第十章 北條早雲と北條氏の政治
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十章 北條早雲と北條氏の政治[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五五】北條早雲(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

北條氏《ほうでうし》の亡滅《ばうめつ》は、不思議《ふしぎ》でない、不思議《ふしぎ》なるは、其《そ》の亡滅《ばうめつ》の速《すみや》かならざる事《こと》だ。小田原城《をだはらじやう》の陷落《かんらく》は、不思議《ふしぎ》でない、不思議《ふしぎ》なるは、其《そ》の陷落《かんらく》が、容易《ようい》でなかつた事《こと》だ。
近《ちか》くは武田氏《たけだし》に就《つい》て見《み》よ。天正《てんしやう》十|年《ねん》二|月《ぐわつ》九|日《か》に、信長《のぶなが》は出征《しゆつせい》の一|般方略《ぱんはうりやく》を頒《わか》ち、三|月《ぐわつ》十一|日《にち》には、武田勝頼《たけだかつより》を始《はじ》め、其《そ》の一|家《か》概《おほむ》ね討死《うちじに》、若《も》しくは自刄《じじん》した。即《すなは》ち約《やく》一|個月《かげつ》にて、武田氏《たけだし》は亡滅《ばうめつ》した。然《しか》るに北條氏《ほうでうし》は、秀吉《ひでよし》が天下《てんか》を席捲《せきけん》するの勢《いきほひ》を擧《あ》げ來《きた》り、家康《いへやす》が其《そ》の先鋒《せんぽう》となりて、尚《な》ほ半歳《はんさい》を要《えう》した。是《こ》れは何故《なにゆゑ》であらう乎《か》。吾人《ごじん》は北條氏《ほうでうし》の持久力《ぢきうりよく》の尋常《じんじやう》でなかつた事《こと》に、寧《むし》ろ驚嘆《きやうたん》す可《べ》き理由《りいう》を見出《みいだ》す。
此事《このこと》を説明《せつめい》するには、先《ま》づ北條氏《ほうでうし》其《そ》の物《もの》を説明《せつめい》する必要《ひつえう》がある。北條氏《ほうでうし》を知《し》らんと欲《ほつ》せば、其《そ》の始祖《しそ》早雲《さううん》を知《し》る必要《ひつえう》がある。早雲《さううん》は足利《あしかゞ》の亂世《らんせい》に於《お》ける、所謂《いはゆ》る下尅上《かこくじやう》の時代《じだい》に於《お》ける、一|個《こ》の代表的人物《だいへうてきじんぶつ》ぢや。彼《かれ》は何者《なにもの》であつた乎《か》、其《そ》の素性《すじやう》さへ明白《めいはく》でない。月並的《つきなみてきてき》の事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 本篇一二、北條氏の勢力〕[#「〔參照 本篇一二、北條氏の勢力〕」は1段階小さな文字]但《た》だ彼《かれ》が伊勢《いせ》の關《せき》の一|族《ぞく》であると云《い》ふ丈《だけ》は、彼《かれ》の自白《じはく》によりて分明《ぶんみやう》だ。〔早雲自から信濃の小笠原家に送つた書簡、今尚ほ小笠原子爵の家に傳ふ。〕[#「〔早雲自から信濃の小笠原家に送つた書簡、今尚ほ小笠原子爵の家に傳ふ。〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》が立身《りつしん》の端緒《たんしよ》は、其妹《そのいもうと》が駿河《するが》の屋形《やかた》今川義忠《いまがはよしたゞ》の妾《せう》となりて、北川殿《きたがはどの》と稱《しよう》した縁故《えんこ》を便《たよ》りて、其《そ》の寄客《きかく》となつた事《こと》に始《はじま》つた。
今川義忠《いまがはよしたゞ》は遠州《ゑんしう》で戰死《せんし》し、其《そ》の子《こ》氏親《うぢちか》は幼少《えうせう》で、家臣《かしん》互《たが》ひに相鬩《あひせめ》いだ。氏親《うぢちか》は、其《そ》の母《はゝ》北川殿《きたがはどの》に携《たづさ》へられて、山中《さんちゆう》に隱《かく》れた。是《こゝ》に於《おい》て堀越御所《ほりこしごしよ》足利政知《あしかゞまさとも》は、上杉冶部少輔《うへすぎぢぶせういふ》を、關東管領《くわんとうくわんれい》上杉定正《うへすぎさだまさ》は、太田道灌《おほただうくわん》を叛亂鎭撫《はんらんちんぶ》の爲《た》めに出陣《しゆつぢん》せしめた。正知《まさとも》は云《い》ふ迄《まで》もなく、足利義政《あしかゞよしまさ》の弟《おとうと》だ。關東公方《くわんとうくばう》足利成氏《あしかゞなりうぢ》が、幕命《ばくめい》に抗《かう》し、管領《くわんれい》の上杉氏《うへすぎし》と相戰《あひたゝか》うたから、上杉氏《うへすぎし》より彼《かれ》を關東《くわんとう》へ招《まね》き下《くだ》して、關東公方《くわんとうくばう》たらしむ可《べ》く、伊豆《いづ》の堀越《ほりごし》に置《お》いたのだ。早雲《さううん》は道灌《だうくわん》と、冶部少輔《ぢぶせういふ》とに説《と》き、今川氏《いまかはし》の家臣等《かしんら》を和解《わかい》せしめた。此《こ》の勳功《くんこう》によりて、彼《かれ》は駿河富士郡《するがふじごほり》なる、興國寺《こうこくじ》の城主《じやうしゆ》となつた。
早雲《さううん》は蚤《つと》に眼《まなこ》を關東《くわんとう》に著《つ》けた。早雲《さううん》は堀越御所《ほりごしごしよ》の政知《まさとも》の長子《ちやうし》茶々丸《ちや/\まる》が、其《そ》の繼母《けいぼ》の己《おのれ》を讒《ざん》して、自腹《じふく》の出《しゆつ》なる次男《じなん》に家《いへ》を繼《つ》がしめんとしたるを憤《いきどほ》り、父《ちゝ》政知《まさとも》の病死後《びやうしご》、其《そ》の繼母《けいぼ》と、其弟《そのおとうと》とを殺《ころ》し、自《みづ》から家督《かとく》を繼《つ》ぎ、民心《みんしん》大《おほい》に離反《りはん》したるを奇貨《きくわ》をして、堀越御所《ほりごしごしよ》を亡《ほろ》ぼし、遂《つ》ひに韮山《にらやま》に移《うつ》つた。而《しか》して韮山《にらやま》は早雲《さううん》の世《よ》を歿《ぼつ》する迄《まで》、其《そ》の根據《こんきよ》であり、策源地《さくげんち》であつた。
當時《たうじ》扇谷《あふぎがやつ》の上杉定正《うへすぎさだまさ》は、山内《やまのうち》の上杉顯正《うへすぎあきまさ》と、互《たが》ひに鎬《しのぎ》を削《けづ》つて居《ゐ》た。是《こゝ》に於《おい》て早雲《さううん》は先《ま》づ定正《さだまさ》に結《むす》んで伊豆《いづ》を取《と》つた。而《しか》して明應《めいおう》三|年《ねん》には、詭謀《きぼう》もて小田原《をだはら》を取《と》つた。小田原《をだはら》の城主《じやうしゆ》大森氏頼《おほもりうぢより》は、上杉定正《うへすぎさだまさ》の幕下《ばくか》で、聰明《そうめい》の人《ひと》であつた。彼《かれ》は早雲《さううん》が故《ゆゑ》なくして、頻《しき》りに善《よ》くするを見《み》て、油斷《ゆだん》ならずと、用心《ようじん》を堅固《けんご》にした。されば彼《かれ》の一|生《しやう》は、流石《さすが》の早雲《さううん》も施《ほどこ》す可《べ》き手段《しゆだん》がなかつた。然《しか》るに彼《かれ》が逝《ゆ》いて、其子《そのこ》の藤頼《ふぢより》の代《だい》となるや、箱根《はこね》の山中《さんちゆう》に、鹿狩《しかがり》をすると云《い》ふ言前《いひまへ》にて、其《そ》の許諾《きよだく》を得《え》、兵《へい》を率《ひき》ゐ卒然《そつぜん》として小田原《をだはら》を襲《おそ》ひ取《と》つた。小田原《をだはら》は此《こ》れよりして、北條氏《ほうでうし》關東經略《くわんとうけいりやく》の關門《くわんもん》となつた。
早雲《さううん》は今川氏《いまがはし》を扶《たす》けて、家康《いへやす》の祖先《そせん》たる參河《みかは》の松平長親《まつだひらながちか》とも戰《たゝか》うた。甲斐《かひ》にも兵《へい》を出《いだ》して、武田氏《たけだし》を撃《う》たんとした。然《しか》も其主力《そのしゆりよく》は關東《くわんとう》に向《むか》うた。彼《かれ》は扇谷《おふぎがやつ》の上杉定正《うへすぎさだまさ》の死《し》するや、其《そ》の子《こ》朝良《ともよし》の爲《な》すなきを見《み》て、自由行動《じいうかうどう》を取《と》り、相模《さがみ》、武藏《むさし》に手《て》をに入《い》れた。彼《かれ》は越後《ゑちご》の長尾爲景《ながをためかげ》と結《むす》び、兩上杉氏《りやううへすぎし》を退治《たいぢ》した。彼《かれ》は古河公方成氏《こがくばうなりうぢ》の子《こ》政氏《まさうぢ》を誘《いざな》うたが、其《そ》の之《これ》に應《おう》ぜざるを見《み》て、其《そ》の二|子《こ》高基《たかもと》、義明《よしあき》を誘《いざな》うた。古河公方《こがくばう》は之《これ》が爲《た》めに、父子《ふし》相戰《あひたゝか》ふに至《いた》つた。而《しか》して遂《つ》ひに高基《たかもと》の子《こ》、晴氏《はるうぢ》の爲《た》めに、早雲《さううん》の子《こ》氏綱《うぢつな》の女《むすめ》を妾《めあ》はした。此《こ》の結婚政略《けつこんせいりやく》の結果《けつくわ》、關東公方《くわんとうくばう》は、北條家《ほうでうけ》手中《しゆちゆう》の傀儡《くわいらい》となつた。
早雲《さううん》の近《ちか》き敵《てき》は、相模《さがみ》の三|浦氏《うらし》であつた。三|浦義同道寸《うらよしあつだうすん》は、相模《さがみ》大住郡《おほずみごほり》の岡崎城《をかざきじやう》に據《よ》り、其《そ》の子《こ》義意《よしとも》は三|浦郡《うらごほり》の新井城《あらゐじやう》に據《よ》り、互《たが》ひに※[#「特のへん+奇」、U+7284、274-13]角《きかく》の勢《いきほひ》を做《な》して、上杉《うへすぎ》に屬《ぞく》し、早雲《さううん》に抗《かう》した。早雲《さううん》は岡崎城《をかざきじやう》を拔《ぬ》き、鎌倉郡《かまくらごほり》の玉繩《たまなは》に築城《ちくじやう》して、屡《しばし》ば三|浦氏《うらし》と戰《たゝか》うた。道寸《だうすん》は岡崎城《をかざきじやう》を出《い》でゝ、三|浦郡《うらごほり》の住吉城《すみよしじやう》に遁《のが》れた。早雲《さううん》は之《これ》を攻《せ》めて、道寸《だうすん》を新井城《あらゐじやう》に走《はし》らしめた。斯《か》くて彼等父子《かれらふし》は、三|年間《ねんかん》籠城《ろうじやう》したが、早雲《さううん》は遂《つ》ひに之《これ》を拔《ぬ》き、三|浦氏《うらし》を滅《ほろぼ》し、自《みづか》ら三|浦岬《うらみさき》に築城《ちくじやう》して、安房《あは》の里見氏《さとみし》に備《そな》へた。而《しか》して永正《えいしやう》十六|年《ねん》八十八|歳《さい》にて、伊豆《いづ》韮山《にらやま》にて逝《ゆ》いた。
彼《かれ》は本來《ほんらい》伊勢氏《いせし》を稱《しよう》した、而《しか》して何故《なにゆゑ》に中途《ちゆうと》より北條氏《ほうでうし》と改稱《かいしよう》した乎《か》、或《あるひ》は曰《いは》く、彼《かれ》の母《はゝ》は、北條高時《ほうでうたかとき》の後胤《こういん》横井掃部助《よこゐかもんのすけ》の女《むすめ》であつた。或《あるひ》は曰《いは》く、伊豆《いづ》韮山《にらやま》に北條某氏《ほうでうそれがし》があつた、其《そ》の人《ひと》病死《びやうし》して子《こ》なく、故《ゆゑ》に早雲《さううん》を嗣《し》としたと。或《あるひ》は曰《いは》く、三|島大明神《しまだいみやうじん》に靈夢《れいむ》に感《かん》じたと。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]理屈《りくつ》は何《いづ》れにせよ、信長《のぶなが》が故《ことさ》らに平重盛《たひらのしげもり》の後《のち》を標榜《へうばう》して、平氏《へいし》を稱《しよう》し、家康《いへやす》が松平氏《まつだひらし》を改《あらた》めて、徳川氏《とくがはし》と稱《しよう》したのと、同《どう》一の心理情態《しんりじやうたい》より出《い》で來《きた》つたものと思《おも》はるゝ。彼《かれ》は其《そ》の位置《ゐち》の向上《かうじやう》と同時《どうじ》に、其《そ》の姓氏《せいし》を改《あらた》めたのだ。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》が木下《きのした》より羽柴《はしば》となり、羽柴《はしば》より豐臣《とよとみ》となつたと、何等《なんら》の殊《こと》なる所《ところ》はない。

[#5字下げ][#中見出し]【五六】北條早雲(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

北條早雲《ほうでうさううん》には、何等《なんら》愛好《あいかう》すべき性格《せいかく》は見出《みいだ》されぬ。されど彼《かれ》が今川氏《いまがはし》の一|寄客《きかく》から、關《くわん》八|州《しう》の霸主《はしゆ》たる基《もろゐ》を發《ひら》くに到《いた》りたるは、偶然《ぐんぜん》でもなく、僥倖《げうかう》でもなく、全《まつた》く彼《かれ》の努力《どりよく》だ。而《しか》してその努力《どりよく》も、悉《こと/″\》く機宜《きぎ》に適《てき》した方法《はうはふ》を取《と》つたからだ。
惟《おも》ふに彼《かれ》の成功《せいこう》の第《だい》一は、武略《ぶりやく》であつた。第《だい》二は外交《ぐわいかう》であつた。而《しか》して第《だい》三は、民心《みんしん》の收攬《しうらん》であつた。吾人《ごじん》は特《とく》に重《おも》きを第《だい》三に措《お》くべきものと判定《はんてい》する。
早雲《さううん》は文盲《もんもう》の英雄《えいゆう》ではなかつた。彼《かれ》の機略《きりやく》の一|半《ぱん》は、學問《がくもん》より得來《えきた》つたものらしい。其《そ》の早雲寺殿《さううんじでん》廿一|個條《かでう》を見《み》るに、
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一 少《わづか》の隙《すき》あらば、物《もの》の本《ほん》、文字《もんじ》の有物《あるもの》を懷《ふところ》に入《い》れ、恒《つね》に人目《ひとめ》を忍《しの》び見《み》るべし。寢《ね》ても醒《さめ》ても手《て》なれざれば、文字《もんじ》忘《わす》るゝなり。書事《かくこと》又《また》同事《おなじきこと》。
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とあり。又《ま》た、
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一 文武弓馬《ぶんぶきゆうば》の道《みち》は常也《つねなり》。記《しる》すに及《およ》ばず。文《ぶん》を左《ひだり》にし、武《ぶ》を右《みぎ》にするは、古《いにしへ》の法《はふ》、兼《かね》て備《そな》へずんば有《ある》べからず。
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とあり。如何《いか》に彼《かれ》が學問《がくもん》に重《おも》きを措《お》き、之《これ》を以《もつ》て其《そ》の子弟《してい》、臣下《しんか》を獎勵《しやうれい》したことが判知《わか》る。
されば、彼《かれ》が儒生《じゆせい》を召《め》して、黄石公《くわうせきこう》の三|略《りやく》を講《かう》ぜしめ、其《そ》の劈頭《へきとう》第《だい》一に、『主將之法《しゆしやうのはふは》、務《つとめて》|攬[#二]英雄之心[#一]《えいゆうのこゝろをとる》、』の一|句《く》を聽《き》き、止《や》めよ、最早《もはや》合點《がてん》したと云《い》うたとの逸話《いつわ》は、極《きは》めて其《そ》の眞相《しんさう》を穿《うが》つて居《を》る樣《やう》に思《おも》はるゝ。六|韜《とう》三|略《りやく》は、戰國當時《せんごくたうじ》の福音書《ふくいんしよ》であつた。今日《こんにち》に於《おい》ても、足利中期以後《あしかゞちゆうきいご》の抄本《せうほん》が、多《おほ》く保存《ほぞん》せられつゝあるを見《み》れば、當時《たうじ》に持《も》て囃《はや》された※[#こと、277-8]が、判知《わか》る。但《た》だ之《これ》を讀《よ》む者《もの》は、多《おほ》くあつたが、之《これ》を實際《じつさい》に應用《おうよう》した早雲《さううん》が如《ごと》き者《もの》は、幾許《いくばく》あつたであらうか。彼《かれ》は能《よ》く太平記《たいへいき》を讀《よ》み、諸本《しよほん》を集《あつ》めて、其《そ》の異同《いどう》を校《かう》した。〔田中先生、後北條の武相經營〕[#「〔田中先生、後北條の武相經營〕」は1段階小さな文字]此《こ》の好學《かうがく》の風《ふう》は、氏康《うぢやす》、氏政《うぢまさ》の代《だい》に傳《つた》はり、氏康《うぢやす》の如《ごと》きは、當時《たうじ》に於《お》ける、最《もつと》も教養《けうやう》ある武將《ぶしやう》の一|人《にん》であつた。
但《たゞ》し早雲《さううん》に多《おほ》しとす可《べ》きは、單《たん》に英雄《えいゆう》の心《こゝろ》を攬《と》つたのみでなかつた、民心《みんしん》を攬《と》つたのだ。其《そ》の民心《みんしん》を攬《と》つたのは、民政《みんせい》に力《ちから》を用《もち》ひたのだ。
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此人《このひと》慈悲《じひ》の心《こゝろ》深《ふか》くて、百|姓《しやう》を恤《あはれ》み、毎年《まいねん》の年貢《ねんぐ》を宥免《いうめん》せらる。是《これ》によりて百|姓共《しやうども》、斯《か》く慈悲《じひ》なる地頭殿《ぢとうどの》にあひぬる物《もの》かなと悦《よろこ》び、此君《このきみ》の情《なさけ》には、命《いのち》の用《よう》にも立《た》つべし。あはれ世《よ》に久《ひさ》しく榮《さか》え給《たま》へかしと、心《こゝろ》ざしをはこばずといふ者《もの》なし。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ早雲《さううん》が、駿河興國寺城主《するがこうこくじじやうしゆ》たる時《とき》の事《こと》だ。彼《かれ》は此《こ》の民心《みんしん》を得《え》、此《こ》の百|姓原《しやうばら》を率《ひき》ゐて、三十|日《にち》の中《うち》に伊豆《いづ》一|國《こく》を經略《けいりやく》した。
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早雲《さううん》諸侍《しよさむらひ》をいさめて曰《いは》く、國主《こくしゆ》の爲《ため》に民《たみ》は子也《こなり》、民《たみ》の爲《ため》に地頭《ぢとう》は親也《おやなり》。是《こ》れ私《わたくし》にあらず、往昔《わうせき》より定《さだま》れる道也《みちなり》。いかでか憐《あはれみ》を垂《た》れざらん。世《よ》澆季《げうき》に及《およ》び、武欲《ぶよく》深《ふか》くして、百|姓《しやう》年中《ねんぢゆう》の耕作《かうさく》を檢地《けんち》し、四つもなき所《ところ》をば、五つと云《い》ひかけて取《とり》。此外《このほか》夫錢《ぶせん》、棟別《むねべつ》、野山《のやま》の役《えき》をかけ、あらゆる程《ほど》の物《もの》を押《おし》て取《とり》、分際《ぶんざい》に過《すぎ》たる振舞《ふるまひ》をなし、花麗《くわれい》に心《こゝろ》をつくし、米穀《べいこく》を徒《いたづら》につひやす故《ゆゑ》に、百|姓《しやう》苦《くる》しみ、餓死《がし》に及《およ》ぶ。是《これ》によつて、早雲《さううん》今《いま》定《さだむ》る所《ところ》、年中《ねんぢゆう》收納《しうのふ》する穀物《こくもつ》の外《ほか》に、一|錢《せん》にあたる義《ぎ》なり共《とも》、百|姓《しやう》にいひかけすべからず。諸役《しよえき》宥免《いうめん》せしむるに於《おい》ては、地頭《ぢとう》と百|姓《しやう》和合《わがふ》し、水魚《すゐぎよ》の思《おも》ひをなすべし。早雲《さううん》守護《しゆご》する國《くに》の百|姓《しやう》前世《ぜんせ》の因縁《いんねん》なくして、生《うま》れあひがたし。願《ねがは》くば民《たみ》裕《ゆた》かにあれかしと申《まを》されければ、民家《みんか》聞《きゝ》て、此君《このきみ》の時代《じだい》永久《えいきう》にあれかしと佛神《ぶつしん》へ起請《きしやう》し、喜悦《きえつ》の外《ほか》なし。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ早雲《さううん》が伊豆《いづ》を取《と》りたる際《さい》の事《こと》だ。彼《かれ》は此《こ》の主義《しゆぎ》を以《もつ》て其《そ》の民心《みんしん》を收攬《しうらん》し、彼《かれ》の子孫《しそん》も、克《よ》く之《これ》を徹底《てつてい》せしむるに勗《つと》めた。戰國時代《せんごくじだい》の租税《そぜい》は、六|公《こう》四|民《みん》が普通《ふつう》で、時《とき》として七|公《こう》三|民《みん》、即《すなは》ち領主《りやうしゆ》と百|姓《しやう》とが、七|分《ぶ》三|分《ぶ》の割合《わりあひ》であつた事《こと》も少《すくな》くなかつた。然《しか》るに北條氏《ほうでうし》は、其《そ》の割合《わりあひ》を顛倒《てんたう》して、四|公《こう》六|民《みん》とした。
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昔時《せきじ》關東《くわんとう》は、舊北條氏《きうほうでうし》より續《つゞ》きて、足利氏《あしかゞし》に至《いた》るまで、府《ふ》を開《ひら》き、管領《くわんれい》の職《しよく》を置《お》き、法制《はふせい》を上國《じやうこく》に仰《あふ》ぐ。故《ゆゑ》に法令《はふれい》他國《たこく》に比《ひ》すれば、密《みつ》にして且《かつ》煩《はん》なり。又《また》租税《そぜい》の如《ごと》きも、厚《あつ》きに失《しつ》す。後《のち》の北條氏《ほうでうし》單騎《たんき》空拳《くうけん》にして、伊豆《いづ》を攻取《せめと》り、相模《さがみ》に據《よ》る。仗劍《じやうけん》流寓《りうぐう》の身《み》より起《おこ》りて、飽迄《あくまで》下情《かじやう》に通達《つうたつ》す。故《ゆゑ》に其小田原《そのをだはら》に據《よ》るや、首《しゆ》として嚴令《げんれい》を解《と》き、私《わたくし》に法《はふ》を三|章《しやう》に約《やく》し、重歛《ぢゆうれん》を捨《す》てゝ薄免《はくめん》と爲《な》す。之《これ》に依《よつ》て下民《かみん》期《き》せずして心《こゝろ》を傾《かたむ》け、管領《くわんれい》に服從《ふくじゆう》せず。北條氏《ほうでうし》の志《こゝろざし》を關東《くわんとう》に得《え》、數年《すねん》を出《い》でずして、強大《きやうだい》を成《な》すもの、夫《そ》れ之《これ》に因《よ》る歟《か》。〔吹塵録〕[#「〔吹塵録〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは勝海舟《かつかいしう》の説《せつ》だ。而《しか》して極《きは》めて要領《えうりやう》を得《え》て居《を》る。若《も》し早雲《さううん》をして、之《これ》を聽《き》かしめば、掌《て》を抵《う》つて、吾心《わがこゝろ》を得《え》たりと云《い》ふであらう。
彼《かれ》は頗《すこぶ》るの苦勞人《くらうにん》であつた。彼《かれ》は能《よ》く下情《かじやう》に通達《つうたつ》した。而《しか》して彼《かれ》は張弛《ちやうし》、操縱《さうじゆう》の術《じゆつ》に於《おい》て、拔目《ぬけめ》がなかつた。
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伊勢早雲《いせさううん》は、針《はり》をも倉《くら》に積《つ》む可《べ》き程《ほど》の蓄仕《たくはへつかまつ》り候《さふらひ》つる。|雖[#レ]然《しかりといへども》武者邊《むしやへん》に使《つか》ふ事《こと》は、玉《たま》をも碎《くだき》つべう見《み》えたる人《ひと》にて候由《さふらふよし》、宗長《そうちやう》常《つね》に物語《ものがた》り候《さふらふ》。〔朝倉滴水話記〕[#「〔朝倉滴水話記〕」は1段階小さな文字]
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宗長《そうちやう》は諸國行脚《しよこくあんぎや》の連歌師《れんがし》で、早雲《さううん》とも接觸《せつしよく》した者《もの》だ、此《こ》れが彼《かれ》が早雲《さううん》に對《たい》する印象《いんしやう》を直話《ぢきわ》したもので、如何《いか》にも、早雲《さううん》其人《そのひと》を活躍《くわつやく》して居《を》る。早雲《さううん》が流寓寄食《りうぐうきしよく》の身《み》を以《もつ》て、關《くわん》八|州《しう》の主《しゆ》たる基《もとゐ》を發《ひき》いたのは、意外《いぐわい》の樣《やう》だが。彼《かれ》此《こ》の偉業《ゐげふ》を創《はじ》め得《え》たる所以《ゆゑん》は、却《かへ》つて是《こ》れが爲《た》めと云《い》はねばならぬ。
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[#6字下げ]早雲兵士を教ふる法令
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早雲入道兵士を教ふる廿一條の法令あり。其第十二條に少の隙あらば、物の本、文字の有者を懷に入れ、常に人目を忍び見べし、寢ても醒ても手馴ざれば文字忘るゝなり、書く事もまた同じ。第十五條に歌道なき人は無手に賤しき※[#こと、281-6]也、學ぶべし、常の出言に慎あるべし、一言にても人の胸中知るゝもの也。第十七條に善友を求むべきは手習學文の友なり、惡友を除くべきは碁、將棊、笛、尺八、の友なり、是は知らずとも恥にはならず、習ても惡事にはならず、但徒らに光陰を送らむよりはと也。人の善惡皆友に因ると云ふ事なり、三人行ふとき必ず我師あり、其善者を撰んで是に從ふ、其善あらざる者をば是を改むべし。第二十一條に文武弓馬の道は常なり、記すに及ばず、文を左にし武を右にするは古の法、兼て備へずは有べからずと記さる。論語の意を取て敷施されしこと、常時攻取闢疆のみを專とせし諸將に比すれば、勝れる※[#こと、281-12]遙に遠し。〔續武將感状記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【五七】北條氏政治の利弊[#中見出し終わり]

既《すで》に民心《みんしん》の收攬《しうらん》によりて、關《くわん》八|州《しう》を得《え》たりとせば、又《ま》た民心《みんしん》の收攬《しうらん》によりて、關《くわん》八|州《しう》を維持《ゐぢ》したるや知《し》る可《べ》しだ。されば徳川家康《とくがはいへやす》が、北條氏《ほうでうし》と、武田氏《たけだし》の亡滅《ばうめつ》を對照《たいせう》して、
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武田信玄《たけだしんげん》は、近代《きんだい》の良將《りやうしやう》なりしが、己《おのれ》が父《ちゝ》の信虎《のぶとら》を追出《おひいだ》せし餘殃《よおう》、子《こ》に報《むく》いて、勝頼《かつより》も猛將《まうしやう》たりしが、運《うん》傾《かたむ》くに至《いた》り、譜第《ふだい》恩顧《おんこ》の者《もの》まで、離畔《りはん》して、はかなく亡《ほろ》びしは、天道《てんだう》其《そ》の親愛《しんあい》の恩義《おんぎ》なきを憎《にく》み給《たま》ふゆゑとしらる。小田原《をだはら》は百|日《にち》ばかりの圍城《ゐじやう》に、松田尾張《まつだをはり》が外《ほか》は、反逆《はんぎやく》のもの一|人《にん》もなし、氏直《うぢなほ》が高野《かうや》に赴《おもむ》きし時《とき》も、命《いのち》をすてゝも從《したが》はんと願《ねが》ふ者《もの》多《おほ》かりき。これぞ早雲已來《さううんいらい》胎謀《たいばう》のたゞしくして、諸士《しよし》みな節義《せつぎ》を守《まも》りしがゆゑなりと、仰《おほせ》られしとなん。〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]
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と云《い》うたのは、尤《もつとも》の次第《しだい》だ。今少《いますこ》しく適切《てきせつ》に云《い》へば、武田《たけだ》は重税《ぢゆうぜい》の爲《た》めに、民心《みんしん》離反《りはん》し。北條《ほうでう》は輕税《けいぜい》の爲《た》めに、民心《みんしん》悦服《えつぷく》した。離反《りはん》したが故《ゆゑ》に、速《すみや》かに滅《ほろ》び、悦服《えつぷく》したが故《ゆゑ》に、長《なが》く持《も》ち耐《こた》へた。
北條氏《ほうでうし》は輕税《けいぜい》のみならず、經濟方面《けいざいはうめん》にも、頗《すこぶ》る心《こゝろ》を用《もち》ひた。
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近《ちか》き年迄《としまで》、關東《くわんとう》に鐚《びた》、永樂《えいらく》取雜《とりまじ》へ、同《おな》じ値《ね》に使《つか》ひしが、在々所々《ざい/\しよ/\》に於《おい》て、善惡《ぜんあく》を爭《あらそ》ひことはり止事《やむこと》なし。其比《そのころ》東《あづま》八ヶ|國《こく》の守護《しゆご》、北條氏康公《ほうでううぢやすこう》仰《おほ》せけるは、錢《ぜに》しな/″\有《あり》といへ共《ども》、永樂《えいらく》にますはあらじ、自今以後《じこんいご》關東《くわんとう》にて、永樂《えいらく》一|錢《せん》を使《つか》ふべしと、天文《てんぶん》十九|戌《いぬ》の年《とし》、高札《かうさつ》を立《たて》られければ、關《くわん》八|州《しう》の市町《いちまち》にて、永樂《えいらく》を用《もちひ》る。此義《このぎ》近國《きんごく》他國《たこく》に聞《きこ》え、鐚《びた》の内《うち》より、永樂《えいらく》を擇《え》り出《いだ》し用《もちふ》るゆゑ、鐚《びた》はいつとなく、上方《かみがた》へ上《のぼ》り、關西《くわんさい》にて使《つか》ひ、永樂《えいらく》は關東《くわんとう》にとゞまつて、用《もちひら》る。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ氏康《うぢやす》は、善貨《ぜんくわ》と惡貨《あくくわ》の差別《さべつ》を査定《さてい》し、其《そ》の領民《りやうみん》をして、善貨《ぜんくわ》を用《もち》ひしめたのだ。氏康《うぢやす》の手柄《てがら》、豈《あ》に啻《た》だ川越夜襲戰《かはごえやしふせん》のみならんや。
併《しか》し如何《いか》なる政治《せいぢ》にも、其弊《そのへい》なきはあらず。北條氏《ほうでうし》は粗枝大葉《そしたいえふ》にて關東《くわんとう》を治《をさ》めた、是《こ》れが爲《た》めに盜賊《たうぞく》をも、利用《りよう》した、博奕《ばくえき》をも流行《りうかう》した。顧《おも》ふに徳川時代《とくがはじだい》に於《お》ける、關東無宿《くわんとうむしゆく》、長脇差《ながわきざし》の類《るゐ》は、是《こ》れ北條氏《ほうでうし》の遺物《ゐぶつ》を已《や》むを得《え》ず、相續《さうぞく》したものであらう。
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然《しかれ》ば其比《そのころ》亂波《らつぱ》と云《い》ふくせ者《もの》多《おほ》くありし。是等《これら》の者《もの》、盜人《ぬすびと》にて又《また》盜人《ぬすびと》にもあらざる心《こゝろ》かしこく、健氣《けなげ》にて横道《わうだう》なる者共《ものども》なり。・・・・・・此者《このもの》を國大名衆《くにだいみやうしゆ》扶持《ふち》し給《たま》ひぬ。是《こ》は如何《いか》なる子細《しさい》ぞといへば、我《われ》の亂波《らつぱ》我國《わがくに》にある盜人《ぬすびと》をよく穿鑿《せんさく》し、尋出《たづねいだ》して首《くび》を切《きり》、己《おの》れは他國《たこく》へ忍《しの》び入《いり》、山賊《さんぞく》海賊《かいぞく》夜討《ようち》強盜《がうたう》して、物取事《ものとること》が上手《じやうず》なり、才智《さいち》ありて謀計《ぼうけい》調略《てうりやく》をめぐらす事《こと》、凡庸《ぼんよう》に及《およ》ばず。古語《こご》に佯《いつはり》ても賢《けん》を學《まな》ばんを賢《けん》とすといへり。されば智者《ちしや》と盜人《ぬすびと》の相《さう》同《おな》じ事《こと》なり。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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惟《おも》ふに此《こ》の亂波《らつぱ》は、北條氏《ほうでうし》の爲《た》めに、他國《たこく》に出《いで》ては、探偵《たんてい》、諜報《てうはふ》の用《よう》を辨《べん》じ、自國《じこく》に於《おい》ては、警察《けいさつ》、治安《ちあん》の下廻《したまは》りを勤《つと》め、至極《しごく》調法《てうはふ》のものであつたであらう。但《た》だ其《そ》の代償《だいしやう》として、彼等《かれら》は自個《じこ》の繩張《なはばり》を設《まう》け、不法行爲《ふはふかうゐ》の特許權《とくきよけん》を、勝手《かつて》に行使《かうし》したのであらう。
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北條《ほうでう》が比《ころ》は法令《はふれい》惰弛《だし》なれば、八|州《しう》のうちに博戯《はくぎ》盛《さかん》に行《おこな》はれ、僧俗男女《そうぞくなんによ》のわいためなく、皆《み》なおしはれて、行《おこな》ふことなり。かねて御舊領《ごきうりやう》におはしませしときより、この事《こと》嚴斷《げんだん》せられしをもて、御遷徙《ごせんし》あると直《たゞち》に、板倉《いたくら》四|郎左衞門尉勝重《らうざゑもんのじやうかつしげ》もて、きと嚴令《げんれん》を出《いだ》され、博戯《はくぎ》するものは、見及《みおよ》びしまゝ追捕《つゐほ》して、死刑《しけい》に行《おこな》はる。〔君臣言行録〕[#「〔君臣言行録〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》く家康《いへやす》が、北條氏《ほうでうし》の後《のち》を承《う》けて、博戯《はくぎ》を取締《とりしま》つたに拘《かゝは》らず、博戯《はくぎ》は徳川氏《とくがはし》三百|年《ねん》を通《つう》じて、關東《くわんとう》の一|名物《めいぶつ》となつて居《ゐ》たのは、是《こ》れ北條氏《ほうでうし》の政治《せいぢ》の弊《へい》を承《う》けたのであらう。凡《およ》そ寛裕《くわんゆう》の政治《せいぢ》は、其上《そのうへ》に有力《いうりよく》なる統制者《とうせいしや》あれば、利《り》多《おほ》くして害《がい》少《すくな》きが、其《そ》の統制者《とうせいしや》にして、微弱《びじやく》なる場合《ばあひ》には、其害《そのがい》に勝《た》へざらんとす。
早雲《さううん》より氏康迄《うぢやすまで》は、前者《ぜんしや》であつたが、氏政《うぢまさ》氏直《うぢなほ》となつては、後者《こうしや》であつた。北條氏《ほうでうし》の政治《せいぢ》が、不振《ふしん》に陷《おちい》つたのは、政治《せいぢ》の方針《はうしん》が惡《あ》しき爲《た》めでなく、爲政者《ゐせいしや》が惡《あ》しかつた爲《た》めだ。而《しか》して是亦《これま》た積弊《せきへい》の致《いた》す所《ところ》であつたと云《い》ふ可《べ》きだ。併《しか》し概論《がいろん》すれば、北條氏《ほうでうし》の善政《ぜんせい》は、北條氏《ほうでうし》を最後迄《さいごまで》支持《しぢ》したと云《い》ふ可《べ》きだ。徳川家康《とくがはいへやす》の如《ごと》きも、其《そ》の寛裕《くわんゆう》なる民政《みんせい》と、其《そ》の文教《ぶんけう》を重《おも》んじたる二|者《しや》は、北條氏《ほうでうし》の政策《せいさく》を蹈襲《たふしふ》したものと云《い》はねばなるまい。果《はた》して然《しか》らば、北條氏《ほうでうし》は亡《ほろ》びても、北條氏《ほうでうし》の政策《せいさく》は亡《ほろ》びずと云《い》ふ可《べ》しだ。
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