第一章 秀吉の平和的施設
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり]豐臣氏時代 丙篇

[#地から3字上げ]蘇峰學人

[#4字下げ][#大見出し]第一章 秀吉の平和的施設[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一】分水嶺を踰ゆ[#中見出し終わり]

既記《きき》の如《ごと》く、天正《てんしやう》十六|年《ねん》四|月《ぐわつ》十四|日《か》、後陽成天皇《ごやうぜいてんわう》の秀吉聚樂第行幸《ひでよしじゆらくだいぎやうかう》は、山崎役以來[#「山崎役以來」は底本では「山崎役以年」]《やまざきえきいらい》、即《すなは》ち信長《のぶなが》の翼下《よくか》を離《はな》れて、獨立《どくりつ》したる秀吉《ひでよし》生涯《しやうがい》の分水嶺《ぶんすゐれい》であつた。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》は、年齡《ねんれい》から云《い》へば、五十三|歳《さい》だ。四十|以上《いじやう》を初老《しよらう》と云《い》ふ昔時《せきじ》に於《おい》ては、いざ知《し》らず。五十三|歳《さい》は、筋肉勞働者以外《きんにくろうどうしやいぐわい》に於《おい》ては、寧《むし》ろ豐熟《ほうじゆく》、全盛《ぜんせい》の頃合《ころあひ》であつて、決《けつ》して老朽《らうきう》、頽唐《たいたう》の期《き》ではない。秀吉《ひでよし》の如《ごと》きも、亦《また》然《しか》りだ。但《た》だ此《こ》れから上《のぼ》り阪《ざか》か、下《くだ》り阪《ざか》かと云《い》へば、下《くだ》り阪《ざか》となつたのだ。言《ことば》を改《あらた》めて云《い》へば、其《そ》の頂上《ちやうじやう》を踰《こ》えたのだ。
困難《こんなん》に打克《うちか》つことは、左程《さほど》困難《こんなん》ではない。苟《いやしく》も猛志《まうし》、堅意《けんい》の士《し》は、九|顛《てん》十|起《き》の勇氣《ゆうき》を奮《ふる》ふものである。併《しか》し何人《なんびと》も其《そ》の成功《せいこう》に打克《うちか》つものはないとは云《い》はぬが、極《きは》めて少《すくな》くある。信長《のぶなが》でも、秀吉《ひでよし》でも、その方式《はうしき》や、模樣《もやう》や、徑行《けいかう》は、兩人《りやうにん》の性情《せいじやう》と、境遇《きやうぐう》とによりて相違《さうゐ》あるが、何《いづ》れも成功中毒症《せいこうちゆうどくしやう》に罹《かゝ》つたことは、同《どう》一である。
今《いま》や秀吉《ひでよし》の、多年《たねん》累積《るゐせき》の苦心《くしん》は、聚樂第行幸《じゆらくだいぎやうかう》で、其《そ》の花《はな》を咲《さ》かした。今《いま》や天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》を、我《わ》が膝下《しつか》に叩頭《こうとう》せしめ、天下《てんか》の事《こと》、殆《ほとん》ど我意《わがい》の如《ごと》くならざるなからしめた。斯《か》くて、意《い》滿《み》たず、志《こゝろざし》驕《おご》らず、自《みづか》ら修練《しうれん》、緊肅《きんしゆく》、警醒《けいせい》、戒愼《かいしん》の紐《ひも》を弛《ゆる》めず、増長《ぞうちやう》、我慢《がまん》、荒怠《くわうたい》、放蕩《はうたう》に陷《おちい》らざるものは、天下《てんか》に何人《なんびと》かある。唯《た》だ家康《いへやす》のみは、死《し》に抵《いた》る迄《まで》、此《こ》の傳染病《でんせんびやう》に感染《かんせん》するを免《まぬ》かれた。家康《いへやす》の及《およ》ぶ可《べ》からざる點《てん》は、職《しよく》として此《これ》に存《そん》す。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》に取《と》りて代《かは》りたる所以《ゆゑん》も、亦《ま》た實《じつ》に此《こゝ》に存《そん》すと云《い》はねばなるまい。
但《た》だ秀吉《ひでよし》が、前《さき》に開元《かいげん》の精勵[#「精勵」は底本では「勵精」]《せいれい》あり、後《のち》に天寳《てんはう》の荒怠《くわうたい》ある唐《たう》の玄宗《げんそう》たらず。其《そ》の後半生《こうはんせい》の頽唐期《たいたうき》に於《おい》て、其《そ》の施設《しせつ》の往々《わう/\》粗漫《そまん》、放逸《はういつ》に流《なが》れ、時《とき》に大早計《だいさうけい》に失《しつ》し、時《とき》に大違算《だいゐさん》を剩《あま》したるに拘《かゝは》らず、尚《な》ほ夕日《ゆうひ》の入《い》りは、初日《はつひ》の出《で》よりも、より多《おほ》く鮮麗《せんれい》、莊嚴《さうごん》、美妙《びめう》、精彩《せいさい》あるが如《ごと》き、光明《くわうみやう》赫灼《かくしやく》たる桃山時代《もゝやまじだい》を、百|世《せい》に留《とゞ》めたるは、彼《かれ》が尋常《じんじやう》一|樣《やう》の英雄漢《えいゆうかん》でなかつたことが判知《わか》る。彼《かれ》の雄心《ゆうしん》は、最後迄《さいごまで》消磨《せうま》せなかつた。彼《かれ》の猛志《まうし》は、彼《かれ》の身《み》を燒《や》き盡《つく》す迄《まで》、炎々《えん/\》として燃《も》えた。但《た》だ彼《かれ》は餘《あま》りに世《よ》の中《なか》が、我《わ》が思《おも》ふ坪《つぼ》に嵌《はま》り來《きた》るを見《み》て、總《すべ》ての大事《だいじ》を、手輕《てがる》く考《かんが》へ、是《こ》れが爲《た》めに、失敗《しつぱい》を釀《かも》したに過《す》ぎぬ。
世人《せじん》は彼《かれ》に向《むか》つて、其《そ》の※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73]《あ》くなき野心《やしん》を咎《とが》むれども、此《こ》れが彼《かれ》の本領《ほんりやう》だ。彼《かれ》の慾望《よくばう》[#ルビの「よくばう」は底本では「よくぼう」]は、際限《さいげん》なかつた。此《こ》の無際限《むさいげん》が、彼《かれ》の獨自《どくじ》一|己《こ》の特色《とくしよく》だ。吾人《ごじん》は此《こ》の點《てん》に於《おい》て、彼《かれ》に何等《なんら》の不足《ふそく》を云《い》はない、不平《ふへい》を云《い》はぬ。彼《かれ》は到底《たうてい》仕事《しごと》の中途《ちゆうと》で、斃《たふ》る可《べ》き運命《うんめい》を持《も》ちたる漢《をのこ》であつた。無際限《むさいげん》の慾望者《よくばうしや》に、愛度《めだた》き大團圓《だいだんゑん》を望《のぞ》むは、本來《ほんらい》無理《むり》の註文《ちゆうもん》ではない乎《か》。家康《いへやす》の如《ごと》き、昨日《きのふ》は昨日《きのふ》で勘定《かんぢやう》が付《つ》き、今日《けふ》は今日《けふ》[#の「今日」は底本では「今月」]で勘定《かんぢやう》が付《つ》き、明日《あす》は明日《あす》で勘定《かんぢやう》が付《つ》き、何日《いつ》何處《どこ》で死《し》しても、其《そ》の仕事《しごと》は一から十|迄《まで》、大團圓《だいだんゑん》であるが如《ごと》き、整頓《せいとん》したる生涯《しやうがい》は、到底《たうてい》秀吉《ひでよし》には期待《きたい》することは、能《あた》はぬのだ。若《も》し之《これ》を期待《きたい》する者《もの》があらば、そは秀吉《ひでよし》に向《むか》つて家康《いへやす》たれと云《い》ふも、同樣《どうやう》だ。秀吉《ひでよし》の家康《いへやす》たる能《あた》はざるは、猶《な》ほ家康《いへやす》の秀吉《ひでよし》たる能《あた》はざるが如《ごと》し。馬《うま》には鬣《たてがみ》があり、牛《うし》には角《つの》がある。秀吉《ひでよし》の流儀《りうぎ》は、徹頭徹尾《てつとうてつび》、秀吉《ひでよし》の流儀《りうぎ》で立《た》て透《とほ》す他《ほか》はない。
要《えう》するに吾人《ごじん》が遺憾《ゐかん》であるのは、無際限《むさいげん》の慾望《よくばう》を恣《ほしいまゝ》にしたのでなくして、此《こ》の無際限《むさいげん》の慾望《よくばう》[#ルビの「よくばう」は底本では「よくぼう」]を、實行《じつかう》する上《うへ》に於《おい》て、其《そ》の調子《てうし》が浮足《うきあし》となつて來《き》たことだ。本來《ほんらい》秀吉《ひでよし》は大腹《たいふく》の締《しま》り屋《や》であつた、投《な》げ遣《や》りの綿密家《めんみつか》であつた。彼《かれ》が九|州役《しうえき》に於《お》ける、猶《な》ほ足掛《あしか》け三|年《ねん》に時日《じじつ》を要《えう》した。小田原役《をだはられき》も、同樣《どうやう》の時日《じじつ》を要《えう》した。彼《かれ》は最後迄《さいごまで》、豫《あらか》じめ出來得《できう》る丈《だけ》の注意《ちゆうい》を、遺却《ゐきやく》せなかつた。否《い》な彼《かれ》は先天的《せんてんてき》の用意周到者《よういしうたうしや》であつた。併《しか》し彼《かれ》が成功《せいこう》の惰力《だりよく》は、彼《かれ》をして何《なん》となく浮足《うきあし》たらしめた。彼《かれ》が浮足《うきあし》に任《まか》せて、頓々拍子《とん/\びやうし》に乘《の》り出《だ》した結果《けつくわ》は、遂《つ》ひに彼《かれ》をして、全《まつた》く始末《しまつ》が取《と》れぬ始末《しまつ》たらしめた。乃《すなは》ち若《も》し秀吉《ひでよし》にして、山崎役《やまざきえき》に於《お》ける態度《たいど》、心意氣《こゝろいき》もて、征韓役《せいかんえき》に臨《のぞ》ましめたならば、其《そ》の出來榮《できばえ》は、必《かな》らず大《おほ》いに異《ことな》るものがあつたであらうと思《おも》ふ。一|事《じ》が萬事《ばんじ》だ。秀吉《ひでよし》の仕事《しごと》は、其《そ》の後半期《こうはんき》に於《おい》て、動《やゝ》もすれば堅實《けんじつ》を缺《か》いて來《き》た、動《やゝ》もすれば秀吉《ひでよし》は、感情《かんじやう》の奴隸《どれい》となつた傾向《けいかう》があつた。併《しか》し英雄《えいゆう》は、其《そ》の弱點《じやくてん》を以《もつ》て、世《よ》に繋《つな》がると云《い》ふ諺《ことわざ》もある。秀吉《ひでよし》が大正《たいしやう》の現代《げんだい》に至《いた》る迄《まで》、我《わ》が國民《こくみん》に愛慕《あいぼ》せられ、崇拜《しうはい》せらるゝ所以《ゆゑん》は、却《かへつ》て此《こ》の違算《ゐさん》と、早計《さうけい》とに由《よ》るかも知《し》れぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【二】比叡山の再興(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

九|州役以後《しうえきいご》、日本全國《にほんぜんこく》見渡《みわた》す限《かぎ》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の節度《せつど》に、今《いま》だ全《まつた》く服《ふく》せぬものは、唯《た》だ關東《くわんとう》の北條氏政《ほうでううぢまさ》、氏直《うぢなほ》の父子《ふし》であつた。勿論《もちろん》奧羽方面《あううはうめん》は未《いま》だ著手《ちやくしゆ》されなかつたが、北條氏《ほうでうし》の向背《かうはい》一たび決《けつ》すれば、所謂《いはゆ》る圓石《ゑんせき》を高峰《かうほう》より墜《おと》す如《ごと》く、積水《せきすゐ》を千|仭《じん》の溪《たに》に決《けつ》する如《ごと》く、勢《いきほひ》に乘《じよう》じて、定《さだ》む可《べ》きは、明白《めいはく》であつた。併《しか》し秀吉《ひでよし》は、決《けつ》して好《この》んで武力《ぶりよく》を用《もち》ひなかつた。彼《かれ》は平和的手段《へいわてきしゆだん》で解決《かいけつ》し得《え》らるゝ限《かぎ》りは、飽迄《あくまで》も其《そ》の手段《しゆだん》を盡《つく》した。北條氏《ほうでうし》に對《たい》しても、朝鮮《てうせん》に對《たい》しても、全《まつた》く其《そ》の通《とほ》りであつた。凡《およ》そ秀吉程《ひでよしほど》、大《だい》なる征略家《せいりやくか》にして、戰爭《せんさう》の爲《た》めの戰爭《せんさう》を好《この》まぬものはなかつた。天正《てんしやう》十五|年《ねん》の下半期《しもはんき》より、十七|年《ねん》の下半期迄《しもはんきまで》は、或《あるひ》は平和的解決《へいわてきかいけつ》の時期《じき》と云《い》ふ可《べ》く、或《あるひ》は戰鬪準備《せんとうじゆんび》の時期《じき》とも云《い》ふ可《べ》きであつた。
吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の關東《くわんとう》、及《およ》び東北《とうほく》に於《お》ける軍事的《ぐんじてき》、經略的施爲《けいりやくてきしゐ》を叙《じよ》する以前《いぜん》に、姑《しば》らく中央《ちゆうわう》に於《お》ける平和的施爲《へいわてきしゐ》、即《すなは》ち適切《てきせつ》に云《い》へば、天下泰平《てんかたいへい》の促進運動《そくしんうんどう》に就《つい》て、一二を語《かた》る可《べ》き必要《ひつえう》を認《みと》むる。
      * * * * * * * * *
秀吉《ひでよし》は群衆心理《ぐんしゆうしんり》の鋭敏《えいびん》なる諒解者《りやうかいしや》であつた。彼《かれ》は群衆《ぐんしゆう》が、其《そ》の雰圍氣《ふんゐき》に支配《しはい》せらるゝことを、熟知《じゆくち》した。而《しか》して彼《かれ》は此《こ》の雰圍氣《ふんゐき》、即《すなは》ち氣分《きぶん》を製造《せいざう》するの術《じゆつ》に於《おい》ては、今古無比《きんこむひ》とも云《い》ふ可《べ》き技倆《ぎりやう》を有《いう》した。彼《かれ》が僅《わづ》かの期間《きかん》に、天下《てんか》の太平《たいへい》を致《いた》した所以《ゆゑん》は、軍略《ぐんりやく》、調略《てうりやく》(所謂《いはゆ》る外交掛引《ぐわいかうかけひき》)以外《いぐわい》に、此《こ》の平和的氣分《へいわてききぶん》を促進《そくしん》せしめた効果《かうくわ》である。北野《きたの》の大茶湯《おほちやのゆ》、聚樂第行幸《じゆらくだいぎやうかう》の如《ごと》きは、既記《きき》の通《とほ》りである。而《しか》も比叡山復興《ひえいざんふくこう》の如《ごと》きも、亦《ま》た其《そ》の一と云《い》はねばなるまい。
信長《のぶなが》の燒滅《せうめつ》したる死灰《しくわい》を撥《はら》ひて、秀吉《ひでよし》が延暦寺《えんりやくじ》を再建《さいこん》するが如《ごと》きは、如何《いか》にも皮肉《ひにく》に聞《きこ》ゆるが、彼《かれ》も一|時《じ》、此《これ》も一|時《じ》、兩雄《りやうゆう》各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の所志《しよし》を行《おこな》うたと云《い》ふ可《べ》きであらう。
信長《のぶなが》は比叡山《ひえいざん》をば、執念深《しふねんぶか》く憎疾《ぞうしつ》した、彼《かれ》は誰《たれ》が天下人《てんかびと》となるも、決《けつ》して叡山《えいざん》は、再興《さいこう》せぬとの起請文《きしやうもん》を書《か》かしめた程《ほど》、叡山《えいざん》に辛《つら》く當《あた》つた。信玄《しんげん》が叡山再興《えいざんさいこう》の計企《けいき》は、旗《はた》を洛中《らくちゆう》に建《た》つる壯圖《さうと》と與《とも》に、畫餠《ぐわへい》に屬《ぞく》した。謙信《けんしん》は曾《かつ》て叡山再興《えいざんさいこう》を條件《でうけん》として、信長《のぶなが》と妥協《だけふ》を謀《はか》つたが、此《こ》れも水泡《すゐはう》に歸《き》した。信長《のぶなが》の生命《せいめい》の存《そん》せん限《かぎ》りは、叡山《えいざん》は到底《たうてい》擡頭《だいとう》の望《のぞみ》が絶《た》えた。されば彼等衆徒《かれらしゆうと》の殘存《ざんぞん》する者共《ものども》は、諸方《しよはう》の豪族《がうぞく》其《そ》の他《た》に身《み》を寄《よ》せた。
然《しか》るに天《てん》は叡山《えいざん》に祉《さいはひ》して、信長《のぶなが》は本能寺《ほんのうじ》に横死《わうし》した。されば彼等殘徒《かれらざんと》は之《これ》を好《よ》き潮合《しほあひ》として、期《き》せずして四|方《はう》より來《きた》り集《あつま》つた。而《しか》して天正《てんしやう》十|年《ねん》十一|月《ぐわつ》六|日《か》、即《すなは》ち信長《のぶなが》本能寺變《ほんのうじへん》四|箇月《かげつ》の後《のち》、三千の殘徒《ざんと》によりて、計企《けいき》せられた。就中《なかんづく》施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》、觀音寺詮舜《くわんおんじせんしゆん》、正學院探題豪盛《しやうがくゐんたんだいがうせい》、南光坊擬講祐能《なんくわうばうぎかういうのう》、惠心院亮信《ゑしんゐんりやうしん》、行光坊雄盛《ぎやうくわうばうゆうせい》、其《そ》の他《た》若干《じやくかん》の者《もの》、其《そ》の先達《せんだつ》となつて、斡旋《あつせん》した。其《そ》の中《なか》にて、豪盛《がうせい》、祐能《いうのう》は、專《もつぱ》ら再建《さいこん》の中樞部《ちゆうすうぶ》を主《つかさど》り、豪盛《がうせい》、全宗等《ぜんそうら》は止觀院《しくわんゐん》を、詮舜《せんしゆん》は寳憧院《はうどうゐん》を、亮信《りやうしん》は首楞嚴院《しゆれうごんゐん》を興《おこ》すとの決議《けつぎ》をなし、愈《いよい》よ其《そ》の運動《うんどう》に取《と》り掛《かゝ》つた。
彼等《かれら》は青蓮院宮尊朝法親王《じやうれんゐんのみやたかともほつしんわう》を迎《むか》へて、天台《てんだい》の座主《ざす》とし、叡山再興《えいざんさいこう》に著手《ちやくしゆ》し、同《どう》十二|月《ぐわつ》其《そ》の御名義《ごめいぎ》を以《もつ》て、王城鎭護《わうじやうちんご》の神殿《しんでん》、及《およ》び佛閣再建《ぶつかくさいこん》の觀進帳《くわんじんちやう》を廻《まは》した。二|品尊朝親王《ほんたかともしんわう》は、貞敦親王《さだあつしんわう》の御子《おんこ》で、正親町天皇《おふぎまちてんわう》の御猶子《ごいうし》であつた。而《しか》して天正《てんしやう》十一|年《ねん》閏正月《うるふしやうぐわつ》には、日吉神社《ひよしじんじや》の神體《しんたい》、佛像等彫刻《ぶつぞうとうてうこく》の勅許《ちよくきよ》を被《かうむ》り、大佛師《だいぶつし》の康正法印《かうしやうほふいん》、其《そ》の命《めい》を受《う》けた。而《しか》して七|月《ぐわつ》十五|日《にち》には、青蓮院宮《じやうれんゐんのみや》より、横川《よこがは》三|光房《くわうばう》に、日吉聖眞子社本殿《ひよししやうしんししやほんでん》の造立《ざうりつ》を命《めい》ぜられた。
是迄《これまで》は叡山殘徒等《えいざんざんとら》の自發的運動《じはつてきうんどう》であつたが、茲《こゝ》に端《はし》なく秀吉《ひでよし》との關係《くわんけい》が、出《い》で來《きた》つた。そは天正《てんしやう》十二|年《ねん》の頃《ころ》、觀音寺詮舜《くわんおんじせんしゆん》と、賢珍《けんちん》が、偶《たまた》ま秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》したが、秀吉《ひでよし》は彼等《かれら》の用《もち》ふ可《べ》きを見《み》て、之《これ》を軍務《ぐんむ》にも預《あづか》らしめ。彼等《かれら》は秀吉《ひでよし》の幕僚《ばくれう》となりて、其《そ》の帷中《ゐちゆう》に出入《しゆつにふ》した。物《もの》の成《な》るは、自然《しぜん》に成《な》るの順序《じゆんじよ》がある、無暗《むやみ》に焦《あせ》りても駄目《だめ》であるとの話次《わじ》。詮舜《せんしゆん》は其《そ》の好機《かうき》を捉《とら》へて申《まを》す樣《やう》、御身《おんみ》の幼名《えうみやう》は日吉丸《ひよしまる》と承《うけたま》はる。現時《げんじ》の御開運《ごかいうん》も、名詮自證《めいせんじしよう》と申《まを》す可《べ》きである。然《しか》るに日吉《ひよし》と、比叡《ひえい》(日枝)[#「(日枝)」は1段階小さな文字]とは、國音《こくおん》が相通《あひつう》じて居《ゐ》る。何《なん》とか御威光《ごゐくわう》にて、此《こ》の比叡《ひえい》も、自然《しぜん》に復興《ふくこう》の期《き》に達《たつ》せしめたきものであると、暗々裡《あん/\り》に訴《うつた》へて、其《そ》の幇助《ほうじよ》を要《もと》めた。
悟《さと》りの早《はや》き秀吉《ひでよし》は、能《よ》く其《そ》の意味《いみ》を諒解《りやうかい》した。而《しか》して答《こた》ふる樣《やう》、予《よ》も主君《しゆくん》信長《のぶなが》の在世中《ざいせいちゆう》は、叡山再興《えいざんさいこう》には、反對《はんたい》した。此《こ》れは主命《しゆめい》を重《おもん》じたからだ。今更《いまさ》ら主君《しゆくん》世《よ》を去《さ》りたりとて、掌《たなごゝろ》を反《かへ》す如《ごと》く、主君《しゆくん》の意志《いし》に背《そむ》くは、如何《いか》にも心苦《こゝろぐる》しき事《こと》だ。併《しか》し叡山《えいざん》の王城鎭護《わうじやうちんご》は、國家《こくか》の公務《こうむ》であれば、之《これ》を閑却《かんきやく》する譯《わけ》にも參《まゐ》るまいと。詮舜等《せんしゆんら》は秀吉《ひでよし》の意《い》動《うご》くを見《み》て、直《たゞ》ちに再建《さいこん》の免許状下付《めんきよじやうかふ》を請願《せいぐわん》した。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》は信雄《のぶを》、家康《いへやす》と、小牧對陣中《こまきたいぢんちゆう》で、犬山城《いぬやまじやう》に在《あ》つたが、其《そ》の營中《えいちゆう》より五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]の日附《ひづけ》で、左《さ》の免許状《めんきよじやう》を與《あた》へた。
[#ここから1字下げ]
比叡山根本中堂戒壇院事《ひえいざんこんぽんちゆうだうかいだんゐんのこと》、豪盛法印《がうせいほふいん》、並《ならびに》全宗《ぜんそう》|爲[#二]本願[#一]《ほんぐわんのため》、|可[#レ]被[#レ]再[#二]興於坊舍[#一]者《ばうしやをさいこうせらるべきは》、連々《つら/\》|可[#レ]爲[#二]志次第[#一]《こゝろざししだいなるべし》。寔《まことに》山門之儀者《さんもんのぎは》、|于[#レ]他異《たにことなり》、|爲[#二]王城之鬼門[#一]《わうじやうのきもんたり》、|守[#二]天下安全[#一]靈地云々《てんかのあんぜんをまもるれいちうんぬん》。秀吉《ひでよし》都鄙靜《とひをしづめ》、|依[#レ]思[#二]國家鎭護[#一]《こくかのちんごをおもふにより》、|欲[#レ]起[#二]荒廢[#一]者也《くわうはいをおこさんとほつするものなり》。仍《よつて》|状如[#レ]件《じやうくだんのごとし》。
  天正十二年五月朔日
[#地から1字上げ]筑前守秀吉(花押)
   豪盛法印御坊
   徳雲軒
[#ここで字下げ終わり]
徳雲軒《とくうんけん》とは、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》の號《がう》だ。彼《かれ》は醫《い》を曲直瀬道《まなせだう》三に學《まな》び、後《のち》には秀吉《ひでよし》の殊寵《しゆちよう》を被《かうむ》つた。九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教退治《やそけうたいぢ》の助言者《じよげんしや》として、耶蘇會派《ゼスイツトは》より嫉視《しつし》、惡罵《あくば》せられたるは、即《すなは》ち彼《かれ》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【三】比叡山の再興(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の叡山再興《えいざんさいこう》は、其《そ》の態度《たいど》が受身的《うけみてき》であつた爲《た》め、極《きは》めて穩當《おんたう》であつた。然《しか》も此《こ》の一|事《じ》が、佛教徒《ぶつけうと》を懷柔《くわいじう》し、又《ま》た天下《てんか》の人心《じんしん》を緩和《くわんわ》する上《うへ》に於《おい》て、少《すくな》からざる効果《かうくわ》のあつたことは、問《と》ふ迄《まで》もない。天下《てんか》何物《なにもの》か、秀吉《ひでよし》の藥籠中《やくろうちゆう》の物《もの》たらざる。彼《かれ》は天成《てんせい》の利用家《りようか》であつた。彼《かれ》には一として無用《むよう》の長物《ちやうぶつ》はなかつた。信長《のぶなが》の手《て》にさへおへざる、叡山《えいざん》の山法師《やまほふし》までもが、彼《かれ》の爲《た》めに、泰平《たいへい》を謳歌《おうか》する樂手《がくしゆ》となつた。
秀吉《ひでよし》は叡山再興《えいざんさいこう》の免許状《めんきやじやう》を與《あた》ふると同時《どうじ》に、僧正亮信《そうじやうりやうしん》に向《むか》つても、青銅《せいどう》一|萬貫《まんぐわん》を喜舍《きしや》して、横川《よこがは》の諸堂《しよだう》を造營《ざうえい》せしむ可《べ》く令《れい》した。此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》が率先《そつせん》して、其《そ》の奉加帳《ほうがちやう》に附《つ》いたからには、天下《てんか》を風靡《ふうび》する、亦《ま》た甚《はなは》だ難《かた》からぬ※[#こと、12-3]となつた。
乃《すなは》ち七|月《ぐわつ》十|日《か》、羽柴《はしば》八|朗《らう》(宇喜田秀家)[#「(宇喜田秀家)」は1段階小さな文字]に綸旨《りんし》が下《くだ》つた。此《こ》れは日本全國《にほんぜんこく》の諸大名《しよだいみやう》に降《くだ》つた内《うち》の一であつたらう。翌《よく》天正《てんしやう》十三|年《ねん》三|月《ぐわつ》十一|日《にち》、東北《とうほく》の伊達政宗《だてまさむね》に下《くだ》りし綸旨《りんし》は左《さ》の通《とほ》りであつた。
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|就[#二]比叡山根本中堂戒壇院再造之儀[#一]《ひえいざんこんぽんちゆうだうかいだんゐんさいぞうのぎにつき》、分國中《ぶんこくちゆう》奉加之事《ほうがのこと》、尤《もつとも》天運之冥加《てんうんのめうが》|不[#レ]可[#レ]如[#レ]之候《これにしくべからずさふらふ》。|不[#レ]擇[#二]眞俗尊卑[#一]《しんぞくそんぴをえらばず》|被[#二]申付[#一]者《まをしつけらるゝは》、|可[#レ]爲[#二]叡感[#一]候《えいかんたるべくさふらふ》。則《すなはち》|被[#レ]差[#二]下遍照院[#一]候畢《へんぜうゐんをさしくだされさふらひをはんぬ》。早《はやく》|可[#レ]被[#レ]得[#二]其意[#一]之由《そのいをえらるべきのよし》、天氣所候也《てんきのところにさふらふなり》。仍《よつて》執達《しつたつ》|如[#レ]件《くだんのごとし》。
  天正十三年三月十一日
[#地から2字上げ]左中將(花押)
   伊達左京大夫殿
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其《そ》の文句《もんく》の示《しめ》す如《ごと》く、勅諚《ちよくぢやう》を翳《かざ》して、遍照院主《へんぜうゐんしゆ》が、寄附募集掛《きふぼしふがゝり》として、奧羽方面《あううはうめん》に出掛《でか》けたのだ。政宗《まさむね》も之《これ》を閑却《かんきやく》する譯《わけ》には參《まゐ》るまい。奉加帳《ほうがちやう》は、家康《いへやす》へも廻《まは》つた。然《しか》も細心《さいしん》なる家康《いへやす》は、左《さ》の如《ごと》く答申《たふしん》をした。
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尊翰《そんかん》※[#「龍/共」、第3水準1-94-87]《つゝしみて》拜見仕候《はいけんつかまつりさふらふ》。抑《そも/\》|就[#二]山門御再興之儀[#一]《さんもんごさいこうのぎにつき》、|被[#レ]成[#レ]下[#二]綸旨[#一]候《りんしをくだしなされさふらふ》、謹《つゝしみて》頂戴仕候《ちやうだいつかまつりさふらふ》。過分至極候《くわぶんしごくにさふらふ》。仍《よつて》家康《いへやす》分國中《ぶんこくちゆう》奉加事《ほうがのこと》、叡慮之旨《えいりよのむね》|令[#二]存知[#一]候《ぞんぢせしめさふらふ》。|雖[#レ]然《しかりといへども》|無[#二]關白御下知[#一]《くわんぱくのごげちなきに》、御請《おんうけ》憚存候《はゞかりにぞんじさふらふ》。心緒《しんちよ》|不[#レ]可[#レ]存[#二]疎略[#一]候《そりやくにぞんずべからずさふらふ》。此等之趣《これらのおもむき》|可[#レ]然之樣《しかるべくのやう》、|可[#レ]預[#二]御披露[#一]候《ごひろうにあづかるべくさふらふ》。恐惶敬白《きようくわうけいはく》。
   九月十二日
[#地から3字上げ]家康(花押)
     進上 大藏卿殿
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち天下《てんか》の大政《たいせい》を總攬《そうらん》する、關白秀吉《くわんぱくひでよし》よりの下知《げち》なくては、如何《いか》に綸旨《りんし》たりとも、御請《おうけ》は憚《はゞか》りありとの意味《いみ》だ。其《そ》の歳《とし》は確《たし》かでないが、少《すくな》くとも天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》が關白《くわんぱく》に任《にん》じたる以後《いご》の事《こと》に相違《さうゐ》あるまい。
斯《か》くて天正《てんしやう》十三|年《ねん》の終《をはり》には、日吉神社《ひよしじんじや》の樓門拜殿《ろうもんはいでん》が出來《でき》た、大宮竈殿等《おほみやかまどでんとう》も出來《でき》た。根本中堂《こんぽんちゆうどう》の假殿《かりでん》も建立《こんりふ》せられた。其《そ》の六|月《ぐわつ》には、豪盛《がうせい》に向《むか》つて褒辭《はうじ》の綸旨《りんし》を賜《たまは》つた。十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、家康《いへやす》が獨力《どくりよく》で、横川《よこがは》の四|季講堂《きかうどう》一|宇《う》を建《た》てゝ、傳教大師《でんげうだいし》の影像《えいざう》を安置《あんち》した。秀吉《ひでよし》の勢力《せいりよく》が、天下《てんか》に普及《ふきふ》すると與《とも》に、諸大名《しよだいみやう》の結縁應募《けちえんおうぼ》が、漸次《ぜんじ》に増加《ぞうか》した。轉法輪堂《てんぽふりんだう》、無動寺《むどうじ》、明王堂《みやうわうだう》も成《な》つた。天正《てんしやう》十七|年《ねん》の式日《しきじつ》には、祭禮《さいれい》の御輿《みこし》も出來上《できあが》り、九|月《ぐわつ》の十一|日《にち》より二十|日迄《かまで》の間《あひだ》に、法華《ほつけ》の大會《だいゑ》を再興《さいこう》し、勅使《ちよくし》登山《とざん》して、之《これ》に臨《のぞ》み、頗《すこぶ》る盛大《せいだい》なる法會《ほふゑ》であつた。抑《そもそ》も此《こ》の法會《ほふゑ》は、永正《えおしやう》十三|年以來《ねんいらい》、中絶《ちゆうぜつ》したるもので、今度《こんど》始《はじ》めて之《これ》を擧《あ》げたのだ。此《かく》の如《ごと》く單《たん》に叡山《えいざん》を、燒土廢瓦《せうどはいぐわ》の裡《うち》より再興《さいこう》したのみならず、百|年《ねん》荒廢《くわうはい》の舊儀《きうぎ》を復《ふく》したるは、如何《いか》に良好《りやうかう》なる印象《いんしやう》を、周邊《しうへん》に與《あた》ふ可《べ》きよ。
叡山《えいざん》の再興事業《さいこうじげふ》は、秀吉《ひでよし》の後半期《こうはんき》と伴隨《はんずゐ》した。天正《てんしやう》十七|年《ねん》の秋《あき》には、日吉社《ひよししや》の客人社《まろうどしや》が出來《でき》た。文祿《ぶんろく》二|年《ねん》には、二|宮《のみや》の神殿《しんでん》、四|年《ねん》には十|禪師《ぜんじ》の神殿《しんでん》、西塔法輪堂《さいたふほふりんどう》が出來《でき》た。
慶長《けいちやう》元年《ぐわんねん》十二|月《ぐわつ》には、秀吉《ひでよし》は一|山《さん》の寺領《じりやう》に證判《しようはん》を賜《たま》ひ、三|塔寺領《たふじりやう》として、三井寺《みゐでら》の分《ぶん》二千|石《ごく》を、大津《おほつ》に於《おい》て、宛行《あておこな》つたが、更《さら》に其《そ》の望《のぞみ》に任《まか》せ、改《あらた》めて上坂本《かみさかもと》千五百七十三|石《ごく》を檢地《けんち》の上《うへ》にて、永代寄附《えいたいきふ》することゝした。又《ま》た同年《どうねん》十|月《ぐわつ》十五|日《にち》には、長束正家《ながつかまさいへ》、前田玄以《まへだげんい》を以《もつ》て、志賀《しが》三|村《そん》二千|石《ごく》の地《ち》を、觀音寺詮舜《くわんおんじせんしゆん》と、施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》とに與《あた》へた。而《しか》して慶長《けいちやう》三|年《ねん》には、聖眞子客人社《しやうしんしまろうどしや》、四|年《ねん》には三|宮神殿等《のみやしんでんとう》が出來《でき》た。〔安土桃山時代史、安土桃山時代史論〕[#「〔安土桃山時代史、安土桃山時代史論〕」は1段階小さな文字]
要《えう》するに叡山《えいざん》は、秀吉《ひでよし》保護《ほご》の下《もと》に、再興《さいこう》した。再興《さいこう》しても、王朝時代《わうてうじだい》の勢力《せいりよく》を揮《ふる》ふ譯《わけ》には參《まゐ》らなかつたが、兎《と》も角《かく》も傳教大師以來《でんげうだいしいらい》の法燈《ほふとう》を挑《かゝ》げ、王城鬼門《わうじやうきもん》の鎭護《ちんご》として、儼存《げんぞん》し、佛教學問《ぶつけうがくもん》の淵藪《えんさう》たるを失《うしな》はなかつた。秀吉《ひでよし》も叡山再興《えいざんさいこう》の爲《た》めに、決《けつ》して損《そん》をした譯《わけ》ではないが、叡山《えいざん》も亦《ま》た秀吉《ひでよし》の保護《ほご》に負《お》ふ所《ところ》は、少小《せうせう》ではなかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四】京都大佛の造營(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》の土木道樂家《どぼくだうらくか》であつた。大阪城《おほさかじやう》の建築《けんちく》、聚樂第《じゆらくだい》の建築《けんちく》、最後《さいご》には桃山城《もゝやまじやう》の建築《けんちく》、何《いづ》れも其《そ》の適證《てきしよう》だ。而《しか》して大佛《だいぶつ》の造營《ざうえい》も、亦《ま》た此《こ》の一に數《かぞ》ふ可《べ》きだ。彼《かれ》は何《なん》の理由《りいう》ありて、之《これ》を企《くはだ》てたのである乎《か》。そは聖武天皇《しやうむてんわう》が、南都東大寺《なんととうだいじ》に、廬遮那佛《るしやなぶつ》[#ルビの「るしやなぶつ」は底本では「ろしやなぶつ」]を鑄造《ちうざう》し給《たま》ひたる、所謂《いはゆ》る奈良大佛《ならだいぶつ》の向《むかふ》を張《は》らんが爲《た》め乎《か》。將《は》た佛法興隆《ぶつぽふこうりゆう》の方便乎《はうべんか》、抑《そもそ》も亦《ま》た佛恩奉謝《ぶつおんほうしや》の爲《た》め乎《か》、或《あるひ》は冥福祈願《みやうふくきぐわん》の爲《た》め乎《か》。
吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》が、未《いま》だ曾《かつ》て佛《ぶつ》に佞《ねい》したと云《い》ふ事實《じじつ》を認《みと》めない。凡《およ》そ秀吉《ひでよし》程《ほど》、宗教心《しゆうけうしん》の淡泊《たんぱく》なるものはあるまい。家康《いへやす》が淨土念佛宗《じやうどねんぶつしゆう》に歸依《きえ》し、六|字名號《じみやうがう》を自《みづ》から筆《ひつ》し、尊氏《たかうぢ》が寺院《じゐん》を建《た》て、自《みづ》から經文《きやうもん》を寫《うつ》したるが如《ごと》き、宗教心《しゆうけうしん》の發露《はつろ》は、秀吉《ひでよし》には、殆《ほとん》ど其《そ》の痕跡《こんせき》だもない。彼《かれ》が叡山《えいざん》を再興《さいこう》し、高野山《かうやさん》を保護《ほご》したのは、寧《むし》ろ彼《かれ》の政略的方便《せいりやくてきはうべん》に他《ほか》ならぬのだ。されば大佛造營《だいぶつざうえい》の如《ごと》きも、大佛《だいぶつ》を藉《か》りて、彼《かれ》の記念碑《きねんひ》の一とした迄《まで》であらう。即《すなは》ち大佛《だいぶつ》の爲《た》めの秀吉《ひでよし》でなく、秀吉《ひでよし》の爲《た》めの大佛《だいぶつ》であつたらう。總《すべ》ての人間《にんげん》を利用《りよう》し盡《つく》し、更《さ》らに大佛迄《だいぶつまで》も我《わ》が謳歌者《おうかしや》、頌美者《しようびしや》たらしめんとする秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、頗《すこぶ》る大膽《だいたん》と云《い》はねばならぬ。
      * * * * * *
方廣寺大佛《はうくわうじだいぶつ》の遺跡《ゐせき》は、今猶《いまな》ほ京都《きやうと》の三十三|間堂《げんどう》の附近《ふきん》にある。秀吉《ひでよし》が大佛造營《だいぶつざうえい》を思《おも》ひ立《た》つたのは、天正《てんしやう》十四|年《ねん》で、既《すで》に氣《き》滿《み》ち意《い》驕《おご》る頃《ころ》であつた。昔《むかし》の大佛鑄造《だいぶつちうざう》は、二十|年《ねん》を要《えう》したと聞《き》けば、今度《こんど》は五|年間《ねんかん》に完成《くわんせい》す可《べ》しとて、其《そ》の掛《かゝり》を前田玄以《まへだげんい》、淺野長政《あさのながまさ》、増田長盛《ますだながもり》、石田三成《いしだみつなり》、長束正家《ながつかまさいへ》に命《めい》じた。而《しか》して先《ま》づ奈良《なら》より大佛師《だいぶつし》宗貞法印《そうていほふいん》、同弟《どうおとうと》宗印法眼《そういんほふげん》、及《およ》び大工《だいく》の棟梁《とうりやう》を招《まね》き、協議《けふぎ》の上《うへ》、見積書《みつもりしよ》を秀吉《ひでよし》に呈《てい》したが、秀吉《ひでよし》は彼等《かれら》が佛師《ぶつし》、鍛冶等《かぢとう》の事《こと》を先《さき》にし、材木《ざいもく》、資料《しれう》の事《こと》を後《のち》にし、其《そ》の先後緩急《せんごくわんきふ》を誤《あやま》りたるを詰《なじ》りしかば、何《いづ》れも慚惶《ざんくわう》し、第《だい》一|土佐《とさ》、第《だい》二九|州《しう》、第《だい》三|信州《しんしう》の木曾《きそ》、紀州《きしう》の熊野等《くまのとう》に、其《そ》の見當《けんたう》を附《つ》け、奉行《ぶぎやう》二十|人《にん》(或は曰く二十八人)[#「(或は曰く二十八人)」は1段階小さな文字]、大工《だいく》二十|人《にん》を、選出《せんしゆつ》し、裁可《さいか》を請《こ》うた。斯《か》くて五|人合議《にんがふぎ》は、事《こと》の澁滯《じふたい》を來《きた》す虞《おそれ》ありとて、更《さら》に前田玄以《まへだげんい》を其《そ》の主任《しゆにん》とし、四|國《こく》、九|州《しう》の者《もの》は、土佐《とさ》の山中《さんちゆう》に分入《わけい》つて、材木《ざいもく》を出《いだ》し、淀《よど》、鳥羽《とば》へ著船《ちやくせん》せしめ、伊勢《いせ》、尾張《をはり》、美濃《みの》の人《ひと》は、木曾《きそ》の材木《ざいもく》を出《いだ》し、木曾川《きそがは》を下《くだ》し、桑名《くはな》より大船《たいせん》に積込《つみこ》み、大阪《おほさか》に至《いた》らしめた。(甫菴太閤記)[#「(甫菴太閤記)」は1段階小さな文字]
此《こ》の材木《ざいもく》徴發《ちようはつ》には、秀吉《ひでよし》も少《すくな》からず其《そ》の心《こゝろ》を配《くば》つた。そは天正《てんしやう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》十|日附《かづけ》にて、秀吉《ひでよし》が毛利輝元《まうりてるもと》に與《あた》へたる、九|州役《しうえき》の軍配訓令中《ぐんばいくんれいちゆう》にも、其《そ》の末項《まつかう》には、『一、大佛殿材木事《だいぶつでんざいもくのこと》』とある。如何《いか》に彼《かれ》が軍國多事《ぐんこくたじ》に際《さい》して、猶《な》ほ此事《このこと》に拳々《けん/\》たるかゞ判知《わか》る。而《しか》して遂《つひ》に島津氏《しまづし》に命《めい》じて、屋久島《やくしま》よりも、材木《ざいもく》を取寄《とりよ》せた程《ほど》であつた。
斯《か》くて五|畿内《きない》、中國《ちゆうごく》の面々《めん/\》には、大佛殿《だいぶつでん》の地形《ちぎやう》、石垣《いしがき》、築山等《つきやまとう》の築造《ちくざう》を命《めい》じ、其《そ》の地《ち》を東山佛光寺域《ひがしやまぶつくわうじゐき》に相《さう》し、二十一|國《こく》の人數《にんず》を、三|分《ぶん》して、之《これ》を分膽《ぶんたん》せしめたが、後《のち》には石垣《いしがき》に巨石《きよせき》を要《えう》したるが故《ゆゑ》に、何《いづ》れも其《そ》の力《ちから》を此《これ》に致《いた》した。而《しか》して重《かさ》ねて北國勢《ほくこくぜい》をも、之《これ》に加《くは》はらしめた。其《そ》の面積《めんせき》は、東西《とうざい》百三十|間《けん》、南北《なんぼく》百三十七|間《けん》にて、大佛殿《だいぶつでん》の地盤《ぢばん》は、南北《なんぼく》五十五|間《けん》、東西《とうざい》三十七|間《けん》、高《たか》さ一|間半《けんはん》であつた。
佛像《ぶつざう》は、銅像《どうせい》とする筈《はず》であつたが、之《これ》を鑄造《ちうぞう》すれば、時日《じじつ》を遷延《せんえん》するから、特《とく》に速成《そくせい》を主《しゆ》として、木像《もくざう》とした。即《すなは》ちそれを漆喰《しつくひ》にて塗《ぬ》り、彩色《さいしき》を施《ほどこ》すことゝした。此《こ》れは明《みん》の佛師《ぶつし》、豐後《ぶんご》に來朝《らいてう》したものを招《まね》き諮問《しもん》したるに、彼《かれ》は斯《か》くても百|年程《ねんほど》は、大丈夫《だいじやうぶ》と答《こた》へたれば、その通《とほ》りとなし、彼《かれ》及《およ》び宗貞《そうてい》、宗印等《そういんら》をして、之《これ》を造《つく》らしめた。其《そ》の手傳人《てつだひにん》は、寺西筑後守《てらにしちくごのかみ》、早川主馬頭《はやかはしゆめのかみ》、片桐東市正《かたぎりいちのかみ》、古田兵部少輔《ふるたひやうぶせういう》、加須《かす》(糟《かす》)屋内膳正《やないぜんのしやう》、間島彦太郎等《まじまひこたらうら》であつた。而《しか》して堂《だう》の高《たか》さは二十|丈《じやう》、佛《ぶつ》の高《たか》さ十六|丈《じやう》、此《こ》れは全《まつた》く古法《こはふ》に準由《じゆんいう》した。
漆喰《しつくひ》は堺《さかひ》の豪商《がうしやう》今井宗及《いまゐそうきう》、其《そ》の奉行《ぶぎやう》とし、池田備中守《いけだびつちゆうのかみ》、河尻肥前守《かはじりひぜんのかみ》、上田主水正等《うへだもんどのしやうら》、其《そ》の手傳人《てつだひにん》であつた。然《しか》るに明人佛師《みんじんぶつし》の註文《ちゆうもん》には、漆喰《しつくひ》の原料《げんれう》として、蠣殼《かきがら》一|萬俵《まんべう》を、佛像《ぶつざう》出來以前《しゆつたいいぜん》に、取寄《とりよ》す可《べ》しとのことで、伊勢《いせ》、尾張等《をはりとう》に、徴發《ちようはつ》したが、容易《ようい》に揃《そろ》ふ可《べ》くもなかつた。性《せい》急《きふ》なる秀吉《ひでよし》は、其《そ》の工事《こうじ》の遲々《ちゝ》たるに焦《いら》ち、自《みづか》ら普請場《ふしんば》に出張《しゆつちやう》して、之《これ》を督促《とくそく》した。而《しか》して漸《やうや》く其《そ》の適任者《てきにんしや》を、高野山《かうやさん》木食上人《もくじきしやうにん》に於《おい》て見出《みいだ》した。
木食上人《もくじきしやうにん》興山應其《こうざんおうき》は、元來《ぐわんらい》江州守山邊《がうしうもりやまへん》の産《さん》にて、三十五六|歳《さい》より剃髮《ていはつ》し、高野山《かうやさん》に於《おい》て、大伽藍等《だいがらんとう》を建築《けんちく》し、此《こ》の道《みち》にかけては、頗《すこぶ》る經驗《けいけん》もあり、手腕《しゆわん》もあつた。されば其《そ》の秀吉《ひでよし》の命《めい》を受《う》くるや、恰《あたか》も待《ま》つて居《ゐ》ましたと云《い》はん許《ばか》りに、欣諾《きんだく》し、佛光寺《ぶつくわうじ》の内《うち》に、小菴《せうあん》を築《きづ》き、日夕《につせき》常住《じやうぢゆう》して、自《みづ》から工事《こうじ》を監督[#「監督」は底本では「督監」]《かんとく》した。且《か》つ其《そ》の事《こと》に慣《な》れたる高野山《かうやさん》の法師等《ほふしら》を引《ひ》き具《ぐ》して、其《そ》の事《こと》に從《したが》はしめたれば、是《こ》れが爲《た》めに工事《こうじ》も、割合《わりあひ》に速《はや》く運《はこ》んだ。

[#5字下げ][#中見出し]【五】京都大佛の造營(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

木食上人《もくじきしやうにん》の監督《かんとく》にて、其《そ》の手傳《てつだひ》五千|人《にん》、日數《につすう》二千|日《にち》、延《の》べ人數《にんず》一千|萬人《まんにん》と云《い》へば、如何《いか》に其《そ》の工事《こうじ》の大袈裟《おほげさ》であつたことが思《おも》ひやらるゝ。而《しか》して大佛殿《だいぶつでん》の高《たか》さとも、二十|丈《じやう》と云《い》へば、巍々《ぎゞ》雲《くも》に聳《そび》え、其《そ》の虹梁《こうりやう》の如《ごと》きは、之《これ》を當《あ》て嵌《は》めるに頗《すこぶ》る困難《こんなん》にして、東《ひがし》の方《はう》に築山《つきやま》を築《きづ》き、車《くるま》にて漸《やうや》く其《そ》の上《うへ》へ引上《ひきあ》げた。
周圍《しうゐ》の石垣《いしがき》も、當初《たうしよ》は普通《ふつう》の石《いし》であつたが、佛法末世《ぶつぽうまつせ》の今日《こんにち》、此《こ》れでは盜《ぬす》まれ易《やす》い虞《おそれ》ありとて、秀吉《ひでよし》は特《とく》に巨石《きよせき》にて、改築《かいちく》せしめた。是《こ》れが爲《た》めに所謂《いはゆ》る石狩《いしがり》を始《はじ》め、京都《きやうと》の各寺院《かくじゐん》は勿論《もちろん》、隨處《ずゐしよ》の名苑《めいゑん》より巨石《きよせき》を獵《あさ》り來《きた》らしめた。就中《なかんづく》蒲生氏郷《がまふうぢさと》の三井寺《みゐでら》の上《うへ》より、引《ひ》きし石《いし》は、二|間《けん》に四|間《けん》の巨石《きよせき》にて、氏郷記《うぢさとき》には、其《そ》の模樣《もやう》が左《さ》の如《ごと》く、詳《つまびらか》に語《かた》られた。
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蒲生源左衞門尉郷成《がまふげんざゑもんのじやうさとなり》、其日《そのひ》の裝束《しやうぞく》には、太布《ふとぬの》の帷子《かたびら》の袖裾《そですそ》をはづし、背《せ》には大《だい》なる朱《しゆ》の丸《まる》を付《つ》け、小麥藁《こむぎわら》の笠《かさ》に、采配《さいはい》取《と》つて、石《いし》の上《うへ》に登《のぼ》り、木遣《きやり》をぞしたりける。其《そ》の外《ほか》は、蒲生左文内《がまふさもんうち》、中西善内《なかにしぜんない》は、笛《ふえ》の役《やく》、蒲生《がまふ》四|郎兵衞内《ろべゑうち》、赤佐市藏《あかさいちざう》は、太鼓《たいこ》の役《やく》にて拍《はや》しければ、面白《おもしろ》かりけり。人夫《にんぷ》ども、是《これ》に勇《ゆう》を得《え》て、引《ひき》ける。氏郷自身《うぢさとじしん》奉行《ぶぎやう》をせられしかば、少將《せうしやう》の侍《さむらひ》ども、皆《みな》本綱《もとづな》、末綱《すゑづな》に取付《とりつい》て、我《われ》劣《おと》らじとぞ引《ひき》たるける。
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其《そ》の大業《おほげふ》なる樣《さま》、以《もつ》て想《おも》ふ可《べ》しだ。又《ま》た細川藤孝《ほそかはふぢたか》の三《み》ヶ月山《づきやま》より引《ひ》いた大石《おほいし》は、長《なが》さ二|間《けん》、横《よこ》一|間《けん》、厚《あつさ》一|間《けん》にて、人數《にんず》四千|人《にん》を要《えう》したと云《い》ふ。而《しか》して秀吉《ひでよし》も亦《ま》た、親《みづか》ら帷子《かたびら》を著替《きか》へ、石《いし》の上《うへ》にて木遣《きやり》をなしたことは、松井家譜《まつゐかふ》に、『關白樣《くわんぱくさま》音頭《おんど》をお取《と》りなされ候《さふらふ》、』とあるにても判知《わか》る。(安土桃山、沿革史論)[#「(安土桃山、沿革史論)」は1段階小さな文字]
此《かく》の如《ごと》く巨石《きよせき》を用《もち》ひたのは、大佛《だいぶつ》に限《かぎ》らず、大阪城《おほさかじやう》でも、桃山城《もゝやまじやう》でも、同樣《どうやう》だ。此《こ》れは盜難《たうなん》云々《うんぬん》の理由《りいう》よりも、秀吉《ひでよし》に本來《ほんらい》巨石《きよせき》の趣味《しゆみ》ある所《ところ》からだ。そは彼《かれ》が安土城《あづちじやう》建築《けんちく》の際《さい》、蛇石《じやせき》を安土山上《あづちさんじやう》に引上《ひきあ》げたることにても、明《あき》らかだ。(參照織田氏時代中篇第七章三〇、安土城の經營)[#「(參照織田氏時代中篇第七章三〇、安土城の經營)」は1段階小さな文字]乃《すなは》ち彼《かれ》は其《そ》の位置《ゐち》の進歩《しんぽ》と與《とも》に、愈《いよい》よ此《こ》の趣味《しゆみ》を發展《はつてん》せしめた。
扨《さ》て又《ま》た棟木《むなぎ》は、木曾《きそ》、飛騨《ひだ》、四|國《こく》、九|州《しう》の隅々迄《すみ/″\まで》も搜《さが》したが、望通《のぞみどほ》りのもの見當《みあた》らなかつたが、遂《つ》ひに富士山《ふじさん》にて、之《これ》を發見《はつけん》し、家康《いへやす》に申《まを》し付《つ》けて、之《これ》を切《き》り出《だ》さしめ、熊野浦《くまのうら》へ廻《まは》し、大阪《おほさか》に取《と》り寄《よ》せた。此《こ》の木《き》一|本《ぽん》にさへ、五|萬《まん》の人賦《にんぷ》と、黄金《わうごん》千|兩《りやう》を要《えう》したと云《い》ふ。富士《ふじ》の山靈《さんれい》も、恐《おそ》らくは秀吉《ひでよし》の傍若無人《ばうじやくぶじん》には閉口《へいこう》したであらう。
今《い》ま大佛殿《だいぶつでん》規模《きぼ》の概略《がいりやく》を示《しめ》せば、堂《だう》二|重瓦屋《ぢゆうかはらや》、桁行《けたゆき》四十五|間《けん》二|尺《しやく》五|寸《すん》、梁行《はりゆき》二十七|間《けん》五|尺《しやく》五|寸《すん》、棟高《むねだか》二十五|間《けん》、柱《はしら》大小《だいせう》九十二|本《ほん》、徑《けい》五|尺《しやく》五|寸《すん》、西面《せいめん》の仁王門《にわうもん》高《たか》さ十一|間《けん》、桁行《けたゆき》十五|間《けん》二|尺《しやく》五|寸《すん》、梁行《はりゆき》六|間《けん》一|尺《しやく》、柱《はしら》十八|本《ぽん》、金剛力士《こんがうりきし》高《たか》さ二|丈《じやう》六|尺《しやく》、廻廊《くわいらう》東西《とうざい》百|間《けん》、南北《なんぼく》百二十|間《けん》、廣《ひろさ》四|間《けん》である。此《こ》れにて如何《いか》に壯大雄偉《さうだいゆうゐ》なる建造物《けんざうぶつ》であつたかゞ想《おも》ひやらるゝ。
斯《か》くて天正《てんしやう》十七|年《ねん》、此《こ》の大佛殿《だいぶつでん》は落成《らくせい》し、方廣寺《はうくわうじ》と名《なづ》け、照高院宮法親王《せうかうゐんのみやほつしんわう》、導師《だうし》とならせられ、開眼供養《かいげんくやう》を營《いとな》まれた。斯《か》くて前掲《ぜんけい》の如《ごと》く、木質《もくしつ》、漆喰《しつくひ》、其《そ》の上《うへ》に彩色《さいしき》を施《ほどこ》したる、十六|丈《じやう》の廬遮那佛坐像《ろしやなぶつざざう》は、巍然《ぎぜん》として其《そ》の中《なか》に安置《あんち》せられた。然《しか》も如何《いか》なる神通方便《じんづうはうべん》も施《ほどこ》すに術《すべ》なく、慶長《けいちやう》元年《ぐわんねん》の地震《ぢしん》にて破壞《はくわい》した。後《のち》秀頼《ひでより》之《これ》を再興《さいこう》して、六|丈《じやう》[#ルビの「じやう」は底本では「ぢやう」]三|尺《じやく》の銅像《どうざう》としたが、端《はし》なく其《そ》の鐘銘《しようめい》の文句《もんく》が口實《こうじつ》となりて、大阪城《おほさかじやう》沒落《ぼつらく》、豐臣氏《とよとみし》滅亡《めつばう》の端《たん》を啓《ひら》いた。然《しか》して寛文《くわんぶん》二|年《ねん》には、此《こ》の銅像《どうざう》を破壞《はくわい》して、木像《もくざう》としたが、寛政《くわんせい》十|年《ねん》に燒失《せうしつ》し、今日《こんにち》の所謂《いはゆる》大佛《だいぶつ》は、天保年間《てんぽうねんかん》の製作《せいさく》である。
此《かく》の如《ごと》くして秀吉《ひでよし》が、不朽《ふきう》の記念碑《きねんひ》として、天下《てんか》の財力《ざいりよく》を糜《つひや》して建立《こんりふ》したる大佛《だいぶつ》は、彼《かれ》の生存中《せいぞんちゆう》に蚤《はや》くも崩懷《ほうくわい》したが、聖武天皇《しやうむてんわう》御建立《ごこんりふ》ましましたる奈良《なら》の大佛《だいぶつ》は、平重衡《たひらのしげひら》、松永久秀等《まつながひさひでら》、幾許《いくばく》の兵火《へいくわ》に遭《あ》ひつゝ、今尚《いまな》ほ一千三百|年《ねん》の昔《むかし》を物語《ものがた》つて居《ゐ》る。何事《なにごと》も思《おも》ふ樣《やう》に參《まゐ》らぬが世《よ》の中《なか》だ。但《た》だ其《そ》の巨石丈《きよせきだけ》は、今尚《いまな》ほ其《そ》の遺趾《ゐし》に、若干《じやくかん》を剩《あま》し、人《ひと》をして低徊彷徨《ていくわいはうくわう》、以《もつ》て秀吉《ひでよし》の盛時《せいじ》を偲《しの》ばしむるものがある。
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[#6字下げ]大佛殿大石運搬の事
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畿内、南海、北陸、西國、悉く平治して、上に鹽梅たり、下に棟梁たれば、秀吉の心に逆ふ者無かりけり。さらば洛陽に大佛殿を建立すべしとて、東山の麓に地を開き、前田、淺野、増田、石田、長束に命じて、其事を司らしむ。材木は、土佐、飛彈、岐岨、熊野、富士より伐出し、海路を漕渡して、大坂に達し、淀、島國より、凡そ此役に充つるもの廿一箇國、其番匠、人足、傭役者、幾萬億といふ數を知らず。佛殿の四方に石垣を築く。其隅石を、松坂少將より、之を運ぶ。三面一丈二三尺の大石なり。三井寺の山上より、大路まで引出したるに、大儀にて傭役の費ありとて、秀吉より先づ之を措く。時に京童一首の狂歌を綴りて笑ふ。氏郷聞いて、是程まで取懸りたる事を、半ばより留めて、嘲哢せらるゝこそ、口惜しけれ。さらば引けとて、蒲生源左衞門尉郷成は、太布の帷子の袖をはづし、背に大きなる朱の丸を付け、小麥藁の笠を着け、采配を持ちて、氣遣の音頭をぞ取りにける。笛は、蒲生左文が家人中西喜内、太鼓は、蒲生四郎兵衞が家人赤佐市藏なり。氏郷、自身綱引きに、手を懸けられければ、近習外樣の侍、悉く引きて殘る者なし。戸賀十兵衞が僕一人、草鞋の裁判して、傍に居たりしを、あれは如何に、手足を遊ばするぞ、捕へて參れと有りければ、扈從上田久助走り寄つて、縛來るや否や、田の畔へ引据ゑて、即ち刎ねられける。夫よりも諸人、斬罪を恐れ、一つは氣遣に勇み、全力を出したり。されども容易に轉動せず、是に依りて、形うるはしく聲能き傾城數十人、衣裳に紅を飾らせ、石の上にて拍子を取り、小唄を謠ひければ、是に皆競立ちて、日の岡まで引附けたれども、坂に向つて、登り兼ねたるを見て、郷成、熊と田の中に轉び墜ち、裝束皆泥に成つて起上れば、諸人一度に瞳と笑ふ聲、半時計りは靜まらず、其勢に乘じて、勇み立ち、難なく坂を引上げたり。氏郷、喜悦の餘りに、日頃愛せられたる駿馬を、郷成に與へらる。之は戸賀十兵衞が、飼立てたる馬なりしが、騎《の》る時は馴れたる如くに、背をかゞめ、より足を縮む。鞭を打つ時は、飛騰つて峻嶺を一駈に踰え、激川を渡る良馬なり。郷成、謹んで拜受し、是より彌※[#二の字点、1-2-22]氣を發し、聲を張るに、大綱切れて、傭夫一人、石に額を當てゝ死す。粟田口を過ぐるより、左右の屋に乘つて、引入るゝに、家々多く蹈破れけり。彼の狂歌の遺恨を報じたりと笑ひける。秀吉來りて此の石を見て、輙く上に登らるれば、木村常陸守も、亦從ひて登る。市藏早く飛下りて平伏す、郷成、喜内も、續いて下らんとする處を、秀吉、之を留め、即ち衣服着替へ、異樣に成つて常陸守に太鼓を打たせ、喜内に笛を吹かせ、自身氣遣の聲を發す。是に依つて、其れに有り合ふ大名、小名、扈從、馬廻に至るまで、之を引くに、さすがの大石なりと雖も、飛ぶが如くにして程なく大佛に到る。凡そ大佛殿の造營、天正十四年に始まりて、十七年に至つて、其功成就す。(蒲生軍記)
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[#5字下げ][#中見出し]【六】刀狩[#中見出し終わり]

大佛《だいぶつ》造營《ざうえい》の副産物《ふくさんぶつ》として、特記《とくき》す可《べ》きは、石狩《いしが》りでなく、刀狩《かたなが》りである。刀狩《かたなが》りとは、大佛殿《だいぶつでん》建築《けんちく》の爲《た》めに、釘《くぎ》、鎹《かすがひ》、其《そ》の他《た》の鐵具《てつぐ》の入用《にふよう》に供《きよう》す可《べ》く、民間《みんかん》の武器《ぶき》を沒收《ぼつしう》した事《こと》である。只《た》だ此丈《これだけ》の事《こと》として見《み》れば、何《なん》の意義《いぎ》もない樣《やう》だが、其《そ》の實《じつ》は世運《せうん》の變遷《へんせん》、社會《しやくわい》の推移《すゐい》の徴象《ちようしやう》として、頗《すこぶ》る重要《ぢゆうえう》なる事《こと》だ。即《すなは》ち戰爭《せんそう》專門《せんもん》の武士《ぶし》と農業《のうげふ》、其《そ》の他《た》平和的《へいわてき》業務《げふむ》專門《せんもん》の百|姓《しやう》、町人等《ちやうにんら》との區別《くべつ》も、此《こ》れから定《さだ》まつた。從《したが》つて天下騷亂《てんかさうらん》の氣分《きぶん》を、民間《みんかん》より一|掃《さう》して、平和《へいわ》の氣分《きぶん》とした事《こと》も、此《こ》れから始《はじ》まつた。一|歩《ぽ》を進《すゝ》めて觀察《くわんさつ》すれば、徳川幕府《とくがはばくふ》三百|年《ねん》の泰平《たいへい》は、此《こ》れが其《そ》の基《もとゐ》を爲《な》したと云《い》ふも、餘《あま》りに過言《くわごん》ではあるまい。
從來《じゆうらい》とても此《こ》の例《れい》が皆無《かいむ》ではなかつた。安貞《あんぢやう》二|年《ねん》、北條泰時《ほうでうやすとき》執權《しつけん》の際《さい》、諸寺《しよじ》、諸山《しよざん》の僧徒《そうと》が、武器《ぶき》を貯藏《ちよざう》するは、佛法《ぶつぽふ》破懷《はくわい》の基《もとゐ》であるとなし、之《これ》を沒收《ぼつしう》し、高野山《かうやさん》の如《ごと》きは、普《あま》ねく各坊《かくばう》を搜索《さうさく》して、其《そ》の沒收《ぼつしう》した武器《ぶき》を、大塔《だいたふ》の庭《には》にて燒《や》いた事《こと》がある。併《しか》し秀吉《ひでよし》のは、單《たん》に寺院僧侶《じゐんそうりよ》の輩《はい》に止《とゞま》らなかつた。彼《かれ》は百|姓《しやう》、町人《ちやうにん》に迄《まで》、其《そ》の制裁《せいさい》を及《およ》ぼした。
蓋《けだ》し應仁大亂以來《おうにんたいらんいらい》、平時《へいじ》には農夫《のうふ》たり、有事《いうじ》には兵士《へいし》たり、時《とき》に或《あるひ》は土匪《どひ》となり、或《あるひ》は群盜《ぐんたう》となるもの、日本全國《にほんぜんこく》殆《ほと》んど皆《み》な是《こ》れであつた。光秀《みつひで》も、是《こ》れが爲《た》めに殺《ころ》された。家康《いへやす》も、本能寺《ほんのうじ》の變《へん》を聞《き》いて、堺《さかひ》より歸國《きこく》の際《さい》、是《こ》れが爲《た》めに惱《なや》まされた。當時《たうじ》家康《いへやす》の同行者《どうかうしや》であつて、其《そ》の歸途《きと》に手《て》を分《わか》ちたる穴山梅雪《あなやまばいせつ》も、是《こ》れが爲《た》めに殺《ころ》された。天下《てんか》の百|姓《しやう》は、何時《いつ》でも、土匪《どひ》となり、強賊《がうぞく》となる便宜《べんぎ》を持《も》つて居《ゐ》た。此《こ》の弊風《へいふう》が一|掃《さう》せられたのは、固《もと》より鐵砲《てつぱう》の流行《りうかう》が、其《そ》の重《おも》なる原因《げんいん》の一であつたに相違《さうゐ》ない。されど秀吉《ひでよし》の刀狩《かたなが》りも、亦《ま》た與《あづか》りて力《ちから》ありだ。
刀狩《かたなが》りは單《たん》に百|姓《しやう》、町人《ちやうにん》より武器《ぶき》を取《と》り上《あ》ぐるのみでなく、彼等《かれら》をして、野武士《のぶし》の氣分《きぶん》を蝉蛻《せんぜい》せしめ、純乎《じゆんこ》たる農夫《のうふ》の氣分《きぶん》たらしめた。乃《すなは》ち是《こ》れが爲《た》めに、城下《じやうか》に集《あつ》まり、食祿《しよくろく》を得《え》て、只管《ひたすら》戰爭《せんさう》の業《げふ》に從《したが》ふ武士《ぶし》と、地方《ちはう》に散在《さんざい》して、農業《のうげふ》に從《したが》ふ百|姓《しやう》と、截然《せつぜん》區別《くべつ》せられて來《き》た。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》の所謂《いはゆ》る『諸奉公人《しよほうこうにん》は、面々《めん/\》|以[#二]給恩[#一]《きふおんをもつて》其《そ》の役《やく》を勤《つと》むべし。百|姓《しやう》は田畠《たはた》開作《かいさく》を專《もつぱら》に|可[#レ]仕事《つかまつるべきこと》』との、兩者《りやうしや》の分業《ぶんげふ》を劃定《くわくてい》した、法規《はふき》となつた。徳川幕府《とくがはばくふ》は、要《えう》するに秀吉《ひでよし》の此《こ》の遺制《ゐせい》を擴充《くわくじゆう》し、徹底《てつてい》せしめたに他《ほか》ならぬ。
多聞院日記《たもんゐんにつき》、天正《てんしやう》十六|年《ねん》七|月《ぐわつ》十七|日《にち》の項《こう》に曰《いは》く、
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一 天下《てんか》の百|姓《しやう》の刀《かたな》を、悉《こと/″\く》|取[#レ]之《これをとり》、大佛《だいぶつ》の釘《くぎ》に|可[#レ]遣[#レ]之《これをつかふべし》、現《げん》には刀故《かたなゆゑ》|及[#二]鬪爭[#一]《とうさうにおよび》、身命《しんめい》相果《あひはたす》を、|爲[#レ]助[#レ]之《これをたすけさせ》、後生《ごしやう》は釘《くぎ》に|遣[#レ]之《これをつかひ》、萬民利益《ばんみんのりやく》、理當《りたう》の方便《はうべん》と|被[#二]仰付[#一]了《おほせつけられをはんぬ》云々《うんぬん》。内證《ないしよう》は一|揆《き》|爲[#二]停止[#一]也《ちやうじのためなり》と|沙汰在[#レ]之《さたこれあり》、種々《しゆ/″\》の計略也《けいりやくなり》。
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と。此《こ》れは全《まつた》く秀吉《ひでよし》の意《い》を得《え》たものだ。乃《すなは》ち大佛《だうぶつ》の釘《くぎ》は、表面《へうめん》の理由《りいう》で、裡面《りめん》の理由《りいう》は、所謂《いはゆ》る一|揆《き》|爲[#二]停止[#一]《ちやうじのため》であつた。秀吉《ひでよし》は實《じつ》に一|擧兩得《きよりやうとく》をしたのであつた。猶《な》ほ同月《どうげつ》廿二|日《にち》の項《かう》に、
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廿二|日《にち》雨《あめ》下《くだる》。諸國刀槍以下《しよこくのたうさういか》金具之分《かなぐのぶん》、悉《こと/″\く》以《もつて》狩《か》るとて、奈良中《ならぢゆう》もさわぐ。大佛《だいぶつ》の釘《くぎ》の用《よう》と、|追[#レ]日《ひをおつて》人《ひと》の迷惑計也《めいわくばかりなり》。
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とある。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は愈《いよい》よ其《そ》の刀狩《かたなが》りを、實行《じつかう》せしめたのだ。勿論《もちろん》彼《かれ》は他《た》の迷惑抔《めいわくなど》に、頓著《とんぢやく》する漢《をのこ》ではない、苟《いやし》くも思《おも》ふ所《ところ》は、之《これ》を斷行《だんかう》したのだ。
秀吉《ひでよし》の刀狩《かたなが》りは、固《もと》より刀劍《たうけん》のみに限《かぎ》らなかつた。刀《かたな》、脇差《わきざし》、弓《ゆみ》、槍《やり》、鐵砲等《てつぱうとう》、一|切《さい》の武器《ぶき》に及《およ》んだ。
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       條々《でう/\》
一 諸國《しよこく》百|姓等《しやうら》、刀《かたな》、脇差《わきざし》、弓《ゆみ》、鑓《やり》、鐵砲《てつぱう》、其《そ》の外《ほか》武具《ぶぐ》の類《るゐ》所持候事《しよぢさふらふこと》、固《かた》く御停止候《ごちやうじにさふらふ》。其《そ》の仔細《しさい》は、|不[#レ]入《いらざる》道具《だうぐ》相貯《あひたくはへ》、年貢所番《ねんぐしよばん》を難澁《なんじふ》せしめ、自然《しぜん》一|揆《き》を企《くはだて》、給人《きふにん》に對《たい》し、非儀《ひぎ》の働《はたらき》をなす族《やから》、勿論《もちろん》御成敗《ごせいばい》あるべし。然《しかれ》ば其《そ》の田畠《たはた》不作《ふさく》、知行《ちぎやう》つひへになり候之間《さふらふのあひだ》、其《そ》の國《くに》給人代官等《きふにんだいくわんら》をして、右武具《みぎぶぐ》悉《こと/″\く》取《とり》あつめ|可[#レ]致[#二]進上[#一]事《しんじやういたすべきこと》。
一 右《みぎ》取置《とりおか》るべき刀《かたな》、脇差《わきざし》、つひへにさせらるべき儀《ぎ》にあらず。今度《このたび》大佛《だいぶつ》御建立候《ごこんりふにさふらふ》釘《くぎ》、鎹《かすがひ》に|被[#二]仰付[#一]《おほせつけらる》べし。然《しかれ》ば今生《こんじやう》の儀《ぎ》は|不[#レ]及[#レ]申《まをすにおよばず》、來世迄《らいせいまで》も百|姓《しやう》相《あひ》たすかる儀《ぎ》に候事《さふらふこと》。
一 百|姓《しやう》は農具《のうぐ》さへ持《もち》、耕作《かうさく》を專《もつぱら》に仕候《つかまつりさふら》へば、子々孫々《しゝそん/\》まで長久《ちやうきう》に候《さふらふ》。百|姓《しやう》御憐《おんあはれみ》を以《もつ》て、|如[#レ]此《かくのごとく》|被[#二]仰出[#一]候《おほせいだされさふらふ》。寔《まことに》國土《こくど》安全《あんぜん》、萬民《ばんみん》快樂《けらく》の基也《もとゐなり》。異國《いこく》にては唐《たふ》堯《げふ》のそのかみ、天下《てんか》を|令[#二]鎭撫[#一]《ちんぶせしめ》、寳劍利刀《はうけんりたう》を、農器《のうき》に用《もちふ》とや、本朝《ほんてう》にてはためしあるべからず。此旨《このむね》を守《まも》り、各々《おの/\》其趣《そのおもむき》を存知《ぞんぢ》、百|姓《しやう》は農桑《のうさう》を精々《せい/″\》入《い》るべき事《こと》。
右《みぎ》道具《だうぐ》急度《きつと》取集《とりあつめ》|可[#レ]致[#二]進上[#一]《しんじやういたすべく》|不[#レ]可[#二]油斷[#一]候也《ゆだんすべからずさふらふなり》。
   天正十六年七月八日
[#地から3字上げ]秀吉
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは秀吉《ひでよし》の立場《たちば》より説明《せつめい》したものである、辨《べん》じ得《え》て周到《しうたう》だ。吾人《ごじん》は此《こ》れよりして、更《さ》らに秀吉《ひでよし》の意中《いちゆう》を忖度《そんたく》すれば、刀狩《かたなが》りが目的《もくてき》で、大佛《だいぶつ》の釘《くぎ》、鎹《かすがひ》が、方便《はうべん》であると云《い》ひ得《え》らるゝのだ。
凡《およ》そ秀吉《ひでよし》の平和促進運動中《へいわそくしんうんどうちゆう》、未《いま》だ此《かく》の如《ごと》き痛快《つうくわい》に、此《かく》の如《ごと》き有功《いうかう》なるものはなかつた。惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》は、信長《のぶなが》に負《お》うた債務《さいむ》を、利息《りそく》を附《つ》けて、家康《いへやす》に辨濟《べんさい》した。秀吉《ひでよし》が信長《のぶなが》に負《お》ふ所《ところ》あるが如《ごと》く、家康《いへやす》の秀吉《ひでよし》に負《お》ふ所《ところ》は、尚《な》ほより多大《ただい》であつた。徳川幕府《とくがはばくふ》は、一から十|迄《まで》、殆《ほと》んど秀吉《ひでよし》の蹈襲者《たふしふしや》たるに過《す》ぎなかつた。

[#5字下げ][#中見出し]【七】金銀の配與[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の成金氣質《なりきんかたぎ》は、遺憾《ゐかん》なく、聚樂第《じゆらくだい》の金賦《かねくばり》にて、發揮《はつき》せられた。頃《ころ》は天正《てんしやう》十七|年《ねん》五|月《ぐわつ》二十|日《か》、聚樂第《じゆらくだい》の南《みなみ》の三の門内《もんない》に、二|町餘《ちやうよ》の白洲《しらす》の上《うへ》に、隙間《すきま》なく臺《だい》を並《なら》べ、その上《うへ》に金子《きんす》四千七百|枚《まい》、銀子《ぎんす》二|萬《まん》千百|枚《まい》、合計《がふけい》二|萬《まん》六千|枚《まい》、その金高《きんだか》三十六|萬《まん》五千|兩《りやう》を、其《そ》の一|族《ぞく》、公卿《くげ》、大名等《だいみやうら》に分配《ぶんぱい》した。何事《なにごと》にも芝居氣《しばゐぎ》ある秀吉《ひでよし》は、赤衣《せきい》の裝束《しやうぞく》を著《つ》けたる諸大夫衆《しよだいふしゆう》三百|人《にん》をして、其《そ》の事《こと》を司《つかさど》らしめた。
秀吉《ひでよし》親《みづ》から座《ざ》を門戸《もんこ》の邊《ほとり》に設《まう》け、其《そ》の弟《おとうと》秀長《ひでなが》は東方《とうはう》に坐《ざ》し、皇弟《くわうてい》六|宮《のみや》は、秀吉《ひでよし》と同坐《どうざ》し給《たま》ひ、其《そ》の次《つぎ》に菊亭晴季《きくていはるすゑ》、權修寺晴豐《ごんしうじはるとよ》、中山親綱《なかやまちかつな》、烏丸光宣《からすまるみつのぶ》、日野輝資《ひのてるすけ》、廣橋兼勝等《ひろはしかねかつら》、列《れつ》を正《たゞ》し、次《つぎ》に、自餘《じよ》の公卿等《くげら》列坐《れつざ》した、前田玄以《まへだげんい》、淺野長政《あさのながまさ》、前野長景《まへのながかげ》、増田長盛《ますだながもり》、石田《いしだ》三|成等《なりら》、其《そ》の奉行《ぶぎやう》として、金銀《きんぎん》を監《かん》し、各臺《かくだい》に金銀《きんぎん》各々《おの/\》百|枚《まい》を載《の》せ、其《そ》の受領者《じゆりやうしや》の名《な》と、金額《きんがく》とを呼《よ》び上《あ》ぐるや、銘々《めい/\》秀吉《ひでよし》の前《まへ》に至《いた》り、禮拜《れいはい》して、之《これ》を受《う》け。擔夫《たんぷ》四|人《にん》をして、之《これ》を持舁《もちかつ》がしめた。其《そ》の儀式《ぎしき》の壯嚴《さうごん》と云《い》ふ能《あた》はざる迄《まで》も、極《きは》めて景氣《けいき》宜《よろ》しかりしは、云《い》ふ迄《まで》もない。
先《ま》づ六|宮《のみや》が黄金《わうごん》二百|枚《まい》、銀《ぎん》千|枚《まい》、信雄《のぶを》、家康《いへやす》亦《ま》た同額《どうがく》であつた。秀長《ひでなが》黄金《わうごん》三千|枚《まい》、銀《ぎん》一|萬兩《まんりやう》。秀次《ひでつぐ》、浮田秀家《うきたひでいへ》に、黄金《わうごん》千|兩《りやう》、銀《ぎん》一|萬兩宛《まんりやうづゝ》。毛利輝元《まうりてるもと》、上杉景勝《うへすぎかげかつ》に、黄金《わうごん》千|兩《りやう》、銀《ぎん》一|萬兩宛《まんりやうづゝ》[#ルビの「まんりやうづゝ」は底本では「まんりやうづつ」]、前田利家《まへだとしいへ》に、銀《ぎん》一|萬兩《まんりやう》。而《しか》して金銀《きんぎん》二十|萬《まん》七千|兩《りやう》を、中將《ちゆうじやう》二|人《にん》、少將《せうしやう》五|人《にん》、侍從《じじゆう》十三|人《にん》に賜《たま》ひ。其《そ》の餘《よ》大政所《おほまんどころ》に金《きん》三千|兩《りやう》、銀《ぎん》一|萬兩《まんりやう》。北政所《きたのまんどころ》に金《きん》一|萬兩《まんりやう》。家康夫人《いへやすふじん》、及《およ》び秀家《ひでいへ》の夫人《ふじん》に金《きん》五千|兩宛《りやうづゝ》。秀勝《ひでかつ》の母《はゝ》に金《きん》千|兩《りやう》。各《かく》公卿《くげ》へは、菊亭《きくてい》以下《いか》衞門督迄《ゑもんのすけまで》、銀《ぎん》十|枚《まい》。西洞院《さいどうゐん》、冷泉《れいぜい》へは銀《ぎん》五|枚《まい》、以下《いか》各《おの/\》へ給《きふ》し、合計《がふけい》三十六|萬《まん》五千|兩《りやう》となつた。
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に、格段《かくだん》の理由《りいう》もなく、此《かく》の如《ごと》き大金《たいきん》を配賦《はいふ》したのである乎《か》。
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われ今《いま》日本《につぽん》を心《こゝろ》の儘《まゝ》にはかり、萬《よろづ》とぼしからず、金銀《きんぎん》多《おほ》く積《つ》み置《おき》ても、何《な》にかはせん。用《もち》ひざれば是《これ》たゞ石《いし》瓦《かはら》を貯《たくはふ》るに異《こと》なる可《べか》らず、年頃《としごろ》隨《したが》へる從者共《ずさども》に、配《くば》り與《あた》へて、其《そ》の家《いへ》をも賑《にぎ》はさせん。(豐鑑)[#「(豐鑑)」は1段階小さな文字]
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先《ま》づ此《こ》れが秀吉《ひでよし》の心意氣《こゝろいき》であつたらう。即《すなは》ち一|言《げん》すれば、秀吉《ひでよし》の成金氣分《なりきんきぶん》が、具體化《ぐたいくわ》したのである。
信長《のぶなが》も、秀吉《ひでよし》も、家康《いへやす》も、何《いづ》れも金錢《きんせん》の金値《かち》を、熟知《じゆくち》し、詳知《しようち》し、精知《せいち》した漢《をのこ》であつた。彼等《かれら》は人《ひと》を支配《しはい》し、世《よ》を支配《しはい》するには、金《かね》が必須《ひつしゆ》の要件《えうけん》であることを能《よ》く會得《ゑとく》した。而《しか》して金《かね》を積《つ》み、金《かね》を貯《たくは》ふるの術《じゆつ》に於《おい》ては、三|人共《にんとも》に異曲同巧《いきよくどうかう》であつた。但《た》だ金《かね》を散《さん》ずるの方法《はうはふ》に於《おい》ては、秀吉《ひでよし》は最《もつと》も華美《くわび》であつた。小瀬甫庵《こせほあん》が、秀吉《ひでよし》を評《ひやう》して。『秀吉公《ひでよしこう》の素性《すじやう》、器《き》大《だい》にして、度量《どりやう》江海《かうかい》を吸盡《きふじん》し、萬《よろ》づ華麗《くわれい》を事《こと》とし、儉約《けんやく》をば、曾《かつ》て以《もつて》|不[#レ]知《しらざる》人《ひと》なりき。』と云《い》ひしは、先《ま》づ該當《がいたう》の言《げん》と云《い》ふ可《べ》きであらう。
併《しか》し此《こ》れはほんの秀吉《ひでよし》の一|面《めん》だ。彼《かれ》は決《けつ》して儉約《けんやく》を知《し》らぬ漢《をのこ》ではなかつた。彼《かれ》は唯《た》だ金《かね》を派手《はで》に使用《しよう》するの術《じゆつ》に妙《めう》であつた。彼《かれ》には若旦那氣質《わかだんなかたぎ》もなく、莫迦殿樣氣質《ばかとのさまかたぎ》もない。金《かね》の眞價《しんか》を知《し》らずして、金《かね》を芥《あくた》の如《ごと》く消費《せうひ》するものと、飽迄《あくまで》金《かね》の眞價《しんか》を知《し》りて、之《これ》を人目《ひとめ》に付《つ》く樣《やう》使用《しよう》するとは、其《そ》の迹《あと》同《おな》じきが如《ごと》くして、其《そ》の實《じつ》頗《すこぶ》る異《ことな》つて居《ゐ》る。秀吉《ひでよし》は思《おも》ひ切《き》つて贅澤《ぜいたく》をした。併《しか》し彼《かれ》の贅澤《ぜいたく》には、贅澤丈《ぜいたくだけ》の徳用《とくよう》があつた。役《やく》にも立《た》たぬ事《こと》に、金《かね》を泥《どろ》の中《なか》に遺棄《ゐき》するが如《ごと》き使用法《しようはふ》は、彼《かれ》の決《けつ》して容赦《ようしや》する所《ところ》でなかつた。言《い》ひ換《か》ふれば、彼《かれ》は手《て》の詰《つ》まる所《ところ》は、水《みづ》も漏《もら》さず詰《つ》めて、其《そ》の開放《かいはう》の時《とき》には、大膽《だいたん》に開放《かいはう》[#ルビの「かいはう」は底本では「がいはう」]したのだ。彼《かれ》は決《けつ》して黄金《わうごん》を瓦《かはら》の如《ごと》く使用《しよう》せなかつた。若《も》しその通《とほ》りに使用《しよう》する場合《ばあひ》あつたとすれば、そは其《そ》の瓦《かはら》が、黄金《わうごん》の價値《かち》ある場合《ばあひ》であつた。
秀吉《ひでよし》の金《かね》を使《つか》ふは、成金的《なりきんてき》であつた。然《しか》も彼《かれ》の成金《なりきん》なる者《もの》は、所謂《いはゆ》る裸《はだか》一|貫《くわん》の成《な》り上《あが》り者《もの》で、彼等《かれら》は一|錢《せん》一|厘《りん》の價値《かち》も、能《よ》く心得《こゝろえ》て居《ゐ》る。但《た》だ、一|擲《てき》千|金《きん》で得《え》た金《かね》を、一|擲《てき》千|金《きん》で使用《しよう》するのが、成金《なりきん》の成金《なりきん》たる所以《ゆゑん》であつた。彼等《かれら》は之《これ》を以《もつ》て浪費《らうひ》とは考《かんが》へて居《を》らぬ、否《い》な寧《むし》ろ一|擲《てき》千|金《きん》を散《さん》ずるは、更《さ》らに二千|金《きん》を得《う》る資本《しほん》であると考《かんが》へて居《ゐ》る。秀吉《ひでよし》の能《よ》く散《さん》じたのは、與《あた》ふるの取《と》りたる所以《ゆゑん》を、知《し》つたからだ。
人《ひと》には流儀《りうぎ》がある、秀吉《ひでよし》の成金氣質《なりきんかたぎ》に引《ひ》き代《か》へ、家康《いへやす》は田舍《ゐなか》の地主然《ぢぬしぜん》たる氣質《かたぎ》があつた。そは質素《しつそ》、力行《りよくかう》、兀々《こつ/\》として冗費《じようひ》を節《せつ》し、汲々《きふ/\》として貯蓄《ちよちく》を事《こと》とするの風《ふう》だ。家康《いへやす》の地味《ぢみ》と、秀吉《ひでよし》の華美《くわび》とは、好個《かうこ》の對照《たいせう》だ。されど華美《くわび》なる秀吉《ひでよし》も、遂《つ》ひに一|生《しやう》の間《あひだ》、財《ざい》に窮《きゆう》した事《こと》がなかつた。儉約《けんやく》なる家康《いへやす》も、決《けつ》して守錢奴《しゆせんど》ではなかつた。彼等《かれら》は金錢《きんせん》の集散《しふさん》に於《おい》て、互《たが》ひに其《そ》の趣《おもむき》を殊《こと》にした。併《しか》し經濟方面《けいざいはうめん》は、何《いづ》れも兩者《りやうしや》の弱點《じやくてん》ではなかつた。特《とく》に秀吉《ひでよし》は、天下《てんか》の財《ざい》を集《あつ》むるの術《じゆつ》に於《おい》て、非常《ひじやう》なる技倆《ぎりやう》を有《いう》した。五|奉行中《ぶぎやうちゆう》の前田《まへだ》、長束《ながつか》、増田抔《ますだなど》は、其《そ》の道《みち》にかけては、中々《なか/\》の手腕家《しゆわんか》であつた。
秀吉《ひでよし》は貿易《ばうえき》に著眼《ちやくがん》した、鑛山《くわうざん》に著眼《ちやくがん》した、土地丈兩《とちぢやうりやう》に著眼《ちやくがん》した。されば彼《かれ》は大《おほ》びらに金銀《きんぎん》を蒔《ま》き散《ち》らしつゝ、其《そ》の財政《ざいせい》は、恒《つね》に綽々乎《しやく/\こ》として、餘裕《よゆう》があつた。
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秀吉公《ひでよしこう》御歳入《ごさいにふ》二百|萬石餘《まんごくよ》有《あり》しかば、金銀米錢《きんぎんべいせん》あつまりぬる事《こと》夥《おびたゞ》しき事《こと》なり。かやうに逐年《ちくねん》財寶《ざいはう》あつまり來《き》たるを施《ほどこ》さゞれば、慳貧《けんどん》くづれとやらんにあふよしなり。左《さ》もある事《こと》もやと、由己《いうき》(大村由己)[#「(大村由己)」は1段階小さな文字]法眼《ほふげん》に問給《とひたま》ふに、仰《おほせ》いと宜《よろ》しく侍《はべ》る旨《むね》申上《まをしあ》ぐ。(甫庵太閤記)[#「(甫庵太閤記)」は1段階小さな文字]
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とあるは、其《そ》の一|端《たん》に過《す》ぎないのだ。然《しか》も其《そ》の金賦《かねくばり》に付《つい》ては、甫庵《ほあん》彼自身《かれじしん》は、斯《か》く評《ひやう》[#ルビの「ひやう」は底本では「やう」]して居《ゐ》る。
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或《あるひと》問《とふ》、殿下《でんか》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]兩度《りやうど》の金配《かねくば》りは、道《みち》にもちかゝらんや、否《いなや》、對《こたへて》曰《いはく》、是《これ》は富《とめ》るをつぎ、貧《まづし》きをば削《けづ》る意味也《いみなり》。何《なん》ぞ道《みち》に近《ちか》かるべけんや。百|姓《しやう》を辛《から》く絞《しば》り取《とり》、金銀《きんぎん》の分銅《ふんどう》にて、一|往《わう》目《め》を悦《よろこ》ばしめ、餘《あま》るを以《もつ》て、諸侯大夫《しよこうだいふ》に施《ほどこ》し給《たま》ひしは、|惠[#レ]下賜《しもをめぐみたま》ふに非《あら》ず。
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是亦《これま》た一|應《おう》尤《もつとも》の理窟《りくつ》である。秀吉《ひでよし》の財政《ざいせい》の豐裕《ほうゆう》なりしは、其《そ》の聚歛《しうれん》、苛求《かきう》の結果《けつくわ》でないとは云《い》へぬ。秀吉《ひでよし》は與《あた》ふる事《こと》に大膽《だいたん》であつたが、取《と》る事《こと》には猶更《なほさ》ら大膽《だいたん》であり、拔目《ぬけめ》がなかつた。併《しか》し秀吉《ひでよし》をして、此《かく》の如《ごと》き事《こと》を遂《と》げしめたのは、畢竟《ひつきやう》秀吉《ひでよし》が日本全國《にほんぜんこく》に與《あた》へたる、統制力《とうせいりよく》の徹底《てつてい》した譯《わけ》であつて、其《そ》の統《とう》一と、治安《ちあん》とは、偏《ひと》へに秀吉《ひでよし》の恩澤《おんたく》であると云《い》はねばならぬ。
將《は》た秀吉《ひでよし》の分配《ぶんぱい》が、其《そ》の親族《しんぞく》に偏重《へんちよう》したのを咎《とが》むるが如《ごと》きは、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、無理《むり》の註文《ちゆうもん》である。秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》血縁關係《けつえんくわんけい》を重《おも》んずる漢《をのこ》であつた。親《しん》を後《あと》にして疎《そ》を先《さき》にするが如《ごと》き事《こと》は、何人《なんびと》に向《むか》つても、期待《きたい》す可《べ》からざる事《こと》だ。況《いはん》や秀吉《ひでよし》に於《おい》てをやだ。
秀吉《ひでよし》は財政方面《ざいせいはうめん》にかけて、最《もつと》も細心《さいしん》なる注意《ちゆうい》を拂《はら》うた。天正《てんしやう》十五|年《ねん》には銅《どう》、及《およ》び銀《ぎん》にて天正通寳《てんしやうつうはう》を鑄《い》つた。十六|年《ねん》には大判金《おほばんきん》、小判金《こばんきん》を鑄《い》つた。されば十七|年《ねん》の金賦《かねくばり》には、恐《おそ》らくは此《こ》の新貨幣《しんくわへい》を使用《しよう》したであらう。果《はた》して然《しか》らば、此《こ》れは新貨幣《しんくわへい》披露《ひろう》の好機會《かうきくわい》であつたも知《し》れぬ。
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