第十一章 秀吉家康を關東に移封す
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高島秀彰、入力
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[#4字下げ][#大見出し]第十一章 秀吉家康を關東に移封す[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五八】徳川氏の移封(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

北條氏《ほうでうし》亡滅後《ばうめつご》の大事件《だいじけん》は、徳川氏《とくがはし》移封《いほう》の事《こと》だ。天正《てんしやう》十八|年《ねん》七|月《ぐわつ》十三|日《にち》、秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》を北條《ほうでう》の領土《りやうど》武藏《むさし》、相模《さがみ》、伊豆《いづ》、上總《かづさ》、下総《しもふさ》、上野《かうづけ》の六|國《こく》に封《ほう》じ、安房《あは》、下野《しもづけ》を其《そ》の附庸《ふよう》とし、別《べつ》に近江《あふみ》、伊勢《いせ》、遠江《とほたふみ》、駿河《するが》にて十|萬石《まんごく》を給《きふ》し、狩獵《しゆれふ》、朝覲《てうきん》の用《よう》に供《きよう》した。單《たん》に家康《いへやす》の論功行賞《ろんこうかうしやう》と見《み》れば、それ迄《まで》の事《こと》だが、果《はた》してそれ丈《だけ》の事《こと》であつた乎《か》、否乎《いなか》。家康《いへやす》譜第《ふだい》の參河武士等《みかはぶしら》にも、當時《たうじ》とり/″\の沙汰《さた》をした。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》が此事《このこと》を此際《このさい》に行《おこな》うた動機《どうき》に立《た》ち入《い》りて、詮議《せんぎ》す可《べ》く、若干《じやくかん》の興味《きようみ》がある。
此《これ》に就《つい》て最《もつと》も痛切《つうせつ》に、所謂《いはゆ》る秀吉《ひでよし》の詐謀《さぼう》を看破《かんぱ》したのは、『徳川實紀《とくがはじつき》』の編者《へんしや》だ。
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秀吉《ひでよし》今度《このたび》北條《ほうでう》を攻亡《せめほろぼ》し、その所領《しよりやう》こと/″\く、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]に進《まゐ》らせられし事《こと》は、快活大度《くわいくわつたいど》の擧動《ふるまひ》に似《に》たりと雖《いへど》も、其實《そのじつ》は當家《たうけ》年頃《としごろ》の御徳《おんとく》に心腹《しんぷく》せし駿《すん》、遠《ゑん》、參《さん》、甲《かふ》、信《しん》の五|國《こく》を奪《うば》ふ詐謀《さぼう》なる事《こと》疑《うたがひ》なし。其故《そのゆゑ》は關東《くわんとう》八|州《しう》といへども、房州《ばうしう》に里見《さとみ》、上野《かうづけ》に佐野《さの》、下野《しもづけ》に宇都宮《うつのみや》、那須《なす》、常陸《ひたち》に佐竹等《さたけら》あれば、八|州《しう》の内《うち》、御領《ごりやう》となるは、纔《わづ》かに四|州《しう》なり。
かの駿《すん》、遠《ゑん》、參《さん》、甲《かふ》、信《しん》の五ヶ|國《こく》は、年頃《としごろ》人民《じんみん》心服《しんぷく》せし御領《ごりやう》なれば、是《これ》を秀吉《ひでよし》の手《て》に入《いれ》、甲州《かふしう》は尤《もつと》も要地《えうち》なれば、加藤遠江守光泰《かとうとほたふみのかみみつやす》を置《おき》、後《のち》に淺野彈正少弼長政《あさのだんじやうせうひつながまさ》を置《おき》、東海道《とうかいだう》樞要《すうえう》の清洲《きよす》に秀次《ひでつぐ》、吉田《よしだ》に池田《いけだ》、濱松《はままつ》に堀尾《ほりを》、岡崎《をかざき》に田中《たなか》、掛川《かけがは》に山内《やまのうち》、駿府《すんぷ》に中村《なかむら》を置《おき》。是等《これら》は皆《み》な秀吉《ひでよし》腹心《ふくしん》の者共《ものども》を要地《えうち》に据置《すゑおき》て、關《くわん》八|州《しう》の咽吭《いんかう》を押《おさ》へて、少《すこ》しも身《み》を動《うごか》し、手《て》を出《いだ》さしめじと謀《はか》りしのみならず。又《ま》た關東《くわんとう》は年久《としひさ》しく北條《ほうでう》に歸服《きふく》せし地《ち》なれば、新《あらた》に主《しゆ》をかへば、必《かならず》一|揆《き》蜂起《ほうき》すべし。土地《とち》不案内《ふあんない》にて、一|揆《き》を征《せい》せんには、必《かならず》敗《やぶる》べきなり。其破《そのやぶれ》に乘《じよう》じて、はからひざまあるべしとの秀吉《ひでよし》が胸中《きようちゆう》、明《あき》らかに知《し》るべきなり。〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》は徳川側《とくがはがは》より見《み》たる惡意的《あくいてき》見解《けんかい》として、洵《まこと》に深刻《しんこく》と云《い》ふ可《べ》きだ。併《しか》し秀吉《ひでよし》は果《はた》して、此程《これほど》の詐謀《さぼう》を懷《いだ》いたのであらう乎《か》。
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日本《にほん》は細長《ほそなが》き國故《くにゆゑ》に、昔《むかし》に於《おい》ては是非《ぜひ》とも二|個以上《こいじやう》の中心《ちゆうしん》を要《えう》したり。足利氏《あしかゞし》の時《とき》は、此勢《このいきほひ》に從《したが》つて、鎌倉《かまくら》に親族《しんぞく》を封《ほう》じ、恰《あだか》も日本《にほん》を南北《なんぼく》の二に分《わ》け、京《きやう》、鎌倉《かまくら》の兩公方《りやうくばう》にて、天下《てんか》を治《をさ》むるが如《ごと》き形《かたち》ありき。是《これ》は形勢《けいせい》の上《うへ》より止《やむ》を得《え》ざることにて、人心《じんしん》の久《ひさ》しくそれに慣《なれ》れたるのみにはあらず。實際《じつさい》左樣《さやう》にして二|個以上《こいじやう》の中心《ちゆうしん》を設《まう》けねば、其頃《そのころ》の世《よ》は治《をさ》め難《がた》かりしなり。
それ故《ゆゑ》秀吉《ひでよし》は北條《ほうでう》を亡《ほろ》ぼす前《まへ》より、北條《ほうでう》若《も》し亡《ほろ》びなば、徳川氏《とくがはし》を其跡《そのあと》に移《うつ》し、昔《むか》しの鎌倉公方《かまくらくばう》の如《ごと》く、北日本《きたにほん》を鎭《しづ》めさせんと思付《おもひつ》きたりと見《み》えたり。秀吉《ひでよし》が徳川氏《とくがはし》を鎌倉公方《かまくらくばう》に擬《ぎ》したりと云《い》ふは、強《あなが》ち我輩《わがはい》の臆測《おくそく》のみにあらず。徳川氏《とくがはし》が關東移封後《くわんとういほうご》の態度《たいど》を見《み》るに、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、伊達政宗《だてまさむね》の類《るゐ》、皆《みな》徳川氏《とくがはし》を中心《ちゆうしん》として、其《そ》の節度《せつど》に從《したが》ふの状《じやう》あり。秀吉《ひでよし》も亦《また》しかせしめたる如《ごと》く、其状《そのじやう》關東《くわんとう》は君《きみ》に委《ゐ》すと云《い》ふが如《ごと》くなればなり。〔山路愛山著、豐太閤〕[#「〔山路愛山著、豐太閤〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れは徳川氏側《とくがはしがは》より見《み》たる、善意的《ぜんいてき》の見解《けんかい》だ。然《しか》も秀吉《ひでよし》は果《はた》して徳川氏《とくがはし》を、斯《か》く迄《まで》に重《おも》じたのであらう乎《か》。吾人《ごじん》は寧《むし》ろ直接《ちよくせつ》に進《すゝ》んで、秀吉《ひでよし》其人《そのひと》の心事《しんじ》を、忖度《そんたく》せねばならぬ。
秀吉《ひでよし》は一|日《じつ》家康《いへやす》と石垣山《いしがきやま》より、小田原城《をだはらじやう》を見渡《みわた》した。
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家康公《いへやすこう》の御手《おんて》を執《とつ》て、あれ見給《みたま》へ、北條家《ほうでうけ》の滅亡《めつばう》程有《ほどある》べからず。氣味《きみ》のよき事《こと》にてこそあれ、左《さ》あらば、關《くわん》八|州《しう》は貴客《きかく》に進《まゐ》らすべしと契約有《けいやくあり》て、家康《いへやす》主《ぬし》もいざ小便《せうべん》をめされよとて、敵城《てきじやう》の方《はう》へ向《むか》ひ、打連《うちつ》れて小便《せうべん》し給《たま》ひけり。されば今《いま》の世《よ》までも、東國《とうごく》の兒女《じぢよ》相謂《あひいつ》て、關東《くわんとう》の連小便《つれせうべん》と申《まを》す此《こ》の吉兆《きつてう》を傳《つた》へたり。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは單《たん》に逸話《いつわ》に過《す》ぎざるも、北條氏《ほうでうし》亡滅以前《ばうめついぜん》、小田原陣中《をだはらぢんちゆう》にて、家康《いへやす》轉封《てんぱう》の事《こと》は、既《すで》にそれ/″\沙汰《さた》あつたものと思《おも》はる。
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廿|日《か》〔六月〕[#「〔六月〕」は1段階小さな文字]國《くに》がはり近日《きんじつ》の由候條《よしにさふらふでう》。城中之調儀之由候《じやうちゆうのてうぎのよしにさふらふ》。夜《よも》すがら具足《ぐそく》にて待候《まちさふらふ》
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と、家忠日記《いへたゞにつき》に特筆《とくひつ》せられて居《ゐ》る。乃《すなは》ち家康《いへやす》の家臣中《かしんちゆう》には、既《すで》に國《くに》がへの評判《ひやうばん》をしたのだ。

[#5字下げ][#中見出し]【五九】徳川氏の移封(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は何時頃《いつごろ》より、家康《いへやす》移封《いほう》の事《こと》を企《くはだ》てた乎《か》。そは北條征伐《ほうでうせいばつ》を決《けつ》したと同時《どうじ》であつたと、思《おも》はるゝ理由《りいう》がある。それは家康《いへやす》を鎌倉公方《かまくらくばう》同樣《どうやう》の地位《ちゐ》に据《す》ゑ、天下《てんか》を二|分《ぶん》して、之《これ》を統治《とうぢ》する了見《れうけん》でもなく。さりとて又《ま》た家康《いへやす》を北條《ほうでう》の故地《こち》に移《うつ》し、一|揆《き》に手《て》を燒《や》かしめ、佐々成政《さつさなりまさ》の二の舞《まひ》を演《えん》ぜしめんとする下心《したごゝろ》でもなく。其《そ》の日本統《にほんとう》一の必須要件《ひつしゆえうけん》として、斯《か》く豫企《よき》したのであらう。
若《も》し家康《いへやす》が中堅《ちゆうけん》となり、前《まへ》に織田信雄《おだのぶを》あり、後《うしろ》に北條氏政《ほうでううぢまさ》氏直《うぢなほ》あり、又《ま》た其後《そのうしろ》に伊達政宗《だてまさむね》あり。相連衡《あひれんかう》して、秀吉《ひでよし》に反抗《はんかう》したならば、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、由々敷《ゆゝしき》大敵《たいてき》であつたに相違《さうゐ》ない。是《こ》れが秀吉《ひでよし》の七|重《へ》の膝《ひざ》を八|重《へ》に折《を》りても、家康《いへやす》を懷柔《くわいじう》せんとしたる所以《ゆゑん》であつた。然《しか》も懷柔《くわいじう》し來《きた》れば、家康《いへやす》は既《すで》に手中《しゆちゆう》の物《もの》だ。信雄《のぶを》は固《もと》より憂《うれ》ふるに足《た》らず、北條《ほうでう》さへ片附《かたづ》くれば、伊達《だて》は刄《やいば》を用《もち》ひずして、服《ふく》するを得《う》るは、云《い》ふ迄《まで》もない。是《こ》れ秀吉《ひでよし》が北條討伐《ほうでうたうばつ》に、全力《ぜんりよく》を用《もち》ひた所以《ゆゑん》だ。而《しか》して家康《いへやす》を先鋒《せんぽう》として、北條《ほうでう》に當《あた》らしめたるは、或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、家康《いへやす》をして、其《そ》の羽翼《うよく》を殺《そ》がしむる所以《ゆゑん》だ。家康《いへやす》をして過心《くわしん》を逞《たくまし》うする能《あた》はざらしむる所以《ゆゑん》だ。
家康程《いへやすほど》の漢《をのこ》が、是《こ》れしきの魂膽《こんたん》を解《かい》せぬ筈《はず》はない。彼《かれ》は屈《くつ》せざれば已《や》む、既《すで》に秀吉《ひでよし》に屈《くつ》すれば、徹底的《てつていてき》に屈《くつ》するが、彼《かれ》の本色《ほんしよく》であり、又《ま》た彼《かれ》の政策《せいさく》であつた。所謂《いはゆ》る長《なが》いものには卷《ま》かれよとは、彼《かれ》が處世術《しよせいじゆつ》であつた。是《こ》れ家康《いへやす》が、我《わ》が聟《むこ》であり、我《わ》が與國《よこく》であり、萬《まん》一の際《さい》には、對《たい》秀吉《ひでよし》の上《うへ》に於《おい》て、我《われ》に多大《ただい》の聲援《せいゑん》たるに拘《かゝは》らず、毫《がう》も顧慮《こりよ》する所《ところ》なく、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、北條《ほうでう》討伐《たうばつ》に、餘力《よりよく》を吝《をし》まなかつた所以《ゆゑん》である。
果《はた》して上記《じやうき》の通《とほ》りとすれば、家康《いへやす》の移封《いほう》は、必然《ひつぜん》の結論《けつろん》だ。此《こ》れは恩惠《おんけい》でもなく、左遷《させん》でもなく、家康《いへやす》は行《ゆ》く可《べ》き所《ところ》に行《ゆ》き、秀吉《ひでよし》は行《ゆ》かしむ可《べ》き所《ところ》に行《ゆ》かしめたのだ。五|州《しう》より八|州《しう》に移《うつ》したのは、論功行賞《ろんこうかうしやう》と云《い》へば其通《そのとほ》りだ。父祖傳來《ふそでんらい》の參河《みかは》、百|戰《せん》の餘《よ》、鋒先《ほこさき》にて取《と》りたる遠江《たほたふみ》、駿河《するが》、若《も》しくは甲斐《かひ》、信濃《しなの》の一|部《ぶ》を棄《す》てゝ、關《くわん》八|州《しう》なる異郷《いきやう》の異客《いかく》となるは、難有迷惑《ありがためいわく》と云《い》へば、又《ま》た其通《そのとほ》りだ。
併《しか》し家康《いへやす》としては、是《こ》れ必然《ひつぜん》の勢《いきほひ》で、自《みづ》から揀擇《かんたく》の餘地《よち》はなかつたのだ。
英雄《えいゆう》の心事《しんじ》は、複雜《ふくざつ》だ。當人《たうにん》自《みづ》から當人《たうにん》の動機《どうき》を自覺《じかく》するに、苦《くる》しむ程《ほど》だ。されば秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》を移《うつ》したのは、種々《しゆ/″\》の思惑《おもわく》の湊合《そうがふ》の結果《けつくわ》であらう。北條征伐《ほうでうせいばつ》の骨折料《ほねをりれう》の意味《いみ》もあらう。毛利《まうり》一|家《け》が九|州征伐《しうせいばつ》に骨折《ほねを》りたる結果《けつくわ》として、小早川隆景《こばやかはたかかげ》に、筑前《ちくぜん》と肥前《ひぜん》の一|部《ぶ》とを與《あた》へた先例《せんれい》に徴《ちよう》するも、家康《いへやす》に何程《なにほど》かの賞典《しやうてん》を與《あた》へねばならぬ。寧《むし》ろ現在《げんざい》の領土《りやうど》に、或國《あるくに》を加《くは》ふるよりも、北條氏《ほうでうし》の後釜《あとがま》に据《す》ゑた方《はう》が、得策《とくさく》であるとは、秀吉《ひでよし》の蚤《つと》に※[#「虎+見」の「儿」に代えて「助のへん」、第4水準2-88-41]定《しよてい》した所《ところ》であつたらう。
秀吉側《ひでよしがは》よりすれば、是《こ》れ家康《いへやす》の舊領土《きうりやうど》丸取《まるど》りの姿《すがた》だ。別言《べつげん》すれば、北條《ほうでう》の代《かは》りに、徳川《とくがは》を以《もつ》て往《ゆ》いた迄《まで》にて、徳川《とくがは》の領地《りやうち》は、全《まつた》く闕國《けつこく》となる譯《わけ》だ。而《しか》して家康《いへやす》を箱根以東《はこねいとう》に封《ふう》じ込《こ》むることは、秀吉《ひでよし》の側《がは》に於《おい》ては、決《けつ》して不利益《ふりえき》でもなく、不都合《ふつがふ》でもない。家康《いへやす》は或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、關東《くわんとう》東北《とうほく》の雄鎭《ゆうちん》として、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、不逞《ふてい》の徒《と》を鎭壓《ちんあつ》する機關《きくわん》ともなる可《べ》く。又《ま》た故《ことさ》らに凾根《はこね》を越《こ》えて、上方《かみがた》に攻《せ》め上《のぼ》る機會《きくわい》をも失《うしな》はしめ、是《こ》れが爲《た》めに危險要素《きけんえうそ》の退治《たいぢ》ともなる可《べ》く。云《い》はゞ恩賞《おんしやう》の名《な》の下《もと》に、一|方《ぱう》に於《おい》ては鎭撫《ちんぶ》の役目《やくめ》を勤《つと》めしめ、他方《たはう》に於《おい》ては謀反《むほん》の機會《きくわい》を失《うしな》はしめ、所謂《いはゆ》る一|擧《きよ》三|得《とく》として、之《こ》れを斷行《だんかう》したのであらう。而《しか》して家康《いへやす》は斯《かゝ》る場合《ばあひ》に、彼是《かれこれ》苦情《くじやう》を持《も》ち出《だ》すは、得策《とくさく》でない事《こと》を諦《あきら》め、飽迄《あくまで》長《なが》いものに卷《ま》かるゝの主義《しゆぎ》を取《と》つたのであらう。
小田原陣《をだはらぢん》にて、其《そ》の移封《いほう》の評判《ひやうばん》行《おこな》はれ、甚《はなは》だしきは奧州《あうしう》に移封《いはう》せらる可《べ》しとの風説《ふうせつ》さへあり、其《そ》の臣下《しんか》の動搖《どうえう》したるに際《さい》し、彼《かれ》は我《わ》が舊領《きうりやう》に百|萬石《まんごく》を加《くは》へなば、奧州《あうしう》たりとて意《い》とする所《ところ》にあらず。斯《か》くあらんには、人數《にんず》あまた召《め》しかゝへ、三|萬《まん》を國《くに》に殘《のこ》し、五|萬《まん》を率《ひき》ゐて、上方《かみがた》に切《き》つて出《い》でんに、誰《たれ》か敢《あへ》て我《わ》が旗先《はたさき》を障《ささ》ふるものぞと云《い》へりとかや。〔續武家閑談〕[#「〔續武家閑談〕」は1段階小さな文字]

[#5字下げ][#中見出し]【六〇】家康の江戸開府[#中見出し終わり]

要《えう》するに秀吉《ひでよし》の動機《どうき》は、(第一)家康《いへやす》の北條征伐《ほうでうせいばつ》の功《こう》に酬《むく》ゆる爲《た》め。(第二)家康《いへやす》をして、東北《とうほく》の雄鎭《いうちん》となり、不逞《ふてい》の徒《と》の心《こゝろ》を制《せい》し、秩序《ちつぢよ》を維持《ゐぢ》せしむる爲《た》め。(第三)家康《いへやす》の東海道《とうかいどう》に於《お》ける根柢深《こんていふか》き勢力《せいりよく》を驅逐《くちく》して、之《これ》を關東《くわんとう》に封《ふう》じ込《こ》むる爲《た》め。と認《みと》む可《べ》きだ。而《しか》して更《さ》らに以上《いじやう》の三|者《しや》を合《がつ》したよりも、より大《だい》なる動機《どうき》は、(第四)移封《いはう》其物《そのもの》であつた。
家康《いへやす》の秀吉《ひでよし》と鎬《しのぎ》を削《けづ》つた記憶《きおく》は、尚《な》ほ未《いま》だ新《あら》たであつた。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》を除《のぞ》けば、武將《ぶしやう》の筆頭《ひつとう》であつた。家康《いへやす》の領土《りやうど》は、其《そ》の一|尺《しやく》一|寸《すん》だも、秀吉《ひでよし》の恩惠《おんけい》ではなく、皆《み》な自力《じりき》の賚《たまもの》であつた。果《はた》して然《しか》らば、此《こ》の大磐石《だいばんじやく》の根據《こんきよ》ある勢力《せいりよく》を、此《こ》の何人《なんひと》も手《て》を著《つ》くる能《あた》はざる地盤《ぢばん》を、天下公衆《てんかこうしゆう》の眼前《がんぜん》に於《おい》て、宛《あだか》も巧妙《かうめう》なる庭園師《ていゑんし》が、參天《さんてん》の大樹《たいじゆ》を、此處《ここ》より彼處《かしこ》に移《うつ》し、巨大《きよだい》なる庭石《にはいし》を此邊《このへん》より、彼邊《かのへん》に轉《てん》ずる如《ごと》く、家康《いへやす》を移封《いほう》せしむるは、秀吉《ひでよし》が天下《てんか》の大小名《だいせうみやう》に向《むか》つて、其威《そのゐ》を示《しめ》す所以《ゆゑん》にあらずして何《なん》ぞやだ。
物質上《ぶつしつじやう》よりすれば、五|州《しう》と八|州《しう》とは、同日《どうじつ》の論《ろん》でない。併《しか》し八|州《しう》は大《だい》は大《だい》でも、是《こ》れ皆《み》な秀吉《ひでよし》の賜物《たまもの》だ。家康《いへやす》さへも秀吉《ひでよし》の意《い》の如《ごと》く勝手《かつて》に進退《しんたい》せしむることが能《あた》ふとすれば、其他《そのた》は知《し》るべしだ。乃《すなは》ち知《し》る家康《いへやす》の移封《いほう》は、家康《いへやす》上洛《じやうらく》の必然《ひつぜん》の結論《けつろん》たることを。
蛇《じや》の道《みち》は蛇《へび》が知《し》る。秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》とは不言《ふげん》の裡《うち》に、互《たが》ひに契會《けいくわい》する所《ところ》があつた。家康《いへやす》は飽迄《あくまで》も長《なが》き物《もの》に卷《ま》かれるの主義《しゆぎ》を、徹底《てつてい》した。即《すなは》ち欣然《きんぜん》として移封《いほう》の命《めい》を承《う》け、八|月《ぐわつ》朔日《ついたち》には、江戸《えど》に入《はひ》つた。
抑《そもそ》も家康《いへやす》が江戸《えど》を以《もつ》て、其《そ》の主冶《しゆぢ》の府《ふ》とした事《こと》は、秀吉《ひでよし》の勸告《くわんこく》に由《よ》つた事《こと》であつた。秀吉《ひでよし》は地利《ちり》を察《さつ》するに於《おい》ての天才《てんさい》だ。彼《かれ》が小田原《をだはら》を去《さ》りて、江戸《えど》に赴《おもむ》く可《べ》く、家康《いへやす》に勸告《くわんこく》したのは、江戸《えど》の規模《きぼ》大《だい》にして、東北《とうほく》を控制《こうせい》するに足《た》るを測定《そくてい》したからだ。此事《このこと》は家康《いへやす》移封《いほう》の内諭《ないゆ》と同時《どうじ》であつた、されば移封《いほう》の事《こと》、發表《はつぺう》せらるゝや、必定《ひつぢやう》小田原《をだはら》ならむ、否《い》な鎌倉《かまくら》なる可《べ》しと、噂《うはさ》とりどりであつたが、江戸《えど》が本城《ほんじやう》となると聞《き》いて、何《いづ》れも一|驚《きやう》を喫《きつ》した。〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]
家康《いへやす》は頗《すこぶ》る迅速《じんそく》に、移封《いほう》の措置《そち》をした。七|月《ぐわつ》十三|日《にち》に、其事《そのこと》が發表《はつぺう》せられ、八|月《ぐわつ》朔日《ついたち》には、自《みづ》から江戸《えど》に移《うつ》り、其《そ》の臣下《しんか》も八|月《ぐわつ》九|月《ぐわつ》に、殆《ほとん》ど移轉《いてん》を了《お》へしめ、其《そ》の舊領《きうりやう》の引渡《ひきわた》しを申告《しんこく》した。
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秀吉《ひでよし》大《おほい》に驚《おどろ》かれ、三、遠《ゑん》、甲《かふ》、信《しん》の四|國《こく》は、急《いそ》がば此頃《このごろ》にも引移《ひきうつ》るべけれ。駿河《するが》は其《そ》の居城《きよじやう》なり。それを引拂《ひきはらふ》といふも、速《すみやか》なるも限《かぎり》ある事《こと》なれ。いかでか辨《べん》ぜしならん。すべて徳川殿《とくがはどの》のふるまひ、凡慮《ぼんりよ》の及《およ》ぶ所《ところ》にあらずといはれしぞ。〔大業廣記〕[#「〔大業廣記〕」は1段階小さな文字]
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果《はた》して秀吉《ひでよし》が斯《か》く賞讃《しやうさん》した乎《か》、否《い》な乎《か》は、知《し》る可《べ》からざるも、家康《いへやす》が秀吉《ひでよし》の意《い》を迎《むか》へ、志《こゝろざし》を承《う》け、之《これ》を獎順《しやうじゆん》、勵往《れいわう》したる事《こと》は、間違《まちがひ》はあるまい。而《しか》して彼《かれ》は却《かへ》つて此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、其《そ》の勢力《せいりよく》の大廻機《だいくわいき》たらしめん※[#こと、298-1]を勤《つと》めた。
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江戸城《えどじやう》は、さき/″\北條《ほうでう》がとき城代《じやうだい》たりし遠山《とほやま》が家居《いへゐ》、本丸《ほんまる》より二三|丸《まる》まで、古屋《ふるや》殘《のこ》れり。多《おほ》くはこけらぶきはなく、みな日光《につくわう》そぎ、飛州《ひしう》そぎなど、いふものもてふけり。中《なか》にも厨所《くりや》の邊《あたり》は、萱茨《かやいばら》にていとすゝけたり。玄關《げんくわん》の階板《きざはしいた》は、幅廣《はゞひろ》き舟板《ふないた》を三|枚《まい》ならべて階《きざはし》とし、其《そ》の餘《よ》はみな土間《どま》なり。
本多正信《ほんだまさのぶ》見《み》てあまり見苦《みぐる》し、外《そと》は捨置《すておか》せ給《たま》ふとも、この所《ところ》は、御造營《ごぞうえい》あるべし、諸大名《しよだいみやう》の使者《ししや》なども見《み》るべきに、いかにも失躾《しつたい》なりと申上《まをしあぐ》れば、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]いはれざる立派《りつぱ》だてをいふとて御笑《おわら》ひありて、その儘《まゝ》になし置《おか》れ、まづ本城《ほんじやう》と二丸《にのまる》の間《あひだ》にある乾濠《ほり》を埋《うづめ》られ、その上《うへ》は大小《だいせう》の御家人《ごけにん》の知行割《ちぎやうわり》をいそぎ給《たま》ひ、榊原康政《さかきばらやすまさ》もて總督《そうとく》とし、青山藤臟忠成《あおやまとうぞうたゞなり》、伊奈熊臟忠政《いなくまざうたゞまさ》、二|人《にん》これを奉《うけたまは》り、微祿《びろく》の者程《ものほど》、御城近《おしろちか》きあたりにて給《たま》はり、一|夜《や》隔《へだ》つる程《ほど》の地《ち》は、授《さづ》くまじと令《れい》せられ。また一|城《じやう》の主《あるじ》たるものは、御親《おんみづ》から沙汰《さた》し給《たま》ひ、誠《まこと》に御急《おいそ》ぎ故《ゆゑ》大《おほ》かた一|人《にん》一|村《そん》かぎり。また隣村《りんそん》つゞきにて下《くだ》されたり。
此《こ》の事《こと》終《をは》りし後《のち》、御家人《ごけにん》へ仰渡《おほせわた》されしは、此度《このたび》給《たま》はりし銘々《めい/\》が采邑《さいいふ》に、手輕《てがる》く陣屋《ぢんや》を作《つく》り妻子《さいし》を置《おき》、その身《み》ばかり御城《おしろ》へ通勤《つうきん》すべしとて、別《べつ》に城下《じやうか》には小屋《こや》をかけ、その身《み》と僕從輿馬《ぼくじゆうよば》のみをさし置《おか》れしなり。
道程《みちのり》遠《とほ》きものは、城下《じやうか》の市屋《まちや》を※[#「にんべん+就」、第3水準1-14-40]居《しうきよ》して、日《ひ》をかさね在府《ざいふ》し、當直《たうちよく》にあたれば、まうのぼり、番簿《ばんぼ》に名《な》をしるし置《おき》て、又《また》一|兩月《りやうげつ》も采邑《さいいふ》に歸住《きぢゆう》し、すべて簡易《かんい》の事《こと》なりき。
その後《のち》都下《とか》繁榮《はんえい》に從《したが》ひ、おのおの宅《たく》を給《たま》はり、自《みづ》からの力《ちから》もて家屋《かをく》いとなむ事《こと》と成《なり》しなり。〔落穗集、君臣言行録〕[#「〔落穗集、君臣言行録〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れにて江戸開府《えどかいふ》創始《さうし》の模樣《もやう》が察《さつ》せらるゝ。何事《なにごと》にも急《いそ》がず、周章《あわ》てず、騷《さわ》がざる家康《いへやす》が、是度《このたび》此節《このせつ》に限《かぎ》りて、全速力《ぜんそくりよく》にて移轉《いてん》したのは、必《かなら》ず彼《かれ》をして然《しか》らしめた事情《じじやう》と、理由《りいう》とがあつたに相違《さうゐ》あるまい、家康《いへやす》の如《ごと》きは、其智《そのち》には及《およ》ぶ可《べ》く、其愚《そのぐ》には及《およ》ぶ可《べ》からずだ。否《い》な時《とき》としては、其愚《そのぐ》には及《およ》ぶ可《べ》く、其智《そのち》には及《およ》ぶ可《べ》からずだ。流石《さすが》に彼《かれ》は百|錬《れん》の心腸《しんちやう》と、百|戰《せん》の經歴《けいれき》と、而《しか》して半生《はんせい》の辛苦《しんく》、艱難《かんなん》の、經驗《けいけん》とを有《いう》したる丈《だけ》ありて、緩急《くわんきう》、疾徐《しつじよ》、悉《こと/″\》く皆《み》な其節《そのせつ》に中《あた》つた。
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[#6字下げ]家康江戸城に移る
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關八州家康公御領地と成候得ば、御在城の儀は未何方共不[#レ]被[#二]仰出[#一]、去に依て御旗本の諸人|積《つもり》に十人に七八迄は相州小田原と推量仕る、其内二三人も鎌倉にて可[#レ]有[#二]御座[#一]か抔と申衆も有り。然る所に秀吉公と御相談の上にて、武州江戸を御居城と被[#二]仰出[#一]。諸人手を打て是は如何にと驚く。子細は其時代迄は、東の方平地の分は、爰も彼處も汐入の葦原にて、町屋侍屋敷を十町と割付べき樣も無く、扨又西の方は渺々と菅原、武藏野へ續き、何所を締りと謂ふべき樣も無し。御城と申せば、昔より一國と持つ大名の住みたるにも非ず、上杉の家老太田道灌齋始て繩を張り取立、其以後北條家の遠山住居せしなれば、城小さく堀の幅も狹く、門塀の體まで中々淺間敷樣子なれば、關八州の太守の御座城と可[#二]罷成[#一]樣體には人々不[#二]在寄[#一]道理なり。然るに段々御普請を被[#二]仰付[#一]、御旗本小身衆は地形も手間も取らぬ樣にと被[#二]仰付[#一]、御城より北西に當り大番町迚最初に屋敷割を被[#二]仰付[#一]、誠如[#レ]積岡の土を引ナラシ谷を埋め上候故、普請の手間許なり、次に川筋に水除汐除の土居を築き、葭原を立、處々に船入を堀り川を開け、其土を以て地形を上げ、惣町屋を割被[#レ]下、夫より段々に諸大名居屋敷を御渡被[#レ]成、其後天下の御座城と成り、日本國の貴賤寄集り、家居を成すに付て、上下の屋敷取廣大に成と雖も、畢竟江戸中にて本田の潰れは少しにて、大方は野方、海を以て事濟也。就[#レ]中江戸中へ天下の人民入込申に付、田畑の養ひ自由なれば、往古より蘆のみ生じ、武藏野の原、上々畑に開き、新に百姓の家居と爲し、村里數限り無し。然ば御城内より大名屋敷町屋敷數寺社へ掛けて大分の地形の樣子なれども、田畑の廣まり候ひし事十層倍なり。如[#レ]此の損徳なり、賢慮に洩る儀一つも無く、當時天下の貴賤入|湊《つど》うても何に一色事缺る儀も無[#レ]之、諸用足り候へば萬民居住仕安し、右百年以前關東御入國の砌江戸の樣子承りて考見候へば、今如[#レ]此都に罷成樣子には不[#レ]被[#レ]存、然るに蘆野茅野の時に後々末々繁昌の地たるべきと、御下墨被[#レ]成大神君の御賢慮奉[#レ]感も愚か也。〔岩淵夜話別集〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六一】關東に於ける家康の民政[#中見出し終わり]

大體《だいたい》から見《み》れば、家康《いへやす》は保守主義《ほしゆしゆぎ》の權化《ごんげ》だ。彼《かれ》は受身《うけみ》に於《おい》て、其《そ》の強味《つよみ》を占《し》めた。されば彼《かれ》の甲斐《かひ》を取《と》るや、武田氏《たけだし》の苛歛《かれん》、誅求《ちゆうきう》の惡政《あくせい》を省《はぶ》きたる迄《まで》にて、概《おほむ》ね其《そ》の舊貫《きうくわん》に仍《よ》つた。今囘《こんくわい》北條氏《ほうでうし》の後《のち》を襲《おそ》ふに際《さい》しても、亦《また》同《おな》じだ。
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北條氏《ほうでうし》亡《ほろ》びて、徳川氏《とくがはし》江戸《えど》に入《い》る。この際《さい》駿《すん》遠《ゑん》三|甲《かふ》を捨《す》て、八|州《しう》を得《う》るといへども、新封《しんぽう》の人民《じんみん》嚮背《かうはい》期《き》すべからず。又《また》收税上《しうぜいじやう》より計算《けいさん》すれば、所得《しよとく》多《おほ》きを加《くは》へず。且《かつ》北條氏《ほうでうし》の舊臣《きうしん》、半《なか》ば前祿《ぜんろく》を以《もつ》て、給仕《きうし》すといへども、歸農《きのう》して民間《みんかん》に潜《ひそ》まり、出《いで》て仕《つかふ》るを屑《いさぎよし》とせざるもの又《また》多《おほ》く。租税《そぜい》に於《おい》ては、緩《くわん》に爲《な》すべきも、嚴《げん》に爲《な》すべからざるの勢《いきほひ》あり。外貌《ぐわいばう》を見《み》れば、四|州《しう》と八|州《しう》と名《な》は四ヶ|國《こく》を増《ま》すと雖《いへど》も、其《そ》の實際《じつさい》を察《さつ》すれば、收入《しうにふ》多《おほ》きを加《くは》へず、民心《みんしん》測《はか》るべからず。毫族《ごうぞく》其間《そのかん》に※[#「豊+見」、302-6]覦《きゆ》し、蒲生《がまふ》、佐々《さつさ》の覆轍《ふくてつ》に陷《おちい》らしめんとす、英雄《えいゆう》風雲《ふううん》の會《くわい》、唯《たゞ》戰鬪《せんとう》の勝敗《しようはい》のみならんや。亂世《らんせい》に處《しよ》し、能《よ》く其國《そのくに》を治《をさ》め、敵國《てきこく》の侮《あなどり》を防《ふせ》ぐの將《しよう》にして、富國《ふこく》に汲々《きふ/\》たらざるは鮮少《すくな》し。我《わ》が徳川氏《とくがはし》關東《くわんとう》を得《え》たりし後《のち》、其《そ》の治國《ちこく》の苦慮《くりよ》おもふべし。故《ゆゑ》に田租《でんそ》の制《せい》の如《ごと》き、從來《じゆうらい》の成規《せいき》に由《よ》りて改《あらた》めず。今《いま》武藏《むさし》其他《そのた》は下國《げこく》より上國《じやうこく》に變《へん》ずといへども、其《そ》の舊貫《きうくわん》によるもの、今日《こんにち》の如《ごと》くなり。〔吹塵録〕[#「〔吹塵録〕」は1段階小さな文字]
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勝海舟《かつかいしう》の此説《このせつ》は、洵《まこと》に家康《いへやす》當時《たうじ》の苦心《くしん》を揣摩《しま》したる破的《はてき》の言《げん》だ。家康《いへやす》をして自《みづ》から語《かた》らしむるも、此《こ》れ以上《いじやう》には出《い》でまい。
家康《いへやす》は卑近《ひきん》なる蕭何《せうか》の役目《やくめ》に、伊奈忠次《いなたゞつぐ》を見出《みいだ》した。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の東征《とうせい》に際《さい》して、家康《いへやす》の命《めい》を奉《ほう》じて、道路奉行《だうろぶぎやう》となつた。當時《たうじ》雨天《うてん》に拘《かゝは》らず、秀吉《ひでよし》は前途《ぜんと》の急《いそ》がるる爲《た》めに、強制行軍《きやうせいかうぐん》せんとしたが、大軍《たいぐん》の渡河《とか》は、十|人《にん》水《みづ》に溺《おぼ》れなば、千百|人《にん》と沙汰《さた》すべし。是《こ》れ敵《てき》に氣《き》を増《ま》す所以《ゆゑん》なればとて、忠次《たゞつぐ》は之《これ》を諫《いさ》め、其爲《そのた》め秀吉《ひでよし》は三|日間《かかん》、吉田《よしだ》に滯陣《たいぢん》した。
家康《いへやす》の移封《いほう》に際《さい》して、秀吉《ひでよし》は北條《ほうでう》の遺穀《ゐこく》十萬|石《ごく》を家康《いへやす》に與《あた》へた。家康《いへやす》は忠次《たゞつぐ》をして、之《これ》を計量《けいりやう》せしめた。彼《かれ》は直《たゞ》ちに之《これ》を辨《べん》じた。家康《いへやす》怪《あや》しんで其故《そのゆゑ》を問《と》ふ。曰《いは》く、米《こめ》多《おほ》くとも減《へら》すべからず、少《すくな》くとも増《ま》すべからず。某《それがし》諸役人《しよやくにん》と相判《あひはん》にて封《ほう》を致《いた》し、年貢《ねんぐ》は郷別《がうべつ》段別《たんべつ》に員數《ゐんすう》を記《しる》し置《お》けりと。彼《かれ》は斯《か》く計數《けいすう》に明敏《めいびん》に、庶政《しよせい》に敏快《びんくわい》であつた。されば家康《いへやす》は彼《かれ》を拔擢《ばつてき》して、八|州《しう》の代官《だいくわん》とした。
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江戸《えど》御居城《ごきよじやう》ありし後《のち》、駿《すん》遠《ゑん》三|甲《かふ》信《しん》にて代官《だいくわん》奉《うけたまは》りし者《もの》ども、皆《み》な役《やく》免《ゆる》され、伊奈熊藏忠政《いなくまざうたゞまさ》(忠次)[#「(忠次)」は1段階小さな文字]一|人《にん》して、八|州《しう》を保轄《ほかつ》せしめむとありしに、本多佐渡守正信《ほんださどのかみまさのぶ》申《まをし》けるは、是迄《これまで》五|箇國《かこく》にても代官《だいくわん》あまた設《まう》けられしに、今《いま》は八|州《しう》の大守《たいしゆ》に成《な》らせ給《たま》ひて、忠政《たゞまさ》一|人《にん》に仰付《おほせつけ》られんは、いかゞ侍《はべ》るべき。忠政《たゞまさ》何程《なにほど》才幹《さいかん》あり共《とも》、いかでか八|州《しう》の繁務《はんむ》を、一|人《にん》して沙汰《さた》する事《こと》を得《え》んやといへども、聞《きゝ》も入給《いれたま》はず。忠政《たゞまさ》に誓詞《せいし》せしめらる。其《そ》の前文《ぜんぶん》は正信《まさのぶ》かき候《さふら》へと仰《おほ》せらる。正信《まさのぶ》硯《すゞり》引寄《ひきよせ》、文段《もんだん》をいかにと伺《うかゞ》へば、最初《さいしよ》の一|條《でう》に、先《まづ》關《くわん》八|州《しう》を、己《おのれ》の物《もの》の如《ごと》く大切《たいせつ》に致《いた》すべしとなり。其次《そのつぎ》の文《ぶん》は、支配《しはい》下々《しも/″\》の者《もの》を使《つか》ふに、依怙《えこ》仕《つかまつ》るまじとなり。正信《まさのぶ》仰《おほせ》のまゝ書《かき》つらね、第《だい》三|條《でう》はと伺《うかゞ》ひしに、もはやそれにてよしと仰《おほせ》ければ、正信《まさのぶ》筆《ふで》を閣《さしお》きしとなり。〔靈岩夜話、落穗集〕[#「〔靈岩夜話、落穗集〕〕」は1段階小さな文字]
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蓋《けだ》し家康《いへやす》は、忠次《たゞつぐ》に於《おい》て、正《まさ》しく能吏《のうり》にして、循吏《じゆんり》を見出《みいだ》した。家康《いへやす》が彼《かれ》に任《まか》して、八|州《しう》の民《たみ》を綏撫《すゐぶ》し、其《そ》の富源《ふげん》を開拓《かいたく》し、秀吉《ひでよし》を除《のぞ》けば、海内《かいだい》富強《ふきやう》第《だい》一となつたのも、偶然《ぐうぜん》ではなかつた。
人《ひと》を用《もち》ふる多《おほ》きにあらず、唯《た》だ適材《てきざい》を適所《てきしよ》に措《お》くにあつた。家康《いへやす》の志《こゝろざし》を天下《てんか》に得《え》たる所以《ゆゑん》のもの、井伊《ゐい》、本多等《ほんだら》の攻城夜戰《こうじやうやせん》の功《こう》は勿論《もちろん》なれども、帷幄《ゐあく》に本多正信《ほんだまさのぶ》の如《ごと》きあり、民政《みんせい》に伊奈忠次《いなたゞつぐ》の如《ごと》きあり。何《いづ》れも皆《み》な其《そ》の長《ちやう》ずる所《ところ》を發揮《はつき》して、極力《きよくりよく》盡瘁《じんすゐ》したものを、集《あつ》めて大成《たいせい》した効果《かうくわ》である。特《とく》に北條氏《ほうでうし》寛裕《くわんゆう》の餘《よ》を承《う》け、清正寧《せい/\ねい》一の政治《せいぢ》を、關東《くわんとう》に布《し》いたのは、家康《いへやす》の非凡《ひぼん》なる政治上《せいぢじやう》大見解《だいけんかい》と、大手腕《だいしゆわん》とに歸《き》すべきである。
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[#6字下げ]伊奈備前守忠次略傳
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伊奈忠次初めの名は熊藏、後備前守と稱す。その父祖の代信州伊奈郡より來りて參河小鳥村に居る、忠次、父忠家と共に徳川家康に仕へ大に登用せられ、所謂地方奉行(郡代)となり徴税、司法、殖産、交通その他凡百の民政を掌れり。天正十八年豐臣秀吉の北條氏を攻むるや、忠次家康の命を受け大井、富士等の川々に舟橋を架し軍隊の通過に便せんとす。然るに秀吉早くも吉田驛に至り、折柄の風雨を冐して渡河せんとす、忠次力諫これを止め橋梁の成るを待つて渡らしむ、大軍爲に難なきを得たり。關東平定するや鹵獲の米穀十萬石は徳川氏の有となりしが、忠次は數日にしてこれを處理し、秀吉をしてその才を嘆賞せしめたり。家康江戸に入るに及んで武州鴻巣、小室その他の地にて一萬石を賜はり、幕府直領の民政を司り、稱して郡代といふこと元の如し。又市川、松戸、房川(栗橋)三關の吏となり江戸北門の鎖※[#「金+侖」、U+9300、305-14]を握れり。當時葛西、埼玉の田野は利根、秩父の川々横流し、蘆葦茫々の低濕地多かりしが、忠次よく堤防を築きて河流を制し、溝渠を鑿ちて灌漑に便し、人民を招徠して荒地を開き新村を起さしめ、畫策する所頗る多し。埼玉懸備前堀は忠次が事業の一端を語る紀念の名目なり。埼玉懸北葛飾郡茂田井新田、東京府南足立郡内、北三谷新田等は皆忠次の時代に開發せられたる新村なり。忠次又田疇を丈量して徴税の根基を定め、寇盜の奸を糺し、民間の訴を聽き、民をして倚頼する所を知らしめ、百般の民度甚だこの面目を改めたり。世に備前檢地といふは忠次の檢地を稱するものにして、その正しきをいふなり。しかも忠次の事業は關左の地方に止まらず、尾張春日井郡小田井の備前堰は忠次の遺業と傳へられ、甲州の熊藏荒といふも忠次が檢地の際に生ぜる地目なり。忠次下民に接する寛厚なれども、しかも違法は假借するなし、故に民倚頼すれども畏憚せざるなし。慶長十五年六月十三日江戸馬喰町の郡代邸に歿す。歳五十七。鴻巣勝願寺に葬る、法號勝林院源長久運といふ。長子忠政、次子忠冶共に父の風を繼ぎ、治水土木に詳し。忠政早く歿し、忠冶嗣ぐ。忠冶通稱は半十郎、武州赤山七千石を賜はりて是に居る。忠冶益※[#二の字点、1-2-22]新墾治水の業を起し利根川、庄内川等の流路を變更し、江戸舟運の便を計り頗る功績多し、子半左衞門忠克亦令名あり。爾後子孫數代の間皆郡代の職にあり、甚だ著れずと雖株守する所ありて、其事業亦聊か見るべし。初め利根川は江戸内海に流入せしが、これを下總銚子に押しやり、葛西田野及び江戸町をして洪水の憂ひ少なからしめたるは、伊奈家の力なり。
大凡徳川時代の民政はこれを地方といひ、その流派伊奈家のものを伊奈流又は關東流といひ、彦坂小刑部直通に出でたるものを彦坂流と稱し、これを地方二流といへども、伊奈流最も著はれて永續せり。〔高橋源一郎編、東京府民政史料〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六二】家康の一大發展期[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の動機《どうき》が、何邊《なにへん》にあつたかは姑《しば》らく措《お》き、家康《いへやす》の移封《いほう》は、家康《いへやす》及《およ》び其《そ》の臣下《しんか》に取《と》りては、一|大利益《だいりえき》に相違《さうゐ》なかつた。(第一)は、形勝《けいしよう》の地《ち》を擁《よう》し、地《ち》の利《り》を得《え》た事《こと》だ。(第二)は、領土《りやうど》の從前《じゆうぜん》に比《ひ》して、擴張《くわくちやう》せられた事《こと》だ。而《しか》して(第三)、更《さ》らに最《もつと》も大《だい》なる利益《りえき》は、家康《いへやす》及《およ》び其《そ》の臣下《しんか》をして、新境遇《しんきやうぐう》に遷《うつ》り、新生活《しんせいくわつ》を始《はじ》め、新生涯《しんしやうがい》に入《い》らしめた事《こと》だ。別言《べつげん》すれば、舊習《きうしふ》の桎梏《しつこく》を脱《だつ》して、新天地《しんてんち》に俯仰《ふぎやう》せしめた事《こと》だ。徳川氏《とくがはし》が天正《てんしやう》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》朔日《ゝいたち》、江戸《えど》入城《にふじやう》を以《もつ》て、佳節《かせつ》となしたるは、良《まこと》に所以《ゆゑ》ある次第《しだい》だ。
家康《いへやす》の生涯《しやうがい》は、其《そ》の主冶《しゆぢ》の地《ち》を移《うつ》す毎《ごと》に一|變《ぺん》した。岡崎《をかざき》の家康《いへやす》は、全《まつた》く地方的《ちはうてき》武將《ぶしやう》に過《す》ぎなかつた。其《そ》の濱松《はままつ》に移《うつ》るや、海道《かいだう》一の弓取《ゆみと》りたる名譽《めいよ》の大將《たいしやう》となつた。更《さ》らに駿河《するが》の府中《ふちやう》に移《うつ》るや、儼然《げんぜん》たる地方的《ちはうてき》霸者《はしや》となつた。而《しか》して江戸《えど》に移《うつ》るや、今《いま》や推《お》しも推《お》されもせぬ、日本的《にほんてき》一|大勢力《だいせいりよく》となつた。
一|方《ぱう》から云《い》へば、父祖《ふそ》以來《いらい》の功《こう》、百|戰《せん》生死《しやうし》の地《ち》、即《すなは》ち血統《けつとう》傳來《でんらい》と、槍先《やりさき》の功名《こうみやう》の地《ち》を秀吉《ひでよし》に献《さゝ》げて、新《あら》たに秀吉《ひでよし》より北條《ほうでう》の故地《こち》を賜《たま》はりたるは、甚《はなは》だ面白《おもしろ》からぬ次第《しだい》だ。是《こ》れ彌《いよい》よ家康《いへやす》が秀吉《ひでよし》に服從《ふくじゆう》する、一|大徴象《だいちようしやう》であるかの如《ごと》く見《み》ゆるが、更《さ》らに他方《たはう》から觀察《くわんさつ》すれば、秀吉《ひでよし》の御蔭《おかげ》で、地方的《ちはうてき》勢力《せいりよく》より、天下的《てんかてき》勢力《せいりよく》となつた。家康《いへやす》は長《なが》い物《もの》に卷《ま》かれつゝ、其長《そのなが》い物《もの》が解《と》け去《さ》る日《ひ》を竢《ま》つた。其解《そのと》け去《さ》る日《ひ》に於《おい》ては、家康《いへやす》自《みづ》からが既《すで》に日本《にほん》第《だい》一の長《なが》い物《もの》となつて居《ゐ》た。
何《なん》と云《い》うても移封《いほう》は、増封《ぞうほう》だ。家康《いへやす》は固《もと》より、其《そ》の臣下迄《しんかまで》、何《いづ》れも創業《さうげふ》の氣分《きぶん》となりて、更生再活《かうせいさいくわつ》し來《き》たと同時《どうじ》に、其《そ》の新境遇《しんきやうぐう》に、勢力《せいりよく》の根《ね》を卸《おろ》した。家康《いへやす》は七|月《ぐわつ》十三|日《にち》に移封《いほう》の命《めい》を受《う》け、八|月《ぐわつ》一|日《じつ》に江戸《えど》に入城《にふじやう》し、八|月《ぐわつ》十五|日《にち》に、諸臣《しよしん》に其《そ》の領地《りやうち》を與《あた》へた。十|萬石以上《まんごくいじやう》には、井伊直政《ゐいなほまさ》に、上州《じやうしう》箕輪《みのわ》十二|萬石《まんごく》、同《どう》館林《たてばやし》に、榊原康政《さかきばらやすまさ》、上總《かづさ》大多喜《おほだき》に、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》十|萬石《まんごく》。此《こ》れは何《いづ》れも秀吉《ひでよし》の聲掛《こゑがゝ》りであつた。又《ま》た小田原《をだはら》も、秀吉《ひでよし》の特旨《とくし》にて、大久保忠世《おほくぼたゞよ》―四|萬石《まんごく》後《のち》に追加《つゐか》五千|石《ごく》―に賜《たま》うた。
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その時《とき》秀吉《ひでよし》、大久保《おほくぼ》七|郎右衞門忠世《らううゑもんたゞよ》を召《め》して、汝《なんぢ》は徳川家《とくがはけ》の股肱《ここう》なれば、此城《このしろ》に箱根山《はこねやま》を添《そ》へて、徳川殿《とくがはどの》よりたまはるべしといはれし。これぞ大久保《おほくぼ》が家《いへ》にて、代々《だい/\》この城《しろ》守《まも》る事《こと》の權輿《ごんよ》なり。秀吉《ひでよし》陽《あらは》には當家《たうけ》の爲《ため》に重任《ぢゆうにん》を擇《えら》ぶ樣《やう》に見《み》ゆれど、實《じつ》は東西《とうざい》變《へん》あらんときの事《こと》を思《おも》ひ、何《なん》となく忠世《たゞよ》に私恩《しおん》を施《ほどこ》されしものなり。〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
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私恩《しおん》を施《ほどこ》すと否《いな》とは、扨《さ》て置《お》き、秀吉《ひでよし》が徳川《とくがは》臣下《しんか》の賞罰《しやうばつ》に、若干《じやくかん》干渉《かんせふ》した事《こと》は、確《たしか》な事實《じじつ》だ。本多重次《ほんだしげつぐ》の如《ごと》きは、三|河《かは》譜第《ふだい》の功臣《こうしん》でありつゝも、秀吉《ひでよし》の旨《むね》に忤《さか》ふ爲《た》めに、蟄居《ちつきよ》せしめられた。
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秀吉《ひでよし》大神君《だいしんくん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]に語《かたつ》て云《い》はく、本多作左衞門重次《ほんださくざゑもんしげつぐ》、先年《せんねん》質《ち》として、其子《そのこ》仙千代《せんちよ》を大坂《おほさか》に差置《さしお》き、其理《そのことわり》を盡《つく》さず、仙千代《せんちよ》を三|州《しう》に呼《よ》び下《くだ》す、是《これ》我意《がい》の至《いた》り也《なり》。此度《このたび》秀吉《ひでよし》東行《とうかう》の時《とき》、三|州《しう》岡崎《をかざき》の城《しろ》に著《つ》く、重次《しげつぐ》出《いで》て秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》すべきの旨《むね》、加藤遠江守《かとうとほたふみのかみ》をして、再《さい》三|言《ことば》を盡《つく》さしむるといへども、遂《つひ》に是《これ》に從《したが》はず。恣《ほしいまゝ》に我意《がい》を振廻《ふりまはし》、無禮《ぶれい》の臣《しん》、扶持《ふち》有《あ》るべき事《こと》宜《よろ》しからざるの旨《むね》、秀吉《ひでよし》強《しひ》て是《これ》を諫《いさ》む。大神君《だいしんくん》一|旦《たん》秀吉《ひでよし》の憤《いきどほり》を止《とゞ》め給《たま》はんが爲《た》め、重次《しげつぐ》をして、上總國《かずさのくに》小井戸《こゐど》の郷《がう》に移《うつ》らしめ、食邑《しよくいふ》三千|石《ごく》を賜《たまう》て蟄居《ちつきよ》す。重次《しげつぐ》遂《つひ》に此處《こゝ》にて死《し》す。〔家忠日記追加〕[#「〔家忠日記追加〕」は1段階小さな文字]
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其《そ》の他《た》、鳥居元忠《とりゐもとたゞ》に下總《しもふさ》矢作《やはぎ》四|萬石《まんごく》。平岩親吉《ひらいはちかよし》に上州《じやうしう》厩橋《うまやばし》、松平康貞《まつだひらやすさだ》に同《どう》藤岡《ふぢをか》、酒井家次《さかゐいへつぐ》に下總《しもふさ》臼井《うすゐ》、大須賀忠政《おほすかたゞまさ》に上總《かづさ》久留里《くるり》、何《いづ》れも三|萬石宛《まんごくづゝ》。奧平信昌《おくだひらのぶまさ》に上州《じやうしう》宮崎《みやざき》、石川康通《いしかはやすみち》に上總《かづさ》鳴門《なると》、本多康重《ほんだやすしげ》に上州《じやうしう》白井《しらゐ》、牧野康成《まきのやすなり》に同《どう》大胡《おほご》、菅沼定利《すがぬまさだとし》に同《どう》吉井《よしゐ》、小笠原秀政《をがさはらひでまさ》に下總《しもふさ》古河《こが》、松平康元《まつだひらやすもと》に同《どう》關宿《せきやど》、内藤家長《ないとういへなが》に上總《かづさ》佐貫《さぬき》、松平康重《まつだひらやすしげ》に武州《ぶしう》騎西《きさい》、高力清長《かうりきよなが》に同《どう》岩槻《いはつき》、各《かく》二|萬石《まんごく》。久能宗能《くのうむねよし》に下總《しもふさ》佐倉《ゝくら》一|萬《まん》三千|石《ごく》、岡部長盛《をかべながもり》に上總《かづさ》の内《うち》にて、諏訪頼忠《すはよりたゞ》に、武州《ぶしう》の内《うち》にて、並《ならび》に一|萬《まん》二千|石《ごく》。松平家忠《まつだひらいへたゞ》以下《いか》十六|人《にん》に一|萬石《まんごく》を與《あた》へ、又《ま》た北條氏勝《ほうでうゝぢかつ》を下總《しもふさ》岩富《いはとみ》に移《うつ》し、一|萬《まん》二千|石《ごく》を、江戸城《えどじやう》の降將《かうしやう》遠山直景《とほやまなほかげ》、眞田信尹《さなだのぶたゞ》に各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》一|萬石《まんごく》を與《あた》へたが、彼等《かれら》は意《い》に滿《み》たずして去《さ》りて、秀吉《ひでよし》に仕《つか》へんとした。然《しか》も秀吉《ひでよし》は曰《いは》く、關左《くわんさ》八|州《しう》の士《し》は、家康《いへやす》に屬《ぞく》すべしとて、敢《あへ》て許《ゆる》さず。是《こゝ》に於《おい》て彼等《かれら》は、遂《つひ》に蒲生氏郷《がまふうぢさと》に仕《つか》へた。後《のち》眞田《さなだ》は家康《いへやす》に召還《せうくわん》せられ、五千|石《ごく》を賜《たま》はつた。
當時《たうじ》移封《いほう》の模樣《もやう》は、家忠日記《いへたゞにつき》に於《おい》て、其《そ》の一|斑《ぱん》を想像《さうざう》することが能《あた》ふ。
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廿日(六月)[#「(六月)」は1段階小さな文字] 國《くに》がはり近日《きんじつ》の由候《よしにさふらふ》。
十日(七月)[#「(七月)」は1段階小さな文字] 殿樣《とのさま》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]城《しろ》(小田原)[#「(小田原)」は1段階小さな文字]へ御《お》うつり候《さふらふ》。城中《じやうちゆう》見物《けんぶつ》に越《こ》し候《さふらふ》。
十六日 江戸表《えどおもて》へ立候《たちさふらふ》。柳島迄《やなぎしままで》こし候《さふらふ》。關白樣《くわんぱくさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]は會津筋《あひづすぢ》へ御成候《おなりさふらふ》。
十八日 江戸《えど》へつき候《さふらふ》。
廿日 明日《みやうにち》三|州《しう》へ歸候《かへりさふら》へとの由《よし》御意候《ぎよいさふらふ》。御國《おくに》がはり女子《ぢよし》引越《ひきこし》の事也《ことなり》。關白樣《くわんぱくさま》は奧《おく》へ|御通被[#レ]成候《おとほりなされさふらふ》。
五日(八月)[#「(八月)」は1段階小さな文字] 夜《よる》雨《あめ》降《ふる》。ふかうず(深溝一作[#二]深津[#一])[#「(深溝一作[#二]深津[#一])」は1段階小さな文字]參著候《さんちやくさふらふ》。妻《つま》に引越候《ひきこしさふらふ》さわぎにてあひ候《さふらふ》。
八日 夜《よる》雨《あめ》降《ふる》。江戸《えど》より川越《かはごえ》を|被[#二]仰付[#一]候由《おほせつけられさふらふよし》申來候《まをしきたりさふらふ》。代物《しろもの》百|貫《くわん》御《お》かし岡崎《をかざき》へ取《とり》につかはし候《さふらふ》。
十八日 雨《あめ》降《ふる》。關東《くわんとう》へ荒井迄《あらゐまで》越候《こしさふらふ》。
廿二日 ひる迄《まで》雨《あめ》降《ふる》。吉原迄《よしはらまで》越候《こしさふらふ》。興國寺《こうこくじ》におき候《さふらふ》女共《をんなども》、去《さる》廿|日《か》に小田原《をだはら》へこし候《さふらふ》。
廿六日 雨《あめ》降《ふる》。江戸迄《えどまで》こし煩候《わづらひさふらう》て、出仕《しゆつし》には|不[#レ]出候《いでずさふらふ》。忍《おし》の城《しろ》|被[#二]仰付[#一]由《おほせつけられしよし》、深尾清《ふかをせい》十|郎《らう》御使《おんつかひ》早々《はや/\》うつり候《さふら》への由《よし》御意候《ぎよいさふらふ》。
廿七日 大雨《おほあめ》降《ふ》りて逗留候《とうりうさふらふ》。
廿八日 岩付《いはつき》近所迄《きんじよまで》越候《こしさふらふ》。
廿九日 忍《おし》へ越候《こしさふらふ》。松平周防《まつだひらすはう》より城《しろ》受取候《うけとりさふらふ》。〔家忠日記〕[#「〔家忠日記〕」は1段階小さな文字]
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松平家忠《まつだひらいへたゞ》は參河《みかは》深溝《ふかうづ》の城主《じやうしゆ》にて、小田原陣《をだはらぢん》に從《したが》ひ、江戸《えど》に赴《おもむ》き、移轉《いてん》に爲《た》めに深溝《ふかうづ》に歸《かへ》り、最初《さいしよ》は川越《かはごえ》と云《い》ふことであつたが、改《あらた》めて忍《おし》へ封《ほう》ぜられたのだ。
彼《かれ》の日記《につき》を見《み》れば、當年《たうねん》は非常《ひじやう》なる降雨《かうう》の年《とし》と覺《おぼ》え、小田原城《をだはらじやう》の一百|餘日《よにち》は、殆《ほとん》ど雨中《うちゆう》に經過《けいくわ》し、而《しか》して家康《いへやす》の移封《いほう》も、亦《ま》た然《しか》りだ。其《そ》の勞苦《らうく》想《おも》ふ可《べ》しだ。然《しか》も此《こ》の移封《いほう》は、實《じつ》に家康《いへやす》運命《うんめい》の大發展期《だいはつてんき》であつた。而《しか》して一たび今川《いまがは》の地《ち》を併《あは》せて、其士《そのし》を加《くは》へ、再《ふたゝ》び武田《たけだ》の地《ち》を併《あは》せて、其士《そのし》を加《くは》へ、三たび北條《ほうでう》の地《ち》を併《あは》せて、其士《そのし》を加《くは》へ、徳川《とくがは》は愈《いよい》よ濟々多士《さい/\たし》となつた。
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