第二十章 檢地と讓職
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[#4字下げ][#大見出し]第二十章 檢地と讓職[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【九八】秀吉の全國檢地[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の平和的事業中《へいわてきじげふちゆう》にて、其《そ》の後世《こうせい》に及《およ》ぼす効果《かうくわ》の、最《もつと》も著名《ちよめい》なる一は、檢地《けんち》であつた。此《こ》れも信長《のぶなが》の遺業《ゐげふ》の一であつたが、秀吉《ひでよし》に至《いた》りて、徹底的《てつていてき》に、普遍的《ふへんてき》に、日本全國《にほんぜんこく》に亙《わた》りて、之《これ》を實行《じつかう》した。
是《こ》れは天正《てんしやう》十七|年《ねん》八九|月《ぐわつ》の交《かう》より、長束正家《ながつかまさいへ》をして、專《もつぱ》ら當《あた》らしめたが、或《あるひ》は十三四|年頃《ねんごろ》より、既《すで》に著手《ちやくしゆ》したと云《い》ふ説《せつ》もある。正家《まさいへ》は是乘坊《ぜじようばう》と云《い》ふ算學者《さんがくしや》に諮《はか》り、古法《こはふ》を變《へん》じて、新法《しんぱふ》を定《さだ》めたが、そは曲尺《かねじやく》六|尺《しやく》三|寸《ずん》を一|歩《ぶ》とし、三十|歩《ぶ》を一|畝《せ》をし、三百|歩《ぶ》を一|段《たん》とし、十|段《たん》を一|町《ちやう》とした。〔安土桃山時代史〕[#「〔安土桃山時代史〕」は1段階小さな文字]從來《じゆうらい》地方《ちはう》によりて、丈量《ぢやうりやう》の法《はふ》も各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》相違《さうゐ》があつた。或《あるひ》は方《はう》六|尺《しやく》五|寸《すん》を一|歩《ぶ》とするものもあれば、六|尺《しやく》三|寸《ずん》、六|尺《しやく》二|寸《すん》五|分《ぶ》、六|尺《しやく》一|寸《すん》、六|尺《しやく》一|分《ぶ》、六|尺等《しやくとう》もあつた。又《ま》た九百|歩《ぶ》を一|段《たん》となすものもあれば、四百二十|歩《ぶ》を一|段《たん》となすものもあり、三百六十|歩《ぶ》、三百|歩《ぶ》、二百五十|歩等《ぶとう》もあつた。されば之《これ》を統《とう》一して、殘《のこ》る隈《くま》なく繩《なは》を入《い》るゝは、非常《ひじやう》なる斷行力《だんかうりよく》、透徹力《とうてつりよく》なければ、能《あた》はぬ事《こと》であつた。
標準《へうじゆん》は前記《ぜんき》の通《とほ》りとし、實際《じつさい》の檢地《けんち》には、一|段《たん》の小割《こわり》として、小《せう》、半《はん》、大等《だいとう》の名稱《めいしよう》が、坪付《つぼづけ》に記入《きにふ》したものもあつた。そは六|進法《しんはふ》にて、小《せう》は二六の百二十|歩《ぶ》、半《はん》は三六の百八十|歩《ぶ》、大《だい》は四六の二百四十|歩《ぶ》で、而《しか》して累進《るゐしん》して、六々三百六十|歩《ぶ》を一|段《たん》としたる場所《ばしよ》もあつた。併《しか》し大體《だいたい》の於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は六|尺《しやく》三|寸《ずん》の竿《さを》を用《もち》ひ、三百|歩《ぶ》を一|段《たん》としたれば、歩數《ぶすう》を減《げん》じた代《かは》りに、繩《なは》を五|寸《すん》づゝ延《の》ばした勘定《かんぢやう》である。
如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、此《こ》の事《こと》に鋭意《えいい》したかは、
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秀吉《ひでよし》は自《みづか》ら日本全國《にほんぜんこく》寸土尺地《すんどせきち》を殘《のこ》さず、末代《まつだい》の爲《た》めに、『御前帳《ごぜんちやう》』即《すなは》ち正確《せいかく》なる土地臺帳《とちだいちやう》を作《つく》る爲《た》めに、檢地《けんち》を行《おこな》ふと稱《しよう》して居《を》つて、其《そ》の置目《おきめ》即《すなは》ち規定《きてい》には、斗代等《とだいとう》は成《な》るたけ、精密《せいみつ》に書入《かきい》れ、粗相《そさう》にせば、處罰《しよばつ》すると申《まを》し、又《ま》た檢地《けんち》を行《おこな》ふのは、殊《こと》に國人《くにびと》百|姓《しやう》に、能々《よく/\》合點《がてん》のゆくやうに諭《さと》すも、若《も》し命《めい》を拒《こば》んだ時《とき》は、城主《じやうしゆ》は其《そ》の城《しろ》に追入《おひい》れて、一|人《にん》も殘《のこ》さず撫斬《なでぎり》にし、百|姓《しやう》は一|郷《がう》も二|郷《がう》も撫斬《なでぎり》にすると申《まを》して居《ゐ》る。
天正《てんしやう》十八|年《ねん》、陸奧《むつ》の檢地《けんち》を行《おこな》つた時《とき》、其《そ》の命《めい》を受《う》けたる淺野長政《あさのながまさ》に宛《あ》てたる手紙《てがみ》の内《うち》に、『六十|餘州《よしう》堅《かたく》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、出羽《では》奧州迄《あうしうまで》、そさうにさせらる間敷候《まじくさふらふ》。たとへ亡所《ばうしよ》に成候《なりさふらう》ても|不[#レ]苦候間《くるしからずさふらふあひだ》、|可[#レ]得[#二]其意[#一]候《そのいをうべくさふらふ》。山《やま》の奧《おく》、海《うみ》は櫓櫂《ろかい》の續《つゞ》き候迄《さふらふまで》、|可[#レ]入[#レ]念事《ねんをいるべきこと》專一候《せんいつにさふらふ》。自然《しぜん》各《おの/\》|於[#二]退屈[#一]者《たいくつするにおいては》、關白殿《くわんぱくどの》御自身《ごじしん》|被[#レ]成[#二]御座[#一]候《ござなされさふらう》ても、|可[#レ]被[#二]仰付[#一]候《おほせつけらるべくさふらふ》。』〔參照 本篇、六八、奧羽の檢地〕[#「〔參照 本篇、六八、奧州の檢地〕」は1段階小さな文字]と書《か》いてあるのを見《み》ても、如何《いか》に一|大決心《だいけつしん》の下《もと》に斷行《だんかう》の覺悟《かくご》を有《も》ちつゝあつたかを思《おも》ひやらるゝ。原則《げんそく》としては、如何《いか》なる社寺領《しやじりやう》でも、一|應《おう》は檢地《けんち》を遂《と》げて其《そ》の高《たか》を知《し》り、改《あらた》めて寄附《きふ》の朱印《しゆいん》を出《いだ》すを例《れい》とした。公卿《くげ》大名等《だいみやうら》にも、一|樣《やう》に檢地《けんち》の結果《けつくわ》に依《よ》つて、知行《ちぎやう》の朱印《しゆいん》を出《いだ》したのは、さながら今《いま》の登録手續《とうろくてつゞづき》のやうなものである。……此《こ》の檢地《けんち》は、天正《てんしやう》から文祿《ぶんろく》にかけて行《おこな》はれたから、天正《てんしやう》の石直《こくなほし》とし、文祿《ぶんろく》の檢地《けんち》とも云《い》ひ、秀吉《ひでよし》直轄《ちよくかつ》の國々《くに/″\》は勿論《もちろん》、諸大名《しよだいみやう》の領地《りやうち》より、神社佛寺《じんじやぶつじ》の如《ごと》き迄《まで》、洩《もれ》なく行《ゆ》き渡《わた》つた事《こと》で、西《にし》は古來《こらい》の秘庫《ひこ》であつた、薩《さつ》、日《にち》、隅《ぐう》から、東《ひがし》は奧羽《あうう》の諸國《しよこく》に及《およ》んだ。〔三浦博士著、法制史之研究〕[#「〔三浦博士著、法制史之研究〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》は又《また》桝《ます》を一|定《てい》した。從來《じゆうらい》六|合桝《がふます》、八|合桝《がふます》、八|合《がふ》五|勺桝《せきます》、九|合《がふ》五|勺桝《せきます》、十|合桝抔《がふますなど》と、各地《かくち》各別《かくべつ》であつたが、秀吉《ひでよし》は十|合《がふ》の京桝《きやうます》を用《もち》ひて、石盛《こくもり》をした。是《こ》れよりして、從來《じゆうらい》永樂錢《えいらくせん》にて勘定《かんぢやう》したる知行《ちぎやう》、領地《りやうち》の貫高《くわんだか》は、一|切《さい》石高《こくだか》を稱《しやう》することゝなつた。而《しか》して上田《じやうでん》は一|石《こく》五|斗《と》、中田《ちゆうでん》は一|石《こく》三|斗《ど》、下田《げでん》は一|石《こく》一|斗《と》、上畠《じやうはた》は一|石《こく》二|斗《と》、中畠《ちゆうはた》は一|石《こく》、下畠《げはた》は八|斗《と》、屋敷《やしき》は一|石《こく》二|斗《と》とした。而《しか》して下々田《げゞでん》と、下々畠《げゞはた》とは、照料《せうれう》して之《これ》を定《さだ》むることゝした。而《しか》して從來《じゆうらい》五|公《こう》五|民《みん》のものもあり、四|公《こう》六|民《みん》のものもあり、區々《くゝ》であつたが、秀吉《ひでよし》に至《いた》りて、二|公《こう》一|民《みん》とした。即《すなは》ち其《そ》の三|分《ぶん》の一を民《たみ》に與《あた》へ、其《そ》の二を官《くわん》が取《と》つた。
此《こ》れは隨分《ずゐぶん》誅求《ちゆうきう》の樣《やう》だが、秀吉《ひでよし》は本租以外《ほんそいぐわい》に、他《た》の苛税《かぜい》を除《のぞ》き、且《か》つ檢地法《けんちはふ》として、穫米《くわくまい》の見積《みつも》り高《だか》も、徳川氏《とくがはし》より寛《くわん》であつた。〔大日本租税志〕[#「〔大日本租税志〕」は1段階小さな文字]而《しか》して一|段《たん》の穫米《くわくまい》が、一|斗以内《といない》に止《とゞま》つた場合《ばあひ》は、擧《あ》げて之《これ》を百|姓《しやう》に與《あた》へることゝした。

[#5字下げ][#中見出し]【九九】秀吉の檢地と白石、山陽[#中見出し終わり]

秀吉檢地《ひでよしけんち》の目的《もくてき》は、主《しゆ》として繩《なは》を入《い》れて、繩延《なはのべ》の新地《しんち》を見出《みいだ》すが爲《ため》であつたであらう。
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一 日本國中《にほんこくぢゆう》、|不[#レ]殘[#二]寸土尺地[#一]《すんどせきちをのこさず》、|爲[#二]末代[#一]《まつだいのため》、御前帳《ごぜんちやう》|被[#二]相定[#一]《あひさだめらるゝ》に付《つい》て、御檢地《ごけんち》|被[#二]仰付[#一]處《おほせつけられしところ》、高野寺領《かうやじりやう》三千|石之外《ごくのほか》、|及[#二]伍萬石[#一]《ごまんごくにおよび》|在[#レ]之事《これあること》、|被[#二]驚思召[#一]候《おどろきおぼしめされさふらふ》。舊領外《きうりやうのほか》三千|石之御朱印《ごくのごしゆいん》と申候哉《まをしさふらふか》。諸國之知行方《しよこくのちぎやうかた》、御朱印《ごしゆいん》|被[#レ]下候時《くだされさふらふとき》、|不[#レ]限[#二]舊領新地[#一]《きうりやうしんちにかぎらず》、高辻書《たかつぎかき》|載被[#レ]下候處《のせくだされさふらふところ》、舊領之外《きうりやうのほか》と、申掠段《まをしかすむるだん》、重科之條《ぢゆうくわのでう》、曲事《きよくじに》|被[#二]思召[#一]事《おぼしめさるゝこと》。
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是《こ》れ天正《てんしやう》十九|年《ねん》十|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、秀吉《ひでよし》が高野山《かうやさん》の金剛峰寺《こんがうぶじ》に與《あた》へた戒飭《かいちよく》の一|節《せつ》だ。即《すなは》ち檢地《けんち》の結果《けつくわ》、公稱《こうしよう》三千|石以外《ごくいぐわい》に、五|萬石《まんごく》を發見《はつけん》し、是《こ》れが爲《た》めに高野山僧等《かうやさんそうら》が、從來《じゆうらい》莫大《ばくだい》の知行《ちぎやう》を掠《かす》め居《ゐ》たことが暴露《ばくろ》せられたのだ。斯《かゝ》る例《れい》は澤山《たくさん》あつたであらう。併《しか》し又《また》檢地《けんち》の結果《けつくわ》、減石《げんこく》した例《れい》もあつた。即《すなは》ち參河《みかは》の小川《をがは》、刈屋《かりや》、尾張《をはり》の知多郡《ちたごほり》にて二|萬石《まんごく》減《げん》じ、又《ま》た尾張《をはり》、西參河《にしみかは》、北伊勢《きたいせ》にて八|滿石《まんごく》減《げん》じた。
秀吉《ひでよし》其《そ》の人《ひと》の動機《どうき》は、焉《いづ》くにあつたにせよ、全國《ぜんこく》の檢地《けんち》は、即《すなは》ち全國統制《ぜんこくとうせい》の綱要《かうえう》である。
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廿九|日《にち》(天正十九年七月)[#「(天正十九年七月)」は1段階小さな文字]一、日本國中《にほんこくぢゆう》の郡田《ぐんでん》は、差圖繪《さしづゑ》に書《か》き、海《うみ》、山《やま》、川《かは》、里《さと》、寺《てら》、社《やしろ》、田數《たかず》以下《いか》悉《こと/″\く》注上《つぎあぐ》べき由《よし》、御下知《ごげち》云々《うんぬん》。禁中《きんちゆう》に|可[#レ]被[#二]籠置[#一]候樣《こめおかるべくさふらふやう》云々《うんぬん》。異《い》なる事也《ことなり》。〔多門院日記〕[#「〔多門院日記〕」は1段階小さな文字]
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成程《なるほど》當時《たうじ》の僧侶杯《そうりよなど》には、斯《かゝ》る事《こと》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》の好事《かうじ》か、道樂《だうらく》の樣《やう》に思《おも》ひ、奇怪《きくわい》千|萬《ばん》の事《こと》と考《かんが》へたであらう。されど天下統《てんかとう》一の政策《せいさく》は、此《こ》の目安《めやす》によりて、始《はじ》めて割《わ》り出《だ》すことが可能《かな》ふ。而《しか》してそれに氣《き》の付《つ》いた秀吉《ひでよし》の活眼《くわつがん》は勿論《もちろん》、それを萬障《ばんしやう》を排《はい》して遂行《すゐかう》した活力《くわつりよく》も亦《ま》た、偉大《ゐだい》なものではあるまい乎《か》。
然《しか》るに荒井白石《あらゐはくせき》、頼山陽《らいさんやう》の如《ごと》きは、秀吉《ひでよし》の檢地《けんち》を以《もつ》て、彼《かれ》が大《だい》なる惡政《あくせい》の目標《もくへう》とし、盛《さか》んに之《これ》を非難《ひなん》して居《を》る。
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只今《たゞいま》の世《よ》まで其《そ》の遺風《ゐふう》の世《よ》の害《がい》をなす事《こと》のみある類《たぐひ》、尤《もつとも》議《ぎ》すべき事《こと》にや。一には此《こ》の人《ひと》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]天下《てんか》の田《でん》を丈量《ぢやうりやう》するに、古法《こはう》を變《へん》じて、三百|歩《ぶ》を一|段《たん》とす。古《いにしへ》の説《せつ》に三百六十|歩《ぶ》を以《もつ》て、一|段《たん》とする事《こと》、一|歩《ぶ》を以《もつ》て一|夫《ぷ》一|日《にち》の食《しよく》として、一|段《たん》一|年《ねん》の食分《しよくぶん》にあつと云《い》ふ。然《しか》るにかくつゞめられしに(『原註《げんちゆう》』[#割り注]按るに古法六尺を歩とす、豐臣の時六尺五寸を歩とせられし也[#割り注終わり])又《また》當代《たうだい》(徳川氏)[#「(徳川氏)」は1段階小さな文字]六|尺《しやく》の繩《なは》を用《もち》ひられしかば、古《いにしへ》の三百|歩《ぶ》の中《うち》にして、六十|歩《ぶ》を失《うしな》へり。民《たみ》いかでか窮《きゆう》せざらむ。されど此《こ》の法《はふ》再《ふたゝ》び古《いにしへ》に復《ふく》せむ事《こと》、井田《せいでん》一|度《たび》變《へん》じて、復《ふく》し難《がた》きが如《ごと》くなるべし。思《おも》ふに此《こ》の人《ひと》の丈量《ぢやうりやう》せられしは、昔《むかし》の如《ごと》く、或《あるひ》は一|國《こく》一|郡《ぐん》一|庄《しやう》を與《あた》へむに、六十六|州《しう》の地《ち》、猶《なほ》足《た》らざる事《こと》を思《おも》ひて、斯《か》くは計《はか》られしにやと思《おも》ふ也《なり》。〔讀史餘論〕[#「〔讀史餘論〕」は1段階小さな文字]
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三百六十|歩《ぶ》を一|段《たん》とするも、三百|歩《ぶ》を一|段《たん》とするも、そは唯《た》だ丈領《ぢやうりやう》割出《わりだ》しの相違《さうゐ》のみ。問題《もんだい》の一は、天下《てんか》の寸地尺土《すんちせきど》も、隱蔽《いんぺい》するなく、悉《こと/″\》く之《これ》を丈量《ぢやうりやう》するの得失《とくしつ》如何《いかん》にあり。問題《もんだい》の二は、天下《てんか》の田制《でんせい》を何《いづ》れにもせよ、統《とう》一すると、否《いな》とにあり。一|段《たん》を三百|歩《ぶ》としたから、苛歛《かれん》、誅求《ちゆうきう》である、一|段《たん》を三百六十|歩《ぶ》として置《お》けば、仁政惠法《じんせいけいはふ》であるとは、一|概《がい》に論斷《ろんだん》する譯《わけ》には參《まゐ》るまい。何《なん》となれば、一|段《たん》三百六十|歩《ぶ》にしても、正租《せいそ》以外《いぐわい》に、各種《かくしゆ》の税《ぜい》を加《くは》ふることも、決《けつ》して不可能《ふかのう》ではないからだ。現《げん》に足利氏抔《あしかゞしなど》は、段錢《たんせん》を取《と》つたではない乎《か》。山陽《さんやう》に至《いた》りては、更《さ》らに白石《はくせき》の尻馬《しりうま》に乘《の》りて、秀吉《ひでよし》を攻撃《こうげき》した。
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豐臣氏《とよとみし》|極[#二]奢侈[#一]《しやしをきはめ》、已《すでに》|無[#レ]比[#二]於前代[#一]《ぜんだいにひするなし》、|及[#二]末年[#一]《まつねんにおよび》、|窮[#レ]兵《へいをきはめ》|黷[#レ]武《ぶをけがして》、用度《ようどを》益《ます/\》|不[#レ]給《きふせず》、|欲[#レ]加[#二]徴租税[#一]《そぜいをかちようせんとほつして》、而《また》|不[#二]復可[#一][#レ]加也《くはふべからざるなり》。|於[#レ]是《こゝにおいてか》|一[#二]變丈田之法[#一]《ぢやうでんのはふをいつぺんし》、|以[#二]三百歩[#一]《さんびやくぶをもつて》|爲[#二]一段[#一]《いつたんとなし》、一段《いつたんは》|加[#二]六十歩[#一]《ろくじふをくはへ》、一町《いつちやうは》|加[#二]六百歩[#一]《ろくびやくぶをくはへ》[#ルビの「ろくびやくぶをくはへ」は底本では「ひくびやくぶをくはへ」]、積而《つみて》|上[#レ]之《これをのぼす》、千町《せんちやうは》|加[#二]六十萬歩[#一]《ろくじふまんぶをくはへ》、萬町《まんちやうは》|加[#二]六百萬歩[#一]《ろくひやくまんぶをくはふ》、又《また》|就[#二]一歩[#一]《いちぶにつき》、各《おの/\》|縮[#二]二尺[#一]《にしやくをちゞめ》。|鞭[#二]韃有[#レ]限之土地[#一]《かぎりあるのとちをべんたつして》、以《もつて》|搜[#二]索無[#レ]故之財利[#一]《ゆゑなきのざいりをさうさくす》、民數《みんすうは》|依[#レ]舊《きうにより》、税額《ぜいがくは》百倍《ひやくばいす》。開闢以來之遺民《かいびやくいらいのゐみん》、|※[#「宛+りっとう」、第4水準2-3-26][#二]未[#レ]※[#「宛+りっとう」、第4水準2-3-26]之肉[#一]《いまだけづらざるのにくをけづり》、浚[#二]未[#レ]浚之膏血[#一]《いまださらはざるのかうけつをさらひ》、以《もつて》|供[#二]豐臣氏得[#レ]已不[#レ]已之欲[#一]《とよとみしのやむをえてやまざるのよくにきようす》。豐臣氏《とよとみし》|以[#レ]此《これをもつて》|取[#二]絶嗣赤族之禍[#一]《ぜつしせきぞくのわざはひをとる》。([#割り注]日本政記[#割り注終わり])
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白石《はくせき》にせよ、山陽《さんやう》にせよ、全《まつた》く著眼點《ちやくがんてん》が間違《まちが》うて居《ゐ》る。彼等《かれら》若《も》し史眼《しがん》あらば、檢地《けんち》其《そ》の事《こと》に就《つい》て、秀吉《ひでよし》の天下《てんか》後世《こうせい》に及《およ》ぼしたる功徳《くどく》を、識認《しきにん》せねばならぬ。乃《すなは》ち徳川氏《とくがはし》の如《ごと》きも、詮《せん》じ來《きた》れば信長《のぶなが》や、秀吉《ひでよし》の遺業《ゐげふ》を、殆《ほとん》どその儘《まゝ》相續《さうぞく》したものだ。別《わ》けて秀吉《ひでよし》の遺業《ゐげふ》は、大《だい》なるものであつた。而《しか》して檢地《けんち》の如《ごと》きは、其《そ》の重《おも》なる一と云《い》はねばならぬ。
然《しか》るに檢地《けんち》の方法《はうはふ》が、古法《こはふ》を變《へん》じたからとて、之《これ》を非難《ひなん》し、檢地《けんち》其《そ》の物《もの》の功徳《くどく》を無視《むし》するが如《ごと》きは、本末輕重《ほんまつけいぢゆう》を誤《あやま》るも、亦《ま》た甚《はなは》だしと云《い》はねばならぬ。假《か》りに彼等《かれら》の説《せつ》の如《ごと》く、古法《こはふ》を變《へん》じた事《こと》が、惡《わろ》しとするも、得失《とくしつ》相償《あひつぐな》うて餘《あま》りありだ。矧《いはん》や古法《こはふ》を變《へん》じたからと云《い》うても、そは只《た》だ割出《わりだし》の標準《へうじゆん》を變《へん》じた迄《まで》にて、未《いま》だ彼等《かれら》の説《せつ》の如《ごと》く、非難《ひなん》す可《べ》き點《てん》はなきに於《おい》てをやだ。
三百六十|歩《ぶ》一|段《たん》の際《さい》には、人民《じんみん》皆《み》な鼓腹撃壤《こふくげきじやう》の安樂境《あんらくきやう》にあり、三百|歩《ぶ》一|段《たん》の際《さい》には、人民《じんみん》皆《み》な塗炭《とたん》に苦《くるし》むと思《おも》ふのは、餘《あま》りに單純《たんじゆん》の考《かんが》へではない乎《か》。足利時代抔《あしかゞじだいなど》には、正税以外《せいぜいいぐわい》に段錢《たんせん》、棟別《むねべつ》、倉役等《くらやくとう》、時《とき》を選《えら》ばずして課《くわ》した。段錢《たんせん》とは、田地《でんぢ》に掛《か》けて錢《ぜに》を出《いだ》さしむるもの、棟別《むねべつ》とは、軒別《けんべつ》に割附《わりつ》けて、銀《ぎん》を出《いだ》さしむるもの、倉役《くらやく》とは、富商《ふしやう》にのみ賦課《ふくわ》するものだ。
且《か》つ莊園《さうゑん》の制《せい》生《しやう》じて以來《いらい》、田制《でんせい》も區々《くゝ》にて、未《いま》だ必《かなら》ずしも三百六十|歩《ぶ》一|段《たん》の制《せい》が、全國《ぜんこく》に行《ゆ》き渡《わた》つて、行《おこな》はれ居《ゐ》なかつた。されば古法《こはふ》は秀吉以前《ひでよしいぜん》に既《すで》に變《へん》じて居《ゐ》た。秀吉《ひでよし》は只《た》だ其《そ》の大小區々《だいせうくゝ》たるものを、三百|歩《ぶ》一|段《たん》に均《きん》一せんと試《こゝろ》みたのであつた。吾人《ごじん》が試《こゝろ》みたと云《い》ふは、秀吉《ひでよし》の力《ちから》を以《もつ》てしても、之《これ》を均《きん》一することは不《ふ》十|分《ぶん》であつたからだ。
若《も》し夫《そ》れ『民數《みんすうは》|依[#レ]舊《きうにより》、税額《ぜいがくは》百倍《ひやくばいす》。』抔《など》と、宛《あだか》も秀吉《ひでよし》を以《もつ》て、人民《じんみん》を虐使《ぎやくし》する、桀《けつ》紂《ちう》の徒《と》と同《どう》一|視《し》し。『|以[#レ]此《これをもつて》|取[#二]絶嗣赤族之禍[#一]《ぜつしせきぞくのわざはひをとる》。』抔《など》と、因果應報《いんぐわおうはう》めきたる言《ぐん》を爲《な》すは、如何《いか》にも山陽《さんやう》に不似合《ふにあひ》の論法《ろんぱふ》だ。是《こ》れ或《あるひ》は豐臣氏《とよとみし》を假《か》りて、當時《たうじ》の徳川氏《とくがはし》を論《ろん》じたのではあるまい乎《か》。果《はた》して然《しか》らば秀吉《ひでよし》こそ、飛《と》んだ傍杖《そばづゑ》と云《い》はねばならぬ。
千言萬語《せんげんばんご》、詮《せん》じ來《きた》れば、白石《はくせき》も、山陽《さんやう》も、秀吉《ひでよし》の檢地《けんち》が、近世日本統《きんせいにほんとう》一の爲《た》めに、堅實《けんじつ》、鞏固《きようこ》にして、正確《せいかく》なる基礎《きそ》を作《な》した一|大事業《だいじげふ》であることを、看過《かんくわ》したのだ。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇〇】秀吉秀次に關白職を讓る[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十九|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》は秀次《ひでつぐ》を養子《やうし》とし、十二|月《ぐわつ》四|日《か》に内大臣《ないだいじん》に進《すゝ》め、同《どう》廿八|日《にち》に關白職《くわんぱくしよく》を讓《ゆづ》り、自《みづ》から太閤《たいかふ》と稱《しよう》した。此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りて、一|生《しやう》の不覺《ふかく》だ、一|生《しやう》の失策《しつさく》だ。そは吾人《ごじん》が説明《せつめい》する迄《まで》もなく、やがて事實《じじつ》が之《これ》を證明《しようめい》する。而《しか》して彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に此《かく》の如《ごと》き事《こと》を行《おこな》うたか。
總《すべ》ての事《こと》に豐富《ほうふ》であつた秀吉《ひでよし》は、其《そ》の相續者《さうぞくしや》に於《おい》て、貧《まづ》しかつた。彼《かれ》は信長《のぶなが》の一|子《し》於次丸秀勝《おつぎまるひでかつ》を養子《やうし》としたが、死《し》した。次《つ》ぎに其《そ》の姉《あね》瑞龍院日秀《ずゐりゆうゐんにつしう》の第《だい》二|子《し》小吉秀勝《こきちひでかつ》、又《ま》た其《そ》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》の弟《おとうと》、木下家定《きのしたいへさだ》の五|男《なん》、秀秋等《ひであきら》も養《やしな》はれたが、何《いづ》れも彼《かれ》の相續者《さうぞくしや》たる可《べ》き器《うつは》ではなかつた。頼《さいは》ひに其《そ》の愛妾《あいせふ》淺井氏《あさゐし》が、天正《てんしやう》十六|年《ねん》五|月《ぐわつ》廿七|日《にち》、秀吉《ひでよし》五十三|歳《さい》の時《とき》、一|子《し》鶴松《つるまつ》を生《う》み、秀吉《ひでよし》は全身《ぜんしん》の愛《あい》を、之子《このこ》に傾《かたむ》けたが、幻花《げんくわ》一|瞬《しゆん》、同《どう》十八|年《ねん》八|月《ぐわつ》五|日《か》、三|歳《さい》にして夭死《えうし》した。〔參照 本篇八一、一子鶴松の夭死〕[#「〔參照 本篇八一、一子鶴まつの夭死〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》が如何《いか》に失望《しつばう》、落膽《らくたん》、哀傷《あいしやう》自《みづ》から禁《きん》ずる能《あた》はざりし乎《か》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。此《こゝ》に於《おい》て遂《つ》ひに意《い》を決《けつ》して、幾許《いくばく》もなく秀次《ひでつぐ》を養子《やうし》とし、竟《つ》ひに關白職《くわんぱくしよく》をも讓《ゆづ》つたのだ。
秀吉《ひでよし》としては、此《こ》の際《さい》斯《か》く取《と》り計《はから》うたのは、必《かなら》ずしも不合理《ふがふり》ではなかつた。秀次《ひでつぐ》は其《そ》の姉《あね》瑞龍院日秀《ずゐりゆうゐんにつしう》が、三|好武藏守一路《よしむさしのかみかずみち》との間《あひだ》に生《う》んだ長子《ちやうし》で、一|時《じ》は阿波《あは》の名族《めいぞく》三|好康長《よしやすなが》の養子《やうし》となり、三|好孫《よしまご》七|郎《らう》と稱《しよう》し、秀吉《ひでよし》の異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》と共《とも》に、秀吉《ひでよし》の親類頭《しんるゐがしら》の位置《ゐち》にあり。屡《しばし》ば軍務《ぐんむ》に從《したが》ひ、天正《てんしやう》十三|年《ねん》閏《うるふ》八|月《ぐわつ》には近江《あふみ》の國主《こくしゆ》となり、八|幡山《まんやま》に築《きづ》き、同《どう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、參議《さんぎ》に進《すゝ》み、同《どう》十六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》には、權中納言《ごんちゆうなごん》に上《のぼ》り、正《しやう》三|位《み》となり、從《じゆ》二|位《ゐ》となり、同《どう》十八|年《ねん》には、秀長《ひでなが》は病氣《びやうき》の爲《た》めに、留守居《るすゐ》の役《やく》に廻《まは》り、秀次《ひでつぐ》は小田原役《をだはらえき》の先陣《せんぢん》とし、山中城《やまなかじやう》を陷《おとしい》れ、次《つい》で奧羽《あうう》に赴《おもむ》き、戰功《せんこう》によりて織田信雄《おだのぶを》の舊領《きうりやう》尾張《をはり》、及《およ》び北伊勢《きたいせ》をも加《くは》へられ、百|萬石《まんごく》の大封《たいほう》を受《う》けた。同《どう》十九|年《ねん》の二|月《ぐわつ》には、正《しやう》二|位《ゐ》となり、權大納言《ごんだいなごん》に移《うつ》り、五|月《ぐわつ》重《かさ》ねて徳川家康《とくがはいへやす》と共《とも》に、奧州《あうう》一|揆《き》鎭撫《ちんぶ》に赴《おもむ》いた。
如上《じよじやう》の履歴《りれき》は、彼《かれ》をして秀吉《ひでよし》の相續者《さうぞくしや》たらしむるに、十|分《ぶん》の理由《りいう》がある。
されど彼《かれ》は果《はた》して、相續者《さうぞくしや》たる可《べ》き資格《しかく》を有《いう》した乎《か》。秀吉《ひでよし》は人物《じんぶつ》の鑑識《かんしき》に於《おい》ても、信長以上《のぶながいじやう》と云《い》ふ能《あた》はざるも、多《おほ》く信長《のぶなが》に劣《おと》らなかつた。されば秀次《ひでつぐ》に就《おい》ても、其《そ》の長短得失《ちやうたんとくしつ》は能《よ》く熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。然《しか》も彼《かれ》を相續者《さうぞくしや》としたのは、彼以外《かれいぐわい》により適當《てきたう》の者《もの》がなかつたからだ。而《しか》して此《こ》の際《さい》に於《おい》てしたのは、鶴松《つるまつ》夭死《えうし》の爲《た》めに、身後《しんご》の計《けい》を爲《な》し置《お》く可《べ》く心細《こゝろぼそ》く感《かん》じたからだ。然《しか》も彼《かれ》は何故《なにゆゑ》の太早計《たいさうけい》にも、秀次《ひでつぐ》に關白職《くわんぱくしよく》を讓《ゆづ》つた乎《か》。そは當時《たうじ》彼《かれ》の全心全力《ぜんしんぜんりよく》を、海外遠征《かいぐわいゑんせい》に盡《つく》す可《べ》き爲《た》めであつた。別言《べつげん》すれば、鶴松《つるまつ》の死《し》が、征韓《せいかん》を促《うなが》し、征韓《せいかん》の企《くはだ》てが、秀次《ひでつぐ》を關白職《くわんぱくしよく》に就《つ》かしめたのだ。
然《しか》も秀吉《ひでよし》は秀次《ひでつぐ》の弱點《じやくてん》、缺點《けつてん》を熟知《じゆくち》して居《ゐ》た。故《ゆゑ》に此《こ》の際《さい》に於《おい》て、特《とく》に戒飭《かいちよく》を與《あた》へた。
[#ここから1字下げ]
一 國々《くに/″\》靜謐《せいひつ》たりと雖《いへど》も、武篇方《ぶへんかた》油斷《ゆだん》なく、武具以下《ぶぐいか》、又《また》は兵糧《ひやうらう》嗜《たしな》み、秀吉治《ひでよしをさ》めの如《ごと》く出陣《しゆつぢん》是有《これある》に於《おい》ては、兵糧《ひやうらう》をいだし、長陣《ながぢん》の心掛《こゝろがけ》あるべき事《こと》。
一 法度《はつと》堅《かた》く申付《まをしつく》べし。自然《しぜん》少《すこ》しも相背《あひそむ》くものあるに於《おい》ては、依怙贔屓《えこひいき》なく、糾明《きうめい》を遂《と》げ、兄弟《おとゞい》又《また》は身《み》を分《わ》け候《さふらふ》ものたりとも、成敗《せいばい》申付《まをしつく》べき事《こと》。
一 内裡方《だいりかた》ねん比《ごろ》に致《いた》し、御奉公《ごほうこう》申《まをす》べく候《さふらふ》。付たり[#「付たり」は1段階小さな文字]奉公人《ほうこうにん》たれ/″\によらず、跡《あと》を立《た》て申《まをす》べく候《さふらふ》。但《たゞし》十(十歳)[#「(十歳)」は1段階小さな文字]より内《うち》の子《こ》は、名代《みやうだい》を致《いた》させ申《まをす》べく候《さふらふ》。自然《しぜん》子《こ》なくば、兄弟《おとゞい》に繼《つ》がせ申《まをす》べし。女子《をなご》の勘忍《かんにん》(恩給)[#「(恩給)」は1段階小さな文字]申付《まをしつく》べき事《こと》。
一 茶《ちや》の湯《ゆ》、鷹野《たかの》の鷹《たか》、女狂《をんなぐるひ》に過《す》ぎ候事《さふらふこと》、秀吉眞似《ひでよしまね》これあるまじき事《こと》。但《たゞし》茶《ちや》の湯《ゆ》は慰《なぐさ》みにて候條《さふらふでう》、再々《さい/\》茶《ちや》の湯《ゆ》をいたし、人《ひと》をよび候事《さふらふこと》は、苦《くる》しからず。又《また》たかは、とり鷹《だか》、鶉鷹《うづらだか》、あい/\にしるべく候《さふらふ》。使《つか》ひ女《をんな》の事《こと》は、屋敷《やしき》の内《うち》に措《お》き、五|人《にん》なりとも、十|人《にん》なりとも、苦《くる》しからず候《さふらふ》。外《そと》にて猥《みだり》がはしく女狂《をんなぐる》ひ、鷹野《たかの》の鷹《たか》、茶《ちや》の湯《ゆ》にて、秀吉《ひでよし》ごとくに、いたらぬ物《もの》の方《はう》へ、一|切《さい》罷《まか》り出候儀《いでさふらふぎ》、無用《むよう》たるべき事《こと》。
 以上《いじやう》
  天正十九年十二月二十日
[#地から3字上げ]朱印
   内大臣殿
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》の訓戒《くんかい》は、實《じつ》に親切丁寧《しんせつていねい》であつた。秀吉《ひでよし》は能《よ》く自《みづ》から知《し》り、且《か》つ秀次《ひでつぐ》を知《し》つた。されば秀次《ひでつぐ》が秀吉《ひでよし》の道樂《だうらく》を學《まな》ぶなきを、特《とく》に戒《いまし》めたのだ。即《すなは》ち第《だい》一は、武臣《ぶしん》の本職《ほんしよく》として、武備《ぶび》の心掛《こゝろがけ》を示《しめ》し。第《だい》二は、政道《せいだう》の公平《こうへい》にして、親近《しんきん》は私《わたくし》す可《べ》からざるを示《しめ》し。第《だい》三は、善《よ》く朝廷《てうてい》に奉仕《ほうし》し、且《か》つ臣下《しんか》を愛撫《あいぶ》し、其《そ》の後《あと》を立《た》て、十|歳以下《さいいか》の幼子《えうし》を殘《のこ》せしものには、名代《みやうだい》を立《た》てしめ、子無《こな》き者《もの》には、兄弟《きやうだい》をして家《いへ》を嗣《つ》がしめ、女子《ぢよし》のみならば、勘忍分《かんにんぶん》の所領《しよりやう》を與《あた》ふ可《べ》きを示《しめ》し。第《だい》四は、茶湯《ちやのゆ》、鷹野《たかの》、女狂等《をんなぐるひとう》、一|切《さい》秀吉《ひでよし》の道樂《だうらく》を眞似《まね》る勿《なか》れと云《い》ひ。然《しか》も茶《ちや》の湯《ゆ》は、屡《しばし》ば催《もよほ》して、人《ひと》を招待《せうだい》するは苦《くる》しからず、鷹野《たかの》は鳥《とり》、鷹《たか》、鶉鷹等《うづらたかとう》は、慰《なぐさ》み行《おこな》ふも苦《くる》しからず、女中《ぢよちゆう》は五|人《にん》でも、十|人《にん》でも、邸内《ていない》に措《お》くは苦《くる》しからず、但《た》だ總《すべ》て秀吉流儀《ひでよしりうぎ》の大《おほ》びらの道樂《だうらく》を做《な》す勿《なか》れと示《しめ》したのだ。
此《こ》の戒飭《かいちよく》に就《つい》ては、秀次《ひでつぐ》は左《さ》の誓書《せいしよ》を上《たてまつ》つた。
[#ここから1字下げ]
右《みぎ》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》五ヶ條《ごかでう》、聊《いさゝか》相背申間敷候《あひそむきまをすまじくさふらふ》。自然《しぜん》|於[#二]相違申[#一]者《あひたがひまをすにおいては》、梵天帝釋《ぼんてんたいしやく》、四|大天王《だいてんわう》、伊勢天照大神《いせてんせうだいじん》、八|幡大神《まんだいじん》、賀茂下上《かもしもかみ》、春日明神《かすがみやうじん》、松尾《まつを》、平野《ひらの》、梅宮《うめみや》、愛宕大權現《あたごだいごんげん》、北野天滿大自在天神《きたのてんまんだいじざいてんじん》、總而《すべて》日本國中《にほんこくぢゆう》大小神祇《だいせうしんぎ》、殊《ことに》上樣御罰《うへさまおんばち》深厚《しんこう》に罷蒙《まかりかうむり》、|於[#二]今世[#一]者《こんぜにおいては》|受[#二]天下役難[#一]《てんかのやくなんをうけ》、|於[#二]來世[#一]者《らいせにおいては》墮《おちて》|在[#二]無間[#一]可[#レ]使候《むげんにあらしむべくさふらふ》。少《すこしも》|相違不[#レ]可[#レ]有[#二]御座[#一]候者也《さうゐござあるべからずさふらふものなり》。仍《よつて》起請文《きしやうもん》|如[#レ]件《くだんのごとし》。
  天正十九年十二月二十日
[#地から3字上げ]秀次(有判)
   木下半介殿
[#ここで字下げ終わり]
秀次《ひでつぐ》は果《はた》して此《こ》の誓書《せいしよ》の通《とほ》りに實踐《じつせん》した乎《か》、誓書《せいしよ》の旨趣《ししゆ》を服膺《ふくよう》した乎《か》。そは他日《たじつ》に讓《ゆづ》り、秀吉《ひでよし》が秀次《ひでつぐ》の弱點《じやくてん》、缺點《けつてん》を知《し》りつゝ、彼《かれ》に關白職《くわんぱくしよく》を讓《ゆづ》つたのは、秀次以外《ひでつぐいぐわい》、他《た》に人《ひと》なかりし爲《た》めと同時《どうじ》に、若《も》し一たび秀次《ひでつぐ》を、責任《せきにん》の位置《ゐち》に立《た》たしめなば、彼《かれ》は自《みづ》から謹愼《きんしん》して、克《よ》く秀吉《ひでよし》の訓戒《くんかい》を遵奉《じゆんぽう》し、其《そ》の弱點《じやくてん》を補《おぎな》ふならんと信《しん》じたからであらう。
然《しか》も事實《じじつ》は全《まつた》く之《これ》を裏切《うらぎ》つた。而《しか》して其《そ》の間《あひだ》に又《ま》た秀頼《ひでより》の出生《しゆつしやう》あり、事件《じけん》の葛藤《かつとう》は、遂《つ》ひに秀吉《ひでよし》の後半期《こうはんき》に、一|種《しゆ》の悲劇《ひげき》を構成《こうせい》した。此《こ》れは秀次《ひでつぐ》の爲《た》めと云《い》はんよりも、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、一|大恨事《だいこんじ》であつた。

 大正八年十二月廿三日午前七時半[#「大正八年十二月廿三日午前七時半」は底本では「大正八年十二年廿三日午前七時半」] 於相州逗子歡瀾亭
[#地から2字上げ]蘇峰學人

 

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