第四章 豐臣北條の戰鬪準備
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第四章 豐臣北條の戰鬪準備[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一九】双方の戰鬪準備[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の炯眼《けいがん》なる、北條《ほうでう》父子《ふし》が、到底《たうてい》平和手段《へいわしゆだん》にて、濟度《さいど》す可《べ》からざるを洞見《どうけん》して居《ゐ》た。されど彼《かれ》が最後迄《さいごまで》、其《そ》の手《て》を盡《つく》したのは、其《そ》の出師《すゐし》の名義《めいぎ》を得《う》る爲《た》めであつた。されば彼《かれ》は未《いま》だ手切書《てぎれしよ》を發《はつ》せざる以前《いぜん》より、既《すで》に戰鬪準備《せんとうじゆんび》に著手《ちやくしゆ》して居《ゐ》た。其《そ》の重《おも》なる一は、天正《てんしやう》十七|年《ねん》九|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、諸大名《しよだいみやう》の妻孥《さいど》を、京都《きやうと》に置《お》かしめ、其《そ》の人質《ひとじち》とした事《こと》である。而《しか》して十一|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、眞田昌幸《さなだまさゆき》に令《れい》して、上田城《うへだじやう》を嚴守《げんしゆ》し、東征《とうせい》の期《き》を待《ま》たしめた。斯《か》くて十一|月《ぐわつ》二十四|日《か》、愈《いよい》よ北條《ほうでう》に手切《てぎれ》の文書《ぶんしよ》を與《あた》へた。
飜《ひるがへ》つて北條方《ほうでうがた》を見《み》れば、此《こ》の文書《ぶんしよ》を受取《うけと》りても、既掲《きけい》の如《ごと》く、富田知信《とみたとものぶ》、津田信勝《つだのぶかつ》に分疏《ぶんそ》したるのみならず、更《さ》らに十二|月《ぐわつ》九|日附《かづけ》にて、家康《いへやす》に答書《たふしよ》を與《あた》へ、徒《いたづ》らに手前《てまへ》の理窟《りくつ》のみを申《まを》し立《た》て、毫《がう》も謝罪《しやざい》の意《い》を表《へう》せず。而《しか》して尚《な》ほ調停《てうてい》を依頼《いらい》して居《ゐ》る。其《そ》の呑氣《のんき》千|萬《ばん》、實《じつ》に呆《あき》れ入《い》るの他《ほか》はない。然《しか》も彼等《かれら》亦《ま》た其《そ》の萬《まん》一を顧慮《こりよ》したものと見《み》え、十二|月《ぐわつ》九|日《か》兵賦軍制《へいふぐんせい》を更定《かうてい》し、尋《つい》で下野國《しもつけのくに》壬生城主《みぶのじやうしゆ》壬生義雄《みぶのよしかつ》をして、海道《かいだう》の要衝《えうしよう》たる山中城《やまなかじやう》を修築《しうちく》せしめ、其《そ》の規模《きぼ》を擴張《くわくちやう》し、防禦《ぼうぎよ》に備《そな》へ、其《そ》の晦日《みそか》には、須藤總左衞門《すどうそうざゑもん》をして、鐵砲鍛冶《てつぱうかぢ》山田次郎左衞門以下《やまだじろざゑもんいか》十四|人《にん》に、七|日限《かかぎ》りにて、大筒《おほづゝ》二十|挺《ちやう》を鑄造《ちうざう》せしめた。
固《もと》より戰國《せんごく》の時《とき》であれば、如何《いか》に因循《いんじゆん》、苟且《こうしよ》を事《こと》としたる北條氏《ほうでうし》でも、萬《まん》一の準備《じゆんび》を、是迄《これまで》全《まつた》く、抛擲《はうてき》したと云《い》ふ譯《わけ》ではなかつた。例《れい》せば天正《てんしやう》十六|年《ねん》氏直《うぢなほ》は、社寺《しやじ》の鐘《かね》を徴發《ちようはつ》し、粘土《ねんど》を所在《しよざい》に課《くわ》し、銃丸《じゆうぐわん》を作《つく》らしめた。又《ま》た下田城主《しもだじやうしゆ》清水康英《しみづやすひで》をして、其《そ》の城郭《じやうくわく》を修繕《しうぜん》せしめた。然《しか》も大體《だいたい》に於《おい》て、北條《ほうでう》一|家《け》は、秀吉《ひでよし》の來《きた》らざるを恃《たの》みとして居《ゐ》たに、相違《さうゐ》ない。
彼等《かれら》は最後迄《さいごまで》、其《そ》の姻戚《ゐんせき》徳川家康《とくがはいへやす》を頼《たの》みとして居《ゐ》た。されば十一|月《ぐわつ》廿四|日《か》の秀吉《ひでよし》の手切文書《てぎれぶんしよ》を受取《うけと》るや、氏政《うぢまさ》は之《これ》を地《ち》に擲《なげう》ち、其《そ》の弟《おとうと》氏照《うぢてる》に謂《い》うた。一|介《かい》の使者《ししや》、一|片《ぺん》の文書《ぶんしよ》にて、我《われ》を恫喝《どうかつ》し、我《われ》を屈服《くつぷく》せしめんとは、横著至極《わうちやくしごく》だ。若《も》し關東《くわんとう》を取《と》らんとせば、兵力《へいりよく》にて取《と》るがよい。然《しか》も秀吉《ひでよし》亦《ま》た平惟盛《たひらのこれもり》の二の舞《まひ》をなし、水鳥《みづとり》の羽音《はおと》を聞《き》いて、潰走《くわいそう》せんのみと。然《しか》るに十七|年《ねん》十一|月《ぐわつ》二十九|日《にち》、家康《いへやす》は駿府《すんぷ》を發《はつ》し、十二|月《ぐわつ》十|日《か》入京《にふきやう》して秀吉《ひでよし》に謁《えつ》し、東征《とうせい》の議《ぎ》に參與《さんよ》したりと聞《き》いて、始《はじ》めて驚《おどろ》いたのだ。然《しか》も今《いま》は痩我慢《やせがまん》の他《ほか》はなく、唯《た》だ山河《さんが》の嶮《けん》を恃《たの》みとし、それ/″\戰鬪《せんとう》の準備《じゆんび》に從事《じゆうじ》した。乃《すなは》ち天正《てんしやう》十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》五|日《か》、管内《くわんない》に令《れい》し、人夫《にんぷ》三|萬人《まんにん》を徴集《ちようしふ》し、十四|日《か》より小田原城《をだはらじやう》の内外《ないぐわい》を修築《しうちく》、擴大《くわくだい》し、又《ま》た足柄城《あしがらじやう》をも修築《しうちく》した。十七|日《にち》江戸朝忠《えどともたゞ》を、下田城《しもだじやう》に派遣《はけん》して、其《そ》の副將《ふくしやう》とした。此《こ》れは關西《くわんさい》より輸送《ゆそう》の要港《えうかう》であつたから、特《とく》に意《い》を用《もち》ひたのだ。二十一|日《にち》には鎌倉《かまくら》建長寺《けんちやうじ》に蓄《たくは》ふる所《ところ》の糧米《りやうまい》を、小田原《をだはら》若《も》しくは玉繩城《たまなはじやう》に輸送《ゆそう》せしめた。三|月《ぐわつ》七|日《か》には、三|浦郡《うらごほり》逗子村《づしむら》に令《れい》し、農工商《のうこうしやう》を問《と》はず、豫《あらか》じめ兵器《へいき》を備《そな》へ、命《めい》を竢《ま》つて、軍《ぐん》に會《くわい》せしめた。
[#ここから1字下げ]
今度《このたび》西國衆《さいこくのしゆう》出張《しゆつちやうす》、此時《このとき》|於[#二]何之口[#一]成共《いづれのくちにおいてなりとも》、無二《むに》|被[#レ]遂[#二]御一戰[#一]《ごいつせんとげられ》、|可[#レ]被[#レ]爲[#二]打果[#一]候間《うちはたしなさるべくさふらふあひだ》、|至[#二]町人諸商人諸細工人以下[#一]《ちやうにんしよしようにんしよさいくにんいかにいたるまで》、或《あるひは》弓鎗《ゆみやり》、或《あるひは》鐵砲《てつぱう》、小旗以下《こばたいか》、|致[#二]支度[#一]《したくいたし》、御下知次第《ごげちしだい》|可[#二]走廻[#一]候《はしりまはるべくさふらふ》。今度《このたび》抽而《ぬきんでゝ》其心《そのこゝろ》ばせを致《いたし》、相當之武具等《さうたうのぶぐとう》相嗜《あひたしなみ》、|致[#二]忠信[#一]付而者《ちゆうしんをいたすについては》、御本意之上《ごほんいのうへ》、|任[#レ]望《のぞみにまかせ》|可[#レ]有[#二]御褒美[#一]候《ごほうびあるべくさふらふ》。各指南手脇之者《かくしなんてわきのもの》にも、此筋目《このすぢめ》、能々《よく/\》|爲[#二]申聞[#一]《まをしきかせ》、|可[#レ]致[#二]其覺悟[#一]由《そのかくごいたすべきよし》、|被[#二]仰出[#一]者也《おほせいださるゝものなり》。|仍如[#レ]件《よつてくだんのごとし》。
  庚寅(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]三月五日
[#地から4字上げ]朱印(氏直)
   豆師(逗子)
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは必《かなら》ずしも逗子《づし》のみに限《かぎ》らず、北條氏《ほうでうし》の管内《くわんない》一|般《ぱん》に觸《ふ》れたるものと察《さつ》せらるゝ。彼等《かれら》は遲蒔《おそまき》ながら、兎《と》も角《かく》も戰備《せんび》を整《とゝの》へつゝあつた。
今《いま》や北條氏《ほうでうし》の周邊《しうへん》を見《み》れば、其《そ》の西《にし》は徳川《とくがは》と上杉《うへすぎ》だ。徳川《とくがは》は天正《てんしやう》十一|年《ねん》八|月《ぐわつ》、家康《いへやす》の二|女《ぢよ》を、氏直《うぢなほ》に聘《へい》して以來《いらい》、姻戚《いんせき》の間柄《あひだがら》であるが、今《いま》は家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》無《む》二の味方《みかた》である。上杉《うへすぎ》も天正《てんしやう》七|年《ねん》景勝《かげかつ》が、氏政《うぢまさ》の弟《おとうと》景虎《かげとら》を殺《ころ》して以來《いらい》の敵國《てきこく》である。北《きた》は宇都宮《うつのみや》、佐竹《さたけ》であるが、佐竹《さたけ》は恒《つね》に干戈《かんくわ》相見《あひまみゆ》るの隣敵《りんてき》で、宇都宮《うつのみや》、結城等《ゆふきら》も亦《ま》た佐竹《さたけ》に結《むす》び、陰《ひそか》に款《くわん》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じて居《ゐ》た。即《すなは》ち北條《ほうでう》は全《まつた》く敵中《てきちゆう》に孤立《こりつ》したものであつた。加之《しかのみならず》其《そ》の領内《りやうない》にも亦《ま》た、油斷《ゆだん》のならぬ敵《てき》があつた。例《れい》ぞば新附《しんぷ》の里見義康《さとみよしやす》の如《ごと》きは―曾祖父《そうそふ》義堯《よしたか》、祖父《そふ》義弘等《よしひろら》の北條氏《ほうでうし》より被《かうむ》りたる打撃《だげき》―其《そ》の宿怨《しゆくえん》を報《むく》いんとする志《こゝろざし》は、一|日《にち》も熄《や》まず、其《そ》の機會《きくわい》を狙《ねら》つて居《ゐ》た。
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[#6字下げ]氏政天險に依頼す
[#ここから1段階小さな文字]
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然れば小田原に傳へ聞て、時の執柄秀吉公上方表の大軍を振ひ、動座の儀なれば、此度北條家の運否旗下の浮沈、絶體絶命の時至れりと、心ある面々は眉を顰め手を措て大息せざるは無かりけり。左れども氏政は左のみ驚く氣色も無く、寛々して一族家臣に向ひ申されけるは、凡當城は京師を去ること百餘里、秀吉輕々しく兵馬を動さるゝと雖も、東海道第一の切所足柄箱根を前面に受け、早雲菴宗瑞より五代の社稷を保護し、多年修補する所の要害、其上往古以來武義に馴熟したる關東武士生涯の智勇を震はゞ、百騎を以て上方の千騎には對當すべし、昔時右兵衞佐頼朝義兵の始め、平家是を追討せんとて、小松三位中將惟盛十萬餘騎の大將として、由比蒲原邊まで押來ると雖も、東士の武威に悚《おのゝ》くの餘り、水鳥の羽音に驚て黄瀬川より逃登れり。近くは軍事に活發せる甲陽の晴信、北越の輝虎、當城下まで押詰たれども、守成堅固にして□たる故、術を失ふて退散せり。今秀吉卑賤より出て、博陸の高職に歴上り、關西を掌に握りて上見ぬ鷲の如くなるも、偏に俚俗の諺に凡夫強勢なれば神明の祟なしと云ふ事あるべし、下尅上の天罰終には遁る可らず、殊更東國不案内にして長途大軍の客戰、當家は天險の地に據て兵粮矢玉豐饒なれば、假令五年十年籠城と云ふとも、矢種盡んの氣遣なし、防戰一途の覺悟を以て楯籠り、敵を蒸さば上方勢鋭氣折けて獨辷し、一勢々々欠落せば、秀吉をも擒にせん事豈難しとすべけんや、恐るゝに足らずと、事も無げに申されしかば、滿座最もとは答けれども其中に口を箝して退出する者多かりける。〔關八州古戰録〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二〇】秀吉東征の準備(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は先《ま》づ、其《そ》の軍令《ぐんれい》を諸國《しよこく》に頒《わか》つた。
[#ここから1字下げ]
     來春《らいしゆん》關東陣《くわんとうぢん》御軍役之事《ごぐんえきのこと》
一 五畿内《ごきない》|可[#レ]爲[#二]半役[#一]事《はんえきたるべきこと》。
一 中國《ちゆうごく》[#「(並)」は行右小書き]四國《しこく》は同《おなじく》|可[#レ]爲[#二]四人役[#一]事《よにんえきたるべきこと》。
一 |自[#レ]坂《さかより》|到[#二]尾州[#一]《びしうにいたるまで》|可[#レ]爲[#二]六人役[#一]事《ろくにんえきたるべきこと》。
一 北國《ほつこく》は|可[#レ]爲[#二]六人半役[#一]事《ろくにんはんえきたるべきこと》。
一 駿遠三甲信《すんゑんさんかふしん》此五ヶ國者《このごかこくは》|可[#レ]爲[#二]七人役[#一]事《しちにんえきたるべきこと》。
右《みぎ》軍役之通《ぐんえきのとほり》用意《ようい》|不[#レ]可[#レ]有[#二]油斷[#一]《ゆだんあるべからず》、來春《らいしゆん》三|月《ぐわつ》一|日《にち》秀吉《ひでよし》|令[#二]出陣[#一]者也《しゆつぢんせしむるものなり》。|仍如[#レ]件《よつてくだんのごとし》。
  天正十七年己丑十二月 日
[#地から3字上げ]秀吉[#「(在判)」は行右小書き]
[#地から1字上げ]〔改正參河御風土記、甫菴太閤記〕[#「〔改正參河御風土記、甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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或《あるひ》は曰《いは》く東海《とうかい》、東山《とうさん》、北陸《ほくろく》の三|道《だう》は本役《ほんえき》、山陰《さんいん》、山陽《さんやう》、南海《なんかい》は半役《はんえき》、畿内《きない》は三|分《ぶんの》一、麾下《きか》の隊《たい》は四|分《ぶんの》一|役《えき》と。茲《こゝ》に本役《ほんえき》と云《い》ふは、領地總高《りやうちそうだか》の五|分《ぶんの》一|乃至《ないし》三|分《ぶんの》一を除《のぞ》き、一|萬石《まんごく》に付《つ》き、約《やく》五百|人《にん》を課《くわ》するを云《い》ふ。四|人役《にんえき》、六|人役《にんえき》、六|人半役《にんはんえき》、七|人役《にんえき》と云《い》ふは、何《いづ》れも高《たか》百|石《こく》に對《たい》してのことだ。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]而《しか》して徳川家康《とくがはいへやす》、織田信雄《をだのぶを》、蒲生氏郷等《がまふうぢさとら》を東海道《とうかいだう》より、上杉景勝《うへすぎかげかつ》、前田利家等《まへだとしいへら》を東山道《とうさんだう》より、進軍《しんぐん》す可《べ》く、其《そ》の期日《きじつ》は、天正《てんしやう》十八|年《ねん》二|月《ぐわつ》朔日《ついたち》より、三|月《ぐわつ》朔日迄《ついたちまで》と定《さだ》めた。
秀吉《ひでよし》は兵站部《へいたんぶ》に於《おい》て、最《もつと》も其《そ》の適材《てきざい》を得《え》た。そは長束正家《ながつかまさいへ》だ。乃《すなは》ち彼《かれ》をして其《そ》の奉行《ぶぎやう》とし、其《そ》の下《もと》に小奉行《こぶぎやう》十|人《にん》を置《お》き、天正《てんしやう》十七|年《ねん》の内《うち》に、米《こめ》二十|萬石《まんごく》を徴集《ちようしふ》し、來春早々《らいしゆんさう/\》之《これ》を駿河《するが》なる江尻《えじり》、清水《しみづ》の二|港《かう》に運輸《うんゆ》し、其《そ》の倉庫《さうこ》に貯藏《ちよざう》せしめた。又《ま》た黄金《わうごん》一|萬枚《まんまい》を以《もつ》て、勢《せい》、尾《び》、三《さん》、遠《ゑん》、駿《すん》五|箇國《かこく》に於《おい》て、糧秣《りやうまつ》を買調《かひとゝの》へ、小田原附近《をだはらふきん》に輸送《ゆそう》せしめた。而《しか》して長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、脇坂安治《わきさかやすはる》、加藤嘉明《かとうよしあき》、九|鬼嘉隆等《きよしたから》を水軍《すゐぐん》の將《しやう》とし、糧舶護送《りやうはくごそう》の任務《にんむ》を執《と》らしめ、更《さら》に羽柴秀長《はしばひでなが》、毛利輝元《まうりてるもと》、宇喜田秀家等《うきたひでいへら》にも、亦《ま》た水軍《すゐぐん》の派遣《はけん》を命《めい》じた。而《しか》して十二|月《ぐわつ》、豫《あらか》じめ京都《きやうと》の守護《しゆご》を毛利輝元《まうりてるもと》に、東征沿道諸城《とうせいえんだうしよじやう》の守備《しゆび》を、小早川隆景等《こばやかはたかゝげら》に命《めい》じ、其《そ》の準備《じゆんび》を爲《な》さしめた。
然《しか》も秀吉《ひでよし》の意《い》は、恰《あたか》も島津征伐《しまづせいばつ》に毛利《まうり》を用《もち》ひたるが如《ごと》く、專《もつぱ》ら家康《いへやす》を用《もち》ふるにあつた。家康《いへやす》は蚤《つと》に之《これ》を熟知《じゆくち》した。家康《いへやす》は決《けつ》して何事《なにごと》も善《よ》い加減《かげん》に、胡魔化《ごまくわ》すことを爲《し》なかつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》と抗衡《かうかう》する間《あひだ》は則《すなは》ち已《や》む。既《すで》に叩頭《こうとう》したる上《うへ》は、萬事《ばんじ》を抛《なげう》ち、萬障《ばんしやう》を排《はい》して、秀吉《ひでよし》の意《い》に副《そ》ふ可《べ》く勗《つと》めた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》と北條《ほうでう》との手切《てぎれ》が、彼《かれ》の兩肩上《りやうけんじやう》に一|大負擔《だいふたん》の加《くは》はり來《きた》ることを期待《きたい》した。而《しか》して其《そ》の來《きた》るや、最善《さいぜん》の努力《どりよく》を以《もつ》て、之《これ》に膺《あた》つた。乃《すなは》ち天正《てんしやう》十七|年《ねん》十二|月《ぐわつ》十|日《か》、京都《きやうと》に上《のぼ》り、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》し、當時《たうじ》在京中《ざいきやうちゆう》の上杉景勝《うへすぎかげかつ》、前田利家等《まへだとしいへら》と東征《とうせい》の軍評定《いくさひやうぢやう》に參《さん》し、十三|日《にち》使《つかひ》を駿府《すんぷ》に馳《は》せて、出師準備《すゐしじゆんび》を命《めい》じ、二十二|日《にち》駿府《すんぷ》に還《かへ》り、十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十一|日《にち》、進軍《しんぐん》の令《れい》を、管内諸國《くわんないしよこく》に發《はつ》し、二|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》を期《き》して、駿府《すんぷ》に會《くわい》せしめた。乃《すなは》ち彼《かれ》は自《みづ》から北條征伐《ほうでういばつ》大手筋《おほてすぢ》の先鋒《せんぽう》を以《もつ》て任《にん》じた。
家康《いへやす》の思慮《しりよ》周到《しうたう》なる、其《そ》の身《み》北條《ほうでう》との姻戚《いんせき》の間柄《あひだがら》なれば、特《とく》に嫌疑《けんぎ》を避《さ》くる爲《た》め、天正《てんしやう》十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》三|日《か》、其《そ》の嗣子《しし》の十二|歳《さい》なる長丸《ながまる》に、井伊直政《ゐいなほまさ》、酒井忠世《さかゐたゞよ》、内藤正成《ないとうまさなり》、青山忠成等《あおやまたゞなりら》を附《つ》けて、上洛《じやうらく》せしめた。長丸《ながまる》は十五|日《にち》、聚樂第《じゆらくだい》にて、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。此《こ》れは體《てい》の善《よ》き人質《ひとじち》であつた。
[#ここから1字下げ]
秀吉《ひでよし》大《おほい》に悦《よろこ》び、君《きみ》(長丸)[#「(長丸)」は1段階小さな文字]の御手《おんて》を引《ひ》き、後閣《こうかく》に連《つ》れ行《ゆ》き、樣々《さま/″\》に待遇《もてなさ》れ、政所《まんどころ》(秀吉夫人)[#「(秀吉夫人)」は1段階小さな文字]親《みづ》から御《お》ぐしを結《ゆ》ひ直《なほ》し、御衣裳《おんいしやう》をも改《あらた》めかへ、金作《きんづくり》の太刀《たち》はかしめ、重《かさ》ねて表方《おもてかた》に誘《いざな》はれ、御供《おんとも》せし井伊直政等《ゐいなほまさら》に向《》ひ、大納言《だいなごん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]殿《どの》には、幸人《さちびと》にてよき男子《だんし》あまたもたれしな。長丸《ながまる》いとをとなしやかにて、よき生立《おひたち》なり。唯《た》だ髮《かみ》の結樣《ゆひやう》より衣服《いふく》の裝《よそほひ》、みな田舍《ゐなか》びたれば、今《いま》都《みやこ》ぶりに改《あらた》めてかへしまゐらするなり。いはけなき子《こ》を、遠《とほ》き所《ところ》に置《おか》れ、亞相《あしやう》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]もさぞ心苦《こゝろぐる》しく待遠《まちどほ》に思《おも》ふらめ。とく供奉《ぐぶ》して返《かへ》れとて、直政《なほまさ》はじめ人々《ひと/″\》にもとり/″\かづけものして、かへされたり。〔東遷基業〕[#「〔東遷基業〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》は、長丸《ながまる》に元服《げんぷく》せしめ、其《そ》の偏諱《へんゐ》を授《さづ》け、秀忠《ひでたゞ》と名《なづ》け、之《これ》を還《かへ》した。二十五|日《にち》家康《いへやす》は、更《さ》らに、其《そ》の從弟《じゆうてい》本多康俊《ほんだやすとし》を、京都《きやうと》に人質《ひとじち》として送《おく》つた。此《こ》の月《つき》十四|日《か》、家康《いへやす》の妻《つま》、秀吉《ひでよし》の妹《いもうと》朝日姫《あさひひめ》は、四十八|歳《さい》にて京都《きやうと》に逝《ゆ》いたが、東征《とうせい》の事《こと》ある爲《た》めに、喪《も》を秘《ひ》した。則《すなは》ち東福寺《とうふくじ》に埋葬《まいさう》されたる、南明院《なんめいゐん》である。
家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》が其《そ》の嗣子《しし》を遣歸《けんき》せしめたのを見《み》て、扨《さ》ては領内沿道《りやうないえんだう》の城《しろ》を借《か》らんとの底意《そこい》を揣《はか》り、本多正信《ほんだまさのぶ》、本多重次《ほんだしげつぐ》に命《めい》じ、參河以東《みかはいとう》の諸城《しよじやう》を掃除《さうぢ》せしめ、其《そ》の要求《えうきう》を待《ま》つたが、果然《くわぜん》三|日《か》ならずして、秀吉《ひでよし》の手書《しゆしよ》は到著《たうちやく》した。家康《いへやす》は豫期《よき》の如《ごと》く、之《これ》に應《おう》じ、二|月《ぐわつ》部下《ぶか》諸將《しよしやう》に課《くわ》して、秀吉《ひでよし》の宿次《しゆくじ》に供《きよう》する亭舍《ていしや》を新築《しんちく》せしめ、二十六|日《にち》に竣工《しゆんこう》し。又《ま》た二十一|日《にち》伊奈忠次《いなたゞつぐ》をして、浮梁《ふりやう》を富士川《ふじがは》に架《か》せしめ、三|月《ぐわつ》十四|日《か》更《さら》に松平家忠《まつだひらいへたゞ》に命《めい》じ、秀吉《ひでよし》の榮《えい》を、吉原驛《よしはらえき》に構築《こうちく》せしめた。家康《いへやす》の仕打《しうち》は、滴水《てきすゐ》も漏《も》れぬ周到《しうたう》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【二一】秀吉東征の準備(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の東征《とうせい》は、其《そ》の西征《さいせい》に比《ひ》して、更《さ》らに一|層《そう》の大仕掛《おほじかけ》であつた。彼《かれ》は殆《ほと》んど天下《てんか》の兵《へい》を動《うご》かした。乃《すなは》ち京都《きやうと》三|條大橋《でうおほはし》の如《ごと》きも、増田長盛《ますだながもり》を奉行《ぶぎやう》として、其《そ》の爲《た》めに架設《かせつ》せしめた。其《そ》の橋欄《けうらん》の擬寳珠《ぎぼしゆ》には、今尚《いまな》ほ其《そ》の銘記《めいき》が、歴然《れきぜん》として存《そん》して居《ゐ》る。彼《かれ》の軍令《ぐんれい》は、前田文書《まへだぶんしよ》、吉川文書等《きつかはぶんしよとう》によれば、
[#ここから1字下げ]
     定《さだめ》
一 軍勢《ぐんぜい》味方《みかた》の地《ち》にをいて、亂妨狼籍《らんばうらうぜき》の輩《やから》、一々伐《う》たるべき事《こと》。
一 陣所《ぢんしよ》において、火《ひ》を出《いだ》すやからは、からめとり出《いだ》すべし。自然逐電《しぜんちくでん》せしめば、其主人《そのしゆじん》罪科《ざいくわ》たるべき事《こと》。
一 糠《ぬか》、藁《わら》、薪《たきゞ》、雜子以下《ざふしいか》、亭主《ていしゆ》にあひことはり|可[#レ]配[#レ]之事《これをくばるべきこと》。
右《みぎ》條々《でう/\》、若《もし》|令[#二]違犯[#一]者《ゐはんせしむるものは》、忽《たちまち》|可[#レ]被[#レ]處[#二]嚴科[#一]旨《げんくわにしよせらるべきむね》、|被[#二]仰出[#一]候也《おほせいだされさふらふなり》。
  天正十八年正月 日
[#地から3字上げ]秀吉(朱印)[#「(朱印)」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とあり。又《ま》た淺野文書《あさのぶんしよ》によれば、
[#ここから1字下げ]
    禁制《きんせい》
一 軍勢《ぐんぜい》甲乙人等《かふおつのひとなど》、亂妨狼藉事《らんばうらうぜきのこと》。
一 放火事《はうくわのこと》
一 |對[#二]地下人百姓[#一]《ぢげにんひやくしやうにたいし》、非分之儀《ひぶんのぎ》申懸事《まをしかくること》。
右《みぎ》條々《でう/\》、若《もし》|於[#二]違犯之輩[#一]者《ゐはんのやからにおいては》、忽《たちまち》|可[#レ]彼[#レ]處[#二]罪科[#一]者也《ざいくわにしよせらるべきものなり》。
  天正十八年正月 日
[#地から3字上げ]秀吉(朱印)[#「朱印」は底本では「印朱」][#「(朱印)」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
とある。何《いづ》れも秋毫《しうがう》も犯《をか》さゞる、堂々《だう/\》たる氣分《きぶん》が發揮《はつき》せられて居《ゐ》る。
秀吉《ひでよし》此《かく》の如《ごと》し。其《そ》の先鋒《せんぽう》たる家康《いへやす》に於《おい》ては、更《さ》らに如上《じよじやう》の意味《いみ》を、詳悉《しやうしつ》したる軍令《ぐんれい》を發《はつ》す可《べ》きは、當然《たうぜん》だ。
[#ここから1字下げ]
一 |無[#二]下知[#一]《げちなく》して、先手《さきて》を指置《さしおき》、物見《ものみ》を遣《つかは》す儀《ぎ》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
一 先手《さきて》を指越《さしこえ》|令[#二]高名[#一]《かうみやうせしむ》と云共《いへども》、|背[#二]軍法[#一]之上《ぐんぱふにそむくのうへ》は、妻子已下《さいしいか》悉《こと/″\く》|可[#二]成敗[#一]事《せいばいすべきこと》。
一 |無[#二]子細[#一]而《しさいなくして》、他之備《たのそなへ》へ相交《あひまじる》輩《やから》|在[#レ]之者《これあらば》、武具《ぶぐ》馬《うま》共《とも》に|可[#レ]取[#レ]之《これをとるべく》、若《もし》其主人《そのしゆじん》|及[#二]異儀[#一]者《いぎにおよぶは》、甚以《はなはだもつて》|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》、但《たゞし》|於[#二]用所[#一]者《ようしよにおいては》、打《うち》よけて|可[#レ]通事《とほるべきこと》。
一 人數押時《にんずおしのとき》、脇道《わきみち》すべからざる由《よし》、兼而《かねて》堅《かたく》|可[#二]申付[#一]《まをしつくべく》、若《もし》妄《みだり》に|於[#レ]通者《とほるにおいては》、其者《そのもの》の主人《しゆじん》|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
一 諸事《しよじ》奉行人之指圖《ぶぎやうにんのさしづ》を|令[#二]違背[#一]者《ゐはいせしむるものは》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
一 |爲[#二]時使[#一]《ときづかひのため》指遺《さしつかは》す人《ひと》の申旨《まをすむね》、少《すこし》も|不[#レ]可[#二]違背[#一]事《ゐはいすべからざること》。
一 人數押《にんずおし》の時《とき》、小旗《こばた》、鐵砲《てつぱう》、弓《ゆみ》、鎗《やり》、次第《しだい》を定《さだ》め、奉行《ぶぎやう》相添《あひそひ》て|可[#レ]押《おすべし》、若《もし》妄《みだり》に押者《おすもの》は、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
一 持鎗《もちやり》は軍役之外《ぐんえきのほか》たる間《あひだ》、長柄《ながえ》を指置《さしおき》、持《もた》する事《こと》、堅《かた》く停止《ちやうじす》。但《たゞし》長柄之外《ながえのほか》|令[#レ]持者《もたしむるは》、主人《しゆじん》馬廻《うままはり》に、|可[#レ]爲[#二]一丁[#一]事《いつちやうたるべきこと》。
一 |於[#二]陣取[#一]《ぢんどりにおいて》、馬《うま》取放儀《とりはなすぎ》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
一 小荷駄押事《こにだおしのこと》、兼而《かねて》|可[#二]相觸催[#一]條《あひふれもよほすべきでう》、軍勢《ぐんぜい》に|不[#二]相交[#一]樣《あひまじらざるやう》に、堅《かた》く|可[#二]申付[#一]《まをしつくべく》、若《もし》猥《みだりに》に軍勢《ぐんぜい》に相交者《あひまじるものは》[#ルビの「あひまじるものは」は底本では「あるまじるものは」]、其者《そのもの》を|可[#二]成敗[#一]事《せいばいすべきこと》。
一 |無[#二]下知[#一]而《げちなくして》、男女《なんによ》|不[#レ]可[#二]亂取[#一]《らんしゆすべからず》、若《もし》|取[#レ]之《これをとり》陣屋《ぢんや》に隱置者《かくしおくものは》、急度《きつと》其者主《そのものゝしゆ》|可[#レ]改[#レ]之《これをあらたむべく》、自然《しぜん》|自[#レ]他《たより》相聞《あひきこえ》、其者《そのもの》缺落《かけおち》せば、主人之知行《しゆじんのちぎやう》|可[#二]沒收[#一]事《ぼつしうすべきこと》。[#「(付)」は行右小書き]敵地之家《てきちのいへに》|無[#二]下知[#一]而《げちなくして》、先手之者《さきてのもの》|不[#レ]可[#二]放火[#一]事《はうくわすべからざること》。
一 諸商賣《しよしやうばい》押買《おしがひ》狼藉《らうぜき》、堅《かた》く|令[#二]停止[#一]《ちやうじせしむ》、若《もし》|於[#二]違背之族[#一]者《ゐはいのやからにおいては》、則《すなはち》|可[#二]成敗[#一]事《せいばいすべきこと》。
一 |無[#二]下知[#一]而《げちなくして》、|於[#レ]令[#二]陣拂[#一]者《ぢんばらひせしむるにおいては》、|可[#レ]爲[#二]曲事[#一]《きよくじたるべし》。
右《みぎ》條々《でう/\》、|於[#二]違背[#一]者《ゐはいするにおいては》、日本國中《につぽんこくちゆう》大小神祇《だいせうしんぎ》照覽《せうらん》あれ。|無[#二]用捨[#一]《ようしやなく》|可[#レ]令[#二]成敗[#一]者也《せいばいせしむべきものなり》。|仍如[#レ]件《よつてくだんのごとし》。
  天正十八年二月吉日
[#地から3字上げ]家康(御判)[#「(御判)」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
若《も》し此《こ》の軍令《ぐんれい》を熟讀《じゆくどく》せば、如何《いか》に當時《たうじ》の軍隊《ぐんたい》の紀律《きりつ》、節制《せつせい》が能《よ》く行《おこな》はれたるかを知《し》るに足《た》らむ。
其《そ》の行軍《かうぐん》の法《はふ》、宿營《しゆくえい》の法《はふ》、戰鬪員《せんとうゐん》、非戰鬪員《ひせんとうゐん》の區別《くべつ》、各隊《かくたい》の進止《しんし》の順序等《じゆんじよとう》、悉《こと/″\》く秩序《ちつじよ》整然《せいぜん》、既《すで》に即今《そくこん》の文明的《ぶんめいてき》、科學的《くわがくてき》戰法《せんぱふ》の端《たん》を現《あら》はして居《ゐ》るではない乎《か》。戰法《せんぱふ》既《すで》に此《かく》の如《ごと》くなれば、其《そ》の時代《じだい》の風氣《ふうき》も、亦《ま》た卜《ぼく》す可《べ》きではない乎《か》。
斯《か》くて家康《いへやす》は、二|月《ぐわつ》十|日《か》小栗吉忠《をぐりよしたゞ》を、留守《るす》とし、自《みづ》から兵《へい》を率《ひき》ゐて駿府《すんぷ》を發《はつ》し、賀島《かしま》に抵《いた》り、二十四|日《か》長久保城《ながくぼじやう》に次《じ》した。家康《いへやす》の先鋒《せんぽう》酒井家次等《さかゐいへつぐら》は、七|日《か》出發《しゆつぱつ》し、十五|日《にち》吉原《よしはら》に陣《ぢん》し、三|月《ぐわつ》二|日《か》總《そう》ヶ原《はら》に至《いた》つた。北條方《ほうでうがた》の泉頭《いづみがしら》の城將《じやうしやう》大藤長門《おほとうながと》、※[#「徳のつくり」の「心」に代えて「一/心」、第4水準2-12-48]倉《とぐら》の城主《じやうしゆ》北條氏堯《ほうでううぢたか》、獅子濱《ししはま》の城主《じやうしゆ》大石直久《おほいしなほひさ》、何《いづ》れも其《そ》の守《まもり》を撤《てつ》して、小田原《をだはら》に奔《はし》つた。此《かく》の如《ごと》くして彼我《ひが》の前衞《ぜんゑい》は、互《たが》ひに相接觸《あひせつしよく》し、衝突《しようとつ》せんとする距離《きより》に近《ちかづ》いて來《き》た。

[#5字下げ][#中見出し]【二二】秀吉東征の準備(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

二|月《ぐわつ》七|日《か》蒲生氏郷《がまふうぢさと》は、伊勢《いせ》松坂城《まつざかじやう》を發《はつ》した、彼《かれ》は九|州役《しうえき》、巖石城《がんじやくじやう》の先驅《せんく》をなして、其《そ》の功名《こうみやう》を現《あら》はしたが。今度《こんど》佐々成政《さつさなりまさ》の馬印《うまじるし》であつた菅笠《すげがさ》三|階《がい》を、秀吉《ひでよし》に請《こ》ひ得《え》て、我《わ》が馬印《うまじるし》となし、自《みづ》から繪師《ゑし》に其《そ》の肖像《せうざう》を描《えが》かしめ、死《し》を決《けつ》して出陣《しゆつぢん》した。
[#ここから1字下げ]
二|月《ぐわつ》七|日《か》氏郷朝臣《うぢさとあそん》、松坂《まつざか》を立《たつ》て、關《せき》へ下《くだ》られけるに、推陣《すゐぢん》の行儀等《ぎやうぎとう》亂《みだれ》にもやあらんずらんと、自身《じしん》先陣《せんぢん》より後陣《ごぢん》まで馳廻《はせまはつ》て、見《み》られしに、重代《ぢゆうだい》の鯰尾《なまづを》の甲《かぶと》を持《もち》し男《をのこ》、指圖《さしづ》の所《ところ》を替《かへ》て居《ゐ》しかば、氏郷《うぢさと》先陣《せんぢん》へ通《とほ》られし時《とき》、爰《こゝ》に居候《ゐさふら》へと、次第《しだい》を報《はうぜ》らる。その戻《もど》りに見給《みたま》へば、彼《かの》甲持《かぶともち》又《また》別《べつ》の所《ところ》に立《たち》しかば、馬《うま》の上《うへ》にて、不言《ぶごん》に太刀《たち》を拔《ぬき》、細頸《ほそくび》丁《ちやう》と打落《うちおと》し、甲《かぶと》をば別《べつ》の男《をとこ》に持《もた》せられける。軍兵共《ぐんぴやうども》是《これ》を見《み》て、皆《みな》舌《した》を振《ふるつ》て恐《おそ》れをのゝきしかば、行儀《ぎやうぎ》は更《さら》に亂《みだ》れざりけり。〔氏郷記〕[#「〔氏郷記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
九|州陣《しうぢん》に際《さい》しては、秀吉《ひでよし》の麾下《きか》さへも、其《そ》の順序《じゆんじよ》を紊《みだ》し、爲《た》めに秀吉《ひでよし》をして、麾下《きか》の諸將《しよしやう》を戒飭《かいちよく》せしめた。されば今囘《こんくわい》の大軍《たいぐん》を行《や》るに於《おい》て、其《そ》の紀律《きりつ》、節制《せつせい》の嚴肅《げんしゆく》を保《たも》つことは、決《けつ》して容易《ようい》の業《げふ》ではなかつたのだ。氏郷《うぢさと》が自《みづ》から斯《か》くしたのも、已《や》むを得《え》ぬ次第《しだい》であつたと思《おも》はる。
二|月《ぐわつ》廿|日《か》には、秀次《ひでつぐ》江州《がうしう》八|幡山城《はたさんじやう》を發《はつ》した。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》に向《むか》つて、左《さ》の如《ごと》き訓令《くんれい》を與《あた》へた。
[#ここから1字下げ]
去《さる》朔日《ついたち》(三月)[#「(三月)」は1段階小さな文字]|到[#二]神原[#一]《かんばらにいたり》(蒲原)[#「(蒲原)」は1段階小さな文字]着陣之由《ちやくぢんのよし》注進《ちゆうしん》、今日《こんにち》六|日《か》|於[#二]清須[#一]《きよすにおいて》披見候《ひけんさふらふ》。家康《いへやす》、内府《ないふ》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]|令[#二]相談[#一]《さうだんせしめ》、先手《さきて》へ|可[#レ]令[#二]陣替[#一]旨《ぢんがへせしむべきむね》、何樣《いかやう》にも家康《いへやす》指南《しなん》次第《しだい》、|無[#二]越度[#一]樣《おちどなきやう》、才判《さいばん》專一候《せんいつにさふらふ》。陣取《ぢんどり》丈夫《じやうぶ》に申付《まをしつけ》、御著座迄《ごちやくざまで》|可[#二]相待[#一]候《あひまつべくさふらふ》。伊豆浦《いづうら》處々《しよ/\》放火《はうくわ》、おむす(重須)[#「(重須)」は1段階小さな文字]の城《しろ》まで退散之由《たいさんのよし》、|得[#二]其意[#一]候《そのいをえさふらふ》。猶《なほ》黒田尠解由《くろだかげゆ》、長束大藏《ながつかおほくら》|可[#レ]申者也《まをすべきものなり》。
  三月六日
[#地から3字上げ]秀吉(御朱印)
    近江中納言殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは秀次《ひでつぐ》が、自《みづ》から先陣《せんぢん》に進《すゝ》まんと逸《はや》りたるを聞《き》いて、一に家康《いへやす》の示導《しだう》に遵《したが》ひ、秀吉《ひでよし》の著陣迄《ちやくぢんまで》は、決《けつ》して輕擧盲動《けいきよまうどう》する勿《なか》れと戒《いまし》めたのだ。所謂《いはゆ》る大膽小心《だいたんせうしん》とは、秀吉《ひでよし》の事《こと》である。
二|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、織田信雄《をだのぶを》は駿府《すんぷ》に至《いた》り、二十五|日《にち》蒲生氏郷《がまふうぢさと》と共《とも》に、兵《へい》二|萬《まん》を率《ひき》ゐて、沼津《ぬまづ》に次《じ》し、其《そ》の前隊《ぜんたい》は三|島《しま》に進《すゝ》んだ。同日《どうじつ》細川忠興《ほそかはたゞおき》は、丹後《たんご》宮津城《みやづじやう》を發《はつ》し、二十七|日《にち》筒井定次《つゝゐさだつぐ》伊賀《いが》上野城《うへのじやう》を發《はつ》し、二十八|日《にち》淺野長政《あさのながまさ》、晦日《みそか》宇喜田秀家《うきたひでいへ》、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》京都《きやうと》を發《はつ》した。前掲《ぜんけい》秀吉《ひでよし》の書中《しよちゆう》にある如《ごと》く、三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》秀次《ひでつぐ》蒲原《かんばら》に至《いた》り、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、我《わ》が先鋒《せんぽう》既《すで》に伊豆《いづ》西北部《せいほくぶ》の沿岸《えんがん》に放火《はうくわ》し、北條方《ほうでうがた》重須城《おもすじやう》の守將《しゆしやう》も退却《たいきやく》したるを報《はう》じ、三|日《か》沼津《ぬまづ》に進《すゝ》み、後《の》ち總《そう》ヶ|原《はら》に移《うつ》つた。
此《かく》の如《ごと》く二|月《ぐわつ》中旬前後《ちゆうじゆんぜんご》には、東海道《とうかいだう》の諸軍《しよぐん》、黄瀬川《きせがは》の平野《へいや》に集《あつ》まるもの、無慮《むりよ》十|萬餘《まんよ》に上《のぼ》つた。而《しか》して水軍《すゐぐん》の諸將《しよしやう》、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、脇坂安治《わきざかやすはる》、加藤嘉明等《かとうよしあきら》は、二|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の港灣《かうわん》を出帆《しゆつぱん》し、九|鬼嘉隆《きよしたか》と志摩《しま》に會《くわい》し、二十五|日《にち》遠州《ゑんしう》今切港《いまぎりみなと》に、二十七|日《にち》清水港《しみづみなと》に入《い》つた。三|月《ぐわつ》四|日《か》秀吉《ひでよし》は柏原《かしはばら》より、之《これ》に向《むか》つて、左《さ》の答書《たふしよ》を與《あた》へた。
[#ここから1字下げ]
去月《きよげつ》(二月)[#「(二月)」は1段階小さな文字]廿九|日之注進状《にちのちゆうしんじやう》、今月《こんげつ》四|日《か》|於[#二]柏原[#一]《かしはばらにおいて》披見候《ひけんさふらふ》。廿七|日《にち》|至[#二]清水[#一]《しみづにいたり》著船之由《ちやくせんのよし》、|被[#二]聞召屆[#一]候《きこしめしとゞけられさふらふ》。|無[#二]油斷[#一]働《ゆだんなきはたらき》、切々《せつ/\》申越候義《まをしこしさふらふぎ》、感思召候《かんじおぼしめしさふらふ》。九|鬼《き》(嘉隆)[#「(嘉隆)」は1段階小さな文字]相談《とあひだんじ》、伊豆之地體《いづのちたい》を早船《はやふね》にて|可[#二]見計[#一]旨《みはからふべきむね》、順風《じゆんぷう》相待《あひまち》、尤《もつとも》に候《さふらふ》。少《すこし》も越度候而者《おちどさふらふては》|不[#レ]可[#レ]然候《しかるべからずさふらふ》。今日《こんにち》大柿《おほがき》(大垣)[#「(大垣)」は1段階小さな文字]え|被[#レ]爲[#レ]成候《ならせられさふらふ》、尚《なほ》以《もつて》追々《おひ/\》|可[#レ]致[#二]言上[#一]候《ごんじやういたすべくさふらふ》。猶《なほ》長束大藏少輔《ながつかおほくらせういう》(正家)[#「(正家)」は1段階小さな文字]山中橘内《やまなかきつない》(長俊)[#「(長俊)」は1段階小さな文字]|可[#レ]申也《まをすべきなり》。
  三月四日
[#地から3字上げ]秀吉
   脇坂中務少輔(安治)[#「(安治)」は1段階小さな文字]どのへ
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち水軍《すゐぐん》をして、伊豆《いづ》の沿岸《えんがん》を偵察《ていさつ》し、機《き》に應《おう》じて、其《そ》の城寨《じやうさい》を攻撃《こうげき》し、小田原灣《をだはらわん》に囘航《くわいかう》せしめた。
飜《ひるがへ》つて東山道方面《とうさんだうはうめん》を見《み》れば、上杉景勝《うへすぎかげかつ》は、二|月《ぐわつ》十|日《か》兵《へい》一|萬《まん》を率《ひき》ゐ、春日山城《かすがやまじやう》を發《はつ》し、十五|日《にち》海津《かいづ》に駐陣《ちゆうぢん》した。前田利家《まへだとしいへ》は、其《そ》の子《こ》利長《としなが》と二十|日《か》に、其《そ》の前隊《ぜんたい》は十|日《か》に、尾山《をやま》(金澤)[#「(金澤)」は1段階小さな文字]城《じやう》を發《はつ》した。其《そ》の兵《へい》合計《がふけい》一|萬《まん》八千、北陸《ほくろく》の殘雪《ざんせつ》尚《な》ほ深《ふか》きが爲《た》めに、越前《ゑちぜん》、美濃《みの》を迂廻《うくわい》し、木曾《きそ》を經《へ》て、三|月《ぐわつ》中旬《ちゆうじゆん》、望月《もちづき》に進《すゝ》み、尋《つい》で景勝《かげかつ》、及《およ》び上田城主《うへだじやうしゆ》眞田昌幸《さなだまさゆき》(兵三千)[#「(兵三千)」は1段階小さな文字]小諸城主《こもろじやうしゆ》松平康國《まつだひらやすくに》(兵四千)[#「(兵四千)」は1段階小さな文字]と會合《くわんがふ》し、將《ま》さに碓氷峠《うすひたうげ》を越《こ》えて、上野《かうづけ》に入《い》らんとした。
此《かく》の如《ごと》く今《いま》や東海《とうかい》、東山《とうさん》、及《およ》び水軍《すゐぐん》は、三|方《ぱう》より小田原《をだはら》指《さ》して推《お》し寄《よ》せ、方《ま》さに北條氏政《ほうでううぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》を、包圍《はうゐ》攻撃《こうげき》せんとする形勢《けいせい》となつた。知《し》らず北條氏《ほうでうし》は、之《これ》に向《むか》つて如何《いかん》の對策《たいさく》を講《かう》じたる。

[#5字下げ][#中見出し]【二三】秀吉の東征[#中見出し終わり]

東征軍《とうせいぐん》は、潮《うしほ》の如《ごと》く、小田原《をだはら》指《さ》して詰《つ》め寄《よ》せた。『先陣《せんぢん》既《すで》に黄瀬川《きせがは》、沼津《ぬまづ》に著《つき》ぬれば、御陣《ごぢん》の人《ひと》は、美濃《みの》、尾張《をはり》にみち/\たる。』〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]有樣《ありさま》であつた。而《しか》して秀吉《ひでよし》も亦《ま》た三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》を以《もつ》て、戎服《じゆうふく》入朝《にふてう》し、節刀《せつたう》を賜《たま》はりて京都《きやうと》を發《はつ》した。主上《しゆじやう》は左《さ》の御製《ぎよせい》を餞《はなむけ》し給《たま》うた。
[#ここから2下げ]
東路《あづまぢ》や春《はる》の小田原《をだはら》打返《うちかへ》し、たねまきそむる雲《くも》の上人《うへびと》〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と。如何《いか》に其《そ》の出立《しゆつたつ》の仰山《ぎやうさん》であつたかは、多聞院日記《たもんゐんにつき》二|月《ぐわつ》二十七|日《にち》の項《かう》に、
[#ここから1字下げ]
一 來月《らいげつ》朔日《ついたち》、東國《とうごく》御陣立《ごぢんだち》とて、萬方《ばんぱう》振動也《しんどうなり》、如何《いかゞ》|可[#二]成行[#一]哉覽《なりゆくべきやらん》。
[#ここで字下げ終わり]
とあるにて、想《おも》ひやらるゝ。而《しか》して當日《たうじつ》の情況《じやうきやう》も亦《ま》た、三|月《ぐわつ》二|日《か》の項《かう》に、
[#ここから1字下げ]
昨日《さくじつ》御出馬《ごしゆつば》|在[#レ]之《これあり》、大津《おほつ》御泊《おとまり》と云々《うんぬん》。人數《にんず》六千|計《ばかり》云々《うんぬん》。奇麗《きれい》、金銀《きんぎん》、唐《から》、和財寳《わざいほう》、事盡《ことつき》たる事《こと》、中々《なか/\》|不[#レ]及[#二]言語[#一]之由《げんごにおよばざるのよし》[#ルビの「げんごにおよばざるのよし」は底本では「げんぎよにおよばざるのよし」]、各《おの/\》|語[#レ]之《これをかたり》|消[#レ]肝《たまげたる》式也《しきなり》。
[#ここで字下げ終わり]
とあるにて判知《わか》る。
平生《へいぜい》演劇氣《しばゐぎ》多《おほ》き秀吉《ひでよし》は、其《そ》の機會《きくわい》に、其《そ》の氣分《きぶん》を十二|分《ぶん》に發揮《はつき》した。彼《かれ》は造《つく》り髭《ひげ》を掛《か》け、鐵漿《おはぐろ》黒《くろ》く貼付《はりつけ》、唐冠《からかんむり》の甲《かぶと》を著《つ》け、金札緋威《こがねひおどし》の鎧《よろひ》に、熨斗付《のしつ》けの太刀《たち》を帶《お》び、振金《ふりきん》にて濃《だ》みたる大弩俵《だいどへう》の靱《うつぼ》の上《うへ》に、征矢《そや》一|筋《すぢ》刺《さし》て、朱塗《しゆぬり》の重籐《しげとう》の弓《ゆみ》を握《にぎ》り、金《きん》の瓔珞《えうらく》の馬鎧《うまよろひ》懸《か》けたる九|寸許《すんばかり》の駿馬《しゆんめ》に、萠立如《もえたつごと》くなる紅《くれなゐ》の厚總《あつぶさ》掛《か》け、威儀堂々《ゐぎだう/\》と馬上《ばじやう》にて、洛中《らくちゆう》を打《う》ち立《た》つた。されば近習《きんじゆ》、伽衆《とぎしゆう》、馬廻《うままはり》の甲冑《かつちゆう》、美《び》を盡《つく》し、善《ぜん》を盡《つく》し、異類《いるゐ》、異形《いぎやう》の者嗜《ものずき》、金銀《きんぎん》、珠玉《しゆぎよく》、稜羅《りようら》、錦繍《きんしう》は勿論《もちろん》、虎《とら》、臘虎《らつこ》、猩々緋等《せう/″\ひとう》、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の風流《ふうりう》を競《きそ》ひ。攝家《せつけ》、清華《せいくわ》、其《そ》の他《た》の月卿雲客《げつけいうんかく》を始《はじ》め、洛中洛外《らくちゆうらくぐわい》の貴賤男女《きせんなんによ》、大阪《おほさか》、伏見《ふしみ》、奈良《なら》、堺等《さかひとう》の庶民《しよみん》、何《いづ》れも見物《けんぶつ》に出掛《でか》け、三|條河原《でうがはら》より、粟田口《あはだぐち》、日岡峠《ひをかたふげ》、山科《やましな》より大津《おほつ》、松本邊迄《まつもとへんまで》、棧敷《さじき》を掛《か》け、道傍《みちばた》に群集《ぐんしふ》した。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、意氣揚々《いきやう/\》として其《そ》の中《なか》を練《ね》り行《ゆ》いた。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]
英雄《えいゆう》穉氣《ちき》多《おほ》し。然《しか》も秀吉《ひでよし》の穉氣《ちき》は、全《まつた》く成金氣分《なりきんきぶん》だ。而《しか》して其《そ》の成金氣分《なりきんきぶん》の底《そこ》には、又《ま》た微妙《びめう》の政策《せいさく》が、潛在《せんざい》したことを、忘却《ばうきやう》してはならぬ。彼《かれ》は何處迄《どこまで》も廣告屋《くわうこくや》であつた。
今日《こんにち》プロパガンダの拙劣《せつれつ》なる日本人《にほんじん》から見《み》れば、頗《すこぶ》る意外《いぐわい》の感《かん》があるが、斯《か》く外《そと》に張《は》り出《だ》さぬ、内《うち》に引《ひ》き込《こ》む習氣《しふき》は、徳川幕府《とくがはばくふ》の治世《ぢせい》に養成《やうせい》せられたもので、信長《のぶなが》、秀吉《ひでよし》の時代《じだい》には、夢《ゆめ》にもない事《こと》だ。
秀吉《ひでよし》は三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》の夜《よ》、大津《おほつ》に一|泊《ぱく》し、當日《たうじつ》毛利輝元《まうりてるもと》を、京都《きやうと》に、大和大納言秀長《やまとだいなごんひでなが》を、大阪《おほさか》の留守《るす》とし、三|日《か》江州《がうしう》八|幡山《はたやま》、四|日《か》柏原《かしはばら》、五|日《か》大垣《おほがき》を經《へ》て、六|日《か》清洲《きよす》に次《じ》した。
彼《かれ》が五|日《か》大垣《おほがき》から尾州《びしう》清洲《きよす》に著《ちやく》した模樣《もやう》は、黄母衣《きほろ》二十二|騎《き》、金旗《きんき》十|本《ぽん》、吹貫旗《ふきぬきばた》百五十|本《ぽん》、小旗《こばた》數《かぞ》ふるに遑《いとま》あらず。黄金《わうごん》三百|枚宛《まいづゝ》を駄《だ》する馬《うま》十|匹《ぴき》、一|人毎《にんごと》に金錢《きんせん》一|貫《くわん》を頸《くび》に掛《か》けしむるもの五|人《にん》、普請具持《ふしんぐもち》三十|人《にん》、梨地柄《なしぢえ》、金丸貫鞘《きんまるぬきざや》の長刀《なぎなた》三十|柄《え》、梨地柄《なしぢえ》、虎皮鞘鑓《とらかはさややり》三百|本《ぽん》、鷹《たか》三十二|居《すゑ》、馬《うま》十|匹《ぴき》、馬衣《ばぎぬ》は唐織《からおり》であつた。拔身《ぬきみ》の刀《かたな》六十、駕輿《かご》二|丁《ちやう》、而《しか》して秀吉《ひでよし》騎馬《きば》にて、南蠻傘《なんばんがさ》を蓋《おほ》ふ。扈從《こじゆう》騎歩《きほ》、幾《いく》百千を知《し》らずとある。又《ま》た九|日《か》熱田《あつた》より岡崎《をかざき》に至《いた》れる秀吉《ひでよし》の行裝《ぎやうさう》は、甲冑《かつちゆう》を著《つ》け、四|尺許《しやくばかり》の太刀《たち》を帶《お》び、腕貫大繩《うでぬきおほなは》をもて、總金大靱《そうきんおほうつぼ》を腰《こし》に付《つ》け、網代笠《あじろがさ》を戴《いたゞ》いたとある。〔島津久保譜〕[#「〔島津久保譜〕」は1段階小さな文字]
彼《かれ》は十|日《か》吉田《よしだ》に至《いた》つた。家康《いへやす》は其《そ》の臣《しん》小栗吉忠《をぐりよしたゞ》をして、之《これ》を饗《きやう》せしめた。同日《どうじつ》出羽《では》角館城主《かくだてじやうしゆ》戸澤盛安《とざはもりやす》來《きた》り謁《えつ》した。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》を秀次《ひでつぐ》の武將《ぶしやう》中村一氏《なかむらかずうぢ》に屬《ぞく》せしめた。十八|日《にち》田中城《たなかじやう》を經《へ》て、翌日《よくじつ》駿府城《すんぷじやう》に入《い》つた。此《こ》れは家康《いへやす》主冶《しゆぢ》の府《ふ》だ。二十|日《か》家康《いへやす》長久保《ながくぼ》より來《きた》り謁《えつ》し、之《これ》を饗《きやう》し、二十二|日《にち》長久保《ながくぼ》に還《かへ》つた。二十三|日《にち》清見寺《せいけんじ》に入《い》つた。家康《いへやす》は其《そ》の臣《しん》天野康景《あまのやすかげ》をして、之《これ》を饗《きやう》せしめた。
秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》風流心《ふうりうしん》の濃《こまや》かな漢《をのこ》であつた。されば始《はじ》めて眺《なが》め來《きた》れる東海道《とうかいどう》の風光《ふうくわう》には、頗《すこぶ》る其《そ》の興趣《きようしゆ》を催《もよほ》し、清見寺《せいけんじ》より三保《みほ》の松原《まつばら》を眺《なが》めて、
[#ここから2字下げ]
諸人《もろびと》の立歸《たちかへり》つゝ見《み》るとてや、關《せき》に向《むか》へる三保《みほ》の松原《まつばら》
[#ここで字下げ終わり]
と詠《えい》じた。其《そ》の他《た》の詠歌《えいか》も少《すく》なからずあつた。彼《かれ》は途中《とちゆう》に於《おい》ても、其《そ》の先發《せんぱつ》の諸隊《しよたい》に對《たい》する、精細《せいさい》なる訓令《くんれい》を怠《おこた》らなかつた。而《しか》して自《みづ》から信雄《のぶを》、家康《いへやす》の領内《りやうない》を通行《つうかう》することゝて、隨分《ずゐぶん》油斷《ゆだん》なく警戒《けいかい》した。斯《か》くて二十六|日《にち》吉原《よしはら》に至《いた》り、二十七|日《にち》沼津城《ぬまづじやう》に入《い》り、信雄《のぶを》、家康《いへやす》之《これ》を迎《むか》へた。
秀吉《ひでよし》が駿府城《すんぷじやう》に來《きた》らんとするや、石田《いしだ》三|成《なり》は、家康《いへやす》に異心《いしん》ありとて、之《これ》を止《と》めたが、淺野長政《あさのながまさ》、大谷吉隆等《おおたによしたから》交《こもご》も諫《いさ》めて入城《にふじやう》した。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]又《ま》た信雄《のぶを》、家康《いへやす》が秀吉《ひでよし》を、浮島《うきしま》ヶ|原《はら》に迎《むか》ふるや、家康《いへやす》は其《そ》の途次《とじ》、秀吉《ひでよし》の先驅《せんく》より、秀吉《ひでよし》異樣《いやう》の行裝《ぎやうさう》を聞《き》き、家康《いへやす》乍《たちま》ち從者《ずさ》たる甲州侍《かふしうざむらひ》曲淵庄左衞門《まがりぶちしやうざゑもん》の帶《たい》せし三|尺餘《じやくよ》の大刀《だいたう》に大鍔《おほつば》かけたるを、取《と》り換《か》へて帶《さ》し、秀吉《ひでよし》を迎《むか》へしかば、秀吉《ひでよし》は兩人《りやうにん》を見《み》て、俄《にはか》に馬《うま》より下《お》り、慰勞《ゐらう》の詞《ことば》を陳《の》べ、團扇《うちは》にて家康《いへやす》の刀柄《かたなづか》を押《おさ》へ、近頃《ちかごろ》よき御物數寄《おんものずき》かなと一|笑《せう》した。〔武家閑談〕[#「〔武家閑談〕」は1段階小さな文字]又《ま》た秀吉《ひでよし》馬《うま》より下《お》り、太刀《たち》の柄《つか》に手《て》をかけ、信雄《のぶを》、家康《いへやす》逆心《ぎやくしん》ありときく、立上《たとあが》られよ、一|太刀《たち》まゐらせんと云《い》ふ。信雄《のぶを》は面《かほ》を赤《あから》め、居措《きよそ》を失《しつ》したが、家康《いへやす》は自若《じじやく》として、秀吉《ひでよし》の左右《さいう》に向《むか》ひ、殿下《でんか》の軍始《いくさはじめ》に御太刀《おんたち》に手《て》をかけ給《たま》ふことの愛度《めでた》さよ、誰《た》れも壽《ことほ》ぎ奉《たてまつ》れと高聲《たかごゑ》に囃《はや》したれば、秀吉《ひでよし》は欣然《きんぜん》として、再《ふたゝ》び馬《うま》に打乘《うちの》りて過《すぎ》さつた。〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
以上《いじやう》は當時《たうじ》の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》として、今尚《いまな》ほ人口《じんこう》に膾炙《くわいしや》して居《ゐ》る。信否《しんぴ》何《いづ》れも確《たしか》でないが、人心《じんしん》の※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽變化《しゆくこつへんくわ》、油斷《ゆだん》のならぬ當時《たうじ》の情態《じやうたい》が偲《しの》ばるゝではない乎《か》。
二十七|日《にち》陸奧《むつ》西根城主《にしねじやうじゆ》津輕爲信《つがるためのぶ》、下野《しもつけ》太田原城主《おほたはらじやうしゆ》太田原晴清《おほたはらはるきよ》來《きた》り謁《えつ》し、何《いづ》れも領地安堵《りやうちあんど》の朱印《しゆいん》を與《あた》へ、晴清《はるきよ》には刀《かたな》を與《あた》へ、備前守《びぜんのかみ》に任《にん》じて、之《これ》を遣歸《けんき》した。而《しか》して曩《さき》に拘禁《かうきん》したる北條《ほうでう》の使者《ししや》、石卷康敬《いしまきやすよし》を小田原《をだはら》に放逐《はうちく》し、妙音院《めうをんゐん》を磔殺《たくさつ》した。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]信雄家康隱謀の雜説
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
天正十八年三月、小田原御陣の時、尾張内府信雄卿、駿府の三枚橋に御陣取なされ、徳川家康公は長窪に御陣を取給ふ。三月廿八日に太閤秀吉公三枚橋へ御着陣に付、御先手諸大將皆々浮島ヶ原まで、御迎に出られ、信雄卿、家康公も同く御迎に御出あり(中略)。秀吉公は信雄卿、家康公御迎に御出候を御覽被[#レ]成、孰れも高家、信雄卿は御主筋なれば乘打は如何と思召、馬より御下り被[#レ]成ける。其頃信雄卿、家康公、小田原尾内通の雜説も有ゆへ、御禮儀乍ら御兩人御前にて、秀吉公御太刀に御手を掛合ひ、信雄、家康逆心と承り候。御立上り候へ、一太刀參ふと仰らる。信雄卿は赤面して居給ひ、兎角の言葉なし。家康公は諸人に御向ひ被[#レ]成、御陣始に御太刀御手掛けられ目出度御事にて候、何れも目出度存べしと、高らかに仰らる。秀吉公御詞なく、即ち御馬に召し御通なさる。見聞の諸軍家康公の御智勇を感じ奉らざるは無し。〔武邊咄聞書、常山紀談〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【二四】北條の對策(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

眼《まなこ》を轉《てん》じて、北條氏側《ほうでうしがは》を見《み》れば、悉《こと/″\》く皆《み》な豫定《よてい》の事《こと》が外《はづ》れるのみであつた。此方《こなた》さへ踏《ふ》み耐《こた》へなば、秀吉《ひでよし》は屹度《きつと》折《を》れて出《で》ると思《おも》うたが、それも間違《まちがひ》であつた。親類《しんるゐ》の家康《いへやす》は、何《なん》とか都合《つがふ》して呉《く》れるであらうと思《おも》うたが、それも間違《まちがひ》であつた。眞逆《まさか》家康《いへやす》は、吾家征伐《わがいへせいばつ》の先手《さきて》にはなるまいと思《おも》うたが、それも間違《まちがひ》であつた。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が大言壯語《たいげんさうご》しても、自《みづ》から出征《しゆつせい》することはなかる可《べ》しと思《おも》うたが、それも間違《まちがひ》であつた。『京都《きやうと》何萬騎《なんまんき》打向《うちむか》ふといふ共《とも》、油井《ゆゐ》、蒲原邊《かんばらへん》堺《さかひ》として、在陣《ざいぢん》たるべきなり。昔《むかし》も平家《へいけ》の軍兵《ぐんぴやう》馳《は》せ下《くだ》り、彼地《かのち》に陣取《ぢんど》り、戰《たゝか》ふ事《こと》はさておきぬ、水鳥《みづとり》の羽音《はおと》に驚《おどろ》いて、數萬《すまん》の軍勢《ぐんぜい》逃《に》げ上《のぼ》り候《さふらふ》の條《でう》、又《また》もや其《そ》の先例《せんれい》たるべし。』〔太田牛一、天正記〕[#「〔太田牛一、天正記〕〕」は1段階小さな文字]と呑氣《のんき》に思《おも》うて居《ゐ》たが、それも間違《まちがひ》であつた。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》は富士川《ふじがは》を越《こ》えて、沼津迄《ぬまづまで》も出掛《でか》けて來《き》た。
北條氏《ほうでうし》の間違《まちがひ》は、如上《じよじやう》に止《とゞま》らなかつた。凡《およ》そ小田原役《をだはらえき》の始《はじめ》、中《なか》、終《をはり》を一|貫《くわん》して、一|切《さい》間違《まちがひ》のみであつた。即《すなは》ち彼等《かれら》は徹底的《てつていてき》に間違《まちが》うて、遂《つひ》に亡滅《ばうめつ》した。而《しか》して彼等《かれら》は死《し》に抵《いた》る迄《まで》、それに氣附《きづ》かなんだ。
北條氏《ほうでうし》の軍議《ぐんぎ》に就《つい》ては、必《かなら》ずしも退守説《たいしゆせつ》のみではなかつた。天正《てんしやう》十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十|日《か》、氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》は、其《そ》の一|門《もん》宿將《しゆくしやう》を、小田原《をだはら》に招集《せうしふ》し、軍議《ぐんぎ》を凝《こ》らした。時《とき》に北條氏邦《ほうでううぢくに》―氏政《うぢまさ》の弟《おとうと》―氏直《うぢなほ》の叔父《しゆくふ》―申《まを》す樣《やう》、氏政《うぢまさ》主《ぬし》には小田原《をだはら》を守《まも》り給《たま》へ。氏直《うぢなほ》主《ぬし》は總大將《そうたいしやう》として、出馬《しゆつば》あり、松平康重《まつだひらやすしげ》が守《まも》れる沼津城《ぬまづじやう》を攻取《せめと》り、牙營《がえい》を此處《こゝ》に定《さだ》め、某《それがし》と阿兄《あけい》陸奧守氏照《むつのかみうぢてる》と、鬮拈《くじと》りにて、先陣《せんぢん》を承《うけたまは》り、富士川《ふじがは》を隔《へだ》てゝ一|戰《せん》を試《こゝろ》む可《べ》し。左《さ》なくば氏直《うぢなほ》三|島邊迄《しまへんまで》出張《しゆつちやう》せられ、先陣《せんぢん》は黄瀬川《きせがは》を堺《さかひ》として、戰《たゝか》ふ可《べ》し。敵《てき》は長途《ちやうと》の京勢《きやうぜい》なり、味方《みかた》は地《ち》の利《り》を知《し》りて、逸《いつ》を以《もつ》て勞《らう》を待《ま》つ、加《くは》ふるに徳川《とくがは》は縁邊《えんぺん》なれば、當家《たうけ》の不利《ふり》をば謀《はか》るまじ。斯《か》くて曠日《くわうじつ》彌久《びきう》せば、秀吉《ひでよし》も遂《つ》ひに持《も》ち倦《あぐ》みて、扱《あつかひ》を入《い》るゝ※[#こと、120-11]とならむと。
衆議《しゆうぎ》此《これ》に一|決《けつ》せんとしたが、松田憲秀《まつだのりひで》は獨《ひと》り之《これ》を不可《ふか》として曰《いは》く、當所《たうしよ》は早雲庵主《さううんあんしゆ》以來《いらい》、五|代《だい》の居城《きよじやう》にして、其《そ》の要害《えうがい》に於《おい》ては、天下無双《てんかむさう》の勝地《しようち》である。如何《いか》なる大敵《たいてき》ありとても、筥根《はこね》、足柄《あしがら》、湯板峠《ゆいたたふげ》、根府川《ねぶがは》をば、越《こ》ゆ可《べか》らず。加《くは》ふるに兵糧《ひやうらう》、矢玉《やだま》、兵器《へいき》に至《いた》る迄《まで》、澤山《たくさん》に蓄《たくは》へ置《お》かれぬ。されば此處《こゝ》を本據《ほんきよ》とし、關《くわん》八|州《しう》の城々《しろ/″\》を持固《もちかた》め、防禦《ばうぎよ》の術《じゆつ》を專《もつぱ》らとし、居《ゐ》ながら敵《てき》を引受《ひきう》け、對陣《たいぢん》に月日《つきひ》を送《おく》りなば、寄手《よせて》は糧盡《かてつ》き、長陣《ながぢん》に退屈《たいくつ》し、敗走《はいそう》疑《うたがひ》ある可《べか》らずと。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]而《しか》して軍議《ぐんぎ》は遂《つひ》に此《かく》の如《ごと》く決《けつ》した。
論者《ろんしや》は松田《まつだ》が遂《つ》ひに北條家《ほうでうけ》を誤《あやま》つたと云《い》ふが、然《しか》も松田《まつだ》の説《せつ》は、彼《かれ》の獨特《どくとく》の意見《いけん》でなく、北條氏《ほうでうし》傳統《でんとう》の意見《いけん》であつた。氏康《うぢやす》の如《ごと》きも、里見《さとみ》とか、兩上杉《りやううへすぎ》とか云《い》ふ對手《あひて》とは、迎《むか》へ戰《たゝか》うたが、信玄《しんげん》、謙信《けんしん》の大敵《たいてき》、頸敵《けいてき》には、小田原籠城策《をだはらろうじやうさく》を以《もつ》て、之《これ》に抗《かう》し、而《しか》して其《そ》の策《さく》は何《いづ》れも適中《てきちゆう》して、坐《ゐ》ながら其《そ》の利《り》を享《う》けしめたではない乎《か》。
將《は》た氏邦《うぢくに》の意見《いけん》とても、富士川《ふじがは》を隔《へだ》てゝ防禦《ばうぎよ》とすると云《い》ふ迄《まで》にて、曾《かつ》て家康《いへやす》が岡崎《をかざき》に出張《しゆつちやう》し、尾參《びさん》の野《や》を清《きよ》めて、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》の到《いた》るを待《ま》ち受《う》け、其《そ》の雌雄《しゆう》を一|擲《てき》に決《けつ》せんとする意氣込《いきごみ》とは、同日《どうじつ》の論《ろん》でなかつた。語《ご》を換《か》へて云《い》へば、氏邦《うぢくに》の説《せつ》も、松田《まつだ》の説《せつ》も、五十|歩《ぽ》、百|歩《ぽ》の類《るゐ》であつた。
北條氏《ほうでうし》は累代《るゐだい》、小田原《をだはら》の天嶮《てんけん》に囚《とら》はれて居《ゐ》た。彼等《かれら》は自力《じりき》で其《そ》の勢力《せいりよく》を保持《ほぢ》するよりも、寧《むし》ろ天險《てんけん》を恃《たの》んで保持《ほぢ》せんとした。彼等《かれら》は屡《しばし》ば是《こ》れが爲《た》めに成功《せいこう》した。彼等《かれら》の子孫《しそん》は、又《ま》た此《こ》の成功《せいこう》の爲《た》めに囚《とら》はれた。而《しか》して其《そ》の祖先《そせん》が信玄《しんげん》、謙信《けんしん》に向《むか》つて施《ほどこ》したる所《ところ》をば、更《さ》らに秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、施《ほどこ》さんとした。
此《こ》れが全《まつた》く時代錯誤《じだいさくご》であつた。謙信《けんしん》にせよ、信玄《しんげん》にせよ、北條《ほうでう》とは互角《ごかく》の相手《あひて》であつた。而《しか》して謙信《けんしん》も、信玄《しんげん》も、北條以外《ほうでういぐわい》に、第《だい》三|者《しや》、第《だい》四|者《しや》の敵《てき》を有《いう》した。彼等《かれら》は敵地《てきち》を踰《こ》えて來《きた》るにあらざれば、敵地《てきち》に瀕《ひん》して來《きた》つたものだ。要《えう》するに彼等《かれら》は本來《ほんらい》、深入《ふかいり》、長陣《ながぢん》、兩《ふたつ》ながら殆《ほと》んど不可能《ふかのう》であつたに拘《かゝは》らず、其《そ》の禁《きん》を冐《をか》して[#「して」は底本では「した」]來《き》たのだ。されば小田原籠城《をだはらろうじやう》は、彼等《かれら》に對《たい》する最上《さいじやう》の痛手《いたで》であつた。これが則《すなは》ち北條氏《ほうでうし》小田原籠城《をだはらろうじやう》の成功《せいこう》した所以《ゆゑん》であつた。
然《しか》も秀吉《ひでよし》の時代《じだい》は、謙信《けんしん》、信玄《しんげん》の時代《じだい》でなく、秀吉《ひでよし》の位置《ゐち》は、彼等《かれら》の位置《ゐち》でなく、而《しか》して秀吉《ひでよし》亦《ま》た謙信《けんしん》、信玄《しんげん》でない。彼《かれ》には第《だい》三|者《しや》はなかつた、彼《かれ》は天下《てんか》の勢《せい》を傾《かたむ》けて來《き》た。彼《かれ》は如何《いか》に長《なが》く對陣《たいぢん》しても、何等《なんら》の支障《ししやう》はなかつた。斯《かゝ》る相手《あひて》に向《むか》つて、前者《ぜんしや》と同《どう》一|筆法《ひつぱふ》を行《おこな》はんとするは、北條氏《ほうでうし》の君臣《くんしん》が、時代《じだい》と推移《すゐい》せずして、全《まつた》く化石《くわせき》したるを證明《しやうめい》する所以《ゆゑん》だ。

[#5字下げ][#中見出し]【二五】北條の對策(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

北條氏《ほうでうし》は愈《いよい》よ小田原籠城《をだはらろうじやう》を決《けつ》した。而《しか》して箱根山脈《はこねさんみやく》の内外《ないぐわい》に於《お》ける要鎭《えうちん》の一たる韮山城《にらやまじやう》には、氏政《うぢまさ》の弟《おとうと》氏規《うぢのり》をして、之《これ》を守《まも》らしめ、山中城《やまなかじやう》には、城將《じやうしやう》松田康長《まつだやすなが》の外《ほか》、更《さ》らに北條氏勝《ほうでううぢかつ》、間宮康俊《まみややすとし》、朝倉景澄等《あさくらかげすみら》の諸將《しよしやう》を遣《つか》はして之《これ》を援《たす》けしめた。氏政《うぢまさ》は彼等《かれら》三|人《にん》に各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》刀《かたな》を與《あた》へて、之《これ》を勵《はげ》ました。間宮《まみや》は氏政《うぢまさ》に向《むか》ひ、死《し》を矢《ちか》つて行《ゆ》いた。朝倉《あさくら》は退《しりぞ》いて其《そ》の親友《しんいう》に向《むか》つて、當家《たうけ》の運《うん》も既《すで》に窮《きはま》つた。山中城《やまなかじやう》は舊臘以來《きうらふいらい》修繕《しうぜん》したるも、大軍《たいぐん》に對《たい》して、久《ひさ》しきを持《ぢ》す可《べ》きでない。然《しか》るに我等《われら》宿將《しゆくしやう》を、此處《こゝ》に差籠《さしこめ》らるゝは、是《こ》れ爪牙《そうが》の臣《しん》を敵《てき》に餌《ゑ》とせらるゝのだと嘆息《たんそく》した。〔關八州古戰録〕[#「〔關八州古戰録〕」は1段階小さな文字]其《そ》の他《た》新莊城《しんじやうじやう》には、江戸城主《えどじやうしゆ》の遠山政景《とほやままさかげ》、足柄城《あしがらじやう》には依田師冶《よだもろはる》、濱居場城《はまゐばじやう》には佐野城主《さのじやうしゆ》佐野氏忠《さのうぢたゞ》、徳倉城《とぐらじやう》には北條氏堯《ほうでううぢたか》、泉頭城《いづみがしらじやう》には大藤長門守《おほとうながとのかみ》、鷹《たか》ノ巣城《すじやう》には稻見某等《いなみそれがしら》を守將《しゆしやう》とし、又《ま》た竹下《たけした》、松尾嶽《まつをだけ》、塔《たふ》ノ峰《みね》、湯坂《ゆざか》、畑《はた》、箱根驛《はこねえき》、屏風山等《びやうぶやまとう》に番兵《ばんぺい》を配置《はいち》し、三|月《ぐわつ》十八|日《にち》氏直《うぢなほ》自《みづ》から屏風山《びやうぶやま》を巡視《じゆんし》した。
且《か》つ小田原城外《をだはらじやうぐわい》に衞戌《ゑいじゆ》して、上記《じやうき》諸城《しよじやう》の應援《おうゑん》を兼《か》ねたるは、宮城野《みやぎの》に、松田憲秀等《まつだのりひでら》一|萬《まん》三千|餘人《よにん》、湯本《ゆもと》に原胤成等《はらたねなりら》八千|人《にん》、片浦《かたうら》に北條氏照等《ほうでううぢてるら》一|萬《まん》五千|餘人《よにん》あつた。
駿豆沿海《すんづえんかい》に於《おい》ては、獅子濱城《ししはまじやう》に關宿城代《せきやどじやうだい》の大石直久《おほいしなほひさ》あり。重須壘《おむするゐ》に水軍《すゐぐん》の某將《ばうしやう》あり。安良里壘《あらりるゐ》に梶原景宗《かぢはらかげむね》、三|浦茂信《うらしげのぶ》あり。田子壘《たごるゐ》に山本常任《やまもとつねたふ》あり。下田城《しもだじやう》に城主《じやうしゆ》清水康長《しみづやすなが》、援將《ゑんしやう》江戸朝忠《えどともたゞ》あり。何《いづ》れも要鎭堅固《えうぢんけんご》に構《かま》へて、京勢《きやうぜい》の來《きた》るを待《ま》つた。
將《は》た中山道方面《なかせんだうはうめん》の要衝《えうしよう》たる松井田城《まつゐだじやう》には、重臣《ぢゆうしん》大道寺政繁《だいだうじまさしげ》があつた。西牧城《にしまきじやう》には、青木城主《あをきじやうしゆ》多米長定《ためながさだ》、大谷嘉信《おほたによしのぶ》之《これ》を守《まも》り、甲州路《かふしうぢ》、及《およ》び上武地方《じやうぶちはう》の重鎭《ぢゆうちん》鉢形城《はちがたじやう》には、北條氏邦《ほうでううぢくに》があつた。
其《そ》の以外《いぐわい》管内《くわんない》の諸城《しよじやう》には、概《おほむ》ね留守《るす》を措《お》き、其《そ》の守將《しゆしやう》は、之《これ》を小田原《をだはら》に召致《せうち》した。即《すなは》ち其《そ》の主人《しゆじん》は之《これ》を小田原《をだはら》に、氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》と、死生《しせい》を共《とも》にし、其《そ》の臣下《しんか》は各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》城《しろ》にありて、主人《しゆじん》に代《かは》りて之《これ》を守《まも》つた。此《こ》れは北條氏《ほうでうし》としては、比較的《ひかくてき》上出來《じやうでき》の策《さく》であつた。云《い》はゞ其《そ》の妻拏《さいど》を人質《ひとじち》とする代《かは》りに、本人自身《ほんにんじしん》を人質《ひとじち》とした譯《わけ》だ。左《さ》すれば小田原城中《をだはらじやうちゆう》の人心《じんしん》も、自《おのづ》から一|致《ち》し、分國《ぶんこく》各城《かくじやう》の留守《るす》も、銘々《めい/\》其《そ》の主人々々《しゆじん/\》の爲《た》めに働《はたら》いた事《こと》であつたと思《おも》はるゝ。且《か》つ萬《まん》一|各城《かくじやう》が落《お》ちても、小田原《をだはら》さへ安全《あんぜん》であれば、他日《たじつ》之《これ》を恢復《くわいふく》するの方便《はうべん》は、如何樣《いかやう》にも、可能《かな》ふから。北條氏《ほうでうし》が籠城《ろうじやう》の策《さく》として、濫《みだ》りに其《そ》の勢力《せいりよく》を、各所《かくしよ》に散漫《さんまん》せしめず、小田原《をだはら》に全力《ぜんりよく》を込《こ》めたのは、先《ま》づ賢《かしこ》き方法《はうはふ》と云《い》はねばなるまい。
北條家《ほうでうけ》の一|門《もん》には、大勢《たいせい》を達觀《たつくわん》し、北條家《ほうでうけ》の爲《た》めに、長策《ちやうさく》を建《た》つる人物《じんぶつ》は乏《とぼ》しかつたが、さりとて決《けつ》して役《やく》に立《た》たぬ藁人形《わらにんぎやう》のみではなかつた。氏康《うぢやす》の子《こ》は七|男子《だんし》あつた。其《そ》の一|人《にん》は上杉謙信《うへすぎけんしん》の養子《やうし》となりて死《し》した景虎《かげとら》だ。小田原籠城《をだはらろうじやう》の際《さい》は、氏政《うぢまさ》以外《いぐわい》、尚《な》ほ五|人《にん》の兄弟《きやうだい》があつた。そは氏照《うぢてる》(或は氏輝と云ふ)[#「(或は氏輝と云ふ)」は1段階小さな文字]、氏邦《うぢくに》、氏規《うぢのり》、佐野家綱《さのいへつな》の養子《やうし》となりたる氏忠《うぢたゞ》、氏堯《うぢたか》であつた。彼等《かれら》は何《いづ》れも立派《りつぱ》なる一|人前《にんまへ》の男子《だんし》であつた。而《しか》して彼等《かれら》は何《いづ》れも一|方《ぱう》の守將《しゆしやう》となりて働《はたら》いた。氏邦《うぢくに》の鉢形城《はちがたじやう》の防禦《ばうぎよ》も、決《けつ》して尋常《じんじやう》ではなかつたが、特《とく》に氏規《うぢのり》の韮山城《にらやまじやう》の防禦《ばうぎよ》は、小田原役《をだはらえき》の花《はな》であつた。
又《ま》た氏直《うぢなほ》には三|人《にん》の弟《おとうと》があつた。太田氏資《おほたうぢすけ》の養子《やうし》岩槻城主《いはつきじやうしゆ》氏房《うぢふさ》、叔父《しゆくふ》氏照《うぢてる》の養子《やうし》直重《なほしげ》、叔父《しゆくふ》氏邦《うぢくに》の養子《やうし》氏定《うぢさだ》、又《ま》た再從弟《またいとこ》に北條氏勝《ほうでううぢかつ》があつた。彼等《かれら》も亦《ま》た決《けつ》して宗家《そうけ》に不利《ふり》なる支流《しりゆう》ではなかつた。
然《しか》も其《そ》の一|門《もん》の中《うち》に、例《れい》せば毛利家《まうりけ》に於《お》ける吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》と云《い》ふが如《ごと》き、威重《ゐぢゆう》あり、信用《しんよう》あり、遠謀《ゑんばう》あり、深慮《しんりよ》ある者《もの》が一|人《にん》も居《を》らなかつた。但《た》だ氏規《うぢのり》は聊《いさゝ》か上國《じやうこく》の形勢《けいせい》にも通《つう》じ、宗家《そうけ》の爲《た》めに、最後迄《さいごまで》、最善《さいぜん》の努力《どりよく》を竭《つく》したが、それにしても遂《つ》ひに何事《なにごと》をも爲《な》し遂《と》げ得《え》なかつた。此《こ》れは氏規《うぢのり》の微力《びりよく》と云《い》はんよりも、或《あるひ》は北條家《ほうでうけ》の否運《ひうん》であつたかも知《し》れぬ。
要《えう》するに當初《たうしよ》より防禦《ばうぎよ》を專《せん》一としたる北條方《ほうでうがた》は、其《そ》の氣勢《きせい》更《さ》らに揚《あが》らなかつた。彼等《かれら》は箱根《はこね》の天嶮《てんけん》を恃《たの》みとする以外《いぐわい》には、只《た》だ秀吉《ひでよし》の退屈《たいくつ》のみを恃《たの》みとした。家康《いへやす》の好意《かうい》のみを恃《たの》みとした。乃《すなは》ち恃《たの》む可《べ》からざるを恃《たの》みとした。
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