第十八章 遣歐使節
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[#4字下げ][#大見出し]第十八章 遣歐使節[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八八】遣歐使の一行[#中見出し終わり]

師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、臥亞《ゴア》に在《あ》つて教務《けうむ》に從事《じゆうじ》しつゝある際《さい》、一五八七|年《ねん》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]より、秀吉《ひでよし》の宣教師《せんけうし》に對《たい》する好意《かうい》の傾倒《けいたう》を封《はう》じ、且《か》つ此《こ》の際《さい》東印度總督《ひがしいんどそうとく》より使節《しせつ》を秀吉《ひでよし》に送《おく》り、其《そ》の好意《かうい》を將來《しやうらい》に繋《つな》ぎ、且《か》つ擴《ひろ》むるの得策《とくさく》なるを諷《ふう》し來《きた》つた。東印度總督《ひがしいんどそうとく》メネゼス[#「メネゼス」に傍線]は、一|議《ぎ》にも及《およ》ばず、之《これ》に同意《どうい》し、直《たゞち》にワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]をして、其《そ》の使命《しめい》を帶《お》ばしめ、書翰《しよかん》と進物《しんもつ》とを齎《もたら》し、日本《にほん》に赴《おもむ》かしめんとした。
時《とき》恰《あだか》も日本《にほん》九|州《しう》の大友《おほとも》、大村《おほむら》、有馬《ありま》の三|諸侯《しよこう》より歐洲《おうしう》に遣《つか》はしたる伊東《いとう》、千々岩等《ちゞいはら》の一|行《かう》、臥亞《ゴア》に歸著《きちやく》した。而《しか》してやがて又《ま》た秀吉《ひでよし》の突如《とつじよ》として、耶蘇教《やそけう》に對《たい》する態度《たいど》の邀邊《げきへん》した報《はう》に接《せつ》した。是《こゝ》に於《おい》てワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、彼等《かれら》を帶同《たいどう》し、全《まつた》く宣教師《せんけうし》の資格《しかく》を離《はな》れ、純然《じゆんぜん》たる東印度總督《ひがしいんどそうとく》の使節《しせつ》として、日本《にほん》に赴《おもむ》き、秀吉《ひでよし》の意《い》を飜《ひるがへ》[#ルビの「ひるがへ」は底本では「ひるがつ」]さんと企《くはだ》てた。〔ムルドック日本近世史〕[#「〔ムルドック日本近世史〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は當初《たうしよ》より秀吉《ひでよし》の禁教例《きんけうれい》を飜《ひるがへ》す爲《た》めの、使命《しめい》であつたと云《い》ふ説《せつ》もある。〔ステイチヱン著、切支丹大名〕[#「〔ステイチヱン著、切支丹大名〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は日本《にほん》到著《たうちやく》の後《のち》、保護《ほご》謝恩《しやおん》の使命《しめい》が、禁令《きんれい》緩和《くわんわ》の使命《しめい》に一|變《ぺん》したと云《い》ふ説《せつ》〔新村博士著、南歐記〕[#「〔新村博士著、南歐記〕」は1段階小さな文字]もある。併《しか》し其《そ》の結局《けつきよく》は何《いづ》れも同樣《どうやう》だ。但《た》だ此《こ》の使命《しめい》の遂行《すゐかう》を説《と》くに先《さきだ》ち、順序《じゆんじよ》として、日本《にほん》の遣歐使《けんおうし》に於《つい》て、溯《さかのぼ》る必要《ひつえう》がある。
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日本人《にほんじん》として、歐洲《おうしう》に赴《おもむ》きたるものは、彼等《かれら》以前《いぜん》にも、或《あるひ》は有《あ》つたであらう。大友宗麟《おほともそうりん》は、植田玄佐《うゑだげんすけ》、渡邊宗覺等《わたなべそうがくら》を遣《つか》はし、植田《うゑだ》は彼地《かのち》にて客死《かくし》し、渡邊《わたなべ》は砲術《はうじゆつ》を修得《しうとく》して還《かへ》つたと云《い》ふ傳説《でんせつ》がある。然《しか》も正々堂々《せい/\だう/\》と使節《しせつ》の名義《めいぎ》にて、羅馬法王《ろーまほふわう》に謁《えつ》し、大驩迎《だいくわんげい》、大優待《だいいうたい》を享《う》けて歸朝《きてう》したのは、此《こ》の一|行《かう》を嚆矢《かうし》とする。彼等《かれら》は果《はた》して其《そ》の使命《しめい》を全《まつた》うした乎《か》、否乎《いなか》を問《と》ふ迄《まで》もなく、唯《た》だ是《こ》れ丈《だけ》の事《こと》にても、特筆《とくひつ》する價値《かち》がある。
抑《そもそ》も日本《にほん》よりの使節《しせつ》を、歐洲《おうしう》に派遣《はけん》する事《こと》は、師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の發案《はつあん》であつたと思《おも》はるゝ。(第一)は歐洲《おうしう》の教會《けうくわい》、及《およ》び爲政階級《ゐせいかいきふ》に向《むか》つて、日本人民《にほんじんみん》の尋常《じんじやう》一|樣《やう》の亞細亞人《あじあじん》と科《しな》を異《こと》にするを知《し》らしめ、日本《にほん》を獨立傳道區域《どくりつでんだうくゐき》として、重要《ぢゆうえう》に取扱《とりあつか》はしめんが爲《た》めであつた。そは從來《じゆうらい》日本《にほん》は、印度教區《いんどけうく》の支配《しはい》にして、傳道《でんだう》の本據《ほんきよ》は印度《いんど》にあり、その爲《た》めに何事《なにごと》も齒痒《はがゆ》き事《こと》が多《おほ》かつたからだ。(第二)は日本人《にほんじん》をして、歐洲文化《おうしうぶんくわ》の本源《ほんげん》を知《し》らしめ、其《そ》の寺院《じゐん》の壯麗《さうれい》偉大《ゐだい》と、其《そ》の都府王公《とふわうこう》の威權《ゐけん》赫々《かく/\》たるとを目撃《もくげき》せしめ、宣教師《せんけうし》の所説《しよせつ》を、實物標本《じつぶつへうほん》によりて、立證《りつしよう》せしめん爲《た》めであつた。
而《しか》して之《これ》に應《おう》じて、其《そ》の使節《しせつ》を特派《とくは》したのは、大友《おほとも》、大村《おほむら》、有馬《ありま》三|氏《し》にして、大友氏《おほともし》は日向《ひふが》飫肥《をび》の領主《りやうしゆ》伊東義益《いとうよします》の姪《をひ》伊東義賢《いとうよしかた》、所謂《いはゆ》る教名《けうめい》アンシオ[#「アンシオ」に傍線]、大村《おほむら》、有馬《ありま》兩氏《りやうし》は、純忠《すみたゞ》の姪《をひ》にして、晴信《はるのぶ》の從兄弟《いとこ》たる千々岩清左衞門《ちゞいはせいざゑもん》、教名《けうめい》ドム・ミッセル[#「ミッセル」に傍線]、以上《いじやう》兩人《りやうにん》を正使《せいし》とし、更《さ》らに其《そ》の親戚《しんせき》中浦《なかうら》ジュリアン[#「ジュリアン」に傍線]、原《はら》マルチン[#「マルチン」に傍線]を副使《ふくし》とした。彼等《かれら》は何《いづ》れも十六|歳《さい》以下《いか》の少年《せうねん》であつた。然《しか》も伊東《いとう》は年《とし》の割合《わりあひ》には、賢明《けんめい》にして思慮《しりよ》があつた。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、一|行《かう》の先達《せんだつ》であつた。彼等《かれら》は一五八二|年《ねん》二|月《ぐわつ》二十二|日《にち》(天正十年正月三十日)[#「(天正十年正月三十日)」は1段階小さな文字]長崎《ながさき》を解纜《かいらん》した。
彼等《かれら》は出帆《しゆつぱん》二三|日後《にちご》、大暴風《だいばうふう》に遭《あ》うた。而《しか》して十七|日目《にちめ》に漸《やうや》く媽港《マカオ》に達《たつ》した。媽港《マカオ》の葡萄牙人《ほるとがるじん》は、喇叭《らつぱ》を吹《ふ》き、大砲《たいはう》を發《はつ》して、驩迎《くわんげい》した。彼等《かれら》は此《こ》の地《ち》に九|箇月《かげつ》滯在《たいざい》して、印度行《いんどゆき》の船《ふね》を待《ま》ち受《う》けた。三|隻《せき》の船《ふね》は何《いづ》れも彼等《かれら》を搭載《たふさい》せんことを爭《あらそ》うた。然《しか》も彼等《かれら》を長崎《ながさき》より媽港《マカオ》に運《はこ》びたる『イニャース・リマー』號《がう》の船長《せんちやう》は、彼等《かれら》を遇《ぐう》したること親切《しんせつ》であつたから、他《た》に巨舶《きよはく》美室《びしつ》のあつたにも拘《かゝは》らず、再《ふたゝ》び此《こ》の船《ふね》に搭載《たふさい》した。然《しか》も此《こ》の巨船《きよせん》は沈沒《ちんぼつ》し、『リマー』號《がう》は、新嘉坡《しんがぽーる》の峽門《けふもん》にて、坐礁《ざせう》したが、無事《ぶじ》に離礁《りせう》した。
彼等《かれら》は滿剌加《まらつか》に駐《とゞま》る四|日《か》にして、臥亞《ゴア》に向《む》け發航《はつかう》した。尋常《じんじやう》の航程《かうてい》一|箇月《かげつ》であれば、食糧《しよくりやう》なども、多《おほ》くは儲《たくは》へなかつた。然《しか》るに船中《せんちゆう》炎熱《えんねつ》の爲《た》めに、病人《びやうにん》續出《ぞくしゆつ》した。伊東《いとう》アンシオ[#「アンシオ」に傍線]の如《ごと》きは、到底《たうてう》生存《せいぞん》の望《のぞ》みなき程《ほど》の大熱《だいねつ》と、下痢《げり》とに罹《かゝ》つた。ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]も亦《ま》た約《やく》一|箇月《かげつ》の間《あひだ》、疫熱《えきねつ》に罹《かゝ》つた。彼等《かれら》は病《やまひ》の爲《た》めに水《みづ》を飮《の》み盡《つく》したれば、今《いま》は海水《かいすゐ》を飮《の》むの他《ほか》はなかつた。斯《か》くて彼等《かれら》は一五八三|年《ねん》(天正十一年)[#「(天正十一年)」は1段階小さな文字]四|月《ぐわつ》、コチン[#「」に二重傍線]に達《たつ》した。此《こ》の地《ち》に六|箇月《かげつ》を經過《けいくわ》し、春期《しゆんき》の好風《かうふう》を俟《ま》ち、遂《つ》ひにコチン[#「」に二重傍線]より二十|日《か》の航海《かうかい》にて、臥亞《ゴア》に達《たつ》した。
當時《たうじ》東印度總督《ひがしいんどそうとく》マスカレナアー[#「マスカレナアー」に傍線]は、使節《しせつ》を待《ま》つに於《おい》て、懇款《こんくわん》、殷勤《いんぎん》を極《きは》めた。而《しか》して純金《じゆんきん》の鎖《くさり》もて、各人《かくじん》の胸《むね》に懸《か》けた。臥亞《ゴア》の師父《しふ》、僧侶等《そうりよら》は學校生徒《がくかうせいと》をして、使節《しせつ》一|行《かう》を驩迎《くわんげい》せしめた。然《しか》るに此《こ》の際《さい》に於《おい》て、思《おも》ひ掛《がけ》なき事《こと》は生《しやう》じた。使節《しせつ》の先達《せんだつ》たる可《べ》きワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、法王《はうわう》より印度司教《いんどしけう》の任命《にんめい》に接《せつ》し、此《こ》の地《ち》に駐《とゞ》まる可《べ》く、餘儀《よぎ》なくせられた。

[#5字下げ][#中見出し]【八九】使節羅馬に入る[#中見出し終わり]

ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、使節《しせつ》一|行《かう》を、師父《しふ》ヌゲー[#「ヌゲー」に傍線]に託《たく》し、更《さ》らに殷勤《いんぎん》に歐洲《おうしう》諸朝廷《しよてうてい》に向《むか》つて、其《そ》の待遇《たいぐう》の方法《はうはふ》を注意《ちゆうい》した。曰《いは》く懇切《こんせつ》にせよ、然《しか》も決《けつ》して鄭重《ていちよう》なる勿《なか》れ。若《も》し鄭重《ていちよう》ならば、彼等《かれら》本來《ほんら》の虚榮心《きよえいしん》は、是《こ》れを以《もつ》て當然《たうぜん》の事《こと》と認《みと》むるであらうと。〔ステイヱン著、切支丹大名〕[#「〔ステイヱン著、切支丹大名〕」は1段階小さな文字]日本人《にほんじん》の自尊心《じそんし》を抑制《よくせい》することは、敬虔《けいけん》、篤信《とくしん》なるワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]さへも、亦《ま》た必要《ひつえう》と認《みと》めた。
然《しか》も此《こ》の注意《ちゆうい》は、歐洲《おうしう》諸朝廷《しよてうてい》は愚《おろ》か、臥亞《ゴア》に於《おい》てさへも、顧《かへり》みられなかつた。使節等《しせつら》は無上《むじやう》の厚遇《こうぐう》を享《う》けた。東印度總督《ひがしいんどそうとく》は、旅費《りよひ》として三千ヱクーを與《あた》へ、更《さ》らに彼等《かれら》を搭載《たふさい》する爲《た》め、堅牢《けんらう》にして廣大《くわうだい》なる船舶《せんぱく》を選《えら》み、二千ジュカの金《かね》を投《とう》じて、彼等《かれら》の船室《せんしつ》を營造《えいざう》、裝飾《さうしよく》した。而《しか》して彼等《かれら》は一五八四|年《ねん》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]二|月《ぐわつ》二十|日《か》、臥亞《ゴア》を發《はつ》して、葡萄牙《ほるとがる》の首府《しゆふ》リスボン[#「リスボン」に二重傍線]に向《むか》うた。
彼等《かれら》は前年《ぜんねん》の十一|月頃《ぐわつごろ》より臥亞《ゴア》に滯在《たいざい》した。而《しか》して出發前《しゆつぱつぜん》の一|箇月《かげつ》は、學校《がくかう》に住居《ぢゆうきよ》した。斯《か》くて彼等《かれら》は五|月《ぐわつ》十|日《か》に喜望岬《きばうみさき》を過《す》ぎ、セント・ヘレナ[#「セント・ヘレナ」に二重傍線]島《たう》(奈翁流竄の地)[#「(奈翁流竄の地)」は1段階小さな文字]に十一|日《にち》を送《おく》り、魚獵《ぎよれふ》を樂《たのしみ》とした。而《しか》して航海中《かうかいちゆう》にも、船體《せんたい》に近《ちかづ》く魚《うを》を釣捕《てうほ》し、或《あるひ》は船中《せんちゆう》に飛《と》び來《きた》る鳥《とり》を相手《あひて》とし、一五八四|年《ねん》八|月《ぐわつ》十|日《か》(天正十二年七月五日)[#「(天正十二年七月五日)」は1段階小さな文字]漸《やうや》くリスボン[#「リスボン」に二重傍線]に到著《たうちやく》した。斯《か》くて彼等《かれら》は長崎《ながさき》を出《い》でゝより、約《やく》二|箇年《かねん》半《はん》を費《つひや》したのだ。
彼等《かれら》はリスボン[#「リスボン」に二重傍線]に於《おい》て、始《はじ》めて歐洲《おうしう》の都府《とふ》を見《み》た。彼等《かれら》が異郷《いきやう》の文物《ぶんぶつ》に目《め》[#ルビの「め」は底本では「めい」]を驚《おどろ》かすよりも、寧《むし》ろ歐洲《おうしう》の王公貴人《わうこうきじん》、高僧大官《かうそうたいくわん》、都府市邑《とふしいふ》は、天涯萬里《てんがいばんり》の異客《いかく》に驚《おどろ》いた。此處《こゝ》より西班牙《すぺいん》の首府《しゆふ》マドリッド[#「マドリッド」に二重傍線]に至《いた》る迄《まで》、彼等《かれら》は殆《ほとん》ど凱旋將軍《がいせんしやうぐん》の如《ごと》く、隨時隨所《ずゐじずゐしよ》に驩迎《くわんげい》せられた。特《とく》にブラガンザ[#「ブラガンザ」に傍線]公《こう》は、己《おの》が車駕《しやが》を使節等《しせつら》に提供《ていきよう》し。兄弟《きやうだい》三|人《にん》相伴《あひともな》うて、自《みづ》から途中迄《とちゆうまで》出《い》で迎《むか》へ、公爵《こうしやく》の母《はゝ》は、使節等《しせつら》より日本服《にほんふく》一|襲《かさね》を借《か》り受《う》け、金《きん》の織物《おりもの》にて別《べつ》に日本服《にほんふく》を製《せい》し、之《これ》を其《そ》の二|男《なん》ヱブアール[#「ヱブアール」に傍線]に著《き》せしめ、我《わ》が邸内《ていない》にも一|個《こ》の日本貴人《にほんきじん》ありとて、彼等《かれら》を誘引《いういん》した。
彼等《かれら》は十|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、西班牙《すぺいん》首府《しゆふ》マドリッド[#「マドリッド」に二重傍線]に至《いた》り、國王《こくわう》に謁見《えつけん》せんとするの際《さい》、一|行中《かうちゆう》の原《はら》は熱病《ねつびやう》に罹《かゝ》り、其《そ》の期《き》を後《おく》れたが、十一|月《ぐわつ》十二|日《にち》には、諸王公等《しよわうこうら》が、比律布《ヒリツプ》二|世《せい》に朝會《てうくわい》するの盛儀《せいぎ》を陪觀《ばいくわん》し、同《どう》十四|日《か》に、始《はじ》めて謁見《えつけん》した。王《わう》は彼等《かれら》が日本服《にほんふく》を著《つ》けたるを見《み》て、驩喜《くわんき》した。彼等《かれら》は西班牙語《すぺいんご》にて日本人《にほんじん》の認《したゝ》めたる大友《おほとも》、大村《おほむら》、有馬《ありま》三|氏《し》の書簡《しよかん》と、獻品《けんぴん》とを呈《てい》した。王《わう》は彼等《かれら》の精巧《せいかう》なる衣服《いふく》、刀劍等《たうけんとう》を嘉賞《かしやう》し、日本《にほん》の風俗《ふうぞく》習慣等《しふくわんとう》を問《と》ひ、一|時間《じかん》も立談《りつだん》して、其《そ》の殿中《でんちゆう》の者共《ものども》を驚異《きやうい》せしめた。次日《じじつ》には皇后《くわうごう》に謁見《えつけん》した。王《わう》は彼等《かれら》をして、ヱスキュリアル[#「ヱスキュリアル」に傍線]の離宮《りきゆう》を見《み》せしめた。
彼等《かれら》は更《さ》らにマドリッド[#「マドリッド」に二重傍線]の武庫《ぶこ》、金庫《きんこ》、其《そ》の他《た》あらゆるものを見物《けんぶつ》し。王《わう》より鄭重《ていちよう》なる饗應《きやうおう》を受《う》け、而《しか》して王《わう》自《みづ》から彼等《かれら》を耶蘇會士《やそくわいし》の邸《てい》に訪問《はうもん》した。
彼等《かれら》の羅馬《ろーま》に向《むか》つて出發《しゆつぱつ》するや、沿道《えんだう》皆《み》な驩迎《くわんげい》した。アルカラ[#「アルカラ」に二重線]の大學校《だいがくかう》は、彼等《かれら》を待《ま》つに、帝王《ていわう》の如《ごと》くした。其《そ》の一たび伊太利《いたりー》の境《さかひ》に入《い》るや、其《そ》の熱情《ねつじやう》は更《さ》らに加《くは》はつた。ピサ[#「ピサ」に傍線]に於《おい》て、フロレンス[#「フロレンス」に傍線]に於《おい》て、シエナ[#「シエナ」に傍線]に於《おい》て、皆《み》な然《しか》りであつた。然《しか》も其《そ》の絶頂《ぜつちやう》は、羅馬法王《ろーまほふわう》の都《みやこ》せる羅馬《ろーま》であつた。彼等《かれら》は羅馬《ろーま》を去《さ》る二|日程《かてい》に於《おい》て、法王《ほふわう》より特《とく》に彼等《かれら》を迎《むか》ふ可《べ》く派遣《はけん》したる、騎兵《きへい》二|隊《たい》に接會《せつくわい》した。彼等《かれら》は一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]三|月《ぐわつ》廿|日《にち》金曜日《きんえうび》を以《もつ》て、羅馬《ろーま》に著《ちやく》したが、故《ことさ》らに人目《ひとめ》を聳動《しようどう》せざらんが爲《た》めに、夜中《やちゆう》に城門《じやうもん》に入《い》る可《べ》く、門外《もんぐわい》に待《ま》ち居《ゐ》たるや。羅馬《ろーま》全都《ぜんと》は、之《これ》を知《し》りて、群集《ぐんしふ》は城門《じやうもん》に向《むか》つて、潮《うしほ》の如《ごと》く進《すゝ》み來《き》た。全都《ぜんと》は驩迎《くわんげい》の喇叭《らつぱ》にて吹《ふ》き徹《とほ》した。而《しか》して直《たゞ》ちに耶蘇會《ゼスイツト》の寺院《じいん》に至《いた》つた。其《そ》の總長《そうちやう》アリヴイヴァー[#「アリヴイヴァー」に傍線]は、二百|人《にん》の信徒《しんと》と彼等《かれら》を迎《むか》へ、感涙《かんるゐ》を流《なが》して、彼等《かれら》を院内《ゐんない》に導《みちび》き、彼等《かれら》は洋々《やう/\》たる頌歌《しようか》の中《うち》に、天鵞絨《びろーど》の蒲團《ふとん》に跪《ひざまづ》き、感謝《かんしや》の祈祷《きたう》を捧《さゝ》げた。此《かく》の如《ごと》くして彼等《かれら》は、三|年《ねん》一|箇月《かげつ》と三|日《か》を費《つひや》し、漸《やうや》く目的《もくてき》の地《ち》に達《たつ》した。

[#5字下げ][#中見出し]【九〇】使節羅馬法王に謁見す(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

法王《ほふわう》グレゴリー[#「グレゴリー」に傍線]十三|世《せい》は、使節《しせつ》の到著《たうちやく》を待《ま》ち兼《か》ねて居《ゐ》た。彼《かれ》は其《そ》の報《はう》に接《せつ》するや否《いな》や、直《たゞ》ちに最高僧官等《カルヂナルら》を集《あつ》めて、其《そ》の待遇法《たいぐうはう》を評定《ひやうぢやう》せしめ、歐洲《おうしう》各國《かくこく》の使節《しせつ》同樣《どうやう》の敬禮《けいれい》を享《う》けしむることゝした。而《しか》して一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]三|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、即《すなは》ち羅馬《ろーま》到著《たうちやく》の翌日《よくじつ》、愈《いよい》よ謁見日《えつけんび》と定《さだ》められた。
當日《たうじつ》彼等《かれら》は、西班牙大使《すぺいんたいし》の馬車《ばしや》にて、先《ま》づ法王《ほふわう》ジュリアス[#「ジュリアス」に傍線]三|世《せい》の別殿《べつでん》のあるデルポポロー[#「デルポポロー」に二重傍線]市街《しがい》の外《ほか》に赴《おもむ》き、それより列《れつ》を正《たゞ》しくして練《ね》り行《ゆ》いた。中浦《なかうら》は熱病《ねつびやう》を強《し》ひて乘馬《じやうば》したが、途中《とちゆう》より車《くるま》に乘《の》つた。他《た》の三|使《し》は何《いづ》れも金絲《きんし》もて、花鳥《くわてう》を縫《ぬ》ひ出《いだ》せる、大袖《おほそで》の日本服《にほんふく》を著《つ》け、美麗《びれい》の帶《おび》を締《し》め、左《ひだり》に眞珠《しんじゆ》、寶石《はうせき》を嵌《は》めた刀《かたな》を帶《お》び、右《みぎ》に短刀《たんたう》を持《ぢ》し、威風凛然《ゐふうりんぜん》として馬《うま》に跨《またが》つた。而《しか》して馬鞍後《くらうしろ》の覆物《かけもの》は、黒天鵞絨《くろびろーど》にて製《せい》し、其《そ》の縁《へり》は金《きん》にて飾《かざ》つた。其《そ》の風采《ふうさい》の高貴《かうき》にして、其《そ》の態度《たいど》の悠揚《いうやう》なる、何《いづ》れも觀者《くわんしや》を驚嘆《きやうたん》せしめた。彼等《かれら》の行列中《ぎやうれつちゆう》には、各種《かくしゆ》の僧官《そうくわん》、法王《ほふわう》の官吏《くわんり》、列國《れつこく》の使節等《しせつら》、あらゆるものを網羅《まうら》し、光彩陸離《くわうさいりくり》、目《め》を眩《げん》せん計《ばか》りであつた。法王《ほふわう》の新衞兵《しんゑいへい》は、盛裝《せいさう》して、馬上《ばじやう》にて其《そ》の先導《せんだう》をした。羅馬《ろーま》の貴族《きぞく》、縉紳等《しんしら》は、何《いづ》れも馬上《ばじやう》にて、其《そ》の後殿《しんがり》となつた。而《しか》して道《みち》の兩側《りやうがは》は、羅馬貴族《ろーまきぞく》より成《な》る騎兵《きへい》にて、之《これ》を護衞《ごゑい》し、滿都《まんと》の老弱男女《らうにやくなんによ》相群《あひむら》がり、端《はし》なく人《ひと》山《やま》人《ひと》海《うみ》をなした。
一|行《かう》の愈《いよい》よ羅馬市内《ろーましない》に入《い》るや、サン・アンゼロ[#「サン・アンゼ」に二重傍線]砲臺《はうだい》よりは祝砲《しゆくはう》を放《はな》ち、各寺院《かくじゐん》より打《う》ち出《だ》す鐘聲《しようせい》や、喇叭《らつぱ》の音《おと》や、市民《しみん》觀呼《くわんこ》の叫《さけび》と與《とも》に、天地《てんち》を震撼《しんかん》せむる許《ばか》りであつた。彼等《かれら》がヴァチカン[#「ヴァチカン」に二重傍線]宮《きゆう》に至《いた》るや、法王《ほふわう》は其《そ》の老體《らうたい》にも拘《かゝは》らず、高貴《かうき》の各僧官《かくそうくわん》を隨《したが》へて之《これ》を正廳《せいちやう》に迎《むか》へた。伊東《いとう》、千々岩《ちゞいは》、原《はら》三|人《にん》の使節《しせつ》は、法王《ほふわう》の足《あし》を吻《ふん》せんと頓首《とんしゆ》したが、法王《ほふわう》は自《みづ》から身《み》を屈《くつ》して、使節等《しせつら》を扶《たす》け起《おこ》し、順次《じゆんじ》に三|人《にん》を抱擁《はうよう》し、滿面《まんめん》に慈愛《じあい》、歡喜《くわんぎ》の涙《なみだ》が溢《あふ》れた。使節《しせつ》も亦《ま》た此《こ》の涙《なみだ》に感動《かんどう》した。
彼等《かれら》は吻足《ふんそく》の禮《れい》を畢《をは》りて後《のち》、日本《にほん》より同行《どうかう》したる通譯官《つうやくくわん》、師父《しふ》メスキター[#「メスキター」に傍線]を介《かい》して、其《そ》の三|諸侯《しよこう》よりの親書《しんしよ》を捧呈《ほうてい》せんことを希《ねが》ひ、其《そ》の許《ゆるし》を得《え》て、特別《とくべつ》に設《まう》けられたる席《せき》に就《つ》き、高聲《かうせい》に之《これ》を朗讀《らうどく》した。
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天帝《てんてい》の代理《だいり》として、地上《ちじやう》に位《くらゐ》する、恭敬《きようけい》す可《べ》き、最貴至誠《さいきしせい》なる法王陛下《ほふわうへいか》に白《まを》す。
我《わ》が天帝《てんてい》の救護《きうご》を熱請《ねつせい》し、謹《つゝしん》で書《しよ》を陛下《へいか》に捧《さゝ》ぐ、日月星辰《にちげつせいしん》を所持《しよぢ》し、天地萬物《てんちばんぶつ》の主《しゆ》なる天帝《てんてい》は、我《わ》が蒙昧《まうまい》、昏迷《こんめい》を憐《あはれ》み、天光《てんくわう》を輝《かゞや》かし、我國《わがくに》に教師《けうい》を送《おく》り、國民《こくみん》に教《をしへ》を説《とか》しめ給《たま》ひたるを以《もつ》て、始《はじ》めて其《そ》の恩徳《おんとく》を解《かい》するを得《え》た。我《われ》も亦《ま》た漸《やうや》く之《これ》を悟《さと》り、其惠《そのめぐみ》に浴《よく》する已《すで》に三十四|年《ねん》となつた。嗚呼《あゝ》耶蘇教《やそけう》衆民《しゆうみん》の聖父《せいふ》よ、陛下《へいか》の功徳《くどく》、恩惠《おんけい》は實《じつ》に感佩《かんぱい》に禁《た》へず。然《しか》るに吾國《わがくに》戰鬪《せんとう》止《や》むなく、此身《このみ》漸《やうや》く老病《らうびやう》にして、且《か》つ疾病《しつぺい》に罹《かゝ》り、自《みづ》から聖所《せいしよ》に赴《おもむ》き、天顏《てんがん》を仰《あふ》ぎ、聖足《せいそく》を吻《ふん》し、御手《おんて》づから十|字架《じか》を、我《わ》が心胸《しんきよう》の上《うへ》に模《も》するの高惠《かうけい》を拜受《はいじゆ》するに由《よし》なし。是《これ》を以《もつ》て日向國主《ひふがこくしゆ》の男《だん》、我《わ》が姪《をひ》トム・ゼロールム[#「トム・ゼロールム」に傍線](伊東ゼロームは、伊東義益の子にして、當時安土の宣教師學校にあつた。)[#「(伊東ゼロームは、伊東義益の子にして、當時安土の宣教師學校にあつた。)」は1段階小さな文字]を遣《つか》はさんとしたが、即今《そくこん》遠地《ゑんち》にあり、且《か》つ師父《しふ》(ワリンッヤーニ)[#「(ワリンッヤーニ)」は1段階小さな文字]の歸帆《きはん》急《きふ》なるが爲《た》めに、我《わ》が從弟《じゆうてい》ドム・マンシオー[#「ドム・マンシオー」に傍線](伊東義賢)[#「(伊東義賢)」は1段階小さな文字]を特派《とくは》す。陛下《へいか》希《こひねがは》くは地上《ちじやう》に於《おい》て、天帝《てんてい》に代《かは》り、予《よ》及《およ》び予《よ》の管下《くわんか》の人民《じんみん》に、惠愛《けいあい》を垂《た》れ給《たま》へ。師父《しふ》が陛下《へいか》に代《かは》りて、我等《われら》に聖教《せいけう》を授《さづ》けられたるは、感戴奉謝《かんたいはうしや》、言《げん》の盡《つく》す可《べ》きにあらず。予《よ》の身上《しんじやう》、及《およ》び領地《りやうち》に關《くわん》する情況等《じやうきやうとう》は、總《すべ》て師父《しふ》ドム・マンシオー[#「(ドム・マンシオー)」は1段階小さな文字]より詳細《しやうさい》に陳述《ちんじゆつ》すべし。恭《うや/\》しく茲《こゝ》に滿腔《まんこう》の誠意《せいい》を表《へう》す。
  千五百八十二年一月十一日(天正九年十二月廿七日)[#「(天正九年十二月廿七日)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]豐後の國主フランソアー(大友宗麟)
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以下《いか》大村《おほむら》、有馬《ありま》の親書《しんしよ》も大同小異《だいどうせうい》であつた。
朗讀《らうどく》の後《のち》、葡萄牙《ほるとがる》の耶蘇教師《やそけうし》カスパル・ゴンザレー[#「カスパル・ゴンザレー」に傍線]は、使節《しせつ》、及《およ》び使節《しせつ》を特派《とくは》したる諸侯《しよこう》に代《かは》りて、拉典語《らてんご》の大演説《だいえんぜつ》をした。
彼《かれ》は冐頭《ばうとう》に日本人《にほんじん》を推奨《すゐしやう》して曰《いは》く、『此國《このくに》の人民《じんみん》は、性《せい》正直《しやうぢき》敏捷《びんせふ》にして、精神《せいしん》氣魄《きはく》がある。義《ぎ》に勇《いさ》み、戰《たゝかひ》を好《この》み、動作《どうさ》善良《ぜんりやう》である。此《こ》の人民《じんみん》を、他《た》の亞細亞《あじあ》の人民《じんみん》に比《ひ》すれば、其《そ》の優秀《いうしゆう》卓越《たくゑつ》、同日《どうじつ》の論《ろん》でない。但《た》だ歐人《おうじん》に比《ひ》することの能《あた》はぬのは、異教徒《いけうと》たるが故《ゆゑ》だ。
更《さ》らに一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて曰《いは》く、然《しか》るに法王陛下《ほふわうへいか》の聖徳《せいとく》によりて、此《こ》の人民《じんみん》を信仰《しんかう》に導《みちび》き、頃《このご》ろ歐洲《おうしう》に於《お》ける背信《はいしん》の風潮《ふんてう》―新教《しんけう》の勃興《ぼつこう》―と乘除《じようぢよ》するを得《え》たのは、寔《まこと》に慶賀《けいが》の至《いた》りである。
更《さ》らに一|轉《てん》語《ご》を下《くだ》して曰《いは》く、羅馬帝國《ろーまていこく》の盛時《せいじ》オフギュスト[#「オフギュスト」に傍線]帝《てい》の代《だい》に、印度《いんど》より使節《しせつ》を送《おく》り、同盟《どうめい》を求《もと》めたことがあつた。當時《たうじ》の人心《じんしん》は、何《いづ》れも歡呼《くわんこ》して之《これ》を迎《むか》へ、之《これ》を以《もつ》て羅馬帝國《ろーまていこく》の大《だい》なる名譽《めいよ》とした。然《しか》も日本《にほん》は印度《いんど》より遠隔《ゑんかく》の地《ち》だ。印度人《いんどじん》は羅馬《ろーま》の兵力《へいりよく》、及《およ》び國旗《こくき》を知《し》らず、唯《た》だ羅馬人《ろーまじん》と對等《たいとう》の條約《でうやく》を求《もと》めんが爲《た》めに來《きた》つたが。日本使節《にほんしせつ》の目的《もくてき》は、對等《たいとう》の條約《でうやく》にあらずして、唯《た》だ忠誠《ちゆうせい》を表《へう》し、從順《じゆうじゆん》を現《あら》はす可《べ》く、三|年《ねん》の時日《じじつ》を費《つひや》して來朝《らいてう》した。云々《うんぬん》。
此《こ》の演説《えんぜつ》は、滿場《まんぢやう》に偉大《ゐだい》なる感激《かんげき》を與《あた》へ、中《なか》には流涕《りうてい》するものもあつた。
斯《か》くてアントアン・ポカパテュリー[#「アントアン・ポカパテュリー」に傍線]は、法王《ほふわう》に代《かは》りて、答辭《たふじ》を陳《ちん》じ。使節等《しせつら》は再《ふたゝ》び聖足《せいそく》を吻《ふん》し、法王《ほふわう》の姪《をひ》最高僧官《カルヂナル》シキタス[#「シキタス」に傍線]は、法王《ほふわう》の命《めい》を奉《ほう》じて、彼等《かれら》に午餐《ごさん》を饗《きやう》し、食後《しよくご》法王《ほふわう》は再《ふたゝ》び彼等《かれら》を招《まね》き、行旅《かうりよ》の模樣《もやう》、日本《にほん》の風俗《ふうぞく》、改宗《かいしゆう》の事等《こととう》を尋問《じんもん》したが。彼等《かれら》が能《よ》く應答《おうたふ》した爲《た》めに、法王《ほふわう》は限《かぎ》りなく悦《よろこ》び、最好《さいかう》の印象《いんしやう》をもて、當日《たうじつ》の謁見《えつけん》を終《をは》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【九一】使節羅馬法王に謁見す(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

法王《ほふわう》は中心《ちゆうしん》より、日本《にほん》の年少《ねんせう》なる使節《しせつ》を愛好《あいかう》した。されば王公貴人《わうこうきじん》にあらざれば、享《う》くる能《あた》はざる程《ほど》の待遇《たいぐう》を、悉《こと/″\》く彼等《かれら》に與《あた》へた。否《い》なより以上《いじやう》のものを。
彼等《かれら》は法王《ほふわう》の行幸《ぎやうかう》に際《さい》し、騎馬《きば》にて、陪從《ばいじゆ》するを許《ゆる》され、其《そ》の寺院參詣《じゐんさんけい》の際《さい》にも、法王《ほふわう》に接近《せつきん》するを許《ゆる》された。法王《ほふわう》は彼等《かれら》に各々《おの/\》衣服《いふく》三|襲宛《かさねづゝ》を與《あた》へ、彼等《かれら》をして金絲《きんし》にて裝飾《さうしよく》したる、黒天鵞絨《くろびろーど》の伊太利服《いたりーふく》を纒《まと》はしめた。彼等《かれら》は珍客《ちんかく》として、羅馬《ろーま》に於《お》けるあらゆる貴人《きじん》、即《すなは》ち各國《かくこく》の使節《しせつ》、元老議官《げんらうぎくわん》、其《そ》の他《た》より訪問《はうもん》せられ、招待《せうだい》せられた。而《しか》して法王《ほふわう》は公式拜謁以外《こうしきはいえついぐわい》に、屡《しばし》ば燕見《ゑんけん》を許《ゆる》し、慈親《じしん》の如《ごと》く、彼等《かれら》を愛撫《あいぶ》し、彼等《かれら》が羅馬《ろーま》七|箇寺《かじ》の參詣《さんけい》に、多大《ただい》の便宜《べんぎ》を與《あた》へ、且《か》つ中浦《なかうら》の病《やまひ》に就《つい》ては、名醫《めいい》をして、診察《しんさつ》せしめ、且《か》つ日々《ひゞ》其《そ》の病状《びやうじやう》を報告《はうこく》せしめた。然《しか》るに思《おも》ひきや、彼等《かれら》が到著《たうちやく》十八|日目《にちめ》に、法王《ほふわう》は八十四|歳《さい》にて逝《ゆ》かんとは。是《こ》れ實《じつ》に一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]四|月《ぐわつ》十|日《か》であつた。法王《ほふわう》は死《し》する一|時間前《じかんまへ》、尚《な》ほ中浦《なかうら》の病状《びやうじやう》を聽《き》かんことを求《もと》めた。
シキタス[#「シキタス」に傍線]五|世《せい》、其《そ》の位《くらゐ》を襲《つ》いだ。使節等《しせつら》は襲位《しふゐ》の二|日目《かめ》に、新法王《しんほふわう》に謁見《えつけん》した。彼《かれ》は日本使節《にほんしせつ》にして、何事《なにごと》にもあれ、請願《せいぐわん》の筋《すぢ》あらば、遠慮《ゑんりよ》なく之《これ》を告《つ》げよと云《い》うた。是《こゝ》に於《おい》て彼等《かれら》は箇條書《かでうがき》を捧呈《ほうてい》した。而《しか》して即位式《そくゐしき》に際《さい》しては、彼等《かれら》は參列《さんれつ》の光榮《くわうえい》を得《え》たるのみならず、即位臺《そくゐだい》の捧持者《ほうぢしや》、及《およ》び洗淨者《せんじやうしや》たる任務《にんむ》を與《あた》へられた。而《しか》して伊東《いとう》マンシオー[#「マンシオー」に傍線]等《ら》より請願《せいぐわん》の事《こと》に就《つい》ては、前法王《ぜんほふわう》より日本人《にほんじん》耶蘇教師《やそけうし》教育費《けういくひ》として、毎年《まいねん》四|萬《まん》ヱクーの金額《きんがく》を與《あた》ふ可《べ》き旨《むね》、定《さだ》め置《お》かれたる以外《いぐわい》に、尚《な》ほ二千ヱクーを増加《ぞうか》し、又《ま》た歸國旅費《きこくりよひ》として、三千ヱクーを與《あた》へ、更《さ》らに彼等《かれら》を金箔車《きんはくしや》の騎士《きし》に任《にん》じ、耶蘇昇天祭《やそしようてんさい》の前日《ぜんじつ》に、高僧《かうそう》大官《たいくわん》參列《さんれつ》の裡《うち》に、其《そ》の儀式《ぎしき》を擧行《きよかう》し、佛蘭西《ふらんす》、及《およ》び威尼士《ヴヱニス》の使節《しせつ》をして、彼等《かれら》に拍車《はくしや》を著《つ》けしめた。而《しか》して彼等《かれら》が法王《ほふわう》の手《て》より劔《けん》を賜《たま》はるや、彼等《かれら》は一|死《し》を以《もつ》て、聖教《せいけう》を擁護《ようご》す可《べ》く※[#「言+爰」、第4水準2-88-66]《ちか》うた。
彼等《かれら》の榮寵《えいちよう》は、之《これ》に止《とゞま》らず、法王《ほふわう》は彼等《かれら》に、高僧會議《かうそうくわいぎ》に參列《さんれつ》するの特許状《とくきよじやう》を與《あた》へた。此《こ》の事《こと》たるや、王者《わうしや》にあらざれば、享《う》くる能《あた》はざるの殊權《しゆけん》だ。而《しか》して羅馬《ろーま》の元老院《げんらうゐん》は、彼等《かれら》をカピトル(古來よりの元老院議官集合所)[#「(古來よりの元老院議官集合所)」は1段階小さな文字]に迎《むか》へ、彼等《かれら》に羅馬市民《ろーましみん》と、パトリシアン貴族《きぞく》の稱號《しようがう》とを與《あた》へた。而《しか》して其《そ》の羊皮紙《やうひし》の券状《けんじやう》には、掌《たなごゝろ》の大《おほ》きさある煌々《くわう/\》たる金印《きんいん》を※[#「金+今」、第3水準1-93-5]《きん》して、彼等《かれら》が無上《むじやう》の光榮《くわうえい》を證明《しようめい》した。
伊東《いとう》マンシオー[#「マンシオー」に傍線]は、總代《そうだい》として、答辭《たふじ》を陳《の》べた。羅馬《ろーま》は兵力《へいりよく》と、宗教《しゆうけう》とによりて、世界《せかい》を統《とう》一したれば、自《みづ》から世界《せかい》の總長《そうちやう》と稱《しよう》するは、當然《たうぜん》の事《こと》だ。而《しか》して今《いま》や更《さ》らに其《そ》の増大《ぞうだい》を加《くは》へた。そは日本國《にほんこく》に其《そ》の宗教《しゆうけう》を擴《ひろ》め、其《そ》の諸侯《しよこう》、及《およ》び人民《じんみん》の心《こゝろ》を得《え》たからだと。
元老院議官《げんらうゐんぎくわん》、及《およ》び羅馬市民等《ろーましみんら》は、此《こ》の日本少年《にほんせうねん》の辭令《じれい》の妙《めう》に驚嘆《きやうたん》した。彼等《かれら》は法王《ほふわう》より日本《にほん》の諸侯《しよこう》に與《あた》ふる、高價《かうか》の贈品《そうひん》を受取《うけと》つた。而《しか》して彼等《かれら》には、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》親《した》しく法王《ほふわう》より眞淨材《しんじやうざい》にて製《せい》したる、十|字架《じか》を賜《たま》はり、又《ま》た旅費《りよひ》として別《べつ》に三千ヱクーを與《あた》へられた。斯《か》くて一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]六|月《ぐわつ》三|日《か》の早朝《さうてう》に、彼等《かれら》は羅馬《ろーま》を出發《しゆつぱつ》した。市民《しみん》も、兵士《へいし》も相競《あひきそ》うて、彼等《かれら》を城壁《じやうへき》の外《そと》に送《おく》つた。乃《すなは》ち彼等《かれら》の送行《そうかう》には、滿都《まんと》を傾《かたむ》けたと云《い》ふも、過言《くわごん》でなかつた。
彼等《かれら》が威尼士《ヴヱニス》に於《お》ける大驩迎《だいくわんげい》は、亦《ま》た歸途中《きとちゆう》の花《はな》であつた。彼等《かれら》が運河《うんが》を渡《わた》り、威尼士《ヴヱニス》に入《い》るや、深紅色《しんこうしよく》の天鵞絨《びろーど》にて覆《おほ》ひ、且《か》つ裝飾《さうしよく》せる船《ふね》にて迎《むか》へられた。而《しか》して威尼士《ヴヱニス》を隔《へだ》つる半里前《はんりまへ》の寺院《じゐん》に至《いた》るや、赤衣《せきい》を纒《まと》うたる元老院議官《げんらうゐんぎくわん》四十|人《にん》は一|同《どう》に出迎《でむか》へた。彼等《かれら》は共和主長《きやうわしゆちやう》元老院議官《げんらうゐんぎくわん》より、あらゆる驩迎《くわんげい》を受《う》けたが、特《とく》に『サンマルク』の祝日《しゆくじつ》は、常例《じやうれい》六|月《ぐわつ》二十五|日《にち》に執行《しつかう》するに拘《かゝは》らず、彼等《かれら》に祭儀《さいぎ》を參觀《さんくわん》せしむ可《べ》く、廿八|日迄《にちまで》之《これ》を延《のば》し。且《か》つ彼等《かれら》の肖像《せうざう》を描《ゑが》き、之《これ》を威尼士共和國《ヴヱニスきようわこく》歴代主長《れきだいしゆちやう》の肖像中《せうざうちゆう》に置《お》く可《べ》く、二千ヱクーの金《かね》を投《とう》じて、有名《いうめい》なる畫工《ぐわこう》[#「チントレット」に傍線]に、之《これ》を依頼《いらい》した。
其《そ》の他《た》マンチュア[#「マンチュア」に傍線]、ミラン[#「ミラン」二重傍線]、ゼノア[#「ゼノア」に二重傍線]、隨處《ずゐしよ》皆《み》な是《これ》なりであつた。斯《か》くて西班牙《すぺいん》に還《かへ》り、バルセロナ[#「バルセロナ」に二重傍線]に於《おい》て、國王《こくわう》ヒリップ[#「」に傍線]二|世《せい》に、告別《こくべつ》の爲《た》めに謁見《えつけん》した。王《わう》は彼等《かれら》に與《あた》ふるに金裝《きんさう》の衣服《いふく》と、亞※[#「土へん+立」、U+5783、465-12]比馬《あらびやうま》、及《およ》び馬具《ばぐ》とを以《もつ》てした。而《しか》して彼等《かれら》の至《いた》る所《ところ》、之《これ》を優待《いうたい》す可《べ》きを命《めい》じ、更《さ》らに旅費《りよひ》として四千ヱクーを與《あた》へ、且《か》つ大船《たいせん》を艤裝《ぎさう》して、其《そ》の歸朝《きてう》の用《よう》に供《きよう》した。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]使節等威尼斯に至る
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
既にして使節等將に歸國の途に就かんとす、法王答書を授けて之を送る、儀初の如し。六月三日(陽暦)、羅馬を發途し、威尼斯《ヴヰシヤ》に至る(此地は日本にても早く知り、「ベネチヤ」と云へり、即ち英音にて「ヴヱニス」と稱する處なり、伊國東北の海口なる大市港にして、羅馬府より四百二十|哩《まゐる》を距つ)七月二日(陽暦)「サリエータ」寺院に接せる慈惠教院に赴き、之を一覽す、時に紀念として一書を留む、其文左の如し。句讀及び傍註は原文に無き所、今讀解に便ならしめん爲に之を附す。
[#ここから3字下げ]
天地萬物の御作者(造物主)、又其御子、我々御扶計世主子(救世子)の以[#二]御合力[#一]令[#二]染筆[#一]候訖。抑從[#二]日本國[#一]豐後屋形の使者として日向屋形のまこ(孫か)伊東|鈍滿所《(どんまんしよ)》、又有馬の屋形、同大村|鈍波留天露銘《(どんぱるてろみー)》の使者として、千々岩鈍彌解留《(ちぢはどんみけーる)》、其他原|鈍丸知野《(どんまるちの)》、中浦|鈍壽理安《(どんじゆりあん)》肥前國の兩侍至[#二]|良摩《(ろーま)》[#一]罷出候、是又右屋形並日本諸|貴理《(きり)》したん爲[#レ]代、發波《(ぱつぱ)》尊者(法王)の于足を奉[#レ]吸、ヲペヂウ(信仰)を爲[#レ]奉[#レ]上、三年の波上を來[#レ]凌候。然は部禰舍《(『べねしや』か)》之事及[#レ]承候、至《(于か)》[#二]古今[#一]敵の安地に成候はぬ賢《(こか)》在所一見、本意の條、則罷出候、誠從[#レ]存茂結構、中々驚[#レ]目候、殊各衆對[#二]我々[#一]御懇情、是又不[#レ]及[#二]筆舌[#一]候、然間爲[#二]向後覺[#一]一筆染置候、是又甚深の御大切、於[#二]自今以後[#一]忘却有間敷|諸《(未詳)》迄は當所の事は雖[#レ]爲[#二]遠國[#一]、於[#二]日域[#一]無[#二]其隱[#一]候、萬一無事歸國候者、我々見聞の所、具於[#二]我朝[#一]可[#レ]令[#二]披露[#一]候、穴賢。
 御出世千五百八十五年七月二日
[#地から3字上げ]Ito do~. Mancio (花押)
[#地から3字上げ]Cingiua do~. Micheal (花押)
[#地から3字上げ]Natauta d. Julian (花押)
[#地から3字上げ]Fara d. Martino (花押)
  此文書は羅馬府「ヱコール・プロパガンダ」の文庫に藏するものにして、其文は中古の文體にて書風は純然たる和樣なり、故に讀み難く解し難き所あれども、原文の儘を寫したるものなり。(明治廿一年渡邊昇等羅馬在留中、英人「サトー」の告指により始て之を知り、寫し取りたる者に據る)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【九二】遣歐使節一行日本に歸著す[#中見出し終わり]

伊東《いとう》千々岩等《ちゞいはら》の使節《しせつ》は、一五八六|年《ねん》四|月《ぐわつ》二|日《か》(天正十四年二月十四日)[#「(天正十四年二月十四日)」は1段階小さな文字]葡萄牙《ほるとがる》のリスボン[#「リスボン」に二重傍線]を出帆《しゆつぱん》し、航程《かうてい》滯《とゞこほ》りなく一五八七|年《ねん》五|月《ぐわつ》十九|日《にち》(天正十五年四月十二日)[#「(天正十五年四月十二日)」は1段階小さな文字]臥亞《ゴア》に歸著《きちやく》した。師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の悦《よろこ》び知《し》る可《べ》しだ。東印度總督《ひがしいんどそうとく》も亦《ま》た、其《そ》の再會《さいくわい》を驩喜《くわんき》して西班牙王《すぺいんわう》の通告《つうこく》を遵奉《じゆんぽう》し、それ/″\の保護《ほご》を與《あた》へた。
斯《か》くてワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、總督《そうとく》より秀吉《ひでよし》への進上物《しんじやうもの》を齎《もたら》し、一五八八|年《ねん》四|月《ぐわつ》一|日《じつ》、使節等《しせつら》と與《とも》に、臥亞《ゴア》を發《はつ》した。されどワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、一|直線《ちよくせん》に日本《にほん》には赴《おもむ》かなかつた。彼《かれ》は媽港《マカオ》に抵《いた》り、此處《こゝ》にて一五八八|年《ねん》(天正十六年)[#「(天正十六年)」は1段階小さな文字]八|月《ぐわつ》以來《いらい》、彼《かれ》の來《きた》るを待《ま》ち受《う》けたるモラー[#「モラー」に傍線]師《し》に邂逅《かいごう》し、日本《にほん》の現状《げんじやう》を詳《つまびらか》にし、輕忽《けいこつ》に入國《にふこく》して、秀吉《ひでよし》の瞋《いかり》に觸《ふ》れんことを虞《おそ》れ。先《ま》づ此《こ》の地《ち》より書簡《しよかん》を發《はつ》して、使節《しせつ》の目的《もくてき》を陳《ちん》じ、秀吉《ひでよし》の允可《いんか》を請《こ》うた。秀吉《ひでよし》はワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の態度《たいど》の恭謙《きようけん》なるを嘉《よみ》し、直《たゞ》ちに路票《ろへう》を交付《かうふ》した。是《こゝ》に於《おい》て彼《かれ》は遣歐使《けんおうし》一|行《かう》と與《とも》に、一五九〇|年《ねん》(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]七|月《ぐわつ》廿一|日《にち》、長崎港《ながさきかう》に上陸《じやうりく》した。
有馬晴信《ありまはるのぶ》、大村喜前《おほむらよしあき》、及《およ》び千々岩《ちゞいは》、原《はら》の母等《はゝら》亦《ま》た來《きた》り迎《むか》へた。長崎《ながさき》は時《とき》ならぬ歡天喜地《くわんてんきち》の状態《じやうたい》を現《あらは》した。伊東《いとう》、千々岩等《ちゞいはら》一|行《かう》は、足掛《あしか》け九|年《ねん》の星霜《せいそう》を經過《けいくわ》した。彼等《かれら》が長崎《ながさき》を發《はつ》する際《さい》には、紅顔緑髮《こうがんりよくはつ》、可憐《かれん》の美少年《びせうねん》であつたが、其《そ》の長崎《ながさき》に著《ちやく》したる際《さい》には、既《すで》に成人《せいじん》して立派《りつぱ》な壯夫《さうふ》となつた。
吾人《ごじん》は彼等《かれら》が長崎《ながさき》歸著《きちやく》の約《やく》一|箇月前《かげつまへ》に、支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]の死去《しきよ》の事實《じじつ》を、看過《かんくわ》する能《あた》はぬ。彼《かれ》は支部長《しぶちやう》として最後《さいご》の九|年間《ねんかん》、前後《ぜんご》通計《つうけい》十九|年間《ねんかん》、日本《にほん》にありて、宣教《せんけう》の爲《た》めに努力《どりよく》した。而《しか》して禁教令《きんけうれい》の突發《とつぱつ》は、彼《かれ》に多大《ただい》なる精神的《せいしんてき》衝動《しようどう》を與《あた》へたに、相違《さうゐ》あるまい。彼《かれ》は實《じつ》に斃《たふ》れて而《しか》して後《のち》止《や》んだのだ。彼《かれ》の亡骸《なきがら》は、多《おほ》くの改宗《かいしゆう》したる貴賤《きせん》男女《なんによ》の尊崇《そんしう》、愛慕《あいぼ》と與《とも》に、之《これ》を有馬《ありま》の耶蘇寺院《やそじゐん》に葬《はうむ》つた。
却説《さて》もワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、其《そ》の長崎《ながさき》來著《らいちやく》の旨《むね》を淺野長政《あさのながまさ》、黒田孝高《くろだよしたか》の兩人《りやうにん》によりて達《たつ》した。淺野《あさの》は信者《しんじや》ならざれども、寛大《くわんだい》にして、耶蘇教《やそけう》に就《つい》て、諒解《りやうかい》あり、黒田《くろだ》は札附《ふだつき》の信者《しんじや》であつた。秀吉《ひでよし》は其《そ》の謁見《えつけん》を許《ゆる》したが。當時《たうじ》關東征伐中《くわんとうせいばつちゆう》にて其《そ》の歸京迄《ききやうまで》、延期《えんき》を餘儀《よぎ》なくせられ、彌《いよい》よ秀吉《ひでよし》の召命《せうめい》に應《おう》じて、大村《おほむら》、有馬《ありま》の諸侯等《しよこうら》と共《とも》に上洛《じやうらく》せんとするに際《さい》し、ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、端《はし》なく危篤《きとく》の病《やまひ》に罹《かゝ》つて、其《そ》の使命《しめい》を果《はた》すに由《よし》なからしめた。
然《しか》るに其《そ》の間《あひだ》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の耳《みゝ》には、種々《しゆ/″\》の風説《ふうせつ》が達《たつ》した。曰《いは》く其《そ》の名《な》は東印度總督《ひがしいんどそうとく》の使節《しせつ》と稱《しよう》するも、其《そ》の實《じつ》は耶蘇教《やそけう》弘通《ぐつう》の便宜《べんぎ》を謀《はか》らんが爲《た》めに來《き》たのだと。秀吉《ひでよし》も此《こ》の風説《ふうせつ》に就《つい》ては、半信半疑《はんしんはんぎ》の態《てい》であつた。是《こゝ》に於《おい》て黒田孝高《くろだよしたか》、小西行長《こにしゆきなが》は、ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]に向《むか》つて、萬障《ばんしやう》を排《はい》して、速《すみや》かに上京《じやうきやう》して、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》し、其《そ》の疑《うたがひ》を霽《はら》す可《べ》きを以《もつ》てした。それには成《な》る可《べ》く少《すこ》しく宗徒《しゆうと》を携《たづさ》へ、成《な》る可《べ》く多《おほ》く葡萄牙人《ほるとがるじん》を携《たづさ》へよと云《い》うた。
是《こゝ》に於《おい》てワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、一五九一|年《ねん》一|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》(天正十八年の十一月)[#「(天正十八年の十一月)」は1段階小さな文字]長崎《ながさき》を發《はつ》した。其《そ》の一|行《かう》は遣歐使《けんおうし》の四|人《にん》、及《およ》び其《そ》の從者《じゆうしや》、オルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]、メスキタ[#「メスキタ」に傍線]、及《およ》び兩人《りやうにん》の教師《けうし》、日本人《にほんじん》の少壯《せうさう》耶蘇會士《やそくわいし》、長崎港《ながさきかう》、及《およ》び其《そ》の附近《ふきん》よりする、二十六七|人《にん》の葡萄牙人等《ほるとがるじんら》であつた。是《こ》れは當時《たうじ》、朝鮮《てうせん》より使節《しせつ》來朝《らいてう》し、三百|餘人《よにん》にて練《ね》り行《ゆ》きたれば、それに劣《おと》らぬ支度《したく》が必要《ひつえう》として、特《とく》に黒田《くろだ》、小西《こにし》より警告《けいこく》せられたからだ。
斯《か》くて彼等《かれら》は播磨《はりま》室津《むろつ》に滯留《たいりう》し、先《ま》づオルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]を諜報員《てふはうゐん》として、上京《じやうきやう》せしめ、京都《きやうと》よりの消息《せうそく》を俟《ま》つた。當時《たうじ》は新年拜賀《しんねんはいが》の爲《た》めに、諸侯《しよこう》の京都《きやうと》聚樂第《じゆらくだい》に參覲《さんきん》するもの多《おほ》かつた。而《しか》して遣歐使等《けんおうしら》は、地圖《ちづ》やら、地球儀《ちきうぎ》やら、科學《くわがく》、若《も》しくは樂器類《がくきるゐ》やら、種々《しゆ/″\》の珍品《ちんぴん》を携帶《けいたい》し、且《か》つ其《そ》の語《かた》る所《ところ》、羅馬法王《ろーまほふわう》の盛儀《せいぎ》、聖彼得寺院《セントピーターじゐん》の宏大《こうだい》、祭祀《さいし》、禮拜《らいはい》の莊嚴《さうごん》、西班牙國王《すぺいんこくわう》の威勢《ゐせい》、其《そ》の他《た》王公貴人《わうこうきじん》の豪華《がうくわ》、都市繁榮《としはんえい》の模樣等《もやうとう》、一として珍談《ちんだん》ならざるはなかつた。されば毛利輝元《まうりてるもと》、宗義智《そうよしとも》、黒田長政《くろだながまさ》の如《ごと》き、何《いづ》れも隨喜《ずゐき》傾聽《けいちやう》した。而《しか》して黒田長政《くろだながまさ》は、頃《このご》ろ其《そ》の父《ちゝ》孝高《よしたか》の後《あと》を襲《つ》いだる二十三|歳《さい》の壯年《さうねん》にて、曾《かつ》て父《ちゝ》に勸《すゝ》められ、急遽《きうきよ》に受洗《じゆせん》したが、今《いま》や使節等《しせつら》の談話《だんわ》を聞《き》くに及《およ》んで、其《そ》の父《ちゝ》が彼《かれ》をして改宗者《かいしゆうしや》たらしめたことの、偶然《ぐうぜん》でないことを會得《ゑとく》した。而《しか》して屡《しばし》ば信《しん》じ、屡《しばし》ば廢《はい》したる大友義統《おほともよしむね》の如《ごと》きも、始《はじ》めて夢《ゆめ》の醒《さ》めたる如《ごと》く、頻《しき》りに其《そ》の親縁《しんえん》伊東《いとう》マンシオー[#「マンシオー」に傍線]に向《むか》つて、改悔《かいくわい》を表示《へうじ》した。
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