第十二章 論功行賞
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[#4字下げ][#大見出し]第十二章 論功行賞[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【六三】秀吉の賞罰(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は小田原《をだはら》落城《らくじやう》と同時《どうじ》に、論功行賞《ろんこうかうしやう》をした。家康《いへやす》移封《いほう》は既記《きき》の通《とほ》りだ。同日《どうじつ》即《すなは》ち七|月《ぐわつ》十三|日《にち》、秀次《ひでつぐ》に尾張《をはり》、及《およ》び北伊勢《きたいせ》五|郡《ぐん》―桑名《くはな》、員辨《いゐべ》、朝明《あさあき》、三|重《へ》、鈴鹿《すゞか》―を、池田輝政《いけだてるまさ》に參河《みかは》吉田《よしだ》十五|萬石《まんごく》を、田中吉政《たなかよしまさ》に同《どう》岡崎《をかざき》五|萬石《まんごく》を、堀尾吉晴《ほりをよしはる》に遠江《とほたふみ》濱松《はままつ》十二|萬石《まんごく》を、山内一豐《やまのうちかづとよ》に同《どう》掛川《かけがは》五|萬石《まんごく》を渡瀬詮繁《わたせのりしげ》に同《どう》横須賀《よこすか》三|萬石《まんごく》を、中村一氏《なかむらかずうぢ》に駿河《するが》の地《ち》十四|萬《まん》五千|石《ごく》を、羽柴秀勝《はしばひでかつ》に甲斐《かひ》を、毛利秀頼《まうりひでより》に信濃《しなの》飯田《いひだ》八|萬石《まんごく》を、石川數正《いしかはかずまさ》に同《どう》深志《ふかし》八|萬石《まんごく》を千石秀久《せんごくひでひさ》に同《どう》小諸《こもろ》五|萬石《まんごく》を、京極高知《きやうごくたかとも》に同《どう》高遠《たかとほ》三|萬石《まんごく》を、日根野高吉《ひねのたかよし》に同《どう》高島《たかしま》二|萬《まん》八千|石《ごく》を與《あた》へ。眞田昌幸《さなだまさゆき》に沼田《ぬまた》を返還《へんくわん》した。又《ま》た織田信雄《をだのぶを》の老臣《らうしん》羽柴雄利《はしばかつとし》、木造長政《きづくりながまさ》を直參《ぢきさん》とし、雄利《かつとし》は舊《きう》に依《よ》り伊勢《いせ》神戸《かんべ》二|萬石《まんごく》、長政《ながまさ》には二|萬《まん》五千|石《ごく》を與《あた》へ、織田秀信《おだひでのぶ》の傳《ふ》とした。石川貞清《いしかはさだきよ》を木曾山《きそやま》の代官《だいくわん》とした。
仙石秀久《せんごくひでひさ》は、九|州役《しうえき》に於《おい》て、節度《せつど》に違《たが》ひ、大敗《たいはい》を來《きた》し、其《そ》の咎《とが》によりて封《ほう》を褫《うば》はれたが。此《こ》の役《えき》に際《さい》して、彼《かれ》は自《みづ》から奮《ふる》うて前過《ぜんくわ》を償《つぐな》はんとて、秀吉《ひでよし》小田原《をだはら》出陣《しゆつぢん》の前《まへ》、京都《きやうと》にて馬揃《うまぞろへ》の際《さい》、自《みづ》から紙子《かみこ》の陣羽織《ぢんばをり》の背中《せなか》に、朱《しゆ》の丸《まる》を大《おほ》きく付《つ》けたるを著《ちやく》し、少《すこ》しも屈《くつ》したる氣色《けしき》なく、乘出《のりいだ》したれば、秀吉《ひでよし》も打笑《うちわら》ひ、偖々《さて/\》仙石《せんごく》めが、今《いま》に始《はじ》めぬ事《こと》ながら大膽者《だいたんもの》よとて、從軍《じゆうぐん》を許《ゆる》し、山中城《やまなかじやう》攻《ぜめ》の際《さい》、軍功《ぐんこう》を建《た》てたれば、遂《つ》ひに其《そ》の恩賞《おんしやう》に預《あづか》り、再《ふたゝ》び出身《しゆつしん》する※[#こと、315-7]とはなつた。
此《こ》の際《さい》に於《おい》て特筆《とくひつ》す可《べ》きは、織田信雄《おだのぶを》の事《こと》だ。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》の故地《こち》、參《さん》、遠《ゑん》、駿《すん》、甲《かふ》、信《しん》の五|州《しう》を以《もつ》てせんとしたが、信雄《のぶを》は舊《きう》に依《よ》りて、尾《び》勢《せい》二|州《しう》を領《りやう》せんことを請《こ》うたから、秀吉《ひでよし》の瞋《いかり》に遭《あ》ひ、下野《しもつけ》那須《なす》に放《はな》ち、二|萬石《まんごく》を給《きふ》せられ、尋《つい》で出羽《では》秋田《あきた》に移《うつ》され、十九|年《ねん》赦《ゆる》されて、伊勢《いせ》朝熊《あさぐま》に居《ゐ》たが、征韓《せいかん》の際《さい》、接伴衆《せつぱんしゆう》となりて、大阪《おほさか》の天滿《てんま》に移《うつ》り、其《そ》の子《こ》秀雄《ひでを》に、越前《ゑちぜん》大野《おほの》五|萬石《まんごく》を給《きふ》せられた。
信雄《のぶを》が斯《かゝ》る慘《みじ》めな目《め》に逢《あ》うたのは、何故《なにゆゑ》であつたらう。
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秀吉《ひでよし》北畠信雄《きたばたけのぶを》を、出羽《では》の秋田《あきた》に遠流《ゑんりう》す。信雄《のぶを》虎狼《こらう》の志《こゝろざし》を挾《さしはさ》むの旨《むね》、疑滯《ぎたい》あるに依《よつ》て也《なり》。〔家忠日記追加〕[#「〔家忠日記追加〕」は1段階小さな文字]
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とある。虎狼《こらう》の志《こゝろざし》とはつまり、信雄《のぶを》に自主《じしゆ》、獨立《どくりつ》の志《こゝろざし》があつたからだ。彼《かれ》の庸愚《ようぐ》にして、其《そ》の天下《てんか》形勢《けいせい》の推移《すゐい》に無頓著《むとんぢやく》なる、尚《な》ほ自《みづか》ら信長《のぶなが》の子《こ》たるを誇《ほこ》りとし、動《やゝ》もすれば秀吉《ひでよし》の節度《せつど》に遵《したが》はず。小田原陣《をだはらぢん》の前後《ぜんご》にも、定《さだ》めて秀吉《ひでよし》の癪《しやく》に障《さは》つた事《こと》が多《おほ》かつたであらう。或《あるひ》は彼《かれ》は家康《いへやす》に向《むか》つて、此《こ》の機會《きくわい》に、秀吉《ひでよし》に打撃《だげき》を加《くは》へては如何《いかに》との相談《さうだん》を、持《も》ち掛《か》けたと云《い》ふ説《せつ》〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]も、事實《じじつ》あつたかも知《し》れぬ。秀吉《ひでよし》は北條《ほうでう》未《いま》だ滅《ほろ》びざる中《うち》は、之《これ》を隱忍《いんにん》して、居《ゐ》たかも知《し》れぬ。然《しか》も當時《たうじ》如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、家康《いへやす》と信雄《のぶを》とに戒心《かいしん》したかは、
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一 御所樣《ごしよさま》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]成心《じやうしん》(織田常眞即ち信雄)[#「(織田常眞即ち信雄)」は1段階小さな文字]御陣取《ごぢんどり》一|所《しよ》に置《おか》せられ候《さふらふ》。御分別《ごふんべつ》は氏直《うぢなほ》は家康《いへやす》聟《むこ》なれば、自然《しぜん》城《しろ》と言合《いひあは》せ、|有[#レ]之者《これあるもの》ならば、陣所《ぢんしよ》所々《ところ/″\》にては、御手當《おてあて》六ヶ|敷《しく》|被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、一|所《しよ》に御陣取《ごぢんどり》|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》と相聞申候事《あひきこえまをしさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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とあるにても判知《わか》る。即《すなは》ち家康《いへやす》と信雄《のぶを》とを、接近《せつきん》して陣《ぢん》せしめ、萬《まん》一の際《さい》には、一|網《まう》に羅《ら》し去《さ》る準備《じゆんび》であつたと云《い》ふ事《こと》だ。此《こ》の事情《じじやう》を洞察《どうさつ》したる家康《いへやす》は、只管《ひたす》ら嫌疑《けんぎ》を避《さ》け。只管《ひたす》ら秀吉《ひでよし》の意《い》に獎順《しやうじゆん》し、汲々《きふ/\》として秀吉《ひでよし》の驩心《くわんしん》を損《そん》せざらんことを、是《こ》れ恐《おそ》るゝの状《じやう》であつた。然《しか》るに何事《なにごと》ぞ信雄《のぶを》は、其《そ》の移封《いほう》の命《めい》に反《はん》せんとは。是《こ》れ彼《かれ》が秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、屈下《くつか》せざるを示《しめ》す所以《ゆゑん》ではない乎《か》。
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只今《たゞいま》の分《ぶん》にて、國替《くにがへ》は|御免被[#レ]成樣《ごめんなさるゝやう》にとの御返事《ごへんじ》相聞《あひきこ》え候《さふらふ》。上樣《うへさま》御意《ぎよい》に、扨《さて》は御内證《ごないしよう》天下《てんか》の御望《おのぞ》みかと|被[#レ]成[#二]御意[#一]《ぎよいなされ》、其時《そのとき》尾張《をはり》を|被[#二]召上[#一]《めしあげらる》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ秀吉《ひでよし》の心事《しんじ》を忖度《そんたく》して、十の八九を得《え》たものであらう。知《し》る可《べ》し、秀吉《ひでよし》の此《こ》の措置《そち》たる、單《たん》に卒然《そつぜん》、俄然《がぜん》、一|朝《てう》の怒《いかり》にあらざりしことを。
果《はた》して然《しか》らば吾人《ごじん》が、家康《いへやす》の移封《いほう》は、移封《いほう》其《そ》の物《もの》よりも、移封《いほう》其《そ》の事《こと》が、重大《ぢゆうだい》の問題《もんだい》であつた。移封《いほう》が秀吉《ひでよし》をして、其《そ》の威《ゐ》を天下《てんか》に示《しめ》さしむる所以《ゆゑん》であつた。即《すなは》ち此《こ》れが秀吉《ひでよし》の重《おも》なる動機《どうき》であつたと推定《すゐてい》したのは、此《こ》の信雄《のぶを》褫封《ちほう》の一|事件《じけん》の曲折《きよくせつ》によりて、之《これ》を傍證《ばうしよう》することが能《あた》ふものと思《おも》ふ。一|賢《けん》、一|不肖《ふせう》、家康《いへやす》と、信雄《のぶを》との運命《うんめい》の岐《わか》るゝ所《ところ》、此《かく》の如《ごと》く昭著《せうちよ》、明白《めいはく》だ。
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[#6字下げ]織田信雄の配流
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北條亡て後、秀吉石垣山の本陣に諸將集りて酒宴に及ぶ時、信雄は舞の上手と聞き、アハレ一曲觀申度と、秀吉云はれしに、信雄吾を侮ると口惜くや在りけん、不吉の詞を舞れたれば、秀吉恁る悦の中に忌々しき事も心得ずとて、那須に追遣られけり。此時迄も千餘騎の士を具せられしか、僅に打連て那須に赴かれぬ。時を計らず、勢を知らず、無益の空言に國を失はれしことのうたてさよと、人皆云ひ合へり。〔常山紀談〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六四】秀吉の賞罰(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は七|月《ぐわつ》十三|日《にち》、北條《ほうでう》の遺臣《ゐしん》板部岡江雪齋《いたべをかかうせつさい》を召見《せうけん》し、彼《かれ》が北條氏《ほうでうし》の使命《しめい》を誤《あやま》り、遂《つ》ひに天下《てんか》の大兵《たいへい》を動《うご》かすに至《いた》つたことを詰責《きつもん》した。江雪齋《かうせつさい》は一|死《し》を分《ぶん》として、堂々《だう/\》其《そ》の已《や》む可《べ》からざる所以《ゆゑん》を辨疏《べんそ》した。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》の故君《こくん》を辱《はづか》しめざるを嘉《よ》みし、宥《ゆる》して仕《つか》へしめた。江雪齋《かうせつさい》は姓《せい》を岡氏《をかし》と改《あらた》め、秀吉《ひでよし》腹心《ふくしん》の臣《しん》となつた。
蘆名義廣《あしなよしひろ》―盛重《もりしげ》―は舊領《きうりやう》會津《あひづ》に愎《ふく》せんことを請《こ》うたが、秀吉《ひでよし》は之《これ》を容《ゆる》さず、奏《そう》して從《じゆ》五|位下《ゐげ》日向守《ひふがのかみ》に叙任《じよにん》し、常陸《ひたち》の江戸崎《えどざき》四|萬《まん》八千|石《ごく》に封《ほう》じ、佐竹《さたけ》の附庸《ふよう》とした。
秀吉《ひでよし》は又《ま》た那須資晴《なすすけはる》の使聘《しへい》を通《つう》ぜざるを罰《ばつ》し、其《そ》の封《ほう》八|萬石《まんごく》を收《をさ》め、十|月《ぐわつ》廿二|日《にち》、其《そ》の子《こ》藤王丸《ふぢわうまる》―資景《すけかげ》―に采地《さいち》五千|石《ごく》を與《あた》へた。又《ま》た故《こ》古河公方《こがくばう》足利義氏《あしかがよしうぢ》の弧女《こぢよ》に配《はい》するに、足利義明《あしかゞよしあき》―下總生實城《しもふさおひみじやう》に居《を》る古河足利《こがあしかが》の支流《しりう》―の孫《まご》國朝《くにとも》を以《もつ》てし、喜連川《きつれがは》五千|石《ごく》を與《あた》へ、以《もつ》て足利氏《あしかゞし》の祀《まつり》を存《そん》せしめ、家康《いへやす》の附庸《ふよう》とした。
七|月《ぐわつ》十六|日《にち》成田氏長《なりたうぢなが》の封《ほう》を收《をさ》め、黄金《わうごん》九百|兩《りやう》と唐首《からくび》―犁牛《りぎう》の尾《を》を以《もつ》て飾《かざ》れる兜《かぶと》―十八|個《こ》を以《もつ》て、死《し》を贖《つぐな》はしめた。そは彼《かれ》が小田原城中《をだはらじやうちゆう》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》に謀《はかりごと》を通《つう》じたるに拘《かゝは》らず、之《これ》を實行《じつかう》しなかつたからだ。然《しか》も彼《かれ》の女《むすめ》、秀吉《ひでよし》の寵《ちよう》を得《う》るに至《いた》り、翌年《よくねん》四|月《ぐわつ》、彼《かれ》を下野《しもつけ》烏山《からすやま》三|萬石《まんごく》に封《ほう》じ、蒲生氏郷《がまふうぢさと》に屬《ぞく》せしめた。
七|月《ぐわつ》十七|日《にち》佐久間安政《さくまやすまさ》、其《そ》の弟《おとうと》勝之《かつゆき》の罪《つみ》を宥《なだ》め、氏郷《うぢさと》に屬《ぞく》せしめた。彼等《かれら》は佐久間盛政《さくまもりまさ》の弟《おとうと》で、柴田勝家《しばたかついへ》の姪《をひ》だ。勝家《かついへ》の亡《ほろ》ぶるや、紀州《きしう》に走《はし》り、粉河《こがは》の一|揆《き》を語《かたら》ひ、又《ま》た河内《かはち》三國峠《みくにたうげ》を扼《やく》して、秀吉《ひでよし》に抗《かう》し、後《のち》身《み》を北條氏《ほうでうし》に託《たく》したが、其《そ》の亡後《ばうご》武州《ぶしう》金澤《かなざは》稱名寺《しようみやうじ》に隱匿《いんとく》した。氏郷《うぢさと》の士《し》、蒲生郷就《がまふさとなり》、同《どう》郷可《さとよし》、何《いづ》れも柴田《しばた》の舊士《きうし》で、彼等《かれら》兄弟《きやうだい》と交《まじはり》あり、仍《よつ》て之《これ》を氏郷《うぢさと》に取《と》り成《な》し、氏郷《うぢさと》之《これ》を秀吉《ひでよし》に請《こ》うて、其《そ》の允許《いんきよ》を得《え》。翌年《よくねん》九|月《ぐわつ》安政《やすまさ》に一|萬石《まんごく》、勝之《かつゆき》に五千|石《ごく》を與《あた》へた。
佐久間兄弟《さくまきやうだい》の宥赦《いうしや》を聞《き》きたる尾藤知定《びとうともさだ》は、秀吉《ひでよし》の東國《とうごく》に向《むか》つて、小田原《をだはら》を發《はつ》する際《さい》、剃髮《ていはつ》、衲衣《なふい》、路傍《ろばう》に迎《むか》へ謁《えつ》した。秀吉《ひでよし》は其《そ》の心事《しんじ》の陋劣《ろうれつ》を疾《にく》み、之《これ》を誅《ちゆう》した。尾藤《びとう》は九|州役《しうえき》の際《さい》、軍監《ぐんかん》として秀長《ひでなが》に屬《ぞく》したが、軍機《ぐんき》を誤《あやま》り、封《ほう》を褫《うば》はれたものだ。筆《ふで》の序《つい》でに記《しる》し置《お》くが、曾《かつ》て高天神城《たかてんじんじやう》にて、家康《いへやす》に反《そむ》き、勝頼《かつより》に屬《ぞく》し、勝頼《かつより》亡後《ばうご》、小田原《おだはら》に在《あ》りたる小笠原長忠《をがさはらながたゞ》も亦《ま》た、小田原《をだはら》開城《かいじやう》を同時《どうじ》に、家康《いへやす》の誅《ちゆう》する所《ところ》となつた。
七|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、南部信直《なんぶのぶなほ》をして、南部《なんぶ》七|郡《ぐん》を領《りやう》し、其《そ》の妻孥《さいど》をして、京都《きやうと》に居《を》らしめ、封内《ほうない》の地《ち》を檢《けん》し、家臣《かしん》の居城《きよじやう》を毀《こぼ》ち、其《そ》の質《ち》を信直《のぶなほ》の居城《きよじやう》三戸《さんのへ》に置《お》かしめた。
       覺《おぼえ》
[#ここから1字下げ]
一 南部《なんぶ》七|郡事《ぐんのこと》、大膳大夫《だいぜんだいふ》|可[#レ]任[#二]覺悟[#一]事《かくごににんずべきこと》。
一 信直《のぶなほ》妻子《さいし》定《さだめて》|在京可[#レ]仕事《ざいきやうつかまつるべきこと》。
一 知行方《ちぎやうかた》|令[#二]檢地[#一]《けんちせしめ》、臺所入《だいどころいり》丈夫《ぢやうぶ》に召置《めしをき》、在京之賄《ざいきやうのまかなひ》相續候樣《あひつゞきさふらふやう》に、|可[#二]申付[#一]事《まをしつくべきこと》。
一 家中之者共《かちゆうのものども》、相拘《あひかゝはる》諸城《しよじやう》、悉《こと/″\く》|令[#二]破壞[#一]《はくわいせしめ》、則《すなはち》妻子《さいしは》三戸《さんのへ》へ|引寄可[#二]召置[#一]事《ひきよせめしおくべきこと》。
右《みぎ》條々《でう/\》|及[#二]異議[#一]者《いぎにおよぶもの》|在[#レ]之者《これあらば》、今般《こんぱん》|可[#レ]被[#レ]加[#二]御成敗[#一]候條《ごせいばいをくはへらるべくさふらふでう》、堅《かたく》|可[#二]申付[#一]事《まをしつくべきこと》。
 以上《いじやう》
  天正十八年七月廿七日
[#地から3字上げ]朱印(秀吉)
[#地から1字上げ]〔奧南舊事集〕[#「〔奧南舊事集〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
初《はじ》め信直《のぶなほ》と其《そ》の子《こ》利直《としなほ》とは、小田原《をだはら》落城《らくじやう》以前《いぜん》、即《すなは》ち七|月《ぐわつ》六|日《か》に、秀吉《ひでよし》に小田原《をだはら》に謁《えつ》した。而《しか》して津輕爲信《つがるためのぶ》、九戸政實《くのへまさざね》の亡状《ばうじやう》を訴《うつた》へ、之《これ》を征《せい》せんことを請《こ》うた。然《しか》も爲信《ためのぶ》は三|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、既《すで》に秀吉《ひでよし》に沼津城《ぬまづじやう》に謁《えつ》し、本領《ほんりやう》安堵《あんど》の朱印《しゆいん》を得《え》た。されば秀吉《ひでよし》は南部《なんぶ》父子《ふし》に向《むか》つて、其《そ》の事《こと》を告《つ》げ、且《か》つ不日《ふじつ》政實《まさざね》を征討《せいたう》す可《べ》き旨《むね》を諭《さと》し、之《これ》を遣歸《けんき》した。要《えう》するに南部氏《なんぶし》は、其《そ》の叛將《はんしやう》津輕氏《つがるし》の爲《た》めに、先《さきん》ぜられたのだ。
元來《ぐわんらい》南部氏《なんぶし》は東奧《とうあう》の巨族《きよぞく》だ。信直《のぶなほ》の弟《おとうと》、石川正信《いしかはまさのぶ》は、津輕《つがる》の郡代《ぐんだい》となりて、浪岡城《なみをかじやう》に在《あ》つた。而《しか》して大浦爲信《おほうらためのぶ》西根城《にしねじやう》にありて、之《これ》を佐《たす》けた。然《しか》るに正信《まさのぶ》の死《し》するや、爲信《ためのぶ》は其《そ》の郡《ぐん》を横領《わうりやう》した。此《こ》れが南部氏《なんぶし》と、津輕氏《つがるし》と葛藤《かつとう》の起因《きいん》だ。政實《まさざね》は南部氏《なんぶし》の支流《しりう》だ。南部晴繼《なんぶはるつぐ》の死《し》して相續者《さうぞくしや》なきや、宿老《しゆくらう》何《いづ》れも政實《まなざね》を此《これ》に擬《ぎ》した。然《しか》るに北信愛《きたのぶちか》之《これ》を不可《ふか》とし、強《し》ひて晴繼《はるつぐ》の大叔父《だいしゆくふ》高信《たかのぶ》の子《こ》信直《のぶなほ》を立《た》てた。爲《た》めに九戸政實《くのへまさゞね》は之《これ》を銜《ふく》み、爲信《ためのぶ》に加擔《かたん》した。
如上《じよじやう》の事情《じじやう》あつたが爲《た》めに、秀吉《ひでよし》は南部氏《なんぶし》に向《むか》つて、其《そ》の保護《ほご》と監視《かんし》とを、嚴密《げんみつ》に加《くは》へた。
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[#6字下げ]板部岡江雪
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
北條滅亡の後秀吉板部岡江雪齋に、汝先年北條の使として上京し約せし所忽ち背て、名胡桃《なくるみ》の城を取る事氏直の姦計にや、又汝が詐なるかと責問るゝに、直に申さんと答へしかば、秀吉大に怒り、手枷足枷を竝べ、江雪を呼出し、刀を奪ひ取り、左右の手を引張り庭上に引据ゑて後、秀吉罵りて曰、汝が約せし處に背くこと誠に憎むに餘りあり、且日本國の兵を動かし、主君の國を滅せし事汝に於て快きかと、譴らるゝに江雪色も變せす、氏直更に約に背くの心なく候、邊鄙の士愚にて名胡桃を取り、終に弓箭に及で北條の家亡びぬる事江雪が思慮如何んともすべき樣の候はず誠に家の亡ぶべき運命にや候ふらん、左れども日本國の兵を引受ること、北條家の面目なり、此外申べき事なし、疾く首を刎られ候へと云ふ。秀吉顏色打解けて、汝は京に引上せ、磔に懸けんと思ひしに、大言を吐て主君を辱しめず、大丈夫と謂ふべし、命を助ん、吾に仕へよとて赦れけり。板部岡を改て岡と稱しけるは、此時よりの事なり。〔常山紀談〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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