもの》ぢや。彼《かれ》は飛切《とびき》りの大我儘者《おほわがまゝもの》ぢや。傍若無人《ぼうじやくぶじん》は、彼《かれ》が一|生《しやう》を始終《ししう》しての振舞《ふるまひ》ぢや。若《も》し此丈《これだ》けなれば、彼《かれ》は唯《た》だ狂童《きやうどう》ぢや、老《お》いても尚《な》ほ?心《ちしん》を改《あらた》めぬ狂漢《きやうかん》ぢや。否々《いな/\》、彼《かれ》には恒《つね》に他《た》の諒解《れうかい》し易《やす》からぬ、目的《もくてき》があつた。其《そ》の性癖《せいへき》も、却《かへつ》て之《これ》を成就《じやうじゆ》する方便《はうべん》となり、又《ま》た時《とき》としては、その方便《はうべん》であつた。
室町時代《むろまちじだい》の生氣《せいき》は失《う》せた、残《のこ》るは唯《た》だ其《そ》の虚礼虚文《きよれいきよぶん》だ。恰《あたか》も蜘蛛《くも》が去《さ》つた後《のち》に、其《そ》の十重百重《とへもゝへ》の網巣《あみのす》が残《のこ》る様《やう》に。誰《たれ》か之《これ》を打破《だは》する。信長《のぶなが》ぢや。天正《てんしやう》頃《ごろ》に出來《でき》た小笠原貞慶《おがさはらさだよし》の『諸礼集《しよれいしふ》』と云《い》ふ本《ほん》がある。それを読《よ》めば、室町時代《むろまちじだい》の礼法《れいはふ》がらみの、窮屈《きうくつ》な有様《ありさま》の一|斑《ぱん》が、想像《さうざう》せらるゝ。一寸《ちよつと》した手紙《てがみ》の封《ふう》じ目《め》さへも、中々《なか/\》小面倒《こめんだう》ぢや。斯《かゝ》る窮屈《きうくつ》な世《よ》の中《なか》では、傍若無人《ばうじやくぶじん》は、済世《さいせい》の妙薬《めうやく》である。時勢《じせい》の児《じ》信長《のぶなが》は、寧《むし》ろ時勢《じせい》の案内者《あんないしや》、予想者《よさうしや》、先駆者《せんくしや》と云《い》ふ方《はう》が、妥当《だたう》かとも思《おも》はるゝ。
彼《かれ》が十六|歳《さい》にて、其《その》父《ちゝ》信秀《のぶひで》の跡《あと》を相続《さうぞく》したる時《とき》、彼《かれ》には如何《いか》なる分別《ふんべつ》があつたか。彼《かれ》が其《その》父《ちゝ》の葬儀《さうぎ》に於《お》ける行動《かうどう》は、頗《すこぶ》る奇怪《きくわい》であつた。
[#ここから1字下げ]
信長《のぶなが》御焼香《ごせうかう》に御出《おんいで》、其時《そのときの》信長公《のぶながこう》御仕立《おんしたて》、長柄《ながつか》の太刀《たち》脇差《わきざし》を三五縄《しめなは》にて捲《まか》せられ、髪《かみ》は茶筅《ちやせん》に巻立《まきたて》、袴《はかま》もめし候《さふら》はで、仏前《ぶつぜん》へ御出有《おんいであつ》て、抹香《まつかう》をくわつと御《おん》つかみ候《さふらふ》て、仏前《ぶつぜん》へ投懸《なげかけ》御?《おかへり》。御舎弟《ごしやてい》勘《かん》十|郎《らう》は、折目《をりめ》高成《たかなる》肩衣袴《かたぎぬはかま》めし候《さふらふ》て、有《ある》べき如《ごと》くの御沙汰《ごさた》也《なり》。三|郎《らう》信長公《のぶながこう》を、例《れい》の大《おほ》うつけよと執々《とり/″\》評判《ひやうばん》候《さふらひ》し也《なり》。其中《そのうち》に筑紫《つくし》の客僧《きやくそう》一|人《にん》、あれこそ國《くに》は持人《もつひと》よと申《まをし》たる由也《よしなり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは故《ことさ》らに傍目《わきめ》を暗《くら》ます為《た》めであつた乎《か》。将《は》た此《こ》の通《とほ》り撥《は》ね廻《まは》さねば、自《みづ》から満足《まんぞく》が出來《でき》なかつた乎《か》。何《いづ》れにしても人《ひと》を食《く》つた仕方《しかた》には相違《さうゐ》ない。
[#ここから1字下げ]
?《こゝに》見悪事《みにくきこと》有《あり》、町《まち》を御通《おとほり》の時《とき》、人目《ひとめ》をも無《なく》[#二]御憚《おんはゝ″かり》[#一]、栗柿《くりがき》は不及申《まをすにおよばず》、瓜《うり》をかぶりくひになされ、町中《まちなか》にて立《たち》ながら餅《もち》を□り、人《ひと》に?《よ》り懸《かゝ》り、人《ひと》の肩《かた》につらさがりてより外《ほか》は、御《おん》ありきなく候《さふらふ》。
其比《そのころ》は世間《せけん》公道《こうだう》成《なる》折節《をりふし》にて候間《さふらふあひだ》、大《おほ》うつ氣《け》とより外《ほか》に申《まを》さず候《さふらふ》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
洵《まこと》に言語道断《ごんごだうだん》の振舞《ふるまひ》ぢや。然《しか》も是《こ》れは彼《かれ》の不真面目《ふまじめ》の半面《はんめん》ぢや。
[#ここから1字下げ]
信長《のぶなが》十六七八までは、別《べつ》の御遊《おんあそび》は無御座《ござなく》、馬《うま》を朝夕《あさゆふ》御稽古《おけいこ》、又《また》三|月《ぐわつ》より九|月《ぐわつ》までは川《かは》に入《いり》、水練《すゐれん》の御達者《おたつしや》也《なり》。其《その》折節《をりふし》竹槍《たけやり》にて、?合《たゝきあひを》御覧《ごらん》じ、兎角《とかく》槍《やり》は短《みじか》く候《さふらふ》ては、悪《あし》く候《さふら》はんと被仰《おほせられ》候《さふらふ》て、三|間柄《げんえ》、三|間々中柄《げんまなかえ》?《など》にさせられ、其比《そのころ》の御形儀《おんぎやうぎ》、明衣《ゆかたびら》の袖《そで》をはづし、半袴《はんばかま》?袋《ひうちぶくろ》色々《いろ/\》?多《あまた》付《つけ》させられ、御髪《おぐし》は茶筅《ちやせん》に、紅?萌黄?《あかいともえぎいと》にて巻立《まきたて》結《ゆ》はせられ、大刀《たいたう》朱鞘《しゆざや》を指《さ》させられ、悉《こと/″\く》朱武者《しゆむしや》被仰付《おほせつけられ》。市川大介《いちかはだいすけ》召寄《めしよせ》られ、御弓《おゆみ》御稽古《おけいこ》、橋本《はしもと》一|巴《ぱ》師匠《ししやう》として、鉄砲《てつぱう》御稽古《おけいこ》、平田《ひらた》三|位《ゐ》、不断《ふだん》召寄《めしよせ》兵法《ひやうはふ》御稽古《おけいこ》、御鷹野《おたかの》等《とう》也《なり》。〔信長公記〕
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に彼《かれ》が修養《しうやう》を事《こと》としたかは、此《こ》れでも瞭《あきらか》ではない乎《か》。他人《たにん》の肩《かた》に?《よ》り掛《かゝ》り、瓜《うり》を其儘《そのまゝ》頬張《ほゝば》りつゝ、異様《いやう》の風?《ふうてい》で、町中《まちなか》を往來《わうらい》したる彼《かれ》と、一|心不乱《しんふらん》、武事精励《ぶじせいれい》の彼《かれ》とが、同《どう》一|人《にん》であるとは、凡慮《ぼんりよ》の及《およ》ぶ所《ところ》ではない。
特《とく》に彼《かれ》が三|間柄《げんえ》、若《もし》くは三|間半柄《げんはんえ》の長槍《ちやうさう》を奨励《しやうれい》したるは、確《たし》かに一|大《だい》見解《けんかい》ぢや。彼《かれ》は武器《ぶき》を精撰《せいせん》するの道《みち》を知《し》つた。刀《かたな》よりも短槍《たんさう》、短槍《たんさう》よりも長槍《ちやうさう》、長槍《ちやうさう》よりも鉄砲《てつぱう》、此《こ》れが進化《しんくわ》の順序《じゆんじよ》ぢや。而《しか》して織田氏《おだし》の兵《へい》が、向《むか》ふ所《ところ》克《か》たざる無《な》く、甲州《かふしう》の老兵《らうへい》に対《たい》してさへも、尚《な》ほ最後《さいご》の勝利《しようり》を得《え》たのは、畢竟《ひつきやう》鉄砲《てつぱう》の効能《かうのう》ぢや。而《しか》して長槍《ちやうさう》は、鉄砲《てつぱう》程《ほど》の利器《りき》ではないが、其《そ》の取扱《とりあつかひ》の軽便《けいべん》なるは、又《ま》た鉄砲《てつぱう》の比《ひ》ではない。信長《のぶなが》が少年時代《せうねんじだい》に、此《こゝ》に着眼《ちやくがん》したのは、此《こ》の一|事《じ》でも、彼《かれ》が其《そ》の眼孔《がんこう》、群雄《ぐんゆう》の上《うへ》に卓越《たくゑつ》して居《ゐ》た?が、知《し》らるゝではない乎《か》。
所詮《せんずるところ》信長《のぶなが》は時勢《じせい》の児《じ》であり、又《ま》た信秀《のぶひで》の子《こ》であるが、然《しか》も信長《のぶなが》は、何処迄《どこまで》も信長《のぶなが》である。彼《かれ》は他人《たにん》の足跡《そくせき》を辿《たど》る者《もの》ではない。彼《かれ》は傍人《ばうじん》に我《わ》が行《ゆ》く可《べ》き道《みち》を聴《き》いて、然《しか》る後《のち》歩《あゆ》み出《だ》す漢《をのこ》ではない。彼《かれ》自《みづ》からが?社会《きうしやくわい》の破壊力《はくわいりよく》ぢや、彼《かれ》自《みづ》からが新社会《しんしやくわい》の建設力《けんせつりよく》ぢや。彼《かれ》は天下《てんか》の氣運《きうん》に乗《じよう》じたのみでなく、彼自身《かれじしん》が其《そ》の氣運《きうん》ぢや。

平手中務諫言切腹の事
信長公異風なる御学動逐[#レ]日さかんになり、加之御心立ても不[#レ]揃して、行儀作法もさながら狂人の如し。此の比の様?にては中々國郡を治め玉はん事、叶難く見えける故、諸人皆危く思て、安堵の心更になし。御傳の長臣平手中務政秀、此事を深く歎きて、毎度諫を奉るといへども、御承引の儀会てなし。?に政秀に三人の子あり、惣領を五郎右衛門、二男を監物、三男を甚左衛門と云ふ、其比五郎右衛門類なき名馬を所持す、信長公御所望有けるに、五郎右衛門返答には、某は武道を心掛申候間、御諚旨罷成間敷由、苦々しく申放て、馬を進らせざる間、信長公御立腹あり、其より五郎右衛門と御不和也。中務丞も内々此事は、五郎右衛門が僻事なりとて戒めけるが、子の悪きあまりにや、父の平手もいつ共なく、信長公の御前宜しからず、然れ共中務度々諫言を奉つて、信長御氣?の儀?もを、申止めんとしけるに、信長公一旦御承引有といへ共未御若年なる故、たしかに守り玉ふ事なし。中務是を嘆きて所詮頼もしからぬ主人を守り立て、事ゆくべしとも思はざれば、忠諫の為に腹切て無ん跡までも、責て忠義の志を立んと決定して、一通の書を残して曰く、度々の諫言御用ひなき事、身の不肖不[#レ]過[#レ]之因[#レ]?自害致し候者也、あはれ某が死を不便にも被[#二]思召[#一]ば、申上置きたる処一箇條にても御用ひに於ては、草の陰にても難[#レ]有仕合に可[#レ]奉[#レ]存由、遺書に諫状を指添へ留め置きて、政秀即ち腹切て死去しけり、誠に是末代無双の忠臣とぞ聞へし。信長公大きに驚き思召て、御後悔不[#レ]斜、??涙を垂給ひて平手が諫状の趣を一々御信服あり、是より御心立行儀作法を改られ、日々眞實の御嗜也、然れ共異相は未だやみ玉はず、其後信長公平手が菩提の為にとて、一宇の寺を御建立有て政秀寺と名付け、自身御参詣御焼香あり、それより後代々此寺にて、平手が後世を弔らひ玉ふ。?又時々に平手が忠志を思召され、天下一統の後も、我如[#レ]此國郡を切取事は、皆中務が厚恩なりと、仰られし事度々なり。又鷹野に出玉ひ、河狩をし玉ふ時も、?に中務が事を思召出されて、或は鷹取たる鳥を引さきては、政秀是を食せよとて虚空に向て投たまふ、或は河水を立ながら御足にて蹴かけ玉ふて、平手是を呑よとの玉ひ、双眼に御涙を浮べ玉ふ事多し。皆人是を見て、かかる異相の人ながらも、御信實の御手向、?に奇特の御芳志なれば、平手が亡魂いか計か、?く存べきとて各信感し奉る。〔ハ見記〕

ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで