第四章 江戸近海防備論の先覺者
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[#4字下げ][#大見出し]第四章 江戸近海防備論の先覺者[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一九】下田の巡視及び防備[#中見出し終わり]

石川《いしかは》、筒井等《つゝゐら》は、亦《ま》た伊豆下田《いづしもだ》をも、命《めい》によりて巡視《じゆんし》した。
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家數《いへかず》八百拾|軒《けん》、人別《にんべつ》三千六百|人餘《にんよ》、地船《ぢふね》千貮百|石積以下《ごくづみいか》拾六|艘《さう》、漁船《ぎよせん》三拾|艘《さう》魚買傳馬船《うをかひてんません》四拾|艘《さう》、小宿傳馬船《こやどてんません》三拾六|艘《さう》|有[#レ]之《これあり》、柿崎村《かきざきむら》須崎《すのさき》三ヶ|浦《うら》を合《あはせ》、下田湊《しもだみなと》と相唱《あひとなへ》、豆州《づしう》第《だい》一|之湊《のみなと》に而《て》、船繋《ふながゝ》り宜敷《よろしく》、是迄《これまで》異國船《いこくせん》漂著《へうちやく》又《また》は船繋等《ふながゝりとう》いたし候義《さふらふぎ》も|有[#レ]之候處《これありさふらふところ》。警衞向之義《けいゑいむきのぎ》、右組同心共而巳《みぎくみどうしんどものみ》にては、御手厚《おてあつ》とも|難[#レ]申《まをしがたく》。彼是《かれこれ》心配懸念《しんぱいけねん》いたし候由《さふらふよし》、浦賀奉行《うらがぶぎやう》申上候趣《まをしあげさふらふおもむき》も|有[#レ]之《これあり》。先般《せんぱん》支配組頭兩人《しはいくみがしらりやうにん》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、與力《よりき》二|人《にん》同心《どうしん》五|人《にん》増人《ぞうにん》、常詰交代《じやうづめかうだい》に|被[#二]仰渡[#一]《おほせわたされ》、且《かつ》異國船《いこくせん》渡來之節《とらいのせつ》、防禦筋之義《ばうぎよすぢのぎ》、是迄之姿《これまでのすがた》に而《て》は、番船向《ばんせんむき》其外《そのほか》船手人足《ふなてにんそく》、陸人足《りくにんそく》差配等《さはいとう》、品々《しな/″\》不都合之由《ふつがふのよし》を以《もつて》、右下田町《みぎしもだまち》其外《そのほか》近村《きんそん》に於《おい》て、御預所《おんあづかりしよ》|被[#二]仰付[#一]候樣《おほせつけられさふらふやう》仕度旨《つかまつりたきむね》。其餘《そのよ》右組頭《みぎくみがしら》御役宅向御普請《おやくたくむきごふしん》目論見御用《もくろみごよう》序《ついで》、御臺場跡《おだいばあと》取調之義等《とりしらべのぎとう》、品々《しな/″\》申上候《まをしあげさふらふ》書面《しよめん》、先達《せんだつて》御勘定所《ごかんぢやうしよ》へ御下《おさ》げ|有[#レ]之《これあり》、此度《このたび》私共《わたくしども》一|同《どう》場所《ばしよ》見分《けんぶん》いたし候《さふらふ》に付《つき》、巨細之見込《こさいのみこみ》|難[#二]相分[#一]候《あひわかりがたくさふらふ》に付《つき》、浦賀奉行《うらがぶぎやう》へ懸合承《かけあひうけたまはり》糺候《たゞしさふらふ》。
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とあれば、浦賀奉行《うらがぶぎやう》戸田《とだ》、淺野《あさの》の兩人《りやうにん》は、下田湊防備《しもだみなとばうび》の手薄《てうす》きを掛念《けねん》し、其《そ》の意見書《いけんしよ》を上《たてまつ》りたる※[#こと、88-6]が判知《わか》る。而《しか》して石川《いしかは》、筒井等《つゝゐら》は、當地巡視《たうちじゆんし》の上《うへ》、左《さ》の如《ごと》き結論《けつろん》を得《え》たものと思《おも》はる。
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一|體《たい》下田表之義《しもだおもてのぎ》に付《つい》ては、出立前《しゆつたつぜん》、土佐守《とさのかみ》(石川)[#「(石川)」は1段階小さな文字]循輔《じゆんすけ》(佐々木)[#「(佐々木)」は1段階小さな文字]より御内慮《ごないりよ》相伺《あひうかがひ》、御差圖之趣《おさしづのおもむき》も|有[#レ]之候間《これありさふらふあひだ》、一|同《どう》談判之上《だんぱんのうへ》、得《とく》と勘辨仕候處《かんべんつかまつりさふらふところ》。同所之義《どうしよのぎ》は、兼《かね》ても申上候通《まをしあげさふらふとほり》、諸廻船《しよくわいせん》輻輳之土地柄《ふくそうのとちがら》にて、在方《ざいかた》とは|乍[#レ]申《まをしながら》、家數《いへかず》人別《にんべつ》も多《おほき》地方《ぢかた》に付《つき》、諸檢使之事《しよけんしのこと》、其外《そのほか》他領引合之公事吟味物《たりやうひきあひのくじぎんみもの》、並《ならびに》諸運上小物成等之取立物《しようんじやうこものなりとうのとりたてもの》も多端《たたん》に|有[#レ]之候間《これありさふらふあひだ》、此上《このうへ》下田町《しもだまち》其外《そのほか》柿崎《かきざき》、須崎《すのさき》三ヶ|浦等之分《うらとうのぶん》、浦賀奉行《うらがぶぎやう》御預所《おあづかりしよ》に|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》とも、支配組頭《しはいくみがしら》交代増人《かうたいぞうにん》、與力同心共《よりきどうしんとも》定詰《ぢやうづめ》のみにては、品々《しな/″\》差支《さしつかへ》多《おほ》く、迚《とて》も御用辨《ごようべん》行屆間敷《ゆきとゞくまじく》、殊《こと》に異船《いせん》渡來之節《とらいのせつ》、防禦筋之義《ばうぎよすぢのぎ》は、猶更之義《なほさらのぎ》、最寄大名《もよりだいみやう》え之指揮等《のしきとう》|如何可[#レ]有[#レ]之哉《いかゞこれあるべきや》、旁々《かた/″\》一|旦《たん》御差圖《おさじづ》相濟候義《あひすみさふらふぎ》には御座候得共《ござさふらえども》、右《みぎ》浦賀奉行支配組頭《うらがぶぎやうしはいくみがしら》定詰交代等之義《ぢやうづめかうたいとうのぎ》は、御見合《おんみあはせ》、地方《ぢかた》取扱向《とりあつかひむき》は勿論《もちろん》、防禦筋等之義《ばうぎよすぢとうのぎ》も、都而《すべて》太郎左衞門《たろざゑもん》(江川)[#「(江川)」は1段階小さな文字]え引受《ひきうけ》|被[#二]仰付[#一]候積《おほせつけられさふらふつも》り。猶《なほ》浦賀奉行《うらがぶぎやう》え|遂[#二]示談[#一]候處《じだんをとげさふらふところ》、右之通《みぎのとほり》相成候上《あひなりさふらふうへ》は、別段《べつだん》存寄《ぞんじより》|無[#レ]之《これなく》、其段《そのだん》|可[#二]申上[#一]旨《まをしあげべきむね》をも申聞候《まをしきけさふらふ》に付《つき》、太郎左衞門《たろざゑもん》存寄《ぞんじより》をも一|通《とほり》相尋候處《あひたづねさふらふところ》、別紙之通《べつしのとほり》申聞《まをしきけ》、右《みぎ》書面之趣《しよめんのおもむき》にては、いまだ存分之見込《ぞんぶんのみこみ》にも|無[#レ]之哉《これなくや》にて、一體《いつたい》|不[#二]容易[#一]《よういならざる》趣意《しゆい》と相聞候得共《あひきこえさふらえども》、同人義《どうにんのぎ》は代々《だい/\》伊豆之國《いづのくに》に在住罷在《ざいぢゆうまかりあり》、自然《しぜん》同國之儀《どうこくのぎ》を、專務《せんむ》と相心得候《あひこゝろえさふらふ》より、手重之見込《ておものみこみ》も|有[#レ]之哉《これあるや》にて、船掛《ふながゝ》り等《とう》出來候《できさふらふ》場所《ばしよ》は、下田而巳《しもだのみ》にも|不[#レ]限《かぎらず》、外《ほか》湊々《みなと/\》も同樣《どうやう》に|有[#レ]之《これあり》。
一|體《たい》同所《どうしよ》(下田)[#「(下田)」は1段階小さな文字]奉行所《ぶぎやうしよ》享保度《きやうほうど》、浦賀表《うらがおもて》え御引移《おんひきうつ》しに相成候《あひなりさふらふ》以來《いらい》は、御備向之義《おんそなへむきのぎ》も、同國《どうこく》自餘之海岸《じよのかいがん》と差別《さべつ》|無[#レ]之筋《これなきすぢ》に而《て》、左迄之御備《さまでのおんそなへ》には及申間敷候得共《およびまをすまじくさふらえども》。併《しかし》太郎左衞門《たろざゑもん》え御任《おんまかせ》にも相成候上《あひなりさふらふうへ》は、兼而《かねて》同人《どうにん》申立之次第《まをしたてのしだい》も|有[#レ]之《これあり》、其上《そのうへ》往古《わうこ》より之仕來《のしきたり》にて、日光《につくわう》御參詣《ごさんけい》御留守中等《おるすちゆうとう》は、御固《おかため》も相立候《あひたてさふらふ》場所之義《ばしよのぎ》に付《つき》、同所《どうしよ》え出張《でばり》陣屋補理《ぢんやほり》、夏秋之内《かしうのうち》、太郎左衞門《たろざゑもん》並《ならびに》手附手代《てつきてだい》定詰《ぢやうづめ》、同人《どうにん》見込之通《みこみのとほり》、鵜島御林《うのしまおはやし》外《ほか》一ヶ|所《しよ》え新規御臺場《しんきおだいば》取建《とりたて》、大銃《おほづゝ》御備付《おんそなへつけ》、警衞之義《けいゑいのぎ》は、是迄《これまで》大久保加賀守《おほくぼかゞのかみ》(小田原城主)[#「(小田原城主)」は1段階小さな文字]え伊豆國《いづのくに》海岸《かいがん》人數出《にんずいだし》|被[#二]仰付[#一]候得《おほせつけられさふらえ》ども、小田原《をだはら》より下田迄《しもだまで》、嶮岨難場之海岸《けんそなんばのかいがん》貮拾五|里程《りほど》|有[#レ]之《これあり》、急速之間《きふそくのま》に合兼《あひかね》、水野出羽守《みづのではのかみ》、太田攝津守《おほたせつつのかみ》は、銘々《めい/\》五|里程之場所《りほどのばしよ》に陣屋《ぢんや》|有[#レ]之《これあり》、其餘《そのよ》一二|里之間《りのあひだ》にも領分《りやうぶん》|有[#レ]之候間《これありさふらふあひだ》、此度《このたび》改而《あらためて》右兩人《みぎりやうにん》え、下田《しもだ》並《ならびに》伊豆海岸之御固《いづかいがんのおかため》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、夫々《それ/″\》人數等《にんずとう》備置候樣《そなへおきさふらふやう》|被[#二]仰渡[#一]《おほせわたされ》|可[#レ]然哉《しかるべきやに》|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
  戌《いぬ》八月(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》く彼等《かれら》は巡視《じゆんし》の結果《けつくわ》として、下田湊《しもだみなと》を浦賀奉行《うらがぶぎやう》支配《しはい》から、江川太郎左衞門《えがはたろざゑもん》の手《て》に移《うつ》し、而《しか》して其《そ》の伊豆海岸警衞《いづかいがんけいゑい》をば、大久保加賀守《おほくぼかゞのかみ》より、水野出羽守《みづのではのかみ》、太田攝津守《おほたせつつのかみ》に移《うつ》す※[#こと、90-12]を建議《けんぎ》した。

[#5字下げ][#中見出し]【二〇】下田防備に關する江川の意見書[#中見出し終わり]

伊豆下田《いづしもだ》の防備《ばうび》に就《つい》て、前掲《ぜんけい》の通《とほ》り巡視者《じゆんししや》の復命書《ふくめいしよ》〔參照 一九〕[#「〔參照 一九〕」は1段階小さな文字]が、專《もつぱ》ら江川太郎左衞門《えがはたろざゑもん》の意見書《いけんしよ》に原《もとづ》きたる※[#こと、91-3]は、明記《めいき》せられてゐる。されば今《い》ま茲《こゝ》に江川《えがは》の意見書《いけんしよ》を採録《さいろく》するも、決《けつ》して不急《ふきふ》の業《わざ》ではあるまい。
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私《わたくし》御代官所《おだいくわんしよ》豆州《づしう》下田湊《しもだみなと》海防御備向《かいばうおんそなへむき》、私《わたくし》存寄之趣《ぞんじよりのおもむき》|可[#二]申上[#一]旨《まをしあぐべきむね》|奉[#レ]得[#二]其意[#一]《そのいをえたてまつり》、勘考仕候趣《かんかうつかまつりさふらふおもむき》左《さ》に申上候《まをしあげさふらふ》。
伊豆國之義《いづのくにのぎ》、三|面《めん》海《うみ》にて、只《たゞ》一|面而巳《めんのみ》地續之處《ぢつゞきのところ》、山坂《やまざか》嶮岨《けんそ》にて、武器類《ぶきるゐ》持運等《もちはこびとう》甚《はなはだ》差支候《さしつかへさふらふ》地形《ちけい》に御座候間《ござさふらふあひだ》、萬《まん》一|異人共《いじんども》上陸仕《じやうりくつかまつり》、砦樣《とりでやう》のものを築候《きづきさふら》へば、却《かへつて》嶮岨地《けんそち》彼等《かれら》助《たすけ》と相成《あひなり》、追拂《おひはら》ひ候事《さふらふこと》も手重《ておも》に|可[#二]相成[#一]《あひなるべく》、先輩《せんぱい》既《すでに》大島《おほしま》を懸念仕候義《けねんつかまつりさふらふぎ》も|有[#レ]之哉《これあるや》に候得共《さふらえども》、中々以《なか/\もつ》て大島《おほしま》と|比較可[#レ]仕《ひかくつかまつるべき》譯合《わけあひ》に|無[#レ]之《これなく》。下田邊之地《しもだへんのち》を全《まつた》く彼等《かれら》が足溜《あしだまり》と仕候《つかまつりさふら》はゞ、宜湊《よろしきみなと》も|有[#レ]之《これあり》、旁《かた/″\》誠《まこと》に以《もつ》て御大切之事《ごたいせつのこと》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
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此《こ》れは先《ま》づ下田防備《しもだばうび》の、尤《もつと》も急須《きうしゆ》なる所以《ゆゑん》を申《まを》したのだ。
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凡《およそ》異人共《いじんども》上陸候地《じやうりくさふらふち》永《ながく》滯留仕候心得《たいりゆうつかまつりさふらふこゝろえ》に候《さふら》へば、速《すみやか》に砦樣《とりでやう》のものを築立候義《きづきたてさふらふぎ》、彼國之振合《かのくにのふりあひ》に|有[#レ]之《これあり》、大小《だいせう》に寄《より》、人數《にんず》多少《たせう》も候得共《さふらえども》、先《ま》づ四百|人程《にんほど》立籠候《たてこもりさふらふ》。砦《とりで》は其《その》四百|人《にん》を用《もちひ》、纔《わづか》四|日之内《かのうち》に築立《きづきたて》出來仕候《しゆつたいつかまつりさふらふ》。軍船之義《いくさぶねのぎ》は、モリニー船抔《せんなど》は、大筒《おほづゝ》九拾|梃程《ちやうほど》も|相備有[#レ]之《あひそなへこれあり》。既《すでに》去《さ》る午年《うまどし》(弘化三年甲午)[#「(弘化三年甲午)」は1段階小さな文字]浦賀表《うらがおもて》渡來之亞米利加船抔《とらいのあめりかせんなど》、一|艘之乘組《さうののりくみ》八百|人《にん》も|有[#レ]之候由《これありさふらふよし》に付《つき》、彼是《かれこれ》と存合候《ぞんじあはせさふらへ》ば、心配懸念《しんぱいけねん》も仕候義《つかまつりさふらふぎ》に御座候《ござさふらふ》。
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以上《いじやう》所期《しよき》を一|讀《どく》したる石川《いしかは》、筒井等《つゝゐら》は、定《さだ》めて一|驚《きやう》を喫《きつ》したであらう。彼等《かれら》が『一體《いつたい》|不[#二]容易[#一]《よういならざる》趣意《しゆい》と相聞候《あひきこえさふらふ》』と云《い》うたのも、決《けつ》して無理《むり》はあるまい。
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且《かつ》西洋《せいやう》にて他國《たこく》え軍船《いくさぶね》を差出候《さしいだしさふらふ》には、大概《たいがい》限《かぎ》りも|有[#レ]之事《これあること》にて、西洋紀元《せいやうきげん》千七百七十五|年《ねん》イスパニヤ人[#「イスパニヤ人」に二重傍線]、アルギールス[#「アルギールス」に二重傍線]の領地《りやうち》を攻候時《せめさふらふとき》、軍勢《ぐんぜい》貮萬五千|人《にん》。(船舶數略)[#「(船舶數略)」は1段階小さな文字]千八百三十|年《ねん》フランス[#「フランス」に傍線]人《じん》同樣《どうやう》の領地《りやうち》を攻候節《せめさふらふせつ》、軍勢《ぐんぜい》四|萬人《まんにん》。(船數略)[#「(船數略)」は1段階小さな文字]右《みぎ》はカルテン[#「カルテン」に傍線]と申候《まをしさふらふ》西洋人《せいやうじん》著述之書中《ちよじゆつのしよちゆう》に、聢《しか》と|認有[#レ]之候《したゝめこれありさふらふ》を勘考仕候得《かんかうつかまつりさふらえ》ば、十|萬《まん》二十|萬抔《まんなど》申《まをす》軍勢《ぐんせい》差出候義《さしいだしさふらふぎ》は、|無[#レ]之《これなく》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。|乍[#レ]去《さりながら》軍船《いくさぶね》差向候《さしむけさふらふ》次第《しだい》に至候《いたりさふらふ》は、前文之振合《ぜんぶんのふりあひ》に見合候得《みあはせさふらえ》ば、二三|萬前後之《まんぜんごの》人數《にんず》は|差出可[#レ]申《さしいだしまをすべく》。然《しか》る上《うへ》は纔之《わづかの》人數《にんず》にては、寡衆《くわしゆう》の力《ちから》も違候間《ちがひさふらふあひだ》、防禦《ばうぎよに》|可[#二]心屆[#一]《こゝろとゞくべき》譯《わけ》|無[#二]御座[#一]候《ござなくさふらふ》。且《かつ》は前條《ぜんでう》申上候《まをしあげさふらふ》次第《しだい》をも辨罷在候上《わきまへまかりありさふらふうへ》は、御手輕《おてがる》にて|可[#レ]然《しかるべく》とは何分《なにぶん》|難[#二]申上[#一]《まをしあげがたく》、一|體《たい》海防備向之義《かいばうそなへむきのぎ》は、私《わたくし》存寄之趣《ぞんじよりのおもむき》、去《さる》酉《とり》七月|中《ちゆう》(嘉永二年己酉)[#「(嘉永二年己酉)」は1段階小さな文字]松平河内守殿《まつだひらかはちのかみどの》へ差出置候《さしいだしおきさふらふ》書面之通《しよめんのとほりに》御座候間《ござさふらふあひだ》、容易之義《よういのぎ》にて、御備向《おんそなへむき》全《まつた》く|相立可[#レ]申《あひたちまをすべく》とは|難[#二]申上[#一]《まをしあげがたく》、聊之御備向《いさゝかのおんそなへむき》にては、迚《とて》も防禦《ばうぎよ》|行屆不[#レ]申《ゆきとゞきまをさず》、御入用《ごにふよう》相掛《あひかゝ》り候丈之《さふらふだけの》御不益《ごふえき》と|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。併《しかし》當時之《たうじの》姿《すがた》にても|難[#レ]被[#二]差置[#一]《さしおかれがたく》、御手輕《おてがる》との御趣意《ごしゆい》に候上《さふらふうへ》は、誠《まこと》に以《もつ》て|無[#レ]據《よんどころなき》次第《しだい》に付《つき》、|可[#レ]然《しかるべき》大名《だいみやう》え|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、御固人數《おかためにんず》下田町邊《しもだまちへん》定詰《ぢやうづめ》に|被[#二]差置[#一]《さしおかれ》、專《もつぱ》ら要所《えうしよ》四五ヶ|所程《しよほど》も、御臺場《おだいば》御取建《おんとりたて》、夫々《それ/″\》御筒《おんつゝ》配等《くばりとう》|有[#レ]之《これあり》、其餘《そのよ》豆駿州《づすんしう》御料所《ごれうしよ》村々《むら/\》へ、農兵《のうへい》仕立方《したてかた》|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふら》はゞ、可《か》なり御趣意《ごしゆい》も模通《もつう》|可[#レ]申哉《まをすべきか》。右《みぎ》農兵之義《のうへいのぎ》に付《つい》ては、去《さる》酉《とり》五|月中《ぐわつちゆう》、差出置候《さしいだしおきさふらふ》書面之趣《しよめんのおもむき》も|有[#レ]之《これあり》、其他《そのた》猶《なほ》存付之趣《ぞんじつきのおもむき》も有[#レ]之候處《これありさふらふところ》、事《こと》永《ながき》に付《つき》、御尋《おたづね》も御座候《ござさふら》はゞ、別段《べつだん》申上候樣《まをしあげさふらふやう》|可[#レ]仕候《つかまつるべくさふらふ》。
偖《さて》御臺場《おだいば》並《ならびに》御筒配等之義《おんつゝくばりとうのぎ》、差當《さしあたり》り先《まづ》二三ヶ|所《しよ》も御取建《おんとりたて》|有[#レ]之《これあり》、餘《よ》は一|概《がい》に|無[#レ]之《これなく》、年々《ねん/\》御入用辻《ごにふようつぢ》|御取極被[#レ]置《おとりきめおかれ》、追々《おひ/\》に御取立之積《おとりたてのつもり》。尤《もつとも》取扱候者《とりあつかひさふらふものは》勿論《もちろん》、精々《せい/″\》心《こゝろ》を用《もち》ひ、夫々之《それ/″\の》所置仕《しよちつかまつり》、年數《ねんすう》を積候《つみさふら》はゞ、一と廉之《かどの》御備《おんそなへ》|相立可[#レ]申哉《あひたちまをすべきか》。
且《かつ》右《みぎ》御金《おんかね》出方之義《いだしかたのぎ》、伊豆國《いづのくに》御料所《ごれうしよ》、村々《むら/\》運上分《うんじやうぶん》一、其外《そのほか》都《すべ》て浮役之分《うきやくのぶん》御差向《おんさしむけ》に候得《さふらえ》ば、其國《そのくに》に而《て》其國之《そのくにの》御軍用《ごぐんよう》に相成《あひなり》、先《まづ》は當然之義《たうぜんのぎ》、且《かつ》は同《おな》じ御收納物《ごしうなふぶつ》ながらも、御高《おんたか》にも|響不[#レ]申《ひびきまをさず》、品《しな》に付《つき》|可[#レ]然哉《しかるべきか》とも|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
右之通御座候間《みぎのとほりにござさふらふあひだ》、先《ま》づ二三ヶ|處《しよ》へ御臺場《ごだいば》御取立《おとりたて》、大名《だいみやう》御固人數《おかためにんず》定詰《ぢやうづめ》|被[#二]仰付置[#一]候《おほせつけおかれさふら》はゞ、此上《このうへ》異船《いせん》渡來之《とらいの》節《せつ》、異人共《いじんども》其處《そこ》へ上陸《じやうりく》、海岸《かいがん》搜索等之《そうさくとうの》制方《せいしかた》には|罷成可[#レ]申《まかりなりまをすべく》|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。左《さ》も|無[#レ]之候《これなくさふら》へば、自然《しぜん》見掠《みかすめ》不敬之義《ふけいのぎ》も|可[#レ]有[#レ]之《これあるべく》、左候而《ささふらうて》は、第《だい》一|外國《ぐわいこく》へ|被[#レ]爲[#レ]對候事故《たいせられさふらふことゆゑ》、實《じつ》に御外聞《ごぐわいぶん》にも拘《かゝは》り、且《かつ》前條《ぜんでう》申上候《まをしあげさふらふ》懸念之《けねんの》廉《かど》も御座候間《ござさふらふあひだ》、甚以《はなはだもつて》恐入候《おそれいりさふらふ》をも|不[#レ]顧《かへりみず》、存候儘《ぞんじさふらふまゝ》認候義《したゝめさふらふぎ》に御座候《ござさふらふ》。(下略)[#「(下略)」は1段階小さな文字]
 戌《いぬ》六月(嘉永三年庚戌)[#「(嘉永三年庚戌)」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》の江川《えがは》の意見書《いけんしよ》が、石川《いしかは》、筒井等《つゝゐら》の復命書《ふくめいしよ》の核心《かくしん》となつた※[#こと、95-3]は、云《い》ふ迄《まで》もなかつた。されどそれが具體的《ぐたいてき》の事實《じじつ》として、幾許《いくばく》實行《じつかう》せられたる乎《か》。恐《おそ》らくは甚《はなは》だ覺束《おぼつか》なきものであつたであらう。

[#5字下げ][#中見出し]【二一】海防御備愚意(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

抑《そもそ》も徳川幕府《とくがはばくふ》は、江戸灣《えどわん》の防備《ばうび》に就《つい》て、全《まつた》く無關心《むくわんしん》ではなかつた。然《しか》も其《そ》の防備《ばうび》は寧《むし》ろ徳川幕府《とくがはばくふ》を守護《しゆご》する爲《た》めであつて、日本帝国《にほんていこく》を守護《しゆご》する爲《た》めではなかつた。徳川氏《とくがはし》の中期迄《ちゆうきまで》は、外敵《ぐわいてき》の襲來《しふらい》などを氣《き》に掛《か》けたるものは―|熊澤了介《くまざはれうすけ》の如《ごと》き、極《きは》めて僅少《きんせう》の人《ひと》を除《のぞ》き―|殆《ほと》んど無《な》かつた。されば將軍《しやうぐん》が日光參詣《につくわうさんけい》の留守中《るすちゆう》、豆相《づさう》の要衝《えうしよう》に、特《とく》に守備兵《しゆびへい》を、臨時《りんじ》措《お》きたるが如《ごと》きも、決《けつ》して外患《ぐわいくわん》の爲《た》めでなく、内憂《ないいう》の爲《た》めであつた。云《い》はゞ西國諸大名《さいこくしよだいみやう》の攻《せ》め上《のぼ》るを、豫防《よばう》する爲《た》めであつた。
されど時代《じだい》は變化《へんくわ》した。明和《めいわ》、安永《あんえい》、將軍《しやうぐん》家治《いへはる》の時代《じだい》に至《いた》りて、日本《にほん》と海外諸國《かいぐわいしよこく》との間《あひだ》に、そろ/\甚《はなは》だ淡《あは》く、且《か》つ薄《うす》くはあつたが、干係《かんけい》が生《しやう》ぜんとする徴候《ちようこう》を來《きた》した。更《さ》らに將軍《しやうぐん》家齊《いへなり》の天明《てんめい》、寛政時代《くわんせいじだい》となりては、其影《そのかげ》が聊《いさゝ》か濃厚《のうこう》ならんとした。此《こゝ》に於《おい》て當時《たうじ》の賢相《けんしやう》松平定信《まつだひらさだのぶ》の如《ごと》きは、其憂《そのうれひ》を未萌《みほう》に防《ふせ》がんとして、それ/″\考慮《かうりよ》する所《ところ》があつた。而《しか》して亦《ま》た自《みづ》から實地《じつち》を蹈査《たうさ》して、其《そ》の意見《いけん》を具申《ぐしん》し、且《か》つ群僚《ぐんれう》に諭《さと》す所《ところ》があつた。〔參照 松平定信時代、五六。幕府分解接近時代、一三、一四。幕府實力失墜時代、六三〕[#「〔參照 松平定信時代、五六。幕府分解接近時代、一三、一四。幕府實力失墜時代、六三〕」は1段階小さな文字]
凡《およ》そ幕府《ばくふ》の對外防備《たいぐわいばうび》なるものは、松平定信《まつだひらさだのぶ》に始《はじま》つたと云《い》ふも、過當《くわたう》ではあるまい。若《も》し理論的《りろんてき》の海防論者[#ルビの「海防論者」は底本では「防海論者」]《かいばうろんしや》の唱首《しやうしゆ》を、林子平《りんしへい》とせば、實際的《じつさいてき》の海防家《かいばうか》の嚆矢《かうし》は、松平定信《まつだひらさだのぶ》とせねばなるまい。吾人《ごじん》は幕府《ばくふ》が日本帝國政治《にほんていこくせいぢ》の實權者《じつけんしや》として、餘《あま》りに對外關係《たいぐわいくわんけい》に就《つい》て、無關心《むくわんしん》であつた※[#こと、97-1]を咎《とが》むると同時《どうじ》に、亦《ま》た此《こ》の幕府《ばくふ》に、此《かく》の如《ごと》き賢相《けんしやう》あつた※[#こと、97-2]を、記憶《きおく》せねばならぬ。
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寛政《くわんせい》四|年《ねん》子《ね》十|月《ぐわつ》廿|日《か》、|於[#二]新部屋[#一]《しんへやにおいて》、越中守殿《えつちゆうのかみどの》(松平定信)[#「(松平定信)」は1段階小さな文字]御直《おぢき》中川勘《なかがはかん》三|郎《らう》、石川《いしかは》六|郎右衞門《らうゑもん》え御下《おさげ》
[#1字下げ]但《ただし》御書取《おんかきとり》は、御同列方《ごどうれつがた》御評議書《ごひやうぎ》御認《おんしたゝめ》、直《ぢき》にて御手間取候《おてまとりさふらふ》に付《つき》、其儘《そのまゝ》御下《おさげ》と|御口上有[#レ]之《ごこうじやうこれあり》。
海邊御備《かいへんおんそなへ》愚意《ぐい》   越中守《ゑつちゆうのかみ》
強兵富國《きやうへいふこく》と申《まをす》は、常々《つね/″\》御仕成《おんしなり》に|有[#レ]之處《これあるところ》、富國《ふこく》と申候得《まをしさふらえ》ば、暖《あたゝ》かに著《き》、飽迄食《あくまでくら》ひ候樣《さふらふやうの》風俗《ふうぞく》になり候義《さふらふぎ》には|無[#レ]之《これなく》。右之風俗《みぎのふうぞく》に相成候《あひなりさふらふ》と、物毎《ものごと》ふんだんに|有[#レ]之樣成《これあるやうなる》は、則《すなは》[#ルビの「すなは」は底本では「すなはち」]ち貧國《ひんこく》にて候《さふらふ》。唯《たゞ》富國《ふこく》と申《まをす》は奢侈之風俗《しやたのふうぞく》相止《あひや》み、人々《ひと/″\》倹素《けんそ》を貴《たつと》び、分限相應《ぶんげんさうおう》に飢寒《きかん》をまぬかれ、其職々《そのしよく/\》を精出《せいいだ》し候《さふらふ》を、富國《ふこく》と申候《まをしさふらふ》。右之通《みぎのとほり》に候得《さふらえ》[#ルビの「さふらえ」は底本では「さふらふえ」]ば、おのづから、簾耻《れんち》の心《こゝろ》生《しやう》じ候間《さふらふあひだ》、義氣《ぎき》も引立《ひきたち》、臆病《おくびやう》も|無[#レ]之《これなく》と申《まをす》に至《いた》るべく候《さふらふ》。未年《ひつじどし》(天明七年丁未)[#「(天明七年丁未)」は1段階小さな文字]以來《いらい》追々《おひ/\》倹素《けんそ》、手堅《てがた》き風俗《ふうぞく》御引立《おんひきたて》にて、文武之藝等《ぶんぶのげいとう》|爲[#二]御勵[#一]有[#レ]之《おんはげませこれあら》ば、右之御指導《みぎのごしだう》にて候得共《さふらえども》、華奢風流《くわしやふうりう》に染《そ》み候者《さふらふもの》、俄《には》かに風儀《ふうぎ》を改候事故《あらためさふらふことゆゑ》、皆《みな》形《かた》ち而巳《のみ》にて、未《いまだ》其風《そのふう》に化《くわ》し候程《さふらふほど》には|無[#レ]之候《これなくさふらふ》。|乍[#レ]併《しかしながら》何《なに》とか心付見候《こゝろづきみさふら》[#ルビの「こゝろづきみさふら」は底本では「こゝろづきみさふらふ」]へば、六七|年以前《ねんいぜん》よりは、其《その》しるしも相見《あひみ》へ候哉《さふらふや》に候《さふらふ》。此上《このうへ》此間之御談事事《このあひだのごだんじごと》の※[#こと、98-4]く、藩翰之御固《はんかんのおかた》め、簡要《かんえう》に付《つき》、|勵有[#レ]之候《はげみこれありさふら》はゞ、又《また》少《すこ》しは憤發致《ふんぱついた》し候《さふらふ》ものも|可[#レ]有[#レ]之哉《これあるべくや》に候《さふらふ》。此所《このところ》は今《いま》三十|年《ねん》と|被[#二]思召[#一]候程《おぼしめされさふらふほど》に|無[#レ]之而《これなくて》は、目《め》に見《み》へ候程《さふらふほど》には|無[#レ]之哉《これなくや》に|奉[#レ]存候《ぞんじたてまつりさふらふ》。
世《よ》にして後《のち》仁《じん》ならんと申《まをす》、卅|年《ねん》も立候得《たちさふらえ》ば、惡敷《あしき》風儀之《ふうぎの》老人《らうじん》は失果《うせはて》、惡敷《あしき》風儀《ふうぎ》見習《みなら》ひ候《さふらふ》ものは老人《らうじん》となり、御改革後《ごかいかくご》生《うま》れ候者《さふらふもの》は、三十|歳《さい》となり。御改革之比《ごかいかくのころ》三十|歳《さい》のものは、六七十|歳《さい》に相成《あひなり》、自然《しぜん》に風儀《ふうぎ》改《あたたま》り候方《さふらふかた》に御座候《ござさふらふ》。然《しか》る處《ところ》蠻夷邊害之義《ばんいへんがいのぎ》は、いつ共《とも》期《き》し難《がた》き事《こと》に付《つき》、成丈《なるた》け、御備向《おんそなへむき》は、夫々《それ/″\》御手《おんて》を盡《つく》さるべき事《こと》に而《て》、蠻夷《ばんい》御備之義《おんそなへのぎ》、心付候事共《こゝろづきさふらふことども》申述候《まをしのべさふらふ》。長崎《ながさき》御備《おんそなへ》は、大概《たいがい》右之通《みぎのとほり》に而《て》宜《よろしく》|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。堺《さかひ》、山田《やまだ》、佐渡《さど》其外《そのほか》海濱之《かいひんの》御領所等《ごりやうしよとう》、御手當《おてあて》|有[#レ]之《これあり》|可[#レ]然義《しかるべくぎ》と存《ぞんぜ》られ候《さふらふ》。御代官《おだいくわん》手代等《てだいとう》に而《て》、御備向《おんそなへむき》は|難[#レ]成候間《なりがたくさふらふあひだ》、最寄《もより》萬|石以上之《ごくいじやうの》領分《りやうぶん》/\組合《くみあひ》、夫々《それ/″\》調置《しらべおき》、兼而《かねて》心得方《こゝろえかた》達置候方《たつしおきさふらふはう》と|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。
海邊《かいへん》遠國《ゑんごく》奉行所《ぶぎやうしよ》え、大筒《おほづつ》三四|梃宛《ちやうづつ》も相廻《あひまは》し置《おき》|可[#レ]然《しかるべく》|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。殊《ことに》佐州抔《さしうなど》は、離《はな》れ候《さふらふ》國柄《くにがら》、越後之《ゑちごの》渡海《とかい》も不自由《ふじいう》に候得《さふらえ》ば、猶又《なほまた》遠見番所《とほみばんしよ》、其外《そのほか》大筒等《おほづゝとう》も數多《かずおほ》く|有[#レ]之度《これありたく》|被[#レ]存候《ぞんぜられさふらふ》。
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松平定信《まつだひらさだのぶ》は、三十|年以後《ねんいご》、改革《かいかく》の効果《かうくわ》を見《み》んと云《い》うたが、然《しか》も彼《かれ》の改革《かいかく》の政治《せいぢ》は、彼《かれ》去《さ》りて後《のち》、追々《おひ/\》と其《そ》のよりを[#「よりを」に傍点]戻《もど》し、家齊時代《いへなりじだい》の中年以降《ちゆうねんいかう》は、殆《ほと》んど第《だい》二の田沼時代《たぬまじだい》を再現《さいげん》するに至《いた》つた。此《かく》の如《ごと》くして定信《さだのぶ》の豫期《よき》は、全《まつた》く裏切《うらぎ》られたと云《い》はねばならぬ。

 

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