第十九章 印度總督使節來朝
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[#4字下げ][#大見出し]第十九章 印度總督使節來朝[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【九三】印度總督使節秀吉に謁見す(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線等]等《ら》の室津《むろつ》にあるや、甚《はなは》だ面白《おもしろ》からぬ情報《じやうはう》は、京都《きやうと》より達《たつ》した。彼《かれ》の使命《しめい》の眞相《しんさう》は、耶蘇教《やそけう》流布《るふ》の爲《た》めである旨《むね》を、上申《じやうしん》したものがあつた。秀吉《ひでよし》も本來《ほんらい》斯《か》く猜《さい》して居《ゐ》たことであれば、之《これ》を聽《き》き入《い》れぬ譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。當初《たうしよ》使節《しせつ》の事《こと》に干係《かんけい》した淺野長政《あさのながまさ》は、不在《ふざい》であつた。黒田孝高《くろだよしたか》は、使命《しめい》の事《こと》に關《くわん》して、秀吉《ひでよし》に遊説《いうぜい》したが、却《かへ》つて其《そ》の瞋《いかり》に觸《ふ》れた。
然《しか》も孝高《よしたか》は當時《たうじ》の出頭人《しゆつたうにん》なる、増田長盛《ますだながもり》に依頼《いらい》し、辛《から》うじて謁見《えつけん》の允許《いんきよ》を得《え》た。曰《いは》く、若《も》し師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線等]が、予《よ》に敬意《けいい》を表《へう》せんが爲《た》めに、謁見《えつけん》を希《こひねが》ふならば、予《よ》は之《これ》を容《ゆる》さむ。然《しか》も若《も》し東印度總督《ひがしいんどそうとく》の使節《しせつ》として、彼《かれ》の仲間《なかま》たる耶蘇教師追放令《やそけうしつゐはうれい》の取消《とりけし》を請《こ》はんが爲《た》めとあらば、予《よ》は斷《だん》じて彼《かれ》を見《み》、彼《かれ》と語《かた》るを欲《ほつ》せず。彼《かれ》は予《よ》に向《むか》つて、禁教《きんけう》の事《こと》に關《くわん》し、一|言《ごん》も口《くち》を開《ひら》くなきを要《えう》すと。斯《か》くて黒田《くろだ》と、増田《ますだ》とは、其《そ》の掛《かゝ》りを命《めい》ぜられた。
一|行《かう》は約《やく》二|箇月間《かげつかん》室津《むろつ》滯在《たいざい》の後《のち》、二|月《ぐわつ》の末《すゑ》、京都《きやうと》に向《むか》うた。大阪《おほさか》に於《おい》ては信徒《しんと》に驩迎《くわんげい》せられた、其《そ》の中《うち》には加賀《かが》より故《ことさ》らに來《きた》りたる高山右近《たかやまうこん》もあつた。滯在《たいざい》三|日《か》にして、秀吉《ひでよし》より迎《むか》へられたる川舟《かはふね》に乘《の》り、淀川《よどがは》を溯《さかのぼ》り、鳥羽《とば》に著《つ》いた。轎子《けうし》、乘馬《じようば》、荷車等《にぐるまとう》は、彼等《かれら》を待《ま》ち受《う》けてあつた。翌日《よくじつ》彼等《かれら》は盛儀《せいぎ》を作《つく》り、堂々《だう/″\》として京都《きやうと》に乘《の》り込《こ》んだ。其《そ》の壯觀《さうくわん》は、數日前《すじつぜん》入京《にふきやう》した朝鮮使節《てうせんしせつ》をして、顏色《がんしよく》なからしめた。
秀吉《ひでよし》の機嫌《きげん》も、此《こ》の事《こと》を聞《き》き頗《すこぶ》る直《なほ》つた。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線等]、及《およ》び副使《ふくし》二|人《にん》は、聚樂第《じゆらくだい》以外《いぐわい》の秀吉《ひでよし》の屋形《やかた》に入《い》つた。遣歐使《けんおうし》四|人《にん》と、メスキタ[#「メスキタ」に傍線]師《し》は、小西行長《こにしゆきなが》の邸《てい》に入《い》つた。自餘《じよ》の葡萄牙人《ほるとがるじん》は、市中《しちゆう》の旅館《りよくわん》に入《い》つた。市尹《しゐん》は各自《かくじ》の旅館《りよくわん》の前《まへ》に番兵《ばんぺい》を措《お》き、其《そ》の待遇《たいぐう》は、鄭重《ていちよう》を極《きは》めた。
彼等《かれら》の謁見日《えつけんび》は、一五九一|年《ねん》三|月《ぐわつ》三|日《か》(天正十九年閏正月八日)[#「(天正十九年閏正月八日)」は1段階小さな文字]で、日本晴《につぽんば》れの晴天《せいてん》であつた。増田長盛《ますだながまもり》は、當日《たうじつ》の早朝《さうてう》、華麗《くわれい》に、裝飾《さうしよく》したる乘馬《じようば》二十六|匹《ぴき》、及《およ》び轎子《けうし》三|箇《こ》を遣《つか》はした。轎子《けうし》は正副使節《せいふくしせつ》の爲《た》め、馬《うま》は一|行《かう》の爲《た》めであつた。
彼等《かれら》は第《だい》一に、印度總督《いんどそうとく》よりの献上物《けんじやうもの》たる亞剌比馬《あらびやうま》一|頭《とう》に、緋天鵞絨《ひびろーど》の覆蓋《おほひ》を被《か》け、銀裝《ぎんさう》の鞍《くら》に流金《るきん》の鐙《あぶみ》を著《つ》け、長《なが》き絹《きぬ》の外套《ぐわいたう》を纒《まと》ひ、モール[#「モール」に二重傍線]國風《こくふう》に結髮《けつぱつ》したる印度人《いんどじん》二|人《にん》、馬丁《ばてい》として、左右《さいう》に其《そ》の手綱《たづな》を執《と》つた。而《しか》して騎馬《きば》の葡萄牙人《ほるとがるじん》二|人《にん》、之《これ》を先導《せんだう》した。次《つ》ぎには美裝《びさう》したる近習《きんじふ》七|人《にん》を先驅《せんく》として、遣歐使《けんおうし》四|人《にん》、何《いづ》れも羅馬《ろーま》にて法王《ほふわう》シキタス[#「シキタス」に傍線]五|世《せい》の賜《たま》うたる黒天鵞絨《くろびろーど》に、金縁《きんぺり》を裝《よそほ》うたる衣服《いふく》を著《つ》けて進《すゝ》んだ。其《そ》の後《あと》より正副使《せいふくし》は、通常《つうじやう》の僧服《そうふく》にて、塗轎《ぬりこし》に乘《の》つて行《ゆ》いた。隨從《ずゐじゆう》の葡萄牙人等《ほるとがるじんら》も、銘々《めい/\》盛裝《せいさう》して、全世界中《ぜんせかいぢゆう》の最《もつと》も威勢《ゐせい》ある帝王《ていわう》の前《まへ》に出《い》でても、耻《はづか》しからぬ姿《すがた》であつた。一|行《かう》が聚樂第《じゆらくだい》の門《もん》に入《い》るに際《さい》し、秀次《ひでつぐ》は八|人《にん》の諸侯《しよこう》と共《とも》に之《これ》を迎《むか》へ、謁見室《えつけんしつ》に導《みちび》いた。
謁見室《えつけんしつ》は、大廣間《おほひろま》にて、帷幔《ゐまん》、戸壁《こへき》、何《いづ》れも黄金《わうごん》にて飾《かざ》り、花卉※[#「令+栩のつくり」、第3水準1-90-30]毛《くわきれいまう》を描《ゑが》いた。其《そ》の莊嚴《さうごん》、美麗《びれい》、實《じつ》に人目《じんもく》を眩《げん》する許《ばか》りであつた。最奧《さいあう》の高壇《かうだい》には、貴重《きちよう》なる唐錦《からにしき》の帷幔《ゐまん》にて之《これ》を繞《めぐら》し、秀吉《ひでよし》は寳玉《はうぎよく》を點綴《てんてい》したる金色燦爛《きんしよくさんらん》たる錦《にしき》を著《つ》けて、其《そ》の位《くらゐ》に坐《ざ》した。座下《ざか》の一|席《せき》には、大諸侯《だいしよこう》列座《れつざ》した。別《べつ》に三|席《せき》あつた。其《そ》の一|席《せき》には小諸侯《せうしよこう》、他《た》の二|席《せき》には諸有司《しよいうし》列座《れつざ》した。
以上《いじやう》は宣教師側《せんけうしがは》の文書《ぶんしよ》によりて記《しる》したものだ。元來《ぐわんらい》演劇氣《しばゐぎ》の多《おほ》き、秀吉《ひでよし》であれば、斯《かゝ》る場合《ばあひ》には、定《さだ》めて存分《ぞんぶん》の支度《したく》を做《な》して、外使等《ぐわいしら》を驚倒《きやうたう》せしめたであらう。吾人《ごじん》は此《こ》の謁見室《えつけんしつ》を見《み》るに由《よし》なきも、所謂《いはゆ》る桃山時代美術《もゝやまじだいびじゆつ》の粹《すゐ》が、此《こ》の中《うち》に鍾《あつ》められて居《ゐ》たことは、想像《さうざう》が能《あた》ふ。如何《いか》に其《そ》の金碧《きんぺき》赫灼《かくしやく》たる、天井《てんじやう》、襖《ふすま》、杉戸《すぎど》、壁等《かべとう》に、永徳《えいとく》、山樂《さんらく》の徒《と》が、雄渾淋漓《ゆうこんりんり》たる意匠《いしやう》を發揮《はつき》したかは、今日《こんにち》に於《おい》ても、尚《な》ほ吾人《ごじん》の神魂《しんこん》を飛越《ひゑつ》せしむる。顧《おも》ふに當時《たうじ》の秀吉《ひでよし》は、關東《くわんとう》の北條氏《ほうでうし》を夷《たひら》げ、東北《とうほく》を定《さだ》め、今《いま》や日本《にほん》六十|餘州《よしう》を呑《の》み盡《つく》し、更《さ》らに巨口《きよこう》を開《ひら》いて、海外《かいぐわい》に及《およ》ばんとする一|時《じ》であつた。其《そ》の意氣《いき》の昂揚《がうやう》も亦《ま》た知《し》る可《べ》しだ。

[#5字下げ][#中見出し]【九四】印度總督使節秀吉に謁見す(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線等]は、秀吉《ひでよし》に敬禮《けいれい》を爲《な》すに先《さきだ》ち、日本譯官《にほんやくくわん》の手《て》を經《へ》て、東印度總督《ひがしいんどそうとく》よりの書簡《しよかん》を捧呈《ほうてい》した。此《こ》の書簡《しよかん》は、その内部《ないぶ》は延金《のべきん》にて張《は》り、外部《ぐわいぶ》は緑色《りよくしよく》の天鵞縅《びろーど》にて覆《おほ》ひ、金流蘇《きんりうそ》を附《つ》け、銀星《ぎんせい》を點綴《てんてい》したる、美麗《びれい》なる小匣《こばこ》に入《い》れてあつた。而《しか》して匣内《かふない》には羊皮紙《やうひし》に書《か》き、周圍《しうゐ》に細畫《さいぐわ》あり、金銀糸《きんぎんし》にて二重《ふたへ》に綴《つゞ》り、金《きん》の房《ふさ》ある印章《いんしやう》を附《ふ》し、華麗《くわれい》に繍飾《しうしよく》したる錦袋《きんたい》の裡《うち》に包《つゝ》んであつた。此《こ》の繍飾《しうしよく》は、印度《いんど》の特絶《とくぜつ》なる奇巧《きかう》を盡《つく》したるものであつた。
秀吉《ひでよし》は此《こ》の書簡《しよかん》を、高聲《かうせい》に譯讀《やくどく》せしめた。
[#4字下げ]至《いた》つて高貴《かうき》雄偉《ゆうゐ》なる關白殿《くわんぱくどの》
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[#地から3字上げ]印度副王《いんどふくわう》ドン・トワルテ
地《ち》遼遠《れうゑん》なるが爲《ため》に、今《いま》に及《およ》ぶ迄《まで》兩國間《りやうごくかん》の交際《かうさい》、存《そん》せざりしと雖《いへど》も、殿下《でんか》の勝利《しようり》、及《およ》び功業《こうげふ》の偉大《ゐだい》、遠方《ゑんぱう》に至《いた》るまでも響《ひゞ》く、殿下《でんか》の聲譽芳名《せいよほうめい》、日本《にほん》四|方《はう》の諸侯《しよこう》、及《およ》び諸州《しよしう》を殿下《でんか》の版圖《はんと》に克服《こくふく》せられたる次第《しだい》は、貴國《きこく》各地《かくち》に在《あ》る伴天連等《バテレンら》の書簡《しよかん》に由《よ》りて、予《よ》の知《し》れる所《ところ》。斯《か》くの如《ごと》きは古《いにしへ》より以來《いらい》、今《いま》に及《およ》ぶ迄《まで》、未聞《みもん》の事《こと》に屬《ぞく》し、奇《く》しき天恩《てんおん》たること疑《うたがひ》を容《い》れず、又《また》大《おほい》に驚異《きやうい》すべき事《こと》にして、即《すなは》ち予《よ》が之《これ》を悦《よろこ》ぶや大《だい》なり。予《よ》又《また》、貴國《きこく》諸州《しよしう》に在《あ》る伴天連等《バテレンら》、殿下《でんか》より洪恩《こうおん》を蒙《かうむ》り、殿下《でんか》の恩典《おんてん》の光榮《くわうえい》を以《もつ》て、救濟《きうさい》の道《みち》を、人《ひと》に宣傳《せんでん》し、説法《せつぽふ》し、又《また》教示《けふじ》せるを知《し》る。彼等《かれら》元《もと》より崇敬《しうけい》すべき當地《たうち》の修道者《しうだうしや》にして、法度《はつと》に循《したが》ひて、救濟《きうさい》の眞道《しんだう》を教示《けうじ》せん爲《ため》に、世界各地《せかいかくち》を遍歴《へんれき》する者《もの》たり。彼等《かれら》より殿下《でんか》の被《かつ》け給《たま》へる優遇《いうぐう》を聞《き》きて、予《よ》深《ふか》く之《これ》を悦《よろこ》ぶ。彼等《かれら》予《よ》に請《こ》ふに殿下《でんか》に書《しよ》を贈《おく》り、又《また》謝恩《しやおん》の使節《しせつ》を遣《つか》はさんことを以《もつ》てし、予《よ》即《すなは》ち之《これ》を果《はた》さんと欲《ほつ》す。當巡察伴天連《たうじゆんさつバテレン》(ワリニヤーニ)[#「(ワリニヤーニ)」は1段階小さな文字]曾《かつ》て貴國《きこく》諸州《しよしう》に在《あ》ること年《とし》あり。其地《そのち》を知悉《ちしつ》せるを以《もつ》て、之《これ》に使節《しせつ》の任《にん》を委《ゐ》し、此《こ》の書状《しよじやう》に由《よ》りて、殿下《でんか》に乞《こ》ふに、今《いま》より以後《いご》益々《ます/\》彼等《かれら》を眷顧《けんこ》し給《たま》はらんことを以《もつ》てす。又《また》予《よ》當地《たうち》より何事《なにごと》か殿下《でんか》に盡《つく》すを得《う》べきを信《しん》じ、喜《よろこ》んで之《これ》を果《はた》さんことを念《おも》ふ。茲《こゝ》に親交《しんかう》の標《しるし》として、殿下《でんか》に呈《てい》するに、
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モンタンテ刀《たう》(廣刄の劍)([#割り注]廣刄の劍[#割り注終わり]) 二|口《ふり》
鎧《よろひ》 二|領《りやう》
馬《うま》 三|頭《とう》
拳銃《ピストル》二|挺《ちやう》[#(及)]テルザト刀《たう》(廣刄の短劍)([#割り注]廣刄の短劍)[#割り注終わり])一|口《ふり》
金飾《きんかざり》の帳帷《ちやうゐ》 二|對《つゐ》
天幕《てんと》 一|張《はり》
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を以《もつ》てす。印度《いんど》の地《ち》に於《おい》て、一五八八|年《ねん》四|月《ぐわつ》之《これ》を認《みと》む。
[#地から4字上げ]印度副王
[#地から1字上げ]〔新村博士著、南蠻記〕[#「〔新村博士著、南蠻記〕」は1段階小さな文字]
斯《か》くて献上《けんじやう》の儀式《ぎしき》濟《す》み、其《そ》の諸品《しよひん》を陳列《ちんれつ》した。秀吉《ひでよし》は欣然《きんぜん》として之《これ》を點檢[#「點檢」は底本では「檢點」]《てんけん》し、次《つぎ》に正使《せいし》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線等]を接見《せつけん》した。彼《かれ》は式部官《しきぶくわん》に誘《いざな》はれ、列席諸侯《れつせきしよこう》の座間《ざかん》を經過《けいくわ》して、高座《かうざ》に上《のぼ》つた。而《しか》して膝《ひざ》を屈《くつ》し、帽《ばう》を脱《だつ》し、歐洲風《おうしうふう》の禮《れい》をなし、秀吉《ひでよし》の對面《たいめん》に設《まう》けられたる座位《ざゐ》に就《つ》いた。副使《ふくし》二|人《にん》も、右《みぎ》の如《ごと》く正使《せいし》の側《かたはら》に設《まう》けたる、一|級《きふ》低下《ていか》なる座位《ざゐ》に就《つ》いた。順次《じゆんじ》に四|人《にん》の遣歐使《けんおうし》、隨行《ずゐかう》の葡萄牙人等《ほるとがるじんら》も、其《そ》の座位《ざゐ》の就《つ》いた。秀吉《ひでよし》は喜色《きしよく》滿面《まんめん》、直《たゞ》ちに美麗《びれい》に彩畫《さいぐわ》したる杯《はい》を杷《と》りて、手《てづ》から之《これ》を正使《せいし》に與《あた》へ、正使《せいし》には銀《ぎん》百|枚《まい》、絹《きぬ》の衣服《いふく》四|領《かさね》、副使等《ふくしら》には各《おの/\》銀《ぎん》百|枚《まい》、服《ふく》二|領《かさね》、四|人《にん》の遣歐使《けんおうし》、及《およ》び葡萄牙人等《ほるとがるじんら》には、各《おの/\》銀《ぎん》五|枚《まい》、服《ふく》一|領《かさね》を與《あた》へ、譯官《やくくわん》には銀《ぎん》三十|枚《まい》、服《ふく》一|領《かさね》を與《あた》へた。
秀吉《ひでよし》の命《めい》を奉《ほう》じ、秀次《ひでつぐ》は彼等《かれら》に晩餐《ばんさん》を供《きよう》した。食後《しよくご》秀吉《ひでよし》は其《そ》の席《せき》に入《い》り來《きた》り、極《きは》めて儀式張《ぎしきば》らざる風情《ふぜい》にて、印度《いんど》の事情《じじやう》や、又《ま》た四|人《にん》の遣歐使《けんおうし》の就《つい》て、其《そ》の見聞《けんぶん》したる事《こと》を問《と》うた。伊東《いとう》マンシオー[#「マンシオー」に傍線]は、主《しゆ》として之《これ》に答《こた》へたが、其《そ》の答《こた》へ振《ぶ》りが、頗《すこぶ》る秀吉《ひでよし》の氣《き》に入《い》り、己《おのれ》に親侍《しんじ》せんことを求《もと》めた。然《しか》も伊東《いとう》は之《これ》を懇《ねんごろ》に辭《じ》した。秀吉《ひでよし》は更《さ》らに四|人《にん》に歐洲《おうしう》の音樂《おんがく》を奏《そう》せしめた。彼等《かれら》は秀吉《ひでよし》の倦疲《けんひ》を憚《はゞか》りて、一|段毎《だんごと》に之《これ》を辭《じ》する三|囘《くわい》に及《およ》んだが、秀吉《ひでよし》は興《きよう》に乘《じよう》じて、之《これ》を連續《れんぞく》奏《そう》せしめ。自《みづ》から樂器《がくき》を弄《ろう》し、更《さ》らに庭上《ていじやう》に下《お》り、印度總督《いんどそうとく》より贈《おく》れる天幕《てんと》を張《は》らしめ、葡萄牙人《ほるとがるじん》をして、亞剌比馬《あらびやうま》に騎《の》らしめ、其《そ》の驅逐《くちく》の巧妙《かうめう》を賞觀《しやうくわん》した。斯《か》くて歡話《くわんわ》二|更《かう》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》んだ。
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[#6字下げ]印度總督(副王)の書翰
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印度副王の書状の原本が今囘京都の名刹妙法院から發見されて、些少ながらも、從來の所傳を訂することを得たるのみならず、美術上からも興味深く、外交史上からも價値大に、兼ねて豐公の事蹟を飾るに足るべき珍寳を吾人に供したのは最も欣ばしい事である。其傳來は未だ分明でないが、慶元の交より以來方廣寺を管した妙法院に此物が傳つて居たのは自然な順序であつて、傳來の徑路は略推すことが出來る。發見の次第も朧げであつて、惜しい事には、書状を包んであつた、一切の物どもゝ今日には殘つて居ない。書状はフロイスの報告書に見える通り、大使ワリニヤーニより關白に捧げた副王の書状に相違なく、而も「羊皮紙に書いた書状にして周圍に細畫あり」といふに符合し、下部に長い紐に附いて房の下つてゐるのは「金の房のある印章」といふのに當るが、今や金絲の色は薄らいで名殘ばかりである。報告書には「錦の袋に包んだ」とあるが袋らしいものは妙法院には殘つてゐない。又書状は「銀にて鏤め、内側を金地に被へる小箱に容れて持つて來た」とある箱などは固より傳はらぬ。然し袋や箱は兎も角、其中身の書状は羊皮紙で殆んど破損せずに殘つたのは此上もない幸である。元の折樣か卷方かはそれ/″\定つた故實に由つたものであらうが、今度吾々の目に觸れた際には上から横に平に折卷いて、疊んだ上を中央から更に二つ折にしてあつたのである。折つた爲に縁の細畫の顏料が少しく剥げた所もあり、又其他自然に擦れた所もあるが、書面の文字は勿論、密畫の極彩色も鮮かであるから、全體が立派で、三百有餘年の後尚光彩陸離として人目を射る。
書状の大さは縱凡そ一尺九寸、横二尺五寸餘で、文面の所だけは縱凡一尺二三寸、横凡一尺六寸四分、名宛と署名とを除きて十六行半に亙る文字より成る。初一行の宛名はVossa Alteza(殿下の意、葡語)及其略字のはV.A.は金文字にて書き、全文の起首なる一字Cも亦金泥を以てし、其字中に豐公の定紋の桐に模擬したる紋章を挾み、其字上に金冠を添へた。上部及左右の三方には幅三寸八分乃至四寸の畫を以て周らす、上の縁には羅馬の七丘を畫き、中央なるタルペイウスが岡(カピトーリヌスの南西端に當る)には金色の勝利神像を手に捧げたる軍神マースが鎭座する。左右の端には羅馬の紋章がある。左にはSPQRの四字(Senatus Fopulus que Romanusの略字)にて元老及羅馬人即ち全羅馬國の意を標し、右には建國傳説に基くロムルス、レムスの二兒が狼に育まれてゐる圖を表はす。此二紋章と中央の軍神との間には楯や、矛や、劍を紐にて數多連ねて、垣を結うた樣に意匠を施す。其間には又古代海神の標徴としていつかれた海豚の貌をあしらふ。いづれも青黄又紅紫燦爛として眼に映ずる。左右兩方の畫面にはCaryatidesめいた樣子をして人が肩に擔いでゐる花瓶の形とも見ゆるものゝ中には五星を擁する上弦の半月の紋章が顯れてゐる。五星は葡國の紋に使ふ。半月は東邦(但し西最寄の)記號に屡々用ゐられる。さすれば本國の紋章は葡領印度臥亞のものでは無からうかと思ふが、紋章の學に通ぜず、其書物を手近に持たぬ予には判定しかねる。但し此書状を認めた當時は葡萄牙本國は西班牙に併合されて居た頃であるが、植民地などは必ずしも西國の旗標しの下に立つて居たとは云へまいから、葡國の五星標が紋章に組入れられてあつても怪むに足らぬ。偖すべて此圖の意匠は大體に於て伊達伯爵家所藏の支倉六右衞門羅馬市公民權證書の縁の模樣と同類である。〔新村博士著、南蠻記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【九五】謁見の效果[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は伊東《いとう》マンシオー[#「マンシオー」に傍線]の歐洲見聞談《おうしうけんぶんだん》を聞《き》く、未《いま》だ充分《じゆうぶん》ならずとし、翌日《よくじつ》更《さ》らに同人《どうにん》、及《およ》び正使《せいし》の年少《ねんせう》なる譯官《やくくわん》、ロディリゲー[#「ロディリゲー」に傍線]を召見《せうけん》した。秀吉《ひでよし》は種々《しゆ/″\》の奇問《きもん》を發《はつ》した。而《しか》して料《はか》らずも其《そ》の朝鮮《てうせん》を經由《けいゆ》して、支那《しな》を征服《せいふく》せんとするの雄圖《ゆうと》を漏《も》らした。而《しか》して正使《せいし》の贈《おく》る所《ところ》の自鳴鐘《じめいしよう》の使用方法《しようはうはふ》を譯官《やくくわん》に尋《たづ》ねた。彼《かれ》は談話《だんわ》終日《しゆうじつ》、殆《ほとん》ど倦《う》むを忘《わす》れた。而《しか》して別《わか》るゝに莅《のぞ》んで告《つ》げて曰《いは》く、予《よ》は明日《みやうにち》より尾張《をはり》方面《はうめん》に赴《おもむ》かんとす、然《しか》も滯留《たいりう》數日《すじつ》に過《す》ぎざる可《べ》し。されば正使《せいし》は京都《きやうと》、大阪《おほさか》、長崎《ながさき》、何《いづ》れなりとも、隨意《ずゐい》に滯在《たいざい》して、予《よ》が答書《たふしよ》と禮物《れいもつ》の具備《ぐび》し、印度《いんど》に還《かへ》るの便宜《べんぎ》を得《う》る迄《まで》待《ま》つ可《べ》し。然《しか》も其《そ》の隨行《ずゐかう》の僧侶等《そうりよら》は宜《よろ》しく自《みづ》から、戒飭《かいちよく》、謹愼《きんしん》し、濫《みだ》りに禁教令《きんけうれい》を冐涜《ばうとく》して、已《や》むを得《え》ず予《よ》をして、猛斷《まうだん》威決《ゐけつ》を用《もち》ふるなからしむる樣《やう》注意《ちゆうい》せよと。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は能《よ》く其《そ》の旨《むね》を服膺《ふくよう》した。
抑《そもそ》も此《こ》の謁見《えつけん》は、全《まつた》くワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の目的《もくてき》を、達《たつ》し得《え》なかつたにせよ、半《なかば》は成功《せいこう》したと云《い》はねばならぬ。何《なん》となれば、(第《だい》一)は、秀吉《ひでよし》の耶蘇教師《やそけうし》に對《たい》する感情《かんじやう》を和《やは》らげた。(第《だい》二)は、秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》の和《やはら》いだ事《こと》を、周邊《しうへん》に實物教育《じつぶつけういく》を與《あた》へた。(第《だい》三)は、彼《かれ》の入京《にふきやう》と同時《どうじ》に、一|種《しゆ》の歐化熱《おうくわねつ》を煽揚《せんやう》した。(第《だい》四)は、冥々《めい/\》の裡《うち》に、改宗者《かいしゆうしや》を得《え》た。要《えう》するに彼《かれ》の力《ちから》の及《およ》ばなかつたのは、只《た》だ禁教令《きんけうれい》取消《とりけし》の一|事《じ》であつた。
此《こ》の謁見《えつけん》は、當時《たうじ》の社會《しやくわい》にも、多大《ただい》の印象《いんしやう》を與《あた》へた。多門院日記《たもんゐんにつき》に曰《いは》く、
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去《さる》八|日《か》(天正十九年閏正月)[#「(天正十九年閏正月)」は1段階小さな文字]キリシタン國《こく》ナンバンの内歟《うちか》、大《おほ》ウス(耶蘇教師)[#「(耶蘇教師)」は1段階小さな文字]關白殿《くわんぱくどの》へ御禮申了《おんれいまをしをはんぬ》。種々《しゆ/″\》サマ/″\の寳《たから》を進上了《しんじやうをはんぬ》。云々《うんぬん》。
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と。而《しか》して此《こ》の寳物《はうもつ》進上中《しんじやうちゆう》に、特《とく》に亞剌比馬《あらびやうま》が一|般《ぱん》の注意《ちゆうい》を惹《ひ》いた樣《やう》だ。時慶卿記《じけいきやうき》に曰《いは》く、
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三十|餘《よ》|在[#レ]之《これあり》各《おの/\》馬上也《ばじやうなり》。主人《しゆじん》(正使)[#「(正使)」は1段階小さな文字]一|人《にん》はぬり輿也《こしなり》。五|尺馬《しやくのうま》遣物也《つかひものなり》。上下拵《じやうげこしらへ》結構也《けつこうなり》。
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吉田兼見《よしだかねみ》の記日《につき》に曰《いは》く、
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樣々《さま/″\》異國之物《いこくのもの》進物也《しんもつなり》。……御馬《おうま》|進[#二]上之[#一]《これをしんじやうす》、|無[#二]比類[#一]《ひるゐなき》見事之由《みごとのよし》申訖《まをしをはんぬ》。
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とある。然《しか》も其《そ》の上流社會《じやうりうしやくわい》に及《およ》ぼす影響《えいきやう》は、更《さ》らに多大《ただい》なるものがあつた。何事《なにごと》も歐洲風《おうしうふう》の流行《りうかう》となつた。歐服《おうふく》を著《ちやく》するの風《ふう》が、秀吉《ひでよし》周邊《しうへん》の廷臣《ていしん》に流行《りうかう》し、一|見《けん》して歐人《おうじん》たるや、日本人《にほんじん》たるや、判別《はんべつ》し難《がた》き程《ほど》であつた。葡萄牙人《ほるとがるじん》に模擬《もぎ》す可《べ》く、聖骨匣《せいこつかふ》や、珠數《じゆず》(天主教徒の)[#「(天主教徒の)」は1段階小さな文字]や、信徒《しんと》、不信徒《ふしんと》を問《と》はず、何《いづ》れも競《きそ》うて購求《こうきう》し。秀吉《ひでよし》、秀次《ひでつぐ》、其《そ》の他《た》の大小名《だいせうみやう》、何《いづ》れも十|字架《じか》や、聖骨匣《せいこつかふ》を、頸《くび》より掛《か》けて逍遙《せうえう》する風《ふう》を馴致《じゆんち》した。〔ムルドック日本歴史〕[#「〔ムルドック日本歴史〕」は1段階小さな文字]乃《すなは》ち細川忠興《ほそかはたゞおき》の如《ごと》き、其《そ》の夫人《ふじん》明智氏《あけちし》が、耶蘇教《やそけう》を信《しん》じたりとて、屡《しばし》ば短刀《たんたう》を彼女《かれ》の咽吭《いんかう》に擬《ぎ》したりと云《い》ふに拘《かゝは》らず、彼《かれ》の貴重《きちよう》す可《べ》き印章《いんしやう》には却《かへ》つて羅馬字《ろーまじ》を用《もち》ひたるが如《ごと》き、亦《ま》た以《もつ》て、一|般《ぱん》の風尚《ふうしやう》を見《み》る可《べ》しだ。
ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の京都《きやうと》にあるや、彼《かれ》を訪問《はうもん》する者《もの》には、豐臣秀次《とよとみひでつぐ》、毛利輝元《まうりてるもと》、蒲生氏郷《かまふうぢさと》、羽柴秀秋《はしばひであき》、前田利家《まへだとしいへ》、宗義智等《そうよしともら》、其《そ》の他《た》數《かず》を知《し》らなかつた。彼《かれ》の旅館《りよくわん》には、早朝《さうてう》より夜半迄《やはんまで》、多數《たすう》の信徒《しんと》、若《も》しくは求道者《きうだうしや》群集《ぐんしふ》し、毎日《まいにち》三|箇所《がしよ》に於《おい》て、彌撒祭《ミサさい》を行《おこな》ふも、尚《な》ほ其《そ》の望《のぞみ》を滿《み》たす能《あた》はざる程《ほど》であつた。而《しか》して宗義智《そうよしとも》の如《ごと》きは、當時《たうじ》潜《ひそ》かにワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]より受洗《じゆせん》した。
其《そ》の訪問者中《はうもんしやちゆう》の一|半《ぱん》は、寧《むし》ろ好奇的《かうきてき》、見物的《けんぶつてき》であつたかも知《し》れぬ。然《しか》も彼《かれ》の滯京《たいきやう》は、耶蘇教《やそけう》弘通《ぐつう》の上《うへ》に、多大《ただい》の便宜《べんぎ》があつたに相違《さうゐ》ない。然《しか》もワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、此《こ》の便宜《べんぎ》を十|分《ぶん》受用《じゆよう》する能《あた》はなかつた。彼《かれ》が長《なが》く京都《きやうと》に滯在《たいざい》するは、秀吉《ひでよし》の欲《ほつ》する所《ところ》でない旨《むね》を、仄《ほの》めかされた。されば彼《かれ》は其《そ》の譯官《やくくわん》ロディリゲー[#「ロディリゲー」に傍線]を以《もつ》て、其《そ》の暇《いとま》を乞《こ》うた。譯官《やくくわん》は秀吉《ひでよし》の命《めい》にて、尚《な》ほ京都《きやうと》に滯在《たいざい》することゝなり、ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は九|州《しう》に向《むか》つて去《さ》つた。彼《かれ》の滯京《たいきやう》は約《やく》一|箇月《かげつ》であつた。
遣歐使等《けんおうしら》四|人《にん》は、羅馬《ろーま》に於《お》ける法王《ほふわう》の優待《いうたい》に感激《かんげき》し、一五九二|年《ねん》(文祿元年)[#「(文祿元年)」は1段階小さな文字]耶蘇會《ゼスイツト》に加入《かにふ》した。伊東《いとう》は一六一二|年《ねん》(慶長十七年)[#「(慶長十七年)」は1段階小さな文字]四十五|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。中浦《なかうら》は一六三三|年《ねん》(寛永十年)[#「(寛永十年)」は1段階小さな文字]十|月《ぐわつ》十八|日《にち》、長崎《ながさき》に於《おい》て、殉教者《じゆんけうしや》として殺《ころ》された。千々岩《ちゞいは》は入會後《にふくわうご》、間《ま》もなく脱會《だつくわい》した。原《はら》は何年頃《なんねんごろ》死《し》したか不明《ふめい》だが、彼《かれ》は葡萄牙語《ほるとがるご》の書籍《しよじやく》の、日本文《にほんぶん》飜譯者《ほんやくしや》として有名《いうめい》であつた。〔ムルドック日本歴史〕[#「〔ムルドック日本歴史〕」は1段階小さな文字]

[#5字下げ][#中見出し]【九六】謁見前後の形勢[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》耶蘇教《やそけう》の敵《てき》ではなかつた。但《た》だ耶蘇教師等《やそけうしら》が、日本《にほん》の政治向《せいぢむき》に立《た》ち入《い》り、日本《にほん》の治安《ちあん》を害《がい》するが爲《た》めに、少《すくな》くとも秀吉《ひでよし》の大權《たいけん》を冐涜《ばうとく》するものと認《みと》めたるが爲《た》めに、其《そ》の布教《ふけう》を禁止《きんし》し、其《そ》の教師等《けうしら》を追放《つゐはう》したのだ。
されば一五八七|年《ねん》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]葡萄牙人《ほるとがるじん》ロベツ[#「ロベツ」に傍線]が、追放令《つゐはうれい》緩和《くわんわ》の運動《うんどう》の爲《た》めに、秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》した際《さい》には、却《かへ》つて反對《はんたい》の結果《けつくわ》を來《きた》した事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りであつた。〔參照 本篇、八五、退去令發布後の耶蘇教〕[#「〔參照 本篇、八五、退去令發布後の耶蘇教〕」は1段階小さな文字]然《しか》も翌《よく》一五八八|年《ねん》(天正十六年)[#「(天正十六年)」は1段階小さな文字]十|月《ぐわつ》、ロベツ[#「ロベツ」に傍線]が、媽港《マカオ》より來《きた》れた大船《たいせん》の船長《せんちやう》ベレーラ[#「ベレーラ」に傍線]の名代《みやうだい》として、再《ふたゝ》び秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》した際《さい》は、懇切《こんせつ》に取《と》り扱《あつか》はれた。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》の質問《しつもん》に答《こた》へて、宣教師等《せんけうしら》は、それ/″\日本《にほん》を去《さ》つた(其の實は日本各地に隱匿して居たのだ。)[#「(其の實は日本各地に隱匿して居たのだ。)」は1段階小さな文字]と云《い》うた際《さい》には、秀吉《ひでよし》は頗《すこぶ》る滿足《まんぞく》の體《てい》であつた。而《しか》して曰《いは》く、予《よ》は宣教師《せんけうし》に好意《かうい》を表《へう》したく思《おも》ふ、但《た》だ彼等《かれら》が日本《にほんじん》の神佛《しんぶつ》に敵對《てきたい》し、公安《こうあん》を害《がい》する爲《た》め、餘儀《よぎ》なく追放《つゐはう》したと。
ロベツ[#「ロベツ」に傍線]は秀吉《ひでよし》に向《むか》つて間接射撃《かんせつしやげき》をした。日本《にほん》に於《お》ける殿下《でんか》の施政《しせい》には、何等《なんら》容喙《ようかい》の限《かぎ》りでない。然《しか》も宣教師等《せんけうしら》の追放《つゐはう》は、葡萄牙貿易者《ほるとがるぼうえきしや》に取《と》りては、不便《ふべん》少《すくな》からずである。何故《なにゆゑ》なれば、葡萄牙王《ほるとがるわう》は、彼等《かれら》が宣教師《せんけうし》を時々《じゝ》日本《にほん》に連《つ》れ行《ゆ》かざるに於《おい》ては、彼等《かれら》の日本《にほん》に來航《らうかう》し、貿易《ぼうえき》するを欲《ほつ》せぬからだと云《い》うた。
是《こ》れは確《たし》かに秀吉《ひでよし》の胸《むね》に命中《めいちゆう》した。秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》貿易獎勵者《ぼうえきしやうれいしや》である、葡萄牙貿易《ほるとがるぼうえき》は、諸大名《しよだいみやう》、及《およ》び富豪社會《ふがうしやくわい》の尤《もつと》も驩迎《くわんげい》する所《ところ》である。若《も》し一たび此《こ》れが杜絶《とぜつ》するとなると、非常《ひじやう》なる打撃《だげき》である。されば秀吉《ひでよし》はロベツ[#「ロベツ」に傍線]に向《むか》つて、何故《なにゆゑ》に斯《か》く宣教師《せんけうし》は、汝等《なんぢら》に取《と》りて必要《ひつえう》かと問《と》うた。ロベツ[#「ロベツ」に傍線]は商人共《しやうにんども》は、動《やゝ》もすれば相互《さうご》の間《あひだ》に葛藤《かつとう》、爭鬩《さうげい》を生《しやう》ずることがある。其《そ》の場合《ばあひ》に於《おい》て、之《これ》を調停《てうてい》するは、只《た》だ宣教師等《せんけうしら》あるが爲《た》めだからであると答《こた》へた。
是《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は、左程《さほど》耶蘇教師《やしけうし》が、葡萄牙商人《ほるとがるしやうにん》に必要《ひつえう》であらば、それを伴《ともな》ひ來《きた》るも妨《さまた》げない。但《た》だ歸航《きかう》の際《さい》には、復《ま》た之《これ》を伴《ともな》ひ還《かへ》れと命《めい》じた。此《こ》れはワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]が、印度總督使節《いんどそうとくしせつ》として來朝以前《らうてういぜん》の事《こと》だ。されば秀吉《ひでよし》が彼《かれ》の入國《にふごく》を許《ゆる》し、彼《かれ》を接見《せつけん》したのも、此《こ》の行《ゆ》き掛《がゝ》りより見《み》れば、不思議《ふしぎ》はあるまい。
然《しか》るにワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の謁見《えつけん》を終《をは》りて、九|州《しう》に還《かへ》るや、九|州《しう》の信徒《しんと》は、恰《あだか》も甘雨《かんう》に潤《うるほ》うたる草木《さうもく》の如《ごと》く、欣々《きん/\》として其《そ》の新生命《しんせいめい》を發育《はついく》せんとするに際《さい》し、再《ふたゝ》び一|大打撃《だいだげき》は下《くだ》つた。長崎奉行《ながさきぶぎやう》鍋島信茂《なべしまのぶしげ》、毛利吉成《まうりよしなり》は、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、印度總督使節《いんどそうとくしせつ》の來朝以來《らいてういらい》、九|州《しう》に於《お》ける宣教師等《せんけうしら》の不謹愼《ふきんしん》の態度《たいど》を上申《じやうしん》し、且《か》つ曰《いは》く、使節《しせつ》の目的《もくてき》も亦《また》、耶蘇教具通《やそけうぐつう》の方便《はうべん》ならんのみと。
是《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は大《おほ》いに怒《いか》りて、九|州《しう》に於《お》ける教師《けうし》、及《およ》び信徒《しんと》を殺戮《さつりく》せんとした。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、其《そ》の勢《いきほひ》に辟易《へきえき》し、在來《ざいらい》の宣教師等《せんけうしら》を纒《まと》めて、支那《しな》の一|島《たう》に避難《ひなん》せんとしたが。有馬《ありま》、大村《おほむら》、小西《こにし》、其《そ》の他《た》の切支丹大名等《きりしたんだいみやうら》は、其《そ》の太早計《たいさうけい》なるを諫《いさ》め、是《こゝ》に於《おい》て何《いづ》れも天草島《あまくさじま》に隱匿《いんとく》した。斯《か》くて天草《あまくさ》は九|州《しう》に於《お》ける、否《い》な日本《にほん》に於《お》ける、耶蘇教《やそけう》の策源地《さくげんち》となり、耶蘇教學校《やそけうがくかう》設立《せつりつ》せられ、ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]が齎《もた》らし來《きた》れる印刷器械《いんさつきかい》にて、日本語《にほんご》にて説明《せつめい》を添《そ》へたる、拉典文典《らてんぶんてん》、拉典《らてん》葡萄牙《ほるとがる》日本《にほん》對譯字書《たいやくじしよ》、日本文《にほんぶん》にて綴《つゞ》りたる諸聖徒《しよせいと》一|代記《だいき》は、出版《しゆつぱん》せられた。
ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は其《そ》の味方《みかた》を前田玄以《まへだげんい》に於《おい》て見出《みいだ》した。黒田孝高《くろだよしたか》は玄以《げんい》に由《よ》りて、秀吉《ひでよし》のワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]に對《たい》する疑惑《ぎわく》を、氷解《ひようかい》せしむ可《べ》く勗《つと》めた。抑《そもそ》も鍋島《なべしま》、毛利《まうり》兩人《りやうにん》の長崎奉行《ながさきぶぎやう》は、使節《しせつ》入航《にふかう》の際《さい》には、頗《すこぶ》る好意《こうい》を表《へう》したるに拘《かゝは》らず、何故《なにゆゑ》に此《がく》の如《ごと》き、使節《しせつ》に不利《ふり》なる報告《はうこく》を做《な》したる乎《か》。宣教師側《せんけうしがは》の説《せつ》には、使節等《しせつら》が彼等《かれら》を經由《けいゆ》せずして、秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》したるは、彼等《かれら》の感情《かんじやう》を害《がい》したる一にして、その贈遺《ぞうゐ》を閑却《かんきやく》したるは、感情《かんじやう》を害《がい》した二と云《い》うて居《ゐ》る。併《しか》しそは適評《てきひやう》にせよ、誣言《ふげん》にせよ。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の來朝以來《らいてういらい》、禁教令《きんけうれい》の緩《ゆる》みたるを奇貨《きくわ》とし、宣教師《せんけうし》、及《およ》び信徒等《しんとら》の、餘《あま》りに露骨《ろこつ》なる運動《うんどう》の、彼等《かれら》兩人《りやうにん》をして默止《もくし》する能《あた》はざらしめたのは、爭《あらそ》ふ可《べ》からざる事實《じじつ》と云《い》はねばなるまい。兎角《とかく》宗教《しゆうけう》の熱心《ねつしん》は、人《ひと》をして脱線《だつせん》せしむる傾向《けいかう》を免《まぬ》かれぬものだ。

[#5字下げ][#中見出し]【九七】秀吉の返簡[#中見出し終わり]

ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、文祿《ぶんろく》元年迄《ぐわんねんまで》、秀吉《ひでよし》の返簡《へんかん》、及《およ》び禮物《れいもつ》を具備《ぐび》するを待《ま》つて、長崎《ながさき》に在《あ》つた。此《こ》の際《さい》記《しる》し置《お》く可《べ》きは、魯連士《ローレンス》の病死《びやうし》だ。彼《かれ》は撒美惠師《ザビヱーし》に由《よ》りて、山口《やまぐち》にて洗禮《せんれい》を受《う》け、日本人《にほんじん》にて耶蘇會《ゼスイツト》に入《い》つた最大《さいだい》の一|人《にん》であつた。其《そ》の會友《くわいいう》たる三十|餘年《よねん》、彼《かれ》は日本耶蘇教傳道史《にほんやそけうでんだうし》に、不磨《ふま》の功績《こうせき》を留《とゞ》めた。高山右近《たかやまうこん》、其《そ》の父《ちゝ》飛彈守《ひだのかみ》を改宗《かいしゆう》せしめたのも彼《かれ》だ。小西行長《こにしゆきなが》、其《そ》の父《ちゝ》隆佐《たかすけ》、及《およ》び其《そ》の與力《よりき》の騎士等《きしら》を改宗《かいしゆう》せしめたのも彼《かれ》だ。使節《しせつ》の京都《きやうと》に至《いた》るや、彼《かれ》の年老《としお》いて、尚《な》ほ勤苦《きんく》しつゝあるを見《み》て、彼《かれ》を慫慂《しようよう》し、九|州《しう》に下《くだ》り、休養《きうやう》せしめんとしたが、六十五|歳《さい》にて、途中《とちゆう》にて死《し》した。
秀吉《ひでよし》の使節《しせつ》に對《たい》する疑念《ぎねん》は、前田玄以等《まへだげんいら》の辯解《べんかい》に拘《かゝは》らず、未《いま》だ全《まつた》く釋然《しやくぜん》たらざるものがあつた。而《しか》して其《そ》の印度總督《いんどそうとく》に與《あた》ふる返簡《へんかん》の意義《いぎ》、頗《すこぶ》る不穩當《ふをんたう》なものであつた。師父《しふ》オルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]は、京都《きやうと》と堺《さかひ》の間《あひだ》を往來《わうらい》し、此《こ》の事《こと》を聞《き》き、竊《ひそ》かに其《そ》の謄本《とうほん》を得《え》、之《これ》を使節《しせつ》に贈《おく》り、改作《かいさく》の方法《はうはふ》を相談《さうだん》した。此《こ》の原文《げんぶん》は、相國寺《さうこくじ》の僧《そう》承兌《しようだ》の手《て》に作《な》つたと云《い》ふ説《せつ》だが、左《さ》の通《とほ》りである。
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遙寄[#二]音章[#一]、披而讀[#レ]之、則不[#レ]異[#レ]見[#三]萬里海山於[#二]眼界[#一]。如[#二]來簡[#一]、本朝者邦域六十有餘、積年亂日多、而治日少。故凶徒好[#二]奸謀[#一]、群士作[#二]黨與[#一]、而不[#レ]得[#レ]服[#二]朝命[#一]。予也、壯歳之日、※[#「日+熏」、第3水準1-85-42]旭嘆[#二]惜之[#一]、修身之術、治國之要、深謀遠慮、而以[#二]仁明武之三[#一]、撫[#二]養諸士[#一]、哀[#二]憐百姓[#一]、正[#二]賞罰[#一]、定[#二]安危[#一]。由[#レ]此久不[#レ]歴[#二]星霜[#一]、而天下混一、如[#レ]安[#二]磐石[#一]、及[#二]異邦僻陬[#一]、亦莫[#レ]不[#二]來享[#一]。東西南北唯命之從。當[#二]此時[#一]、傳[#三]聖主※[#「嗽−口」、U+6B36、492-2]於[#二]寰中[#一]、振[#二]良將威於塞外[#一]、四海悉撒[#二]關梁[#一]、討[#二]海陸賊徒[#一]、安[#二]國家人民[#一]、吾邦晏然。雖[#レ]然、一有[#下]欲[#レ]冶[#二]大明國[#一]之志[#上]。不日泛[#二]樓船[#一]、到[#二]中華[#一]者、如[#レ]指[#レ]掌矣。以[#二]其便路[#一]、可[#レ]赴[#二]其地[#一]、何作[#二]遠近異同之隔[#一]乎。夫吾朝者神國也、神者心也。森羅萬象不[#レ]出[#二]一心[#一]、非[#レ]神其靈不[#レ]生、非[#レ]神其道不[#レ]成、増却時此神不[#レ]増、減却時此神不[#レ]減、陰陽不測之謂[#レ]神、故以[#レ]神爲[#二]萬物根源[#一]矣。此神在[#二]竺土[#一]、喚[#レ]之爲[#二]佛法[#一]、在[#二]震旦[#一]、以[#レ]之爲[#二]儒道[#一]、在[#二]日域[#一]、謂[#二]諸神道[#一]。知[#二]神道[#一]則知[#二]佛法[#一]、又知[#二]儒道[#一]。凡人處[#レ]世也、以[#レ]仁爲[#レ]本、非[#二]仁義[#一]、則君不[#レ]君、臣不[#レ]臣。施[#二]仁義[#一]、則君臣父子夫婦之大綱、其道成立矣。若是欲[#レ]知[#二]神佛深理[#一]、隨懇求、而可[#レ]解[#二]説之[#一]也。如[#二]爾國土[#一]、以[#二]教理[#一]號[#二]專門[#一]、而不[#レ]知[#二]仁義之道[#一]、此故不[#レ]敬[#二]神佛[#一]、不[#レ]隔[#二]君臣[#一]、只以[#二]邪法[#一]、欲[#レ]破[#二]正法[#一]也。從[#レ]今以往、不[#レ]辨[#二]邪正[#一]、莫[#レ]爲[#二]胡説亂説[#一]。彼伴天連之徒、前年至[#二]此土[#一]、欲[#レ]魔[#二]魅道俗男女[#一]、其時且加[#二]刑罰[#一]。重又來[#二]于此界[#一]、欲[#レ]作[#二]化導[#一]、則不[#レ]遣[#二]種類[#一]、可[#レ]族[#二]滅之[#一]、勿[#レ]噛[#レ]臍。只有[#下]欲[#レ]修[#二]好於此地[#一]之心[#上]、則海上已無[#二]盜賊艱難[#一]、域中幸許[#二]商賣往還[#一]。思[#レ]之。南方土宜、如[#二]注記[#一]領受、自[#レ]是所[#二]給賜[#一]之方物、目録在[#二]別楮[#一]。餘楮分[#二]與使節口實[#一]也。不宜。
  天正十九年七月廿五日
[#地から3字上げ]關白
    印地阿毘曾靈
[#ここから2字下げ]
目録《もくろく》 (別紙)
 給賜《きふし》
太刀《たち》 國房《くにふさ》
腰劍《えうけん》 光忠《みつたゞ》
脇差《わきざし》 貞宗《さだむね》
長刀《なぎなた》 秋廣《あきひろ》
甲冑《かつちゆう》 貮|領《かさね》
頬當《ほゝあて》 袖《そで》
鐵蓋《てつがい》 脚當《すねあて》
 天正十九年七月廿五日[#地から2字上げ]〔富岡氏文書〕[#「〔富岡氏文書〕」は1段階小さな文字]
         ―――――――――――――――
[#ここから1字下げ]
遙《はるか》に音章《おんしやう》を寄《よ》す。披《ひらい》て之《これ》を讀《よ》む。則《すなは》ち萬里《ばんり》の海山《かいざん》を限界《げんかい》に見《み》るに異《こと》ならず、來簡《らいかん》の如《ごと》く、本朝《ほんてう》は邦域《ほうゐき》六十|有餘《いうよ》。積年《せきねん》亂日《らんじつ》多《おほ》く而《しか》して治日《ぢじつ》少《すく》なし。故《ゆゑ》に兇徒《きようと》奸謀《かんぼう》を好《この》み、群士《ぐんし》黨與《たうよ》を作《つく》りて朝命《てうめい》に服《ふく》するを得《え》ず。予《よ》や壯歳《さうさい》の日《ひ》、※[#「日+熏」、第3水準1-85-42]旭《くんきよく》之《これ》を嘆惜《たんせき》す。修身《しうしん》の術《じゆつ》、治國《ちこく》の要《えう》、深謀遠慮《しんばうゑんりよ》、而《しか》して仁明武《じんめいぶ》の三を以《もつ》て、諸士《しよし》を撫養《ぶやう》、百|姓《しやう》を哀憐《あいれん》し、賞罰《しやうばつ》を正《たゞ》し、安危《あんき》を定《さだ》む。此《こ》れに由《よ》りて久《ひさ》しく星霜《せいさう》を歴《へ》ずして、天下混《てんかこん》一し、磐石《ばんじやく》を安《やす》んずるが如《ごと》く、異邦《いはう》僻陬《へきすう》に及《およ》ぶまで、亦《ま》た來享《らいきやう》せざるは莫《な》し。東西南北《とうざいなんぼく》唯《た》だ命《めい》之《これ》に從《したが》ふ。此《こ》の時《とき》に當《あた》り、聖主《せいしゆ》の※[#「嗽−口」、U+6B36、492-2]《みことのり》を寰中《くわんちゆう》に傳《つた》へ、良將《りやうしやう》の威《ゐ》を寨外《さいぐわい》に振《ふる》ひ、四|海《かい》悉《こと/″\》く關梁《くわんりやう》を撤《てつ》し、海陸《かいりく》の賊徒《ぞくと》を討《たう》し、國家《こくか》人民《じんみん》を安《やすん》じ、吾邦《わがくに》晏然《あんぜん》たり。然《しか》りと雖《いへど》も、一たび大明國《たいみんこく》を冶《をさ》めんと欲《ほつ》するの志《こゝろざし》あり。不日《ふじつ》樓船《ろうせん》を泛《うか》べ、中華《ちゆうくわ》に抵《いた》るもの、掌《たなごゝろ》を指《ゆびさ》すが如《ごと》し。其《そ》の便路《べんろ》を以《もつ》て其《そ》の地《ち》に赴《おもむ》くべし。何《なん》ぞ遠近《ゑんきん》異同《いどう》の隔《へだて》を作《な》さんや。夫《そ》れ吾《わ》が朝《てう》は神國《しんこく》なり、神《かみ》は心《こゝろ》なり。森羅萬象《しんらばんしやう》、一|心《しん》に出《い》でず。神《かみ》に非《あら》ざれば其《そ》の靈《れい》生《しやう》ぜず。神《かみ》に非《あら》ざれば其《そ》の道《みち》成《な》らず。増劫《ぞうかう》の時《とき》、此《こ》の神《かみ》増《ま》さず。減劫《げんがふ》の時《とき》、此《こ》の神《かみ》減《げん》ぜず、陰陽《いんやう》不測《ふそく》、之《これ》を神《かみ》と謂《い》ふ。故《ゆゑ》に神《かみ》を以《もつ》て萬物《ばんぶつ》の根源《こんげん》を爲《な》す。此《こ》の神《かみ》竺土《じくど》に在《あ》りて之《これ》を換《よ》びて佛法《ぶつぽふ》と爲《な》し、震旦《しんたん》に在《あ》りて之《これ》を儒道《じゆだう》と爲《な》し、日域《にいゐき》に在《あ》りて諸《こ》れを神道《しんだう》と謂《い》ふ。神道《しんだう》を知《し》れば、則《すなは》ち佛法《ぶつぽふ》を知《し》り、又《ま》た儒道《じゆだう》を知《し》る。凡《およ》そ人《ひと》、世《よ》に處《しよ》するや、仁《じん》を以《もつ》て本《もと》と爲《な》す。仁義《じんぎ》に非《あら》ざれば、則《すなは》ち君《きみ》、君《きみ》たらず。臣《しん》、臣《しん》たらず。仁義《じんぎ》を施《ほどこ》せば、則《すなは》ち君臣《くんしん》父子《ふし》夫婦《ふうふ》の大綱《たいかう》、其《そ》の道《みち》成立《せいりつ》す。若《も》し是《こ》れ神佛《しんぶつ》の深理《しんり》を知《し》らんと欲《ほつ》せば、隨《したがつ》て懇求《こんきう》せよ。而《しか》して之《これ》を解説《かいせつ》すべきなり。爾《なんぢ》の國土《こくど》の如《ごと》く、教理《けうり》を以《もつ》て專門《せんもん》と號《がう》す。而《しか》して仁義《じんぎ》の道《みち》を知《し》らず、此故《このゆゑ》に、神佛《しんぶつ》を敬《けい》せず。君臣《くんしん》を隔《へだ》てず。只《た》だ邪法《じやはふ》を以《もつ》て正法《せいほふ》を破《は》せんと欲《ほつ》するなり。今《いま》より以往《いわう》、邪正《じやせい》を辨《べん》ぜず、胡説《こせつ》亂説《らんせつ》を爲《な》す莫《なか》れ。彼《か》の伴天連《ばてれん》の徒《と》、前年《ぜんねん》、此《こ》の土《ど》に至《いた》り、道俗男女《だうぞくだんぢよ》を魔魅《まみ》せんと欲《ほつ》す。其《そ》の時《とき》、且《か》つ刑罰《けいばつ》を加《くは》へん。重《かさ》ねて又《ま》た此《こ》の界《さかひ》に來《きた》り、化導《けだう》を作《な》さんと欲《ほつ》す。則《すなは》ち種類《しゆるゐ》を遺《のこ》さず。之《これ》を族滅《ぞくめつ》すべし。臍《ほぞ》を噛《か》む勿《なか》れ。只《た》だ好《よしみ》を此《こ》の地《ち》に修《をさ》めんと欲《ほつ》するの心《こゝろ》あらば、則《すなは》ち海上《かいじやう》既《すで》に盜賊《たうぞく》の艱難《かんなん》無《な》く、域中《ゐきちゆう》幸《さいはひ》に商賈《しやうこ》の往還《わうくわん》を許《ゆる》す。之《これ》を思《おも》へ。南方《なんぱう》の土宜《どぎ》、注記《ちゆうき》の如《ごと》く領受《りやうじゆ》し、是《こ》れより給賜《きふし》する所《ところ》の方物《はうぶつ》、目録《もくろく》、別楮《べつちよ》に在《あ》り。餘楮《よちよ》、使節《しせつ》の口實《こうじつ》に分與《ぶんよ》す。不宣《ふせん》。
  天正十九年七月廿五日
    印地阿毘曾靈《いんぢあびそれい》[#地から3字上げ]關白《くわんぱく》
         ―――――――――――――――
印地阿《いんぢあ》は印度《いんど》の事《こと》にて、毘曾靈《びそれい》とは葡萄牙語《ほるとがるご》のビソレイ[#「ビソレイ」に傍線]即《すなは》ち副王《ふくわう》の事《こと》だ。
假令《たとひ》此《こ》の文《ぶん》の作者《さくしや》を、承兌《しようだ》でなかつたとするも、五|山僧《ざんそう》には相違《さうゐ》あるまい。如何《いか》にも其《そ》の口吻《こうふん》が五|山僧《ざんそう》の臭味《しうみ》を裏書《うらがき》して居《ゐ》る。吾朝《わがてう》は神國也《しんこくなり》より以下《いか》、神《しん》、佛《ぶつ》、儒《じゆ》三|道《だう》歸《き》一の講釋抔《かうしやくなど》は、尤《もつと》も其《そ》の然《しか》るを見《み》る。併《しか》し均《ひと》しく五|山僧《ざんそう》の作《さく》をしても、足利時代《あしかゞじだい》明國《みんこく》と往復《わうふく》の文書《ぶんしよ》を把《と》つて、此《こ》の書《しよ》と對照《たいせう》せん乎《か》、天地雲泥《てんちうんでい》の差《さ》を認《みと》めずには居《ゐ》られまい。足利時代《あしかゞじだい》の文書《ぶんしよ》は、彼《かれ》を華《くわ》をし、我《われ》を夷《い》とし、奴顏《どがん》、婢膝《ひしつ》、醜態《しうたい》殆《ほと》んど讀《よ》むに堪《た》へぬものがある。然《しか》るに此《こ》の書《しよ》は彼《かれ》を僕《ぼく》とし、我《われ》を主《しゆ》とし、宛《あたか》も君主《くんしゆ》が其《そ》の外蕃《ぐわいばん》に命令《めいれい》を傳《つた》ふる如《ごと》き趣《おもむ》きがある。
特《とく》に樓船《ろうせん》を泛《うか》べて明國《みんこく》を征《せい》するついでに、印度《いんど》にも押《お》し渡《わた》るつもりだ抔《など》の文句《もんく》は自《みづ》から東亞《とうあ》の霸主《はしゆ》を以《もつ》て任《にん》ずる意氣《いき》が、楮間《ちよかん》に昂揚《かうやう》して居《を》る。此《こ》の邊《へん》が則《すなは》ち秀吉《ひでよし》の本色《ほんしよく》を發揮《はつき》したものであらう。耶蘇教《やそけう》攻撃《こうげき》、伴天連《バテレン》攻撃《こうげき》に至《いた》りては、何《なん》となく耶蘇教《やそけう》反對《はんたい》の僧侶《そうりよ》が、秀吉《ひでよし》の口《くち》を假《か》りて、其《そ》の意中《いちゆう》を語《かた》つた樣《やう》にも見《み》ゆる。
兎《と》も角《かく》も使節《しせつ》が斯《かゝ》る返書《へんしよ》を、其《そ》の儘《まゝ》携《たづさ》へて、印度《いんど》に還《かへ》る譯《わけ》に參《まゐ》らなかつたのは、尤《もつとも》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は前田玄以《まへだげんい》の手《て》を藉《か》りて、秀吉《ひでよし》に請願《せいぐわん》し、改作《かいさく》を謀《はか》つた。其《そ》の理由《りいう》は、葡萄牙人《ほるとがるじん》と貿易《ぼうえき》を盛《さかん》にせんと欲《ほつ》せば、改作《かいさく》するの必要《ひつえう》ありと云《い》ふことであつた。此《こ》れは秀吉《ひでよし》を動《うご》かすには、最上《さいじやう》の口實《こうじつ》であつた。斯《か》くて聊《いさゝ》か其《そ》の文句《もんく》を緩和《くわんわ》するを得《え》、其《そ》の返翰《へんかん》と、禮物《れいもつ》とを携《たづさ》へ、一五九二|年《ねん》十|月《ぐわつ》(文祿元年)[#「(文祿元年)」は1段階小さな文字]印度《いんど》に還《かへ》つた。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]秀吉返簡の解説
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
秀吉の印度副王に與ふる返書の事は、日本西教史、其他歐文の日本の耶蘇教史にも記されてあり、其の文の英譯はヒルドレスの日本古今記にもあり、夙くから知られて居たものであるが、基本文は、從來世に知られなかつたが、先年京都の富岡謙造氏の所藏中に、その案文を發見して、史料編纂掛に借入れ、先帝の叡覽に供し奉つたことがある。これはもと山中橘内(秀吉の右筆)の家にあつたのが、轉々して富岡氏の手に入つたのである。
この文の大意は、自分が國内を平げ、長い間亂世であつたが、太平に歸した。自分は若い時からして、身を修め、國を治むるの道を考へて居り、遂に天下を統一したので、外國の者も來て朝貢する樣になつた。今や明國を征伐せんとし、不日其地に達せやうと思ふ。それ故、其序を以て其地印度にも行かうと思へば、何でもない事、遠近異同の隔はないのである。夫れ、我國は神の國である。此神道なるものが、萬物の根本のもので、印度でいふ佛法も、支那でいふ儒道も、皆是と同じものである。神儒佛は元と一致のものである。それ故、神道を知れば、佛法を知り、同時に又儒道をも知る事が出來る。人の道なるものは、仁を本とする。それによつて此五常の道が立つ。然るに汝の方の教理は、仁義の道を知らぬのである。それ故、神佛を敬せず、又君臣の隔もない、唯邪法を以て正法を破らんとするのである。今後は左樣の胡亂な説をなすを許さぬ。彼の伴天連即ち宣教師が前年我國に來り、國民を魔道に引入れんとしたから、一切それを禁じて刑罰を加へた。今後は重ねて來る事を許さぬ。只我國に來て好を修めようと思ふならば、海上には已に盜賊の憂なく、國内は安全に通行し得るから、來つて商賣をするが宜しい云々。
これがこの返書の主意である。この文の初めにある「一たび大明國を治めんと欲するの志あり、不日樓船を浮べて中華に到らんことは掌を指すが如し。其便路を以て其地に赴くべし。何ぞ遠近異同の隔をなさん乎。」とあるのは、即ち若し來つて入質するならば宜し、然らずば、直に至つて征伐せんといふ威嚇をほのめかして居るのであつて、秀吉の抱負のある處を見るに足るのである。秀吉の此書翰は、西教史なりまた其の他の書で見ると、ワリニアーニは其案文の意味を傳聞して左樣の返書では困る。左樣な激烈な辭のある書翰を持つては、本國に歸り難いとて、大に困り、遂に當時京都の市政を司つた前田玄以に頼み込み、少し其辭を書き和げて貰つたとの事である。されば西教史及びヒルドレスの日本古今記等に見えて居る、秀吉の書翰の意味と此富岡文書の意味とを比較して見ると、其間に少しの相違がある樣である。蓋し此富岡文書は秀吉の最初の案文であらうと思ふ。その修正された秀吉の書翰は如何かといふに、其宣教師が宜からぬといふ處だけが省けて、其他は大體同じ樣に見える。要するに秀吉が天竺南蠻迄も征伐すべしとの抱負を述べて居たのは、單に語の上の粉飾ではなく、實際の上に左樣の考を持つて居たものだといふ事を、此富岡文書によつても證據立てられると思ふ。〔辻善之助著、海外交通史話〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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