彼理來航以前の形勢刊行に就て
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[#4字下げ][#大見出し]彼理來航以前の形勢刊行に就て[#大見出し終わり]

今茲《いまこゝ》に孝明天皇期《かうめいてんわうき》、第《だい》一|卷《くわん》、即《すなは》ち近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》第《だい》一|期《き》、織田豐臣時代《おだとよとみじだい》より徳川時代《とくがはじだい》を通《つう》じて、第《だい》三十|卷《くわん》を刊行《かんかう》するは、著者《ちよしや》に取《と》りて、頗《すこぶ》る快心《くわいしん》の業《げふ》である。世《よ》に『塵《ちり》も積《つも》れば山《やま》となる』と云《い》ふ諺《ことわざ》があるが、我《わ》が近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》も、正《まさ》しく此《こ》の通《とほ》りだ。
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歴史《れきし》に時期《じき》を劃《くわく》するは、歴史家自身《れきしかじしん》の都合《つがふ》によるものにして、本來《ほんらい》は無理《むり》でなければ、盲斷《まうだん》だ。歴史《れきし》は縱《じう》には何時迄《いつまで》も、繼續《けいぞく》してゐる。横《わう》には何處迄《どこまで》も、聯絡《れんらく》してゐる。云《い》はゞ精確《せいかく》に一|村《そん》の歴史《れきし》を書《か》くには、全世界《ぜんせかい》の歴史《れきし》から手《て》を著《つ》けねばならぬ。精確《せいかく》に一|週間《しうかん》の歴史《れきし》を書《か》くには、人類原始《じんるゐげんし》に遡《さかのぼ》らねばならぬ。
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斯《か》く云《い》へば餘《あま》りに仰山《ぎやうさん》であり、餘《あま》り臆劫《おくこふ》である。されど事實《じじつ》全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りだ。但《た》だそれでは實際《じつさい》とても何人《なんびと》の手《て》にもおへない。餘《あま》りに大物《おほもの》で、誰《たれ》にも料理《れうり》が出來《でき》ない。此《こゝ》に於《おい》て餘儀《よぎ》なく場所《ばしよ》を限《かぎ》り、時代《じだい》を劃《くわく》する※[#こと、2-3]とはなつてゐる。本書《ほんしよ》の著者《ちよしや》も亦《ま》た、一|般史家の例《ぱんしか》の例《れい》に則《のつとり》て、近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》を、織田氏以降《おだしいかう》となし、而《しか》して其《そ》の時期《じき》を三|期《き》に分《わか》ち、第《だい》一|期《き》織豐《しよくほう》乃《ないし》徳川時代《とくがはじだい》、第《だい》二|期《き》孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》、第《だい》三|期《き》明治天皇時代《めいぢてんわうじだい》とした。而《しか》して如何《いか》に我儘《わがまゝ》に其《そ》の時期《じき》を限《かぎ》りても、第《だい》一|期《き》はせめて南北朝頃《なんぼくてうごろ》までには遡《さかのぼ》りたかつた。されど日暮途遠《ひぐれみちとほし》の嘆《たん》ありたる爲《た》め、餘儀《よぎ》なく切《き》り詰《つ》めて、織田氏《おだし》から始《はじ》めたのであつた。
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且《か》つ表面年代《へうめんねんだい》の順序《じゆんじよ》から云《い》へば、徳川時代《とくがはじだい》から、直《たゞ》ちに明治天皇時代《めいぢてんわうじだい》に接《せつ》す可《べ》くして。孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》は、寧《むし》ろ徳川時代《とくがはじだい》の一|部《ぶ》と見做《みな》す可《べ》きものであらねばならぬ。何《なん》となれば第《だい》十五|代將軍《だいしやうぐん》徳川慶喜《とくがはよしのぶ》の將軍職《しやうぐんしよく》を辭《じ》したるは、慶應《けいおう》三|年《ねん》十|月《ぐわつ》にして、明治天皇《めいぢてんわう》の御踐祚《ごせんそ》は其《そ》の一|月《ぐわつ》である。されば若《も》し如上《じよじやう》の事實《じじつ》を憑據《ひようきよ》とすれば、徳川時代《とくがはじだい》に次《つ》ぐには、明治天皇《めいぢてんわう》の御宇時代《ぎようじだい》を以《もつ》てするを、至當《したう》とせねばならぬ。
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然《しか》も予《よ》が此《こ》の表面的事實《へうめんてきじじつ》に馮據《ひようきよ》せずして、別《べつ》に孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を劃《くわく》したる所以《ゆゑん》は、嘉永安政以來《かえいあんせいいらい》、幕府《ばくふ》は殆《ほと》んど日本支配者《にほんしはいしや》たる實力《じつりよく》實權《じつけん》を失墜《しつつゐ》し去《さ》り、從來《じゆうらい》政治《せいぢ》の實際以外《じつさいいぐわい》に遠《とほざ》かりたる朝廷《てうてい》は、漸次《ぜんじ》に政治的中心點《せいぢてきちゆうしんてん》たる面目《めんもく》を發露《はつろ》し。朝廷《てうてい》を無視《むし》したる幕府《ばくふ》は、却《かへつ》て朝廷《てうてい》の鼻息《びそく》を仰《あふ》いで、其《そ》の施設《しせつ》を做《な》すに至《いた》つた。此《かく》の如《ごと》くして徳川氏《とくがはし》の名《な》は存《そん》するも、實《じつ》は既《すで》に亡《ほろ》びんとし、且《か》つ亡《ほろ》びつゝあつた。是《こ》れが嘉永安政以來《かえいあんせいいらい》の大勢《たいせい》だ。苟《いやしく》も此《こ》の大勢《たいせい》を看取《かんしゆ》するもの、是《こ》れ孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を劃《くわく》するの已《や》む可《べか》らざる所以《ゆゑん》だ。
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人皆《ひとみ》な明治天皇《めいぢてんわう》の盛徳大業《せいとくたいげふ》を頌《しよう》す。予《よ》は此事《このこと》に於《おい》て、決《けつ》して人後《じんご》に落《お》ちない。否《い》な本書《ほんしよ》の目的《もくてき》は、專《もつぱ》ら明治天皇御宇史《めいぢてんわうぎようし》を著《ちよ》するにありて、その他《た》は寧《むし》ろその前記《ぜんき》に過《す》ぎない。されど前記《ぜんき》にもせよ、緒論《しよろん》にもせよ、孝明天皇《かうめいてんわう》[#ルビの「かうめいてんわう」は底本では「かうめいてんわん」]の一|時代《じだい》を無視《むし》するは、歴史家《れきしか》として餘《あま》りに沒分曉《ぼつぶんげう》だ。云《い》はゞ孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》の次《つぎ》に、明治天皇時代《めいぢてんわうじだい》が出《い》で來《きた》つたばかりでなく、孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》あつた爲《た》めに、明治天皇時代《めいぢてんわうじだい》は出《い》で來《きた》つたのだ。吾人《ごじん》は孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を、唯《た》だ徳川時代《とくがはじだい》から明治時代《めいぢじだい》までの經過《けいくわ》の時代《じだい》とは認《みと》めない。唯《た》だ兩期間《りやうきかん》に挾《はさ》まる一|個《こ》の通《とほ》り拔《ぬ》けの時代《じだい》とは認《みと》めない。否《い》な孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》には、特定《とくてい》の使命《しめい》があり、而《しか》して其《そ》の使命《しめい》が、首尾克《しゆびよ》く果《はた》されたるものと認《みと》めてゐる。是《こ》れ則《すなは》ち吾人《ごじん》が孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を、近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》の第《だ》二|期《き》に計上《けいじやう》したる所以《ゆゑん》だ
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明治天皇《めいぢじだい》は中興《ちゆうこう》の英主《えいしゆ》にて在《ましま》す。されど天皇《てんわう》が中興《ちゆうこう》の偉業《ゐげふ》をして、赫々《かく/\》たらしめたる所以《ゆゑん》は。一に孝明天皇《かうめいてんわう》の、嘉永安政《かえいあんせい》より、元治慶應《げんぢけいおう》に至《いた》る足掛《あしか》け二十|年間《ねんかん》に於《お》ける、一|身《しん》を以《もつ》て、皇國《くわうこく》の爲《た》めに、犧牲的盡瘁《ぎせいてきじんすゐ》を遊《あそ》ばされたる爲《た》めと云《い》はねばならぬ。云《い》はゞ撥亂反正《はつらんはんせい》の業《げふ》は、殆《ほと》んど孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》に出《い》で來《きた》つた。明治天皇《めいぢてんわう》の御宇《ぎよう》は、此《これ》を基礎《きそ》として、更《さ》らに中興《ちゆうこう》の偉業《ゐげふ》を大成遊《たいせいあそ》ばされたのだ。其《そ》の偉業《ゐげふ》の偉《ゐ》は固《まこと》に偉《ゐ》なるも、事《こと》の此《こゝ》に到《いた》りたる所以《ゆゑん》は、偏《ひとへ》に孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》に於《お》ける、恐《おそ》れ多《おほ》くも孝明天皇《かうめいてんわう》御自身《ごじしん》は固《もと》より、天皇《てんわう》を中心《ちゆうしん》として努力《どりよく》したる志士《しし》の功《こう》と、勞《らう》に歸《き》せねばならぬ。
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孝明天皇《かうめいてんわう》の時代《じだい》に於《おい》ては、幕府《ばくふ》にも賢相《けんしやう》阿部正弘《あべまさひろ》の如《ごと》きものがあつた。藩主《はんしゆ》としても水戸齊昭《みとなりあき》、島津齊彬《しまづなりあきら》の徒《と》があつた。旗本《はたもと》及《およ》び各藩《かくはん》の中《うち》には、一|藝《げい》一|能《のう》の士《し》は固《もと》より、宇内《うだい》の大勢《たいせい》を察《さつ》し、國家《こくか》の經綸《けいりん》に任《にん》ぜんとする者《もの》も、決《けつ》して皆無《かいむ》ではなかつた。然《しか》も其《そ》の中心點《ちゆうしんてん》は、孝明天皇《かうめいてんわう》にて在《ましま》した。天皇《てんわう》は決《けつ》して北條氏《ほうでうし》を亡《ほろぼ》さんとする後鳥羽上皇《ごとばじやうくわう》でもなく、後醍醐天皇《ごだいごてんわう》ではなかつた。されど中外多事《ちゆうぐわいたじ》の際《さい》に於《おい》て、我《わ》が金甌無缺《きんおうむけつ》の帝國《ていこく》の爲《た》めに、宸襟《しんきん》を惱《なや》まし給《たま》ひ、天下《てんか》と與《とも》に其憂《そのうれひ》を分《わか》ち給《たま》うた。而《しか》して幕府《ばくふ》の施設《しせつ》に就《つい》ては、恒《つね》に嚴密《げんみつ》なる注意《ちゆうい》を拂《はら》ひ、苟《いやしく》も聖意《せいい》に可《か》ならざるあれば、再《さい》三|再《さい》四|之《これ》を開示《かいじ》し、之《これ》を刺戟《しげき》し、之《これ》に奬順《しやうじゆん》せしめんとし給《たま》うた。恐《おそ》れながら天皇《てんわう》は九重《こゝのへ》の内《うち》に在《ましま》して、中外《ちゆうぐわい》の政局《せいきよく》から隔絶《かくぜつ》し給《たま》うたから、其《そ》の御見識《ごけんしき》に於《おい》ては、或《あるひ》は隔靴掻痒《かくくわさうやう》の感《かん》を免《まぬか》れない※[#こと、6-2]もあつた。或《あるひ》は世界《せかい》の大勢《たいせい》と、餘《あま》りに聯絡《れんらく》が乏《とぼ》しかつた爲《た》めに、恐《おそ》れながら聊《いさゝ》か今日《こんにち》から見《み》れば、迂遠《うゑん》とか、過慮《くわりよ》とか申《まを》す可《べ》き御意見《ごいけん》も、往々《わう/\》にしてあつた。されど列聖《れつせい》の遺謨《ゐぼ》に則《のつと》り、此國《このくに》と此民《このたみ》との爲《た》めに、心身《しんしん》を投沒遊《とうぼつあそ》ばされたる御盛慮《ごせいりよ》に對《たい》しては、苟《いやしく》も心《こゝろ》ある者《もの》は、皆《み》な感激《かんげき》、興起《こうき》せざるものはなかつた。
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當時《たうじ》の志士《しし》、吉田松陰《よしだしよういん》の詩《し》に曰《いは》く、
癸丑〔嘉永六年〕[#「〔嘉永六年〕」は1段階小さな文字]十月朔、拜[#二]鳳闕[#一]、肅前作[#レ]之。時余將[#二]西走入[#一][#レ]海。〔案ずるに是れ松陰が、長崎に赴き、布恬廷の船に搭じて、露國に赴かんとしたる際の途上〕
山河襟帶自然城。東來日日憶[#二]神京[#一]。〔後改作[#二]形勝依然舊神京[#一]〕今朝盥嗽拜[#二]鳳闕[#一]。野人悲泣不[#レ]能[#レ]行。上林黄落秋蕭瑟。〔後改作[#二]秋寂寞[#一]〕空有[#二]山河無[#二]變更[#一]。聞説今皇〔孝明天皇〕聖明徳。敬[#レ]天憐[#レ]民發[#二]至誠[#一]。〔後改[#レ]憐作[#レ]愛〕鷄鳴乃起親齋戒。祈禳[#二]妖氣[#一]致[#二]太平[#一]。〔後改[#レ]禳作[#レ]掃〕安得[#二]天詔[#一]勅[#二]六師[#一]。坐使[#三]公威被[#二]八紘[#一]。〔後改[#レ]坐作[#レ]直〕從來英皇不世出。悠悠失[#レ]機今公卿。人生如[#レ]萍無[#二]定住[#一]。何日重拜天日明。
[#ここで字下げ終わり]
此詩《このし》は單《たん》に松陰《しよういん》一|人《にん》の心事《しんじ》を露呈《ろてい》したるばかりでなく、當時《たうじ》志士《しし》の心事《しんじ》を代表《だいへう》して、告白《こくはく》したるものといふも、過言《くわごん》ではあるまい。此《かく》の如《ごと》く上《かみ》に存《ましま》す聖天子《せいてんし》と、下《しも》に群《むらが》る全國《ぜんこく》の志士《しし》とは、恰《あたか》も陰陽電氣《いんやうでんき》の相《あ》ひ通《つう》ずる如《ごと》く、互《たが》ひに交感《かうかん》して、此《こゝ》に驚天動地《きやうてんどうち》の大活劇《だいくわつげき》を發生《はつせい》するに至《いた》つた。而《しか》して其《そ》の根本軌軸《こんぽんきぢく》は、一に孝明天皇《かうめいてんわう》にありと云《い》はねばならぬ。吾人《ごじん》が近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》に於《おい》て、孝明天皇時代《かうめいてんわうじだい》を劃《くわく》して、徳川時代《とくがはじだい》に次《つ》ぎ、明治時代《めいぢじだい》を啓《ひ》らく、特定《とくてい》の時代《じだい》としたるは、如上《じよじやう》の叙述《じよじゆつ》によりて、未《いま》だ必《かな》らずしも理由《りいう》なしとはしないであらう。而《しか》して孝明天皇《かうめいてんわう》が、時代《じだい》の中心人物《ちゆうしんじんぶつ》にあらせられて、其《そ》の天下《てんか》の活動力《くわつどうりよく》の殆《ほと》んど一|切《さい》を、朝廷《てうてい》に集《あつ》め給《たま》ひたる事歴《じれき》は、本書《ほんしよ》の進歩《しんぽ》に從《したが》ひ、漸次《ぜんじ》に展開《てんかい》せらるゝを俟《ま》つて、之《これ》を詳《つまびらか》にするも、未《いま》だ晩《おそ》しとせぬであらう。

  昭和三年十二月三十一日、大森山王草堂に於て
[#地から2字上げ]蘇峰六十六叟
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