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[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり][#大見出し]彼理來航以前の形勢[#大見出し終わり] 抑《そもそ》も和蘭國王《おらんだこくわう》からの忠告書《ちゆうこくしよ》到來《たうらい》から、(弘化元年七月二日長崎著)[#「(弘化元年七月二日長崎著)」は1段階小さな文字]彼理《ペルリ》の浦賀灣《うらがわん》闖入《ちんにふ》(嘉永六年六月三日米艦四艘浦賀に來る)[#「(嘉永六年六月三日米艦四艘浦賀に來る)」は1段階小さな文字]まで、足掛《あしか》け十|年《ねん》ある。正味《しやうみ》九|年餘《ねんよ》である。此《こ》の歳月《さいげつ》は短《みじか》しと云《い》へば短《みじか》く、長《なが》しと云《い》へば長《なが》い。若《も》し此間《このあひだ》に國策《こくさく》を決《けつ》し、武備《ぶび》を整《とゝの》へ、内政《ないせい》を治《をさ》め、天下《てんか》の人心《じんしん》を一|振《しん》するの經綸《けいりん》を定《さだ》めたらんには、左程《さほど》狼狽《らうばい》することもなく、相當《さうたう》の威權《ゐけん》をもて、外人《ぐわいじん》と應接《おうせつ》することも出來《でき》る可《べ》き筈《はず》だ。然《しか》るに此《こ》の十|年《ねん》は、如何《いか》にして經過《けいくわ》したる乎《か》。 天下《てんか》は幕府《ばくふ》の天下《てんか》であつた。二百|幾《いく》十|年來《ねんらい》、天下《てんか》の政《まつりごと》は、擧《あ》げて幕府《ばくふ》の手中《しゆちゆう》に存《そん》した。權力《けんりよく》の存《そん》する所《ところ》、責任《せきにん》の存《そん》する所《ところ》だ。されば日本《にほん》を擁護《ようご》して、外國《ぐわいこく》に對《たい》する責任《せきにん》は、幕府《ばくふ》固《もと》より自《みづ》から負《お》はねばならない。然《しか》るに幕府《ばくふ》は此《こ》の責任《せきにん》を殆《ほと》んど自《みづ》から閑却《かんきやく》した。識者《しきしや》ならざるまでも、苟《いやしく》も一|通《とほ》りの知能《ちのう》あるものは、外難《ぐわいなん》の來《きた》り薄《せま》りつゝあるに氣付《きづ》かねばならぬ。況《いは》んや當時《たうじ》の幕府《ばくふ》には、幕末《ばくまつ》の賢相《けんしやう》阿部伊勢守正弘《あべいせのかみまさひろ》の如《ごと》き者《もの》ありて、上下《しやうか》の信任《しんにん》を專《もつぱ》らにしつゝあつたではない乎《か》。然《しか》るに彼等《かれら》は何事《なにごと》をなしつゝあつた乎《か》。 彼等《かれら》は對外國的策《たいぐわいこくてきさく》に就《つい》て、何等《なんら》一|定《てい》の方針《はうしん》を定《さだ》めなかつた。彼等《かれら》は文政打拂令《ぶんせいうちはらひれい》と、天保《てんぽう》の緩和令《くわんわれい》―薪水《しんすゐ》を給與《きふよ》して退去《たいきよ》せしむる―との間《あひだ》に、彷徨《はうくわう》してゐた。彼等《かれら》は果《はた》して開國《かいこく》の已《や》む可《べか》らざるを、知《し》らなかつた乎《か》。彼等《かれら》は果《はた》して鎖國制度《さこくせいど》徹底的《てつていてき》維持《ゐぢ》の、行《おこな》ふ可《べか》らざるに、氣付《きづ》かなかつた乎《か》。彼等《かれら》は若《も》し祖法《そはふ》―即《すなは》ち鎖國制度《さこくせいど》―を維持《ゐぢ》せんとするには、只《た》だ之《これ》を維持《ゐぢ》するだけの軍備《ぐんび》を必須《ひつしゆ》とするを、覺悟《かくご》しなかつた乎《か》。 軍備《ぐんび》と云《い》へば、砲臺《はうだい》を築《きづ》き、要塞《えうさい》を設《まう》くるのみでなく、兵士《へいし》を訓練《くんれん》し、武器《ぶき》を整頓《せいとん》するのみでなく、復《ま》た敵《てき》を海洋《かいやう》に邀《むか》へ防《ふせ》ぐ可《べ》く、大鑑巨舶《たいかんきよはく》の必要《ひつえう》である可《べ》きは、兵法《へいはふ》を解《かい》せざる者《もの》でも、能《よ》く知《し》り得可《うべ》き筈《はず》である。然《しか》るに當時《たうじ》の幕閣《ばくかく》は、依然《いぜん》祖法《そはふ》を守《まも》りて、太船製造《たいせんせいざう》を禁物《きんもつ》とした。此《こ》れが爲《た》めに水戸齊昭《みとなりあき》が、如何《いか》に屡《しばし》ば幕閣《ばくかく》と交渉《かうせふ》した乎《か》は、彼《かれ》の建白書《けんぱくしよ》を見《み》れば、分明《ぶんみやう》だ。然《しか》も幕府《ばくふ》は其《そ》の親藩《しんぱん》たる水戸《みと》にさへ、之《これ》を許可《きよか》せざるのみならず、幕府《ばくふ》自《みづか》らさへも製艦《せいかん》などと云《い》ふ※[#こと、7-7]を、眼中《がんちゆう》には措《お》かなかつた。 幕府《ばくふ》は殆《ほと》んど無爲無策《むゐむさく》にて、只《た》だ其日暮《そのひぐ》らしの政治《せいぢ》を爲《な》した。天保度《てんぽうど》の改革《かいかく》は、内外《ないぐわい》の趨勢《すうせい》に刺戟《しげき》せられ、水野忠邦《みづのたゞくに》が、幕府《ばくふ》掉尾《たうび》の政治《せいぢ》を施《し》いたが、其《そ》の失廢《しつぱい》の餘《よ》を承《う》けたる阿部正弘《あべまさひろ》は、殆《ほと》んど羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹《ふ》き、只《た》だ事勿《ことなか》れ主義《しゆぎ》の一|點張《てんば》りにて始終《ししゆう》した。 されど後世《こうせい》から前世《ぜんせい》を見《み》て、その時代《じだい》の黨局者《たうきよくしや》の怠慢《たいまん》、遺漏《ゐろう》、失策《しつさく》、過誤《くわご》を指點《してん》するは、容意《ようい》の業《わざ》であるが。その黨局者《たうきよくしや》としては、其日暮《そのひぐ》らしの政治《せいぢ》をするさへも、決《けつ》して尋常《じんじやう》ではなかつた※[#こと、8-1]を、洞察《どうさつ》せねばならぬ。場合《ばあひ》によりて、政治家《せいぢか》と時勢《じせい》とが、其《そ》の歩趨《ほすう》を一にする時節《じせつ》もある。或《あるひ》は政治家《せいぢか》が時勢《じせい》に先《さきだ》つ場合《ばあひ》もある。或《あるひ》は時勢《じせい》が政治家《せいぢか》に先《さきだ》つ場合《ばあひ》もある。政治家《せいぢか》と時勢《じせい》との權衡《けんかう》は、單《たん》に政治家《せいぢか》の知愚《ちぐ》、賢不肖《けんふせう》のみを以《もつ》て、定《さだ》む可《べ》きものではない。時勢《じせい》其物《そのもの》の歩趨《ほすう》の緩急《くわんきふ》、疾徐《しつじよ》も亦《ま》た、計上《けいじやう》せねばならぬ。時《とき》としては時勢《じせい》の速力《そくりよく》が、餘《あま》りに急激《きふげき》にして、如何《いか》なる先見《せんけん》、卓識《たくしき》の士《し》も、之《これ》に追隨《つゐずゐ》する※[#こと、8-6]さへ困難《こんなん》の場合《ばあひ》がある。 政治家《せいぢか》にも亦《ま》た其《そ》の遭際《さうさい》する時代《じだい》に於《おい》て、幸不幸《かうふかう》がある。時勢《じせい》の歩趨《ほすう》が遲緩《ちくわん》にして、殆《ほと》んど定滯不動《ていたいふどう》の場合《ばあひ》に於《おい》ては、唯《た》だ從來《じゆうらい》の慣行《くわんかう》を其儘《そのまゝ》恪守《かくしゆ》して、失《うしな》ふなき迄《まで》にて澤山《たくさん》だ。されど時勢《じせい》が急轉直下《きふてんちよくか》し、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゆつこつ》に千變萬化《せんぺんばんくわ》する場合《ばあひ》には、如何《いか》なる眼快手利《がんくわしゆり》の政治家《せいぢか》でも、時勢《じせい》に引《ひき》づられて、自《みづ》から居措《きよそ》を失《うしな》ふことがある。 弘化《こうくわ》、嘉永《かえい》の間《あひだ》は、必《かな》らずしもそれ程《ほど》ではなかつた。されど時勢《じせい》の速力《そくりよく》は、とても幕府《ばくふ》黨局者《たうきよくしや》の追隨《つゐずゐ》を容《ゆる》さなかつた。云《い》はば幕府《ばくふ》政治家《せいぢか》の愚鈍《ぐどん》、怠慢《たいまん》と云《い》はんよりも、時勢《じせい》の推移《すゐい》、變遷《へんせい》が、彼等《かれら》の足並《あしなみ》よりも、より急速《きふそく》であつた。然《しか》も如何《いか》に時勢《じせい》が斯《か》くあればとて、その時勢《じせい》に順應《じゆんおう》して、相應《さうおう》の施設《しせつ》を爲《な》す可《べ》きことを、爲《な》さなかつた責任《せきにん》は、黨局者《たうきよくしや》が負《お》はねばならぬ。幕府《ばくふ》自《みづ》から爲《な》す可《べ》き事《こと》を爲《な》さず、亦《また》爲《な》す能《あた》はざる場合《ばあひ》に於《おい》て、幕府《ばくふ》が其《そ》の政權《せいけん》を失墜《しつつゐ》するは、必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》と云《い》はねばならぬ。 幕府《ばくふ》の敵《てき》は、外國《ぐわいこく》でもなく、諸藩《しよはん》でもなく、勤王《きんわう》の浪人者《らうにんもの》でもなく、固《もと》より恐《おそ》れ多《おほ》くも朝廷《てうてい》でもない。幕府《ばくふ》の敵《てき》は、幕府自身《ばくふじしん》である。 [#5字下げ][#中見出し]【三】幕府自ら其の政權を失墜す[#中見出し終わり] 弘化《こうくわ》三|年《ねん》八|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、朝廷《てうてい》より實《じつ》に左《さ》の御沙汰書《ごさたしよ》が、幕府《ばくふ》に降《くだ》つた。此《こ》れは朝幕《てうばく》の間《あひだ》に於《お》ける、對外問題《たいぐわいもんだい》に關《くわん》する交渉《かうせふ》の始《はじ》めである。一たび此端《このたん》を啓《ひら》きたる後《のち》は、幕府《ばくふ》は外交問題《ぐわいかうもんだい》に就《つい》て、恒《つね》に朝廷《てうてい》の干渉《かんせふ》を免《まぬ》かるゝ能《あた》はなかつた。 [#ここから1字下げ] 八|月《ぐわつ》二十九|日《にち》御沙汰書《ごさたしよ》 近年《きんねん》異國船《いこくせん》時々《じゝ》相見候趣《あひみえさふらふおもむき》、風説《ふうせつ》内々《ない/\》|被[#二]聞食[#一]候《きこしめされさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》文道《ぶんだう》能《よく》修《をさまり》、武事《ぶじ》全《まつたく》整候《とゝのひさふらふ》御時節《ごじせつ》、殊《こと》に海邊防禦《かいへんばうぎよ》堅固之旨《けんごのむね》、是又《これまた》兼々《かね/″\》|被[#二]聞食[#一]候而《きこしめされさふらうて》、御安慮候得共《ごあんりよにさふらえども》、近頃《ちかごろ》其風聞《そのふうぶん》屡《しば/\》彼是《かれこれ》|被[#レ]爲[#レ]掛[#二]叡念[#一]候《えいねんにかけさせられさふらふ》。猶《なほ》此上《このうへ》武門之面々《ぶもんのめん/\》、洋蠻之《やうばんの》|不[#レ]侮[#二]小寇[#一]《せうこうをあなどらず》、|不[#レ]畏[#二]大賊[#一]《たいぞくをおそれず》、宜《よろしく》籌策《ちうさく》|有[#レ]之《これありて》、神州之瑕瑾《しんしうのかきん》|無[#レ]之樣《これなきやう》、精々《せい/″\》御指揮候而《ごしきさふらうて》、彌《いよ/\》|可[#レ]被[#レ]安[#二]宸襟[#一]候《しんきんをやすんぜらるべくさふらふ》。此段《このだん》|宜[#レ]有[#二]御沙汰[#一]候事《よろしくごさたあるべくさふらふこと》。〔孝明天皇紀〕[#「〔孝明天皇紀〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 此《こ》れは表面《へうめん》極《きは》めて穩當《をんたう》なる文字《もんじ》にして、唯《た》だ單《たん》に幕府《ばくふ》の注意《ちゆうい》を促《うな》がしたる迄《まで》に過《す》ぎない。されば幕府《ばくふ》としても、政治《せいぢ》の事《こと》、一|切《さい》幕府《ばくふ》に御委任《ごゐにん》の事《こと》なれば、御心配《ごしんぱい》は御無用《ごむよう》と、彈《は》ね付《つ》くることも出來《でき》ず、その儘《まゝ》之《これ》を拜承《はいしよう》した。 [#ここから1字下げ] 十|月《ぐわつ》三|日《か》所司代《しよしだい》上申書《じやうしんしよ》 近年《きんねん》異國船《いこくせん》時々《じゝ》相見候趣《あひみえさふらふおもむき》、風説《ふうせつ》内々《ない/\》|被[#二]聞食[#一]候《きこしめされさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》文道《ぶんだう》能《よく》修《をさまり》、武事《ぶじ》全《まつたく》整候《とゝのひさふらふ》御時節《ごじせつ》、殊《こと》に海邊防禦《かいへんばうぎよ》堅固之旨《けんごのむね》、是又《これまた》兼々《かね/″\》|被[#二]聞食[#一]候而《きこしめされさふらふて》、御安慮候得共《ごあんりよさふらへども》、近頃《ちかごろ》其風聞《そのふうぶん》屡《しば/″\》彼是《かれこれ》|被[#レ]爲[#レ]懸[#二]叡念[#一]候《えいねんにかけさせられさふらふ》。猶《なほ》此上《このうへ》武門之面々《ぶもんのめん/\》、洋蠻之《やうばんの》|不[#レ]侮[#二]小寇[#一]《せうこうをあなどらず》、|不[#レ]畏[#二]大賊[#一]《たいぞくをおそれず》、宜《よろしく》籌策《ちうさく》|有[#レ]之《これありて》、神州之《しんしうの》瑕瑾《かきん》|無[#レ]之樣《これなきやう》、精々《せい/″\》御指揮候而《ごしきさふらうて》、彌《いよ/\》|可[#レ]被[#レ]安[#二]宸襟[#一]候《しんきんをやすんぜらるべくさふらふ》。此段《このだん》|宜[#レ]致[#二]沙汰[#一]旨《よろしくさたいたすべきむね》、先達而《せんだつて》|被[#二]仰聞[#一]《おほせきけられ》、關東《くわんとう》へ相達候處《あひたつしさふらふところ》、則《すなはち》右之趣《みぎのおもむき》、|及[#二]言上[#一]候間《ごんじやうにおよびさふらふあひだ》、其段《そのだん》|御達可[#レ]申旨《おたつしまをすべきむね》、年寄共《としよりども》より申越候事《まをしこしさふらふこと》。 異國船之儀《いこくせんのぎ》、文化度《ぶんくわど》(對露交渉)[#「(對露交渉)」は1段階小さな文字]之振合《のふりあひ》も|有[#レ]之候《これありさふらふ》に付《つき》、|差支無[#レ]之事柄《さしつかへこれなきことがら》は、近来之《きんらいの》模樣《もやう》粗《ほゞ》申進候樣《まをしまゐらせさふらふやう》には相成間敷哉《あひなるまじきや》。其譯《そのわけ》内々《ない/\》|被[#レ]及[#二]言上[#一]候《ごんじやうにおよばれさふら》はゞ、却而《かへつて》御安慮之御儀《ごあんりよのおんぎ》にも|可[#レ]有[#レ]之哉《これあるべきか》。猶《なほ》私《ひそかに》宜《よろしく》|勘考候樣被[#レ]成度《かんかうさふらやうなされたく》、仍《すなはち》|被[#レ]及[#二]御内談[#一]候趣《ごないだんにおよばれさふらふおもむき》、關東《くわんとう》へ相達候處《あひたつしさふらふところ》、異國船《いこくせん》近頃《ちかごろ》渡來之旨趣《とらいのししゆ》、別紙《べつし》を以《もつ》て申越候間《まをしこしさふらふあひだ》、文化度之振合《ぶんくわどのふりあひ》を以《もつて》程能《ほどよく》取計候樣《とりはからひさふらふやう》にと、年寄共《としよりども》より申越候《まをしこしさふらふ》に付《つき》、則《すなはち》御附《おつき》へ相達置候事《あひたつしおきさふらふこと》。 [#ここで字下げ終わり] 此《これ》にて見《み》れば、朝廷《てうてい》より外交事情具申《ぐわうかうじじやうぐしん》を、要求《えうきう》あらせられ、それを拜承《はいしよう》して、幕府《ばくふ》から具申《ぐしん》することゝなつたのだ。その文化度《ぶんくわど》の振合云々《ふりあひうんぬん》は、文化年度《ぶんくわねんど》露國《ろこく》との交渉《かうせふ》に付《つい》て、幕府《ばくふ》から其《そ》の事情《じじやう》の一|斑《ぱん》を上申《じやうしん》したことだ。振合《ふりあひ》とは其《そ》の前例通《ぜんれいどほ》りに於《おい》てと云《い》ふ意味《いみ》であらう。 [#ここから1字下げ] 十|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》武士上申書《ぶしじやうしんしよ》 當《たう》四|月《ぐわつ》五|日《か》琉球國之内《りうきうこくのうち》、那霸沖《なはおき》と申所《まをすところ》へ、暎※[#「口+吉」、第4水準2-3-81]※[#「口+利」、第3水準1-15-4]國之船《イギリスこくのふね》二十|人乘《にんのり》一|艘《さう》、唐人共《たうじんども》も乘組《のりくみ》渡來《とらい》、同《どう》七|日《か》那霸港《なはみなと》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》三|百人乘《ぴゃくにんのり》一|艘《さう》、五|月《ぐわつ》七|日《か》、同《どう》十三|日《にち》、同國《どうこく》運天港《うんてんのみなと》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》、大綱兵船《おほつなへいせん》と唱《となへ》五|百人乘《ひゃくにんのり》一|艘《さう》、三|百人乘《ぴゃくにんのり》一|艘《さう》兩度《りやうど》に、猶又《なほまた》渡來《とらい》。琉球國《りうきうこく》と通商和好等之儀《つうしやうわかうとうのぎ》申立候《まをしたてさふらふ》に付《つき》、役々《やく/\》より示談之上《じだんのうへ》、委細《ゐさい》|及[#二]理解[#一]《りかいにおよび》、通商等之儀《つうしやうとうのぎ》、堅《かた》く相斷候處《あひことわりさふらふところ》、其段《そのだん》本國《ほんごく》へ罷歸申聞《まかりかへりまをしきけ》、猶《なほ》一|箇年程《かねんほど》には、又候《またぞろ》渡來《とらい》も|可[#レ]致旨《いたすべきむね》異人共《いじんども》より|及[#二]挨拶[#一]《あいさつにおよぶ》。 閏《うるふ》五|月《ぐわつ》廿四|日《か》一|同《どう》出帆致《しゆつぱんいた》し、尤《もつと》右之内《みぎのうち》佛朗西人《フランスじん》一|人《にん》、並《ならびに》當《たう》四|月中《ぐわつちゆう》渡來致《とらいいたし》し候《さふらふ》暎※[#「口+吉」、第4水準2-3-81]※[#「口+利」、第3水準1-15-4]國之醫師《イギリスこくのいし》並《ならびに》妻子《さいし》、唐人共《とうじんども》は今以《いまもつて》琉球國《りうきうこく》へ殘《のこ》し置候《おきさふらふ》に付《つき》、夫々《それ/″\》嚴重《げんぢゆう》に手當致《てあていた》し置候由《おきさふらふよし》、松平大隈守《まつだひらおほすみのかみ》(島津齊興)[#「(島津齊興)」は1段階小さな文字]より、追々《おひ/\》|注進有[#レ]之候《ちゆうしんこれありさふらふ》。〔參照 幕府實力失墜時代、二〇―二八〕[#「〔參照 幕府實力失墜時代、二〇―二八〕」は1段階小さな文字] 閏《うるふ》五|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、浦賀之沖合《うらがのおきあひ》へ、北亞米利加國之船《きたあめりかこくのふね》、一|艘《さう》は長《なが》さ四十二|間程《けんほど》にて、八|百人《ぴやくにん》乘組《のりくみ》、一|艘《さう》は長《なが》さ二十二|間程《けんほど》にて、二|百人《ひやくにん》乘組《のりくみ》渡來《とらい》。軍船之模樣《いくさぶねのもやう》にも相見《あひみ》え候《さふらふ》に付《つき》、浦賀奉行《うらがぶぎやう》與力《よりき》同心共《どうしんども》並《ならびに》御備場詰之役々《おんそなへばづめのやく/\》、早速《さつそく》出船致《しゆつせんいた》し、同所《どうしよ》野比濱沖《のびはまおき》にて乘留《のりとめ》、|及[#二]通辯[#一]候處《つうべんにおよびさふらふところ》。右船《みぎふね》逆意等《ぎやくいとう》は|無[#レ]之《これなく》、交易之儀《かうえきのぎ》、強《たつ》て相願候趣《あひねがひさふらふおもむき》、横文字《よこもじ》差出候《さしいだしさふらふ》に付《つき》、日本之儀《にほんのぎ》は、外國之通信通商《ぐわいこくのつうしんつうしやう》新《あらた》に御許容《ごきよよう》は|難[#二]相成[#一]《あひなりがたき》御國禁之旨《ごこくきんのむね》申諭《まをしさとし》、食料《しよくれう》薪水等《しんすゐとう》望《のぞみ》に任《まか》せ、相應《さうおう》に與《あた》へ、早々《さう/\》出帆候樣《しゆつぱんさふらふやう》申渡候處《まをしわたしさふらふところ》、右之趣《みぎのおもむき》承伏致《しようふくいた》し、請書《うけしよ》をも差出《さしいだし》、六|月《ぐわつ》七|日《か》出帆之事《しゆつぱんのこと》に候《さふらふ》。〔參照 同上、40―四六〕[#「〔參照 同上、40―四六〕」は1段階小さな文字] 同月《どうげつ》廿七|日《にち》、同所之沖合《どうしよのおきあひ》へ、デネマルカ[#「デネマルカ」に二重傍線](嗹馬〕[#「〔嗹馬〕」は1段階小さな文字]國之船《こくのふね》一|艘《さう》相見候《あひみえさふらふ》に付《つき》、役々《やく/\》相越《あひこし》、是又《これまた》|通辯爲[#レ]致候處《つうべんいたさせさふらふところ》、地理測量之爲《ちりそくりようのため》渡來之趣《とらいのおもむき》申立《まをしたて》、同《どう》廿九|日《にち》子細《しさい》も|無[#レ]之《これなく》、遠沖《とほおき》へ走《はし》り去《さ》り、帆影《ほかげ》も|相見不[#レ]申候《あひみえまをさずさふらふ》。 六|月《ぐわつ》七|日《か》、長崎《ながさき》高鉾島《たかほこじま》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》二|艘《さう》渡來《とらい》に付《つき》、檢使等《けんしとう》差遣《さしつかはし》、渡來之趣意《とらいのしゆい》相糺候處《あひたゞしさふらふところ》、二|箇年以前《かねんいぜん》日本近海《にほんきんかい》にて、鯨漁之佛朗西船《くぢられふのフランスせん》暴風雨《ぼうふうう》に逢候《あひさふらふ》に付《つき》、地方《ぢかた》へ寄《よせ》、船《ふね》を繋候處《つなぎさふらふところ》、如何之取扱《いかゞのとりあつかひ》に逢候間《あひさふらふあひだ》、以後《いご》佛朗西國之者共《フランスこくのものども》日本之地方《にほんのぢかた》にて、若《もし》|及[#二]難船[#一]候《なんせんにおよびさふら》はゞ、扶助《ふじよ》相願度《あひねがひたく》、且《かつ》漂流之者《へうりうのもの》|有[#レ]之節《これあるせつ》は、唐紅毛之船《からろしあのふね》歸帆之節《きはんのせつ》、返《かへ》し呉候樣《くれさふらふやう》にと之趣《のおもむき》申立候《まをしたてさふらふ》に付《つき》、薪水等《しんすゐとう》望之品《のぞみのしな》|差遣可[#レ]申《さしつかはしまをすべく》と心組候内《こゝろぐみさふらふうち》、右《みぎ》申立之返答《まをしたてのへんたふ》をも|不[#二]承屆[#一]《うけたまはりとゞけず》、同《どう》九|日《か》子細《しさい》|不[#二]相分[#一]《あひわからず》、俄《にはか》に出帆致《しゆつぱんいた》し、三|艘共《さうとも》沖手《おきて》へ走《はし》り去《さ》り申候《まをしさふらふ》。 右之外《みぎのほか》には別條《べつでう》|無[#レ]之事《これなきこと》に候旨《さふらふむね》、|爲[#二]心得[#一]《こゝろえのため》年寄衆《としよりしゆう》より申來候事《まをしきたりさふらふこと》。 十|月《ぐわつ》 右之趣《みぎのおもむき》酒井若狹守《さかゐわかさのかみ》(所司代)[#「(所司代)」は1段階小さな文字]|無[#二]急度[#一]《きつとなく》申聞候《まをしきけさふらふ》に付《つき》、此段《このだん》申上候《まをしあげさふらふ》。 十|月《ぐわつ》三|日《か》[#地から1字上げ]明樂大隈守《めいがくおほすみのかみ》 [#ここで字下げ終わり] 尚《な》ほ菅原《すがはら》(東坊城)[#「(東坊城)」は1段階小さな文字]聰長記《としながき》によれば、 [#ここから1字下げ] 十|月《ぐわつ》廿八|日《か》庚辰《かうしん》、關白殿《くわんぱくどの》(鷹司政通)[#「(鷹司政通)」は1段階小さな文字]昨日《さくじつ》|令[#レ]談給《だんぜしめたまひ》、水戸前中納言齊昭卿《みとさきのちゆうなごんなりあききやう》封事《ふうじ》一|册《さつ》|爲[#レ]見被[#レ]下《みせくださる》。 [#ここで字下げ終わり] とある。此《これ》を見《み》れば水戸齊昭《みとなりあき》は、既《すで》に京都《きやうと》にも、それ/″\手入《ていれ》をなしたるものと思《おも》はる。封事《ふうじ》は恐《おそ》らくは、幕府《ばくふ》に差出《さしいだ》したるものゝ寫《うつし》であらう。兎《と》も角《かく》も異國船《いこくせん》渡來《とらい》の頻繁《ひんぱん》と同時《どうじ》に、朝幕間《てうばくかん》の干繋《かんけい》が、愈《いよい》よ頻繁《ひんぱん》となつて來《き》た。 [#改ページ]
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