第三章 江戸近海防備の諸意見
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[#4字下げ][#大見出し]第三章 江戸近海防備の諸意見[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【九】幕府當局の外憂に對する態度[#中見出し終わり]

朝廷《てうてい》が外事《ぐわいじ》に就《つい》て、憂慮《いうりよ》あらせられたる程《ほど》なれば、黨局《たうきよく》の幕府《ばくふ》が、固《もと》より呑氣《のんき》に構《かま》へてゐる可《べ》き理由《りいう》はない。されど幕府《ばくふ》には何《なん》たる根本的《こんぽんてき》大決心《だいけつしん》もなく、只《た》だ其《そ》の日暮《ひぐ》らしに過《す》ぎ去《さ》つた。而《しか》して自《みづ》から方策《はうさく》を定《さだ》めて、天下《てんか》に號令《がうれい》するよりも、寧《むし》ろ其《そ》の方策《はうさく》を、屬僚《ぞくれう》に向《むかつ》て諮問《しもん》した。〔參照 幕府實力失墜時代、六四―七一〕[#「〔參照 幕府實力失墜時代、六四―七一〕」は1段階小さな文字]諮問《しもん》必《かな》らずしも不可《ふか》ならず、郡議《ぐんぎ》を採《と》る必《かな》らずしも不可《ふか》ならず。然《しか》もそは自《みづ》から根本的《こんぽんてき》政策《せいさく》を定《さだ》めたる上《うへ》の事《こと》であらねばならぬ。問題《もんだい》の核心《かくしん》に觸《ふ》れずして、徒《いたづ》らに文政《ぶんせい》の打拂令《うちはらひれい》や、天保《てんぽう》の緩和令《くわんわれい》やの得失《とくしつ》に、汲々《きふ/\》たるが如《ごと》きは、以《もつ》ての外《ほか》の了見違《れうけんちが》ひだ。
自國《じこく》の問題《もんだい》としては、開國《かいこく》乎《か》、鎖國《さこく》乎《か》だ。對外《たいぐわい》の問題《もんだい》としては、和親《わしん》乎《か》、戰爭《せんさう》乎《か》。此《こ》れが根本問題《こんぽんもんだい》だ。而《しか》して鎖國《さこく》は必然《ひつぜん》戰爭《せんさう》を覺悟《かくご》し、開國《かいこく》は當然《たうぜん》和親《わしん》に伴《ともな》ふ。此《こ》れ何人《なんびと》たりとも一|通《とほ》りの常識《じやうしき》あるものには、最《もつと》も睹易《みやす》き問題《もんだい》だ。而《しか》して其《そ》の開鎖《かいさ》何《いづ》れにしても、一|國《こく》の防備《ばうび》を整備《せいび》す可《べ》きは勿論《もちろん》だ。
然《しか》も若《も》し鎖國制度《さこくせいど》を嚴守《げんしゆ》すると云《い》ふに於《おい》ては、、實力《じつりよく》を以《もつ》てするの他《ほか》に、何等《なんら》の手段《しゆだん》なく、方辨《はうべん》なきことは、是亦《これま》た勿論《もちろん》だ。然《しか》るに幕府《ばくふ》は、何等《なんら》此等《これら》の準備《じゆんび》も、施爲《しゐ》も爲《な》さなかつた。全《まつた》く爲《な》さなかつたとは云《い》はない。されど死中《しちゆう》活《くわつ》を求《もと》むる底《てい》の大決心《だいけつしん》をもて、大眞面目《だいしんめんもく》に、其《そ》の全幅《ぜんぷく》の力《ちから》を傾倒《けいたう》するには至《いた》らなかつた。
若《も》し擧國民鎖國《きよこくみんさこく》の長夜《ちやうや》の睡眠中《すゐみんちゆう》に、突然《とつじよ》として外國船《ぐわいこくせん》が、我《わ》が港灣《こうわん》に乘《の》り入《い》つたとすれば、周章《しうしやう》も、狼狽《らうばい》も、不體裁《ふていさい》ではあるが、幾分《いくぶん》か申譯《まをしわ》けないでもない。されど決《けつ》して無警告《むけいこく》ではない、決《けつ》して青天《せいてん》の霹靂《へきれき》ではない。黒船《くろふね》の影《かげ》は、寛政頃《くわんせいごろ》から、追々《おひ/\》と濃厚《のうこう》となつて來《き》た。露國《ろこく》との交渉《かうせふ》は、文化年間《ぶんくわねんかん》から、頗《すこぶ》る面倒《めんだう》を加《くは》へ來《きた》つた。
而《しか》して英船《えいせん》は文政年間《ぶんせいねんかん》に、常陸《ひたち》に來《きた》り、又《ま》た浦賀《うらが》に來《きた》つた。米國《べいこく》の捕鯨船《ほげいせん》も、屡《しばし》ば我《わ》が沿海《えんかい》に來往《らいわう》した。天保年間《てんぽうねんかん》に至《いた》りては、英國《えいこく》と清國《しんこく》との葛藤《かつとう》やら、又《ま》た琉球《りうきう》に於《お》ける外國船《ぐわいこくせん》の渡來《とらい》やら、而《しか》して弘化年間《こうくわねんかん》に至《いた》りては、和蘭國王《おらんだこくわう》の忠告書《ちゆうこくしよ》や。如何《いか》なる呑氣《のんき》の寢坊《ねばう》も、斯《かゝ》る警鐘亂撞《けいしようらんとう》には、眼《め》を醒《さま》す[#「醒《さま》す」は底本では「醒《さま》ます」]可《べ》きが當《あた》り前《まへ》である。
今更《いまさ》ら幕府當局《ばくふたうきよく》の怠慢《たいまん》、姑息《こそく》、偸安《とうあん》、苟且《こうしよ》を咎《とが》め立《だ》てするのみではないが、彼等《かれら》は一|切《さい》の警報《けいはう》や、警告《けいこく》を、殆《ほと》んど無視《むし》し、手《て》を拱《きよう》して、唯《た》だ其日《そのひ》の無事《ぶじ》を是《こ》れ希《こひねが》うた。固《もと》より其中《そのうち》には、寛政度《くわんせいど》の松平定信《まつだひらさだのぶ》や、天保度《てんぽうど》の水野忠邦《みづのたゞくに》の如《ごと》き、外憂《ぐわいいう》の早晩《さうばん》來《きた》る可《べ》きを豫感《よかん》し、それぞれ對策《たいさく》を考慮《かうりよ》したる者《もの》もあつた。されど彼等《かれら》とても日本《にほん》の國是《こくぜ》を、新《あら》たなる時代《じだい》に於《おい》て、一|新《しん》し、且《か》つ一|定《てい》す可《べ》しと云《い》ふ根本政策《こんぽんたいさく》には、殆《ほと》んど觸《ふ》るゝ所《ところ》がなかつた。彼等《かれら》に開國《かいこく》の新國策《しんこくさく》なきは云《い》ふに及《およ》ばず、さりとて鎖國《さこく》の祖法《そはふ》を嚴守《げんしゆ》するには、實力《じつりよく》を要《えう》し。その實力《じつりよく》は、外國船《ぐわいこくせん》を日本《にほん》の沿海《えんかい》より驅逐《くちく》する程《ほど》の準備《じゆんび》と、施設《しせつ》がなければ能《あた》はずと云《い》ふ見地《けんち》には、達《たつ》し得《え》なかつた。假令《たとひ》達《たつ》し得《え》たりとするも、事實《じじつ》の上《うへ》には、それが現《あら》はれなかつた。
文化時代《ぶんくわじだい》、杉田玄白《すぎたげんぱく》などは、露船《ろせん》の我國《わがくに》に來《きた》りて、通信貿易《つうしんぼうえき》を請《こ》ふに際《さい》し、其《そ》の必勝《ひつしよう》の策《さく》なきを以《もつ》て、寧《むし》ろ當分《たうぶん》和親《わしん》し、我《わ》が準備《じゆんび》成《な》るの後《のち》に於《おい》て、徐《おもむ》ろに戰《たゝか》ふも未《いま》だ晩《おそ》しとせずと云《い》うてゐる。〔參照 幕府分解接近時代、七二、七三〕[#「〔參照 幕府分解接近時代、七二、七三〕」は1段階小さな文字]門外漢《もんぐわいかん》の杉田玄白《すぎたげんぱく》さへも、斯《か》く論《ろん》ずる程《ほど》なれば、當局者《たうきよくしや》が、其《そ》の實力《じつりよく》の不足《ふそく》を自覺《じかく》しない筈《はず》はない。況《いは》んや文政年度《ぶんせいねんど》に於《おい》てをや、況《いは》んや天保年度《てんぽうねんど》に於《おい》てをや、又《ま》た況《いは》んや弘化《こうくわ》、嘉永年度《かえいねんど》に於《おい》てをや。
果《はた》して然《しか》らば、彼等《かれら》は全力《ぜんりよく》を此《これ》に致《いた》す可《べ》きである。然《しか》もそれさへ殆《ほと》んど眞劍《しんけん》にはならなかつた。高島秋帆《たかしましうはん》の洋砲採用《やうはうさいよう》の建議《けんぎ》も、天保《てんぽう》の末期《ばつき》に漸《やうや》く行《おこな》はれた。然《しか》も水戸齊昭《みとなりあき》の大船製造《たいせんせいざう》の意見《いけん》の如《ごと》きは、嘉永《かえい》の末期《ばつき》まで、遂《つ》ひに行《おこな》はれなかつた。
要《えう》するに幕府《ばくふ》の當局者《たうきよくしや》は、警鐘亂撞《けいしようらんとう》の際《さい》に、熟睡《じゆくすゐ》と云《い》はざる迄《まで》も、半睡《はんすゐ》、半醒《はんせい》の情態《じやうたい》にて、猶《な》ほ臥床《ぐわしやう》の上《うへ》にあつた。今日《こんにち》から考《かんがふ》れば、彼等《かれら》の心理状態《しんりじやうたい》が、寧《むし》ろ不思議《ふしぎ》千|萬《ばん》と云《い》はねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇】浦賀奉行の防備意見書(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

當時《たうじ》官民上下《くわんみんしやうか》、必《かな》らずしも外憂《ぐわいいう》に無關心《むくわんしん》ではなかつた。云《い》はゞ海防論《かいばうろん》は、天保《てんぽう》の末期《ばつき》から、弘化《こうくわ》、嘉永《かえい》にかけては、流行《りうかう》の好題目《かうだいもく》となつてゐた。然《しか》も其《そ》の所説《しよせつ》は、概《おほむ》ね鎖國《さこく》を前提《ぜんてい》としての方策《はうさく》に過《す》ぎなかつた。會澤《あひざは》の新論《しんろん》や、水戸齊昭《みとなりあき》の打拂説《うちはらひせつ》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 幕府實力失墜時代、七四―八四〕[#「〔參照 幕府實力失墜時代、七四―八四〕」は1段階小さな文字]然《しか》して筒井政憲《つゝゐまさのり》の農兵採用《のうへいさいよう》、兵士土著《へいしどちやく》の説《せつ》も、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 同上、七一〕[#「〔參照 同上、七一〕」は1段階小さな文字]然《しか》も尚《な》ほ當時《たうじ》に於《お》ける對外論策《たいぐわいろんさく》に就《つ》き、一二|記載《きさい》するであらう。蓋《けだ》し當時《たうじ》の所謂《いはゆ》る知識階級《ちしきかいきふ》が、如何《いか》なる態度《たいど》を以《もつ》て、此《こ》の問題《もんだい》に對《たい》したるかを知《し》るは、最《もつと》も必要《ひつえう》の事《こと》であるからだ。
嘉永《かえい》二|年《ねん》酉《とり》一二|月附《ぐわつづけ》にて、浦賀奉行《うらがぶぎやう》戸田伊豆守《とだいづのかみ》、淺野中務少輔《あさのなかつかさせういふ》の連名《れんめい》にて、差出《さしいだ》したる意見書《いけんしよ》は、頗《すこぶ》る長文《ちやうぶん》であるが。彼等《かれら》は最《もつと》も責任《せきにん》の地位《ちゐ》にあり、云《い》はゞ對外《たいぐわい》第《だい》一|線《せん》に立《た》つ者共《ものども》なれば、其《そ》の意見《いけん》を知《し》る爲《た》めには、煩《はん》を厭《いと》ふ可《べ》きではない。
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近來《きんらい》異國船《いこくせん》頻《しきり》に通行仕候《つうかうつかまつりさふらふ》に付《つき》、當夏中《たうなつちゆう》(嘉永二年)[#「(嘉永二年)」は1段階小さな文字]諸向《しよむき》へ見込《みこみ》御尋等《おたづねとう》も御座候節《ござさふらふせつ》、緊要之御教諭《きんえうのごけうゆ》も御座候事《ござさふらふこと》、御改正之御趣意《ごかいせいのごしゆい》も|被[#二]仰出[#一]候事《おほせいだされさふらふこと》と|奉[#レ]存候處《ぞんじたてまつりさふらふところ》、追々《おひ/\》月日《つきひ》相延《あひのび》、|無[#レ]程《ほどなく》來春《らいしゆん》渡來時節《とらいじせつ》に近《ちか》く候故《さふらふゆゑ》、甚《はなはだ》心配仕候處《しんぱいつかまつりさふらふところ》。猶又《なほまた》此度《このたび》御沙汰之次第《ごさたのしだい》も御座候事故《ござさふらふことゆゑ》、申合候《まをしあはせさふらう》て兩人《りやうにん》(戸田、淺野)[#「(戸田、淺野)」は1段階小さな文字]見込《みこみ》の儀《ぎ》左《さ》に申上候《まをしあげさふらふ》。
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此《こ》れにて幕府當局《ばくふたうきよく》から、諮問《しもん》に對《たい》する答申《たふしん》と見《み》る可《べ》きであらう。幕府《ばくふ》の諮問《しもん》も既記《きき》の通《とほ》りである。〔參照 幕府實力失墜時代、七〇〕[#「〔參照 幕府實力失墜時代、七〇〕」は1段階小さな文字]
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一 萬國《ばんこく》へ之御處置《のごしよち》、御改革《ごかいかく》と相成候共《あひなりさふらふとも》、日本國《にほんこく》に於《おい》て、海防之手配《かいばうのてはい》相減《あひげんじ》、異船《いせん》|近付不[#レ]申《ちかづきまをさず》御安心《ごあんしん》と申《まをす》良謀奇策《りやうぼうきさく》は、|乍[#レ]恐《おそれながら》御座有間敷《ござあるまじく》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。假令《たとひ》通信通商《つうしんつうしやう》を開《ひら》き、蠻國《ばんこく》へ親《したし》み候共《さふらふとも》、御備《おんそなへ》は勿論之儀《もちろんのぎ》、況《いはん》や御打拂候御趣意《おんうちはらひさふらふごしゆい》に立戻《たちもど》り候《さふらは》ば、彌《いよ/\》御嚴重《ごげんぢゆう》に御座候《ござさふらは》では|不[#二]相成[#一]《あひならず》、其事《そのこと》に於《おい》て緩急御座候迄《くわんきふござさふらふまで》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
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以上《いじやう》は海防《かいばう》の嚴重《げんぢゆう》にせざる可《べか》らざるを云《い》うたのだ。
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且《かつ》浦賀表《うらがおもて》は、諸方之海岸《しよはうのかいがん》と事變《ことかは》り、萬《まん》一|小變御座候《せうへんござさふらう》ても、御國體《おんこくたい》に相拘《あひかゝは》り候而巳《さふらふのみ》に|無[#二]御座[#一]《ござなく》、差當《さしあた》り江戸表之治亂《えどおもてのちらん》|難[#レ]計儀《はかりがたきぎ》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。且《かつ》海面之儀《かいめんのぎ》も、場廣之事《ばひろのこと》にて、推《おし》て異船《いせん》通航仕候節《つうかうつかまつりさふらふせつ》は、富津《ふつつ》、觀音崎《くわんおんざき》は乘越候儀《のりこしさふらふぎ》は、容易之事《よういのこと》にて、其節《そのせつ》有來之小船《ありきたりのこぶね》にて、乘留候儀《のりとめさふらふぎ》は、迚《とて》も及兼《およびかね》、右《みぎ》に毎々《まい/\》申上候處《まをしあげさふらふところ》、近來《きんらい》異船《いせん》多人數《たにんず》、軍艦《ぐんかん》にて渡來仕《とらいつかまつり》、以前《いぜん》の漁舟《ぎよしう》、難破船《なんぱせん》とは相違仕《さうゐつかまつり》、海底之測量《かいていのそくりやう》も相開《あひひら》き、日本通詞《にほんつうじ》乘組候次第《のりくみさふらふしだい》にて、此上之處《このうへのところ》、此儘《このまゝ》|御捨被[#レ]置候《おんすておかれさふらう》ては、幾末《いくすゑ》御爲《おんため》宜《よろしく》とは|乍[#レ]恐《おそれながら》|難[#二]申上[#一]《まをしあげがたく》。此義《このぎ》海面之樣子《かいめんのやうす》、異艦之形勢《いかんのけいせい》、渡來之人物等《とらいのじんぶつとう》、親《したしく》見候者《みさふらふもの》に|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらう》ては、畢竟《ひつきやう》分《わか》り難《がた》く、惣《すべ》て臺場之銃器《だいばのじゆうき》は死物《しぶつ》にて、|運轉不[#レ]仕《うんてんつかまつらず》。軍艦之砲器《ぐんかんのはうき》は活物《くわつぶつ》にて、運動仕候故《うんどうつかまつりさふらふゆゑ》、戰艦《せんかん》に一|倍《ばい》|相備不[#レ]申候《あひそなへまをさずさふらう》ては、|對戰難[#レ]申由《たいせんまをしがたきよし》承傳候處《うけたまはりつたへさふらふところ》。近《ちか》く弘化《こうくわ》三|午年《うまどし》ボストン[#「ボストン」に二重傍線]艦《かん》申上候《まをしあげさふらふ》は、大船之方《たいせんのはう》八十|梃餘《ちやうよ》、小船之方《せうせんのはう》二十|梃餘《ちやうよ》、都合《つがふ》百|餘梃之大筒《よちやうのおほづゝ》仕掛《しか》け。然《しか》る處《ところ》、一|昨年來《さくねんらい》御固《おかた》め相増候《あひましさふらう》ても、相州之方《さうしうのはう》、城《じやう》ヶ|島《しま》より猿島《さるしま》まで、六七|里之間《りのあひだ》、漸《やうや》く七十|梃餘《ちやうよ》にて、悉《こと/″\》く貫目以上之筒《かんめいじやうのつゝ》は|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。房州之方《ばうしうのはう》は、洲之崎《すのさき》より相州迄《さうしうまで》、十|里程之處《りほどのところ》へ、四十|梃程之大筒《ちやうほどのおほづゝ》も|可[#レ]有[#レ]之《これあるべく》、兩岸之鐵砲《りやうがんのてつぱう》一|所《ところ》に相集《あひあつ》め候共《さふらふとも》、兩艘《りやうさう》大筒《おほづゝ》と員數不足仕《ゐんずふそくつかまつり》、萬《まん》一|事《こと》を生候節《しやうじさふらふせつ》は、萬死《ばんし》一|生《しやう》は|難[#レ]得《えがたく》、假令《たとひ》討死仕候共《うちじにつかまつりさふらふとも》、御國益《おんこくえき》更《さら》に|不[#二]相見[#一]《あひみえず》、右故《みぎゆゑ》渡來之時々《とらいのとき/″\》、舌頭《ぜつとう》を以《もつて》、|承伏爲[#レ]仕候外《しようふくつかまつらせさふらふほか》|無[#二]御座[#一]《ござなく》。其外《そのほか》如何程《いかほど》申諭候共《まをしさとしさふらふとも》、尚又《なほまた》度々《たび/\》渡來《わたりきた》り候《さふらふ》は、同樣之儀《どうやうのぎ》、幾度《いくたび》申諭候迚《まをしさとしさふらふとて》、異人共《いじんども》心腹致候儀《しんぷくいたしさふらふぎ》は、毛頭《もうとう》|無[#二]御座[#一]候間《ござなくさふらふあひだ》、容易《よういに》出帆仕間敷《しゆつぱんつかまつるまじく》、推《おし》て江戸《えど》へ|乘入可[#レ]申《のりいれまをすべく》と、甚《はなはだ》心痛仕候《しんつうつかまつりさふらふ》。
右《みぎ》に付《つき》、一と通之儀《とほりのぎ》にては、御安心之御備共《ごあんしんのおんそなへとも》|難[#二]申上[#一]候故《まをしあげがたくさふらふゆゑ》、漸《やゝ》充實仕候《じゆうじつつかまつりさふらふ》より外《ほか》、|勘辨無[#二]御座[#一]候儀《かんべんござなくさふらふぎ》と|奉[#レ]存候間《ぞんじたてまつりさふらふあひだ》、少々宛之儀《せう/\づゝのぎ》申上候得共《まをしあげさふらえども》、多《おほ》く御入用筋《おんいりようすじ》にて、|行屆不[#レ]申《ゆきとゞきまをさず》。右故《みぎゆゑ》此度《このたび》防禦筋《ばうぎよすぢ》、御取締之御趣意《おんとりしまりのごしゆい》も|被[#二]仰出[#一]候上《おほせいだされさふらふうへ》は、十|分之儀《ぶんのぎ》にも|被[#二]申上[#一]候儀《まをしあげられさふらふぎ》と差控罷在《さしひかへまかりあり》、數月之間《すうげつのあひだ》、朝暮御沙汰之次第《てうぼごさたのしだい》を|奉[#レ]待候儀《まちたてまつりさふらふぎ》に御座候《ござさふらふ》。先《まづ》浦賀表《うらがおもて》御手薄之次第《おてうすのしだい》、左《さ》に申上候《まをしあげさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》にて如何《いか》に江戸灣《えどわん》の防備《ばうび》が、薄弱《はくじやく》であり、且《か》つ其《そ》の薄弱《はくじやく》なることを、其《そ》の責任者《せきにんしや》が自覺《じかく》しつゝあつたことが判知《わか》る。而《しか》して彼等《かれら》は更《さ》らに逐條的《ちくでうてき》に、其《そ》の手薄《てうす》の事實《じじつ》を縷述《るじゆつ》した。

[#5字下げ][#中見出し]【一一】浦賀奉行の防備意見書(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

浦賀奉行《うらがぶぎやう》戸田《とだ》、淺野《あさの》は、以下《いか》項《かう》を追《お》うて、浦賀防備《うらがばうび》の甚《はなは》だ手薄《てうす》き所以《ゆゑん》を、具體的《ぐたいてき》に説明《せつめい》してゐる。
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一 陣中《ぢんちゆう》は兵粮《ひやうらう》第《だい》一に御座候處《ござさふらふところ》、御代官御藏《おだいくわんおくら》御座候《ござさふらう》ても、平生《へいぜい》御切米御扶持之御渡而巳《おんきりまいごふちのおわたしのみ》にて、非常之儀《ひじやうのぎ》、町人共《ちやうにんども》諸色立替御用《しよしきたてかへごよう》を以《もつて》、焚出仕《たきだしつかまつり》、御入用《ごにふよう》御下《おさ》げ五七ヶ|月《げつ》を越候《こしさふらう》て御渡《おわたし》に相成《あひなり》。右《みぎ》は御國恩《ごこくおん》を相辨《あひわきまへ》、平生之儀《へいぜいのぎ》、|差支不[#レ]申候得共《さしつかへまをさずさふらえども》、異變《いへん》を生《しやう》じ、一|放砲聲《ぱうほうせい》轟《とゞろ》き候《さふら》はゞ、輕《かる》き者共《ものども》恐怖仕《きようふつかまつり》、用立申間敷《ようたてまをすまじく》、其節《そのせつ》非常御備金《ひじやうおんそなへきん》は|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。水主《かこ》船頭《せんどう》多人數之兵粮《たにんずのひやうらう》、第《だい》一に差支《さしつかへ》、一|日之防備《にちのばうび》も|難[#レ]計儀《はかりがたきぎ》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは萬《まん》一の際《さい》には、兵粮《ひやうらう》に窮《きゆう》し、一|日《にち》の防備《ばうび》も、出來難《できがた》き事情《じじやう》を云《い》ふのだ。
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一 近來《きんらい》異國筒《いこくづゝ》御※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《おんまは》しに相成候處《あひなりさふらふところ》、長崎《ながさき》御※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]之《おんまはしの》カルロンナーテ・ホーウヰッスル御筒《おんつゝ》に、御玉《おんたま》漸《やうやく》十づゝ、外業《ぐわいげふ》に至《いたり》伺濟《うかがひずみ》にて、御貯《おんたくはへ》に相成《あひなり》、當年《たうねん》相※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]候《あひまはしさふらふ》モルチール・ホーウヰッスル御筒之御玉《おんつゝのおんたま》|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。|依[#レ]之《これにより》大筒《おほづゝ》御貯《おんたくはへ》、玉藥《たまぐすり》並《ならびに》組内稽古大筒玉藥之儀《くみうちけいこおほづゝたまぐすりのぎ》、御手輕《おてがる》に取調度《とりしらべたく》と申上候得共《まをしあげさふらえども》、未《いまだ》|御下知無[#二]御座[#一]《ごげちござなく》、非常御備藥《ひじやうおんそなへぐすり》も纔之事《わづかのこと》にて、彌《いよ/\》打合《うちあひ》に相成候節《あひなりさふらふせつ》は、一|時之戰《じのたゝかひ》も、|無[#二]覺束[#一]事《おぼつかなきこと》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは彈藥《だんやく》の欠缺《けつけつ》を、露骨《ろこつ》に語《かた》りたるものだ。
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一 船之儀《ふねのぎ》は先役者《せんやくしや》より軍艦《ぐんかん》御製造之儀《ごせいざうのぎ》申上候處《まをしあげさふらふところ》、|難[#レ]被[#レ]及[#二]御沙汰[#一]《ごさたにおよばれがたく》、押送《おしおく》り舟《ふね》一|艘《さう》御造増《おんつくりまし》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、其後《そのご》スルーフ形《がた》、御新造《ごしんざう》に相成候得共《あひなりさふらえども》、御筒《おんつゝ》鑄直之御下知《いなほしのごげち》|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。下田丸《しもだまる》御造替《おんつくりかへ》に付《つき》、大筒《おほづゝ》ヶ成《かなり》打方仕度《うちかたつかまつりたく》、右《みぎ》御造替申上候處《おんつくりかへまをしあげさふらふところ》、是又《これまた》|御下知無[#二]御座[#一]《ごげちござなく》。尤《もつとも》下田丸位《しもだまるぐらゐ》にて、事足《ことた》り候儀《さふらふぎ》には、|無[#二]御座[#一]候得共《ござなくさふらへども》、漸《やうやく》戰艦製造之道《せんかんせいざうのみち》開《ひら》け|可[#レ]申哉《まをすべきか》と、|被[#レ]存候迄《ぞんぜられさふらふまで》に御座候《ござさふらふ》。右之次第故《みぎのしだいゆゑ》、只今之分《たゞいまのぶん》にても、押送《おしおく》り方《かた》御舟而巳《おふねのみ》に付《つき》、大筒《おほづゝ》|打方被[#レ]仕候《うちかたつかまつられさふらふ》大船《たいせん》、一|艘《さう》も|無[#二]御座[#一]《ござなく》、心配仕候《しんぱいつかまつりさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは船舶《せんぱく》の不足《ふそく》のみならず、皆無《かいむ》であるを云《い》ふ。如何《いか》に幕府當局《ばくふたうきよく》が怠慢《たいまん》であつた乎《か》は、以上《いじやう》三|項《かう》を通覽《つうらん》すれば、極《きは》めて痛快《つうくわい》に、剴切《がいせつ》に物語《ものがた》つてゐる。
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一 御固之向《おんかためのむき》にては、未年《ひつじどし》(弘化四年丁未)[#「(弘化四年丁未)」は1段階小さな文字]二|月《ぐわつ》、異船《いせん》渡來之節《とらいのせつ》、番船《ばんせん》數艘《すさう》差出《さしいだ》し、海中《かいちゆう》漂候儀《たゞよひさふらふぎ》は|無[#レ]詮事故《せんなきことゆゑ》、以來《いらい》番船《ばんせん》一|艘《さう》二|艘《さう》づゝ差出候樣《さしいだしさふらふやう》御下知之趣共《ごげちのおもむきども》、主張仕《しゆちやうつかまつり》、持場《もちば》陸固之心得故《りくかためのこゝろえゆゑ》、追々《おひ/\》利解仕候得共《りかいつかまつりさふらえども》、海面之事《かいめんのこと》は、力《ちから》に及兼候趣《およびかねさふらふおもむき》、毎年《まいねん》申聞《まをしきけ》。左候《ささふらは》では、異船《いせん》俄《にはか》に野心《やしん》を發候《おこしさふら》はゞ、二三|里《り》或《あるひ》は四五|里《り》を隔候《へだてさふらふ》、陸地之人數《りくちのにんず》、二三|艘之番船《ざうのばんせん》にて、急報《きふはう》|相屆可[#レ]申《あひとゞけまをすべく》とは|不[#レ]奉[#レ]存《そんじたてまつらず》。其上《そのうへ》多《おほく》は、異船之《いせんの》浦賀邊《うらがへん》へ船繋仕候事故《ふながゝりつかまつりさふらふことゆゑ》、萬《まん》一|之節《のせつ》、諸家《しよけ》人數《にんず》御用《ごよう》には相立兼《あひたちかね》、浦賀《うらが》一|手之引合《てのひきあひ》と|被[#レ]存候處《ぞんぜられさふらふところ》。惣人數《そうにんず》百八|人《にん》、先々《まづ/\》手配仕候事故《てはいつかまつりさふらふことゆゑ》、|引足不[#レ]申《ひきたりまをさず》、第《だい》一|心配仕候儀《しんぱいつかまつりさふらふぎ》に御座候《ござさふらふ》。
右《みぎ》に付《つき》再應勘辨仕候得共《さいおうかんべんつかまつりさふらえども》、浦賀之儀《うらがのぎ》は、江戸近海《えどきんかい》と申《まをし》、公儀御備場之事故《こうぎおんそなへばのことゆゑ》、御改正御座候《ごかいせいござさふらう》て、御守衞《ごしゆゑい》|相立不[#レ]申候《あひたてまをさずさふらは》では、|難[#二]相成[#一]候間《あひなりがたくさふらふあひだ》、|可[#二]相成[#一]《あひなるべく》は海防掛《かいばうがか》り之者共《のものども》御召連《おんめしつれ》、場所之樣子《ばしよのやうす》、御備付等《おんそなへつけとう》は、御《ご》一|覽御座候樣《らんござさふらふやう》仕度《つかまつりたく》、|依[#レ]之《これによりて》御備方之儀《おんそなへかたのぎ》、左《さ》に申上候《まをしあげさふらふ》。尤《もつとも》非常御備之儀故《ひじやうおんそなへのぎゆゑ》、戰爭之實地《せんさうのじつち》を見候《みさふらう》て、取調申上候《とりしらべまをしあげさふらふ》。
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此《こ》れは番船《ばんせん》の不足《ふそく》、且《か》つ急遽《きふきよ》の役《やく》に立《た》たざるを云《い》ふ。
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一 非常之節《ひじやうのせつ》、人數之屯所《にんずのとんしよ》|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらう》ては、窮迫仕《きゆうはくつかまつり》、其上《そのうへ》粮米之繰出《りやうまいのくりいだ》し差支候處《さしつかへさふらふところ》。浦賀表《うらがおもて》は、一|町《ちやう》四|方《はう》相開《あひひら》け候場所《さふらふばしよ》|無[#二]御座[#一]《ござなく》、狹隘之地故《けふあひのちゆゑ》、平根山《ひらねやま》切下《きりさ》げ、鶴崎《つるさき》より千代崎燈明臺迄之處《ちよざきとうみやうだいまでのところ》、有來候《ありきたりさふらふ》筒据場《つゝすゑば》の所《ところ》は、歩檣《ほしよう》御取直《おとりなほ》し、砦構《とりでかまへ》に築直《きづきなほ》し御座候得《ござさふらえ》ば、大筒之《おほづゝの》五六十|梃之御据付《ちやうのおんすゑつけ》|可[#二]相成[#一]《あひなるべく》。左候得《ささふらえ》ば、異人《いじん》押《おし》て上陸仕候得共《じやうりくつかまつりさふらふとも》、人數之進退《にんずのしんたい》自由《じいう》に|有[#レ]之《これあり》、兵粮等《ひやうりやうとう》も右之構内《みぎのこうない》にて取扱候樣《とりあつかひさふらふやう》、自然《しぜん》人數之散亂《にんずのさんらん》|無[#二]御座[#一]《ござなく》、一|途《づ》に|防戰被[#レ]仕候儀《ばうせんつかまつられさふらふぎ》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。
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此《こ》れは兩人《りやうにん》が防備《ばうび》に對《たい》する、施爲《しゐ》を献言《けんげん》したものゝ一だ。

[#5字下げ][#中見出し]【一二】浦賀奉行の防備意見書(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

尚《な》ほ浦賀奉行《うらがぶぎやう》戸田《とだ》、淺野《あさの》は、左《さ》の各項《かくかう》に就《つい》て、献白《けんぱく》してゐる。
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一 浦賀表《うらがおもて》は、三|方《ぱう》山《やま》にて包《つゝみ》、湊内《みなとうち》平地《へいち》|無[#二]御座[#一]《ござなく》、馬足《ばそく》立兼處《たてかねるところ》、萬《まん》一|異人《いじん》より燒玉《やけだま》を|被[#二]打掛[#一]候節《うちかけられさふらふせつ》は、奉行屋敷《ぶぎやうやしき》、組屋敷《くみやしき》、御米藏等《おこめぐらとう》は、悉《こと/″\》く湊入口故《みなといりくちゆゑ》、第《だい》一|禍《わざはひ》を|受可[#レ]申《うけまをすべく》。其上《そのうへ》組内《くみうち》の妻子《さいし》、狼狽周章仕候《らうばいしうしやうつかまつりさふら》はゞ、同心《どうしん》鋭氣《えいき》を失《うしな》ひ|可[#レ]申《まをすべく》、|依[#レ]之《これにより》湊奧《みなとおく》へ悉《こと/″\》く御引拂《おひきはらひ》、且又《かつまた》唯今迄之處《たゞいままでのところ》、御手薄之《おてうすの》|無[#レ]之樣《これなきやう》、奉行屋敷《ぶぎやうやしき》は砦構《とりでかまへ》に筒《つゝ》据付《すゑつけ》、湊内之警衞《みなとうちのけいゑい》兼《かねて》相備《あひそなへ》、右構内《みぎこうない》に御米藏《おこめぐら》並《ならびに》御貯之玉藥御藏《おんたくはへのたまぐすりおくら》取繕候《とりつくろひさふらう》て、其邊《そのへん》へ組屋敷《くみやしき》引移度儀《ひきうつしたきぎ》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは浦賀湊内《うらがみなとうち》官衙《くわんが》其他《そのた》の安全《あんぜん》を期《き》する爲《た》めに、之《これ》を湊《みなと》の奧地《おくち》に移轉《いてん》せしむ可《べ》しとの意見《いけん》だ。
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一 船之儀《ふねのぎ》は、蘭人《らんじん》へ|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、格別《かくべつ》大船《たいせん》に|無[#二]御座[#一]《ござなく》、大筒《おほづゝ》廿|梃程《ちやうほど》据付候《つゑつけさふらふ》軍鑑《ぐんかん》御取寄《おとりよせ》|有[#レ]之《これあり》、一|艘《さう》は湊《みなと》へ浮《うか》め、固《かた》め|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、御固之《おかための》四|家《け》へ、一|艘《さう》づゝ御渡御座候樣《おんわたしござさふらふやう》|仕度被[#レ]存候《つかまつりたくぞんぜられさふらふ》。
一 平根山《ひやねやま》切下《きりさ》げ、砦構《とりでかまへ》に相成候得者《あひなりさふらえば》、先《まづ》五拾|梃之《ちやうの》(大筒)[#「(大筒)」は1段階小さな文字]御据付《おんつゑつけ》相成《あひなり》、御軍艦《おんいくさぶね》一|艘《さう》、脚船《あしぶね》四五|艘《さう》御備《おんそなへ》に相成候得《あひなりさふらえ》ば、人數《にんず》|引足不[#レ]申《ひきたりまをさず》、有來《ありきたりの》與力《よりき》同心《どうしん》は、船乘《ふねのり》艫手《ろしゆ》稽古《けいこ》も事馴《ことな》れ候故《さふらふゆゑ》、乘組應接《のりくみおうせつ》並《ならびに》御軍艦之方《おんいくさぶねのかた》へ相用《あひもちひ》、平生《へいぜい》は御番所向之御規定《ごばんしよむきのごきぢやう》|爲[#二]相勤[#一]《あひつとめさせ》、御臺場之儀《おだいばのぎ》は、別《べつ》に御入人《おいれびと》御座候樣仕度《ござさふらふやうつかまつりたく》。大筒《おほづゝ》五拾|梃《ちやう》、一|梃《ちやう》に付《つき》五|人掛《にんがゝ》り、此人數《このにんず》二百五拾|人《にん》、小筒歩立《こづゝかちだち》百|人《にん》、都合《つがふ》三百五拾|人《にん》、此分《このぶん》は差當《さしあた》り勘辨仕候處《かんべんつかまつりさふらふところ》。八|王子《わうじ》與力同心《よりきどうしん》は、日光《につくわう》御供之外《おんとものほか》御用《ごよう》も|無[#二]御座[#一]候故《ござなくさふらふゆゑ》、右之分頭共《みぎのぶんかしらども》、御引分《おんひきわけ》、勤番《きんばん》|被[#二]仰付[#一]候歟《おほせつけられさふらふか》。又《また》は引越切《ひきこしきり》に|被[#二]仰付[#一]候得《おほせつけられさふらえ》ば、九里濱村邊《くりはまむらへん》御手薄故《おてうすゆゑ》、右之場所《みぎのばしよ》え屋敷《やしき》|被[#レ]下《くだされ》、彼地《かのち》御取締兼《おんとりしまりかね》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、猶《なほ》御人不足《おひとふそく》にも御座候《ござさふら》はゞ、甲府勤番小普請等之向《かふふきんばんこぶしんとうのむき》より、御入人《おいれびと》御座候《ござさふらう》て、三百五拾|人《にん》に相滿候得《あひみちさふらえ》ば、屹《きつ》と仕候《つかまつりさふらふ》臺場《だいば》にて、一と廉之御備《かどのおんそなへ》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。右《みぎ》に付《つい》ては、地役人之者《ぢやくにんのもの》、奉行構内《ぶぎやうかまへうち》にては多人數《たにんず》納方《をさめかた》如何《いかゞ》と|被[#レ]存候間《ぞんぜられさふらふあひだ》、組内屋敷之儀《くみうちやしきのぎ》は、此度《このたび》|被[#二]仰付[#一]候通《おほせつけられさふらふとほ》り、支配組頭《しはいくみがしらに》|爲[#二]取扱[#一]候樣仕《とりあつかはせさふらふやうつかまつり》、千|人頭之分《にんがしらのぶん》は、奉行支配《ぶぎやうしはい》に相成樣仕度《あひなるやうつかまつりたく》、兵粮焚出之陣小屋等之儀《ひやうらたきだしのぢんごやとうのぎ》は、御代官《おだいくわん》にて引受候樣《ひきうけさふらふやう》、又《また》は追《おひ/\》手廣《てびろ》に相成《あひなり》、人足之遣方《にんぞくのつかはしかた》差支《さしつかへ》勿論候處《もちろんにさふらふところ》。近來《きんらい》御預所《おんあづけしよ》に相成候事故《あひなりさふらふことゆえ》、築山茂左衞門《つきやまもざゑもん》御預所跡《おんあづけしよあと》、浦賀最寄之外《うらがもよりのほか》|不[#レ]殘《のこらず》御預替《おんあづけがへ》に相成候《あひなりさふら》はゞ、手都合《てつがふ》|被[#二]相成[#一]《あひなされ》、非常之節《ひじやうのせつ》は、海防掛之向《かいばうがゝりのむき》、並《ならびに》御目付御使番等《おめつけおつかひばんとう》より、陣中御目付《ぢんちゆうおめつけ》兼《かねて》出張之儀《でばりのぎ》、兼《かね》て夫々《それ/″\》相達置《あひたつしおか》れ、浦賀奉行之儀《うらがぶぎやうのぎ》も、以來《いらい》伏見奉行位之身柄之者《ふしみぶぎやうぐらいのみがらのもの》にて、自己人勢《じこにんず》も一|廉立候程之《かどたちさふらふほどの》、警衞出來仕候者《けいゑいしゆつたいつかまつりさふらふもの》に|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらう》ては、御備《おんそなへ》に對《たい》し、不釣合《ふつりあひ》に相成《あひなり》、前書之如《ぜんしよのごと》き、御構之御役所《おんかまへのおやくしよ》出來候《しゆつたいさふら》はゞ、在住《ざいぢゆう》に|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらう》ても|可[#レ]然《しかるべく》。右之通《みぎのとほり》御警衞《ごけいゑい》相立候《あひたちさふら》はゞ、御備之規則《おんそなへのきそく》相立《あひたち》、諸海岸《しよかいがん》列候臺場《れつこうだいば》|有[#レ]之向《これあるむき》には、模範《もはん》に|相成可[#レ]申《あひなりまをすべく》、私共《わたくしども》より浦賀奉行《うらがぶぎやう》身柄之儀《みがらのぎ》申上候《まをしあげさふらふ》は恐入候得共《おそれいりさふらえども》、|全備不[#レ]仕候故《ぜんびつかまつらずさふらふゆゑ》に申上候《まをしあげさふらふ》。右《みぎ》は天下第《てんかだい》一|之御備所柄故《のおんそなへじよがらゆゑ》、其概略《そのがいりやく》取調候處《とりしらべさふらふところ》、書面之通御座候《しよめんのとほりにござさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》を通覽《つうらん》すれば、如何《いか》にも小規模《せうきぼ》の防備《ばうび》であることが判知《わか》る。大筒《おほづゝ》廿|梃備《ちやうぞなへ》の軍艦《ぐんかん》五|艘《さう》を、蘭人《らんじん》に注文《ちゆうもん》し、其《そ》の一|艘《さう》を、幕府《ばくふ》自《みづ》から湊《みなと》へ浮《うか》め、他《た》の四|艘《さう》は當時《たうじ》浦賀固《うらががため》の大名《だいみやう》四|家《け》へ渡《わた》し、而《しか》して平根山《ひらねやま》を切下《きりさ》げ、五十|梃《ちやう》の大筒《おほづゝ》を備付《そなへつ》け、一|梃《ちやう》五|人掛《にんがゝり》にて二百五十|人《にん》を要《えう》し、小筒歩立《こづゝかちだち》百|人《にん》、都合《つがふ》三百五十|人《にん》の與力同心《よりきどうしん》は、八|王子《わうじ》與力同心《よりきどうしん》、及《およ》び甲府勤番小普請等《かふふきんばんこぶしんとう》より、充當《じゆうたう》せしむ可《べ》しとの意見《いけん》だ。
而《しか》して浦賀奉行《うらがぶぎやう》も、伏見奉行位《ふしみぶぎやうぐらゐ》の身分《みぶん》の者《もの》を用《もち》ひ、浦賀在住《うらがざいぢゆう》を命《めい》じても然《しか》る可《べ》く。斯《か》くて幕府《ばくふ》の防備《ばうび》が、其《そ》の善《ぜん》を盡《つく》し、沿岸大名《えんがんだいみやう》の模範《もはん》とも相成《あひな》る可《べ》しとの意味合《いみあひ》だ。蟹《かに》は甲羅《かふら》に擬《ぎ》して穴《あな》を掘《ほ》る。浦賀奉行《うらがぶぎやう》としては、此《こ》れ以上《いじやう》の意見《いけん》を期待《きたい》するは、恐《おそ》らくは無理《むり》であらう。先《ま》づ以上《いじやう》は、彼等《かれら》としては、相當《さうたう》の事《こと》と云《い》はねばなるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【一三】浦賀奉行の防備意見書(四)[#「(四)」は縦中横][#中見出し終わり]

浦賀奉行《うらがぶぎやう》は、如上《じよじやう》の〔參照 九―一三〕[#「〔參照 九―一三〕」は1段階小さな文字]逐條《ちくでう》議《ぎ》を呈《てい》して、更《さ》らに其《そ》の結論《けつろん》に於《おい》て、斯《か》く陳情《ちんじやう》してゐる。
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一 右之通《みぎのとほり》相成候得《あひなりさふらえ》ば、奉行所之方《ぶぎやうしよのはう》は、御備向《おんそなへむき》相立候得共《あひたちさふらえども》、觀音崎之方《くわんおんざきのはう》、唯今迄之儘《たゞいままでのまゝ》にては、相成兼《あひなりかね》、右臺場之切下《みぎだいばのきりさ》げ、鳥《とり》ヶ|崎《さき》より觀音崎邊迄之通《くわんおんざきへんまでのとほり》、是又《これまた》砦構《とりでかまへ》に相成《あひなり》、大筒《おほづゝ》五|梃程《ちやうほど》も御備《おんそなへ》に相成候得《あひなりさふらえ》ば、湊内《みなとうち》左右之御固《さいうのおんかため》に付《つき》、堅固《けんご》に|有[#レ]之《これあり》、異賊《いぞく》御臺場《おだいば》を乘越《のりこし》、江戸内海《えどないかい》へ相掛《あひかゝ》り候者《さふらふもの》|有[#レ]之間敷《これあるまじく》、此分《このぶん》御取立《おとりたて》に相成候得《あひなりさふらえ》ば、外《ほか》三|家《け》は、夫々《それ/″\》引競《ひききそひ》、追《おつ》て勘辨《かんべん》も|可[#レ]有[#二]御座[#一]《ござあるべく》。且又《かつまた》下田表之儀《しもだおもてのぎ》は、一|方《ぱう》は陸地《りくち》、一|方《ぱう》は平根山《ひらねやま》を相越《あひこえ》、一|方《ぱう》海岸《かいがん》は屈曲狹隘之往來《くつきよくけふあいのわうらい》にて、水路《すゐろ》は城《じやう》ヶ|島《しま》より相州灘《さうしう》三十五|里之船路故《りのふなぢゆゑ》、往來《わうらい》辨利《べんり》|不[#レ]宜《よろしからず》。然《しか》る處《ところ》帶刀之者《たいたうのもの》は、同心兩人之外《どうしんりやうにんのほか》|詰相不[#レ]申《つめあひまをさず》、甚《はなはだ》心配之場所《しんぱいのばしよ》、早速《さつそく》に御手當《おてあて》御座候樣仕度《ござさふらふやうつかまつりたく》、當夏《たうなつ》イギリス[#「イギリス」に二重傍線]船《せん》渡來《とらい》に付《つき》、差當《さしあた》り御手薄之場所故《おてうすのばしよゆゑ》、先《まづ》御手輕《おてがる》にも、早々《さう/\》御備《おんそなへ》相立候樣《あひたてさふらふやう》仕度《つかまつりたく》、取調《とりしらべ》申上候處《まをしあげさふらふところ》、此節《このせつ》御下知《ごげち》|有[#レ]之《これあり》、|難[#レ]有《ありがたき》|仕合奉[#レ]存候《しあはせにぞんじたてまつりさふらふ》。
就《つい》ては右《みぎ》にては十|分《ぶん》とは|難[#二]申上[#一]《まをしあげがたく》、永久之儀《えいきうのぎ》相考《あひかんが》へ、見込丈《みこみだ》け申上候《まをしあげさふらふ》。右《みぎ》に付《つい》ては、下田表《しもだおもて》は、南海通船之船溜《なんかいつうせんのふなだまり》にて、最上之場所故《さいじやうのばしよゆゑ》、御臺場等《おだいばとう》數《す》ヶ|所《しよ》御見立《おんみたて》、嚴重《げんぢゆう》に|御築置有[#レ]之《おんきづきおきこれあり》、大名持《だいみやうもち》に|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、大島之儀《おほしまのぎ》も、眼前《がんぜん》イギリス[#「イギリス」に二重傍線]人《じん》上陸《じやうりく》測量《そくりやう》もいたし|可[#レ]申候間《まをすべくさふらふあひだ》、是又《これまた》異舟之足溜《いしうのあしだま》り|不[#レ]致樣《いたさざるやう》相成《あひなり》。本牧《ほんもく》並《ならびに》羽田等《はねだとう》へも、御固《おんかため》堅固《けんご》に相立《あひたて》、江戸内海之分《えどないかいのぶん》も、小船《せうせん》堅牢之軍艦《けんろうのぐんかん》にて數《す》十|艘《さう》、佃島邊《つくだじまへん》御固御座候《おかためござさふら》はゞ、萬《まん》一|異船《いせん》要地《えうち》を越《こ》し候共《さふらふとも》、内海《ないかい》御固《おかため》相立候得《あひたちさふらえ》ば、市中《しちゆう》人氣《にんき》|騷立不[#レ]申《さわぎたちまをさず》。下田《しもだ》、大島《おほしま》、房總之御固《ばうそうのおかため》、嚴格《げんかく》に相成候《あひなりさふら》へば、其段《そのだん》は早速《さつそく》諸國《しよこく》へ|相知可[#レ]申候《あひしれまをすべくさふらふ》。一|體《たい》萬國《ばんこく》と違《ちが》ひ、日本國風《にほんこくふう》士氣《しき》奮然《ふんぜん》、文武《ぶんぶ》兼帶候事《けんたいさふらふこと》は、西洋諸國《せいやうしよこく》も感服仕《かんぷくつかまつり》、鐵砲《てつぱう》海航之兩術《かいかうのりやうじゆつ》相開《あひひら》け候得《さふらえ》ば、天下無類國《てんかむるゐこく》に|可[#レ]有[#レ]之抔《これあるべくなど》評之趣《ひやうすのおもむき》、毎々《つね/″\》承《うけたまは》り傳《つた》へ候事《さふらふこと》にて、前書之通《ぜんしよのとほり》、御備《おんそなへ》相立候得《あひたちさふらえ》ば、異賊《いぞく》南海之遠路《なんかいのゑんろ》を歴《へ》、漫《みだり》に乘近付候事《のりちかづきさふらふこと》は|無[#二]御座[#一]《ござなく》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。此御備筋《このおんそなへすぢ》相立候迄《あひたちさふらふまで》は、一|時之御入費《じのごにふひ》相嵩《あひかさみ》、其上《そのうへ》見越候得《みこしさふらえ》ば、却《かへつ》て爾來《じらい》は渡來《とらい》も|無[#二]御座[#一]《ござなく》。其時節《そのじせつ》に至《いた》り、御不益之如《ごふえきのごと》く|相成可[#レ]申候得共《あふなりまをすべくさふらえども》、一|旦《たん》緩急《くわんきふ》御座候節《ござさふらふせつ》は|噛[#レ]臍候共《ほぞをかみさふらふとも》|難[#レ]及事故《およびがたきことゆゑ》、一|時之御入費《じのごにふひ》、御不用《ごふよう》に相成候《あひなりさふら》はゞ、|於[#二]國家[#一]《こくかにおいて》|無[#二]此上[#一]《このうへなき》恐悦之事《きようえつのこと》にて、右程之御費用《みぎほどのおんひやう》は、|乍[#レ]恐《おそれながら》將軍家之御任職《しやうげんけのごにんしよく》に|被[#レ]爲[#レ]在《あらせられ》。萬《まん》一|渡來之節《とらいのせつ》、不都合《ふつがふ》|有[#レ]之節《これあるせつ》は、近《ちか》くは外藩之諸家《ぐわいはんのしよけ》へ對《たい》し、如何共《いかんとも》御手薄《おてうす》を相顯《あひあらは》し、遠《とほ》くは萬國《ばんこく》へ對《たい》し、御失體《ごしつたい》|無[#二]此上[#一]《このうへなく》、|不[#二]容易[#一]儀《よういならざるぎ》と日夜朝暮《にちやてうぼ》心配仕候《しんぱいつかまつりさふらふ》。此段《このだん》篤《とく》と|聞召被[#レ]分《きこしめしわけられ》、一|己之偏見《このへんけん》に|無[#レ]之《これなく》、天下公共之論《てんかこうきようのろん》にて、日本國中《にほんこくちゆう》に於《おい》て、浦賀表之御備《うらがおもてのおんそなへ》は、諸國之模範《しよこくのもはん》に相成《あひなり》、海外萬里《かいぐわいばんり》、風化之至所《ふうくわのいたるところ》に御座候得《ござさふらえ》ば、一|日《にち》も早《はや》く御備《おんそなへ》相立候樣《あひたちさふらふやう》御評議御座候《ごひやうぎござさふらう》て、前書《ぜんしよ》申上候廉々《まをしあげさふらふかど/\》、御聞置切《おきゝおききり》に|不[#二]相成[#一]《あひならず》、一々|可否之御沙汰《かひのごさた》、御座候樣仕度《ござさふらふやうつかまつりたく》、此段《このだん》|不[#レ]憚《はゞからず》申上候《まをしあげさふらふ》。私共《わたくしども》見込之廉々《みこみのかど/\》御取用《おんとりもちひ》にも相成候儀《あひなりさふらふぎ》御座候《ござさふら》[#ルビの「ござさふら」は底本では「ござさふらふ」]はゞ、尚又《なほまた》御尋之節《おたづねのせつ》、逐《ちく》一|取調可[#二]申上[#一]候《とりしらべまをしあげべくさふらふ》。以上《いじやう》。
 酉《とり》(嘉永二年巳酉)[#「(嘉永二年巳酉)」は1段階小さな文字]十二|月《ぐわつ》
[#地から9字上げ]浦賀奉行《うらがぶぎやう》
[#地から3字上げ]戸田伊豆守《とだいづのかみ》
[#地から3字上げ]淺野中務少輔《あさのなかつかさせういふ》
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》の意見書《いけんしよ》は、固《もと》より浦賀奉行《うらがぶぎやう》の立場《たちば》からの建白《けんぱく》にして、必《かな》らずしも天下《てんか》の大經綸《だいけいりん》と云《い》ふ可《べ》き大題目《だいだいもく》から、割《わ》り出《いだ》したものではなく。只《た》だ浦賀《うらが》の防備《ばうび》を主《しゆ》として、下田《しもだ》若《も》しくは本牧《ほんもく》、羽田等《はねだとう》に及《およ》びたるに過《す》ぎない。然《しか》も浦賀奉行《うらがぶぎやう》をして、如上《じよじやう》の建言《けんげん》をなさしむるに至《いた》りたるを見《み》れば、亦《ま》た以《もつ》て如何《いか》に時勢《じせい》が切迫《せつぱく》してゐたかを知《し》るに餘《あま》りあるであらう。
然《しか》も『前書《ぜんしよ》申上候廉々《まをしあげさふらふかど/\》御聞置切《おんきゝおききり》に|不[#二]相成[#一]《あひならず》、一々|可否之御沙汰《かひのごさた》御座候樣仕度《ござさふらふやうつかまつりたく》、此段《このだん》|不[#レ]憚《はゞからず》申上候《まをしあげさふらふ》』との一|節《せつ》は、見逃《みのが》しがたき文句《もんく》である。此《これ》を見《み》て如何《いか》に幕府《ばくふ》の當局《たうきよく》が、斯《かゝ》る燒眉《せうび》の緊切問題《きんせつもんだい》をも、聞置《きゝお》き、聞流《きゝなが》し、只《た》だ徒《いたづ》らに苟且偸安《こうしよとうあん》、以《もつ》て其《そ》の日暮《ひぐ》らしの政治《せいぢ》に齷齪《あくさく》したるかを、想見《さうけん》す可《べ》きだ。
然《しか》も幕府《ばくふ》は、其翌《そのよく》嘉永《かえい》三|年《ねん》庚戌《かうじゆつ》五|月《ぐわつ》には、左《さ》の布達《ふたつ》をなした。
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海岸警衞向之儀《かいがんけいゑいのむきのぎ》、追々《おひ/\》|被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》も|有[#レ]之候處《これありさふらふところ》、近來《きんらい》|不[#レ]寄[#二]何事[#一]《なにごとによらず》、新奇異説《しんきいせつ》を好候事情《このみさふらふじじやう》より事《こと》を求《もとめ》、輕々敷《かろ/″\しく》妄説《まうせつ》を唱《となへ》、剩《あまつさへ》|不[#レ]穩事共《おだやかならざることども》を取交《とりまじ》へ、申觸候族《まをしふらしさふらふやから》も|有[#レ]之哉《これあるや》に相聞《あひきこ》へ、如何之事《いかゞのこと》に候《さふらふ》。元來《ぐわんらい》非常御手當向之儀《ひじやうおてあてむきのぎ》は|不[#レ]輕筋《かろからざるすぢ》に候處《さふらふところ》、右體之風説《みぎたいのふうせつ》|有[#レ]之候《これありさふら》へば、徒《いたづら《》に人心《じんしん》を動《うごか》し候儀《さふらふぎ》に付《つき》、以來《いらい》無益之雜説等《むえきのざつせつとう》申觸候義《まをしふらしさふらふぎ》、末々之者《すゑ/″\のもの》に至迄《いたるまで》、急度《きつと》|可[#二]相愼[#一]事《あひつゝしむべきこと》に候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
新奇異説《しんきいせつ》とは何事《なにごと》ぞ、妄説《まうせつ》とは何事《なにごと》ぞ。幕府當局《ばくふたうきよく》は、唯《た》だ一|日《にち》の安《あん》を偸《ぬす》まんが爲《た》めに、此《かく》の如《ごと》く箝口令《かんこうれい》を布《し》してゐる。而《しか》して此《これ》が如何《いか》なる惡結果《あくけつくわ》を來《き》たす可《べ》きやは、やがて事實《じじつ》が之《これ》を證明《しようめい》する。

[#5字下げ][#中見出し]【一四】江戸近海防備の巡視[#中見出し終わり]

幕府當局者《ばくふたうきよくしや》は、果《はた》して浦賀奉行《うらがぶぎやう》の意見書《いけんしよ》に、刺戟《しげき》せられたるが爲《た》め乎《か》、否乎《いなか》を詳《つまびらか》にせざれども。兎《と》も角《かく》も嘉永《かえい》三|庚戌年《かのえいぬどし》三|月《ぐわつ》十一|日《にち》を以《もつ》て、阿部伊勢守《あべいせのかみ》、牧野備前守《まきのびぜんのかみ》の名《な》によりて、左《さ》の如《ごと》く達《たつ》した。
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 海岸見聞《かいがんけんぶん》の面々《めん/\》[#(え)]
近海御備向《きんかいおんそなへむき》見聞之義《けんぶんのぎ》、元來《ぐわんらい》御居城近《ごきよじやうちか》き内海《うちうみ》に付《つき》、兼而《かねて》外冦不虞之御備《ぐわいこうふぐのおんそなへ》、|可[#レ]有[#レ]之筈之處《これあるべきはずのところ》、前々《まへ/\》は異船漂著《いせんへうちやく》も邂逅之事故《たまさかのことゆゑ》、其義《そのぎ》|無[#レ]之哉《これなきや》に候得共《さふらえども》。近來《きんらい》は承知之通《しようちのとほり》、漂流《へうりう》にも|無[#レ]之船《これなきふね》度々《たび/\》浦賀邊《うらがへん》[#(え)]渡來致《とらいいたし》、其事情《そのじじやう》何共《なんとも》|難[#二]相分[#一]候《あひわかりがたくさふらふ》に付《つき》、舊冬《きうとう》諸家《しよけ》へ海防實用之備《かいばうじつようのそなへ》並《ならびに》士氣引立等之義《しきひきたてとうのぎ》|被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》も|有[#レ]之《これあり》、當時《たうじ》專《もつぱら》武備御引立之折柄《ぶびおひきたてのをりから》。海岸御手當内海迚《かいがんおてあてうちうみとて》も、非常之御備《ひじやうのおんそなへ》嚴重《げんぢゆう》に|無[#レ]之候而《これなくさふらうて》は、往々《ゆく/\》御不安心之御事《ごふあんしんのおんこと》に付《つき》、|於[#二]公邊[#一]《こうへんにおいて》格別《かくべつ》に御世話《おせわ》|無[#レ]之而《これなくて》は、諸家之氣弛《しよけのきゆる》みにも相成《あひなり》、且《かつ》は防禦筋之義《ばうぎよすぢのぎ》、度々《たび/\》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》御趣意《ごしゆい》にも齟齬致候《そごいたしさふらふ》に付《つき》、此度《このたび》近海見聞之上《きんかいけんぶんのうへ》、海岸《かいがん》の形勢《けいせい》、水路之淺深等《すゐろのせんしんとう》に應《おう》じ、玉利之損益《たまきゝのそんえき》をも相考《あひかんが》へ、砲臺屯所之類《はうだいとんしよのるゐ》、御補理《ごほり》|有[#レ]之《これあり》、|可[#レ]然《しかるべき》場所々々《ばしよ/\/\》、其餘《そのよ》警衞人數《けいゑいにんず》並《ならびに》砲※[#「石+駮」、第3水準1-89-16]配賦之員數抔《はうはうはいふのゐんずなど》は、其所《そのところ》に寄《より》、次第《しだい》も|可[#レ]有[#レ]之事故《これあるべきことゆゑ》、夫等之邊《それらのへん》をも相含《あひふくみ》、最《もつとも》御警衞向《ごけいゑいむき》、堅固《けんご》に相立候所《あひたてさふらふところ》肝要《かんえう》に付《つき》、其心得《そのこゝろえ》を以《もつて》、十|分《ぶん》に取調候上《とりしらべさふらふうえ》、跡《あと》に而《て》御入用之算用《ごにふようのさんよう》も|可[#レ]有[#レ]之候《これあるべくさふらふ》。最初《さいしよ》より御入用辻《ごにふようつぢ》に打合取調候而《うちあはせとりしらべさふらうて》も、自然《しぜん》見込之情緒《みこみのじやうしよ》相縮《あひちゞま》り、御警衞向之調方《ごけいゑいむきのしらべかた》、行屆兼候場合《ゆきとゞきかねさふらふばあひ》も|可[#レ]有[#レ]之候間《これあるべくさふらふあひだ》、一|同《どう》右之心得《みぎのこゝろえ》を以《もつて》、格別《かくべつ》|被[#レ]致[#二]出精[#一]《しゆつせいいたされ》、能々《よく/\》申合《まをしあはせ》、御警衞《ごけいゑい》堅固《けんご》に相立《あひたて》、御安心《ごあんしん》|被[#二]相成[#一]候場合《あひなされさふらふばあひ》第《だい》一に相心得《あひこゝろえ》、取調《とりしらべ》|可[#レ]被[#二]申聞[#一]候事《まをしきけらるべくさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
而《しか》して其《その》の人名《じんめい》は、
[#ここから地から3字上げ]
石川土佐守《いしかはとさのかみ》
本多隼之助《ほんだはやのすけ》
戸川中務少輔《とがはなかつかさせういふ》
井上佐太夫《いのうへさだいふ》
田付主計《たつきかずへ》
[#ここで地上げ終わり]
の五|名《めい》を加《くは》へて、
[#ここから地から3字上げ]
筒井紀伊守《つゝゐきいのかみ》
佐々木循輔《さゝきじゆんすけ》
[#ここで字上げ終わり]
の二|名《めい》、合計《がふけい》七|人《にん》。其内《そのうち》井上《ゐのうへ》、田付《たつき》は、何《いづ》れも砲術家《はうじゆつか》である。而《しか》して上《かみ》の如《ごと》き申達書《しんたつしよ》を見《み》れば、如何《いか》に幕府當局《ばくふたうきよく》が、此《こ》の江戸灣《えどわん》の防備《ばうび》に、眞劍《しんけん》になつてゐたかゞ判知《わか》る。
但《た》だ憾《うら》むらくは此事《このこと》五十|年《ねん》遲《おく》れてゐる。若《も》し幕府《ばくふ》に識者《しきしや》あらば、寛政年度《くわんせいねんど》から取《と》り掛《かゝ》らねばならぬ。然《しか》り松平定信《まつだひらさだのぶ》の如《ごと》きは、當時《たうじ》既《すで》に其《そ》の志《こゝろざし》ありて、辭職以前《じしよくいぜん》に、それぞれ實地《じつち》を踏査《たうさ》した程《ほど》だ。然《しか》も邊警《へんけい》が燒眉《せうび》の急《きふ》とならざる以前《いぜん》は、誰《たれ》しも豫《あらか》じめ之《これ》に備《そな》ふる※[#こと、6-2]を以《もつ》て、徒《いたづ》らに事《こと》を好《この》むものとなし、然《しか》らざるも其《そ》の日暮《ひぐら》しに趁《おは》れて、之《これ》を顧《かへり》みるに遑《いとま》あらず。此《かく》の如《ごと》くして遷延《せんえん》又《ま》た遷延《せんえん》、遂《つ》ひに今日《こんにち》に至《いた》つたのだ。今日《こんにち》となりては、既《すで》に晩《おそ》しと云《い》はねばならぬ。和蘭國王《おらんだこくわう》から警告書《けいこくしよ》の到來《たうらい》してから、既《すで》に足掛《あしか》け七|年《ねん》ではない乎《か》。
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近海御備向見聞《きんかいおんそなへむきけんぶん》並《ならびに》浦賀表見置《うらがおもてみおき》、其外《そのほか》海岸廻村之義《かいがんくわいそんのぎ》、内海之方《うちうみのかた》品川宿《しながはじゆく》より相始《あひはじ》め、浦賀表《うらがおもて》え罷越《まかりこし》、松平誠丸持場《まつだひらしげまるもちば》大砲《たいはう》打試《うちためし》、水陸共《すゐりくとも》調練《てうれん》、浦賀奉行持場《うらがぶぎやうもちば》御備向《おんそなへむき》並《ならびに》蒼隼丸《はやぶさまる》乘樣《のりため》し、井伊掃部頭持場《ゐいかもんのかみもちば》備向共《そなへむきとも》見分仕《けんぶんつかまつり》、夫《それ》より東海道筋《とうかいだうすぢ》旅行《りよかう》、小田原《をだはら》より下田湊迄之間《しもだみなとまでのあひだ》、大久保加賀守《おほくぼかがのかみ》、水野出羽守領分《みづのではのかみりやうぶん》、備向据筒之樣子《そなへむきすゑつゝのやうす》見置之義《みおきのぎ》相願候《あひねがひさふらふ》に付《つき》、夫々《それ/″\》見及《みおよ》び、下田湊《しもだみなと》に而《て》は浦賀奉行見込《うらがぶぎやうみこみ》は勿論《もちろん》、江川太郎左衞門《えがはたろざゑもん》存寄《ぞんじより》をも相尋《あひたづね》取調之上《とりしらべのうへ》、三|島宿《しましゆく》より東海道浦賀表《とうかいだううらがおもて》へ立戻《たちもど》り、沖合風順《おきあひふうじゆん》見合《みあはせ》、上總國《かづさのくに》竹《たけ》ヶ|岡《をか》え渡海仕《とかいつかまつり》、松平肥後守持場《まつだひらひごのかみもちば》打方《うちかた》其外《そのほか》調練《てうれん》見置《みおき》、松平下總守持場《まつだひらしもふさのかみもちば》房州《ばうしう》東海岸之内《ひがしかいがんのうち》、大岡主膳正領分《おほをかしゆぜんのしやうりやうぶん》、右孕《みぎみごも》り川分備向之樣子《がはぶんそなへむきのやうす》見置之義《みおきのぎ》申立候《まをしたてさふらふ》に付《つき》、見及《みおよ》び。夫《それ》より山越《やまごし》にて肥後守持場《ひごのかみもちぶん》え立戻《たちもど》り、阿部駿河守領分備向《あべするがのかみりやうぶんそなへむき》をも見置《みおき》、猶又《なほまた》肥後守持富津之備向《ひごのかみもちふつつのそなへむき》筒數等《つゝかずとう》見分《けんぶん》。尤《もつとも》其節《そのせつ》は鳴物《なりもの》停止中《てうじちゆう》に付《つき》、打方調練等《うちかたてうれんとう》|見分不[#レ]仕候得共《けんぶんつかまつらずさふらえども》、一|同《どう》乘船《じようせん》、洋中《やうちゆう》隱洲之樣子《かくれすのやうす》淺深等《せんしんとう》巨細《こさい》に差改《さしあらため》、上總《かづさ》下總國《しもふさこく》内手海岸《うちてかいがん》廻村仕《くわいそんつかまつり》、兼而《かねて》見込之通《みこみのとほり》、一|昨《さく》六|日迄《かまで》に|不[#レ]殘《のこらず》見分相濟申候《けんぶんあひすみまをしさふらふ》。一|體《たい》右見分之義《みぎけんぶんのぎ》、都而《すべて》海岸出崎々々《かいがんでさき/\》、又《また》は高臺之樣子《たかだいのやうす》、海底之淺深《かいていのせんしん》、其場所《そのばしよ》/\にて、一々|分聞繪圖面《ぶんげんゑづめん》え引合《ひきあはせ》、或《あるひ》は乘船《じようせん》に而《て》大船乘筋之樣子《たいせんのりすぢのやうす》見分仕《けんぶんつかまつり》、銘々《めい/\》見込之趣《みこみのおもむき》をも打合候義《うちあはせさふらふぎ》に而《て》、實《じつ》に一|朝《てう》一|夕之義《せきのぎ》に|無[#レ]之《これなく》、|不[#二]容易[#一]御用柄《よういならざるごようがら》に候得共《さふらえども》。|可[#レ]成丈《なるべきだ》け村方《むらかた》|滯留不[#レ]仕樣《たいりうつかまつらざるやう》日合《ひあひ》相縮《あひちゞめ》、一|昨日迄《さくじつまで》に漸々《やう/\》見分《けんぶん》相濟候義《あひすみさふらふぎ》に付《つき》、一|同《どう》見込之趣《みこみのおもむき》、取調之間合《とりしらべのまあひ》も|有[#レ]之《これあり》、直樣《すぐさま》申上候樣《まをしあげさふらふやう》には、何分《なにぶん》|難[#二]相整[#一]候《あひとゝのへがたくさふらふ》に付《つき》、是《これ》より一|同《どう》打掛《うちかゝり》|取調可[#二]申上[#一]《とりしらべまをしあぐべき》心得《こゝろえ》に御座候《ござさふらふ》、先《まづは》此段《このだん》申上置候《まをしあげおきさふらふ》。以上《いじやう》。
 七|月《ぐわつ》八|日《か》(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》くして近海防備見分《きんかいばうびけんぶん》は、相《あ》ひ濟《す》んだ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]近海見分場所擴張の意見
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近海見分御用被[#二]仰付[#一]候に付廻村場所之義、御書取を以、豆州下田迄、房州之方は松平下總守持場外海通りをも見置候樣被[#二]仰渡[#一]候に付、下總守持場之外海限り房州太夫崎迄見分仕候趣に御座候。然る處一體之地勢勘考仕候處、上總國山邊郡邊之外海より下總國寒川村邊内海[#(江)]は平地之上差渡し六七里も可[#レ]有[#レ]之哉ニ奉[#レ]存候。就而は内海[#(江)]手遠と申場合にも無[#二]御座[#一]、是迄一ト通御備を相立居可[#レ]申候得共、此度之御趣意ニ基き勘辨仕候得ば、下總國犬坊ヶ崎迄も見置候方可[#レ]然哉ニ奉[#レ]存候。左候得ば永久嚴重之御備相立候見込之手段ニも可[#二]相成[#一]心底に御座候。依[#レ]之無[#二]腹藏[#一]私共見込之趣一と通申上置候。以上。
  戌四月十二日[#地から4字上げ]井上左太夫
[#地から4字上げ]田村主計
[#地から2字上げ]〔陸軍歴史〕
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[#5字下げ][#中見出し]【一五】石川筒井等の復命書(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

石川土佐守《いしかはとさのかみ》、筒井肥前守等《つゝゐひぜんのかみら》七|人《にん》の報告書《はうこくしよ》は、頗《すこぶ》る長文《ちやうぶん》なれば、之《これ》をその儘《まゝ》掲載《けいさい》するを止《や》め、其《そ》の最《もつと》も要點《えうてん》を摘録《てきろく》するであらう。
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諸國《しよこく》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《くわいせん》、御府内《ごふない》え入津之節《にふしんのせつ》、船之大小《ふねのだいせう》、風順之次第《ふうじゆんのしだい》、汐之差引《しほのさしひき》に寄《より》、船路之異同《ふなぢのいどう》は|有[#レ]之候得共《これありさふらえども》、千|石以上之大船《ごくいじやうのたいせん》に候得者《さふらえば》、凡《およそ》乘筋《のりすぢ》相定《あひさだま》り、洲之崎《すのさき》、城《じやう》ヶ|島沖《しまおき》より、南風《なんぷう》を順風《じゆんぷう》といたし、浦賀港《うらがみなと》え乘込《のりこみ》、改《あらため》を請《うけ》、同所《どうしよ》を乘出《のりいだ》し、觀音崎沖《くわんおんざきおき》貮拾|町程《ちやうほど》に而《て》、針路《しんろ》を亥子《ゐね》に立《たて》、富津之隱洲《ふつつのかくれず》を乘越《のりこ》し、子《ね》に向《むか》ひ、本牧之出崎《ほんもくのでさき》を貮|里程《りほど》に見候所《みさふらふところ》より、子丑《ねうし》に※[#「舟+走」、68-8]《はし》り、羽田之出洲《はねだのでず》を、壹|里半程《りはんほど》過候而《すぎさふらうて》、子《ね》に直《なほ》し、亥子《ゐね》に向《むか》ひ、品川沖《しながはおき》[#ルビの「しながはおき」は底本では「しかがはおき」]え乘込候由《のりこみさふらふよし》。若《もし》丑寅之風《うしとらのかぜ》にて|難[#二]乘切[#一]節《のりきりがたきせつ》は、神奈川沖《かながはおき》え相掛《あひかゝり》、又《また》は浦賀湊《うらがみなと》え乘戻候趣《のりもどしさふらふおもむき》に相聞《あひきこえ》、内海之義《うちうみのぎ》も、竪《たて》十|里餘《りよ》、横《よこ》五六|里《り》も|有[#レ]之候《これありさふらふ》海面《かいめん》に付《つき》、其中央《そのちゆうあう》を※[#「舟+走」、68-11]通《はしりとほ》り候事《さふらふこと》に候得者《さふらえば》、東西地方《とうざいぢかた》は貮|里餘《りよ》も相隔《あひへだゝ》り、其上《そのうへ》海岸《かいがん》都而《すべて》遠淺《とほあさ》に而《て》、大船乘筋《たいせんのりすぢ》遠《とほ》く、江戸海之方《えどかいのはう》には、素《もと》より兩岸地方《りやうがんぢかた》相狹《あひせばま》り候《さふらふ》咽吭之場所《いんかうのばしよ》は|無[#レ]之《これなく》。此度《このたび》|見置被[#二]仰渡[#一]候《みおきおほせわたされさふらふ》浦賀表《うらがおもて》、富津《ふつつ》、觀音崎《くわんおんざき》、猿島邊《さるしまへん》より洲之崎《すのさき》、城《じやう》ヶ|島迄《しままで》、凡《およそ》船路《ふなぢ》六|里餘之間《りよのあひだ》は、樞要之場所《すうえうのばしよ》に相見《あひみえ》、猶《なほ》分間繪圖面《ぶんけんゑづめん》に引合《ひきあはせ》、海底之淺深《かいていのせんしん》、兩岸之遠近《りやうがんのゑんきん》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、實地《じつち》得《とく》と見分仕候處《けんぶんつかまつりさふらふところ》。臺場《だいば》え之徑《のわた》り、廣《ひろ》き所《ところ》に而《て》三四|里《り》に|不[#レ]過《すぎず》、近《ちか》き處《ところ》に而《て》は、壹|里《り》廿三|町程《ちやうほど》に|有[#レ]之《これあり》、別而《わけて》浦賀奉行《うらがぶぎやう》、松平肥後守《まつだひらひごのかみ》、松平誠丸《まつだひらしげまる》持場《もちば》は、先人《せんじん》咽吭之地《いんかうのち》と唱《とな》へ、兩岸《りやうがん》相狹《あひせばま》り、双方之玉行《さうはうのたまゆき》、中央《ちゆうあう》に相屆《あひとゞき》、其上《そのうへ》東之方《ひがしのかた》富津之出先《ふつつのでさき》壹|里半餘《りはんよ》、隱洲共《かくれずども》に付《つき》、洋中《やうちゆう》に出張《ではり》、諸國之※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《しよこくのくわいせん》、遙《はるか》に右《みぎ》隱洲《かくれず》を除《よ》け、乘通《のりとほ》り候趣《さふらふおもむき》に而《て》、天然之御固《てんねんのおんかため》、相備居候間《あひそなはりをりさふらふあひだ》、右《みぎ》を基礎《きそ》と仕《つかまつり》、猶《なほ》人力《じんりよく》を盡候《つくしさふら》はゞ、此所《このところ》に於《おい》て、江戸内海之御要害《えどないかいのごえうがい》は|相立可[#レ]申《あひたちまをすべく》。尤《もつとも》井伊掃部頭《ゐいかもんのかみ》、松平下總守持場《まつだひらしもふさのかみもちば》は、兩岸之徑《りやうがんのわた》り遠《とほ》く、双方《さうはう》より挾打等《はさみうちとう》は|不[#二]行屆[#一]候得共《ゆきとゞかずさふらえども》、大洋之入口《たいやうのいりくち》乘留方《のりとめかた》、第《だい》一|之場所《のばしよ》に而《て》、四|家《け》一|同《どう》、兼《かね》て御諭之横文字《おさとしのよこもじ》をも|御渡被[#レ]置《おんわたしおかれ》、銘々《めい/\》船打調練等《ふねうちてうれんとう》心掛罷在候間《こゝろがけまかりありさふらふあひだ》、孰《いづれ》にも四|家持場之内《けもちばのうち》に於而《おいて》、十|分之御備《ぶんのおんそなへ》も|相立可[#レ]申哉[#「相立可[#レ]申哉」は底本では「相立可申哉」]《あひたちまをすべきか》。且《かつ》浦賀表《うらがおもて》御備向之義《おんそなへむきのぎ》に付而《ついて》は、同所奉行《どうしよぶぎやう》見込申聞候趣《みこみまをしきけさふらふおもむき》、並《ならびに》誠丸家來《しげまるけらい》よりも、臺場《だいば》模樣替《もやうがへ》、築増等之義《きづきましとうのぎ》申立候次第《まをしたてさふらふしだい》も|有[#レ]之候間《これありさふらふあひだ》、前書《ぜんしよ》|見置被[#二]仰渡[#一]候《みおきおほせわたされさふらふ》場所《ばしよ》をも相束《あひつかね》、夫々《それ/″\》見分之上《けんぶんのうへ》、再應《さいおう》勘辨仕《かんべんつかまつり》、取調候趣《とりしらべさふらふおもむき》、左《さ》に申上候《まをしあげさふらふ》。
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以上《いじやう》が其《そ》の概論《がいろん》だ。而《しか》して以下《いか》逐條《ちくでう》其《そ》の實地蹈査《じつちたうさ》に就《つい》て、それ/″\|詳細《しやうさい》なる報告《はうこく》をなしてゐる。
彼等《かれら》は先《ま》づ品川御殿山《しながはごてんやま》から始《はじ》めてゐる。此處《こゝ》は著彈點《ちやくだんてん》が餘《あま》りに遠《とほ》いから、臺場《だいば》を設《まう》くる必要《ひつえう》はない。併《しか》し人數屯所《にんずとんしよ》には然《しか》る可《べ》しと云《い》うてゐる。それから不入斗村《いりやまずむら》、大井村邊《おほゐむらへん》には、見込《みこみ》の場所《ばしよ》が無《な》い。然《しか》も隣村《りんそん》大森村地先《おほもりむらちさき》より、鈴木新田地先迄《すゞきしんでんちさきまで》の附洲《つきす》に、大筒町打場設置《おほづゝちやううちばせつち》調査中《てうさちゆう》であるが、著彈點《ちやくだんてん》には不《ふ》十|分《ぶん》なるも。右《みぎ》打前《うちまへ》の所《ところ》に、竪《たて》百二十|間《けん》、横《よこ》六十|間《けん》、海面《かいめん》にて高《たかさ》九|尺《しやく》に築立《つきた》て、同所《どうしよ》に平日《へいじつ》大砲《たいはう》置附《おきつ》け、最寄《もより》へ玉藥藏《たまぐすりぐら》を取建《とりた》て、船《ふね》をも製造《せいざう》し、それ/″\|貸渡《かしわた》し、旗本《はたもと》、御家人《ごけにん》、陪臣等《ばいしんら》に至《いた》る迄《まで》、年々《ねん/\》大筒《おほづゝ》町打《ちやううち》、並《ならび》に船打《ふねうち》の稽古《けいこ》を爲《な》さしめたらば、然《しか》る可《べ》しとの意見《いけん》を述《の》べてゐる。
羽田《はねだ》は、一|旦《たん》奉行《ぶぎやう》をも設《まう》け、臺場《だいば》も取建《とりた》てたが、實地見分《じつちけんぶん》すれば、洲先《すさき》より三|里餘《りよ》の間《あひだ》は、自由《じいう》に大船《たいせん》通航《つうかう》し、とても臺場《だいば》から打留《うちと》むるの見込《みこみ》なく、羽田奉行《はねだぶぎやう》勤役中《きんやくちゆう》、非常《ひじやう》の節《せつ》は、船《ふね》にて乘出《のりいだ》し、防禦《ばうぎよ》す可《べ》しとのなるも、干汐《ひしほ》の節《せつ》は、通船《つうせん》に差支《さしつか》へて、意《い》の如《ごと》くならず。されば到底《たうてい》臺場《だいば》を設置《せっち》す可《べ》き地《ち》ではない。
又《また》鶴見川落口《つるみがはおちぐち》一|帶《たい》は、遠淺《とほあさ》であり、神奈川宿地先《かながはしゆくちさき》は、湊内《そうない》五|尋餘《ひろよ》もあるが、然《しか》も江戸表《えどおもて》へ乘入《のりいる》る※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《くわいせん》は、三|里《り》も沖《おき》を通《とほ》るとの事《こと》。即《すなは》ち羽田《はねだ》の出洲《でず》から本牧《ほんもく》の間《あひだ》は、彎曲《わんきよく》して、更《さ》らに防禦地《ばうぎよち》とす可《べ》き場所《ばしよ》は見付《みつ》からない。

[#5字下げ][#中見出し]【一六】石川筒井等の復命書(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

本牧《ほんもく》十二|天之鼻《てんのはな》は、神奈川臺《かながはだい》から見渡《みわた》せば、臺場《だいば》を設《まう》くるに適當《てきたう》の場所《ばしよ》らしけれども、實地蹈査《じつちたうさ》すれば、とても斷崖絶壁《だんがいぜつぺき》にて、臺場《だいば》を設《まう》く可《べ》き地積《ちせき》がない。同所《どうしよ》より十七八|町《ちやう》南方《なんぱう》の八|王子山《わうじやま》なる高臺《たかだい》は、海上《かいじやう》へ斗出《としゆつ》し、猿島《さるしま》へ三|里半《りはん》、觀音崎《くわんおんざき》へ五|里《り》、是亦《これま》た山上《さんじやう》地狹《ちせま》にて、海面《かいめん》の方《はう》は絶壁《ぜつぺき》であるが、裏手《うらて》に相應《さうおう》の畑地《はたち》あり。臺場《だいば》を設《まう》くるに差支《さしつかへ》ない。
但《た》だ其《そ》の海面《かいめん》に荒洲《あらす》と唱《とな》ふる寄洲《よりす》あり、されば大船《たいせん》の通航《つうかう》は、一|里《り》、若《も》しくは二|里半《りはん》の沖《おき》を乘通《のりとほ》れば、著彈《ちやくだん》の見込《みこみ》なけれども、富津《ふつつ》、猿島《さるしま》の應援《おうゑん》の爲《た》めとして、小要砦《せうえうさい》を設《まう》け、船手《ふなて》の働《はたら》きを專《もつぱら》として、平日《へいじつ》船打調練《ふねうちてうれん》を爲《な》さしめたらば、緩急《くわんきふ》に用立《ようだ》ち申《まを》す可《べ》しと認《したゝ》めたれども、村《むら》の石高《こくだか》小《ちさ》くして、とても大名《だいみやう》に預《あづ》けても、經費《けいひ》の點《てん》にて引合《ひきあ》はず、故《ゆゑ》にその儘《まゝ》として置《お》く※[#こと、72-9]とした。
相州夏島《さうしうなつしま》は、松平誠丸《まつだひらしげまる》の領分《りやうぶん》であるが、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船乘筋《くわいせんのりすぢ》は、二|里餘《りよ》を隔《へだ》てたれば、防備《ばうび》の必要《ひつえう》なかる可《べ》し。同人持《どうにんもち》猿島臺場《さるしまだいば》は、去《さ》る未年《ひつじどし》(弘化四年丁未)[#「(弘化四年丁未)」は1段階小さな文字]新規《しんき》取立《とりたて》て渡《わた》されたるもの、大灣戸《おほわんど》、亥之出崎《ゐのでさき》、卯之出崎《うのでさき》三|所《しよ》にて、大筒《おほづゝ》十五|梃《ちやう》備付《そなへつけ》てある。卯之出崎《うのでさき》は低《ひく》く、他《た》は高場《たかば》にある。富津臺場《ふつつだいば》へは、直徑《ちよくけい》二|里《り》九|町《ちやう》あり、同所隱洲《どうしよかくれず》へは一|里程《りほど》である。走水村《はしりみづむら》の内《うち》なる旗山《はたやま》並《ならび》に十|石崎臺《こくざきだい》は、同人《どうにん》手限《てかぎり》にて設《まう》けたもの、旗山《はたやま》は大筒《おほづゝ》六|梃《ちやう》、狼烟筒《のろしづゝ》一|梃《ちやう》備《そな》へ、十|石崎《こくざき》は五|梃《ちやう》据《す》ゑ、何《いづ》れも富津臺場《ふつつだいば》へは、徑《わた》り一|里《り》二十三|町《ちやう》ある。
鴨居村地内《かもゐむらちない》の觀音崎臺場《くわんおんざきだいば》は、文化年度《ぶんくわねんど》松平肥後守《まつだひらひごのかみ》領分《りやうぶん》の節《せつ》、新《あらた》に取立《とりた》て下附《かふ》されたるもの、同所《どうしよ》山《やま》の中腹《ちゆうふく》に、御筒《おんつゝ》五|梃《ちやう》、狼烟御筒《のろしおんつゝ》一|梃《ちやう》据《す》ゑ、富津臺場《ふつつだいば》へ徑《わた》り一|里《り》二十七|町《ちやう》ある。
以上《いじやう》三ヶ|所《しよ》は、富津《ふつつ》の出洲《でず》を前《まへ》にし、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船乘筋《くわいせんのりすぢ》へ近《ちか》く、咽吭《いんかう》の地《ち》と云《い》ふ可《べ》き要所《えうしよ》だ。右《みぎ》臺場々々《だいば/\》に据筒《すゑづゝ》、船打《ふねうち》、夜戰《やせん》の調練等《てうれんとう》、松平誠丸家來《まつだひらしげまるけらい》申立《まをしたて》に隨《したが》ひ、夫々《それ/″\》見分《けんぶん》したが、相應《さうおう》に出來《でき》た。又《ま》た玉藥《たまぐすり》、武器《ぶき》、船舶等《せんぱくとう》の準備《じゆんび》も、相應《さうおう》にあつた。
尚《な》ほ觀音崎臺場《くわんおんざきだいば》は、場《ば》狹《せま》く且《か》つ高所《かうしよ》なれば、同所《どうしよ》の下《した》、字鳶《あざとび》の巣《す》に引移《ひきうつ》り、七|梃備《ちやうぞなへ》となし、更《さ》らに同所《どうしよ》字鳥《あざとり》ヶ|崎《さき》へ五|梃《ちやう》、龜《かめ》ヶ|崎《さき》へ三|梃備《ちやうぞなへ》に、御入用《ごにふよう》を以《もつ》て築立《きづきた》て、大砲《たいはう》御貸渡《おかしわた》しを、誠丸《しげまる》より願《ねが》ひ出《い》でた。鳥《とり》ヶ|崎《さき》は竹《たけ》ヶ|岡《をか》へ二|里半《りはん》、富津《ふつつ》へ二|里《り》、浦賀湊東《うらがみなとひがし》の出崎《でさき》にて、將軍家《しやうぐんけ》日光參詣《につくわうさんけい》の御留守中《おるすちゆう》には、前々《まへ/\》から固《かため》をなしたる場所《ばしよ》にて、千代崎《ちよざき》と相對《あひたい》し。又《ま》た龜《かめ》ヶ|崎《さき》は、鳥《とり》ヶ|崎《さき》と觀音崎《くわんおんざき》との間《あひだ》には、何《いづ》れも咽吭《いんかう》の要所《えうしよ》であり。觀音崎《くわんおんざき》の方《はう》は、浦賀表《うらがおもて》の第《だい》一の要所《えうしよ》にて、海岸《かいがん》直《ただち》に底深《そこふか》く、千|石以上《ごくいじやう》の大船《たいせん》渚近《なぎさちか》く乘通《のりとほ》る※[#こと、74-4]となれば、鳶《とび》の巣《す》へ引下《ひきさが》る方《はう》、實用《じつよう》に適《てき》す可《べ》きに就《つ》き、右《みぎ》臺場増築《だいばぞうちく》、模樣換等《もやうがへとう》、御入用《ごにふよう》を以《もつ》て、御普請《ごふしん》成《な》し下《くだ》され、貫目以上《くわんめいじやう》の大筒《おほづゝ》、及《およ》び非常手當《ひじやうてあて》として玉藥等《たまぐすりとう》、此度限《このたびかぎ》り御渡《おんわたし》然《しか》る可《べ》しと申立《まをした》てた。
千代崎臺場《ちよざきだいば》は、浦賀奉行持《うらがぶぎやうもち》だ。大筒《おほづゝ》十五|梃《ちやう》備付《そなへつ》け、上總國《かづさのくに》竹《たけ》ヶ|岡《をか》へ徑《わた》り二|里《り》三十|町餘《ちやうよ》、富津《ふつつ》へ徑《わた》り二|里餘《りよ》、觀音崎《くわんおんざき》に引《ひ》き續《つゞ》きての要所《えうしよ》だ。其《そ》の答申書《たふしんしよ》の一|節《せつ》に曰《いは》く、
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御臺場備之御筒打方《おだいばそなへのおんつゝうちかた》、調練打《てうれんうち》、並《ならびに》久里濱《くりはま》に於《おい》て、野戰之調練打等《やせんのてうれんうちとう》、奉行《ぶぎやう》申談《まをしだんじ》に任《まか》せ見合仕候處《みあひつかまつりさふらふところ》、何《いづ》れも業柄《わざがら》相應《さうおう》に|有[#レ]之《これあり》。其節《そのせつ》下曾根金《しもぞねきん》三|郎《らう》打方《うちかた》をも一|覽仕候處《らんつかまつりさふらふところ》、出來《でき》相應《さうおう》に而《て》、鍛錬《たんれん》に相見《あひみ》へ申候《まをしさふらふ》。
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とある。
尚《な》ほ浦賀奉行《うらがぶぎやう》とは、申合《まをしあは》す可《べ》しとの命令《めいれい》にて、浦賀奉行《うらがぶぎやう》からは、それぞれ意見書《いけんしよ》を差出《さしいだ》した。その要領《えうりやう》は、概《がい》して浦賀奉行《うらがぶぎやう》戸田《とだ》、淺野《あさの》より、幕府當局《ばくふたうきよく》に差出《さしいだ》したるものと、同《どう》一の意味合《いみあひ》だ。〔參照 一〇―一三〕[#「〔參照 一〇―一三〕」は1段階小さな文字]
併《しか》し石川《いしかは》、筒井等《つゝゐら》は、大體《だいたい》に於《おい》て、浦賀奉行《うらがぶぎやう》の意見《いけん》を採用《さいよう》せず。寧《むし》ろ現状維持《げんじやうゐぢ》にて然《しか》る可《べ》しとの、答申《たふしん》をなしてゐる。
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異船《いせん》到來《とらい》の節《せつ》に臨《のぞみ》、組之《くみの》もの人數《にんず》引足兼《ひきたりかね》、彼是《かれこれ》心配懸念致候段《しんぱいけねんいたしさふらふだん》は、|無[#二]餘儀[#一]筋《よぎなきすぢ》にも相聞候間《あひきこえさふらふあひだ》、都而《すべて》是迄之姿《これまでのすがた》を以《もつて》、今《いま》一|際《きは》御手厚《おてあつ》に|被[#二]成置[#一]候積《なしおかれさふらふつもり》。此上《このうへ》貫目以上之御筒《くわんめいじやうのおんつゝ》拾五|梃《ちやう》御渡《おんわたし》、在來之分共《ざいらいのぶんとも》都合《つがふ》三拾|梃《ちやう》御備付《おんそなへつけ》、御臺場《おだいば》御模樣替之者《おんもやうがへのもの》増人《ぞうにん》、並《ならびに》玉藥之義《たまぐすりのぎ》も、非常御備《ひじやうおんそなへ》として、相應《さうおう》に御貯《おんたくはへ》|被[#二]仰付[#一]候積《おほせつけられさふらふつもり》。
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と答申《たふしん》をなしてゐる。されば浦賀奉行《うらがぶぎやう》の意見《いけん》は、先《ま》づ十|中《ちゆう》七八までは、閑却《かんきやく》せられたものだ。

[#5字下げ][#中見出し]【一七】石川筒井等の復命書(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

將《は》た井伊掃部守持場《ゐいかもんのかみもちば》である相州野比村《さうしうのびむら》なる千|駄崎臺場《ださきだいば》は、弘化《こうくわ》四|年《ねん》丁未《ていび》、幕府《ばくふ》にて新《あら》たに取建《とりた》て、同人持場《どうにんもちば》とせられたものであるが。山上《さんじやう》及《およ》び出崎共《でさきとも》、二|個所《かしよ》に大筒《おほづゝ》一|梃《ちやう》据付《すゑつ》け、松輪村《まつわむら》なる大浦山《おほうらやま》、劍崎《つるぎさき》には、同人手限《どうにんてかぎ》りにて、臺場《だいば》を取《と》り建《た》て、前者《ぜんしや》には貫目以上《くわんめいじやう》の大砲《たいはう》三|梃《ちやう》、後者《こうしや》には五|梃《ちやう》備《そな》へ付《つ》けてある。
城《じやう》ヶ|島《しま》なる字安房崎臺場《あざあはざきだいば》にも、貫目以上《くわんめいじやう》の筒《つゝ》三|梃《ちやう》、狼烟筒《のろしづゝ》一|梃《ちやう》据《す》ゑ付《つ》けてある。長澤村《ながさはむら》の海岸《かいがん》へも貫目以上《くわんめいじやう》の筒《つゝ》三|梃《ちやう》。又《ま》た西浦《にしうら》の方《はう》は、長井村《ながゐむら》なる荒崎《あらさき》に大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》備《そな》へ付《つ》けたる臺場《だいば》が取《と》り設《まう》けられ、腰越村《こしごえむら》なる八|王子山《わうじやま》遠見所《とほみじよ》にも、玉除土手《たまよけどて》を築《きづ》き立《た》て、大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》据《す》ゑ付《つ》けてある。夫々《それ/″\》打方《うちかた》も見分《けんぶん》したが、相應《さうおう》の成績《せいせき》だ。又《ま》た小坪村《こつぼむら》、秋谷村《あきやむら》にも、大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》づゝ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まは》し、村方《むらかた》に預《あづ》けてある。
大久保加賀守領分《おほくぼかゞのかみりやうぶん》巡※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《じゆんくわい》の際《さい》、相州大磯海岸《さうしうおほいそかいがん》へ臺場《だいば》を取《と》り立《た》つる積《つも》りにて、見置《みおき》の義《ぎ》申立《まをした》てたから一|覽《らん》した。小田原海岸《をだはらかいがん》へも同樣《どうやう》の義《ぎ》申立《まをした》てたが、斷《ことわ》つた。眞鶴岬《まなづるさき》には臺場《だいば》之《こ》れあり。打方《うちかた》も見《み》た。大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》備《そな》へ付《つ》け、打方《うちかた》も相應《さうおう》に見《み》えた。
水野出羽守領分《みづのではのかみりやうぶん》、伊豆川名村《いづかはなむら》なる字石取《あざいしとり》ヶ|崎《さき》、富戸村《ふつどむら》なる字大鶴崎《あざおほづるさき》、稻取村《いなとりむら》の内勝山《うちかつやま》、白濱村《しらはまむら》の内板子崎《うちいたこざき》、四ヶ|所《しよ》に臺場《だいば》取《と》り立《た》て、大小筒《だいせうづゝ》、木砲等《もくはうとう》相※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《あひまは》しあつた。
松平下總守領分《まつだひらしもふさのかみりやうぶん》、安房國多田羅村《あはのくにたたらむら》の内《うち》、大房崎臺場《だいばうざきだいば》は、是亦《これま》た弘化《こうくわ》四|年《ねん》丁未《ていび》、幕府《ばくふ》にて新規取建《しんきとりた》て、下附《かふ》されたるもの上中下《じやうちゆうげ》三ヶ|所《しよ》へ、大筒《おほづゝ》十|梃《ちやう》相備《あひそな》へてある。北條村《ほうでうむら》陣屋前《ぢんやまへ》、大筒《おほづゝ》四|梃《ちやう》仕掛《しか》け置《お》いてある。洲《す》の崎《さき》遠見所《とほみしよ》へも玉除土手《たまよけどて》を作《つく》り、大筒《おほづゝ》五|梃《ちやう》備置《そなへお》いてある。打方《うちかた》並《ならび》に船打《ふねうち》、車臺野戰筒《しやだいやせんづゝ》早打等《はやうちとう》も見分《けんぶん》したが、相應《さうおう》の成績《せいせき》であつた。
大岡主膳正領分《おほをかしゆぜんしやうりやうぶん》は、松平下總守領分《まつだひらしもふさのかみりやうぶん》と相交《あひまじ》り居《を》る。和田村《わだむら》に石垣《いしがき》にて臺場《だいば》築《きづ》き立《た》て、貫目以上以下共《くわんめいじやういかとも》五|梃《ちやう》の木砲《もくはう》を用意《ようい》してゐる。同村《どうそん》の山上《さんじやう》に遠見所《とほみしよ》がある。又《ま》た天面村《あまつらむら》、貝渚村《かひすかむら》、濱波太村《はまなぶとむら》の内《うち》、仁右衞門島共《にゑもんじまとも》、都合《つがふ》四ヶ|所《しよ》に、大小筒《だいせうづゝ》、木砲等《もくはうとう》相※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《あひまは》しある。尚《な》ほ右《みぎ》の外《ほか》にも、臺場等《だいばとう》ある由《よし》だが、通行筋《つうかうすぢ》の外《ほか》には罷越《まかりこ》さなかつた。
松平肥後守領分《まつだひらひごのかみりやうぶん》、上總國竹《かづさのくにたけ》ヶ|岡臺場《をかだいば》は、山上《さんじやう》に大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》、山下《やました》の出崎《でさき》に五|梃《ちやう》ある。其内《そのうち》一|梃《ちやう》と狼烟筒《のろしづゝ》一|梃《ちやう》は、同人持場《どうにんもちば》となつて以來《いらい》増加《ぞうか》したるもの。又《ま》た玉除土手《たまよけどて》も築直《きづきなほ》した。富津村《ふつつむら》の方《はう》も、松平下總守受持《まつだひらしもふさのかみうけもち》の際《さい》は、竹柵《たけさく》にて沙留《すなどめ》したる上《うへ》に、大筒《おほづゝ》を据付《すゑつ》けあつたが、肥後守持場《ひごのかみもちば》となつてからは、多門《たもん》より凡《およ》そ九十六|間《けん》、洲崎《すのさき》の方《はう》へ長《ながさ》四十|間《けん》、横《よこ》十七|間《けん》、高《たかさ》八|尺程《しやうほど》の臺場《だいば》を取建《とりた》て、玉除土手《たまよけどて》をも築立《きづきた》て、大筒《おほづゝ》七|梃《ちやう》備《そな》へてある。金谷村《かなやむら》にも大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まは》してある。竹《たけ》ヶ|岡臺場《をかだいば》の筒《つゝ》、並《ならび》に船打共《うねうちとも》に打方《うちかた》見分《けんぶん》したが、相應《さうおう》の出來榮《できばえ》であつた。
尚《な》ほ富津《ふつつ》の出洲《でず》に就《つい》ても、左《さ》の如《ごと》き報告《はうこく》がある。
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右《みぎ》富津村出洲之義《ふつつむらでずのぎ》、得《とく》と研究仕候處《けんきうつかまつりさふらふところ》、汐之差引《しほのさしひき》に而《て》、内外之波濤《ないぐわいのはたう》相合《あひがつ》し、流砂《りうさ》停滯仕《ていたいつかまつり》、連々《つれ/″\》洲《す》を置《おき》、凡《およそ》長《ながさ》一|里《り》、巾《はゞ》五六|町之内《ちやうのうち》、貮十|町程者《ちやうほどは》、田畑居村《たはたきよそん》に相成《あひなり》、十|町程之間《ちやうほどのあひだ》に一|面《めん》に小松《こまつ》生立候砂地《おひたちさふらふすなぢ》にて、高低《かうてい》不齊《ふせい》に|有[#レ]之《これあり》、猶《なほ》五六|町之所《ちやうのところ》は、風當《かぜあたり》強《つよく》、砂上《さじやう》吹晒《ふきさら》し候《さふらふ》に付《つき》、烈風《れつぷう》強雨等之節《きやううとうのせつ》は、高波《たかなみ》打越候故《うちこしさふらふゆゑ》、此所《このところ》高《たか》さ八|尺程《しやくほど》に地形《ぢぎやう》築立《きづきたて》、臺場据筒《だいばすゑづゝ》|有[#レ]之《これあり》。夫《それ》より凡《およそ》長《ながさ》三拾|町程之處《ちやうほどのところ》、隱洲《かくれず》と相唱《あひとなへ》、丸子《まるこ》、脇《わき》の塚《つか》、大塚《おほつか》、大水塚《おほみづづか》、小水塚《こみづづか》、黒塚等之名目《くろつかとうのみやうもく》|有[#レ]之《これあり》。右之内《みぎのうち》、丸子《まるこ》、脇《わき》の塚《つか》、大塚等者《おほつかとうは》、汐《しほ》の差引《さしひき》に寄《より》、或《あるひ》は顯《あらは》れ、或《あるひ》は沈《しづ》み、大水塚《おほみづづか》外《ほか》貮ヶ|所者《しよは》、全《まつたく》水中《すゐちゆう》に而《て》、滿潮《まんてう》に候《さふらふ》とも、大船《たいせん》往來《わうらい》|不[#二]相成[#一]《あひならず》、連々《つれ/″\》隱洲《かくれず》相殖《あひふ》へ、近來《きんらい》大小《たいせう》と唱候洲《となへさふらふす》、一ヶ|所《しよ》出來《しゆつたい》、其餘《そのよ》名目《みやうもく》|無[#レ]之《これなく》。小洲之分《せうずのぶん》は、風波之模樣《ふうはのもやう》に寄《より》、相動共《あひうごくとも》、大船之分《たいせんのぶん》は、滿潮《まんてう》に候共《さふらふとも》、一|切《さい》乘拔《のりぬけ》|難[#二]相成[#一]《あひなりがたく》、萬《まん》一|乘掛《のりかゝ》り候得《さふらえ》ば、最初《さいしよ》は纔《わづか》に船《ふね》敷押《しきおさ》へ候得共《さふらえども》、暫時《ざんじ》に震込相助《ふりこみあひたすか》り候義《さふらふぎ》は|無[#レ]之《これなく》。既《すで》に近頃《ちかごろ》も石洲《いはず》え乘掛《のりかけ》、其儘《そのまゝ》材木等《ざいもくとう》沈木《ちんもく》に相成《あひなり》、今以《いまもって》水中《すゐちゆう》に其形《そのかたち》相殘《あひのこ》り候由《さふらふよし》、船方之《ふなかたの》もの|申[#レ]之《これをまをす》。此出洲《このでず》地方《ぢかた》より酉《とり》の九|分《ふん》に向《むか》ひ、相州浦之郷村地先《さうしううらのがうむらちさき》、夏島《なつしま》に相當《あひあた》り、隱洲共《かくれずとも》に凡《およそ》長《ながさ》貮|里程《りほど》、海中《かいちゆう》え横切《よこぎり》、觀音崎《くわんおんざき》、旗山《はたやま》、十|石之出崎《こくのでさき》と喰違《くひちが》ひに相成《あひなり》、諸※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船共《しょくわいせんとも》に、大難場《だいなんぢやう》と唱《とな》へ、殊之外《ことのほか》相恐《あひおそ》れ、實《じつ》に天工之海門《てんこうのかいもん》、自然之要地《しぜんのえうち》に|無[#二]御相違[#一]《おんさうゐなく》相見申候《あひみえまをしさふらふ》。
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如何《いか》にも其通《そのとほ》りである。富津《ふつつ》は明治年間《めいぢねんかん》に至《いた》りても、我《わ》が要塞《えうさい》として、重要《ぢゆうえう》の位置《ゐち》を占《し》めてゐた。

[#5字下げ][#中見出し]【一八】石川筒井等の復命書(四)[#「(四)」は縦中横][#中見出し終わり]

上總國《かづさのくに》[#ルビの「かづさのくに」は底本では「かずさのくに」]竹《たけ》ヶ|岡村《をかむら》から富津迄《ふつつまで》の間《あひだ》、阿部駿河守《あべするがのかみ》領分《りやうぶん》、同國《どうこく》大坪村《おほつぼむら》字《あざ》池之臺《いけのだい》と申《まを》す海岸《かいがん》、山上《さんじやう》に石垣《いしがき》にて臺場《だいば》が築立《きづきたつ》てある。大筒《おほづゝ》三|梃《ちやう》据付《すゑつ》け、尚《な》ほ非常用意《ひじやうようい》として、大小筒《だいせうづゝ》七|梃《ちやう》、玉藥等《たまぐすりとう》もある。
松平肥後守《まつだひらひごのかみ》領分《りやうぶん》、上總國《かづさのくに》久津間新田地先《くつましんでんちさき》畔洲《ばんす》は、富津出洲《ふつつでず》の蔭《かげ》に相成《あひな》り、遠淺《とほあさ》にて大船《たいせん》の通路《つうろ》なく、右最寄《みぎもより》木更津《きさらづ》は、上總國《かづさのくに》の湊《みなと》と唱《とな》ふるも、滿潮《まんてう》の節《せつ》三百|石積以下《こくづみいか》の船《ふね》ならでは、渚近《なぎさちか》く寄《よ》り兼《かね》、御府内《ごふない》へ乘入《のりい》る※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《くわいせん》も、本牧《ほんもく》の荒洲《あらす》、羽田《はねだ》の洲先《すさき》を除《よ》け、總州地方《そうしうぢかた》へ寄《よ》りては、近《ちか》くは一|里半餘《りはんよ》、遠《とほ》くは貮|里半程《りはんほど》の所《ところ》を乘通《のりとほ》る趣《おもむき》なれば、臺場《だいば》など設《まう》く可《べ》き場所《ばしよ》でない。
されば肥後守方《ひごのかみかた》にても、兼《かね》て船打調練等《ふねうちてうれんとう》出精《しゆつせい》いたし、萬《まん》一の節《せつ》は、洲之内濱《すのうちはま》から乘《の》り出《いだ》し、神速《しんそく》に乘附《のりつ》け、相働《あひはたら》く見込《みこみ》の由《よし》にて、木更津村《きさらづむら》隣村《りんそん》吾妻村海岸《あづまむらかいがん》へ、番所取建《ばんしよとりた》て最中《さいちゆう》である。同國《どうこく》奈良輪村《ならわむら》から八|幡村《はたむら》までは、畔洲《ばんす》よりも又《また》一|段《だん》入込《いりこみ》。松《まつ》ヶ|島《しま》から五|井村《ゐむら》は、聊《いさゝ》か出張《でば》つてゐるが、海岸《かいがん》遠淺《とほあさ》にて、二三百|石積以下《こくづみいか》の船《ふね》ならでは、滿潮《まんてう》の節《せつ》にても渚近《なぎさちか》く附《つ》き兼《か》ぬる。下總國《しもふさのくに》寒川《さむかは》、檢見川《けみがは》、船橋《ふなばし》、行徳《ぎやうとく》、堀江《ほりえ》、猫實邊《ねこざねへん》は、一|圓《ゑん》の入江《いりえ》にて、東西《とうざい》宇喜田村《うきたむら》は、江戸川《えどがは》、中川落口《なかがはおちぐち》にて、海面汐除《かいめんしほよ》け堤《つゝみ》の外《ほか》、附洲《つきす》葭生《よしふ》之《こ》れあり、先《まづ》洲先《すさき》江戸川落口《えどがはおちぐち》、字蜆島《あざしゞみじま》、三|枚洲等《まいずとう》も、更《さら》に見込《みこみ》なき場所《ばしよ》である。以上《いじやう》の結論《けつろん》として、左《さ》の如《ごと》く上申《じやうしん》してゐる。
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一|體《たい》江戸近海《えどきんかい》西之方《にしのかた》品川宿《しながはじゆく》より相州《さうしう》夏島迄《なつしままで》、東《ひがし》の方《かた》は上總國《かづさのくに》木更津邊《きさらづへん》より、武州《ぶしう》東西宇喜田村迄之海岸《とうざいうきたむらまでのかいがん》、都而《すべて》遠淺《とほあさ》にて、東西之徑《とうざいのわた》り遠《とほ》く、大船《たいせん》は一|里内《りない》え近付兼《ちかづきかね》、其上《そのうへ》江戸川《えどがは》、荒川《あらかは》、多摩川《たまがは》、其外《そのほか》數流之川々《すうりうのかは/\》落入候間《おちいりさふらふあひだ》、出水之度毎《しゆつすゐのたびごと》、洲《す》を置増《おきまし》、諸國之※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《しよこくのくわいせん》、品川沖《しながはおき》に而《て》、荷物《にもつ》を艀《はし》け、靈岸島前《れいがんじままへ》え乘入候義《のりいれさふらふぎ》に而《て》、近來《きんらい》に至《いた》り、別《わけ》て海口附洲《かいこうつきす》相増《あひまし》、澪筋《みよすぢ》押埋《おしうづめ》、入津《にふしん》不辨利《ふべんり》に相成《あひなり》、自然《しぜん》物價《ぶつか》にも相響《あひひゞ》き|可[#レ]申程之義《まをすべきほどのぎ》に|有[#レ]之《これあり》。加之《しかのみならず》富津之出崎臺場《ふつつのでさきだいば》より一|里半餘《りはんよ》、海中《かいちゆう》え横切《よこぎり》、通船《つうせん》を妨《さまた》げ、諸國之※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]船《しよこくのくわいせん》不案内之《ふあんないの》ものは、乘筋巧者之水主《のりすぢかうしやのかこ》を相雇《あひやとひ》入津《にふしん》いたし候義《さふらふぎ》に而《て》、隱洲之義《かくれずのぎ》は、汐之差引《しほのさしひき》、風波之次第《ふうはのしだい》に寄《より》、時々《じゞ》變化《へんくわ》いたし候由《さふらふよし》。
既《すでに》川村對馬守《かはむらつしまのかみ》、御勘定吟味役之節《ごかんぢやうぎんみやくのせつ》、見分仕申上候《けんぶんつかまつりまをしあげさふらふ》書面《しよめん》に、洲先《すさき》字黒塚《あざくろづか》と唱候《となへさふらふ》は、海底《かいてい》十|尋《ひろ》も下《した》と認《したゝめ》、其節之繪圖《そのせつのゑづ》に黒塚之《くろづかの》はづれ深《ふかさ》四十|尋《ひろ》と記《しる》し|有[#レ]之《これあり》、此度《このたび》相改候處《あひあらためさふらふところ》、黒塚《くろづか》は洲之上《すのうへ》五|尋程《ひろほど》に而《て》、猶又《なほまた》其先《そのさき》に大《だい》六と申《まをす》洲《す》出來《でき》、右《みぎ》は十|年《ねん》此方之由《このかたのよし》、水中深《すゐちゆうふか》き所《ところ》にて廿四|尋《ひろ》、淺《あさ》き所《ところ》にて四|尋《ひろ》、又《また》は七|尋之場所《ひろのばしょ》も|有[#レ]之候旨《これありさふらふむね》、松平肥後之守《まつだひらひごのかみ》家來《けらい》繪圖面《ゑづめん》を以《もつて》申聞《まをしきこゆ》。元來《ぐわんらい》活洲《いきす》と唱《とな》へ、一|定《てい》いたし|不[#レ]申《まをさず》、年《とし》を經候《へさふらふ》に隨《したが》ひ、相増候義《あひましさふらふぎ》は、相違《さうゐ》も|無[#レ]之《これなく》、實《じつ》に希代之天嶮《きだいのてんけい》に|有[#レ]之《これあり》。
此處《こゝ》を過《すぎ》、内海《うちうみ》に至《いた》り候而《さふらふて》は、渺漫場廣之海面《べうまんばひろのかいめん》と相成《あひなり》、晴天之節《せいてんのせつ》は、兩方之地方《りやうはうのぢかた》、山々《やま/\》も相見候得共《あひみえさふらえども》、此度《このたび》見分中《けんぶんちゆう》は、始終《しじゆう》雨天勝《うてんがち》にて、聢《しか》とは見定《みさだ》めも|難[#二]出來[#一]程之義《できがたきほどのぎ》、何分《なにぶん》御備《おんそなへ》相立《あひたて》|可[#レ]然《しかるべき》嶮要之場所《けんえうのばしよ》|無[#レ]之《これなく》、全《まつたく》江戸海《えどうみ》御要害之地《ごえうがいのち》と|可[#レ]申《まをすべき》は、洲之崎《すのさき》、城《じやう》ヶ|島《しま》より、富津《ふつつ》、觀音崎《くわんおんざき》、猿島邊迄之所《さるしまへんまでのところ》に|有[#レ]之《これあり》。
其内《そのうち》にも浦賀湊《うらがみなと》より松平誠丸持《まつだひらしげまるもち》猿島迄之處《さるしままでのところ》、別而《べつして》天嶮緊要之場所《てんけんきんえうのばしよ》に付《つき》、此度《このたび》評議之上《ひやうぎのうへ》、浦賀表《うらがおもて》並《ならびに》觀音崎臺場《くわんおんざきだいば》御模樣替《おんもやうがへ》、鳥《とり》ヶ|崎《さき》、龜《かめ》ヶ|崎《さき》えも、新規臺場《しんきだいば》築増等《きづきましとう》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、大銃《おほづゝ》並《ならびに》玉藥等《たまぐすりとう》御渡方《おんわたしかた》相成候積《あひなりさふらふつもり》、申上候儀《まをしあげさふらふぎ》に|有[#レ]之《これあり》。
然《しか》る上《うへ》は猶《なほ》一|段之御備《だんのおんそなへ》と罷成《まかりなり》、一二|艘《さう》[#ルビの「さう」は底本では「さうの」]の異船《いせん》渡來候共《とらいさふらふとも》、容易《ようい》に内海《うちうみ》え|爲[#二]乘入[#一]候樣之義者《のりいらせさふらふやうのぎは》仕間敷《つかまつるまじく》。尤《もつとも》右《みぎ》富津之義《ふつつのぎ》、出洲之先《でずのさき》より相州之方《さうしうのはう》え寄《より》、大船之乘筋《たいせんののりすぢ》いまだ一|里程《りほど》も|有[#レ]之《これあり》。異國之大船《いこくのたいせん》全《まつたく》|通行難[#二]相成[#一]《つうかうあひなりがたし》と申《まをす》には|無[#レ]之候得共《これなくさふらえども》、後詰《ごづめ》も|無[#レ]之《これなく》、一二|艘之船《さうのふね》數《す》ヶ|所之御備場《しよのおんそなへば》を打越《うちこし》、乘入候義《のりいれさふらふぎ》は、勢《いきほ》ひ相成間敷《あひなるまじく》、彼《かれ》も又《また》右樣無謀之儀《みぎやうむぼうのぎ》は仕間敷《つかまつるまじく》。
若《もし》萬々《まん/\》一、多勢《たぜい》數艘《すさう》にて渡來《とらい》も致《いた》し候節《さふらふせつ》は、前方《まへかた》にも|相知可[#レ]申《あひしれまをすべく》、素《もと》より遠境《とほざかひ》と申《まをす》にも|無[#レ]之間《これなきあひだ》、右體之節《みぎたいのせつ》は、其沙汰次第《そのさたしだい》、近海《きんかい》人數出之面々《にんずいだしのめん/\》は勿論《もちろん》、御府内《ごふない》郡參之大小名《ぐんさんのだいせうみやう》を始《はじめ》、闔國《こふこく》一|定之衆心《ていのしゆうしん》を以《もつて》、|御警衞被[#レ]立候義《ごけいゑいたてられさふらふぎ》に付《つき》、臺場《だいば》ヶ|所等之義《しよとうのぎ》は、其變《そのへん》に應《おう》じ、土俵《どへう》を以《もつて》間配《あひくばり》、如何樣《いかやう》嚴重之御守衞《げんぢゆうのごしゆゑい》に而《て》も速《すみやか》に相整《あひとゝのひ》、御間《おんま》に合兼候《あひかねさふらふ》と申義《まをすぎ》は|有[#二]御座[#一]間敷哉《ござあるまじきか》。
|於[#二]然る[#一]《しかるにおいて》は平日《へいじつ》一|家《け》二|家之御固《けのおんかため》|被[#二]仰付置[#一]候《おほせつけおかれさふらふ》より、却而《かへつて》事實之御備《じじつのおんそなへ》に相成《あひなり》、右之面々《みぎのめんめん》疲弊怠慢之憂《ひへいたいまんのうれひ》も|無[#レ]之《これなく》、|可[#レ]然哉《しかるべきかと》|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
因而《よつて》前書《ぜんしよ》ヶ|條之内《でうのうち》、武州《ぶしう》大森村《おほもりむら》より鈴木新田迄之地先附洲《すゞきしんでんまでのちさきつきす》え、此度《このたび》出來候《しゆつたいさふらふ》大筒《おほづゝ》町打場之義《ちやううちばのぎ》、私共《わたくしども》見分之廉《けんぶんのかど》へ籠申上候《こめまをしあげさふらふ》も、不都合之樣《ふつがふのやう》に候得共《さふらえども》、近海防禦筋之義《きんかいばうぎよすぢのぎ》は、船打《うねうち》重《おも》に|有[#レ]之《これあり》。平日之稽古《へいじつのけいこ》、調練《てうれん》さへ熟《じゆく》し居候得《をりさふらえ》ば、何時《なんどき》いづれ之場所《のばしよ》え|出張被[#二]仰付[#一]候《でばりおほせつけられさふらふ》とも、御事《おんこと》缺《か》ヶ|之義《のぎ》は|無[#レ]之《これなく》。幸《さひは》ひ右町打稽古《みぎちやううちけいこ》手廣《てびろ》に出來候樣《できさふらふやう》、|御世話有[#レ]之候折柄《おせわこれありさふらふをりから》、船打調練《うねうちてうれん》も相整居候《あひとゝのひをりさふら》はゞ、御實用《おんじつよう》に相叶《あひかなひ》、且《かつ》は萬々《まん/\》一|異船《いせん》内海迄《うちうみまで》乘入候節《のりいれさふらふせつ》、右場所近海《みぎばしよきんかい》人數《にんず》出之向《いだしのむき》へ、御固《おかため》|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふら》はゞ、一と廉之御守衞《かどのごしゆゑい》にも|相成可[#レ]申哉《あひなりまをすべきか》。素《もと》より見分場所内之義《けんぶんばしようち     のぎ》にも|有[#レ]之《これあり》、一|同《どう》取調申上候《とりしらべまをしあげさふらふ》。(下略)[#「(下略)」は1段階小さな文字]戌《いぬ》八|月《ぐわつ》(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]
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此《これ》にて如何《いか》にも當時《たうじ》に於《お》ける防備《ばうび》が、極《きは》めて兒戯《じぎ》に類《るゐ》してゐたかゞ想《おも》ひやらるゝ。然《しか》も兒戯《じぎ》に類《るゐ》したるにせよ、幕府《ばくふ》が必《かな》らずしも全《まつた》く閑却《かんきやく》してゐなかつたことが、判知《わか》る。
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[#6字下げ]海岸防備に就き砲術精勵方達(嘉永三年九月)[#「(嘉永三年九月)」は1段階小さな文字]
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御府内鐵炮稽古之儀、年々四月朔日より七月晦日迄之期月に候處、近來海岸警衞向之義追々厚被[#二]御出[#一]之趣も有[#レ]之、專武備御引立之折柄、炮術之義は海岸警衞向第一の要術に付、修行未熟に而は萬々一非常之節急速用立兼候而巳ならず、却而過誤有[#レ]之間敷とは難[#レ]申儀に付、今度出格之思召を以、公儀に而取建置候角場を始諸角場、并萬石以上以下とも願濟等に而打來候角場之分は、以來四季共稽古不[#レ]苦、三川島邊より本所深川御拳場近邊は、三月朔日より八月晦日迄期月御差延被[#二]仰出[#一]候。尤火之元之儀、冬春之内は別而入[#レ]念、今藥貯方等も過失無[#レ]之樣取締方嚴重に心附、風烈之節は稽古見合候樣可[#レ]致候。且又玉目之儀は前々其場所々々之定之通相心得、役前之者は勿論、於[#二]諸藩[#一]も彌無[#二]懈怠[#一]修行專要之事に候。
右之趣、萬石以上以下へ、不[#レ]洩樣可[#レ]被[#二]相觸[#一]候。〔舊政府御達留〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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