第十五章 東北平定
戻る ホーム 上へ 進む

 

[#4字下げ][#大見出し]第十五章 東北平定[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七五】伊達正宗の上洛(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は奧州《あうしう》に於《お》ける一|揆《き》の蜂起《ほうき》を聞《き》き、安《やす》からぬ事《こと》と思《おも》うた。特《とく》に蒲生氏郷《がまふうぢさと》より伊達政宗《だてまさむね》が、此《こ》の一|揆《き》と通謀《つうぼう》しつゝあるの情報《じやうはう》に接《せつ》し、豐臣秀次《とよとみひでつぐ》、徳川家康等《とくがはいへやすら》をして、討平《たうへい》に向《むか》はしめた。然《しか》も彼等《かれら》は其《そ》の平定《へいてい》の報《はう》を得《え》、天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、途中《とちゆう》より引《ひ》き返《かへ》した。而《しか》して是《こ》れより氏郷《うぢさと》、政宗《まさむね》の京都《きやうと》に於《お》ける對決《たいけつ》となつた。
政宗《まさむね》は如何《いか》なる場合《ばあひ》も、秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》と、其《そ》の氣脈《きみやく》を通《つう》じ置《お》くことを忘《わす》れなかつた。彼《かれ》は其《そ》の同情者《どうじやうしや》を繋《つな》ぎ置《お》く事《こと》を忘《わす》れなかつた。而《しか》して常《つね》に諜報者《てふはうしや》を備《そな》へ、一|切《さい》の情報《じやうはう》を受取《うけと》る可《べ》き用意《ようい》を忘《わす》れなかつた。されば秀吉《ひでよし》の一|擧《きよ》一|動《どう》、一|喜《き》一|怒《ど》、悉《こと/″\》く手《て》に取《と》る如《ごと》く政宗《まさむね》に通達《つうたつ》した。彼《かれ》は※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]忙《さうばう》の際《さい》にも、淺野長政《あさのながまさ》に酒《さけ》を贈《おく》り、徳川家康《とくがはいへやす》に鷹《たか》を贈《おく》ることを忘《わす》れなかつた。
[#ここから1字下げ]
隨而《したがつて》先日《せんじつ》給候《たまはりさふらふ》御酒《ごしゆ》、一|段《だん》能《よく》御座候間《ござさふらふあひだ》、其類之御酒《そのたぐひのごしゆ》一|樽《そん》、|可[#レ]被[#レ]懸[#二]御意[#一]候《ぎよいにかけらるべくさふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とは、天正《てんしやう》十八|年《ねん》十二|月《ぐわつ》十七|日附《にちづけ》にて、長政《ながまさ》より政宗《まさむね》に與《あた》へたる、書中《しよちゆう》の一|節《せつ》だ。
[#ここから1字下げ]
關東《くわんとう》在國付而《ざいこくについて》、|爲[#二]祝儀[#一]《しうぎとして》|預[#二]使札[#一]《しさつにあづかり》、殊《ことに》見事之若大鷹《みごとのわかおほたか》三|居《すゑ》|被[#二]差上[#一]給候《さしあげられたまひさふらふ》。遠境之所《ゑんきやうのところ》、|被[#レ]入[#二]御念[#一]候儀《ごねんをいれられさふらふぎ》、彌《いよ/\》自愛《じあい》祝著之至候《しうぢやくのいたりにさふらふ》。當年《たうねん》其表《そのおもて》方々《はう/″\》へ、鷹《たか》相求《あひもとめ》に人《ひと》を下候《くだしさふら》へ共《ども》、一|圓《ゑん》|無[#レ]之《これなく》罷歸候處《まかりかへりさふらふところ》、|如[#レ]此儀《かくのごときぎ》本望候《ほんまうにさふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とは、同《どう》十二|月《ぐわつ》廿四|日附《かづけ》の家康《いへやす》の書簡《しよかん》の一|節《せつ》だ。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》奧向《おくむき》に勢力《せいりよく》ある孝藏主《かうざうす》の如《ごと》きも、
[#ここから1字下げ]
猶《なほ》より/\上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]北政所樣《きたのまんどころさま》御念比《ごねんごろ》に仰《おほせ》られ候《さふらふ》。御心安《おこゝろやす》く思召《おぼしめ》され候《さふらふ》べく候《さふらふ》。それ樣《さま》(正宗)[#「(正宗)」は1段階小さな文字]御心變《おこゝろがは》りと申《まをし》、御注進《ごちゆうしん》ども御入候《おいりさふら》へども、上樣《うへさま》は如何《いかゞ》なりとも、政宗《まさむね》別心《べつしん》、雜説《ざふせつ》にて御入候《おいりさふら》はんと、固《かた》く/\仰《おほせ》られ候《さふらふ》。扨々《さて/\》恭《かた》じけなく思召候《おぼしめしさふら》はんずる御事《おんこと》と思《おも》ひ參《まゐ》らせ候《さふらふ》。かやうの御恩《ごおん》御忘參《おわすれまゐ》られ候《さふら》はゞ、御罰當《おんばちあた》り參候《まゐりさふらふ》べく候《さふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《これ》は彼女《かれ》が京都《きやうと》聚樂第《じゆらくだい》より、天正《てんしやう》十八|年《ねん》十二|月《ぐわつ》廿六|日附《にちづけ》にて、政宗《まさむね》に與《あた》へたる書中《しよちゆう》の一|節《せつ》だ。惟《おも》ふに孝藏主《かうざうす》の如《ごと》きは、秀吉《ひでよし》夫妻《ふさい》燕居閑話《ゑんきよかんわ》の際《さい》にも、侍座《じざ》して、屡《しばし》ば政宗《まさむね》の爲《た》めに遊説《いうぜい》もし、雪寃《せつゑん》をも勗《つと》めたのであらう。尚《な》ほ和久宗是《わくそうぜ》の如《ごと》きも、屡《しばし》ば政宗《まさむね》に向《むか》つて、京都《きやうと》の消息《せうそく》を報《はう》じて居《を》る。
[#ここから1字下げ]
一 政宗《まさむね》御別心《ごべつしん》の由《よし》、雜説《ざつせつ》執々《とり/″\》申候之處《まをしさふらふのところ》、又《また》|自[#二]羽忠三[#一]《うちゆうざより》、(羽柴忠三郎即蒲生氏郷)[#「(羽柴忠三郎即蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]去月《きよげつ》廿六|日之御添状《にちのおんそへじやう》に、政宗《まさむね》逆心《ぎやくしん》|無[#二]別儀[#一]《べつぎなく》、伊勢守《いせのかみ》(木村吉晴)[#「(木村吉晴)」は1段階小さな文字]共《とも》手合之段《てあはせのだん》言上《ごんじやう》に付《つき》、中納言樣《ちゆうなごんさま》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]も御出馬候《ごしゆつばさふら》へ共《ども》、追々《おひ/\》人《ひと》を|被[#レ]遣《つかはされ》、よび御返《おかへし》の事候《ことにさふらふ》。羽忠三《うちゆうざ》不屆言上《ふとゞきごんじやう》の爲體《ていたらく》、曲事《きよくじ》沙汰之由《さたのよし》、|被[#レ]成[#二]御腹立[#一]《ごふくりなされ》、御朱印《ごしゆいん》をも|不[#レ]被[#レ]遺候《つかはされずさふらふ》。
一 殿下樣《でんかさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]|對[#二]政宗[#一]《まさむねにたいし》只今《たゞいま》一|段《だん》よく御座候《ござさふらふ》、此番《このばん》に御上洛者《ごじやうらくは》、萬事《ばんじ》|可[#二]相濟[#一]《あひすむべく》と存事候《ぞんずることにさふらふ》。中務卿法印《なかつかさきやうほふいん》、新莊駿河守《しんじやうするがのかみ》も、其分候《そのぶんにさふらふ》、即《すなはち》|以[#二]書札[#一]《しよさつをもつて》|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは天正《てんしやう》十八|年《ねん》十二|月《ぐわつ》廿六|日附《にちづけ》だ。氏郷《うぢさと》は十一|月《ぐわつ》廿四|日《か》、政宗《まさむね》逆心《ぎやくしん》の報《はう》をなし、更《さ》らに十一|月《ぐわつ》廿六|日《にち》には、其《そ》の然《しか》らざるを報《はう》じた、故《ゆゑ》に秀吉《ひでよし》は氏郷《うぢさと》の輕忽《けいこつ》を瞋《いか》つたと云《い》ふ意味《いみ》だ。中務卿法印《なかつかさきやうほふいん》とは、宮部繼潤《みやべけいじゆん》の事《こと》だ。繼潤《けいじゆん》も、新莊《しんじやう》も、何《いづ》れも京都《きやうと》に於《お》ける、政宗《まさむね》の味方《みかた》であり、耳目《じもく》であつたものと思《おも》はる。
併《しか》し此《こ》の文《ぶん》を見《み》れば、寧《むし》ろ氏郷《うぢさと》は政宗《まさむね》に比《ひ》して、直情徑行《ちよくじやうけいかう》であり、淡白《たんぱく》正直《しやうじき》であつたことが判知《わか》る。叛跡《はんせき》ありと見《み》れば、叛心《はんしん》ありと報《はう》じ、叛跡《はんせき》無《な》しと認《みと》むれば、復《ま》た然《しか》らずと報《はう》ず。秀吉《ひでよし》は果《はた》して氏郷《うぢさと》に向《むか》つて、斯《か》く立腹《りつぷく》した乎《か》、又《ま》た政宗《まさむね》に對《たい》して、斯《か》く好意《かうい》を懷《いだ》いた乎《か》、何《いづ》れも疑問《ぎもん》だ。併《しか》し政宗《まさむね》の心《こゝろ》を安《やす》んじて、上洛《じやうらく》の途《と》に就《つ》かしむるには、右《みぎ》は極《きは》めて有効《いうかう》の保障状《ほしやうじやう》であつたであらう。併《しか》し政宗《まさむね》は、容易《ようい》に踵《きびす》を擧《あ》げなかつた。されば和久宗是《わくそうぜ》の如《ごと》きも、
[#ここから1字下げ]
假令《たとひ》金銀《きんぎん》山程《やまほど》積《おんつみ》て御進上候共《ごしんじやうさふらふとも》、御上洛《ごじやうらく》遲々《ちゝ》申《まをし》、御前《ごぜん》惡《あしく》なり候《さふらう》ては、萬事《ばんじ》|不[#レ]入事候《いらざることにさふらふ》。か樣《やう》に委《く》はしく申入候事《まをしいれさふらふこと》、兎角《とかく》政宗《まさむね》遲《おそ》く御上洛候《ごじやうらくさふら》はゞ、又《また》雜説《ざふせつ》|出來可[#レ]申《しゆつたいまをすべく》と存《ぞんじ》、|如[#レ]此候《かくのごとくにさふらふ》。(十二月廿六日附)[#「(十二月廿六日附)」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。又《ま》た
[#ここから1字下げ]
先書《せんしよ》に|如[#二]申入候[#一]《まをしいれさふらふごとく》、政宗《まさむね》御上洛《ごじやうらく》遲々候者《ちゝさふらはゞ》、又《また》雜説《ざふせつ》申亂候《まをしみだしさふら》はんと申入候《まをしいれさふら》へば、案之如《あんのごとく》早《は》や又《また》何《なに》かと申事候《まをすことにさふらふ》。方々《はう/″\》へ手《て》を廻《ま》はし候《さふらう》て、|計策可[#レ]有[#レ]之《けいさくこれあるべく》と存事候間《ぞんずることにさふらふあひだ》、早々《さう/\》政宗《まさむね》御上洛《ごじやうらく》さへ候《さふら》はゞ、|不[#レ]可[#レ]有[#二]異儀[#一]候《いぎあるべからずさふらふ》。(十二月廿八日附)[#「(十二月廿八日附)」は1段階小さな文字]
[#ここから1字下げ]
と、時々刻々《じゞこく/\》催促《さいそく》して居《を》る。徳川家康《とくがはいへやす》も、天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十三|日附《にちづけ》にて、書《しよ》を政宗《まさむね》の老臣《らうしん》片倉景綱《かたくらかげつな》に與《あた》へ、桑島萬機齋《くはじまばんきさい》を使《つかひ》として、其《そ》の上京《じやうきやう》を勸告《くわんこく》した。
[#ここから1字下げ]
政宗《まさむね》御上洛《ごじやうらく》の儀《ぎ》に付《つき》、|被[#レ]成[#二]御朱印[#一]候條《ごしゆいんなされさふらふでう》、則《すなはち》桑島萬機《くわじまばんき》差下候《さしくだしさふらふ》。淺野彈正《あさのだんじやう》我等《われら》兩人《りやうにん》|被[#二]相向[#一]《あひむけられ》、早々《さう/\》御上洛《ごじやうらく》肝要候《かんえうにさふらふ》。此由《このよし》能々《よく/\》相心得《あひこゝろえ》體言《たいげん》最候也《もつともにさふらふなり》。
  四月十三日
[#地から3字上げ]家康
[#地から1字上げ]〔藩祖成績〕[#「〔藩祖成績〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
而《しか》して在《ざい》二|本松《ほんまつ》の淺野長政《あさのながまさ》の如《ごと》きも、天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》廿一|日附《にちづけ》にて、
[#ここから1字下げ]
貴殿《きでん》御上洛之事《ごじやうらくのこと》、一|片時《へんじ》も御急《おいそぎ》最《もつとも》に候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。又《ま》た同月《どうげつ》廿六|日附《にちづけ》にて、
[#ここから1字下げ]
今月《こんげつ》晦日《みそか》に、其許《そのもと》|可[#レ]有[#レ]御立[#一]旨《おたちあるべきむね》最候《もつともにさふらふ》。片時《へんじ》も|可[#レ]被[#レ]成[#二]御急[#一]候《おんいそぎなさるべくさふらふ》。御前《ごぜん》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]之樣子《のやうす》彌々《いよ/\》別條《べつでう》|無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、|可[#二]御心安[#一]候《おこゝろやすかるべくさふらふ》。隨而《したがつて》羽忠三《うちゆうざ》(氏郷)[#「(氏郷)」は1段階小さな文字]今日《こんにち》二|本松《ほんまつ》へ|被[#二]相越[#一]候《あひこされさふらふ》、明日《みやうにち》當地《たうち》より|被[#二]罷上[#一]候《まかりのぼられさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》うて居《を》る。氏郷《うぢさと》既《すで》に上洛《じやうらく》す、政宗《まさむね》如何《いか》で猶豫《いうよ》す可《べ》き。彼《かれ》は再《ふたゝ》び虎穴《こけつ》を探《さぐ》る覺悟《かくご》で、上洛《じやうらく》の途《と》に就《つ》いた。

[#5字下げ][#中見出し]【七六】伊達正宗の上洛(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

政宗《まさむね》は天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》晦日《みそか》、米澤城《よねざはじやう》を發《はつ》して、上京《じやうきやう》の途《と》に就《つ》いた。『陳《ちん》じ損《そん》せば、二|度《ど》奧州《あうしう》へ下《くだ》されじとて、磔付《はりつけ》の柱《はしら》を、金箔《きんぱく》にて濃《こ》めさせ、馬《うま》の正先《まつさき》に持《も》たせて、』往《ゆ》いたとは〔會津四家合考〕[#「〔會津四家合考〕」は1段階小さな文字]今尚《いまな》ほ傳《つた》ふる所《ところ》だが、其《そ》の事《こと》の眞僞《しんぎ》は姑《しば》らく置《お》き、彼《かれ》は非常《ひじやう》の決心《けつしん》をしたに相違《さうゐ》あるまい。
閏《うるふ》正月《しやうぐわつ》二|日《か》には、杉目《すぎめ》(福島)[#「(福島)」は1段階小さな文字]に著《ちやく》し、四|日《か》には二|本松《ほんまつ》にて、淺野長政《あさのながまさ》と會見《くわいけん》し、種々《しゆ/″\》の打合《うちあはせ》をなし、而《しか》して同《どう》十九|日《にち》には駿河《するが》府中《ふちゆう》に著《ちやく》し、此處《こゝ》にて同月《どうげつ》十一|日《にち》、秀吉《ひでよし》が京都《きやうと》を立《た》ち、尾張《をはり》へ鷹狩《たかがり》に赴《おもむ》いた事《こと》を聞《き》いた。而《しか》して彼《かれ》は長政《ながまさ》の子《こ》、幸長《ゆきなが》と同行《どうこう》して、清須《きよす》に著《ちやく》し、此處《こゝ》にて、家康《いへやす》よりの一|書《しよ》を得《え》た。
[#ここから1字下げ]
度々《たび/\》|預[#二]書状[#一]候《しよじやうにあづかりさふらふ》。祝著候《しうちやくにさふらふ》。仍《なほ》左京大夫殿《さきやうだいふどの》(淺野幸長)[#「(淺野幸長)」は1段階小さな文字]|有[#二]同道[#一]《どうだうあり》、清須迄《きよすまで》參著之由《さんちやくのよし》承屆《うけたまはりとゞけ》、先以《まづもつて》肝要候《かんえうにさふらふ》。上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]御前之儀《ごぜんのぎ》、少《すこし》も|無[#二]御別儀[#一]候《ごべつぎなくさふらふ》、|可[#二]御心安[#一]候《おんこゝろやすかるべくさふらふ》。萬《ばん》|期[#二]面談之時[#一]候間《めんだんのときをごしさふらふあひだ》、省略候《しやうりやくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
  壬(閏)正月廿六日[#地から2字上げ]〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
家康《いへやす》の如《ごと》きは、政宗《まさむね》の保護者《ごほしや》の一|人《にん》として、最《もつと》も秀吉《ひでよし》の手前《てまへ》を繕《つくろ》ふことに骨折《ほねを》つたのだ。
かくて彼《かれ》は上洛《じやうらく》して。妙覺寺《めうかくじ》に館《やかた》した。彼《かれ》の秀吉《ひでよし》の召命《せうめい》に應《おう》じて、直《たゞ》ちに上京《じやうきやう》したるは、少《すくな》からず秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》を和《やはら》げた。此《こ》の報《はう》を聞《き》いた秀吉《ひでよし》は、富田知信《とみたとものぶ》を顧《かへり》みて曰《いは》く、斯《か》く政宗《まさむね》が速《すみや》かに上洛《じやうらく》したのを見《み》ば、謀反《むほん》しなかつた事《こと》は明白《めいはく》だと。知信《とものぶ》は相槌《あひづち》を打《うつ》て曰《いは》く、前年《ぜんねん》殿下《でんか》が信長公《のぶながこう》の嫌疑《けんぎ》を被《かうむ》り給《たま》ふや、其《そ》の召命《せうめい》に應《おう》じて、直《たゞ》ちに安土《あづち》に參上《さんじやう》せられ、それで信長公《のぶながこう》も、殿下《でんか》の誠意《せいい》を諒《りやう》とせられた。今日《こんにち》の事《こと》も、その通《とほ》りと存《ぞん》ずと。秀吉《ひでよし》は首肯《しゆかう》した。
豫《かね》て知信《とものぶ》と親交《しんかう》ある氏郷《うぢさと》は、知信《とものぶ》が此《こ》の語《ご》を聞《き》き、彼《かれ》が政宗《まさむね》の爲《た》め遊説《いうぜい》したのを憤《いきどほ》り、互《たが》ひに隙《げき》を生《しやう》じたが、漸《やうや》く仲裁者《ちゆうさいしや》がありて和解《わかい》したと云《い》ふことぢや。〔藩祖成績〕[#「〔藩祖成績〕」は1段階小さな文字]知信《とものぶ》の遊説《いうぜい》も、平昔《へいせき》政宗《まさむね》の拔目《ぬけめ》なき附《つ》け屆《とゞ》けの、行《ゆ》き渡《わた》つた効果《かうくわ》と云《い》ふ可《べ》しぢや。
秀吉《ひでよし》は氏郷《うぢさと》と、政宗《まさむね》とを對決《たいけつ》せしめた。秀吉《ひでよし》は氏郷《うぢさと》の手《て》より、政宗《まさむね》が賊徒《ぞくと》に通《つう》じた檄文《げきぶん》を示《しめ》した。政宗《まさむね》は別《べつ》に一|紙《し》を寫《うつ》して、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、其《そ》の對照《たいせう》を請《こ》うた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を並《なら》べ見《み》て、如何《いか》にも同《どう》一|手蹟《しゆせき》たるの看《かん》をなした。然《しか》るに政宗《まさむね》は辯《べん》じて曰《いは》く、是《こ》れ某《それがし》の祐筆《いうひつ》たりし者《もの》の僞作《ぎさく》に拘《かゝ》る、其《そ》の證據《しようこ》は某《それがし》の用《もち》ひる花押《くわおふ》は、皆《み》な鶺鴒《せきれい》の状《じやう》を做《な》して居《を》る、而《しか》して軍事《ぐんじ》に關《くわん》する文書《ぶんしよ》には皆《み》な眼孔《がんこう》がある。然《しか》るに此《こ》の文書《ぶんしよ》にはそれがない。是《こ》れ則《すなは》ち僞作《ぎさく》の證據《しようこ》であると。秀吉《ひでよし》は政宗《まさむね》と平生《へいぜい》往復《わうふく》する諸侯《しよこう》より、若干《じやくかん》の文書《ぶんしよ》を徴《ちよう》して見《み》るに、果《はた》して何《いづ》れも其《そ》の通《とほ》りであつた。それで秀吉《ひでよし》は、其《そ》の辯明《べんめい》を聞《き》き入《い》れた。〔藩祖成績〕[#「〔藩祖成績〕」は1段階小さな文字]
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》は、果《はた》して此《かく》の如《ごと》き小兒欺《こどもだま》しの辯明《べんめい》にて、滿足《まんぞく》したのであらう乎《か》。或《あるひ》は英雄《えいゆう》の微權《びけん》にて、政宗《まさむね》の前科《ぜんくわ》を看過《かんくわ》したのであらう乎《か》。秀吉《ひでよし》は征韓《せいかん》の役《えき》に、名護屋《なごや》の陣中《ぢんちゆう》にて、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》が、頻《しき》りに政宗《まさむね》の事《こと》を獎譽《しやうよ》したのを聞《き》き、汝《なんぢ》は定《さだ》めて伊達《だて》の委囑《いしよく》を受《う》けて、斯《か》く言説《げんせつ》するであらう。彼《かれ》は本來《ほんらい》野心《やしん》ある男《をのこ》で、屡《しばし》ば氏郷《うぢさと》を討《う》たんと企《くはだ》てたが、氏郷《うぢさと》大剛《だいがう》の士《し》にて、其《そ》の隙間《すきま》なく、會釋《ゑしやく》した爲《た》め、悉《こと/″\》く仕損《しそん》じた顛末《てんまつ》は、我《われ》は熟知《じゆくち》して居《を》る。されど近《ちか》くは海外《かいぐわい》の役《えき》もあり、彼《かれ》をして恩《おん》に感《かん》じ、殊功《しゆこう》を立《た》てゝ前科《ぜんくわ》を償《つぐな》はしめんと思《おも》ひ、且《か》つは西國《さいこく》の毛利《まうり》、島津等《しまづら》、一|度《たび》敵《てき》となりたるもの共《ども》の思《おも》ふ手前《てまへ》もありて、赦免《しやめん》したものぞ。然《しか》るを其《そ》の曲折《きよくせつ》を知《し》らず、斯《か》く獎薦《しやうせん》するは、何事《なにごと》ぞと、大《おほ》いに機嫌《きげん》を損《そん》じたと云《い》ふ。〔會津四家合考〕[#「〔會津四家合考〕」は1段階小さな文字]是《こ》れ或《あるひ》は、秀吉《ひでよし》の心事《しんじ》を忖度《そくたん》して、其《そ》の七八を得《え》たものではあるまい乎《か》。
要《えう》するに秀吉《ひでよし》の政宗《まさむね》に於《お》ける、恰《あだか》も孔明《こうめい》の孟獲《まうくわく》に於《お》けるが如《ごと》く、七|擒《きん》七|縱《しよう》の概《がい》があつた。彼《かれ》は政宗《まさむね》を厚遇《こうぐう》し、淺野幸長《あさのよしなが》をして、其《そ》の第《てい》を聚樂《じゆらく》に作《つく》らしめた。
[#ここから1字下げ]
一 今度之御上洛《このたびのごじやうらく》、さり共《とも》大事之境《だいじのさかひ》にて候處《さふらふところ》に、|不[#レ]移[#二]時日[#一]《じじつをうつさず》、御登之儀《おのぼりのぎ》、|無[#二]比類[#一]之由《ひるゐなきのよし》、日本《につぽん》の諸侍《しよざむらひ》、京中《きやうちゆうの》僧俗《そうぞく》町人《ちやうにん》以下迄《いかまで》も、感申儀《かんじまをすぎ》|不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》。|於[#二]武功[#一]《ぶこうにおいては》天下《てんか》に無双由《むさうのよし》、褒美申事《はうびまをすこと》|不[#二]尋常[#一]候《じんじやうならずさふらふ》。
一 御屋敷《おやしき》|被[#レ]遣《つかはされ》、剩《あまつさへ》淺野左京大夫樣《あさのさきやうだいふさま》に|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、若狹《わかさ》の衆《しゆう》三千|人計《にんばかり》にて、唯今《たゞいま》御普請《ごふしん》專候《もつぱらにさふらふ》。屋形樣《やかたさま》(政宗)[#「(政宗)」は1段階小さな文字]御屋敷之次《おやしきのつぎは》、山形殿《やまがたどの》(最上義光)[#「(最上義光)」は1段階小さな文字]御屋敷《おやしき》にて候《さふらふ》。是《これ》は纔《わづか》二三百|人分《にんぶん》にて普請《ふしん》にて候《さふらふ》、物之哀成體《もののあはれなるてい》に候《さふらふ》。
一 諸侍《しよざむらひ》京中《きやうちゆう》より進上《しんじやう》捧物《さゝげもの》、日々《にち/\》夜々《やゝ》|不[#レ]知[#二]其數[#一]候《そのかずをしらずさふらふ》。|于[#レ]今《いまに》|無[#二]止事[#一]候《やむことなくさふらふ》。|如[#レ]此之御出頭《かくのごときのごしゆつとう》、以前《いぜん》安藝宰相殿《あきさいしやうどの》(毛利輝元)[#「(毛利輝元)」は1段階小さな文字]上洛《じやうらく》以來《いらい》|無[#レ]之由《これなきよし》風聞候《ふうぶんさふらふ》。少々《せう/\》それにも過候《すぎさふらふ》べく候由《さふらふよし》、其唱《そのとなへ》にて候《さふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは天正《てんしやう》十九|年《ねん》二|月《ぐわつ》廿九|日附《にちづけ》、在京《ざいきやう》なる鈴木新兵衞《すゞきしんべゑ》が、在國《ざいこく》せる石母田景頼《いしもだかげより》に與《あた》へた書中《しよちゆう》の一|節《せつ》だ。固《もと》より誇張《くわちやう》も、法螺《ほら》も加《くは》はつて居《を》るものに相違《さうゐ》ないが、大體《だいたい》に於《おい》て、政宗《まさむね》上洛後《じやうらくご》の模樣《もやう》が判知《わか》る。

[#5字下げ][#中見出し]【七七】正宗の殊功[#中見出し終わり]

東北《とうほく》の一|揆《き》は、氏郷《うぢさと》、政宗等《まさむねら》の討伐《たうばつ》の爲《た》めに、一|時《じ》散奔《さんぽん》したが、然《しか》も彼等《かれら》兩人《りやうにん》の軋轢《あつれき》の爲《た》めに、拔本的《ばつぽんてき》に討平《たうへい》するを得《え》ず、其《そ》の儘《まゝ》に經過《けいくわ》した。九戸政實《くのへまさざね》は、天正《てんしやう》十八|年《ねん》九|月《ぐわつ》、蒲生氏郷《かまふうぢさと》、淺野長政《あさのながまさ》、伊達政宗《だてまさむね》、木村清久等《きむらきよひさら》の爲《た》めに攻《せ》められ、降服《かうふく》したが。秀吉《ひでよし》は其《そ》の侵地《しんち》を、舊主《きうしゆ》南部信直《なんぶのぶなほ》に返還《へんくわん》を命《めい》じて、彼《かれ》を宥《ゆる》した。
然《しか》るに政實《まさざね》は天正《てんしやう》十九|年《ねん》三|月《ぐわつ》、又《ま》た、謀反《むほん》し、葛西《かさい》、大崎《おほさき》、及《およ》び上杉領《うへすぎりやう》なる莊内《しやうない》の一|揆《き》を煽動《せんどう》し、再《ふたゝ》び奧羽《あうう》に波瀾《はらん》を捲《ま》き起《おこ》した。信直《のぶなほ》は之《これ》を討伐《たうばつ》したが、頗《すこぶ》る其《そ》の手《て》に餘《あま》りたれば、四|月《ぐわつ》其《そ》の子《こ》利直《としなほ》を上京《じやうきやう》せしめて、急《きふ》を秀吉《ひでよし》に告《つ》げた。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の心《こゝろ》は、既《すで》に海外遠征《かいぐわいゑんせい》にあつた。然《しか》も國内《こくない》の斯《かく》の如《ごと》き騷擾《さうぜう》あるを、安《やす》からぬ事《こと》に思《おも》ひ、今度《こんど》は豐臣秀次《とよとみひでつぐ》、徳川家康《とくがはいへやす》、上杉景勝等《うへすぎかげかつら》を催《もよほ》し、又《ま》た氏郷《うぢさと》、政宗等《まさむねら》を先鋒《せんぽう》として、其《そ》の禍根《くわこん》を殄滅《てんめつ》せしむ可《べ》く嚴命《げんめい》した。
政宗《まさむね》の在京《ざいきやう》は、苦《く》もあり、樂《らく》もあつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》より一|揆《き》と内通《ないつう》に關《くわん》する糾問《きうもん》を受《う》けた。又《ま》た葛西《かさい》、大崎《おほさき》を與《あた》ふる代《かは》りに、會津附近所領《あひづふきんしよりやう》召上《めしあげ》の内諭《ないゆ》をも受《う》けた。然《しか》も又《ま》た秀吉《ひでよし》より尋常《じんじやう》ならぬ優遇《いうぐう》をも受《う》けた。彼《かれ》が聚樂第《じゆらくだい》の建築《けんちく》は勿論《もちろん》、或《あるひ》は彼《かれ》が妙覺寺《めうかくじ》の旅館《りよくわん》にて、茶湯《ちやのゆ》の會《くわい》ありと聞《き》いて、數寄道具《すきだうぐ》を賜《たま》ひ、或《あるひ》は秀吉《ひでよし》宇治《うぢ》の遊覽《いうらん》に陪伴《ばいはん》し、或《あるひ》は從《じゆ》四|位下《ゐげ》に叙《じよ》し、侍從《じじゆう》に任《にん》じ、羽柴氏《はしばし》を賜《たま》うた。
而《しか》して五|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、一|揆《き》討伐《たうばつ》の命《めい》を受《う》けて、彼《かれ》は歸國《きこく》した。彼《かれ》の生還《せいくわん》は彼《かれ》に取《と》りては、或《あるひ》は望外《ばうぐわい》であつたとも云《い》ひ得《え》らるゝ。彼《かれ》は決心《けつしん》した、今度《こんど》此《こ》の節《せつ》は双肩《もろかた》脱《ぬ》いで、殊功《しゆこう》を立《た》つ可《べ》く。されば彼《かれ》は秀次《ひでつぐ》、家康等《いへやすら》の東下《とうか》を待《ま》たず、米澤《よねざは》に還《かへ》るや否《いな》や、將士《しやうし》を集《あつ》めて、軍議《ぐんぎ》を凝《こ》らし、六|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》には宮崎城《みやざきじやう》を屠《ほふ》り、七|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》には佐沼城《さぬまじやう》を拔《ぬ》いた。秀吉《ひでよし》は直《たゞ》ちに感状《かんじやう》を與《あた》へて、之《これ》を賞《しやう》した。
[#ここから1字下げ]
大崎内《おほさきうち》宮崎城《みやざきじやう》[#(仁《に》)]一揆原《いつきばら》楯籠候之處《たてこもりさふらふのところ》、城主《じやうしゆ》を初《はじめ》悉《こと/″\く》|令[#二]成敗[#一]《せいばいせしめ》、|捕[#二]首數百[#一]《くびすひやくをとりて》相添《あひそへ》注文差上候《ちゆうもんさしあげさふらふ》。誠《まことに》下著以來《げちやくいらい》|無[#レ]程候處《ほどなくさふらふところ》、早々《さう/\》相働《あひはたらき》|如[#レ]此之段《かくのごときのだん》、神妙《しんめう》に|被[#二]思食[#一]候《おぼしめされさふらふ》。併《しかし》其方事《そのはうこと》天下之外聞《てんかのぐわいぶん》尤候《もつともにさふらふ》。右通《みぎのとほり》にて候者《さふらはゞ》、其表之儀《そのおもてのぎ》|雖[#下]可[#二]相濟[#一]候[#上]《あひすむべくさふらふといへども》。|向後之爲[#二]仕置[#一]《きやうごのしおきのため》、尾州中納言《びしうちゆうなごん》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]|被[#二]差越[#一]儀《さしこされしぎ》に候條《さふらふでう》、家康《いへやす》同前《どうぜん》に相談《あひだんじ》、|無[#二]殘所[#一]《のこるところなく》入念《じゆねんし》、出羽《では》奧州果《あうしうのはて》端々迄《はし/″\まで》、置目等之事《おきめとうのこと》堅《かたく》|可[#二]申付[#一]候《まをしつくべくさふらふ》。猶《なほ》山中橘内《やまなかきつない》、木下半介《きのしたはんすけ》|可[#レ]申候也《まをすべくさふらふなり》。
  七月十七日
[#地から2字上げ]秀吉(朱印)
[#地から1字上げ]〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは宮崎城《みやざきじやう》に對《たい》する感状《かんじやう》だ。
[#ここから1字下げ]
去《さる》三|日《かの》注進状《ちゆしんじやう》、今月《こんげつ》廿|日《か》到來《たうらい》、|加[#二]披見[#一]候《ひけんをくはへさふらふ》。
下著以來《げちやくいらい》|無[#二]餘日[#一]之處《よじつなきのところ》、早々《さう/\》|至[#二]大崎表[#一]《おほさきおもてにいたり》相働《あひはたらき》、宮崎之城《みやざきのしろ》責崩《せめくづし》。|自[#二]其陣[#一]《そのぢんより》佐沼城《さぬまじやう》へ押詰《おしつめ》、即《すなはち》責崩《せめくづし》、物主《ものぬし》彦《ひこ》九|郎《らう》、二千|餘《よ》討捕之儀《うちとるのぎ》、神妙《しんめうに》思食候《おぼしめしさふらふ》。天下外聞《てんかのぐわいぶん》、其方爲《そのはうのため》尤候《もつともにさふらふ》。彌《いよ/\》|不[#レ]取[#二]越度[#一]之樣《おちどをとらざるのやう》申付《まをしつけ》、|可[#レ]抽[#二]戰功[#一]《せんこうをぬきんずべく》肝要候《かんえうにさふらふ》。猶《なほ》淺野左京大夫《あさのさきやうだいふ》、木下半介《きのしたはんすけ》|可[#レ]申候也《まをすべくさふらふなり》。
  七月廿日
[#地から2字上げ]秀吉(朱印)
[#地から1字上げ]〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは佐沼城《さぬまじやう》に對《たい》する感状《かんじやう》だ。兎《と》に角《かく》政宗《まさむね》の働《はたら》きは、目覺《めざま》しかつた。流石《さすが》に秀吉《ひでよし》は活眼《くわつがん》だ。此《こ》の獨眼《どくがん》の梟雄《けうゆう》を甘《うま》く操縱《さうじゆう》して、能《よ》く其《そ》の腕前《うでまへ》を發揮《はつき》せしめた。而《しか》して如何《いか》に其《そ》の印象《いんしやう》を、天下《てんか》に與《あた》へたかは、淺野幸長《あさのよしなが》が、
[#ここから1字下げ]
尚以《なほもつて》葛西《かさい》、大崎之事《おほさきのこと》は、貴殿太刀風《きでんのたちかぜ》に恐《おそれ》、|無[#二]殘所[#一]《のこるところなく》相濟候《あひすみさふらふ》。尾州中納言殿《びしうちゆうなごんどの》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]同《おなじく》家康《いへやす》|雖[#二]出陣之事に候[#一]《しゆつぢんのことにさふらふといへども》、|如[#レ]此《かくのごとく》に御手間《おてま》も|不[#レ]入候《いらずさふら》へば、御仕置等迄《おしおきとうまで》と存候事《ぞんじさふらふこと》に候《さふらふ》。〔七月廿日附、伊達家文書〕[#「〔七月廿日附、伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》うたので想像《さうざう》せらるゝ。
惟《おも》ふに奧羽《あうう》の平定《へいてい》は、政宗《まさむね》、氏郷《うぢさと》、及《およ》び淺野長政等《あさのながまさら》で澤山《たくさん》だ。秀次《ひでつぐ》、家康《いへやす》の東下《とうか》は、殆《ほとん》ど其《そ》の必要《ひつえう》はない。然《しか》もそれにも拘《かゝは》らず、尚《な》ほ斯《か》くなしたのは、秀吉《ひでよし》の感状中《かんじやうちゆう》にも、特《とく》に理《ことわ》りてある如《ごと》く、再《ふたゝ》び此《こ》の方面《はうめん》の騷擾《さうぜう》の生《しやう》ぜざる樣《やう》、徹底的《てつていてき》の仕置《しおき》を做《な》さしむ可《べ》きのためであつた事《こと》と思《おも》はるゝ。
此《こ》の事《こと》たるや、家康《いへやす》一|人《にん》にて、其《そ》の力《ちから》餘《あま》りあるに、何故《なにゆゑ》に特《とく》に秀次《ひでつぐ》を加《くは》へたのであらう乎《か》。それは所謂《いはゆ》る國《くに》の大器《たいき》は、濫《みだ》りに人《ひと》に與《あた》ふ可《べ》からざる的《てき》の機心《きしん》が、秀吉《ひでよし》をして故《ことさ》らに斯《か》く做《な》さしめたのであらう。關以東《くわんいとう》を擧《あ》げて、家康《いへやす》に一|任《にん》するは、決《けつ》して秀吉《ひでよし》の本志《ほんし》でなかつた。秀吉《ひでよし》は南部《なんぶ》、津輕《つがる》は愚《おろ》か、松前《まつまへ》の端《はし》より薩摩《さつま》の端迄《はしまで》、自《みづ》から直接《ちよくせつ》に支配《しはい》す可《べ》く企《くはだ》てた。秀次《ひでつぐ》を特派《とくは》したのは、彼《かれ》の代表者《だいへうしや》としてゞある。世《よ》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》を關東《くわんとう》に封《ほう》じたるを以《もつ》て、足利氏《あしかゞし》が、鎌倉公方《かまくらくばう》を措《お》いて、關以東《くわんいとう》の政治《せいぢ》を一|任《にん》したと同《どう》一|視《し》するものあるが、それは全《まつた》く秀吉《ひでよし》の本志《ほんし》ではなかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【七八】東北の亂平ぐ[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》が蒲生《がまふ》と伊達《だて》とを、隣境《りんきやう》に据《す》ゑ置《お》いたのは、信長《のぶなが》が佐々《さつさ》と前田《まへだ》とを北陸《ほくろく》に、秀吉《ひでよし》が肥後《ひご》の南北《なんぼく》に、小西《こにし》と加藤《かとう》とを並《なら》べ封《ほう》じたる如《ごと》く、自《おのづ》から微妙《びめう》の機關《からくり》があつたのだ。蒲生《がまふ》の一|身《しん》は、總《すべ》て是《こ》れ負《ま》けじ魂《だましひ》の權化《ごんげ》であつた。彼《かれ》は爭《いか》でか政宗《まさむね》のみに、功《こう》を專《もつぱ》らにせしむ可《べ》き。彼《かれ》は天正《てんしやう》十九|年《ねん》六|月《ぐわつ》、政宗《まさむね》と前後《ぜんご》して、京都《きやうと》より會津《あひづ》に下《くだ》つた。而《しか》して直《たゞ》ちに、一|揆《き》討伐《たうばつ》の準備《じゆんび》をした。
今《い》ま彼《かれ》が家中《かちゆう》へ法度《はつと》として、觸《ふ》れさせたるものを見《み》るに。
[#ここから1字下げ]
   法度《はつと》條々《でう/\》
一 備々《そなへ/\》の者共《ものども》、他《た》の備《そな》へ一|切《さい》|不[#レ]可[#レ]交事《まじるべからざること》。
一 武者押之間《むしやおしのあひだ》に、道通《みちどほり》の家《いへ》へ一|切《さい》はいる間敷事《まじきこと》。
一 用所《ようしよ》|不[#二]申付[#一]者《まをしつけざるもの》、上下《じやうげ》に|不[#レ]依《よらず》|不[#レ]可[#二]脇道[#一]事《わきみちすべからざること》。
一 宿《やど》取遣間敷事《とりやりすまじきこと》。[#(並)]|宿奉行次第《やどぶぎやうしだい》に|可[#二]請取[#一]事《うけとるべきこと》。
一 武者押之間《むしやおしのあひだ》に、馬上《ばじやう》下々《しも/″\》鑓持等《やりもちとう》に至迄《いたるまで》|不[#レ]可[#二]高聲高雜談[#一]事《たかごゑたかざふだんすべからざること》。
一 鳥類《てうるゐ》畜類《ちくるゐ》走《はし》り出《いづ》と云共《いへども》、高聲《たかごゑ》をし、一|切《さい》に|不[#レ]可[#二]追廻[#一]事《おひまはすべからざること》。
一 武者押《むしやおし》の間《あひだ》に、高笑《たかわらひ》上下共《じやうげとも》にすべからざる事《こと》。
一 喧嘩《けんくわ》口論《こうろん》仕《つかまつ》る者《もの》、双方《さうはう》理非《りひ》に|不[#二]立入[#一]《たちいらず》|可[#二]曲事[#一]事《きよくじたるべきこと》。
一 |於[#二]野陣[#一]者《のぢんにおいては》、一|夜《や》の陣《ぢん》たりと云《いへ》ども、柵《さく》を|可[#レ]振事《ふるべきこと》。
一 武者押《むしやおし》の早《はや》さ、太鼓次第《たいこしだい》たるべし。留太鼓《とめだいこ》能《よく》聞候而《きゝさふらうて》、田《た》の中《なか》、川《かは》の中《なか》、橋《はし》の上《うへ》たりと云《いへ》ども、|可[#二]踏止[#一]事《ふみとまるべきこと》。
一 先手《さきて》何《いづ》れの備《そなへ》にて、手《て》に相《あふ》(逢)[#「(逢)」は1段階小さな文字]と云《いへ》ども、勝負《しようぶ》に|不[#レ]依《よらず》、|無[#二]下知[#一]以前《げちなきいぜん》に助候事《たすけさふらふこと》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]事《きよくじたるべきこと》。
 一 城攻《しろぜめ》、合戰《かつせん》、足輕等《あしがるとう》に至迄《いたるまで》、|下知不[#二]申付[#一]以前《げちまをしつけざるいぜん》に、武篇《ぶへん》を取結《とりむす》び候《さふら》はゞ、堅《かた》く|可[#二]申付[#一]事《まをしつくべきこと》。
一 馬《うま》取放《とりはな》し候者《さふらふものは》|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]事《きよくじたるべきこと》。
一 火《ひ》を出《いだ》す者《もの》|可[#二]成敗[#一]《せいばいすべく》、捕《とら》へ逃《にが》し候《さふら》はゞ解死人《げしにん》を|可[#レ]引事《ひくべきこと》。[#(並)]|不[#レ]可[#二]陣拂[#一]事《ぢんばらひすべからざること》。
一 羽織《はおり》猩々皮《せう/″\ひ》の外《ほか》は、指物《さしもの》指候《さしさふら》はぬ者《ものは》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]事《きよくじたるべきこと》。[#(付)]鑓印《やりじるし》一|手《て》/\思《おも》ひ/\の事《こと》。
 以上《いじやう》
  七月十三日(天正十九年)[#「(天正十九年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]氏郷(判)
[#地から1字上げ]〔氏郷記〕[#「〔氏郷記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れを見《み》れば、如何《いか》に當時《たうじ》の軍紀《ぐんき》が緊肅《きんしゆく》せられ、軍法《ぐんぱふ》が嚴密《げんみつ》となつたかゞ判知《わか》る。北條《ほうでう》五|代記《だいき》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
軍法《ぐんぱふ》兵略《へいりやく》も、後代《こうだい》に至《いたつ》て、いよ/\嚴重《げんぢゆう》なりと云《い》へり。北條《ほうでう》の侍《さむらひ》に、大石平次兵衞《おほいしへいじべゑ》と云者《いふもの》、一|首《しゆ》を詠《えい》ず。
 樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《はんくわい》を欺《あざむ》く武者《むしや》を集《あつめ》ても、下知《げち》につかずば、餓鬼《がき》に劣《おと》れり。
とよみけるを、氏政《うぢまさ》聞及《きゝおよ》び給《たま》ひ。彼《かれ》は一|方《ぱう》の大將《たいしやう》とすべき者也《ものなり》と、御感《ぎよかん》有《あつ》て、足輕《あしがる》百|人《にん》預《あづ》け給《たま》ひければ、愈《いよい》よ此《こ》の法度《はつと》を、諸侍《しよざむらひ》信《しん》じき。
[#ここで字下げ終わり]
とあり。氏郷《うぢさと》が上記《じやうき》の如《ごと》き法度《はつと》を布《し》いたのも、以《もつ》て時勢《じせい》の變遷《へんせん》を卜《ぼく》す可《べ》きだ。氏郷《うぢさと》は一|足飛《そくと》びに、大封《たいほう》に有《あ》り附《つ》きたれば、其《そ》の家來《けらい》を抱《かゝ》へるにも、破格《はかく》の知行《ちぎやう》を出《いだ》し、唯《た》だ一|人《にん》にても、善士《ぜんし》を得《え》ざらんことを恐《おそ》れた程《ほど》の熱心《ねつしん》であつた。されば彼等《かれら》を制馭《せいぎよ》するには、別《べつ》して其《そ》の法度《はつと》が必要《ひつえう》であつた。然《しか》も彼《かれ》が九戸政實《くのへまさざね》の本城《ほんじやう》糠部《ぬかべ》を攻《せ》むるに際《さい》し、關東侍《くわんとうざむらひ》は、屡《しばし》ば其《そ》の節度《せつど》に違《たが》ひたれば、
[#ここから1字下げ]
氏郷《うぢさと》所詮《しよせん》關東《くわんとう》の奴等程《やつらほど》、法度《はつと》を|不[#レ]聞《きかざる》はなしとて、關東侍共《くわんとうざむらひども》をば、一|人《にん》も|不[#レ]殘《のこらず》暇《ひま》を|被[#レ]出《いだされ》けり。〔氏郷記〕
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ふことである。
扨《さて》も氏郷《うぢさと》は九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》に、九戸政實《くのへまさざね》の脇城《わきじろ》にして、一戸《いちのへ》にある穴田井《あなたゐ》を陷《おとしい》れ、續《つい》で其《そ》の附近《ふきん》なる根曾利城《ねぞりじやう》を取《と》り。更《さ》らに淺野長政《あさのながまさ》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》、徳川家康《とくがはいへやす》の先鋒《せんぽう》、井伊直政《ゐいなほまさ》、其《そ》の他《た》南部信直《なんぶのぶなほ》、津輕爲信《つがるためのぶ》、秋田實季《あきたさねすゑ》、小野寺義道《をのでらよしみち》、最上義正《もがみよしまさ》(義光の族)[#「(義光の族)」は1段階小さな文字]仁賀保擧誠《にかほたかのぶ》、及《およ》び松前城主《まつまへじやうしゆ》松前慶廣等《まつまへよしひろら》と共《とも》に、政實《まさざね》を福岡城《ふくをかじやう》に攻《せ》めた。
政實《まさざね》は淺野長政《あさのながまさ》の陣《ぢん》に就《つい》て降《かう》を乞《こ》うて曰《いは》く、若《も》し南部信直《なんぶのぶなほ》の所領《しよりやう》を、從前通《じゆうぜんどほ》り全《まつた》うし給《たま》はゞ、開城《かいじやう》せんと。長政《ながまさ》之《これ》を許《ゆる》し、九戸政實《くのへまさざね》、及《およ》び櫛引河内《くしびきかはち》を赦《ゆる》し、城兵《じやうへい》數《す》百|人《にん》を、城樓《じやうろう》に追《お》ひ上《あ》げ、悉《こと/″\》く之《これ》を燒《や》き殺《ころ》した。而《しか》して長政《ながまさ》は政實等《まさざねら》を具《ぐ》して、三迫《さんせこ》に抵《いた》り、秀次《ひでつぐ》に謁《えつ》したが、秀次《ひでつぐ》は長政《ながまさ》が、秀次《ひでつぐ》の至《いた》るを俟《ま》たず、其《そ》の恣《ほしいまゝ》に賊魁《ぞくくわい》を赦《ゆる》したるを瞋《いか》り、之《これ》を殺《ころ》さしめた。〔續本朝通鑑〕[#「〔續本朝通鑑〕」は1段階小さな文字]此《こゝ》に於《おい》て東北《とうほく》の亂《らん》は全《まつた》く平《たひら》いだ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]九戸福岡城沒落の事
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
翌日廿三日に、九戸が本城糠部の城へ抑寄せらる。其日の先手は、蒲生左文郷可竝に後備の衆なり。是は昨日、先手の衆根曾利、穴田井の合戰に粉骨を盡せし故に、後備と入替へられたり。其外淺野彈正少弼長政、石田冶部少輔三成等、押寄せらる。秀次卿は、堀尾帶刀を先手とし、諸軍の命を司つて上目に陣取り給ふ。國衆には、南部大膳大夫、津輕越中守、松前志摩守を大將として、數萬の軍兵、九戸の城を取圍み、弓、鐵炮、矢叫びの音、天地に響きて夥し。蒲生家の者共は、輪貫の旗を指し、同輪貫の立物なり。時に松前志摩守は、毒矢を射させん爲めに、夷人を少々召連れらる。彼等は皆頭に半弓をはめ、矢をば箙に負ひたり。其形は人類なりしが、全身に毛生ひ、牛の如くなり。扨諸將會合して、軍評定ありしは、此城急に攻めば、一旦にも落すべけれども、諸勢多く損ぜば、無益なり。緩々之を攻めんとて、取圍んで陣を取り、小屋を懸けて遠攻めに、弓、鐵炮にて攻むる計りにし、さして軍はなかりけり。氏郷、陣中へ令を出せしは、馬を取放つ事、喧嘩、高聲、援掛等を制せらる。其法嚴密なるに、關東武士共、新參者にて、しか/″\と其法を知らずやありけん、拔懸けして高名し、感賞に預らんとや思ひけん。二騎連れて、堀際まで進みけるを、軍奉行、横目共見て氏郷へ告げければ、志は勇なれども、法を破る物なれば、不便ながら切腹させよと申付けらる。彼の兩人之を聞いて、津輕越中守小屋へ遁れけるを、押寄せて腹を切らせけり。其後本間丹波守と、關東武士と口論を仕出しければ、氏郷、所詮關東者は、無禮にして、國法をも用ひざればとて、關東武士をば、殘らず暇を出されけり。此本間丹波守は、本佐竹義宣に仕へて、隱なき勇士なりしが、後に蒲生左文を頼んで、扶助を受けしとかや。斯くて味方の軍兵共稻麻竹葦の如く、圍み攻めしかば、縱ひ九戸鬼神にて、城にて鐵網を張りたりとも、拒ぐべしとは見えざりける。九月中旬までは、城を守りて怺へたりしが、次第に兵糧盡きて、矢種、玉藥も絶えければ、九戸勇力盡きて、降參を乞ひ、命を助けられば、城を開いて渡さんと申しければ、其請に從つて、九戸をば出され、其外の者共をば、本城を開いて、二の丸へ追入れ、四方より火を放ちて燒殺しけり。落行かんとする者をば、皆討取りける。九戸が妻も漸々と逃出でしが、土をも蹈まず、歩みも習はぬ者なれば、此彼《こゝかしこ》に徘徊せしを、人々見付けて、金銀を探り取り、遂に首を刎ねて、骸は路徑に横はれり。子息も年十二三計りにて、未だ童形にて、美しき兒なりしが、此も生捕りにし、氏郷の手へ來りしを、外池甚五左衞門、承つて害せしむ。外池馬に乘りて、彼兒を人に掻負はせ、先きに立てゝ行きければ、見る人、是は女の虜かと、謂ひ見る處に、町中にて外池從者に目くばせして、其|下《おろ》して歩ませよと、いひければ、下しけり。彼兒二足、三足行く處を、外池が郎等、後より太刀拔くよと見えしが、首は前にぞ落ちにける。其首を持たせて行く。跡にて下※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]共、彼の死骸の衣類などを剥取りて、溝の中へ蹈込み、捨てし有樣、涙を流さずといふものなし。九戸が弟も、命を乞うて、城を出でけるを、二の丸迄出し、鐵炮にて打殺す。其外老若男女泣き悲しむ聲、天地に響きて、哀れなりし有樣なり。扨彼夷人を氏郷召して、酒を給はりければ、盃の上に箸を一膳載せて、酒を受け、其箸を以て立ち、色々の舞を舞ひ、髮を掻上げて飮みける。其後、暇を給はつてけり。此城既に打從へて、平均になりしかば、加勢の諸大將、皆上洛し給ふ。〔蒲生軍紀〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【七九】蒲生伊達の加除[#中見出し終わり]

奧羽《あうう》の亂《らん》平《たひら》ぐや、秀吉《ひでよし》は命《めい》を秀次《ひでつぐ》に傳《つた》へ、政宗《まさむね》の上下長井《じやうげながゐ》二|郡《ぐん》、仙道《せんだう》五|郡《ぐん》―刈田《かつた》、伊達《だて》、信夫《しのぶ》、鹽松《しほのまつ》、田村《たむら》―を收《をさ》めて、氏郷《うぢさと》に加賜《かし》し、政宗《まさむね》を葛西《かさい》八|郡《ぐん》、登米《とよま》、桃生《もゝふ》、牡鹿《をが》、本吉《もとよし》、氣仙《けせん》、江刺《えさし》、膽澤《ゐざは》、磐井《いはゐ》(今東西)[#「(今東西)」は1段階小さな文字]―大崎《おほさき》五|郡《ぐん》―志田《しだ》、遠田《とほだ》、加美《かみ》、栗原《くりはら》、玉造《たまつくり》に徙《うつ》した。而《しか》して北仙道《ほくせんだう》の六|郡《ぐん》―黒川《くろかは》、宮城《みやぎ》、名取《なとり》、亘理《わたり》、柴田《しばた》、伊具《いぐ》―は舊《きう》に仍《よ》れば、其《そ》の領地《りやうち》は合《がつ》して、五十八|萬石《まんごく》となつた。木村吉清《きむらよしきよ》は、其《そ》の領土《りやうど》を褫《うば》はれ、五|萬石《まんごく》にて、氏郷《うぢさと》の與力《よりき》となつた。而《しか》して氏郷《うぢさと》は九十一|萬《まん》九千|石《ごく》と云《い》ひ、或《あるひ》は百二十|萬石《まんごく》と云《い》ひ、何《いづ》れにしても儼然《げんぜん》たる東北《とうほく》の雄鎭《ゆうちん》となつた。
抑《そもそ》も政宗《まさむね》の移封《いほう》は寢耳《ねみゝ》に水《みづ》ではなかつた。そは天正《てんしやう》十九|年《ねん》二|月《ぐわつ》九|日附《かづけ》にて、彼《かれ》が京都《きやうと》より二|本松《ほんまつ》に在《あ》る、淺野長政《あさのながまさ》への書状中《しよじやうちゆう》に、
[#ここから1字下げ]
仍《なほ》我等《われら》には葛西《かさい》、大崎《おほさき》|被[#二]下置[#一]候《くだしおかれさふらふ》。|因[#レ]之《これにより》會津《あひづ》近邊《きんぺん》を、五|郡《ぐん》、上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]へ|可[#レ]令[#二]進上[#一]由《しんじやうせしむべきよし》、|被[#二]仰出[#一]候間《おほせいだされさふらふあひだ》、尤《もつとも》何篇《なんべん》尊意《そんい》次第之由《しだいのよし》申上候《まをしあげさふらふ》。|進上可[#レ]申所《しんじやうまをすべきところ》、會津小將殿《あひづせうしやうどの》(蒲生氏郷)[#「(蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]御抱《おかゝへ》近邊《きんぺん》に候間《さふらふあひだ》、
一、田地《たむら》 一、鹽松《しほのまつ》 一、信夫《しのぶ》 一、小野《をの》六 一、小手《こて》
此通《かくのとほり》に候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。小野《をの》六とは小野《をの》六|郷《がう》の事《こと》だ。併《しか》し注意《ちゆうい》す可《べ》きは、此《こ》の中《うち》に上下長井兩郡《じやうげながゐりやうぐん》が除《のぞ》かれて居《ゐ》る事《こと》だ。政宗《まさむね》は尚《な》ほ米澤附近《よねざはふきん》の二|郡《ぐん》は、收公《しうこう》せられざるつもりであつた。然《しか》るに爾後《じご》容子《ようす》は彌《いよい》よ怪《あや》しくなつて來《き》た。されば彼《かれ》は淺野正勝《あさのまさかつ》に依《よ》りて、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》に向《むか》つて運動《うんどう》した。
[#ここから1字下げ]
一 中納言樣《ちゆうなごんさま》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]家康《いへやす》主《ぬし》二|本松《ほんまつ》御著候《ごちやくにさふらふ》。然處《しかるところ》郡分《こほりわ》け之儀《のぎ》、先度《せんど》御諚《ごぢやう》は葛西《かさい》、大崎《おほさき》、去年《きよねん》御檢地《ごけんち》|被[#二]仰付[#一]候間《おほせつけられさふらふあひだ》、其半分《そのはんぶん》御檢地《ごけんち》あつて、會津《あひづ》へ|可[#レ]被[#レ]遣趣《つかはさるべきおもむき》、御兩所樣《ごりやうしよさま》御内意之樣《ごないいのやう》に、承候《うけたまはりさふらふ》。只今之儀《たゞいまのぎ》は、葛西《かさい》、大崎《おほさき》拾三|郡候之間《ぐんにさふらふのあひだ》、六|郡半《ぐんはん》會津《あひづ》へ近《ちか》き所《ところ》を|可[#レ]被[#レ]遣樣《つかはさるべきやう》に風聞候《ふうぶんさふらふ》。此郡《このぐん》何《いづれ》も奧郡《おくごほり》二つ三つに懸合《かけあ》ふ郡《こほり》に候《さふらふ》。殊《ことに》米澤《よねざは》など|被[#レ]遣候《つかはされさふら》へば、一|圓《ゑん》に政宗《まさむね》進退《しんたい》|不[#二]罷成[#一]事候《まかりならざることにさふらふ》。葛西《かさい》、大崎之儀《おほさきのぎ》、罷下《まかりくだる》砌《みぎり》、|於[#二]京都[#一]《きやうとにおいて》承《うけたまはる》に相違《さうゐし》、三|分《ぶんの》一|立毛申候《たちげまをしさふらふ》。是《これ》にては何共《なんとも》彼御進退《かのごしんたい》|難[#レ]續儀共候《つゞきがたきぎどもにさふらふ》。現《ゆめ》/\|米澤之儀《よねざはのぎ》、會津《あひづ》へ|可[#二]仰付[#一]《おほせつけらるべき》に相究候《あひきはまりさふら》はゞ、責而《せめて》當年《たうねん》一|所務《しよむ》、伊達殿《だてどの》へ|被[#レ]遣候樣《つかはされさふらふやう》に、|御才覺可[#レ]被[#レ]成候事《ごさいかくなさるべくさふらふこと》。
一 田村《たむら》、鹽松《しほのまつ》、信夫《しのぶ》、伊具《いぐ》、米澤《よねざは》(長井二郡)[#「(長井二郡)」は1段階小さな文字]刈田《かつた》半分《はんぶん》參候《まゐりさふら》へば、六|郡《ぐん》半《はん》に候《さふらふ》。殘而《のこつて》柴田《しばた》、宮城《みやぎ》、黒川《くろかは》、扨又《さてまた》葛西《かさい》、大崎《おほさき》に候《さふらふ》。去年《きよねん》より今迄《いままで》、當知行之半分《たうちぎやうのはんぶん》に|被[#二]罷成[#一]候《まかりなられさふらふ》。外聞《ぐわいぶん》實儀《じつぎ》迷惑成《めいわくなる》、進退《しんたい》に|被[#レ]成候事《なられさふらふこと》。
[#地から1字上げ]〔淺野正勝の施藥院全宗に與へたる書簡の一節〕[#「〔淺野正勝の施藥院全宗に與へたる書簡の一節〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは八|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》である。政宗《まさむね》が宮崎《みやざき》、佐沼《さぬま》の兩城《りやうじやう》を攻《せ》め落《おと》し、殊功《しゆこう》を立《た》てたのも、せめては米澤丈《よねざはだけ》は、我《わ》が領内《りやうない》に保留《ほりう》したきつもりであつた。併《しか》し事實《じじつ》に於《おい》ては、此《こ》の運動《うんどう》は、無効《むかう》であつた。されば彼《かれ》は再《ふたゝ》び不平《ふへい》禁《きん》ずる能《あた》はず、蒲生《がまふ》の領地《りやうち》に、一|揆《き》を煽動《せんどう》したが、流石《さすが》に蒲生《がまふ》は、之《こ》れが機先《きせん》を制《せい》して、悉《こと/″\》く之《これ》を鎭定《ちんてい》した。〔蒲生氏郷記〕[#「〔蒲生氏郷記〕」は1段階小さな文字]而《しか》して徳川家康《とくがはいへやす》は、政宗《まさむね》の爲《た》めに、佐沼《さぬま》、岩出山《いはでやま》を築《きづ》いた。政宗《まさむね》は岩出山《いはでやま》に徙居《しきよ》した。其《そ》の後《のち》米《こめ》ヶ|袋《ふくろ》と云《い》ふ地《ち》を見立《みた》てゝ築城《ちくじやう》した。それが今《いま》の仙臺《せんだい》だ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
家康《いへやす》と秀次《ひでつぐ》とは、奧州《あうしう》高館《たかだて》、平泉《ひらいづみ》、衣川邊《ころもがはへん》の舊跡《きうせき》を巡覽《じゆんらん》し、奧羽《あうう》兩國《りやうこく》の疆域《きやうゐき》を理《をさ》め、諸般《しよはん》の制法《せいはふ》を定《さだ》めて、十|月《ぐわつ》に還《かへ》つた。
此《こ》の行《かう》秀次《ひでつぐ》は、出羽《では》の最上《もがみ》に赴《おもむ》き、家康《いへやす》は專《もつぱ》ら奧州《あうしう》の岩出山《いはでやま》に滯在《たいざい》した。而《しか》して好事家《かうずか》たる秀次《ひでつぐ》は、其《そ》の巡遊《じゆんいう》の際《さい》、平泉《ひらいづみ》に於《おい》て、秀衡《ひでひら》の納《をさ》むる所《ところ》の大藏經《だいざうきやう》を收《をさ》め、金澤《かなざは》稱名寺《しようみやうじ》に於《おい》ては、北條實時《ほうでうさねとき》の納《をさ》むる所《ところ》の藏書《ざうしよ》を收《をさ》め。足利學校《あしかゞがつかう》にては、主校《しゆかう》の僧《そう》元佶《げんてつ》を近侍《きんじ》せしめ、元佶《げんてつ》は其《そ》の藏書《ざうしよ》を携《たづさ》へて、秀次《ひでつぐ》に隨《したが》ひ、京都《きやうと》に赴《おもむ》き、相國寺《しやうこくじ》や、圓光寺《ゑんくわうじ》に住《ぢゆう》することゝなつた。爾來《じらい》足利學校《あしかゞがくかう》藏書《ざうしよ》の一|半《ぱん》は圓光寺《ゑんくわうじ》に移《うつ》つた。
氏郷《うぢさと》と政宗《まさむね》とは、相變《あひかは》らず睨合《にらみあひ》の姿《すがた》であつた。政宗《まさむね》は淺野長政《あさのながまさ》を介《かい》して、屡《しばし》ば氏郷《うぢさと》の氷解《ひようかい》を求《もと》めた。
[#ここから1字下げ]
最前以來《さいぜんいらい》、別而《べつして》忠三《ちゆうざ》(氏郷)[#「(氏郷)」は1段階小さな文字]御入魂候樣《ごじゆつこんさふらふやう》にと、貴殿樣《きでんさま》|被[#レ]仰[#二]御内意[#一]《ごないいをおほせられ》、其通《そのとほり》忠《ちゆう》三へも、霜臺《さうだい》(淺野長政)[#「(淺野長政)」は1段階小さな文字]|被[#二]仰置[#一]候《おほせおかれさふらふ》。御隣郡之儀候間《ごりんぐんのぎにさふらふあひだ》、諸色《しよしき》|被[#二]仰談[#一]《おほせだんぜられ》、御入魂《ごじゆつこん》|不[#レ]淺申候《あさからずまをしさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
とは、天正《てんしやう》十九|年《ねん》十一|月《ぐわつ》十九|日附《にちづけ》、仙石曾繁《せんごくかつしげ》より、淺野長政《あさのながまさ》の傳言《でんごん》として、政宗《まさむね》へ申《まを》し通《つう》じたる書中《しよちゆう》の一|節《せつ》だ。
併《しか》し氏郷《うぢさと》は相變《あひかは》らず、釋然《しやくぜん》たる能《あた》はなかつた。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、寧《むし》ろ此《こ》の兩雄《りやうゆう》の睨合《にらみあひ》を以《もつ》て、却《かへ》つて東北《とうほく》の治安《ちあん》を維持《ゐぢ》する所以《ゆゑん》と認《みと》めたのであらう。
[#改ページ]

 

戻る ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで