第二章 關東と東北
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第二章 關東と東北[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八】關東東北の形勢[#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は此《こ》れより秀吉《ひでよし》の關東《くわんとう》、及《およ》び東北統《とうほくとう》一の顛末《てんまつ》を叙《じよ》せねばならぬ。惟《おも》ふに天正《てんしやう》十五|年《ねん》七|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》の九|州役凱旋《しうえきがいせん》より、天正《てんしやう》十八|年《ねん》三|月《ぐわつ》、小田原役發程迄《をだはらえきはつていまで》、約《やく》二|箇年半餘《かねんはんよ》の歳月《さいげつ》は、一|面《めん》平和氣分促進《へいわきぶんそくしん》の爲《た》めに、一|面《めん》關東々北《かんとう/\ほく》、及《およ》び朝鮮經略準備《てうせんけいりやくじゆんび》の爲《た》めに、使用《しよう》せられた。秀吉《ひでよし》は時間《じかん》を浪費《らうひ》する程《ほど》の、呑氣漢《のんきかん》ではなかつた。
抑《そもそ》も關東《くわんとう》には北條氏《ほうでうし》が、早雲《さううん》以來《いらい》、氏綱《うぢつな》、氏康《うぢやす》を經《へ》て、今《いま》は大老舖《おほしにせ》とも云《い》ふ可《べ》き看板《かんばん》を掲《かゝ》げ、氏政《うぢまさ》、氏直父子《うぢなほふし》が屹然《きつぜん》として据《すわ》つた。之《これ》に對抗《たいかう》する程《ほど》の勢力《せいりよく》なき迄《まで》も、安房《あは》の里見《さとみ》、下總《しもふさ》の結城《ゆふき》、宇都宮《うつのみや》の宇都宮國綱《うつのみやくにつな》、那須《なす》の那須資晴抔《なすすけはるなど》、尚《な》ほ微力《びりよく》ながら獨立《どくりつ》の態度《たいど》を維持《ゐぢ》した。然《しか》も其《そ》の最《もつと》も大《だい》なるものは、常陸《ひたち》の佐竹《さたけ》であつた。
佐竹《さたけ》は新羅《しんら》三|郎義光《らうよしみつ》の裔《えい》で、義光《よしみつ》の孫《まご》昌義《まさよし》、母方《はゝかた》に付《つい》て、常陸《ひたち》の國《くに》に下《くだ》り、久慈郡佐竹《くじごほりさたけ》の地《ち》を領《りやう》し、佐竹《さたけ》と名乘《なの》つた。當時《たうじ》の義重《よししげ》は、昌義《まさよし》十七|代《だい》の後胤《こういん》であつた。彼《かれ》の領土《りやうど》は關東《くわんとう》東北《とうほく》の境目《さかひめ》に位置《ゐち》し、是《こ》れが爲《た》めに、或《あるひ》は關東《くわんとう》小大名《せうだいみやう》の牛耳《ぎうじ》を把《と》りて、北條氏《ほうでうし》に抗《かう》し、或《あるひ》は東北《とうほく》小大名《せうだいみやう》の盟主《めいしゆ》となりて、伊達氏《だてし》に抗《かう》した。されば彼《かれ》は北條氏《ほうでうし》からも喜《よろこ》ばれず、伊達氏《だてし》からもけむたがられた。
進《すゝ》んで東北《とうほく》に至《いた》れば、―永祿《えいろく》元年《ぐわんねん》の頃《ころ》―奧羽《おうう》二|州《しう》粉々《ふん/\》亂《みだ》れて麻《あさ》の如《ごと》く、山形《やまがた》に最上修理大夫義守《もがみしゆりだいふよしもり》あり、會津《あひづ》に蘆名修理大夫盛氏《あしなしゆりだいふもりうぢ》あり、相馬《さうま》に相馬彈正大弼盛胤《さうまだんじやうたいひつもりたね》あり、須賀川《すかがは》に二|階堂彈正大弼輝行《かいだうだんじやうたいひつてるゆき》あり、三|春《はる》に田村大善大夫清顯《たむらだいぜんだいふきよあき》あり、岩城《いはき》に岩城左京大夫親隆《いはきさきやうだいふちかたか》あり、石川《いしかは》に石川大和守昭光《いしかはやまとのかみあきみつ》あり、白河《しらかは》に白河右京大夫義綱《しらかはうきやうだいふよしつな》あり、二|本松《ほんまつ》に畠山修理大夫義繼《はたけやましゆりだいふよしつぐ》あり、鹽松《しほまつ》に石橋式部大輔尚義《いしばししきぶだいふなほよし》あり、登米《とよま》に葛西左京大夫晴胤《かさいさきやうだいふはるたね》あり、加美《かみ》に大崎左衞門督義隆[#「大崎左衞門督義隆」は底本では「大崎左衛門督義隆」]《おほさきさゑもんのすけよしたか》あり。而《しか》して米澤《よねざは》に伊達左京大夫輝宗《だてさきやうだいふてるむね》あり、莊内《しやうない》に武藤氏《むとうし》あり、横手《よこて》に小野寺氏《をのでらし》あり、秋田《あきた》に秋田氏《あきたし》あり。奧州《おうしう》の北部《ほくぶ》には、南部氏《なんぶし》最《もつと》も有力《いうりよく》にして、斯波郡《しばごほり》に斯波氏《しばし》あり、津輕《つがる》には津輕氏《つがるし》あり。互《たが》ひに相鬩《あひせめ》ぎ、未《いま》だ曾《かつ》て一|日《じつ》も、寧日《ねいじつ》なき有樣《ありさま》であつた。
然《しか》も奧羽《おうう》二|州《しう》に於《おい》ては、米澤《よねざは》の伊達氏《だてし》、山形《やまがた》の最上氏《もがみし》最《もつと》も有力《いうりよく》にして、特《とく》に伊達氏《だてし》の勢力《せいりよく》は、輝宗《てるむね》より、政宗《まさむね》に到《いた》り、愈《いよい》よ強大《きやうだい》となり、一|方《ぱう》には佐竹氏《さたけし》と衝突《しようとつ》し、他方《たはう》には最上氏《もがみし》と衝突《しようとつ》し、其《そ》の威風《ゐふう》は、一|方《ぱう》北條氏《ほうでうし》の勢圜《せいくわん》に近《ちかづ》き、他方《たはう》上杉氏《うへすぎし》の勢圜《せいくわん》に薄《せま》らんとするの状態《じやうたい》であつた。然《しか》も北條氏《ほうでうし》との間《あひだ》には、佐竹氏《さたけし》介在《かいざい》し、上杉氏《うへすぎし》との間《あひだ》には、最上氏《もがみし》狹《はさ》まつた。されば伊達《だて》と、北條《ほうでう》とは、互《たが》ひに氣脈《きみやく》を通《つう》じて、佐竹《さたけ》を壓迫《あつぱく》せんとし、伊達《だて》と、上杉《うへすぎ》とも亦《ま》た、互《たが》ひに其《そ》の最上氏《もがみし》の緩衝地《くわんしようち》あるを以《もつ》て、干戈《かんくわ》を交《まじ》ふるに到《いた》らなかつた。
之《これ》を西日本《にしにほん》に於《お》ける状態《じやうたい》と對照《たいせう》すれば、北條氏《ほうでうし》の關東《くわんとう》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》するは、猶《な》ほ毛利氏《まうりし》の中國《ちゆうごく》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》するが如《ごと》[#ルビの「ごと」は底本では「こと」]く、伊達氏《だてし》の四|隣《りん》を蠶食《さんしよく》して※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73]《あ》くことを知《し》らざるは、獨《な》ほ島津氏《しまづし》の如《ごと》く、佐竹《さたけ》、最上《もがみ》は、恰《あたか》[#ルビの「あたか」は底本では「あだか」]も大友《おほとも》、龍造寺《りゆうざうじ》に似《に》たりと云《い》ふ可《べ》き歟《か》。何《いづ》れにしても、秀吉《ひでよし》の眼中《がんちゆう》に映《えい》ずる大敵《たいてき》は、北條《ほうでう》にして、其《そ》の次《つぎ》は伊達《だて》であつた。而《しか》して北條《ほうでう》の前面《ぜんめん》にある、徳川《とくがは》も亦《ま》た、秀吉《ひでよし》の多少《たせう》顧慮《こりよ》する所《ところ》であつた。
されば小田原役《をだはらえき》を以《もつ》て、單《たん》に北條征伐《ほうでうせいばつ》とのみ思《おも》ふは、大《だい》なる了見違《れうけんちがひ》である。秀吉《ひでよし》の小田原役《をだはらえき》は、東日本《ひがしにほん》の改造運動《かいざううんどう》であつた。北條《ほうでう》の前《まへ》に徳川《とくがは》あり、北條《ほうでう》の後《うしろ》に伊達《だて》あり。秀吉《ひでよし》が島津退治《しまづたいぢ》の副産物《ふくさんぶつ》として、毛利《まうり》の服從《ふくじゆう》を確實《かくじつ》にし、併《あは》せて九|州《しう》に於《お》ける、耶蘇教《やそけう》の根據《こんきよ》を一|掃《さう》したる如《ごと》く、小田原征伐《をだはらせいばつ》の副産物《ふくさんぶつ》として、徳川《とくがは》の服從《ふくじゆう》を確實《かくじつ》にし、伊達氏《だてし》の頭《あたま》を抑《おさ》へ、奧羽《おうう》二|州《しう》を料理《れうり》した。此《こ》れは決《けつ》して偶然《ぐうぜん》でなく、突發《とつぱつ》でなく、當座《たうざ》の氣乘仕事《きのりしごと》でなく、豫定《よてい》の計畫《けいくわく》を實行《じつかう》したものだ。
要《えう》するに群雄《ぐんゆう》は魚《うを》の如《ごと》く、秀吉《ひでよし》は漁夫《ぎよふ》の如《ごと》し。群雄《ぐんゆう》何《いづ》れも我身《わがみ》一|個《こ》の利害《りがい》、得失《とくしつ》のみを考慮《かうりよ》しつゝある際《さい》に、秀吉《ひでよし》は其《そ》の大網《おほあみ》に、一|切《さい》の小鱗《せうりん》大鱗《たいりん》を包擧《はうきよ》した。北條家《ほうでうけ》は、老舖《しにせ》の若旦那《わかだんな》で、一|切《さい》番頭任《ばんとうまか》せなれば、其《そ》の掛引萬端《かけひきばんたん》に就《つい》て、彼是《かれこれ》論《ろん》ずる迄《まで》が野暮《やぼ》であるが、新興《しんこう》の勢《いきほひ》に乘《じよう》じて、東北《とうほく》に龍驤虎視《りゆうじやこし》したる伊達政宗《だてまさむね》さへも、秀吉《ひでよし》の大網《おほあみ》に收《をさ》められ、呆然自失《ぼうぜんじしつ》せざるを得《え》なかつたのは、頗《すこぶ》る痛快《つうくわい》の事《こと》であつた。但《た》だ此《こ》の役《えき》に於《おい》て最《もつと》も得《とく》をしたのは、徳川家康《とくがはいへやす》であつた。彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、損《そん》をせぬ漢《をのこ》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【九】伊達氏の興隆[#中見出し終わり]

東北《とうほく》に於《お》ける渦卷《うづまき》の中心《ちゆうしん》は、伊達氏《だてし》であつた。吾人《ごじん》は先《ま》づ伊達氏《だてし》に就《つい》て、少《すこ》しく語《かた》らねばならぬ。
伊達氏《だてし》は藤原鎌足《ふぢはらかまたり》三|世《せい》の孫《そん》、魚名《うをな》十二|世《せい》の裔《えい》、光隆《みつたか》の次子《じし》朝宗《ともむね》を以《もつ》て、其《そ》の祖先《そせん》とした。彼《かれ》は常陸國《ひたちのくに》眞壁郡《まかべごほり》伊佐《いさ》の莊《しやう》中村《なかむら》を領《りやう》し、伊佐《いさ》若《も》しくは中村《なかむら》と稱《しよう》した。彼《かれ》は源頼朝《みなもとよりとも》の軍《ぐん》に從《したが》うて屡《しばし》ば功《こう》があつた。而《しか》して文治《ぶんぢ》五|年《ねん》、頼朝《よりとも》奧州征伐《おうしうせいばつ》に際《さい》し、彼等父子《かれらふし》の戰功《せんこう》により、伊達郡《だてごほり》を賞賜《しやうし》せられた。此《こ》れより伊達氏《だてし》を名乘《なの》つた。
爾來《じらい》東北《とうほく》の名族《めいぞく》として繁昌《はんじやう》し、七|世《せい》行宗《ゆきむね》の如《ごと》きは、元弘《げんこう》の役《えき》、源顯家《みなもとあきいへ》に從《したが》うて戰功《せんこう》あり、從《じゆ》四|位下《ゐげ》に敍《じよ》し、評定衆《ひやうぢやうしゆう》となり、文武《ぶんぶ》の材《ざい》を兼《か》ね、且《か》つ和歌《わか》を善《よ》くし、其《そ》の詠《えい》は續《しよく》千|載《ざい》、新《しん》千|載《ざい》、新拾遺等《しんじふゐとう》の勅撰集《ちよくせんしふ》にも採録《さいろく》せられた。九|世《せい》政宗《まさむね》、亦《ま》た卓越《たくえつ》の士《し》で、和歌《わか》を善《よ》くし、其《そ》の威《ゐ》を四|隣《りん》に振《ふる》うた。明徳《めいとく》三|年《ねん》の冬《ふゆ》、兵《へい》を板谷峠《いたやたふげ》に出《いだ》すや、北風《ほくふう》雪《ゆき》を吹《ふ》き、道路《だうろ》を沒《ぼつ》し、諸軍《しよぐん》進《すゝ》むを得《え》なかつた。彼《かれ》偶《たまた》ま詠《うた》つて曰《いは》く、
[#2字下げ]なか/\につゝらをりなる路《みち》絶《たえ》て、雪《ゆき》に隣《となり》の近《ちか》き山里《やまざと》
と。而《しか》して其《そ》の詠《えい》數首《すうしゆ》續古今集《しよくこきんしふ》に撰入《せんにふ》せられた。亘理《わたり》九|城《じやう》、黒川《くろかは》三十二|城《じやう》、宇多《うた》、宮城《みやぎ》、深谷《ふかや》、松山《まつやま》の諸城邑《しよじやういふ》、悉《こと/″\》く平定《へいてい》せられた。十一|世《せい》持宗《もちむね》、十二|世《せい》成宗《なりむね》、十三|世《せい》尚宗《なほむね》、十四|世《せい》種宗《たねむね》、十五|世《せい》晴宗《はるむね》、十六|世《せい》輝宗《てるむね》、何《いづ》れも當時《たうじ》足利將軍《あしかゞしやうぐん》の偏諱《へんゐ》を賜《たま》はり、上國《じやうこく》と交通《かうつう》して、漸次《ぜんじ》に其《そ》の威勢《ゐせい》を擴充《くわくじゆう》した。而《しか》して吾人《ごじん》が今《い》ま語《かた》らんとするは、十六|世《せい》輝宗《てるむね》、十七|世《せい》政宗《まさむね》の事《こと》である。
輝宗《てるむね》の名《な》は、足利將軍《あしかゞしやうぐん》義輝《よしてる》の偏諱《へんゐ》を賜《たま》はりたるものだ。彼《かれ》は出羽《では》の米澤城《よねざはじやう》に居《を》り、最上義守《もがみよしもり》の女《むすめ》を娶《めと》りて、永祿《えいろく》十一|年《ねん》三|月《ぐわつ》十一|日《にち》、世子《せいし》を生《う》んだ。幼名《えうみやう》梵天丸《ぼんてんまる》、即《すなは》ち他日《たじつ》の獨眼龍《どくがんりゆう》伊達政宗《だてまさむね》である。義守《よしもり》は最上義光《もがみよしあき》の父《ちゝ》で、義光《よしあき》と政宗《まさむね》とは叔姪《しゆくてつ》の關係《くわんけい》である。而《しか》して天正《てんしやう》五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十一|日《にち》、歳《とし》十一、首服《しゆふく》して、遠祖《ゑんそ》の名《な》を襲《おそ》うて政宗《まさむね》と名乘《なの》つた。此《こ》れは輝宗《てるむね》が、其《そ》の子《こ》に遠祖《ゑんそ》文武《ぶんぶ》の才略《さいりやく》に、あやからしめんが爲《た》めであつた。
彼《かれ》は一|眼《がん》眇《べう》にして、容貌《ようばう》亦《ま》た醜《しう》。性質《せいしつ》緊張《きんちやう》せず、寛裕《くわんゆう》にして、人《ひと》に對《たい》して含羞《がんしう》の色《いろ》があつた。されば誰《たれ》しも彼《かれ》が他日《たじつ》の梟雄《けうゆう》となる可《べ》しとは、夢《ゆめ》更《さ》ら思《おも》はず、却《かへつ》て其《そ》の將器《しやうき》でないものと認《みと》めた。乃《すなは》ち其《そ》の母《はゝ》の如《ごと》きも、彼《かれ》を疎《うとん》じて次子《じし》小次郎《こじらう》を偏愛《へんあい》した。獨《ひと》り片倉景綱《かたくらかげつな》は、彼《かれ》の眞相《しんさう》を知《し》り、其《そ》の大成《たいせい》を期待《きたい》した。天正《てんしやう》七|年《ねん》三|春《はる》の城主《じやうしゆ》、田村清顯《たむらきよあき》の申入《まをしいれ》によりて、その女《むすめ》を聘《へい》した。諸將《しよしやう》には異論《いろん》があつた。そは田村氏《たむらし》は佐竹《さたけ》、蘆名《あしな》兩氏《りやうし》と不和《ふわ》であれば、彼家《かれ》と婚《こん》するは、怨《うらみ》を隣邦《りんぱう》に構《かま》ふる所以《ゆゑん》ではあるまい乎《か》と、云《い》ふ譯《わけ》であつた。然《しか》も輝宗《てるむね》は、田村《たむら》が小《せう》を以《もつ》て大《だい》に敵《てき》し、未《いま》だ其《そ》の武《ぶ》を涜《けが》さゞるは、我兒《わがこ》の婦翁《ふをう》とするに足《た》ると云《い》ひ、之《これ》を決行《けつかう》した。而《しか》して天正《てんしやう》十|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、政宗《まさむね》十六、夫人《ふじん》十三の時《とき》に、結婚式《けつこんしき》を擧《あ》げた。
天正《てんしやう》十|年《ねん》三|月《ぐわつ》、相馬義胤《さうまよしたね》、畠山義繼《はたけやまよしつぐ》が、曾《かつ》て伊達氏《だてし》の舊臣《きうしん》であつた大内定綱《おおうちさだつな》と合《がつ》して、伊具郡《いぐごほり》を攻掠《こうりやく》せんとするを見《み》て、輝宗《てるむね》は兵《へい》を出《いだ》し、板谷峠《いたやたふげ》を踰《こ》え、大森城《おほもりじやう》を攻《せ》めんとするや、政宗《まさむね》は自《みづ》から先鋒《せんぽう》に當《あた》らんことを請《こ》うた。然《しか》も輝宗《てるむね》は之《これ》を許《ゆる》さず、共《とも》に携《たづさ》へて三|月《ぐわつ》十一|日《にち》米澤《よねざは》を發《はつ》した。而《しか》して七|月《ぐわつ》九|日《か》に歸城《きじやう》した。此《こ》れより以往《いわう》、政宗《まさむね》の前半生《ぜんはんせい》は、殆《ほと》んど戎馬《じゆうば》の間《あひだ》の消磨《せうま》した。
彼《かれ》は天正《てんしやう》十二|年《ねん》九|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、十八|歳《さい》にして、家督《かとく》を相續《さうぞく》した。此《こ》れより政宗《まさむね》は米澤城《よねざはじやう》に居《を》り、輝宗《てるむね》は宮森城《みやもりじやう》に移居《いきよ》した。同年《どうねん》十|月《ぐわつ》大内定綱《おほうちさだつな》は、前罪《ぜんざい》を謝《しや》して政宗《まさむね》の家督相續《かとくさうぞく》を來《きた》り賀《が》した。定綱《さだつな》は從來《じゆうらい》伊達氏《だてし》に屬《ぞく》したが、後《のち》佐竹《さたけ》、蘆名《あしな》二|氏《し》に從《したが》ひ、伊達氏《だてし》と戰《たゝか》うた。彼《かれ》曰《いは》く、某《それがし》が父《ちゝ》義綱《よしつな》は、晴宗君《はるむねぎみ》以來《いらい》伊達家《だてし》の恩徳《おんとく》を蒙《かうむ》つたが、内亂《ないらん》の爲《た》めに、田村氏《たむらし》に歸《き》し、爾來《じらい》佐竹《さたけ》、蘆名《あしな》二|氏《し》に就《つ》いたが、そは某《それがし》の本意《ほんい》でなかつた。希《こひねがは》くは邸地《ていち》を賜《たま》はり、親《した》しく奉仕《ほうし》せんと。政宗《まさむね》は定綱《さだつな》の來降《らうかう》を好機《かうき》として、大《おほ》いに爲《な》す所《ところ》あらんとした。
然《しか》も定綱《さだつな》は一|去《きよ》復《ま》た還《かへ》らず、天正《てんしやう》十三|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、政宗《まさむね》之《これ》を招《まね》く再《さい》三、定綱《さだつな》辭《じ》を左右《さいう》にして、來《きた》らなかつた。更《さ》らに人《ひと》を遣《つかは》し、其《そ》の命《めい》を傳《つた》へしめたが、定綱《さだつな》答《こた》へず。其《そ》の族人《ぞくじん》、大内長門《おほうちながと》傍《かたはら》にありて※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]言《やうげん》して曰《いは》く、瓜《うり》の蔓《つる》には瓜《うり》、蹴鷄《けどり》の兒《こ》は蹴鷄《けどり》、臆病者《おくびやうもの》の子《こ》に、勇者《ゆうしや》の出來《でき》る筈《はず》がない。政宗父祖以來《まさむねふそいらい》の遺風《ゐふう》では、其《そ》の弓矢《ゆみや》も覺束《おぼつか》ないものだ。それで我《われ》に敵《てき》するは、小鼠《こねづみ》が猫《ねこ》を窺《うかゞ》ふの類《るゐ》だ。(仙臺藩祖成績)[#「(仙臺藩祖成績)」は1段階小さな文字]
政宗《まさむね》、輝宗《てるむね》之《これ》を聞《き》いて、大《おほ》いに怒《いか》り、愈《いよい》よ大内定綱討伐《おほうちさだつなたうばつ》の議《ぎ》を決《けつ》した。而《しか》して三|月《ぐわつ》蘆名義廣《あしなよしひろ》が、大内定綱《おほうちさだつな》を援《たす》くるを聞《き》き、攻戰《こうせん》の策《さく》を定《さだ》めた。伊達氏《だてし》と蘆名氏《あしなし》との葛藤《かつとう》は、此《こ》れよりして愈《いよい》よ面倒《めんだう》を加《くは》へた。而《しか》して政宗《まさむね》の武略《ぶりやく》、調略《てうりやく》、兩《ふたつ》ながら卓越《たくゑつ》し、遂《つひ》に數年《すねん》の後《のち》には、蘆名氏《あしなし》を全滅《ぜんめつ》せしむるに到《いた》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【一〇】蘆名氏の滅亡[#中見出し終わり]

政宗《まさむね》が輝宗《てるむね》に襲《つ》いで、米澤城《よねざはじやう》に居《ゐ》る頃《ころ》は、伊達氏《だてし》は既《すで》に奧州《おうしう》伊達《だて》、信夫《しのぶ》、刈田《かつた》、柴田《しばた》、亘理《わたり》、及《およ》び出羽《では》置賜郡《おきたまごほり》を併《あは》せ領《りやう》し、居然《きよぜん》たる東北《とうほく》の勢力《せいりよく》であつた。而《しか》して之《これ》に衡抗《かうかう》するものは、山形《やまがた》の最上氏《もがみし》と、會津《あひづ》の蘆名氏《あしなし》であつた。最上義光《もがみよしあき》の姉《あね》は、伊達政宗《だてまさむね》の母《はゝ》で、蘆名盛興《あしなもりおき》の妻《つま》は、伊達政宗《だてまさむね》の伯母《をば》、即《すなは》ち祖父《そふ》晴宗《はるむね》の女《むすめ》であつた。彼等《かれら》は斯《か》く親縁《しんゑん》の關係《くわんけい》ではあつたが、自他《じた》の權力競爭《けんりよくきやうそう》は、是《こ》れが爲《た》めに何等《なんら》の緩和《くわんわ》をも來《き》たさなかつた。
扨《さて》も蘆名氏《あしなし》は、三|浦義明《うらよしあき》季子《きし》、佐原義連《さはらよしつら》が、文治《ぶんぢ》五|年《ねん》頼朝《よりとも》の爲《た》めに、會津《あひづ》四|郡《ぐん》に封《ほう》ぜられたより創《はじま》つた。爾來《じらい》其《そ》の一|族《ぞく》は、會津《あひづ》四|郡《ぐん》に蔓延《まんえん》し、盛氏《もりうぢ》に至《いた》りて、彌《いよい》よ強大《きやうだい》となり、始《はじ》めて敍爵《じよしやく》せられて、從《じゆ》五|位下《ゐげ》修理大夫《しゆりだいふ》に任《にん》ぜられた。其《そ》の女《むすめ》を結城義親《ゆふきよしちか》に妻《めあ》はし、其《そ》の子《こ》盛興《もりおき》の爲《た》めに、伊達晴宗《だてはるむね》の女《むすめ》を娶《めと》り、相馬盛胤《さうまもりたね》と相結《あひむす》び、附近《ふきん》の小大名《こだいみやう》を懷柔《くわいじう》し、屡《しばし》ば常陸《ひたち》の佐竹氏《さたけし》と兵《へい》を交《まじ》へた。而《しか》して彼《かれ》は天正《てんしやう》八|年《ねん》六|月《ぐわつ》、六十|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。
其《そ》の子《こ》の盛興《もりおき》は、彼《かれ》に先《さきだ》つて病死《びやうし》したから、其《そ》の親族《しんぞく》二|階堂盛義《かいだうもりよし》の子《こ》盛隆《もりたか》を嗣《し》とし、盛興《もりおき》の寡婦《かふ》、伊達氏《だてし》を娶《めあ》はした。盛隆《もりたか》は盛氏《もりうぢ》の妹《いもうと》の子《こ》で、即《すなは》ち其《そ》の姪《をひ》であつた。盛隆《もりたか》亦《ま》た凡骨《ぼんこつ》ではなかつた。彼《かれ》は天正《てんしやう》九|年《ねん》使《つかひ》を安土《あづち》に遣《つか》はし、駿馬《しゆんめ》三、花燭《くわしよく》一千を信長《のぶなが》に呈《てい》し、音信《おんしん》を通《つう》じ、爲《た》めに信長《のぶなが》執奏《しつそう》して、盛隆《もりたか》を三|浦介《うらのすけ》に補《ほ》した。而《しか》して又《ま》た人《ひと》を以《もつ》て、黄金《わうごん》三千|兩《りやう》を朝廷《てうてい》に奉《たてま》つた。
彼《かれ》は武田信玄《たけだしんげん》に遂《お》はれたる小笠原長時《をがさはらながとき》を、寄客《きかく》として、勅答文書《ちよくたふもんじよ》を定《さだ》めしめた。彼《かれ》の志《こゝろざし》は必《かなら》ずしも小《せう》でなかつた。然《しか》も彼《かれ》は傲慢《がうまん》自《みづ》から用《もち》ひ、勇《ゆう》を恃《たの》んで諫《いさめ》を拒《こば》み、遂《つ》ひに其《そ》の嬖臣《へいしん》大庭《おほば》三|左衞門《ざゑもん》の爲《た》めに、寢室《しんしつ》に於《おい》て殺《ころ》された。時《とき》に年《とし》二十四|歳《さい》。此《こ》れは天正《てんしやう》十一|年《ねん》十|月《ぐわつ》の事《こと》だ。其《そ》の子《こ》龜王《かめわう》は、幼弱《えうじやく》ながら繼《つ》いだが、やがて夭《えう》した爲《た》めに、佐竹義重《さたけよししげ》の二|男《なん》、義廣《よしひろ》を迎《むか》へて、相續《さうぞく》せしめた。
當時《たうじ》伊達政宗《だてまさむね》の弟《おとうと》正道《まさみち》を迎《むか》へんとんの議《ぎ》もあつたが、族臣《ぞくしん》猪苗代盛國《ゐなはしろもりくに》之《これ》に反對《はんたい》して曰《いは》く、伊達氏《だてし》と我《われ》とは、對抗《たいかう》の間柄《あひだがら》である。今《い》ま政宗《まさむね》の弟《おとうと》を當家《たうけ》の主《しゆ》と仰《あふ》ぐに於《おい》ては、如何《いか》に當家《たうけ》が繁昌《はんじやう》しても、兄弟《きやうだい》の關係《くわんけい》で、到底《たうてい》政宗《まさむね》には頭《あたま》が揚《あが》らぬことゝなる可《べ》しと。因《よつ》て佐竹義重《さたけよししげ》の二|男《なん》、結城義親《ゆふきよしちか》の養子《やうし》、義廣《よしひろ》を迎《むか》へたのだ。義廣《よしひろ》時《とき》に年《とし》十三、乃《すなは》ち盛隆《もりたか》の女《むすめ》に配《はい》した。
蘆名家《あしなけ》の御家騷動《おいへさうどう》は、此《こ》れから出《で》て來《き》た。そは從前《じゆうぜん》の重臣《ぢゆうしん》と、義廣《よしひろ》に佐竹家《さたけけ》より從《したが》ひ來《きた》つた新臣等《しんしんら》との衝突《しようとつ》であつた。蘆名家《あしなけ》には、猪苗代盛國《ゐなはしろもりくに》、新國貞道《にひくにさだみち》、金上盛備《かながみもりとも》、答守祐清《たふもりすけきよ》、横田氏勝《よこたうぢかつ》、河原田盛次《かはらもりつぐ》、富田氏實《とみたうぢざね》、平田氏範《ひらたうぢのり》、山内刑部少輔《やまのうちぎやうぶせういう》、佐瀬大和守《させやまとのかみ》、松本尠解由《まつもとかげゆ》、富田將監《とみたしやうげん》、伊奈源助等《いなげんすけら》一|族《ぞく》、歴々《れき/\》の譜第《ふだい》舊臣《きふしん》があつた。然《しか》るに義廣《よしひろ》に從《したが》ひ來《きた》れる大繩義辰《おほなはよしとき》、淵石駿河《ふちいしするが》、平井薩摩等《ひらゐさつまら》は、何《いづ》れも其《そ》の主人《しゆじん》を笠《かさ》に被《き》て、國政《こくせい》を與《あづ》かり聞《き》かんとし、互《たが》ひに黨《たう》を樹《た》てゝ相爭《あひあらそ》うた。此《こゝ》に於《おい》て盛氏《もりうぢ》、盛隆《もりたか》の寡婦《くわふ》伊達氏《だてし》は、金上盛備《かながみもりとも》を召《め》し、双方《さうはう》を和解《わかい》し、新到《しんたう》の三|人《にん》を、諸老《しよらう》の次席《じせき》たらしめたが、三|人《にん》は愈《いよい》よ其《そ》の權柄《けんぺい》に募《つの》り、家中《かちゆう》は倍※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》沸騰《ふつとう》した。
豫《かね》て虎視眈々《こしたん/\》たる伊達政宗《だてまさむね》は、いかでか此《こ》の好機《かうき》を看過《かんくわ》す可《べ》き。彼《かれ》は蘆名氏《あしなし》の内訌《ないこう》に乘《じよう》じて、遂《つ》ひに其《そ》の族臣《ぞくしん》猪苗代盛國《ゐなはしろもりくに》を誘拐《いうかい》した。盛國《もりくに》は當初《たうしよ》、否伊達派《ひだては》の魁首《くわいしゆ》にして、義廣《よしひろ》を佐竹家《さたけけ》より迎立《げいりつ》する張本人《ちやうほんにん》であつたに拘《かゝは》らず、其《そ》の參賀《さんが》に際《さい》して、義廣《よしひろ》が禮《れい》を缺《か》いたとて、爾來《じらい》却《かへ》つて義廣《よしひろ》と好《よ》からず、政宗《まさむね》に款《くわん》を通《つう》ぜんとしたが、其《そ》の子《こ》盛胤《もりたね》の苦諫《くかん》の爲《た》めに、當分《たうぶん》思《おも》ひ止《とゞま》つた。然《しか》も後《のち》に盛胤《もりたね》と不和《ふわ》となり、愈《いよい》よ政宗《まさむね》に内屬《ないぞく》を約《やく》した。而《しか》して蘆名家《あしなけ》の四|老臣《らうしん》佐瀬《させ》、平田《ひらた》、富田《とみた》、松本等《まつもとら》、亦《ま》た怏々《わう/\》として樂《たの》しまず、動《やゝ》もすれば政宗《まさむね》に内應《ないおう》せんとした。義廣《よしひろ》は盛國《もりくに》の反《はん》を聞《き》き、之《これ》を討《う》たんとしたが、其《そ》の臣《しん》富田盛隆《とみたもりたか》之《これ》を諫《いさ》めたれば、彼《かれ》は盛隆《もりたか》を以《もつ》て敵《てき》に通《つう》ずるものと怒《いか》り、之《これ》を手刄《しゆじん》した。義廣《よしひろ》の剛愎《がうふく》も、亦《ま》た此《こゝ》に至《いた》つて極《きは》まる。
斯《か》くて天正《てんしやう》十六|年《ねん》六|月《ぐわつ》、義廣《よしひろ》は兵《へい》一|萬《まん》六千を摺上原《すりがみはら》に出《いだ》し、政宗《まさむね》は猪苗代盛國《ゐなはしろもりくに》を先鋒《せんぱう》とし、兵《へい》二|萬《まん》三千を率《ひき》ゐ、摺上原《すりがみはら》の南《みなみ》に陣《ぢん》し、六|月《ぐわつ》五|日《か》大《おほ》いに摺上原《すりがみはら》に戰《たゝか》うた。義廣《よしひろ》は豪邁《がうまい》善《よ》く戰《たゝか》うたが、暴《ばう》を好《この》んで謀《はかりごと》なく、人心《じんしん》離反《りはん》し、此《こ》の激戰《げきせん》の間際《まぎは》に於《おい》て、敵《てき》に降《くだ》る者《もの》多《おほ》く、全《まつた》く敗走《はいそう》した。死傷《ししやう》實《じつ》に二千五百|人《にん》、首塚《くびづか》を築《きづ》いて三千|塚《づか》と稱《しよう》した。義廣《よしひろ》逃《のが》れて黒川城《くろかはじやう》に入《い》つたが、附近《ふきん》の諸城《しよじやう》何《いづ》れも風《ふう》を望《のぞ》んで伊達氏《だてし》に降《くだ》り、遂《つ》ひに黒川城《くろかはじやう》にも居《ゐ》たゝまらず、六|月《ぐわつ》十|日《か》、義廣《よしひろ》は、其《そ》の近臣《きんしん》三十|餘人《よにん》と、常陸《ひたち》に奔《はし》つた。此《かく》の如《ごと》くして蘆名氏《あしなし》は滅亡《めつばう》し、其《そ》の所領《しよりやう》[#ルビの「しよりやう」は底本では「しようやう」]は、悉《こと/″\》く伊達氏《だてし》の併有《へいいう》する所《ところ》となつた。
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[#6字下げ]義廣沒落政宗黒川城に入らるゝ事
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去る五日、摺上の軍敗れ、義廣、黒川へ引返されて後如何にもして政宗を追拂はんと、樣々に軍の評定ありけれども、一向墓々しき謀もなく、結句宗徒と頼もしく思はれたる富田、平田等さへ、隱謀を企て、政宗、三ツ橋の陣へ密に使を立て、味方に參らんと申入れたるを、政宗、仔細なく同心せられてより、昨日迄は、さりとも二心なげに見えたる郎從等、何しか今日は楚歌を謠ふ者のみ多かりける、剩へ義廣へ、案の外に使を立て、面々皆政宗へ心を寄せ申候間、早々當城を、何地へも落ちさせ給ひ候ふべし、さらずば行々、御爲め穩ならず候と申入れて、内々は富田、平田等が隱謀の如く、政宗、不日に黒川へ押寄せらるゝ由、上下一同にひそめきければ、痛はしや義廣は、蜀の劉備の鵲、南飛の嘲を得、楚の項籍の、騅不[#レ]行を歌へる心地にて御座したりしを、舊功の郎從共、面々意見し進らするは、夫れ勝負の相半する事、皆兵を率ゐ、武を專にする者の習なり、暫く今の小疵を忍ばれ、專ら後の大義を立て給はんこと、偏に武門の棟梁なる御器なるべけれ、一先づ此急難を免れさせ給ひ、向後御父義重公の御力を合せられ、再び黒川へ亂れ入りて、田單が七十城を復し、孫※[#「(月+嬪のつくり、第3水準1-90-54)の旧字か?」、53-3]が五萬竈を減ぜる、古き跡をも追はせ給へと、衆議一途に進めければ、痛はしや義廣、同十日の夕さりに、黒川の城を立出で給ひ、葦原越より、白河の關路を指して落ちられける。(中略)
六月十日の夕さり、義廣、黒川を沒落なれば、富田、平田等を始め、内々隱謀の者共、さしたり時の幸と喜び合ひて、早や政宗、三ツ橋の陣へ使を立て、爰許爾々の爲體にて御座候間、早々御移の沙汰、御延引あるべからず候と、頻竝に申入れたりければ、政宗、累年の本意を今ぞ遂げぬと、いと浮きやかになりて、今夜は夜陰なれば、明日は午の以前に、黒川へ打入るべし、面々今夜より、其用意油斷なせそと、そゞろに下知して喜び合へり、程なく其夜も明けて、十一日の曙の頃より、供の行粧引繕ひ、七ノ宮伯耆は、先年盛氏に奉公し、會津の案内者なりとて、七ノ宮に先陣せさせ、金川の橋より、海道を正直に、黒川の城へぞ入られける。〔會津四家合考〕
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[#5字下げ][#中見出し]【一一】伊達氏の外交[#中見出し終わり]

伊達氏《だてし》は自《みづか》ら唱《とな》へて、奧州探題《あうしうたんだい》と稱《しよう》した。夙《つと》に上國《じやうこく》に通《つう》じ、敍爵《じよしやく》し、瀝世《れきせい》足利將軍《あしかゞしやうぐん》の偏諱《へんゐ》を授《さづ》けられた。されば其《そ》の近隣《きんりん》の諸大名《しよだいみやう》に比《ひ》して、外交的優勢《ぐわいかうてきいうせい》の地《ち》を占《し》めたのは、當然《たうぜん》であつた。而《しか》して伊達氏《だてし》は亦《ま》た此《こ》の地位《ちゐ》を利用《りよう》するに於《おい》て、拔目《ぬけめ》なかつた。何《いづ》れの時代《じだい》も、遠交近攻《ゑんかうきんこう》は、戰國《せんごく》の恒《つね》である。而《しか》して伊達氏《だてし》も亦《ま》た、此《こ》の策《さく》を應用《おうよう》するに於《おい》て、遺憾《ゐかん》なかつた。其《そ》の對手《あひて》は北條氏《ほうでうし》、織田氏《おだし》、豐臣氏《とよとみし》、徳川氏《とくがはし》であつた。而《しか》して北條《ほうでう》、織田《おだ》、徳川《とくがは》、豐臣《とよとみ》諸氏《しよし》も亦《ま》た然《しか》りであつた。要《えう》するに互《たが》ひに利用《りよう》し、且《か》つ利用《りよう》せられたのだ。但《た》だ最後《さいご》に豐臣氏《とよとみし》と、北條氏《ほうでうし》との戰鬪開始《せんとうかいし》に際《さい》し、伊達氏《だてし》も聊《いさゝ》か其《そ》の去就《きよしう》に彷徨《はうくわう》するの状《じやう》があつた。然《しか》も政宗《まさむね》の機智《きち》と、膽略《たんりやく》とは、遂《つひ》に其《そ》の破綻《はたん》を彌縫《びほう》し畢《を》ほせた。その事《こと》は、小田原役《をだはらえき》を語《かた》るに際《さい》して、詳悉《しやうしつ》するであらう。
伊達氏《だてし》と北條氏《ほうでうし》との音問《いんもん》は、政宗《まさむね》の祖父《そふ》晴宗《はるむね》と、北條氏康《ほうでううぢやす》との間《あひだ》に始《はじ》まつた。
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雖[#二]未申通候[#一]《いまだまをしつうぜずさふらふといへども》令[#レ]啓候《けいせしめさふらふ》。向後者《きやうごは》、遠境候共《ゑんきやうにさふらふとも》、細々《こま/″\》可[#二]申述[#一]候《まをしのぶべくさふらふ》、御同意《ごどうい》可[#レ]爲[#二]本望[#一]候《ほんまうたるべくさふらふ》。仍《よつて》太刀《たち》一腰《ひとこし》定利[#「定利」は1段階小さな文字]、金襴《きんらん》三卷[#「三卷」は1段階小さな文字]、進[#レ]之候《これをすゝめさふらふ》。委曲《ゐきよく》小柳河方《こやながはかた》、中野常陸守《なかのひたちのかみ》下向之間《げかうのあひだ》、馮入候《たのみいれさふらふ》。定《さだめて》可[#レ]被[#レ]申候《まをさるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
  八月八日 (永祿五年?)[#「(永祿五年?)」は1段階小さな文字][#地から1字上げ]〔伊達家文書〕[#「〔伊達家文書〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは氏康《うぢやす》から伊達晴宗《だてはるむね》(?)に與《あた》へた書信《しよしん》である。流石《さすが》に氏康《うぢやす》は遠謀深慮《ゑんぼうしんりよ》の士《し》であつた。北條《ほうでう》と伊達《だて》とは、其《そ》の間《あひだ》に介在《かいざい》する關東《くわんとう》、及《およ》び會津方面《あひづはうめん》の諸土豪《しよどがう》に對《たい》して、共通《きようつう》の利害《りがい》を有《いう》した。乃《すなは》ち常陸《ひたち》の佐竹《さたけ》の如《ごと》きは、双方《さうはう》の敵《てき》であつた。彼等《かれら》が提携《ていけい》は、寔《まこと》に自然《しぜん》の結果《けつくわ》と云《い》はねばならぬ。
伊達《だて》と北條《ほうでう》とは、伊達《だて》が受身《うけみ》であつたが、信長《のぶなが》とは、伊達《だて》より先《ま》づ好《よしみ》を通《つう》じた。そは足利將軍《あしかゞしやうぐん》に通《つう》じた慣例《くわんれい》に則《のつと》り、自《みづ》から進《すゝ》んで信長《のぶなが》の驩心《くわんしん》を求《もと》めたのであらう。
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去《さる》十|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》の珍簡《ちんかん》、近日《きんじつ》到來《たうらい》、令[#二]拜披[#一]候《はいひせしめさふらふ》。誠《まことに》遼遠《れうゑん》示給候《しめしたまひさふらふ》、本懷《ほんくわい》不[#レ]淺候《あさからずさふらふ》。殊《ことに》[#「ことに」は底本では「こと」]庭籠之鴾《にはかごのうづら》鷹《たか》一聯《いちれん》、同巣《どうす》大小《だいせう》被[#二]相副[#一]候《あひそへられさふらふ》。稀有之至《けうのいたり》、觀悦《くわんえつ》不[#レ]斜候《なゝめならずさふらふ》。鷹之儀《たかのぎは》累年《るゐねん》隨身《ずゐしん》異[#二]于他[#一]之處《たにことなるところ》、執[#レ]之《これをとりて》送給候《おくりたまひさふらふ》、別而《べつして》自愛《じあひ》此節候《このせつにさふらふ》。則《すなはち》構[#二]鳥屋[#一]《とりやをかまへ》可[#二]入置[#一]候《いれおくべくさふらふ》、秘藏《ひざう》無[#レ]他候《たになくさふらふ》。
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以上《いじやう》は鷹《たか》の贈《おく》りものに對《たい》する信長《のぶなが》の禮状《れいじやう》である。鷹狩《たかがり》は信長《のぶなが》の大好物《だいかうぶつ》であつた、彼《かれ》の滿足《まんぞく》知《し》る可《べ》しだ。信長《のぶなが》は此《こ》の機會《きくわい》を利用《りよう》して、例《れい》のプロパガンダをやつた。
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仍《なほ》天下之儀《てんかのぎ》如[#二]相聞[#一]候《あひきこえのごとくにさふらふ》。公儀《こうぎ》(足利義昭)[#「(足利義昭)」は1段階小さな文字]御入洛《ごじゆらくに》令[#二]供奉[#一]《ぐぶせしめ》、城都《じやうと》被[#レ]遂[#二]御安座[#一]《ごあんざをとげられ》、數年《すねん》靜謐之處《せいひつのところ》、甲州武田《かふしうのたけだ》、越前朝倉已下《ゑちぜんのあさくらいか》、諸侯之佞人《しよこうのねいじん》、一兩輩《いちりやうはい》相語申《あひかたらひまをし》、妨[#二]公儀[#一]《こうぎをさまたげ》、被[#レ]企[#二]御逆心[#一]候《おんぎやくしんをくはだてられさふらふ》。無[#二]是非[#一]《ぜひなき》題目《だいもく》、無念《むねん》不[#レ]少候《すくなからずさふらふ》。然間《しかるあひだ》爲[#レ]可[#レ]及[#二]其斷[#一]《そのことはりにおよぶべきため》、上洛之處《じやうらくのところ》、若君《わかぎみ》被[#二]渡置[#一]《わたしおかれ》、京都《きやうと》有[#二]御退城[#一]《ごたいじやうあり》、紀州《きしう》熊野邊《くまのへん》流落之由候《るらくのよしにさふらふ》。然而《しかして》武田入道《たけだにふだう》(信玄)[#「(信玄)」は1段階小さな文字]令[#二]病死[#一]候《びやうしせしめさふらふ》。朝倉義景《あさくらよしかげ》於[#二]江越境目[#一]《かうゑつのさかひめにおいて》、去《さる》八|月《ぐわつ》遂[#二]一戰[#一]《いつせんをとげ》、即時《そくじ》得[#二]大利[#一]《たいりをえ》、首《くび》三千|餘《よ》討捕《うちとり》、直《すぐに》越國《ゑつこく》へ切入《きりいり》、義景刎[#レ]首《よしかげのくびをはね》、一國《いつこく》平均《へいきん》に申付候《まをしつけさふらふ》。
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以上《いじやう》は從來《じゆうらい》の經過《けいくわ》を辯明《べんめい》し、且《か》つ報告《はうこく》したのだ。
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其以來《それいらい》若狹《わかさ》、能登《のと》、加賀《かゞ》、越中《ゑつちゆう》、皆以《みなもつて》爲[#二]分國[#一]《ぶんこくとなし》屬[#二]存分[#一]候《ぞんぶんにぞくしさふらふ》。五畿内之儀《ごきないのぎ》不[#レ]覃[#レ]申《まをすにおよばず》、至[#二]中國[#一]《ちゆうごくまで》任[#二]下知[#一]候次第《げちにまかせさふらふしだい》、不[#レ]可[#レ]有[#二]其隱[#一]候《そのかくれあるべからずさふらふ》。來年《らいねん》甲州《かふしうへ》令[#二]發向[#一]《はつかうせしめ》、關東之儀《くわんとうのぎ》可[#二]成敗[#一]候《せいばいすべくさふらふ》。其砌《そのみぎり》深重《しんちように》可[#二]申談[#一]候《まをしだんずべくさふらふ》。御入魂《ごじゆつこん》專要候《せんえうにさふらふ》。猶《なほ》以[#二]芳問[#一]《はうもんをもつて》大慶候《たいけいにさふらふ》。必《かならず》從[#レ]是《これより》[#ルビの「これより」は底本では「こより」]可[#二]申展[#一]之條《まをしのぶべくのでう》、抛[#レ]筆候《ふでをなげさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
  十二月廿八日 (天正元年)[#「(天正元年)」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》は現在《げんざい》を吹聽《ふゐちやう》し、將來《しやうらい》の希望《きばう》を陳《の》べたのだ。固《もと》より誇張《くわちやう》は、プロパガンダの本色《ほんしよく》なれば、必《かなら》ずしも精確《せいかく》の事實《じじつ》であると、否《いな》とを問《と》はぬのだ。天正《てんしやう》五|年《ねん》閏《うるふ》七|月《ぐわつ》廿三|日附《にちづけ》にて、信長《のぶなが》が輝宗《てるむね》に向《むか》つて、謙信《けんしん》の叛臣《はんしん》本庄繁長《ほんじやうしげなが》(雨順齋)[#「(雨順齋)」は1段階小さな文字]と協力《けふりよく》して、謙信《けんしん》を退治《たいぢ》す可《べ》く命《めい》じた書簡《しよかん》は、既記《きき》の通《とほ》りである。〔參照 織田氏時代中篇、三五、織田上杉の斷交〕[#「〔參照 織田氏時代中篇、三五、織田上杉の斷交〕」は1段階小さな文字]
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若《も》し夫《そ》れ豐臣氏《とよとみし》は、織田氏《おだし》の相續者《さうぞくしや》として、此《こ》の關係《くわんけい》をも、相續《さうぞく》した。家康《いへやす》に至《いた》りては、其《そ》の關係《くわんけい》は、亦《ま》た鷹《たか》より始《はじま》つた。
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雖[#二]未申通候[#一]《いまだまをしつうぜずさふらふといへども》、以[#二]一簡[#一]《いつかんをもつて》令[#二]啓達[#一]候《けいたつせしめさふらふ》。仍《なほ》鷹《たか》爲[#二]所持[#一]《しよぢさせ》、鷹師《たかし》差下候《さしくだしさふらふ》。路次往還《ろじわうくわん》無[#二]異議[#一]候樣《いぎなくさふらふやう》、被[#二]仰付[#一]給候者《おほせつけられたまはりさふらへば》、可[#レ]爲[#二]怡悦[#一]候《いえつたるべくさふらふ》。兼《かねて》又《また》向後之儀《きやうごのぎ》、別而《べつして》可[#二]申談[#一]《まをしだんずべき》所存候《しよぞんにさふらふ》。於[#二]御同意[#一]者《ごどういにおいては》、可[#レ]爲[#二]本望[#一]候《ほんまうたるべくさふらふ》。次《つぎに》上方御用之儀《かみがたごようのぎ》、可[#レ]蒙[#レ]仰候《おほせをかうむるべくさふらふ》、不[#レ]可[#レ]有[#二]疎意[#一]候《そいあるべからずさふらふ》。委細《ゐさい》尚《なほ》彼《かれに》口上申含候《こうじやうまをしふくめさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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此《かく》の如《ごと》く家康《いへやす》より輝宗《てるむね》に申《まを》し通《つう》じた。爾來《じらい》伊達氏《だてし》と徳川氏《とくがはし》とは、明治維新《めいぢゐしん》の際迄《さいまで》、密接《みつせつ》の關係《くわんけい》を來《きた》した。豐臣《とよとみ》の中晩期《ちゆうばんき》、徳川《とくがは》の初期《しよき》に於《おい》て、徳川《とくがは》が伊達《だて》を庇護《ひご》し、伊達《だて》が徳川《とくがは》に奉仕《ほうし》したる、是亦《これま》た不思議《ふしぎ》の因縁《いんねん》と云《い》ふ可《べ》しだ。
惟《おも》ふに伊達氏《だてし》の外交《ぐわいかう》は、其《そ》の東北《とうほく》に於《お》ける地位《ちゐ》と、勢力《せいりよく》とが、其《そ》の重《おも》きを做《な》し、我《われ》より他《た》に求《もと》めず、却《かへ》つて他《た》をして我《われ》に求《もと》めしめたる趣《おもむき》があつた。然《しか》も其《そ》の自然《しぜん》の順境《じゆんきやう》を、飽迄《あくまで》も利用《りよう》した事《こと》は、伊達氏《だてし》の腕前《うでまへ》と云《い》はねばなるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【一二】北條氏の勢力[#中見出し終わり]

要《えう》するに東北《とうほく》にては、伊達氏《だてし》が雄※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]《ゆうけい》の雌群《しぐん》にあるが如《ごと》く、飛揚跋扈《ひやうばつこ》した。山形《やまがた》の最上氏《もがみし》は、一|方《ぱう》伊達氏《だてし》、他方《たはう》上杉氏《うへすぎし》の間《あひだ》に挾《はさ》まり、大《おほ》いに其《そ》の力《ちから》を逞《たくまし》うするを得《え》なかつたに拘《かゝは》らず、尚《な》ほ其《そ》の餘威《よゐ》を、莊内《しやうない》の武藤氏《むとうし》、横手《よこて》の小野寺氏《をのでらし》に及《およ》ぼし、幾許《いくばく》の土豪《どがう》を壓迫《あつぱく》しつゝあつた。奧州《あうしう》の奧地《おくち》、秋田方面《あきたはうめん》には、秋田實季《あきたさねすゑ》あり、其《そ》の勢力《せいりよく》を振《ふる》うたが、概《がい》して羽後《うご》の地《ち》は、小雄割據《せうゆうかつきよ》であつた。南部《なんぶ》、津輕《つがる》の如《ごと》きも、亦《ま》た各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》方隈《はうぐう》に割據《かつきよ》し、互《たが》ひに反目《はんもく》しつゝあつた。然《しか》も彼等《かれら》は何《いづ》[#ルビの「いづ」は底本では「つづ」]れも、疑《くわん》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じて居《ゐ》た。而《しか》して關東方面《くわんとうはうめん》に突出《とつしゆつ》せんとする、伊達氏《だてし》の勢力《せいりよく》を遮《さへぎ》るものは、實《じつ》に關東諸土豪《くわんとうしよどがう》の牛耳《ぎうじ》を取《と》れる、佐竹氏《さたけし》あるのみであつた。
天正《てんしやう》十七|年《ねん》の下半期《しもはんき》、秀吉《ひでよし》の愈《いよい》よ北條征伐《ほうでうせいばつ》を決《けつ》するに際《さい》しては、伊達氏《だてし》は極盛《きよくせい》の運《うん》に達《たつ》して居《ゐ》た。當時《たうじ》彼《かれ》は蘆名氏《あしなし》を亡《ほろぼ》し、二|階堂氏《かいだうし》を併《あは》せ、結城義親《ゆふきよしちか》、石川昭光《いしかはあきみつ》、岩城常隆《いはきつねたか》、皆《み》な伊達氏《だてし》に降《くだ》りたれば、會津《あひづ》四|郡《ぐん》、仙道《せんだう》七|郡《ぐん》を占《し》め、其《そ》の領土《りやうど》は、西《にし》は越後《ゑちご》に於《おい》て、上杉氏《うへすぎし》と境《さかひ》を接《せつ》し、東《ひがし》は三|春《はる》に及《およ》び、北《きた》は出羽《では》に跨《またが》り、南《みなみ》は白河《しらかは》を過《す》ぎ、下野《しもつけ》の一|部《ぶ》に及《およ》び、會津《あひづ》を主地《しゆぢ》の地《ち》となし、居《きよ》を之《これ》に移《うつ》し、其《そ》の石高《こくだか》二百|萬《まん》を出《い》で、虚《きよ》に乘《じよう》じて、關東《くわんとう》に突出《とつしゆつ》せんとする状《さま》を示《しめ》した。
秀吉《ひでよし》が伊達《だて》を退治《たいぢ》するは、是《こ》れ東北《とうほく》を退治《たいぢ》する所以《ゆゑん》と見《み》たのは、當然《たうぜん》だ。然《しか》も北條《ほうでう》を退治《たいぢ》するは、伊達《だて》を退治《たいぢ》する所以《ゆゑん》であつた。北條《ほうでう》が關東《くわんとう》に蟠《わだか》まる間《あひだ》は、如何《いか》なる手《て》も、東北《とうほく》に及《およ》ぶ可《べ》くもなかつた。されば平和的手段《へいわてきしゆだん》にせよ、戰鬪《せんとう》にせよ、何《いづれ》にしても北條《ほうでう》を叩頭《こうとう》せしむるは、東北日本《とうほくにほん》を平定《へいてい》する所以《ゆゑん》の長策《ちやうさく》のみならず、唯一《ゆゐいつ》の策《さく》であつた。秀吉《ひでよし》が北條懷柔《ほうでうくわいじう》に、而《しか》して征伐《せいばつ》に、其《そ》の力《ちから》を竭《つく》したるも、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》でない。
抑《そもそ》も北條氏《ほうでうし》は、早雲《さううん》以來《いらい》、既《すで》に五|代《だい》を經《へ》、既《すで》に百|年《ねん》に垂《なんな》んとして居《ゐ》る。始祖《しそ》北條早雲《ほうでうさううん》、即《すなは》ち伊勢新《いせしん》九|郎義氏《らうよしうぢ》が、應仁《おうにん》の亂《らん》に京都《きやうと》より伊勢《いせ》に奔《はし》り、文明《ぶんめい》八|年《ねん》關東《くわんとう》に下《くだ》り、先《ま》づ駿河《するが》の今川義忠《いまがはよしたゞ》に依《よ》り、それより伊豆《いづ》を略《りやく》し、相模《さがみ》を取《と》り、赤手《せきしゆ》にして北條氏《ほうでうし》の基《もとゐ》を定《さだ》め、永正《えいしやう》十六|年《ねん》八十八|歳《さい》にて逝《ゆ》いて以來《いらい》、氏綱《うぢつな》、氏康《うぢやす》を經《へ》て、氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》に至《いた》つた。氏綱《うぢつな》は容貌《ようばう》魁梧《くわいご》、善《よ》く兵《へい》を用《もち》ひ、父《ちゝ》の業《げふ》を成《な》すに與《あづか》りて力《ちから》あつた。彼《かれ》は天文《てんぶん》十|年《ねん》五十五|歳《さい》で逝《ゆ》いた。其《そ》の子《こ》氏康《うぢやす》は十六|歳《さい》で其《そ》の跡《あと》を襲《おそ》うた。氏康《うぢやす》は北條氏《ほうでうし》歴代《れきだい》に於《おい》て、最《もつと》も傑出《けつしゆつ》の一|人《にん》であつた。彼《かれ》が文武《ぶんぶ》の材略《ざいりやく》あつたことは、既記《きき》の通《とほ》りである。〔參照 織田氏時代前篇、八四、北條氏と上杉氏〕[#「〔參照 織田氏時代前篇、八四、北條氏と上杉氏〕」は1段階小さな文字]而《しか》して其《そ》の毛利元就《まうりもとなり》と、東西對照的《とうざいたいせうてき》の人物《じんぶつ》であつたことも、既記《きき》の通《とほ》りである。〔參照 織田氏時代中篇、七四、元就と氏康〕[#「〔參照 織田氏時代中篇、七四、元就と氏康〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は實《じつ》に早雲《さううん》以來《いらい》の業《げふ》を大成《たいせい》し、元龜《げんき》元年《ぐわんねん》五十六|歳《さい》で逝《ゆ》いた。其《そ》の子《こ》氏政《うぢまさ》は天正《てんしやう》十八|年《ねん》五十三|歳《さい》、氏政《うぢまさ》の子《こ》氏直《うぢなほ》同《どう》二十九|歳《さい》。氏政《うぢまさ》は天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》其《そ》の家《いへ》を氏直《うぢなほ》に讓《ゆづ》り、截流齋《せつりうさい》と號《がう》し、隱居《ゐんきよ》したが、尚《な》ほ國政《こくせい》を與《あづか》り聽《き》いて居《ゐ》た。而《しか》して父子共《ふしとも》に小田原城《をだはらじやう》に居《ゐ》た。
當時《たうじ》北條氏《ほうでうし》の領域《りやうゐき》は、關《くわん》八|州《しう》と稱《しよう》したが、確實《かくじつ》に云《い》へば、伊豆《いづ》、相模《さがみ》、武藏《むさし》、上總等《かづさとう》は全部《ぜんぶ》。下總《しもふさ》には結城晴朝《ゆふきはるとも》の十|萬石《まんごく》を除《のぞ》き、上野《かうづけ》は眞田昌幸《さなだまさゆき》との爭地《さうち》、沼田《ぬまた》の一|小部分《せうぶぶん》を除《のぞ》き、常陸《ひたち》は鹿島《かしま》、行方《なめかた》、新治《にひはり》、信太《しのだ》、河内《かはち》、筑波等《つくばとう》南部《なんぶ》六|郡《ぐん》を占《し》め。下野《しもつけ》は都賀《つが》、安蘇《あそ》、足利《あしかゞ》、梁田《やなだ》、寒川等《さむがはとう》南部《なんぶ》の五|郡《ぐん》を占《し》め。駿河《するが》は黄瀬川《きせがは》以東《いとう》の約《やく》二|萬石《まんごく》を占《し》め、通計《つうけい》二百八十五|萬石《まんごく》と云《い》ふ大封《たいほう》であつた。〔日本戰史、小田原役〕[#「〔日本戰史、小田原役〕」は1段階小さな文字]
單《ひと》り元就《もとなり》と氏康《うぢやす》とが、類似《るゐじ》の點《てん》多《おほ》きのみならず、中國《ちゆうごく》に於《お》ける毛利氏《まうりし》と、關東《くわんとう》に於《お》ける北條氏《ほうでうし》とは、亦《ま》た互《たが》ひに類似《るゐじ》の點《てん》が少《すくな》くなかつた。然《しか》るに拘《かゝは》らず、一は存《そん》し、一は亡《ほろ》びた所以《ゆゑん》は、何故《なにゆゑ》であらう。毛利氏《まうりし》に小早川隆景《こばやかはたかかげ》の如《ごと》き智者《ちしや》あり、北條氏《ほうでうし》に其《そ》の人《ひと》なかりしが爲《た》めであつたらう乎《か》。否《いな》北條氏《ほうでうし》に隆景《たかかげ》あるも、果《はた》して其《そ》の畫策《くわくさく》が採用《さいよう》せられたや否《いな》やが、疑問《ぎもん》である。何《なん》となれば毛利氏《まうりし》は、元就《もとなり》より其《そ》の孫《まご》輝元《てるもと》に直傳《ちよくでん》し、吉川元春《きつかはもとはる》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》、何《いづ》れも元就《もとなり》の子《こ》として、共《とも》に直接《ちよくせつ》、創業《さうげふ》の艱難《かんなん》を甞《な》めて居《ゐ》た。其《そ》の將士《しやうし》、幕下《ばくか》、何《いづ》れも同樣《どうやう》の者《もの》が多《おほ》くあつた。然《しか》も北條氏《ほうでうし》に至《いた》りては、老舖《しにせ》たる惰氣《だき》、怠氣《たいき》、驕氣《けうき》、慢氣《まんき》は滿々《まん/\》として居《ゐ》た。されば大概《たいがい》の賢明《けんめい》の者《もの》では、とても此《こ》の停滯《ていたい》、腐敗《ふはい》したる雰圍氣《ふんゐき》の外《ほか》に、超出《てうしゆつ》することは出來《でき》ないのだ。北條氏《ほうでうし》の滅亡《めつばう》は、必《かなら》ずしも、氏直《うぢなほ》の罪《つみ》のみではない。

[#5字下げ][#中見出し]【一三】北條氏政[#中見出し終わり]

北條氏政《ほうでううぢまさ》は、必《かなら》ずしも柔弱《じうじやく》、暗愚《あんぐ》の君《きみ》ではなかつた。彼《かれ》も流石《さすが》に氏康《うぢやす》の子《こ》丈《だ》けありて、一|人前《にんまへ》の漢《をのこ》には相違《さうゐ》なかつた。併《しか》し彼《かれ》には當初《たうしよ》より、老舖《しにせ》の若旦那《わかだんな》氣質《かたぎ》が、附《つ》き纒《まと》うて居《ゐ》た。即《すなは》ち彼《かれ》は据膳《すゑぜん》を喰《く》ひつゝ成人《せいじん》したから、世態人情《せたいにんじやう》を察《さつ》す可《べ》き修養《しうやう》を缺《か》いた。斯《かゝ》る漢《をのこ》にも、若《も》し遠慮《ゑんりよ》、卓見《たくけん》の師父《しふ》があり、補佐役《ほさやく》があらば、聊《いさゝ》か其《そ》の缺點《けつてん》を取《と》り繕《つくろ》ふことが出來《でき》たであらうが、君《きみ》此《かく》の如《ごと》くなれば、臣《しん》も亦《ま》た此《かく》の如《ごと》しで、北條氏《ほうでうし》の臣下《しんか》は、氏政《うぢまさ》の徒乎《とか》、或《あるひ》は氏政《うぢまさ》に輪《わ》を掛《か》けて、驕慢《けうまん》、怠傲《たいがう》の徒《と》であつた。
[#ここから1字下げ]
其《その》御陣《ごぢん》(松山)[#「(松山)」は1段階小さな文字]兎角《とかく》ありて、四|月《ぐわつ》(永祿五年)[#「(永祿五年)」は1段階小さな文字]末《まつ》になり、麥《むぎ》を刈《か》りて、馬《うま》の持《も》ち通《とほ》る。北條氏政《ほうでううぢまさ》御覽《ごらん》じて、仰《おほ》せらるゝは、松田《まつだ》(憲秀)[#「(憲秀)」は1段階小さな文字]あれを麥飯《ばくはん》に仕《つかまつ》り、早々《さう/\》是《これ》へ出《だ》せと御申候《おんまをしさふらふ》。信玄公《しんげんこう》聞召《きこしめ》して、流石《さすが》に氏政《うぢまさ》は大身《たいしん》にて候故《さふらふゆゑ》、御存知《ごぞんじ》なきは道理《だうり》なり。あれは先《ま》づこき候《さふらう》て、こなして乾《かわか》して搗《つ》きて、又《また》乾《かわか》して、其後《そののち》眞搗《ほんづき》と云《い》ふを仕《つかまつ》り、するえましと申《まをす》に成《な》して、水《みづ》を入《い》れ、能《よ》く煮候《にさふらう》て、麥飯《ばくはん》に成《な》し申《まをす》と、信玄公《しんげんこう》|被[#レ]仰《おほせられ》、北條家《ほうでうけ》の松田《まつだ》、大道寺《だいだうじ》(政繁)[#「(政繁)」は1段階小さな文字]を始《はじ》め、信玄公《しんげんこう》の氏政《うぢまさ》をさげすみ給《たま》ふと、笑止《せうし》に存《ぞん》ずるなり。〔甲陽軍鑑〕[#「〔甲陽軍鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは事實《じじつ》である乎《か》、否乎《いなか》は、姑《しば》らく措《お》き、氏政《うぢまさ》の若旦那《わかだんな》氣質《かたぎ》が、能《よ》く此《こ》の物語《ものがたり》に暴露《ばくろ》せられて居《ゐ》る。
氏政《うぢまさ》一|日《じつ》、其《そ》の父《ちゝ》氏康《うぢやす》の前《まへ》にて、侍食《じしよく》したが、氏康《うぢやす》は落涙《らくるゐ》して曰《いは》く、嗚呼《ああ》北條家《ほうでうけ》も、我《われ》一|代《だい》にて終《をは》る哩《わい》と。氏政《うぢまさ》は勿論《もちろん》、侍座《じざ》の面々《めん/\》、何《いづ》れも興《きよう》を醒《さま》したが、氏政《うぢまさ》の申《まを》す樣《やう》、今《いま》氏政《うぢまさ》の食《しよく》するを見《み》れば、一|飯《ぱん》に兩度《りやうど》汁《しる》を掛《か》けて喫《きつ》した。食事《しよくじ》は貴賤《きせん》に限《かぎ》らず、何人《なんびと》も日常《にちじやう》の事《こと》なれば、其《そ》の心得《こゝろえ》[#ルビの「こゝろえ」は底本では「ころゝえ」]なくては叶《かな》はぬ事《こと》ぢや。然《しか》るに一|飯《ぱん》に汁《しる》を掛《か》くる積《つも》りを覺《おぼ》えずして、足《た》らざればとて、重《かさ》ねて掛《か》くるとは、何《なん》たる不心得《ふこゝろえ》の事《こと》ぞや、斯《かゝ》る粗漏《そろう》の了見《れうけん》では、とても人物《じんぶつ》を識別《しきべつ》し、人心《じんしん》を收攬《しうらん》する事《こと》は成《な》る間敷也《まじきなり》。斯《か》くては善《よ》き士《し》は持《も》てず。善《よ》き士《し》なければ、此《こ》の油斷《ゆだん》も、隙《すき》もなき、戰國《せんごく》の世《よ》の中《なか》、我《われ》明日《みやうにち》にも死《し》なば、必《かなら》ず何人《なんぴと》か四|境《きやう》より亂入《らんにふ》し、氏政《うぢまさ》を亡《ほろ》ぼすこと、疑《うたが》ひある可《べ》からずと。〔名將言行録〕[#「〔名將言行録〕」は1段階小さな文字]是《これ》も亦《ま》た事實《じじつ》の詮議《せんぎ》は姑《しば》らく措《お》き、氏政《うぢまさ》の若旦那《わかだんな》氣質《かたぎ》が、能《よ》く暴露《ばくろ》せられたる話《はなし》だ。
氏政《うぢまさ》は必《かなら》ずしも、今川氏眞《いまがはうぢざね》の如《ごと》き、不肖兒《ふせうじ》ではなかつた。されど彼《かれ》が相續《さうぞく》したる、三百|萬石《まんごく》に近《ちか》き大封《たいほう》と、百|年《ねん》に垂《なんな》んとする歴史《れきし》とは、彼《かれ》をして遂《つ》ひに當時《たうじ》の時勢《じせい》を、正《たゞ》しく解釋《かいしやく》する能力《のうりよく》を、失墜《しつつゐ》せしめた。彼《かれ》とても相應《さうおう》の外交政策《ぐわいかうせいさく》を取《と》り來《きた》らぬことはなかつた。併《しか》しながら其《そ》の上杉《うへすぎ》、武田《たけだ》、今川等《いまがはら》に對《たい》しては、氏康《うぢやす》以來《いらい》の行《ゆ》き掛《がゝ》りを辿《たど》りて、別段《べつだん》大《だい》なる失敗《しつぱい》もなかつたが、對《たい》織田氏《おだし》に於《おい》ては、頗《すこぶ》る不首尾《ふしゆび》であつた。
氏政《うぢまさ》は、信長《のぶなが》が武田勝頼《たけだかつより》征伐《せいばつ》に際《さい》して、徳川《とくがは》と與《とも》に、相策應《あひさくおう》す可《べ》きであつたが、其《そ》の措置《そち》の宜《よろ》しきを失《しつ》した爲《た》めに、信長《のぶなが》の瞋《いかり》を沽《か》ひ、彊《つと》めて其《そ》の不機嫌《ふきげん》を取《と》り直《なほ》さんと、樣々《さま/″\》に手《て》を盡《つく》したことは、既記《きき》の通《とほ》りであつた。〔參照 織田氏時代後篇、六二、六三、信長の凱旋、(一)、(二)、〕[#「〔參照 織田氏時代後篇、六二、六三、信長の凱旋、(一)、(二)、〕」は1段階小さな文字]要《えう》するに氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》は固《もと》より、北條家《ほうでうけ》には、機敏《きびん》なる外交家《ぐわいかうか》は、一|人《にん》も居《を》らなかつたのだ。
更《さら》に氏政《うぢまさ》父子《ふし》、徳川家康《とくがはいへやす》と黄瀬川《きせがは》にて會見《くわいけん》の際《さい》にも、氏政《うぢまさ》父子《ふし》は上座《じやうざ》に著《つ》き、家康《いへやす》は氏直《うぢなほ》の外舅《ぐわいきう》たるに拘《かゝは》らず、下座《げざ》に著《つ》き、やがて家康《いへやす》が自然居士《じねんこじ》の舞《まひ》をなし、黄帝《くわうてい》の臣《しん》に、貨狄《くわてき》と云《い》へる士卒《しそつ》と歌《うた》へば、松田《まつだ》、大道寺《だいだうじ》同音《どうおん》に、徳川殿《とくがはどの》は、當家《たうけ》の臣下《しんか》になり給《たま》ひぬと囃《はや》し、氏政《うぢまさ》も笑壺《えつぼ》に入《い》り、酒宴《しゆえん》興《きよう》に入《い》りつる頃《ころ》、氏政《うぢまさ》は家康《いへやす》の膝《ひざ》に寄《よ》りかゝり、其《そ》の指添《さしぞへ》を拔《ぬ》き取《と》りつゝ、徳川殿《とくがはどの》は海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》と呼《よ》ばれし人《ひと》なり、その刀《かたな》を、居《ゐ》ながら拔《ぬ》き取《と》る氏政《うぢまさ》は大功《たいこう》なれと、戯《たはむ》れた程《ほど》であつた。〔徳川實紀〕[#「〔徳川實紀〕」は1段階小さな文字]
斯《かゝ》る次第《しだい》なれば、北條《ほうでう》一|家《け》が、自惚病《うぬぼれびやう》、高慢病《かうまんびやう》、安樂病《あんらくびやう》、因循病《いんじゆんびやう》に罹《かゝ》りつゝあつたことは、固《もと》より疑《うたがひ》を容《い》れぬ。彼等《かれら》は唯《た》だ信玄《しんげん》、謙信《けんしん》、及《およ》び下《くだ》りて信長《のぶなが》を恐《おそ》る可《べ》きものと考《かんが》へた。然《しか》るに今《いま》や一|人《にん》も此《こ》の世《よ》にない、彼等《かれら》は今《いま》や何《なん》の恐《おそ》る可《べ》き者《もの》を見《み》なかつた。而《しか》して世《よ》が既《すで》に秀吉《ひでよし》の天下《てんか》であることに、氣付《きづ》かなかつた。
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[#6字下げ]遍參僧の嘆息
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氏政の世に至て六十有餘の遍參僧關東に赴く時、相州小田原の驛亭に宿す。制札を見て嘆息して北條家も末になり可[#レ]亡の端顯れたりと云ふ、目代此言を聞て往て町奉行に告ぐ、町奉行之を奇として彼の僧の所に使を以て可[#二]申談[#一]事候間、御苦勞ながら私宅に來臨あれと言遣しければ、老足道に疲れ候、休息して後參んとて、暮に及んで來る。町奉行出逢て先辭儀を述べ茶菓を出して、後承れば、爾々《しか/″\》の出言ありと申す者の侯、實にて侯やと問ふ。客僧實にて侯と答ふ。制札の箇條非理の事侯やと問ふ、皆非理の事侯はずと答ふ。其時町奉行貴僧定て博識なるべし、非理なくして亡ぶべき事、昧暗なる吾儕の所[#レ]不[#レ]辯に侯、願くは其道理を説て惑を解れ侯へかしと云へば、客僧我三十年以前此地を過き侯時は、制札の面僅に五箇条に侯、今日見侯へば三十箇條に及べり、國君明威ありて士民心服する時は、法度の箇條簡少にして違《そむ》かざる者に侯、國君の明蔽はれ威衰へて後、士民違く者多し、違く者多きに由て、法度の箇條年々に累り政令鎖細になり侯、是故に士民彌※[#二の字点、1-2-22]不[#レ]安國君を怨み謗り、賢君に代んことを求るに至る、是れ士民の志の君主に離れたるにて侯、士民の志君主に離れ侯ては、誰と共に國を守り寇を拒き侯はんや、我是を以て可[#レ]亡の端顯れたりと申し侯事の、是を不[#レ]求して心の非を悛め、自ら省み自ら戒められば、昔の盛世に還るべしと云ふ。町奉行大に感服し、客僧の云ふ所を具に書留たり。〔武將感状記〕
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