第三章 豐臣北條の外交關係
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第三章 豐臣北條の外交關係[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一四】豐臣北條交渉の開始[#中見出し終わり]

日本《にほん》は細長《ほそなが》き國《くに》にて、關西《くわんさい》と關東《くわんとう》とは、自《おのづ》から其《そ》の人情《にんじやう》、風俗《ふうぞく》も同《おな》じからず。從《したが》つて兩者《りやうしや》の間《あひだ》に、往々《わう/\》誤解《ごかい》を免《まぬ》かれ難《がた》き事《こと》が、歴史《れきし》の上《うへ》にて、屡《しばし》ば繰《く》り返《かへ》された。例《れい》せば承久《しようきう》の亂《らん》の如《ごと》きは、京都《きやうと》が鎌倉《かまくら》に對《たい》する觀測《くわんそく》を誤《あやま》つたのだ。元弘《げんこう》、建武《けんぶ》の亂《らん》も、亦《ま》た相互《さうご》の誤解《ごかい》に基《もとづ》くものが多《おほ》かつた。近《ちか》く維新時代《ゐしんじだい》に於《お》ける東北《とうほく》の戰爭《せんさう》も、亦《ま》た職《しよく》として之《これ》に因《よ》ると云《い》はねばならぬ。
乃《すなは》ち北條《ほうでう》對《たい》豐臣《とよよみ》の關係《くわんけい》も、亦《ま》た同樣《どうやう》の理由《りいう》にて、幾分《いくぶん》か説明《せつめい》が能《あた》ふ。要《えう》するに北條《ほうでう》は、遂《つ》ひに秀吉《ひでよし》の何者《なにもの》たるを解《かい》し得《え》なかつた。此《こ》れは北條氏《ほうでうし》君臣《くんしん》の苟且《こうしよ》、偸安《とうあん》、守株《しゆしゆ》、自大《じだい》の罪《つみ》たる勿論《もちろん》であるが、亦《ま》た其《そ》の幾分《いくぶん》は、關東《くわんとう》に割據《かつきよ》して、天下《てんか》の大勢《たいせい》を洞察《どうさつ》する※[#こと、68-11]の能《あた》はなかつた事情《じじやう》をも、諒《りやう》とせねばならぬ。
日本《にほん》の歴史《れきし》を概觀《がいくわん》すれば、反動的運動《はんどうてきうんどう》は、東北《とうほく》よりし、原動的運動《げんどうてきうんどう》は、西南《せいなん》よりする傾向《けいかう》が多《おほ》くある。所謂《いはゆ》る進歩《しんぽ》の風潮《ふうてう》は、西南《せいなん》より東北《とうほく》に及《およ》ぶが、神武東征以來《じんむとうせいいらい》の慣行《くわんかう》の如《ごと》きものであつた。乃《すなは》ち天下《てんか》は既《すで》に統《とう》一の氣運《きうん》に向《むか》ひつゝあるに、北條氏《ほうでうし》は尚《な》ほ割據《かつきよ》を夢《ゆめ》みて居《ゐ》た。されど秀吉《ひでよし》と、北條《ほうでう》との戰爭《せんさう》は、單《たん》に衆《しゆう》と寡《くわ》、大《だい》と小《せう》との戰爭《せんさう》のみならず、大勢《たいせい》と反大勢《はんたいせい》との戰爭《せんさう》であつた。進歩《しんぽ》と保守《ほしゆ》との戰爭《せんさう》であつた。
天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》山崎合戰《やまざきかつせん》より、天正《てんしやう》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》の小田原出征迄《をだはらしゆつせいまで》、未《いま》だ八|年《ねん》に滿《み》たなかつた。然《しか》も此《こ》の時間《じかん》は、日本《にほん》に於《おい》て、驚天動地《きやうてんどうち》の變化《へんくわ》を來《き》たした。其《そ》の變化《へんくわ》の徴象《ちようしやう》は、秀吉《ひでよし》其《そ》の人《ひと》であつた。徳川《とくがは》でも、毛利《まうり》でも、何《いづ》れも汲々《きふ/\》として環境《くわんきやう》に順應《じゆんおう》し、生存《せいぞん》の意義《いぎ》を全《まつた》うせんと勗《つと》めた。而《しか》して單《ひと》り北條氏《ほうでうし》の君臣《くんしん》のみは、依然《いぜん》たる舊時《きうじ》の割據《かつきよ》に執著《しふぢやく》した。否《い》な彼等《かれら》は時勢《じせい》と與《とも》に推移《すゐい》するには、餘《あま》りに強大《きやうだい》であり、而《しか》して其《そ》の強大《きやうだい》が、却《かへ》つて破滅《はめつ》の基《もとゐ》を爲《な》したのだ。憐《あはれ》む可《べ》し、赤手空拳《せきしゆくうけん》、覊旅《きりよ》の一|浪人《らうにん》より、關《くわん》八|州《しう》の主《しゆ》たる基《もとゐ》を開《ひら》きたる早雲《さううん》の、曾孫等《そうそんら》は、既《すで》に箱根山《はこねやま》の岩石《がんせき》と同樣《どうやう》に、化石《くわせき》して了《しま》つた。云《い》はゞ北條氏《ほうでうし》は天正《てんしやう》の末期《まつき》に於《お》ける、偉大《ゐだい》なる化石《くわせき》であつた。
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秀吉《ひでよし》と北條氏《ほうでうし》との交渉《かうせふ》は、天正《てんしやう》十六|年《ねん》四|月《ぐわつ》聚樂行幸後《じゆらくぎやうこうご》、直《たゞ》ちに開始《かいし》せられた。此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りては、絶好《ぜつかう》の機會《きくわい》であつた。中國《ちゆうごく》の毛利《まうり》、九|州《しう》の島津《しまづ》も、既《すで》に服從《ふくじゆう》した。織田信雄《おだのぶを》、徳川家康《とくがはいへやす》も、秀吉《ひでよし》の命《めい》に、獎順《しやうじゆん》す可《べ》く、御前《ごぜん》に盟約《めいやく》した。今《いま》や秀吉《ひでよし》は至尊《しそん》の下《もと》、天下《てんか》第《だい》一|人《にん》として、四|方《はう》に號令《がうれい》す可《べ》き權威《けんゐ》、實力《じつりよく》、及《およ》び其《そ》の名義《めいぎ》を具足《ぐそく》せしめた。彼《かれ》は此《こ》の積勢《せきせい》を擧《あ》げて、北條氏《ほうでうし》の入覲《にふきん》を促《うなが》した。即《すなは》ち天正《てんしやう》十六|年《ねん》五|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》は、富田左近將監《とみたさこんしやうげん》信廣[#「信廣」は1段階小さな文字]、津田隼人正《つだはやとのしやう》信勝[#「信勝」は1段階小さな文字]、及《およ》び僧《そう》妙音院《めうおんゐん》一鴎軒[#「一鴎軒」は1段階小さな文字]を使《つかひ》として、嚴重《げんぢゆう》に沙汰《さた》して曰《いは》く、即今《そくこん》天下《てんか》皆《み》な王土《わうど》たり、王臣《わうしん》たるに、北條氏《ほうでうし》のみは、若干《じやくかん》の國々《くに/″\》を押領《あふりやう》し、終《つひ》に一|度《ど》も上洛《じやうらく》せず、是《こ》れ人臣《じんしん》の道《みち》にあらず、速《すみや》かに入朝《にふてう》して、其《そ》の罪《つみ》を謝《しや》す可《べ》しと。氏政《うぢまさ》は家康《いへやす》にあらず、現時《げんじ》の秀吉《ひでよし》は昔時《せきじ》の秀吉《ひでよし》にあらず。されば其《そ》の曾《かつ》て家康《いへやす》の上洛《じやうらく》を要《もと》めたる態度《たいど》とは、今《いま》や全《まつた》く其《そ》の趣《おもむ》きを殊《こと》にした。
若《も》し北條氏《ほうでうし》の君臣《くんしん》にして、素直《すなほ》に之《これ》を聞《き》き入《い》れなば、其《そ》の全封《ぜんぽう》を把持《はぢ》すると否《いな》とは、姑《しば》らく措《お》き、必《かなら》ず其《そ》の社稷《しやしよく》を全《まつた》うするを得《え》たであらう。秀吉《ひでよし》は北條氏《ほうでうし》を全滅《ぜんめつ》せねばならぬと云《い》ふ程《ほど》に、北條氏《ほうでうし》に宿怨《しゆくえん》もなく、又《ま》た北條氏《ほうでうし》を、恐《おそ》れ且《か》つ憚《はゞか》つて居《を》らなかつたからだ。
然《しか》るに氏政《うぢまさ》は、病《やまひ》の爲《た》めに、軍國《ぐんこく》の大事《だいじ》は悉《こと/″\》く氏直《うぢなほ》に讓《ゆづ》り渡《わた》したが、即今《そくこん》は多事《たじ》である。兎《と》も角《かく》も二|年《ねん》の後《のち》には、之《これ》を片付《かたづ》け、上洛《じやうらく》せんと答《こた》へた。此《こ》れは申《まを》す迄《まで》もなく、婉言《ゑんげん》以《もつ》て上洛《じやうらく》を拒《こば》んだのだ。されど使者等《ししやら》は、之《これ》を強要《きやうえう》した。閏《うるふ》五|月《ぐわつ》、氏直《うぢなほ》は使《つかひ》を駿府《すんぷ》に馳《は》せて、家康《いへやす》に其《そ》の調停《てうてい》を請《こ》うた。此《こゝ》に於《おい》て氏政《うぢまさ》は、十二|月《ぐわつ》を以《もつ》て、入覲《にふきん》す可《べ》きを約《やく》した。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
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拙者《せつしや》父子《ふし》一人《いちにん》、|可[#レ]令[#二]上洛[#一]旨《じやうらくせしむべきむね》、御兩使《ごりやうし》(富田、津田)[#「(富田、津田)」は1段階小さな文字]御談説之條々《ごだんせつのでう/\》、具《つぶさに》得心仕候《とくしんつかまつりさふらふ》。然者《しかれば》老父《らうふ》氏政《うぢまさ》|可[#レ]致[#二]上洛[#一]由《じやうらくいたすべきよし》申候《まをしさふらふ》。年内者《ねんないは》|雖[#下]可[#レ]爲[#二]無調[#一]候[#下]《むてうたるべくさふらふといへども》、涯分《がいぶん》|令[#二]支度[#一]《したくせしめ》、極月《ごくげつ》上旬《じやうじゆん》、爰元《こゝもと》|可[#レ]致[#二]發足[#一]候《ほつそくいたすべくさふらふ》。委細《ゐさい》直《たゞち》に|可[#二]申述[#一]候《まをしのぶべくさふらふ》、|可[#レ]然樣《しかるべきやう》頼入候《たのみいりさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
  六月廿一日(天正十六年)[#「(天正十六年)」は1段階小さな文字]
[#地から3字上げ]氏直(華押)
   妙音院一鴎軒
[#ここで字下げ終わり]
若《も》し此《こ》の約束通《やくそくどほ》りに、實行《じつかう》したならば、北條氏《ほうでうし》として極《きは》めて安全《あんぜん》、堅實《けんじつ》なる保家策《ほかさく》であつたらう。家康《いへやす》と氏直《うぢなほ》とは、舅《しうと》と聟《むこ》との間柄《あひだがら》である。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》の面目《めんもく》に對《たい》するのみにても、決《けつ》して北條氏《ほうでうし》に無理《むり》、難題《なんだい》を強《し》ふる譯《わけ》には參《まゐ》らなかつたであらう。

[#5字下げ][#中見出し]【一五】氏規の上京[#中見出し終わり]

家康《いへやす》は中心《ちゆうしん》北條氏《ほうでうし》の爲《た》めに、謀《はか》つたに相違《さうゐ》あるまい。彼《かれ》は必《かなら》ずしも氏直《うぢなほ》が、其《そ》の聟《むこ》たるが故《ゆゑ》のみならず、北條氏《ほうでうし》を存置《そんち》することは、彼自身《かれじしん》に取《と》りて、決《けつ》して不利益《ふりえき》ではなかつた。北條氏《ほうでうし》の亡《ほろ》ぶるは、彼《かれ》に取《と》りては、唇《くちびる》亡《ほろ》びて齒《は》寒《さむ》しの感《かん》なき能《あた》はぬ。徳川《とくがは》と北條《ほうでう》とは、互《たが》ひに相依《あひよ》り相頼《あひよ》りて、不言《ふげん》の裡《うち》に秀吉《ひでよし》なる一|大勢力《だいせいりよく》の壓迫《あつぱく》を支持《しぢ》するが、兩家《りやうけ》相互《さうご》の長計《ちやうけい》であつたことは、家康《いへやす》の蚤《つと》に識認《しきにん》した所《ところ》だ。然《しか》も北條《ほうでう》一|家《け》は、時勢《じせい》に全《まつた》く盲目《まうもく》であつた。彼等《かれら》は歩《ほ》一|歩《ほ》、秀吉《ひでよし》の待《ま》ち設《まう》けたる罠《わな》の中《うち》に、自《みづ》から陷《おちい》りつゝ行《ゆ》いたのであつた。
天正《てんしやう》十六|年《ねん》八|月《ぐわつ》、氏直《うぢなほ》は其《そ》の叔父《しゆくふ》北條氏規《ほうでううぢのり》をして、上京《じやうきやう》せしめた。此《こ》れは家康《いへやす》の取成《とりなし》によつたことゝ思《おも》はる。彼《かれ》は其《そ》の小時《せうじ》家康《いへやす》と與《とも》に、駿河《するが》の今川氏《いまがはし》に質《ち》となり、爾來《じらい》家康《いへやす》とは親善《しんぜん》の間柄《あひだがら》であつた。近時《きんじ》徳川《とくがは》、北條《ほうでう》の協和《けふわ》も、彼《かれ》の周旋《しうせん》に因《よつ》て出來《しゆつたい》した。されば此《こ》の際《さい》、彼《かれ》は家康《いへやす》を介《かい》して、北條《ほうでう》對《たい》豐臣《とよとみ》の情意《じやうい》を疎通《そつう》する使者《ししや》として、出掛《でか》けたのだ。彼《かれ》は途次《とじ》駿河《するが》に到《いた》つたが、家康《いへやす》既《すで》に上洛中《じやうらくちゆう》であつたから、徳川家《とくがはけ》の士《し》、榊原康政《さかきばらやすまさ》を伴《ともな》ひ入京《にふきやう》し、同月《どうげつ》二十二|日《にち》、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。此《こ》れは從來《じゆうらい》北條家《ほうでうけ》無沙汰《ぶさた》の謝罪《しやざい》を兼《かね》て、更《さら》に訴《うつた》ふる所《ところ》あらん爲《た》めであつた。
氏規《うぢのり》は家兄《かけい》氏政《うぢまさ》、本年末《ほんねんまつ》には入覲《にふきん》す可《べ》く約束《やくそく》したが、其《そ》の以前《いぜん》に、上州《じやうしう》沼田《ぬまた》に關《くわん》して、眞田昌幸《さなだまさゆき》と爭議《さうぎ》の決裁《けつさい》を仰《あふ》ぎたしと陳述《ちんじゆつ》した。此《こ》れは氏政《うぢまさ》に入覲《にふきん》の眞意《しんい》なく、只《た》だ事《こと》に托《たく》して、其《そ》の時日《じじつ》を遷延《せんえん》し、形勢《けいせい》を歡望《くわんばう》せんとの下心《したごゝろ》であつたかも知《し》れぬ。又《ま》た眞《しん》に沼田問題《ぬまたもんだい》を重大事件視《ぢゆうだいじけんし》したかも知《し》れぬ。但《た》だ要《えう》するに北條氏《ほうでうし》が刻《こく》一|刻《こく》、其《そ》の危險區域《きけんくゐき》に踏《ふ》み込《こ》むことを、自《みづ》から氣付《きづ》かなかつたことは、笑止《せうし》千|萬《ばん》の事《こと》であつた。
沼田問題《ぬまたじけん》は既記《きき》の如《ごと》く〔參照 豐臣氏時代甲篇、九六、徳川と眞田(一)〕[#「〔參照 豐臣氏時代甲篇、九六、徳川と眞田(一)〕」]は1段階小さな文字]徳川《とくがは》、北條《ほうでう》、眞田《さなだ》三|方《ばう》の葛藤事件《かつとうじけん》であつた。本能寺事變後《ほんのうじじへんご》、徳川《とくがは》、北條《ほうでう》、何《いづ》れも火事場泥棒《くわじばどろばう》と出掛《でか》け、家康《いへやす》は甲州《かふしう》を占領《せんりやう》し、信州《しんしう》に手《て》を掛《か》け、氏直《うぢなほ》は上州《じやうしう》より甲州《かふしう》に入《い》り、互《たが》ひに若神子《わかみこ》に對峙《たいぢ》した。昌幸《まさゆき》は武田氏《たけだし》の將《しやう》であつたが、武田氏《たけだし》沒落後《ぼつらくご》は、或《あるひ》は上杉《うへすぎ》に、或《あるひ》は北條《ほうでう》に、而《しか》して徳川《とくがは》に屬《ぞく》し、武力《ぶりよく》に任《まか》せ、切取《きりとり》を逞《たくまし》うした。爾後《じご》北條《ほうでう》、徳川《とくがは》和親《わしん》を講《かう》じ、甲信《かふしん》二|州《しう》を徳川《とくがは》に、上野《かうづけ》全部《ぜんぶ》を北條《ほうでう》に、互《たが》ひに其《そ》の勢圜《せいくわん》を劃定《くわくてい》した。
必然《ひつぜん》の結果《けつくわ》として、眞田《さなだ》の據守《きよしゆ》する上州《じやうしう》沼田《ぬまた》を、北條《ほうでう》に渡《わた》す可《べ》く、徳川《とくがは》より諭《さと》したが、眞田《さなだ》は其《そ》の命《めい》を奉《ほう》ぜざるのみならず、却《かへ》つて是《これ》が爲《た》めに、家康《いへやす》を去《さ》りて、秀吉《ひでよし》に内屬《ないぞく》した。此《こゝ》に於《おい》て天正《てんしやう》十三|年《ねん》八|月《ぐわつ》、氏直《うぢなほ》沼田《ぬまた》を攻《せ》めて克《か》たず、其《そ》の閏《うるふ》[#ルビの「うるふ」は底本では「うふる」]八|月《ぐわつ》、家康《いへやす》亦《ま》た眞田《さなだ》の本據《ほんきよ》上田《うへだ》を攻《せ》めて、大敗《たいはい》した。〔參照 豐臣氏時代甲篇、九七、徳川と眞田(二)〕[#「〔參照 豐臣氏時代甲篇、九七、徳川と眞田(二)〕」]
其《そ》の翌年《よくねん》家康《いへやす》再《ふたゝ》び上田《うへだ》を攻《せ》めんとしたが、秀吉《ひでよし》の調停《てうてい》によりて、其《そ》の八|月《ぐわつ》、昌幸《まさゆき》と和睦《わぼく》した。徳川《とくがは》對《たい》眞田《さなだ》の葛藤《かつとう》は、此《こ》れで解決《かいけつ》したが、北條《ほうでう》對《たい》眞田《さなだ》の葛藤《かつとう》は、依然《いぜん》として今日《こんにち》に至《いた》つたのだ。そこで氏規《うぢのり》は、先《ま》づ此《こ》の問題《もんだい》の解決《かいけつ》を秀吉《ひでよし》に乞《こ》うたのである。
秀吉《ひでよし》は聊《いさゝ》かとぼけつゝ、其《そ》の事《こと》は徳川《とくがは》、北條《ほうでう》境目《さかひめ》の論《ろん》で、此方《こちら》にて、一|向《かう》に詳知《しやうち》せぬ。兎《と》も角《かく》も當該《たうがい》關係者《くわんけいしや》を上京《じやうきやう》せしめよ、追《おつ》て審議《しんぎ》の上《うへ》、沙汰《さた》す可《べ》しと答《こた》へ、氏規《うぢのり》を厚待《こうたい》し、之《これ》を還《かへ》らしめた。斯《か》くて秀吉《ひでよし》は再《ふたゝ》び十一|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》、妙音院《めうおんゐん》を小田原《をだはら》に遣《つかは》し、氏政《うぢまさ》の上洛《じやうらく》を促《うなが》した。家康《いへやす》も亦《ま》た朝比奈泰勝《あさひなやすかつ》を副《そ》へて、之《これ》を慫慂《しようよう》した。然《しか》も小田原《をだはら》には、何等《なんら》の影響《えいきやう》もなかつた。彼等《かれら》は尚《な》ほ泰平《たいへい》を夢《ゆめ》みて居《ゐ》たらしかつた。何《なん》となれば、秀吉《ひでよし》は未《いま》だ其《そ》の天鵞絨《びろーど》の手袋《てぶくろ》を、脱《ぬ》がなかつたから。
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[#6字下げ]秀吉氏規の對面
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[#ここから2字下げ]
關八州の押領使北條左京大夫氏政より、舍弟美濃守氏規を上京させらる。是は秀吉公より誰なりとも一族の内第一辯智の人を登せ給ふべし、心底の程を明さんとの事なれば、此氏規進退辯智兼備して然も勇將誠に當家の人傑なり、此故に今度上洛なりしが、日限定りて聚樂の亭へ登り給ふ所に、毛利、吉川、島津、大友を初め、畿内、中國、西國の諸侯、或は黄門、相公、羽林、拾遺の歴々たる官、或は四位五位に叙し、各※[#二の字点、1-2-22]狩衣大紋を飾り袖を聯ねて群集し、其粧ひ鳳闕も斯くは在らんと覺る計り、巍々たる有樣なるに、氏規は其頃の邊土遠國の風俗は、尚ほ大永天文の餘習にて叙爵なくして、美濃守と稱しければ、中々其儘に名乘事叶はず、北條助五郎氏規と披露にて、侍烏帽子に素袍を着し、進退正しけれども、遙に末座に蹲居し、誠に目も當られぬ體、雄辯と云ふとも一言を出す事叶はず、殿下は上段に座し默禮までなれば氏規スゴ/\と退出し、宿を頼みける寺院へ歸り、家僕に向ひて、扨々無念の至なり、田舍武士の悲しさは、斯の如き巍々たる事を察せず上京し、面目も無き體、此樣體にては氏政上りたればとて何の益か有べきと、打歎きて居られける所に、上樣御成と詈る、何事を言ふにや、亂心いたしけるかと怒り給ふ時に、ハヤ是迄渡らると呼ぶ。即ち氏規素袍を着し、迎へ奉る時に、殿下宣ひけるは、北條殿關八州を押領し、朝廷を輕しめ參内なく王土に住て恁る振舞豈無道ならずや、利害を説て上京を勸めん爲めに、一族の内黒白を分つべき人傑を登せ給へと申送る、折から貴客撰出されて上京あり、誠に武勇と云ひ才智と云ひ、坂東の衆傑たる由、都までも隱れ無く、今度の對面、大幸何事か是に如かんや、然れども今日登營の折から人に貴賤あり、是官位の二口を分つ故なり、無位無官の御邊へ禮を盡さん樣なし、定めて心外に有べきか、其れは北條家の人々王威を輕しめて分國へ寓居ある故其損ならずや、能々思惟あるべしと、慇懃に利害を説給ふ體、唐土の辯者も是程には非らじ、偖も丁寧なる大將やと、肝に銘するばかりなりとぞ。氏規元來義あり信あり、物にも動せね猛將ゆへ、押返し申しけるは、仰の趣逐一理に叶ひ委曲氏政父子信服仕るべき樣に申聞すべきなり、只今の仰誠に仁愛とや申すべき、丁寧慇懃の御諚謝すべき所なし、左り乍ら、萬一氏政父子愈※[#二の字点、1-2-22]上洛仕らず無事破れ候て、關東へ御進發の節は、如何樣に御諚忝きとても親族昆弟を離れ、御内通などは存寄ざるものなり、氏規必ず先鋒として※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]矢《さびや》を奉らんと言上す。殿下打笑ひ何條此事の破るべき、其れは貴方の働次第なり、宜しきに計らひ取り上洛を勸め給へと、猶々慇懃を盡し歸られける。此事既に隱れなかりしかども、下心には氏規上方へ一味やすると、愚將の悲しさは、氏政父子狐疑し給ふとかや。氏規御年の義戰一族の誓を忘れぬ體、天晴義勇の英將なり。〔續武家閑談〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【一六】沼田事件[#中見出し終わり]

氏政《うぢまさ》の上京期《じやうきやうき》たる、天正《てんしやう》十六|年《ねん》十二|月《ぐわつ》も、空《むな》しく暮《く》れて、翌《よく》十七|年《ねん》の春《はる》、北條氏《ほうでうし》は、沼田事件《ぬまたじけん》に就《つい》て、具申《ぐしん》せしむ可《べ》く、其《そ》の士《し》板部岡江雪齋《いたべをかかうせつさい》を上京《じやうきやう》せしめた。秀吉《ひでよし》は其《そ》の申分《まをしぶん》を、詳《つまびら》かに聞《き》き、裁決《さいけつ》を與《あた》へた。沼田《ぬまた》三|萬石《まんごく》の三|分《ぶん》の二は、北條《ほうでう》に與《あた》ふ可《べ》し、其《そ》の一|分《ぶ》名胡桃《なくるみ》は、眞田《さなだ》墳墓《ふんぼ》の在《あ》る地《ち》なれば、其《そ》の儘《まゝ》眞田領《さなだりやう》たる可《べ》し。眞田《さなだ》の代地《かへち》は、追《おつ》て徳川《とくがは》より償《つぐな》はしむ可《べ》し、因《よつ》て氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》、何《いづ》れか速《すみや》かに期《き》を定《さだ》めて入朝《にふてう》せよ。且《か》つ一|書《しよ》を致《いた》して、其《そ》の證《しよう》とせよと。
此《こ》れは北條家《ほうでうけ》に取《と》りては、洵《まこと》に寛大《くわんだい》の沙汰《さた》であつた。北條《ほうでう》たるもの、宜《よろ》しく此《こ》の機《き》を捉《とら》へ、家康《いへやす》を保障者《ほしやうしや》として、秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》す可《べ》きであつた。然《しか》も彼等《かれら》は尚《な》ほ五|里霧中《りむちゆう》であつた。
氏直《うぢなほ》は江雪齊《かうせつさい》の復命《ふくめい》により、父《ちゝ》氏政《うぢまさ》本年《ほんねん》十二|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、上洛《じやうらく》す可《べ》しとの一|札《さつ》を差《さ》し出《いだ》した。仍《よつ》て秀吉《ひでよし》は富田智信《とみだとものぶ》、津田信勝《つだのぶかつ》を、信州《しんしう》上田《うへだ》に遣《つか》はし、眞田《さなだ》を諭《さと》して、沼田《ぬまた》分割《ぶんかつ》の事《こと》を處理《しより》せしめた。氏直《うぢなほ》は愈《いよい》よ其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》し、其《そ》の叔父《しゆくふ》北條氏邦《ほうでううぢくに》をして、之《これ》を管《くわん》せしめた。氏邦《うぢくに》は其《そ》の部下《ぶか》猪俣範直《ゐのまたのりなほ》を、此《こ》れが城代《じやうだい》とした。
當時《たうじ》關東《くわんとう》、東北《とうほく》の形勢《けいせい》は、既《すで》に北條氏《ほうでうし》を去《さ》りて、秀吉《ひでよし》に就《つ》いた。同年《どうねん》八|月《ぐわつ》、常陸《ひたち》下妻《しもづま》の城主《じやうしゆ》多賀谷量經《たがやしげつね》、同《どう》下館《しもだて》の城主《じやうしゆ》水谷勝俊《みづたにかつとし》は、書《しよ》を秀吉《ひでよし》に上《たてまつ》りて、秀吉《ひでよし》の東征《とうせい》を促《うなが》した。曰《いは》く北條氏《ほうでうし》の暴戻《ばうれい》も、今《いま》や極《きはま》つた、宜《よろ》しく御出馬《ごしゆつば》あれ、我等《われら》先鋒《せんぽう》たらんと。然《しか》も秀吉《ひでよし》は之《これ》を慰撫《ゐぶ》して曰《いは》く、北條《ほうでう》父子《ふし》既《すで》に降參《かうさん》した。將《ま》さに監使《かんし》を發《はつ》して、關東《くわんとう》、東北《とうほく》の處理《しより》を爲《な》さんとす、宜《よろ》しく其《そ》の到著《たうちやく》を待《ま》てと。同時《どうじ》に常陸《ひたち》太田《おほた》の城主《じやうしゆ》佐竹義重《さたけよししげ》、及《およ》び同年《どうねん》六|月《ぐわつ》、伊達政宗《だてまさむね》に追《お》はれて、會津《あひづ》を逃亡《たうばう》し、〔參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡〕[#「〔參照 本篇一〇、蘆名氏の滅亡〕」は1段階小さな文字]今《いま》や其《そ》の身《み》を父《ちゝ》義重《よししげ》の許《もと》に寄《よ》せつゝある、蘆名義廣《あしなよしひろ》も亦《ま》た重經《しげつね》に託《たく》して、書《しよ》を秀吉《ひでよし》に贈《おく》り、其《そ》の東征《とうせい》を促《うなが》した。其《そ》の他《た》出羽《では》米澤《よねざは》より、即今《そくこん》會津《あひづ》の黒川《くろかは》に移《うつ》りたる、伊達政宗《だてまさむね》、陸奧《むつ》三戸城主《さんのへじやうしゆ》南部信直《なんぶのぶなほ》、下總《しもふさ》結城城主《ゆふきじやうしゆ》結城晴朝《ゆふきはるとも》、安房《あは》館山城主《たてやまじやうしゆ》里見義康《さとみよしやす》、下野《しもつけ》烏山城主《からすやまじやうしゆ》那須資晴《なすすけはる》、下野《しもつけ》宇都宮城主《うつのみやじやうしゆ》宇都宮國綱《うつのみやくにつな》、出羽《では》山形城主《やまがたじやうしゆ》最上義光等《もがみよしあきら》、何《いづ》れも去年以來《きよねんいらい》、秀吉《ひでよし》に書聘《しよへい》を通《つう》じ、恭順《きようじゆん》の意《い》を致《いた》した。
斯《かゝ》る周邊《しうへん》の形勢《けいせい》に氣付《きづ》かず、北條《ほうでう》一|家《け》が、徒《いたづ》らに箱根《はこね》の天嶮《てんけい》を恃《たの》みとし、秀吉《ひでよし》の來《きた》らざるを恃《たの》みとし、家康《いへやす》の親類《しんるゐ》たるを恃《たの》みとし、尚《な》ほ左牴右牾《さていうご》、容易《ようい》に其《そ》の約束《やくそく》を實行《じつかう》しなかつたのは、如何《いか》にも自《みづ》から覆滅《ふくめつ》を招《まね》く所以《ゆゑん》であつたと云《い》はねばならぬ。
然《しか》るに更《さら》に茲《こゝ》に一の難題《なんだい》が出來《しゆつたい》した。沼田《ぬまた》の城代《じやうだい》猪俣範直《ゐのまたのりなほ》は、武藏《むさし》七|黨《たう》の一|員《ゐん》で、固《もと》より關白《くわんぱく》秀吉《ひでよし》あるを知《し》らぬ、所謂《いはゆ》る生《は》え拔《ぬ》きの關東武者《くわんとうむしや》であつた。されば北條家《ほうでうけ》年來《ねんらい》の望《のぞ》みの地《ち》たる沼田《ぬまた》を受取《うけと》り、上野《かうづけ》一|國《こく》全《まつた》く其《そ》の手《て》に入《はい》つたに、單《ひと》り吾妻郡《あがつまごほり》の名胡桃《なくるみ》のみ、其《そ》の支配《しはい》に漏《も》るゝこと、如何《いか》にも口惜《くちを》しき次第《しだい》なれば、所詮《しよせん》乘取《のつと》るに若《し》かずと、同年《どうねん》十|月《ぐわつ》手勢《てぜい》を率《ひき》ゐて、之《これ》に押寄《おしよ》せ、眞田《さなだ》留守居《るすゐ》の番兵《ばんぺい》を打《う》ち散《ち》らし、遮《しや》二|無《む》二|之《これ》を奪《うば》ひ取《と》つた。是《こゝ》に於《おい》て眞田昌幸《さなだまさゆき》は、其《そ》の情報《じやうはう》を秀吉《ひでよし》に致《いた》し、同月《どうげつ》二十九|日《にち》、京都《きやうと》聚樂第《じゆらくだい》に達《たつ》した。秀吉《ひでよし》は北條《ほうでう》の不信《ふしん》、無状《むじやう》を怒《いか》り、十一|月《ぐわつ》初旬《しよじゆん》、大谷吉繼《おほたによしつぐ》を家康《いへやす》に遣《つか》はし、最後《さいご》の決心《けつしん》を示《しめ》した。
此《こ》の事《こと》たるや、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、縱令《たとひ》意中《いちゆう》の事《こと》ではなかつたにせよ、決《けつ》して苦痛《くつう》の事《こと》ではなかつた。秀吉《ひでよし》の力《ちから》を以《もつ》てすれば、北條《ほうでう》を征伐《せいばつ》するは、決《けつ》して一六|勝負《しようぶ》の冐險《ばうけん》ではない。否《い》な北條《ほうでう》を懷柔《くわうじう》すれば、手數《てすう》はかゝらぬが、北條《ほうでう》の積威《せきゐ》は、依然《いぜん》として存續《そんぞく》し、然《しか》も北條《ほうでう》、徳川《とくがは》親姻《しんゐん》の間柄《あひだがら》で、左牴右挈《さていいうけい》する場合《ばあひ》には、秀吉《ひでよし》に取《と》りて、決《けつ》して油斷《ゆだん》は出來《でき》ぬ。此《こ》の際《さい》に寧《むし》ろ北條《ほうでう》を叩《たゝ》き潰《つぶ》せば、其《そ》の憂《うれひ》なきのみならず、北條《ほうでう》の領地《りやうち》、三百|萬石弱《まんごくじやく》は、宙《ちう》に浮《うか》み來《きた》る譯《わけ》だ。
されば秀吉《ひでよし》の爲《た》めに謀《はか》れば、懷柔《くわいじう》は下策《げさく》で、征伐《せいばつ》が上策《じやうさく》であつたに相違《さうゐ》ない。但《た》だ如何《いか》に關白《くわんぱく》の威光《ゐくわう》を以《もつ》てしても、出師《すゐし》の名義《めいぎ》なきが心配《しんぱい》であつた。然《しか》るに今《いま》や北條《ほうでう》は、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、自《みづ》から其《そ》の名義《めいぎ》を提供《ていきよう》した、機敏《きびん》なる秀吉《ひでよし》、如何《いか》でか之《これ》を攫《つか》まざる可《べ》き。彼《かれ》は電光《でんくわう》の如《ごと》く、直《たゞ》ちに之《これ》に乘《じよう》じた。此《こ》れが則《すなは》ち手切文書《てぎれぶんしよ》の發表《はつぺう》である。

[#5字下げ][#中見出し]【一七】手切文書[#中見出し終わり]

當時《たうじ》氏直《うぢなほ》の使者《ししや》石卷康敬《いしのまきやすよし》は、入京《にふきやう》し、彌《いよい》よ秀吉《ひでよし》東征《とうせい》の風説《ふうせつ》を聞《き》き、石田《いしだ》三|成等《なりら》に頼《よ》りて、秀吉《ひでよし》に見《まみ》え、名胡桃《なくるみ》の一|件《けん》を分疏《ぶんそ》せんとしたが、秀吉《ひでよし》は謁見《えつけん》を許《ゆる》さず、之《こ》れを拘禁《こうきん》した。斯《か》くて天正《てんしやう》十七|年《ねん》十一|月《ぐわつ》二十四|日《か》、秀吉《ひでよし》は北條《ほうでう》と手切《てぎれ》の文書《ぶんしょ》を作《つく》り、新莊直頼《しんじやうなほより》を駿府《すんぷ》に遣《つか》はし、家康《いへやす》の手《て》を經《へ》て、之《こ》れを氏直《うぢなほ》に傳達《でんたつ》せしめた。
此《こ》の手切文書《てぎれぶんしよ》は當時《たうじ》の外交文書《ぐわいかうぶんしよ》として、最《もつと》も事理明白《じりめいはく》、委曲周到《ゐきよくしうたう》の一だ。乃《すなは》ち信長《のぶなが》の義昭《よしあき》に與《あた》へたる諫書《かんしよ》〔參照 織田氏時代前篇、九四、九五、所謂る信長の諫書(一、二)〕[#「〔參照 織田氏時代前篇、九四、九五、所謂る信長の諫書(一、二)〕」は1段階小さな文字]と共《とも》に、最《もつと》も秀逸《しういつ》の作《さく》と云《い》はねばならぬ。兩書共《りやうしよとも》に其《そ》の相手《あひて》は足利義昭《あしかゞよしあき》であり、北條氏直《ほうでううぢなほ》であつたが、其《そ》の目的《もくてき》は、何《いづ》れも天下《てんか》に向《むか》つて、其《そ》の罪《つみ》を鳴《なら》すにあつた。秀吉《ひでよし》は之《これ》を北條《ほうでう》に傳達《でんたつ》すると同時《どうじ》に、普《あま》ねく其《そ》の寫《うつし》を關東《くわんとう》、東北《とうほく》、中國《ちゆうごく》、九|州等《しうとう》の諸大名等《しよだいみやうら》に送《おく》つたのを見《み》れば、其《そ》の目的《もくてき》の存《そん》する所《ところ》は、固《もと》より知《し》る可《べ》しだ。
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       條々《でう/\》
一 北條事《ほうでうこと》、近年《きんねん》|蔑[#二]公儀[#一]《こうぎをさげすみ》|不[#レ]能[#二]上洛[#一]《じやうらくするあたはず》、殊《ことに》|於[#二]關東[#一]《くわんとうにおいて》|任[#二]雅意[#一]《がいにまかせ》(我意)[#「(我意)」は1段階小さな文字]狼藉之條《らうぜきのでう》、|不[#レ]及[#二]是非[#一]《ぜひにおよばず》、而《しかして》去年《きよねん》(天正十六年)[#「(天正十六年)」は1段階小さな文字]|可[#レ]被[#レ]加[#二]御誅罰[#一]處《ごちゆうばつをくはへらるべきのところ》、駿河大納言家康卿《するがだいなごんいへやすきやうの》|依[#レ]爲[#二]縁者[#一]《えんじやたるにより》、種々《しゆ/″\》懇望候間《こんもうさふらふあひだ》、|以[#二]條數[#一]《でんすうをもつて》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふら》へば、御請申付而《おうけまをしつけて》、|被[#レ]成[#二]御赦免[#一]《ごしやめんなされ》、則《すなはち》美濃守《みのゝかみ》(北條氏規)[#「(北條氏規)」は1段階小さな文字]罷上《まかりのぼり》、御禮申候事《おんれいまをしさふらふこと》。
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是《こ》れ冐頭《ばうとう》北條《ほうでう》不臣《ふしん》の罪《つみ》を鳴《なら》し、然《しか》も家康《いへやす》の親類《しんるゐ》たるに依《よ》りて、宥恕《いうじよ》したる所以《ゆゑん》を明《あき》らかにした。此《こ》の文章中《ぶんしよちゆう》に、家康《いへやす》に關《くわん》する點《てん》は、最《もつと》も秀吉《ひでよし》の意《い》を致《いた》したる所《ところ》だ。蓋《けだ》し家康《いへやす》は、北條《ほうでう》の身許引受人《みもとひきうけにん》の姿《すがた》であつたからだ。
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一 先年《せんねん》家康《いへやす》|被[#二]相定[#一]條數《あひさだめられしでうすう》、家康《いへやす》表裏之樣《へうりのやう》に申上候間《まをしあげさふらふあひだ》、美濃守《みのゝかみ》|被[#レ]成[#二]御對面[#一]《ごたいめんなされ》、上《かみ》は境目等《さかひとう》の儀《ぎ》、|被[#二]聞召屆[#一]《きこしめしとゞけられ》、有樣《ありやう》に|可[#レ]被[#二]仰付[#一]候間《おほせつけらるべくさふらふあひだ》、家之朗徒《いへのらうと》差越候《さしこしさふら》へと|被[#二]仰出[#一]處《おほせいだされしところ》、江雪《かうせつ》(板部岡江雪齋)[#「(板部岡江雪齋)」は1段階小さな文字]差上訖《さしのぼせをはんぬ》。家康《いへやす》|與[#二]北條[#一]《ほうでうと》國切之約諾儀《くにぎれのやくだくのぎ》、如何《いかゞ》と御尋候處《おたづねさふらふところ》に、其意趣者《そのいしゆは》、甲斐《かひ》信濃之中《しなののうち》、城々《しろ/″\》は家康《いへやす》手柄次第《てがらしだい》|可[#レ]被[#二]申付[#一]《まをしつけらるべく》、上野之中《かうづけのうち》は、北條《ほうでう》|可[#レ]被[#二]申付[#一]候由《まをしつけらるべくさふらふよし》相定《あひさだめ》、甲信《かふしん》兩國《りようこく》は、則《すなはち》家康《いへやす》に申付候《まをしつけさふらふ》。上野《かうづけ》沼田儀《ぬまたのぎ》は、北條《ほうでう》|不[#レ]及[#二]自力[#一]《じりきおよばず》、却而《かへつて》家康《いへやす》相違之樣《さうゐのやう》申成《まをしなし》、|寄[#二]事於左右[#一]《ことをさいうによせ》、北條《ほうでう》出仕《しゆつし》迷惑之旨《めいわくのむね》申上候《まをしあげさふらふ》かと、|被[#二]召食[#一]《おぼしめされ》、|於[#二]其儀[#一]者《そのぎにおいては》、沼田《ぬまた》|可[#レ]被[#レ]下候《くださるべくさふらふ》。|乍[#レ]去《さりながら》上野《かうづけ》のうち、眞田《さなだ》持來候《もちきたりさふらふ》知行《ちぎやう》三|分《ぶんの》二、沼田城《ぬまたじやう》に相付《あひつけ》、北條《ほうでう》に|可[#レ]被[#レ]下候《くださるべくさふらふ》。三|分《ぶん》の一は眞田《さなだ》に|被[#二]仰付[#一]候條《おほせつけられさふらふでう》、其中《そのなか》に|有[#レ]之城《これあるしろ》は、眞田《さなだ》に|可[#二]相拘[#一]之由《あひかゝはるべくのよし》、|被[#二]仰定[#一]《おほせさだめられ》、右之北條《みぎのほうでう》|被[#レ]下候《くだされさふらふ》三|分《ぶんの》二|之替地《のかへち》は、家康《いへやす》より眞田《さなだ》に|可[#二]相渡[#一]旨《あひわたすべきむね》、|被[#レ]成[#二]御究[#一]《おんきはめなされ》、北條《ほうでう》|上洛可[#レ]仕《じやうらくつかまつるべし》との一|札《さつ》出候者《いだしさふらふは》、則《すなはち》|被[#レ]差[#二]遣御上使[#一]《ごじやうしをさしつかはされ》、沼田《ぬまた》|可[#二]相渡[#一]旨《あひわたすべきむね》、|被[#二]仰出[#一]《おほせいだされ》、江雪《かうせつ》|被[#二]返下[#一]候事《かへしくだされさふらふこと》。
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此《こ》の一|項《かう》は、北條氏《ほうでうし》と交渉《かうせふ》の顛末《てんまつ》を敍《じよ》したるものだ。一|字《じ》一|句《く》苟《いやしく》もせず、北條《ほうでう》が我意《がい》に募《つの》りて、秀吉《ひでよし》が枉《ま》げて之《これ》を聽納《ちやうなふ》したる事情《じじやう》分明《ぶんみやう》だ。特《とく》に北條《ほうでう》が自力《じりき》にて、沼田城《ぬまたじやう》を拔《ぬ》く能《あた》はざるを反省《はんせい》せず、却《かへ》つて其《そ》の姻戚《いんせき》徳川《とくがは》を誣《し》ひて、違約《ゐやく》となすの不都合《ふつがふ》を指摘《してき》したる點《てん》は、頗《すこぶ》る痛快《つうくわい》だ。
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一 當年《たうねん》極月《ごくげつ》上旬《じやうじゆん》、氏政《うぢまさ》|可[#レ]致[#二]出仕[#一]之旨《しゆつしいたすべきのむね》、御請之《おうけの》一|札《さつ》進上候《しんじやうさふらふ》。|依[#レ]之《これにより》|被[#三]差[#二]遺津田隼人正、富田左近將監[#一]《つだはやとのしやうとみたさこんしやうげんをさしつかはされ》、沼田《ぬまた》|被[#二]渡下[#一]候事《わたしくだされさふらふこと》。
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是《こ》れも前項《ぜんかう》より引《ひ》き續《つゞ》きたる事實《じじつ》の直叙《ちよくじよ》だ。
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一 沼田《ぬまた》要害《えうがい》請取候上《うけとりさふらふうへ》は、右《みぎ》の一|札《さつ》に相任《あひまかせ》、則《すなはち》|可[#二]罷上[#一]《まかりのぼるべし》と|被[#二]思食[#一]候處《おぼしめされさふらふところ》、眞田《さなだ》相抱《あひかゝはる》なくるみ(名胡桃)[#「(名胡桃)」は1段階小さな文字]の城《しろ》を取《とり》、表裏仕候上《へうりつかまつりさふらふうへ》は、使者《ししや》(石卷康敬)[#「(石卷康敬)」は1段階小さな文字]に|非[#レ]可[#レ]被[#レ]成[#二]御對面[#一]候《ごたいめんなさるべきにあらずさふらふ》。彼使《かのつかひ》|雖[#レ]可[#レ]及[#二]生害[#一]《しやうがいにおよぶべしといへども》、|助[#レ]命《いのちをたすけ》返遣候事《かへしつかはしさふらふこと》。
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讀《よ》み來《きた》りて人《ひと》をして、北條《ほうでう》が如何《いか》なる態度《たいど》に出《い》づ可《べ》きかを想《おも》はしめたに、却《かへ》つて此《かく》の如《ごと》き歸結《きけつ》となつた。北條《ほうでう》の不信《ふしん》も、此《こゝ》に至《いた》りて辯解《べんかい》の餘地《よち》がない。天下《てんか》何人《なんぴと》か敢《あへ》て北條《ほうでう》に同情《どうじやう》するものあらんやだ。
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一 秀吉《ひでよし》若輩之時《じやくはいのとき》、孤《みなしご》と成《なり》て、信長公《のぶながこうの》|屬[#二]幕下[#一]《ばくかにぞくし》、身《み》を山野《さんや》に捨《すて》、骨《ほね》を海岸《かいがん》に碎《くだき》、干戈《かんくわ》を枕《まくら》とし、夜《よ》はにいね、夙《つと》に興《お》きて、軍忠《ぐんちゆう》を竭《つ》くし、戰功《せんこう》を勵《はげ》ます。然而《しかして》中比《なかごろ》より|蒙[#二]君恩[#一]《くんおんをかうむり》、人《ひと》に名《な》を識《し》らる。|因[#レ]茲《これによりて》西國征伐儀《さいこくせいばつのぎ》|被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、|對[#二]大敵[#一]《たいてきにたいし》|爭[#二]雌雄[#一]刻《しゆうをあらそふのとき》、明智日向守光秀《あけちひふがのかみみつひで》|以[#二]無道之故[#一]《ぶだうのゆゑをもつて》、|奉[#レ]討[#二]信長公[#一]《のぶながこうをうちたてまつり》、此注進《このちゆうしん》聞屆《きゝとゞけ》、彌《いよ/\》彼表《かのおもて》押詰《おしつめ》、|任[#二]存分[#一]《ぞんぶんにまかせ》、|不[#レ]移[#二]時日[#一]《じじつをうつさず》、|令[#二]上洛[#一]《じやうやくせしめ》、逆徒《ぎやくと》|伐[#二]光秀頸[#一]《みつひでのくびをうちて》、|報[#二]恩惠[#一]《おんけいにむくい》、|雪[#二]會稽[#一]《くわいけいをすゝぐ》。其後《そののち》柴田修理亮勝家《しばたしゆりのすけかついへ》、信長公之厚恩《のぶながこうのこうおん》を忘《わすれ》、國家《こくか》を亂《みだ》し叛逆之條《はんぎやくのでう》、是又《これまた》|令[#二]退治[#一]了《たいぢせしめをはんぬ》。此外《このほか》諸國《しよこくの》叛者《そむくものは》|討[#レ]之《これをうち》、降者《くだるものは》|近[#レ]之《これをちかづけ》、|無[#下]不[#レ]屬[#二]麾下[#一]者[#上]《きかにぞくせざるものなし》、|就[#レ]中《なかんづく》秀吉《ひでよし》一言之表裏《いちごんのへうり》|不[#レ]可[#レ]有[#レ]之《これあるべからず》、|以[#二]此故[#一]《このゆゑをもつて》、|相[#二]叶天命[#一]哉《てんめいにあひかなひしや》、予《われ》既《すでに》|擧[#二]登龍揚鷹之譽[#一]《とうりゆうやうようのほまれをあげ》、|成[#二]鹽梅則闕之臣[#一]《あんばいそくけつのしんとなり》、|關[#二]萬機政[#一]《ばんきのまつりごとにかゝる》。然處《しかるところ》氏直《うぢなほ》|背[#二]天道之正理[#一]《てんだうのせいりにそむき》、|對[#二]帝都[#一]《ていとにたいして》|企[#二]奸謀[#一]《かんぼうをくはだつ》、何《なんぞ》|不[#レ]蒙[#二]天罰[#一]哉《てんばつをかうむらざらんや》。古諺《こげんに》云《いはく》、巧詐《かうさは》|不[#レ]如[#二]拙誠[#一]《せつせいにしかずと》、所詮《しよせん》普天下《ふてんのもと》、|逆[#二]勅命[#一]輩《ちよくめいにさからふのやからは》[#ルビの「ちよくめいにさからふのやからは」は底本では「ちよくめいにさかふのやからは」]、早《はやく》|不[#レ]可[#レ]不[#レ]加[#二]誅伐[#一]《ちゆうばつをくはへざるべからず》、來歳《らいさい》必《かならず》|携[#二]節旗[#一]《せつきをたづさへ》、|令[#二]信發[#一]《しんぱつせしめ》、|可[#レ]刎[#二]氏直首[#一]事《うぢなほのくびをはぬべきこと》、|不[#レ]可[#レ]廻[#レ]踵者也《きびすをめぐらすべからざるものなり》。
  天正十七年十一月二十五日
[#地から2字上げ]御朱印(秀吉)
   北條左京大夫どのへ
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ所謂《いはゆ》る秀吉流《ひでよしりう》の大風呂敷《おほぶろしき》で、曲《きよく》終《をは》りて雅《が》を奏《そう》するものだ。區々背信《くゝはいしん》の北條《ほうでう》と、龍驤虎騰《りゆうじやうことう》、勅命《ちよくめい》を奉《ほう》じて、天下《てんか》を席捲《せきけん》したる秀吉《ひでよし》とを對照《たいせう》一|番《ばん》す。如何《いか》に秀吉《ひでよし》の意氣昂揚《いきかうやう》、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》を驅使鞭撻《くしべんたつ》したる面影《おもかげ》が、今尚《いまな》ほ見《み》るが如《ごと》く、紙上《しじやう》に活躍《くわつやく》するよ。眞《しん》に此《こ》の文書《ぶんしよ》は、當時《たうじ》の名文《めいぶん》である。

[#5字下げ][#中見出し]【一八】氏直の辯疏[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の手切書《てぎれしよ》は、家康《いへやす》を經《へ》て、氏直《うぢなほ》の手《て》に渡《わた》つた。家康《いへやす》は同時《どうじ》に氏直《うぢなほ》父子《ふし》に書《しよ》を與《あた》へ、其《そ》の不信《ふしん》を詰《なじ》り、速《すみや》かに謝罪《しやざい》の實《じつ》を擧《あ》ぐ可《べ》く忠告《ちゆうこく》した。斯《か》くて秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》の上京《じやうきやう》を促《うなが》し、妙音院《めうおんゐん》が、暗《あん》に北條《ほうでう》を庇護《ひご》するの擧止《きよし》あるを瞋《いか》り、富田智信《とみたとものぶ》、津田信勝《つだのぶかつ》をして、北條《ほうでう》の使者《ししや》石卷康敬《いしのまきやすよし》と與《とも》に、之《これ》を沼津《ぬまづ》に押送《おふそう》し、嚴《げん》に兩人《りやうにん》を拘禁《かうきん》して、後命《こうめい》を竢《ま》たしめた。
却説《さて》氏直《うぢなほ》父子《ふし》は、秀吉《ひでよし》の手切書《てぎれしよ》に接《せつ》しても、更《さ》らに其《そ》の危機《きき》を覺醒《かくせい》せず、尚《な》ほ醉夢昏々《すゐむこん/\》の裡《うち》にあつた。十二|月《ぐわつ》四|日《か》、氏直《うぢなほ》は竊《ひそ》かに沼津《ぬまづ》より妙音院《めうおんゐん》を招《まね》き、謀《はか》る所《ところ》あらんとし、妙音院《めうおんゐん》は其《そ》の拘禁所《かうきんしよ》を脱《ぬ》け出《いだ》し、之《これ》に赴《おもむ》くの途中《とちゆう》、富田《とみた》、津田《つだ》は追跡《つゐせき》して之《これ》を逮捕《たいほ》し、同月《どうげつ》五|日《か》、書《しよ》を以《もつ》て、氏直《うぢなほ》を詰《なじ》つた。然《しか》るに氏直《うぢなほ》は、謝罪《しやざい》せざるのみならず、却《かへ》つて左《さ》の如《ごと》き辯疏状《べんそじやう》を以《もつ》て之《これ》に答《こた》へた。
[#ここから1字下げ]
      條々《でう/\》
一 老父[#「老父」は底本では「考父」]《らうふ》(氏政)[#「(氏政)」は1段階小さな文字]上洛《じやうらく》遲々之由《ちゝのよし》|有[#レ]之間《これあるあひだ》、|至[#二]沼津[#一]《ぬまづにいたり》御下向《ごげかう》、一|昨《さく》五|日之御紙面《かのごしめん》案之外《あんのほか》に候《さふらふ》。抑《そも/\》去夏《さるなつ》妙音院一鴎軒《めうおんゐんいちおうけん》下國之刻《げこくのこく》、截流齋《せつりうさい》(氏政)[#「(氏政)」は1段階小さな文字]|於[#二]罷上儀[#一]者《まかりのぼるぎにおいては》、勿論《もちろん》に候《さふらふ》。併《しかし》當年者《たうねんは》|難[#レ]成候《なりがたくさふらふ》。來春夏之間《きたるしゆんかのあひだに》|可[#二]發足[#一]之由《ほつそくすべきのよし》、條々《でう/\》|雖[#二]御理候[#一]《おんことはりにさふらふといへども》、|不[#レ]可[#二]相叶[#一]旨《あひかなふべからざるむね》、頻《しきりに》承候《うけたまはりさふらふ》。公儀之儀《こうぎのぎ》|不[#レ]及[#二]了簡[#一]《れうけんにおよばず》、極月《ごくげつ》卒爾《そつじ》半途迄《はんとまで》も罷出《まかりいで》、正月中《しやうぐわつちゆう》|可[#二]京著[#一]由候《きやうちやくすべきよしにさふらへ》き。|就[#レ]中《なかんづく》先年《せんねん》家康《いへやす》上洛之砌《じやうらくのみぎり》は、|被[#レ]結[#二]御骨肉[#一]《おんこつにくをむすばれ》、猶《なほ》大政所《おほまんどころ》を三州迄《さんしうまで》御移之由《おうつしのよし》、承屆候《うけたまはりとゞけさふらふ》。然而《しかして》名胡桃《なくるみ》仕合《しあひ》に付《つき》、御復立《ごふくりふ》、或《あるひは》永《ながく》|可[#二]留置[#一]《とゞめおくべき》、或《あるひは》國替《くにがへ》、ヶ樣之惑説《かやうのわくせつ》|從[#二]方々[#一]《はう/″\より》申來候條《まをしきたりさふらふでう》、二度《にど》下國《げこく》存切之由《ぞんじきりのよし》、截流齋《せつりうさい》申候《まをしさふらふ》。父子之困《ふしのくるしみ》、|可[#レ]有[#二]御察[#一]候《おんさつしあるべくさふらふ》。|依[#レ]之《これにより》妙音院《めうおんゐん》一|鴎《おう》相招申《あひまねきまをし》、縱《よし》此儘《このまゝ》在京候共《ざいきやうさふらふとも》、|晴[#二]胸中[#一]《きようちゆうをはらし》、心安《こゝろやすく》|上洛爲[#レ]可[#レ]申《じやうらくまをすべきため》に候《さふらふ》、更《さらに》|非[#二]別條[#一]候事《べつでうあらずさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは氏直《うぢなほ》としては、相當《さうたう》の申譯《まをしわけ》である。秀吉《ひでよし》が氏政《うぢまさ》を抑留《よくりう》するの虞《おそれ》は、彼等《かれら》として、一|應《おう》憂慮《いうりよ》す可《べ》き事《こと》であつたに相違《さうゐ》あるまい。
併《しか》し間違《まちがひ》は寧《むし》ろ根本的《こんぽんてき》だ。そは秀吉《ひでよし》は北條家《ほうでうけ》の被官《ひくわん》とも稱《しよう》す可《べ》かりし徳川《とくがは》を招《まね》くに、先《ま》づ其《そ》の妹《いもうと》を娶《めは》はし、次《つぎ》に其《そ》の母《はゝ》を質《ち》とし、云《い》はゞ七|重《へ》の膝《ひざ》を八|重《へ》に折《を》りて、而《しか》して後《のち》埒《らち》が明《あ》いたではない乎《か》。然《しか》るに此方《こちら》に對《たい》しては、單《たん》に一|介《かい》の使者《ししや》と、一|通《つう》の文書《ぶんしよ》で、上洛《じやうらく》せしめんとするは、餘《あま》りに失敬《しつけい》ではない乎《か》。若《も》し秀吉《ひでよし》にして眞《しん》に我《われ》と結《むす》ぶ誠意《せいい》あらば、今少《いますこ》しく鄭重《ていちよう》の手段《しゆだん》を講《かう》ず可《べ》きではない乎《か》。此《こ》れが北條《ほうでう》一|家《け》に蟠《わだかま》りたる一|大妄想《だいまうさう》であつた。所謂《いはゆ》る云《い》ふに落《お》ちず、語《かた》るに落《お》ち、端《はし》なく此《こ》の一|大謬想《だいびうさう》は、今《いま》や辯疏状中《べんそじやうちゆう》に其《そ》の片鱗《へんりん》を露《あら》はし來《きた》つたのだ。
元來《ぐわんらい》徳川《とくがは》と北條《ほうでう》とは、同《どう》一の代物《しろもの》でない。天正《てんしやう》十三四|年《ねん》の秀吉《ひでよし》と、天正《てんしやう》十六七|年《ねん》の秀吉《ひでよし》とは、同《どう》一の代物《しろもの》でない。昔日《せきじつ》秀吉《ひでよし》の家康《いへやす》に對《たい》する態度《たいど》、彼《かれ》が如《ごと》くあつたから、今日《こんにち》秀吉《ひでよし》の北條《ほうでう》に對《たい》する態度《たいど》、亦《ま》た斯《かく》の如《ごと》くならざる可《べ》からざるとするが如《ごと》きは、全《まつた》く時勢《じせい》の變化《へんくわ》を無視《むし》したる妄想《まうさう》である。然《しか》るに北條《ほうでう》一|家《け》は、全《まつた》く此《こ》れ一|大妄想《だいまうさう》に囚《とら》はれて居《ゐ》た。知《し》る可《べ》し、北條氏《ほうでうし》を滅《ほろぼ》したのは、全《まつた》く北條氏《ほうでうし》の自惚根性《うぬぼれこんじやう》であつたことを。
[#ここから1字下げ]
此度《このたび》|爲[#二]祝儀[#一]《しうぎのため》|爲[#二]指上[#一]候《さしのぼせさふらふ》石卷《いしのまき》(康敬)[#「(康敬)」は1段階小さな文字]御取成之模樣《おんとりなしのもやう》、|於[#二]都鄙[#一]《とひにおいて》|失[#二]面目[#一]候《めんもくをしつしさふらふ》。更以《さらにもつて》氏直《うぢなほ》相違之扱《さうゐのあつかひ》、毛頭有間敷候《もうとうあるまじくさふらふ》。御兩所《ごりようしよ》(富田、津田)[#「(富田、津田)」は1段階小さな文字]へ恨入候《うらみいりさふらふ》。去四日《さるよつか》妙音院《めうおんゐん》此方《こちら》へ招申儀者《まねきまをせしぎは》、石卷《いしのまき》御取成《おんとりなし》不審《ふしん》に而《て》、内々《ない/\》|可[#二]尋申[#一]《たづねまをすべき》存分故《ぞんぶんゆゑ》に候《さふらふ》。然《しか》も半途《はんと》に而《て》相押之由《あひおさへしよし》、|無[#二]是非[#一]存候條《ぜひなくぞんじさふらふでう》、|以[#二]書付[#一]申述候事《かきつけをもつてまをしのべさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは辯疏《べんそ》よりも、苦情《くじやう》だ。
[#ここから1字下げ]
一 此上《このうへ》も|無[#二]疑心[#一]《ぎしんなく》、|至[#二]御取成[#一]《おんとりなしにいたつて》は、|無[#二]猶豫[#一]《いうよなく》截流齋《せつりうさい》(氏政)[#「(氏政)」は1段階小さな文字]|可[#二]上洛[#一]旨《じやうらくすべきむね》、申候間《まをしさふらふあひだ》、御兩所《ごりやうしよ》|有[#二]御分別[#一]《ごふんべつあつて》、|可[#レ]然樣《しかるべきやう》に|所[#レ]希候事《こひねがふところにさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは條件付《でうけんつき》の上京《じやうきやう》で、謝罪《しやざい》の上京《じやうきやう》でない。北條《ほうでう》一|家《け》は、抵死《ていし》、秀吉《ひでよし》對《たい》自家關係《じかくわんけい》の眞相《しんさう》を諒解《りやうくわい》せずして了《しま》つた。
[#ここから1字下げ]
一 名胡桃之事《なくるみのこと》、一切《いつさい》|不[#レ]存候《ぞんぜずさふらふ》。彼《かれ》城主《じやうしゆ》に候歟《さふらふか》、中山《なかやま》(九郎兵衞)[#「(九郎兵衞)」は1段階小さな文字]書付《かきつけ》|進[#レ]之候《これをすゝめさふらふ》。既《すでに》眞田《さなだ》手前《てまへ》へ相渡内《あひわたすうち》に候間《さふらふあひだ》、|雖[#下]不[#レ]及[#二]取合[#一]候[#上]《とりあひにおよばずさふらふといへども》、越後衆《ゑちごしゆう》半途《はんと》へ打出《うちいで》、信州《しんしう》川中島《かはなかじま》と知行替之由《ちぎやうかへのよし》申候間《まをしさふらふあひだ》、御糺明之上《ごきうめいのうへ》、|從[#二]沼田[#一]《ぬまたより》、其以來《それいらい》、加勢之由《かせいのよし》申候《まをしさふらふ》。越後之事《ゑちごのこと》は、|不[#レ]成[#二]一代[#一]《いちだいならざる》古敵《ふるがたき》、彼表《かのおもて》へ相移候者《あひうつしさふらはゞ》、一|日《にち》も沼田《ぬまた》安泰《あんたい》に|可[#レ]有[#レ]之候哉《これあるべくさふらふや》。|乍[#レ]去《さりながら》彼申所《かれのまをすところ》實否《じつぴ》|不[#レ]知候《しれずさふらふ》。|自[#二]家康[#一]《いへやすより》、先段《せんだん》承候間《うけたまはりさふらふあひだ》、|尋極爲[#レ]可[#レ]申《たづねきはめまをすべきため》に召遣候《めしつかはしさふらへ》き。定而《さだめて》二三|日中《にちちゆう》に|可[#レ]來候《きたるべくさふらふ》。努々《ゆめ/\》|非[#二]表裏[#一]《へうりあらず》、名胡桃《なくるみ》當時《たうじ》百姓屋敷《ひやくしやうやしき》、淵底《えんてい》、以前《いぜん》御下國之砌《ごげこくのみぎり》|可[#レ]有[#二]見分[#一]歟之事《けんぶんあるべきかのこと》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは名胡桃《なくるみ》一|件《けん》に對《たい》して、責任推※[#「言+委」、U+8AC9、91-3]《せきにんすゐぢ》の文句《もんく》である。果《はた》して斯《かゝ》る牽強附會《けんきやうふくわい》の申開《まをしひら》きが出來可《でくべ》きや、否《いな》や。
[#ここから1字下げ]
一 以前《いぜん》渡給候《わたしたまひさふらふ》吾妻領《あがつまりやう》、眞田《さなだ》|以[#二]取成[#一]《とりなしをもつて》百姓等《ひやくしやうら》押拂《おしはらひ》、一人《いちにん》も|不[#レ]置候《おかずさふらふ》。剩《あまつさへ》|號[#二]中條[#一]地《ちゆうでうととなふるち》、其儘《そのまゝ》人別壺詰《にんべつつぼづめ》、|不[#二]相渡[#一]候《あひわたさずさふらふ》。斯樣之小事《かやうのせうじ》、|可[#二]申達[#一]樣《まをしたつすべきやうも》|無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、打捨置候《うちすておきさふらふ》。猶《なほ》名胡桃之事《なくるみのこと》は、對決之上《たいけつのうへ》、何分《なにぶん》にも|可[#レ]任[#二]承意[#一]候事《しよういにまかすべくさふらふこと》、以上《いじやう》。
  十二月七日(天正十七年)[#「(天正十七年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]氏直(花押)[#「(花押)」は1段階小さな文字]
   富田左近將監殿
   津田隼人正殿
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは取《と》りも直《なほ》さず、眞田《さなだ》彈劾状《だんがいじやう》だ。自《みづ》から其罪《そのつみ》を謝《しや》せざるのみならず、却《かへ》つて其《そ》の相手《あひて》を攻撃《こうげき》するは、喧嘩《けんくわ》の一|手段《しゆだん》に相違《さうゐ》なきも、今《いま》や北條氏《ほうでうし》危急存亡《ききふそんばう》の場合《ばあひ》に於《おい》て、斯《かゝ》る手段《しゆだん》に出《い》でたるは、果《はた》して策《さく》の得《え》たるものである乎《か》、否乎《いなか》。
概《がい》して言《い》へば、一|篇《ぺん》の文書《ぶんしよ》、全《まつた》く北條氏《ほうでうし》の時代錯誤《じだいさくご》を暴露《ばくろ》して、明々白々《めい/\はく/\》だ。若《も》し始祖《しそ》早雲《さううん》をして、此《こ》の際《さい》に處《しよ》せしめば、彼《かれ》は必《かなら》ず其《そ》の周邊《しうへん》の形勢《けいせい》を察《さつ》し、機宜《きぎ》の措置《そち》に出《い》でたであらう。若《も》し氏康《うぢやす》をして在《あ》らしめば、必《かなら》ず柔《じう》能《よ》く剛《がう》を制《せい》するの長策《ちやうさく》に出《い》でたであらう。然《しか》るに祖先《そせん》の遺業《ゐげふ》を擁《よう》し、獨《ひと》り自《みづ》から尊大《そんだい》に構《かま》へ、我《われ》あるを知《し》りて、他《た》あるを知《し》らず、遂《つ》ひに滅亡《めつばう》を招《まね》くに至《いた》つたのは、是《こ》れ誰《たれ》の過《あやまち》ぞ。
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