第八章 伊達政宗の態度
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第八章 伊達政宗の態度[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四四】伊達政宗の兵略と外交[#中見出し終わり]

姑《しば》らく小田原城《をだはらじやう》より、眼《まなこ》を東北方面《とうほくはうめん》に轉《てん》ぜしめよ。横著者《わうちやくもの》の標本《へいほん》とも云《い》ふ可《べ》き伊達政宗《だてまさむね》も、形勢觀望《けいせいくわんばう》、狐疑《こぎ》百|端《たん》であつたが、雪《ゆき》に降《ふ》り積《つも》れたる熊《くま》が、居《ゐ》たゝまらず、遂《つ》ひに人里《ひとざと》にのそり/\と出《い》で來《きた》つたが如《ごと》く、小田原迄《をだはらまで》出掛《でか》けて來《き》た。今《い》ま少《すこ》しく其《そ》の來歴《らいれき》に就《つい》て語《かた》らねばならぬ。
伊達《だて》は北條《ほうでう》に比《ひ》すれば、其《そ》の境土《きやうど》偏小《へんせう》にして、其《そ》の勢力《せいりよく》微少《びせう》であつたが、彼《かれ》は老衰國《らうすゐこく》であり、此《これ》は新興國《しんこうこく》であつた。其《そ》の血《ち》の廻《めぐ》りの頗《すこぶ》る迅《はや》く、且《か》つ鋭《するど》かつたことは、とても東奧《とうあう》の田舍漢《でんしやかん》に期待《きたい》せらる可《べ》きではなかつた。乃《すなは》ち上國《じやうこく》の喰《く》へぬ代物《しろもの》でも、とても彼程《かれほど》に眼快手利《がんくわいしゆり》ではなかつた。彼《かれ》は一|方《ぱう》に四|隣《りん》を征服《せいふく》して、頻《しき》りに其《そ》の領域《りやうゐき》を擴張《くわくちやう》しつゝ、他方《たはう》に油斷《ゆだん》なく、拔目《ぬけめ》なく、周邊《しうへん》の事情《じじやう》を偵察《ていさつ》し、機宜《きぎ》の措置《そち》を誤《あやま》らなかつた。乃《すなは》ち彼《かれ》の強點《きやうてん》は、兵力《へいりよく》と外交《ぐわいかう》の二|點《てん》で、若《も》し何《いづ》れかと云《い》へば、寧《むし》ろ外交《ぐわいかう》に於《おい》て、最《もつと》も其《そ》の長技《ちやうぎ》を現《あら》はした。
織田《おだ》、徳川抔《とくがはなど》との交通《かうつう》は、政宗《まさむね》の父《ちゝ》輝宗時代《てるむねじだい》からであつた。〔參照 本篇一一、伊達氏の外交〕[#「〔參照 本篇一一、伊達氏の外交〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は十八|歳《さい》(天正十二年九月廿八日)[#「(天正十二年九月廿八日)」は1段階小さな文字]にて家督《かとく》を相續《さうぞく》し、其《そ》の翌《よく》十三|年《ねん》十|月《ぐわつ》八|日《か》、其《そ》の父《ちゝ》輝宗《てるむね》を亡《うしな》うた。輝宗《てるむね》の死《し》は、實《じつ》に意外《いぐわい》でもあり、悲慘《ひさん》でもあつた。序《つい》でながら、今《い》ま少《すこ》しく其《そ》の始末《しまつ》を語《かた》るであらう。
始《はじ》め二|本松城主《ほんまつじやうしゆ》畠山義繼《はたけやまよしつぐ》、力《ちから》窮《きゆう》して降《かう》を乞《こ》ふ、政宗《まさむね》は南杉田川《みなみすぎたがは》を限《かぎ》り、北油井川《きたゆゐがは》を境《さかひ》とし、人質《ひとじち》を出《いだ》し謝罪《しやざい》せよと云《い》うた。義繼《よしつぐ》は斯《かゝ》る苛酷《かこく》の條件《でうけん》では、自立《じりつ》の道《みち》無《な》しとて、群臣《ぐんしん》と評議《ひやうぎ》した。其《そ》の臣《しん》新國彈正《にひくにだんじやう》曰《いは》く、寧《むし》ろ詐《いつは》り降《くだ》りて、政宗《まさむね》父子《ふし》の内《うち》一|人《にん》を捕《とら》へ、計《はかりごと》を爲《な》さんにはと。因《よ》りて此《こ》の獻策《けんさく》を採用《さいよう》し、天正《てんしやう》十三|年《ねん》十|月《ぐわつ》七|日《か》の夜《よ》、義繼《よしつぐ》は輝宗《てるむね》、政宗《まさむね》父子《ふし》に謁《えつ》し、翌《よく》八|日《か》、伊達成實《だてなりざね》の取次《とりつぎ》を以《もつ》て、彼《かれ》は輝宗《てるむね》に其《そ》の寛裕《くわんゆう》の恩《おん》を謝《しや》す可《べ》く、宮森城《みやもりじやう》に赴《おもむ》いた。輝宗《てるむね》は之《これ》を引見《いんけん》した。此迄《これまで》は無事《ぶじ》であつた。然《しか》るに義繼《よしつぐ》の辭《じ》し去《さ》るに際《さい》し、輝宗《てるむね》の之《これ》を送《おく》りて門《もん》に至《いた》るや、意外《いぐわい》の變《へん》は突發《とつぱつ》した。
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御門送《ごもんおくり》に御立候《おんたちさふらふ》、内《うち》にて|御禮被[#レ]成候《おんれいなされさふらふ》。其《その》左右《さいう》には御内衆《おんないしゆう》居組候《ゐくみさふらふ》ゆゑ、捕申事《とらへまをすこと》も|不[#レ]成候哉《ならずさふらふや》。表《おもて》の庭迄《にはまで》御門送《ごもんおくり》に御出候《おんいでさふらふ》に、兩方《りやうはう》竹《たけ》から垣《かき》にて、御脇《おんわき》を|可[#レ]通樣《とほるべきやう》も|無[#レ]之《これなく》、つまり候所《さふらふところ》にて、|御禮被[#レ]成候《おんれいなされさふらふ》。義繼《よしつぐ》手《て》を地《ち》に突《つき》、今度《このたび》色々《いろ/\》御馳走《ごちそう》過分《くわぶん》に候處《さふらふところ》に、我等《われら》を|生害可[#レ]被[#レ]成由《しやうがいなさるべきよし》承候由《うけたまはりさふらふよし》にて、輝宗公《てるむねこう》の御胸《おむね》の召物《めしもの》を、左《ひだり》の手《て》にとらへ、右《みぎ》にて脇差《わきざし》御拔候《おんぬきさふらふ》。兼《かね》て申合候哉《まをしあはせさふらふか》、義繼供《よしつぐとも》の衆《しゆう》、近居候《ちがづきをりさふらふ》者共《ものども》七八|人《にん》御後《おんあと》に廻《まは》り、上野《かうづけ》(伊達上野)[#「(伊達上野)」は1段階小さな文字]も、我等《かれら》(伊達成實)[#「(伊達成實)」は1段階小さな文字]も、御先《おんさき》へは|不[#レ]通《とほらず》、御後《おんうしろ》に居申候間《をりまをしさふらふあひだ》を、押隔《をしへだて》引立候間《ひきたてさふらふあひだ》、|可[#レ]仕樣《つかまつるべきやう》も|無[#レ]之《これなく》、門《もん》を立候《たてさふら》へと呼候《よびさふら》へ共《ども》、|立會不[#レ]申候間《たちあひまをさずさふらふあひだ》、御跡《おんあと》をしたひ參候《まゐりさふらふ》。小濱《をはま》(政宗陣所)[#「(政宗陣所)」は1段階小さな文字]より出候衆《いでさふらふしゆう》は武具《もののぐ》に早打仕候《はやうちつかまつりさふらふ》。宮森《みやもり》(輝宗陣所)[#「(輝宗陣所)」は1段階小さな文字]より出候衆《いでさふらふしゆう》は、武具《ものゝぐ》も|不[#二]著合[#一]《きあはせず》、多分《たぶん》素肌《すはだ》にて、呆《あき》れたる躰《さま》にて取卷申《とりまきまをし》、高田《たかだ》と申處迄《まをすところまで》、十|里餘《りあまり》參候《まゐりさふらふ》。〔伊達日記」[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れ現場《げんぢやう》に居合《ゐあは》せたる、否《いな》な此《こ》の悲劇《ひげき》の一|部《ぶ》に、意外《いぐわい》にも參加《さんか》したる伊達成實《だてなりざね》の所記《しよき》にして、草卒《さうそつ》、狼狽《らうばい》の状《じやう》、睹《み》る如《ごと》くである。
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政宗公《まさむねこう》は、御鷹野《おたかの》へ|御出[#二]被成、被[#二]聞召[#一]《おいでなされきこしめされ》御歸候《おかへりさふらふ》。二|本松衆《ほんまつしゆう》半澤源内《はんざはげんない》、月館《つきだて》持候《もちさふらふ》遊佐孫《ゆさまご》九|郎《らう》、弓《ゆみ》を持候《もちさふらふ》。其外《そのほか》拔刀《ばつたう》にて、輝宗公《てるむねこう》を取籠參候《とりこめまゐりさふらふ》。然所《しかるところ》に取卷參候《とりまきまゐりさふらふ》味方《みかた》の内《うち》より、鐵砲《てつぱう》一つ打候《うちさふらふ》に付《つき》、誰《たれ》下知《げち》ともなく總勢《そうぜい》懸《かゝ》り、二|本松衆《ほんまつしゆう》五十|人餘《にんよ》、一|人《にん》も|不[#レ]殘《のこらず》打殺候《うちこころしさふらふ》。輝宗公《てるむねこう》も|御生害被[#レ]成《ごしやうがいなされ》、政宗公《まさむねこう》も、其夜《そのよ》は高田《たかだ》へ|御出馬被[#レ]成候《ごしゆつばなされさふらふ》。〔伊達日記〕[#「〔伊達日記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは極《きは》めて婉曲《ゑんきよく》に書《か》いてあるが、恐《おそ》らくは政宗《まさむね》が鷹野《たかの》より驅《か》け付《つ》け、此《こ》の状態《じやうたい》を見《み》て、玉石《ぎよくせき》倶《とも》に焚《やく》の決心《けつしん》で、發砲《はつぱう》せしめたのであらう。左《さ》なくも、少《すくな》くとも政宗《まさむね》が、其場《そのば》に來《きた》り合《あは》せた爲《た》めに、斯《かゝ》る果斷《くわだん》の措置《そち》が出《い》で來《きた》つたのであらう。言外《げんぐわい》に於《おい》て、其《そ》の意味《いみ》を諒解《れうかい》す可《べ》きぢや。
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政宗《まさむね》|遊[#二]畋小濱[#一]《をはまにいうでんす》、|聞[#レ]變《へんをきゝ》驟《にはかに》|馳[#レ]騎《きをはせて》|追[#レ]之《これをおふ》、然《しかも》|不[#レ]及《およばず》、|過[#二]十五里[#一]《じふごりをすぎ》、|抵[#二]逢隈川北畔平石[#一]《あぶくまがはのほくはんひらいしにいたり》、|踰[#レ]水《みづをこえて》追及《おひおよぶ》、而《しかして》謂《いふ》渠《かれ》設《もし》|入[#レ]城《しろにいらば》、則《すなはち》悔《くゆるも》|不[#レ]及《およばず》、|與[#レ]父《ちゝと》|可[#二]戮撃[#一]《あはせうつべしと》。|命[#二]銃手[#一]《じゆうしゆにめいじて》、縱射《じゆうしや》殆《ほとんど》急《きふなり》。義繼《よしつぐ》心術《しんじゆつ》窮盡《きゆうじん》、|提[#二]輝宗[#一]《てるむねをひつさげ》、|上[#二]權現谷地高阜[#一]《ごんげんたにのちかうふにのぼり》、|刺[#二]殺輝宗[#一]而《てるむねをせきさつして》自殺《じさつす》。政宗《まさむね》震怒《しんどして》、|鏖[#二]殺從者[#一]《じゆうしやをあうさつし》、|不[#レ]免[#二]一人[#一]《いちにんをゆるさず》。政宗《まさむね》|不[#レ]耐[#二]憤怒[#一]《ふんどにたへず》、|索[#二]義繼屍體[#一]《よしつぐのしたいをもとめ》、以《もつて》彌縫《びほう》|掛[#レ]磔《はりつけにかけ》、以《もつて》|唱[#レ]衆《しゆうにとなふ》、輝宗《てるむね》時《ときに》年《とし》四十二。〔野史〕[#「〔野史〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは前者《ぜんしや》に比《ひ》すれば、頗《すこぶ》る露骨《ろこつ》の筆法《ひつぱふ》だ。然《しか》も事實《じじつ》は恐《おそ》らく此通《このとほ》りであつたらう。或《あるひ》は政宗《まさむね》の追及前《つゐきふぜん》に輝宗《てるむね》は殺《ころ》された。或《あるひ》は輝宗《てるむね》が政宗《まさむね》を顧《かへり》みて、命數《めいすう》既《すで》に盡《つ》きた、速《すみや》かに予《われ》と共《とも》に義繼《よしつぐ》を併《あは》せ撃《う》てと云《い》うたとの説《せつ》〔藩祖成績、藩祖實録〕[#「〔藩祖成績、藩祖實録〕」は1段階小さな文字]の如《ごと》きは、伊達氏《だてし》の臣下《しんか》が、其主《そのしゆ》の爲《た》めに、特《とく》に囘護《くわいご》の言《げん》を作《つく》つたものであらう。

[#5字下げ][#中見出し]【四五】政宗、北條、及び秀吉[#中見出し終わり]

政宗《まさむね》は十九|歳《さい》にして、其父《そのちゝ》を亡《うしな》ひ、全《まつた》く獨裁《どくさい》の主將《しゆしやう》として、奧羽《あうう》の間《あひだ》に雄視《ゆうし》した。其《そ》の蘆名氏《あしなし》を滅《ほろぼ》し、義廣《よしひろ》を追《お》うたる顛末《てんまつ》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。〔參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡〕[#「〔參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡〕」は1段階小さな文字]されば吾人《ごじん》は、寧《むし》ろ征戰《せいせん》の方面《はうめん》よりも、外交《ぐわいかう》の方面《はうめん》に就《つい》て語《かた》るであらう。
政宗《まさむね》の本意《ほんい》は、先《ま》づ北條氏《ほうでうし》と提携《ていけい》して、其《そ》の上國《じやうこく》への出口《でぐち》たる佐竹氏《さたけし》を退治《たいぢ》するにあつた。然《しか》も北條氏《ほうでうし》の背後《はいご》には、徳川家康《とくがはいへやす》があり、家康《いへやす》の背後《はいご》には、秀吉《ひでよし》があつた※[#こと、221-3]を、忘却《ばうきやく》しなかつた。彼《かれ》は北條氏《ほうでうし》と好《よしみ》を通《つう》ずると同時《どうじ》に、徳川《とくがは》とも好《よしみ》を通《つう》じた。而《しか》して秀吉《ひでよし》の旭日昇天《きよくじつせうてん》の運星《うんせい》をも、恒《つね》に驚異《きやうい》の眼《まなこ》をもて注視《ちゆうし》した。されば彼《かれ》の音問使者《いんもんししや》は、恒《つね》に上國《じやうこく》に往來《わうらい》が絶《た》へなかつた。
彼《かれ》は秀吉《ひでよし》と消息《せうそく》を通《つう》ずるには、先《ま》づ秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》の諒解《れうかい》を得《う》るを、先務《せんむ》をする※[#こと、221-7]を看取《かんしゆ》した。彼《かれ》は前田利家《まへだとしいへ》、淺野長政《あさのながまさ》、豐臣秀次《とよとみひでつぐ》、富田《とみた》一|白《ぱく》(知信)[#「(知信)」は1段階小さな文字]木村清久《きむらきよひさ》、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》、斯波義近《しばよしちか》、和久宗是《わくそうぜ》、若《も》しくは利家《としいへ》の被官《ひくわん》徳山則秀《とくやまのりひで》、河島兼續等《かはしまかねつぐら》と、少《すくな》からざる親密《しんみつ》の間柄《あひだがら》であつた。彼《かれ》は其竈《そのかまど》に媚《こ》びる必要《ひつえう》を知《し》り、併《あは》せて其術《そのじゆつ》をも解《かい》した。彼《かれ》の音問《いんもん》には、必《かなら》ず若干《じやくかん》の贈遺《そうゐ》が附帶《ふたい》した。彼《かれ》は人心《じんしん》の弱點《じやくてん》に乘《じよう》ずる手段《しゆだん》を、十二|分《ぶん》に會得《ゑとく》し、且《か》つ十二|分《ぶん》に實行《じつかう》した。
彼《かれ》と秀吉《ひでよし》との交通《かうつう》は、其父《そのちゝ》輝宗《てるむね》が、遠藤基信《ゑんどうもとのぶ》をして、信長《のぶなが》の死《し》を弔《とむら》はしめ、名馬《めいば》一|頭《とう》を秀吉《ひでよし》に送《おく》りたるに對《たい》し、天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》二|日附《かづけ》にて、秀吉《ひでよし》が其《そ》の上國《じやうこく》に於《お》ける經營《けいえい》の吹聽《ふいちやう》を、基信《もとのぶ》に與《あた》へたるより開《ひら》けた。爾來《じらい》天正《てんしやう》十五|年《ねん》の末《すゑ》には、黒毛《くろけ》黒駁《くろまだら》の二|頭《とう》を、前田利家《まへだとしいへ》に贈《おく》り。其《そ》の仲介《ちゆうかい》にて、好《よしみ》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じた。天正《てんしやう》十六|年《ねん》には、徳川家康《とくがはいへやす》は秀吉《ひでよし》の命《めい》を奉《ほう》じ、政宗《まさむね》と、最上義光《もがみよしあき》との協和《けふわ》を謀《はか》つた。而《しか》して富田《とみた》一|白《ぱく》は、輝宗以來《てるむねいらい》懇親《こんしん》の筋目《すぢめ》を以《もつ》て、政宗《まさむね》の上京《じやうきやう》を促《うなが》し、且《か》つ鶴鳥逸物《つるとりいつもつ》の鷹《たか》を、秀吉《ひでよし》に獻《けん》ぜんことを慫慂《しようよう》した。施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》の如《ごと》きは、既《すで》に北條氏規《ほうでううぢのり》の上洛《じやうらく》あり、貴殿《きでん》も速《すみや》かに上洛《じやうらく》あれと、注意《ちゆうい》した。
政宗《まさむね》は容易《ようい》に彼等《かれら》の所言《しよげん》を聽《き》き納《い》れなかつた。然《しか》も秀吉《ひでよし》周邊《しうへん》の者《もの》は、何《いづ》れも彼《かれ》の辯護者《べんごしや》であつた、調護者《てうごしや》であつた、同情者《どうじやうしや》であつた。此《こ》れは彼《かれ》が快腕《くわいわん》にて、彼等《かれら》を買收《ばいしう》した結果《けつくわ》とも云《い》ふ可《べ》き歟《か》、左《さ》なくも善《よ》く其《そ》の押《おさ》へ所《どころ》を押《おさ》へて居《ゐ》たからであらう。然《しか》も他方《たはう》の北條氏《ほうでうし》に對《たい》しても、亦《ま》た依然《いぜん》として、良好《りやうかう》なる關係《くわんけい》を、維持《ゐぢ》した。例《れい》せば彼《かれ》は會津口《あひづぐち》に出兵《しゆつぺい》に際《さい》して、特《とく》に書信《しよしん》を北條氏《ほうでうし》に通《つう》じ、其《そ》の諒解《れうかい》を得《え》て居《ゐ》た。
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|未[#二]申通[#一]候處《いまだまをしつうぜずさふらふところ》、|預[#二]御札[#一]候《ぎよさつにあづかりさふらふ》、誠《まことに》本望候《ほんまうにさふらふ》。抑《そも/\》去比《さるころ》會津口《あひづぐちに》|有[#二]御出勢[#一]《ごしゆつぜいありて》、|被[#レ]任[#二]御存分[#一]由《ごぞんぶんにまかせられしよし》、尤《もつとも》肝要至極候《かんえうしごくにさふらふ》。|如[#二]御紙面[#一]《ごしめんのごとく》、|自[#二]前代[#一]《ぜんだいより》申合之間《まをしあひのあひだ》、|於[#二]自今以後[#一]者《じこんいごにおいては》、相應之儀《さうおうのぎ》、毛髮《まうはつ》|無[#二]疎忽[#一]《そこつなく》、無二《むに》|可[#二]入魂申[#一]候《じゆつこんまをすべくさふらふ》。御同意《ごどうい》|可[#レ]爲[#二]本懷[#一]候《ほんくわいたるべくさふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
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との氏直《うぢなほ》の返書《へんしよ》を得《え》て居《ゐ》た。而《しか》して氏直《うぢなほ》を代表《だいへう》して、其《そ》の叔父《しゆくふ》氏照《うぢてる》は、
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抑《そも/\》貴國《きこくと》佐竹《さたけ》御間之事《おんあひだのこと》、無事之樣《ぶじのやうに》|雖[#レ]有[#レ]之《これありといへども》、御疑心而巳《ごぎしんのみ》に候而《さふらうて》、|可[#レ]被[#レ]及[#二]事切[#一]候哉《ことぎれにおよばるべくさふらふや》。當方儀者《たうはうぎは》、當敵之事候間《たうてきのことにさふらふあひだ》、貴國《きこく》御作事次第《ごさくじしだい》、何分《なにぶん》にも弓矢達《ゆみやのたし》に|可[#レ]被[#二]取成[#一]候《とりなさるべくさふらふ》。貴國《きこく》當方迄《たうはうまで》|被[#二]仰合[#一]者《おほせあはさるれば》、互《たがひに》御本意《ごほんい》|不[#レ]可[#レ]廻[#レ]踵候《きびすをかへすべからずさふらふ》。
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政宗《まさむね》の再應《さいおう》の使《つかひ》に對《たい》して、報書《はうしよ》を與《あた》へて居《を》る。
乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》、家康《いへやす》に對《たい》しては、最上《もがみ》、佐竹《さたけ》とは和睦《わぼく》を標榜《へうばう》し、北條《ほうでう》に對《たい》しては、佐竹《さたけ》とは表面《へうめん》形式的《けいしきてき》の平和《へいわ》にて、内實《ないじつ》は北條《ほうでう》と相《あ》ひ策應《さくおう》して、佐竹《さたけ》を挾撃《けふげき》せんと期《き》して居《ゐ》た。其《そ》の心計《しんけい》の曲折《きよくせつ》、巧獪《かうくわい》なる、戰國策士《せんごくさくし》も、三|舍《しや》を避《さ》く可《べ》きだ。然《しか》るに此《これ》が二十|前後《ぜんご》も一|青年《せいねん》の胸裡《きようり》より、湧《わ》き出《い》でたものとすれば、其《そ》の代物《しろもの》の尋常《じんじやう》でない事《こと》は、云《い》ふ迄《まで》もない。然《しか》も彼《かれ》は決《けつ》して上國《じやうこく》の形勢《けいせい》の變化《へんくわ》に、油斷《ゆだん》はしなかつた。
彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》に厚《あつ》く贈遺《ぞうゐ》すると同時《どうじ》に、秀吉《ひでよし》にも馬《うま》を贈《おく》り、鷹《たか》を贈《おく》り、遂《つ》ひに富田《とみた》一|白《ぱく》より再々《さい/\》の催告《さいこく》にて、目赤《めあか》の鶴取鷹《つるとりだか》に、其鷹《そのたか》の捕《と》りたる鶴《つる》をも副《そ》へて贈《おく》つた。秀吉《ひでよし》は大《おほ》いに悦《よろこ》び、之《これ》に酬《むく》ゆるに國行《くにゆき》の太刀《たち》一|腰《こし》を以《もつ》てした。(天正十七年六月九日)[#「(天正十七年六月九日)」は1段階小さな文字]然《しか》るに此際《このさい》政宗《まさむね》の蘆名氏《あしなし》を滅《ほろぼ》したる行動《かうどう》は、痛《いた》く秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》を害《がい》し、秀吉《ひでよし》對《たい》伊達《だて》の關係《くわんけい》をして、頗《すこぶ》る困難《こんなん》ならしめた。

[#5字下げ][#中見出し]【四六】會津事件の辨疏[#中見出し終わり]

何事《なにごと》にも拔目《ぬけめ》なき政宗《まさむね》は、會津《あひづ》の蘆名氏《あしなし》を滅《ほろぼ》した※[#こと、224-8]が、秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》を害《がい》する多大《ただい》なる可《べ》きを豫期《よき》し、前田利家《まへだとしいへ》、施藥院全宗等《せやくゐんぜんそうら》に、其《そ》の始末《しまつ》を報告《はうこく》し、取成《とりなし》を乞《こ》うた。然《しか》も彼等《かれら》は、其事《そのこと》の頗《すこぶ》る重大《ぢゆうだい》なるを見《み》て、政宗《まさむね》に對《たい》し、それ/″\警告《けいこく》する所《ところ》があつた。
利家《としいへ》は七|月《ぐわつ》廿一|日附《にちづけ》にて、
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彼仁《かのじん》(蘆名義廣)[#「(蘆名義廣)」は1段階小さな文字]之事《のこと》、最前《さいぜん》關白《くわんぱく》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]樣江《さまえ》御禮申上《おんれいまをしあげ》、御存知之儀候《ごぞんぢのぎさふらふ》。遠國付而《ゑんごくについて》|以[#二]私宿意[#一]《わたくしのしゆくいをもつて》|不[#レ]止[#二]鬱憤[#一]之事《うつぷんをとゞめずのこと》[#ルビの「うつぷんをとゞめずのこと」は底本では「うつぷんをとゞめざのこと」]、御不審《ごふしんに》|被[#二]思召[#一]之旨《おぼしめさるゝのむね》、|被[#二]仰出[#一]候之條《おほせいだされさふらふのでう》、此度之始末《このたびのしまつ》、樣々《さま/″\》御取成申上候《おとりなしまをしあげさふらふ》。
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と答《こた》へ、又《ま》た全宗《ぜんそう》は、七|月《ぐわつ》廿二|日附《にちづけ》にて、政宗《まさむね》に答《こた》へ『|不[#レ]被[#レ]經[#二]上意[#一][#「|不[#レ]被[#レ]經[#二]上意[#一]」は底本では「|不[#レ]被經[#二]上意[#一]」]《じやういをへられず》、私之《わたくしの》|以[#二]宿意[#一]《しゆくいをもつて》今度《このたび》|及[#二]一戰[#一]《いつせんにおよび》、|被[#二]打果[#一]《うちはたされ》|至[#二]會津[#一]《あひづにいたり》、居住之儀《きよぢゆうのぎ》、上意《じやうい》御機色《ごきしよく》|不[#レ]可[#レ]然候《しかるべからずさふらふ》。』と云《い》ひ。更《さ》らに同月日附《どうげつひづけ》にて、政宗《まさむね》の老臣《らうしん》片倉小《かたくらこ》十|郎《らう》に答《こた》へて、
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|以[#二]天氣[#一]《てんきをもつて》、一|天下之儀《てんかのぎ》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、|被[#レ]任[#レ]關白職[#一]之上者《くわんぱくしよくににんぜられたるうへは》、|相[#二]替前々[#一]《ぜん/\とあひかはり》、|不[#レ]被[#レ]經[#二]京儀[#一]候者《けいぎをへられずさふらへば》、|可[#レ]爲[#二]御越度[#一]候條《おんおちどたるべくさふらふでう》、|被[#レ]差上[#二]御使者[#一]《おししやをさしのぼされ》、|御斷可[#レ]被[#レ]成候哉《おんことはりなさるべくさふらふや》。|不[#レ]及[#二]其段[#一]候歟《そのだんにおよばずさふらふか》、御分別次第候《ごふんべつしだいにさふらふ》。
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との忠告《ちゆうこく》を與《あた》へた。此《こ》れは固《もと》より秀吉《ひでよし》の内意《ないい》を受《う》けたか、さなくば秀吉《ひでよし》の心中《しんちゆう》を忖度《そんたく》したに相違《さうゐ》あるまい。併《しか》し政宗《まさむね》は半《なかば》は辨疏《べんそ》の爲《た》め、半《なかば》は偵察《ていさつ》の爲《た》めに、上郡山仲爲《かみごほりやまなかため》、遠藤不入齋《ゑんどうふにふさい》を上京《じやうきやう》せしめ、其身《そのみ》は愈《いよい》よ隣境《りんきやう》の征略《せいりやく》を事《こと》とした。
凡《およ》そ政宗程《まさむねほど》、不謹愼《ふきんしん》なる時代《じだい》に於《おい》て、不謹愼《ふきんしん》なるはなく、又《ま》た圖太《づぶと》き時代《じだい》に於《おい》て、圖太《づぶと》きはなく、押《おし》の強《つよ》き時代《じだい》に於《おい》て、押《おし》の強《つよ》きはない。彼《かれ》は如何《いか》なる窮地《きゆうち》に陷《おちい》るも、自《みづ》から承服《しようふく》せず、必《かなら》ず辨疏《べんそ》した。即《すなは》ち過《あやまち》を過《あやまち》とせずして、積極的《せききよくてき》に雪冤《せつゑん》と出掛《でか》けた。彼《かれ》が豐臣《とよとみ》徳川《とくがは》の間《あひだ》に處《しよ》して、屡《しばし》ば危險《きけん》の策《さく》を弄《ろう》しつゝ、遂《つひ》に其《そ》の大封《たいほう》を完《まつた》うし得《え》た所以《ゆゑん》は、恒《つね》に死中求活《しちゆうきうくわつ》の術《じゆつ》を解《かい》したからだ。彼《かれ》は横著者《わうちやくもの》であつたが、尋常《じんじやう》一|樣《やう》の狡兒《かうじ》でなく、洵《まこと》に愛《あい》す可《べ》き横著者《わうちやくもの》であつた。
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一 今度《このたび》|爲[#二]御上使[#一]《ごじやうしとして》罷下《まかりくだる》に付《つき》、政宗《まさむね》一|段《だん》|祝著被[#レ]申《しうちやくまをされ》、則《すなはち》上洛之儀《じやうらくのぎ》|令[#二]治定[#一]處《ぢぢやうせしめたるところ》、伊達《だて》領分江《りやうぶんえ》|自[#二]越後[#一]《ゑちごより》御諚候由《ごぢやうさふらふよし》にて、|被[#レ]及[#二]手切[#一]《てぎれにおよばれたる》に付《つき》政宗《まさむね》上洛《じやうらく》相延候事《あひのびさふらふこと》。
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政宗《まさむね》は上洛《じやうらく》の延引《えんいん》を以《もつ》て、自己《じこ》の怠慢《たいまん》とせず、却《かへ》つて上杉景勝《うへすぎかげかつ》が、秀吉《ひでよし》の意《い》を承《う》けたと稱《しよう》して、政宗《まさむね》に敵對行爲《てきたいかうゐ》を表示《へうじ》したからだと云《い》つた。
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一 |對[#二]會津[#一]《あひづにたいし》政宗《まさむね》存分《ぞんぶんに》|被[#レ]申《まをされたる》意趣《いしゆ》は、政宗《まさむね》父《ちゝ》輝宗代《てるむねだい》に、政宗《まさむね》弟《おとうと》會津《あひづに》|可[#レ]居《をるべく》約束《やくそく》堅《かたく》仕《つかまつり》、其手筈《そのてはず》を違《ちがへ》、常州《じやうしう》佐竹《さたけ》え取組《とりくみ》、剩《あまつさへ》義重《よししげ》(佐竹)[#「(佐竹)」は1段階小さな文字]次男《じなんを》申會《まをしうけ》、會津《あひづ》に据《す》ゑ申《まをす》。其上《そのうへ》會津《あひづ》より調略《てうりやく》いたし、奧州之内《あうしうのうち》には、白川《しらかは》、石川《いしかは》、岩城《いはき》、岩瀬《いはせ》、相馬《さうま》、奧郡《おくごほり》にては、大崎《おほさき》、黒川《くろかは》、其外《そのほか》所々《しよ/\》相催《あひもよほし》。又《また》|於[#二]出羽[#一]《ではにおいては》山形《やまがた》相語《あひかたらひ》、其上《そのうへ》關東《くわんとう》人數《にんず》引出《ひきいだし》、既《すでに》伊達《だて》を|可[#二]打果[#一]與仕候《うちはたすべくとつかまつりさふらふ》。勿論《もちろん》政宗《まさむね》親《おや》の敵《かたき》と云《いひ》、六七ヶ年以來《ねんいらい》|依[#二]鉾楯[#一]《むじゆんにより》、今度《このたび》會津《あひづ》仙道内《せんだうない》|被[#二]打果[#一]《うちはたされ》、|被[#レ]任[#二]存分[#一]候事《ぞんぶんにまかせられさふらふこと》。
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此《こ》れは蘆名氏《あしなし》を滅《ほろぼ》したのは、所謂《いはゆ》る正當防衞《せいたうばうゑい》であつた※[#こと、227-5]を辨明《べんめい》したのだ。此中《このうち》には若干《じやくかん》の眞實《しんじつ》はある。例《れい》せば蘆名氏《あしなし》が、政宗《まさむね》の弟《おとうと》を養嗣《やうし》とせんとするの議《ぎ》を變《へん》じ、佐竹義重《さたけよししげ》の二|男《なん》義廣《よしひろ》を迎立《げいりつ》したるが如《ごと》き、(參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡)[#「(參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡)」は1段階小さな文字]それである。併《しか》し大體《だいたい》の事實《じじつ》は、政宗《まさむね》の壓迫《あつぱく》の爲《た》めに、蘆名氏《あしなし》を始《はじ》め、其《そ》の周邊《しうへん》の大小名《だいせうみやう》は、自《おのづ》から合縱《がつしよう》するの已《や》むを得《え》ざるに到《いた》つたのだ。約言《やくげん》すれば、政宗《まさむね》の申譯《まをしわけ》は、前提《ぜんてい》を結論《けつろん》とし、結論《けつろん》を前提《ぜんてい》としたのだ。
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一 奧州《あうしう》五十四|郡之儀《ぐんのぎ》は、|自[#二]前代[#一]《ぜんだいより》伊達《だて》探題《たんだい》に付《つき》、諸事《しよじ》政宗《まさむね》申付儀《まをしつけのぎ》、今以《いまもつて》|不[#レ]可[#レ]有[#二]其隱[#一]候處《そのかくれあるべからずさふらふところ》、隣國《りんごく》隣郡《りんぐんの》兇徒等《きやうとら》、運國《ゑんごく》に付《つき》、恣《ほしいまゝに》申《まをし》掠候之間《かすめさふらふのあひだ》、有樣之次第《ありさまのしだい》、|被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、|可[#レ]被[#レ]成[#二]御尋[#一]事《おたづねなさるべきこと》。
[#ここで字下げ終わり]
伊達家《だてけ》の門閥《もんばつ》を標榜《へうばう》して、其《そ》の歴史的《れきしてき》に、東北《とうほく》に於《お》ける盟主《めいしゆ》たる位置《ゐち》を、占得《せんとく》しつゝある事《こと》を説明《せつめい》したのだ。乃《すなは》ち五十四|郡《ぐん》の探題《たんだい》であれば、不逞《ふてい》を討閥《たうばつ》するは、當然《たうぜん》の職掌《しよくしやう》ではない乎《か》と、寧《むし》ろ逆寄《さかよ》せしたのだ。
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一 越後衆《ゑちごしゆう》|於[#二]會津表[#一]《あひづをもてにおいて》、|被[#レ]及[#二]一戰[#一]《いつせんにおよばれ》、越後衆《ゑちごしゆう》はや失利《しつり》、横田與申城《よこたとまをすしろ》を始《はじめ》て三四ヶ所《しよ》|被[#二]明退[#一]候由《あけのかれさふらふよし》、|於[#二]路次[#一]《ろじにおいて》慥《たしか》に、承候間《うけたまはりさふらふあひだ》、跡《あと》より罷上《まかりのぼり》使者《ししや》を、遲《おそ》く仕候歟與《つかまつりさふらふかと》存候事《ぞんじさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
越後勢《ゑちごぜい》打負《うちまけ》退却《たいきやく》、是《こ》れが爲《た》めに、後《あと》より來《きた》る使者《ししや》の到著《たうちやく》延引《えんいん》するを云《い》ふ。
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一 會津《あひづに》|被[#二]打洩[#一]《うちもらされたる》人數共《にんずども》、越後江《ゑちごえ》迯迫《にげせまり》、種々樣々《しゆ/″\さま/″\》計略仕候事《けいりやくつかまつりさふらふこと》。右條々《みぎでう/\》|於[#二]御疑[#一]者《おんうたがひにおいては》、|以[#二]神文[#一]《しんもんをもつて》|可[#二]申上[#一]候《まをしあぐべくさふらふ》。此等之趣《これらのおもむき》、|被[#レ]達[#二]上聞[#一]候《じやうぶんにたつせられさふら》へ者《ば》、|可[#二]忝存[#一]候《かたじけなくぞんずべくさふらふ》。やがて伊達使者《だてししや》、|自[#二]跡々[#一]《あと/\より》|可[#二]罷登[#一]候間《まかりのぼるべくさふらふあひだ》、巨細《こさい》尚以《なほもつて》|可[#レ]被[#二]申入[#一]候《まをしいれらるべくさふらふ》。以上《いじやう》。
  九月三日(天正十七年)[#「(天正十七年)」は1段階小さな文字]
[#地から3字上げ]上郡山右近丞仲爲判
   淺野彈正少弼殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは政宗《まさむね》の代表者《だいへうしや》が、秀吉《ひでよし》の代表者《だいへうしや》に向《むか》つての辨明《べんめい》だ。
然《しか》も此《こ》の辨明《べんめい》に就《つい》ては、秀吉《ひでよし》は尚《な》ほ釋然《しやくぜん》たるを得《え》なかつた。そは淺野長政《あさのながまさ》が、十|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、政宗《まさむね》に向《むか》つて、『|從[#二]其方之御存分[#一]迄《そなたのごぞんぶんにしたがふまで》に而《て》、會津之儀《あひづのぎ》|被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふら》へば、日本之儀者《にほんのぎは》|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、唐國迄《からぐにまで》も|被[#レ]上意[#一]候者共之爲候間《じやういをえられさふらふものどものためにさふらふあひだ》、双方《さうはう》申分《まをしぶん》|被[#二]聞食屆[#一]《きこしめしとゞけられ》、|以[#二]其上[#一]《そのうへをもつて》何《いづれ》へ成共《なりとも》、會津儀《あひづのぎ》|可[#レ]被[#二]仰付[#一]旨《おほせつけらるべきむね》、御意候事《ぎよいにさふらふこと》。』との一|節《せつ》にて分明《ぶんみやう》だ。即《すなは》ち如何《いか》に政宗《まさむね》が、正當防衞《せいたうばうゑい》であると云《い》ふも、私鬪《しとう》に他《ほか》ならず。日本《につぽん》は愚《おろ》か、唐國迄《からぐにまで》も、關白《くわんぱく》の命令《めいれい》を奉行《ほうかう》せしむる今日《こんにち》に於《おい》ては、双方《さうはう》の申分《まをしぶん》を聞《き》き、其上《そのうへ》にて會津《あひづ》の處分《しよぶん》を爲《な》す可《べ》しとの儀《ぎ》だ。要《えう》するに秀吉《ひでよし》の意中《いちゆう》には、政宗《まさむね》の戰利品《せんりひん》として、會津《あひづ》を其儘《そのまゝ》、政宗《まさむね》に渡《わた》す事《こと》は、決《けつ》して認容《にんよう》せぬと極《きま》つて居《ゐ》た。

[#5字下げ][#中見出し]【四七】政宗の兩股主義[#中見出し終わり]

政宗《まさむね》は飽迄《あくまで》も兩股主義《ふたまたしゆぎ》を取《と》つた。乃《すなは》ち一|方《ぱう》秀吉《ひでよし》の驩心《くわんしん》を失《うしな》はざらんことを勗《つと》め、否《い》な會津事件《あひづじけん》によりて其瞋《そのいかり》を招《まね》きたるを、氷釋《ひようしやく》せしめん事《こと》を勗《つと》むると同時《どうじ》に、他方《たはう》北條氏《ほうでうし》に結《むす》び、下野《しもづけ》、常陸《ひたち》を略《りやく》し、佐竹氏《さたけし》に薄《せま》らんとした。而《しか》して秀吉《ひでよし》の禁物《きんもつ》たる私鬪《しとう》をば、無遠慮《ぶゑんりよ》に遂行《すゐかう》しつゝあつた。
彼《かれ》は横著《わうちやく》なる仕打《しうち》を逞《たくまし》うしつゝ、遂《つ》ひに大《だい》なる躓《つまづ》きを來《きた》さなかつた所以《ゆゑん》は、其《そ》の外交手段《ぐわいかうしゆだん》の周到《しうたう》、※[#「糸+眞」、第4水準2-84-51]密《しんみつ》にて、水《みづ》も漏《も》れず、爪《つめ》も立《た》たざる程《ほど》であつたからだ。之《これ》を北條氏《ほうでうし》の自惚根性《うぬぼれこんじやう》のみ増長《ぞうちやう》して、恃《たの》む可《べ》からざるものを恃《たの》んだに比《ひ》すれば、天地懸隔《てんちけんかく》と云《い》うてもよからう。而《しか》して其《そ》の策士《さくし》が、二十三四の青年《せいねん》であつた※[#こと、230-10]は、如何《いか》にも政宗《まさむね》の凡骨《ぼんこつ》でないことが證明《しようめい》せらるゝ。
例《れい》せば、前囘《ぜんくわい》の上郡山仲爲《かみごほりやまなかため》の辯疏状《べんそじやう》の如《ごと》きも、同人《どうにん》より『關白樣《くわんぱくさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]|依[#二]御腹立[#一]《ごふくりふにより》木彌《きや》一|右《う》(木村彌一右衞門清久)[#「(木村彌一右衞門清久)」は1段階小さな文字]和久宗是《わくそうぜ》|令[#二]相談[#一]《さうだんせしめ》、先《まづ》右之通《みぎのとほり》申上候《まをしあげさふらふ》。』と、政宗《まさむね》に報告《はうこく》して居《を》る通《とほ》りである。即《すなは》ち被告《ひこく》の辯護士《べんごし》に、原告方《げんこくがた》の者共《ものども》より、それ/″\辯護《べんご》の手段《しゆだん》を入智惠《いれぢゑ》したのだ。此《こ》れは右兩人《みぎりやうにん》に止《とゞま》らず、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》と云《い》ひ、前田利家《まへだとしいへ》と云《い》ひ、淺野長政《あさのながまさ》と云《い》ひ、何《いづ》れも同樣《どうやう》であつた。彼等《かれら》は政宗《まさむね》の爲《た》めに、秀吉《ひでよし》の手前《てまへ》を取成《とりな》し、言《い》ひ繕《つくろ》ふと同時《どうじ》に、政宗《まさむね》に向《むか》つて、秀吉《ひでよし》の心意氣《こゝろいき》を報《はう》じ、其《そ》の取《と》る可《べ》き方法《はうはふ》を、毎《つね》に授《さづ》けたのだ。
此《こ》れは何故《なにゆゑ》であつた乎《か》。そは政宗《まさむね》が是等《これら》の人々《ひと/″\》に、音問《いんもん》を怠《おこた》らず、馬《うま》を贈《おく》り、金子《きんす》を贈《おく》り、其《そ》の好意《かうい》を博《はく》し、驩心《くわんしん》を繋《つな》ぐに、少《すこ》しも如才《じよさい》なかつた爲《た》めだ。
然《しか》も形勢《けいせい》は急轉直下《きふてんちよくか》した。秀吉《ひでよし》は天正《てんしやう》十七|年《ねん》十一|月《ぐわつ》廿四|日附《かづけ》、北條手切《ほうでうてぎて》の文書《もんじよ》〔參照 本篇一七、手切の文書〕[#「〔參照 本篇一七、手切の文書〕」は1段階小さな文字]を利家《としいへ》、長政《ながまさ》を經《へ》て、政宗《まさむね》に交付《かうふ》した。兩人《りやうにん》は十二|月《ぐわつ》五|日附《かづけ》にて、此文書《このもんじよ》に副《そ》へて、政宗《まさむね》の上洛《じやうらく》を促《うなが》した。又《ま》た十一|月《ぐわつ》廿六|日附《にちづけ》にて、上郡山仲爲《かみごほりやまなかため》は、和久宗是《わくそうぜ》と連署《れんしよ》して、政宗《まさむね》の老臣《らうしん》片倉子《かたくらこ》十|郎《らう》に當《あ》て、『此砌《このみぎり》是非共《ぜひとも》|被[#レ]成[#二]御上洛[#一]候者《ごじやうらくなされさふらへば》、殿下樣《でんかさま》御悦喜《ごえつき》|不[#レ]斜《なゝめならず》、其上《そのうへ》萬事《ばんじ》|可[#レ]被[#レ]任[#二]御意[#一]事《ぎよいにまかせらるべきこと》、案之内候《あんのうちにさふらふ》。此刻《このとき》御上洛《ごじやうらく》萬《まん》一|被[#レ]成[#二]御遲引[#一]候《ごちいんなされさふらう》ては、如何之由《いかゞのよし》|被[#レ]申《まをされ》、淺彈少《あさだんせう》(長政)[#「(長政)」は1段階小さな文字]御肝煎《おんきもいり》|不[#二]常事[#一]候《じやうじならずさふらふ》。』と、上洛《じやうらく》を促告《そくこく》した。同《どう》十二|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》にて、斯波義近《しばよしちか》も、上洛《じやうらく》を促《うなが》した。然《しか》も政宗《まさむね》は、容易《ようい》に動《うご》く可《べ》くもなかつた。彼《かれ》は尚《な》ほ形勢《けいせい》を觀望《くわんばう》したのだ。
如何《いか》に政宗《まさむね》が、秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》に取入《とりい》りたるかは、左《さ》に秀次《ひでつぐ》の天正《てんしやう》十七|年《ねん》十二|月《ぐわつ》五|日附《かづけ》にて、政宗《まさむね》に答《こた》へたる書簡《しよかん》を見《み》ば、分明《ぶんみやう》だ。
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音書之趣《いんしよのおもむき》、委細《ゐさい》|遂[#二]披閲[#一]《ひえつをとげ》承悦候《しようえつさふらふ》。殊《ことに》馬《うま》一|疋《ぴき》栗毛[#「栗毛」は1段階小さな文字]|被[#二]贈越[#一]候《おくりこされさふらふ》、誠《まことに》遙遙懇情《はるばるのこんじやう》、|至[#二]快然[#一]候《くわいぜんのいたりにさふらふ》。隨而《したがつて》北條事《ほうでうこと》、|可[#レ]令[#二]上洛[#一]通《じやうらくせしむべきとほり》、種々《しゆ/″\》悃望儀付而《こんまうのぎについて》、今度《このたび》沼田之城《ぬまたのしろ》、|被[#二]渡下[#一]處《わたしくだされたるところ》、|構[#二]表裏[#一]條《へうりをかまへたるでう》、〔參照 本篇一六、沼田事件〕[#「〔參照 本篇一六、沼田事件〕」は1段階小さな文字]|爲[#二]御誅伐[#一]《ごちゆうばつのため》來春《らいしゆん》|可[#レ]被[#レ]出[#二]御馬[#一]旨候間《おんうまをいださるべきむねにさふらふあひだ》、旁《かた/″\》其節《そのせつ》|被[#レ]對[#二]殿下[#一]《でんかにたいせられ》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]|可[#レ]披[#レ]勵[#二]忠儀[#一]事尤候《ちゆうぎをはげまるべきこともつともにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは決《けつ》して冷《ひやゝ》かなる外交用文書《ぐわいかうようぶんしよ》ではない。少《すくな》くとも此中《このうち》に政宗《まさむね》に對《たい》する感謝《かんしや》と、政宗《まさむね》の爲《た》めに善《よ》かれと思《おも》ふ友情《いうじやう》とが、籠《こも》つて居《ゐ》る。而《しか》して此《こ》れは秀次《ひでつぐ》一|人《にん》ではない。政宗《まさむね》と音信《おんしん》を往復《わうふく》したもの、滔々《たう/\》皆《み》な是《これ》なりである。
若《も》し單《たん》に政宗《まさむね》が馬《うま》や、金紬《きんちう》やらを以《もつ》て、秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》を買收《ばいしう》したと云《い》へば、只《た》だそれ迄《まで》の事《こと》であるが。斯《か》く迄《まで》に他《た》の好意《かうい》を、我《われ》に傾向《けいかう》せしむるには、徒《いたづ》らに賄賂《わいろ》のみでは成功《せいこう》するものでない。之《これ》を貽《おく》る場合《ばあひ》や、筋道《すぢみち》が、其《そ》の機宜《きぎ》を誤《あやま》らぬ心掛《こゝろがけ》が大切《たいせつ》だ。如何《いか》に二十三四|歳《さい》の田舍青年《ゐなかせいねん》が、上國《じやうこく》の大小名《だいせうみやう》や、若《も》しくは煮《に》ても燒《や》いても喰《く》へぬ代物《しろもの》たる、施藥院全宗抔《せやくゐんぜんそうなど》を懷柔《くわいじう》した乎《か》。其《そ》の辣腕《らつわん》實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》しだ。
秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》は、政宗《まさむね》の爲《た》めに運動《うんどう》した。其《そ》の甲斐《かひ》ありて、秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》は聊《いさゝ》か和《やはら》いだ。乃《すなは》ち天正《てんしやう》十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、木村清久《きむらきよひさ》が、政宗《まさむね》に與《あた》へたる覺書中《おぼえがきちゆう》には、『殿下樣《でんかさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]御内證《ごないしよう》、別而《べつして》宜罷成候事《よろしくまかりなりさふらふこと》。』とある。然《しか》も政宗《まさむね》は相變《あひかは》らず、兩股《りやうまた》を掛《か》けて居《ゐ》た。
正月《しやうぐわつ》十七|日附《にちづけ》にて、北條氏直《ほうでううぢなほ》は、政宗《まさむね》に向《むか》つて、出陣《しゆつぢん》の風聞《ふうぶん》に接《せつ》し、特使《とくし》を發《はつ》し書《しよ》と物《もの》とを貽《おく》り、佐竹《さたけ》挾撃《けふげき》を圖《はか》つた。政宗《まさむね》が同年《どうねん》正月《しやうぐわつ》七|日《か》、黒川城《くろかはじやう》にて七|草《くさ》の祝宴《しゆくえん》に際《さい》し、『七|草《くさ》を一|手《て》に寄《よ》せて摘《つ》む菜《な》かな』の句《く》を見《み》れば、彼《かれ》はおめ/\と首《かうべ》を垂《た》れ、尾《を》を掉《ふ》りて、秀吉《ひでよし》の馬前《ばぜん》に趨《おもむ》くを屑《いさぎよ》しとするものではなかつた。彼《かれ》は恐《おそ》らくは、東北《とうほく》の霸主《はしゆ》を夢《ゆめ》みて居《ゐ》たのであらう。但《た》だ之《これ》を夢《ゆめ》みつゝも、尚《な》ほ秀吉《ひでよし》の周邊《しうへん》との交渉《かうせう》を地續《ぢぞく》したのが、彼《かれ》の及《およ》び易《やす》からざる外交的手腕《ぐわいかうてきしゆわん》だ。

[#5字下げ][#中見出し]【四八】政宗小田原に赴く[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の小田原親征《をだはらしんせい》は、三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》と確定《かくてい》した。されば其《そ》の周邊《しうへん》の政宗《まさむね》に善《よ》き連中《れんちゆう》は、何《いづ》れも速《すみや》かに上洛《じやうらく》を勸《すゝ》め、更《さ》らに期《き》に後《おく》れず小田原《をだはら》に到《いた》らん※[#こと、234-5]を勸《すゝ》めた。利家《としいへ》の如《ごと》きは、二|月《ぐわつ》二|日附《かづけ》にて、『|自[#二]會津口[#一]《あひづぐちより》|至[#二]下野[#一]《しもづけまで》、|有[#二]御出馬[#一]《ごしゆつばあり》、|可[#レ]被[#レ]抽[#二]忠儀[#一]候《ちゆうぎをぬきんでらるべくさふらふ》。我等《われら》上野《かうづけ》へ打入候者《うちいりさふらはゞ》、其地《そのち》へ物近候條《ものちかくさふらふでう》、節々《せつ/\》御飛脚《ごひきやく》|被[#二]相越[#一]《あひこされ》、|可[#レ]被[#二]示合[#一]事《しめしあはさるべきこと》、專《せん》一|候《にさふらふ》。』と慂慫《しようよう》した。されど政宗《まさむね》は、人《ひと》を派《は》し、物《もの》を貽《おく》り、書信《しよしん》を通《つう》ずることには、何等《なんら》手落《ておち》なく、痒《かゆ》き所《ところ》を掻《か》く如《ごと》く徹底《てつてい》したが、其身《そのみ》は中々以《なか/\もつ》て動《うご》く可《べ》く見《み》えなかつた。
それも其筈《そのはず》ぢや、彼《かれ》は尚《な》ほ北條氏《ほうでうし》と縁《えん》を絶《た》たなかつた。四|月《ぐわつ》二十|日附《かづけ》にて、北條氏長《ほうでううぢなが》が、彼《かれ》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》に、『關東《くわんとう》逐日《ちくじつ》氏直《うぢなほ》|如[#二]存分[#一]《ぞんぶんのごとく》、靜謐《せいひつ》に候《さふらふ》。別而《べつして》|可[#レ]被[#二]仰合[#一]由《おほせあはさるべきよし》、御肝要候《ごかんえうにさふらふ》。陸奧守《むつのかみ》(氏照或作[#二]氏輝[#一])[#「(氏照或作[#二]氏輝[#一])」は1段階小さな文字]申談御取成《まをしだんじおとりなし》、聊《いさゝか》も|不[#レ]可[#レ]存[#二]如在[#一]候《じよさいにぞんずべからずさふらふ》。』とある。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》に結《むす》び、北條《ほうでう》に結《むす》び、双方《さうはう》の對抗《たいかう》を見物《けんぶつ》し、何《いづ》れに顛《ころ》んでも、損《そん》せぬ分別《ふんべつ》をして居《ゐ》たのだ。然《しか》も遂《つ》ひに其《そ》の馬脚《ばきやく》を露《あら》はしつゝも、最後《さいご》に至《いた》りて、兎《と》も角《かく》も、其《そ》の葛藤《かつとう》を切《き》り拔《ぬ》けたる彼《かれ》の手腕《しゆわん》は、何人《なんびと》も賞嘆《しやうたん》するを禁《きん》ずる能《あた》はずであらう。
上國《じやうこく》の警報《けいはう》は頻々《ひん/″\》と到達《たうたつ》した。彼《かれ》が特派《とくは》したる、上郡山仲爲等《かみごほりやまなかためら》よりも、再々《さい/\》其《そ》の出馬《しゆつば》を促《うなが》し來《き》た。而《しか》して關東諸城《くわんとうしよじやう》は固《もと》より、小田原城《をだはらじやう》の運命《うんめい》さへも覺束《おぼつか》なく見《み》えた。此《こゝ》に於《おい》て流石《さすが》の政宗《まさむね》も、今《いま》は方向《はうかう》を決《けつ》せねばならぬ時機《じき》に迫《せま》つた。彼《かれ》は群臣《ぐんしん》を集《あつ》めて評議《ひやうぎ》した。曰《いは》く、小田原城《をだはらじやう》陷落《かんらく》せば、吾事《わがこと》去矣《さる》。其《そ》の以前《いぜん》に秀吉《ひでよし》に謁《えつ》せねばならぬと。伊達成實《だてなりざね》は曰《いは》く、既《すで》に晩《おそ》し、若《も》し往謁《わうえつ》せば、去冬《きよとう》北條手切文書《ほうでうてぎれぶんしよ》交付《かうふ》の際《さい》であつた。今日《こんにち》に於《おい》ては徃《ゆ》くも、報土《ほうど》を褫《うば》はれ、徃《ゆ》かざるも褫《うば》はれむ、寧《むし》ろ退《しりぞ》いて秀吉《ひでよし》と迎《むか》へ戰《たゝか》ふに若《し》かずと。原田宗時《はらだむねとき》は、之《これ》に反《はん》して恭順説《きようじゆんせつ》を主持《しゆぢ》した。獨《ひと》り片倉景綱《かたくらかげつな》のみは、一|言《ごん》をも發《はつ》せずして退座《たいざ》した。政宗《まさむね》は其《そ》の夜《よ》竊《ひそ》かに景綱《かげつな》を訪《と》ひ、諮議《しぎ》した。景綱《かげつな》團扇《うちは》を揮《ふる》ひ、蒼蠅《さうよう》を撲《う》つの状《じやう》を做《な》して曰《いは》く、天下《てんか》の兵《へい》、聚散《しゆうさん》此《かく》の通《とほ》りである。之《これ》を撃《う》ちて散《さん》ずるも、亦《また》聚《あつま》らむと。政宗《まさむね》亦《ま》た頗《すこぶ》る悟《さと》る所《ところ》あつた。此《こ》れが三|月《ぐわつ》十八|日《にち》の事《こと》だ。〔仙臺藩祖成績〕[#「〔仙臺藩祖成績〕」は1段階小さな文字]
四|月《ぐわつ》七|日《か》、彼《かれ》は鈴木重信《すゞきしげのぶ》をして、胞弟《はうてい》小次郎《こじらう》を殺《ころ》さしめた。此《こ》れは彼《かれ》の母《はゝ》最上氏《もがみし》が、其《そ》の弟《おとうと》最上義光《もがみよしあき》の言《げん》を聽《き》き、―其言《そのげん》に曰《いは》く、政宗《まさむね》會津《あひづ》を取《と》り、關白《くわんぱく》の意《い》に忤《さが》ふ。伊達家《だてけ》の存亡《そんばう》未《いま》だ知《し》る可《べ》からず。今《い》ま政宗《まさむね》を殺《ころ》し、小次郎《こじらう》を立《た》てば、伊達家《だてけ》無事《ぶじ》ならんと―政宗《まさむね》を毒殺《どくさつ》して、其《そ》の季子《きし》小次郎《こじらう》を立《た》てんとしたからだ。或《あるひ》は曰《いは》く、政宗《まさむね》之《これ》を手刄《しゆじん》したと。〔藩祖實録〕[#「〔藩祖實録〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにしても政宗《まさむね》は、曩《さ》きに其父《そのちゝ》を、敵手《てきしゆ》に委《ゐ》して殺《ころ》さしめ、今《いま》は其弟《そのおとうと》を殺《ころ》したのだ。
彼《かれ》が斯《かゝ》る手段《しゆだん》に出《い》でたのは、當時《たうじ》の事情《じじやう》、已《や》む可《べ》からざるものあつたに相違《さうゐ》なきも、彼《かれ》が忍人《にんじん》であつたことも、亦《ま》た相違《さうゐ》ない。彼《かれ》は曰《いは》く、弟《おとうと》に罪《つみ》なし、然《しか》も母《はゝ》の罪《つみ》を問《と》ふ可《べ》きでない。故《ゆゑ》に寧《むし》ろ弟《おとうと》を殺《ころ》して、母《はゝ》の陰謀《いんばう》の念《ねん》を絶《た》つたのだと。是《こ》れが爲《た》めに彼《かれ》の母《はゝ》も亦《ま》た、山形《やまがた》に奔《はし》つた。山形《やまがた》は云《い》ふ迄《まで》もなく、最上義光《もがみよしあき》の治所《ちしよ》だ。
斯《か》くて彼《かれ》は、五|月《ぐわつ》四|日《か》會津《あひづ》を發程《はつてい》す可《べ》く、決心《けつしん》したが、實際《じつさい》の出立《しゆつたつ》は九|日《か》となつた。上野《かうづけ》より直《たゞ》ちに小田原《をだはら》に出《い》でんとしたが、此邊《このへん》北條氏《ほうでうし》の領土《りやうど》たるが故《ゆゑ》に、通路《つうろ》梗塞《かうそく》したから、更《さ》らに米澤《よねざは》より越後《ゑちご》を過《す》ぎ、信濃《しなの》を經《へ》て、甲斐《かひ》に出《い》で、大迂囘《だいうくわい》をなし、六|月《ぐわつ》五|日《か》、漸《やうや》く小田原《をだはら》に達《たつ》した。
彼《かれ》は此際《このさい》にも秀吉《ひでよし》の左右《さいう》と、書信《しよしん》の往復《わうふく》を閑却《かんきやく》せなかつた。四|月《ぐわつ》廿|日《か》の日附《ひづけ》にて、淺野長政《あさのながまさ》は、彼《かれ》に向《むか》つて、『|就[#レ]中《なかんづく》會津之儀《あひづのぎ》、先書《せんしよ》具《つぶさに》|如[#二]申入[#一]候《まをしいれたるごとくにさふらふ》、急度《きつと》殿下《でんか》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]樣《さま》へ|可[#レ]被[#二]上渡[#一]事《じやうとせらるべきこと》、專《せん》一|候《にさふらふ》。』と答書《たふしよ》し、又《ま》た同月日附《どうげつひづけ》にて、片倉景綱《かたくらかげつな》に向《むか》ひ、『會津之儀《あひづのぎ》、關白《くわんぱく》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]樣《さま》へ|被[#二]上渡[#一]候《じやうとせられさふらは》では|不[#二]相濟[#一]事候《あひすまざることにさふらふ》。』と答書《たふしよ》した。是等《これら》の書簡《しよかん》は、恐《おそら》く其《そ》の途中《とちゆう》にて披見《ひけん》したであらう。左《さ》なくも會津《あひづ》を取上《とりあ》げらるゝ位《くらひ》の事《こと》は、政宗《まさむね》は固《もと》より覺悟《かくご》の前《まへ》であつたらう。
彼《かれ》の小田原行《をだはらゆき》は、晩《おそ》きは則《すなは》ち晩《おそ》きであつた。彼《かれ》としては今少《いますこ》しく前《まへ》に出仕《しゆつし》した方《はう》が、得策《とくさく》であつた。然《しか》も此《こ》の極所迄《きよくしよまで》踏《ふ》み怺《こら》へ、愈《いよい》よ止《や》むに止《や》まれぬ場合《ばあひ》に際《さい》して、自《みづ》から振《ふる》うて虎穴《こけつ》に赴《おもむ》きたる、彼《かれ》の膽略《たんりやく》は、亦《ま》た愛《あい》すべきだ。而《しか》して記憶《きおく》せよ、彼《かれ》は今《い》ま纔《わづ》かに二十四|歳《さい》の青年《せいねん》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四九】政宗秀吉に謁す[#中見出し終わり]

政宗《まさむね》は六|月《ぐわつ》五|日《か》、小田原《をだはら》に到著《たうちやく》した。秀吉《ひでよし》は固《もと》より其《そ》の濫《みだ》りに會津《あひづ》を征服《せいふく》したるを瞋《いか》り、特《とく》に其《そ》の日和見的態度《ひよりみてきたいど》を瞋《いか》り、直《たゞ》ちに引見《いんけん》を容《ゆる》さなかつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の命《めい》にて、箱根山中《はこねさんちゆう》の底倉《そこくら》に蟄居《ちつきよ》した。而《しか》して稍《やゝ》ありて秀吉《ひでよし》は、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》、前田玄以《まへだげんい》、色部是常《いろべこれつね》、稻葉善祥《いなばぜんしよう》、淺野長政等《あさのながまさら》をして、詰問《きつもん》せしめた。是《こ》れは固《もと》より政宗《まさむね》覺悟《かくご》の前《まへ》の事《こと》なれば、潔《いさぎよ》く答辯《たふべん》した。
元來《ぐわんらい》大内定綱《おほうちさだつな》は、吾家《わがいへ》の舊臣《きうしん》であつた。然《しか》るに背《そむ》きて仇《あだ》を作《な》したから、之《これ》を討伐《たうばつ》したるに、蘆名義廣《あしなよしひろ》、佐竹義重《さたけよししげ》、岩城常隆等《いはきつねたから》、何《いづ》れも此《こ》の叛臣《はんしん》を助《たす》けた。是《これ》を以《もつ》て彼等《かれら》と交戰《かうせん》する事《こと》となつた。予父《わがちゝ》輝宗《てるむね》は、畠山義繼《はたけやまよしつぐ》の爲《た》めに殺《ころ》された。予《われ》は復讐《ふくしう》の師《し》を起《おこ》したが、義廣《よしひろ》は亦《ま》た之《これ》を扶《たす》けて我《われ》に敵《てき》した。田村清顯《たむらきよあき》は、予《われ》の舅《しうと》である。清顯死後《きよあきしご》予《われ》は其附託《そのふたく》を受《う》けて、其《そ》の後見《こうけん》をした。然《しか》るに相馬義胤《さうまよしたね》は、田村《たむら》の地《ち》を侵《をか》し、義廣《よしひろ》亦《ま》た之《これ》に加擔《かたん》して、屡《しばし》ば來《きた》り攻《せ》めた。右《みぎ》の如《ごと》く義廣《よしひろ》より好《この》んで事《こと》を構《かま》へたる結果《けつくわ》が、蘆名《あしな》の亡滅《ばうめつ》となつたのだ。斯《か》く兵馬倥※[#「にんべん+總のつくり」、U+50AF、239-7]《へいばこうそう》の間《あひだ》に往來《わうらい》して居《ゐ》たから、固《もと》より上國《じやうこく》の形勢《けいせい》を洞察《どうさつ》するの便宜《べんぎ》もなく、亦《ま》た上洛《じやうらく》して關白《くわんぱく》に謁《えつ》す可《べ》き、機會《きくわい》もなかつたのだ。〔藩祖成績、伊達日記〕[#「〔藩祖成績、伊達日記〕」は1段階小さな文字]
●彼《かれ》は強辯《きやうべん》頗《すこぶ》る勗《つと》めた。而《しか》して秀吉《ひでよし》より更《さ》らに長政《ながまさ》もて、最上《もがみ》、相馬《さうま》、佐竹《さたけ》、蘆名《あしな》、岩城《いはき》は、皆《み》な伊達《だて》の親戚《しんせき》ではない乎《か》、何故《なにゆゑ》に斯《か》く爭鬩《さうげい》を事《こと》とした乎《か》と詰問《きつもん》した。政宗《まさむね》は直《たゞ》ちに書面《しよめん》にて、其《そ》の理由《りいう》を開陳《かいちん》した。
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一 最上義光《もがみよしあき》と敵《てき》に罷成候事《まかりなりさふらふこと》。拙者家來《せつしやけらい》鮎貝藤太郎《あゆがひとうたらう》と申者《まをすもの》、米澤近所《よねざはきんじよ》に差置申候《さしおきまをしさふらふ》を、義光《よしあき》引付申候《ひきつけまをしさふらふ》に付《つき》、藤太郎《とうたらう》|打果可[#レ]申《うちはたしまをすべく》と存候處《ぞんじさふらふところ》、最上《もがみ》引除《ひきのき》、今《いま》に罷成候《まかりなりさふらふ》。此故《このゆゑ》不和罷成候事《ふわにまかりなりさふらふこと》。
一 相馬義胤儀《さうまよしたねぎ》は、愚父《ぐふ》輝宗代《てるむねだい》には、弓矢《ゆみや》仕候《つかまつりさふら》へ共《ども》、拙者代《せつしやだい》に罷成《まかりなり》懇切候處《こんせつさふらふところ》、舅《しうと》田村大膳大夫清顯《たむらだいぜんだいふきよあき》相果申候《あひはてまをしさふらふ》、以後《いご》、下中《かちゆう》(家中)[#「(家中)」は1段階小さな文字]石川彈正《いしかはだんじやう》と申者《まをすもの》田村《たむら》近所《きんじよに》罷在候《まかりありさふらう》て、義胤《よしたね》を頼《たの》み、拙者《せつしや》に逆心仕候間《ぎやくしんつかまつりさふらふあひだ》、退治仕度存候《たいぢつかまつりたくぞんじさふら》へ共《ども》。相馬《さうま》より介抱申候《かいはうまをしさふらふ》に依《よつ》て、延引申候處《えんいんまをしさふらふところ》、田村下中《たむらかちう》(家中)[#「(家中)」は1段階小さな文字]の者共《ものども》過半《くわはん》相馬《さうま》へ引付《ひきつけ》、其上《そのうへ》田村《たむら》の城《しろ》を|乘取可[#レ]申《のつとりまをすべく》と、義胤《よしたね》|支度被[#レ]申候處《したくまをされさふらふところ》、田村《たむら》に拙者《せつしや》身方御座候《みかたござさふらう》て、防戰仕候故《ばうせんつかまつりさふらふゆゑ》、相馬《さうま》へ歸陣申候《きぢんまをしさふらふ》。右《みぎ》石川彈正《いしかはだんじやう》は、相馬《さうま》へ引除《ひきのき》、今《いま》に罷在候《まかりありさふらふ》。依《よつ》て不和《ふわ》に罷成候《まかりなりさふらふ》、度々《たび/\》合戰《かつせん》に及《およ》び候事《さふらふこと》。
一 大崎左衞門義隆《おほさきさゑもんよしたか》とは、知行境論仕《ちぎやうさかひのろんつかまつり》、中違《なかたがひ》度々《たび/\》合戰仕候事《かつせんつかまつりさふらふこと》。
一 佐竹義重《さたけよししげ》、岩城常隆《いはきつねたか》、會津義廣《あひづよしひろ》(蘆名)[#「(蘆名)」は1段階小さな文字]須賀川盛義事《すかがはもりよしこと》は、最初《さいしよ》申上候通《まをしあげさふらふとほり》に御座候《ござさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
政宗側《まさむねがは》の辯護《べんご》としては、是《こ》れ以上《いじやう》事理明白《じりめいはく》の事《こと》はあるまい。
彼《かれ》は固《もと》より一|死《し》を分《ぶん》とし、水引《みづひき》にて髻《もとどり》を結《むす》び、甲冑《かつちう》を被《かうむ》り、素衣《そい》を著《き》て、凶服《きようふく》の状《じやう》をなして、小田原《をだはら》に著《ちやく》した。〔藩祖成績〕[#「〔藩祖成績〕」は1段階小さな文字]されば如何《いか》なる鞠問《きくもん》も、固《もと》より意《い》とする所《ところ》でなかつた。彼《かれ》は底倉蟄居《そこくらちつきよ》の際《さい》には、千利休《せんのりきう》を招《まね》き、茶儀《ちやぎ》を學《まな》んだ。秀吉《ひでよし》は之《これ》を聞《き》き、死生《しせい》の境《さかひ》にありつゝ、這般《しやはん》の風流《ふうりう》を事《こと》とするは、如何《いか》にも好男兒《かうだんじ》だと嘆賞《たんしやう》して、遂《つ》ひに引見《いんけん》する事《こと》となつた。〔藩祖成績〕[#「〔藩祖成績〕」は1段階小さな文字]伊達家《だてけ》に關係《くわんけい》ある藩祖成績《はんそせいせき》、藩祖實録《はんそじつろく》の諸書《しよしよ》、何《いづ》れも、六|月《ぐわつ》廿四|日《か》、始《はじ》めて秀吉《ひでよし》に謁《えつ》するとあれど政宗《まさむね》の六|月《ぐわつ》十四|日附《かづけ》の直書《ぢきしよ》には、
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●一 去《さる》五|日《か》小田原《をだはら》江[#「江」は行右小書き]|著陣《ちやくぢん》。同《どう》九|日《か》已刻[#「已刻」は行右小書き]|令[#二]出仕[#一]《しゆつしせしめ》、同《どう》十|日《か》朝《あさ》に茶之湯《ちやのゆ》に而[#に而は行右小書き]|被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、名物共《めいぶつども》|御爲[#レ]見《おんみせられ》、|就[#レ]中《なかんづく》天下《てんか》に三ツ共《とも》|無[#レ]之《これなき》御刀《おんかたな》、脇指《わきざし》懇談《こんだん》|被[#レ]下候《くだされさふらふ》。其外《そのほか》御入魂之儀共《ごじゆつこんのぎども》、|不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》。扨又《さてまた》|爲[#二]休息[#一]《きうそくのため》|被[#二]相返[#一]候《あひかへされさふらふ》。今日《こんにち》|從[#二]小田原[#一]《をだはらより》當藤澤《たうふぢさは》江[#「江」は行右小書き]|相著候《あひちやくしさふらふ》、廿四五|日比者《にちごろは》、黒河《くろかは》へ|可[#二]相歸[#一]候《あひかへるべくさふらふ》。奧州《あうしう》五十四|郡《ぐん》、出羽《では》十二|郡《ぐん》、皆以《みなもつて》|仕置被[#二]仰付[#一]候《しおきおほせつけられさふらふ》。會津之事者《あひづのことは》、一|端《たん》|被[#二]仰出[#一]候條《おほせいだされさふらふでう》、先々《まづ/\》關白樣《くわんぱくさま》御藏所《おくらしよ》に|被[#レ]成候《なされさふらふ》。〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
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とあれば、此《こ》れを信憑《しんぴよう》す可《べ》きである。此《こ》れは政宗《まさむね》が其《そ》の内輪《うちわ》に申《まを》し遣《つかは》した文書《ぶんしよ》なれば、固《もと》より多少《たせう》の囘護《くわいご》はあつたとするも、大體《だいたい》に於《おい》ては、事實《じじつ》と認《みと》めねばなるまい。
彼《かれ》が秀吉《ひでよし》と會見《くわいけん》の模樣《もやう》は、小説《せうせつ》じみたる各種《かくしゆ》の傳説《でんせつ》がある。然《しか》も伊達日記《だてにつき》によれば、
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一 小田原《をだはら》御陣所《ごぢんしよ》に石垣《いしがき》|御普請被[#レ]成候半《ごふしんなされさふらふなかば》に、芝居《しばゐ》にて、太閤樣《たいかふさま》、曲録《きよくろく》に、御腰《おんこし》をかけられ、家康《いへやす》、利家《としいへ》を始《はじめ》、大名衆《だいみやうしゆう》餘多御座候《あまたござさふらふ》。|御禮被[#レ]成《おんれいなされ》、|御歸可[#レ]有《おかへりあるべし》と思召候處《おぼしめしさふらふところ》に、政宗《まさむね》と二|聲《こゑ》御意候而《ぎよいさふらうて》、小田原《をだはら》の城《しろ》の見《み》え候方《さふらふかた》へ御向《おんむかひ》御杖《おんつゑ》を以《もつ》て地《ぢ》を御指《おんさし》、是《これ》へ/\と御意《ぎよい》、其間《そのあひだ》遠候《とほくさふらふ》。御參候處《おんまゐりさふらふところ》に、脇差《わきざし》御《おん》さし候《さふらふ》を、御忘《おんわす》れ|被[#レ]成《なされ》、中程《なかほど》にて御拔《おんぬき》、下《しも》に和久宗是《わくそうぜ》居申《ゐまを》され候《さふらふ》、御念比《ごねんごろ》にて候間《さふらふあひだ》。宗是《そうぜ》へなげさせられ、御膳《ごぜん》へ御參候《おんまゐりさふらふ》。一|間許《けんばかり》近《ちかく》へ|御呼被[#レ]成《おんよびなされ》、御杖《おんつゑ》を以《もつ》て城《しろ》の樣子《やうす》、何方《いづかた》/\と御指候而《おんさしさふらふて》|教御申被[#レ]成候《をしへおんまをしなされさふらふ》。政宗公《まさむねこう》も思召之通《おぼしめしのとほり》仰上《おほせあげ》られ候《さふらふ》を、大名衆《だいみやうしゆ》何《いづ》れも聞召《きこしめし》、田舍者《ゐなかもの》に候《さふら》へども、脇指《わきざし》の投《な》げ樣《やう》、物《もの》の申《まをし》ぶり、御前《ごぜん》にて落《お》ちぶれぬ體《てい》、|及[#レ]聞候程《きゝおよびさふらふほど》の者《もの》の由《よし》御譽候由《おんほめさふらふよし》、宗是《そうぜ》物語《ものがたり》を後《のちに》承候《うけたまはりさふらふ》。
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是《こ》れが恐《おそ》らくは事實《じじつ》の眞相《しんさう》であらう。兎《と》にも角《かく》にも政宗《まさむね》は、一|囘《くわい》の會見《くわいけん》にて及第《きうだい》した。而《しか》して彼《かれ》は會津《あひづ》、岩瀬《いはせ》、安積《あさか》三|郡《ぐん》を、秀吉《ひでよし》より沒收《ぼつしう》せられ、安達《あだち》、二|本松《ほんまつ》、信夫《しのぶ》、伊達《だて》、刈田《かつた》、柴田《しばた》、伊具《いぐ》、亙理《わたり》、名取《なとり》、宮城《みやぎ》、黒川《くろかは》、志田《しだ》、松山《まつやま》、桃生《もゝふ》、深谷《ふかや》、及《およ》び出羽《では》置賜郡《おきたまぐん》、合計《がふけい》七十|餘萬石《よまんごく》を賜《たま》うた。此《こ》の以外《いぐわい》に宇多郡中《うだぐんちゆう》相馬諸邑《さうましよいふ》も、秀吉《ひでよし》檢察漏《けんさつも》れにて、遂《つ》ひに政宗《まさむね》の有《いう》となつた。
要《えう》するに此《こ》の會見《くわいけん》は、政宗《まさむね》に取《と》りて固《もと》より成功《せいこう》であり、秀吉《ひでよし》に取《と》りて、亦《ま》た成功《せいこう》であつた。併《しか》し尚《な》ほ、謀反氣《むほんぎ》多《おほ》き政宗《まさむね》の態度《たいど》は、波瀾曲折《はらんきよくせつ》した。
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[#6字下げ]秀吉政宗對面
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伊達政宗小田原陣の時秀吉公へ見えん爲めに、奧州會津より越後信濃へ廻り、小田原秀吉公の御陣に來る。秀吉公御滿足、頓て御對面、其日の御裝束、作り髭、三尺計なる朱鞘の御太刀佩き給ひ、床机に腰を掛け細き杖を衝き居給ふ。政宗は其時の首尾に因り、秀吉公を突殺さんと懷に小脇指を入て參りたり。然る所に秀吉公床机に腰を掛け乍ら、コナタへ々々々々、近く寄れ々々々々と宣ふ、政宗アツと云儘に刀脇指を脱き、四五間投捨て御近く寄る。秀吉公御杖にて地を突き、此處へ々々々と宣ふ。畏まつて其所へ行く、其時政宗の首を御杖にてツツキ、扨も其方はウイ奴《やつ》なり、若き者なるが善き時分に來りたり、今少し遲く來りたらば爰が危なかつたと宣ふ。政宗は突き殺さんと思ふ事は、失念して首に熱湯を懸くる樣なり。其時秀吉公鷹野に往んと思ふが、供に可[#レ]往かと被[#レ]仰政宗可[#レ]參と申、さらば此刀を持てとて、御太刀を政宗に持せ給ふ。政宗何の心も無く、是は出頭をすると見えたりと嬉しく思ひ、御太刀を持ち鷹野の供して歸る。頓て御暇被[#レ]下、歸國仕たりと。政宗直に中納言(前田利常)樣へ御物語被[#レ]成たるを、御次の間に居て聞たると、前田七郎兵衞談る。〔關屋正春覺書〕
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