第二章 孝明天皇の御學問
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[#4字下げ][#大見出し]第二章 孝明天皇の御學問[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五】學習院の建立[#中見出し終わり]

京都《きやうと》に學校《がくかう》を設《まを》け、公家《くげ》の教養《けうやう》に資《し》せんとしたることは、遠《とほ》くは家康時代《いへやすじだい》、林道春《はやしだうしゆん》の企《くはだ》てもあり、近《ちか》くは中井竹山《なかゐちくざん》の意見書《いけんしよ》や、高山彦《たかやまひこ》九|郎《らう》の運動等《うんどうとう》もあつた。〔參照 幕府分解接近時代、九三、九四〕[#「〔參照 幕府分解接近時代、九三、九四〕」は1段階小さな文字]然《しか》も遂《つ》ひに行《おこな》ふを果《はた》さなかつた。
然《しか》るに弘化《こうくわ》四|年《ねん》三|月《ぐわつ》九|日《か》に至《いた》りては、愈《いよい》よ學習所《がくしふじよ》成《な》り、開講式《かいかうしき》を行《おこな》うた。此《こ》れは直接《ちよくせつ》に其《そ》の効果《かうくわ》の、目《め》に見《み》える程《ほど》の事《こと》ではないが、皇權恢復《くわうけんくわいふく》の象徴《しやうちよう》として、且《か》つは皇權興隆《くわうけんこうりゆう》の素因《そいん》として、尤《もつと》も注意《ちゆうい》す可《べ》き事《こと》の一と云《い》はねばならぬ。今《い》ま其《そ》の縁起《えんぎ》に就《つい》て語《かた》れば、左《さ》の通《とほ》りだ。
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弘化《こうくわ》二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》|廿七|日《にち》甲申《かふしん》、午初刻《うまのしよこく》參内《さんだい》今日兩役可[#二]參集[#一]、兼日殿下有[#レ]命。未終刻《ひつじをはりのこく》、兩役《りやうやく》各《おの/\》|召[#二]御前[#一]《ごぜんにめし》、御小座敷|殿下《でんか》(鷹司政通〕[#「〔鷹司政通〕」は1段階小さな文字]|被[#レ]候《こうせられ》、同公《どうこう》|被[#二]仰傳[#一]《おほせつたへらる》。光格天皇《くわうかくてんわう》御在世中《ございせいちゆう》、毎度《まいど》堂上輩《だうじやうやから》孝悌《かうてい》忠信之儀《ちゆうしんのぎ》|御沙汰被[#レ]爲[#レ]在《ごさたあらせられ》[#「御沙汰被[#レ]爲[#レ]在」は底本では「御沙汰被爲[#レ]在」]、粗《ほゞ》|被[#二]心得[#一]候得共《こゝろえられさふらえども》、中《なか》には心得違《こゝろえちがひ》の者《もの》|有[#レ]之《これあり》、叡慮《えいりよ》|不[#レ]安候得共《やすからずさふらえども》、外《ほか》に|被[#レ]遊方《あそばされかた》も|不[#レ]被[#レ]爲[#レ]有候《あらせられずさふらふ》。大學寮《だいがくれう》御再興之思召《ごさいこうのおぼしめし》も|被[#レ]爲[#レ]有候得共《あらせられさふらえども》、大總《たいそう》にも|有[#レ]之《これあり》、|可[#レ]被[#レ]追[#二]先蹤[#一]《せんしようをおはるべき》禮儀《れいぎ》も有[#レ]之《これあり》、格別《かくべつ》叡慮《えいりよ》にて、|於[#二]開明門院舊地[#一]《かいめいもんゐんきうちにおいて》建春門外|被[#レ]設[#二]講堂以下[#一]《かうだういかまうけられ》、壯弱之輩《さうじやくのやから》、孝悌《かうてい》忠信《ちゆうしん》相心得候樣《あいこゝろえさふらふやう》、天氣《てんき》御治定之旨《ごちぢやうのむね》、各《おの/\》謹《つゝしみて》拜承了《はいしようをはり》|退[#二]御前[#一]《ごぜんをしりぞく》。|於[#二]八景間[#一]《はつけいのまにおいて》、今傳奏《いまでんそう》三|條大納言《でうだいなごん》實萬|學頭奉行《がくとうぶぎやう》勘解由小路前中納言《かげゆこうぢさきのちゆうなごん》資善|新宰相《しんさいしやう》東坊城總長|等《ら》|被[#二]仰下[#一]旨《おほせくださるゝむね》殿下《でんか》示給《しめしたまふ》。〔實久卿記〕[#「〔實久卿記〕」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》にて學習所《がくしふじよ》の成立《せいりつ》が、光格天皇《くわうかくてんわう》の思召《おぼしめし》の、延長《えんちやう》であつたことが判知《わか》る。乃《すなは》ち光格天皇《くわうかくてんわう》の思召《おぼしめし》が、任孝天皇《にんかうてんわう》の末期《ばつき》に於《おい》て、實行《じつかう》に取《と》り掛《かゝ》られ、孝明天皇《かうめいてんわう》の初期《しよき》に於《おい》て、愈《いよい》よ實行《じつかう》せらるゝに至《いた》つたのだ。
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四|年《ねん》(弘化)[#「(弘化)」は1段階小さな文字]三|月《ぐわつ》九|日《か》戊子《ぼし》、卯半刻《うのはんこく》(午前七時頃)[#「(午前七時頃)」は1段階小さな文字]|著[#二]狩衣奴袴[#一]《かりぎぬばかまをつけ》、|參[#二]于學習所[#一]《がくしふじよにさんす》。人々《ひと/″\》追々《おひ/\》參集《さんしふ》、辰刻許《たつのこくばかり》、關白殿《くわんぱくどの》(鷹司政通)[#「(鷹司政通)」は1段階小さな文字]御參《ござん》、役々《やく/\》相揃之後《あひそろふののち》、|被[#レ]始[#二]講談[#一]《かうだんをはじめらる》。|先[#レ]予《よにさきだち》爲政朝臣等《ためまさあそんら》誘引推參《いういんすゐさん》四十巳上之人、謂[#二]之推參[#一]。|之人々《のひと/″\》合十六人|聽衆《ちやうしう》合九三人|等《ら》|于[#二]講堂[#一]《かうだうに》、令[#二]著座[#一]《ちやくざせしむ》。悲藏人以下《ひくらうどいか》著座之事《ちやくざのこと》。予等《われら》|不[#二]商量[#一]《しやうりやうせず》、各《おの/\》著座之後《ちやくざののち》|有[#二]講談[#一]《かうだんあり》。先新宰相、次儒者五人|講談《かうだん》畢《をはり》、起座之時《きざのとき》、推參《すゐさん》、聽衆之人々《ちやうしゆうのひと/″\》、予《よ》爲政朝臣等《ためまさあそんら》商量之《しやうりやうの》相濟之後《あひすむののち》、|參[#二]于關白殿御側[#一]《くわんぱくどのおんかたはらにさんし》、|申[#二]恐悦[#一]《きようえつをまをす》。傳奏《でんそう》學頭《がくとう》へも同樣《どうやう》申入《まをしいる》。今日《こんにち》役々《やく/\》參勤交名、推參聽衆交名、當番並臨期不參之分肩書|等《ら》、有識《うしき》(讀書教授且學頭差支之節代勤の役)[#「(讀書教授且學頭差支之節代勤の役)」は1段階小さな文字]書認《かきしたゝめ》、傳奏《でんそう》、學頭等《がくとうら》參内《さんだい》、|屬[#二]于議奏[#一]《ぎそうにしよくして》、|被[#二]献上[#一]《けんじやうせらる》。今日《こんにち》開筵《かいえんに》、|自[#二]御内儀[#一]《ごないぎより》賜之由《たまはるのよし》、金《きん》二百|匹《ぴき》、學頭《がくとう》|被[#レ]渡[#レ]之《これをわたさる》。且又《かつまた》|賜[#二]御菓子[#一]《おんくわしたまはり》、|自[#二]關白殿[#一]《くわんぱくどのより》役々《やく/\》一|統《とう》へ、切飯《きりはん》、煮染等《にしめとう》|賜[#レ]之《これをたまふ》。出役《しゆつやく》辨當料《べんたうれう》銀三文目、御用掛取次、持[#二]參于座下[#一]|被[#レ]渡[#レ]之《これをわたされ》、萬事《ばんじ》相濟《あひすみ》、|於[#二]學習所[#一]《がくしふじよにおいて》|致[#二]衣體[#一]《いたいをあらため》、以[#二]狩衣[#一]爲[#二]衣冠[#一]。參内申《さんだいまをし》、今日《こんにち》學習所《がくしふじよ》|開筵被[#レ]爲[#レ]濟《かいえんすませられ》恐悦《きようえつ》、且《かつ》|自[#二]御内儀[#一]《ごないぎより》拜領物等之御禮《はいりやうものとうのおんれい》中略
 今日《こんにち》講書《かうしよ》並《ならびに》講師之事《かうしのこと》今日無[#二]講師[#一]
論語古義《ろんごこぎ》、尠解由小路前中納言《かげゆこうぢさきのちゆうなごん》|臨[#レ]期《きにのぞみて》不參《ふさん》
御注孝經《おんちゆうかうきやう》 東坊城宰相《ひがしばうじやうさいしやう》
大學《だいがく》 寺島丹後介《てらじまたんごのすけ》 源天祐
孟子《まうし》 牧善輔《まきぜんすけ》 藤原※[#「車+兒」、第4水準2-89-65]
中庸《ちゆうよう》 大澤雅《おほさはまさ》五|郎《らう》 藤原敬邁
書經《しよきやう》 中沼了《なかぬまれう》三 藤原之舜
詩經《しきやう》古註 岡田《をかだ》六|藏《ざう》 源龜〔菅葉〕[#「〔菅葉〕」は1段階小さな文字]
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此《これ》にて學習所《がくしふじよ》が如何《いか》なるものであつたかゞ、判知《わか》る。
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  學則之事《がくそくのこと》
|履[#二]聖人至道[#一]《せいじんのしだうをふみ》
|崇[#二]皇國之懿風[#一]《くわうこくのいふうをたつとび》
|不[#レ]讀[#二]聖經[#一]《せいけいをよまずして》何以《なにをもってか》|修[#レ]巳《みををさめん》
|不[#レ]通[#二]國典[#一]《こくてんにつうぜずして》何以《なにをもつてか》|養[#レ]正《せいをやしなはん》
明《あきらかに》|辨[#レ]之《これをべんじ》、務《つとめて》|行[#レ]之《これをおこなはん》
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以上《いじやう》の學則《がくそく》を見《み》れば、其《そ》の旨義《しぎ》に於《おい》て、先《ま》づ水戸《みと》の弘道館《こうだうくわん》と、大差《たいさ》なきを知《し》る可《べ》しだ。
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  學習院條目《がくしふゐんでうもく》
一 講釋《かうしやく》 月中《つきちゆう》凡《およそ》三|个度之度《かたびのこと》
 但讀書同日之事
一 講釋《かうしやく》 |自[#二]辰刻[#一]《たつのこくより》(午前八時)[#「(午前八時)」は1段階小さな文字]|限[#二]巳半[#一]《みのはんをかぎり》(午前十一時)[#「(午前十一時)」は1段階小さな文字]讀書《どくしよ》 |自[#二]午半[#一]《うまのはんより》(午後一時)[#「(午後一時)」は1段階小さな文字]|限[#レ]申《さるをかぎる》(午後四時)[#「(午後四時)」は1段階小さな文字]事《こと》。
一 聽衆《ちやうしゆう》 四十|歳以下《さいいか》十五|歳以上《さいいじやう》|可[#レ]依[#レ]請事《こひによるべきこと》。
 但於[#二]素讀者[#一]家督十歳以上可[#レ]依[#二]請事。
一 講習《かうしふ》 經書大化令《けいしよたいくわれい》、令義解《りやうのぎげ》、唐律等《たうりつとう》、追《おつて》|可[#レ]及[#二]讀書[#一]之事《どくしよにおよぶべきのこと》。
一 聽衆《ちやうしゆう》 專《もつぱら》|守[#二]五教[#一]《ごけをまもり》、|本[#二]修身[#一]《しうしんにもとづき》、|不[#三]必要[#二]文藝[#一]之事《かならずしもぶんげいをえうせざるのこと》。
一 院内《ゐんない》 飮酒《いんしゆ》雜段《ざつだん》禁止之事《きんしのこと》。
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以上《いじやう》にて、學習院《がくしふゐん》の概念《がいねん》が出《い》で來《きた》るであらう。固《もと》より此《こ》れが直《たゞ》ちに尊皇倒幕《そんわうたうばく》の苗圃《べうほ》となつたとは云《い》はぬが、然《しか》も公家《くげ》の人々《ひと/″\》が、社會的《しやくわいてき》に、政治的《せいぢてき》に、擡頭《たいとう》し來《きた》りたる機會《きくわい》ともなり、因縁《いんえん》ともなりたることは、決《けつ》して疑《うたがひ》を容《い》るゝ餘地《よち》がない。
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[#6字下げ]學習所令條
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天保十三壬寅年十月
  堂上方學習所創建之儀に付傳奏衆より口達
近年別[#(而)]堂上風儀不[#レ]宜、身柄不相應之遊興、卑俗之服著用、遊里[#(江)]忍行人々も有之歟之風聞、時々相聞候に付、被[#レ]加[#二]制止[#一]候得共、兎角不[#二]相止[#一]、不法之進退致[#二]増長[#一]關白殿にも誠に以被[#二]恐入[#一]、且暮に深御心配被[#レ]成候。往古者大學寮四姓學校も有[#レ]之候得共、當時廢絶、慶長十八年被[#二]仰出[#一]にも、御一公家學問と御座候に付、年來何卒學問致候樣被[#レ]成度御存念に候得共、堂上困窮之人々者授教師招請も難[#二]出來[#一]、東脩整兼候に付[#(而)]、不學文盲の輩多相成候次第、誠に以御心配被[#レ]成候に付[#(而)]者、學校抔と申候[#(而)]者、儀式作法之古禮も有[#レ]之候儀、御大總にも相成可[#レ]申、其上六藝抔は、堂上には先必用にも無[#レ]之候間、責而は學問所被[#二]仰付[#一]若輩之人々成共、月に兩三度計教授有[#レ]之、性行端正篤信に相成、往々は務向不進退も無之樣被[#レ]成度、全く習學之爲めに、清菅兩氏又は聊心掛候人を兩人計も被[#レ]選[#レ]之、專場所以下御預り、又外に六員計有職學生商量被[#二]仰付[#一]、京住篤實之儒業之師を被[#レ]召、素讀及講釋指南被[#二]仰付[#一]、御會釋物[#(并)]諸雜用且建物修復書籍等之料、何卒關東より被[#二]差進[#一]候樣被[#レ]遊度、大體堂上四十歳以下、十五歳以上、非藏人二百人計、[#(并)]御内勤之者にも諸司官人子弟外等にも追々御願候はゞ、人數に可[#レ]被[#レ]加候。右之次第故年々米金五六百石餘程被[#二]宛行[#一]候はゞ、精々質素に可[#レ]被[#二]仰付[#一]候得共、堂上地下諸生往々之御見込に[#(而)]者、三四百人計にも可[#二]相成[#一]哉、其中に[#(而)]隔年位に昇殿之人計成共、御殘用途に[#(而)]、上中下出精之御褒美聊成共被[#レ]下候得者、自然と風儀改革研學有[#レ]之、往々御役に相候候|半《ハン》人柄に相成可[#レ]申、餘り年次に御叱り之人計に[#(而)]者、上之思召も深く被[#二]恐入[#一]候。右場所は當時開明門院御舊地歟、又は外に御築地内に[#(而)]差支に不[#二]相成[#一]候場所に被[#二]取建[#一]候樣に被[#レ]成度、是等之儀其許[#(江)]宜申入旨關白殿被[#レ]命候事。〔徳川禁令考〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六】學習院に於ける賞賜の釋奠[#中見出し終わり]

學習院《がくしふゐん》は漸次《ぜんじ》に其功《そのこう》を擧《あ》げた。嘉永《かえい》元年《ぐわんねん》十二|月《ぐわつ》二十三|日《にち》には、造立以來《ざうりついらい》、始《はじ》めて課試褒章《くわしほうしやう》の事《こと》が行《おこな》はれ、それ/″\賞賜《しやうし》があつた。三|條實萬《でうさねかず》の所記《しよき》に曰《いは》く、
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八|月《ぐわつ》九|日《か》殿下《でんか》(鷹司政通)[#「(鷹司政通)」は1段階小さな文字]|被[#レ]下《くだされ》兩人へ學習所《がくしふじよ》造立之後《ざうりつののち》、|經[#二]三年[#一]候《さんねんをへさふらふ》。元來《ぐわんらい》三|年目《ねんめに》|被[#レ]行[#二]課試[#一]《くわしをおこなはれ》、御褒美《ごほうび》賜物等《たまものとう》|可[#レ]有[#レ]之《これあるべく》、兼而之御召也《かねてのおぼしめしなり》。|被[#レ]開[#二]講筵[#一]候後《かうえんをひらかれさふらふのち》は、|未[#レ]至[#二]三年[#一]候得共《いまださんねんにいたらずさふらえども》、造建以後《ざうけんいご》|及[#二]三年[#一]之間《さんねんにおよぶのあひだ》、先《まづ》今年《こんねん》課試褒賞《くわしほうしやう》|有[#レ]之候《これありさふら》はゞ|可[#レ]然歟《しかるべきか》。年分《ねんぶん》用途《ようと》餘殘《よざん》も出來《しゆつたい》|有[#レ]之間《これあるあひだ》、先《まづ》今年《こんねん》|可[#レ]被[#レ]行[#レ]之《これをおこなはるべく》、且《かつ》尠解由小路《かげゆこうぢ》老年之儀《らうねんのぎ》、|自[#二]最初[#一]《さいしよより》勘考之事《かんかうのこと》も|有[#レ]之候《これありさふらふ》。先《まづ》一|度《たび》|被[#レ]立[#レ]法候《はふをたてられさふら》はゞ、後々之規則《のち/\のきそく》にも相成候間《あひなりさふらふあひだ》、旁《かた/″\》先《まづ》一|度《たび》|可[#レ]被[#レ]行歟《おこなはるべきか》。右附武士《みぎつきぶし》へ|可[#レ]及[#二]内談[#一]《ないだんにおよぶべく》、若又《もしまた》所司代《しよしだい》へも|可[#レ]申事歟《まをすべきことか》。猶《なほ》|可[#レ]有[#二]勘考[#一]《かんかうあるべく》|可[#二]申含[#一]旨《まをしふくめべきのむね》|被[#レ]命《めいぜらる》。又《また》元來《ぐわんらい》和御會《わぎよくわい》も、一|兩度《りやうど》|被[#レ]加度《くはへられたく》、右《みぎ》は講讀師《かうどくし》兩人《りやうにん》|被[#レ]召候《めさるべくさふらふ》には|無[#レ]之《これなく》、一|人《にん》|可[#レ]被[#レ]召候《めさるべくさふらふ》。右程之用途《みぎほどのようと》は|可[#レ]有[#レ]之旨《これあるべきむね》|被[#レ]命《めいぜらる》。〔實萬公記〕[#「〔實萬公記〕」は1段階小さな文字]
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26−8とある。而《しか》して賞賜者《しやうししや》は參議《さんぎ》烏丸光政《からすまるみつまさ》、左衞門督《さゑもんのかみ》山科言成《やましなときなり》、六|條有容《でうありやす》、冷泉爲理《れいぜいためまさ》、野宮定功《のゝみやさだいさ》、四|辻公健《つぢきみたけ》は中課《ちゆうくわ》を、正親町《あふぎまち》三|條《でう》(嵯峨)[#「(嵯峨)」は1段階小さな文字]實愛《さねよし》、廣幡忠禮《ひろはたたゞひろ》、倉橋恭聰《くらはしやすさと》、鷲尾隆賢《わしをたかかた》、三|室戸雄光《むろとかつみつ》、長谷信篤《はせのぶあつ》、梅溪通善《うめたにみちよし》、東園基敬《ひがしぞのもとたか》、八|條隆聲《でうたかちか》、武者小路公香《むしやこうぢきみか》、土御門晴雄《つちみがどはるを》、河鰭公述《かはばたきみあきら》、萬里小路博房《までのこうぢひろふさ》、裏松俊政《うらまつとしまさ》は、下課《げくわ》を賜《たま》はつた。而《しか》して孝明天皇《かうめいてんわう》には、御學問所《ごがくもんじよ》に出御《しゆつぎよ》あらせられ、受賞者《じゆしやうしや》に謁見《えつけん》を賜《たま》はり、關白《くわんぱく》鷹司政通《たかつかさまさみち》より勅命《ちよくめい》を傳《つた》へた。今《い》ま受賞者《じゆしやうしや》の一|人《にん》、山科言成《やましなことなり》の記《き》する所《ところ》によれば、
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予《よ》|入[#二]杉戸[#一]《すぎどにいり》、|從[#二]御縁座敷[#一]《ごえんざしきより》、|參[#二]入下段[#一]《げだんにさんにふし》、膝行|當[#二]御眼路[#一]《ごがんろにあたり》一揖《いちいふして》著座《ちやくざす》。有容《ありやす》(六條)[#「(六條)」は1段階小さな文字]朝臣以下《あそんいか》相次《あひついで》|參[#二]進小御縁座敷[#一]《せうごえんざしきにさんしんす》、殿下《でんか》(鷹司)[#「(鷹司)」は1段階小さな文字]|令[#レ]候[#二]中段[#一]給《ちゆうだんにこうせしめたまひ》、端坐|令[#レ]伺[#二]天氣[#一]給《てんきをうかゞはしめたまふ》。天許之後《てんきよののち》、殿下《でんか》|被[#レ]仰曰《おほせられていはく》、
 各《おの/\》修身之心懸《しうしんのこゝろがけ》厚《あつく》、叡感《えいかん》思召《おぼしめす》、尚《なほ》|宜[#二]勵勤[#一]《よろしくはげみつとむべし》云々《うんぬん》。
各《おの/\》畏謹而《かしこみつゝしみて》拜承一排《はいしよういつぱいす》。|從[#二]下※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26][#一]《げらふより》起座《きざして》|退[#二]便所[#一]《べんしよにしりぞく》。次《つぎに》下課之輩《げくわのやから》參進《さんしん》云々《うんぬん》、仰詞《おほせことばに》、
 平常《へいじやう》心得方《こゝろえかた》宜《よろしく》、御滿足《ごまんぞく》、猶《なほ》|可[#レ]有[#二]諸事出精[#一]《しよじしゆつせいあるべし》云々《うんぬん》。
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而《しか》して同日《どうじつ》非藏人《ひくらうど》の内《うち》、平日《へいじつ》心得方《こゝろえかた》宜敷輩《よろしきやから》、藤島山城《ふぢしまやましろ》、松室阿波《まつむろあは》、鴨脚大和《いてうやまと》、鴨脚和泉《いてういづみ》、大賀備後《おほがびんご》、橋本土佐《はしもととさ》の六|人《にん》にも、新大納言《しんだいなごん》久我建通《くがたけみち》より、左《さ》の如《ごと》き褒詞《ほうし》を傳《つた》へた。
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平常《へいじやう》心得方《こゝろえかた》宜《よろしく》、關白殿《くわんぱくどの》御感悦候《ごかんえつにさふらふ》、猶《なほ》|可[#レ]有[#二]出精[#一]事《しゆつせいあるべきこと》。
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而《しか》して中課《ちうくわ》には二|兩《りやう》二|分《ぶ》、下課《げくわ》には一|兩《りやう》二|分《ぶ》、非藏人《ひくらうど》には金《きん》二百|疋《ぴき》を賜《たま》はつた。
翌《よく》二十五|日《にち》には權大納言《ごんだいなごん》廣幡基豐《ひろはたもととよ》を弘化廟《こうくわべう》(仁孝天皇御廟)[#「(仁孝天皇御廟)」は1段階小さな文字]に遣《つか》はして、學習院《がくしふゐん》課試褒章《くわしほうしやう》の状《じやう》を奉告《はうこく》せしめられた。
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學習院《がくしふゐん》造立巳來《ざうりついらい》三|箇年《かねん》、諸生之輩《しよせいのやから》、孝悌忠信之道《かうていちゆうしんのみち》、|雖[#レ]未[#二]純一[#一]《いまだじゆんいつならずといへども》、|擇[#二]行状有[#レ]常者[#一]《ぎやうじやうつねあるものをえらびて》[#ルビの「ぎやうじやうつねあるものをえらびて」は底本では「ぎやうじやうじやうつねあるものをえらびて」]、|立[#二]上中下三等[#一]《じやうちゆうげさんとうにたて》、去《さる》廿三|日《にち》|召[#二]于便殿[#一]《べんでんにめして》、|賜[#二]褒詞[#一]《ほうしをたまひ》、且《かつ》|於[#二]別席[#一]《べつせきにおいて》|賜[#レ]物《ものをたまふ》。是皆《これみな》先帝《せんていの》叡旨《えいし》、是日《このひ》|所[#二]遂行[#一]也《すゐかうするところなり》。聊《いさゝか》|爲[#レ]奉[#レ]安[#二]聖慮[#一]《せいりよをやすんじたてまつるため》、今日《こんにち》|差[#レ]使《つかひをつかはして》|齎[#二]幣帛[#一]《へいはくをもたらし》|奉[#二]告弘化廟前[#一]之旨《こうくわべうぜんにほうこくのむね》、|被[#レ]奉[#二]香花白銀三枚等[#一]《かうげはくぎんさんまいとうをさゝげらる》云々《うんぬん》。〔示羊記〕[#「〔示羊記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》くて嘉永《かえい》三|年《ねん》二|月《ぐわつ》四|日《か》には、丁祭《ていさい》を學習院《がくしふゐん》に行《おこな》ひ、元文時代《げんぶんじだい》に行《おこな》はせられたる論義《ろんぎ》を、再《ふたゝ》び行《おこな》ふ※[#こと、28-8]となつた。
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正月《しやうぐわつ》五|日《か》戊戌《ぼじゆつ》、來《きたる》二|月《ぐわつ》丁祭《ていさい》、|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》|被[#レ]行候《おこなはれさふらふ》。以後《いご》|依[#二]先帝叡慮[#一]《せんていのえいりよにより》、秋《あき》|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》|被[#レ]行《おこなはれ》、春《はる》|於[#二]禁中[#一]《きんちゆうにおいて》|被[#レ]行候《おこなはれさふらふ》。昨秋《さくしう》|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》|可[#レ]行之處《おこなふべきのところ》、關東《くわんとう》往反《わうへん》|不[#二]相濟[#一]《あひすまず》、舊臘《きうらふ》廿八|日《にち》濟來候故《すみきたりさふらふゆゑ》、|於[#二]當年[#一]《たうねんにおいて》は春《はる》|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》|被[#レ]行《おこなはれ》、秋《あき》|於[#二]禁中[#一]《きんちゆうにおいて》|被[#レ]行候旨《おこなはれさふらふむね》|被[#二]仰出[#一]《おほせいださる》。〔菅葉〕[#「〔菅葉〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
丁祭《ていさい》とは丁卯《ていはう》の祭《まつり》にて、釋奠《しやくてん》即《すなは》ち孔子祭《こうしさい》である。當日《たうじつ》の模樣《もやう》を、野宮定功《のみやまさだのり》の記録《きろく》に徴《ちよう》するに、
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二|月《ぐわつ》四|日《か》丁卯《ていはう》上丁也《じやうていなり》。今度《このたび》|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》|被[#レ]祭[#二]祀之[#一]《これをさいしせらる》、往古《わうこ》釋奠之儀《しやくてんのぎ》、聊《いさゝか》再興《さいこうする》者也《ものなり》。論義《ろんぎ》同《おなじく》今度《このたび》再興《さいこう》|被[#レ]行[#レ]之《これをおこなはる》。所望之輩《しよまうのやから》、聽聞《ちやうもん》|不[#レ]苦之由《くるしからざるのよし》、過日《くわじつ》菅黄門《くわんくわうもん》(菅原聰長)[#「(菅原聰長)」は1段階小さな文字]|被[#レ]語之間《かたらるゝのあひだ》、辰《たつ》(午前八時)[#「(午前八時)」は1段階小さな文字]前許《ぜんばかり》、|著[#二]衣冠奴袴[#一]《いくわんぬばかまをつけて》參入《さんにふ》、所望輩《しよまうのやから》三十|人《にん》參入《さんにふ》。辰半許《たつはんばかり》事始《ことはじむ》。執經《しつけい》菅中納言聰長|執讀《しつどく》清二位在賢|相對《あひたいして》|著[#二]高座[#一]《かうざにつく》。侍講《じかうの》人々《ひと/″\》前菅中納言《さきのくわんちゆうなごん》[#割り注]爲顯西[#割り注終わり]|清三位《せいさんみ》[#割り注]爲量東[#割り注終わり]|新菅三位《しんくわんさんみ》[#割り注]爲政西[#割り注終わり]|宣諭朝臣《のぶさとあそん》、在光朝臣《ありみつあそん》、長沼《ながぬま》、積成等《つみなりら》|在[#レ]座《ざにあり》。先《まづ》執讀《しつどく》|開[#二]書卷[#一]《しよくわんをひらき》初懷中|讀[#レ]之《これをよむ》尚書堯典|次《つぎに》執經《しつけい》|開[#二]書卷[#一]《しよくわんをひらき》|讀[#レ]之了《これをよみをはんぬ》。
長沼《ながぬま》起座《きざして》|入[#二]母屋[#一]《おもやにいる》|著[#レ]問者《とひをつくるもの》圓座《ゑんざして》|問[#レ]疑《うたがひをとふ》、執經《しつけい》|答[#レ]之了《これにこたへをはんぬ》。退去《たいきよ》|復[#レ]座《ざにふくす》。次《つぎに》在光朝臣《ありみつあそん》、次《つぎに》宣諭朝臣等《のぶさとあそんら》進出《すゝみいでて》|問[#レ]之《これをとふ》、執經《しつけい》一々《いち/\》|答[#レ]之《これにこたふ》。次《つぎに》執經《しつけい》、執讀《しつどく》同時《どうじ》|起[#二]高座[#一]《かうざにたち》代《かはりて》|復[#二]侍講座[#一]《じかうのざにふくす》。次《つぎに》菅中納言以下《くわんちゆうなごんいか》|爲[#レ]先《せんをなす》、下※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《げらふ》起座《きざ》、次《つぎに》雜掌《ざふしやう》二人《にゝん》|垂[#二]中央間簾[#一]《ちゆうあうのまのれんをたる》。
聖像《せいざう》並《ならびに》顏子《がんし》、曾子像等《そうじざうとう》三|軸《じく》、十|哲屏風《てつべうぶ》一|双等《さうとう》、|自[#レ]内《うちより》|被[#レ]渡[#レ]之《これをわたさる》。件《くだんの》聖像《せいざう》、顏曾像《がんそうざう》、先朝《せんてう》御代式人《みよのしきにん》|入[#二]叡覽[#一]《えいらんにいる》、古畫《こぐわ》殊《ことに》勝物也《すぐるものなり》。法眼《はふげん》琢磨筆《たくまのひつ》云々《うんぬん》。即《すなはち》|合[#二]得之[#一]《これをがふとくす》。其後《そののち》毎祭《まいさい》二|季《き》上丁《じやうてい》|被[#レ]祭[#レ]之《これをまつらる》云々《うんぬん》。此外《このほか》故宣光卿《このぶみつきやう》|所[#レ]畫之聖像《ゑがくところのせいざう》並《ならびに》銅像等《どうざうとう》|在[#二]禁中[#一]《きんちゆうにあり》、今日《こんにち》猶《なほ》|於[#二]御學問所[#一][#「於[#二]御學問所[#一]」は底本では「於[#二]御學所[#一]」]《ごがくもんじよにおいて》|如[#レ]例《れいのごとく》|被[#レ]祭[#レ]之《これをまつらる》。早旦《さうたん》清二位《せいにゐ》|奉[#二]仕之[#一]《これをほうしす》。(中略)[#「(中略)」は1段階小さな文字]予等《よら》|於[#二]西庇簾中[#一]《せいひれんちゆうにおいて》、聽聞《ちやうもんす》。巳《み》〔午前十時〕[#「〔午前十時〕」は1段階小さな文字]許《ばかり》事訖《ことをはんぬ》。午許《うまばかり》推參《すゐさん》、聽衆等《ちやうしうら》悉皆《しつかい》參集《さんしふ》、小時《せうじ》|可[#二]拜禮[#一]之由《はいれいすべきのよし》、學頭《がくとう》|催[#レ]之《これをうながす》。……未前許《ひつじぜんばかり》(午後二時前)|被[#レ]始[#二]儒者講義[#一]《じゆしやかうぎをはじめらる》、藤原敬邁《ふぢはらのたかまさ》、大澤雅五郎、|講[#二]學而篇[#一]《がくじへんをかうじ》、藤原之舜《ふぢはらゆきたか》中沼了三|講[#二]爲政篇[#一]《ゐせいへんをかうず》、予等《よら》|於[#二]西庇[#一]《せいひにおいて》|聽[#二]聞之[#一]《これをちやうもんす》、從[#二]禁中[#一]《きんちゆうより》|賜[#二]菓子[#一]《くわしをたまふ》|如[#二]例年[#一]《れいねんのごとし》殿下《でんか》|賜[#レ]粽《ちまきをたまふ》。右府公以下《うふこういか》攝家中《せつけちゆう》|賜[#二]饅頭[#一]《まんぢゆうをたまふ》。申《さる》(午後四時)[#「(午後四時)」は1段階小さな文字]前許《ぜんばかり》分散《ぶんさん》歸宅《きたくす》。
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く學習院《がくしふゐん》に於《おい》て、孔子祭《こうしさい》も行《おこな》はせられ、論義《ろんぎ》も復《ふく》せられ、追々《おひ/\》と復古《ふくこ》の業《げふ》が手《て》に著《つ》いて來《き》た。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]學習院丁祭
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嘉永三年二月四日丁卯、今日依[#二]丁祭[#一]、沐浴著[#二]衣冠奴袴[#一]參[#二]學習院[#一]。同時人々參上辰斜事始。推參拜聽衆等西庇在[#二]簾中[#一]。南庇東方二附武士巳下者祇候。西庇南方非藏人祇候、[#割り注]堂上聽聞所未也、以[#二]屏風[#一]隔[#レ]中、[#割り注終わり]丁祭御今日幣物白銀一枚[#割り注]推參一同組合、第一商量也、[#割り注終わり]献[#レ]之、聽衆一同白銀五枚進献云々。〔實麗卿記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【七】主上學事御獎勵[#中見出し終わり]

學習院《がくしふゐん》に於《お》ける、國書《こくしよ》の講義《かうぎ》は、嘉永《かえい》二|年《ねん》二|月《ぐわつ》廿三|日《にち》に行《おこな》はれ、同時《どうじ》に勅額《ちよくがく》を賜《たま》はつた。非藏人日記《ひくらうどにつき》に曰《いは》く、
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正月《しやうぐわつ》三十|日《にち》己亥《きがい》(嘉永二年)[#「(嘉永二年)」は1段階小さな文字]|從[#二]來月[#一]《らいげつより》、|於[#二]學習院[#一]《がくしふゐんにおいて》和書御會讀《わしよごくわいどく》、月中《つきちゆう》に一|會《くわい》|被[#レ]催《もよほさるゝ》に付《つき》、所望之人體《しよまうのじんたい》|有[#レ]之《これあら》ば、|可[#二]申出[#一]《まをしいでべく》、書籍《しよじやく》は令義解《りやうのぎげ》[#ルビの「りやうのぎげ」は底本では「りやうのぎけ」]、國史之内《こくしのうち》、猶《なほ》御治定之上《ごちぢやうのうへ》、日時等《にちじとう》も|可[#レ]被[#二]申渡[#一]《まをしわたさるべく》、所望之人體《しよまうのじんたい》は、來月《らいげつ》五|日迄《かまで》に名前《なまへを》|可[#二]申出[#一]《まをしいでべく》、久我殿《こがどの》、東坊城殿《ひがしばうじやうどの》列座《れつざ》にて|被[#二]申渡[#一]《まをしわたさる》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。斯《か》くて愈《いよい》よ二|月《ぐわつ》廿三|日《にち》に、令義解《りやうのぎげ》の講義《かうぎ》を開始《かいし》せられた。
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二|月《ぐわつ》廿三|日《にち》壬戌《じんじゆつ》卯半刻《うのはんこく》(午前七時)[#「(午前七時)」は1段階小さな文字]|參[#二]于學習院[#一]《がくしふゐんにさんす》。今日《こんにち》和書會讀《わしよくわいどく》初度也《しよどなり》。讀上所望之人《よみあげしよまうのひと》都合《つがふ》卅三|人也《にんなり》。今日《こんにち》卅一|人《にん》參集《さんしふ》二人不參|之内《のうち》、十|人《にん》次第《しだい》輪讀《りんどく》毎會傳奏、學頭等申合、當朝定[#二]其人[#一]|聽聞《ちやうもん》所望之人《しよまうのひと》十二|人之内《にんのうち》、今日《こんにち》一|人《にん》不參也《ふさんなり》。|於[#レ]詰者《つめにおいては》|如[#二]講筵[#一]《かうえんのごとし》。兩役《りやうやく》一|卿宛《きやうづゝ》、傳奏《でんそう》一人|學頭《がくとう》二人|有識《うしき》一人|非藏人《ひくらうど》二人|附武家《つきぶけ》一人|御用掛取次《ごようがかりとりつぎ》一人|賄頭《まかなひがしら》一人|勘使《かんし》一人|雜掌《ざふしやう》三人|等也《とうなり》。書籍《しよじやく》令義解《りやうのぎげ》始[#二]自序[#一]官位令悉了。讀使《どくし》小泉將曹《こいづみしやうそう》坂上康敬
右《みぎ》會讀訖《くわいどくをはり》、兩役《りやうやく》武家等《ぶけら》退散之後《たいさんののち》、雜掌《ざふしやう》三|人《にん》|講[#二]某書[#一]《ぼうしよをかうじ》、其後《そののち》當院掛《たうゐんがゝり》役々《やく/\》退散《たいさん》、|于[#レ]時《ときに》午刻《うまのこく》。歸宅後《きたくご》|著[#二]衣冠[#一]《いくわんをつけ》、更《さらに》|出[#レ]門《もんをいで》|參[#二]入于關白殿内覽[#一]《くわんぱくどのないらんにさんにふす》。今日《こんにち》御會《ぎよくわい》交名《かうめい》、次《ついで》參内《さんだい》|屬[#二]于議奏[#一]《ぎそうにしよくして》野宮中納言|獻上《けんじやうす》。〔菅葉〕[#「〔菅葉〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
尚《な》ほ勅額《ちよくがく》下賜《かし》の模樣《もやう》は、左記《さき》の通《とほ》りである。俊明卿記《としあききやうき》に曰《いは》く、
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正月《しやうぐわつ》廿七|日《にち》、|詣[#二]殿下[#一]《でんかにけいし》申次高橋|學習所《がくしふじよ》へ額《がく》|御寄附被[#レ]爲[#レ]在度《ごきふあらせられたく》、先帝《せんてい》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふら》へ共《ども》、|無[#二]其儀[#一]《そのぎなく》崩御候《ほうぎよさふらふ》。今度《このたび》|御寄附可[#レ]被[#レ]爲[#レ]在《ごきふあらせられべく》思召候《おぼしめしさふらふ》。尤《もつとも》御内儀《ごないぎ》にて|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》。若《もし》御修復《ごしうふく》に相成候共《あひなりさふらふとも》、學習所《がくしふじよ》御用度之内《ごようどのうち》にては|無[#レ]之《これなく》、御内儀《ごないぎ》にて|可[#レ]被[#二]仰付[#一]候《おほせつけるべくさふらふ》。尤《もつとも》差支《さしつかへ》は有間敷候《あるまじくさふら》へ共《ども》、彼等之御預之事故《かれらのおんあづかりのことゆゑ》、一|應《おう》附武士《つきぶし》へ|及[#二]尋問[#一]候樣《じんもんにおよびさふらふやう》|被[#レ]命《めいぜらる》。
廿九|日《にち》、學習所《がくしふじよ》へ御寄付御額之儀《ごきふのおんがくのぎ》、附武士《つきぶし》へ|及[#二]尋問[#一]候處《じんもんにおよびさふらふところ》、何之差支《なんのさしつかへ》も|無[#レ]之《これなく》、取調候迄《とりしらべさふらふまで》にも|不[#レ]及旨《およばざるむね》答候由《こたへさふらふよし》申入候《まをしいれさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く禁裡附武士《きんりづきぶし》の承認《しようにん》を經《へ》て、右大臣《うだいじん》近衞忠※[#「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58]《このゑたゞひろ》に執筆《しつぴつ》せしめ、御寄付《ごきふ》と相成《あひな》つた。菅葉《くわんえふ》に曰《いは》く、
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四|月《ぐわつ》三|日《か》辛丑《しんちう》、當番《たうばん》四|番詰之處《ばんづめのところ》、學習院額《がくしふゐんがく》右大臣殿《うだいじんどの》忠※[#「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58]公|御執筆《ごしつぴつ》御出來候間《ごしゆつたいさふらふあひだ》、今日《こんにち》未刻《ひつじのこく》(午後二時)[#「(午後二時)」は1段階小さな文字]御献上之筈《ごけんじやうのはず》、|依[#レ]之《これによりて》其刻限迄《そのこくげんまで》に|可[#二]參朝[#一]旨《さんてうすべきむね》、源大納言《みなもとだいなごん》|被[#レ]示《しめさる》。中略|次《ついで》參内《さんだい》、|自[#二]右府公威《うふこうより》|以[#二]諸大夫[#一]《しよたいふをもつて》|被[#二]寄附[#一]《きふせらるゝ》額字樣《がくじやう》粗《ほゞ》|如[#レ]此《かくのごとし》。學習院《がくしふゐん》原書行書體|源大納言《みなもとだいなごん》、菅中納言《くわんちゆうなごん》、予等《よら》點檢之後《てんけんののち》、予《よ》|參[#二]于關白殿内覽[#一]《くわんぱくどのないらんにさんす》、……仍《すなはち》歸參《きさん》|囑[#二]于議奏[#一]《ぎそうにしよくして》額字《がくじ》天覽《てんらん》……額面《がくめん》天覽訖《てんらんをはり》返給《かへしたまふ》。七|日《か》御治定《ごちぢやう》〔下畧〕[#「〔下畧〕」は1段階小さな文字]
七|日《か》乙巳《いつし》、時々《じゝ》雨《あめ》下《ふる》、辰半刻《たつはんこく》(午前九時)[#「(午前九時)」は1段階小さな文字]|參[#二]于學習院[#一]《がくしふゐんにさんし》、源大納言亦被[#レ]參、菅中納言不參|及[#二]巳刻[#一]《みのこくにおよび》吉刻|命[#二]御用掛取次[#一]《ごようがかりとりつぎにめいじ》、|使[#二]職人掛[#一][#レ]額《しよくにんをしてがくをかゝげしめ》、講堂南面|點檢之後《てんけんののち》退散《たいさん》、歸路《きろ》|參[#二]于關白殿[#一]《くわんぱくどのにさんし》|以[#二]諸大夫[#一]《しよたいふをもつて》|申[#二]事之由[#一]《ことのよしをまをす》。禁中《きんちゆう》へは源大納言《みなもとだいなごん》|被[#二]言上[#一]筈也《ごんじやうせらるゝはずなり》。
[#ここで字下げ終わり]
尚《な》ほ至尊《しそん》にも亦《ま》た嘉永《かえい》二|年《ねん》五|月《ぐわつ》二十|日《か》丙辰《へいしん》から、近臣等《きんしんら》を午前《ごぜん》に召《め》して、國書《こくしよ》、漢籍等《かんせきとう》を輪講《りんかう》せしめ、爾後《じご》辰巳《たつみ》の日《ひ》を以《もつ》て例《れい》とし給《たま》うた。〔孝明天皇紀〕[#「〔孝明天皇紀〕」は1段階小さな文字]實萬公記《さねかずこうき》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
五|月《ぐわつ》九|日《か》乙巳《いつし》、午刻過《うまのこくすぎ》參内《さんだい》、辰巳日《たつみのひ》、|和漢御會讀可[#レ]被[#レ]爲[#レ]在《わかんごくわいどくあらせらるべく》、先年《せんねん》出仕之人《しゆつしのひと》|可[#二]參上[#一]《さんじやうすべく》|被[#二]仰出[#一]由也《おほせいださるゝよしなり》。辰之日《たつのひ》和《わ》。漢の誤|巳之日《みのひ》漢《かん》和の誤|近習《きんじふ》は當番《たうばん》にて五|人宛《にんづゝ》被[#レ]定由也《さだめらるゝよしなり》。兩役《りやうやく》は此員外《このゐんぐわい》云々《うんぬん》。
二十|日《か》丙辰《へいしん》、今日《こんにち》十八|史略《しりやく》御會讀《ごくわいどく》御始也《おんはじめなり》。
[#ここで字下げ終わり]
又《ま》た實久卿記《さねひさきやうき》によれば、
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五|月《ぐわつ》廿一|日《にち》丁巳《ていし》、終刻《しゆうこく》|召[#二]御前[#一]《ごぜんにめし》、江家次第《えかしだい》|有[#二]御會讀[#一]《ごくわいどくあり》、予《よ》|候[#レ]之《これにこうし》近臣當直之内五人出座|了《をはつて》退出《たいしつ》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《これ》にて十八|史略《しりやく》や、江家次第《えかしだい》の漢籍《かんせき》、和書《わしよ》の御前輪講《ごぜんりんかう》の行《おこな》はれた※[#こと、34-13]が判知《わか》る。
尚《な》ほ此事《このこと》は爾來《じらい》引《ひ》き繼《つゞ》ぎ行《おこな》はせ給《たま》ふ※[#こと、35-2]と覺《おぼ》え、言成卿記《ときなりきやうき》によれば、
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七|月《ぐわつ》十一|日《にち》(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]文《くわいぶん》到來《たうらい》。
漢御會《かんぎよくわい》十八|史略《しりやく》|被[#レ]爲[#レ]濟候《すませられさふらふ》に付《つき》、貞歡政要《ぢやうぐわんせいえう》|被[#二]聞食[#一]候旨《きこしめされさふらふむね》、野宮中納言《のみやちゆうなごん》|被[#二]申渡[#一]候《まをしわたされさふらふ》、仍《よつて》申入候也《まをしいれさふらふなり》。
[#ここで字下げ終わり]
とあり。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
五|月《ぐわつ》(嘉永四年)[#「(嘉永四年)」は1段階小さな文字]二十三|日《にち》、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]文《くわいぶん》到來《たうらい》。
漢御會《くわんぎよくわい》貞歡政要《ぢやうぐわんせいえう》|被[#レ]爲[#レ]濟候後《すまさせられさふらふのち》、史記《しき》|被[#二]聞食[#一]候旨《きこしめされさふらふむね》云々《うんぬん》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。又《ま》た
[#ここから1字下げ]
九|月《ぐわつ》(嘉永四年)[#「(嘉永四年)」は1段階小さな文字]八|日《か》、和御會《わぎよくわい》未刻過《ひつじのこくすぎ》|召[#二]御前[#一]《ごぜんにめし》、主上、新大納言、萬里小路中納言、予、野宮中將、藏人右小辨烏丸大夫|輪讀了《りんどくをはり》、申刻《さるのこく》(午後四時)[#「(午後四時)」は1段階小さな文字]許《ばかり》|退[#二]御前[#一]《ごぜんをしりぞく》、江家次第《えかしだい》悉《こと/″\く》二十卷|被[#レ]爲[#レ]濟訖《すませられをはんぬ》。十三|日《にち》(嘉永四年九月)[#「(嘉永四年九月)」は1段階小さな文字]和御會《わぎよくわい》、讀上御人數《よみあげごにんず》當番之輩《たうばんのやから》、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]文《くわいぶん》到來《たうらい》。|自[#二]明日[#一]《みやうにちより》和御會《わぎよくわい》日本書紀《にほんしよき》自[#二]神武紀[#一]|被[#レ]爲[#レ]在候旨《あらせられさふらふむね》、廣橋大納言《ひろはしだいなごん》|被[#二]申渡[#一]候《まをしわたされさふらふ》、仍《よつて》申入候也《まをしいれさふらふなり》[#ルビの「まをしいれさふらふなり」は底本では「まをしいれさふらふ」]。〔言成卿記〕[#「〔言成卿記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とあるを見《み》れば、單《たん》に公家《くげ》一|同《どう》の講學《かうがく》を、御獎勵《ごしやうれい》あらせ給《たま》ふのみならず、主上《しゆじやう》にも餘程《よほど》御勉學《ごべんがく》あらせられた※[#こと、36-3]が、拜察《はいさつ》せらるゝ。

[#5字下げ][#中見出し]【八】朝廷と外事[#中見出し終わり]

朝廷《てうてい》の外艱《ぐわいかん》に對《たい》せらるゝ憂慮《いうりよ》は、日《ひ》に深切《しんせつ》を加《くは》へ來《きた》つた。曩《さ》きには幕府《ばくふ》に向《むかつ》て、其《そ》の異國船《いこくせん》の頻繁《ひんぱん》なる來航《らいかう》を、それ/″\善處《ぜんしよ》す可《べ》く、御沙汰書《ごさたしよ》を下《くだ》し給《たま》うた。〔參照 四〕[#「〔參照 四〕」は1段階小さな文字]而《しか》して嘉永《かえい》三|年《ねん》四|月《ぐわつ》八|日《か》に於《おい》ては、七|社《しや》七|寺《じ》に仰《おほ》せて、國家安寧《こくかあんねい》を祈《いの》らせ、更《さ》らに尋《かさ》ねて旨《むね》を幕府《ばくふ》に諭《さと》して、益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》警備《けいび》を嚴《げん》ならしめ給《たま》うた。
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四|月《ぐわつ》五|日《か》丁卯《ていほう》、廣橋《ひろはし》示送《しそうして》云《いふ》、殿下《でんか》|有[#下]可[#二]令[#レ]談給[#一]事[#上]之間《だんぜしめたまふべきことあるのあひだ》、兩役《りやうやく》午半刻《うまはんこく》|可[#二]參集[#一]《さんしふすべく》云々《うんぬん》。〔中略〕[#「〔中略〕」は1段階小さな文字]午刻前《うまのこくぜん》參内《さんだい》、追々《おひ/\》相役《あひやく》參集《さんしふ》。午半刻許《うまはんこくばかり》(午後一時)[#「(午後一時)」は1段階小さな文字]殿下《でんか》|令[#レ]參給《さんせしめたまふ》。先《まづ》當役《たうやく》各々《おの/\》|被[#レ]召[#二]八景間[#一]《はつけいのまにめされ》、|被[#レ]仰云《おほせられていはく》、今年《こんねん》年柄《としがら》|不[#レ]宜《よろしからずと》|有[#二]恐申者[#一]《おそれまをすものあり》、|雖[#レ]申[#下]不[#二]變異[#一]之旨[#上]《へんいあらざるのむねをまをすといへども》、蠻船《ばんせん》屡《しば/\》|見[#二]海上[#一]《かいじやうにあらはれ》、今年《こんねん》三|月《ぐわつ》又《また》|見[#二]東海[#一]《とうかいにあらはれ》、旁《かた/″\》世上《せじやう》|不[#二]靜謐[#一]之間《せいひつならざるのあひだ》、|可[#レ]有[#二]御祈[#一]乎之旨《おんいのりあるべきかのむね》思給《おぼしたまひ》、所意《しよい》|可[#二]申述[#一]《まをしのぶべく》云々《うんぬん》。殿下《でんか》御所意《ごしよい》|如[#レ]此之上《かくのごときのうへは》、|非[#下]可[#二]一定[#一]事[#上]之間《いつていすべきことにあらざるのあひだ》、各《おの/\》|無[#二]所意[#一]旨《しよいなきむね》|申[#レ]之了《これをまをしをはんぬ》。此後《こののち》|召[#二]武傳兩卿[#一]《ぶでんりやうきやうをめし》|被[#レ]尋[#二]所意[#一]歟《しよいをたづねらるゝか》。|參[#二]御前[#一]給後《ごぜんにさんしたまふののち》、|召[#二]當番[#一]《たうばんをめし》|被[#レ]仰云《おほせられていはく》、彌《いよ/\》|可[#レ]有[#二]御祈[#一]之間《おんいのりあるべきのあひだ》、御教書《みけうしよ》|可[#二]書試[#一]《かきこゝろむべし》云々《うんぬん》。各《おの/\》示談《じだん》|覽[#レ]之《これをみる》。又《また》有[#二]被[#レ]命旨等[#一]《めいぜらるるむねとうあり》、改《あらためて》|直[#レ]之《これをなほす》。|從[#二]來八日[#一]《きたるやうかより》一七|个日《かにち》、|於[#二]七社七个寺[#一]《しちしやしちかじにおいて》、|可[#下]抽[#二]丹誠[#一]勤行[#上]《たんせいぬきんでごんぎやうすべく》|被[#レ]仰《おほせらる》。御祈奉行《おいのりぶぎやう》藏人右少辨長順|了《をはる》。|及[#二]秉燭[#一]《へいしよくにおよび》各《おの/\》退出《たいしゆつ》。
|據[#二]于古法[#一]《こはふにより》、今年《こんねんの》暦面《れきめん》|有[#二]恐申者[#一]《おそれまをすものあり》、然《しかも》近年《きんねん》異船《いせん》|見[#二]海上[#一]《かいじやうにあらはれ》、今春《こんしゆん》三|月《ぐわつ》又《また》|見[#二]東海[#一]《とうかいにあらはれ》、防禦之備《ばうぎよのそなへ》、嚴重之由《げんぢゆうのよし》、|因[#レ]※[#「玄+玄」、37-10]《これにより》宸襟《しんきん》|不[#レ]穩《おだやかならず》、愈《いよ/\》萬民《ばんみん》安樂《あんらく》、寶祚長久《はうそちやうきうの》御祈《おんいのり》、|自[#二]來八日[#一]《きたるやうかより》一七|个日《かにち》、七|社《しや》七|个寺《かじ》|抽[#二]丹誠[#一]《たんせいをぬきんで》|可[#二]勤行[#一]之事《ごんぎやうすべきのこと》。〔示未記〕[#「〔示未記〕」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》にて如何《いか》に朝廷《てうてい》が、對外關係《たいぐわいくわんけい》に、焦慮《せうりよ》せられたるかを知《し》る可《べ》きであらう。然《しか》も同年《どうねん》十一|月《ぐわつ》廿二|日《にち》には、更《さ》らに左《さ》の如《ごと》く、所司代《しよしだい》へ達《たつ》せられた。俊明卿記《としあききやうき》に曰《いは》く、
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十一|月《ぐわつ》廿三|日《にち》辛亥《しんがい》(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]殿下《でんか》示給之旨《しめしたまふのむね》|有[#レ]之《これあり》、彼是《かれこれ》御示談《ごじだん》|被[#二]申入[#一]《まをしいれられ》、此書取《このかきとり》|以[#二]雜掌[#一]《ざふしやうをもつて》、昨日《さくじつ》所司代《しよしだい》へ|令[#レ]達《たつせしむ》。
異船之儀《いせんのぎ》、時々《じゝ》風聞《ふうぶん》|有[#レ]之候處《これありさふらふところ》、其後《そのご》靜謐之趣《せいひつのおもむき》相聞《あひきこえ》、御安心《ごあんしん》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》。海濱防禦之御手當《かいひんばうぎよのおてあて》、嚴重之由《げんぢゆうのよし》、|被[#二]聞食及[#一]《きこしめしおよばれ》、叡感《えいかん》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》。尤《もつとも》千萬里之波濤《せんまんりのはたう》を隔《へだて》、容易《ようい》に渡來《とらい》も|難[#二]相成[#一]儀《あひなりがたきぎ》と|被[#二]思召[#一]候得共《おぼしめされさふらえども》、自然《しぜん》日本輿地之内《にほんよちのうち》、島々《しま/″\》へも上陸候《じやうりくさふらふ》夷人《いじん》、萬《まん》一|有[#レ]之候《これありさふらう》ては、後患《こうくわん》御案《ごあん》じ|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》。勿論《もちろん》關東《くわんとう》御行屆《おんゆきとゞき》御如才《ごじよさい》|無[#レ]之御事《これなきおんこと》にて、御安心《ごあんしん》|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》御儀《おんぎ》に候《さふら》へども、猶々《なほ/\》天下泰平《てんかたいへい》、神州之瑕瑾《しんしうのかきん》|無[#レ]之《これなく》、庶民《しよみん》安堵之儀《あんどのぎ》、御沙汰共《ごさたども》、毎々《まい/\》關白殿《くわんぱくどの》|御伺被[#レ]成候《おんうかゞひなされさふらふ》に付《つき》、其段《そのだん》|無[#二]急度[#一]《きつとなく》|可[#二]申入置[#一]旨《まをしいれおくべきむね》|被[#レ]命候事《めいぜられさふらふこと》。
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尚《な》ほ如上《じよじやう》の御沙汰書《ごさたしよ》の、出《い》で來《きた》るに就《つい》ての事情《じじやう》は、左記《さき》によりて、尤《もつと》も明瞭《めいれう》に判知《わか》る。實萬公記《さねかずこうき》に曰《いは》く、
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十一|月《ぐわつ》十四|日《か》(嘉永三年)[#「(嘉永三年)」は1段階小さな文字]參内前《さんだいぜん》|詣[#二]殿下御許[#一]《でんかのおんもとにけいし》、|於[#二]梅殿[#一]《うめでんにおいて》|令[#二]面會[#一]給《めんくわいせしめたまふ》。内々《ない/\》|被[#レ]命儀《めいぜらるゝぎ》|有[#レ]之《これあり》。
近來《きんらい》度々《たび/\》風聞《ふうぶん》|有[#レ]之候《これありさふらふ》、異國船之事《いこくせんのこと》、當時《たうじ》|雖[#二]靜謐[#一]《せいひつといへども》、元來《ぐわんらい》夷族《いぞく》若々《もし/\》日本近海《にほんきんかい》の島々《しま/″\》に、住居等《ぢゆうきよとう》は|無[#レ]之哉《これなきか》。然時《しかるとき》は渡來之便《とらいのべん》|難[#二]防禦[#一]歟《ばうぎよしがたきか》。尤《もつとも》征夷將軍之御事《せいいしやうぐんのおんこと》、如才《じよさい》|無[#レ]之事《これなきのこと》と、御安心《ごあんしん》|被[#二]思召[#一]候得共《おぼしめされさふらえども》、餘《あま》り風聞《ふうぶん》も|有[#レ]之候《これありさふらふ》に付《つき》、御不安心《ごふあんしん》にも|被[#レ]爲[#レ]在候《あらせられさふらふ》。古《いにしへ》は諸番《しよばん》入込《いりこみ》も|有[#レ]之候得共《これありさふらえども》、東照宮《とうせうぐう》以來《いらい》|被[#レ]禁候《きんぜられさふらふ》深慮《しんりよ》御感悦之處《ごかんえつのところ》、萬《まん》一|近島《きんたう》に倚住《いぢゆう》|有[#レ]之候節《これありさふらふせつ》は、|不[#二]容易[#一]儀《よういならざるぎ》、神后御征伐之御趣意《じんぐうごせいばつのごしゆい》も|有[#レ]之候儀《これありさふらふぎ》、厚《あつく》勘考《かんかう》|有[#レ]之度《これありたく》。幸《さいはひ》老中《らうぢゆう》上京之事《じやうきやうのこと》も|有[#レ]之間《これあるあひだ》、内々《ない/\》|可[#レ]及[#二]談話[#一]《だんわにおよぶべく》、殿下命之趣《でんかのめいのおもむき》兩武士《りやうぶし》參内之砌《さんだいのみぎり》|可[#二]申入[#一]《まをしいれべく》思給《おぼしたまひ》、尚《なほ》|可[#二]勘考[#一]由《かんかうすべきよし》|被[#レ]命《めいぜらる》。然者《しかれば》書取《かきとり》|可[#レ]見之間《みるべくのあひだ》、文案《もんあん》是《これ》は儒家《じゆか》事《こと》東坊城《ひがしばうじやう》勘考《かんかう》|可[#二]談合[#一]《だんがふすべく》|被[#二]示命[#一]《しめいせらる》。殿下《でんか》も老中《らうぢゆう》謁給之間《えつたまふのあひだ》、一寸《ちやつと》|可[#レ]被[#二]垂命[#一]《すゐめいせらるべく》、猶《なほ》|從[#二]傳奏[#一]《でんそうより》委細《ゐさい》|可[#二]申入[#一]由《まをしいれべきよし》|可[#レ]被[#レ]命歟《めいぜらるべきか》。所司代《しよしだい》も不日《ふじつ》殿下《でんか》へ參入之間《さんにふのあひだ》、其節《そのせつ》|可[#レ]被[#二]命置[#一]旨也《めいじおかるべきむねなり》。|於[#二]此儀[#一]《このぎにおいては》、尤《もつとも》|所[#レ]希候旨《こひねがふところにさふらふむね》申入置了《まをしいれおきをはんぬ》。委細《ゐさい》|可[#レ]加[#二]勘考[#一]也《かんかうをくはふべきなり》。
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とある。此《かく》の如《ごと》く關白《くわんぱく》鷹司政通《たかつかさまさみち》が、外事《ぐわいじ》に就《つい》て掛念《けねん》したるは、恐《おそ》らくは其《そ》の姻戚《いんせき》たる、水戸齊昭《みとなりあき》からの刺戟《しげき》も、與《あづか》つて力《ちから》ある※[#こと、40-1]と思《おも》はる。又《ま》た夷族《いぞく》が日本近海《にほんきんかい》の島々《しま/″\》に、住居《ぢゆうきよ》云々《うんぬん》の事《こと》は、或《あるひ》は琉球《りうきう》に外人《ぐわいじん》の屡《しばし》ば往來《わうらい》したる事實《じじつ》を、傳聞《でんぶん》したるが爲《た》めではあるまい乎《か》と思《おも》はる。
何《いづ》れにしても朝廷《てうてい》の、外事《ぐわうじ》御憂慮《ごいうりよ》は、幕府《ばくふ》に對《たい》する御諭旨《ごゆし》となり、而《しか》して御諭旨《ごゆし》は一|轉《てん》して、幕政《ばくせい》に對《たい》する朝廷《てうてい》の御干渉《ごかんせう》となり、此《かく》の如《ごと》くして幕府《ばくふ》從來《じゆうらい》の制度《せいど》は、根本的《こんぽんてき》に破壞《はくわい》し去《さ》らるゝに至《いた》つた。惟《おも》ふに其《そ》の端《たん》一たび啓《ひら》けば、亦《ま》た如何《いかん》ともする能《あた》はざるもの歟《か》。
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