第七章 小田原城攻守の中期
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第七章 小田原城攻守の中期[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四〇】持久的攻守[#中見出し終わり]

話《はなし》は再《ふたゝ》び小田原城《をだはらじやう》包圍《はうゐ》に返《かへ》る。扨《さて》も秀吉《ひでよし》は大軍《たいぐん》にて、小田原城《をだはらじやう》を取《と》り捲《ま》く月餘《げつよ》に及《およ》ぶも、容易《ようい》に陷落《かんらく》の見込《みこみ》立《た》たざれば、當時《たうじ》清洲城《きよすじやう》を守《まも》りたる小早川隆景《こばやかはたかかげ》を招《まね》き、其策《そのさく》を問《と》うた。秀吉《ひでよし》は當分《たうぶん》上方《かみがた》に引《ひ》き返《かへ》し、家康《いへやす》及《およ》び秀次《ひでつぐ》に、後事《こうじ》を託《たく》する積《つも》りであつた。併《しか》し隆景《たかかげ》は斯《か》くては、諸軍《しよぐん》の鋭氣《えいき》を摧《くじ》き、引矢《ゆみや》の惰《おこた》りを來《きた》すであらう。寧《むし》ろ思《おも》ひ切《き》りて、長陣《ながぢん》の計《けい》をなし給《たま》へ。親《おや》にて候《さふらふ》元就《もとなり》が、尼子義久《あまこよしひさ》と對陣《たいぢん》の際《さい》にも、小歌《こうた》、踊《をどり》、能囃《のうばやし》にて、長陣《ながぢん》を張《は》り、敵《てき》を退屈《たいくつ》せしめ、遂《つ》ひに調略《てうりやく》にて、敵《てき》に打克《うちか》つたと云《い》うた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を嘉納《かなふ》した。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》が果《はた》して上方《かみがた》に一|兩月《りやうげつ》も立《た》ち返《かへ》り、再《ふたゝ》び下向《げかう》する考《かんが》へであつたか、否《いな》かは、分明《ぶんみやう》でない。併《しか》し小牧山《こまきやま》對陣《たいぢん》の時《とき》も、秀吉《ひでよし》は屡《しばし》ば往來《わうらい》した。或《あるひ》は此囘《このたび》もさる考《かんが》へが出《で》て來《き》たかも知《し》れぬ。そは何《いづ》れにせよ、隆景《たかかげ》の持久説《じきうせつ》には、秀吉《ひでよし》も共鳴《きようめい》したに相違《さうゐ》ない。此《こ》れは秀吉《ひでよし》の素見《そけん》を、隆景《たかかげ》が裏書《うらがき》したのも同樣《どうやう》だ。
此《こゝ》に於《おい》てか小田原《をだはら》は、一|箇《こ》の歡樂郷《くわんらくきやう》に變《へん》じた。
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然《しかれ》ば小田原《をだはら》總構《そうがまへに》攻寄《せめよ》るの人數《にんず》は扨置《さてお》き、後陣《ごぢん》は山野《さんや》に寸土尺地《すんどせきち》のすきまもなく、嶺《みね》を登《のぼ》り谷《たに》を下《くだ》りて、軍勢《ぐんぜい》充滿《みちみち》たる事《こと》、其限《そのかぎ》り知《し》られず、往還《わうくわん》の道《みち》は、馬《うま》の足音《あしおと》、物具《もののぐ》の音《おと》、十二|時中《じちゆう》鳴《な》り止《や》む事《こと》なし。兵粮米《ひやうらうまい》運送《うんそう》する事《こと》、西海《さいかい》の大船《たいせん》小船《せうせん》幾《いく》千|艘共《ぞうとも》數《かず》しらず。是故《これゆゑ》に陣中《ぢんちゆう》豐《ゆた》かなり。東西南北《とうざいなんぼく》に小路《こうぢ》を割《わ》り。大名衆《だいみやうしゆう》、陣構《ぢんがま》へには、廣大《くわうだい》なる屋形《やかた》作《づく》りし書院《しよゐん》、數寄屋《すきや》を立《たて》、庭《には》に松竹草花《まつたけくさばな》を植《うゑ》、さて又《また》陣屋毎《ぢんやごと》の四|壁《へき》には、野菜《やさい》の爲《ため》とて、瓜《うり》、茄子《なす》、大角豆抔《さゝげなど》植《うゑ》おき、町人《ちやうにん》は小屋《こや》をかけ、諸國《しよこく》の津々《つゝ》、浦々《うら/\》の名物《めいぶつ》を持來《もちきたり》て、賣買《うりかひ》市《いち》をなす。或《あるひ》は見世棚《みせだな》を構《かま》へ、唐土《もろこし》、高麗《こま》の珍物《ちんぶつ》、京《きやう》、堺《さかひ》の絹布《けんぷ》を賣《う》るもあり。或《あるひ》は五|※[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、196-11]《こく》、鹽肴《しほざかな》、干物《ひもの》を積《つ》み重《かさ》ね、生魚《なまうを》を束《つか》ね置《お》き、何《なに》にても賣買《うりかひ》せずと云《い》ふ事《こと》なし、京《きやう》、田舍《ゐなか》の遊女《いうぢよ》が、小屋《こや》をかけおき、色《いろ》めきあへり。其外《そのほか》海道《かいだう》の側《かたはら》に茶屋《ちやや》、旅籠屋《はたごや》有《あり》て、陣中《ぢんちゆう》まづしき事《こと》なしと云《い》ふ。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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事實《じじつ》は恐《おそ》らくは、是《こ》れ以上《いじやう》であつたらう。秀吉《ひでよし》は諸將《しよしやう》に、其《そ》の女房共《にようぼうども》を招致《せうち》するを勸誘《くわんいう》したのみならず、自《みづ》からも亦《ま》た、其《そ》の妾《せふ》淺井氏《あさゐし》―所謂《いはゆ》る淀君《よどぎみ》―を招致《せうち》した。
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各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》へも申觸《まをしふ》れ、大名共《だいみやうども》に、女房《にようぼう》を呼《よ》ばせ、小田原《をだはら》に有附候《ありつきさふら》へと、申觸《まをしふれ》、右《みぎ》とう/\斯《かく》の如《ごと》くに、長陣《ながぢん》を申付候《まをしつけさふらふ》まゝ、其爲《そのた》めに、淀《よど》の物《もの》(所謂る淀君)[#「(所謂る淀君)」は1段階小さな文字]を呼《よ》び候《さふら》はん間《あひだ》、そもじよりも、彌《いよい》よ申《まをし》つかはせ候《さふらう》て、前廉《まへかど》に、用意《ようい》をいたさせ候《さふらふ》べく候《さふらふ》。そもじに續《つゞ》き候《さふらう》ては、淀《よど》の物《もの》、彼等《かれら》の氣《き》に合候樣《あひさふらふやう》に、細《こま》かに使《つか》はれ候《さふらふ》まゝ、心易《こゝろやす》く召《め》し寄候《よせさふらふ》よし、淀《よど》へもそもじより申《まをし》やり、人《ひと》を遣《つか》はせ候《さふらふ》べく候《さふらふ》。
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此《こ》れは四|月《ぐわつ》十三|日附《にちづけ》にて、秀吉《ひでよし》が其《そ》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》に答《こた》へたる書翰《しよかん》の一|節《せつ》だ。されば秀吉《ひでよし》は隆景《たかかげ》の意見《いけん》を待《ま》つ迄《まで》もなく、長陣《ながぢん》の覺悟《かくご》であつたらしく思《おも》はるゝ。而《しか》して彼《かれ》の心意氣《こゝろいき》は、同書翰中《どうしよかんちゆう》に、
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小田原《をだはら》二三ぢうに取捲《とりま》き、堀《ほり》、塀《へい》二|重《じゆう》づけ、一|人《にん》も敵《てき》出《いだ》し候《さふら》はず候《さふらふ》。特《とく》に坂東《ばんどう》八|國《こく》の者共《ものども》、籠《こも》り候間《さふらふあひだ》、小田原《をだはら》を干殺《ほしころし》に致候《いたしさふら》へば奧州迄《あうしうまで》隙明候間《ひまあきさふらふあひだ》滿足申《まんぞくまを》すに及《およ》ばす候《さふらふ》。日本《につぽん》三|分《ぶんの》一|程《ほど》候《さふらふ》まゝ、此時《このとき》かたく年《とし》を取《と》り候《さふらう》ても、申付《まをしつけ》。行々迄《ゆく/\まで》も天下《てんか》の御爲《おた》めよき樣《やう》に致候《いたしさふら》はんまゝ、この度《たび》手柄《てがら》の程《ほど》を振《ふる》ひ、長陣《ながぢん》を致《いた》し、兵粮《ひやうらう》、又《また》は金銀《きんぎん》をも出《いだ》し、のちさき名《な》の殘《のこ》り候樣《さふらふやう》に致候《いたしさふらう》て、凱陣《がいぢん》|可[#レ]申間《まをすべきあひだ》、其心得《そのこゝろえ》[#ルビの「そのこゝろえ」は底本では「そのころえ」]あるべく候《さふらふ》。
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との一|節《せつ》にて、想像《さうざう》が出來《でき》る。
彼《かれ》は小田原城下《をだはらじやうか》に、一|年《ねん》を暮《くら》しても、其《そ》の目的《もくてき》を果《はた》さんとした。而《しか》して小田原城中《をだはらじやうちゆう》に於《おい》ても亦《ま》た、之《これ》に對《たい》して持久《ぢきう》の計《けい》を爲《し》た。
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晝《ひる》は碁《ご》、將棊《しやうぎ》、双六《すごろく》を打《うつ》て、遊《あそ》ぶ所《ところ》もあり。酒宴《しゆえん》遊舞《いうぶ》をなすもあり。爐《ろ》を構《かま》へて、朋友《ほういう》と數寄《すき》に氣味《きみ》を慰《なぐさむ》もあり、詩歌《しいか》を吟《ぎん》じ、連歌《れんが》をなし、音《おと》しづかなる所《ところ》もあり。笛皷《ふえつゞみ》をうちならし、亂舞《らんぶ》に興《きよう》ずる陣所《ぢんしよ》もあり。然《しかれ》ば一|生涯《しやうがい》を送《おく》るとも、かつて退屈《たいくつ》の氣《き》有《ある》べからず。
扨又《さてまた》松原大明神《まつばらだいみやうじん》の宮《みや》の前《まへ》、通町《とほりまち》十|町程《ちやうほど》は、前日《まいにち》市《いち》立《たち》て、七|座《ざ》の棚《たな》を構《かま》へ、與力《よりき》する物《もの》、手買《てかひ》ふりうりとて、百の賣物《うりもの》に、千の買物《かひもの》有《あり》て群集《ぐんしふ》す。
氏直公《うじなほこう》高札《かうさつ》を立給《たてたま》ひぬ。萬民《ばんみん》年中計《ねんぢゆうばかり》の粮兵《らうひやう》支度《したく》すべし。餘《あま》る所《ところ》是有《これある》においては、市《いち》にて賣《うる》べし。來春《らいしゆん》に至《いたり》ては、氏《たみ》百|姓《しやう》にことごとく御扶持《ごふち》下《くだ》さるべしと云々《うんぬん》。是《これ》によつて二|年《ねん》三|年《ねん》の支度有者《したくあるもの》は、五|※[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、199-5]《こく》を市《いち》へ取出《とりいだ》して賣《う》り、持《も》たざるものは、珍財《ちんぶつ》に代《か》へて用意《ようい》をなす。米※[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、ページ数-行数]《べいこく》積備《つみそなへ》たるゆゑ、萬民《ばんみん》に至《いた》るまで、城中《じやうちゆう》乏《とぼ》しき事《こと》なく、何《なん》に付《つけ》ても、悲《かな》しき思《おも》ひなし。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》く双方共《さうはうとも》に持久《ぢきう》の準備《じゆんび》、毫髮《がうはつ》遺憾《ゐかん》なき程《ほど》であれば、此上《このうへ》は寧《むし》ろ根氣較《こんきくら》べの他《ほか》はなけむ。北條氏《ほうでうし》の籠城《ろうじやう》も、隨分《ずゐぶん》念《ねん》の入《い》つたるものであつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四一】寄手彌※[#二の字点、1-2-22]振ふ[#中見出し終わり]

實《じつ》を云《い》へば秀吉《ひでよし》は、北條方《ほうでうがた》の裏《うら》を掻《か》いたのぢや。幾囘《いくくわい》か逸《いつ》を以《もつ》て勞《らう》を待《ま》ち、客兵《かくへい》を堅城《けんじやう》の下《もと》に疲罷《ひはい》せしめ、最後《さいご》の勝《かち》を制《せい》したる北條氏《ほうでうし》は、重《かさ》ねて之《これ》を秀吉《ひでよし》に試《こゝろ》みんとした。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、其《そ》の意表《いへう》に出《い》でた。北條方《ほうでうがた》は上方勢《かみがたぜい》が懸軍長驅《けんぐんちやうく》、兵粮《ひやうらう》に窮《きゆう》するを豫期《よき》した。然《しか》も秀吉《ひでよし》の帷中《ゐちゆう》には其人《そのひと》あり、兵站《へいたん》の用意《ようい》は、實《じつ》に周到《しうたう》であつた。
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伊奈熊藏忠政《いなくまざうたゞまさ》、御前《ごぜん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]へ出《いで》しとき、此度《このたび》去年《きよねん》より御領中《ごりやうちゆう》の米《こめ》豆《まめ》貯《たくは》ふべき命《めい》ありしゆゑ、重《かさ》ねて用意《ようい》し、沼津《ぬまづ》まで運輸《うんゆ》し置《おき》ぬ。この地《ち》(小田原)[#「(小田原)」は1段階小さな文字]に來《きた》つて承《うけたま》はれば、山中《やまなか》の價《あたひ》も、江尻《えじり》、沼津《ぬまづ》と同《おな》じ樣《やう》なり。さればはるばる運費《うんぴ》をかけんよりはと存《ぞん》じ、この地《ち》の米《こめ》を買求《かひもと》めぬ。かほど合點《がてん》のゆかぬ儀《ぎ》は侍《はべ》らずと申《まを》す。君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]こは長束大藏政家《ながつかおほくらまさいへ》がする事《こと》なれ、大藏《おほくら》はさして武功《ぶこう》はなきが、萬事《ばんじ》に才幹《さいかん》あるものゆゑ、秀吉《ひでよし》が意《い》にかなひ、追々《おひ/\》拔擧《ばつきよ》せられ、一|城《じやう》の主《あるじ》にも成《なり》たれ。〔徳川實記〕[#「〔徳川實記〕」は1段階小さな文字]
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小田原《をだはら》、及《およ》び箱根《はこね》山中《やまなか》の米價《べいか》をして、江尻《えじり》、沼津《ぬまづ》の米價《べいか》と同《どう》一ならしむる程《ほど》に、米《こめ》を輸送《ゆそう》し、蓄積《ちくせき》したるを見《み》れば、上方勢《かみがたぜい》が兵粮《ひやうらう》に困《こま》ると云《い》ふ心配《しんぱい》は、全《まつた》く是《こ》れあるまじき事《こと》だ。
然《しか》らば長陣《ながぢん》の屈托《くつたく》を待《ま》つ可《べ》き乎《か》。否々《いな/\》、此《こ》れは既掲《きけい》の通《とほ》りである。眼前《がんぜん》小田原城下《をだはらじやうか》に、歡樂郷《くわんらくきやう》を現出《げんしゆつ》したるに於《おい》ては、屈托《くつたく》せんとするも不可能《ふかのう》の事《こと》だ。
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五月雨《さみだれ》は日《ひ》をかさね、止《やみ》もやらず、總陣《そうぢん》何共《なにとも》なう困《くたび》れ果《はて》たるやうに、秀吉《ひでよし》ほの聞給《きゝたま》うて。早歌《さうか》をうたひ、踊《をど》りをかけ引《ひき》つくし給《たま》ひしかば、上下《じやうげ》の氣《き》うきやかに新《あたら》しく成《なり》て、幾年《いくとせ》を經《ふ》る共《とも》、いかでか勞《らう》せんやと、此處《こゝ》も彼處《かしこ》も、ののしり出《いで》にけり。或時《あるとき》は數寄屋《すきや》を、あらましう圍《かこ》ひなし、橋立《はしだて》の御壺《おつぼ》、玉堂《ぎよくだう》の御茶入《おんちやいれ》をかざり、家康卿《いへやすきやう》を請《しやう》じ入《いれ》、相客《あひきやく》に細川玄旨齋《ほそかはげんしさい》、由己法橋《いうきほつけう》、利休居士《りきうこじ》。或時《あるとき》は信雄卿《のぶをきやう》、忠興《たゞおき》、氏郷《うぢさと》、景勝《かげかつ》、羽柴下總守《はしばしもふさのかみ》などに、前波半入《まへなみはんにふ》を加《くは》へ、御茶《おちや》を賜《たまは》りしが、十六七|歳《さい》、二十計《はたちばかり》なる青女房《あをにようばう》に、給仕《きうじ》をさせ、種々《しゆ/″\》の名酒《めいしゆ》を以《もつ》て、數興《すきよう》をつくし、右《みぎ》の若《わか》きばらに杓《しやく》をとらせつゝ、小歌《こうた》を所望《しよまう》せよかしと宣《のたま》ひしを、幸《さいはひ》に半入《はんにふ》さし出《いで》、一|節《ふし》望《のぞ》み侍《はべ》りしに、聲《こゑ》麗《うるは》しく謠《うた》ひ出《いで》しかば、滿座《まんざ》一入《ひとしほ》浮《う》きやかに、長陣《ながぢん》の勞《らう》を奪《うば》はれたるやうに、われからなく見《み》えしを、殿下《でんか》見給《みたま》ひ立《たつ》て踊《をど》れよ/\と仰《おほせ》しかば、四五|人《にん》立《たち》つゝ、手《て》して踊《をど》り侍《はべ》りければ、金《きん》の扇《あふぎ》の匂《にほ》ひいとけやけきを、十|本計《ぽんばかり》取出《とりいだ》したび給《たま》へば、一入《ひとしほ》其《その》しな彌増《いやまし》座中《ざちゆう》薫《くん》じ渡《わた》り。とんとろ/\、とゝろなるかまも、とゝろなる釜《かま》も、湯《ゆ》がたぎる、たぎるやたぎる。とうたひしが、御釜《おかま》の蓋《ふた》も、わきかへり、拍子《ひやうし》を合《あは》するやうになん有《あり》し。寔《まこと》に自然《しぜん》なるべしや。(甫菴太閤記)[#「(甫菴太閤記)」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》は實《じつ》に人心操縱術《じんしんさうじゆうじゆつ》の妙手《めうしゆ》であつた。群集心理《ぐんしゆうしんり》指導《しだう》の達人《たつじん》であつた。如何《いか》に城中《じやうちう》にて、寄手《よせて》の屈托《くつたく》を期待《きたい》するも、人心《じんしん》を倦《う》まざらしめ、人心《じんしん》を新《あら》たにするの技倆《ぎりやう》にかけては、古今無類《ここんむるゐ》の名優《めいいう》だ。秀吉《ひでよし》を對手《あひて》としては、屈托抔《くつたくなど》は、到底《たうてい》出來《でき》ない相談《さうだん》だ。甫菴《ほあん》が『群疑《ぐんぎ》を靜《しづ》め、諸勢《しよぜい》を慰《なぐさ》め、浮《うき》やかにし給《たま》ひし才《さい》には、中々《なか/\》信長公《のぶながこう》も及《およぶ》まじきか。』との言《げん》は、寔《まこと》に適評《てきひやう》だ。群疑《ぐんぎ》を靜《しづ》めとは、家康《いへやす》、信雄《のぶを》、城中内通《じやうちゆうないつう》の風説《ふうせつ》を意味《いみ》する事《こと》だ。
喧嘩《けんくわ》も相手《あひて》を見《み》て、其《そ》の手段《しゆだん》を擇《えら》ばねばならぬ。如何《いか》に籠城《ろうじやう》が、北條《ほうでう》の十八|番《ばん》でも、秀吉《ひでよし》にかけては、恰《あだか》も其《そ》の長技《ちやうぎ》に衝著《しようちやく》したのだ。乃《すなは》ち寄手《よせて》が屈托《くつたく》せざる前《まへ》に、彼等《かれら》自《みづ》から屈托《くつたく》し始《はじ》めた。今《い》ま試《こゝろ》みに六|月附《ぐわつづけ》にて、小田原陣《をだはらぢん》なる榊原康政《さかきばらやすまさ》より、肥後《ひご》熊本《くまもと》なる加藤清正《かとうきよまさ》に答《こた》へたる、書中《しよちゆう》の一|節《せつ》を擧《あ》ぐれば、
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海上《かいじやう》三|萬餘《まんよ》、漕浮時者《こぎうくときは》海上《かいじやう》俄《にはか》に陸地《りくち》に成《な》るかと見《み》え渡候《わたりさふらふ》。又《また》陸地之《りくちの》御陣取《りくちのごぢんどり》、|從[#二]虎口際[#一]《こぐちぎはより》後陣迄者《ごぢんまでは》、厚《あつ》さ廿四五|町《ちやう》、其薄《そのうす》き所《ところ》は、十七八|町《ちやう》、早川湊《はやかはみなと》より東南之《とうなんの》渚《なぎさ》まで、寸地《すんち》尺地之《せきちの》|無[#二]隙間[#一]《すきまなく》、御圍候《おんかこみさふらふ》。去程《さるほど》に旒旗差物《はたさしもの》、色々《いろ/\》樣々《さま/″\》|飜[#レ]風《かぜにひるがへる》有樣《ありさま》、吉野《よしの》龍田《たつた》の花紅葉《はなもみぢ》も、|喩[#レ]之《これにたとふる》|非[#二]物之數[#一]《ものゝかずにあらず》、其繁《そのしげ》き事《こと》は、稻麻竹葦之《たうまちくゐの》喩《たとへ》も、猶《なほ》|難[#レ]及候《およびがたくさふらふ》。敵《てき》味方《みかた》鐵砲之《てつぱうの》音《てつぱうのおと》、晝夜《ちうや》片時《かたどき》も、|無[#二]鳴止間[#一]《なりやむまなく》、數《かず》を揃《そろへ》、打込時《うちこむとき》は、百千|之《の》雷《いかづち》、同時《どうじ》に鳴落歟《なりおつるか》と|被[#レ]疑《うたがはれ》。上者《うへは》有頂《うちやう》、下者《したは》那羅倶之《ならくの》底迄《そこまで》も鳴響歟《なりひゞくか》と驚《おどろき》、敵《てき》味方《みかた》|消[#レ]肝候《きもをけしさふらふ》。城中之《じやうちゆうの》物共《ものども》、殊《こと》に女《をんな》童部《わらべ》、左社《さこそ》啼悲《なきかなしむ》と|令[#二]推量[#一]《すゐりやうせしめ》、哀《あはれ》に候《さふらふ》。
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如上《じよじやう》の記事《きじ》にて、如何《いか》に城中《じやうちゆう》を威嚇《ゐかく》しつゝあるかが、想《おも》ひやらるゝ。
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上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]御陣《ごぢん》は西之《にしの》高山《たかやま》(石垣山)之《の》頂上《ちやうじやう》に、十|丈餘《ぢやうよ》累石《かさねいし》を築《きづき》、箱根山《はこねやま》連《つらなり》|穿[#レ]雲《くもをうがち》、敵城《てきじやう》直下《ましたに》|被[#レ]爲[#二]御覽[#一]候《ごらんなされさふらふ》。御屋形《おんやかた》、造樣之《つくりやうの》廣大成有樣《くわうだいなるありさま》、凡《およそ》聚樂《じゆらく》、大坂《おほさか》に|難[#レ]劣《おとりがたく》相見《あひみ》え候《さふらふ》。其外《そのほか》一|手々々《て/\》|構[#二]陣城[#一]《ぢんしろをかまへ》、天守《てんしゆ》、矢倉《やぐらの》白壁《しらかべ》|耀[#レ]天《てんにかゞやき》、陣屋《ぢんや》/\悉《こと/″\く》塗籠《ぬりこめ》、小路《こうぢ》/\|割[#二]竪横[#一]《たてよこにわり》、陣所《ぢんしよ》は大將之《たいしやうの》意《こゝろ》樂々《らく/\》と相見《あひみ》え候《さふらふ》。或《あるひ》は魚鱗《ぎよりん》、或《あるひ》は鶴翼《かくよく》、|依[#二]山川之地形[#一]《さんせんのちけいにより》、鳥雲《てううん》に|取[#レ]之候《これをとりさふらふ》。如何成《いかなる》強敵《がうてき》も、|可[#レ]敗[#レ]之共《これをやぶるべくとも》|不[#レ]覺候《おぼえずさふらふ》。高廣《かうくわう》として大成《おほいなる》屋形《やかた》も|有[#レ]之《これあり》、細少《さいせう》にて奇麗成《きれいなる》屋形《やかた》も|有[#レ]之《これあり》、|植[#二]松竹[#一]《まつたけをうゑ》|有[#二]草花[#一]《くさばなあり》、好《よき》野菜《やさい》、茄子《なす》、大角豆《さゝげ》、蕪等《かぶらなど》、作所《つくるところ》|有[#レ]之《これあり》。總而《そうじて》色々《いろ/\》植木《うゑき》書院《しよゐん》數寄屋《すきや》、|驚[#レ]目候《めをおどろかしさふらふ》。大道《だいだう》は東西《とうざい》互《たがひ》に十|騎《き》廿|騎《き》往復之《わうふくの》馬足音《うまのあしおと》、物具《もののぐ》の聲《こゑ》、十二|時中《じちゆう》|無[#二]鳴止[#一]候《なりやみなくさふらふ》。
又《また》日本國《にほんこく》より商人《しやうにん》集來《あつまりきたる》と見《み》え、唐土《もろこし》、高麗《こま》の珍物《ちんぶつ》、京《きやう》堺《さかひ》の絹布《けんぷ》、一として|無[#レ]不[#二]賣買[#一]《うりかひせざるなく》、京《きやう》田舍之《ゐなかの》遊女《いうぢよ》|列[#レ]軒《のきをつらねて》|掛[#二]小屋[#一]《こやをかけ》、戸前《とまへ》|成[#レ]市《いちをなす》。扨又《さてまた》御兵粮《おんひやうらう》は千|石《ごく》、二千|石《ごく》の大船《たいせん》一|萬餘艘《まんよそう》、運送而《うんそうして》|無[#二]絶間[#一]之條《たえまなきのでう》、陣中《ぢんちゆう》一|日《にち》も|不[#レ]得[#二]貧事[#一]候《まづしきことをえずさふらふ》。然《しかれば》則《すなはち》|於[#二]御陣中[#一]《ごぢんちゆうにおいて》、|送[#二]生涯[#一]《しやうがいをおくる》とも、|可[#レ]有[#二]退屈[#一]共《たいくつあるべしとも》|不[#レ]覺候《おぼえずさふらふ》。|因[#レ]※[#「玄+玄」、204-12]《これによつて》彌《いよ/\》|勵[#二]勇氣[#一]者也《ゆうきをはげますものなり》。
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此《こ》れは其《そ》の文字《もんじ》が、何《なん》となく北條《ほうでう》五|代記《だいき》と似通《にかよ》うたる點《てん》がある。〔參照 本篇四〇、持久的攻守〕[#「〔參照 本篇四〇、持久的攻守〕」は1段階小さな文字]古今消息集《ここんせうそくしふ》、武家事紀等《ぶけじきとう》、何《いづ》れも康政《やすまさ》が清正《きよまさ》に答《こた》へたる書《しよ》として、出《い》でゝ居《を》るが、果《はた》して然《しか》る乎《か》、否乎《いなか》は姑《しば》らく措《お》き、小田原攻圍軍《をだはらこうゐぐん》の状態《じやうたい》は、正《まさ》しく此《こ》の通《とほ》りであつたと思《おも》はる。乃《すなは》ち一|生涯《しやうがい》を、此《こ》の城下《じやうか》に送《おく》りても、退屈《たいくつ》を覺《おぼ》えずとの氣前《きまへ》なれば、城中《じやうちゆう》が自《おのづ》から退屈《たいくつ》し初《はじ》めたのも、餘儀《よぎ》なき次第《しだい》だ。此《かく》の如《ごと》くして北條方《ほうでうがた》は、先《ま》づ根氣較《こんきくら》べに負《ま》けた。

[#5字下げ][#中見出し]【四二】堀秀政の死[#中見出し終わり]

小田原《をだはら》攻圍中《こうゐちゆう》、秀吉《ひでよし》に取《と》りて、不慮《ふりよ》の大打撃《だいだげき》は、五|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、早川口《はやかはぐち》に於《おい》て、堀秀政《ほりひでまさ》の病死《びやうし》である。彼《かれ》は當時《たうじ》小田原城《をだはらじやう》南部攻撃軍《なんぶこうげきぐん》の總將《そうしやう》であつた。彼《かれ》は僅《わづか》に三十八|歳《さい》の働《はたら》き盛《ざか》りであつた。然《しか》も其《そ》の聲望《せいばう》は、秀吉《ひでよし》の諸將《しよしやう》に冠絶《くわんぜつ》した。秀吉《ひでよし》は北條征服《ほうでうせいふく》、關東《くわんとう》、奧羽平定後《あううへいていご》は、窃《ひそか》に彼《かれ》を此《こ》の方面《はうめん》の雄鎭《ゆうちん》に擬《ぎ》して居《ゐ》た。〔老人雜話〕[#「〔老人雜話〕」は1段階小さな文字]惟《おも》ふに此際《このさい》に此人《このひと》を亡《うしな》うたのは、秀吉《ひでよし》に取《と》りて、一|大不幸《だいふかう》であつた。
彼《かれ》は當時《たうじ》に於《おい》て、名人左衞門《めいじんさゑもん》と呼《よ》ばれ、天下《てんか》の指南《しなん》としても、越度《おちど》あるまじき人《ひと》と稱《しよう》せられた。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は美濃《みの》出身《しゆつしん》にて其《そ》の父《ちゝ》秀重《ひでしげ》は、齋藤家《さいとうけ》の士《し》であつた。秀政《ひでまさ》は實《じつ》に信長《のぶなが》に見出《みいだ》され、信長《のぶなが》に仕立《した》てられ、秀吉《ひでよし》に依《よつ》て大成《たいせい》した。
彼《かれ》の伯父《はくふ》に、一|向宗《かうしゆう》の坊主《ばうず》があつた。信長《のぶなが》は放鷹《はうよう》の際《さい》、恒《つね》に其亭《そのてい》に休憩《きうけい》した。或時《あるとき》僧《そう》は其《そ》の姪《をひ》二|人《にん》を信長《のぶなが》に推薦《すゐせん》した、一|人《にん》は秀重《ひでしげ》の子《こ》久太郎《きうたらう》、他《た》は秀重弟《ひでしげおとうと》の子《こ》三|介《すけ》だ。彼等《かれら》兩人《りやうにん》は、一|人《にん》出世《しゆつせ》すべき者《もの》あらば、他《た》の一|人《にん》は其《そ》の家人《けにん》となる約束《やくそく》をした。久太郎秀政《きうたらうひでまさ》は、其《そ》の夙成《しゆくせい》、俊敏《しゆんびん》の資《し》にて、乍《たちま》ち信長《のぶなが》に信寵《しんちよう》せられた。此《こゝ》に於《おい》て三|介《すけ》は、退《しりぞ》いて秀政《ひでまさ》の家人《けにん》となり、秀政《ひでまさ》に後顧《こうこ》の憂《うれひ》なからしめた。所謂《いはゆ》る監物直政《けんもつなほまさ》とは、三|介《すけ》の事《こと》だ。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]
秀政《ひでまさ》は其《そ》の知勇《ちゆう》の働《はたら》きによりて、信長《のぶなが》より近江《あふみ》長濱《ながはま》の城主《じやうしゆ》とせられた。秀吉《ひでよし》の毛利氏《まうりし》と和《わ》して、光秀《みつひで》と雌雄《しゆう》を決《けつ》す可《べ》く、東歸《とうき》するに際《さい》し、主《しゆ》として之《これ》を賛助《さんじよ》したのは、彼《かれ》と黒田孝高《くろだよしたか》とであつた。されば天正《てんしやう》十一|年《ねん》には、秀吉《ひでよし》より佐和山城《さわやまじやう》を與《あた》へられ、諸將《しよしやう》に先《さきだ》ちて羽柴《はしば》の姓《せい》を許《ゆる》され、左衞門督[#「左衞門督」は底本では「左衛門督」]《さゑもんのかみ》とせられた。而《しか》して天正《てんしやう》十三|年《ねん》には、越前國《ゑちぜんのくに》を賜《たま》ひ、北莊《きたのしやう》に移《うつ》り、廿九萬八百五十|石《こく》を食《は》んだ。其《そ》の中《うち》にて自《みづか》ら領《りやう》したのは、十八萬八百五十|石《こく》で、與力《よりき》たる村上義明《むらかみよしあき》六萬六千|石《ごく》、溝口秀勝《みぞぐちひでかつ》四萬四千|石《ごく》で、彼《かれ》は四|位《ゐ》の侍從《じじゆう》に叙《じよ》せられた。乃《すなは》ち其《そ》の累進《るゐしん》の迅速《じんそく》なる、殆《ほとん》ど他《た》に比類《ひるゐ》がなかつた。
九|州陣《しうぢん》の際《さい》にも、秀政《ひでまさ》は重用《ぢゆうよう》せられ、曾《かつ》て秀政《ひでまさ》を其《そ》の家《いへ》に寄食《きしよく》せしめたる、蒲生氏郷《がまふうぢさと》の如《ごと》きも、彼《かれ》の下知《げち》を聞《き》かねばならぬ仕儀《しぎ》となつた。されば氏郷《うぢさと》は之《これ》を憤慨《ふんがい》して、自殺《じさつ》せん乎《か》、遁世《とんせい》せん乎《か》と煩悶《はんもん》したが、恰《あだか》も岩石城《がんじやくじやう》攻撃《こうげき》の好機《かうき》に投《とう》じ、氏郷《うぢさと》は必死《ひつし》を分《ぶん》として、殊勳《しゆくん》を奏《そう》したと云《い》ふ説《せつ》もある。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]その當否《たうひ》は問題外《もんだいぐわい》として、秀政《ひでまさ》が諸將《しよしやう》に抽《ぬき》んでゝ、秀吉《ひでよし》より、大處《たいしよ》に大用《たいよう》せられたる事實《じじつ》は、一|點《てん》の疑《うたがひ》がない。
彼《かれ》は如何《いか》なる人物《じんぶつ》であつた乎《か》。今《い》ま其《そ》の片鱗《へんりん》を示《しめ》せば、北莊城《きたのしやうじやう》修築《しうちく》の際《さい》、其《そ》の弟《おとうと》多賀出雲守《たがいづものかみ》の措置《そち》宜《よろ》しきを得《え》ぬとて、痛《いた》く之《これ》を詰責《きつせき》した。多賀《たが》は之《これ》を口惜《くちを》しき事《こと》に思《おも》ひ、その翌朝《よくてう》仕《し》を致《いた》して北莊《きたのしやう》を去《さ》つた。秀政《ひでまさ》は之《これ》を聞《き》き、途中《とちゆう》不便《ふべん》多《おほ》からんとて、人《ひと》を馳《は》せて、黄金《わうごん》十|枚《まい》を餞《はなむ》けとした。而《しか》して其《そ》の黄金《わうごん》を包《つゝ》みたる紙《かみ》を、一|枚毎《まいごと》に、自《みづ》から皺《しわ》をのして箱《はこ》に納《をさ》めつゝ、其《そ》の近侍《きんじ》に語《かた》りて曰《いは》く、凡《およ》そ財《ざい》を用《もち》ふ可《べ》きに當《あた》りては、十|枚《まい》の黄金《わうごん》も愛《を》しむに足《た》らず、無用《むよう》の事《こと》ならんには、此紙《このかみ》十|枚《まい》も濫《みだ》りに費《つひや》す可《べ》からず。我《われ》を鄙吝《ひりん》を思《おも》ふ勿《なか》れと。〔藩翰論〕[#「〔藩翰論〕」は1段階小さな文字]如何《いか》にも其人《ひとひと》の面影《おもかげ》が、あり/\と映《えい》ずるではない乎《か》。
小田原《をだはら》の役《えき》には、彼《かれ》は先《ま》づ人《ひと》を遣《つか》はして、伊豆《いづ》、相模《さがみ》、駿河《するが》、遠江《とほたふみ》に於《おい》て、牛《うし》を數《す》十|頭《とう》買《か》ひ集《あつ》めた。秀吉《ひでよし》箱根《はこね》の險路《けんろ》に掛《かゝ》る時《とき》、秀政《ひでまさ》は牛《うし》を以《もつ》て輜重《しちよう》を輸送《ゆそう》せしめた。或夜《あるよ》風雨《ふうう》劇《はげ》しかつたが、秀政《ひでまさ》は其《そ》の部下《ぶか》を警《いま》しめて曰《いは》く、今夜《こんや》必《かな》らず盜《たう》あらむ。我《わ》が士卒《しそつ》の馬《うま》、鞍《くら》、兵粮等《ひやうらうとう》を、盜人《ぬすびと》に與《あた》へんよりも、其《そ》の油斷《ゆだん》を窺《うかが》ひ、及公《だいこう》自《みづ》から之《これ》を取《と》らんと。士卒《しそつ》之《これ》を聞《き》きて、巡邏《じゆんら》怠《おこた》らず、他陣《たぢん》皆《み》な遭《あ》ふ、秀政《ひでまさ》の陣《ぢん》獨《ひと》り無難《ぶなん》であつた。〔武將感状記〕[#「〔武將感状記〕」は1段階小さな文字]
彼《かれ》は人《ひと》を用《もち》ふるに妙《めう》を得《え》、善《よ》く下《しも》の情《じやう》を盡《つく》すを專要《せんえう》とした。曾《かつ》て奉行《ぶぎやう》の從者《ずさ》と、荷《に》を持《も》つ者《もの》と、互《たがひ》に輕重《けいぢゆう》を爭《あらそ》ふを見《み》、自《みづ》から之《これ》を負《お》うて往來《わうらい》し、我力《わがちから》は彼《かれ》よりも優《まさ》れり、然《しか》も其《そ》の重《おも》きに勝《た》へず、持《も》つ事《こと》能《あた》はざるは、尤《もつと》もなりと判決《はんけつ》した。或時《あるとき》武者押《むしやおし》に旗差《はたさし》後《おく》れたりけるを咎《とが》めけるが、秀政《ひでまさ》自《みづ》から旗《はた》を負《お》うて試《こゝろ》み、偖《さて》は我《わが》乘《の》りたる馬《うま》の駻《かん》良《よ》き故《ゆゑ》ならんとて、駻《かん》弱《よわ》き馬《うま》に乘《の》りたれば、旗差《はたさし》後《おく》れ無《な》かつた。〔常山紀談〕[#「〔常山紀談〕」は1段階小さな文字]
是等《これら》は彼《かれ》が拔群《ばつぐん》の才智《さいち》の閃《ひらめ》きの斷片《だんぺん》に過《す》ぎぬ。彼《かれ》が大器《たいき》として、秀吉《ひでよし》の建設事業《けんせつじげふ》に貢献《こうけん》したのは、必《かな》らず他《た》に存《そん》す可《べ》きだ。然《しか》も機事《きじ》は密《みつ》ならざれば成《な》らず、何人《なんびと》も之《これ》を知《し》り得《う》るものはない。但《た》だ彼《かれ》にして若《も》し今後《こんご》二十|年《ねん》を長《なが》くせば、豐臣氏《とよとみし》の末期《まつき》は、恐《おそ》らくは異《ことな》りたる經路《けいろ》を取《と》つたであらう。少《すくな》くとも彼《かれ》は其《そ》の大器《たいき》たるに於《おい》て、秀吉《ひでよし》諸將中《しよしやうちゆう》の第《だい》一|流《りう》であつた、彼《かれ》は信長《のぶなが》に出身《しゆつしん》したる最少壯者《さいせうさうしや》にして、云《い》はゞ信長學校《のぶながかくかう》の初等生《しよとうせい》だが、其《そ》の實《じつ》は信長《のぶなが》、秀吉《ひでよし》の兩學校《りやうがくかう》の優等生《いうとうせい》とも云《い》ふ可《べ》かりし樣《やう》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四三】攻守兩軍の士氣[#中見出し終わり]

扨《さて》も小田原《をだはら》攻守《こうしゆ》の状態《じやうたい》に就《つい》ては、互《たが》ひに滿《まん》を持《ぢ》して、他《た》の困疲《こんぴ》を持《ま》つのみであつたが、五|月《ぐわつ》三|日《か》、太田氏房《おほたうぢふさ》は、城中《じやうちゆう》の士氣《しき》を振作《しんさ》す可《べ》く、夜襲《やしふ》を企《くはだ》て、氏直《うぢなほ》の許可《きよか》を得《え》て、之《これ》を其《そ》の士《し》廣澤重信《ひろさはしげのぶ》に命《めい》じた。重信《しげのぶ》は騎士《きし》百|人《にん》を選拔《せんばつ》し、之《これ》を前後《ぜんご》二|隊《たい》に分《わか》ち、前隊《ぜんたい》には卒《そつ》二百|人《にん》を附《ふ》し、夜半《やはん》久野口《くのぐち》を出《い》でゝ、先《ま》づ寄手《よせて》の斥候《せきこう》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》の隊士《たいし》町野萬右衞門《まちのまんゑもん》を驅逐《くちく》し、氏郷《うぢさと》及《およ》び信雄《のぶを》の營《えい》を襲《おそ》うた。彼等《かれら》は鐵鈎《てつこう》もて柵《さく》を破《やぶ》り、營中《えいちゆう》に闖入《ちんにふ》した。信雄《のぶを》の部將《ぶしやう》土方雄久《ひぢかたたかひさ》、氏郷《うぢさと》の部將《ぶしやう》蒲生郷就《がまふさとなり》、田丸具安《たまるともやす》、町野幸和《まちのゆきかづ》、關一政等《せきかずまさら》撃《うつ》て之《これ》を郤《しりぞ》け、氏郷《うぢさと》亦《ま》た親《みづか》ら長槍《ちやうさう》を揮《ふる》ひ、追《お》うて城門《じやうもん》に至《いた》つた。
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氏郷《うぢさと》の手《て》の者《もの》、若干《じやくかん》討死《うちじに》し、飛騨守《ひだのかみ》(氏郷)[#「(氏郷)」は1段階小さな文字]も胸板《むないた》の下《した》に、三四ヶ|所《しよ》槍疵《やりきず》を負《お》ひ、十|文字《もんじ》の槍《やり》の柄《え》も、五ヶ|所迄《しよまで》切込《きりこま》れ、鯰尾《なまづを》の兜《かぶと》にも、矢《や》二|筋《すぢ》を射立《いたて》られ、良《まこと》に烈《はげ》しき執合《とりあひ》なり。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
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其《そ》の激戰《げきせん》想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。而《しか》して氏郷《うぢさと》の武勇《ぶゆう》亦《ま》た想《おも》ひ見《み》る可《べ》しだ。
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其夜《そのよ》氏郷《うぢさと》に先達《せんだつ》て、佃又右衞門《つくだまたゑもん》素肌《すはだ》にて驅出《かけいで》、敵兵《てきへい》と槍《やり》を合《あは》せたり。然《しか》るを氏郷又右衞門《うぢさとまたゑもん》に向《むか》ひ、汝《なんぢ》平日《ひごろ》の心掛《こゝろがけ》に違《たが》はず、疇昔《ちうせき》の翔《かけり》、神妙《しんめう》なり。爾《さり》ながら夜前《やぜん》は俄《にはか》の事《こと》なりし故《ゆゑ》、汝《なんぢ》も聊《いさゝか》狼狽《うろたへ》しにや、槍《やり》の鞘《さや》を迯《はづ》さず突合《つきあひ》たりと見受《みうけ》たるはと申《まを》されければ、佃《つくだ》聞《きゝ》て如何《いか》にも御眼力《ごがんりき》の及《およ》びし通《とほ》りにてこそ候《さふら》へ。昨日《さくじつ》は天氣《てんき》曇《くも》りしまゝ、晩景《ばんけい》に雨鞘《あまざや》を懸《か》け置侍《おきはべ》りしを、大急《たいきふ》の事故《ことゆゑ》其《そ》の儘《まゝ》にて提《ひつさ》げ出《いで》、迯《はづ》し敢《あ》へず勝負《しようぶ》に掛《かゝ》り申《まを》すと答《こた》へしかば、氏郷《うぢさと》事《こと》の外《ほか》の機色《きしよく》にて、又右衞門[#「又右衞門」は底本では「又右衛門」]《またゑもん》は正直《しやうぢき》なる男《をのこ》なり。普通《ふつう》の者《もの》ならば、雨鞘《あまざや》かけたりとは云《い》ふべからず、實《じつ》に經庭《けいてい》の士《し》なりと譽《ほめ》られけり。佃《つくだ》は又《また》同僚等《どうれうら》に申《まをし》けるは、空《そら》曇《くも》ればとて、雨鞘《あまざや》を懸《か》けては、武前《ぶぜん》に出《いづ》べき樣《やう》なしとは云《い》へ共《ども》、大將《たいしやう》の眼力《がんりき》にて正《まさ》しく見《み》たりと宣《のたま》ふを、左《さ》にあらずと云《い》はんは、自己《じこ》の功《こう》を立《た》つに似《に》て、全《まつた》く手柄《てがら》に成《な》り難《がた》きまゝ、其分《そのぶん》に會釋《ゑしやく》したりと語《かた》りしとぞ。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れにて當時《たうじ》の武者《むしや》は、案外《あんぐわい》淡白《たんぱく》一|徹《てつ》の者《もの》でなく、隨分《ずゐぶん》一|筋繩《すぢなは》にて行《ゆ》かぬ代物《しろもの》である※[#こと、212-1]が判知《わか》る。佃《つくだ》は渡《わた》り者《もの》にて、後《のち》に福島正則《ふくしままさのり》に仕《つか》へたが、耶蘇教《やそけう》の熱心《ねつしん》なる信者《しんじや》にて、遂《つ》ひに死刑《しけい》に處《しよ》せられたと云《い》ふ事《こと》ぢや。
秀吉《ひでよし》は小田原陣中《をだはらぢんちゆう》にありて、少《すくな》からざる朝廷《てうてい》の優遇《いうぐう》を忝《かたじけな》くした。四|月《ぐわつ》十七|日《にち》には、正親町上皇《あふぎまちじやうくわう》には、妙法院常胤親王《めうほふゐんじやういんしんわう》に、勅《ちよく》して、宮中《きゆうちゆう》に秀吉《ひでよし》の戰捷《せんせふ》を祈《いの》らしめ給《たま》うた。同《どう》二十三|日《にち》より、御陽成天皇《ごやうぜいてんわう》には、聖護院道澄《しやうごゐんだうてう》に勅《ちよく》して、清涼殿《せいれうでん》に、秀吉《ひでよし》の戰捷《せんせふ》を祈《いの》らしめ給《たま》ふこと、七|日《か》に亙《わた》つた。
五|月《ぐわつ》二|日《か》には、勅使《ちよくし》權大納言《ごんだいなごん》勸修寺晴豐《ごんしうじはるとよ》を、小田原《をだはら》に遣《つか》はし、秀吉《ひでよし》に宸翰《しんかん》、及《およ》び物《もの》を賜《たま》ふ可《べ》く、出發《しゆつぱつ》せしめられた。右大臣《うだいじん》菊亭晴季《きくていはるすゑ》、權大納言《ごんだいなごん》中山親綱《なかやまちかつな》、烏丸光宣等《からすまるみつのぶら》も同行《どうかう》した。彼等《かれら》は六|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》に歸京《ききやう》して復命《ふくめい》した。
五|月《ぐわつ》七|日《か》には、秀吉《ひでよし》愈《いよい》よ淀《よど》の物《もの》―其妾《そのせう》淺井氏《あさゐし》―を招《まね》いた。〔參照 本篇四〇、持久的攻守〕[#「〔參照 本篇四〇、持久的攻守〕」は1段階小さな文字]然《しか》るに彼女等《かれら》が東下《とうか》して、足柄《あしがら》の關《せき》を過《す》ぎんとするや、關守《せきもり》植村正勝《うゑむらまさかつ》、其《そ》の何人《なんびと》たるを知《し》らず、之《これ》を抑留《よくりう》し、是《こ》れが爲《た》めに彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の瞋《いかり》に觸《ふ》れ、其《そ》の采地《さいち》を沒收《ぼつしう》せられたる、滑稽談《こつけいだん》があつた。
斯《かゝ》る長陣《ながぢん》の際《さい》には、種々《しゆ/″\》の逸話《いつわ》が發生《はつせい》するは、必然《ひつぜん》の事《こと》だ。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》が茶《ちや》の湯《ゆ》の會《くわい》を催《もよほ》し、諸將《しよしやう》を饗《きやう》したる天正菴《てんしやうあん》の趾《あと》は、今尚《いまな》ほ根府川附近《ねぶがはふきん》近江《きんえ》ノ浦《うら》の村民《そんみん》の庭中《ていちゆう》に、濶《ひろ》さ方《はう》二|間《けん》の礎石《そせき》がある。彼《かれ》は此處《こゝ》に悠然《いうぜん》として、世外《せぐわい》の一|閑客《かんかく》の如《ごと》くして、却《かへ》つて驚天駭地《きやうてんがいち》の大計企《だいけいき》を案出《あんしゆつ》しつゝあつたであらう。
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其比《そのころ》蒲生氏郷《がまふうぢさと》、忠興君《たゞおきぎみ》、御同道《ごどうだう》にて、高山右近太夫《たかやまうこんだいふ》長房《ながふさ》陣所《ぢんしよ》へ御見舞《おんみまひ》|被[#レ]成候《なされさふらふ》に、高山《たかやま》は元來《ぐわんらい》吉利支丹《きりしたん》なれば、牛《うし》を求置《もとめおき》て、振廻《ふるまは》れしが、一|段《だん》珍敷《めづらしき》風味《ふうみ》なりとて、度々《たび/\》御尋相成候《おたづねあひなりさふらふ》。〔細川忠興家譜〕[#「〔細川忠興家譜〕」は1段階小さな文字]
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高山《たかやま》は有名《いうめい》なる耶蘇者《やそしや》であると同時《どうじ》に、有名《いうめい》なる茶《ちや》の湯者《ゆしや》であつた。忠興《たゞおき》、氏郷《うぢさと》も斯道《このみち》にかけては、同好《どうかう》の徒《と》であれば、彼等《かれら》が陣中《ぢんちゆう》の徒然《つれ/″\》を慰《なぐさ》む可《べ》く、互《たが》ひに往來《わうらい》したのは、不思議《ふしぎ》はあるまい。併《しか》し牛肉《ぎうにく》の饗應《きやうおう》の目的《もくてき》に、高山《たかやま》訪問《はうもん》は、是亦《これま》た一|段《だん》の逸話《いつわ》である。
又《ま》た或時《あるとき》秀吉《ひでよし》の本陣《ほんぢん》に能《のう》を催《もよほ》しつゝありしに、宇喜多秀家《うきたひでいへ》の部將《ぶしやう》花房職之《はなぶさのりゆき》は、冑《かぶと》も脱《ぬ》がず、馬上《ばじやう》にて其前《そのまへ》を押《お》し通《とほ》らんとしたるに、番人《ばんにん》之《これ》を咎《とが》めければ、彼《かれ》は大聲《たいせい》にて罵《のゝし》りて申《まを》す樣《やう》、戰場《せんぢやう》にて能《のう》を催《もよほ》して遊《あそ》ぶ樣《やう》なる戯氣《たはけ》たる大將《たいしやう》に、下馬《げば》す可《べ》きかはと、其《そ》の儘《まゝ》驅《か》け通《とほ》つた。秀吉《ひでよし》之《これ》を聞《き》いて秀家《ひでいへ》を召《め》し、其者《そのもの》を縛首《しばりくび》にせよと命《めい》じた。須臾《しゆゆ》にして秀家《ひでいへ》を呼《よ》び反《かへ》して曰《いは》く、剛直《がうちよく》の士《さむらひ》だ、先《ま》づ切腹《せつぷく》申付《まをしつ》けよと。須臾《しゆゆ》にして又《ま》た秀家《ひでいへ》を呼《よ》び反《かへ》して曰《いは》く、乃及公《だいこう》に對《たい》して、斯《かゝ》る大言《たいげん》を吐《は》くは、天晴《あつぱれ》大剛《たいがう》の士《さむらひ》だ。斯《かゝ》る士《さむらひ》を殺《ころ》さんは惜《を》しき事《こと》だ、命《いのち》を助《たす》け、加増《かぞう》して使《つか》へと。〔名將言行録〕[#「〔名將言行録〕」は1段階小さな文字]斯《かゝ》る話《はなし》は、其《そ》の眞否《しんぴ》を穿鑿《せんさく》する迄《まで》もなく、只《た》だ當時《たうじ》に於《お》ける秀吉《ひでよし》の心意氣《こゝろいき》を察《さつ》するに、恰當《かうたう》の資料《しれう》であると思《おも》はる。兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》は、人心洗濯《じんしんせんたく》の術《じゆつ》を解《かい》して居《ゐ》た。乃《すなは》ち小田原陣《をだはらぢん》の勝利《しやうり》は、軍略以上《ぐんりやくいじやう》、此術《このじゆつ》の賜《たまもの》である。
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[#6字下げ]陣中驩興
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又五月雨は日を累ね止もやらず、總陣何共無う困れ果たる樣に、秀吉公ほの聞給ふて早歌を謠ひ、踊をかけ引つくし給ひしかば、上下の氣浮やかに新しく成て、幾年を經る共、いかでか勞せんやと、此處も彼處も罵り出にけり。或時は數寄屋をあらましう圍ひなし、橋立の御壺、玉堂の御茶入を飾り、家康卿を請じ入、相客に細川玄旨齋、由己法橋、利休居士、或時は信雄卿、忠興、氏郷、景勝、羽柴下總守などに、前波半入を加へ、御茶を賜りしが、十六七歳二十計なる青女房に給仕をせさせ、種々の名酒を以て數興を盡し、右の若き輩に杓を執らせつゝ、小唄を所望せよかしと宣ひしを幸に、半入差出、一ト筋望み侍りしに、聲麗はしく謠ひ出しかば、滿座一入浮やかに長陣の勞を奪れたる樣に、われから無く見えしを、殿下見給ひ、立て踊れよ々々々と仰せしかば、四五人立つゝ手して踊り侍りければ、金の扇の匂ひ最けやけきを十本計取出給び玉へば、一入其しな彌増、座中薫し渡りトンドロ々々々々、トドロナル釜モ、トドロナル釜モ、湯ガタギル、タギルヤタギルと謠ひしが、御釜の葢も湧き返へり、拍子を合する樣になん有し、寔に自然なるべしや。〔太閤記〕
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