第十三章 秀吉の東北巡回
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[#4字下げ][#大見出し]第十三章 秀吉の東北巡回[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【六五】秀吉會津に向ふ[#中見出し終わり]

小田原城《をだはらじやう》既《すで》に落《お》つ、東北《とうほく》の平定《へいてい》は、山上《さんじやう》より圓石《ゐんせき》を轉《てん》ずるが如《ごと》く、輕舟《けいしう》に乘《じよう》じて、急湍《きふたん》を下《くだ》るが如《ごと》く、自然《しぜん》の勢《いきほひ》だ。此《こ》の自然《しぜん》の勢《いきほひ》を利用《りよう》し、活用《くわつよう》するに於《おい》て、拔目《ぬけめ》なきが秀吉《ひでよし》の腕前《うでまへ》だ。
扨《さて》も秀吉《ひでよし》は、小田原《をだはら》の開城《かいじやう》に先《さきだ》ち、七|月《ぐわつ》三|日《か》、近臣《きんしん》垣見家純等《かきみいへずみら》五|人《にん》を奉行《ぶぎやう》として、小田原《をだはら》より會津《あひづ》に至《いた》るの道路《だうろ》、橋梁《けうりやう》を修築《しうちく》せしめた。道路《だうろ》は三|間幅《げんはゞ》と定《さだ》め、行軍《かうぐん》の便宜《べんぎ》を得《え》せしめた。同《どう》五|日《か》には淺野長政《あさのながまさ》をして、陸奧《むつ》を巡察《じゆんさつ》せしめた。十三|日《にち》には秀吉《ひでよし》小田原城《をだはらじやう》に入《い》り、十七|日《にち》に小田原《をだはら》を發《はつ》して、會津《あひづ》に赴《おもむ》いた。家忠日記《いへたゞにつき》には十六|日《にち》とあり、家忠日記追加《いへたゞにつきつゐか》、及《およ》び改正參河後風土記《かいせいみかはごふどき》には、十四|日《か》とある。彼《かれ》は鎌倉《かまくら》を見物《けんぶつ》した。
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鎌倉《かまくら》|御見物被[#レ]成《ごけんぶつなされ》、則《すなはち》若宮八幡《わかみやはちまん》へ|御立寄被[#レ]成候時《おたちよりなされさふらふとき》、社人《しやびと》御戸《おんと》を開《ひら》き申候《まをしさふら》へば、左《ひだ》りに頼朝《よりとも》の木像《もくざう》あるを御覽付《ごらんつけ》られ、御言葉《おことば》には、頼朝《よりとも》には天下《てんか》の友達《ともだち》に候《さふらふ》よ。あひしらひ等輩《とうはひ》に|可[#レ]仕候《つかまつるべくさふら》へども、秀吉《ひでよし》は關白《くわんぱく》なれば、貴所《きしよ》よりは位《くらゐ》上《うへ》にて候間《さふらふあひだ》、あひしらひさけ申候《まをしさふらふ》。頼朝《よりとも》は天下《てんか》を取《とる》筋《すぢ》の人《ひと》にて候《さふらふ》を、清盛《きよもり》うつけを盡《つく》し、伊豆《いづ》え流置《ながしおき》、年月《としつき》立候内《たちさふらふうち》に、東國《とうごく》は親父《ちゝ》義朝《よしとも》の恩情《おんじやう》蒙《かうむ》る侍共《さむらひども》、昔《むかし》を思《おも》ひ出《いで》、貴所《きしよ》を取立申候《とりたてまをしさふらふ》と聞《きこ》え申候《まをしさふらふ》。氏系圖《うぢけいづ》に於《おい》ては、多田《ただ》の滿仲《みつなか》の末葉《ばつえふ》なり。|無[#二]殘所[#一]《のこることろなき》系圖《けいづ》なり。秀吉《ひでよし》は耻敷《はづかしく》は候《さふら》へども、昨今迄《さくこんまで》の草刈《くさかり》わらんべなり。或時《あるとき》は草履採抔《ざうりとりなど》仕候故《つかまつりさふらふゆゑ》、氏《うぢ》も系圖《けいづ》も|持不[#レ]申候《もちまをさずさふら》へども、秀吉《ひでよし》は心《こゝろ》たまらざる目口《めくち》かはき[#「かはき」に傍点]故《ゆゑ》、ヶ樣《かやう》罷在候《まかりありさふらふ》。御身《おんみ》は天下《てんか》取筋《とるすぢ》にて候《さふら》へば、目口《めくち》かはき故《ゆゑ》とは|不[#レ]存候《ぞんぜずさふらふ》。生《うま》れ付《つき》果報《くわはう》有故《あるゆゑ》なりと、御《お》しやれ事《ごと》|被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》と承《うけたまは》り候《さふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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徒手《としゆ》天下《てんか》を取《と》つたのは、君《きみ》と我《われ》とのみだが、然《しか》も君《きみ》は源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》で、我《われ》は草※[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、325-12]《さうまう》の一|匹夫《ひつぷ》だ。君《きみ》は果報《くわはう》で天下《てんか》を取《と》り、我《われ》は腕前《うでまへ》で天下《てんか》を取《と》つた。是《こ》れ如何《いか》にも秀吉《ひでよし》の口吻《こうふん》らしく思《おも》はるゝ。
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夫《それ》より一|兩日《りやうじつ》江戸《えど》へ|御逗留被[#レ]成《ごとうりうなされ》樣子《やうす》御《おん》さげすみ候《さふらう》て、奧《あう》へ|御通被[#レ]成候《おとほりなされさふらふ》。路次《ろじ》にて佐野天※[#「徳のつくり」の「心」に代えて「一/心」、第4水準2-12-48]寺《さのてんとくじ》(了伯)[#「(了伯)」は1段階小さな文字]|被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、小田原《をだはら》へ禮《れい》に罷出候時《まかりいでさふらふとき》は、早々故《さう/\ゆゑ》尋度事《たづねたきこと》失念《しつねん》に候《さふらふ》。其方《そなた》古《ふる》き人《ひと》なりとて、信玄《しんげん》、越後《ゑちご》の樣子《やうす》、扨《さては》上杉家《うへすぎけ》の次第《しだい》、|御尋被[#レ]成候《おたづねなされさふらふ》。御返事《ごへんじ》には、其義《そのぎ》にて御座候《ござさふらふ》、信玄《しんげん》は十六|歳《さい》の時《とき》より、五十三|迄《まで》の間《あひだ》に、武道《ぶだう》に一|度《ど》も勝利《しようり》を|不[#レ]被[#レ]失《うしなはれず》と|被[#二]申上[#一]候《まをしあげられさふらふ》。此仁《このひと》東國仁《とうごくのひと》なれば、右《みぎ》の三|家《け》強《つよ》き樣《やう》に|被[#二]申上[#一]候處《まをしあげられさふらふところ》、御意《ぎよい》には左《さ》も有《あ》らん、左樣《さやう》にはか[#「はか」に傍点]をやらする小刀利《せうたうきゝ》の武道《ぶだう》にては、天下《てんか》に思《おも》ひ掛《かけ》る事《こと》は、中々《なか/\》|不[#二]思寄[#一]事《おもひよらざること》たるべきなり。此者《このもの》など早《はや》く相果《あひはて》、外聞《ぐわいぶん》をば失《うしな》ひ|不[#レ]申候《まをさずさふらふ》。其故《そのゆゑ》は只今迄《たゞいままで》|於[#レ]有[#レ]之《これあるにおいて》は、秀吉《ひでよし》が草履取《ざうりとり》に|可[#レ]遺者《つかふべきもの》なりと|御意被[#レ]成候《ぎよいなされさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ亦《ま》た秀吉《ひでよし》の口吻《こうふん》其《そ》の儘《まゝ》だ。秀吉《ひでよし》の意氣《いき》想《おも》ふ可《べ》しぢや。彼《かれ》は江戸城《えどじやう》の北曲輪《きたくるわ》平川口《ひらかはぐち》の法恩寺《ほふおんじ》を旅館《りよくわん》として、廿四|日迄《かまで》滯在《たいざい》し、廿六|日《にち》宇都宮《うつのみや》に至《いた》り、伊達政宗《だてまさむね》、最上義光《もがみよしあき》、及《およ》び木村清久等《きむらきよひさら》を召《め》した。木村《きむら》は曩《さき》に秀吉《ひでよし》の命《めい》を奉《ほう》じ、伊達政宗《だてまさむね》と共《とも》に東下《とうか》し、黒川城《くろかはじやう》に赴《おもむ》き、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに假館《かりくわん》、及《およ》び其《そ》の他《た》の工事《こうじ》を監督《かんとく》したのだ。
二十八|日《にち》政宗《まさむね》來《きた》り謁《えつ》した。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》及《およ》び其《そ》の重臣《ぢゆうしん》片倉景綱《かたくらかげつな》を召《め》し、茶會《ちやくわい》を催《もよほ》し、政宗《まさむね》に卯《う》の花威《はなおどし》の鎧《よろひ》、熊毛《くまげ》の冑《かぶと》、團扇等《うちはとう》を賜《たま》ひ、景綱《かげつな》に采配《さいはい》其他《そのた》の物《もの》を賜《たま》うた。而《しか》して淺野長政《あさのながまさ》、木村清久等《きむらきよひさら》と共《とも》に、九戸政實《くのへまさざね》を討伐《たうばつ》す可《べ》きを命《めい》じた。
又《ま》た彼《かれ》は本多忠勝《ほんだたゞかつ》を召《め》して、佐藤忠信《さとうたゞのぶ》の冑《かぶと》を與《あた》へた。
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北條《ほうでう》亡《ほろ》びて、關白殿《くわんぱくどの》東山道《とうさんだう》に下《くだ》り玉《たま》ひしが、忠勝《たゞかつ》を下野國《しもつけのくに》宇都宮《うつのみや》の御陣《ごぢん》に召《め》されて、冑《かぶと》一つ取出《とりいだ》して、奧《あう》の佐藤忠信《さとうたゞのぶ》が著《き》たりしとて、此程《このほど》陸奧國《むつのくに》より參《まゐ》らせたる冑《かぶと》なり。當時《たうじ》忠勝《たゞかつ》ならで、此冑《このかぶと》きんずるもの覺《おぼ》えねば、賜《たまは》らんとて召《め》しけるぞとて、賜《たま》ひけり。時《とき》の人《ひと》、羨《うらやま》しき事《こと》に思《おも》ひしに、忠勝《たゞかつ》が嫡子《ちやくし》平《へい》八|郎忠政《らうたゞまさ》今年《こんねん》十六|歳《さい》に成《なり》けるが、父《ちゝ》に向《むか》ひ、父御《ちゝご》は、まさしく徳川殿《とくがはどの》の侍大將《さむらひだいしやう》にてこそ侍《はべ》れ、義經《よしつね》の侍《さむらひ》の冑《かぶと》何條《なんでう》の事《こと》あらん、とく返《かへ》させ玉《たま》ふべしとぞ怒《いかり》ける。同年《どうねん》徳川殿《とくがはどの》關東《くわんとう》へ御移《おうつり》あり、井伊《ゐい》、本多《ほんだ》、榊原《さかきばら》、大久保《おほくぼ》などは、よのつねの御家人《ごけにん》に准《じゆん》ずべからずと、關白《くわんぱく》の仰《おほせ》ありければ、上總《かづさ》大多喜《おほだき》の城《しろ》に、あまた地《ち》つけて、給《たまひ》てけり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の郡雄《ぐんゆう》賀御術《がぎよじゆつ》や、一|寛《くわん》一|猛《まう》、往《ゆ》く所《ところ》として可《か》ならざるはなしだ。乃《すなは》ち徳川氏《とくがはし》の臣下《しんか》さへも、之《これ》に隨喜《ずゐき》し、之《これ》に心醉《しんすゐ》するを禁《きん》ずる能《あた》はざるものあつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六六】蒲生氏郷を會津に封ず[#中見出し終わり]

八|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、秀吉《ひでよし》は佐竹義重《さたけよししげ》、及《およ》び其《そ》の子《こ》義宣《よしのぶ》に本領《ほんりやう》安堵《あんど》の朱印《しゆいん》を與《あた》へ、常陸《ひたち》の旗頭《はたがしら》となし、妻孥《さいど》を京都《きやうと》に送《おく》らしめた。伊達政宗《だてまさむね》、最上義光《もがみよしあき》も亦《ま》た然《しか》りだ。由良國繁《ゆらくにしげ》の母《はゝ》赤井氏《あかゐし》に、常陸《ひたち》牛久《うしく》の地《ち》五千四百|石《こく》を與《あた》へた。國繁《くにしげ》及《およ》び其《そ》の弟《おとうと》長尾顯長《ながをあきなが》は、小田原城《をだはらじやう》に在《あ》つたが、赤井氏《あかゐし》は其《そ》の孫《まご》貞繁《さだしげ》をして、秀吉方《ひでよしがた》に屬《ぞく》せしめ、後《のち》自《みづ》から小田原《をだはら》に來《きた》り謁《えつ》した。
七|日《か》陸奧《むつ》長沼城主《ながぬまじやうしゆ》新國盛秀《にひくにもりひで》、九|日《か》同《どう》名生城主《なふじやうしゆ》大崎義隆《おほさきよしたか》[#ルビの「おほさきよしたか」は底本では「おほさきよしかた」]、同《どう》登米城主《とよまじやうしゆ》葛西晴信《かさいはるのぶ》、同《どう》石川城主《いしかはじやうしゆ》石川昭光《いしかはあきみつ》、同《どう》白川城主《しらかはじやうしゆ》結城義親等《ゆふきよしちから》の小田原《をだはら》の師《し》に會《くわい》せざるを罰《ばつ》し、何《いづ》れも其《そ》の邑《いふ》を沒收《ぼつしう》し、蒲生氏郷《がまふうぢさと》を、會津《あひづ》四|郡《ぐん》、南仙道《なんせんだう》五|郡《ぐん》の四十二|萬石《まんごく》に封《ほう》じて、奧羽《あうう》の鎭將《ちんしやう》とした。而《しか》して木村清久《きむらきよひさ》、其《そ》の父《ちゝ》吉清父子《よしきよふし》に與《あた》ふるに、葛西《かさい》大崎《おほさき》の三十|萬石《まんごく》を以《もつ》てした。
惟《おも》ふに東北《とうほく》の鎭將《ちんしやう》としては、恐《おそ》らく堀秀政《ほりひでまさ》を、擬《ぎ》して居《ゐ》たのであらう。然《しか》も彼《かれ》は小田原陣中《をだはらぢんちゆう》に歿《ぼつ》した。爾後《じご》其《そ》の人《ひと》を得《う》るに難《かた》んじたのは、云《い》ふ迄《まで》もない。何《なん》となれば一|方《ぱう》には、江戸《えど》の家康《いへやす》を控制《こうせい》し、他方《たはう》には伊達政宗《だてまさむね》を牽掣《けんせい》し、延《ひ》いて奧羽《あうう》の奧地迄《おくちまで》も、鎭壓《ちんあつ》するの重責《ぢゆうせき》あるが爲《た》めだ。
當初《たうしよ》は、細川忠興《ほそかはたゞおき》と云《い》ふ説《せつ》もあつた。
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忠興《たゞおき》は御政事《ごせいじ》の爲《ため》に仰付《おほせつけ》らるゝ儀《ぎ》に候《さふら》はゞ畏《かしこま》り候《さふらふ》。御恩賞《ごおんしやう》の思召《おぼしめし》に候《さふら》はゞ父《ちゝ》幽齋《いうさい》老年《らうねん》に候故《さふらふゆゑ》、甚《はなは》だ遠國《ゑんごく》に候事《さふらふこと》迷惑《めいわく》に候《さふら》へば、御免《おゆる》しを蒙《かうむ》りたしと申《まをし》ける。關白《くわんぱく》も理《ことわ》りとや聞給《きゝたま》ひけん、敢《あへ》て仰出《おほせいだ》さるゝ旨《むね》もなし。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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何《いづ》れにもせよ秀吉《ひでよし》は、蒲生氏郷《がまふうぢさと》を、其《そ》の重任《ぢゆうにん》に膺《あた》らしめた。
從來《じゆうらい》氏郷《うぢさと》は、近江《あふみ》日野《ひの》六|萬石《まんごく》より、小牧役《こまきえき》の戰功《せんこう》にて、伊勢《いせ》松島《まつしま》十二|萬石《まんごく》となつた。今《いま》や十二|萬石《まんごく》より四十二|萬石《まんごく》となつたのは、破格《はかく》の出世《しゆつせ》と云《い》はねばならぬ。彼《かれ》は武勇《ぶゆう》當代《たうだい》に冠絶《くわんぜつ》した。彼《かれ》は信長《のぶなが》の聟《むこ》にて、信長《のぶなが》の直弟子《ぢきでし》であつた。而《しか》して又《ま》た恒《つね》に兵馬《へいば》に秀吉《ひでよし》に從《したが》うて、得《う》る所《ところ》あつた。彼《かれ》は當時《たうじ》に於《おい》て、比較的《ひかくてき》學問《がくもん》もあつた。茶湯《ちやのゆ》、謠曲《えうきよく》、和歌《わか》、あらゆる風雅《ふうが》の道《みち》にも長《ちやう》[#ルビの「ちやう」は底本では「ちや」]じて居《ゐ》た。彼《かれ》の自《みづか》ら語《かた》る所《ところ》によれば、
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野拙《やせつ》若年《じやくねん》の頃《ころ》、南化和尚《なんげおしやう》に、|奉[#レ]親《したしみたてまつり》、儒釋道《じゆしやくのみち》時々《とき/″\》|得[#二]尊意[#一]《そんいをえ》。又《また》三|條西殿《でうにしどの》、右府《うふ》其外《そのほか》宗養《そうやう》、紹巴抔《せうはなど》歌道《かだう》に熱心仕《ねつしんつかまつり》、朝暮《てうぼ》心掛候故《こゝろがけさふらふゆゑ》、ある時《とき》、當座《たうざ》の會《くわい》侍《はべり》しに、落花隨風《らくくわずゐふう》といふ題《だい》にて、
 雪《ゆき》か雲《くも》かとばかり見《み》せて山風《やまかぜ》の、花《はな》に吹《ふ》き立《た》つ春《はる》の夕暮《ゆふぐれ》。
と云《い》ふ歌《うた》をつかふまつりしに、各《おの/\》感《かん》ぜられ。又《また》茶《ちや》の湯《ゆ》を心《こゝろ》がけ、是《これ》も旦夕《たんせき》翫《もてあそび》しに、露地《ろぢ》の作《つく》り、飛石《とびいし》の据樣《すゑやう》、人《ひと》に手本《てほん》にせらるゝ樣《やう》にて、儒道《じゆだう》、歌道《かだう》、茶湯計《ちやのゆばかり》に心懸候處《こゝろがけさふらふところ》。其頃《そのころ》弓矢《ゆみや》修行仕《しゆぎやうつかまつ》る齋藤内藏介《さいとうくらのすけ》といふ者《もの》、申樣《まをすやう》は、|不[#レ]入事《いらざること》に心《こゝろ》を盡《つく》すより、家職《かしよく》に心《こゝろ》を|被[#レ]入《いれられ》よと云々《うんぬん》、度毎《たびごと》に諫《いさ》められ候得共《さふらへども》、若輩故《じやくはいゆゑ》か、左《さ》のみ耳《みゝ》にも|不[#レ]留《とゞめず》打過候《うちすぎさふらふ》。
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とある。此《こ》れは氏郷《うぢさと》の友人《いうじん》伊東長門守《いとうながとのかみ》の子《こ》、伊東半《いとうはん》五|郎《らう》の學問《がくもん》に耽《ふけ》るを忠告《ちゆうこく》する爲《た》めの書簡《しよかん》なれども、亦《ま》た氏郷《うぢさと》が少年《せうねん》よりの教養《けうやう》、尋常《じんじやう》ならざる事《こと》が判知《わか》る。而《しか》して彼《かれ》は實《じつ》に財《ざい》を輕《かろん》じ、士《し》を愛《あい》した。
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第《だい》一|家中《かちゆう》の者《もの》に情《なさけ》を深《ふか》く、知行《ちぎやう》を|可[#レ]被[#レ]遣候《つかはさるべくさふらふ》。知行計《ちぎやうばかり》にて、情《なさけ》をかけ候《さふら》はねばならぬ事《こと》に候《さふらふ》。本《もと》より情《なさけ》念頃振計《ねんごろぶりばかり》にて、知行《ちぎやう》をとらせねば徒《いたづ》ら事《ごと》に候《さふらふ》。知行《ちぎやう》と情《なさけ》を車《くるま》の兩輪《りやうりん》、鳥《とり》の翅《つばさ》の如《ごとく》に候《さふら》はねば|不[#レ]叶事《かなはざること》に候《さふらふ》。我身《わがみ》の不辨《ふべん》を苦勞《くらう》に|被[#二]思召[#一]間敷候《おぼしめされまじくさふらふ》。家中《かちゆう》のすりきりをいたわり|可[#レ]被[#レ]申候《まをさるべくさふらふ》。町人抔《ちやうにんなど》こそ利錢《ちせん》利潤《りじゆん》專《もつぱ》らと存候得《ぞんじさふらえ》、士《さむらひ》は左樣《さやう》の事《こと》を、毛頭《まうとう》|不[#レ]可[#二]心掛[#一]《こゝろがくべからず》。當年《たうねん》の知行物成《ちぎやうものなり》、來年《らいねん》の六|月《ぐわつ》までに遣《つか》ひ拂候得《はらひさふらえ》ば、其秋《そのあき》は一|萬石《まんごく》は又《また》一|萬石《まんごく》の知行《ちぎやう》出來候《できさふらふ》。年々《ねん/\》|不[#レ]絶物《たえざるもの》にて、士《さむらひ》の本《もと》は、武勇《ぶゆう》ある者《もの》を抱置《かゝえおき》、武勇《ぶゆう》の譽《ほまれ》さへ候得《さふらへ》ば、立身《りつしん》は疑《うたがひ》も|無[#レ]之者《これなきもの》と見候《みえさふらふ》。
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是亦《これま》た前書《ぜんしよ》の一|節《せつ》だ。
其《そ》の故人《こじん》の子《こ》に訓告《くんこく》する所《ところ》を見《み》れば、如何《いか》に氏郷《うぢさと》が平昔《へいせき》受用《じゆよう》した所《ところ》が思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。當時《たうじ》山崎右京《やまざきうきやう》が氏郷《うぢさと》に向《むか》つて、大身《たいしん》に拔擢《ばつてき》せられて御手柄《おてがら》に候《さふらふ》と云《い》うたが、氏郷《うぢさと》は大身《たいしん》に候得共《さふらえども》、奧州《あうしう》の田舍者《ゐなかもの》に成《なり》て、最早《もはや》すたれ候《さふらふ》と答《こた》へたから、人々《ひと/″\》其《そ》の大志《たいし》を感《かん》じたと云《い》ふ逸話《いつわ》が傳《つたは》つて居《ゐ》る。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]家康《いへやす》の相手《あひて》としては、聊《いさゝ》か物足《ものた》らぬが、政宗《まさむね》に對《たい》しては、絶好《ぜつかう》の取組《とりくみ》だ。秀吉《ひでよし》が氏郷《うぢさと》を會津《あひづ》に据《す》ゑたのは、流石《さすが》に眼力《がんりき》ありと云《い》はねばならぬ。而《しか》して此《こ》の眼力《がんりき》は、近《ちか》き將來《しやうらい》に於《おい》て、乍《たちま》ち證明《しようめい》せられた。
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[#6字下げ]氏郷の會津築城
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天正十九年閏正月三日、家康公關東御入國以後、初めての御上洛として江戸表御首途遊ばされ、同十五日御入洛なされ候所、蒲生氏郷も會津拜領の御禮として上京あるに付、御在京中毎度御參會遊ばされ候と也。右御參會の節、家康公氏郷へ會津城普請の儀を御尋遊ばされ候に付、氏郷申上られ候は、葦名時代より會津の城の儀は皆以て芝土居にて有[#レ]之候を、今度石垣に築き申候。不肖の私を奧州の押へと過分の加恩に罷預り候へば、せめて居城をなりとも、見苦しからざる如く取立可[#レ]申と存じ、諸國の城々の普請の樣子をも承はり合せ候所、毛利輝元居城、藝州廣島の城普請の樣子、私心に相叶ひ候に付、會津の城本丸外郭共に廣島の城に似寄候樣に取立可[#レ]申と存じ候と、申上られ候へば、家康公聞召れ惣じて居城の大小と在るは、城主の身上相應の心得可[#レ]有[#レ]之事にて、本丸を始め二三までの曲輪の儀は、塀矢倉等の儀も、隨分念を入れ丈夫に致し候儀尤に候、其外の曲輪の儀も一二の門、外形等の儀は城(急の誤か)の普請出來兼申に付、豫て普請共致し置かずしては叶はざる事候、惣構の塀などの儀は、其心懸をさへ致し置候へば、急用の節も出來申ものなれば、常に土居石垣計りにて差置たるが善く候、長塀の掛置とあるは用に立たぬものにて、藝州廣島の如く外郭まで塀を懸け廻され候には、及申まじく候哉、松永彈正(久秀)工夫にて、和州志貴の城に致し置たる多門矢倉と申もの二三曲輪などには致し置て、一段と調法なるものに候と在る御物語に付、氏郷京都より歸られ、其前方好み置かれ候惣郭の塀の儀も相止め、三の丸には塀を懸け、所々に多門櫓を立らるべきとの儀に有[#レ]之候内に、氏郷死去に付普請相止み、今に至り會津の城三の丸には塀矢倉も無[#レ]之候由、蒲生家に罷在候、結解勘介、淺野因幡守殿へ物語也。〔異本落穗集〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六七】秀吉小田原役始末の中樞點[#中見出し終わり]

氏郷《うぢさと》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》鑑識《かんしき》の明《めい》を見《み》るが、木村《きむら》父子《ふし》に於《おい》ては、其《そ》の不明《ふめい》を見《み》るは何故《なにゆゑ》であらう。惟《おも》ふに木村《きむら》も亦《ま》た才幹《さいかん》ある漢《をのこ》であつたらう、其《そ》の伊達政宗《だてまさむね》と書信《しよしん》を往復《わうふく》して居《ゐ》た※[#こと、334-4]から見《み》るも、彼《かれ》も尋常《じんじやう》一|樣《やう》の鼠《ねずみ》ではなかつたであらう。
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木村伊勢守《きむらいせのかみ》子息《しそく》彌《や》一|右衛門《うゑもん》も、同時《どうじ》に|被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、奧州《あうしう》にて葛西《かさい》大崎《おほさき》を給《たま》はりけり。是《これ》は本《もと》明智光秀《あけちみつひで》が家子《いへのこ》なり。氏郷《うぢさと》は木村《きむら》をも、子《こ》とも從者《ずさ》とも思《おも》ふべし。木村《きむら》は氏郷《うぢさと》を親《おや》とも主《しゆ》とも思《おも》ふべし。伊勢守《いせのかみ》(吉清)[#「(吉清)」は1段階小さな文字]は小身《せうしん》なれば、若《もし》一|揆《き》など起《おこ》らば、政宗《まさむね》を先《さき》に立《たて》、案内者《あんないしや》として退治《たいぢ》すべし。木村《きむら》は向後《きやうご》京都《きやうと》への出仕《しゆつし》も無益《むやく》なり。會津《あひづ》へ出仕《しゆつし》致《いた》せとぞ|被[#レ]仰《おほせられ》ける。〔氏郷記〕[#「〔氏郷記〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》く秀吉《ひでよし》が、彼《かれ》父子《ふし》を寵用《ちようよう》したのは、小田原役《をだはらえき》に於《おい》ての軍功《ぐんこう》もあり、伊達政宗《だてまさむね》との關係《くわんけい》もあり、蒲生《がまふ》の大《だい》なる與力《よりき》とするに足《た》る者《もの》と認《みと》めたからであつた。
曩《さき》に岩城常隆《いはきつねたか》小田原《をだはら》に來謁《らいえつ》し、鎌倉《かまくら》にて病死《びやうし》して、嗣子《しし》がなかつた。仍《よつ》て八|月《ぐわつ》十二|日《にち》、秀吉《ひでよし》は岩城《いはき》の士《し》白土隆由《しらとたかよし》をして、其《そ》の家《いへ》を繼《つ》がしめたが、隆由《たかよし》は士民《しみん》の不服《ふふく》を慮《おもんぱか》り、之《これ》を辭《じ》し、佐竹義重《さたけよししげ》の第《だい》三|子《し》能化丸《のけまる》を嗣《し》となさんことを請《こ》うた。秀吉《ひでよし》其《そ》の志《こゝろざし》を嘉《よ》みして、之《これ》を許《ゆる》したれば、隆由《たかよし》は、能化丸《のけまる》を扶《たす》けて、秀吉《ひでよし》の歸途《きと》宇都宮《うつのみや》に迎謁《げいえつ》した。
秀吉《ひでよし》は八|月《ぐわつ》九|日《か》會津《あひづ》に入《い》り、興徳寺《こうとくじ》に館《やかた》し、奧羽《あうう》二|州《しう》の處分《しよぶん》の大體《だいたい》を定《さだ》め、十二|日《にち》會津《あひづ》を發《はつ》して凱旋《がいせん》した。
其《そ》の後《のち》彼《かれ》の處分《しよぶん》の一二を擧《あ》ぐれば、十|月《ぐわつ》二|日《か》には陸奧《むつ》三|春城主《はるじやうしゆ》田村宗顯《たむらむねあき》の小田原《をだはら》に會《くわい》せざるを罰《ばつ》し、其《そ》の封《ほう》を褫《うば》うた。田村氏《たむらし》は爾來《じらい》伊達氏《だてし》の附庸《ふよう》となつた。其《そ》の他《た》相馬義胤《さうまよしたね》、最上義光《もがみよしあき》、出羽《では》檜山城主《ひのやまじやうしゆ》秋田實季《あきたさねすゑ》、横手城主《よこてじやうしゆ》小野寺義直《をのでらよしなほ》、角館城主《かくのだてじやうしゆ》戸澤光盛《とざはみつもり》、六|郷城主《がうじやうしゆ》六|郷政乘《がうまさのり》、仁賀保城主《にかほじやうしゆ》仁賀保擧誠等《にかほたかのぶら》は、何《いづ》れも本領《ほんりやう》を安堵《あんど》せしめた。
十一|月《ぐわつ》四|日《か》、堀秀治《ほりひではる》に、父《ちゝ》秀政《ひでまさ》の遺領《ゐりやう》を襲《つ》がしめ、村上義明《むらかみよしあき》、溝口秀勝《みぞぐちひでかつ》をして、舊《きう》に仍《よ》りて之《これ》に屬《ぞく》せしめた。又《ま》た是《こ》れより先《さき》、一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》の山中城《やまなかじやう》攻撃《こうげき》に戰歿《せんぼつ》したるを悼《いた》み、其《そ》の弟《おとうと》直盛《なほもり》を嗣《し》とし、尾張《をはり》黒田城《くろだじやう》三|萬石《まんごく》を與《あた》へ、舊《きう》に仍《よ》りて秀次《ひでつぐ》に屬《ぞく》せしめた。
秀吉《ひでよし》の小田原役《をだはらえき》の跡始末《あとしまつ》を概觀《がいくわん》するに、徳川家康《とくがはいへやす》の關《くわん》八|州《しう》移封《いほう》を以《もつ》て、其《そ》の中樞點《ちゆうすうてん》となし、一|切《さい》の事《こと》は、之《これ》を對象《たいしやう》として、措置《そち》したかの如《ごと》く思《おも》はるゝ。或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、蒲生《がまふ》も、伊達《だて》も、家康《いへやす》の節度《せつど》を受《う》く可《べ》く、東北《とうほく》の一|面《めん》は、殆《ほと》んど家康《いへやす》の指揮《しき》に委任《ゐにん》したるが如《ごと》き看《かん》あると同時《どうじ》に。蒲生《がまふ》は家康《いへやす》の後《うしろ》を防《ふせ》ぎ、駿河《するが》の中村一氏《なかむらかずうぢ》、遠州《ゑんしう》掛川《かけがは》の山内一豐《やまのうちかずとよ》、濱松《はままつ》の堀尾吉晴[#「堀尾吉晴」は底本では「堀堀吉晴」]《ほりをよしはる》、參河《みかは》岡崎《をかざき》の田中吉政《たなかよしまさ》、同《どう》吉田《よしだ》の池田輝政《いけだてるまさ》より、尾張《をはり》、及《およ》び北伊勢《きたいせ》五|郡《ぐん》の豐臣秀次《とよとみひでつぐ》に至《いた》る迄《まで》、悉《こと/″\》く家康《いへやす》の西上《せいじやう》を扞防《かんばう》す可《べ》き配置《はいち》と見《み》るの他《ほか》はない。
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一氏《かずうぢ》勳功《くんこう》の賞《しやう》として、駿河國《するがのくに》を賜《たまは》り、我身《わがみ》は國府《こくぶ》の城《しろ》に在《あつ》て、舍弟《しやてい》彦右衞門尉一榮《ひこゑもんのじやうかずひで》して、沼津《ぬまづ》の城《しろ》を守《まも》らしむ。これ内々《ない/\》は徳川殿《とくがはどの》關東《くわんとう》に移《うつ》らせ給《たま》ひしかば、一氏《かづうぢ》して其境《そのさかひ》を守《まも》らせ給《たま》はん爲《ため》なりけり。一氏《かづうぢ》も某《それがし》かくて候《さふら》はんには、關東《くわんとう》の事《こと》は、何《なん》の御心《おこゝろ》にかゝらせ給《たま》ふ事《こと》も、あるまじきにて候《さふらふ》と申《まを》せしとぞ聞《きこ》えたれ。されば徳川殿《とくがはどの》も假初《かりそめ》の御鷹狩《おたかがり》にも、彼境《かのさかひ》を避《さ》け給《たま》ひ、又《また》一氏《かずうぢ》も境《さかひ》をば接《せつ》しながら、敢《あへ》て隣國《りんごく》の好《よしみ》を通《つう》ぜず。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》は良《まこと》に其《そ》の人《ひと》を得《え》たのだ。秀吉《ひでよし》の家康《いへやす》に於《お》ける、大用《たいよう》すれども、其《そ》の控御《こうぎよ》の道《みち》を失《うしな》はず。我《わ》が用《よう》を做《な》すの働《はたら》きに於《おい》ては、何等《なんら》の不足《ふそく》なき自由《じいう》手腕《しゆわん》を揮《ふる》はしめつゝも、我《われ》に反噬《はんぜい》を加《くは》ふるの虞《おそれ》には、周到《しうたう》なる準備《じゆんび》を盡《つく》して、水《みづ》も漏《も》れなかつた。即《すなは》ち家康《いへやす》をして、秀吉《ひでよし》の仁惠《じんけい》の下《もと》に立《た》たしむるも、秀吉《ひでよし》自《みづ》から家康《いへやす》の仁惠《じんけい》の下《もと》に立《た》つの、憂《うれひ》なからしめた。
人《ひと》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》の雅量《がりやう》天《てん》の如《ごと》きを稱《しよう》して、彼《かれ》の用意《ようい》の此《かく》の如《ごと》く周到《しうたう》なるに、氣付《きづ》かぬものあり。或《あるひ》は秀吉《ひでよし》の巧緻《かうち》、精細《せいさい》、拔目《ぬけめ》なき手段《しゆだん》を知《し》りて、其《そ》の遠馭長駕《ゑんぎよちやうが》、豪傑《がうけつ》の士《し》をして、鼓舞《こぶ》、顛倒《てんたう》せしむる所以《ゆゑん》を知《し》らざるものあり。されど秀吉《ひでよし》は大處《たいしよ》極《きは》めて大《だい》、細處《さいしよ》極《きは》めて細《さい》。粗處《そしよ》極《きは》めて粗《そ》、精處《せいしよ》極《きは》めて精《せい》。是《こ》れ彼《かれ》が千|古《こ》の英雄《えいゆう》たる所以《ゆゑん》だ。

[#5字下げ][#中見出し]【六八】奧羽の檢地[#中見出し終わり]

凡《およ》そ仔細《しさい》に秀吉《ひでよし》政治《せいぢ》の施設《しせつ》を觀察《くわんさつ》すれば、徳川氏《とくがはし》は殆《ほとん》ど全《まつた》くそれを蹈襲《たふしふ》したに過《す》ぎぬ。諸侯《しよかう》配置《はいち》の方略《はうりやく》や、上方《かみがた》に諸侯《しよこう》の邸《やしき》を築《きづ》くことや、其《そ》の妻孥《さいど》を、上方《かみがた》に徴《ちよう》する事《こと》や、悉《こと/″\》く秀吉《ひでよし》の違法《ゐはふ》だ。
特《とく》に檢地《けんち》の一|事《じ》は、信長《のぶなが》に肇《はじ》まりしにせよ、具體的《ぐたいてき》に、總體的《そうたいてき》に施行《しかう》せられたのは、全《まつた》く秀吉《ひでよし》の賜《たまもの》だ。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》の東北《とうほく》に向《むか》ふに先《さきだ》ち、前田利家《まへだとしいへ》、上杉景勝《うへすぎかげかつ》を監督者《かんとくしや》とし、淺野長政《あさのながまさ》、石田三成《いしだみつなり》、大谷吉繼等《おほたによしつぐら》をして、奧羽《あうう》の檢地《けんち》に從事《じゆうじ》せしめた。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、此《こ》の事《こと》に熱心《ねつしん》であつたかは、其《そ》の淺野長政《あさのながまさ》に與《あた》へたる、訓示《くんじ》の書簡《しよかん》に就《つい》て之《これ》を見《み》る可《べ》しぢや。
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猶以《なほもつて》、此趣《このおもむき》、其口《そのくち》へ相働衆《あひはたらくしゆう》|不[#レ]殘《のこらず》念《ねん》を入《いれ》、|可[#二]申屆[#一]候《まをしとゞくべくさふらふ》。返事《へんじ》同前《どうぜん》に|可[#二]申上[#一]候也《まをしあぐべくさふらふなり》。
[#ここから1字下げ]
態《わざ/\》|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふらふ》。
一 去《さる》九|日《か》(八月)[#「(八月)」は1段階小さな文字]|至[#二]于會津[#一]《あひづにいたり》、|被[#レ]移[#二]御座[#一]《ござをうつされ》、御置目等《おんおきめとう》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、其上《そのうへ》檢地之儀《けんちのぎ》、會津者《あひづは》中納言《ちゆうなごん》(秀次)[#「(秀次)」は1段階小さな文字]白川《しらかは》同《おなじく》其近邊之儀者《そのきんぺんのぎは》、備前宰相《びぜんさいしやう》(宇喜多秀家)[#「(宇喜多秀家)」は1段階小さな文字]に|被[#二]仰付[#一]候事《おほせつけられさふらふこと》。
一 其許《そのもと》檢地之儀《けんちのぎ》、一|昨日《さくじつ》|如[#レ]被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされしごとくにさふらふ》。斗代等之儀《とだいとうのぎ》、|任[#二]御生印[#一]《ごしやういんにまかせ》何《いづれ》も所々《しよ/\》、いかにも|入[#レ]念《ねんをいれ》|可[#二]申付[#一]候《まをしつくべくさふらふ》。若《もし》そさうに仕候《つかまるりさふら》はゞ。各《おの/\》|可[#レ]爲[#二]越度[#一]候事《をちどたるべくさふらふこと》。
一 山形出羽守《やまがたではのかみ》(最上義光)[#「(最上義光)」は1段階小さな文字]竝《ならびに》伊達妻子《だてさいし》、早《はや》京都《きやうと》へ差上候《さしのぼせさふらふ》。右《みぎ》兩人之外《りやうにんのほか》、國人《くにびと》妻子事《さいしこと》、何《いづれ》も京都《きやうと》へ差上候《さしのぼせさふらふ》族《やから》は、一|廉《かど》尤《もつともに》|可[#レ]被[#二]思召[#一]候《おぼしめされるべくさふらふ》。|無[#レ]左《さなき》ものは、會津《あひづ》へ|可[#二]差越[#一]由《さしこすべきよし》、|可[#二]申付[#一]事《まをしつくべきこと》。
一 |被[#二]仰出[#一]候趣《おほせいだされさふらふおもむき》、國人《くにびと》並《ならびに》百|姓共《しやうども》に合點行候樣《がてんゆきさふらふやう》に能々《よく/\》|可[#二]申聞[#一]候《まをしきけべくさふらふ》。自然《しぜん》|不[#二]相屆[#一]《あひとゞかざる》覺悟之輩《かくごのやから》|於[#レ]在[#レ]之者《これあるにおいては》、城主《じやうしゆ》にて候《さふら》はゞ、其《その》もの城《しろ》へ追入《おひいれ》、各《おの/\》相談《さうだんし》、一|人《にん》も|不[#二]殘置[#一]《のこしおかず》、撫切《なでぎり》に|可[#二]申付[#一]候《まをしつくべくさふらふ》。百|姓以下《しやういか》に至《いた》るまで、|不[#二]相屆[#一]《あひとゞかざる》に候《さふらう》ては、一|郷《がう》も二|郷《がう》も悉《こと/″\》く|撫切可[#レ]仕候《なでぎりつかまつるべくさふらふ》。六十|餘州《よしう》堅《かたく》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、出羽《では》奧州迄《あうしうまで》、そさうにはさせらる間敷候《まじくさふらふ》。たとへ亡所《ばうしよ》に成候《なりさふらう》ても|不[#レ]苦候間《くるしからずさふらふあひだ》、|可[#レ]得[#二]其意[#一]候《そのいをうべくさふらふ》。山《やま》の奧《おく》、海《うみ》は櫓櫂《ろかい》のつゞき候迄《さふらふまで》、|可[#レ]入[#レ]念事《ねんをいるべきこと》、專一候《せんいつにさふらふ》。自然《しぜん》各《おの/\》|於[#二]退屈[#一]《たいくつするにおいて》は、關白殿《くわんぱくどの》御自身《ごじしん》|被[#レ]成[#二]御座[#一]候《ござなされさふらう》ても、|可[#レ]被[#二]仰付[#一]候《おほせつけらるべくさふらふ》。急與《きつと》此返事《このへんじ》|可[#レ]然候也《しかるべくさふらふなり》。
 八月十二日(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]朱印(秀吉)
  淺野彈正少弼どのへ[#地付き]〔淺野文書〕[#「〔淺野文書〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》に秀吉《ひでよし》の檢地《けんち》に關《くわん》する決心《けつしん》の強硬《きやうかう》にして且《か》つ、其《そ》の意氣《いき》の凛然《りんぜん》たるを見《み》よ。彼《かれ》は萬障《ばんしやう》を排《はい》しても、之《これ》を成就《じやうじゆ》す可《べ》く決心《けつしん》した。彼《かれ》は之《こ》れが爲《た》めに、如何《いか》なる犧牲《ぎせい》を拂《はら》ふも敢《あへ》て愛《お》しむ所《ところ》はなかつた。彼《かれ》は山奧海陬《さんあうかいすう》、一|尺《せき》一|寸《すん》の地面《ぢめん》にも、檢竿《けんかん》の入《い》らざる所《ところ》なからしむ可《べ》く、周到《しうたう》精密《せいみつ》なる注意《ちゆうい》を促《うなが》した。而《しか》して長政等《ながまさら》若《も》し此《こ》の事《こと》に屈託《くつたく》せば、秀吉《ひでよし》自《みづ》から之《これ》に膺《あた》るも苦《くる》しからずと聲言《せいげん》して、長政等《ながまさら》の決答《けつたふ》を求《もと》めた。
秀吉《ひでよし》は檢地奉行《けんちぶぎやう》には、上記《じやうき》の人々《ひと/″\》を使用《しよう》したが、然《しか》も其《そ》の補助員《ほじよゐん》として、隨處《ずゐしよ》隨時《ずゐじ》に、他《た》の人々《ひと/″\》をも使用《しよう》した。例《れい》せば細川忠興《ほそかはたゞおき》の如《ごと》きも、其《そ》の一|人《にん》であつた。
[#ここから1字下げ]
扨《さて》淺野彈正少弼《あさのだんじやうせうひつ》、大谷刑部少輔《おほたにぎやうぶせういう》、石田冶部少輔《いしだぢぶせういう》と三|手《て》に分《わか》ち、檢地《けんち》|有[#レ]之《これあり》、忠興君《たゞおきぎみ》は石田《いしだ》と御相列《ごあひれつ》にて、御勤《おつとめ》|被[#レ]成候《なされさふらふ》。淺野長政《あさのながまさ》は、前廉《まへかど》より御挨拶《ごあいさつ》能《よ》かりし故《ゆゑ》、萬時《ばんじ》心《こゝろ》を付《つ》け玉《たまは》り候《さふら》へと|頼被[#レ]申《たのみまをされ》けるにより、其比《そのころ》冶部少輔《ぢぶせういう》と御中《おんなか》能《よ》かりしと也《なり》。此時《このとき》田《た》の上下《じやうげ》を|御吟味被[#レ]成《ごぎんみなされ》、書付《かきつけ》|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》に、百|姓共《しやうども》私《わたくし》の田《た》に、下《げ》が|無[#二]御座[#一]候儘《ござなくさふらふまゝ》、上《じやう》と遊《あそ》ばし|被[#レ]下候樣《くだされさふらふやう》にと望候《のぞみさふらふ》は、おかしき事《こと》と也《なり》。〔忠興君御家譜〕[#「〔忠興君御家譜〕」は1段階小さな文字]
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當時《たうじ》忠興《たゞおき》の小田原役《をだはらえき》以來《いらい》の紀行文《きかうぶん》を、建仁寺《けんにんじ》の雄長老《ゆうちやうらう》に贈《おく》りたるを見《み》るに、當時《たうじ》の情況《じやうきやう》察《さつ》するに足《た》るものがある。
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伊達左京大夫政宗《だてさきやうだいうまさむね》を見侍《みはべ》るに、思《おも》ひの外《ほか》に、法師《ほふし》にて、片目《かため》潰《つぶ》れ侍《はべ》りし程《ほど》に、
 鎌倉《かまくら》のかちかあらぬか政宗《まさむね》の、片目《かため》はわるき五|郎入道《らうにふだう》。
[#ここで字下げ終わり]
東北《とうほく》の獨眼龍《どくがんりゆう》も、斯《か》く笑倒《せうたう》せられては、閉口《へいこう》であらう。
    兵粮《ひやうらう》の乏《とぼ》しき比《ころ》、北目《きため》の里《さと》に、八|月《ぐわつ》十五|夜《や》に泊《とまり》て、
  かつへつゝ、爰《こゝ》にきためでしろ/\と、みれど喰《く》はれぬ望月《もちづき》の空《そら》。
此《かく》の如《ごと》くして、奧羽《あうう》の檢地《けんち》も、行《おこな》はれたが、秀吉《ひでよし》の凱旋後《がいせんご》間《ま》もなく、一|揆《き》の勃興《ぼつこう》したこそ是非《ぜひ》なけれ。
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[#6字下げ]秀吉の南部領檢地
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秀吉は天正十八年七月に南部信直に對して、斯う云ふ書付を與へました。第一箇條は
 一 南部七郡の事、大膳大夫(信直)覺悟に任すべき事、
と書き出し…………次に第二條に
 一 信直妻子、在京可[#レ]仕事、
信直の妻や子供をば京都へ呼び寄せて置き、即ち秀吉への人質にする事。此人質が發達して參覲交代となります。江戸時代では江戸屋敷、秀吉の時は京の伏見、又は大坂屋敷と申しますが、この御屋敷に大名の一族の者が人質として置かれた。豐臣家に對して、諸侯心服の誠を表して、その實を厚くする所の大切の機關です。其次の第三條は
 一 知行方一々檢地、臺所入、丈夫に召置、在京の賄、相續候樣に可[#二]申付[#一]候、
信直の知行として與へた土地は一々檢定するぞ、全體の土地の檢定、明治時代で申せば、明治九年以後に行はれました、地租改正、地租改正とは違ひまするが、趣意は矢張り一つである。田畑、宅地、山野までを一々に調べまして、竿入をして、土地の收穫、即ち徴收の負擔力を考へまして、畑、宅地まで米で見積り、之を石盛《しくもり》と申し、其中から若干の米をば年貢として取らうといふ事をば、一々に實地に細かく極めるのが檢地であります。此檢地の事は天正の末に秀吉が日本を統一すると共に普ねく海内に行つた田制であつて、是が秀吉の偉大なる政治上の創設で、彼の古今に卓絶の成績も此にあらう。徳川家は此檢地の制度をそのまゝにして、三百年の泰平を維持して居たものであります。日本の財政、民政、乃至經濟の上に重大な事件として、天正檢地程偉い重大な法令は、日本の歴史に餘り多くは無いのです。かの秀吉は單に兵力を以て日本を統一した人で無い、土地の竿入れ、石高の積りを普く行うて、田地は皆諸侯に與へつゝ、官民ともに安全に耕作し、且は徴税するといふ行政上の遣り方が誠に偉い處です。強ち、山崎合戰や小牧山の合戰に於て勇武であつたのみではありませぬ。彼が經濟上、政治上に於ける獨特の才能は、中世の庄園制度破壞後の善後策として石高制を以て日本を中興したものである。秀吉は南部家七郡の領分に對して、田畠一枚々々檢地を命じました。而して此方法の効果として、南部家の歳入、即ち年貢が確實になり、間違の無いやうに年々租税を召し置く事も出來た、今の言葉で申せば、「政府の歳入が確實になる」、昔の言葉で、それをば「臺所入が丈夫になる」と斯う云うて、更に巧に在京の妻子の賄を言ひ草にして居る。妻子を京都へ引寄せるのも、全く秀吉の發明と云ふべき新法である。其新法を右手に行ひつゝ、左の手に檢地を行ひ、「百姓から取る税法をチヤンと明かにして行けば、諸大名の歳入は確實になる、それで以て京都の方への諸賄をば支へて行けば、立派に在京して居れる、困る事は無いで、安樂に京都で遊んで居られる、結構な事だからさうなさい」と、此に言外の味もあるらしい。
[#地から1字上げ]〔吉田東伍著、戰國以後江戸時代の奧州、奧羽沿革史論所載〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六九】秀吉の凱旋[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は關東《くわんとう》より奧羽《あうう》一|切《さい》の措置《そち》を了《れう》し、特《とく》に奧羽檢地《あううけんち》の命《めい》を下《くだ》し、八|月《ぐわつ》十二|日《にち》會津《あひづ》を出發《しゆつぱつ》して、凱旋《がいせん》の途《と》に就《つ》いた。九|州役《しうえき》に於《おい》ては、天正《てんしやう》十五|年《ねん》三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》に大阪《おほさか》を發《はつ》し、七|月《ぐわつ》十四|日《か》に、大阪《おほさか》に凱旋《がいせん》した。今囘《こんくわい》は天正《てんしやう》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》に京都《きやうと》を發《はつ》し、九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》に京都《きやうと》に凱旋《がいせん》した。前者《ぜんしや》は四|個月半《かげつはん》であつたが、今囘《こんくわい》は滿《まん》六|個月《かげつ》だ。秀吉《ひでよし》は自然《しぜん》の美《び》を愛《あい》するを解《かい》した、物《もの》の憐《あはれ》を感《かん》ずることを解《かい》した。文雅風流《ぶんがふうりう》の道《みち》をも解《かい》した。其《そ》の歸途《きと》武州《ぶしう》岩槻《いはつき》にて、有名《いうめい》なる萩花《はぎ》を見《み》るや、吟懷《ぎんくわい》を遣《や》りて曰《いは》く、
  名殘《なごり》をば萩《はぎ》が枝《えだ》にや殘《のこ》すらむ、花《はな》の盛《さかり》を捨《すて》る都路《みやこぢ》。
と。彼《かれ》は繚亂《れうらん》たる秋花《しうくわ》を見《み》ても、尚《な》ほ艶陽《えんえう》三|月《ぐわつ》京都《きやうと》の春《はる》に負《そむ》いて東征《とうせい》したことを、偲《しの》ばずには居《を》られなかつた。信長《のぶなが》も富士山《ふじさん》見物《けんぶつ》に、武田《たけだ》征伐《せいばつ》の歸途《きと》には、故《わざ》と東海道《とうかいだう》を經由《けいゆ》した。彼《かれ》が此《こ》の名山《めいざん》に對《たい》して、如何《いか》なる心持《こゝろもち》であつたかは、唯《た》だ想像《さうざう》する許《ばか》りだ。されど秀吉《ひでよし》は、三十一|文字《もじ》にて、立派《りつぱ》に之《こ》れを説明《せつめい》して居《ゐ》る。
  都《みやこ》にて聞《き》きしは、ことの數《かず》ならで、雲井《くもゐ》に高《たか》き富士《ふじ》のねの雪《ゆき》。
當時《たうじ》の歌人《かじん》細川幽齋《ほそかはいうさい》も、亦《ま》た小田原陣《をだはらぢん》に、秀吉《ひでよし》に陪《ばい》して赴《おもむ》いたが、後《のち》人《ひと》に語《かた》りて曰《いは》く、富士《ふじ》を見《み》て、歌《うた》を詠《えい》ぜんとて、材料《ざいれう》を拵《こしら》へて行《い》つたが、實際《じつさい》の富士《ふじ》に對《たい》して、皆《み》な悉《こと/″\》く齟齬《そご》した。富士《ふじ》を詠《えい》じたる歌《うた》は、古《いにしへ》より多《おほ》くあれど、唯《た》だ家隆卿《いへたかきやう》の、
  朝日《あさひ》さす高根《たかね》の深雪《みゆき》空《そら》晴《は》れて、立《たち》も及《およ》ばぬ富士《ふじ》の川霧《かはぎり》。
を最《もつと》も面白《おもしろ》く覺《おぼ》ゆと。〔幽齋家譜〕[#「〔幽齋家譜〕」は1段階小さな文字]
併《しか》し秀吉《ひでよし》の富士《ふじ》の詠《えい》は、却《かへ》つて此《こ》の專門歌人《せんもんかじん》の技巧《ぎこう》を弄《ろう》したるに比《ひ》して、自然《しぜん》に近《ちか》き趣《おもむ》きがある。流石《さすが》に天下《てんか》を小《せう》なりとしたる秀吉《ひでよし》も、富士山《ふじさん》には感服《かんぷく》、嘆服《たんぷく》した。
彼《かれ》は隨處《ずゐしよ》に風懷《ふうくわい》を暢《の》べた。特《とく》に東海道《とうかいだう》第《だい》一の勝地《しようち》たる、興津《おきつ》の清見寺《せいけんじ》の景《けい》は、最《もつと》も彼《かれ》の幽賞《いうしやう》に預《あづか》つた。
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東夷《とうい》の征伐《せいばつ》の爲《ため》として、天正《てんしやう》十八|年《ねん》彌生《やよひ》の初《はじめ》つ方《かた》、都《みやこ》を立《たち》て、行々《ゆき/\》て、駿河國《するがのくに》清見寺《せいけんじ》に至《いた》りぬ。此地《このち》の風景《ふうけい》奇絶《きぜつ》にして、三|穗《ほ》の松原《まつばら》、田子《たご》の浦《うら》の月《つき》、富士《ふじ》高根《たかね》の雪《ゆき》も、目《ま》のあたりの眺望《てうばう》殊更《ことさら》に其興《そのきよう》淺《あさ》からず。庭前《ていぜん》の青葉隱《あをばがく》れ、花《はな》の色《いろ》のめづらかに、なにくれと駕《が》を駐《とゞ》むる事《こと》五六|日《にち》、夫《それ》より東《ひがし》の夷《えびす》を平《たひら》げ、陸奧《むつ》まで行巡《ゆきめぐ》りて、心《こゝろ》の如《ごと》く國民《くにたみ》を從《したが》へ、八|月《ぐわつ》廿|日《か》餘《あま》り、歸《かへ》るさにまた此《こ》の寺《てら》に著《つ》き侍《はべ》りしに、當時《たうじ》の大輝長老《だいきちやうらう》、禪刹《ぜんさつ》の正宗《せいしう》を紹《つ》ぎ、凡俗《ぼんぞく》をのがれる心《こゝろ》ざしを感《かん》じて、書札《しよさつ》の交《まじは》りに召《め》し加《くは》へて、樂《たの》しませ侍《はべ》りぬ。彌生《やよひ》に見《み》し花《はな》の梢《こずゑ》など、やう/″\に紅葉《もみぢ》して、彼《か》の能因《のういん》が霞《かすみ》と與《とも》に出《いで》しかど、と云《い》へる故事《ふるごと》抔《など》をも思《おも》ひ合《あは》せて、一|首《しゆ》をのこし侍《はべ》る。
[#地から3字上げ]關白
 清見寺《きよみでら》行手《ゆくて》に見《み》ゆる花《はな》の色《いろ》の、幾程《いくほど》もなく紅葉《もみぢ》しにけり。
又《また》田子《たご》の浦《うら》の眺望《てうばう》を、
 名《な》にしおふ、田子《たご》の浦波《うらなみ》立《たち》かへり、復《ま》たも來《き》て見《み》ん富士《ふじ》の白雪《しらゆき》。
[#地から2字上げ]〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
誰《たれ》か秀吉《ひでよし》を無學《むがく》文盲《もんまう》の豪傑《がうけつ》と云《い》ふ乎《か》。此《こ》の方面《はうめん》に於《おい》ては、彼《かれ》は信長《のぶなが》よりも、特《とく》に物質的《ぶつしつてき》、實用的《じつようてき》の家康《いへやす》よりも、一|種《しゆ》の風情《ふぜい》が饒《おほ》かつた。彼《かれ》が天下《てんか》後世《こうせい》に、多《おほ》くの愛慕者《あいぼしや》を持《も》つ所以《ゆゑん》の一は、恐《おそ》らくは是《こ》れが爲《た》めであらう。
彼《かれ》は更《さ》らに其《そ》の故郷《こきやう》なる、尾張《をはり》の中村《なかむら》に立《た》ち寄《よ》つた。彼《かれ》は岡崎《をかざき》を守《まも》れる吉川廣家《きつかはひろいへ》より送《おく》りたる、三百五十|匹中《ぴきちゆう》の名馬《めいば》に乘《の》り、栗栖《くるす》十|兵衞武格《べゑたけのり》なる舍人《しやじん》を從《したが》へ、中村《なかむら》に赴《おもむ》いた。彼《かれ》は其《そ》の郷中《がうちゆう》を蒐廻《かけめぐ》り、爰《こゝ》は我《わ》が故郷《こきやう》なれば、懷敷《なつかしく》思《おも》ふ也《なり》。昔《むかし》に引替《ひきかへ》て、民《たみ》の家居《いへゐ》も賑《にぎ》はしく、能《よ》く住付《すみつけ》たる體《てい》に見《み》えた、是《こ》れ我《わ》が政道《せいだう》の正《たゞ》しき驗《しるし》ぞと云《い》うた。〔陰徳太平記〕[#「〔陰徳太平記〕」は1段階小さな文字]
彼《かれ》の九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》の京都《きやうと》凱旋《がいせん》は、實《じつ》に目醒《めざま》しきものであつた。百|官諸司《くわんしよし》、悉《こと/″\》く粟田口《あはだぐち》に郊迎《かうげう》した。秀吉《ひでよし》は從征諸將《じゆうせいしよしやう》の皆《み》な歸著《きちやく》を俟《ま》つて、入朝《にふてう》す可《べ》く、其《そ》の旨《むね》同《どう》四|日《か》に奏上《そうじやう》し。十一|月《ぐわつ》三|日《か》參内《さんだい》し、復命《ふくめい》する所《ところ》あり、白銀《しろがね》三百|枚《まい》を献《けん》じ、其《そ》の他《た》准《じゆん》三|宮《ぐう》以下《いか》、皆《みな》それ/″\献遺《けんゐ》した。
如何《いか》に秀吉《ひでよし》の東征《とうせい》の結果《けつくわ》が、當時《たうじ》の人心《じんしん》を衝動《しようどう》せしめたかは、
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關白殿《くわんぱく》只人《たゞびと》に非《あら》ず……扨《さて》日本國《にほんこく》六十|餘州《よしう》島々迄《しま/″\まで》、一|圓《ゑん》御存分《ごぞんぶん》に歸了《きしをはんぬ》。不思議《ふしぎ》云々[#「云々」は行右小書き]の事也《ことなり》。高麗《こま》南燕《なんえん》よりも、御禮《おんれい》の使者《ししや》罷越《まかりこし》、京《きやう》堺《さかひ》に逗留了《とうりうせり》。妙《めう》希代《きだい》云々[#「云々」は行右小書き]。〔多門院日記〕[#「〔多門院日記〕」は1段階小さな文字]
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英雄《えいゆう》の事業《じげふ》、萬人《まんにん》之《これ》を仰《あふ》ぐ、然《しか》も其《そ》の所以《ゆゑん》を解《かい》する者《もの》は、絶無《ぜつむ》ならざる迄《まで》も、僅有《きんいう》ぢや。
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