第十四章 東北の騷擾
戻る ホーム 上へ 進む

 

[#4字下げ][#大見出し]第十四章 東北の騷擾[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七〇】東北の一揆[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の凱旋《がいせん》間《ま》もなく、奧羽《あうう》には一|揆《き》蜂起《ほうき》した。その理由《りいう》の(第《だい》一)は、秀吉《ひでよし》の檢地《けんち》が、水《みづ》も漏《も》れぬ迄《まで》周匝《しうさう》に行《ゆ》き屆《とゞ》き、是《こ》れが爲《た》めに百|姓《しやう》の怨嗟《ゑんさ》を生《しやう》じた。(第《だい》二)は、此《こ》の不平《ふへい》に乘《じよう》じて、土豪《どがう》の或者共《あるものども》が、其《そ》の野心《やしん》を逞《たくまし》うす可《べ》く、刺戟《しげき》、煽動《せんどう》した。特《とく》に伊達政宗《だてまさむね》の如《ごと》きは、其《そ》の隨《ずゐ》一|者《しや》と目指《めざ》された。
元來《ぐわんらい》政宗《まさむね》は、秀吉《ひでよし》より會津《あひづ》四|郡《ぐん》―大沼《おほぬま》、河沼《かはぬま》、耶麻《やま》、會津《あひづ》(今南北)[#「(今南北)」は1段階小さな文字]―を收《おさ》められ、やがて又《ま》た南仙道《なんせんだう》五|郡《ぐん》―白川《しらかは》(今南北)[#「(今南北)」は1段階小さな文字]石川《いしかは》、岩瀬《いはせ》、安積《あさか》、二|本松《ほんまつ》(今安達郡の西部)[#「(今安達郡の西部)」は1段階小さな文字]―を取《と》り上《あ》げられ、其《そ》の故地《こち》長井《ながゐ》二|郡《ぐん》(上下長井、今の南東西置賜郡)[#「(上下長井、今の南東西置賜郡)」は1段階小さな文字]及《およ》び北仙道《ほくせんだう》十一|郡《ぐん》―黒川《くろかは》、宮城《みやぎ》、名取《なとり》、柴田《しばた》、亙理《わたり》、伊具《いぐ》、刈田《かつた》、伊達《だて》、信夫《しのぶ》、田村《たむら》、鹽松《しほまつ》(今の安達郡の東部)[#「(今の安達郡の東部)」は1段階小さな文字]を領《りやう》せしめられた。政宗《まさむね》の不滿《ふまん》知《し》るべしだ。彼《かれ》は之《これ》を漏《もら》す可《べ》き機會《きくわい》を待《ま》ち構《かま》へて居《ゐ》たのみならず、或《あるひ》は自分《じぶん》から進《すゝ》んで教唆《けうさ》したかも知《し》れぬ。そは兎《と》も角《かく》も火《ひ》の手《て》は、出羽《では》の六|郡《ぐん》より揚《あが》つて來《き》た。そは大谷吉繼《おほたによしつぐ》の檢地《けんち》の手代《てだい》が、餘《あま》りに峻酷《しゆんこく》なる仕打《しうち》をしたから、百|姓共《しやうども》は之《こ》れを殺《ころ》して、遂《つ》ひに蜂起《ほうき》したのだ。
火《ひ》の手《て》は忽《たちま》ち木村父子《きむらふし》の領土《りやうど》に擴《ひろ》がつた。元來《ぐわんらい》木村父子《きむらふし》は、小身《せうしん》より一|躍《やく》三十|滿石《まんごく》の大身《たいしん》となり、其《そ》の秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、嚴重《げんじゆう》に戒飭《かいちよく》せられたるに拘《かゝは》らず、頗《すこぶ》る百|姓《しやう》の心《こゝろ》を失《うしな》ふに至《いた》つた。其《そ》の父《ちゝ》伊勢守吉清《いせのかみよしきよ》は、葛西《かさい》登米《とよま》に在城《ざいじやう》し、其《そ》の子《こ》彌《や》一|右衞門清久《ゑもんきよひさ》は、大崎《おほさき》古川《ふるかは》に在城《ざいじやう》し。秀吉《ひでよし》の眼鏡《めがね》に叶《かな》うて、奧羽《あうう》雄鎭《ゆうちん》の一として据《すわ》つたが。彼等《かれら》は其《そ》の徳《とく》は下民《かみん》を懷《なづ》くるに足《た》らず、其《そ》の威《ゐ》は下民《かみん》を壓《あつ》するに足《た》らず、遂《つ》ひに大事《だいじ》を惹起《じやつき》[#ルビの「じやつき」は底本では「じやき」]するに至《いた》らしめた。
[#ここから1字下げ]
一 木村伊勢守《きむらいせのかみ》大崎《おほさき》葛西《かさい》十二|郡《ぐん》拜領《はいりやう》に付《つき》、上方大名衆《かみがただいみやうしゆう》の家中《かちゆう》ども、伊勢守《いせのかみ》大名《だいみやう》に|被[#レ]成候間《なられさふらふあひだ》、知行《ちぎやう》を取《とる》べき由《よし》存《ぞんじ》暇《ひま》を乞《こひ》亦《また》迯隱《にげかくれ》、伊勢守《いせのかみ》へ奉公仕候《ほうこうつかまつりさふらふ》。伊勢守《いせのかみ》は登米《とよま》に在城《ざいじやう》、子息《しそく》彌市右衞門《やいちゑもん》は古川《ふるかは》に在城《ざいじやう》にて候《さふらふ》。
大崎《おほさき》葛西《かさい》の本大名《もとだいみやう》どもを押除《おしのけ》、小者《こもの》五|人《にん》十|人《にん》召《めし》つれ候者《さふらふもの》を、城主《じやうしゆ》に仕《つかまつ》られ候故《さふらふゆゑ》、其《そ》のもの共《ども》、家中《かちゆう》|無[#レ]之《これなき》まゝ、中間《ちゆうげん》小者《こもの》あらしこのやうなる者《もの》を、侍《さむらひ》につくり立《たて》、本侍《ほんざむらひ》、百|姓《しやう》の所《ところ》へ押込《おしこ》み、八|木《ぎ》(米)[#「(米)」は1段階小さな文字]を取《とり》、百|姓《しやう》の下女《げぢよ》下人《げにん》を奪《うば》ひ、歴々《れき/\》の嫁《よめ》、娘《むすめ》を我女房《わがにようぼう》に奪取《うばひとり》、沙汰《さた》の限《かぎり》の仕樣《しやう》によつて、侍《さむらひ》大將《たいしやう》ともに、末《すゑ》の事《こと》は|不[#レ]存《ぞんぜず》、當座《たうざの》無念《むねん》を起《おこ》し、柏木山《かしはぎやま》にて、最前《さいぜん》に一|揆《き》起《おこ》して、其近邊《そのきんぺん》に居候《をりさふらふ》上方人《かみがたびと》討殺候由《うちころしさふらふよし》承《うけたまはる》。氣仙《けせん》、東山《ひがしやま》にても起候由《おこりさふらふよし》、其《そ》のきこえ候《さふらふ》。
伊勢守《いせのかみ》、彌市右衞門《やいちゑもん》、佐沼《さぬま》へ談合《だんがふ》の爲《た》め出合申《いであひまを》され候處《さふらふところ》に、登米《とよま》にて一|揆《き》起《おこり》、古川《ふるかは》にても起候間《おこりさふらふあひだ》、大崎《おほさき》葛西《かさい》|無[#レ]殘《のこりなく》おこり候《さふらふ》。父子《ふし》共《とも》に佐沼《さぬま》に籠城申《ろうじやうまを》され候《さふらふ》。一|揆《き》の者共《ものども》、佐沼《さぬま》を取卷《とりまき》、近陣仕候《ちかぢんつかまつりさふらふ》。父子《おやこ》の者《もの》供仕《ともつかまつ》られ候《さふらふ》上方衆《かみがたしゆう》は、殘《のこ》らず古川《ふるかは》、登米《とよま》にて|被[#レ]打申候《うたれまをしさふらふ》。上方衆《かみがたしゆう》殘《のこ》りなく打果申候間《うちはたしまをしさふらふあひだ》、足輕《あしがる》の樣《やう》なるものは、裸《はだか》に成《なり》薦《こも》を身《み》に纒《まと》ひ、迯上《にげのぼ》り候《さふらふ》。御登《おのぼり》の大名衆《だいみやうしゆう》、其樣子《そのやうす》聞《きこ》し召《め》され、足早《あしばや》に御上《おのぼ》り候《さふらふ》。彈正殿《だんじやうどの》(淺野長政)[#「(淺野長政)」は1段階小さな文字]は白川《しらかは》にて|被[#二]聞召[#一]《きこしめされ》、二|本松《ほんまつ》へ御歸《おかへり》御在馬《ございば》なされ候《さふらふ》。〔伊達日記〕[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは伊達側《だてがは》の記事《きじ》で若干《じやくかん》の尋酌《しんしやく》を要《えう》するは、勿論《もちろん》であるが、大體《だいたい》に於《おい》ては、概《がい》して此《こ》の通《とほ》りと見《み》る可《べ》きであらう。
上方《かみがた》と奧羽《あうう》とは、人情《にんじやう》も、風俗《ふうぞく》も、言語《げんご》も、習慣《しふくわん》も、それ/″\の相違《さうゐ》がある。然《しか》るに木村父子《きむらふし》は、一|朝《てう》にして大名《だいみやう》となり、間《ま》に合《あは》せの家來《けらい》を製造《せいぞう》したれば、其下《そのもと》に集《あつま》る者《もの》の中《なか》には、如何《いかゞ》はしき輩《やから》の多《おほ》かつた事《こと》は、餘儀《よぎ》なき事情《じじやう》であつた。彼等《かれら》が主人《しゆじん》を笠《かさ》に著《き》て威張《ゐば》り、是《こ》れが爲《た》めに、左《さ》なきだに不平《ふへい》滿々《まん/\》たる百|姓共《しやうども》の怒《いか》つたのは、決《けつ》して怪《あや》しむに足《た》らむ。されば政宗《まさむね》なきも、一|揆《き》の起《おこ》つたのは寧《むし》ろ當然《たうぜん》の事《こと》だ。而《しか》して上方《かみがた》へ歸陣《きぢん》の諸將《しよしやう》が、此事《このこと》を聞《き》きつゝ、寧《むし》ろ側杖《そばづゑ》を喰《くら》ひ、不首尾《ふしゆび》を來《きた》し、歸期《きき》を失《うしな》はざらんよりもと、何《いづ》れも倉皇《さうくわう》として脚取《あしどり》を早《はや》めたのは、是《こ》れ亦《ま》た當然《たうぜん》だ。
但《た》だ淺野《あさの》は奧羽《あうう》巡檢《じゆんけん》の筆頭《ひつとう》、今更《いまさ》ら逃《のが》れぬ職掌《しよくしやう》なれば、其《そ》の馬首《ばしゆ》を東《ひがし》へ廻《めぐ》らしたのであらう。然《しか》も直接《ちよくせつ》に此事《このこと》に關係《くわんけい》あるは、蒲生氏郷《がまふうぢさと》と伊達政宗《だてまさむね》だ。彼等《かれら》は之《これ》に向《むか》つて如何《いか》なる態度《たいど》を取《と》つた乎《か》。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]大崎一揆蜂起濫觴の事
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
太閤、奧州より御歸洛の後、氏郷、會津に住して、四境の制禁を、嚴密に沙汰せられ、木村伊勢守、並に子息彌一右衞門は、古河に住居す。又今度も郡山右近は、路次の案内者になりて、木村と一同に大崎へ下り、下折壁といふ所に居たりけるに、同十月中旬の頃、不慮に一揆蜂起して、何れも蘇卿が蘭干に隱れ、耿恭が疏勤に渇するの難に逢へり。此の事の根源は、下には婬亂法に超えて、動もすれば、閨中の貞婦をも犯す程の事多く、上には政道正しからずして、民間の租税を密しく虐げければ、多年舊主の恩澤に懷きて、然も不敵|頑《かたくな》なる荒夷共、強ちに遺恨を懷き、漸々に先代の地頭等を語らひ、平生の友同志を集めて、凶徒隨意に亂逆をなすと雖も、就中一の濫觴ありとかや。伊勢守、大崎へ下りて後、岩手山の城には、荻田三右衞門尉といふ者に、數多の武士を差添へて、警固せさせけるが、彼者、未だ最愛の妻を持たねば、幸ひ先主岩手山が娘のありけるを、内々乞ひたりけれども、さまで、同心せざりけるを、岩手山が弟強ちに意見して、終に彼者に嫁したりけるに、男酒狂醉亂の者にて、動もすれば女房を打鄭しけるを、岩手山傳へ聞きて、内々腹立しけれども、いや/\、時に任せ世に從ふこそ、女の身の習なるにと、媒したる弟、強ちに言慰め、兼て彼女房の傍近う使ふ女を近付け、重ねて彼男の醉狂あらば、包まずに告知らせよと言含め、内々ほの聞きけるに、其後も強ち女房に、難面《つれな》く當りければ、岩手山兄弟、安からぬ事に思ひ、よし/\、此上は、彼の男と刺違へて、此程の鬱憤を晴らさんものをと思ひ定め、折に付けて、重恩の地下人等に密に囁き、爾々《しか/″\》の企に同志してくれよかしと、餘儀なげに頼みければ、仔細なく※[#「口+卒」、第3水準1-15-7]啄し、其頃城中屋作の爲にとて、茅を卓散に、地下より運び入れける。其の中へ具是、太刀、刀を結入れて、いつとなく城中へ籠むるを、警固の武士共は夢にも知らねば、凶徒思ふまゝに支度を仕濟し、或日、岩手山兄弟、一味の者共を引具して、不意に城中に打入り、彼の妬《ねた》き三右衞門尉を、仔細なく刺殺す、在合したる者共、こは何事よと周章て騷ぎ、面も棹らす切つて懸りけるを、凶徒大勢なれば、取籠めて散々は薙捨て、其後、内々支度したる兵具共を、茅の中より取出し、旗を揚げて、城戸を固めて楯籠る。此事方々より、木村父子の許へ告げたりければ、彌一右衞門尉は、覺束なく思ひ、古川を立出でて登米へ行き、伊勢守に對面して、此事如何にせんと、談合して居たる所に、思の外、古川にも一揆蜂起したる由、跡より急を告げたりければ、さては先づ、足下なる古川の一揆を平げてより、漸々に凶徒等を退治せんとて、父子打連れて登米を出で、古川の方へ急ぎけるに、又登米よりも、飛脚追付き、只今凶徒大勢蜂起し、はや城を攻落して候なりと、急を告ぐる所に、古川の城、亦一揆に攻落されたる由、兩方より一同に告げ來りければ、痛はしや、木村父子は、進退狼跋の便なく、嫌疑穴鼠の定まらざるに似て、漸く成合平左衞門尉が居たる佐沼の城に楯籠り、偏に虎兒の、押へ入りたる心地にて居たりけるを、凶徒竹葦の如く打圍みて、如何に京家の奴原が、此の程つらく當りたる振舞を、今が間に思ひ知らせんずるものをと、夥しく惡口し乍ら、猶豫もなく攻寄する。〔會津四家合考〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【七一】氏郷政宗の出陣[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は奧羽《あうう》の一|揆《き》を、寧《むし》ろ期待《きたい》して居《ゐ》た。彼《かれ》は九|州《しう》に於《おい》ても、此《こ》の經驗《けいけん》があつた、況《いはん》や九|州《しう》よりも人文《じんぶん》の遲《おく》れたる奧羽《あうう》をや。されば秀吉《ひでよし》は、伊達政宗《だてまさむね》に向《むか》つては、征討《せいたう》の※[#「郷+向」、333-9]導者《きやうだうしや》たる可《べ》く、蒲生氏郷《がまふうぢさと》に向《むか》つては、征討者《せいたうしや》たる可《べ》く、萬《まん》一|手《て》に餘《あま》るとあらば、江戸《えど》の徳川家康《とくがはいへやす》に幇助《ほうじよ》を需《もと》む可《べ》く指圖《さしづ》し置《お》いた。伊達《だて》と蒲生《がまふ》とは、今《いま》や其《そ》の任務《にんむ》に當《あた》る可《べ》き時節《じせつ》到來《たうらい》した。
然《しか》も蒲生《がまふ》に取《と》りては、是《こ》れ當惑《たうわく》の一|時《じ》であつた。彼《かれ》は移封《いほう》以來《いらい》、僅《わづ》かに二|箇月餘《かげつよ》だ、其《そ》の諸事《しよじ》渾沌《こんとん》の際《さい》に、出陣《しゆつぢん》は、上下《しやうか》の樂《たの》しむ所《ところ》でなかつた。加《くは》ふるに從來《じゆうらい》暖地《だんち》の伊勢《いせ》より、奧州《あうしう》の寒地《かんち》に轉《てん》じ、然《しか》も寒威《かんゐ》に向《むか》つて突進《とつしん》せねばならぬのだ。されど難《かたき》を避《さ》くるは、彼《かれ》の本色《ほんしよく》でなかつた。彼《かれ》は木村《きむら》に對《たい》する義理《ぎり》を懷《おも》ひ、秀吉《ひでよし》の自個《じこ》に對《たい》する重寄《ぢゆうき》を懷《おも》ひ、斷々乎《だん/\こ》として出征《しゆつせい》を命《めい》じた。此《こ》れは十|月《ぐわつ》廿六|日《にち》の事《こと》であつた。
彼《かれ》は小倉豐前守《をぐらぶぜんのかみ》、其《そ》の子《こ》孫作《まごさく》、關萬鐵齋《せきまんてつさい》、蒲生左文《がまふさもん》、同《どう》喜内《きない》、北川平左衞門《きたがはへいざゑもん》その他《た》の武功《ぶこう》の士《し》若干《じやくかん》を、會津《あひづ》の留守《るす》となし、關右衞門《せきうへゑ》をして、白川城《しらかはじやう》を守《まも》らしめ、田丸中務大輔《たまるなかつかさたいう》をして、須賀川城《すかがはじやう》を守《まも》らしめ、以《もつ》て三|春城《はるじやう》に在《あ》る伊達政宗《だてまさむね》の重臣《ぢゆうしん》、片倉景綱《かたくらかげつな》に備《そな》へしめた。〔蒲生氏郷日記〕[#「〔蒲生氏郷日記〕」は1段階小さな文字]斯《か》くて十一|月《ぐわつ》五|日《か》―家忠日記追加には、朔日とある[#「家忠日記追加には、朔日とある」は1段階小さな文字]―を以《もつ》て、自《みづ》から發足《はつそく》した。
然《しか》るに十|月《ぐわつ》廿九|日《にち》より大雪《おほゆき》降《ふ》りしきり、山野《さんや》を埋《うづ》め、老馬《らうば》も道《みち》を辨《べん》じ難《がた》き程《ほど》であつたが。氏郷《うぢさと》は人夫《にんぷ》を役《えき》して、道《みち》を掻《か》き分《わ》けしめ、自《みづ》から士氣《しき》を勵《はげま》さんが爲《た》めに、素肌《すはだ》に甲冑《かつちゆう》を著《ちやく》し、猪苗代《ゐなはしろ》に著《ちやく》し、其《そ》の翌日《よくじつ》は大雨《たいう》にて姉《あね》ヶ島《しま》に逗《とゞま》り、同《どう》七|日《か》政宗《まさむね》の領内《りやうない》二|本松《ほんまつ》に著陣《ちやくぢん》した。
當時《たうじ》政宗《まさむね》は、既《すで》に米澤《よねざは》より信夫郡《しのぶごほり》の内《うち》飯坂迄《いひざかまで》出馬《しゆつば》した。氏郷《うぢさと》は先鋒《せんぽう》は鎌田《かまだ》、本折《もとをり》、杉《すぎ》ノ目《め》―今日《こんにち》の福島《ふくしま》―邊《へん》に、政宗《まさむね》の兵《へい》と、入組《いりく》みて陣取《ぢんど》つた。形勢《けいせい》は頗《すこぶ》る險惡《けんあく》であつた。隱《かく》れたるより現《あら》はれたるはなしで、氏郷《うぢさと》も薄々《うす/\》會津《あひづ》出發《しゆつぱつ》の際《さい》より、政宗《まさむね》の隱謀《いんぼう》に感付《かんづ》いて居《ゐ》た。會津《あひづ》の士民《しみん》は、政宗《まさむね》の逆心《ぎやくしん》の由《よし》聞《きこ》えたれば、奧羽《あうう》二|州《しう》は全部《ぜんぶ》敵《てき》であると、其《そ》の出陣《しゆつぢん》を諫止《かんし》した程《ほど》であつた。〔氏郷記〕[#「〔氏郷記〕」は1段階小さな文字]
氏郷《うぢさと》は政宗《まさむね》に向《むか》つて、頗《すこぶ》る戒心《かいしん》する所《ところ》あつた。然《しか》るに其《そ》の※[#「郷+向」、333-9]導者《きやうだうしや》たるべき政宗《まさむね》は、兵《へい》を按《あん》じて、何日《いつ》出立《しゆつたつ》す可《べ》き模樣《もやう》も見《み》えなかつた。されば、氏郷《うぢさと》先鋒《せんぽふ》の武將等《ぶしやうら》は、姑《しば》らく滯陣《たいぢん》して、政宗《まさむね》の向背《かうはい》を卜《ぼく》せん※[#こと、357-4]を申請《しんせい》した。氏郷《うぢさと》曰《いは》く、政宗《まさむね》の逆心《ぎやくしん》は、會津《あひづ》發足《はつそく》の際《さい》びょり覺悟《かくご》の前《まへ》の事《こと》だ。何處《どこ》にても、政宗《まさむね》其色《そのいろ》を立《た》てなば、直《たゞ》ちに決戰《けつせん》す可《べ》し。政宗《まさむね》には頓著《とんぢやく》なく、明日《みやうにち》未明《みめい》に打立《うちた》ち、正宗勢《まさむねぜい》より先《さき》へ押《お》して通《とを》るべし。予《よ》も亦《ま》た明早天《みやうさうてん》より打立《うちた》ち、何方《いづかた》なりとも、前路《ぜんろ》を遮《さへぎ》る所《ところ》にて、一|戰《せん》せんと嚴命《げんめい》した。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の夜半《やはん》よりの大雨《たいう》に拘《かゝは》らず、佛曉《ふつげう》二|本松《ほんまつ》を發《はつ》して、大森《おほもり》の城下《じやうか》に著陣《ちやくぢん》した。
氏郷《うぢさと》の此《こ》の見幕《けんまく》は、遂《つ》ひに政宗《まさむね》をして、已《や》むを得《え》ず兵《へい》を進《すゝ》めしめた。
[#ここから1字下げ]
政宗《まさむね》も詮方《せんかた》なく、打立《うちたつ》て旗《はた》をすゝむ。油斷《ゆだん》をせば、氏郷勢《うぢさとぜい》は伊達勢《だてぜい》を跡《あと》になして、先《さき》に進《すゝ》まん形勢故《けいせいゆゑ》、政宗《まさむね》先《さき》に押《お》し行《ゆ》けば、氏郷《うぢさと》は跡《あと》より進《すゝ》む所《ところ》に、雨《あめ》は止《や》むと雖《いへど》も、又《ま》た大雪《おほゆき》になり、軍勢《ぐんぜい》道《みち》に泥《なづ》み進《すゝ》み兼《か》ねたり。依《よつ》て刈田《かつた》、岩沼《いはぬま》、丸森《まるもり》などといふ所《ところ》に滯留《たいりう》して、空《むな》しく雪《ゆき》の晴間《はれま》を待合《まちあは》す。伊達《だて》が領内《りやうない》にては、村々《むら/\》郷々《がう/\》にて、宿借事《やどかること》はいふ迄《まで》もなく、筵席《むしろ》その外《ほか》、諸器材《しよきざい》薪《たきゞ》までも、賣渡《うりわた》す者《もの》なし。蒲生勢《がまふぜい》困難《こんなん》大方《おほかた》ならず、雪《ゆき》漫々《まん/\》たる原上《げんじやう》に野陣《やぢん》し、鍋釜《なべかま》なければ、土《つち》を穿《うが》ち藁《わら》にて作《つく》りし糧袋《かてぶくろ》を、水《みづ》に浸《ひた》し、土穴《つちあな》へ入《い》れて、其《そ》の上《うへ》にて火《ひ》を焚《たき》て飯《めし》を炊《た》き、やう/\餓《うゑ》を凌《しのぎ》たる程《ほど》に、將卒《しやうそつ》寒氣《かんき》に凍《こご》へ疲《つか》れたり。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》くて十一|月《ぐわつ》十七|日《にち》、彼等《かれら》兩人《りやうにん》は黒川《くろかは》に於《おい》て、軍議《ぐんぎ》を爲《な》す可《べ》く、相會見《あひくわいけん》した。而《しか》して此《こ》の會見《くわいけん》の結果《けつくわ》として、愈《いよい》よ敵城《てきじやう》に取《と》り掛《かゝ》る可《べ》く、評定《ひやうぢやう》一|決《けつ》した。
[#ここから1字下げ]
扨《さて》葛西《かさい》大崎《おほさき》の事《こと》、不案内《ふあんない》に候《さふらふ》。一|揆《き》の城々《しろ/″\》何《なん》ヶ所《しよ》候哉《さふらふや》。又《また》伊勢守《いせのかみ》(木村吉晴)[#「(木村吉晴)」は1段階小さな文字]籠城《ろうじやう》|被[#レ]仕候《つかまつられさふらふ》佐沼《さぬま》への道《みち》の行程《かうてい》如何《いかん》と|被[#レ]尋候《たづねられさふら》へば、佐沼迄《さぬままで》は田舍道《ゐなかみち》百四十|里《り》(六町一里)[#「(六町一里)」は1段階小さな文字]許《ばかり》|可[#レ]有[#レ]之候《これあるべくさふらふ》。其内《そのうち》に一|揆《き》の城《しろ》、高清水《たかしみづ》と申候《まをしさふらう》て、佐沼《さぬま》より三十|里《り》此方《こちら》に|有[#レ]之迄《これあるまで》に候《さふらふ》。其外《そのほか》には一|揆《き》の城《しろ》、一つも|無[#レ]之由《これなきよし》政宗《まさむね》|被[#レ]申候《まをされさふらふ》。左候《ささふら》はゞ明日《みやうにち》草々《さう/\》より大崎《おほさき》へ打《うつ》て出《いで》、道通《みちどほ》りの民屋《みんをくに》|令[#二]放火[#一]《はうくわせしめ》、急《いそぎ》高清水《たかしみづ》へ押寄《おしよせ》蹴散候《けちらしさふらう》て、伊勢守《いせのかみ》と手《て》を|可[#レ]合《あはすべき》に相定《あひさだむ》。〔蒲生氏郷記〕[#「〔蒲生氏郷記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
軍議《ぐんぎ》の要領《えうりやう》は、先《ま》づ此通《このとほ》りであつた。然《しか》も意外《いぐわい》の事《こと》は、脚下《きやくか》より生《しやう》じた。

[#5字下げ][#中見出し]【七二】政宗の詭謀[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も政宗《まさむね》が、一|揆《き》を煽動《せんどう》した動機《どうき》に於《つい》ては、改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》の編者《へんじや》は、左《さ》の如《ごと》く説明《せつめい》して居《を》る。
[#ここから1字下げ]
抑《そも/\》今度《このたび》政宗《まさむね》が、一|揆《き》を起《おこ》させたる其心《そのこゝろ》いかんと云《い》ふに。先年《せんねん》豐臣《とよとみ》九|州《しう》平均《へいきん》せられて後《のち》、佐々陸奧守成政《さつさむつのかみなりまさ》は、信長公《のぶながこう》の寵臣《ちようしん》にて武名《ぶめい》高《たか》き故《ゆゑ》に、肥後《ひご》一|國《こく》を賜《たま》はりしかば、成政《なりまさ》肥後《ひご》に入部《にふぶ》して、國務《こくむ》を沙汰《さた》しける所《ところ》、一|揆《き》蜂起《ほうき》しければ、成政《なりまさ》忽《たちまち》に其《そ》の一|揆《き》を打平《うちたひら》げしかども、關白《くわんぱく》成政《なりまさ》國務《こくむ》よろしからざる故《ゆゑ》、國民《こくみん》そむき一|揆《き》を起《おこ》したるなり、佐々《さつさ》罪《つみ》輕《かる》からずと、忽《たちまち》に切腹《せつぷく》せしむ。政宗《まさむね》是《これ》を思案《しあん》して、郷民《がうみん》をすゝめ、一|揆《き》を起《おこ》し、國中《こくちゆう》を亂《みだ》りなば、秀吉《ひでよし》必《かなら》ず蒲生《がまふ》、木村《きむら》を罪《つみ》し、所領《しよりやう》を沒入《ぼつにふ》し、其《そ》の後《のち》誰彼《たれかれ》と何人《いくにん》こゝに下《くだ》るとも、其《そ》の度々《たび/\》に一|揆《き》を起《おこ》す時《とき》は、終《つひ》に秀吉《ひでよし》奧羽《あうう》の地《ち》をもてあまし、政宗《まさむね》に附屬《ふぞく》せられん事《こと》必定《ひつぢやう》なりと。人知《ひとし》らず胸中《きようちゆう》に謀《はかりごと》を廻《めぐ》らし、所々《しよ/\》の郷民《がうみん》にひそかに貨財《くわざい》を與《あた》へて、かく一|揆《き》を起《おこ》しけるとぞ。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ恐《おそ》らくは、中《あた》らざるも遠《とほ》からざる推測《すゐそく》であらう。少《すくな》くとも蒲生《がまふ》は、政宗《まさむね》の心事《しんじ》を、此《かく》の如《ごと》く判斷《はんだん》したであらう。
抑《そもそ》も十一|月《ぐわつ》十八|日《にち》、氏郷《うぢさと》は本海道筋《ほんかいだうすぢ》を、政宗《まさむね》は右手《めて》に附《つい》て押入《おしい》り、處々《しよ/\》放火《はうくわ》して進軍《しんぐん》した。黒川《くろかは》より三四十|里《り》の所《ところ》に一|揆《き》の城《しろ》、鹿間《しかま》、中新田《なかにひだ》は兩城《りやうじやう》は立退《たちの》き、氏郷《うぢさと》は中新田城《なかにひだじやう》に、政宗《まさむね》は七八|町《ちやう》を隔《へだ》てたる古城《ふるしろ》に陣營《ぢんえい》[#ルビの「ぢんえい」は底本では「じんえい」]した。中新田《なかにひだ》より高清水迄《たかしみづまで》は、六十|里《り》(六町一里)[#「(六町一里)」は1段階小さな文字]許《ばか》りの距離《きより》であれば、二十|日《か》は鷄鳴《けいめい》に打立《うちた》ち、正午《しやうご》には、高清水《たかしみづ》の城《しろ》に押寄《おしよ》す可《べ》く、陣觸《ぢんぶれ》をなしたるに、同夜《どうや》十|時過《じす》ぎ、政宗《まさむね》は、使者《ししや》を以《もつ》て、持病《ぢびやう》再發《さいはつ》に付《つき》、延期《えんき》を提議《ていぎ》して來《き》た。
氏郷《うぢさと》は扨《さ》てこそ政宗《まさむね》の反跡《はんせき》、愈《いよい》よ明白《めいはく》となつたとて、之《これ》を斥《しりぞ》け。御身《おんみ》は快復《くわいふく》次第《しだい》、跡《あと》より續《つづ》かれたし、此方《こちら》は豫定《よてい》の行動《かうどう》を取《と》る可《べ》しと廻答《くわいたふ》し。十九|日《にち》には其《そ》の行軍《かうぐん》の排置《はいち》を改《あらた》め、腹背《ふくはい》に敵《てき》を受《う》くる覺悟《かくご》にて進軍《しんぐん》した。固《もと》より唯《た》だ高清水城《たかしみづじやう》に攻寄《せめよ》せんとのみ逸《はや》りたるに、意外《いぐわい》にも名生《めふ》の城《しろ》より發砲《はつぱう》したれば、敵《てき》は此處《こゝ》にあるぞとて、蒲生勢《がまふぜい》は名生城《めふじやう》へ攻《せ》め斯《かゝ》つた。而《しか》して激戰《げきせん》の上《うへ》、首級《しゆきう》五百九十|餘《よ》討取《うちと》り、氏郷《うぢさと》は此城《このしろ》に入《い》つた。
氏郷《うぢさと》は明《みやう》廿|日《か》早天《さうてん》に高清水《たかしみづ》に押寄《おしよ》せ、即時《そくじ》に蹴散《けち》らし、木村《きむら》父子《ふし》を、佐沼城《さぬまじやう》より救《すく》ひ出《いだ》さんと、其《そ》の準備《じゆんび》をなしつゝあつたが、同《どう》夜半《やはん》に、政宗《まさむね》の士《し》須田伯耆《すだはうき》、蒲生源左衞門《がまふげんざゑもん》の陣所《ぢんしよ》に來《きた》り、政宗《まさむね》逆心《ぎやくしん》必定《ひつぢやう》に付《つき》、明日《みやうにち》蒲生勢《がまふぜい》の出陣《しゆつぢん》を猶豫《いうよ》す可《べ》き旨《むね》を告《つ》げた。須田《すだ》の父《ちゝ》は、政宗《まさむね》の父《ちゝ》輝宗《てるむね》に殉死《じゆんし》した一|人《にん》であつた。然《しか》るに政宗《まさむね》は之《これ》を以《もつ》て狂死《きやうし》と見做《みな》し、殉死者《じゆんししや》としての待遇《たいぐう》を與《あた》へなかつた。須田《すだ》は之《これ》を不平《ふへい》として、斯《か》く氏郷《うぢさと》に内報《ないはう》したのだ。
[#ここから1字下げ]
政宗《まさむね》反逆《はんぎやく》の樣子《やうす》は、氏郷公《うぢさとこう》を|討可[#レ]申《うちまをすべく》たくみ度々《たび/\》に及候《およびさふらふ》。去《さ》る十七|日《にち》黒川《くろかは》にて、御參會之刻《ごさんくわいのこく》、既《すで》に|可[#レ]奉[#レ]討《うちたてまつるべし》と候《さふらふ》を、是《こ》れにて討候而《うちさふらうて》は、政宗《まさむね》|無[#二]遁處[#一]候間《のがるゝところなくさふらふあひだ》、今度《このたび》|被[#二]攻崩[#一]候《せめくづされさふらひ》名生城《めふじやう》に、大崎《おほさき》の侍共《さむらひども》、弓《ゆみ》鐵砲《てつぱう》を丈夫《じやうぶ》に籠置候間《こめおきさふらふあひだ》、氏郷《うぢさと》|被[#レ]責刻《せめらるゝとき》手負《ておひ》死人《しにん》|有[#レ]之《これあり》て、定而《さだめて》責《せめ》あぐみ|可[#レ]被[#レ]申《まをさるべく》、其時分《そのじぶん》城中《じやうちゆう》に、火《ひ》の手《て》を揚《あげ》よ。其烟《そのけむり》に付《つい》て、宮澤《みやざは》、古川《ふるかは》、岩手山《いはてやま》、松山《まつやま》、此《この》四|箇所《かしよ》の城々《しろ/″\》より人數《にんず》を出《いだ》し、後切《うしろぎり》して、氏郷《うぢさと》を討果《うちはたし》、氏郷《うぢさと》は城責《しろぜめ》を仕損《しそん》じ、討死《うちじに》と|可[#レ]申《まをすべき》工《たく》みを仕候得共《つかまつりさふらえども》。氏郷公《うぢさとこう》御運強《ごうんつよ》く、御手柄《おてがら》を以《もつ》て、名生《めふ》の城《しろ》、息《いき》をもつかせず、|被[#二]攻崩[#一]《せめくづされ》、火《けむり》を|可[#レ]揚隙《あぐべきすき》なく、責干《せめほさ》るゝによつて、諸方《しよはう》手《て》はぐれば、政宗《まさむね》も手《て》を失候《うしなひさふらふ》。宮澤《みやざは》の城《しろ》、即時《そくじ》に|可[#二]落去[#一]城《おちさるべきしろ》に候得《さふらえ》ども、政宗《まさむね》一|揆《き》と内々《ない/\》申合《まをしあはせ》|有[#レ]之故《これあるゆゑ》、中々《なか/\》|攻可[#レ]申《せめまをすべき》念《ねん》もなく候《さふらふ》。〔蒲生氏郷記〕[#「〔蒲生氏郷記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
須田伯耆《すだはうき》の蒲生《がまふ》に訴《うつた》へたる要領《えうりやう》は、先《ま》づ右《みぎ》の如《ごと》しだ。是《こゝ》に於《おい》て氏郷《うぢさと》は、姑《しば》らく名生城《めふじやう》に滯在《たいざい》して、周圍《しうゐ》の形勢《けいせい》を觀望《くわんばう》した。
以上《いじやう》は悉《こと/″\》く皆《み》な、蒲生側《がまふがは》の立場《たちば》より、觀察《くわんさつ》したものだ。併《しか》し物《もの》には兩面《りやうめん》がある、政宗《まさむね》の側《がは》より見《み》れば、多少《たせう》の言前《いひまへ》もある可《べ》き筈《はず》だ。諺《ことわざ》に泥棒《どろぼう》にも五|分《ぶ》の理屈《りくつ》ありと云《い》へば、如何《いか》に政宗《まさむね》の詭謀者《きぼうしや》でも、其《そ》の側《がは》より見《み》れば、若干《じやくかん》の理窟《りくつ》はある可《べ》き筈《はず》だ。吾人《ごじん》は少《すこ》しく之《これ》を觀察《くわんさつ》せねばならぬ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]名生軍の事
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
斯くて氏郷は、本海道、正宗は右手に付いて、兩所の道筋を悉く放火して通らるゝに、前野、黒川より、三十里、四十里の間の本道筋に、早や敵城共ありけり。飾間、中新田の兩城は、氏郷の武威にや畏れけん、城を開きて引退きけり。其日は、中新田に著陣して、氏郷は城に陣を取り、正宗は城より、七八町向ふなる大屋鋪に陣を取られける。氏郷の先手四人の者共は、正宗の押の爲めに、其近邊に陣を取りける。是より高清水への其間、名主《なりわ》といふ所に、敵城ある事は、氏郷知り給はずして、明日高清水を攻むべし。若し日暮に及ばゞ、明後日は必ず攻むべし。其用意仕れと、所軍陣へ觸渡さるゝ處に、正宗は兼て定めし相圖なれば、俄に虚病を構へ、同日亥の刻計りに、使者を以て申さるゝは、今日暮時より卒に腹痛仕候て迷惑致候間、明日の御働は、相延させられかしと存申候。其故は、御先を仕る事、此體にてはなり難き由、申越されしかば、氏郷聞いて、すははや隱謀露顯すとて、返事には敵を近所に置きながら、留るべき儀に存ぜず候。明日は我等が人數を押通すべし。御養生あつて、後より御出馬あるべしとなり。正宗は、氏郷を先へ遣らんとの手術なれば、此返事を聞いて、悦ばれけるとぞ。扨氏郷は、同十五日に、中新田を立たんとする時、正宗へ使者を以て、某は只今打立ち候。彌※[#二の字点、1-2-22]後より御出あるべしと、いひ遺され、是より正宗を後に置く上は、日來の備に同じかるべからずとて、五手|與《ぐみ》・六手與、七手與、此三備を後備に定め、關勝藏をば、又三|與《くみ》の跡へ入替らる。此三與の備は、正宗の押なれば、皆後へ向ひて、跡すざりに歩みける。正宗討懸けば、一と軍せんとの形勢なれば、奧方の武士共之を見て、上方の武士は、攻むる敵方へは、前まずして、後への用心する事は、珍しき備やうかなとぞ、申しける。斯くて氏郷の先手の者共、名主に敵の籠城するをば知らざれば、高清水へと押てけるに、二三十里の間にて、敵城見えたり。然るに名主の城よりも、氏郷の勢を見て、鐵炮を打懸けしかば、先手の四人之を見て、頓て名主の城へ押寄せ、鬨の聲を作り懸けて攻めけるに、城中にも、奧の一黨、汗水になつて戰ひけり。蒲生源左衞門、同忠右衞門、同四郎兵衞、町野左近などは、數度武功の者共なりければ、弓、鐵炮を射懸け打懸け、自ら鑓、長刀提げて先登し、敵味方討ちつ討たれつ、片時の弛みなく、急に攻めける程に、二三の丸まで、乘込みて戰ひけり。源左衞門も手負ながら、身朱の如くになつて駈廻り、四人の者共、敵を討取る事、數を知らず、味方も多く討たれけり。氏郷は、鐵炮の音を聞いて、此近邊に敵出づるや、急ぎ見て參れとあれば、池野作右衞門とて、馬上の達者あり。岩頭溪谷の底をも、一かけに超ゆる者、畏り候といふまゝに、即時に走り付くと均しく、戰場に乘込み、首取つて本陣に馳歸り、見參に備へ、爰に名主と申す敵城あり。先手の四人、急に攻戰ひ、早や二の丸まで乘込み候旨、言上す。氏郷聞いて、さらば急いで押寄せよと下知せられ、彼備三與は、三頭に陣を立てよ。定めて後より、正宗攻來ることあるべし。必ず油斷あるべからずと、申し渡され、夫より氏郷の軍兵、名主の城へ我先きにと馬を馳せて、扈從、馬廻りまで、本丸へ押寄せ、火花を散して攻戰ふ。一揆とはいひながら、昨日、今日まで、一城を持ちたりし大剛の奧士共なれば、命を惜しまず拒戰ひければ、敵、味方入亂れ、討ちつ討たれつ、互に隙はなかりけり。爰に隙はなかりけり。爰に上坂源之丞、西村左馬助、此川久八三騎、轡を竝べて、大手口より寄せけるに、上坂が與力吉右衞門、早や首を取つて、見參に備へけり。此川久八は、其頃、氏郷の扈從にて、生年十七八になりしが、之を見て、勇み進んで馳せ出でけるを、上坂・西村之を制して、さはせぬものぞと、押留めけるに、如何して駈出でけん、門際にて、敵に渡し合せ、唯一太刀に斬伏せ、首取つて之は如何にと、兩人に見せければ、上坂・西村は、若者に先きんぜられ、無念なり。いざ進まんとて、二人共に、敵の中へ駈入りけり。上坂源之丞鑓下に、敵十人突倒し、首を取りてけり。源之丞其時鐵炮の將なれば、鐵炮の者を一人呼んで、首を持たせて、本陣へ遣はしける。常の人は首一つ取れば、合戰をも心に懸けず、先づ本陣へ參つて、主人の感悦に預らんと欲す。然るに此源之丞は、急の戰に當つて、虎口を外にして、首を持參せば、軍利を失する事もあらんと思ひて、使を以て首を獻ずる事、其志寔に淺からざる勇士なり。西村左馬助は、坂ある所にて、鑓を合せて、敵と引組んで落ちけり。西村、元來大力の剛の者なれば、彼敵を取つて押へけるが、敵下より小脇差を拔いて、西村が首へ引懸けて、此を先途と引切りけれども、西村も脇差を拔いて、喉より押へければ、早く敵の肌を推切りて、首を取つてけり。然れども我首も、半ば切られければ、片手には、敵の首を持ち、片手にては我首を、抱へて立ちけれども、既に危く見えし處に、關十兵衞(其頃は勝藏)、此を見て、西村を扶けんと駈寄り、引連れて退きければ、敵又數多著來るを、十兵衞引返し、鑓を奮つて、敵を四方へ追散し、難なく二人ともに引取つて、其首を見參に備へける。西村が手柄、十兵衞が働、諸人目を驚かせり。斯かる時節に、十兵衞が左馬助を、助けし事は、誠に義ある勇者とも謂つべし。是に依りて關は、西村が高名の證據になり、西村は關を命の親と申しける。又中堀彦右衞門は、日來より兵法の上手と聞えしが、弓を持ちて、門際まで攻登り、敵三騎射落し、首をぞ取つたりけり。又氏郷の小扈從那古野山三郎は、生年十五歳、性質勝れて、美麗なりしが、白綾に赤裏付けたる具足、下に色々の糸を以て、縅したる鎧を著し、小梨打の甲に、猩々皮の羽織を箸て、手鑓提げ、城中に駈入り、一番に槍を合せ、大勢の敵を東西へ颯と遣散し、好首一つ討取り、比類なき働きして、名を揚げたり。されば其頃の小唄に、鑓仕《やりし》々々は多けれど、那古野山三は一の鑓とぞ謠ひけり。彼が先祖尾州那古野とて、代々振袖の間に高名して、袖を塞ぐ吉例と聞えしが、山三郎も、此度の高名にて、袖を塞ぐ吉例に合せたり。其外、大名、小名、大扈從、小扈從、陪臣、雜兵等に至るまで、首取つて參る事、計るに遑あらず。或は其中に、首一つを、我の人のと爭ふあり。氏郷の下知に、奪うて取るは、猶ほ甲斐々々しけれと、申されけり。互に入亂れて戰へば、味方にも道家孫市、粟井六右衞門、竝に町野左近が家子町野新兵衞、田村理助等を始めとして、一人當千の兵共、大に戰うて討死す。其外、陪臣、雜兵に至るまで、手負、討死其數を知らず。暫時の合戰に、城中敵の首討取る數、六百八十餘なり。其首共を、塚に築いて、今に名主の首塚とてあり。扨城中に、火を放ちければ、此城は落ちにけり。岩手山、宮澤、古河、松山四箇所の城より、討つて出で働きしかども、名主の城、既に陷ちければ、其形勢を見て、皆引退き、直に落行きけり。〔蒲生氏郷記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【七三】政宗の辯疏[#中見出し終わり]

此《これ》より伊達側《だてがは》に立《た》つて、少《すこ》しく蒲生《がまふ》との曲折《きよくせつ》を語《かた》るであらう。氏郷《うぢさと》は會津《あひづ》移封《いほう》の當初《たうしよ》より、政宗《まさむね》に對《たい》して、隔心《かくしん》があつた樣《やう》だ。されば淺野長政《あさのながまさ》は、其《そ》の諒解《れうかい》を得可《うべ》く、氏郷《うぢさと》に懇談《こんだん》した。
[#ここから1字下げ]
然者《しかれば》忠《ちゆう》三|郎《らう》(蒲生氏郷)[#「(蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]間柄之事《あひだがらのこと》、霜臺《さうだい》(淺野長政)[#「(淺野長政)」は1段階小さな文字]懇《ねんごろ》に|被[#二]仰置[#一]候《おほせおかれさふらふ》。〔仙石徳齋より正宗へ與へたる書中の一節、伊達家文書〕[#「〔仙石徳齋より正宗へ與へたる書中の一節、伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
然《しか》も氏郷《うぢさと》が果《はた》して釋然《しやくぜん》たるや、否《いな》やは、疑問《ぎもん》であつた。
政宗《まさむね》の辯疏《べんそ》には、彼《かれ》の覺書状《おぼえがきじやう》なるものが、今尚《いまな》ほ保存《ほぞん》されて居《ゐ》る。
[#ここから1字下げ]
一 |奉[#レ]對[#二]上樣[#一]《うへさまにたいしたてまつり》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]|可[#レ]存[#二]別心[#一]付而者《べつしんをそんすべきについては》、爭《いかで》小田原江《をだはらえ》|致[#二]參陣[#一]《さんぢんいたし》、剩《あまつさへ》會津《あひづを》|爲[#レ]始《はじめとなし》、|指上可[#レ]申哉之事《さしあげまをすべきかのこと》。
一 御奉公《ごほうこう》|無[#二]二存[#一]候故《にぞんなくさふらふゆゑ》、拙者《せつしや》分領中《ぶんりやうちゆうの》城々《しろ/″\》も、|如[#二]御諚[#一]《ごぢやうのごとく》、悉《こと/″\く》破却仕之事《はきやくつかまつるのこと》。
一 一|揆《き》蜂起《ほうき》に付而《ついて》、十|月《ぐわつ》廿六|日《にち》に罷立之事《まかりたつのこと》、並《ならびに》|爲[#二]先勢[#一]《さきぜいとして》廿三|日《にち》に二|手《て》申付《まをしつけ》|遣[#レ]之候事《これをつかはしさふらふこと》。
一 會津小將殿《あひづせうしやうどの》(蒲生氏郷)[#「(蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]|可[#レ]有[#二]出馬[#一]之由《しゆつばあるべきのよし》、|號[#二]白石[#一]所《しらいしとなづくるところ》へ|被[#レ]及[#二]注進[#一]候條《ちゆうしんにおよばれさふらふでう》、先以《まづもつて》御無用之由《ごむようのよし》、挨拶申《あいさつまをす》存分之事《ぞんぶんのこと》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
若《も》し秀吉《ひでよし》に對《たい》して、異心《いしん》を挾《さしはさ》まば、何《なん》ぞ小田原《をだはら》に赴《おもむ》き謁《えつ》せん乎《や》、何《なん》ぞ會津《あひづ》を献納《けんなふ》せん乎《や》、何《なん》ぞ秀吉《ひでよし》の命《めい》を奉《ほう》じて、領内《りやうない》の城郭《じやうくわく》を破却《はきやく》せん乎《や》、何《なん》ぞ一|揆《き》蜂起《ほうき》に際《さい》して、逸早《いちはや》く出馬《しゆつば》せん乎《や》。是丈《これだけ》は辯《べん》じ得《え》て、明白《めいはく》だ。
併《しか》し蒲生《がまふ》より出兵《しゆつぺい》の通牒《つうてふ》に對《たい》して、之《これ》を拒否《きよひ》したのは、何故《なにゆゑ》である乎《か》。假令《たとひ》政宗《まさむね》の側《がは》より云《い》へば、我手《わがて》一つにて討伐《たうばつ》の責任《せきにん》を擔《にな》ふ覺悟《かくご》とするも、氏郷《うぢさと》は斯《か》く坦懷《たんくわい》に解釋《かいしやく》す可《べ》きではあるまいと思《おも》ふ。彼《かれ》が十一|月《ぐわつ》九|日附《かづけ》にて、政宗《まさむね》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》にも、『返々《かへす/″\》相待候樣《あひまちさふらふやう》にと|被[#レ]仰候由《おほせられさふらふよし》、淺《あさ》六|右《う》(淺野正勝)[#「(淺野正勝)」は1段階小さな文字]申候《まをしさふら》へども、何之道《どのみち》にも、御《ご》一|所《しよ》と存候而《ぞんじさふらうて》、相働申候《あひはたらきまをしさふらふ》。』(伊達家文書)[#「(伊達家文書)」は1段階小さな文字]とあり。又《ま》た同月日附《どうぐわつびづけ》淺野正勝《あさのまさかつ》への書状《しよじやう》にも、『返々《かへす/″\》相待候樣《あひまちさふらふやう》にと承候《うけたまはりさふら》へども、早《はや》榊原《さかきばら》(康政)[#「(康政)」は1段階小さな文字]其外《そのほか》少々《せう/\》關東衆《くわんとうしゆ》下向之由候《げかうのよしにさふらふ》。左樣候《さやうさふら》へば、其衆《そのしゆう》|被[#レ]下候《くだられさふらふ》まで、|不[#二]相働[#一]候内《あひはたらかずさふらふうち》に、居申候抔《をりまをしさふらふなど》|被[#レ]申候《まをされさふらう》ては、おとこも|不[#レ]成候《ならずさふらう》まゝ、早速《さつそく》|令[#二]出馬[#一]候《しゆつばせしめさふらふ》。』〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]とある。此《こ》れは如何《いか》に正宗側《まさむねがは》より見《み》ても、蒲生《がまふ》の申分《まをしぶん》が立派《りつぱ》だと思《おも》はるゝ。蒲生《がまふ》の立場《たちば》よりすれば、出兵《しゆつぺい》延期《えんき》を政宗《まさむね》より申《まを》し込《こ》みたるは、却《かへ》つて政宗《まさむね》の心事《しんじ》を疑《うたが》ふ資料《しれう》を、供給《きようきふ》したのではあるまい乎《か》。
氏郷《うぢさと》と政宗《まさむね》の軋轢《あつれき》は、須田伯耆《すだはうき》の一|件《けん》より、其《そ》の絶頂《ぜつちやう》に達《たつ》した。其《そ》の顛末《てんまつ》は、伊達成實《だてなりざね》の記事《きじ》に詳《つまびら》かである。
[#ここから1字下げ]
一 松森《まつもり》に御在陣《ございぢん》(氏郷)[#「(氏郷)」は1段階小さな文字]之内《のうち》、正宗公《まさむねこう》御家中《ごかちゆう》須田伯耆《すだはうき》と申者《まをすもの》、松森《まつもり》へ參《まゐつ》て、蒲生《がまふ》四|郎兵衞《ろべゑ》を頼《たの》み申上候《まをしあげさふらふ》は。政宗《まさむね》一|揆《き》に御同心《ごどうしん》にて、氏郷《うぢさと》を|討果可[#レ]申由《うちはたしまをすべきよし》|被[#レ]存候條《ぞんぜられさふらふでう》、|御油斷被[#レ]成間敷由《ごゆだんなされまじきよし》申上候而《まをしあげさふらうて》、則《すなはち》御在陣《ございぢん》に罷在候《まかりありさふらふ》に付《つき》、氏郷《うぢさと》大崎《おほさき》敵地《てきち》の内《うち》、一ヶ|所《しよ》取《とり》、其地《そのち》へ引罷《ひきまか》り度《たく》思召《おぼしめ》され、政宗《まさむね》御相談《ごさうだん》にて、名生《めふ》と申《まをす》小城《こしろ》を御責取《おんせめとり》、則《すなはち》御引籠《おんひきこもり》、普請《ふしん》をなされ御座候《ござさふらふ》。政宗《まさむね》猶《なほ》其由《そのよし》は御存知《ごぞんぢ》なく、宮澤《みやざは》の城《しろ》へ御働《おんはたらき》なされ、氏郷《うぢさと》へ御飛脚《おひきやく》を遣《つか》はされ候處《さふらふところ》に、内《うち》へも入《い》れず、押返候《おしかへしさふらふ》。宮澤《みやざは》に近陣《ちかぢん》なされ候《さふら》へば、佐沼《さぬま》に伊勢守《いせのかみ》父子《ふし》(木村吉清、同清久)[#「(木村吉清、同清久)」は1段階小さな文字]籠《こも》り候《さふらふ》を、一|揆《き》の者共《ものども》、取捲《とりま》き候故《さふらふゆゑ》、飯米《はんまい》もある間敷候間《まじくさふらふあひだ》、早々《さう/\》引出《ひきいだ》され度《たく》思召《おぼしめ》され、宮澤《みやざは》へは無事《ぶじ》に御入《おんいり》、城主《じやうしゆ》を召出《めしいだ》され、佐沼《さぬま》へ御働《おんはた》らき|被[#レ]成候由《なされさふらふよし》承《うけたまは》り、佐沼《さぬま》取卷候《とりまきさふらふ》一|揆《き》の者共《ものども》、引除候《ひきのきさふらふ》に付《つき》、伊勢守《いせのかみ》は父子《ふし》|被[#二]引出[#一]候處《ひきいだされさふらふところ》に、名生《めふ》へ參《まゐ》り、氏郷《うぢさと》に|逢可[#レ]申由《あひまをすべきよし》、申《まを》され候《さふらふ》。名生《めふ》へ參《まゐ》られ候處《さふらふところ》に、政宗《まさむね》一|揆《き》に御同心《ごどうしん》の由《よし》承《うけたまはり》、氏郷《うぢさと》同前《どうぜん》に、名生《めふに》|被[#レ]居候《をられさふらふ》。〔伊達日記〕[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは正宗側《まさむねがは》の立場《たちば》よりして、遺憾《ゐかん》なき説明《せつめい》だ。尚《な》ほ政宗《まさむね》自《みづか》らの辯明《べんめい》も、其《そ》の内覺書《ないおぼえがき》に、斯《か》く認《したゝ》めてある。
[#ここから1字下げ]
一 雜説《ざふせつ》申出候以後《まをしいでさふらふいご》、記請《きしやう》を以《もつて》互《たがひ》に申合之上《まをしあひのうへ》、須田《すだ》と申者《まをすもの》馳入候處《はせいりさふらふところ》に、悉皆《しつかい》|被[#二]隱置[#一]之事《かくしおかるゝのこと》。
一 會津小將殿《あひづせうしやうどの》(蒲生氏郷)[#「(蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]|擬可[#レ]申存分《なぞらへまをすべきぞんぶん》に候者《さふらへば》、拙者《せつしや》領分中《りやうぶんちゆう》、六|日路之間《かぢのあひだ》、御通《おとほ》り之時節《のじせつ》に|可[#レ]有[#レ]之事《あるべきこと》。
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち氏郷《うぢさと》と互《たがひ》に記請文《きしやうもん》を取換《とりかは》したる後《のち》に於《おい》て、讒人《ざんにん》須田《すだ》を、氏郷《うぢさと》陣中《ぢんちゆう》に隱匿《いんとく》し置《お》くは何事《なにごと》ぞ。若《も》し氏郷《うぢさと》を圖《はか》らんと欲《ほつ》せば、我《わ》が領内《りやうない》を六|日間《かかん》通行《つうこう》の際《さい》に、之《これ》を行《おこな》ふ可《べ》きではない乎《か》、何《なに》を苦《くるし》んで一|揆《き》の地《ち》に於《おい》てせむ。政宗《まさむね》として、此《こ》れ以上《いじやう》の辯明《べんめい》は出來《でき》ぬであらう。併《しか》し氏郷《うぢさと》の立場《たちば》より見《み》れば、疑心暗鬼《ぎしんあんき》のみではなかつた。されば彼《かれ》は名生城《めふじやう》に立《た》て籠《こも》つて、容易《ようい》に動《うご》く可《べ》き氣色《けしき》もなかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【七四】氏郷政宗軋轢の調停[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十八|年《ねん》には、氏郷《うぢさと》は三十五|歳《さい》、政宗《まさむね》は二十四|歳《さい》。然《しか》も何《いづ》れかと云《い》へば、政宗《まさむね》は年《とし》に於《おい》ては、十二|歳《さい》の年下《としした》であつたが、其《そ》の世態人情《せたいにんじやう》に通曉《つうげう》した點《てん》に於《おい》ては、とても矜貴《きようき》、豪邁《がうまい》なる一|本調子《ぽんでうし》の漢《をのこ》たる、氏郷《うぢさと》の比《ひ》ではなかつた。彼《かれ》は蜘蛛《くも》の網《あみ》を張《は》る如《ごと》く、八|方《ぱう》に其《そ》の手《て》を擴《ひろ》げた。企《くはだ》て得《え》らるゝ丈《だけ》の事《こと》は企《くわだ》て、成《な》し得《え》らるゝ丈《だけ》の事《こと》は成《な》した。惡魔《あくま》と會食《くわいしよく》する時《とき》には、長匙《ちやうひ》を用《もち》ふ可《べ》しとは、彼《かれ》に對《たい》する適當《てきたう》の言《げん》だ。氏郷《うぢさと》が此《こ》の煮《に》ても、燒《や》いても、喰《く》はれぬ代物《しろもの》を對手《あひて》として、一|揆《き》の討伐《たうばつ》に從事《じゆうじ》したのは頗《すこぶ》る同情《どうじやう》に値《あた》ひする事《こと》であつた。
政宗《まさむね》は本來《ほんらい》、我《わ》が腕前《うでまへ》にて取《と》つた會津《あひづ》を、秀吉《ひでよし》に献納《けんなふ》するを、愉快《ゆくわい》とは思《おも》うて居《ゐ》なかつた。彼《かれ》は其《そ》の前後《ぜんご》に於《おい》て、定《さだ》めて種々《しゆ/″\》の小細工《こざいく》をしたのであらう。現《げん》に天正《てんしやう》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》六|日附《かづけ》にて、和久宗是《わくそうぜ》が、政宗《まさむね》に與《あた》へたる書中《しよちゆう》にも、
[#ここから1字下げ]
抑《そも/\》下劣《げれつ》の比喩《たとへ》に、臭物《くさきもの》に蓋《ふた》をし候樣《さふらふやう》なる御才覺《ごさいかく》は、毛頭《まうとう》あるまじく候《さふらふ》。其故《そのゆゑ》は差《さ》す敵共《てきども》候《さふらう》て、其所《そこ》に案内者《あんないしや》|有[#レ]之物《これあるもの》にて、御油斷候《ごゆだんさふらう》ては、|不[#レ]可[#レ]然候《しかるべからずさふらふ》。兎角《とかく》殿下樣《でんかさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]へ|被[#二]打任[#一]《うちまかされ》、如何樣《いかやう》の事《こと》なり共《とも》、御意次第《ぎよいしだい》と|被[#二]仰上[#一]候《おほせあげられさふら》はゞ、御身上《おんみのうへ》も尚以《なほもつて》|可[#レ]爲[#二]珍重[#一]候《ちんちようたるべくさふらふ》。御訴訟《ごそしよう》がましき事《こと》、|被[#二]仰上[#一]候《おほせあげられさふらう》ては、還而《かへつて》御爲《おんた》めになり候《さふらふ》まじく候《さふらふ》。其御分別《そのごふんべつ》肝要候《かんえうにさふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とあるに於《おい》て、其《そ》の一|斑《ぱん》が想像《さうざう》せらるゝではない乎《か》。
政宗《まさむね》には隱謀《いんぼう》の僻《へき》があつた。併《しか》し其《そ》の破綻《はたん》を拾收《しふしう》、彌縫《びほう》するの手際《てぎは》は、何時《いつ》も鮮《あざや》かであつた。特《とく》に彼《かれ》は危《あやふ》きに臨《のぞ》んで囘避《くわいひ》せず、何時《いつ》も冐進策《ばうしんさく》を取《と》つて、之《これ》を切《き》り拔《ぬ》けた。彼《かれ》は餘《あま》りに野心《やしん》多《おほ》く、餘《あま》りに策《さく》を弄《ろう》する點《てん》より云《い》へば、、處世《しよせい》の上乘《じやうじよう》に達《たつ》したものとは云《い》ふ可《べ》きではないが。その難所《なんしよ》、節所《せつしよ》を甘《うま》く跳脱《てうだつ》する技巧《ぎこう》に至《いた》りては、實《じつ》に無上《むじやう》の辣腕家《らつわんか》と云《い》ふ可《べ》きであらう。如何《いか》に割引《わりびき》しても、人海遊泳術《じんかいいうえいじゆつ》の選手《せんしゆ》たる資格《しかく》は十|分《ぶん》だ。
扨《さて》も氏郷《うぢさと》と政宗《まさむね》とは、互《たが》ひに記請《きしやう》を交換《かうくわん》した。
[#ここから1字下げ]
一 今度《このたび》佐沼《さぬま》後卷仕付而《うしろまきつかまつるについて》、政宗《まさむね》無《む》二|以[#二]御覺悟[#一]《のごかくごをもつて》、我等《われら》同前《どうぜん》に相働《あひはたらき》、木村伊勢守《きむらいせのかみ》父子《ふし》助申儀《たすけまをすぎ》、|無[#二]比類[#一]《ひるゐなき》次第《しだい》、偏《ひとへに》|對[#二]上樣[#一]《うへさまにたいし》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]御忠節之事《ごちゆうせつのこと》。
一 |如[#一]此之上者《かくのごときのうへは》、葛西《かさい》大崎之儀《おほさきのぎ》、政宗《まさむね》へ|被[#二]預置[#一]候樣《あづけおかれさふらふやう》に、上樣江《うへさまへ》御取成《おとりなし》|可[#二]申上[#一]候事《まをしあぐべくさふらふこと》。
一 此以來《これいらい》申談上者《まをしだんずるうへは》、自然《しぜん》中説等《ちゆうせつとう》|在[#レ]之者《これあらば》、則《すなはち》其名指有《そのなざしある》姿《すがた》申理《まをしことわり》、|不[#レ]可[#レ]有[#二]疎略[#一]事《そりやくあるべからざること》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは天正《てんしやう》十八|年《ねん》十一|月《ぐわつ》廿八|日附《にちづけ》にて、氏郷《うぢさと》より政宗《まさむね》へ與《あた》へた起請文《きしやうもん》の前書《まへがき》だ。
又《ま》た同月日附《どうぐわつびづけ》にて、政宗《まさむね》より氏郷《うぢさと》へ與《あた》へたる起請文《きしやうもん》の前書《まへがき》にも、
[#ここから1字下げ]
一 今度《このたび》木村伊勢守《きむらいせのかみ》一|揆《き》蜂起付而《ほうきについて》、佐沼《さぬま》後卷仕《うしろまきつかまつり》、伊勢守《いせのかみ》親子《おやこ》助申儀《たすけまをすぎ》、偏《ひとへに》氏郷《うぢさと》御働故《おはたらきゆゑ》與《と》存之事《ぞんじのこと》。
一 |如[#レ]此《かくのごとく》互《たがひに》申談上者《まをしだんずるうへは》、向後《きやうご》|對[#二]氏郷へ[#一]《うじさとへたいし》、別心《べつしん》表裏《へうり》|不[#レ]可[#レ]有[#レ]之事《これあるべからざるのこと》。
一 此以來《これいらい》、氏郷《うぢさと》政宗《まさむね》御間之儀《おんなかのぎ》、中説申《ちゆうせつまをす》族《やから》|於[#レ]在[#レ]之者《これあるにおいては》、|尋[#二]分其名指[#一]《そのなざしをたづねわけ》以《もつて》|可[#二]申理[#一]之事《まをしことわるべきのこと》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。斯《かく》の如《ごと》く互《たが》ひに誓書《せいしよ》を交換《かうくわん》しても、氏郷《うぢさと》の胸中《きようちゆう》は、猶《な》ほ釋然《しやくぜん》たらざるものがあつた。されば政宗《まさむね》は十二|月《ぐわつ》七|日《か》、杉目《すぎめ》(福島)[#「(福島)」は1段階小さな文字]に還《かへ》り、原田宗時《はらだむねとき》、濱田景隆《はまだかげたか》を使《つかひ》とし、二|本松《ほんまつ》にある淺野長政《あさのながまさ》に就《つい》て、
[#ここから1字下げ]
政宗《まさむね》飛彈殿《ひだどの》(蒲生氏郷)[#「(蒲生氏郷)」は1段階小さな文字]へ意趣《いしゆ》|可[#レ]有[#レ]之儀《これあるべきぎ》に、|無[#レ]之候《これなくさふらふ》。縱《よし》飛彈殿《ひだどの》を生害《しやうがい》させ申《まをす》とも、天下《てんか》を敵《てき》に致《いたし》、何《なに》とて|可[#二]罷成[#一]候哉《まかりなるべくさふらふや》。各樣《おの/\さま》御分別《ごふんべつ》は須田伯耆《すだはうき》(正宗の家中にて、蒲生氏郷に内通したる者)[#「(正宗の家中にて、蒲生氏郷に内通したる者)」は1段階小さな文字]申候儀《まをしさふらふぎ》を御承引《ごしよういん》、迷惑仕候《めいわくつかまつりさふらふ》。〔伊達日記〕[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》く云《い》はしめた。而《しか》して政宗《まさむね》は飯坂《いひざか》に滯陣《たいぢん》して、其《そ》の返事《へんじ》を待《ま》つた。淺野《あさの》は固《もと》より政宗《まさむね》に小田原役《をだはらえき》の前後《ぜんご》より、因縁《いんえん》淺《あさ》からぬ間柄《あひだがら》だ。されば淺野《あさの》は政宗《まさむね》の辯疏《べんそ》を諒《りやう》として、更《さ》らに其《そ》の速《すみや》かに上京《じやうきやう》して、秀吉《ひでよし》に親《した》しく申明《まをしあか》す可《べ》く、二|使《し》に申《まを》し含《ふく》めた。而《しか》して何《いづ》れにしても、氏郷《うぢさと》を名生《めふ》より會津《あひづ》へ復歸《ふくき》せしむる事《こと》が、先決問題《せんけつもんだい》だ。然《しか》も氏郷《うぢさと》は政宗《まさむね》を疑《うたが》うて、容易《ようい》に動《うご》く可《べ》くもなかつた。是《こゝ》に於《おい》て天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》朔日《ついたち》、遂《つ》ひに淺野正勝《あさのまさかつ》と共《とも》に、伊達成實《だてなりざね》、國分盛重《こくぶもりしげ》を氏郷《うぢさと》に質《ち》として、送《おく》らしめた。正勝《まさかつ》は、淺野長政《あさのながまさ》より政宗《まさむね》への附《つ》け人《びと》であつた。
[#ここから1字下げ]
天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》朔日《ついたち》に名生《めふ》へ、彦《ひこ》九|郎《らう》(國分盛重)[#「(國分盛重)」は1段階小さな文字]六|右衞門《ゑもん》(淺野正勝)[#「(淺野正勝)」は1段階小さな文字]我等《われら》(伊達成實)[#「(伊達成實)」は1段階小さな文字]參《まゐり》、氏郷《うぢさと》へ|懸[#二]御目[#一]《おんめにかゝり》、御供《おんとも》、黒川《くろかは》に一|宿被[#レ]成《しゆくなされ》、岩沼《いはぬま》に御留《おとまり》。一|日《じつ》宮《みや》に御逗留候而《ごとうりうさふらうて》、二|本松《ほんまつ》へ御通候《おとほりさふらふ》。大森《おほもり》にて、氏郷《うぢさと》私宿《わたくしやど》へ御出《おんいで》、早々《さう/\》|可[#二]罷歸[#一]由《まかりかへるべきよし》御理《おことわり》に候《さふらふ》。二|本松迄《ほんまつまで》|御供可[#レ]仕由《おともつかまつるべきよし》申候《まをしさふら》へども、頻《しきりに》|被[#レ]仰候間《おほせられさふらふあひだ》、飯坂《いひざか》へまかり歸候《かへりさふらふ》。一|日《にち》過候《すぎさふらう》て、政宗《まさむね》二|本松《ほんまつ》へ御出候《おんいでにさふらふ》。彈正殿《だんじやうどの》(淺野長政)[#「(淺野長政)」は1段階小さな文字]事《こと》の外《ほか》御喜《およろこび》かやうの儀《ぎ》を、人《ひと》の申唱《まをしとなへ》によつて、御氣遣《おきづかひ》をなされ笑止《せうし》に存候《ぞんじさふらふ》、由《よし》仰《おほせ》られ、|御馳走被[#レ]成候《ごちそうなされさふらふ》。春中《はるぢゆう》大崎《おほさき》へ|御働可[#レ]被[#レ]成由《おはたらきなさるべきよし》、彈正殿《だんじやうどの》へ|被[#二]仰合[#一]《おほせあはされ》、暮程《くれほど》に御歸《おかへり》、九|日《か》に飯坂《いひざか》より米澤《よねざは》へ御歸城候《ごきじやうにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち氏郷《うぢさと》は政宗《まさむね》の質《ち》を携《たづさ》へて、名生城《めふじやう》を出《い》でゝ會津《あひづ》に返《かへ》り。政宗《まさむね》も亦《ま》た飯坂《いひざか》より二|本松《ほんまつ》に赴《おもむ》き、長政《ながまさ》に會《くわい》して、米澤《よねざは》に還《かへ》つた。
[#改ページ]

 

戻る ホーム 上へ 進む

僕の作業が遅くて待っていられないという方が居られましたら、連絡を頂ければ、作業を引き渡します。また部分的に代わりに入力して下さる方がいましたら、とてもありがたいのでその部分は、何々さん入力中として、ホームページ上に告知します。メールはこちらまで