第五章 兩軍の戰鬪開始
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第五章 兩軍の戰鬪開始[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【二六】秀吉最初の軍配[#中見出し終わり]

三|月《ぐわつ》二十八|日《にち》、秀吉《ひでよし》は諸將《しよしやう》を率《ひき》ゐて沼津《ぬまづ》を發《はつ》し、三|島《しま》を過《す》ぎ、山中《やまなか》の西方高處《せいはうかうしよ》に上《のぼ》り、遙《はる》かに山中城《やまなかじやう》、及《および》韮山方向《にらやまはうかう》の地形《ちけい》を視察《しさつ》し、長久保城《ながくぼじやう》に入《い》り、家康《いへやす》と會《くわい》し軍議《ぐんぎ》を凝《こ》らした。
秀吉《ひでよし》の申《まを》す樣《やう》は、敵《てき》は山中《やまなか》、韮山《にらやま》の兩城《りやうじやう》を以《もつ》て、箱根《はこね》の險《けん》を扼《やく》し、主力《しゆりよく》は小田原《をだはら》に立《た》て籠《こも》り、鳴《な》りを靜《しづ》めて、出戰《しゆつせん》の模樣《もやう》がない。されば先《ま》づ試《こゝろ》みに此《こ》の兩城《りやうじやう》を攻《せ》めては如何《いかん》と。家康《いへやす》曰《いは》く、御意《ぎよい》尤《もつとも》である。若《も》し敵《てき》の主力《しゆりよく》出《い》で援《たす》けば、不肖《ふせう》自《みづ》から之《これ》に當《あた》り申《まを》さむ。往年《わうねん》吾兵《わがへい》一|萬《まん》を以《もつ》て、敵《てき》の三|萬《まん》を破《やぶ》つた例《れい》もあれば、北條《ほうでう》の弓矢《ゆみや》の程《ほど》も、略《ほ》ぼ察《さつ》せられ候《さふらふ》。然《しか》も萬《まん》一|吾兵《わがへい》不利《ふり》に候《さふら》はゞ、本軍《ほんぐん》繼《つ》ぎ進《すゝ》み給《たま》ふ可《べ》し、ゆめ/\必勝《ひつしよう》疑《うたが》ひ候《さふら》はずと。秀吉《ひでよし》笑《わら》うて曰《いは》く、御身《おんみ》を先手《さきて》として、予《よ》を總帥《さうすゐ》とせば、朝鮮《てうせん》、大明《たいみん》百|萬《まん》の兵《へい》も、一|擧《きよ》して之《これ》を殲《つく》さむ、況《いはん》や區々《くゝ》の北條《ほうでう》をや。但《た》だ心配《しんぱい》は敵《てき》の出《い》で來《きた》らざることであると。
家康《いへやす》曰《いは》く、若《も》し兩城《りやうじやう》を攻《せ》め給《たま》はゞ、其《そ》の一|城《じやう》は必《かな》らず破《やぶ》れ候《さふら》はむ。其《そ》の時《とき》に及《およ》んで、不肖《ふせう》は其《そ》の勢《いきほひ》に乘《じよう》じ、元山中《もとやまなか》の間道《かんだう》より直《たゞち》に小田原城《をだはらじやう》の東《ひがし》に出《い》で、酒匂口《さかはぐち》を扼《やく》し、其《そ》の援路《ゑんろ》を絶《た》ち申《まを》さむ。而《しか》して公《こう》親《みづ》から大軍《たいぐん》を以《もつ》て、城《しろ》の西口《にしぐち》に逼《せま》り給《たま》はゞ、包圍《はうゐ》立《たちどこ》ろに成《な》り候《さふら》はんと。秀吉《ひでよし》曰《いは》く、山中城以外《やまなかじやういぐわい》に、箱根連山《はこねれんざん》に、敵城《てきじやう》ありやと。家康《いへやす》曰《いは》く、鷹《たか》ノ巣《す》、足柄《あしがら》、新莊等《しんじやうとう》の數城《すじやう》あるも、一|蹴《しゆく》して過《す》ぎんに、何《なん》の掛念《けねん》か候《さふら》ふ可《べ》きと。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》家康《いへやす》兩人《りやうにん》の相談《さうだん》は、概《がい》して上《かみ》の通《とほ》りであつた。秀吉《ひでよし》は同夜《どうや》沼津《ぬまづ》に還《かへ》り、直《たゞち》に諸將《しよしやう》の向《むか》ふ所《ところ》を部署《ぶしよ》して、麾下《きか》の士《し》福原直高《ふくはらなほたか》をして、之《これ》を傳《つた》へしめた。
即《すなは》ち秀次《ひでつぐ》は山中城《やまなかじやう》に向《むか》ひ、信雄《のぶを》は韮山城《にらやまじやう》に向《むか》ひ、又《ま》た家康《いへやす》をして、元中山《もとなかやま》の間道《かんだう》より、箱根驛方向《はこねえきはうかう》に、堀秀政《ほりひでまさ》をして、山中南方《やまなかなんぱう》の間道《かんだう》より、日金山方向《ひがねやまはうかう》に進《すゝ》ましめ、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら本軍《ほんぐん》を帥《ひき》ゐ、秀次《ひでつぐ》の後《あと》に繼《つ》がんとした。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》は三|月《ぐわつ》二十九|日《にち》(陽暦五月三日)[#「(陽暦五月三日)」は1段階小さな文字]沼津《ぬまづ》を發《はつ》し、初音《はつね》ヶ原《はら》に向《むか》うた。家康《いへやす》は先日來《せんじつらい》、既《すで》に長久保城《ながくぼじやう》に在《あ》り、其《そ》の前衞《ぜんゑい》は總《そう》ヶ原《はら》北方《ほくはう》に進《すゝ》み、秀次《ひでつぐ》は其《そ》の南方《なんぱう》に、自餘《じよ》の諸隊《しよたい》は、三|島《しま》及《およ》び沼津附近《ぬまづふきん》に駐屯《ちゆうとん》して居《ゐ》たが、當日《たうじつ》午前《ごぜん》四|時頃《じごろ》より、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》進軍《しんぐん》し始《はじ》めた。
今《い》ま其《そ》の梗概《こうがい》を示《しめ》せば、山中城《やまなかじやう》の攻撃軍《こうげきぐん》は、池田輝政《いけだてるまさ》二千五百|人《にん》、木村重茲《きむらしげこれ》二千八百|人《にん》、長谷川秀一《はせがはひでかず》三千六百|人《にん》、堀秀政《ほりひでまさ》八千七百|人《にん》、丹羽長重《にはながしげ》六百|人《にん》、計《けい》一|萬《まん》八千三百|人《にん》を右翼《うよく》とし、徳川家康《とくがはいへやす》の三|萬人《まんにん》を左翼《さよく》とし、羽柴秀次《はしばひでつぐ》一|萬《まん》七千|人《にん》、羽柴秀勝《はしばひでかつ》二千五百|人《にん》、計《けい》一|萬《まん》九千五百|人《にん》を中軍《ちゆうぐん》とし、合計《がふけい》六|萬《まん》七千八百|人《にん》であつた。
秀次等《ひでつぐら》の隊《たい》は、三|島方向《しまはうかう》より、箱根路《はこねぢ》を進《すゝ》み、山中城《やまなかじやう》の正面《しやうめん》に出《い》で、堀等《ほりら》の隊《たい》は、箱根路《はこねぢ》の南方《なんぱう》玉澤附近《たまざはふきん》より、日金山方向《ひがねやまはうかう》―相模湯河原《さがみゆがはら》に出《い》づる路《みち》にして、日金山《ひがねやま》の北方《ほくはう》に當《あた》る―に、徳川《とくがは》の隊《たい》は、箱根路《はこねぢ》の北方《ほくはう》元山中《もとやまなか》の路《みち》を進《すゝ》み、何《いづ》れも山中城《やまなかじやう》の側背《そくはい》を脅威《けふゐ》し、以《もつ》て秀次等《ひでつぐら》の隊《たい》に應援《おうゑん》し、且《か》つ敵《てき》の主力《しゆりよく》に備《そな》へた。
秀吉《ひでよし》は躬《みづか》ら麾下《きか》の兵《へい》四|萬餘人《まんよにん》を率《ひき》ゐて、秀次《ひでつぐ》、秀勝《ひでかつ》の後《あと》に繼《つ》いだ。
山中城《やまなかじやう》は北條方《ほうでうがた》にても、第《だい》一の恃《たの》みとしたる要害《えうがい》であつた。苟《いやし》くも此城《このしろ》の存《そん》する間《あひだ》は、京勢《きやうぜい》敢《あへ》て小田原《をだはら》に來《きた》り薄《せま》るを得《え》ざるものとして、其《そ》の防禦《ばうぎよ》を嚴重《げんぢゆう》にした。
城《しろ》は箱根山《はこねやま》の西面《せいめん》に位《くらゐ》し、箱根路《はこねぢ》を扼《やく》し、東西《とうざい》約《やく》三|町《ちやう》、南北《なんぼく》約《やく》二|町《ちやう》、本丸《ほんまる》、二ノ丸《まる》、三ノ丸等《まるとう》の數郭《すくわく》あり。又《ま》た城南《じやうなん》約《やく》四|町《ちやう》なる岱崎《たいざき》に東西《とうざい》約《やく》半町《はんちやう》、南北《なんぼく》約《やく》二|町《ちやう》の出丸《でまる》を設《まう》けた。此《こ》れは今囘《こんくわい》の戰爭《せんさう》を豫期《よき》して、去年《きよねん》十二|月《ぐわつ》増築《ぞうちく》したのだ。城主《じやうしゆ》松田康長《まつだやすなが》は、援將《ゑんしやう》玉繩城主《たまなはじやうしゆ》北條氏勝等《ほうでううぢかつら》と兵《へい》四千|餘人《よにん》にて、之《これ》を守《まも》つた。而《しか》して岱崎《たいざき》の出丸《でまる》には、間宮康俊《まみややすとし》、其《そ》の兵《へい》百十|餘人《よにん》と與《とも》に屯《たむろ》して、之《これ》を守《まも》つた。蓋《けだ》し山中《やまなか》は、韮山《にらやま》、鷹《たか》ノ巣諸城《すしよじやう》と共《とも》に、凾嶺《はこね》の守備線《しゆびせん》にして、北條方《ほうでうがた》にも、最《もつと》も多《おほ》くの力《ちから》を此《こゝ》に竭《つく》したのだ。

[#5字下げ][#中見出し]【二七】山中城の陷落[#中見出し終わり]

扨《さて》も山中城《やまなかじやう》正面《しやうめん》の攻撃軍《こうげきぐん》たる秀次《ひでつぐ》の先鋒《せんぽう》として、中村一氏《なかむらかずうぢ》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》、一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》、山内一豐《やまのうちかずとよ》、田中吉政等《たなかよしまさら》は、三|月《ぐわつ》廿九|日《にち》早朝《さうてう》、岱崎出丸《たいざきでまる》の前方《ぜんぱう》約《やく》十七八|町《ちやう》の邊迄《へんまで》推《お》し寄《よ》せ、秀次《ひでつぐ》、秀勝《ひでかつ》は、其後《そのあと》より前進《ぜんしん》した。
中村《なかむら》は其《そ》の士《し》渡邊勘兵衞尉了《わたなべかんべゑのじやうさとる》を斥候《せきかう》として、偵察《ていさつ》せしめたが、報《はう》じて云《いは》く、近《ちか》く走寄見《はしりよりみ》れば、思《おもひ》の外《ほか》普請《ふしん》疎造《そざう》なり。鐵砲烟《てつぱうけむり》りのすきまより見《み》れば、出丸崎《でまるざき》の幅《はゞ》は、三十|間《けん》ばかりなり。働《はたら》かん勢《せい》は、五六十|人《にん》より外《ほか》はなかる可《べ》し。急《いそ》ぎ御勢《おんぜい》を寄《よ》せられ候《さふら》へと。此《こゝ》に於《おい》て一氏等《かずうぢら》進《すゝ》んで出丸《でまる》の前方《ぜんぱう》約《やく》十|町《ちやう》、箱根路《はこねぢ》の路上《ろじやう》に至《いた》つた。御前《ごぜん》十|時《じ》、秀吉《ひでよし》親《みづ》から數騎《すき》を隨《したが》へ、中村《なかむら》の陣地《ぢんち》を東《ひかし》に距《さ》る約《やく》二|町《ちやう》、箱根路《はこねぢ》の右方《うはう》なる秀次《ひでつぐ》の陣地附近《ぢんちふきん》に來《きた》り、一氏《かずうぢ》、直末等《なほすゑら》をして、出丸《でまる》を攻撃《こうげき》せしめた。一氏《かずうぢ》は直《たゞ》ちに了《さとる》をして、死士《しし》五十|許《ばかり》と與《とも》に、先《ま》づ進《すゝ》ましめ、躬《みづ》から之《これ》に次《つ》いだ。
了《さとる》は當年《たうねん》二十九|歳《さい》の働《はたら》き盛《ざか》りにて、大鳥毛《おほとりげ》に大半月《だいはんげつ》の捺物《さしもの》を捺《さ》し、七|寸《すん》ばかりの黒駒《くろこま》に、黒鞍《くろくら》置《お》いて乘《の》り出《いだ》した。秀吉《ひでよし》は秀次陣所《ひでつぐぢんしよ》の上《うへ》の山《やま》に坐《ざ》し、此《こ》の有樣《ありさま》を見《み》て、あれを見《み》よ、あれを見《み》よと、此《この》大鳥毛《おほとりげ》の翔《かけ》るを指《ゆび》ざし、臀《しり》を引捲《ひきまく》り小踊《こをど》りして、競《きそ》ふ折《をり》から、小田原《をだはら》より來《きた》れる、北條方《ほうでうがた》の斥候《せきこう》、山上顯將《やまがみあきまさ》、諏訪部定吉等《すはべさだよしら》二十|餘人《よにん》、城東《じやうとう》の高處《かうしよ》に上《のぼ》り、敵兵《てきへい》の三|方《ぱう》より進撃《しんげき》し來《きた》るを望見《ばうけん》し、狼狽《らうばい》して還《かへ》り去《さ》らんとするを見《み》て、秀吉《ひでよし》は是《こ》れを城兵《じやうへい》の敗走《はいさう》と認《みと》め、城《しろ》は只今《たゞいま》乘《の》り破《やぶ》るぞと、總責《そうぜめ》の貝《かひ》を吹《ふ》かしめ、鬨《とき》の聲《こゑ》を揚《あ》げさせた。〔關八州古戰録、改正參河後風土記〕[#「〔關八州古戰録、改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]斯《か》くて了《さとる》、及《およ》び中村《なかむら》の士《し》籔内匠助等《やぶたくみのすけら》は、身《み》を挺《てい》して壕《ほり》を越《こ》え、出丸《でまる》の内《うち》に踊《をど》り入《い》つた。之《これ》に續《つゞ》く中村才次郎《なかむらさいじらう》は、十六|歳《さい》の少年《せうねん》なりしが、若年《じやくねん》の事《こと》とて、物具《もののぐ》を帶《たい》しては働《はた》らき難《にく》く、猩々緋《せう/″\ひ》の胴服《どうふく》を著《ちやく》し、塀《へい》を乘《の》り越《こ》えんとする所《ところ》を、敵《てき》塀内《へいうち》より長刀《なぎなた》にて車切《くるまぎり》にし、胴《どう》より上《うへ》は城中《じやうちゆう》に、腰《こし》より下《した》は塀《へい》の外《そと》に落《を》ちた。中村勢《なかむらぜい》は白兵戰《はくへいせん》にて、出丸《でまる》を乘《の》り取《と》つた。一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》は、其《そ》の弟《おとうと》直盛《なほもり》と與《とも》に、右方《うはう》の谷間《たにま》を傳《つた》うて、搦手《からめて》より攻《せ》め登《のぼ》つたが、彼《かれ》は乍《たちま》ち城兵《じやうへい》の砲丸《ほうぐわん》に中《あた》りて斃《たふ》れ、直盛《なほもり》代《かは》りて、勇戰《ゆうせん》した。而《しか》して吉晴《よしはる》、一豐等《かずとよら》亦《ま》た奮鬪《ふんとう》、最《もつと》も勗《つと》め、軈《やが》て三ノ丸《まる》を攻《せ》め取《と》つた。援將《ゑんしやう》の一|人《にん》たる間宮康俊《まみややすとし》は、其《そ》の子《こ》と與《とも》に、勢《いきほひ》の可《か》ならざるを見《み》て、切腹《せつぷく》して死《し》した。
二ノ丸《まる》の守將《しゆしやう》北條氏勝《ほうでううぢかつ》は、敵兵《てきへい》が多事《たじ》の戰《たゝかひ》に疲《つか》れ、倉庫《さうこ》を打《う》ち破《やぶ》り、酒食《しゆしよく》を貪《むさぼ》り喫《きつ》し、前後不覺《ぜんごふかく》に財寶《ざいはう》を奪《うば》ひ合《あ》ひつゝある間《ま》に乘《じやう》じ、其《そ》の弟《おとうと》氏成《うぢなり》、朝倉景澄等《あさくらかげすみら》十八|人《にん》と、密《ひそ》かに城《しろ》を捨《す》てゝ走《はし》つたが、彼等《かれら》は途中《とちゆう》日《ひ》暮《く》れて路《みち》に迷《まよ》ひ、辛《から》うじて小田原城北《をだはらじやうほく》の久野《くの》を經《へ》て、其《そ》の居城《きよじやう》玉繩《たまなは》に入《い》つた。
されば今《いま》や剩《あま》す所《ところ》は、只《た》だ本丸《ほんまる》のみだ。然《しか》も守將《しゆしやう》松田康長《まつだやすなが》は、打《う》ち漏《も》らされたる部下《ぶか》二百|餘人《よにん》を以《もつ》て、之《これ》に據《よ》り、親《みづ》から槍《やり》を揮《ふる》うて惡鬪數囘《あくとうすくわい》、遂《つ》ひに傷《きず》を負《お》うて殪《たふ》れた。殘兵《ざんぺい》は小田原《をだはら》に走《はし》り、其《そ》の一|部《ぶ》は鷹《たか》ノ巣《す》、足柄《あしがら》、新莊《しんじやう》、及《およ》び湯河原《ゆがはら》に走《はし》つた。斯《か》くて本丸《ほんまる》も正午頃《しやうごごろ》には陷《おちい》つた。北條方《ほうでうがた》の總勢《そうぜい》の死者《ししや》は、五百|餘名《よめい》であつた。
秀吉《ひでよし》は食事《しよくじ》の際《さい》に、黒田孝高《くろだよしたか》より一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》の死《し》を聞《き》き、惜《をし》む可《べ》き士《さむらひ》を失《うしな》つたと、落涙《らくるゐ》した。同夜《どうや》秀吉《ひでよし》は山中《やまなか》に、秀次《ひでつぐ》は城北《じやうほく》二十|餘町《よちやう》の地《ち》に營《えい》した。此《こ》の一|戰《せん》は、上方勢《かみがたぜい》の關東勢《くわんとうぜい》に對《たい》する、最初《さいしよ》の果合《はたしあひ》であつた。されば秀吉《ひでよし》は、少《すく》なからず其《そ》の成功《せいこう》に滿足《まんぞく》した。彼《かれ》は取《と》り敢《あ》へず戰捷《せんせふ》を、朝廷《てうてい》に奏《そう》し、左《さ》の如《ごと》き書《しよ》を、島津龍伯《しまづりゆうはく》、義弘《よしひろ》兄弟《きやうだい》、加藤清正《かとうきよまさ》、吉川廣家等《きつかはひろいへら》の西國諸大名《さいこくしよだいみやう》に報《はう》じた。
[#ここから1字下げ]
急度《きつと》染筆候《せんぴつさふらふ》。中納言《ちゆうなごん》(秀家)[#「(秀家)」は1段階小さな文字]山中城《やまなかのしろ》へ、今日《こんにち》廿九|日《にち》執懸《とりかゝり》、即《すなはち》午刻《うまのこく》乘崩《のりくづし》、城主之事者《じやうしゆのことは》|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、首《くび》千餘《せんよ》討捕《うちとり》、其外《そのほか》追打《おひうち》|不[#レ]知[#レ]數候《かずしれずさふらふ》。然者《しかれば》明日《みやうにち》朔日《ついたち》、箱根山峠《はこねやまとふげ》へ、|爲[#二]陣取[#一]《ぢんどらせ》、|至[#二]小田原表[#一]《をだはらおもてにいたり》、|可[#二]手遣[#一]候條《てつかはすべくさふらふでう》、落居《らくきよ》|不[#レ]可[#レ]有[#レ]程候《ほどあるべからずさふらふ》。尚《なほ》追々《おほ/\》吉左右《きつさう》|可[#二]申聞[#一]候也《まをしきけべくさふらふなり》。
  三月廿九日
[#地から3字上げ]朱印(秀吉)
[#ここで字下げ終わり]
小田原《をだはら》の落去《らくきよ》は、秀吉《ひでよし》の示《しめ》したる如《ごと》く、近《ちか》くはなかつた。されど北條氏《ほうでうし》は其《そ》の君臣《くんしん》を擧《あ》げて、恃《たの》む可《べ》からざるを恃《たの》んだ。例《れい》せば山中城主《やまなかじやうしゆ》松田康長《まつだやすなが》の如《ごと》きも、三|月《ぐわつ》十九|日《にち》―即《すなは》ち山中城《やまなかじやう》落城《らくじやう》の十|日前《かまへ》―附《づけ》にて、箱根《はこね》金剛王院《こんがうわうゐん》に答《こた》へたる書中《しよちゆう》に於《おい》て、
[#ここから1字下げ]
一 敵陣《てきぢん》極々《ごく/″\》勞兵《らうへい》、第《だい》一|糧《かて》に相詰之由《あひつまるのよし》申候《まをしさふらふ》。是《これ》は實儀《じつぎ》に|可[#レ]有[#レ]之候《これあるべくさふらふ》。|如[#レ]此《かくのごとき》は長陣《ながぢん》|難[#二]罷成[#一]存候《まかりなりがたくぞんじさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と申《まを》して居《を》る。此《こ》れが北條家《ほうでうけ》君臣《くんしん》の痼疾《こしつ》であつた。康長《やすなが》の如《ごと》きは、僅《わづ》かに十|日《か》を過《す》ぎて、自《みづ》から討死《うちじに》したではない乎《か》。惟《おも》ふに此《こ》の山中城《やまなかじやう》の陷落《かんらく》は、小田原《をだはら》に於《おい》ても、定《さだ》めて意外《いぐわい》千|萬《ばん》の事《こと》であつたらう。彼等《かれら》は箱根《はこね》の嶮《けん》は、人力《じんりよく》では打克《うちか》ち難《がた》きものと思《おも》うて居《ゐ》たのであらう。然《しか》も對手《あひて》が秀吉《ひでよし》とあれば、要害抔《えうがいなど》は、問題《もんだい》ではないのだ。若《も》し双方共《さうはうとも》に見込違《みこみちがひ》があつたとすれば、北條方《ほうでうがた》の見込違《みこみちがひ》が、より危險《きけん》に、より大《だい》なる見込違《みこみちがひ》であつた。
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[#6字下げ]朝倉能登守の嘆息
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
山中之領主として松田兵衞大夫數年在りしかども、今度上方勢を可[#二]相防[#一]最初なるに因て、北條左衞門大夫(氏勝)間宮豐前守(康俊)朝倉能登守(重信)を加勢として可[#二]差越冬[#一]旨從[#二]舊[#一]冬之事[#「可[#二]差越冬[#一]旨從[#二]舊[#一]冬之事」はママ]にて有しかば、正月廿日三人を召し寄、右之趣氏政申渡し、數盃之後、左金吾(氏勝)に兼氏の刀、間宮に國吉の刀、朝倉に脇指を賜り、各數年積累の武功、今度山中籠城の一擧に在べしと也、取分け間宮は老武者故にも在るか極[#二]忠死[#一]云やうは、何樣にも可[#レ]抽[#二]忠義[#一]之條御心を安んじ給へと、不束に申立たりしは、天晴其器に堪たりと、滿座瞳と感じ出ぬ。朝倉は反[#レ]之廣間に出で親しき方に付て云やうは、北條の家滅亡爰に極りぬ、山中之城は普請等淺はかにして多勢を請け保つべき城に非らず、然るに舊臣の者を籠置き給はんは無が如くに思されての事になむ覺えたり、誠に命は因[#レ]義輕しと云、則又因[#レ]事重くも有べしや、某は左金吾遂[#二]討死[#一]なば其に相順ふべし、當城(小田原)十ヶ年の政道を見るに、萬事理に違ふ事のみ多かりし間、ハカ々々しき事は有まじきぞ意得候へ々々々々と云含つゝ別れにけり。〔太閤記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二八】小田原籠城[#中見出し終わり]

徳川家康《とくがはいへやす》は、榊原康政《さかきばらやすまさ》を先鋒《せんぽう》として、元山中附近《もとやまなかふきん》に於《おい》て、秀次等《ひでつぐら》の左側《さそく》を掩護《えんご》し、葦川《あしかは》、箱根《はこね》兩驛《りやうえき》を經《へ》て、二|子山麓《こさんろく》に進《すゝ》み、康政《やすまさ》に屬《ぞく》せる坂部廣勝《さかべひろかつ》、久世廣宣等《くぜひろのぶら》をして、鷹《たか》ノ巣城《すじやう》を偵察《ていさつ》せしめ、牧野康成《まきのやすなり》をして、之《これ》に向《むか》はしめた。城將《じやうしやう》稻見某等《いなみそれがしら》は、支《さゝ》ふ可《べ》からざるを見《み》て、守備《しゆび》を徹《てつ》し、小田原《をだはら》に退《しりぞ》いたが、康成《やすなり》の兵《へい》之《これ》を追躡《つゐせふ》して、七十|餘人《よにん》を殪《たふ》した。家康《いへやす》は自《みづ》から城中《じやうちゆう》に宿營《しゆくえい》した。
又《ま》た家康《いへやす》の別隊《べつたい》井伊直政《ゐいなほまさ》は、佐野《さの》より進《すゝ》み、湖尻峠《うみじりたふげ》を越《こ》え、宮城野《みやぎの》に向《むか》うたが、此地《このち》の守將《しゆしやう》松田憲秀等《まつだのりひでら》は、山中城《やまなかじやう》の陷落《かんらく》を聞《き》き、方《ま》さに撤退《てつたい》せんとしつゝあつたが、井伊《ゐい》の先鋒《せんぽう》松平康重《まつだひらやすしげ》は、之《これ》を追撃《つゐげき》して、八十|餘人《よにん》を殪《たふ》した。
堀秀政等《ほりひでまさら》は、玉澤《たまざは》より馬坂《うまざか》の東北高地《とうほくかうち》に出《い》で、秀次等《ひでつぐら》の山中城《やまなかじやう》攻撃《こうげき》の際《さい》には、一|溪《けい》を隔《へだ》てゝ、其《そ》の右側《うそく》を警戒《けいかい》し、其《そ》の陷落《かんらく》を見《み》て、強《し》ひて嶮岨《けんそ》を攀《よ》ぢて、日金山《ひがねやま》方向《はうかう》に進《すゝ》んだ。
山中城《やまなかじやう》の陷落《かんらく》は、乍《たちま》ち小田原《をだはら》攻撃《こうげき》の大舞臺《おほぶたい》を展開《てんかい》した。
徳川本隊《とくがはほんたい》は鷹《たか》ノ巣城《すじやう》占領後《せんりやうご》、四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、宮城野《みやぎの》に次《じ》して、井伊隊《ゐいたい》に合《がつ》し、二|日《か》小田原城《をだはらじやう》の西北《せいほく》諏訪《すは》ノ原《はら》に進《すゝ》み、小田原《をだはら》を距《さ》る約《やく》三十|町《ちやう》なる、總世寺《そうせいじ》の後山《うしろやま》に陣《じん》した。又《ま》た平岩親吉《ひらいはちかよし》、鳥居元忠《とりゐもとたゞ》、内藤信成等《ないとうのぶしげら》の率《ひき》ゐたる甲斐《かひ》の兵《へい》は、吉田《よしだ》、御厨《みくりや》より進《すゝ》み、竹《たけ》ノ下《した》の敵《てき》を驅逐《くちく》して、足柄山《あしがらやま》の三|城《じやう》、及《およ》び新莊城等《しんじやうじやうとう》を收《をさ》め、本隊《ほんたい》に合《がつ》した。三|城《じやう》の嶺上《れいじやう》は依田師冶《よだもろはる》、濱居場《はまゐば》は佐野氏忠《さのうぢたゞ》、其《そ》の中間《ちゆうかん》は氏忠《うぢたゞ》の部兵《ぶへい》之《これ》を守《まも》り、新莊城《しんじやうじやう》は遠山政景《とほやままさかげ》之《これ》を守《まも》つたが、何《いづ》れも勢《いきほひ》の不利《ふり》を見《み》て、小田原《をだはら》に撤退《てつたい》した。
却説《さて》、山中城《やまなかじやう》を取《と》つた秀次等《ひでつぐら》の兵《へい》一|萬《まん》九千|餘人《よにん》は、四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》進《すゝ》んで鷹《たか》ノ巣城《すじやう》に入《い》り、秀吉《ひでよし》亦《ま》た麾下《きか》、及《およ》び宇喜田秀家《うきたひでいへ》の隊《たい》四|萬餘人《まんよにん》を率《ひき》ゐ、山中《やまなか》の營《えい》を發《はつ》し、箱根《はこね》に次《じ》した。曩《さ》きに下野《しもつけ》黒羽城主《くろはじやうしゆ》大關高増《おほぜきたかます》の使《つかひ》を沼津《ぬまづ》に遣《つかは》し、秀吉《ひでよし》に消息《せうそく》を通《つう》ずるや、秀吉《ひでよし》は此日《このひ》之《これ》に復書《ふくしよ》して、『昨《さく》廿九|日《にち》、山中城《やまなかじやう》即時《そくじ》に攻崩《せめくづし》、城主初首《じやうしゆはじめくび》千|餘《よ》討捕《うちとり》、其外《そのほか》追討《おひうち》|不[#レ]知[#レ]數候《かずしれずさふらふ》。伊豆國《いづのくに》|屬[#二]本意[#一]《ほんいにぞくし》、今日《こんにち》箱根峠《はこねたふげ》へ打登候《うちのぼりさふらふ》。小田表行《をだおもてゆき》、急度《きつと》|可[#二]申付[#一]候《まをしつくべくさふらふ》。是又《またこれ》早速《さつそく》|可[#二]相果[#一]《あひはたすべく》、其節《そのせつ》出仕《しゆつし》尤候《もつともにさふらふ》。』と云《い》うた。
此《こ》れは例《れい》の|以[#レ]聲《こゑをもつて》|威[#レ]他《たをおどす》の方便《はうべん》でもあらうが、其《そ》の意氣《いき》の昂揚《かうやう》が、想《おも》ひやらるゝではない乎《か》。
日金山方向《ひがねやまはうかう》に進《すゝ》みたる堀秀政等《ほりひでまさら》の兵《へい》一|萬《まん》八千|人《にん》は、六|隊《たい》に分《わか》ち、第《だい》一|義明等《よしあきら》、第《だい》二|溝口秀勝等《みぞぐちひでかつら》、第《だい》三|丹羽長重《にはながしげ》、堀秀政《ほりひでまさ》、第《だい》四|木村重※[#「玄+玄」、140-2]《きむらしげこれ》、第《だい》五|長谷川秀一《はせがはひでかず》、第《だい》六|池田輝政《いけだてるまさ》にして、其《そ》の第《だい》一と第《だい》二とは、毎日《まいにち》先鋒《せんぽう》を交代《かうたい》した。彼等《かれら》は實《じつ》に非常《ひじやう》なる嶮峻《けんしゆん》を凌《しの》ぎ、木《き》を伐《き》り、岩《いは》を鑿《うが》ち、漸《やうや》く路《みち》を關《ひら》き、遂《つ》ひに片浦地方《かたうらちはう》に達《たつ》し、其《そ》の先鋒《せんぽう》は根府川寨《ねぶがはのとりで》を占領《せんりやう》した。此《こ》れが四|月《ぐわつ》二|日頃與《かごろか》と察《さつ》せらる。
北條方《ほうでうがた》は山中城《やまなかじやう》と云《い》ひ、鷹《たか》ノ巣城《すじやう》と云《い》ひ、交戰《かうせん》僅《わづ》かに一|日《にち》にして、敵《てき》に奪《うば》はれ、宮城野《みやぎの》、湯本《ゆもと》、足柄《あしがら》、新莊《しんじやう》、片浦等《かたうらとう》の守兵《しゆへい》、何《いづ》れも相接《あひせつ》して小田原《をだはら》に退却《たいきやく》したから、氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》は、兵《へい》を畑《はた》、石橋山《いしばしやま》に出《いだ》し、其《そ》の天嶮《てんけん》に據《よ》りて、防禦《ばうぎよ》せんとしたが、然《しか》も松田憲秀《まつだのりひで》は、氏康《うぢやす》が甲越《かふゑつ》二|將《しやう》を、小田原城下《をだはらじやうか》に致《いた》し、糧《りやう》盡《つ》きて自《みづ》から退《しりぞ》かしめたる故智《こち》を襲《おそ》ふ可《べ》く建議《けんぎ》し、是《こ》れが爲《ため》に愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》籠城《らうじやう》に覺悟《かくご》を決《けつ》し、其《そ》の兵《へい》の配置《はいち》を定《さだ》めた。
東方面《とうはうめん》は、上田朝廣等《うへだともひろら》にして、篠曲輪《しのくるわ》は山角定勝等《やまずみさだかつら》、酒匂口《さかはぐち》は北條繁廣等《ほうでうしげひろら》計《けい》七千二百|人《にん》。東北方面《とうほくはうめん》は内藤景豐等《ないとうかげとよら》にして、澁取口《しぶとりぐち》は小幡信貞等《をばたのぶさだら》計《けい》八千九百|人《にん》。北方面《ほくはうめん》は、太田氏房《おほたうぢふさ》にして、井細田口《ゐさいだぐち》は長尾顯長等《ながをあきながら》、久野口《くのぐち》は北條氏堯《ほうでううぢたか》、荻窪口《をぎくぼぐち》は北條直重等《ほうでうなほしげら》、計《けい》一|萬《まん》一千八百|人《にん》。西北方面《せいほくはうめん》は、佐野氏忠《さのうぢたゞ》にして、水之尾口《みづのをぐち》は宇野某等《うのそれがしら》、計《けい》二千五百|人《にん》。西方面《せいはうめん》は松田憲秀《まつだのりひで》にして、二重外張口《ふたへとばぐち》笠原政堯等《かさはらまさたから》、大窪口《おほくぼぐち》松田康光等《まつだやすみつら》、計《けい》八千七百|人《にん》。南方面《なんはうめん》は北條氏照《ほうでううぢてる》にして、早川口《はやかはぐち》は皆川廣照等《みながはひろてるら》、欄干橋通口《らんかんばしどほりぐち》は、原胤成等《はらたねなりら》、廣小路通口《ひろこうぢとほりぐち》は上杉氏憲等《うへすぎうぢのりら》、計《けい》九千六百|人《にん》。通計《つうけい》四|萬《まん》八千七百|人《にん》。而《しか》して内城《うちしろ》には氏直麾下《うぢなほきか》五千|人《にん》、氏政麾下《うぢまさきか》三千|人《にん》、總計《そうけい》五|萬《まん》六千七百|人《にん》であつた。〔日本戰史、小田原役〕

[#5字下げ][#中見出し]【二九】小田原城の包圍[#中見出し終わり]

北條方《ほうでうがた》が小田原籠城策《をだはらろうじやうさく》を實行《じつかう》すると同時《どうじ》に、秀吉方《ひでよしがた》は愈《いよい》よ小田原城《をだはらじやう》の包圍《はうゐ》に取《と》り掛《かゝ》つた。
家康《いへやす》は四|月《ぐわつ》三|日《か》、多古《たこ》に移《うつ》り、先鋒《せんぽう》を井細田附近《ゐさいだふきん》に派《は》し、監視兵《かんしへい》を城東《じやうとう》酒匂村附近《さかはむらふきん》に置《お》き、六|日以後《かいご》進《すゝ》んで今井村《いまゐむら》に陣《ぢん》した。三|日《か》の夜《よ》、北條方《ほうでうがた》北方面《ほくはうめん》の守將《しゆしやう》太田氏房《おほたうぢふさ》は、其《そ》の士《し》春日家吉《かすがいへよし》、及《およ》び宮木《みやき》四|郎兵衞等《ろべゑら》をして、徳川隊《とくがはたい》なる菅沼定勝《すがぬまさだかつ》の營《えい》を襲撃《しふげき》せしめたが、警備《けいび》嚴《げん》にして、却《かへ》つて其《そ》の反撃《はんげき》を被《かうむ》り、兵《へい》三十七|人《にん》を失《うしな》うた。
秀次《ひでつぐ》は四|月《ぐわつ》二|日《か》、久野《くの》に移《うつ》り、翌《よく》三|日《か》荻窪山《をぎくぼやま》に陣《ぢん》し、城北《じやうほく》久野口《くのぐち》、及《およ》び井細田口方向《ゐさいだぐちはうかう》を監視《かんし》し。宇喜田秀家《うきたひでいへ》は兵《へい》八千を率《ひき》ゐ、風祭附近《かざまつりふきん》より水之尾方向《みづのをはうかう》に進《すゝ》み、其《そ》の高地《かうち》に築砦《ちくさい》し、以《もつ》て城西《じやうせい》に對《たい》し。堀秀政等《ほりひでまさら》は、同日《どうじつ》熱海道《あたみみち》より進《すゝ》みて、早川村附近《はやかはむらふきん》に營《えい》し、以《もつ》て城南《じやうなん》を壅塞《ようそく》した。
此《かく》の如《ごと》く上方勢《かみがたぜい》の包圍《はうゐ》は殆《ほと》んど成《な》つた。されば五|日《か》には、秀吉《ひでよし》は愈《いよい》よ其《そ》の本營《ほんえい》を箱根《はこね》より湯本《ゆもと》早雲寺《さううんじ》に移《うつ》した。
今《い》ま其《そ》の包圍軍《はうゐぐん》の概略《がいりやく》を示《しめ》せば、城東《じやうとう》には徳川家康《とくがはいへやす》あり、其《そ》の兵《へい》三|萬人《まんにん》、今井《いまゐ》に營《えい》し、其《そ》の先鋒《せんぽう》を、澁取口《しぶとりぐち》なる町田《まちだ》、中島《なかじま》、酒匂口《さかはぐち》なる山王原《さんのうばら》、網《あみ》一|色《しき》に配置《はいち》した。城北《じやうほく》には羽柴秀勝《はしばひでかつ》二千五百|人《にん》、羽柴秀次《はしばひでつぐ》一|萬《まん》七千|人《にん》、荻窪山《をぎくぼやま》に營《えい》し、先鋒《せんぽう》を荻窪村《をぎくぼむら》に配置《はいち》した。城西《じやうせい》には宇喜田秀家《うきたひでいへ》八千|人《にん》、水之尾附近《みづのをふきん》に營《えい》し、先鋒《せんぽう》を水之尾口付近《みづのをぐちふきん》に配置《はいち》した。城南《じやうなん》には池田輝政《いけだてるまさ》二千五百|人《にん》、丹羽長重《にはながしげ》七百|人《にん》、堀秀政《ほりひでまさ》八千七百|人《にん》、長谷川秀一《はせがはひでかず》三千六百|人《にん》、木村重※[#「玄+玄」、143-4]《きむらしげこれ》二千八百|人《にん》、石垣山麓《いしがきさんろく》に營《えい》し、先鋒《せんぽう》を早川村《はやかはむら》に配置《はいち》した。而《しか》して其《そ》の本營《ほんえい》なる秀吉《ひでよし》は、三|萬《まん》二千|人《にん》にて、湯本《ゆもと》早雲寺《さううんじ》に營《えい》し、其《そ》の一|部《ぶ》を、石垣山《いしがきやま》に配置《はいち》した。其《そ》の通計《つうけい》十|萬《まん》七千八百|人《にん》。尚《な》ほ曩《さ》きに伊豆下田《いづしもだ》に向《むか》うたる水軍《すゐぐん》の諸將《しよしやう》、及《およ》び徳川《とくがは》の水軍等《すゐぐんとう》を召致《せうち》し、南方《なんぽう》相模灣《さがみわん》を警備《けいび》せしめた。
乃《すなは》ち東南海上《とうなんかいじやう》、酒匂口《さかはぐち》には長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》の二千五百|人《にん》、加藤嘉明《かとうよしあき》の六百|人《にん》、菅達長《すげたつなが》の二百三十|人《にん》、及《およ》び徳川《とくがは》の士《し》小濱景隆等《をばまかげたから》の兵《へい》若干《じやくわん》。西南海上《せいなんかいじやう》早川口《はやかはぐち》には、九|鬼嘉隆《きよしたか》一千五百|人《にん》、脇坂安治《わきざかやすはる》一千三百|人《にん》、來島通總等《くるしまみちふさら》五百|人《にん》、徳川水軍《とくがはすゐぐん》を除《のぞ》きて、合計《がふけい》六千六百|餘人《よにん》。其《そ》の他《た》羽柴秀長《はしばひでなが》の兵《へい》一千五百|人《にん》、宇喜田秀家《うきたひでいへ》一千|人《にん》、毛利輝元《まうりてるもと》五千|人《にん》、合計《がふけい》七千五百|人《にん》の水軍《すゐぐん》は、恐《おそ》らくは上方地方《かみがたちはう》との運輸《うんゆ》に從事《じゆうじ》したのであらう。又《ま》た里見義康《さとみよしやす》は、兵船《へいせん》三十|隻《せき》を率《ひき》ゐ、早川口《はやかはぐち》の海上《かいじやう》に碇泊《ていはく》して、上方勢《かみがたぜい》に來《きた》り投《とう》じた。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]斯《か》くて秀吉《ひでよし》は、自《みづか》ら麾下《きか》若干《じやくかん》を率《ひき》ゐ、※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]《はる》かに小田原城《をだはらじやう》を下瞰《かかん》し、本營《ほんえい》を是地《このち》に作《つく》つた。
豫《かね》て堀秀政《ほりひでまさ》を透《とほ》して、秀吉《ひでよし》に意《い》を寄《よ》せたる、小田原《をだはら》の宿老《しゆくらう》松田憲秀《まつだのりひで》は、密使《みつし》を秀吉《ひでよし》本陣《ほんぢん》の早雲寺《さううんじ》に發《はつ》し申《まを》す樣《やう》、小田原《をだはら》の西南《せいなん》に當《あた》りて、笠懸山《かさかけやま》とて、天嶮《てんけい》あり、風祭村《かざまつりむら》の左方《さはう》松山《まつやま》の上《うへ》の峰《みね》にて候《さふらふ》。箱根山《はこねやま》より樵夫《きこり》の通《かよ》ふ路《みち》あれば、其山《そのやま》に上《のぼ》り、陣《ぢん》を据《す》ゑ給《たま》へ。小田原城《をだはらじやう》を眞下《ました》に視《み》なして、攻《せ》め給《たま》はんには、防《ふせ》ぐに便《たより》を失《うしな》ふ可《べ》しと。是《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は地《ち》の利《り》を相《さう》し、其言《そのげん》の違《たが》はざるを見《み》て、生茂《おひしげ》れる松《まつ》杉《すぎ》を切倒《きりたふ》し、本陣《ほんぢん》を構《かま》へ、塀《ほり》を懸《か》け、櫓《やぐら》を擧《あ》げ、自《みづ》から此處《ここ》に移轉《いてん》した。當時《たうじ》偶《たまた》ま郭公《ほとゝぎす》啼《な》きければ、『啼《なき》たつよ北條山《ほうでうやま》の郭公《ほとゝぎす》』と口吟《くちずさ》んだ。此《こ》れは敵《てき》調伏《てうふく》の句《く》とて、大評判《だいひやうばん》となつた。且《か》つ陣營《ぢんえい》の塀《へい》、櫓《やぐら》をば、杉原《すぎはら》の白紙《はくし》をもて、一|面《めん》に張立《はりた》てさせ、白土《はくど》にて塗《ぬ》りたる如《ごと》く仕《し》なし、前面《ぜんめん》の杉林《すぎばやし》を切拂《きりはら》はせたれば、小田原城中《をだはらじやうちゆう》にては、一|夜《や》の中《うち》に、かく許《ばか》りの陣所《ぢんしよ》を拵《こしら》へ、石垣《いしがき》を築《きづ》き、白壁《しらかべ》を付《つく》る事《こと》、凡人《ぼんじん》の態《さま》とは見《み》えず、秀吉《ひでよし》は天魔《てんま》の化身《けしん》にやと驚《おどろ》いた。是《こ》れよりして此山《このやま》を石垣山《いしがきやま》とも、白壁山《しらかべやま》とも云《い》ふとの説《せつ》がある。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
如上《じよじやう》の説《せつ》は、保證《ほしやう》の限《かぎ》りでないとしても、秀吉《ひでよし》の本營《ほんえい》が、突兀《とつこつ》として石垣山《いしがきやま》の上《うへ》に聳《そび》えたのは、正《まさ》しく小田原城中《をだはらじやうちゆう》の驚異《きやうい》であつたに相違《さうゐ》あるまい。特《とく》に工事奉行《こうじぶぎやう》に、増田長盛《ますだながもり》、長束正家等《ながつかまさいへら》の如《ごと》き敏腕者《びんわんしや》が揃《そろ》うたれば、其《そ》の普請《ふしん》の埒《らち》明《あ》き方《かた》も、亦《ま》た頗《すこぶ》る異常《いじやう》であつたに相違《さうゐ》あるまい。松田《まつだ》が内通《ないつう》あつたにせよ、無《な》かつたにせよ、兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》の石垣山《いしがきやま》に本營《ほんえい》を据《す》ゑたのは、小田原《をだはら》に取《と》りては、痛手《いたで》であつたに相違《さうゐ》あるまい。併《しか》し秀吉《ひでよし》は、尚《な》ほ當分《たうぶん》は早雲寺《さううんじ》にあつた。彼《かれ》は大建築《だいけんちく》の全《まつた》く落成《らくせい》する迄《まで》は、時々《とき/″\》此處《ここ》を巡視《じゆんし》した。

[#5字下げ][#中見出し]【三〇】韮山城の攻守[#中見出し終わり]

姑《しばら》く眼《まこと》を小田原城《をだはらじやう》より轉《てん》じて、韮山城《にらやまじやう》の攻守《こうしゆ》に就《つい》て語《かた》らしめよ。該城《がいじやう》の攻撃《こうげき》は、山中城《やまなかじやう》攻撃以前《こうげきいぜん》に開始《かいし》せられたが、守將《しゆしやう》北條氏規《ほうでううぢのり》は、防禦《ばうぎよ》尤《もつと》も勗《つと》めて、容易《ようい》に陷落《かんらく》せなんだ。其《その》要領《えうりやう》は先《ま》づ左《さ》の通《とほ》りだ。
抑《そもそ》も織田信雄《おだのぶを》は、三|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》三島以南《みしまいなん》の地《ち》に移《うつ》り、二十八|日《にち》秀吉《ひでよし》より韮山城《にらやまじやう》攻撃《こうげき》の命《めい》を受《う》け、翌《よく》二十九|日《にち》の黎明《れいめい》、新發《しんぱつ》した。其《そ》の部署《ぶしよ》は、右翼《うよく》織田信包《おだのぶかね》三千二百|人《にん》、蒲生氏郷《かまふうぢさと》四千|人《にん》、稻葉貞通《いなばさだみち》千二百|人《にん》、計《けい》八千四百|人《にん》。左翼《さよく》細川忠興《ほそかはたゞおき》二千七百|人《にん》、森忠政《もりたゞまさ》二千一百|人《にん》、中川秀政《なかがはひでまさ》二千|人《にん》、山崎片家《やまざきかたいへ》、岡本良勝等《をかもとよしかつら》二千二百|人《にん》、計《けい》九千|人《にん》。中軍《ちうぐん》筒井定次《つゝゐさだつぐ》千五百|人《にん》、生駒親正《いこまちかまさ》二千二百|人《にん》、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》二千五百|人《にん》、福島正則《ふくしままさのり》千八百|人《にん》、戸田勝隆《とだかつたか》千七百|人《にん》、計《けい》九千七百|人《にん》。而《しか》して主將《しゆしやう》信雄《のぶを》は一|萬《まん》七千|人《にん》を率《ひき》ゐ、合計《がふけい》四|萬《まん》四千一百|人《にん》の寄手《よせて》は、途中《とちう》何等《なんら》の抵抗《ていかう》をも見《み》ず、韮山城外附近《にらやまじやうぐわいふきん》に至《いた》つた。
韮山《にらやま》は箱根以南《はこねいなん》、伊豆《いづ》より小田原《をだはら》に入《い》る咽喉《いんこう》の地《ち》にて、其城《そのしろ》は南《みなみ》に天狗峰《てんぐみね》を負《お》ひ、西《にし》は狩野川《かのがは》を控《ひか》へ、本丸《ほんまる》を最高處《さいかうしよ》に置《お》き、北《きた》に低《た》れて二ノ丸《まる》、三ノ丸《まる》あり、城《しろ》と天狗峰《てんぐみね》との間《あひだ》に、堀切《ほりきり》を作《つく》り、峰《みね》の一|部《ぶ》に出丸《でまる》を設《まう》け、城《しろ》に五|門《もん》を設《まう》け、西《にし》を十八|町口《ちやうぐち》、及《およ》び蛭《ひる》ヶ|島口《しまぐち》、西北《せいほく》を一|色口《しきぐち》、東北《とうほく》を小田原口《をだはらぐち》、南《みなみ》を和田島口《わだじまぐち》と稱《しよう》し、北條氏規《ほうでううぢのり》三千六百四十|餘人《よにん》の兵《へい》を以《もつ》て、之《これ》を守《まも》つた。
三|月《ぐわつ》廿九|日《にち》正午《しやうご》、寄手《よせて》は竹楯《たけだて》、土豚等《どへうとう》の仕寄《しよせ》を連《つら》ね、四|面《めん》より外郭《そとぐるわ》に逼《せま》つた。殊《こと》に中川秀政《なかがはひでまさ》は、人夫《にんぷ》三百|人《にん》をして、三|枚橋《まいばし》の港《みなと》より帆柱《ほばしら》を取越《とりこ》し、布帆《ぬのほ》を掛《か》けて、矢玉《やだま》を防《ふせ》ぎ、城際《しろぎは》十|間許《けんばか》り詰《つ》め寄《よ》せ、大井樓《おほゐやぐら》[#ルビの「おほゐやぐら」は底本では「おほやぐら」]の上《うへ》に、厚《あつ》さ三|寸許《ずんばか》りの板《いた》をもて、六|尺《しやく》四|方《はう》の箱《はこ》を作《つく》り、狹間《はざま》を切《き》り、其内《そのうち》より二ノ丸《まる》を見下《みおろ》して、發砲《はつぱう》した。
氏規《うぢのり》は天性《てんせい》智謀《ちぼう》深《ふか》く、弓矢《ゆみや》の道《みち》を專《もつぱら》とし、信義《しんぎ》厚《あつ》く、士卒《しそつ》を憐《あはれ》む事《こと》子弟《してい》の如《ごと》く、能《よ》く衆心《しゆうしん》を獲《え》、北條家《ほうでうけ》第《だい》一の名將《めいしよう》であつた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]されば彼《かれ》は寄手《よせて》の大軍《たいぐん》を間近《まぢか》く引《ひ》き寄《よ》せ、散々《さん/″\》に之《これ》を打《う》ち惱《なやま》した。
蒲生氏郷《がまふうぢさと》の士《し》蒲生郷可《がまふさとよし》は、鐵砲《てつぱう》にて槍《やり》の柄《え》を打折《うちを》られ、其丸《そのたま》外《そ》れて左眼《さがん》に中《あた》り、鮮血《せんけつ》淋漓《りんり》たりしも、自《みづか》ら鉛子《えんし》を掘《ほ》り出《いだ》し、尚《な》ほ先登《せんとう》に進《すゝ》んだ。寄手《よせて》は何《いづ》れも新鋭《しんえい》の勇氣《ゆうき》を皷《こ》して攻撃《こうげき》したが、却《かへ》つて城兵《じやうへい》に打《う》ち惱《なやま》された。氏規《うぢのり》は其《そ》の部將《ぶしやう》小笠原《をだはら》十|郎左衞門《らうざゑもん》、横井友盛等《よこゐとももりら》をして、十八|町口《ちやうぐち》に突出《とつしゆつ》せしめ、戰《たゝか》ひ疲《つか》れたる福島勢《ふくしまぜい》を逆撃《ぎやくげき》した。福島正則《ふくしままさのり》は、部下《ぶか》の諸勇士《しよゆうし》と力戰《りよくせん》した。此《こゝ》に於《おい》て、信雄《のぶを》は其《そ》の目的《もくてき》の猝《には》かに達《たつ》し難《がた》きを見《み》て、兵《へい》を收《をさ》めしめた。福島《ふくしま》の兵《へい》は、苦戰《くせん》の餘《あまり》、退却《たいきやく》した。氏規《うぢのり》も亦《ま》た其《そ》の逸《はや》りたる兵《へい》を警《いまし》めて、尾撃《びげき》せしめなかつた。
四|月《ぐわつ》初旬《しよじゆん》、細川忠興《ほそかはたゞおき》は、自《みづ》から水練《すゐれん》に秀《ひい》でたるを以《もつ》て、城濠《じやうがう》の浮藻《うきも》を、其頭上《そのづじやう》に被《かぶ》りつゝ、城中《じやうちう》を偵察《ていさつ》し、城南《じやうなん》の出丸《でまる》を攻略《こうりやく》すべく、其《そ》の弟《おとうと》興元《おきもと》と、松井康之《まつゐやすゆき》とを先鋒《せんぽう》とし、曉《あかつき》に乘《じよう》じて天狗峰《てんぐみね》を襲《おそ》うた。夜中《やちう》の行軍《かうぐん》、荊棘《けいきよく》、巖石《がんせき》、溪谷《けいこく》、險崖《けんがい》の間《あひだ》を過《す》ぎ、頗《すこぶ》る困難《こんなん》を極《きは》めたが、松井康之《まつゐやすゆき》は、其兵《そのへい》に鍬《くわ》を用意《ようい》せしめ、道路《だうろ》を修《おさ》めつゝ進《すゝ》んだ。守兵《しゆへい》は能《よ》く拒《ふせ》いだが、細川《ほそかは》の二|隊《たい》は奮鬪《ふんとう》し、之《これ》を占領《せんりやう》し、其《そ》の營《えい》を火《や》き、兵《へい》を收《をさ》めた。斬首《ざんしゆ》百|餘級《よきふ》、此《こ》れが韮山城攻《にらやまじやうぜめ》の戰功《せんこう》第《だい》一であつた。
又《ま》た寄手《よせて》聲援《せいゑん》の爲《た》めに、徳川《とくがは》の士《し》本多重次《ほんだしげつぐ》、水軍《すゐぐん》向井正綱《むかゐまさつな》を發向《はつかう》せしめ、四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、重次《しげつぐ》は北條方《ほうでうがた》の安良里砦《あらりのとりで》を、政綱《まさつな》は田子壘《たごのるゐ》を攻略《こうりやく》した。
又《ま》た長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、加藤嘉明《かとうよしあき》、脇坂安治《わきさかやすはる》、九|鬼嘉隆《きよしたか》、及《およ》び毛利《まうり》の士《し》吉見廣頼等《よしみひろよりら》一|萬餘人《まんよにん》は、下田城《しもだじやう》に向《むか》うた。此城《このしろ》は南伊豆《みなみいづ》に於《お》ける北條方水路《ほうでうがたすゐろ》の要鎭《えうちん》にて、城主《じやうしゆ》清水康英《しみづやすひで》は、援將《ゑんしやう》江戸朝忠《えどともたゞ》と與《とも》に兵《へい》六百|人《にん》にて守《まも》り、出丸《でまる》を城東《じやうとう》竹峰《たけぶ》に設《まう》けた。四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、元親等《もとちから》兵船《へいせん》數《す》十|隻《せき》、其《そ》の近海《きんかい》に抵《いた》り、嘉明《よしあき》の兵《へい》、城下《じやうか》の民家《みんか》に放火《はうくわ》して進《すゝ》み、出丸《でまる》を拔《ぬ》いたが、城兵《じやうへい》は堅守《けんしゆ》して降《くだ》らなかつた。寄手《よせて》は砲《はう》を竹峰《たけぶ》に備《そな》へたが、未《いま》だ一|彈《だん》を發《はつ》せざるに、康英等《やすひでら》は、四|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、城《しろ》を棄《す》てゝ去《さ》つた。
されば箱根以西《はこねいせい》に於《お》ける、北條方《ほうでうがた》の要鎭《えうちん》は、小田原《をだはら》を除《のぞ》けば、唯《た》だ韮山城《にらやまじやう》のみであつた。北條氏規《ほうでううじのり》は實《じつ》に、北條氏《ほうでうがた》の武《ぶ》を辱《はづかし》めざる第《だい》一|人《にん》であつた。
秀吉《ひでよし》は韮山附近《にらやまふきん》の地形《ちけい》が、開豁《かいくわつ》にして容易《ようい》に力取《りよくしゆ》す可《べ》からざるを見《み》、愈《いよい》よ持久包圍《ぢきうはうゐ》の策《さく》を取《と》り、四|月《ぐわつ》五|日《か》、信雄《のぶを》、信包《のぶかね》、氏郷《うぢさと》、忠興《たゞおき》の四|將《しやう》を小田原《をだはら》に召致《せうち》し、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》、福島正則《ふくしままさのり》、其他《そのた》の諸將《しよしやう》を此《こゝ》に留《とゞ》め。又《ま》た前田長康《まへだながやす》を駿府《すんぷ》より兵《へい》千二百五十|人《にん》を率《ひき》ゐ、明石則實《あかしのりざね》を興國寺城《こうこくじじやう》より兵《へい》五百|人《にん》を率《ひき》ゐて、之《これ》に加《くは》へ。兵《へい》二百五十|人《にん》を率《ひき》ゐ、明石則實《あかしのりざね》を興國寺城《こうこくじじやう》より兵《へい》五百|人《にん》を率《ひき》ゐて、之《これ》に加《くは》へ。兵《へい》一|萬《まん》八千九百|餘人《よにん》を以《もつ》て、西北《せいほく》は日守附近《ひもりふきん》の高地《かうち》、東《ひがし》は茶磨山《ちやすりやま》、及《およ》び瀧《たき》ノ洞《ほら》の高地《かうち》、北《きた》は柏谷《かしはだに》、東南《とうなん》は城山《しろやま》に對壘《たいるゐ》を築《きづ》き、長柵《ちやうさく》を繞《めぐら》し、援路《ゑんろ》を斷《た》ち、以《もつ》て六|月《ぐわつ》に到《いた》つた。
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[#6字下げ]北條氏規の智勇
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北條美濃守と云者、豆州韮山の城に住す、此氏春、(氏規の誤、下同)若年にても弓矢を取て隨分之人にて、主の氏實(氏政の誤、下同)と取替へ申度者なり。一年小田原へ兵法(劍術を云ふ)の上手來て、北條の惣家中武士たる者、老若共何れも弟子になる。右の氏春一人不[#レ]習、其時氏春曰、惣じて兵法と云ふ事は、小事と申て下々の習ふ事、侍五人三人の仕配をする人は、左樣の志以の外なる惡將と云ふ、兵法にては人を切る、然れども或は一人か二人より上は成間敷候、拙者の兵法は一度に千も二千も又五千も一萬も可[#レ]切と、常々心に掛候と申、某を韮山に被[#二]指置[#一]候間、以來とても其通りに存詰と被[#レ]申候故、老仁以下の者共舌を捲て恐けり。誠に一歳秀吉公小田原を攻る時分、關東八ヶ國城々落城すれども、此韮山強きに依て、後惣人數以上拾五萬騎(五萬人の誤)にて攻けれども、終に不[#レ]終して扱にせしは、北條美濃守氏春計也。以前の口を少も違へずして也。〔山下秘録〕
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[#5字下げ][#中見出し]【三一】小田原城の攻守[#中見出し終わり]

記事《きじ》は、小田原城《をだはらじやう》の攻圍《こうゐ》に反《かへ》る。四|月《ぐわつ》四|日《か》北條氏邦《ほうでううぢくに》の士《し》、久永但馬守等《ひさながたじまのかみら》五百|餘人《よにん》、鉢形城《はちがたじやう》を發《はつ》し、五|日《か》夜《よ》小田原《をだはら》の東方《とうはう》より、潜《ひそか》に城《しろ》に入《い》らんとした。家康《いへやす》の部將《ぶしやう》、榊原康政《さかきばらやすまさ》之《これ》を諜知《てふち》し、部下《ぶか》久世廣宣《くぜひろのぶ》、坂部廣勝等《さかべひろかつら》をして、兵《へい》三百|餘人《よにん》を率《ひき》ゐ、之《これ》を酒匂村附近《さかはむらふきん》に要《えう》せしめた。果然《くわぜん》夜半《やはん》に鉢形《はちがた》の兵《へい》は、此《こゝ》に來《きた》つたが、伏兵《ふくへい》に遭《あ》ひ、入城《にふじやう》の目的《もくてき》を達《たつ》せずして遁《のが》れ去《さ》つた。其中《そのうち》の一|人《にん》山岸主税助《やまぎしちからのすけ》は、俘虜《ふりよ》となつた。秀吉《ひでよし》は感状《かんじやう》を康政《やすまさ》に與《あた》へ、其功《そのこう》を賞《しやう》した。
七|日《か》には秀吉《ひでよし》總攻撃《そうこうげき》を命《めい》じ、全軍《ぜんぐん》一|齊《せい》に銃射《じゆうしや》を開始《かいし》し、喊聲《かんせい》を發《はつ》し、旗《はた》幟《のぼり》を振《ふ》り進撃《しんげき》の氣勢《きせい》を示《しめ》した。水軍《すゐぐん》も亦《ま》た船列《せんれつ》を整《とゝの》へ、鉦《かね》、太鼓《たいこ》を鳴《なら》し、陸上《りくじよう》に逼《せま》らんとした。城中《じやうちう》よりは銃《じゆう》を放《はな》ち、鬨聲《ときのこゑ》を發《はつ》して、之《これ》に應《おう》じた。然《しか》も遂《つ》ひに何等《なんら》の勝負《しようぶ》なく了《をは》つた。
秀吉《ひでよし》は北西《ほくせい》二|方面《はうめん》の攻圍《こうゐ》薄弱《はくじやく》なるを以《もつ》て、既記《きき》の如《ごと》く、韮山城攻撃軍《にらやまじやうこうげきぐん》の過半《くわはん》を、小田原《をだはら》に招致《せうち》した。信雄《のぶを》、信包《のぶかね》、氏郷《うぢさと》、忠興《たゞおき》の四|隊《たい》は、八|日《か》韮山《にらやま》を發《はつ》し、九|日《か》信雄《のぶを》は宮城野《みやぎの》、久野《くの》を經《へ》て、多古附近《たこふきん》に、信包《のぶかね》、氏郷《うぢさと》、忠興《たゞおき》は、熱海道《あたみみち》より早川方面《はやかははうめん》に到著《たうちやく》した。而《しか》して城北《じやうほく》には信雄《のぶを》一|萬《まん》七千|人《にん》にて、多古《たこ》に營《えい》し、先鋒《せんぽう》を井細田《ゐさいだ》、池上《いけがみ》(井細田口)[#「(井細田口)」は1段階小さな文字]に配置《はいち》した。氏郷《うぢさと》は四千|人《にん》にて、宮窪附近《みやくぼふきん》(久野口)[#「(久野口)」は1段階小さな文字]に營《えい》した。城西《じやうせい》には信包《のぶかね》三千二百|人《にん》、忠興《たゞおき》二千七百|人《にん》にて、松山《まつやま》に營《えい》し、先鋒《せんぽう》を大窪《おほくぼ》(二重外張口及び大窪口)[#「(二重外張口及び大窪口)」は1段階小さな文字]に配置《はいち》した。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
攻圍軍《こうゐぐん》は此《かく》の如《ごと》く、荐《しき》りに兵《へい》を戰線《せんせん》に増加《ぞうか》し、陸海《りくかい》の兵數《へいすう》、實《じつ》に十四|萬《まん》八千|餘人《よにん》に上《のぼ》つた。而《しか》して諸隊《しよたい》皆《み》な地形《ちけい》に應《おう》じて、砦《とりで》を築《きづ》き、營舍《えいしや》を列《つら》ね、軍用道路《ぐんようだうろ》を、各營間《かくえいかん》に設《まう》け、交番《かうばん》に配備《はいび》に就《つ》き、警戒《けいかい》甚《はなは》だ嚴《げん》であつた。此《かく》の如《ごと》くして包圍《はうゐ》の形勢《けいせい》は、十二|分《ぶん》に成就《じやうじゆ》した。
飜《ひるがへ》つて小田原城《をだはらじやう》を見《み》れば、
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此城《このしろ》堅固《けんご》に構《かまへ》て、廣大成事《くわうだいなること》、西《にし》は富士《ふじ》と小嶺山《こみねやま》つゞきたり。二の山《やま》の間《あひだ》に、三|重《ぢゆう》の堀《ほり》をほり、小嶺山《こみねやま》を城中《じやうちう》に入《いれ》、早川《はやかは》の河《かは》をかたどり。南《みなみ》の濱《はま》へ、塀《へい》を推《お》し廻《ま》はし、石垣《いしがき》を築《きづ》き、東北《とうほく》は沼田堀《ぬまたぼり》をほり、築地《つきぢ》をつき、東西《とうざい》へ五十|町《ちやう》、南北《なんぼく》へ七十|町《ちやう》、廻《まは》りは五|里《り》四|方《はう》。井樓《せいらう》、矢倉《やぐら》、隙間《すきま》もなく立置《たてお》き、塀《へい》逆茂木《さかもぎ》を引《ひか》せ、持口《もちぐち》/\に大將《たいしやう》家々《いへ/\》の旗《はた》をなびかし、馬印《うまじるし》、指物《さしもの》、色々《いろ/\》樣々《さま/″\》に有《あつ》て、風《かぜ》に飜《ひるがへ》す粧《よそほ》ひ、芳野《よしの》、立田《たつた》の花紅葉《はなもみぢ》にやたとへん。總構《そうがまへ》役所《やくしよ》のめぐり、往還《わうくわん》の道《みち》の横《よこ》三十|間程《けんほど》有《あり》て、武者《むしや》の立所《たつところ》せばからず。陣屋《ぢんや》は塗籠《ぬりこ》め、小路《こうぢ》を割《わ》り、人數《ひとかず》繁《しげ》き事《こと》、稻麻《たうま》竹葦《ちくゐ》の如《ごと》し。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》にも當代《たうだい》に於《お》ける天下《てんか》の名城程《めいじやうほど》ありて、宏大《かうだい》であつた。如何《いか》にも五|代《だい》の積威《せきゐ》を擁《よう》し、八|州《しう》の精鋭《せいえい》を集《あつ》めたる程《ほど》ありて、壯觀《さうくわん》であつた。
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夜《よ》は迂々《まがり/″\》に篝《かゞ》りを燒《たき》、たゞ白日《はくじつ》にことならず。諸侍《しよさむらい》干戈《かんくわ》を枕《まくら》とし、甲冑《かつちゆう》を褥《しとね》とし、役所《やくしよ》の者共《ものども》は、弓《ゆみ》鐵砲《てつぱう》を、隙間《すきま》もなく放《はな》つによつて、敵《てき》近《ちか》く取《とり》よりがたし。又《また》夜警固《やけいご》として、旗本衆《はたもとしゆう》六百|人《にん》、甲冑《かつちゆう》を帶《たい》し、弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》、鑓《やり》を手々《てんで》に持《もち》、歩行《かち》にて晝《ひる》七つ時分《じぶん》(午後四時)[#「(午前四時)」は1段階小さな文字]城《しろ》の大手《おほて》四ツ門《もん》に集《あつまつ》て、勢揃《せいぞろ》へし、三百|人宛《にんづゝ》、二|手《て》に兩方《りやうはう》へ分《わかれ》て、夜《よ》もすがら、總構《そうがまへ》を廻《まは》る。持口《もちぐち》の大將《たいしやう》は、夜毎《よごと》に警固《けいご》の衆《しゆう》に出向《でむき》て對面《たいめん》し、禮儀《れいぎ》に及《およ》ぶ。扨《さて》又《また》晝《ひる》は百|人宛《にんづゝ》兩方《りやうはう》へ分《わかれ》て、夜《よる》の如《ごと》く警固也《けいごなり》。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》く要鎭《えうちん》堅固《けんご》であつた。上方勢《かみがたぜい》が攻《せ》めあぐんだのも、洵《まこ》とに已《や》むを得《え》ぬ次第《しだい》だ。
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氏直公《うぢなほこう》定《さだ》め置《お》かるゝに、軍法《ぐんぱふ》に、敵《てき》夜中《やちう》に至《いたつ》て、何《いづ》れの持口《もちぐち》を攻《せ》むるといふとも、他《た》の持口《もちぐち》より、一|人《にん》も加勢《かせい》すべからず。若《もし》くは夜警固《やけいご》の者《もの》ばかり馳《は》せ加《くは》はるべし。何《いづ》れの持口《もちぐち》も、人數《にんず》多《おほ》し。敢《あへ》てもて城中《じやうちう》散亂《さんらん》すべからず。晝《ひる》は持口《もちぐち》の役人計《やくにんばかり》、矢間《やざま》に大鐵砲《おほてつぱう》をかけおき放《はな》つべし。其外《そのほか》の者共《ものども》は、籠城《ろうじやう》退屈《たいくつ》なき樣《やう》に、おもひ/\心々《こゝろ/″\》の慰《なぐさみ》仕《つかまつる》べし。〔北條五代記〕[#「〔北條五代記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く氏直《うぢなほ》は、固《もと》より持久《ぢきう》の計《けい》をなした。然《しか》も早川口《はやかはぐち》の守將《しゆしやう》皆川廣照《みながはひろてる》の如《ごと》きは、既《すで》に四|月《ぐわつ》八|日《か》の夜《よ》、兵《へい》百|餘人《よにん》を率《ひき》ゐて、守《まもり》を棄《す》てゝ木村重※[#「玄+玄」、154-11]《きむらしげこれ》の營《えい》に降《くだ》つた。又《ま》た澁取口《しぶとりぐち》の安中景茂《あんなかかげしげ》も、尋《つい》で居城《きよじやう》上野厩橋《かうづけうまやばし》に走《はし》つた。九|日《か》には長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、加藤嘉明等《かとうよしあきら》、戰船《せんせん》を列《つら》ね、大砲《たいはう》を發射《はつしや》し、酒匂口《さかはぐち》、海岸《かいがん》の樓櫓《ろうろ》を破裂《はれつ》した。但《た》だ大體《だいたい》に於《おい》ては、小田原城中《をだはたじやうちう》、泰然《たいぜん》として何等《なんら》の動搖《どうえう》をも見《み》なかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【三二】陣中の流言[#中見出し終わり]

當時《たうじ》誰《たれ》云《い》ふとなく、流言《るげん》があつた。信雄《のぶを》、家康《いへやす》は、北條方《ほうでうがた》に内通《ないつう》すと。是《こ》れが爲《た》めに上方勢《かみがたぜい》には、少《すくな》からぬ疑懼《ぎく》を生《しやう》じた。凡《およ》そ火《ひ》なき所《ところ》には烟《けむり》なき道理《だうり》で、斯《かゝ》る流言《るげん》の出《い》で來《きた》りたるは、多少《たせう》の因由《いんゆ》なくてはならぬ事《こと》だ。北條方《ほうでうがた》では當初《たうしよ》から、只《た》だ此《こ》の事《こと》のみを頼《たの》みとして居《ゐ》た。
それにはそれ相應《さうおう》の理由《りいう》もあつた。戰國《せんごく》の習《ならひ》として、信義《しんぎ》とか、約束《やくそく》とかは、當《あ》てになつたものではない。乃《すなは》ち北條家《ほうでうけ》の始祖《しそ》早雲《さううん》にせよ、近《ちか》くは氏康《うぢやす》にせよ、何《いづ》れも詐術《さじゆつ》、詭策《きさく》を、無遠慮《ぶゑんりよ》に使用《しよう》して、自個《じこ》の企謀《きぼう》を成就《じやうじゆ》した。今日《こんにち》とても裏切抔《うらぎりなど》は、當然《たうぜん》の事《こと》だ。信雄《のぶを》は秀吉《ひでよし》に取《と》りては、主筋《しゆすぢ》である。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》とは、同輩《どうはい》若《も》しくはそれ以上《いじやう》の立場《たちば》であつた。彼等《かれら》が秀吉《ひでよし》と鎬《しのぎ》を削《けづ》つた創痍《さうゐ》は、今尚《いまな》ほ新《あら》たなりだ。斯《かゝ》る場合《ばあひ》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》が懸軍長驅《けんぐんちやうく》、信雄《のぶを》、家康《いへやす》の領内《りやうない》を踰《こ》えて、兵《へい》を堅城《けんじやう》の下《もと》に罷困《ひこん》せしむるは、彼等《かれら》兩人《りやうにん》に取《と》りては、所謂《いはゆ》る千|載《ざい》の一|時《じ》ではあるまい乎《か》。
されば北條方《ほうでうがた》が之《これ》を頼《たの》みとしたるは、必《かなら》ずしも妄想《まうさう》のみとは※[#「足へん+貶のつくり、156-5]《へん》す可《べ》からずだ。北條《ほうでう》既《すで》に然《しか》らば、其他《そのた》の者共《ものども》に於《おい》て、斯《か》く見當《けんたう》を付《つ》くるも、強《あなが》ち無理《むり》ではあるまい。
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織田信雄《をだのぶを》ひそかに、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]に勸《すゝ》め參《まゐ》らせしは、こたび秀吉《ひでよし》の下向《げかう》こそ、幸《さいはひ》の事《こと》なれ。北條《ほうでう》と諜《しめ》し合《あは》せ、前後《ぜんご》より挾《はさ》み討《う》たば、必《かな》らず志《こゝろざし》を得《え》んといふ。君《きみ》秀吉《ひでよし》我《われ》を信《しん》じてこそ、我《わ》が領内《りやうない》をも心《こゝろ》ゆるして通行《つうかう》すれ。いかで反覆《はんぷく》の事《こと》して信義《しんぎ》を失《うしな》はんやと仰《おほ》せらる。〔明良洪範、寛永聞書〕[#「〔明良洪範、寛永聞書〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは果《はた》して信憑《しんぴやう》す可《べ》き事實《じじつ》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しば》らく詮議《せんぎ》を擱《お》き、當時《たうじ》の形勢《けいせい》よりすれば、或《あるひ》は然《しか》らんと想《おも》はるゝ節《ふし》なきにしもあらずだ。家康程《いへやすほど》の徹底《てつてい》したる見識《けんしき》なき限《かぎ》りは、何人《なんびと》にも萠《きざ》しさうなる誘惑《いうわく》である。彼《か》の凡庸《ぼんよう》なる信雄《のぶを》に、斯《かゝ》る謀反心《むほんしん》が、湧《わ》き出《い》でたのも、毫《がう》も不思議《ふしぎ》はあるまい。或《あるひ》は秀吉《ひでよし》が沼津《ぬまづ》到著《たうちやく》の際《さい》に、信雄《のぶを》、家康《いへやす》謀反《むほん》の沙汰《さた》あり、いざ尋常《じんじやう》に勝負《しようぶ》せよと、擬勢《ぎせい》したるを以《もつ》て、〔參照 本篇二三、秀吉の東征〕[#「〔參照 本篇二三、秀吉の東征〕」は1段階小さな文字]而《しか》して戰後《せんご》秀吉《ひでよし》が信雄《のぶを》の封《ほう》を褫《うば》ひ、之《これ》を放《はな》ちたるを以《もつ》て、其《そ》の秘密《ひみつ》が秀吉《ひでよし》に嗅《か》ぎ出《いだ》されたる結果《けつくわ》だと云《い》ふものもある。それは兎《と》も角《かく》も、烟《けむり》の生《しやう》ずる所《ところ》、必《かなら》ず火種《ひだね》ありで、何《いづ》れにか火種《ひだね》が潜在《せんざい》したには、相違《さうゐ》あるまいとも思《おも》はる。
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またこの陣《ぢん》に、關白《くわんぱく》僅《わづ》か十四五|騎《き》ばかりにて居《を》られしときを見《み》て、井伊直政《ゐいなほまさ》、唯今《たゞいま》こそ秀吉《ひでよし》を討《うつ》べき時《とき》なりと、密《ひそ》かに耳語《さゝや》きけれど、君《きみ》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]彼《かれ》こたび我《われ》を頼母敷《たのもしき》ものに思《おも》ひて、來《きた》りしを、籠《かご》の内《うち》の鳥《とり》を殺《ころ》さんやうなるむごき事《こと》は、せぬものぞ。天下《てんか》を知《し》るは、自《おのづ》から運命《うんめい》のありて、人力《じんりよく》の致《いた》す所《ところ》にあらずと仰《あほせ》ければ、直政《なほまさ》もえうなき事《こと》、いひ出《いで》しと思《おも》ひ、面《かほ》赤《あから》めてありしとぞ。〔同上〕[#「〔同上〕」は1段階小さな文字]
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井伊《ゐい》の耳語《じご》、或《あるひ》は亦《ま》た然《しか》らん歟《か》。但《た》だ家康《いへやす》は斯《かゝ》る險策《けんさく》を用《もち》ふる程《ほど》の小丈夫《せうじやうふ》ではなかつた。彼《かれ》は強者《きやうしや》に對《たい》して、信義《しんぎ》は一の武器《ぶき》であるを確信《かくしん》した。信長《のぶなが》に對《たい》して然《しか》り、秀吉《ひでよし》に對《たい》しても、固《もと》より然《しか》る可《べ》しである。
秀吉《ひでよし》の炯眼《けいがん》なる、斯《かゝ》る流言《るげん》の頗《すこぶ》る有害《いうがい》なるを見《み》、直《たゞ》ちに其《そ》の取消運動《とりけしうんどう》をした。〔家忠日記〕[#「〔家忠日記〕」は1段階小さな文字]四|月《ぐわつ》十五|日《にち》、秀吉《ひでよし》自《みづ》から巡視《じゆんし》と稱《しよう》し、伊達染《だてぞめ》の小袖《こそで》に、緋緞子《ひどんす》の羽織《はおり》を著《つ》け、脇差《わきざし》ばかり差《さ》し、刀《かたな》をば從者《ずさ》に持《も》たせ、兒小姓《こごしやう》四五|人《にん》引具《ひきぐ》して、高聲《かうせい》に雜談《ざつだん》しつゝ、家康《いへやす》の陣《ぢん》に赴《おもむ》き、午頃《うまのころ》より夜中迄《やちうまで》、宴樂《えんらく》し、又《ま》た家康《いへやす》を伴《ともな》ひ、信雄《のぶを》の陣《ぢん》に赴《おもむ》き、夜《よ》を徹《てつ》して遊《あそ》びくらした。是《こ》れが爲《た》めに流言《るげん》は乍《たちま》ち消《き》え失《う》せた。當時《たうじ》の小唄《こうた》とて、今日迄《こんにちまで》傳《つた》へられたるは、
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人《ひと》かひ舟《ふね》は、沖《おき》をこぐとても、うらうら身《み》を靜《しづ》かにこげ。我等《われら》を忍《しの》ばゝ思案《しあん》して、高《たか》い窓《まど》から砂《すな》をまけ。雨《あめ》が降《ふる》といふて出逢《いであ》はん。〔落穗集〕[#「〔落穗集〕」は1段階小さな文字]
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惟《おも》ふに談笑《だんせう》の間《かん》に、人心《じんしん》を鎭定《ちんてい》したる、秀吉《ひでよし》の手際《てぎは》は、今更《いまさ》ら云《い》ふ迄《まで》もなく、家康《いへやす》が飽迄《あくまで》も辛抱《しんばう》して、唯《た》だ秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、其力《そのちから》を竭《つく》したる心底《しんてい》は、凡夫《ぼんぷ》の測知《そくち》する限《かぎ》りではあるまい。
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