第六章 關東諸城の陷落
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第六章 關東諸城の陷落[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【三三】關東に於ける支隊の運動[#中見出し終わり]

曩《さ》きに山中城《やまなかじやう》の援將《ゑんしやう》として、同城《どうじやう》の陷落《かんらく》と與《とも》に脱出《だつしゆつ》し、居城《きよじやう》玉繩《たまなは》に還《かへ》りたる北條氏勝《ほうでううぢかつ》は、氏直《うぢなほ》の招《まね》きに應《おう》じて小田原《をだはら》にも赴《おもむ》かず、又《ま》た家康《いへやす》の諭降《ゆかう》を斥《しりぞ》け、我《わ》が居城《きよじやう》と存亡《そんばう》を共《とも》にせんとしたが、其《そ》の師契《しけい》ある、大應寺《だいおうじ》の僧《そう》良達《りやうたつ》の忠告《ちゆうこく》により、遂《つ》ひに剃頭《ていとう》、染衣《せんい》の姿《すがた》にて、四|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、家康《いへやす》の營《えい》に來《きた》り、秀吉《ひでよし》に早雲寺《さううんじ》に謁《えつ》した。秀吉《ひでよし》は其《そ》の監視《かんし》を家康《いへやす》に命《めい》じ、二十八|日《にち》に玉繩城《たまなはじやう》を收《をさ》めた。
秀吉《ひでよし》の小田原城《をだはらじやう》を包圍《はうゐ》する、既《すで》に二十|餘日《よにち》に及《およ》ぶも、城兵《じやうへい》何等《なんら》屈服《くつぷく》の模樣《もやう》が見《み》えぬ。されば先《ま》づ關東諸城《くわんとうしよじやう》を征略《せいりやく》し、小田原《をだはら》を孤立《こりつ》せしめんと、四|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》と諮《はか》り、淺野長政《あさのながまさ》、木村重※[#「玄+玄」、159-10]《きむらしげこれ》、及《およ》び家康《いへやす》の部將《ぶしやう》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、平岩親吉《ひらいはちかよし》、鳥居元忠等《とりゐもとたゞら》兵《へい》約《やく》一|萬《まん》三千|人《にん》の分遣隊《ぶんけんたい》を編成《へんせい》し、之《これ》に赴《おもむ》かしめた。彼等《かれら》は翌《よく》二十六|日《にち》出發《しゆつぱつ》し、鎌倉《かまくら》に一|泊《ぱく》し、新降《しんかう》の北條氏勝《ほうでううぢかつ》を先導《せんだう》として、二十七|日《にち》江戸城《えどじやう》を收《をさ》めた。(當時《たうじ》城主《じやうしゆ》遠山政景《とほやままさかげ》は、小田原城《をだはらじやう》にあり、其《そ》の子《こ》直景《なほかげ》、其《そ》の弟《おとうと》川村秀重《かはむらひでしげ》、及《およ》び眞田昌幸《さなだまさゆき》の弟《おとうと》信尹《のぶたゞ》之《これ》を守《まも》つて居《ゐ》たが、當時《たうじ》直景《なほかげ》、信尹《のぶたゞ》の兩人《りやうにん》、秀重《ひでしげ》を追《お》ひ、秀吉方《ひでよしがた》に降《くだ》つた。家康《いへやす》は二十二|日《にち》、戸田忠次《とだたゞつぐ》を此《こ》の城《しろ》に措《お》いた。)
此《こ》れより兵《へい》を分《わか》つて、上總《かづさ》の土氣《とけ》、東金《とうがね》、鳴門《なると》、本納《ほんなふ》、茂原《もばら》、長南《ちやうなん》、眞里《まり》ヶ|谷《やつ》、池和田《いけわだ》、椎津《しひづ》、五井《ごゐ》、萬喜《まんき》、鶴《つる》ヶ|城《しろ》、伊南《いなみ》、小濱《こばま》、一ノ宮《みや》、大多喜《おほだき》、勝浦《かつうら》、小絲《こいと》、佐貫《さぬき》、窪田《くぼた》、下總《しもふさ》の海上《うなかみ》、飯沼《いひぬま》、矢作《やはぎ》、布川《ふかは》、關宿《せきやど》、古河《こが》、國府臺《こふのだい》、千|葉《ば》、葛西等《かさいとう》の數《す》十|城《じやう》を徇《とな》へた。而《しか》して増援《ぞうゑん》として、秀吉《ひでよし》は山崎片家《やまざきかたいへ》、岡本良勝等《をかもとよしかつら》を、家康《いへやす》は酒井家次《さかゐいへつぐ》、内藤家永等《ないとういへながら》を派遣《はけん》して、五|月《ぐわつ》十八|日《にち》家次《いへつぐ》は、臼井城《うすゐじやう》を、家永《いへなが》は佐倉城《さくらじやう》を收《をさ》めた。
秀吉《ひでよし》は長政《ながまさ》、重※[#「玄+玄」、160-12]等《しげこれら》が、徒《いたづ》らに大兵《たいへい》を擁《よう》して、脆弱《ぜいじやく》なる兩總《りやうそう》諸城《しよじやう》のみを略取《りやくしゆ》したるを怒《いか》り、二十|日附《かづけ》にて、書《しよ》を兩人《りやうにん》に與《あた》へ、速《すみや》かに東山道《とうさんだう》より攻《せ》め入《い》りたる前田《まへだ》、上杉《うへすぎ》の支軍《しぐん》に合《がつ》し、鉢形城《はちがたじやう》を攻圍《こうゐ》すべきを命《めい》じた。此《こ》の書簡《しよかん》は、實《じつ》に激烈《げきれつ》を極《きは》めて居《を》る。吾人《ごじん》は其《そ》の長文《ちやうぶん》を厭《いと》はず、※[#「玄+玄」、161-2]《こゝ》に掲《かゝ》ぐることゝした。そは種々《しゆ/″\》の意味合《いみあひ》にて、此《こ》の書簡《しよかん》は見逃《みのが》し難《がた》き筋《すぢ》があるからだ。
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急度《きつと》|被[#二]仰遺[#一]候《おほせつかはされさふらふ》。鉢形城《はちがたじやう》、越後宰相中將《ゑちごさいしやうちうじやう》(景勝)[#「(景勝)」は1段階小さな文字]加賀宰相《かがさいしやう》(利家)[#「(利家)」は1段階小さな文字]兩人《りやうにん》|可[#二]取卷[#一]由《とりまくべきよし》、|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》。然者《しかれば》此方《こなた》より相越候《あひこしさふらふ》人數《にんず》、其取卷刻者《そのとりまきのこくは》、兩人之人數《りやうにんのにんず》與[#「(與)」は行右小書き]《と》一つに成《なり》、陣取以下《ぢんどりいか》堅《かたく》申付上《まをしつけしうへ》において、此方《こなた》より|被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》人數《にんず》、又《また》は佐竹《さたけ》、結城《ゆふき》、其外《そのほか》八ヶ|國之内諸侍《こくのうちのしよざむらひ》、御太刀《おんたち》をもおさめ候《さふらふ》者共《ものども》召連《めしつれ》、何之城成《いづれのしろなり》とも、|不[#二]相渡[#一]所《あひわたさゞるところ》|於[#レ]有[#レ]之者《これあるにおいては》執卷《とりまき》、いづれの道《みち》にも|可[#二]討果[#一]儀《うちはたすべきぎ》、切々《せつ/\》|被[#二]仰遣[#一]候處《おほせつかはされさふらふところ》に、小屋小屋《こやごや》の端城共《はじろども》、二|萬餘《まんあま》りの人數《にんず》にて請取候事《うけとりさふらふこと》、|不[#レ]能[#二]分別[#一]候事《ふんべつするあたはずさふらふこと》。
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實《じつ》に秀吉《ひでよし》の叱咤《しつた》の聲《こゑ》が、紙上《しじやう》に轟《とゞろ》くの想《おもひ》がある。二|萬《まん》の人衆《じんしゆう》にて、小屋々々《こや/″\》の端城《はじろ》を請取《うけと》り、此《こ》れにて任務《にんむ》が濟《す》んだと思《おも》ふ乎《か》。如何《いか》にも秀吉《ひでよし》の大目玉《おほめだま》が飛《と》び出《だ》した樣《やう》である。
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一 大軍《たいぐん》を|被[#二]召連[#一]《めしつれられ》、八ヶ|國之内《こくのうち》、四五ヶ|國《こく》持候《もちさふらふ》北條《ほうでう》を日本《にほん》五十ヶ|國餘之國《こくよのくに》の者《もの》として、|可[#レ]刎[#レ]首儀《くびをはぬべきぎ》は、勿論《もちろん》にて候《さふらふ》。其上《そのうへ》關白《くわんぱく》|被[#レ]出[#二]御馬[#一]候《おうまをいだされさふらう》ては、はね能《のう》、しめ能《のう》、狂言迄《きやうげんまで》|無[#レ]之候《これなくさふらう》ては、御馬《おうま》をば|被[#レ]冶間敷候條《をさめられまじくさふらふでう》、其分別《そのふんべつ》|可[#レ]然候事《しかるべくさふらふこと》。
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天下《てんか》の大兵《たいへい》を傾《かたむ》け來《きた》れる秀吉《ひでよし》は、はね能《のう》、しめ能《のう》、狂言迄《きやうげんまで》、一から十|迄《まで》、徹底的《てつていてき》にやりつゞくる覺悟《かくご》だ。汝等《なんぢら》は之《これ》を悟《さと》らぬ乎《か》。篤斗《とくと》分別《ふんべつ》せよとは、秀吉《ひでよし》の申分《まをしぶん》であつた。
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一 常陸《ひたち》(木村重※[#「玄+玄」、162-8])[#「(木村重※[#「玄+玄」、162-8])」は1段階小さな文字]彈正《だんじやう》(淺野長政)[#「(淺野長政)」は1段階小さな文字]一|人之人數程《にんのにんずほど》、持《も》たせられ候時《さふらふとき》さへ、三|木之干殺《きのほしころ》し(天正八年)[#「(天正八年)」は1段階小さな文字]鳥取《とつとり》のかつやかし(餓)[#「(餓)」は1段階小さな文字]殺《ころ》し、十三ヶ|國《ごく》持候《もちさふらふ》毛利《まうり》を、六|町《ちやう》七|町之内《ちやうのうち》に、五|萬《まん》六|萬《まん》の人數《にんず》を後卷《うしろまき》にうけさせられ、太刀《たち》も刀《かたな》も|不[#レ]入《いらず》、水《みづ》をくれ候《さふらう》て、|可[#レ]被[#レ]成[#二]御覽[#一]《ごらんなさるべし》と|被[#二]思召[#一]候剋《おぼしめされさふらふこく》、兩人之者《りやうにんのもの》は存候哉《ぞんじさふらふや》。總見院殿《そうけんゐんでん》(信長)[#「(信長)」は1段階小さな文字]六|月《ぐわつ》二|日《か》(同十年)[#「(同十年)」は1段階小さな文字]御腹《おんはら》をめされ候事《さふらふこと》、三|日《か》の晩《ばん》に、彼高松表《かのたかまつおもて》へ相聞候時《あひきこえさふらふとき》、右之高松城主《みぎのたかまつじやうしゆ》(清水宗治)[#「(清水宗治)」は1段階小さな文字]水《みづ》をくらひて死事《しすこと》は無念次第候間《むねんのしだいにさふらふあひだ》、船《ふね》を一|艘《そう》|被[#レ]下候《くだされさふら》はゞ、御前《ごぜん》にて腹《はら》を切《き》り申度候由《まをしたくさふらふよし》、御嘆申《おんなげきまをす》といへども、二|日《か》の日《ひ》、御腹《おんはら》めされ候《さふらふ》によつて相《あひ》ゆるし、舟《ふね》を遣《つかはし》、腹《はら》を切《き》らせ候《さふらふ》と、敵味方《てきみかた》の諸卒《しよそつ》存候《ぞんじさふらう》てはと|被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらう》て、六|日《か》(四日の誤)[#「(四日の誤)」は1段階小さな文字]の日迄《ひまで》、舟《ふね》を|不[#レ]被[#レ]遣候處《つかはされずさふらふところ》に、毛利方《まうりがた》より、國《くに》を五ヶ|國《こく》、彼高松城《かのたかまつじやう》に相添《あひそへ》、|進上可[#レ]申旨《しんじやうまをすべきむね》、種々《いろ/\》懇望申候間《こんまうまをしさふらふあひだ》、船《ふね》を|被[#レ]遣《つかはされ》、高松城主《たかまつじやうしゆ》腹《はら》をきらせられ候《さふらう》て、毛利《まうり》をゆるさせられ、彼逆徒等《かのぎやくとら》|明智可[#レ]被[#レ]刎[#レ]首事《あけちのくびをはねらるべきこと》こそ、道《みち》の道《みち》にて候《さふらふ》と|被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、高松《たかまつ》の城《しろ》其外之城々《そのほかのしろ/″\》|被[#二]請取[#一]《うけとられ》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]《じじつをうつさず》馳上《はせのぼり》、|光秀被[#レ]刎[#レ]首候事《みつひでのくびをはねられさふらふこと》を、兩人《りやうにん》は忘申候歟《わすれまをしさふらふか》。自然《しぜん》兩人家中《りやうにんかちう》にも覺《おぼ》え候者《さふらふもの》|有[#レ]之《これあら》ば相尋《あひたづね》、鉢形《はちがた》の|城可[#二]取卷[#一]儀《しろをとりまくべきぎ》、|可[#レ]有[#レ]之候哉《これあるべくさふらふや》。景勝《かげかつ》、利家《としいへ》に|可[#二]入合[#一]申候由《いりあふべくまをしさふらふよし》こそ堅《かたく》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》に、安房國境目《あはのくにさかひめ》、常陸國境目迄《ひたちのくにさかひめまで》、彼《かの》おとり人數《にんず》を召連相越《めしつれあひこし》、持《もち》かね候城《さふらふしろ》を請取候儀《うけとりさふらふぎ》、天下之手柄《てんかのてがら》には、成申間敷候哉《なりまをすまじくさふらふかな》。城《しろ》相渡者《あひわたすもの》|有[#レ]之《これあら》ば、鉢形城《はちがたじやう》を取卷候上《とりまきさふらふうへ》にて、それ/″\に上使《じやうし》に二百三百|宛《づゝ》相《あひ》そへ、人數《にんず》を遣《つかはし》、うけ取候《とりさふらう》てこそ、|可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》に、敵《てき》|有[#レ]之所《これあるところ》は差置《さしおき》、二|萬許《まんばかり》の人數《にんず》を召連《めしつれ》あるき候事《さふらふこと》。御分別《ごふんべつ》|無[#レ]之候事《これなくさふらふこと》。
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頗《すこぶ》る長談義《ながだんぎ》となつた事《こと》だ。我《わ》が手柄《てがら》の復習《ふくしふ》は、秀吉《ひでよし》の十八|番《ばん》だ。然《しか》も字々句々《じゞくゝ》恰《あだか》も秀吉《ひでよし》の口吻《こうふん》、丸出《まるだ》しだ。其《そ》の自己《じこ》一|代《だい》の成功《せいこう》を歴擧《れききよ》して、兩人《りやうにん》の腑甲斐《ふがひ》なきに反襯《はんしん》し、之《これ》を熱罵《ねつば》し、之《これ》を冷笑《れいせう》し、其《そ》の頂門《ちやうもん》に大鍼《たいしん》を下《くだ》したる、如何《いか》に痛快《つうくわい》なるよ。
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一 此面《このおもて》は陣取《ぢんどり》堅《かたく》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、其上《そのうへ》、仕寄以下《しよせいか》、廿|間《けん》、卅|間《けん》の内《うち》に、|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、夜番《よばん》日番《ひばん》|雖[#下]無[#二]其差別[#一]候[#上]《そのさべつなくさふらふといへども》、北條《ほうでう》の表裏者《へうりは》、人數《にんず》二三|萬《まん》も構内《こうない》に相籠《あひこもり》、其上《そのうへ》百|姓《しやう》、町人《ちやうにん》|不[#レ]知[#二]其數[#一]《そのかずしれず》|雖[#レ]有[#レ]之《これあるといへども》、臆病者《おくびやうもの》と|被[#レ]覃[#レ]見候間《みおよばれさふらふあひだ》、御座所之御普請《ござしよのごふしん》を、彼《かの》夜番《よばん》日番《ひばん》を仕候《つかまつりさふらふ》人數《にんず》に|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、磊《いしころ》重々《ぢゆう/″\》につかせられ候《さふらう》て、聚樂《じゆらく》又《また》は大阪《おほさか》の普請《ふしん》を、數年《すねん》させられ候《さふらふ》に|不[#二]相劣[#一]樣《あひおとらざるやう》に|被[#二]思食[#一]候《おぼしめされさふらふ》。此表衆《このおもてしゆう》は、|如[#二]右書付[#一]申付候《みぎかきつけのごとくまをしつけさふら》へば、晝夜《ちうや》の粉骨《ふんこつ》中々《なか/\》|不[#レ]可[#二]勝計[#一]候間《あげてかぞふべからずさふらふあひだ》、鉢形面《はちがたおもて》へ、一おどり(踊)[#「(踊)」は1段階小さな文字]かけ候《さふらひ》て|可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》。|如[#レ]此《かくのごとく》懇々《こん/\》|被[#二]仰聞[#一]候事《おほせきけられさふらふこと》は、兩人《りやうにん》の者《もの》、せがれ(少壯)[#「(少壯)」は1段階小さな文字]より、よく/\存候《ぞんじさふらふ》に、鉢形城《はちがたじやう》おそく取卷候《とりまきさふらふ》に付而《ついて》、|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふらふ》。最前《さいぜん》山崎志摩守《やまざきしまのかみ》、岡本下野守《をかもとしもつけのかみ》、兩人《りやうにん》にも、右趣《みぎおもむき》は|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふらふ》に、理《わけ》もなき所《ところ》へひそり候事《さふらふこと》、|無[#二]是非[#一]候《ぜひなくさふらふ》。江戸《えど》請取候《うけとりさふらう》てより、川越《かはごえ》に罷《まかり》こし、それより松井田《まつゐだ》へ入合候樣《いりあひさふらふやう》にも、|被[#二]仰遣[#一]候《おほせつかはされさふらふ》に、弓《ゆみ》と弦《つる》のやうなる所《ところ》へ、ひそり候事《さふらふこと》、如何成《いかなる》分別候哉《ふんべつにさふらふや》。所詮《しよせん》景勝《かげかつ》、利家相談《としいへとあひだんじ》、早々《さう/\》|至[#二]于鉢形[#一]《はちがたにいたり》押寄《おしよせ》、|可[#二]取卷[#一]候也《とりまくべくさふらふ》。
  五月廿日(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]秀吉(御判)[#「(御判)」は1段階小さな文字]
   淺野彈正小弼どのへ
   木村常陸介どのへ
[#ここで字下げ終わり]
小田原《をだはら》攻圍軍《こうゐぐん》の面々《めん/\》は、粉骨韲身《ふんこつさいしん》、日夜《にちや》を分《わか》たず、奉公《ほうこう》を勵《はげ》み居《ゐ》つゝあるに、汝等《なんぢら》は大兵《たいへい》を率《ひき》ゐ、予《よ》が命令《めいれい》を遵守《じゆんしゆ》せず、悠々《いう/\》、閑々《かん/\》として、敵《てき》なき方面《はうめん》に彷徨《はうくわう》、低徊《ていくわい》しつゝあるは、何故《なにゆゑ》ぞ。此《こ》の上《うへ》は只《た》だ速《すみやか》に鉢形城《はちがたじやう》に向《むか》ひ、景勝《かげかつ》、利家《としいへ》と戮協《りくけふ》して、攻圍《こうゐ》せよとの催促《さいそく》だ。
惟《おも》ふに此《こ》の書簡《しよかん》は、秀吉《ひでよし》書簡中《しよかんちう》の尤《もつと》も氣※[#「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87]《きえん》あり、精彩《せいさい》ある一である。固《もと》より侍史《じし》の手《て》になりたるに相違《さうゐ》なきも、全《まつた》く秀吉《ひでよし》の口授《くじゆ》を筆記《ひつき》したるやの看《かん》がある。如何《いか》にも秀吉《ひでよし》其人《そのひと》が、文句《もんく》の上《うへ》にあり/\と現《あらは》れて居《を》る。蓋《けだ》し稀有《けう》の名文《めいぶん》と云《い》はねばなるまい。然《しか》も彼等《かれら》兩人《りやうにん》は、此《こ》の書簡《しよかん》を受取《うけと》るに先《さきだ》ち、既《すで》に兵《へい》を率《ひき》ゐて、岩槻城《いはつきじやう》に向《むか》うて居《ゐ》た。

[#5字下げ][#中見出し]【三四】岩槻城の攻撃[#中見出し終わり]

抑《そもそ》も岩槻城《いはつきじやう》は、江戸城《えどじやう》と與《とも》に、長祿《ちやうろく》元年《ぐわんねん》太田道灌《おほただうくわん》が築《きづ》いた名城《めいじやう》である。武藏國《むさしのくに》埼玉郡《さいたまごほり》の南部《なんぶ》に位《くらゐ》し、江戸《えど》より九|里《り》、奧羽《あうう》へ通《つう》ずる線路《せんろ》に當《あた》る。西南《せいなん》を首《しゆ》とし、東北《とうほく》を尾《び》とし、本丸《ほんまる》、二ノ丸《まる》、内外《ないぐわい》の郭《くるわ》、二の櫓臺《やぐらだい》、七つの城門《じやうもん》があつた。本城《ほんじやう》は東北《とうほく》に元荒川《もとあらかは》の水《みづ》流《なが》れ、東《ひがし》より南《みなみ》へ亘《わた》りては、堀《ほり》を設《まう》け、或《あるひ》は深田《ふかだ》をもて要害《えうがい》に充《あ》て、外郭《そとぐるわ》に五ヶ|所《しよ》の門《もん》あり。其《そ》の内《うち》諏訪小路《すはこうぢ》、松田口《まつだぐち》の門外《もんぐわい》は、市店《してん》連住《れんぢゆう》し、其《そ》の餘《よ》の門外《もんぐわい》は田間《でんかん》にして、城下町《じやうかまち》は其《そ》の内《うち》に在《あ》つた。郭外《くわくぐわい》を廻《まは》れば、凡《およ》そ二|里《り》に餘《あま》つた。時《とき》に城主《じやうしゆ》太田氏房《おほたうぢふさ》は小田原《をだはら》にあり、留守《るす》伊達房實等《だてふさざねら》内城《ないじやう》を、妹尾兼延等《せのをかねのぶら》外郭《そとぐるわ》を守《まも》り、其《そ》の兵《へい》二千|餘人《よにん》。而《しか》して淺野《あさの》、木村等《きむらら》の攻圍軍《こうゐぐん》は、二|萬餘人《まんよにん》であつた。
彼等《かれら》は五|月《ぐわつ》十九|日《にち》、岩槻附近《いはつきふきん》に抵《いた》り、二十|日《か》早天《さうてん》、三|面《めん》より攻《せ》め寄《よ》せた。即《すなは》ち西南部《せいなんぶ》追手方向《おふてはうかう》より淺野長政《あさのながまさ》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》三千|人《にん》。南部《なんぶ》新曲輪方向《しんくるわはうかう》より平岩親吉《ひらいはちかよし》、鳥居元忠《とりゐもとたゞ》七千|人《にん》。北部《ほくぶ》搦手方向《からめてはうかう》より木村重※[#「玄+玄」、167-7]《きむらしげこれ》二千八百|人《にん》。此《こ》れには太田《おほた》三|樂《らく》の子《こ》、梶原政景《かぢはらまさかげ》屬《ぞく》した。其《そ》の他《た》山崎片家《やまざきかたいへ》、岡本良勝《をかもとよしかつ》の兵《へい》二千二百|人《にん》、及《およ》び軍監《ぐんかん》赤座直保《あかざなほやす》、※[#「郷+向」、167-9]導《きやうだう》北條氏勝等《ほうでううぢかつら》も、此《こ》の攻撃《こうげき》に參加《さんか》した。
淺野《あさの》、本多《ほんだ》の兩隊《りやうたい》は、總構《そうがまへ》の追手門《おふてもん》に向《むか》うたが、城將《じやうしやう》妹尾兼延等《せのをかねのぶら》、善《よ》く拒《ふせ》ぎ戰《たゝか》うた。然《しか》も兩隊《りやうたい》は奮鬪《ふんとう》して、總構《そうがまへ》を破《やぶ》り、敵《てき》を驅逐《くちく》して内城《ないじやう》に迫《せま》つた。兼延等《かねのぶら》追手門外《おふてもんぐわい》に返戰《へんせん》し、内城《ないじやう》の兵《へい》亦《ま》た之《これ》に赴《おもむ》いた。
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|于[#レ]時《ときに》淺野長政《あさのながまさ》謀《はかりごと》を囘《めぐ》らし、城外《じやうぐわい》の風上《かざかみ》に、火《ひ》を懸《か》けしかば、折節《をりふし》風《かぜ》強《つよ》うして、餘烟《よえん》城中《じやうちう》に掩《おほ》ふを見《み》て、敵兵《てきへい》引退《ひきしりぞ》く。寄手《よせて》利《り》に乘《じよう》じて遂《おひ》かくる處《ところ》に、岩槻勢《いはつきぜい》大手《おほて》の門前《もんぜん》にて、返《かへ》し合《あは》せ、亦《また》大《おほい》に戰《たゝか》ひ、味方《みかた》手追《ておひ》死人《しにん》多《おほ》し。爾共《しかれども》寄手《よせて》疼《ひる》む事《こと》なく、頻《しきり》に競《きそ》ひ進《すゝ》みしまゝ、敵方《てきかた》堪《こら》へ兼《かね》て、城中《じやうちう》に引入《ひきい》る。本多平《ほんだへい》八|郎忠政《らうたゞまさ》(忠勝の子)[#「(忠勝の子)」は1段階小さな文字]十六|歳《さい》、淺野左京大夫幸長《あさのさきやうだいふゆきなが》(長政の子)[#「(長政の子)」は1段階小さな文字]十五|歳《さい》、先登《せんとう》して、大手車橋《おほてくるまばし》の下《うへ》に於《おい》て、勇戰《ゆうせん》せらる。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》く激戰《げきせん》の結果《けつくわ》、遂《つ》ひに兼延等《かねのぶら》を殪《たふ》した。岡本良勝《をかもとよしかつ》、赤座直保《あかざなほやす》亦《ま》た各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》總構《そうがまへ》の一|部《ぶ》を破《やぶ》りて來《きた》り援《たす》けた。城兵《じやうへい》敗退《はいたい》して門《もん》を鎖《よざ》した。寄手《よせて》は之《これ》を追撃《つゐげき》したが、流石《さすが》に名城《めいじやう》なれば、容易《ようい》に拔《ぬ》く可《べ》くもなかつた。
南部《なんぶ》に向《むか》うた鳥居元忠《とりゐもとたゞ》の隊《たい》は、同日《どうじつ》午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》、新曲輪《しんくるわ》の東方《とうはう》に逼《せま》り、平岩親吉《ひらいはちかよし》の隊《たい》は、其《そ》の左《ひだり》に連繋《れんけい》して、南方《なんぱう》に逼《せま》つた。然《しか》るに新曲輪《しんくるわ》の兵《へい》、亦《ま》た善《よ》く拒《ふせ》ぎ、鳥居隊《とりゐたい》の死傷《ししやう》續出《ぞくしゆつ》し、聊《いさゝ》か苦戰《くせん》の態《てい》であつたが、偶《たまた》ま平岩《ひらいは》の隊《たい》が郭外《くわくぐわい》の敵《てき》二|人《にん》、壕《ほり》を渉《わた》りて退《しりぞ》くを見《み》、之《これ》に跟隨《こんずゐ》したるに、水底《すゐてい》に簀《すのこ》を敷《し》きたる二|條《でう》の道《みち》あるを發見《はつけん》し、遂《つ》ひに之《これ》を辿《たど》りて、新曲輪《しんくるわ》の一|部《ぶ》隱居曲輪《いんきよくるわ》を占領《せんりやう》した。
新曲輪《しんくるわ》の守兵《しゆへい》も、之《これ》を見《み》て潰《つひ》え奔《はし》つた。此《こゝ》に於《おい》て鳥居隊《とりゐたい》は之《これ》に乘《じよう》じて奮進《ふんしん》し、城兵《じやうへい》穗坂大炊助《ほさかおほゐのすけ》を殪《たふ》し、新曲輪《しんくるわ》に入《い》り、平岩隊《ひらいはたい》と合《がつ》し、二ノ丸《まる》を攻《せ》めた。板部岡江雪齋《いたべをかかうせつさい》の子《こ》、房恒等《ふさつねら》、本丸《ほんまる》より援兵《ゑんぺい》を得《え》、奮鬪《ふんとう》して門《もん》を鎖《とざ》し、防戰《ばうせん》最《もつと》も力《つと》めた。時《とき》既《すで》に正午《しやうご》を過《す》ぎたから、鳥居《とりゐ》、平岩《ひらいは》の兩隊《りやうたい》は、兵《へい》を引上《ひきあ》げ、警戒《けいかい》を嚴《げん》にした。當時《たうじ》城兵《じやうへい》の戰死《せんし》、一千|餘人《よにん》、頗《すこぶ》る多大《ただい》の損害《そんがい》であつた。此《かく》の如《ごと》く寄手《よせて》は一|戰《せん》に外郭《そとぐるわ》を占領《せんりやう》したから、捷《かち》を秀吉《ひでよし》に報《はう》じ、二十一|日《にち》小田原《をだはら》に達《たつ》した。
却説《さて》内城《ないじやう》を嬰守《えいしゆ》せる、伊達房實等《だてふさざねら》は、多《おほ》く精鋭《せいえい》を失《うしな》ひ、到底《たうてい》籠城《ろうじやう》の見込《みこみ》立《た》ち難《がた》きを見《み》、二十二|日《にち》笠《かさ》を竿端《かんたん》に附《ふ》し、之《これ》を城壁《じやうへき》に掲《かゝ》げ、降服《かうふく》の意《い》を表《へう》し、使僧《しそう》を出《いだ》して、開城《かいじやう》せんことを乞《こ》うた。伊達《だて》は元來《ぐわんらい》安房《あは》鶴《つる》ヶ|谷《やつ》八|幡宮《まんぐう》の神職《しんしよく》の子《こ》であつた、武者修行《むしやしゆぎやう》として、高天神城《たかてんじんじやう》に籠《こも》り、武勇《ぶゆう》の譽《ほまれ》を顯《あらは》した剛《がう》の者《もの》であつた。然《しか》も不可能《ふかのう》を可能《かのう》ならしむる事《こと》は、彼《かれ》にも克《かな》はなかつた。長政等《ながまさら》は之《これ》を許《ゆる》し、北條氏政《ほうでううぢまさ》の妹《いもうと》、太田氏資《おほたうぢすけ》の寡婦《くわふ》、氏資《うぢすけ》の女《むすめ》、太田氏房《おほたうぢふさ》の室《しつ》、及《およ》び其《そ》の他《た》侍大將等《さむらひだいしやうら》の妻子《さいし》を、三ノ丸《まる》に錮《こ》し、秀吉《ひでよし》の監使《かんし》、瀧川法忠《たきがはのりたゞ》、伏屋飛騨守《ふせやひだのかみ》、大屋彌《おほやや》八|郎等《らうら》の來《きた》るを待《ま》ち、之《これ》を交付《かうふ》し。五|月《ぐわつ》晦日《みそか》岩槻《いはつき》を發《はつ》し、六|月《ぐわつ》二|日《か》川越《かはごえ》を過《す》ぎ、東山道支軍《とうさんだうしぐん》の攻圍《こうゐ》せる、鉢形城《はちがたじやう》に赴《おもむ》いた。
長政《ながまさ》、重※[#「玄+玄」、170-2]《しげこれ》は、斯《か》く戰功《せんこう》を立《た》てたるに拘《かゝは》らず、前囘《ぜんくわい》〔參照 本篇三三、關東に於ける支隊の運動〕[#「〔參照 本篇三三、關東に於ける支隊の運動〕」は1段階小さな文字]の折檻《せつかん》に引《ひ》き續《つゞ》き、秀吉《ひでよし》は五|月《ぐわつ》廿五|日附《にちづけ》にては、其《そ》の允可《いんか》を待《ま》たず、漫《みだ》りに開城《かいじやう》を容《ゆる》したるを譴責《けんせき》し、同《どう》廿九|日附《にちづけ》にては、其《そ》の近状《きんじやう》の報告《はうこく》を怠《おこた》りたるを責《せ》め、果《はた》して鉢形《はちがた》に赴《おもむ》いたるや、否《いな》やを詰問《きつもん》した。秀吉《ひでよし》は寛大《くわんだい》なる可《べ》き點《てん》は、寛大《くわんだい》でも、其《そ》の諸將《しよしやう》に對《たい》する紀律《きりつ》、節制《せつせい》、命令《めいれい》の貫徹《くわんてつ》に向《むか》つては、一|毫《がう》も假借《かしやく》する所《ところ》なかつた。即《すなは》ち此《こ》の一|點《てん》に於《おい》ては全《まつた》く信長《のぶなが》其《そ》の人《ひと》の如《ごと》くであつた。

[#5字下げ][#中見出し]【三五】東山道支軍の運動[#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は姑《しば》らく東山道支軍《とうさんだうしぐん》の運動《うんどう》を、觀察《くわんさつ》せねばならぬ。既記《きき》の如《ごと》く、上杉景勝《うへすぎかげかつ》、前田利家等《まへだとしいへら》は、三|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》、眞田昌幸《さなだまさゆき》。松平康國《まつだひらやすくに》と、信州《しんしう》の東部《とうぶ》追分附近《おひわけふきん》にて會合《くわいがふ》し、三|萬《まん》五千|餘人《よにん》を率《ひき》ゐて、上州《じやうしう》に入《い》り、松井田城《まつゐだじやう》に薄《せま》らんとした。從前《じゆうぜん》信濃《しなの》田之口城主《たのくちじやうしゆ》にて、即今《そくこん》北條氏《ほうでうし》に寓客《ぐうかく》たる依田昌朝《よだまさとも》は、北條氏《ほうでうし》の旨《むね》を承《う》け、信濃《しなの》に入《い》り、其《そ》の舊臣《きうしん》及《およ》び土民《どみん》千|餘《よ》を糾合《きうがふ》し、相木郷《あひきがう》の白岩寨《しらいはとりで》に據《よ》つた。康國《やすくに》は其《そ》の弟《おとうと》康貞《やすさだ》と兵《へい》を發《はつ》し、三|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》打《うつ》て之《これ》を平《たひら》げた。されば北陸兵《ほくろくへい》は、何等《なんら》の支障《しゝやう》なく碓氷《うすひ》を越《こ》えた。
松井田城《まつゐだじやう》は、西《にし》に碓氷《うすひ》の險《けん》を控《ひか》へ、東山道《とうさんだう》の要衝《えうしよう》を扼《やく》する、猶《な》ほ小田原城《をだはらじやう》の箱根《はこね》の要害《えうがい》を擁《よう》して、東海道《とうかいだう》の關門《くわんもん》に衝《あた》る趣《おもむき》があつた。當時《たうじ》北條《ほうでう》の老臣《らうしん》大道寺政繁《だいだうじまさしげ》、兵《へい》二千|餘人《よにん》をもて、之《これ》を守《まも》り、西牧城《さいもくじやう》と相連繋《あひれんけい》し、又《ま》た其《そ》の一|隊《たい》をして、坂本《さかもと》及《およ》び横川《よこがは》を警備《けいび》せしめた。
景勝《かげかつ》、利家《としいへ》は三|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、昌幸《まさゆき》、康國《やすくに》の二|隊《たい》を先鋒《せんぽう》とし、碓氷峠《うすひたふげ》を經《へ》て、坂本《さかもと》に進《すゝ》んだ。城兵《じやうへい》其《そ》の優勢《いうせい》なるを見《み》、戰《たゝか》はずして城《しろ》に入《い》つた。景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》は惟《おもへ》らく、假令《たとひ》松井田城《まつゐだじやう》陷《おちい》るとも、近邊《きんぺん》悉《こと/″\》く敵地《てきち》なれば、深々《ふか/″\》と働《はたら》き入《い》らんに、兵糧《ひやうらう》不自由也《ふじいうなり》。同《おなじ》くは敵將《てきしやう》を降參《かうさん》させ、松井田《まつゐだ》、安中《あんなか》を根白《ねじろ》として、糧道《りやうだう》を自由《じいう》になし、而《しか》して軍《ぐん》を進《すゝ》む可《べ》しと。城《しろ》より一|里前《りまへ》に陣《ぢん》し、政繁《まさしげ》を招降《せうかう》した。然《しか》も政繁《まさしげ》肯《うけが》はず、只《た》だ一|戰《せん》の勝負《しようぶ》に任《まか》すべしと答《こた》へたれば、三|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、三|面《めん》より之《これ》を包圍《はうゐ》し、城下《じやうか》の民家《みんか》を火《や》き、竹楯《たけだて》、土俵《どへう》にて仕寄《しよせ》を設《まう》け、井樓《やぐら》を造《つく》りて、之《これ》に逼《せま》つた。即《すなは》ち西部《せいぶ》なる追手《おふて》には、景勝《かげかつ》の兵《へい》約《やく》一|萬人《まんにん》、東部《とうぶ》なる搦手《からめて》には、利家《としいへ》、利長《としなが》父子《ふし》の兵《へい》約《やく》一|萬《まん》八千|人《にん》、北部《ほくぶ》には松平康國《まつだひらやすくに》、康貞《やすさだ》兄弟《きやうだい》約《やく》四千|人《にん》、眞田昌幸《さなだまさゆき》、信幸《のぶゆき》父子《ふし》の兵《へい》約《やく》三千|人《にん》であつた。
然《しか》も政繁《まさしげ》善《よ》く拒《ふせ》ぎ、急《きふ》に落城《らくじやう》す可《べ》くも見《み》えなかつた。四|月《ぐわつ》十|日《か》景勝《かげかつ》、利家《としいへ》其《そ》の戰況《せんきやう》を報《はう》ずるや、同《どう》十六|日附《にちづけ》にて、
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然者《しかれば》松井田城《まつゐだじやう》、既《すでに》九手迄《くてまで》取詰候由《とりつめさふらふよし》、尤之儀候《もつとものぎにさふらふ》。彌《いよ/\》堅固《けんごに》取廻《とりまはし》、悉《こと/″\く》|可[#レ]被[#二]干殺[#一]候《ほしころさるべくさふらふ》。此表《このおもて》に人數《にんず》入候事《いりさふらふこと》|無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、其許《そのもと》仕置《しおき》丈夫《じやうぶ》に|被[#二]申付[#一]候《まをしつけられさふらは》ば、十|騎許《きばかり》にて、道《みち》をまはり、見物《けんぶつ》に|可[#レ]被[#二]相越[#一]候《あひこさるべくさふらふ》べく候《さふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と答《こた》へて居《ゐ》る。此《こゝ》に於《おい》て寄手《よせて》は、長圍《ちやうゐ》の策《さく》を取《と》り、其《そ》の間《あひだ》に於《おい》て、諸隊《しよたい》を分遣《ぶんけん》して、近傍《きんばう》の諸城《しよじやう》を攻略《こうりやく》せしめた。四|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》、松平康國兄弟《まつだひらやすくにきやうだい》兵《へい》一千|人《にん》を率《ひき》ゐて、西牧城《さいもくじやう》を攻《せ》め、城將《じやうしやう》多米長定《ためながさだ》、大谷嘉信《おほたによしのぶ》を殪《たふ》し、之《これ》を拔《ぬ》いた。同《どう》十七|日《にち》上杉《うへすぎ》の部將《ぶしやう》藤田信吉等《ふぢたのぶよしら》兵《へい》一千|餘《よ》を以《もつ》て、國峰城《くにみねじやう》を陷《おとしい》れ、又《ま》た其《そ》の支砦《しさい》宮崎《みやざき》を取《と》つた。前田《まへだ》の一|隊《たい》も亦《ま》た厩橋城《うまやばしじやう》に向《むか》ひ、十九|日《にち》之《これ》を降《くだ》した。金山城主《かなやまじやうしゆ》由良國繁《ゆらくにしげ》、其《そ》の弟《おとうと》足利城主《あしかゞじやうしゆ》長尾顯長《ながをあきなが》と共《とも》に、小田原城《をだはらじやう》に在《あ》つたが、其《そ》の母《はゝ》赤井氏《あかゐし》は、曾《かつ》て北條氏直《ほうでううぢなほ》が、國繁兄弟《くにしげきやうだい》を小田原《をだはら》に招《まね》き、之《これ》を拘留《かうりう》したる舊怨《きうゑん》を啣《ふく》む所《ところ》あり。國繁《くにしげ》の子《こ》貞繁《さだしげ》をして、兵《へい》三百を率《ひき》ゐて、寄手《よせて》に松井田《まつゐだ》に會《くわい》せしめた。
扨《さ》ても景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》、松井田城《まつゐだじやう》を攻圍《こうゐ》する二十|有餘日《いうよじつ》、城兵《じやうへい》毫《がう》も屈《くつ》する所《ところ》なく、堅守《けんしゆ》した。此《こゝ》に於《おい》て四|月《ぐわつ》十九|日《にち》、彌《いよい》よ總攻撃《そうこうげき》を開始《かいし》し、前田《まへだ》の部將《ぶしやう》長連龍《ちやうつらたつ》、奧村永福《おくむらながとみ》、山崎長鏡等《やまざきながあきら》、東南方面《とうなんはうめん》を攻撃《こうげき》し、同時《どうじ》に上杉《うへすぎ》の隊《たい》亦《ま》た、西北《せいほく》の溪間《けいかん》より進《すゝ》み、厩曲輪《うまやくるわ》を攻《せ》め、遂《つ》ひに之《これ》を拔《ぬ》き、水路《すゐろ》を斷《た》ち、樓櫓《ろうろ》を火《や》いた。城將《じやうしやう》政繁《まさしげ》支《さゝ》へ難《がた》きを見《み》て、翌《よく》二十|日《か》降《かう》を乞《こ》ひ、第《だい》二|子《し》直重《なほしげ》を質《ち》とし、且《か》つ其《そ》の兵《へい》を以《もつ》て、※[#「郷+向」、333-9]導《きやうだう》に任《にん》ぜんことを約《やく》した。景勝《かげかつ》、利家《としいへ》之《これ》を許《ゆる》し、即日《そくじつ》城《しろ》を收《おさ》め、利家《としいへ》は政繁《まさしげ》を携《たづさ》へて、二十二|日《にち》、秀吉《ひでよし》に小田原《をだはら》に謁《えつ》し、二十七|日《にち》松井田《まつゐだ》に還《かへ》つた。
二十四|日《か》前田利長《まへだとしなが》は、眞田昌幸《さなだまさゆき》と共《とも》に箕輪城《みのわじやう》を圍《かこ》み、之《これ》を下《くだ》した。和田《わだ》、板鼻《いたはな》、三ノ倉《くら》、藤岡《ふぢをか》、大戸《おほど》、後閑《ごかん》、那波《なは》、膳《ぜん》、女淵《をなぶち》、小泉《こいづみ》、大胡《おほご》、伊勢崎《いせざき》、白井等《しらゐとう》の諸城《しよじやう》風《ふう》を望《のぞ》みて降《くだ》り、上州《じやうしう》は略《ほ》ぼ平定《へいてい》した。
石倉城主《いしくらじやうしゆ》金井淡路守《かなゐあはぢのかみ》、長根城主《ながねじやうしゆ》小林左馬允《こばやしさまのすけ》は、松平康國《まつだひらやすくに》に就《つい》て、降《かう》を乞《こ》ひ、四|月《ぐわつ》廿六|日《にち》康國《やすくに》の營《えい》なる總社《そうしや》に赴《おもむ》いた。偶《たまた》ま馬《うま》の逸《いつ》するありて、營中《えいちう》喧噪《けんさう》した。淡路守《あはぢのかみ》は驚《おどろ》いて災害《さいがい》の我身《わがみ》に及《およ》ぶとなし、康國《やすくに》を切《き》つた。康國《やすくに》の弟《おとうと》康貞《やすさだ》亦《ま》た、淡路守《あはぢのかみ》を斬《き》り、依田信政《よだのぶまさ》は左馬允《さまのすけ》を殺《ころ》した。斯《か》くて其《そ》の士卒《しそつ》をして、其《そ》の從士《じゆうし》百|餘人《よにん》を掩殺《えんさつ》した。家康《いへやす》は康貞《やすさだ》をして、康國《やすくに》の遺領《ゐりやう》を襲《つ》がしめた。

[#5字下げ][#中見出し]【三六】鉢形城の攻略[#中見出し終わり]

松井田城《まつゐだじやう》を收《をさ》めたる景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》の諸隊《しよたい》は、五|月《ぐわつ》初旬《しよじゆん》、降將《かうしやう》大道寺政繁等《だいだうじまさしげら》を※[#「郷+向」、175-2]導《きやうだう》として、上州《じやうしう》を發《はつ》し、武藏《むさし》に入《い》り、本庄《ほんじやう》、八|幡山《はたやま》、深谷《ふかや》、東方《ひがしがた》、川越《かはごえ》の五|城《じやう》を下《くだ》し、松山城《まつやまじやう》に向《むか》うた。城主《じやうしゆ》上田朝廣《うへだともひろ》は小田原《をだはら》にあり、其《そ》の留守《るす》難波田憲次等《なんばのりつぐら》兵《へい》二千五百|人《にん》にて、之《これ》に據《よ》つた。前田隊《まへだたい》は城西《じやうせい》の追手口《おふてぐち》に、上杉隊《うへすぎたい》は城北《じやうほく》の搦手口《からめてぐち》に、眞田隊《さなだたい》は城東《じやうたう》に逼《せま》り、大道寺政繁《だいだうじまさしげ》の士《し》を城中《じやうちう》に遣《つかは》し、降《かう》を諭《さと》した。難波田等《なんばだら》之《これ》に從《したが》ひ、妻孥《さいど》を三ノ丸《まる》に置《お》きて、開城《かいじやう》し、※[#「郷+向」、175-6]導《きやうだう》に任《にん》ぜんことを乞《こ》うた。景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》之《これ》を容《い》れ、城《しろ》を收《をさ》めた。秀吉《ひでよし》はその以前《いぜん》にも、書《しよ》を景勝《かげかつ》に與《あた》へ、利家《としいへ》と議《ぎ》して、鉢形城《はちがたじやう》を攻《せ》む可《べ》き旨《むね》を命《めい》じたが、五|月《ぐわつ》十三|日《にち》再《ふたゝ》び之《これ》を催告《さいこく》した。
[#ここから1字下げ]
松井田城《まつゐだじやう》請取候者《うけとりさふらはゞ》、利家《としいへと》|令[#二]相談[#一]《あひだんぜしめ》鉢形城《はちがたじやう》急而《いそいで》|可[#レ]被[#二]取卷[#一]由《とりまかるべきよし》、先度《せんど》|被[#レ]仰[#二]遣之[#一]候《これをおほせつかはされさふらひ》き。其後《そのご》一途之《いちどの》|無[#二]左右[#一]候《さうなくさふらふ》。早々《さう/\》鉢形《はちがたへ》|可[#レ]被[#二]詰寄[#一]候《つめよせらるべくさふらふ》。何篇《なんべん》|無[#二]油斷[#一]樣《ゆだんなきやう》、尤候也《もつともにさふらふなり》。
  五月十三日(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]
[#地から3字上げ]朱印(秀吉)
   羽柴越後宰相中將(上杉景勝)[#「(上杉景勝)」は1段階小さな文字]どのへ
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》く秀吉《ひでよし》が鉢形城《はちがたじやう》の攻略《こうりやく》に、心《こゝろ》を勞《らう》したるは、抑《そもそ》も何故《なにゆゑ》である乎《か》。そは鉢形城《はちがたじやう》が、關東大平原《くわんとうだいへいげん》の要鎭《えうちん》で、此城《このしろ》の存亡《そんばう》は、附近《ふきん》の向背《かうはい》に關《くわん》する所《ところ》多大《ただい》であるからだ。
此《これ》を以《もつ》て景勝《かげかつ》、利家《としいへ》は兵《へい》を囘《めぐら》し、荒川《あらかは》の畔《ほとり》に出《い》で、眞田昌幸等《さなだまさゆきら》を支隊《したい》となし、松山城《まつやまじやう》留守降將中《るすかうしやうちう》の木呂子友則《きろことものり》、山田直安《やまだなほやす》を、其《そ》の※[#「郷+向」、176-7]導《きやうだう》たらしめ、左岸《さがん》榛澤野《はんざはの》を經《へ》、小前田方向《こまへだはうかう》に進《すゝ》ましめ、本隊《ほんたい》は右岸《うがん》赤濱街道《あかはまかいだう》を前進《ぜんしん》した。四山砦《よつやまとりで》の守兵《しゆへい》、之《これ》を聞《き》いて走《はし》りて鉢形《はちがた》に入《い》つた。
抑《そもそ》も鉢形城《はちがたじやう》は、武藏國《むさしのくに》男衾郡《をぶすまごほり》(今は大里郡に合併す)[#「(今は大里郡に合併す)」は1段階小さな文字]寄居町《よりゐまち》の正南《せいなん》に在《あ》り。東北《とうほく》は上武《じやうぶ》の平野《へいや》を制《せい》し、西南《せいなん》は秩父《ちゝぶ》、及《およ》び甲州路《かふしうぢ》の咽喉《いんこう》を扼《やく》す。荒川城北《あらかはじやうほく》を繞《めぐ》り、深澤川城東《ふかざはがはじやうとう》を過《す》ぎ、共《とも》に斷崖《だんがい》を成《な》す。城形《じやうけい》東西《とうざい》三|町《ちやう》乃至《ないし》四五|町《ちやう》。南北《なんぼく》八|町《ちやう》、數郭《すくわく》に分《わか》つ。乃《すなは》ち天然《てんねん》の形勝《けいしよう》を占《し》めたる要害《えうがい》である。氏政《うぢまさ》の弟《おとうと》、北條氏邦《ほうでううぢくに》兵《へい》三千三百|人《にん》を以《もつ》て、之《これ》を守《まも》り、屬城《ぞくじやう》日尾《ひを》、田野《たの》、根小屋《ねごや》、虎《とら》ヶ|岡等《をかとう》と共《とも》に、相《あ》ひ呼應《こおう》して、警備《けいび》を嚴《げん》にし、北陸兵《ほくろくへい》の來《きた》るを待《ま》ち受《う》けた。寄手《よせて》は約《やく》三|萬人《まんにん》、赤濱《あかはま》及《およ》び小前田方向《こまへだはうかう》より來《きた》りて、城《しろ》を圍《かこ》んだ。城南追手《じやうなんおふて》には降將《かうしやう》難波田憲次《なんばだのりつぐ》、大道寺直重《だいだうじなほしげ》を※[#「郷+向」、177-4]導《きやうだう》として、上杉景勝《うへすぎかげかつ》之《これ》に向《むか》ひ。城東《じやうとう》の搦手《からめて》には降將《かうしやう》大道寺政繁《だいだうじまさしげ》、金子家基《かねこいへもと》を※[#「郷+向」、177-5]導《きやうだう》として、前田利家《まへだとしいへ》父子《ふし》之《これ》に向《むか》ひ。城北《じやうほく》の寄居口《よりゐぐち》には、眞田昌幸《さなだまさゆき》父子《ふし》、降將《かうしやう》木呂子友則《きろことものり》、山田直安《やまだなほやす》を※[#「郷+向」、177-6]導《きやうだう》として、之《これ》に向《むか》うた。
前田隊《まへだたい》は高地《かうち》より城《しろ》の外郭《そとぐるわ》を下瞰《かかん》し、眞田隊《さなだたい》は川《かは》を隔《へだ》てゝ銃火《じゆうくわ》を發《はつ》し、上杉隊《うへすぎたい》亦《ま》た城門《じやうもん》に薄《せま》つたが、城兵《じやうへい》は單《たん》に防守《ばうしゆ》するのみならず、屡《しばし》ば出撃《しゆつげき》して、寄手《よせて》を苦《くる》しめた。
六|月《ぐわつ》初旬《しよじゆん》には、秀吉《ひでよし》の嚴※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《げんれい》なる催告《さいこく》に促《うなが》され、淺野長政《あさのながまさ》、木村重※[#「玄+玄」、177-10]《きむらしげこれ》、山崎片家《やまざきかたいへ》、岡本良勝《をかもとよしかつ》、及《およ》び徳川《とくがは》の部將《ぶしやう》本多忠勝等《ほんだたゞかつら》、川越方向《かはごえはうかう》より來《きた》り、城《しろ》の東南《とうなん》に陣《ぢん》し、兵《へい》約《やく》五|萬《まん》に上《のぼ》つた。然《しか》も城兵《じやうへい》は毫《がう》も屈《くつ》する色《いろ》なかつた。此《こ》の攻圍中《こうゐちう》、六|月《ぐわつ》五|日《か》、秀吉《ひでよし》は利家《としいへ》、長政《ながまさ》兩人《りやうにん》を、小田原《をだはら》に招致《せうち》した。此《こ》れは同日《どうじつ》伊達政宗《だてまさむね》が、小田原《をだはら》に來《き》たからであつたが、兩人《りやうにん》はやがて鉢形《はちがた》に還《かへ》つた。(利家《としいへ》と長政《ながまさ》とは、曩《さき》に政宗《まさむね》を勸《すゝ》めて、小田原《をだはら》に來《きた》らした關係《くわんけい》の爲《た》めに。)
鉢形城《はちがたじやう》は大兵《たいへい》に圍《かこ》まれ、荏苒《じんぜん》日《ひ》を渉《わた》り、後詰《ごづめ》の味方《みかた》もなく、兵粮《ひやうらう》も既《すで》に乏《とぼ》しくなつた。此《こゝ》に於《おい》て上杉《うへすぎ》の部將《ぶしやう》藤田信吉《ふぢたのぶよし》は、使《つかひ》を城中《じやうちう》に遣《や》り、氏邦《うぢくに》に降《かう》を勸《すゝ》めた。信吉《のぶよし》は前《さきの》鉢形城主《はちがたじやうしゆ》藤田康邦《ふぢたやすくに》(管領山内上杉氏の部將)[#「(管領山内上杉氏の部將)」は1段階小さな文字]の第《だい》二|子《し》であつた。而《しか》して去《さ》つて越後《ゑちご》に赴《おもむ》き、景勝《かげかつ》に仕《つか》へた。氏邦《うぢくに》は康邦《やすくに》の後《あと》を、北條家《ほうでうけ》より入《い》りて相續《さうぞく》した、乃《すなは》ち此《こ》の縁故《えんこ》を辿《たど》りて、氏邦《うぢくに》の意《い》を動《うごか》さんと試《こゝろ》みた。彼《かれ》は舊領《きうりやう》安堵《あんど》す可《べ》しとの保障《ほしやう》を與《あた》へた。されど氏邦《うぢくに》は寧《むし》ろ士卒《しそつ》に代《かは》りて、切腹《せつぷく》せんとした。然《しか》も同城《どうじやう》にある沼田城代《ぬまたじやうだい》猪俣範直等《ゐのまたのりなほら》、頻《しき》りに降《かう》を勸《すゝ》めたから、氏邦《うぢくに》も其《そ》の言《げん》に任《まか》せた。信吉《のぶよし》は之《これ》を景勝《かげかつ》、利家《としいへ》に告《つ》げ、氏邦《うぢくに》以下《いか》士卒《しそつ》の死《し》を宥《なだ》めた。
六|月《ぐわつ》十四|日《か》、氏邦《うぢくに》城《しろ》を開《ひら》き正龍寺《しやうりゆうじ》に入《い》り、削髮《さくはつ》した。寄手《よせて》は城《しろ》を收《をさ》め、盡《こと/″\》く其《そ》の士卒《しそつ》を放《はな》つた。日尾《ひを》以下《いか》の屬城《ぞくじやう》も悉《こと/″\》く降《くだ》つた。景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》は、大道寺政繁《だいだうじまさしげ》以下《いか》を伴《ともな》ひ、捷《かち》を小田原《をだはら》に献《さゝ》げた。徳川《とくがは》の部將《ぶしやう》本多忠勝《ほんだたゞかつ》、平岩親吉《ひらいはちかよし》、鳥井元忠《とりゐもとたゞ》、松平康貞等《まつだひらやすさだら》は、相模《さがみ》に向《むか》ひ、淺野長政《あさのながまさ》、木村重※[#「玄+玄」、179-1]《きむらしげこれ》、眞田昌幸《さなだまさゆき》、前田利長等《まへだよしながら》は、姑《しば》らく鉢形《はちがた》に駐屯《ちゆうとん》した。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
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[#6字下げ]藤田信吉の戰功
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
天正十八年景勝武州の鉢形城攻の時、五月二十一日の夜藤田能登守信吉(後重信)軍番に當り奈摩の山より十五六町隔り、鉢形の道筋に大なる森あり。此茂みを形とり、人數を隱す。雜人を除きて馬上の備長柄は胴勢に配りて足輕計りを用ひ、以上五段に備を分ち、一三十五の手數と定め、旗を指さずして袖印を着け、士大將は小馬驗を腰指に用ひ、敵の備の眞中へ横筋違に乘入るべしと定められ、味方の一備は右に進みて圓なり、今一備は敵の二の手へ無二無三に斬掛れと、左に寄り控へてける。又二の備は押廻し敵の胴勢を切崩せ、一備は必ず以て動かずして、鉢形衆の襲ひ來るを待處に、氏邦扈從|上《あが》りの中村右衞門に、松村豐前と云ふ老功の侍を差添て、五十騎の一の手は歩者を相交へず、二の見は七十騎の備、三の手胴勢と指續き、其夜中に上杉家の陣場近くまで相働く、其虚に乘じて一手段と申定る評議なりしが、何とかして其夜の明方彼森より四五町|此方《こなた》まで押來り、其所に備を立て、松村唯一騎此森を氣遣ひけるにや、物見に來る體に見えて、半をも過ぎずして返し、采幣を陰に振りて、人數を引上げ乍ら、其身も馬を逸足に乘て歸る。藤田是を見て、自身一の軍を將ゐて進て是を追ふ。甘粕備後は其二の見にて、備を輕く押出す。赤北衆は三頭三尾離合聚散の變を含みて備へ、靜に九折《つゞらをり》に押す。然るに島津左京亮、藤田相番なる故、手前の人數を少々引連れ、物見乍ら此場へ來り、藤田と一所に居たりしが、島津内の麻瀬と云ふ歩者飛足を申立たる若者あり。島津是に申付けて松村を追掛さする、松村が逸物の馬に、三町の内にて追詰突落し首を取る。味方愈※[#二の字点、1-2-22]競ひ、森より十町餘追ひ、雜兵共に七十九級を撃取る、敵|前廉《まへかど》の氣勢も無く、松村が振揚し采幣を見乍ら、松村を待ち付けず八方へ逃散る。夏目舍人も敵を一騎突落して、我内の茂右衞門と云ふ忰者に首を取せ候故、敵は二度乍ら逆撃に討たる、利家の陣へは五度乘込内四度敵利を得たり。利家衆同士討なども在り、五度目には軍法を正されけるが、敵を逆撃にして大に勝利なり。其後は敵働き來らず候。〔管窺武鑑〕
#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【三七】八王子城の陷落[#中見出し終わり]

景勝《かげかつ》、利家等《としいへら》は、六|月《ぐわつ》十七|日《にち》、小田原《をだはら》に詣《いた》り、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》したが、秀吉《ひでよし》は豫期程《よきほど》に、其《そ》の戰功《せんこう》を賞美《しやうび》せなかつた。其《そ》の夜《よ》秀吉《ひでよし》は其《そ》の左右《さいう》に告《つ》げて曰《いは》く、彼等《かれら》は既《すで》に數城《すじやう》を徇《とな》へ略《りやく》したが、毎《つね》に招降《せうこう》のみを事《こと》として、毫《がう》も敵《てき》を畏服《ゐふく》せしむる所《ところ》がない。此《こ》れが予《われ》の慊《あきた》らざる所《ところ》だと。景勝《かげかつ》、利家《としいへ》之《これ》を聞《き》き、頗《すこぶ》る悟《さと》る所《ところ》あり、相約《あひやく》して八|王子城《わうじじやう》に向《むか》ひ、前過《ぜんくわ》を償《つぐな》はんとした。
元來《ぐわんらい》秀吉《ひでよし》は調略屋《てうりやくや》である。其《そ》の寛《くわん》を用《もち》ふる場合《ばあひ》には、恒《つね》に寛《くわん》を用《もち》ひた、然《しか》も彼《かれ》は猛《まう》を用《もち》ふる場合《ばあひ》を忘《わす》れなかつた。關東《くわんとう》に向《むか》つて、秀吉《ひでよし》の威風《ゐふう》を振《ふる》ふには、恰《あだか》も九|州役《しうえき》に於《おい》て、岩石城《がんじやくじやう》を屠《ほふ》りたる如《ごと》く、さる場合《ばあひ》を必要《ひつえう》としたのであらう。今《いま》や八|王子城《わうじじやう》は、其《そ》の標的《へうてき》となつた。
抑《そもそ》も八|王子城《わうじじやう》は、武藏國《むさしのくに》多摩郡《たまごほり》にあり。甲州街道《かふしうかいだう》の要衝《えうしよう》に當《あた》り、西《にし》に小佛峠《こぼとけたふげ》の險《けん》を扼《やく》し、北條氏政《ほうでううぢまさ》の弟《おとうと》、氏照《うぢてる》の居城《きよじやう》であるが、當人《たうにん》は即今《そくこん》小田原《をだはら》にありて、其《そ》の部將《ぶしやう》横地吉信《よこちよしのぶ》本丸《ほんまる》を、中山家範《なかやまいへのり》中《なか》ノ丸《まる》を、狩野《かのう》一|菴《あん》三ノ丸《まる》を、金子家重《かねこいへしげ》金子丸《かねこまる》を、近藤助實《こんどうすけざね》山下曲輪《やましたぐるわ》を守《まも》つた。
六|月《ぐわつ》二十二|日《にち》景勝《かげかつ》、利家《としいへ》、上武《じやうぶ》二|州《しう》の降人《こうじん》を※[#「郷+向」、333-9]導《きやうだう》とし、兵《へい》一|萬《まん》五千を以《もつ》て、横山驛《よこやまえき》に抵《いた》り、夜半《やはん》進發《しんぱつ》し、二十三|日《にち》未明《みめい》、街口《まちぐち》を破《やぶ》り、悉《こと/″\》く番兵《ばんぺい》を殺《ころ》し、大道寺《だいだうじ》の兵《へい》は山下曲輪《やましたぐるわ》に、上杉隊《うへすぎたい》は城東《じやうとう》追手《おふて》に、前田隊《まへだたい》は城北《じやうほく》搦手《からめて》に逼《せま》つた。此《こ》の日《ひ》は大霧《たいむ》にて咫尺《しせき》を辨《べん》ぜず、城兵《じやうへい》は毫《がう》も寄手《よせて》の近《ちかづ》くを知《し》らなかつたが、其《そ》の銃聲《じゆうせい》を聞《き》き、配備《はいび》に就《つ》き、近藤助實《こんどうすけざね》衆《しゆう》を勵《はげ》まし、奮鬪《ふんとう》して死《し》し、山下曲輪《やましたぐるわ》は遂《つ》ひに陷《おちい》つた。
午前《ごぜん》八|時頃《じごろ》、前田隊《まへだたい》の先鋒《せんぽう》山崎長鏡《やまざきながあき》、金子丸《かねこまる》を破《やぶ》り、金子家重《かねこいへしげ》を殪《たふ》し、長連龍《ちやうつらたつ》、奧村永福《おくむらながとみ》の兵《へい》と共《とも》に、中《なか》ノ丸《まる》に逼《せま》つた。中山家範《なかやまいへのり》は精兵《せいへい》三百|餘《よ》を以《もつ》て、防戰《ばうせん》最《もつと》も力《つと》め、數《しばし》ば突出《とつしゆつ》して、寄手《よせて》を撃退《げきたい》した。
上杉隊《うへすぎたい》の先鋒《せんぽう》藤田信吉等《ふぢたのぶよしら》は、東方《とうはう》の溪間《たにま》より進《すゝ》み、三ノ丸《まる》を攻撃《こうげき》した。狩野《かのう》一|菴《あん》善《よ》く禦《ふせ》ぎ戰《たゝか》うたが、上杉《うへすぎ》の部將《ぶしやう》甘糟清長等《あまかすきよながら》、其《そ》の背後《はいご》に出《い》でゝ、火《ひ》を上風《じやうふう》に放《はな》つた。城兵《じやうへい》狼狽《らうばい》潰敗《くわいはい》し、一|菴《あん》は戰死《せんし》した。信吉《のぶよし》、清長等《きよながら》本丸《ほんまる》に肉薄《にくはく》した。横地吉信《よこちよしのぶ》は死士《しし》二百|許《ばかり》を率《ひき》ゐ、門《もん》を開《ひら》きて出撃《しゆつげき》し、一たび之《これ》を撃退《げきたい》したが、既《すで》に寄手《よせて》の拔《ぬ》く所《ところ》となつた。吉信《よしのぶ》は遁走《とんそう》したが、後《のち》土寇《どこう》に殺《ころ》された。
悲壯《ひさう》なるは中山家範《なかやまいへのり》の最後《さいご》だ。彼《かれ》は本丸《ほんまる》既《すで》に陷《おちい》るも、尚《な》ほ中《なか》ノ丸《まる》を守《まも》り、力戰《りよくせん》屈《くつ》せず、僅《わづか》に左右《さいう》十|餘人《よにん》を剩《あま》した。利家《としいへ》は之《これ》を見《み》て、降人《かうじん》に誰《たれ》か彼《かれ》の知音《ちいん》はなき乎《か》と問《と》うた。金子紀伊守《かねこきいのかみ》、小岩井雅樂助《こいはゐうたのすけ》、何《いづ》れも多年《たねん》の朋友《ほういう》なる由《よし》申《まを》し出《い》づ。されば速《すみや》かに彼《かれ》を諭《さと》し降《くだ》らせよと命《めい》じ、兩人《りやうにん》は馳《は》せて之《これ》に赴《おもむ》いたが、門《もん》閉《と》ぢて入《い》るを得《え》ず、強《し》ひて門《もん》の脇《わき》を破《やぶ》りて入《い》り來《きた》れば、中山《なかやま》の妻《つま》朱《あけ》になりて、半死半生《はんしはんしやう》の態《てい》であつた。彼《かれ》は其《そ》の夫《をつと》家範《いへのり》の一|男《なん》助《すけ》六の妻《つま》と、幼兒《えうじ》二|人《にん》を刺殺《さしころ》し、切腹《せつぷく》した旨《むね》を告《つ》げ、自《みづ》からも同《おな》じ道《みち》にと自害《じがい》したが、未《いま》だ縡切《ことき》れ候《さふら》はずと答《こた》へた。兩人《りやうにん》は實《じつ》は助命《じよめい》の爲《た》めに來《きた》つたが、少《すこ》しく遲《おく》れて殘念《ざんねん》した、せめて御身《おんみ》にても生存《せいぞん》して、菩提《ぼだい》を弔《とむら》ひ給《たま》へと云《い》うたが、中山《なかやま》の妻《つま》は、扨《さて》は御邊等《ごへんら》は寄手《よせて》に降參《かうさん》せし乎《か》。日頃《ひごろ》の約束《やくそく》違《たが》へず、共《とも》に死《し》せんと來給《きたま》ふならむと推測《おしはか》りて、嬉《うれ》しかりしが、左《さ》る不義《ふぎ》の人々《ひと/″\》には、言《ことば》かはすさへ穢《けがら》はしとて、懷劍《くわいけん》を口《くち》に啣《ふく》んで、打俯《うつぶせ》になつて死《し》した。家範《いへのり》年《とし》四十三、其《そ》の遺志《ゐし》兩人《りやうにん》(照守、信吉)[#「(照守、信吉)」は1段階小さな文字]は、他日《たじつ》徳川家康《とくがはいへやす》の士《し》となつた。
此《かく》の如《ごと》くして八|王子城《わうじじやう》は、午後《ごご》四|時頃《じごろ》全《まつた》く陷落《かんらく》した。寄手《よせて》の馘《き》りたる首《くび》一千|餘級《よきふ》、景勝《かげかつ》、利家《としいへ》は首級《しゆきふ》、及《およ》び俘虜《ふりよ》二百|餘人《よにん》を、小田原《をだはら》に使《つかは》した。秀吉《ひでよし》は大《おほ》いに悦《よろこ》び、二十五|日《にち》其《そ》の俘獲《ふくわく》を、小田原城兵《をだはらじやうへい》に示《しめ》した。
徳川《とくがは》の部將《ぶしやう》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》は、一|萬《まん》一千|餘《よ》の兵《へい》を率《ひき》ゐ、六|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、相模《さがみ》津久井城《つくゐじやう》を攻《せ》め、之《これ》を下《くだ》し、小田原《をだはら》に還《かへ》つた。今《いま》や關東《くわんとう》を大觀《たいくわん》すれば、小田原《をだはら》以外《いぐわい》、只《た》だ忍城《おしじやう》を剩《あま》すのみであつた。吾人《ごじん》は姑《しば》らく忍城《おしじやう》の事《こと》を叙《じよ》し、而《しか》して後《のち》小田原《をだはら》に及《およ》ぶであらう。

[#5字下げ][#中見出し]【三八】忍城の攻撃(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は小田原城《をだはらじやう》を攻圍《こうゐ》しつゝ、宛《あだか》も蟹《かに》の脚《あし》を※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぐ如《ごと》く、關東《くわんとう》に散在《さんざい》したる諸城寨《しよじやうさい》を徇《とな》へしめた。而《しか》して忍城《おしじやう》は、實《じつ》に小田原落城《をだはららくじやう》の後迄《のちまで》も尚《な》ほ蹈《ふ》み怺《こら》へた一であつた。今《いま》其《そ》の顛末《てんまつ》を語《かた》るに際《さい》して、少《すこ》しく前置《まへおき》の叙述《じよじゆつ》を要《えう》する。
秀吉《ひでよし》は五月《ぐわつ》二十七|日《にち》、石田《いしだ》三|成《なり》、大谷吉繼《おほたによしつぐ》、長束正家等《ながつかまさいへら》に命《めい》じ、佐竹義宣《さたけよしのぶ》、宇都宮國綱《うつのみやくにつな》、結城晴朝《ゆふきはるとも》、水谷勝俊《みづたにかつとし》、多賀谷重經《たがやしげつね》、佐野了伯等《さのれうはくら》、關東新附《くわんとうしんぷ》の諸將《しよしやう》を率《ひき》ゐ、館林《たてばやし》及《およ》び忍城《おしじやう》を攻略《こうりやく》せしめた。
抑《そもそ》も佐野了伯《さのれうはく》は、下野《しもつけ》佐野《さの》の城主《じやうしゆ》、宗綱《むねつな》の弟《おとうと》であつた。天正《てんしやう》十三|年《ねん》宗綱《むねつな》の死後《しご》、彼《かれ》は佐竹《さたけ》の族子《ぞくし》を養《やしな》はんと主張《しゆちやう》したるに、老臣《らうしん》大貫武重《おほぬきたけしげ》は之《これ》を排《はい》し、北條氏政《ほうでううぢまさ》の弟《おとうと》、氏忠《うぢたゞ》を迎《むか》へ立《た》てたから、彼《かれ》は京都《きやうと》に出奔《しゆつぽん》した。されば秀吉《ひでよし》の東征《とうせい》に際《さい》し、其《そ》の命《めい》を承《う》け、常陸《ひたち》及《およ》び兩總《りやうそう》の諸豪《しよがう》に檄《げき》し、秀吉《ひでよし》に應《おう》ぜしめ。尋《つい》で下野《しもつけ》に還《かへ》り、舊臣《きうしん》を糾合《きうがふ》し、四|月《ぐわつ》中旬《ちうじゆん》、佐野城《さのじやう》を取《と》つた。氏忠《うぢたゞ》は當時《たうじ》小田原《をだはら》在陣中《ざいぢんちう》であつたが、武重《たけしげ》は破《やぶ》れて自殺《じさつ》した。
結城晴朝《ゆふきはるとも》は、曩《さ》き秀吉《ひでよし》に通《つう》じ、請《こ》うて其《そ》の子《こ》秀康《ひでやす》を嗣《し》となす可《べ》く約《やく》した。上方勢《かみがたぜい》の關東諸城《くわんとうしよじやう》を攻略《こうりやく》するを聞《き》くや、五|月《ぐわつ》多賀谷重經《たがやしげつね》と兵《へい》を合《あは》せ、下野《しもつけ》に入《い》り、小山《をやま》、榎本《えのもと》の兩城《りやうじやう》を拔《ぬ》き、二十四|日《か》共《とも》に小田原《をだはら》に赴《おもむ》き、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。
佐竹義宣《さたけしげのぶ》も、既《すで》に秀吉《ひでよし》に通《つう》じて居《ゐ》たが、了伯《れうはく》の檄《げき》至《いた》るに及《およ》び、兵《へい》を下野《しもつけ》に出《いだ》し。四|月《ぐわつ》二十二|日《にち》、壬生《みぶ》、鹿沼《かぬま》の二|城《じやう》を攻《せ》めて、之《これ》を取《と》つた。尋《つい》で宇都宮國綱《うつのみやくにつな》を誘《いざな》ひて、小田原《をだはら》に抵《いた》り、石田《いしだ》三|成《なり》、増田長盛《ますだながもり》に就《つ》き、五|月《ぐわつ》廿五|日《にち》秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。
秀吉《ひでよし》は以上《いじやう》の諸將《しよしやう》をして、石田《いしだ》三|成等《なりら》と協戮《けふりく》せしめた。
館林城《たてばやしじやう》は北條氏規《ほうでううぢのり》の屬城《ぞくじやう》で、上州東部《じやうしうとうぶ》の重鎭《ぢゆうちん》だ。其《そ》の地《ち》は武《ぶ》總《そう》野《や》の三|州《しう》、及《およ》び利根《とね》、渡良瀬《わたらせ》二|川《せん》の間《あひだ》に介在《かいざい》し、城沼《しろぬま》を以《もつ》て、直《たゞち》に城濠《じやうがう》と爲《な》し、城代《じやうだい》南條因幡守等《なんでういなばのかみら》五千|餘人《よにん》にて、之《これ》を守《まも》つた。
石田等《いしだら》の隊《たい》は、下野《しもつけ》に入《い》り、六|月《ぐわつ》初旬《しよじゆん》、佐野《さの》を發《はつ》し、早川田《さかはだ》の渡《わたし》を經《へ》、城《しろ》を圍《かこ》み、石田隊《いしだたい》―佐竹兵《さたけへい》を含《ふく》む―七千|餘人《よにん》は、城西《じやうせい》追手口《おふてぐち》に、大谷隊《おほたにたい》―宇都宮兵《うつのみやへい》を含《ふく》み―五千六百|餘人《よにん》は、城[#「城」は底本では「條」]北《じやうほく》加法師口《かほしぐち》に、長束隊《ながつかたい》―結城《ゆふき》、水谷《みづたに》、多賀谷《たがや》、佐野《さの》の兵《へい》を含《ふく》む―六千八百|餘人《よにん》は、城東《じやうとう》搦手《からめて》下外張口《したとばりぐち》に向《むか》うて陣《ぢん》し、北條氏勝《ほうでううぢかつ》をして、降《かう》を諭《さと》さしめたが、城兵《じやうへい》之《これ》に從《そたが》ひ、開城《かいじやう》した。此《こゝ》に於《おい》て三|成等《なりら》は、六|月《ぐわつ》四|日《か》、館林《たてばやし》を發《はつ》し、其《そ》の降兵《かうへい》若干《じやくかん》を※[#「郷+向」、186-12]導《きやうだう》とし、川股《かはまた》の渡《わたし》を經《へ》て、忍城《おしじやう》に向《むか》うた。
忍《おし》は武藏《むさし》埼玉郡《さいたまごほり》の北部《ほくぶ》に在《あ》り、殆《ほと》んど模範的《もはんてき》平城《へいじやう》で、關東《くわんとう》七|名城《めいじやう》の一だ。(山城には、佐野、金山、大田。平城には、厩橋、宇都宮、川越、忍。)[#「(山城には、佐野、金山、大田。平城には、厩橋、宇都宮、川越、忍。)」は1段階小さな文字]東《ひがし》を首《しゆ》とし、西《にし》を尾《び》とし、内郭《うちぐるわ》、外曲輪《そとぐるわ》とも、池沼《ちせう》、或《あるひ》は深田《ふかだ》を以《もつ》て固《かた》めとなす。城主《じやうしゆ》成田氏長《なりたうぢなが》は、小田原《をだはら》に在《あ》り、城代《じやうだい》成田康季《なりたやすすゑ》、子《こ》長親《ながちか》、及《およ》び正木丹波守《まさきたんばのかみ》、酒卷靱負尉等《さかまきゆきへのじようら》留守《るす》した。
寄手《よせて》は館林《たてばやし》を降《くだ》し、來《きた》り逼《せま》らんとするを聞《き》き、氏長《うぢなが》の妻《つま》太田氏《おほたし》―三|樂《らく》の女《むすめ》―老臣等《らうしんら》を會《くわい》して、防禦《ばうぎよ》の方略《はうりやく》を講《こう》じ、糧食《りやうしよく》、其《そ》の他《た》の軍需品《ぐんじゆひん》を蓄《たくは》へ、百|姓《しやう》、町人《ちやうにん》、坊主《ばうず》、神主《かんぬし》の類《るゐ》に至《いた》る迄《まで》、悉《こと/″\》く入城《にふじやう》せしめ、其《そ》の配備《はいび》を定《さだ》め、士卒《しそつ》二千六百|餘人《よにん》、緩急《くわんきふ》互《たがひ》に援助《ゑんじよ》せしめ、戰況《せんきやう》利《り》あれば法螺貝《ほらがひ》を吹《ふ》き、不利《ふり》なるときは鐘《かね》を鳴《なら》して合圖《あひづ》とし、又《ま》た婦女《ふぢよ》、童子《どうじ》千百|餘人《よにん》をして、旗《はた》を樹《た》て、皷《つゞみ》を ※[#「てへん+二点しんにょうの過」、第3水準1-84-93]《う》ち、大兵《たいへい》に擬《ぎ》せしめ、又《また》糧食《りやうしよく》、彈藥等《だんやくとう》を運搬《うんぱん》せしめた。乃《すなは》ち其《そ》の覺悟《かくご》は、決《けつ》して尋常《じんじやう》ではなかつた。
却説《さて》、寄手《よせて》は西北部《せいほくぶ》皿尾口《さらをぐち》には、中江直澄《なかえなほずみ》、多賀谷重經《たがやしげつね》、佐野了伯等《さのれうはくら》五千|餘人《よにん》。東北部《とうほくぶ》長野口《ながのぐち》、及《およ》び北部《ほくぶ》北谷口《きたたにぐち》には、長束正家《ながつかまさいへ》、結城晴朝《ゆふきはるとも》、水谷勝俊等《みづたにかつとしら》四千六百|人《にん》。東南部《とうなんぶ》佐間口《さまぐち》には、大谷吉繼《おほたによしつぐ》、宇都宮國綱《うつのみやくにつな》、南條因幡守等《なんでういなばのかみら》六千五百|人《にん》。南部《なんぶ》下忍口《しもおしぐち》、及《およ》び南部《なんぶ》大宮口《おほみやぐち》には、佐竹義宣《さたけよしのぶ》、北條氏勝等《ほうでううぢかつら》五千|餘人《よにん》。東南《とうなん》埼玉村《さいたまむら》には、石田《いしだ》三|成《なり》二千|餘人《よにん》。合計《がふけい》二|萬《まん》三千|餘人《よにん》。五|日《か》黎明《れいめい》、先《ま》づ佐間《さま》、下忍《しもおし》、長野《ながの》の三|面《めん》より攻撃《こうげき》を開始《かいし》した。然《しか》も道路《だうろ》狹隘《けふあい》、其《そ》の左右《さいう》は水田《すゐでん》、沼澤《せうたく》多《おほ》く、進退《しんたい》に頗《すこぶ》る困難《こんなん》であつた。城兵《じやうへい》は敵《てき》の近《ちかづ》くを待《ま》ち受《う》けて、之《これ》を射撃《しやげき》して、其《そ》の隊伍《たいご》を亂《みだ》した。而《しか》して寄手《よせて》の進《すゝ》みかねたるを見濟《みすま》して、城内《じやうない》より突出《とつしゆつ》し、之《これ》を撃退《げきたい》した。
六|日《か》三|成《なり》は、下忍口《しもおしぐち》の兵《へい》を指揮《しき》し、筏《いかだ》を沼中《せうちう》に泛《うか》べて攻撃《こうげき》し、佐間口《さまぐち》の寄手《よせて》亦《ま》た策應《さくおう》して進《すゝ》み攻《せ》めたが、共《とも》に利《り》あらずして兵《へい》を收《をさ》めた。

[#5字下げ][#中見出し]【三九】忍城の攻撃(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

忍城《おしじやう》の要害《えうがい》は、案外《あんぐわい》に堅固《けんご》であつた。城兵《じやうへい》の防備《ばうび》は、案外《あんぐわい》に周到《しうたう》であつた。されば石田《いしだ》三|成《なり》は、到底《たうてい》力《ちから》づくにて攻略《こうりやく》するの不利《ふり》なるを見《み》、六|月《ぐわつ》七|日《か》、丸墓山《まるはかやま》に上《のぼ》り、遙《はるか》に城郭《じやうくわく》を望《のぞ》み、其《そ》の地形《ちけい》が水攻《みづぜめ》に便《べん》なるを認《みと》め、堤《つゝみ》を城外《じやうぐわい》に築《きづ》き、利根川《とねがは》、及《およ》び荒川《あらかは》の水《みづ》を導《みちび》かんと欲《ほつ》し、附近村落《ふきんそんらく》に令《れい》し、晝《ひる》は一|人《にん》に米《こめ》一|升《しよう》と錢《ぜに》六十|文《もん》、夜《よる》は一|升《しよう》と百|文《もん》の賃錢《ちんせん》にて、工夫《こうふ》を募《つの》り、九|日《か》の夜《よ》、熊谷堤附近《くまがやづゝみふきん》―鎌塚村《かまづかむら》―より起工《きこう》し。十四|日《か》正午過《しやうごすぎ》に至《いた》り、竣工《しゆんこう》した。
其《そ》の堤《つゝみ》は丸墓山《まるはかやま》を起點《きてん》とし、南《みなみ》するものは、埼玉《さいたま》、樋上《ひがみ》、堤根《つゝみね》の三|村《そん》を過《す》ぎ、袋村《ふくろむら》の北方《ほくはう》にて西北《せいほく》に折《を》れ、鎌塚《かまづか》、門井《かどゐ》、棚田《たなだ》、太井《ふとゐ》、戸出《といで》、平戸《ひらと》の諸村《しよそん》より、熊谷附近《くまがひふきん》、荒川《あらかは》の左岸《さがん》に畢《をは》り、北《きた》するものは、長野《ながの》、小見《をみ》、白川戸《しらかはど》の諸村《しよそん》より、利根川《とねがは》の右岸《うがん》に至《いた》つた。此《かく》の如《ごと》く忍城《おしじやう》を中心《ちうしん》として、遠《とほ》きは一|里《り》、近《ちか》きも數町《すちやう》に、不整《ふせい》なる弧形《こけい》を畫《ゑが》いた。其《そ》の長《なが》さは約《やく》三|里《り》半《はん》、高《たか》さ一|間《けん》乃至《ないし》二|間《けん》、幅《はゞ》は基脚《ききやく》に於《おい》て六|間《けん》であつた。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
築※[#「こざとへん+是」、第3水準1-93-60]《ちくてい》の成《な》るや、諸隊《しよたい》を遠《とほ》く※[#「こざとへん+是」、第3水準1-93-60]後《ていご》に移《うつ》し、利根川《とねがは》の右岸《うがん》を決《けつ》して水《みづ》を導《みちび》いたが、水勢《すゐせい》乏《とぼ》しくして、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》し得《え》なかつた。因《よつ》て石原村《いしはらむら》に於《おい》て、荒川《あらかは》を堰《せ》き止《と》め、左岸《さがん》の※[#「こざとへん+是」、第3水準1-93-60]《つゝみ》を決《けつ》して注《そゝ》いだが、十六|日《にち》に至《いた》りて、水《みづ》は※[#「こざとへん+是」、第3水準1-93-60]中《ていちう》に滿《み》ち、城《しろ》を浸《ひた》したが、是《こ》れが爲《た》めに城兵《じやうへい》を困《くる》しましむる迄《まで》に及《およ》ばなかつた。
然《しか》るに折《を》り惡《あ》しく、十八|日《にち》烈風《れつぷう》猛雨《まうう》にて、午後《ごご》十二|時頃《じごろ》、袋《ふくろ》、堤根《つゝみね》の兩村間《りやうそんかん》の※[#「糸+弟」、第4水準2-84-31]防《ていばう》決潰《けつくわい》し、川面村附近《かはづらむらふきん》の寄手《よせて》は、是《こ》れが爲《た》めに溺死《できし》するもの二百七十|餘人《よにん》、※[#「糸+弟」、第4水準2-84-31]内《ていない》の水《みづ》は盡《こと/″\》く漏《も》れ去《さ》りて、水攻《みづぜめ》の工事《こうじ》は、全《まつた》く無益《むえき》に歸《き》した。折角《せつかく》秀吉《ひでよし》の故智《こち》を襲《おそ》うた、石田《いしだ》三|成《なり》の軍略《ぐんりやく》も、今《いま》は城兵《じやうへい》を困《くる》しめずして、却《かへ》つて自《みづ》から困《くる》しむ結果《けつくわ》となつた。
此《こゝ》に於《おい》て寄手《よせて》は再《ふたゝ》び陣地《ぢんち》を進《すゝ》め、包圍《はうゐ》したが、道路《だうろ》の泥濘《でいねい》甚《はなは》だしく、頗《すこぶ》る攻撃《こうげき》に不便《ふべん》で、姑《しば》らく休戰對峙《きうせんたいぢ》の状態《じやうたい》を持續《ぢぞく》した。秀吉《ひでよし》は其《そ》の模樣《もやう》を聞《き》いて、鉢形附近《はちがたふきん》に駐屯《ちゆうとん》したる、淺野長政《あさのながまさ》、眞田昌幸《さなだまさゆき》の二|隊《たい》、約《やく》六千|餘人《よにん》に赴援《ふゑん》を命《めい》じ、七|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、忍城附近《おしじやうふきん》に來《きた》り會《くわい》した。
七|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、淺野隊《あさのたい》は、皿尾口《さらをぐち》の方面《はうめん》、乘《じよう》ず可《べ》き虚隙《きよげき》あるを察《さつ》し、進《すゝ》んで之《これ》を攻《せ》めた。守兵《しゆへい》支《さゝ》ふる能《あた》はず本城《ほんじやう》に退《しりぞ》いた。長政《ながまさ》は其《そ》の守備《しゆび》を眞田《さなだ》に託《たく》して、引揚《ひきあ》げたが、同夜《どうや》城兵《じやうへい》出《い》で來《きた》つて之《これ》を襲《おそ》うた。却《かへ》つて眞田《さなだ》の爲《た》めに撃退《げきたい》せられた。
此《こ》の一|戰《せん》に機會《きくわい》を見出《みいだ》し、長政《ながまさ》は三|成《なり》と相議《あひぎ》し、三|面《めん》總攻撃《そうこうげき》にて、一|擧《きよ》此《こ》の城《しろ》を陷落《かんらく》せしめんと企《くはだ》て、石田隊《いしだたい》は下忍口《しもおしぐち》を、淺野隊《あさのたい》は長野口《ながのぐち》を、大谷隊《おほたにたい》は佐間口《さまぐち》を攻《せ》む可《べ》く相約《あひやく》した。然《しか》るに石田隊《いしだたい》は、七|月《ぐわつ》五|日《か》期《き》に先《さきだ》ちて、下忍口《しもおしぐち》に攻《せ》め掛《かゝ》つた。守將《しゆしやう》酒卷靱負尉《さかまきゆきへのじよう》、警鐘《けいしよう》を亂打《らんだ》して、援兵《ゑんぺい》を集《あつ》め、壁《へき》に據《よ》りて、極力《きよくりよく》防禦《ばうぎよ》したから、石田隊《いしだたい》の死者《ししや》三百、傷者《しやうしや》八百を出《いだ》し、遂《つひ》に其《そ》の志《こゝろざし》を得《え》ずして、退却《たいきやく》を餘儀《よぎ》なくした。
淺野長政《あさのながまさ》は、遙《はる》かに吶喊《とつかん》の聲《こゑ》の西南《せいなん》に起《おこ》るを聞《き》き、扨《さ》ては三|成《なり》、約《やく》に負《そむ》き、脱《ぬ》け驅《が》けの手柄《てがら》を爲《な》さんとしたかと憤《いきどほ》り、直《たゞ》ちに長野口《ながのぐち》の外張《とばり》に攻《せ》め寄《よ》せた。長束隊《ながつかたい》も亦《ま》た之《これ》に應《おう》じ、水田《みづた》を踰《こ》え、城兵《じやうへい》の背後《はいご》に出《い》で。之《これ》を挾撃《けふげき》した。守兵《しゆへい》潰走《くわいそう》し、二|隊《たい》追躡《つゐせふ》して行田門《ぎやうだもん》に逼《せま》つたが、守將《しゆしやう》島田出羽守《しまだではのかみ》、遊軍《いうぐん》今村佐渡守等《いまむらさどのかみら》、兵《へい》二百|餘《よ》を率《ひき》ゐ、突出《とつしゆつ》して敗兵《はいへい》を收《をさ》め、奮鬪力戰《ふんとうりよくせん》した。佐間口《さまぐち》の守將《しゆしやう》正木丹波守《まさきたんばのかみ》急《きふ》を聞《き》き、精兵《せいへい》五十を率《ひき》ゐ、出《い》でゝ寄手《よせて》の側背《そくさい》に逼《せま》り、吶喊攻撃《とつかんこうげき》したから、二|隊《たい》も亦《また》、餘儀《よぎ》なく兵《へい》を長野口《ながのぐち》に收《をさ》めた。此《こ》の際《さい》二|隊《たい》の死傷《ししやう》六百|餘《よ》と云《い》へば、可《か》なりの激戰《げきせん》であつた。
又《ま》た大谷隊《おほたにたい》は、行田口《ぎやうだぐち》の戰《たゝかひ》闌《たけなは》なるを聞《き》き、進《すゝ》んで佐間口《さまぐち》を攻《せ》めたが、城兵《じやうへい》善《よ》く防《ふせ》ぎ、而《しか》して守將《しゆしやう》正木丹波守《まさきたんばのかみ》、行田口《ぎやうだぐち》の敵《てき》を敗《やぶり》りて囘《かへ》り來《きた》り、遂《つ》ひに之《これ》を撃退《げきたい》した。
此《かく》の如《ごと》く忍城《おしじやう》は、其《そ》の城主《じやうしゆ》の留守《るす》に係《かゝは》らず、寡兵《くわへい》を以《もつ》て、大敵《たいてき》に抗《かう》し、北條家《ほうでうけ》の本城《ほんじやう》小田原《をだはら》の開城後迄《かいじやうごまで》も、尚《な》ほ堅守《けんしゆ》して降《くだ》らなかつたが。城主《じやうしゆ》成田氏長《なりたうぢなが》、秀吉《ひでよし》の命《めい》により、其《そ》の士《し》松岡石見《まつをかいはみ》を遣《つかは》し、城代以下《じやうだいいか》を諭《さと》して開城《かいじやう》せしめたから、彼等《かれら》も之《これ》に從《したが》ひ、七|月《ぐわつ》十六|日《にち》、此《こ》の城《しろ》を致《いた》した。此《これ》にて關東諸城《くわんとうしよじやう》は、悉《こと/″\》く秀吉方《ひでよしがた》の物《もの》となつた。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]忍城水攻
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
忍城中持口の外、所々堀の内に十五歳以下の童等に旗を添へ、百姓少々是を雜へ、大勢之有る勢ひを敵兵に見せしむ、各太皷を預け、若し敵兵持口の外に攻來らば、急に太皷を打べき由評定下知あり。其外籠城の女童等、毎日三箇度飯を煮て、所々の持口に持運ぶ。城主(成田氏長)の室女(太田氏)甚た智謀ありて勇氣丈夫に越ゆ、敵兵若し城中に攻入らば、一合戰致すべきの旨用意ありて相持ち、且つ城内要害堅固ならざる處に、下知を爲して堀を掘らしむ、婦人是を營む故に笄堀と謂ふ。凡城下の侍七十九人、足輕四百廿人、百姓、町人、寺法師、雜兵以下、所々持口の人數、都合二千六百二十七人、十五歳以下の童部等千百十三人、男女都合三千七百四十餘人楯籠る。寄手總人數二萬三千百餘騎城を圍む。此城四方に大沼を抱へ、道窄く左右深田にして、大勢の進退自由ならず、細道を順に進み攻戰ふの間、寄手に手負死人甚多し。城中兼日約を定め何れの持口たりとも、味方打勝たば貝を吹立つべし、最も螺太皷鐘等の數毎日之れを評定す。若し鐘の音を聞かば他の持口より互に助合ふべしと評定す。要害甚堅固なる間、急に攻落すべきとも見えす。
六月七日石田冶部少輔近習の侍六七騎引率して陣所を出、小山(丸墓山)に登り、忍城を熟覽し、則諸將を招て曰、今城中の體を見るに、兵粮玉藥澤山にして、究竟の要害也、故に大勢を以て攻ると雖も、中々急に落城すべきとも見えず、唯今迄關東の諸城輙く攻落す事、或は要害淺間にして防戰せず、或は寄手の大勢に恐れて降を乞ふ、今此城能く防ぐと雖も、地低くして水攻に便あり、所詮堤を築きて利根荒川を切懸て水攻に致すべき乎と云々、皆此儀然るべしと同心す。爰に於て近郷隣里に相觸て男女兒童に依らず、忍城外に來り、土を運び堤を築く者には米錢を賜ふべしと云々。之に依て近郷の農人商夫兒童數萬人相集る、晝は一人に米壹升、永樂錢六十文、夜は同く米一升、永樂錢百文宛を授く、熊ヶ谷堤の際より築初め吹上、鶴岡、前網、三ツ木、箕田、川頬《かはつら》、堤根、樋上、渡柳、埼玉、持田、長野、小見、白川戸、和田、上池守、下池守、土手、大井、棚田、久下、※[#「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57]賣新田等忍の城邊都合廿五郷行程三里半ノ所、數千間高サ一間或は二間敷六間に堤を築しめ、利根荒川を切掛け水攻にせんと、夜を以て日に次で其功を遂んとす。城中には中々水難の患なき故あるを以て却て人夫を出し、其價を取しめ、米※[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、194-5]を城内に買入る、奉行人是を見咎て、石田に告て曰、城中より出る所の人夫一一召捕て之を討すべしと、石田曰、是は城兵田舍心の淺略《あさはか》より水攻の※[#「徳のつくり」の「心」に代えて「一/心」、第4水準2-12-48]大にして、頓て溺死せんも辨へず、米錢を貪り取ん爲に下卒を人夫に混亂し出すと見えたり、最も捕て斬捨んこと輙《たやす》かるべし、然る時は他の人夫是に驚怖して群り來らざる時は、即功に妨有るべし、唯堤の成就を急ぐべしと、下知しけると也。〔忍城戰記〕
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