第壹章 中外形勢の一變
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[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり][#大見出し]彼理來航以前の形勢[#大見出し終わり]

[#地から2字上げ][#大見出し]蘇峰學人[#大見出し終わり]

[#4字下げ][#大見出し]第壹章 中外形勢の一變[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一】孝明天皇時代に於ける孝明天皇[#中見出し終わり]

昭和《せうわ》二|年《ねん》三|月《ぐわつ》二十三|日《にち》、大森山王草堂《おほもりさんわうさうだう》に於《おい》て、孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を書《か》き始《はじ》む。時《とき》に歳《とし》六十|有《いう》五。皇天《くわうてん》若《も》し予《》の祈願《きぐわん》を容《い》るれば、希《こひねがは》くは近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》をして、完成《くわんせい》せしめよ。
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孝明天皇《かうめいてんわう》は、仁孝天皇《にんかうてんわう》の御子《おんこ》にして、天保《てんぽう》二|年《ねん》六|月《ぐわつ》十四|日《か》降誕《かうたん》あらせられ、熈宮《ひろのみや》と稱《しよう》し、同《どう》六|年《ねん》九|月《ぐわつ》十八|日《にち》、親王《しんわう》に立《たゝ》せ給《たま》ひ、同《どう》十一|年《ねん》三|月《ぐわつ》十四|日《か》、皇太子《くわうたいし》に立《たゝ》せ給《たま》ひ、弘化《こうくわ》三|年《ねん》二|月《ぐわつ》十三|日《にち》、踐祚《せんそ》あらせらる。時《とき》に御歳《おんとし》十六。同《どう》四|年《ねん》九|月《ぐわつ》廿三|日《にち》、即位《そくゐ》あらせられ、慶應《けいおう》二|年《ねん》十二|月《ぐわつ》廿五|日《にち》、崩御《ほうぎよ》あらせらる。御歳《おんとし》三六。之《これ》を陽暦《やうれき》に換算《くわんさん》すれば、慶應《けいおう》三|年《ねん》一|月《ぐわつ》三十|日《にち》となる。
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されば孝明天皇時代《かうめうてんわうじだい》は、弘化《こうくわ》三|年《ねん》から慶應《けいおう》二|年《ねん》まで、約《やく》二十一|年間《ねんかん》に亙《わた》るものだ。時間《じかん》から云《い》へば、二十一|年間《ねんかん》は、必《かな》らずしも長期《ちやうき》ではない。されど歴史《れきし》から云《い》へば、重大《ぢゆうだい》なる事件《じけん》が、殆《ほと》んど幕《まく》なしに展開《てんかい》し、去來《きよらい》した。云《い》はば社會《しやくわい》の震盪期《しんたうき》とも云《い》ふべき刹那《せつな》であつた。而《しか》して孝明天皇《かうめいてんわう》は、御若齡《ごじやくれい》では在《おは》しましたが、而《しか》して漸《やうや》く三十|代《だい》にて昇遐《しようか》ましましたが。然《しか》も恐《おそ》れ多《おほ》くも此《こ》の期間《きかん》の中心人物《ちゆうしんじんぶつ》として、多大《ただい》の役目《やくめ》を働《はた》らかせ給《たま》うた。
此《こ》れは固《もと》より天皇《てんわう》の御位《みくらゐ》に在《おはしま》したが爲《た》めであつた。されど亦《ま》た其《そ》の不世出《ふせいしゆつ》の英主《えいしゆ》で在《ましま》した※[#こと、3-1]を、其《そ》の重《おも》なる要素《えうそ》の一に、計上《けいじやう》せねばならない。固《もと》より九重《こゝのへ》の裡《うち》に、多年《たねん》の徳川幕府《とくがはばくふ》の制定《せいてい》したる通《とほ》りの、生活《せいくわつ》を遊《あそ》ばされたれば、時務《じむ》に處《しよ》する新知識《しんちしき》に於《おい》て、充分《じゆうぶん》なる御修養《ごしうやう》の出來《でき》なかつた※[#こと、3-3]は、餘儀《よぎ》なき次第《しだい》であつた。されど多大《ただい》の障礙《しやうがい》を排《はい》して、出來得可《できうべ》き範圍《はんゐ》に於《おい》て、帝者《ていしや》としての天職《てんしよく》を盡《つく》さんと、御心掛《おんこゝろが》けあらせられたことは申《まを》すも愚《お》ろかである。
孝明天皇《かうめいてんわう》には、祖《そ》孝光格天皇《かうくわうかくてんわう》の皇運輓囘《くわううんばんくわい》の御志《おんこゝろざし》をば、最《もつと》も痛切《つうせつ》に會得《ゑとく》あらせられ、最《もつと》も熱心《ねつしん》に紹述《せうじゆつ》あらせられた。而《しか》して其《そ》の御《ご》一|身《しん》を以《もつ》て、國難《こくなん》に處《しよ》せんとする御覺悟《ごかくご》、御決心《ごけつしん》に至《いた》りては、宛《あたか》も龜山天皇《かめやまてんわう》が、元寇《げんこう》の危機《きき》に際《さい》し、身《み》を以《もつ》て國難《こくなん》に代《かは》らんと遊《あそ》ばされたると、其揆《そのき》を一にした。此《こ》の御誠意《ごせいい》が、天人《てんじん》に貫徹《くわんてつ》して、遂《つ》ひに維新中興《ゐしんちゆうこう》の祥運《しやううん》を導《みちび》き來《きた》つた。
維新中興《ゐしんちゆうこう》の偉業《ゐげふ》は、時勢《じせい》の推移《すゐい》により、時勢《じせい》の推移《すゐい》は、凡有《あらゆ》る志士《しし》の献身的努力《けんしんてきどりよく》によるは、勿論《もちろん》だが。然《しか》も志士《しし》をして其《そ》の精神的高調《せいしんてきかうてう》に達《たつ》せしめたる所以《ゆゑん》の一は、孝明天皇《かうめいてんわう》の國家多難《こくかたなん》の秋《とき》に際《さい》して、國事《こくじ》を憂慮遊《いうりよあそ》ばされたる御誠意《ごせいい》を奉戴《ほうたい》し、宸襟《しんきん》を安《やす》んじ奉《たてまつ》らんと欲《ほつ》する動機《どうき》に基《もとづ》きたるものだ。
維新囘天《ゐしんくわいてん》の事業《じげふ》を説《と》く者《もの》、概《おほむ》ね賢命《けんめい》なる大名《だいみやう》や、諸藩《しよはん》の志士《しし》や、浪人者《らうにんもの》や、脱藩者《だつぱんしや》の奔走《ほんそう》、運動《うんどう》を説《と》き、却《かへつ》て孝明天皇《かうめいてんわう》が、此《こ》の期間《きかん》に於《お》ける、重大《ぢゆうだい》なる役目《やくめ》を勗《つと》め遊《あそ》ばされたることを、遺却《ゐきやく》するものがある。されど公正《こうせい》なる歴史《れきし》の眼孔《がんこう》から見《み》れば、孝明天皇《かうめいてんわう》の時代《じだい》に、孝明天皇《かうめいてんわう》が中樞人物《ちゆうすうじんぶつ》で在《ましま》す事《こと》は、猶《な》ほ明治天皇時代《めいぢてんわうじだい》に、明治天皇《めいぢてんわう》が中樞人物《ちゆうすうじんぶつ》に在《ましま》したると同《どう》一だ。此《こ》の一|點《てん》は、孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》の歴史《れきし》を通《つう》じて、豫《あらか》じめ心得置《こゝろえお》かねばならぬ、必要事件《ひつえうじけん》だ。何《なん》となれば此《これ》が時代《じだい》の鍵《かぎ》であるからだ。固《もと》より天皇《てんわう》の左右《さいう》、若《も》しくは周圍《しうゐ》、而《しか》して其《そ》の遠隔《ゑんかく》ではあるが、或《あ》る手寄《てよ》りも接近《せつきん》し奉《たてまつ》りたる、種々《しゆ/″\》の人々《ひと/″\》が、献替《けんたい》の誠《まこと》を竭《つく》したる者《もの》は尠《すくな》くなかつたとは云《い》へ。
孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》の二十一|年間《ねんかん》、幕府《ばくふ》は依然《いぜん》として存在《そんざい》した。將軍《しやうぐん》は依然《いぜん》として存在《そんざい》した。江戸《えど》と京都《きやうと》とは依然《いぜん》として對立《たいりつ》した。されど是唯《これた》だ外形《ぐわいけい》のみであつた。幕府《ばくふ》の霸威《はゐ》を日本全國《にほんぜんこく》に振《ふる》うたのは、畢竟《ひつきやう》幕府《ばくふ》が其《そ》の實力《じつりよく》を以《もつ》て、爲政者《ゐせいしや》たる責任《せきにん》を盡《つく》したる爲《た》めだ。然《しか》るに今《いま》や其《そ》の實力《じつりよく》を失墜《しつつゐ》し去《さ》り、其《そ》の責任《せきにん》を閑却《かんきやく》するに於《おい》ては、是《こ》れ幕府《ばくふ》自《みづ》から其《そ》の霸權《はけん》を遺失《ゐしつ》したるものだ。何《なん》ぞ必《かな》らずしも慶應《けいおう》三|年《ねん》の政權返上《せいけんへんじやう》を待《ま》つて、而《しか》して後《のち》政權返上《せいけんへんじやう》と云《い》はん哉《や》だ。

[#5字下げ][#中見出し]【二】幕府の敵は幕府自身[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も和蘭國王《おらんだこくわう》からの忠告書《ちゆうこくしよ》到來《たうらい》から、(弘化元年七月二日長崎著)[#「(弘化元年七月二日長崎著)」は1段階小さな文字]彼理《ペルリ》の浦賀灣《うらがわん》闖入《ちんにふ》(嘉永六年六月三日米艦四艘浦賀に來る)[#「(嘉永六年六月三日米艦四艘浦賀に來る)」は1段階小さな文字]まで、足掛《あしか》け十|年《ねん》ある。正味《しやうみ》九|年餘《ねんよ》である。此《こ》の歳月《さいげつ》は短《みじか》しと云《い》へば短《みじか》く、長《なが》しと云《い》へば長《なが》い。若《も》し此間《このあひだ》に國策《こくさく》を決《けつ》し、武備《ぶび》を整《とゝの》へ、内政《ないせい》を治《をさ》め、天下《てんか》の人心《じんしん》を一|振《しん》するの經綸《けいりん》を定《さだ》めたらんには、左程《さほど》狼狽《らうばい》することもなく、相當《さうたう》の威權《ゐけん》をもて、外人《ぐわいじん》と應接《おうせつ》することも出來《でき》る可《べ》き筈《はず》だ。然《しか》るに此《こ》の十|年《ねん》は、如何《いか》にして經過《けいくわ》したる乎《か》。
天下《てんか》は幕府《ばくふ》の天下《てんか》であつた。二百|幾《いく》十|年來《ねんらい》、天下《てんか》の政《まつりごと》は、擧《あ》げて幕府《ばくふ》の手中《しゆちゆう》に存《そん》した。權力《けんりよく》の存《そん》する所《ところ》、責任《せきにん》の存《そん》する所《ところ》だ。されば日本《にほん》を擁護《ようご》して、外國《ぐわいこく》に對《たい》する責任《せきにん》は、幕府《ばくふ》固《もと》より自《みづ》から負《お》はねばならない。然《しか》るに幕府《ばくふ》は此《こ》の責任《せきにん》を殆《ほと》んど自《みづ》から閑却《かんきやく》した。識者《しきしや》ならざるまでも、苟《いやしく》も一|通《とほ》りの知能《ちのう》あるものは、外難《ぐわいなん》の來《きた》り薄《せま》りつゝあるに氣付《きづ》かねばならぬ。況《いは》んや當時《たうじ》の幕府《ばくふ》には、幕末《ばくまつ》の賢相《けんしやう》阿部伊勢守正弘《あべいせのかみまさひろ》の如《ごと》き者《もの》ありて、上下《しやうか》の信任《しんにん》を專《もつぱ》らにしつゝあつたではない乎《か》。然《しか》るに彼等《かれら》は何事《なにごと》をなしつゝあつた乎《か》。
彼等《かれら》は對外國的策《たいぐわいこくてきさく》に就《つい》て、何等《なんら》一|定《てい》の方針《はうしん》を定《さだ》めなかつた。彼等《かれら》は文政打拂令《ぶんせいうちはらひれい》と、天保《てんぽう》の緩和令《くわんわれい》―薪水《しんすゐ》を給與《きふよ》して退去《たいきよ》せしむる―との間《あひだ》に、彷徨《はうくわう》してゐた。彼等《かれら》は果《はた》して開國《かいこく》の已《や》む可《べか》らざるを、知《し》らなかつた乎《か》。彼等《かれら》は果《はた》して鎖國制度《さこくせいど》徹底的《てつていてき》維持《ゐぢ》の、行《おこな》ふ可《べか》らざるに、氣付《きづ》かなかつた乎《か》。彼等《かれら》は若《も》し祖法《そはふ》―即《すなは》ち鎖國制度《さこくせいど》―を維持《ゐぢ》せんとするには、只《た》だ之《これ》を維持《ゐぢ》するだけの軍備《ぐんび》を必須《ひつしゆ》とするを、覺悟《かくご》しなかつた乎《か》。
軍備《ぐんび》と云《い》へば、砲臺《はうだい》を築《きづ》き、要塞《えうさい》を設《まう》くるのみでなく、兵士《へいし》を訓練《くんれん》し、武器《ぶき》を整頓《せいとん》するのみでなく、復《ま》た敵《てき》を海洋《かいやう》に邀《むか》へ防《ふせ》ぐ可《べ》く、大鑑巨舶《たいかんきよはく》の必要《ひつえう》である可《べ》きは、兵法《へいはふ》を解《かい》せざる者《もの》でも、能《よ》く知《し》り得可《うべ》き筈《はず》である。然《しか》るに當時《たうじ》の幕閣《ばくかく》は、依然《いぜん》祖法《そはふ》を守《まも》りて、太船製造《たいせんせいざう》を禁物《きんもつ》とした。此《こ》れが爲《た》めに水戸齊昭《みとなりあき》が、如何《いか》に屡《しばし》ば幕閣《ばくかく》と交渉《かうせふ》した乎《か》は、彼《かれ》の建白書《けんぱくしよ》を見《み》れば、分明《ぶんみやう》だ。然《しか》も幕府《ばくふ》は其《そ》の親藩《しんぱん》たる水戸《みと》にさへ、之《これ》を許可《きよか》せざるのみならず、幕府《ばくふ》自《みづか》らさへも製艦《せいかん》などと云《い》ふ※[#こと、7-7]を、眼中《がんちゆう》には措《お》かなかつた。
幕府《ばくふ》は殆《ほと》んど無爲無策《むゐむさく》にて、只《た》だ其日暮《そのひぐ》らしの政治《せいぢ》を爲《な》した。天保度《てんぽうど》の改革《かいかく》は、内外《ないぐわい》の趨勢《すうせい》に刺戟《しげき》せられ、水野忠邦《みづのたゞくに》が、幕府《ばくふ》掉尾《たうび》の政治《せいぢ》を施《し》いたが、其《そ》の失廢《しつぱい》の餘《よ》を承《う》けたる阿部正弘《あべまさひろ》は、殆《ほと》んど羹《あつもの》に懲《こ》りて膾《なます》を吹《ふ》き、只《た》だ事勿《ことなか》れ主義《しゆぎ》の一|點張《てんば》りにて始終《ししゆう》した。
されど後世《こうせい》から前世《ぜんせい》を見《み》て、その時代《じだい》の黨局者《たうきよくしや》の怠慢《たいまん》、遺漏《ゐろう》、失策《しつさく》、過誤《くわご》を指點《してん》するは、容意《ようい》の業《わざ》であるが。その黨局者《たうきよくしや》としては、其日暮《そのひぐ》らしの政治《せいぢ》をするさへも、決《けつ》して尋常《じんじやう》ではなかつた※[#こと、8-1]を、洞察《どうさつ》せねばならぬ。場合《ばあひ》によりて、政治家《せいぢか》と時勢《じせい》とが、其《そ》の歩趨《ほすう》を一にする時節《じせつ》もある。或《あるひ》は政治家《せいぢか》が時勢《じせい》に先《さきだ》つ場合《ばあひ》もある。或《あるひ》は時勢《じせい》が政治家《せいぢか》に先《さきだ》つ場合《ばあひ》もある。政治家《せいぢか》と時勢《じせい》との權衡《けんかう》は、單《たん》に政治家《せいぢか》の知愚《ちぐ》、賢不肖《けんふせう》のみを以《もつ》て、定《さだ》む可《べ》きものではない。時勢《じせい》其物《そのもの》の歩趨《ほすう》の緩急《くわんきふ》、疾徐《しつじよ》も亦《ま》た、計上《けいじやう》せねばならぬ。時《とき》としては時勢《じせい》の速力《そくりよく》が、餘《あま》りに急激《きふげき》にして、如何《いか》なる先見《せんけん》、卓識《たくしき》の士《し》も、之《これ》に追隨《つゐずゐ》する※[#こと、8-6]さへ困難《こんなん》の場合《ばあひ》がある。
政治家《せいぢか》にも亦《ま》た其《そ》の遭際《さうさい》する時代《じだい》に於《おい》て、幸不幸《かうふかう》がある。時勢《じせい》の歩趨《ほすう》が遲緩《ちくわん》にして、殆《ほと》んど定滯不動《ていたいふどう》の場合《ばあひ》に於《おい》ては、唯《た》だ從來《じゆうらい》の慣行《くわんかう》を其儘《そのまゝ》恪守《かくしゆ》して、失《うしな》ふなき迄《まで》にて澤山《たくさん》だ。されど時勢《じせい》が急轉直下《きふてんちよくか》し、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゆつこつ》に千變萬化《せんぺんばんくわ》する場合《ばあひ》には、如何《いか》なる眼快手利《がんくわしゆり》の政治家《せいぢか》でも、時勢《じせい》に引《ひき》づられて、自《みづ》から居措《きよそ》を失《うしな》ふことがある。
弘化《こうくわ》、嘉永《かえい》の間《あひだ》は、必《かな》らずしもそれ程《ほど》ではなかつた。されど時勢《じせい》の速力《そくりよく》は、とても幕府《ばくふ》黨局者《たうきよくしや》の追隨《つゐずゐ》を容《ゆる》さなかつた。云《い》はば幕府《ばくふ》政治家《せいぢか》の愚鈍《ぐどん》、怠慢《たいまん》と云《い》はんよりも、時勢《じせい》の推移《すゐい》、變遷《へんせい》が、彼等《かれら》の足並《あしなみ》よりも、より急速《きふそく》であつた。然《しか》も如何《いか》に時勢《じせい》が斯《か》くあればとて、その時勢《じせい》に順應《じゆんおう》して、相應《さうおう》の施設《しせつ》を爲《な》す可《べ》きことを、爲《な》さなかつた責任《せきにん》は、黨局者《たうきよくしや》が負《お》はねばならぬ。幕府《ばくふ》自《みづ》から爲《な》す可《べ》き事《こと》を爲《な》さず、亦《また》爲《な》す能《あた》はざる場合《ばあひ》に於《おい》て、幕府《ばくふ》が其《そ》の政權《せいけん》を失墜《しつつゐ》するは、必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》と云《い》はねばならぬ。
幕府《ばくふ》の敵《てき》は、外國《ぐわいこく》でもなく、諸藩《しよはん》でもなく、勤王《きんわう》の浪人者《らうにんもの》でもなく、固《もと》より恐《おそ》れ多《おほ》くも朝廷《てうてい》でもない。幕府《ばくふ》の敵《てき》は、幕府自身《ばくふじしん》である。

[#5字下げ][#中見出し]【三】幕府自ら其の政權を失墜す[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も徳川家康《とくがはいへやす》の江戸《えど》に霸府《はふ》を定《さだ》むるや、朝幕《てうばく》の關係《くわんけい》を、極《きは》めて明白《めいはく》に劃定《くわくてい》した。即《すなは》ち一|切《さい》の政權《せいけん》は、幕府《ばくふ》が掌握《しやうあく》し、朝廷《てうてい》は一|切《さい》の政治《せいぢ》に關係《くわんけい》なく、亦《ま》た一|切《さい》の政務《せいむ》に就《つい》て、容喙《ようかい》あらせられざる※[#こと、10-1]と制定《せいてい》した。而《しか》して却《かへつ》て將軍《しやうぐん》よりして、朝廷《てうてい》の内部《ないぶ》に於《お》ける、施爲《しゐ》にさへも、種々《しゆ/″\》干渉《かんせふ》した。
家康《いへやす》は慶長《けいちやう》廿|年《ねん》(元和元年)[#「(元和元年)」は1段階小さな文字]七|月《ぐわつ》十七|日《にち》もて、禁中及公家諸法度《きんちゆうおよびくげしよはつと》を定《さだ》め、それには二|條昭實《でうあきざね》、家康《いへやす》及《およ》び秀家《ひでいへ》が署名《しよめい》してゐる。〔參照 家康時代概觀、二九―三一〕[#「〔參照 家康時代概觀、二九―三一〕」は1段階小さな文字]而《しか》して其《そ》の冐頭《ばうとう》には、『一、天子《てんし》諸藝能《しよげいのう》の事《こと》、第《だい》一|御學問也《ごがくもんなり》』とあるが、此《こ》の御學問《ごがくもん》なるものは、何等《なんら》實際《じつさい》の御政務《ごせいむ》には關係《くわんけい》なきものとして、所謂《いはゆ》る諸藝能《しよげいのう》、即《すなは》ち御遊藝《ごいうげい》の中《うち》に數《かぞ》へたものであつた。
至尊《しそん》は唯《た》だ皇居《くわうきよ》の室内《しつない》、若《も》しくは座内《ざない》の、御自由《ごじいう》あらせ給《たま》うたのみで、宮門外《きゆうもんぐわい》、一|歩《ぽ》たりとも、御蹈《おんふ》み出《いだ》しの自由《じいう》は無《なか》つた。叡山《えいざん》の麓《ふもと》なる修學院《しうがくゐん》に御幸《みゆき》さへも、幕府《ばくふ》の許可《きよか》なくしては能《あた》はず。其《そ》の許可《きよか》も容易《ようい》に來《きた》らず、爲《た》めに紅葉《こうえふ》の期《き》を失墜《しつつゐ》し給《たま》うたる次第《しだい》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 寳暦明和篇、二〇〕[#「〔參照 寳暦明和篇、二〇〕」は1段階小さな文字]斯《かゝ》る次第《しだい》であれば、朝廷《てうてい》から積極的《せつきよくてき》に、内外《ないぐわい》の政務《せいむ》に就《つい》て、幕府《ばくふ》に向《むかつ》て御沙汰《ごさた》など、決《けつ》して有《あ》り得可《うべ》き筈《はず》なく、若《も》し萬《まん》一さる事《こと》がありたらんには、幕府《ばくふ》は必《かな》らず朝廷《てうてい》に向《むかつ》て、幕府《ばくふ》の權威《けんゐ》を侵蝕《しんしよく》し給《たま》ふ御沙汰《ごさた》として、屹度《きつと》報復的《はうふくてき》手段《しゆだん》を取《と》りたるに相違《さうゐ》あるまい。
[#ここから1字下げ]
淳和《じゆんな》獎學《しやうがく》兩院《りやうゐん》別當職《べつたうしよく》、關東將軍《くわんとうしやうぐん》え|被[#レ]任候上《まかせられさふらふうへ》は、三|親王《しんわう》、攝家《せつけ》を始《はじめ》、公家《くげ》並《ならびに》諸侯《しよこう》と雖《いへど》も、悉《こと/″\く》|致[#二]支配[#一]候《しはいいたしさふらふ》、國役《くにやく》一|切《さい》|可[#レ]爲[#レ]知《しらせべく》、政道《せいだう》奏聞《そうもん》に及《およ》ばず。四|海《かい》鎭致《しづめいた》しがたき時《とき》は、其罪《そのつみ》將軍《しやうぐん》に有《ある》べし。〔公武法制應勅十八箇條〕[#「〔公武法制應勅十八箇條〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは家康《いへやす》の名《な》を以《もつ》て、定《さだ》められたるものとして傳《つた》ふるも、恐《おそ》らく假託《かたく》ならむ。されど權利《けんり》の存《そん》する所《ところ》、義務《ぎむ》從《したがつ》て存《そん》す。天下《てんか》の政權《せいけん》が、一|切《さい》將軍《しやうぐん》に歸《き》するに際《さい》して、天下《てんか》の安寧《あんねい》秩序《ちつじよ》を保持《ほぢ》する責任《せきにん》の一|切《さい》、將軍《しやうぐん》に歸《き》す可《べ》きは、固《もと》より當然《たうぜん》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。
如何《いか》なる時代《じだい》に於《おい》ても、如何《いか》なる場合《ばあひ》に於《おい》ても、權利《けんり》ありて義務《ぎむ》なきことはない。若《も》しさることあらば、是《こ》れ天下混亂《てんかこんらん》の徴《ちよう》と云《い》はねばならぬ。乃《すなは》ち徳川幕府《とくがはばくふ》が、一|切《さい》の政權《せいけん》を專《もつぱら》にしたるは、天下《てんか》の爲《た》めに暴《ばう》を禁《きん》じ、亂《らん》を靖《やす》め、上下《しやうか》をして其堵《そのと》に安《やすん》ぜしめんが爲《た》めにして、亦《ま》た安《やす》んぜしめたる爲《た》めであつた。
然《しか》るに今《いま》や外患《ぐわうくわん》の來《きた》らんとする形勢《けいせい》は、夢魘《むえん》の如《ごと》く、我《わ》が上下《しやうか》を襲《おそ》ひ來《きた》つた。而《しか》して幕府《ばくふ》はその對策《たいさく》を自《みづ》から定《さだ》むる能力《のうりよく》なく、人心《じんしん》を安堵《あんど》せしむる威信《ゐしん》なく、幕府《ばくふ》自《みづ》から其《そ》の方針《はうしん》を定《さだ》めて、上下《しやうか》を率《ひき》ゐず、却《かへつ》て其《そ》の郡僚《ぐんれう》に向《むかつ》て、其《そ》の處置《しよち》の方策《はうさく》を諮問《しもん》するの状態《じやうたい》にあつた。斯《かゝ》る場合《ばあひ》に際《さい》して、朝廷《てうてい》から積極的《せつきよくてき》に、幕府《ばくふ》に向《むかつ》て、外事《ぐわいじ》に就《つい》て、告諭《こくゆ》あらせ給《たま》ふも、幕府《ばくふ》は所謂《いはゆ》る『餘計《よけい》なる御世話《おせわ》』として、之《これ》を拒絶《きよぜつ》する譯《わけ》には參《まゐ》らなかつたのは、是非《ぜひ》なき次第《しだい》だ。
固《もと》より外船《ぐわいせん》が頻繁《ひんぱん》に、我《わ》が沿岸《えんがん》に來往《らいわう》するのも、二|百《ひやく》幾《いく》十|年來《ねんらい》、未《いま》だ曾《かつ》て有《あ》らざりし事件《じけん》だ。されば此《こ》の新事件《しんじけん》に對《たい》して、朝廷《てうてい》から未《いま》だ曾《かつ》て有《あ》らざりし、告諭《こくゆ》の出《い》で來《きた》つたのも、必《かな》らずしも藪《やぶ》から棒《ぼう》の御沙汰《ごさた》とは云《い》はれまい。されど若《も》し幕府《ばくふ》が有力《いうりよく》であつたならば、朝廷《てうてい》から斯《かゝ》る告諭《こくゆ》を下《くだ》し給《たま》ふ可《べ》きことも、不可能《ふかのう》であり、又《ま》た其《そ》の必要《ひつえう》も無《な》かつたであらう。
其《そ》の外形《ぐわいけい》に於《おい》ては、弘化《こうくわ》、嘉永間《かえいかん》の幕府《ばくふ》は、元祿《げんろく》、享保間《きやうほうかん》の幕府《ばくふ》と、差《さ》したる相違《さうゐ》はなかつた。されど其《そ》の内容《ないよう》に於《おい》ては、到底《たうてい》同日《どうじつ》の論《ろん》ではなかつた。幕府《ばくふ》の元氣《げんき》は、既《すで》に消磨《せうま》して居《ゐ》た。幕府《ばくふ》は自力《じりき》を恃《たの》まず、他力《たりき》を恃《たの》まんとしてゐた。幕府《ばくふ》が天下《てんか》の指導者《しだうしや》たらずして、寧《むし》ろ自《みづ》から他《た》に指導者《しだうしや》を得《え》んとしてゐた。
斯《かゝ》る情態《じやうたい》に際《さい》して、朝廷《てうてい》より思召《おぼしめし》を傳《つた》へ來《きた》つたのも、決《けつ》して無理《むり》もなく、不思議《ふしぎ》もない。事《こと》は小《せう》なれども、關係《くわんけい》する所《ところ》は大《だい》。

[#5字下げ][#中見出し]【四】外憂に關する御沙汰書[#中見出し終わり]

弘化《こうくわ》三|年《ねん》八|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、朝廷《てうてい》より實《じつ》に左《さ》の御沙汰書《ごさたしよ》が、幕府《ばくふ》に降《くだ》つた。此《こ》れは朝幕《てうばく》の間《あひだ》に於《お》ける、對外問題《たいぐわいもんだい》に關《くわん》する交渉《かうせふ》の始《はじ》めである。一たび此端《このたん》を啓《ひら》きたる後《のち》は、幕府《ばくふ》は外交問題《ぐわいかうもんだい》に就《つい》て、恒《つね》に朝廷《てうてい》の干渉《かんせふ》を免《まぬ》かるゝ能《あた》はなかつた。
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 八|月《ぐわつ》二十九|日《にち》御沙汰書《ごさたしよ》
近年《きんねん》異國船《いこくせん》時々《じゝ》相見候趣《あひみえさふらふおもむき》、風説《ふうせつ》内々《ない/\》|被[#二]聞食[#一]候《きこしめされさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》文道《ぶんだう》能《よく》修《をさまり》、武事《ぶじ》全《まつたく》整候《とゝのひさふらふ》御時節《ごじせつ》、殊《こと》に海邊防禦《かいへんばうぎよ》堅固之旨《けんごのむね》、是又《これまた》兼々《かね/″\》|被[#二]聞食[#一]候而《きこしめされさふらうて》、御安慮候得共《ごあんりよにさふらえども》、近頃《ちかごろ》其風聞《そのふうぶん》屡《しば/\》彼是《かれこれ》|被[#レ]爲[#レ]掛[#二]叡念[#一]候《えいねんにかけさせられさふらふ》。猶《なほ》此上《このうへ》武門之面々《ぶもんのめん/\》、洋蠻之《やうばんの》|不[#レ]侮[#二]小寇[#一]《せうこうをあなどらず》、|不[#レ]畏[#二]大賊[#一]《たいぞくをおそれず》、宜《よろしく》籌策《ちうさく》|有[#レ]之《これありて》、神州之瑕瑾《しんしうのかきん》|無[#レ]之樣《これなきやう》、精々《せい/″\》御指揮候而《ごしきさふらうて》、彌《いよ/\》|可[#レ]被[#レ]安[#二]宸襟[#一]候《しんきんをやすんぜらるべくさふらふ》。此段《このだん》|宜[#レ]有[#二]御沙汰[#一]候事《よろしくごさたあるべくさふらふこと》。〔孝明天皇紀〕[#「〔孝明天皇紀〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは表面《へうめん》極《きは》めて穩當《をんたう》なる文字《もんじ》にして、唯《た》だ單《たん》に幕府《ばくふ》の注意《ちゆうい》を促《うな》がしたる迄《まで》に過《す》ぎない。されば幕府《ばくふ》としても、政治《せいぢ》の事《こと》、一|切《さい》幕府《ばくふ》に御委任《ごゐにん》の事《こと》なれば、御心配《ごしんぱい》は御無用《ごむよう》と、彈《は》ね付《つ》くることも出來《でき》ず、その儘《まゝ》之《これ》を拜承《はいしよう》した。
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 十|月《ぐわつ》三|日《か》所司代《しよしだい》上申書《じやうしんしよ》
近年《きんねん》異國船《いこくせん》時々《じゝ》相見候趣《あひみえさふらふおもむき》、風説《ふうせつ》内々《ない/\》|被[#二]聞食[#一]候《きこしめされさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》文道《ぶんだう》能《よく》修《をさまり》、武事《ぶじ》全《まつたく》整候《とゝのひさふらふ》御時節《ごじせつ》、殊《こと》に海邊防禦《かいへんばうぎよ》堅固之旨《けんごのむね》、是又《これまた》兼々《かね/″\》|被[#二]聞食[#一]候而《きこしめされさふらふて》、御安慮候得共《ごあんりよさふらへども》、近頃《ちかごろ》其風聞《そのふうぶん》屡《しば/″\》彼是《かれこれ》|被[#レ]爲[#レ]懸[#二]叡念[#一]候《えいねんにかけさせられさふらふ》。猶《なほ》此上《このうへ》武門之面々《ぶもんのめん/\》、洋蠻之《やうばんの》|不[#レ]侮[#二]小寇[#一]《せうこうをあなどらず》、|不[#レ]畏[#二]大賊[#一]《たいぞくをおそれず》、宜《よろしく》籌策《ちうさく》|有[#レ]之《これありて》、神州之《しんしうの》瑕瑾《かきん》|無[#レ]之樣《これなきやう》、精々《せい/″\》御指揮候而《ごしきさふらうて》、彌《いよ/\》|可[#レ]被[#レ]安[#二]宸襟[#一]候《しんきんをやすんぜらるべくさふらふ》。此段《このだん》|宜[#レ]致[#二]沙汰[#一]旨《よろしくさたいたすべきむね》、先達而《せんだつて》|被[#二]仰聞[#一]《おほせきけられ》、關東《くわんとう》へ相達候處《あひたつしさふらふところ》、則《すなはち》右之趣《みぎのおもむき》、|及[#二]言上[#一]候間《ごんじやうにおよびさふらふあひだ》、其段《そのだん》|御達可[#レ]申旨《おたつしまをすべきむね》、年寄共《としよりども》より申越候事《まをしこしさふらふこと》。
異國船之儀《いこくせんのぎ》、文化度《ぶんくわど》(對露交渉)[#「(對露交渉)」は1段階小さな文字]之振合《のふりあひ》も|有[#レ]之候《これありさふらふ》に付《つき》、|差支無[#レ]之事柄《さしつかへこれなきことがら》は、近来之《きんらいの》模樣《もやう》粗《ほゞ》申進候樣《まをしまゐらせさふらふやう》には相成間敷哉《あひなるまじきや》。其譯《そのわけ》内々《ない/\》|被[#レ]及[#二]言上[#一]候《ごんじやうにおよばれさふら》はゞ、却而《かへつて》御安慮之御儀《ごあんりよのおんぎ》にも|可[#レ]有[#レ]之哉《これあるべきか》。猶《なほ》私《ひそかに》宜《よろしく》|勘考候樣被[#レ]成度《かんかうさふらやうなされたく》、仍《すなはち》|被[#レ]及[#二]御内談[#一]候趣《ごないだんにおよばれさふらふおもむき》、關東《くわんとう》へ相達候處《あひたつしさふらふところ》、異國船《いこくせん》近頃《ちかごろ》渡來之旨趣《とらいのししゆ》、別紙《べつし》を以《もつ》て申越候間《まをしこしさふらふあひだ》、文化度之振合《ぶんくわどのふりあひ》を以《もつて》程能《ほどよく》取計候樣《とりはからひさふらふやう》にと、年寄共《としよりども》より申越候《まをしこしさふらふ》に付《つき》、則《すなはち》御附《おつき》へ相達置候事《あひたつしおきさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《これ》にて見《み》れば、朝廷《てうてい》より外交事情具申《ぐわうかうじじやうぐしん》を、要求《えうきう》あらせられ、それを拜承《はいしよう》して、幕府《ばくふ》から具申《ぐしん》することゝなつたのだ。その文化度《ぶんくわど》の振合云々《ふりあひうんぬん》は、文化年度《ぶんくわねんど》露國《ろこく》との交渉《かうせふ》に付《つい》て、幕府《ばくふ》から其《そ》の事情《じじやう》の一|斑《ぱん》を上申《じやうしん》したことだ。振合《ふりあひ》とは其《そ》の前例通《ぜんれいどほ》りに於《おい》てと云《い》ふ意味《いみ》であらう。
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 十|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》武士上申書《ぶしじやうしんしよ》
當《たう》四|月《ぐわつ》五|日《か》琉球國之内《りうきうこくのうち》、那霸沖《なはおき》と申所《まをすところ》へ、暎※[#「口+吉」、第4水準2-3-81]※[#「口+利」、第3水準1-15-4]國之船《イギリスこくのふね》二十|人乘《にんのり》一|艘《さう》、唐人共《たうじんども》も乘組《のりくみ》渡來《とらい》、同《どう》七|日《か》那霸港《なはみなと》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》三|百人乘《ぴゃくにんのり》一|艘《さう》、五|月《ぐわつ》七|日《か》、同《どう》十三|日《にち》、同國《どうこく》運天港《うんてんのみなと》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》、大綱兵船《おほつなへいせん》と唱《となへ》五|百人乘《ひゃくにんのり》一|艘《さう》、三|百人乘《ぴゃくにんのり》一|艘《さう》兩度《りやうど》に、猶又《なほまた》渡來《とらい》。琉球國《りうきうこく》と通商和好等之儀《つうしやうわかうとうのぎ》申立候《まをしたてさふらふ》に付《つき》、役々《やく/\》より示談之上《じだんのうへ》、委細《ゐさい》|及[#二]理解[#一]《りかいにおよび》、通商等之儀《つうしやうとうのぎ》、堅《かた》く相斷候處《あひことわりさふらふところ》、其段《そのだん》本國《ほんごく》へ罷歸申聞《まかりかへりまをしきけ》、猶《なほ》一|箇年程《かねんほど》には、又候《またぞろ》渡來《とらい》も|可[#レ]致旨《いたすべきむね》異人共《いじんども》より|及[#二]挨拶[#一]《あいさつにおよぶ》。
閏《うるふ》五|月《ぐわつ》廿四|日《か》一|同《どう》出帆致《しゆつぱんいた》し、尤《もつと》右之内《みぎのうち》佛朗西人《フランスじん》一|人《にん》、並《ならびに》當《たう》四|月中《ぐわつちゆう》渡來致《とらいいたし》し候《さふらふ》暎※[#「口+吉」、第4水準2-3-81]※[#「口+利」、第3水準1-15-4]國之醫師《イギリスこくのいし》並《ならびに》妻子《さいし》、唐人共《とうじんども》は今以《いまもつて》琉球國《りうきうこく》へ殘《のこ》し置候《おきさふらふ》に付《つき》、夫々《それ/″\》嚴重《げんぢゆう》に手當致《てあていた》し置候由《おきさふらふよし》、松平大隈守《まつだひらおほすみのかみ》(島津齊興)[#「(島津齊興)」は1段階小さな文字]より、追々《おひ/\》|注進有[#レ]之候《ちゆうしんこれありさふらふ》。〔參照 幕府實力失墜時代、二〇―二八〕[#「〔參照 幕府實力失墜時代、二〇―二八〕」は1段階小さな文字]
閏《うるふ》五|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、浦賀之沖合《うらがのおきあひ》へ、北亞米利加國之船《きたあめりかこくのふね》、一|艘《さう》は長《なが》さ四十二|間程《けんほど》にて、八|百人《ぴやくにん》乘組《のりくみ》、一|艘《さう》は長《なが》さ二十二|間程《けんほど》にて、二|百人《ひやくにん》乘組《のりくみ》渡來《とらい》。軍船之模樣《いくさぶねのもやう》にも相見《あひみ》え候《さふらふ》に付《つき》、浦賀奉行《うらがぶぎやう》與力《よりき》同心共《どうしんども》並《ならびに》御備場詰之役々《おんそなへばづめのやく/\》、早速《さつそく》出船致《しゆつせんいた》し、同所《どうしよ》野比濱沖《のびはまおき》にて乘留《のりとめ》、|及[#二]通辯[#一]候處《つうべんにおよびさふらふところ》。右船《みぎふね》逆意等《ぎやくいとう》は|無[#レ]之《これなく》、交易之儀《かうえきのぎ》、強《たつ》て相願候趣《あひねがひさふらふおもむき》、横文字《よこもじ》差出候《さしいだしさふらふ》に付《つき》、日本之儀《にほんのぎ》は、外國之通信通商《ぐわいこくのつうしんつうしやう》新《あらた》に御許容《ごきよよう》は|難[#二]相成[#一]《あひなりがたき》御國禁之旨《ごこくきんのむね》申諭《まをしさとし》、食料《しよくれう》薪水等《しんすゐとう》望《のぞみ》に任《まか》せ、相應《さうおう》に與《あた》へ、早々《さう/\》出帆候樣《しゆつぱんさふらふやう》申渡候處《まをしわたしさふらふところ》、右之趣《みぎのおもむき》承伏致《しようふくいた》し、請書《うけしよ》をも差出《さしいだし》、六|月《ぐわつ》七|日《か》出帆之事《しゆつぱんのこと》に候《さふらふ》。〔參照 同上、40―四六〕[#「〔參照 同上、40―四六〕」は1段階小さな文字]
同月《どうげつ》廿七|日《にち》、同所之沖合《どうしよのおきあひ》へ、デネマルカ[#「デネマルカ」に二重傍線](嗹馬〕[#「〔嗹馬〕」は1段階小さな文字]國之船《こくのふね》一|艘《さう》相見候《あひみえさふらふ》に付《つき》、役々《やく/\》相越《あひこし》、是又《これまた》|通辯爲[#レ]致候處《つうべんいたさせさふらふところ》、地理測量之爲《ちりそくりようのため》渡來之趣《とらいのおもむき》申立《まをしたて》、同《どう》廿九|日《にち》子細《しさい》も|無[#レ]之《これなく》、遠沖《とほおき》へ走《はし》り去《さ》り、帆影《ほかげ》も|相見不[#レ]申候《あひみえまをさずさふらふ》。
六|月《ぐわつ》七|日《か》、長崎《ながさき》高鉾島《たかほこじま》と申所《まをすところ》へ、佛朗西國之船《フランスこくのふね》二|艘《さう》渡來《とらい》に付《つき》、檢使等《けんしとう》差遣《さしつかはし》、渡來之趣意《とらいのしゆい》相糺候處《あひたゞしさふらふところ》、二|箇年以前《かねんいぜん》日本近海《にほんきんかい》にて、鯨漁之佛朗西船《くぢられふのフランスせん》暴風雨《ぼうふうう》に逢候《あひさふらふ》に付《つき》、地方《ぢかた》へ寄《よせ》、船《ふね》を繋候處《つなぎさふらふところ》、如何之取扱《いかゞのとりあつかひ》に逢候間《あひさふらふあひだ》、以後《いご》佛朗西國之者共《フランスこくのものども》日本之地方《にほんのぢかた》にて、若《もし》|及[#二]難船[#一]候《なんせんにおよびさふら》はゞ、扶助《ふじよ》相願度《あひねがひたく》、且《かつ》漂流之者《へうりうのもの》|有[#レ]之節《これあるせつ》は、唐紅毛之船《からろしあのふね》歸帆之節《きはんのせつ》、返《かへ》し呉候樣《くれさふらふやう》にと之趣《のおもむき》申立候《まをしたてさふらふ》に付《つき》、薪水等《しんすゐとう》望之品《のぞみのしな》|差遣可[#レ]申《さしつかはしまをすべく》と心組候内《こゝろぐみさふらふうち》、右《みぎ》申立之返答《まをしたてのへんたふ》をも|不[#二]承屆[#一]《うけたまはりとゞけず》、同《どう》九|日《か》子細《しさい》|不[#二]相分[#一]《あひわからず》、俄《にはか》に出帆致《しゆつぱんいた》し、三|艘共《さうとも》沖手《おきて》へ走《はし》り去《さ》り申候《まをしさふらふ》。
右之外《みぎのほか》には別條《べつでう》|無[#レ]之事《これなきこと》に候旨《さふらふむね》、|爲[#二]心得[#一]《こゝろえのため》年寄衆《としよりしゆう》より申來候事《まをしきたりさふらふこと》。
 十|月《ぐわつ》
右之趣《みぎのおもむき》酒井若狹守《さかゐわかさのかみ》(所司代)[#「(所司代)」は1段階小さな文字]|無[#二]急度[#一]《きつとなく》申聞候《まをしきけさふらふ》に付《つき》、此段《このだん》申上候《まをしあげさふらふ》。
  十|月《ぐわつ》三|日《か》[#地から1字上げ]明樂大隈守《めいがくおほすみのかみ》
[#ここで字下げ終わり]
尚《な》ほ菅原《すがはら》(東坊城)[#「(東坊城)」は1段階小さな文字]聰長記《としながき》によれば、
[#ここから1字下げ]
十|月《ぐわつ》廿八|日《か》庚辰《かうしん》、關白殿《くわんぱくどの》(鷹司政通)[#「(鷹司政通)」は1段階小さな文字]昨日《さくじつ》|令[#レ]談給《だんぜしめたまひ》、水戸前中納言齊昭卿《みとさきのちゆうなごんなりあききやう》封事《ふうじ》一|册《さつ》|爲[#レ]見被[#レ]下《みせくださる》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《これ》を見《み》れば水戸齊昭《みとなりあき》は、既《すで》に京都《きやうと》にも、それ/″\手入《ていれ》をなしたるものと思《おも》はる。封事《ふうじ》は恐《おそ》らくは、幕府《ばくふ》に差出《さしいだ》したるものゝ寫《うつし》であらう。兎《と》も角《かく》も異國船《いこくせん》渡來《とらい》の頻繁《ひんぱん》と同時《どうじ》に、朝幕間《てうばくかん》の干繋《かんけい》が、愈《いよい》よ頻繁《ひんぱん》となつて來《き》た。
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