第十七章 退去令後耶蘇教の形勢
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[#4字下げ][#大見出し]第十七章 退去令後耶蘇教の形勢[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八五】退去令發布後の耶蘇教[#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は今少《いますこ》しく秀吉《ひでよし》の九|州《しう》に於《お》ける、耶蘇教師退去令《やそけうしたいきよれい》發布後《はつぷご》の事《こと》を語《かた》るであらう。〔參照 豐臣氏時代乙篇、七七、耶蘇教師退去の命令〕[#「〔參照 豐臣氏時代乙篇、七七、耶蘇教師退去の命令〕」は1段階小さな文字]是《こ》の命令《めいれい》の發布《はつぷ》は、實《じつ》に青天《せいてん》の霹靂《へきれき》であつた。此《こゝ》に於《おい》て彼等《かれら》は、天正《てんしやう》十五|年《ねん》八|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]平戸《ひらど》に於《おい》て、會議《くわいぎ》を開《ひら》いた。
當時《たうじ》日本《にほん》に於《おい》ては、四十|人《にん》の教師《けうし》と、七十三|人《にん》の修道士《しうだうし》、而《しか》して其《そ》の中《うち》四十七|人《にん》は日本人《にほんじん》であつた。〔チテイチヱン著、切支丹大名〕[#「〔チテイチヱン著、切支丹大名〕」は1段階小さな文字]其《そ》の中《うち》にて師父《しふ》オルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]は、小西行長《こにしゆきなが》の肝煎《きもいり》にて、高山右近《たかやまうこん》を慰藉《ゐしや》す可《べ》く、湯《ゆ》ノ島《しま》に潜匿《せんとく》して居《ゐ》たが、其《そ》の他《ほか》の外來《ぐわいらい》耶蘇會士《やそくわいし》は、悉《こと/″\》く集合《しふがふ》した。
彼等《かれら》は評議《ひやうぎ》の上《うへ》四|箇條《かでう》を議決《ぎけつ》した。(第一)天帝《てんてい》に祈祷《きたう》して、秀吉《ひでよし》の心《こゝろ》を飜《ひるがへ》さしむる事《こと》。(第二)秀吉《ひでよし》若《も》し其《そ》の心《こゝろ》を飜《ひるがへ》さゞるに於《おい》ては、死《し》すとも、日本《にほん》を退去《たいきよ》せざる事《こと》。(第三)一|切《さい》表向《おもてむ》きの行動《かうどう》を中止《ちゆうし》し、秀吉《ひでよし》の怒《いかり》を邀發《げきはつ》せざる可《べ》く、謹愼《きんしん》する事《こと》。(第四)葡萄牙船《ほるとがるせん》出發《しゆつぱつ》の期《き》は、尚《な》ほ六ヶ|月《げつ》を剩《あま》すを以《もつ》て、自《みづ》から殉教《じゆんけう》の覺悟《かくご》を以《もつ》て、此間《このかん》に處《しよ》する事等《こととう》であつた。而《しか》して師父等《しふら》は、それ迄《まで》各所《かくしよ》の切支丹大名《きりしたんだいみやう》に、其《そ》の身《み》を託《たく》した。即《すなは》ち其《そ》の十二|人《にん》は、大村喜前《おほむらよしあき》に、其《そ》の四|人《にん》は平戸《ひらと》の籠手田氏《こてだし》に、其《そ》の五|人《にん》は大友氏《おほともし》に、其《そ》の二|人《にん》は毛利秀包《まうりひでかね》に、其《そ》の二|人《にん》は五|島氏《たうし》に、其《そ》の九|人《にん》は天草種元《あまくさたねもと》に、而《しか》して其《そ》の他《た》は有馬晴信《ありまはるのぶ》に。
されど支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、徒《いたづ》らに退去期《たいきよき》の來《きた》るを待《ま》つものでなかつた。彼《かれ》はあらゆる運動《うんどう》をして、秀吉《ひでよし》の心《こゝろ》を飜《ひるがへ》さんと努《つと》めた。遂《つひ》には秀吉夫人《ひでよしふじん》北政所《きたのまんどころ》にさへ手《て》を入《い》れた。而《しか》して其《そ》の期間《きかん》の經過《けいくわ》に拘《かゝは》らず、葡萄牙人《ほるとがるじん》エンマヌヱル・ロペツ[#「エンマヌヱル・ロペツ」に傍線]を大阪《おほさか》に特派《とくは》し、葡萄牙船《ほるとがるせん》は、荷物《にもつ》と乘組員《のりくみゐん》多《おほ》くして、多數《たすう》の教師《けうし》を便乘《びんじよう》せしむる能《あた》はずとの口實《こうじつ》の下《もと》に、數人《すにん》を送還《そうくわん》せしめ、自餘《じよ》は之《これ》を次期《じき》に延期《えんき》せんことを以《もつ》てした。然《しか》も其《そ》の數人《すにん》とは、僅《わづ》かに三|人《にん》で、然《しか》も彼等《かれら》を媽港《マカオ》に遺《つか》はし、司祭《しさい》となりて、日本《にほん》に復歸《ふくき》せしめんとする、如何《いか》にも、蟲《むし》の善《よ》き企《くはだて》であつた。
秀吉《ひでよし》は斯《かゝ》る請願《せいぐわん》を聞《き》き入《い》れざるのみならず、之《これ》が爲《た》めに京都《きやうと》、大阪《おほさか》、堺《さかひ》に於《お》ける耶蘇教師《やそけうし》の家屋《かをく》と、近畿《きんき》に於《お》ける二十二|個《こ》の耶蘇會堂《やそくわいだう》を毀《こぼ》たしめ、此間《このかん》にある三萬五千の信徒《しんと》をして途方《とはう》に迷《まよ》はしめた。
更《さ》らに淺野長政《あさのながまさ》を九|州《しう》に遣《つか》はし、長崎《ながさき》を公領《こうりやう》とした。此《こ》れは葡萄牙人《ほるとがるじん》と、大村氏《おほむらし》に取《と》りては、甚大《じんだい》の打撃《だげき》であつた。何《なん》となれば、前者《ぜんしや》は該地《がいち》に於《おい》て、殆《ほとん》ど自主的《じしゆてき》特權《とくけん》を逞《たくまし》うし、後者《こうしや》は該地《がいち》を以《もつ》て、其《そ》の寶庫《はうこ》としたからだ。
吾人《ごじん》は此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、長崎《ながさき》に就《つい》て一|言《げん》せねばならぬ。長崎《ながさき》の開港《かいかう》は既記《きゝ》の通《とほ》りだ。〔參照 織田氏時代中篇、四五、長崎開港〕[#「〔參照 織田氏時代中篇、四五、長崎開港〕」は1段階小さな文字]然《しか》るに天正《てんしやう》五|年《ねん》大村純忠《おほむらすみたゞ》が、龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》と戰《たゝか》ふや、其《そ》の軍資《ぐんし》の不足《ふそく》を充《み》たす可《べ》く、銀《ぎん》百|貫文《くわんもん》を宣教師《せんけうし》より借受《かりう》け、長崎村《ながさきむら》、隣村《りんそん》山里村《やまざとむら》、浦上村《うらがみむら》、淵村等《ふちむらとう》の年貢《ねんぐ》を擧《あ》げて、其《そ》の擔保《たんぽ》とした。此《かく》の如《ごと》くして何時《いつ》の間《ま》にやら、長崎《ながさき》及《およ》び其《そ》の附近《ふきん》は、宣教師等《せんけうしら》の小獨立國《せうどくりつこく》たる觀《くわん》を做《な》した。されば秀吉《ひでよし》の此擧《このきよ》は、頗《すこぶ》る痛快《つうくわい》と云《い》はねばならぬ。
[#ここから1字下げ]
   定《さだめ》
當時《たうじ》御料所《ごれうしよ》に|被[#二]仰付[#一]上《おほせつけらるゝうへ》は、非分《ひぶん》の義《ぎ》|有[#レ]之間敷事《これあるまじきこと》。
一 有樣《ありやう》に御公物《ごこうぶつ》|納可[#二]申上[#一]迄《をさめまをしあぐべきまで》、横沒《わうばつ》|不[#レ]可[#レ]有[#レ]之事《これあるべからざること》。
附り[#「附り」は1段階小さな文字]地子共《ぢしども》|得[#二]上意[#一]《じやういをえ》|可[#レ]免[#レ]之《これをめんずべし》。
一 當所《たうしよ》の儀《ぎ》此兩人《このりやうにん》へ|被[#二]仰出[#一]候間《おほせいだされさふらふあひだ》、|爲[#二]代官[#一]《だいくわんとして》鍋島飛彈守《なべしまひだのかみ》に預置候《あづけおきさふらふ》。何《いづれ》も|可[#レ]得[#二]其意[#一]事《そのいをうべきこと》。
一 黒船《くろふね》の儀《ぎ》、前々《まへ/\》の如《ごと》くたるべきの旨《むね》、地下人《ぢげにん》馳走《ちそう》として、當初《たうしよ》へ|可[#二]相付[#一]事《あひつくべきこと》。
一 自然《しぜん》下《しも》として、|不[#レ]謂義《いはれざるぎ》申懸《まをしかく》る者《もの》|有[#レ]之共《これあるとも》、一|切《さい》承引仕間敷事《しよういんつかまつるまじきこと》、右之旨《みぎのむね》相背輩《あひそむくやから》|於[#レ]有[#レ]之者《これあるにおいては》、急度《きつと》兩人方《りやうにんかた》へ|可[#二]申越[#一]候《まをしこすべくさふらふ》、堅《かた》く|可[#二]申付[#一]者也《まをしつくべきもの》。仍《よつて》|如[#レ]件《くだんのごとし》。
  天正十六年五月十八日
[#地から3字上げ]戸田民部小輔
[#地から3字上げ]淺野彈正小弼
[#ここで字下げ終わり]
之《これ》を見《み》れば、秀吉《ひでよし》の目的《もくてき》が、耶蘇教《やそけう》禁遏《きんあつ》にありて、貿易《ばうえき》禁遏《きんあつ》でない事《こと》が分明《ぶんみやう》だ。否《い》な貿易《ばうえき》獎勵《しやうれい》であつて、黒船《くろふね》の入航《にふこう》を許可《きよか》するのみならず、必《かなら》ず來《きた》らねばならぬものと定《さだ》めたのだ。
此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》は、本來《ほんらい》の迫害者《はくがいしや》ではなかつた。彼《かれ》は耶蘇教《やそけう》に對《たい》して、何等《なんら》の惡意《あくい》をも持《も》たなかつた。彼《かれ》は決《けつ》して其《そ》の柢《もと》を斷《た》ち根《ね》を掘《ほ》るものではなかつた。唯《た》だ耶蘇教《やそけう》が公安《こうあん》を害《がい》するものとして、之《これ》に制裁《せいさい》を加《くは》へたのだ。別言《べつげん》すれば、耶蘇教《やそけう》が彼《かれ》の大權内《たいけんない》に立《た》ち入《い》るものとして、之《これ》に制裁《せいさい》を加《くは》へた。秀吉《ひでよし》は寛大《くわんだい》であつたが、我《わ》が權内《けんない》には、寸歩《すんぽ》も他《た》の踏《ふ》み込《こ》むを許《ゆる》さなかつた。
コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は其《そ》の策《さく》の到底《たうてい》施《ほどこ》すに由《よし》なきを見《み》て、再《ふたゝ》び會議《くわいぎ》を有馬《ありま》に開催《かいさい》した。有馬晴信《ありまはるのぶ》は、極力《きよくりよく》諸教師《しよけうし》を擁護《ようご》す可《べ》きを告《つ》げた。然《しか》も老練《らうれん》なるコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、是《こ》れ却《かへ》つて秀吉《ひでよし》の怒《いかり》を挑發《てうはつ》する所以《ゆゑん》なりと喩《さと》し、愈《いよい》よ恭順策《きようじゆんさく》を取《と》ることゝした。即《すなは》ち教師等《けうしら》は其《そ》の服裝《ふくさう》を變《へん》じて、平人《へいにん》となり、教會堂《けうくわいだう》を閉鎖《へいさ》し、各所《かくしよ》に分散《ぶんさん》し、民家《みんか》に潜伏《せんぷく》して、徐《おもむ》ろに囘春《くわいしゆん》の期《き》を竢《ま》つ可《べ》く、而《しか》して愈《いよい》よ、日本《にほん》を去《さ》らねばならぬならば、寧《むし》ろ死《し》す可《べ》しと一|決《けつ》した。彼等《かれら》の意氣《いき》も亦《ま》た、壮烈《さうれつ》と云《い》はねばならぬ。
然《しか》るに偶然《ぐうぜん》にも、九|州《しう》に於《おい》て、耶蘇教徒《やそけうと》の聲焔《せいえん》を加《くは》へ來《きた》つた※[#こと、437-5]がある。そは天正《てんしやう》十六|年《ねん》五|月《ぐわつ》、肥後《ひご》の國主《こくしゆ》佐々成政《さつさなりまさ》が、封《ほう》除《のぞ》かれ死《し》を賜《たま》ふや、之《これ》を二|分《ぶん》して加藤清正《かとうきよまさ》と、小西行長《こにしゆきなが》とに賜《たま》うた。行長《ゆきなが》は切支丹大名中《きりしたんだいみやうちゆう》の錚々者《さう/\しや》であつて、然《しか》も秀吉《ひでよし》の直參《ぢきさん》として、出頭人《しゆつとうにん》の一|人《にん》であつた。彼《かれ》は貿易《ばうえき》利用者《りようしや》としての信徒《しんと》でなく、中心《ちゆうしん》よりの信徒《しんと》であつた。而《しか》して其《そ》の領土《りやうど》なる天草《あまくさ》は、從來《じゆうらい》の領主《りやうしゆ》天草種元《あまくさたねもと》が、耶蘇教徒《やそけうと》であつた關係上《くわんけいじやう》、殆《ほとん》ど日本《にほん》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》公許《こうきよ》の別天地《べつてんち》であつたが、小西《こにし》が種元《たねもと》を征伏《せいふく》したる後《のち》も、依然《いぜん》舊態《きうたい》を持續《ぢぞく》せしめた。

[#5字下げ][#中見出し]【八六】細川忠興夫人明智氏の改宗(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の耶蘇教師退去令《やそけうしたいきよれい》は、日本《にほん》に於《お》ける諸大名《しよだいみやう》其《そ》の他《た》の信徒《しんと》には、殆《ほとん》ど何等《なんら》の影響《えいきやう》を與《あた》へなかつた。否《い》な寧《むし》ろ改宗《かいしゆう》の風潮《ふうてう》を、刺戟《しげき》した趣《おもむき》があつた。秀吉《ひでよし》の弟《おとうと》秀長《ひでなが》や、京都《きやうと》の所司代《しよしだい》前田玄以《まへだげんい》や、何《いづ》れも宣教師《せんけうし》に好意《かうい》を表《へう》して、其《そ》の保護者《ほごしや》となつた。北政所《きたのまんどころ》の姪《をひ》なる木下勝俊《きのしたかつとし》の如《ごと》きは、受洗《じゆせん》して、彼得《ペテロ》の名《な》を稱《しよう》するに至《いた》つた。彼《かれ》は後《のち》に木下長嘯子《きのしたちやうせうし》と號《がう》して、徳川初期《とくがはしよき》の文學史《ぶんがくし》に名《な》を著《あらは》す一|人《にん》だ。織田信雄《おだのぶを》の如《ごと》きも、其《そ》の叔父《しゆくふ》有樂齋長益《いうらくさいながます》の慫慂《しようよう》によりて、信徒《しんと》となつた。〔ステイチェン著、切支丹大名〕[#「〔ステイチェン著、切支丹大名〕」は1段階小さな文字]
然《しか》も此《こ》の貴族社會《きぞくしやくわい》に於《お》ける、多《おほ》くの改宗者中《かいしゆうしやちゆう》に於《おい》て、最《もつと》も目覺《めざま》しきは、細川忠興夫人《ほそかはたゞおきふじん》明智氏《あけちし》の改宗《かいしゆう》であつた。吾人《ごじん》は今《い》ま彼女《かれ》に就《つい》て、少《すこ》しく語《かた》る可《べ》き必要《ひつえう》がある。
彼女《かれ》は申《まを》す迄《まで》もなく、明智光秀《あけちみつひで》の愛孃《あいぢやう》で、信長《のぶなが》の媒酌《ばいしやく》にて、細川忠興《ほそかはたゞおき》に嫁《か》したのだ。其《そ》の容貌《ようばう》の秀麗《しうれい》にして、其《そ》の資稟《しひん》の聰明《そうめい》に、加《くは》ふるに其《そ》の渾身《こんしん》の勝氣《かちき》は、忠興《たゞおき》をして、且《か》つ愛《あい》し、且《か》つ妬《ねた》み、且《か》つ敬《けい》し、且《か》つ畏《おそ》れしめた。信長《のぶなが》は光秀《みつひで》を重用《ぢゆうよう》し、其《そ》の大《だい》なる與力《よりき》として、細川藤孝《ほそかはふぢたか》、同《どう》忠興父子《たゞおきふし》を丹後《たんご》に封《ほう》じ、而《しか》して明智家《あけちけ》と、細川家《ほそかはけ》との連鎖《れんさ》として、此《こ》の結婚《けつこん》は成立《せいりつ》したのだ。然《しか》るに事《こと》は豫期《よき》の外《ほか》に出《い》で、本能寺《ほんのうじ》の變《へん》が出來《しゆつたい》し、藤孝《ふぢたか》、忠興父子《たゞおきふし》は、一|刻《こく》の猶豫《いうよ》なく、信長《のぶなが》の菩提《ぼだい》を弔《とむら》ふ可《べ》く、剃髮《ていはつ》し、光秀《みつひで》と斷《た》つた。而《しか》して其《そ》の必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》は、明智氏《あけちし》を三|戸野《との》の山奧《やまおく》に追竄《つゐざん》した。是《こ》れは夫人《ふじん》に取《と》りて、實《じつ》に思《おも》ひ懸《がけ》なき不幸《ふかう》であつた。
秀吉《ひでよし》は細川父子《ほそかはふし》の態度《たいど》を、大《おほ》いに徳《とく》とした。而《しか》して山崎合戰《やまざきかつせん》以來《いらい》、幾《いくばく》もなく秀吉《ひでよし》の媒酌《ばいしやく》にて、覆水《ふくすゐ》は盆《ぼん》に反《かへ》り、破鏡《はきやう》は復《ま》た合《がつ》した。彼女《かれ》は其《そ》の夫《をつと》忠興《たゞおき》の榮達《えいたつ》と與《とも》に、愈《いよい》よ幸福《かうふく》に境遇《きやうぐう》に赴《おもむ》いた。然《しか》も彼女《かれ》の精神的《せいしんてき》打撃《だげき》は、容易《ようい》に癒《い》ゆ可《べ》くもなかつた。彼女《かれ》は其《そ》の父《ちゝ》の末路《まつろ》に就《つい》て、定《さだ》めて懊惱《あうのう》したであらう。而《しか》して其《そ》の父《ちゝ》を蹈臺《ふみだい》として、其《そ》の父《ちゝ》を打滅《うちほろぼ》したるが故《ゆゑ》に、天下人《てんかびと》と成《な》り濟《すま》したる秀吉《ひでよし》の世《よ》の中《なか》を、如何《いか》にも不愉快《ふゆくわい》に考《かんが》へたであらう。而《しか》して彼女《かれ》は徒《いたづ》らに悲嘆《ひたん》、煩悶《はんもん》にて、日《ひ》を暮《くら》す消極的《せうきよくてき》の婦人《ふじん》でなく、其《そ》の胸中《きようちゆう》の活氣《くわつき》は、抑《おさ》へんと欲《ほつ》して抑《おさ》ふ可《べ》からざるものがあつた。
曾《かつ》て其《そ》の夫《をつと》忠興《たゞおき》と會食《くわいしよく》の際《さい》、屋根葺《やねふき》の者《もの》、誤《あやま》つて地《ち》に墮《お》ちた。忠興《たゞおき》は忽《たちま》ち飛《と》び下《お》りて之《これ》を切《き》り、其《そ》の首《くび》を夫人《ふじん》の膳上《ぜんじやう》に措《お》いた。然《しか》も夫人《ふじん》は神色自若《しんしよくじゞやく》として、尚《な》ほ箸《はし》を輟《や》めなかつた。忠興《たゞおき》は之《これ》を見《み》て、御身《おんみ》は蛇《じや》の化身《けしん》だと云《い》うた。彼女《かれ》は言下《げんか》に、夜叉《おに》の女房《にようばう》には蛇《じや》が適當《てきたう》だと答《こた》へた。是《こ》れは實話《じつわ》であるや、否《いな》やを、詳《つまびら》かにせぬが、傳説《でんせつ》として殘《のこ》れる一つだ。
細川忠興《ほそかはたゞおき》は、十一|歳《さい》にて、父《ちゝ》に從《したが》ひ、槇《まき》ノ島合戰《しまかつせん》には、高名《かうみやう》し、天正《てんしやう》五|年《ねん》河内國《かわちのくに》片岡城《かたをかじやう》の攻撃《こうげき》には、彼《かれ》十五|歳《さい》にて、其《そ》の弟《おとうと》興元《おきもと》十四|歳《さい》にて、共《とも》に父《ちゝ》に從《したが》つて先登《せんとう》し、信長《のぶなが》より感状《かんじやう》を賜《たま》はつた、歌道《かだう》には父《ちゝ》幽齋《いうさい》の家學《かがく》を承《う》け、茶道《ちやだう》には利休《りきう》の高足《かうそく》の一|人《にん》であり、其《そ》の他《た》文武《ぶんぶ》の諸藝《しよげい》一として通達《つうたつ》せざるはなかつたが。世間《せけん》は只《た》だ彼《かれ》を是丈《これだけ》の人物《じんぶつ》と認《みと》め、却《かへ》つて策士《さくし》繁昌《はんじやう》の當時《たうじ》に於《おい》て、隱《かく》れたる大策士《だいさくし》であつた事《こと》に氣付《きづ》くものが多《おほ》くない。黒田如水《くろだじよすゐ》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》の如《ごと》きは、看板附《かんばんつき》の智者《ちしや》であり、賢者《けんしや》であつた。然《しか》も藤堂高虎《とうだうたかとら》の如《ごと》き、細川忠興《ほそかはたゞおき》の如《ごと》きは、策士《さくし》ならざる策士《さくし》であつた。彼《かれ》が豐臣氏《とよとみし》の晩期《ばんき》、徳川《とくがは》對《たい》前田《まへだ》の調停《てうてい》に任《にん》じたるが如《ごと》きは、其《そ》の重《おも》なる一|例《れい》だ。
然《しか》も忠興《たゞおき》は、温柔《をんじう》なる策士《さくし》でなかつた。彼《かれ》は一|面《めん》風雅《ふうが》の士《し》たるに似合《にあ》はず、頗《すこぶ》る剛暴《がうばう》、拂戻《ふつれい》の資質《ししつ》を有《いう》した。されば彼《かれ》の家庭《かてい》は、必《かなら》ずしも圓滿《ゑんまん》でなかつた。彼《かれ》は時《とき》として其《そ》の父《ちゝ》幽齋《いうさい》とも、仲違《なかたが》ひした。其《そ》の弟《おとうと》興元《おきもと》とは、義絶《ぎぜつ》した。而《しか》して其《そ》の長子《ちやうし》忠隆《たゞたか》を追《お》ひ、其《そ》の二|男《なん》興秋《おきあき》を殺《ころ》した。是等《これら》の事實《じじつ》を詮索《せんさく》すれば、皆《み》なそれ/″\忠興《たゞおき》の立場《たちば》として、十二|分《ぶん》の言前《いひまへ》はあつたに相違《さうゐ》ないが、彼《かれ》の家庭《かてい》が理想的《りそうてき》圓滿《ゑんまん》でなかつた事《こと》は、其《そ》の理由《りいう》の如何《いかん》に拘《かゝ》はらず、否定《ひてい》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。
夫人《ふじん》明智氏《あけちし》と、忠興《たゞおき》とは、必《かなら》ずしも夫唱婦隨《ふしやうふずゐ》の月並的《つきなみてき》關係《くわんけい》ではなかつた。彼等《かれら》は剛柔兼濟《がうじうけんさい》でなく、寧《むし》ろ時《とき》として、剛々《がう/\》相當《あひあた》つてあつたと思《おも》はる。されば明智氏《あけちし》が、耶蘇教《やそけう》に向《むか》つて、其《そ》の活路《くわつろ》を見出《みいだ》したのは、強《あなが》ち不思議《ふしぎ》ではあるまい。
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[#6字下げ]忠興夫妻結婚の際信長より明智光秀に與へたる書状
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
其方事、近日相續、抽[#二]軍功於所々[#一]、智謀高名依[#レ]超[#二]諸將[#一]、數度合戰得[#二]勝利[#一]、感悦不[#レ]斜、西國手に入次第、數ヶ國可[#二]宛行[#一]之條、無[#二]退屈[#一]可[#レ]勵[#二]軍忠[#一]候。依[#三]細川兵部大輔(幽濟、忠興の父)專守[#二]忠義[#一]、文武兼備に候、同氏與一郎(忠興)事、秀[#二]器量[#一]志勝事拔群に候、以後は可[#レ]爲[#二]武門之棟梁[#一]候、云[#二]隣國[#一]云[#二]剛勇[#一]、尤之縁邊、幸の仕合也。
 八月十一日(天正六年)[#地から3字上げ]信長書判
[#地付き]〔池辺義象著、細川幽齋〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【八七】細川忠興夫人明智氏の改宗(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

彼女《かれ》の改宗《かいしゆう》は、意外《いぐわい》にも、其《そ》の夫《をつと》忠興《たゞおき》の手引《てびき》であつた。忠興《たゞおき》は高山右近《たかやまうこん》と親交《しんかう》があつた。彼等《かれら》は信長《のぶなが》以來《いらい》の出身《しゆつしん》であり、且《か》つ茶《ちや》の湯《ゆ》の朋輩《ほうばい》であつた。高山《たかやま》は忠興《たゞおき》に向《むか》つて、耶蘇教《やそけう》を説《と》き、且《か》つ改宗《かいしゆう》を勸《すゝ》めた。忠興《たゞおき》は固《もと》より之《これ》に應《おう》じなかつたが、夫人《ふじん》に向《むか》つて、高山《たかやま》の所説《しよせつ》を繰《く》り返《かへ》した。而《しか》して此《こ》の偶然《ぐうぜん》の閑話《かんわ》は、却《かへ》つて此《こ》の美《び》にして剛《がう》、貞《てい》にして鋭《えい》なる女性《ぢよせい》の胸《むね》を貫《つらぬ》いた。斯《か》くて彼女《かれ》は耶蘇教《やそけう》に歸依《きえ》せんとの志《こゝろざし》を生《しやう》じた。而《しか》して其《そ》の機會《きくわい》は、忠興《たゞおき》が秀吉《ひでよし》と與《とも》に九|州役《しうえき》に赴《おもむ》いた留守中《るすちゆう》に、出來《しゆつたい》した。否《い》な彼女《かれ》自《みづ》から其《そ》の機會《きくわい》を作《つく》つたのだ。
宣教師側《せんけうしがは》の所記《しよき》によれば、忠興《たゞおき》は頗《すこぶ》るの燒餅屋《やきもちや》らしかつた。彼《かれ》は其《そ》の夫人《ふじん》を嚴防《げんばう》して、外界《ぐわいかい》との交通《かうつう》を禁遏《きんあつ》した。秀吉《ひでよし》が屡《しばし》ば諸大名《しよだいみやう》の夫人《ふじん》を召見《せうけん》して、如何《いかゞ》はしき風説《ふうせつ》を生《しやう》じたる時節《じせつ》に於《おい》ては、此《こ》の才色兼美《さいしよくけんび》の夫人《ふじん》を、斯《か》く迄《まで》保護《ほご》したのは、或《あるひ》は當然《たうぜん》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
  靡《なび》くなよ我《わ》が袖垣《そでがき》の女郎花《をみなへし》、男山《をとこやま》より風《かぜ》は吹《ふ》くとも。
とは、忠興《たゞおき》が朝鮮出征《てうせんしゆつせい》の先《さき》より、夫人《ふじん》に與《あた》へた歌《うた》として傳《つた》へられて居《ゐ》る。忠興《たゞおき》は斯《か》く迄《まで》、夫人《ふじん》に焦慮《せうりよ》した程《ほど》であれば、夫人《ふじん》を愛《あい》したことも、尋常《じんじやう》ではなかつたであらう。そは兎《と》も角《かく》も、活發《くわつぱつ》なる夫人《ふじん》に取《と》りては、隨分《ずゐぶん》窮屈《きゆうくつ》の思《おもひ》をなしたであらう。
彼女《かれ》は其《そ》の侍女《じぢよ》數名《すめい》を從《したが》へ、微服《びふく》して大阪《おほさか》の邸《》の後門《こうもん》より出《い》でて、教會堂《けうくわいだう》に赴《おもむ》いた。師父《しふ》セスペード[#「セスペード」に傍線]は、一|見《けん》其《そ》の貴女《きぢよ》たるを見《み》、之《これ》を優待《いうたい》し、日本人《にほんじん》の修道士《しうだうし》ウインセント[#「ウインセント」に傍線]をして、其《そ》の教義《けうぎ》を説《と》かしめ、其《そ》の質問《しつもん》に答《こた》へしめた。彼女《かれ》は再度《さいど》教會堂《けうくわいだう》に來《きた》る可《べ》き機會《きくわい》の、必《ひつ》す可《べ》からざるを語《かた》りて、受洗《じゆせん》を請《こ》うた。師父《しふ》は或《あるひ》は秀吉《ひでよし》の姫妾《きせふ》の一|人《にん》にてはあらずやと猜《さい》して、之《これ》を辭《じ》した。留守邸《るすてい》の者《もの》は、夫人《ふじん》の不在《ふざい》を發見《はつけん》し、倉皇狼狽《さうくわうらうばい》、輿《よ》を携《たづさ》へて、各處《かくしよ》の佛寺《ぶつじ》を搜索《さうさく》し、漸《やうや》く彼女《かれ》の教會堂《けうくわいだう》にあるを尋《たづ》ね得《え》て、薄暮《はくぼ》歸邸《きてい》せしめた。是《こ》れよりして、夫人《ふじん》の身邊《しんぺん》の、愈《いよい》よ嚴重《げんぢゆう》となつたのは、云《い》ふ迄《まで》もない。
斯《か》くて夫人《ふじん》は、其《そ》の信用《しんよう》する侍女《じぢよ》―細川家《ほそかはけ》の親縁《しんえん》なる清原大外記頼肩《きよはらだいげきよりかた》の女《むすめ》―を遣《つか》はし、屡《しばし》ば教義《けうぎ》を質問《しつもん》し、頗《すこぶ》る得《う》る所《ところ》があつた。而《しか》して其《そ》の侍女《じぢよ》十七|人《にん》は、悉《こと/″\》く受洗《じゆせん》した。然《しか》も彼女《かれ》一|人《にん》之《これ》に預《あづか》るを得《え》なかつた。彼女《かれ》の受洗《じゆせん》の希望《きばう》は、熱烈《ねつれつ》であつた。自《みづ》から棺中《くわんちゆう》に入《い》りて、夜間《やかん》に邸内《ていない》を出《い》でんと企《くはだ》てた。師父《しふ》は、此事《このこと》を諫止《かんし》し、必《かなら》ず其《そ》の志《こゝろざし》を達《たつ》するの期《き》あるを告《つ》げた。然《しか》も彼女《かれ》は秀吉《ひでよし》が九|州《しう》に於《おい》て、耶蘇教師退去令《やそけうしたいきよれい》を發布《はつぷ》した事《こと》を聞《き》いた。されば萬障《ばんしやう》を排《はい》しても、師父等《しふら》の退去《たいきよ》以前《いぜん》に、受洗《じゆせん》す可《べ》く決心《けつしん》した。彼女《かれ》の決心《けつしん》は、何者《なにもの》も遮《さへぎ》るものはなかつた。彼女《かれ》は其《そ》の信用《しんよう》する侍女《じぢよ》メりー[#「メりー」に傍線](即ち清原大外記の女)[#「(即ち清原大外記の女)」は1段階小さな文字]を師父《しふ》の許《もと》に遣《つか》はし、其《そ》の志望《しばう》を告《つ》げた。師父《しふ》は侍女《じぢよ》に洗禮《せんれい》の法式《ほふしき》を授《さづ》けた。彼女《かれ》は侍女《じぢよ》の手《て》より洗禮《せんれい》を受《う》け、ガラシヤ[#「ガラシヤ」に傍線]と稱《しよう》した。所謂《いはゆ》る伽羅奢姫《がらしやひめ》とは、彼《か》れの教名《けうめい》だ。彼女《かれ》は其《そ》の二|男《なん》をも、併《あは》せて受洗《じゆせん》せしめた。
爾來《じらい》彼女《かれ》は、宛《あだか》も修道院的《しうだうゐんてき》の生活《せいくわつ》をした。或《あるひ》は祈祷《きたう》し、或《あるひ》は『基督《きりすと》の模範《もはん》』、其《そ》の他《た》信仰《しんかう》に關《くわん》する諸書《しよしよ》を習讀《しふどく》した。彼女《かれ》は頗《すこぶ》る幸福《かうふく》であつた。
然《しか》も忠興《たゞおき》の九|州《しう》より凱旋《がいせん》するや、此事《このこと》を聞《き》いて、憤激《ふんげき》した。彼《かれ》は夫人《ふじん》に向《むか》つて、其《そ》の信仰《しんかう》を拠《なげう》たん※[#こと、445-13]を命《めい》じ、若《も》し之《これ》を承諾《しようだく》せざれば、殺害《さつがい》す可《べ》きを以《もつ》てし、屡《しばし》ば短刀《たんたう》を夫人《ふじん》の咽吭《いんかう》に擬《ぎ》した。彼女《かれ》は覺悟《かくご》の前《まへ》の事《こと》として、豪《がう》も驚《おどろ》かなかつた。曰《いは》く、御身《おんみ》は吾《わ》が生命《せいめい》を斷《た》つべし、然《しか》も吾《わ》が信仰《しんかう》の心《こゝろ》を易《か》へしむる能《あた》はずと。〔日本西教史〕[#「〔日本西教史〕」は1段階小さな文字]其《そ》の迫害《はくがい》の如何《いか》に手緊《てきび》しかつたかは、彼女《かれ》がオルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]に書《しよ》を與《あた》へて、寧《むし》ろ此《こ》の邸内《ていない》より脱走《だつそう》せんかの意《い》を漏《もら》した事《こと》で判知《わか》る。然《しか》も師父《しふ》は、如何《いか》なる苦痛《くつう》をも忍受《にんじゆ》するは、信徒《しんと》の本務《ほんむ》なる※[#こと、446−5]を告《つ》げ、彼女《かれ》は之《これ》に因《よつ》て其《そ》の事《こと》を思《おも》ひ止《とゞま》つた。〔ステイチヱン著、切支丹大名〕[#「〔ステイチヱン著、切支丹大名〕」は1段階小さな文字]
彼女《かれ》が師父《しふ》セスペード[#「セスペード」に傍線]に與《あた》へたる書中《しよちゆう》の一|節《せつ》に曰《いは》く、
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予《われ》は御身等《おんみら》の出發《しゆつぱつ》以來《いらい》、一|日《にち》も心《こゝろ》を安《やすん》ずることなく、信仰《しんかう》の爲《た》めに、非常《ひじやう》なる憂苦《いうく》、困難《こんなん》を受《う》けつゝある。然《しか》も天主《てんしゆ》の恩惠《おんけい》によりて、死《し》を恐《おそ》れぬ勇氣《ゆうき》を與《あた》へられた。
予《われ》の夫《をつと》は宗教《しゆうけう》を讐敵《しうてき》とし、予《われ》も之《これ》が爲《た》めに虐遇《ぎやくぐう》を受《う》けつゝある。其《そ》の九|州《しう》より大阪《おほさか》に歸《かへ》るや、予《われ》の侍女等《じぢよら》の髮《かみ》を斷《た》ち、邸中《ていちゆう》より放逐《はうちく》した。又《ま》た少《すこ》しく意《い》に適《てき》せぬ事《こと》ありとて、子女《しぢよ》の乳母《うば》の鼻《はな》を削《けづ》り、兩耳《りやうみゝ》を殺《そ》いだ。予《われ》は是等《これら》の者共《ものども》を救護《きうご》するに骨《ほね》を折《をつ》て居《ゐ》る。其《そ》の丹後《たんご》(忠興の領地)[#「(忠興の領地)」は1段階小さな文字]に赴《おもむ》くに際《さい》し、歸來《きらい》家臣中《かしんちゆう》の信者《しんじや》を檢擧《けんきよ》す可《べ》きを語《かた》つた。併《しか》し予《われ》に隨《したが》ふ婦人《ふじん》の信徒等《しんとら》は、關白《くわんぱく》の命《めい》にせよ、又《ま》た吾夫《わがをつと》の命《めい》にせよ、生命《いのち》に代《か》へても、信仰《しんかう》を捨《すて》はせぬ決心《けつしん》がある。
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良《まこと》に凛然《りんぜん》たる意氣《いき》だ。彼女《かれ》は爾來《じらい》宣教師《せんけうし》の與《あた》へたる書籍《しよじやく》によりて、拉典語《らてんご》、及《およ》び葡萄牙語《ほるとがるご》をも學《まな》び、當時《たうじ》に於《お》ける新《あたら》しき婦人《ふじん》の隨《ずゐ》一であつた。宣教師側《せんけうしがは》の文書《ぶんしよ》に、彼女《かれ》を評《ひやう》して、『容貌《ようばう》の美麗《びれい》比倫《ひりん》なく、精神《せいしん》活發《くわつぱつ》にして、頴敏《えいびん》、果決《くわけつ》、心情《しんじやう》高尚《かうしやう》にして、才智《さいち》卓越《たくえつ》す。』〔日本西教史〕[#「〔日本西教史〕」は1段階小さな文字]と云《い》うたのは、決《けつ》して溢辭《いつじ》ではあるまい。尚《な》ほ彼女《かれ》の大節《たいせつ》に就《つい》ては、別《べつ》に説《と》く可《べ》き機會《きくわい》がある。
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