第十六章 秀長鶴松の病死及利休賜死
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[#4字下げ][#大見出し]第十六章 秀長鶴松の病死及利休賜死[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八〇】豐臣秀長の死[#中見出し終わり]

此際《このさい》秀吉《ひでよし》に取《と》りての一|大打撃《だいだげき》は、其《そ》の異父弟《いふてい》大和大納言秀長《やまとだいなごんひでなが》の死《し》である。秀長《ひでなが》は其《そ》の兄《あに》が餘《あま》りに偉大《ゐだい》なりしが爲《た》めに、唯《た》だ其《そ》の弟《おとうと》としてのみ其《そ》の名《な》を留《とゞ》めて居《ゐ》る。併《しか》し彼《かれ》は、秀吉《ひでよし》の弟《おとうと》たるのみが、其《そ》の身上《しんじやう》ではなかつた。彼《かれ》には彼《か》れ相應《さうおう》の資格《しかく》もあり、特質《とくしつ》もあつた。別言《べつげん》すれば、彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の弟《おとうと》たるが爲《た》めに、破格《はかく》の榮達《えいたつ》を爲《な》し、富貴《ふうき》を極《きは》めたが、復《ま》た秀吉《ひでよし》の弟《おとうと》として、秀吉《ひでよし》の事業《じげふ》に貢獻《こうけん》した所《ところ》は、決《けつ》して小々《せう/\》ではなかつた。
彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の江北《かうほく》に於《お》ける活動《くわつどう》の時代《じだい》にも、部將《ぶしやう》として働《はたら》いた。中國役《ちゆうごくえき》にも、秀吉《ひでよし》の片腕《かたうで》となつて、各所《かくしよ》に戰功《せんこう》を建《た》てた。爾後《じご》山崎合戰《やまざきかつせん》、柳《やな》ヶ|瀬合戰《せかつせん》、小牧役《こまきえき》、南海征伐等《なんかいせいばつとう》、何《いづ》れも其《そ》の手柄《てがら》少《すくな》からずであつた。特《とく》に四|國征伐《こくせいばつ》には、秀吉《ひでよし》を代表《だいへう》して、其《そ》の總督《そうとく》となつた。九|州役《しうえき》には、豐後《ぶんご》、日向《ひふが》の方面《はうめん》に向《むか》ひ、專《もつぱ》ら島津勢《しまづぜい》の主力《しゆりよく》に當《あた》つた。彼《かれ》は單《たん》に武將《ぶしやう》としても、尋常《じんじやう》一|樣《やう》の武將《ぶしやう》ではなかつた。
併《しか》し彼《かれ》に取《と》る可《べ》きは、彼《かれ》が寛裕《くわんゆう》、穩健《をんけん》の態度《たいど》であつた。秀吉《ひでよし》の驚天動地《きやうてんどうち》の機略《きりやく》、權變《けんぺん》と、閃電驅雷《せんでんくらい》の感情《かんじやう》と、才調《さいてう》とは、動《やゝ》もすれば侘《た》をして脱線的《だつせんてき》ならしむる虞《おそれ》があつた。特《とく》に一|切《さい》の資質《ししつ》に於《おい》て、餘《あま》りに豐饒《ほうぜう》なりし秀吉《ひでよし》は、往々《わう/\》にして其《そ》の中庸《ちゆうよう》を失《うしな》はしむる傾向《けいかう》があつた。されば秀吉《ひでよし》とは、切《きつ》ても切《き》れぬ間柄《あひだがら》にあり。而《しか》して相互《さうご》の間《かん》、始終《ししゆう》一|貫《くわん》、其《そ》の敬愛《けいあい》の情《じやう》を堪《たゝ》へたる秀長《ひでなが》は、秀吉《ひでよし》に取《と》りて、其《そ》の調停力《てうていりよく》として、其《そ》の緩和劑《くわんわざい》として、其《そ》の制動機《せいどうき》、無《む》二|調寳《てうぱう》の物《もの》であつた。彼《かれ》が赫々《かく/\》の武功《ぶこう》は、他《た》に幾許《いくばく》の比倫《ひりん》もあらう。されど其《そ》の冥々《めい/\》の骨折《ほねをり》には、固《もと》より他《た》に替人《かへびと》ある可《べ》き樣《やう》はない。
彼《かれ》の秀吉《ひでよし》に取《と》りて、最《もつと》も必要《ひつえう》なのは、寧《むし》ろ其《そ》の後半生《こうはんせい》たる頽唐期《たいとうき》であつた。秀吉《ひでよし》の前半生《ぜんはんせい》は、其《そ》の自制力《じせいりよく》の旺盛《わうせい》の爲《た》めに、脱線的行動《だつせんてきかうどう》も、比較的《ひかくてき》少《すくな》かつた。然《しか》も意《い》滿《み》ち、志《こゝろざし》驕《おご》れる後半生《こうはんせい》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》の過《あやまち》を匡濟《きやうさい》する者《もの》が、必需《ひつじゆ》であつた。徳川家康《とくがはいへやす》は、秀吉《ひでよし》の失策《しつさく》を、恒《つね》に自個《じこ》の勢圜《せいくわん》の扶殖《ふしよく》、利圜《りくわん》の擴充《くわくじゆう》に利用《りよう》した。前田利家《まへだとしいへ》は、家康《いへやす》に比《ひ》すれば、秀吉《ひでよし》に對《たい》する親切心《しんせつしん》は多《おほ》かつた。されど其《そ》の身《み》は聊《いさゝ》か嫌疑《けんぎ》の地《ち》にありて、心《こゝろ》に思《おも》ふ程《ほど》をば口《くち》にも出《いだ》し、手《て》にも動《うご》かすことは、不可能《ふかのう》であつた。されば其《こ》の場合《ばあひ》に於《おい》て、此《こ》の役目《やくめ》を勗《つと》むる者《もの》は、偏《ひと》へに秀長《ひでなが》であらねばならぬのだ。然《しか》るに彼《かれ》は最《もつと》も彼《かれ》を要《えう》する一|時《じ》に逝《ゆ》いた。此《こ》れは彼《かれ》の不幸《ふかう》のみではなく、實《じつ》に秀吉《ひでよし》其《そ》の人《ひと》の一|大不幸《だいふかう》であつた。
彼《かれ》は紀伊《きい》、和泉《いづみ》、大和《やまと》三|國《こく》の領主《りやうしゆ》として、郡山《こほりやま》に在城《ざいじやう》した。大和《やまと》は佛閣神社《ぶつかくじんじや》の最《もつと》も跋扈《ばつこ》したる地《ち》で、何人《なんびと》に取《と》りても、荊棘《けいきよく》であつた。秀長《ひでなが》は寺院領《じゐんりやう》、神社領《じんじやりやう》にも、繩《なは》を入《い》れ、之《これ》を我《わ》が所領《しよりやう》に加《くは》へた。されば是《こ》れが爲《た》めに、隨分《ずゐぶん》物議《ぶつぎ》を釀《かも》したが、さりとて秀長《ひでなが》は、調停的《てうていてき》態度《たいど》をもて、之《これ》に※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1-91-13]《のぞ》みたる爲《た》め、兎《と》も角《かく》も泣寢入《なきねいり》となつた。彼《かれ》は天正《てんしやう》十八|年《ねん》の初《はじめ》より病《やまひ》に罹《かゝ》り、秀吉《ひでよし》東征《とうせい》の際《さい》には、留守番役《るすばんやく》を承《うけたまは》る所《ところ》の一|人《にん》であつた。而《しか》して其《そ》の病《やまひ》は、中《なかご》ろに癒《い》えたが、其《そ》の秋《あき》十|月頃《ぐわつごろ》より再《ふたゝ》び重《おも》くなつた。兄弟思《きやうだいおも》ひの秀吉《ひでよし》は、十|月《ぐわつ》十九|日《にち》、自《みづ》から郡山《こほりやま》に赴《おもむ》いて、秀長《ひでなが》を見舞《みま》うた。
秀長《ひでなが》の病氣《びやうき》は、彼《かれ》が大和《やまと》に於《お》ける寺社領《じしやりやう》を押領《あふりやう》したる冥罰《めうばつ》と噂《うはさ》された。秀吉《ひでよし》は其《そ》の平癒《へいゆ》の爲《た》めに、神社《じんじや》佛閣《ぶつかく》に祈祷《きたう》を俸《さゝ》げしめ、それぞれの寄進《きしん》をも爲《な》し、又《ま》た其《そ》の約束《やくそく》をもした。秀長《ひでなが》自身《じしん》も亦《ま》た、寺社領《じしやりやう》の若干《じやくかん》を返還《へんくわん》した。されど其《そ》の病《やまひ》少《すこ》しく間《ま》あるが如《ごと》くして、十二|月《ぐわつ》より又《ま》た重《おも》くなり、天正《てんしやう》十九|年《ねん》の初《はじめ》に於《おい》ては、危篤《きとく》に瀕《ひん》したから、其《そ》の養子《やうし》、即《すなは》ち秀長《ひでなが》の姉《あね》瑞龍院日秀《ずゐりゆうゐんにつしう》が、三|好一路《よしかずみち》に嫁《か》して産《う》みたる、當時《たうじ》十三|歳《さい》の秀俊《ひでとし》と、秀長《ひでなが》の息女《そくぢよ》の四五|歳《さい》なるものとを、祝言《しうげん》せしめた。而《しか》して正月《しやうぐわつ》二十三|日《にち》、五十一|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。
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正月《しやうぐわつ》廿三|日《にち》、大納言秀長卿《だいなごんひでながきやう》、昨日《さくじつ》廿二|日《にち》に死去《しきよ》云々《うんぬん》。五十一|歳《さい》。米錢金銀《べいせんきんぎん》充滿《じゆうまん》、盛者必衰《せいじやひつすゐ》の金言《きんげん》|無[#レ]疑《うたがひなし》。國之樣《くにのさま》如何《いかに》|可[#レ]成哉《なるべきや》。心細事成《こゝろぼそきことなり》。併《しかし》神慮次第也《しんりよしだいなり》。有法《うほふ》自《みづから》相談義了《あひだんぎしをはんぬ》。
廿七|日《にち》|從[#二]關白殿[#一]《くわんぱくどのより》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]長谷川藤《はせがはとう》九|御使《おつかひ》にて、御朱印《ごしゆいん》|被[#レ]下《くだされ》、跡《あと》の儀《ぎ》、與力《よりき》、大名《だいみやう》少名《せうみやう》知行《ちぎやう》以下《いか》、聊《いさゝか》|不[#レ]可[#レ]替《かへるべからず》、侍從殿《じじゆうどの》(秀俊)[#「(秀俊)」は1段階小さな文字]守立《もりた》て、萬事《ばんじ》各々《おの/\》一|晏法印《あんほふいん》次第《しだい》に|可[#レ]被[#二]相隨[#一]《あひしたがはるべし》との御儀也《おんぎなり》。|爲[#二]法印[#一]《ほふいんのため》|無[#二]比類[#一]《ひるゐなき》名譽《めいよ》、又《また》一|大事《だいじ》の始末也《しまつなり》。
金銀錢《きんぎんせん》|被[#二]相糺[#一]之處《あひたゞされしところ》、金子《きんす》は五萬六千|餘枚《よまい》と、法印《ほふいん》交替《かうたい》、銀子《ぎんす》は二|間《けん》四|方《はう》の部屋《へや》に棟《むね》究《きは》めて積《つみ》てあり。數《かず》は知《し》れず、料足《れうそく》の分齋《ぶんさい》何《なん》萬|貫《ぐわん》あるも、積《つも》りは|不[#レ]存《ぞんぜず》と|被[#二]申渡[#一]《まをしわたさる》云々《うんぬん》。則《すなはち》封《ふう》を付《つけ》て歸《かへ》り、一|分《ぶ》一|錢《せん》主《しゆ》の用《よう》には|不[#レ]立《たゝず》、抑《そも/\》|無[#レ]限《かぎりなき》財寶也《ざいはうなり》。さこそ命《いのち》惜《おしか》るらん。淺猿《あさまし》/\。
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是《こ》れは多門院日記《たもんゐんにつき》の一|節《せつ》だ。日記《につき》の筆者《ひつしや》は、秀長《ひでなが》に對《たい》して、被害者《ひがいしや》の立場《たちば》にあれば、好感情《かうかんじやう》を表《へう》すべき謂《いはれ》はなし。而《しか》して同月《どうげつ》廿九|日《にち》に擧行《きよかう》せられたる葬儀《さうぎ》の、如何《いか》に仰山《ぎやうさん》であつたかは、是亦《これま》た左掲《さけい》の多門院日記《たもんゐんにつき》に分明《ぶんみやう》だ。
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正月《しやうぐわつ》廿九|日《にち》、郡山《こほりやま》へ|從[#二]早旦[#一]《さうたんより》大納言《だいなごん》葬送《さうそう》に下了《くだりをはんぬ》。兩門跡《りやうもんぜき》、良家衆《りやうけしゆ》悉《こと/″\く》御出《おんいで》、|自[#二]類衆[#一]《るゐしゆより》以上《いじやう》四十五|人歟《にんか》出了《いでをはんぬ》。天氣《てんき》快然《くわいぜん》、京衆《きやうしゆ》、高野衆《かうやしゆ》、當國《たうごく》諸寺《しよじ》甲乙人《かふおつにん》、見物衆《けんぶつしゆ》以上《いじやう》、人數《にんず》廿萬|人《にん》も|可[#レ]在[#レ]之《これあるべく》、野《の》も山《やま》も人《ひと》くづれ也《なり》。引導《いんだう》は紫野《むらさきの》こけい(古溪)[#「(古溪)」は1段階小さな文字]和尚《をしやう》と云々《うんぬん》。誰々《たれ/\》と|難[#二]見盡[#一]事也《みつくしがたきことなり》。美麗事《びれいのこと》言慮《ごんりよに》|難[#レ]及《およびがたし》。大屋共《おほやとも》に一|圓《ゑん》|燒[#レ]之了《これをやきをはんぬ》。加行者《かぎやうしや》|在[#レ]之間《これあるあひだ》、青龍院《せいりゆうゐん》へ宿借留了《やどかりとめをはんぬ》。萬事《ばんじ》夢幻《むげん》泡影《はうえい》、無常《むじやう》の色相《しきさう》、眼前之《がんぜんの》七|寳《ぱう》萬寳《ばんぱう》充滿《ぢゆうまん》、一|粒《りふ》一|錢《せん》、用《よう》に|不[#レ]立事也《たゝざることなり》。貴賤《きせん》上下《じやうげ》によらず同事也《どうじなり》。|不[#レ]辨《わきまへず》して晴々《はれ/″\》と暮《くら》す計也《ばかりなり》。
一|塵之覺悟《ぢんのかくご》なし。淺猿《あさまし》/\。
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彼《かれ》の畫像《ぐわざう》は、今尚《いまな》ほ彼《かれ》の重臣《ぢゆうしん》であつた藤堂高虎《とうだうたかとら》の奉納《ほうなふ》したものが、紫野大徳寺《むらさきのだいとくじ》に存《そん》して居《ゐ》る。之《これ》を見《み》れば如何《いか》にも、豐濶《ほうくわつ》、圓滿《ゑんまん》の相《そう》を具《そな》へて、毫《がう》も峻嶮《しゆんけん》、稜角《りようかく》の點《てん》が現《あら》はれて居《を》らぬ。如何《いか》に彼《かれ》が其《そ》の部下《ぶか》に徳望《とくばう》があつたかは、縱令《たとひ》一|時《じ》の出來心《できごゝろ》ではあつたにもせよ、藤堂高虎《とうだうたかとら》が、彼《かれ》の死後《しご》、剃髮《ていはつ》して、人事《じんじ》を謝《しや》し、高野山《かうやさん》に上《のぼ》つたのを見《み》ても、想像《さうざう》が出來《でき》るであらう。

[#5字下げ][#中見出し]【八一】一子鶴松の夭死[#中見出し終わり]

繰《く》り返《かへ》して言《い》ふ迄《まで》もなく、秀吉《ひでよし》の家康《いへやす》に比《ひ》して大《だい》なる負味《まけみ》は、其《そ》の年齡《ねんれい》の差《さ》と、賢子《けんし》の有無《うむ》とだ。天正《てんしやう》十九|年《ねん》秀吉《ひでよし》は五十六|歳《さい》、家康《いへやす》は五十|歳《さい》。而《しか》して家康《いへやす》には秀康《ひでやす》あり、秀忠《ひでたゞ》あり、其後《そののち》なきを憂《うれ》へずだが、秀吉《ひでよし》には其《そ》の第《だい》二|夫人《ふじん》淺井氏《あさゐし》、所謂《いはゆ》る淀君《よどぎみ》が、天正《てんしやう》十七|年《ねん》五|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、淀城《よどじやう》で産《う》んだ棄君《すてぎみ》、即《すなは》ち鶴松《つるまつ》一|人《にん》のみだ。
彼《かれ》は秀吉《ひでよし》五十四|歳《さい》の子《こ》で、然《しか》も愛妾《あいせふ》淀君《よどぎみ》の腹《はら》の出《しゆつ》なる一|粒種《つぶだね》なれば、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、掌中《しやうちゆう》の珠《たま》も啻《たゞ》ならなかつた。其《そ》の産時《さんじ》には禁中《きんちゆう》より産衣《うぶぎ》、及《およ》び祝賀《しゆくが》の品《しな》を賜《たま》はり、公卿《くげ》は祝儀《しうぎ》に赴《おもむ》き、武將《ぶしやう》は物《もの》を贈《おく》り、蒲生氏郷《がまふうぢさと》の如《ごと》きは、其《そ》の祖先《そせん》俵藤太秀郷《たはらとうだひでさと》が、近江《あふみ》三|上山《かみやま》にて大《だい》なる蜈※[#「虫+(鬆−髟)」、第4水準2-87-53]《むかで》を射殺《いころ》したと傳稱《でんしよう》せられた鏃《やじり》を、刀《かたな》に仕立《した》てゝ、賀意《がい》を表《へう》し。京《きやう》、堺《さかひ》、其他《そのた》各地《かくち》の町人共《ちやうにんども》よりも、進上《しんじやう》をなし、その中《なか》には紅《べに》の褶《はかま》にて、派手《はで》なる物《もの》が多《おほ》かつたと云《い》ふ。〔豐太閤と其家族〕[#「〔豐太閤と其家族〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》が棄《すて》と呼《よ》んだのも、其《そ》の長生《ちやうせい》を祈《いの》る爲《た》めであつた。彼《かれ》は生《うま》れながらの大果報者《だいくわはうもの》であつた。同年《どうねん》九|月《ぐわつ》十三|日《にち》大阪《おほさか》に移《うつ》るや、後陽成天皇《ごやうぜいてんわう》は祝儀《しうぎ》として、太刀《たち》を賜《たま》ひ、公卿《くげ》、武將《ぶしやう》何《いづ》れも贈遺《ぞうゐ》した。彼《かれ》は輦《れん》に乘《の》りて、美々敷《びゝしく》淀城《よどじやう》より大阪城《おほさかじやう》に入《い》つた。十八|年《ねん》の正月《しやうぐわつ》には、京都《きやうと》の公卿達《くげたち》は、此《こ》の嬰兒《えいじ》に向《むか》つて、年頭《ねんとう》の祝詞《しゆくじ》を陳《の》ぶ可《べ》く、大阪《おほさか》に下《くだ》つた。而《しか》して二|月《ぐわつ》十三|日《にち》には、彼《かれ》は京都《きやうと》の聚樂第《じゆらくだい》に入《い》つたが、秀吉《ひでよし》小田原陣《をだはらぢん》の頃《ころ》は、再《ふたゝ》び大阪《おほさか》に還《かへ》つたらしい。〔豐太閤と其家族〕[#「〔豐太閤と其家族〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》情種《じやうしゆ》の大塊《たいくわい》だ。特《とく》に此《こ》の鶴松《つるまつ》に對《たい》する愛著《あいぢやく》の念《ねん》は、小田原陣《をだはらぢん》よりの文書《ぶんしよ》に、頻繁《ひんぱん》と見《み》えて居《ゐ》る。彼《かれ》が小田原《をだはら》の長陣中《ながぢんちゆう》に、一|度《ど》歸京《ききやう》す可《べ》く豫期《よき》したのも、其《そ》の母《はゝ》大政所《おほまんどころ》と、一|子《し》鶴松《つるまつ》とを見《み》んが爲《た》めであつた。即《すなは》ち四|月《ぐわつ》十三|日附《にちづけ》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》に與《あた》へた書中《しよちゆう》にも、
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年《とし》の中《うち》に一|度《ど》は、其方《そちら》へ參候《まゐりさふらう》て、大政所《おほまんどころ》又《また》は若君《わかぎみ》(鶴松)[#「(鶴松)」は1段階小さな文字]を|見可[#レ]申候《みまをすべくさふらふ》まゝ、御心安候《おこゝろやすくさふらふ》べく候《さふらふ》。
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とある。爾後《じご》鶴松《つるまつ》は淀城《よどじやう》に居《ゐ》たが、七|月《ぐわつ》二十七八|日頃《にちごろ》より病《やまひ》に罹《かゝ》り、是《こ》れが爲《た》めに奈良《なら》の興福寺《こうふくじ》や、春日神社《かすがじんじや》に、平癒《へいゆ》の祈祷《きたう》を依頼《いらい》した。九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》には、秀吉《ひでよし》は東北《とうほく》より凱旋《がいせん》したが、然《しか》も軍國《ぐんこく》多事《たじ》にて、專《もつぱ》ら聚樂第《じゆらくだい》にあり、淀城《よどじやう》に赴《おもむ》く機會《きくわい》が出來《でき》なかつた。其《そ》の際《さい》淀君《よどぎみ》に與《あた》へたる文書《ぶんしよ》に曰《いは》く、
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其《そ》の以後《いご》文《ふみ》にても申《まを》し參《まゐら》せ候《さふら》はで、御心許《おこゝろもと》なく思《おも》ひ參《まゐら》せ候《さふらふ》。其《そ》の後《ご》若君《わかぎみ》は愈《いよい》よ大《おほ》きくなり候哉《さふらふや》、そこほとの火用愼《ひのようじん》、又《また》はしたじた迄《まで》、猥《みだ》れになきように、固《かた》く申附《まをしつけ》られ候《さふら》はん事《こと》、專《もつぱら》にて候《さふらふ》。廿|日頃《かごろ》に必《かなら》ず參《まゐ》り候《さふらう》て、若君《わかぎみ》|抱可[#レ]申候《いだきまをすべくさふらふ》。その夜《よ》さに、そもじをも、側《そば》に寢《ね》させ申可候《まをすべくさふらふ》。折角《せつかく》御待候可候《おまちさふらふべくさふらふ》可祝《かしゆく》。
返《かへ》す/″\も若君《わかぎみ》冷《ひや》し候《さふら》はん樣《やう》に申付候可候《まをしつけさふらふべくさふらふ》。何《なに》かに付《つけ》て油斷《ゆだん》あるまじく候《さふらふ》、是《こ》れを見《み》れば、秀吉《ひでよし》の胸中《きようちゆう》、未《いま》だ一|刻《こく》も、這兒《このこ》を遺《わす》るゝ能《あた》はなかつたことが、判知《わか》る。
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然《しか》るに天《てん》は秀吉《ひでよし》に災《わざはひ》し、鶴松《つるまつ》は十九|年《ねん》閏正月《うるふしやうぐわつ》三|日《か》の頃《ころ》より、淀城《よどじやう》にて病《やまひ》に罹《かゝ》つた。秀吉《ひでよし》は例《れい》の如《ごと》く、神社佛閣《じんじやぶつかく》に祈祷《きたう》を命《めい》じ、奈良《なら》の春日神社《かすがじんじや》には、三百|石《こく》を寄附《きふ》した。病《やまひ》は平癒《へいゆ》したらしかつたが、八|月《ぐわつ》二|日《か》より、又《ま》たしも病《やまひ》に罹《かゝ》つた。秀吉《ひでよし》は之《こ》れが爲《た》めに、神社佛閣《じんじやぶつかく》へ、囘愎《くわいふく》を祈《いの》らしめ、本復《ほんぷく》に際《さい》には、それ/″\の寄進《きしん》をなす可《べ》く、約束《やくそく》した。併《しか》し醫師《いし》の力《ちから》も、神佛《じんぶつ》の加護《かご》も、其《そ》の効《かう》なく、八|月《ぐわつ》五|日《か》には、三|歳《さい》を一|生《しやう》として、此《こ》の可憐兒《かれんじ》は露《つゆ》と消《き》え失《う》せた。秀吉《ひでよし》の落膽《らくたん》知《し》る可《べ》しぢや。彼《かれ》は東福寺《とうふくじ》に赴《おもむ》き、六|日《か》に髻《もとゞり》を斷《き》つた、諸大名《しよだいみやう》も亦《ま》た之《こ》れに倣《なら》うた。
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殿下《でんか》此事《こと》(鶴松夭死の事)[#「(鶴松夭死の事)」は1段階小さな文字]を餘《あまり》に嘆《なげ》かせ給《たま》ひけるにより、御心《みこゝろ》も尋常《よのつね》にかはり、御髻《おんもとゞり》すらせ給《たま》ひ、菩提《ぼだい》の心《こゝろ》せかせ給《たま》ふにより、上下《じやうげ》老少《らうせう》此御《このおん》おもひの慰《なぐさみ》にとすかり奉《まつ》りけるゆゑ、人《ひと》に負《ま》けじと髻《もとゞり》を切《き》りける程《ほど》に、塚《つか》をつきたる如《ごと》くなり、たぶさばかりの塚《つか》となりけるも不思議《ふしぎ》なり。
[#ここで字下げ終わり]
とは、近衞信尹《このゑのぶたゞ》(三藐院)[#「(三藐院)」は1段階小さな文字]の日記中《につきちゆう》の一|節《せつ》だ。
又《ま》た多門院日記《たもんゐんにつき》に曰《いは》く、
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一 東林院《とうりんゐん》御尋《おたづね》、京《きやう》より注進《ちゆうしん》、若君《わかぎみ》(鶴松)[#「(鶴松)」は1段階小さな文字]死骸《しがい》東福寺《とうふくじ》へ移《うつし》、關白殿《くわんぱくどの》愁膓《しうちやう》、誠《まこと》に目《め》も當《あてら》れぬ式也《しきなり》。則《すなはち》髮《はつ》を切給了《きりたまひをはんぬ》。大名《だいみやう》小名《せうみやう》御馬廻《おうままはり》悉《こと/″\く》切《きる》云々《うんぬん》。頓《やが》て則《すなはち》天下《てんか》を中納言殿《ちゆうなごんどの》へ御讓《おんゆづり》云々《うんぬん》。盛者必衰《せいじやひつすゐ》佛説《ぶつせつ》眼前《がんぜん》々々《/\》。
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、此《こ》の嬰兒《えいじ》に愛著《あいぢやく》したかは、鶴松《つるまつ》夭死《えうし》の後《のち》、數月《すげつ》を過《す》ぎて、彼《かれ》が夢幻《むげん》に這兒《このじ》を視《み》、自《みづ》から一|首《しゆ》の和歌《わか》を詠《えい》じたので判知《わか》る。
藤孝君《ふぢたかぎみ》(細川幽齋)[#「(細川幽齋)」は1段階小さな文字]御歌譜《ごかふ》に曰《いは》く、
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文祿《ぶんろく》元年《ぐわんねん》正月《しやうぐわつ》十六|日《にち》、竹田永翁方《たけだえいをうかた》より申送《まをしおくり》ける趣《おもむき》に付《つき》て、秀吉公《ひでよしこう》への御返歌《ごへんか》、永翁迄《えいをうまで》|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》、御贈答《ごぞうたふ》の寫《うつし》。
太閤樣《たいかふさま》若君樣《わかぎみさま》を、過《すぎ》し夜《よ》、御夢《おんゆめ》に|被[#レ]成[#二]御覽[#一]《ごらんなされ》、御火燵《おんこたつ》の上《うへ》に、御泪《おんなみだ》落《おち》たまり申《まをし》に付《つき》、一|首《しゆ》の御詠歌《ごえいか》|被[#レ]遊候《あそばされさふらふ》。納心有《なふしんあつ》て御返歌《おんへんか》尤《もつとも》に候《さふらふ》。
[#地から3字上げ]太閤樣
なき人《ひと》の形見《かたみ》に泪《なみだ》殘《のこ》し置《おき》て、行衛《ゆくゑ》しらずもきえおつる哉《かな》。
  五月十六日
[#地から3字上げ]玄旨(幽際)
惜《をし》からぬ身《き》を幻《まぼろし》となすならば、涙《なみだ》の玉《たま》の行衞《ゆくゑ》尋《たづ》ねん。
御詠歌《ごえいか》拜見《はいけん》は及《および》なき私《わたくし》ざたのものまでも泪《なみだ》の袖《そで》雨《あめ》にもまさり候《さふらふ》。扨《さ》て惜《を》しからぬ老《おい》の身《み》を幻《まぼろし》となしても、若君樣《わかぎみさま》の魂《たましひ》のありかを尋《たづ》ねまほしき心《こゝろ》の底《そこ》を聊《いさゝか》申述候《まをしのべさふらふ》。
宜敷樣《よろしきやう》に御取成《おとりなし》|御披露可[#レ]仰候也《ごひろうあふぐべくさふらふなり》。
  正月十六日
[#地から3字上げ]幽齋玄旨
   永翁老 玉床下
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永翁《えいおう》とは恐《おそ》らく秀吉《ひでよし》の左右《さいう》に近侍《きんじ》して、詠歌抔《えいかなど》の事《こと》に預《あづ》かつた一|人《にん》であらう。
如何《いか》に秀吉《ひでよし》が風雲《ふううん》の氣《き》多《おほ》きと共《とも》に、兒女《じぢよ》の情《なさけ》多《おほ》きを見《み》よ。而《しか》して此《こ》の悶々《もん/\》の情《じやう》を遣《や》る可《べ》く、大《おほ》いに其《そ》の力《ちから》を海外《かいぐわい》に伸《の》べんとしたのは、間違《まちがひ》もない事實《じじつ》だ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]鶴松の葬儀及法要
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初めから鶴松の養育に當つたのは石川豐前守光重であつた。光重は當時の高徳であつた妙心寺の南化玄興和尚に歸依し妙心寺に養徳院を開基したほどの人であるから、鶴松逝去と共に太閤に勸めて其の葬儀を妙心寺にて行はしめた。それで鶴松の法號は祥雲院殿玉巖麟公と呼んだのであるが、導師は東林院の直指で大雲院の九天拈香し、之を妙心寺中に葬つたのである。その時の佛事の詳細は、妙心寺所藏の祥雲院佛事記に見えて居る、又その佛事の法語等は南化の語録である虚白録中に一切載せてある。それから太閤は東山大佛殿の傍に祥雲寺を造營し、南化をして之が開山たらしめたのである。慶長元年には太閤から祥雲寺に寺領三百石を寄せて、鶴松の遺物、寳劔等は之を妙心寺に寄附したのである。其の寳劔は鶴松誕生の祝として蒲生氏郷が獻じたものであると云ふことである。其の他遺物には小鎧及び玩具の船竝に木像がある。これ等は今日皆國寳に指定せられて居る。木像が妙心寺中の隣花院に今日保存せられてある。是は祥雲寺に住して居た海山が退寺の際に其の寺にあつたものを持つて此處に移住した爲めである、其の後に祥雲寺は廢絶した。又初めより妙心寺にあつた墓は依然として今日も存し、寺中大鳳院の傍にある靈廟の中に安置してあつて、隣花院にあると同樣の木像がその上に祀られてある。〔渡邊世祐著、豐太閤と其家族〕
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[#5字下げ][#中見出し]【八二】千利休の賜死[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は大《だい》なる道樂者《だうらくもの》であつた、就中《なかんづく》茶《ちや》の湯《ゆ》の道樂《だうらく》は、自《みづか》ら信長《のぶなが》の將校《しやうかう》として、立《た》ち働《はた》らく時分《じぶん》よりの事《こと》だ。彼《かれ》が中國役《ちゆうごくえき》の恩賞《おんしやう》として、信長《のぶなが》より茶《ちや》の湯《ゆ》の特許《とくきよ》―信長《のぶなが》は一|般《ぱん》の將士《しやうし》には、茶《ちや》の湯《ゆ》に耽《ふけ》るを禁止《きんし》した―を受《う》け、併《あは》せて其《そ》の道具《だうぐ》を賜《たま》はつた事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 織田氏時代後篇、第九章、五五、秀吉と信長、二〕[#「〔參照 織田氏時代後篇、第九章、五五、秀吉と信長、二〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》が一|人天下《りてんか》と爲《な》つた以來《いらい》は、猶更《なほさら》であつた。北野大茶湯《きたのおほちやのゆ》の如《ごと》きは、其《そ》の一|例《れい》だ。要《えう》するに茶《ちや》の湯《ゆ》は、彼《かれ》の生活《せいくわつ》の一|片《ぺん》であつた、彼《かれ》の生命《せいめい》の一|部《ぶ》であつた。而《しか》して此事《このこと》に就《つ》き、始終《ししゆう》彼《かれ》と周旋《しうせん》したのは、實《じつ》に茶博士《ちやはかせ》千利休《せんのりきう》であつた。
利休《りきう》は當時《たうじ》茶《ちや》の湯《ゆ》を始《はじ》めとして、あらゆる人文《じんぶん》の繁昌《はんじやう》したる堺《さかひ》に於《お》ける、茶人中《ちやじんちゆう》の大茶人《だいちやじん》であつた。彼《かれ》は信長時代《のぶながじだい》に、既《すで》に其《そ》の※[#「日+匿」、第 4水準 2-14-16]近者《ぢつきんしや》の一|人《にん》であつた。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》と相知《あひし》るに至《いた》つたのは、恐《おそ》らくは此《こ》の時代《じだい》であつたらう。彼《かれ》は影《かげ》の形《かたち》に伴《ともな》ふ如《ごと》く、秀吉《ひでよし》の在《あ》る所《ところ》、必《かなら》ず彼《かれ》を見出《みいだ》した。
彼《かれ》は九|州《しう》にも下向《げかう》し、博多《はかた》なる千代《ちよ》ノ松原《まつばら》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》茶《ちや》の湯《ゆ》の統率者《とうそつしや》となつた。或《あるひ》は關東《くわんとう》にも赴《おもむ》いた、小田原《をだはら》に於《お》ける天正菴《てんしやうあん》の茶會《ちやくわい》にも、同樣《どうやう》の役目《やくめ》を勤《つと》めた。然《しか》るに彼《かれ》は何故《なにゆゑ》なる乎《か》、天正《てんしやう》十九|年《ねん》二|月《ぐわつ》―或《あるひ》は云《い》ふ閏正月《うるふしやうぐわつ》―秀吉《ひでよし》の瞋《いかり》に觸《ふ》れて、聚樂第《じゆらくだい》なる不審庵《ふしんあん》出《い》でて、堺《さかひ》に蟄居《ちつきよ》申《まを》し付《つ》けられ、やがて切腹《せつぷく》申《まを》し付《つ》けられた。其《そ》の罪科《ざいくわ》に就《つい》ては、種々《しゆ/″\》の説《せつ》がある。然《しか》も一|般《ぱん》に受取《うけと》られたのは、『豐鑑《ほうかん》』の所説《しよせつ》だ。
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その比《ころ》茶湯《ちやのゆ》の聖《ひじり》成《なり》し宗易《そうえき》を殺《ころ》し給《たま》ふ。かの堺《さかひ》の町人《ちやうにん》なりしが、秀吉公《ひでよしこう》茶湯《ちやのゆ》の道《みち》にすき給《たま》へるによりて、彼《かれ》を師《し》としめぐめり。上中下《じやうちゆうげ》までもてはやす事《こと》愚《おろか》ならず。茶《ちや》の器物《きぶつ》よしあし彼《かれ》がいふ類《たぐひ》に隨《したが》ひ、價《あたひ》をましければ、富《と》める事《こと》、たうしゆに劣《おと》らざらんといふ計也《ばかりなり》。かた/″\おごりを極《きは》めぬれば、我心《わがこゝろ》ひかるゝかたのうつは器物《きぶつ》を、惡敷《あしき》をも能《よし》とし、新《あた》らしきをも古《ふるし》とし、價《あたひ》を増《ま》せり。秀吉公《ひでよしこう》是《これ》を聞《きゝ》、國《くに》の賊《ぞく》なりとて、堺《さかひ》の津《つ》に下《くだ》し、首《くび》を切給《きりたま》ひ、驕《おご》れる者《もの》今《いま》も昔《むかし》も然也《しかなり》。是《これ》を誰《たれ》かかんがみざらん、今《いま》の人《ひと》戒《いましめ》となさゞらんや。後《のち》の人《ひと》も亦《また》戒《いましめ》とせざらましと淺《あさ》ましかりし。愼《つゝ》しむ可《べ》き事《こと》になん。
[#ここで字下げ終わり]
或《あるひ》は曰《いは》く、利休《りきう》は大徳寺《だいとくじ》の古溪和尚《こけいをしやう》と懇意《こんい》にて、其《そ》の山門《さんもん》を、自《みづ》から建立《こんりふ》し、己《おのれ》の木像《もくざう》を彫《ほ》りて、其《そ》の上《うへ》に安置《あんち》した。秀吉《ひでよし》は之《これ》を聞《き》いて、大《おほい》に怒《いか》りて曰《いは》く、山門《さんもん》は王公貴人《わうこうきじん》の出入《しゆつにふ》する所《ところ》だ。然《しか》るに利休《りきう》何者《なにもの》なれば、斯《かゝ》る僭越《せんゑつ》の事《こと》を做《な》すぞ。是《こ》れ我《わ》が木履《ぼくり》を以《もつ》て、王公貴人《わうこうきじん》の頭《かしら》を蹈《ふ》むものにあらずやと。是《こ》れも亦《ま》た秀吉《ひでよし》の氣色《けしき》を損《そん》じたる、一|因《いん》なりと。〔改正參河後風土記、續本朝通鑑〕[#「〔改正參河後風土記、續本朝通鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
或《あるひ》は曰《いは》く、利休《りきう》に一|人《にん》の娘《むすめ》あり。堺《さかひ》の町人《ちやうにん》鵙屋某《もずやぼう》に嫁《か》して、寡居《くわきよ》し、美人《びじん》の譽《ほまれ》高《たか》かつた。秀吉《ひでよし》東山《ひがしやま》の花見《はなみ》に、之《これ》を瞥見《べつけん》し、彼女《かれ》を得《え》ん※[#こと、419-6]を、東條紀伊守行長《とうでうきいのかみゆきなが》をして、利休《りきう》を喩《さと》さしめた。然《しか》るに利休《りきう》は、是《こ》れは汝等《なんぢら》には似合《にあ》うた事《こと》にもあらんが、茶杓《ちやじやく》の柄《え》を握《にぎ》る我等《われら》には、左樣《さやう》の事《こと》はせぬものぞと答《こた》へた。紀伊守《きいのかみ》はそれにては御身《おんみ》の爲《た》めになるまじと云《い》へば、利休《りきう》は別條《べつでう》あるまじ、只《た》だ是《こ》れを取《と》らるゝのみぞと、手《て》に其《そ》の首《くび》を押《おさ》へ示《しめ》した。秀吉《ひでよし》之《これ》を聞《き》いて大《おほ》いに啣《ふく》む所《ところ》あり、遂《つひ》に彼《かれ》を殺《ころ》した。〔改正參河後風土記、細川忠興家譜〕[#「〔改正參河後風土記、細川忠興家譜〕」は1段階小さな文字]
以上《いじやう》は今日迄《こんにちまで》傳説《でんせつ》をして、人口《じんこう》に膾炙《くわいしや》しつゝあるものぢや。吾人《ごじん》は何《いづ》れを信《しん》ず可《べ》き乎《か》、何《いづ》れを信《しん》ず可《べ》からざる乎《か》。
或《あるひ》は上記《じやうき》三|個《こ》の理由《りいう》は、互《たがひ》に連續《れんぞく》して、所謂《いはゆ》る數罪互發《すざいごはつ》の看《かん》を做《な》す可《べ》きやも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。
元來《ぐわんらい》秀吉《ひでよし》は原則《げんそく》として、殺《さつ》を嗜《たし》むものではなかつた。之《こ》れと同時《どうじ》に彼《かれ》は感情家《かんじやうか》であつた。其《そ》の氣怒哀樂《きどあいらく》は、中《うち》に激動《げきどう》しつゝも、中年以前《ちゆうねんいぜん》は、大《だい》なる意志《いし》の力《ちから》を以《もつ》て、之《これ》を調節《てうせつ》し、之《これ》を抑制《よくせい》した。然《しか》も中年以後《ちゆうねんいご》、殊《こと》に其《そ》の頽唐期《たいとうき》に於《おい》ては、殆《ほとん》ど其《そ》の自制力《じせいりよく》を失《うしな》うた。されば其《そ》の一たび怒《いか》るや、彼《かれ》の本性《ほんしやう》に不似合《ふにあひ》なる慘酷《ざんこく》の事《こと》を敢《あへ》てした。秀次畜生塚《ひでつぐちくしやうづか》の一|件《けん》の如《ごと》きは、其《そ》の明證《めいしよう》だ。而《しか》して此《こ》の利休《りきう》誅殺《ちゆうさつ》の一|件《けん》も、或《あるひ》は其《そ》の類例《るゐれい》の一に加《くは》ふ可《べ》きものではあるまい乎《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【八三】利休の死因[#中見出し終わり]

然《しか》らば利休《りきう》の死《し》は、全《まつた》く冤罪《ゑんざい》である可《べ》き乎《か》。否《いな》、否《いな》、決《けつ》して然《しか》らずだ。彼《かれ》は死《し》す可《べ》き程《ほど》の罪惡《ざいあく》があつた乎《か》、否乎《いなか》は、扨《さ》て措《お》き、清淨無垢《せいじやうむく》の人間《にんげん》ではなかつた。彼《かれ》が死《し》は―假令《たとひ》秀吉《ひでよし》が自制力《じせいりよく》を失《しつ》した事《こと》は、其《そ》の一|因《いん》であるにせよ―亦《ま》た自《みづ》から取《と》る所《ところ》であつたに相違《さうゐ》あるまい。極限《きよくげん》すれば、自業自得《じごふじとく》だと斷《だん》ずるも、過當《くわたう》ではあるまい。
秀吉《ひでよし》は寛大漢《くわんだいかん》だ。併《しか》し彼《かれ》は己《おのれ》の大權《たいけん》に立《た》ち入《い》り、若《も》しくはそれに衝觸《しようしよく》する乎《か》、或《あるひ》は其《そ》の尊嚴《そんげん》を冐涜《ぼうとく》する乎《か》に就《つい》ては、神經質《しんけいしつ》である程《ほど》、精細《せいさい》に注意《ちゆうい》した。而《しか》して之《これ》に向《むか》つて、嚴重《げんじゆう》の制裁《せいさい》を加《くは》へ、寸毫《すんがう》も假藉《かしやく》せなかつた。されば淺野長政《あさのながまさ》の如《ごと》き、加藤清正《かとうきよまさ》の如《ごと》き、何《いづ》れも秀吉《ひでよし》の親類筋《しんるゐすぢ》の者共《ものども》が、其《そ》の怒《いかり》に觸《ふ》れ、其《そ》の嚴譴《げんせき》を被《かうむ》つたのも、是《こ》れが爲《た》めであつた。秀長《ひでなが》の如《ごと》きも、秀吉《ひでよし》の認裁《にんさい》を經《へ》ずして、島津氏《しまづし》と講和條件《かうわでうけん》を約定《やくぢやう》したる一|件《けん》に就《つい》て、戒飭《かいちよく》せられた。〔參照 豐臣氏時代乙篇六二、秀吉と秀長〕[#「〔參照 豐臣氏時代乙篇六二、秀吉と秀長〕」は1段階小さな文字]黒田如水《くろだじよすゐ》が、大々名《だい/\みやう》となるの機會《きくわい》を失《しつ》したのも、恐《おそ》らくは是《こ》れが爲《た》めであつたらう。小早川隆景《こばやかはたかかげ》が、秀吉《ひでよし》と相得《あひえ》て始終《しじゆう》を全《まつた》うしたのも、此《こ》の呼吸《こきふ》を能《よ》く飮《の》み込《こ》みたるが爲《た》めであつたらう。徳川家康《とくがはいへやす》の如《ごと》きは、秀吉《ひでよし》の草履《ざうり》を直《なほ》す事《こと》さへ敢《あへ》てして、〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]僭上《せんじやう》、横暴《わうばう》、獨擅《どくせん》、放恣《はうし》の咎《とがめ》に罹《かゝ》るなからん※[#こと、422-2]に焦慮《せうりよ》した。
然《しか》るに彼《か》の利休《りきう》は、何人《なんびと》ぞ。彼《かれ》は餘《あま》りに秀吉《ひでよし》の寵遇《ちようぐう》を恃《たの》んで、其《そ》の優待《いうたい》に狃《な》れて、増長《ぞうちやう》した。惟《おも》ふに彼《かれ》も亦《ま》た秀吉《ひでよし》に於《お》ける、一|種《しゆ》の社鼠城狐《しやそじやうこ》として、其《そ》の威福《ゐふく》を擅《ほしいまゝ》にしたであらう。彼《かれ》の門前《もんぜん》は市《いち》を成《な》し、彼《かれ》に對《たい》する贈遺《ぞうゐ》は山《やま》を成《な》したであらう。彼《かれ》たるもの須《すべか》らく謙抑《けんよく》、韜晦《たふくわい》、勗《つと》めて嫌疑《けんぎ》を避《さ》く可《べ》きであつた。然《しか》るに彼《かれ》は此《こ》の好境遇《かうきやうぐう》を利用《りよう》し盡《つく》して、更《さ》らに惡用《あくよう》した。
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前野但馬守長景《まへのたじまのかみながかげ》に進候《しんじさふらふ》釜《かま》は、荒金《あらがね》に而候《てさふらふ》を、古《ふる》きと申《まをし》銀《ぎん》百|枚《まい》取《と》りしも、科《とが》の一ヶ|條也《でうなり》。是《これ》は上《うへ》は古《ふる》くて、下《した》を鑄繼《いつぎ》たるもの也《なり》。又《また》竹筒《たけづゝ》を切《きつ》て、大分銀《だいぶぎん》を取《と》りなどの類也《るゐなり》。〔細川忠興家譜〕[#「〔細川忠興家譜〕」は1段階小さな文字]
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斯《かゝ》る類《るゐ》は澤山《たくさん》有《あ》つたであらう。而《しか》して彼《かれ》の敵《てき》も亦《ま》た、是《こ》れが爲《た》めに生《しやう》じたであらう。秀吉《ひでよし》が秀次《ひでつぐ》を殺《ころ》した顛末《てんまつ》に就《つい》ては、當時《たうじ》の人心《じんしん》は、秀次《ひでつぐ》には同情《どうじやう》せざりしも、秀吉《ひでよし》の仕打《しうち》が、餘《あま》りに太甚《はなは》だしと感《かん》じた。併《しか》し利休《りきう》に對《たい》しては、豐鑑《ほうかん》の著者《ちよしや》の如《ごと》きは、相當《さうたう》の刑罰《けいばつ》と認《みと》め、之《これ》を以《もつ》て後人《こうじん》の訓戒《くんかい》とした。〔參照 本篇八二、千利休の賜死〕[#「〔參照 本篇八二、千利休の賜死〕」は1段階小さな文字]
又《ま》た多門院日記《たもんゐんにつき》の如《ごと》きは、
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廿八|日《にち》(天正十九年二月)[#「(天正十九年二月)」は1段階小さな文字]一|數寄者《すきしや》の宗益《そうえき》(宗易)[#「(宗易)」は1段階小さな文字]今曉《こんげう》腹切了《はらきりをはんぬ》と、近年《きんねんの》新儀《しんぎ》の道具共《だうぐども》用意《ようい》して、高直《たかね》にウル賣僧《まいす》の頂上《ちやうぢやう》なりとて歟《か》。以外《もつてのほか》關白殿《くわんぱくどの》御腹立《ごふくりふ》、則《すなはち》はた物《もの》(磔刑)[#「(磔刑)」は1段階小さな文字]に、|被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》て、色々《いろ/\》と詫言《わびごと》にて、壽像《じゆざう》を作《つくり》て、紫野《むらさきの》(大徳寺)に置《おき》て、はた物《もの》に|被[#レ]上了《あげられをはんぬ》。
住屋《すみや》檢斷《けんだん》主《しゆ》は、高野《かうや》へ上《のぼる》と。可笑《おかし》き事也《ことなり》。誠《まことに》惡行故也《あくぎやうゆゑなり》。
[#ここで字下げ終わり]
此《これ》を見《み》れば、利休《りきう》の刑死《けいし》は、寧《むし》ろ當然《たうぜん》の事《こと》と、認《みと》めたるものゝ樣《やう》だ。利休《りきう》の親友《しんいう》、知邊《しるべ》の者共《ものども》は別《べつ》として、如上《じよじやう》は或《あるひ》は是《こ》れ世間《せけん》一|般《ぱん》の聲《こゑ》ではあるまい乎《か》。
顧《おも》ふに利休《りきう》の罪案《ざいあん》の焉《いづ》くにあるにせよ、其《そ》の眞因《しんいん》は、彼《かれ》が秀吉《ひでよし》の好意《かうい》を濫用《らんよう》して、專横《せんわう》、不法《ふはふ》の事《こと》を行《おこな》うたと云《い》ふ感《かん》を、秀吉《ひでよし》に與《あた》へたにあつたに相違《さうゐ》あるまい。責任《せきにん》は斯《かゝ》る感《かん》を受取《うけと》つた者《もの》にある乎《か》、與《あた》へた者《もの》にある乎《か》。そは議論《ぎろん》がある事《こと》であらうが、さりながら秀吉《ひでよし》の天下《てんか》に在《あつ》ては、既《すで》に斯《かゝ》る惡感《あくかん》を秀吉《ひでよし》に與《あた》へた以上《いじやう》は、それに相當《さうたう》する結果《けつくわ》は、到底《たうてい》囘避《くわいひ》する能《あた》はざるは、餘儀《よぎ》なき約束《やくそく》と云《い》はねばなるまい。併《しか》し彼《かれ》を罰《ばつ》するには、堺《さかひ》に蟄居《ちつきよ》せしむる丈《だけ》にて、充分《じゆうぶん》だ。その上《うへ》彼《かれ》を殺《ころ》すは、秀吉《ひでよし》としても、過酷《くわこく》ではあるまい乎《か》と思《おも》はるゝ。
そは兎《と》も角《かく》も利休《りきう》は男《をとこ》らしき、死状《しにじやう》をした。彼《かれ》の堺《さかひ》に屏居《へいきよ》するや、從來《じゆうらい》彼《かれ》と親懇《しんこん》の者共《ものども》も、皆《み》な連類《れんるゐ》を畏《おそ》れて、遠《とほ》ざかつた。但《た》だ細川忠興《ほそかはたゞおき》と、古田正勝《ふるたまさかつ》とは、彼《かれ》を淀迄《よどまで》見送《みおく》つた。利休《りきう》は忠興《たゞおき》の重臣《じゆうしん》松井佐渡守康之《まつゐさどのかみやすゆき》が、慰問状《ゐもんじやう》に對《たい》して、左《さ》の如《ごと》く答《こた》へた。
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熊々《わざ/\》御飛脚《おひきやく》、過分《くわぶん》至極候《しごくにさふらふ》。富左殿《とみさどの》(富田左近將監知信)[#「(富田左近將監知信)」は1段階小さな文字]柘左殿《しやさどの》(柘植左門尉)[#「(柘植左門尉)」は1段階小さな文字]御兩所《ごりやうしよ》|爲[#二]御使[#一]《おんつかひとして》堺迄《さかひまで》|可[#二]罷下[#一]旨《まかりくだるべきむね》御諚候條《ごぢやうにさふらふでう》、俄《にはかに》昨夜《さくや》罷下候《まかりくだりさふらふ》。仍《なほ》淀迄《よどまで》羽與樣《はねよさま》、(羽柴與一郎、即ち細川忠興)[#「(羽柴與一郎、即ち細川忠興)」は1段階小さな文字]古織樣《ふるおりさま》(吉田織部正)[#「(吉田織部正)」は1段階小さな文字]御送候而《おんおくりさふらふて》、舟下《ふなくだり》にて見付申《みつけまをし》驚入存候《おどろきいりぞんじさふらふ》。忝由《かたじけなきよし》頼存候《たのみぞんじさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
 二月十四日
[#地から3字上げ]利休
[#地から2字上げ]宗易
  松左樣 囘答
[#ここで字下げ終わり]
流石《さすが》の利休《りきう》も、淀《よど》の川舟《かはぶね》にて、端《はし》なく兩人《りやうにん》の顏《かほ》を見《み》た時《とき》には、定《さだ》めて驚喜《きやうき》禁《きん》じ難《がた》かつたであらう。如何《いか》に大徳寺《だいとくじ》山門《さんもん》の上《うへ》に、安置《あんち》せられた彼《かれ》の木像《もくざう》が、處分《しよぶん》せられたかは、左《さ》の記事《きじ》にて分明《ぶんみやう》だ。
[#ここから1字下げ]
一 茶《ちや》の湯之天下《ゆのてんか》一|宗易《そうえき》(利休)[#「(利休)」は1段階小さな文字]無道之刷《むだうのさばき》、年月《ねんげつ》連續之上《れんぞくのうへ》、御追放《ごつゐはう》|無[#二]行方[#一]候《ゆくへなくさふらふ》。然處《しかるところ》に右之宗易《みぎのそうえき》、其身之形《そのみのかたち》を、木像《もくざう》に作立《つくりたて》、紫野《むらさきの》大徳寺《だいとくじ》に|被[#レ]納候《をさめられさふらふ》を、殿下樣《でんかさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]より|被[#二]召上[#一]《めしあげられ》、聚樂之大門戻橋《じゆらくのだいもんもどりばし》と申候所《まをしさふらふところ》に、張付《はりつけ》にかけられ候《さふらふ》。木像《もくざう》の八|付《つけ》(磔)[#「(磔)」は1段階小さな文字]誠々《まことに/\》前代未聞之由《ぜんだいみもんのよし》、|於[#二]京中[#一]《きやうぢゆうにおいて》申事《まをすこと》に候《さふらふ》。見物之貴賤《けんぶつのきせん》|無[#二]際限[#一]候《さいげんなくさふらふ》。右《みぎ》八|付之脇《つけのわき》に色々《いろ/\》の科共《とがども》、御札《ぎよさつ》を|被[#二]相立[#一]候《あひたてられさふらふ》。面白《おもしろ》き御文言《ごもんごん》、|不[#レ]可[#二]勝計[#一]候《あげてかぞふべからずさふらふ》。〔天正十九年二月二十九日附、鈴木新兵衛より石母田景頼に與へたるの書。伊達家文書〕[#「〔天正十九年二月二十九日附、鈴木新兵衛より石母田景頼に與へたるの書。伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
木像《もくざう》の磔刑《たくけい》も、亦《ま》た一|奇《き》だ。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、利休《りきう》の僭上《せんじやう》に對《たい》して、憤《いきどほ》りたるかゞ、此《こ》の一|事《じ》でも、想像《さうざう》せらるゝではない乎《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【八四】利休の人物[#中見出し終わり]

均《ひと》しく茶《ちや》の湯《ゆ》であるが、東山義政時代《ひがしやまよしまさじだい》の茶《ちや》の湯《ゆ》は、全《まつた》く義政《よしまさ》の隱居《いんきよ》の樂《たのしみ》であつたが、秀吉時代《ひでよしじだい》の茶《ちや》の湯《ゆ》は、大《おほ》いに意義《いぎ》ありだ。茶《ちや》の湯《ゆ》は、徒《いたづ》らに秀吉《ひでよし》の幽意《いうい》、間情《かんじやう》を、暢叙《ちやうじよ》するのみならず、彼《かれ》の公的生涯《こうてきしやうがい》に取《と》りて、缺《か》く可《べ》からざる要件《えうけん》であつた。即《すなは》ち天下《てんか》の英雄《えいゆう》を籠絡《ろうらく》するにも、茶《ちや》の湯《ゆ》に於《おい》てした。軍國《ぐんこく》の大事《だいじ》を議《ぎ》するにも、茶《ちや》の湯《ゆ》に於《おい》てした。茶《ちや》の湯《ゆ》に附屬《ふぞく》する茶器《ちやき》の如《ごと》きは、刀劍《たうけん》と與《とも》に、時《とき》としては幾城《いくじやう》、幾郡《いくぐん》の代《かは》りとして、賞賜《しやうし》せられた。茶《ちや》の湯《ゆ》が斯《かゝ》る重要《ぢゆうえう》なる位置《ゐち》を、秀吉《ひでよし》の年中行事《ねんぢゆうぎやうじ》に於《おい》て占《し》むるの際《さい》に於《おい》ては、茶博士《ちやはかせ》の位置《ゐち》の重要《ぢゆうえう》なるも、推《お》して知《し》る可《べ》しではない乎《か》。
想《おも》うに此《こゝ》に至《いた》れば、利休《りきう》の威福《ゐふく》を擅《ほしいまゝ》にしたと云《い》ふ事《こと》も、強《あなが》ち不思議《ふしぎ》ではなく、是《こ》れが爲《た》めに、彼《かれ》の一|生《しやう》を誤《あやま》つたと云《い》ふ事《こと》も、亦《ま》た有《あ》り得可《うべ》からざる事《こと》でなく。而《しか》して斯《かゝ》る舞臺《ぶたい》に立《たつ》て、斯《かゝ》る藝當《げいたう》を勤《つと》めたる利休《りきう》其《そ》の人《ひと》の、尋常《じんぢやう》平凡《へいぼん》なる代物《しろもの》でなかつた※[#こと、427-4]も、亦《ま》た分明《ぶんみやう》だ。
利休《りきう》は天下《てんか》の英雄《えいゆう》秀吉《ひでよし》を、兎《と》も角《かく》も一|時《じ》は手玉《てだま》に取《と》つて居《ゐ》た。蒲生氏郷《がまふうぢさと》、細川忠興《ほそかはたゞおき》の如《ごと》き、單《たん》に彼《かれ》が得意時代《とくいじだい》の門人《もんじん》たるのみならず、最後迄《さいごまで》も隨喜者《ずゐきしや》であつた。此《これ》は決《けつ》して、天下《てんか》一の茶博士《ちやはかせ》たるが爲《た》めのみならず、彼《かれ》には天下《てんか》一の茶博士《ちやはかせ》たる可《べ》き性格《せいかく》の力《ちから》があつた爲《た》めと云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は單《たん》に日本《にほん》の於《お》ける茶儀《ちやぎ》の大宗師《だいそうし》として、記憶《きおく》せらるゝのみならず、亦《ま》た其《そ》れ以上《いじやう》の或者《あるもの》として、記憶《きおく》せられねばならぬ。
[#ここから1字下げ]
福島正則《ふくしままさのり》、或時《あるとき》忠興君《たゞおきぎみ》に御申候《おんまをしさふらふ》は、其元《そのもと》には利休《りきう》を御慕《おした》ひ|被[#レ]成候《なされさふらふ》。彼《かれ》は武勇《ぶゆう》もなく、何共《なにとも》|不[#レ]知者也《しれざるものなり》。何處《どこ》を御慕《おした》ひ候《さふらふ》やとなり。忠興君《たゞおきぎみ》仰《おほせ》に、彼《かれ》は名譽《めいよ》なる者也《ものなり》、些《ちと》御逢御覽候樣《おあひごらんさふらふやう》とて|有[#レ]之《これあり》、利休所《りきうのところ》に|御同道被[#レ]成候而《ごどうだうなされさふらうて》、御茶《おちや》の湯《ゆ》有《あり》しと也《なり》。正則《まさのり》我《が》を折《をり》て、其元《そのもと》利休《りきう》を御慕《おした》ひ候事《さふらふこと》尤也《もつともなり》。我等《われら》如何《いか》なる強敵《きやうてき》に向《むか》ひ候而《さふらうて》も、ちぢけたる事《こと》|無[#レ]之候《これなくさふらふ》。然《しか》るに利休《りきう》に立向《たちむか》ひ候《さふら》へば、臆《おく》したる樣《やう》に覺《おぼ》え候《さふらふ》。扨々《さて/\》名譽《めいよ》なるものと|被[#レ]感候《かんぜられさふらふ》と也《なり》。〔細川忠興家譜〕[#「〔細川忠興家譜〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは確《たし》かな事實《じじつ》だか、どうだか、保證《ほしよう》の限《かぎ》りでないが、兎《と》も角《かく》も茶杓《ちやしやく》のみを握《にぎ》れる利休《りきう》に、萬夫不當《ばんぷふたう》の福島正則《ふくしままさのり》が、辟易《へきえき》したとすれば、それにはそれ丈《だけ》の理由《りいう》があらねばばらぬ。是《こ》れが則《すなは》ち性格《せいかく》の力《ちから》だ。
[#ここから1字下げ]
一|年《とせ》太閤《たいかふ》を、御申仕《おんまをしつかまつり》ける時《とき》、家康公《いへやすこう》より、明日《みやうにち》の御成《おなり》の爲《ため》と思召《おぼしめし》、鶴《つる》を|被[#レ]遣《つかはされ》けるに、其日《そのひ》加賀肥前守《かがひぜんのかみ》(前田利長)[#「(前田利長)」は1段階小さな文字]蒲生氏郷《がまふうぢさと》、忠興君抔《たゞおきぎみなど》、|御見舞被[#レ]成《おみまひなされ》けるが、早《はや》料理《れうり》して出《いだ》したり。總而《そうじて》氣《き》のたけたる生稟《うまれつき》なりき。〔同上〕[#「〔同上〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
鶴《つる》は當時《たうじ》に於《おい》ては、無上《むじやう》の珍味《ちんみ》だ。家康《いへやす》が翌日《よくじつ》利休《りきう》へ秀吉《ひでよし》饗應《きやうおう》の爲《た》めにと、折角《せつかく》心《こゝろ》を入《い》れて贈《おく》つたが、當時《たうじ》不時《ふじ》に三|個《こ》の來客《らいきやく》ありたれば、彼《かれ》は乍《たちま》ち之《これ》を料理《れうり》して馳走《ちそう》した。彼《かれ》の才氣渙發《さいきくわんぱつ》、臨機應變《りんきおうへん》の面影《おもかげ》は、此《こ》の一|些事《さじ》に於《おい》ても、之《これ》を察《さつ》するに足《た》るものがある。
彼《かれ》は大徳寺《だいとくじ》の古溪和尚《こけいをしやう》と、懇親《こんしん》で有《あ》りたれば、禪《ぜん》に得《え》たる所《ところ》も、亦《ま》た小小《せう/\》でもなかつたであらう。併《しか》し何《いづ》れにせよ、彼《かれ》は天成《てんせい》非凡《ひぼん》の一|人物《じんぶつ》であつたに相違《さうゐ》あるまい。兎《と》に角《かく》秀吉《ひでよし》の手《て》に合《あ》はぬ代物《しろもの》であつた事《こと》は、或《あるひ》は彼《かれ》の彼《かれ》たる所以《ゆゑん》であつたかも知《し》れぬ。言《い》ひ換《か》ふれば、彼《かれ》の死《し》は、彼《かれ》の名譽《めいよ》を後世《こうせい》に傳《つた》ふる所以《ゆゑん》であつたかも知《し》れぬ。
彼《かれ》の死《し》せんとするや、羽與樣《はねよさま》(羽柴與一郎、即ち細川忠興)[#「(羽柴與一郎、即ち細川忠興)」は1段階小さな文字]と筒《つゝ》に書付《かきつけ》たる茶杓《ちやしやく》を取出《とりいだ》し、之《これ》を細川忠興《ほそかはたゞおき》に與《あた》へ、茶《ちや》の湯《ゆ》印可《いんか》の證《しよう》とした。其《そ》の辭世《じせ》の句《く》として傳《つた》ふるものに曰《いは》く、
  利休《りきう》めは兎角《とかく》果報《くわはう》のものぞかし、菅丞相《くわんじやうしやう》になると思《おも》へば。
又《ま》た曰《いは》く
  提《ひさ》げとる我《わ》が得道具《えだうぐ》の一つ太刀《たち》、今《いま》此時《このとき》ぞ天《てん》に拠《なげう》つ。
  人生《じんせい》七十|力圍希《りきゐき》。咄々《とつ/\》。吾《わが》這寳劍《このはうけん》。祖佛《そぶつ》共《ともに》殺《ころす》。
彼《かれ》の死《し》は天正《てんしやう》十九|年《ねん》二|月《ぐわつ》廿八|日《にち》であつた。されば彼《かれ》の木像《もくざう》は、彼《かれ》に先《さきだ》つて梟首《けうしゆ》せられたのであらう。古溪和尚《こけいをしやう》は、此事《このこと》に連坐《れんざ》して、秀吉《ひでよし》の瞋《いかり》に觸《ふ》れ、大徳寺《だいとくじ》も一|時《じ》破却《はきやく》の運命《うんめい》に遭《あ》はんとした。然《しか》も和尚《をしやう》は自《みづ》から一|死《し》を分《ぶん》として、陳疏《ちんそ》甚《はなは》だ力《つと》め、且《か》つ幾多《いくた》の救解者《きうかいしや》ありたる爲《た》め、寺《てら》も人《ひと》も兩《ふたつ》ながら無事《ぶじ》なるを得《え》た。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]利休之逸話
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
田中氏、名宗易、初稱[#二]與四郎[#一]、號[#二]利休居士[#一]、別號[#二]抛筌[#一]、泉州堺人、其先仕[#二]足利氏[#一]爲[#二]同朋[#一]、名曰[#二]千阿彌[#一]、因以[#レ]千爲[#レ]稱、其名高[#二]于一世[#一]、天正十九年歿、年七十一、利休學[#二]茶于紹鴎[#一]、紹鴎欲[#レ]試[#二]利休才[#一]、私命[#レ]僕掃[#二]除庭上[#一]、而後更命[#二]利休[#一]、利休來觀、帚痕如[#レ]拭、不[#レ]留[#二]纎塵[#一]、無[#レ]所[#レ]下[#レ]手、忽入[#二]林中[#一]試搖[#二]其一松樹[#一]、墜葉片々、瓢[#レ]風點[#レ]地、殊覺[#二]一段風趣[#一]、乃報曰、謹了[#レ]命、紹鴎視[#レ]之、感[#二]其奇才[#一]、盡授[#二]秘訣[#一]、遂得[#二]茶博士之名[#一]。
或間[#二]茶道蘊奧於利休[#一]、利休答曰、茶宜[#レ]主[#レ]適[#レ]量、炭宜[#レ]主[#二]湯沸[#一]、花宜[#レ]如[#レ]在[#レ]野、夏宜[#レ]涼、冬宜[#レ]暖、除[#レ]此無[#二]秘法[#一]、其人呆然曰、如[#レ]此則我既知[#レ]之、利休曰、子若知[#レ]之、宜[#二]如[#レ]此行[#一]、我執[#レ]贄爲[#二]弟子[#一]、笑嶺和尚在[#レ]側、評[#レ]之曰、三歳之童、亦能知[#レ]之、雖[#二]八句之翁[#一]、不[#レ]能[#レ]行[#レ]之。
織田信長、請[#下]茶器名[#二]肩衝[#一]者於利休[#上]、利休不[#レ]藏[#レ]之、住吉屋宗久、藏[#二]佳品[#一]、利休素與[#二]宗久[#一]不[#レ]和、然以[#二]公命不[#一][#レ]可[#レ]默、直傳[#二]其旨[#一]、宗久獻[#レ]之、酬[#二]賚黄金數枚[#一]、宗久乃酬[#二]利休[#一]、以[#二]黄金及物[#一]、利休退[#レ]之曰、紹[#二]介茶器[#一]、是公事也、平素之事不[#レ]可[#レ]變、時人稱[#二]其無[#一][#レ]私。〔山縣篤藏著、藝苑叢話〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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