高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第二十三章 凱旋行樂及肥後處分[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【八三】箱崎に於ける風雅(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》の九|州役《しうえき》は、一|面《めん》極《きは》めて重大《ぢゆうだい》なる軍國《ぐんこく》の務《つとめ》に鞅掌《あうしやう》し、爲《た》めに白髮《はくはつ》の生《しやう》ずる〔北政所に與へたる書を參照せよ〕[#「〔北政所に與へたる書を參照せよ〕」は1段階小さな文字]を嘆《たん》じたる程《ほど》であつたが、他方《たはう》に於《おい》ては、所謂《いはゆ》る西國見物《さいこくけんぶつ》の旅行《りよかう》にて、頗《すこぶ》る悠々《いう/\》たるものであつた。其《そ》の幕中《ばくちう》には、幽齊《いうさい》の如《ごと》き歌客《かかく》あり。利休《りきう》の如《ごと》き茶人《ちやじん》あり。施藥院《せやくゐん》の如《ごと》き醫者坊主《いしやぼうず》もあり。大村由己《おほむらいうき》の如《ごと》き物書《ものか》きもあり。天王寺屋宗及《てんわうじやそうきふ》の如《ごと》き町人《ちやうにん》もあり。其《そ》の他《た》隨時隨處《ずゐじずゐじよ》に、道樂友達《だうらくともだち》も少《すくな》くなかつた。
信長《のぶなが》も道樂者《だうらくもの》であつたが、秀吉《ひでよし》はそれに輪《わ》を掛《か》けた道樂者《だうらくもの》であつた。信長《のぶなが》は角力《すまふ》、競馬等《けいばとう》の勝負事《しようぶごと》や、鷹狩《たかがり》の如《ごと》き武張《ぶば》りたる事《こと》やに、最《もつと》も興味《きようみ》を持《も》つたが、秀吉《ひでよし》の趣味《しゆみ》は、寧《むし》ろより多《おほ》く藝術的《げいじゆつてき》であつた。建築《けんちく》、繪畫《くわいぐわ》、其《そ》の他《た》あらゆる百|工《こう》、技藝《ぎげい》、一として秀吉《ひでよし》の解《かい》し、且《か》つ樂《たの》しまざるものはなかつた。茶《ちや》の湯《ゆ》に至《いた》りては、信長《のぶなが》の將校時代《しやうかうじだい》には、信長《のぶなが》より其《そ》の功勞《こうらう》に免《めん》じて、特許《とくきよ》を得《え》つゝ、之《これ》を行《おこな》ひ來《きた》つたのであるが、信長死後《のぶながしご》、彼《かれ》の位置《ゐち》の進《すゝ》むと與《とも》に、此《こ》の嗜好《しかう》は愈《いよい》よ濃厚《のうこう》となり、普遍《ふへん》となつた。
秀吉《ひでよし》箱崎陣屋《はこざきぢんや》の光景《くわうけい》は、『豐鑑《ほうかん》』|所記《しよき》の文字《もんじ》、能《よ》く之《これ》を描《ゑが》き出《いだ》して居《を》る。
[#ここから1字下げ]
此宮《このみや》は八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の跡《あと》を垂給《たれたま》ひ、しるしの箱《はこ》ををさめ、遙《はるか》に西《にし》の海《うみ》に向《むか》ひ、異國《いこく》の襲《おそ》ひ來《きた》らん※[#「こと」の合字、422-]を守《まも》り給《たま》ふ。松原博多《まつばらはかた》に續《つゞ》き、まさご清《きよ》く、松《まつ》の風《かぜ》波《なみ》の音《おと》そへたり。比《ころ》は水無月《みなづき》の末成《すゑなり》ければ、あつさ耐《た》へがたかりける。夕《ゆふ》つかた松原《まつばら》に出《いで》て立涼《たちすゞ》み、遙々《はる/″\》と詠《なが》むるに、唐土《もろこし》もま近《ぢか》き樣《やう》に見《み》やらるゝ|計成《ばかりなり》。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の雲濤《うんたう》一|碧《ぺき》の玄洋《げんやう》に面《めん》し、如何《いか》に秀吉《ひでよし》の雄心《ゆうしん》を、刺戟《しげき》してあるよ。多年《たねん》彼《かれ》の胸底《きようてい》に養《やしな》はれたる、海外經略《かいぐわいけいりやく》の偉圖《ゐと》が、此際《このさい》に新《あらた》たなる生命《せいめい》と、活力《くわつりよく》とを以《もつ》て、勃興《ぼつこう》し來《きた》つたのは、固《もと》より當然《たうぜん》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。
[#ここから1字下げ]
人々《ひと/″\》に涼《すゞ》しき題《だい》の歌《うた》よめとて、自《みづから》も讀《よ》み給《たま》ふ。
[#ここから2字下げ]
たち出《いづ》る袖《そで》の港《みなと》の夕風《ゆふかぜ》に、涼《すゞ》しく騷《さわ》ぐ波《なみ》の音《おと》かな。
唐《もろこし》もかくやは涼《すゞ》し西《にし》の海《うみ》の、波路《なみぢ》吹《ふ》きくる風《かぜ》に問《と》はゞや。
歸《かへ》るさもあつさも共《とも》に忘《わす》られて、あかね眺《なが》めの浦《うら》の夕暮《ゆふぐれ》。
なべて世《よ》に仰《あふ》ぐ神風《かみかぜ》吹《ふき》そひて、ひゞき涼《すゞ》しき箱崎《はこざき》の松《まつ》。
住《すみ》なれし此《この》里人《さとびと》に事問《ことと》はん、かく社《こそ》夏《なつ》を知《し》らでおくれる。
松原《まつばら》や立《た》ち寄《よ》る袖《そで》のやすらひに、こぬあきしるき沖《おき》つ汐風《しほかぜ》。
[#ここから1字下げ]
しな/″\|數《かず》あまたつらねあへりけれども、くだ/\しければ、漏《も》らしつ。月《つき》たけ登《のぼ》るまですん流《なが》れ汲《く》みかはしののしりあへり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ豈《あ》に槊《さく》を横《よこた》へて、詩《し》を賦《ふ》すよりも、一|層《そう》の風流《ふうりう》ではない乎《か》。
[#ここから1字下げ]
又《また》其比《そのころ》、茶《ちや》の湯《ゆ》の會《くわい》に長《ちやう》ぜる宗易《そうえき》(利休)[#「(利休)」は1段階小さな文字]といへる法師《ほふし》、境《さかひ》(堺)[#「(堺)」は1段階小さな文字]の津《つ》より友《とも》とする人《ひと》あまた具《ぐ》して、彼松原《かのまつばら》の本《もと》に苫屋《とまや》よしある樣《さま》にしつらひ、秀吉卿《ひでよしきやう》に茶《ちや》を進《すゝ》めり。すき給《たま》ふ道《みち》なれば、秀吉公《ひでよしこう》も興《きよう》に入《いつ》てぞ見《み》えし。友《とも》なひ來《き》し人々《ひと/″\》も、おもひ/\に座敷《ざしき》しつらひ、松《まつ》のしづえを、其儘《そのまゝ》かきとし、松《まつ》が根《ね》を道《みち》に清《きよ》め、松《まつ》かさとり鹽屋《しほや》の烟《けむり》にたぐひ、互《たがひ》に心《こゝろ》をつくせる樣《さま》、いへば更也《さらなり》。秀吉公《ひでよしこう》日々《ひゞ》にまうで、夏《なつ》の日《ひ》も暮《く》らしやすげなる、誠《まこと》になくさの濱《はま》なる可《べ》し。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
讀《よ》み來《きた》れば、數《す》百|載《さい》の下《もと》、尚《な》ほ人《ひと》をして神《しん》逝《ゆ》かしむるの感《かん》がある。更《さ》らに此《こ》の清境《せいきやう》を、秀吉《ひでよし》が如何《いか》に消受《せうじゆ》したかは、左《さ》の記事《きじ》によりて、想像《さう/″\》が出來《でき》よう。
[#ここから1字下げ]
同《どう》八|日《か》(六月)[#「(六月)」は1段階小さな文字]利休居士《りきうこじ》へ、關白殿《くわんぱくどの》渡御御遊《とぎよおんあそ》び有《あり》て、彼《かの》一|折《せつ》と被[#二]相催[#一]《あひもよほされ》て、發句《ほつく》つかふまつるべきよしあれば、筥崎八幡《はこざきはちまん》の心《こゝろ》を、
[#ここから3字下げ]
神代《かみよ》にもこえつゝ|涼《すゞ》し松《まつ》の風《かぜ》
雲間《くもま》に遠《とほ》き夏《なつ》の夜《よ》の月《つき》[#地から8字上げ]松
ほのかにも明行《あけゆく》空《そら》の雨《あめ》晴《はれ》て[#地から3字上げ]日野新大納言
[#ここから1字下げ]
箱崎《はこざき》の八|幡《まん》のうち、關白殿《くわんぱくどの》おはし所《ところ》になりて、各《おの/\》參上《さんじやう》せしに、しるしの松《まつ》に寄《よせ》て、祝言心《しうげんこゝろ》を讀《よ》ませられけるに、
[#ここから3字下げ]
つるぎをばこゝにをさめよ箱崎《はこざき》の、松《まつ》の千《ち》とせも君《きみ》が世《よ》の友《とも》。
[#ここから1字下げ]
關白殿《くわんぱくどの》箱崎《はこざき》の松原《まつばら》にて涼《すゞ》まるべきよし有《あり》て、各《おの/\》召具《めしぐ》せられ、しばし御遊興《ごいうきよう》の事有《ことあり》、おほみきまいり、謠《うたひ》ども有《あり》て、御當座《おたうざ》有《あり》しに。
[#ここから2字下げ]
立出《たちいづ》る袖《そで》のみなとの夕涼《ゆふすゞ》み、かたしく程《ほど》の浦風《うらかぜ》ぞ吹《ふ》く。
[#ここから1字下げ]
暮《くれ》はてゝかへらせ給《たま》ふ折《を》りに、松原《まつばら》に名殘《なごり》思《おも》ふ歌《うた》、人々《ひと/″\》つかふまつる可《べ》き由《よし》あれば、
[#ここから2字下げ]
松原《まつばら》にとまり鴉《がらす》の聲《こゑ》をさへ、うらやまれぬる、かへるさの道《みち》。〔幽齊道之記〕[#「〔幽齊道之記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
發句《ほつく》に松《まつ》と署《しよ》したるは、秀吉《ひでよし》の自詠《じえい》である。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、風雅《ふうが》の方面《はうめん》に、心《こゝろ》を寄《よ》せつゝあつたかは、上記《じやうき》にても一|斑《ぱん》が判知《わか》る。彼《かれ》は飄然《へうぜん》利休《りきう》の宿《やど》を訪《と》ひ、風雅《ふうが》の友等《ともら》と歡娯《くわんご》し、更《さ》らに彼等《かれら》が秀吉《ひでよし》の箱崎本營《はこざきほんえい》に參《さん》ずるや、彼等《かれら》を伴《ともな》うて、箱崎《はこざき》の松原《まつばら》を逍遙《せうえう》し、松蔭謠曲《しよういんえうきよく》を誦《しよう》して、日影《ひかげ》の移《うつ》るを知《し》らず、黄昏《たそがれ》を過《す》ぎ還《かへ》るに際《さい》し、尚《な》ほ餘歡《よくわん》の未《いま》だ※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つ》きざるありて、幽齊等《いうさいら》に命《めい》じて、名殘《なごり》の歌《うた》を賦《ふ》せしめた。當時《たうじ》利休《りきう》が松枝《まつがえ》に茶釜《ちやがま》を掛《か》け、松葉《まつば》を燒《た》いて、茶《ちや》を秀吉《ひでよし》に侑《すゝ》めたる、所謂《いはゆ》る千《せん》の利休《りきう》釜懸松《かまかけまつ》なるもの、今尚《いまな》ほ存《そん》して居《を》る。如何《いか》に英雄《えいゆう》閑日月《かんじつげつ》ありとは云《い》へ、其《そ》の心《こゝろ》まことに之《これ》を樂《たの》しむにあらざれば、此《かく》の如《ごと》き風流《ふうりう》は、期《き》す可《べ》からざる事《こと》だ。
茶《ちや》の湯《ゆ》の會《くわい》も、頻繁《ひんぱん》に催《もよほ》した。今《いま》試《こゝろ》みに博多《はかた》の豪商《がうしやう》神屋宗湛《かみやそうたん》、島井宗室《しまゐそうしつ》が、秀吉《ひでよし》箱崎《はこざき》の朝茶會《あさちやくわい》に招《まね》かれたる記事《きじ》を掲《かゝ》げんに、
[#ここから1字下げ]
丁亥《ひのとゐ》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]六|月《ぐわつ》十九|日《にち》朝《あさ》、箱崎御陣所《はこざきごぢんしよ》にて。
一 關白樣《くわんぱくさま》に御會事《ぎよくわいのこと》 宗湛《そうたん》、宗室《そうしつ》兩人《りやうにん》
御數寄屋《おすきや》 三|疊敷縁《でふじきえん》さし、二|枚障子《まいしやうじ》に、上《うへ》にあけ窓《まど》、六|尺《しやく》のおし板《いた》有《あり》。
此《この》路地《ろぢ》の入《いり》は、外《ほか》にくぐりをはい入《いり》て、飛石《とびいし》あり。箱松《はこまつ》の下《した》に、手水鉢《てうづばち》有《あり》、木《き》をくりたる也《なり》。古《ふるく》して苔《こけ》蒸《む》す。柄杓《ひしやく》は上《うへ》に伏《ふ》せて、此《この》箱松《はこまつ》の下《した》廻《まは》りて、數寄屋《すきや》の前《まへ》に、古竹《ふるたけ》にて腰垣《こしがき》あり、そこにす戸《と》のはねきと有《あり》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ秀吉《ひでよし》數寄屋《すきや》の光景《くわうけい》である。何《なん》たる瀟洒《せうしや》の境界《きやうかい》ぞや。
[#ここから1字下げ]
夜《よ》ほの/″\|明方《あけがた》にて、箱松《はこまつ》を通《とほ》り、はね戸《ど》まで參候《まゐりさふら》へば、内《うち》より關白樣《くわんぱくさま》障子《しやうじ》を御明《おあけ》なされて、はいれやと御聲高《おんこゑだか》に御錠候也《ごぢやうさふらふなり》。未《いま》だ暗《くら》くして、座敷《ざしき》の内《うち》も不[#二]見分[#一]《みわかず》、さて上座《じやうざ》のをし板《いた》には、文字《もじ》懸《かゝり》て、その前《まへ》に桃尻《もゝじり》に、ゐのこ草《ぐさ》を生《いけ》て、薄板《うすいた》にすわる。風爐御釜《ふろおかま》せめひほ、手水《てうづ》の間《あひだ》に、水指芋頭《みづさしいもがしら》さそろいて、内《うち》より被[#レ]成[#二]御出[#一]《おんいでなされ》て、茶《ちや》を飮《のま》うかと御諚候《ごぢやうさふらう》て、しき肩衝《かたつき》を、四|方釜《はうかま》にすゑ、井戸茶碗《ゐどちやわん》に御道具《おだうぐ》入《いれ》て、水覆《みづおほひ》[#割り注]かめのふた[#割り注終わり]引切《ひききり》にて、御手前也《おてまへなり》。御茶《おちや》たてられて後《のち》に、此《この》肩衝《かたつき》を御手《おんて》に持《もた》せられて、兩人《りやうにん》の者《もの》を御側《おんそば》に被[#二]召寄[#一]《めしよせられ》、是《これ》を見《み》よ、此《この》茶《ちや》有故《あるゆゑ》に、しきとは云《いふ》ぞと御諚候也《ごぢやうさふらふなり》。
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》は唯《た》だ宗湛《そうたん》が、後日《ごじつ》の記憶《きおく》に供《きよう》す可《べ》く、其《そ》の手帳《てちやう》に書付《かきつ》け置《お》きたるものであるが、然《しか》も秀吉《ひでよし》の風神《ふうしん》は、躍々《やく/\》として此《こ》の文句《もんく》の外《ほか》に活動《くわつどう》するの趣《おもむき》がある。乃《すなは》ち不用意《ふようい》の中《うち》に於《お》ける、傳神《でんしん》の筆《ふで》だ。
此《こ》の朝茶《あさちや》に於《お》ける會席《くわいせき》の献立《こんだて》も、頼《さいは》ひに『神屋宗湛献立日記《かみやそうたんこんだてにつき》』なるものに、書《か》き殘《のこ》されてある。
[#ここから1字下げ]
一 十九|日《にち》朝《あさ》 關白樣《くわんぱくさま》に御會事《ぎよくわいのこと》。
[#ここから2字下げ]
一 内《うち》赤鉢子皿《あかばちこざら》に 鱠《なます》[#割り注]鯛大根鱧生姜[#割り注終わり]
一 御汁《おんしる》 [#割り注]小鳥大根入てふさす味噌[#割り注終わり]
御本膳[#割り注]ため塗のをしき[#割り注終わり]
一 つす皿《さら》にさゞへ味噌燒《みそやき》
一 御飯《ごはん》 再進盆《さいしんぼん》黒塗[#「黒塗」は1段階小さな文字] 同《どう》尺子《しやくし》くろく[#「くろく」は1段階小さな文字] 御酒《ごしゆ》鍋に入[#「鍋に入」は1段階小さな文字] 御湯《おゆ》[#割り注]ため塗の湯桶に入[#割り注終わり]
一 御菓子鉢子皿《おくわしばちこざら》に葛《くづ》の子餅《こもち》きなこ懸《かけ》て、楊枝《やうじ》置《おき》て。
[#ここで字下げ終わり]
吾人《ごじん》は此《こ》の零墨《れいぼく》によりて、三百|年前《ねんぜん》、我《わ》が上流社會《じやうりうしやくわい》の飮食《いんしよく》に關《くわん》する、活《い》ける知識《ちしき》を得《え》た。彼《かれ》が特《とく》に博多豪商人《はかたがうしやうにん》を、朝茶《あさちや》に招《まね》きたるは、唯《た》だ一|刹那《せつな》の遊興《いうきよう》に過《す》ぎなかつたであらうか、將《は》た他《た》に理由《りいう》があつたであらうか。宗湛日記《そうたんにつき》を讀《よ》めば、彼《かれ》が當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の懷小刀《ふところがたな》たる石田三成《いしだみつなり》と、屡《しばし》ば往來《わうらい》したる記事《きじ》がある。惟《おも》ふに是《こ》れは、唯《た》だ風雅《ふうが》の交遊《かういう》とのみ云《い》ふ可《べ》きではあるまい。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の極《きは》めて多角的《たかくてき》であつた事《こと》を、諒解《りやうかい》せねばならぬ。
足利氏《あしかがし》の末期《まつき》より、堺《さかひ》の商人等《しやうにんら》は、事實《じじつ》の上《うへ》には、將軍家《しやうぐんけ》の執權《しつけん》と抗衡《かうかう》した。執權等《しつけんら》が堺《さかひ》の商人《しやうにん》を呼《よ》ぶにも、呼捨《よびすて》にせず、某老《ぼうらう》との敬稱《けいしよう》を附《ふ》した。爾來《じらい》商人《しやうにん》の權力《けんりよく》は、富《とみ》の勢力《せいりよく》と與《とも》に、漸次《ぜんじ》に増加《ぞうか》した。秀吉《ひでよし》は若《も》し大《だい》なる富《とみ》の生産者《せいさんしや》でなければ、少《すくな》くとも大《だい》なる富《とみ》の集合者《しふがふしや》であつた。箱崎《はこざき》の茶會《ちやくわい》は、秀吉《ひでよし》の風雅《ふうが》、藝術《げいじゆつ》の半面《はんめん》を、實證《じつしよう》するのみならず、又《ま》た利用厚生《りようこうせい》の方面《はうめん》をも、想像《さう/″\》する事《こと》が能《あた》ふ。
[#5字下げ][#中見出し]【八四】箱崎に於ける風雅(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は單《た》だに博多《はかた》の豪商等《がうしやうら》を、招待《せうたい》したるのみならず、亦《ま》た其《そ》の招待《せうたい》にも應《おう》じた。吾人《ごじん》は其《そ》の繁《はん》を厭《いと》はず、聊《いさゝ》か之《これ》を語《かた》る可《べ》し。そは秀吉《ひでよし》の生活《せいくわつ》、及《およ》び秀吉《ひでよし》を透《とほ》して、當時《たうじ》上流社會《じやうりうしやくわい》の生活《せいくわつ》を知《し》るに、恰當《かふたう》の資料《しれう》たるを信《しん》ずるからだ。
[#ここから1字下げ]
丁亥《ひのとゐ》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]六|月《ぐわつ》廿五|日《にち》朝《あさ》、箱崎《はこざき》あかはたにて、
一 關白樣《くわんぱくさま》を御會仕事《ぎよくわいつかまつること》、宗湛陣屋《そうたんぢんや》にて也《なり》。
二|疊半《でふはん》青《あを》かや葺《ぶき》に、壁《かべ》くぐりの戸《と》まで青萱也《あをかやなり》。床《とこ》一てう[#割り注]かまち大竹也[#割り注終わり]|御相伴《おしやうばん》長岡玄旨樣也《ながをかげんしさまなり》。風爐《ふろ》[#割り注]古[#割り注終わり]|眞釜床《まがまとこ》の前風呂《まへふろ》先《さき》に數臺《すだい》置《おい》て、いせ天目新《てんもくしん》 文琳《ぶんりん》 水指《みづさし》なくして茶《ちや》をたて申也《まをすなり》。床《とこ》には錦《にしき》の茵《しとね》敷《しき》て、關白樣《くわんぱくさま》被[#レ]成[#二]御座[#一]候《ござなされさふらう》て、御膳《ごぜん》御《おん》あがり候《さふらふ》。御茶《おちや》の時《とき》は、下《した》におりさせられて、きこしめさるゝ|也《なり》。
一 御衣裝之事《おんいしやうのこと》、上《うへ》には白綾御小袖《しろあやおんこそで》桐《きり》の御紋《ごもん》、御肩衣袴《おんかたぎぬはかま》[#割り注]からちやこまかた[#割り注終わり]
御脇差《おんわきざし》はもくわう上鍔《うはつば》の黒《くろ》つくり、ふちは金也《きんなり》。
一 次《つぎ》の間《ま》には、宗及《そうきふ》、休夢《きうむ》、其外《そのほか》には宗及《そうきふ》御知音《ごちおん》の大名衆《だいみやうしゆう》三|人《にん》御座候《ござさふらう》て、御膳《おぜん》など御肝煎候《おんきもいりさふらふ》なり。先《まづ》九|鬼大隅殿《きおほすみどの》、山崎志摩守殿《やまざきしまのかみどの》、今《いま》一|人《にん》名忘候《なわすれさふらふ》。關白樣《くわんぱくさま》御膳《ごぜん》御《お》かよひは休夢也《きうむなり》。茶湯仕懸《ちやのゆしかけ》其外道具《そのほかだうぐ》なりは、宗及《そうきふ》御肝煎也《おきもいりなり》。小姓《こしやう》の如《ごと》く候《さふらふ》、忝《かたじけなし》と申候事《まをしさふらふこと》。〔宗湛日記〕[#「〔宗湛日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
長岡玄旨《ながをかげんし》は、細川幽齊也《ほそかはいうさいなり》。秀吉《ひでよし》の陪客《ばいきやく》として、寔《まこと》に適當《てきたう》の人《ひと》だ。休夢《きうむ》は黒田孝高《くろだよしたか》の叔父《をぢ》、黒田休夢《くろだきうむ》にして、宗及《そうきふ》は天王寺屋宗及《てんのうじやそうきふ》とて、上方屈指《かみがたゆびをり》の豪商也《がうしやうなり》。
傳説《でんせつ》によれば、當時《たうじ》宗湛《そうたん》は、博多文琳《はかたぶんりん》とて、天下稀有《てんかけう》の名器《めいき》を藏《ざう》した。秀吉《ひでよし》は此《こ》の茶會《ちやくわい》に於《おい》て、懇望《こんもう》して已《や》まなかつたが、宗湛《そうたん》が若《も》し日本半國《にほんはんごく》を賜《たまは》りなば、尊命《そんめい》に應《おう》ず可《べ》しと云《い》うたが爲《た》めに、秀吉《ひでよし》も思《おも》ひ止《とゞま》つたと云《い》ふ。〔黒田如水傳〕[#「〔黒田如水傳〕」は1段階小さな文字]併《しか》し川角太閤記《かはかくたいかふき》には、左《さ》の如《ごと》く傳《つた》へて居《を》る。
[#ここから1字下げ]
一 博多《はかた》の町《まち》に、昔《むかし》より數寄《すき》を仕候《つかまつりさふらふ》宗丹《そうたん》(宗湛)[#「(宗湛)」は1段階小さな文字]と申者《まをすもの》、文琳《ぶんりん》と申《まを》す茶入《ちやいれ》を上申候《あげまをしさふらふ》。被[#レ]成[#二]御覽[#一]可[#レ]被[#二]召置[#一]候《ごらんなされてめしおかるべくさふら》へども、是《これ》にて以來迄《いらいまで》數寄《すき》いたし候《さふら》へとの御意《ぎよい》にて、御米《おんこめ》五百|石《こく》文琳《ぶんりん》に御添被[#レ]成《おんそへなされ》、宗丹《そうたん》(宗湛)[#「(宗湛)」は1段階小さな文字]に被[#レ]下候《くだされさふらふ》。茶入《ちやいれ》も今《いま》に名物《めいぶつ》のよし沙汰仕候《さたつかまつりさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》の方《はう》が寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》の性格《せいかく》に相應《さうおう》して居《を》る樣《やう》に、思《おも》はるゝ。何《いづ》れにせよ、此《こ》の茶會《ちやくわい》の中心的興趣《ちうしんてききようしゆ》は、此《こ》の文琳《ぶんりん》であつたに相違《さうゐ》あるまい。
同日《どうじつ》の献立表《こんだてへう》も、『|宗湛献立日記《そうたんこんだてにつき》』に書《か》き留《と》められてある。
[#ここから1字下げ]
一 廿五|日《にち》朝《あさ》 宗湛之所《そうたんのところ》に
[#ここから2字下げ]
關白樣《くわんぱくさま》 玄旨樣《げんしさま》 御成之事《おなりのこと》。
御本膳《ごほんぜん》[#割り注]木具あしうちあさきわん[#割り注終わり] 一|御汁《おんしる》[#割り注]麩に白鳥入てふくさ[#割り注終わり] かうの物《もの》[#割り注]さんせう置て[#割り注終わり]
一 土器《どき》に膾《なます》[#割り注]白鳥大根せん薑(はじかみ)へきぐり[#割り注終わり]
一 御飯《ごはん》二 四|方《はう》
一 鮎燒《あゆやき》しもふり
一 生鮑《あはび》[#割り注]ふくら入[#割り注終わり]|上置《うはおき》にははり生姜《しやうが》
一 [#割り注]さゝぎ茄子[#割り注終わり]|胡桃《くるみ》あへ
御再進《ごさいしん》重箱《ぢゆうばこ》に入《いれ》
御酒《ごしゆ》高麗物《かうらいもの》白《しろ》き瓶《かめ》に入《いれ》一|返《かへし》
御湯《おゆ》[#割り注]錫のかないろ[#割り注終わり]
御菓子盆木具《おくわしぼんきぐ》 ふち高《だか》を四|方《はう》に据《すゑ》て 胡桃《くるみ》 松實《まつのみ》 桃《もゝ》 たゝき牛蒡《ごばう》 麩《ふ》煮《に》しめて 以上《いじやう》九|種《しゆ》
[#ここで字下げ終わり]
とある。秀吉《ひでよし》は單《たん》に茶事《ちやじ》や風雅《ふうが》を嗜好《しかう》するのみならず、又《ま》た自《みづか》ら其《そ》の事《こと》に堪能《かんのう》であつた。
[#ここから1字下げ]
一 關白樣《くわんぱくさま》 宗及所《そうきふのところ》に御會《ぎよくわい》。
御相伴《おしやうばん》三|松樣《しようさま》 休夢《きうむ》兩人《りやうにん》。御《お》かよひ宗及《そうきふ》、鹽屋《しほや》の座敷《ざしき》のおし板《いた》に、茂古林《もこりん》の墨蹟《ぼくせき》懸《かけ》て、手水《てうづ》の間《ま》に、ほそ口《ぐち》に花《はな》生《いけ》て、風爐《ふろ》あられ釜《がま》、新《しん》つるべ、瀬戸茶碗《せとちやわん》に道具《だうぐ》入《いれ》て、棗《なつめ》めんつう 引切《ひききり》。右《みぎ》御茶《おちや》過《すぎ》て、又《また》關白樣《くわんぱくさま》花《はな》を御生候也《おいけさふらふなり》。座中《ざちう》の衆《しゆう》どつと感《かん》ぜられ候《さふらふ》。其後《そのご》に、向《むかひ》の休夢《きうむ》陣屋《ぢんや》にて、御袴《おはかま》など脱《ぬが》せられて、又《また》被[#レ]成[#二]御出[#一]《おんいでなされ》て、一|折《をり》せんかと御諚《ごぜう》にて、
御發句《ごほつく》
鹽竈《しほがま》の濱邊《はまべ》涼《すゞ》しきまどのまへ[#地から3字上げ]上 樣[#「(上 樣)」は1段階小さな文字]
立寄《たちよ》る影《かげ》のしける松竹《まつたけ》[#地から3字上げ]宗 及[#「(宗 及)」は1段階小さな文字]
關《せき》の戸《と》を明《あけ》て(缺句)[#「(缺句)」は1段階小さな文字]し[#地から3字上げ]上 樣[#「(上 樣)」は1段階小さな文字]
此《こ》の後《あと》付合《つけあひ》に
たてならべたる門《かど》のにぎはひ[#地から3字上げ]休 夢[#「(休 夢)」は1段階小さな文字]
博多町《はかたまち》幾千代《いくちよ》までやつのるらん[#地から3字上げ]上 樣[#「(上 樣)」は1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
此《この》御句《おんく》を博多《はかた》のものに聞《き》かせ申《まを》さいでと、各《おの/\》御褒美候《ごはうびさふら》へば、上樣《うへさま》御機嫌《ごきげん》なり。〔宗湛日記〕[#「〔宗湛日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
彼《かれ》は花《はな》を生《い》けた、發句《ほつく》を作《つく》つた、和歌《わか》をも詠《えい》じた。何《いづ》れも殿樣藝以上《とのさまげいいじやう》であつた。
[#ここから1字下げ]
廿七|日《にち》(六月)[#「(六月)」は1段階小さな文字]關白殿《くわんぱくどの》花瓶《くわびん》あまたとり出《いだ》されて、草花《くさばな》をいけられたる御座敷《おざしき》にて、俄《にはか》に一|折被[#レ]催《をりもよほされ》て、
夏草《なつぐさ》に花《はな》の香《か》ならず袂《たもと》かな
涼《すゞ》しき夜半《よは》のさごろもの月《つき》[#地から3字上げ]松[#「(松)」は1段階小さな文字]
白露《しらつゆ》の簾《すだれ》の隙《すき》をつたひ來《き》て[#地から3字上げ]由 己[#「(由 己)」は1段階小さな文字]〔幽齊道之記〕[#「〔幽齊道之記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
首句《しゆく》は幽齊《いうさい》の作《さく》、松《まつ》とあるは秀吉《ひでよし》、由己《いうき》とあるは、云《い》ふ迄《まで》もなく、大村由己《おほむらいうき》だ。
當時《たうじ》の陣屋《ぢんや》は、今日《こんにち》の所謂《いはゆ》る天幕生活《てんとせいくわつ》だ。薫風《くんぷう》六|月《ぐわつ》、箱崎千代《はこざきちよ》ノ松原《まつばら》に、大小幾許《だいせういくばく》の陣屋《ぢんや》を設《まう》け、軍國善後《ぐんこくぜんご》の策《さく》を定《さだ》め、海外經略《かいぐわいけいりやく》の計畫《けいくわく》を建《た》つる傍《かたは》ら、連歌《れんか》、茶《ちや》の湯《ゆ》に、凱旋《がいせん》の餘裕《よゆう》を樂《たの》しむ。是《こ》れ亦《ま》た人生《じんせい》の一|大快事《だいくわいじ》といはねばならぬ。世《よ》多《おほ》くは秀吉《ひでよし》を以《もつ》て、無學文盲《むがくもんまう》の標本《へうほう》たるかの如《ごと》く、思《おも》ひ做《な》すものがある。此《こ》れは大《だい》なる間違《まちがひ》だ。秀吉《ひでよし》の學問《がくもん》は、元就《もとなり》、氏康《うぢやす》、信玄《しんげん》、謙信抔《けんしんなど》に比《ひ》す可《べ》きものではないが、さりとて、同時《どうじ》に於《お》ける諸大名中《しよだいみやうちう》に於《おい》て、彼程《かれほど》の廣《ひろ》き趣味《しゆみ》、博《ひろ》き教養《けうやう》のある者《もの》は少《すくな》かつた。此《こ》の方面《はうめん》に於《おい》ては、信長《のぶなが》よりも、特《とく》に家康《いへやす》よりも、遙《はる》かに上《うへ》であつた。乃《すなは》ち桃山時代《もゝやまじだい》の美術《びじゆつ》、工藝《こうげい》の如《ごと》きは、全《まつた》く秀吉《ひでよし》其《そ》の人《ひと》が本尊《ほんぞん》であつた。
―――――――――――――――
[#6字下げ]宗湛秀吉招請の家
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
六月晦日の朝、宗湛が家に秀吉公を請じ奉りて、茶をすゝめ饗應す、其時の家今に殘れり、さばかりの富人の、天下のあるじを屈請せし家なれど、いと矮小なる家居也、今は國君、郡主を請待すとも甚だ狹かりなん、是をもて當時猶質朴の風ありし事をしりぬ、今|四《よつ》の海《うみ》波靜にして塵をあげず、七乃道《なゝつのみち》風穩にして枝を鳴らさず、されば天が下の人、たかき賤しき、大君の徳によりて枕席を安んずる事を得たり、しかるに、古より太平日久しければ人の心なべておごりを好まんとは期せざれども、奢おのづから至り質素をいやしむ。是盛世の俗弊にて人情の常の習なれば吾輩豈みづから顧みいましめて、かゝる俗習をあらため淳朴に返らざるべけんや。古風を慕ふに心あらん人、此家のありさまを見ば、必感を興して嘆賞すべし。〔元祿十五年筑前國續風土記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
―――――――――――――――
[#5字下げ][#中見出し]【八五】秀吉と島津毛利[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は心殘《こゝろのこ》る所《ところ》なく、九|州《しう》に於《お》ける諸般《しよはん》の始末《しまつ》を附《つ》けた。今《いま》は凱旋《がいせん》するばかりとなつた。彼《かれ》は此《こ》の間際《まぎは》に於《おい》て、尚《な》ほ二|個《こ》の要件《えうけん》を忘《わす》れなかつた。そは島津義久《しまづよしひさ》を上洛《じやうらく》せしむる事《こと》と、毛利氏《まうりし》を懷柔《くわいじう》する事《こと》であつた。苟《いやしく》も此《こ》の二|者《しや》を缺《か》けば、畫龍《ぐわりゆう》の點晴《てんせい》を少《か》く譯《わけ》だ。
島津義久《しまづよしひさ》は、木食上人《もくじきしやうにん》の催告《さいこく》によりて、伊集院忠棟等《いじふゐんたゞむねら》を從《したが》へ、彌《いよい》よ六|月《ぐわつ》十五|日《にち》鹿兒島《かごしま》を發《はつ》し、博多《はかた》に至《いた》り、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。戰國《せんごく》の習《ならひ》として、彼《かれ》は太平寺《たいへいじ》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の款待《くわんたい》に預《あづか》つたに拘《かゝは》らず、尚《な》ほ若干《じやくかん》の危惧《きぐ》を懷《いだ》き、隨分《ずゐぶん》出《い》で澁《しぶ》つた。然《しか》も一たび秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》するや、總《すべ》ての掛念《けねん》は、釋然《しやくぜん》として氷解《ひやうかい》した。
[#ここから1字下げ]
[右にルビ付き]木食興山上人來[#二]越鹿兒島[#一]、而誘[#二]龍伯(義久)[#「(義久)」は1段階小さな文字]之上京[#一]者甚以急也[右に「もくじきこうざんしやうにんかごしまにらいえつしてりゆうはくのじやうきやうをいざなはるゝものはなはだもつてきふなり」のルビ付き終わり]。然而請[#レ]俟[#二]祗園會之終[#一]《しかうしてぎをんゑのをはるをまたんことをこひ》、而後《しかしてのち》六月十五日|祭祀既過《さいきすでにすぎたれば》、則不[#レ]拘[#二]雨天[#一]《すなはちうてんにかゝはらず》、未時首[#二]途於鹿兒島私宅[#一]《ひつじどきかごしまのしたくにかどです》。二十四|日發[#二]筑後州高良山[#一]到[#二]于筑前州岩屋[#一]《かちくごしうかうらざんをはつしちくぜんしういはやにいたる》、丁[#二]此之時[#一]《このときにあたり》、幽齊《いうさい》(細川)[#「(細川)」は1段階小さな文字]石田冶部少輔殿差[#二]使者[#一]曰《いしだぢぶせういうどのししやをさしていはく》、龍伯速有[#下]可[#レ]參[#二]越博多[#一]之命[#上]《りゆうはくすみやかにはかたにさんじこさるべきのめいありと》、由[#レ]是發[#二]於岩屋[#一]到[#二]於博多[#一]矣《これによつていはやをはつしてはかたにいたる》。廿五|日幽齊《にちいうさい》、石田冶部少輔殿來訪也《いしだぢぶせういうどのらいはうなり》。[右にルビ付き]少焉參[#二]候殿下(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]之旅館[#一][右に「しばらくにしてでんかのりよくわんにさんこうすれば」のルビ付き終わり]、即匪[#三]啻遂[#二]拜謁[#一]《すなはちたゞにはいえつをとげられしのみにあらず》、賜[#二]和調之饗[#一]《わてうのきやうをたまふ》。廿六日|殿下召[#二]茶亭[#一]《でんかさていにめして》、手自賜[#レ]茶《てづからちやをたまふ》。〔島津義久公譜〕[#「〔島津義久公譜〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
義久《よしひさ》と秀吉《ひでよし》の間《あひだ》には、木食上人《もくじきしやうにん》、石田三成《いしだみつなり》、細川幽齊等《ほそかはいうさいら》、種々《しゆ/″\》斡旋《あつせん》した。然《しか》も義久《よしひさ》に取《と》りては、見《み》る所《ところ》は聞《き》く所《ところ》に勝《まさ》つた。其《そ》の意外《いぐわい》驚喜《きやうき》の状《じやう》が、想《おも》ひやらるゝではない乎《か》。
[#ここから1字下げ]
廿六|日《にち》(六月)[#「(六月)」は1段階小さな文字]未明《みめい》、關白樣《くわんぱくさま》へ御茶湯御座候《おちやのゆござさふらふ》。三|帖敷《でふじき》、床有《とこあり》。其内《そのうち》に朝山之御繪被[#レ]掛《てうざんのおんゑかけられ》、床《とこ》の最中《もなか》に、初花《はつはな》の肩衝《かたつき》、(家康が柴田退治を賀して、秀吉に贈りたる名器、)[#「(家康が柴田退治を賀して、秀吉に贈りたる名器、)」は1段階小さな文字]方盆《はうぼん》に居《す》ゑ被[#レ]置《おかれ》、御飯過《ごはんすぎ》、御茶《おちや》の時《とき》、肩衝水差《かたつきみづさし》の前《まへ》に被[#レ]置《おかる》。關白樣御手前也《くわんぱくさまおてまへなり》。御茶《おちや》こくむ也《なり》。義久《よしひさ》は御《おん》ふかなひにて候《さふらふ》ずると被[#レ]仰《おほせられ》て、三|掬也《すくひなり》。御茶碗《おちやわん》は高麗茶碗《かうらいちやわん》、いと也《なり》。いとの始《はじま》り、此茶碗《このちやわん》と聞得候《きゝえさふらふ》。御釜《おかま》は、せめつぼ也《なり》。忠棟《たゞむね》(伊集院)[#「(伊集院)」は1段階小さな文字]には五|掬《すくひ》、天王寺屋宗及《てんのうじやそうきふ》、潜《くゞ》り迄罷出《までまかりいで》、御案内《ごあんない》を被[#レ]申《まをさる》。御茶過御歸之時《おちやすぎおかへりのとき》も、潜《くゞ》りの外迄《そとまで》、宗及送《そうきふおく》り被[#レ]申《まをさる》。朝山《てうざん》の繪《ゑ》は、御座過迄懸《ござすぎまでかけ》られ候《さふらふ》。關白樣御手前之時《くわんぱくさまおてまへのとき》、御安座《ごあんざ》にては無《な》く候《さふらふ》、折膝《をりひざ》にて被[#レ]遊候也《あそばされさふらふなり》。此日申刻《このひさるのこく》(午後四時)[#「(午後四時)」は1段階小さな文字]御出船《ごしゆつせん》。〔貫明公上京御日記〕[#「〔貫明公上京御日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
如何《いか》に秀吉《ひでよし》は、義久《よしひさ》を優待《いうたい》したるよ。彼《かれ》は自《みづか》ら茶《ちや》をたて、然《しか》も折膝《をりひざ》にてたてた。只《た》だ此丈《これだ》けにて、傲兀《がうごつ》なる薩摩男兒《さつまだんじ》をして、心折《しんせつ》せしむるに餘《あま》りあつた。されば義久《よしひさ》は安心《あんしん》して、秀吉《ひでよし》に先《さきだ》ち、同日《どうじつ》出發《しゆつぱつ》し、廿九|日《にち》赤間關《あかまがせき》に到《いた》るや、偶《たまた》ま其《そ》の愛女《あいぢよ》龜壽《きじゆ》の小倉《こくら》より來《きた》るあり。父子《ふし》相合《あひがつ》して、悲喜《ひき》交《こもご》も至《いた》つた。其《そ》の他《た》義弘《よしひろ》の子《こ》久保《ひさやす》、及《およ》び一|門《もん》、領内《りやうない》諸城主等《しよじやうしゆら》の子女《しぢよ》の人質《ひとじち》として、上方《かみがた》に赴《おもむ》くもの、皆《み》な此地《このち》にて義久《よしひさ》と面會《めんくわい》した。
却説《さて》、秀吉《ひでよし》と毛利《まうり》とは、天正《てんしやう》十|年《ねん》六|月《ぐわつ》高松《たかまつ》に於《お》ける講和以來《かうわいらい》の關係《くわんけい》にて、先《ま》づ以《もつ》て舊交《きうかう》と云《い》はねばならぬ。然《しか》も輝元《てるもと》は、秀吉《ひでよし》の九|州征伐迄《しうせいばつまで》、遂《つひ》に上洛《じやうらく》せなかつた。此《これ》には多少《たせう》の曲折《きよくせつ》もあつたであらう。但《た》だ其《そ》の中間《ちうかん》に、黒田孝高《くろだよしたか》や、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》や、殊《こと》に毛利家《まうりけ》の總支配人《そうしはいにん》とも云《い》ふ可《べ》き、小早川隆景《こばやかはたかかげ》あつたが爲《た》めに、是迄《これまで》無事《ぶじ》に彌縫《びほう》して來《き》たのだ。天正《てんしやう》十四|年《ねん》八|月《ぐわつ》十二|日附《にちづけ》、秀吉《ひでよし》より、黒田《くろだ》、宮木《みやぎ》に當《あ》てたる書簡《しよかん》に、
[#ここから1字下げ]
一 輝元可[#レ]有[#二]上洛[#一]被[#二]相究[#一]候處《てるもとじやうらくあるべくあひきはめられさふらふところ》、筑紫之儀《つくしのぎ》、以[#二]兩人[#一]申出付而《りやうにんをもつてまをしいでについて》、延引尤思召候事《えんいんもつともにおぼしめしさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。是《こ》れ輝元《てるもと》が、九|州征伐《しうせいばつ》の先鋒《せんぽう》たるからには、上洛《じやうらく》の延引《えんいん》、固《もと》より止《や》むを得《え》ぬと云《い》ふ丈《だけ》の意味《いみ》だ。
然《しか》も從來《じゆうらい》輝元《てるもと》上洛《じやうらく》の延引《えんいん》に延引《えんいん》した成行《なりゆき》は、言外《げんぐわい》に領取《りやうしゆ》せらるゝではない乎《か》。惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》と、毛利《まうり》との關係《くわんけい》は、何《なに》やら一|膜《まく》を隔《へだ》てたる状態《じやうたい》であつた。されば秀吉《ひでよし》の西征《せいせい》は、九|州《しう》を統《とう》一するのみならず、併《あは》せて中國《ちうごく》の統《とう》一を確實《かくじつ》にし、島津《しまづ》を征服《せいふく》するのみならず、併《あは》せて毛利《まうり》を懷柔《くわいじう》するにあつたと判定《はんてい》するは、無理《むり》からぬ事《こと》だ。
案《あん》の如《ごと》く此《こ》の目的《もくてき》は、十二|分《ぶん》に達《たつ》せられた。此際《このさい》に於《お》ける、吉川元春《きつかはもとはる》、元長父子《もとながふし》の病死《びやうし》は、此《こ》の目的《もくてき》を達《たつ》する爲《た》めには、却《かへつ》て仕合《しあはせ》であつた。吉川父子《きつかはふし》は、寧《むし》ろ其《そ》の性格《せいかく》よりしても、秀吉《ひでよし》に對《たい》して硬派《かうは》であつた。彼等《かれら》兩人《りやうにん》の存在《そんざい》する間《あひだ》は、流石《さすが》の隆景《たかかげ》も、氣骨《きぼね》が折《を》れたに相違《さうゐ》あるまい。輝元《てるもと》の如《ごと》きは、大々名《だい/″\みやう》の三|代目《だいめ》で、若《も》し輔佐《ほさ》其《そ》の人《ひと》を得《え》なければ、北條氏政《ほうでううぢまさ》、氏直《うぢなほ》とさしたる懸隔《けんかく》はあるまい。然《しか》るに九|州役《しうえき》は、天爲《てんゐ》、人事《じんじ》兩《ふたつ》ながら秀吉《ひでよし》と毛利《まうり》との關係《くわんけい》を、親密圓滑《しんみつゑんくわつ》ならしめた。
[#ここから1字下げ]
箱崎御逗留之中《はこざきごとうりうのうち》に、毛利右馬頭《まうりうまのかみ》(輝元)[#「(輝元)」は1段階小さな文字]有[#二]歸陣[#一]《きぢんあり》、御禮被[#二]申上[#一]候而《おんれいまをしあげられさふらうて》、御伴《おとも》に而《て》七|月《ぐわつ》二|日《か》に、關戸迄還御候《せきどまでくわんぎよさふらふ》。翌日《よくじつ》三|日《か》は御休息《ごきうそく》に而《て》、毛利殿御成《まうりどのおなり》を被[#二]申上[#一]《まをしあげられ》、山海珍物難[#二]筆盡[#一]候《さんかいのちんぶつふでにつくしがたくさふらふ》。重代之御太刀《ぢゆうだいのおんたち》並[#「(並)」は1段階小さな文字]御馬以下《おうまいか》、數《かず》をつくし進上被[#レ]申候《しんじやうまをされさふらふ》。從[#二]上樣[#一]《うへさまより》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]馬《うま》、太刀《たち》、其外《そのほか》に御方《おんかた》を不[#レ]被[#レ]放小長光《はなされざるせうながみつ》と云御秘藏之御腰物被[#レ]下候間《いふごひざうのおんこしのものくだされさふらふあひだ》、毛利家衆流[#二]感涙[#一]候事此時《まうりけのしゆうかんるゐをながしさふらふことこのとき》に候《さふらふ》。殊更小早川《ことさらこばやかは》には筑前《ちくぜん》、筑後兩國《ちくごりやうごく》を被[#二]宛行[#一]候《あておこなはれさふらふ》。今迄《いままで》の中國其儘無[#二]相違[#一]候《ちうごくそのまゝさうゐなくさふらふ》。毛利忝《まうりかたじけな》がり候事《さふらふこと》、尤《もつとも》のことに候《さふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》の記事《きじ》にて、如何《いか》に輝元《てるもと》、及《およ》び其《そ》[#ルビの「そ」は底本では「た」]の周圍《しうゐ》の感情《かんじやう》が、緩和《くわんわ》せられたかゞ|判知《わか》る。最早《もはや》輝元《てるもと》の上洛《じやうらく》の如《ごと》きは、問題《もんだい》ではない。否《い》な彼《かれ》は翌年《よくねん》七|月《ぐわつ》に至《いた》りて、愈《いよい》よ上洛《じやうらく》した。
[#5字下げ][#中見出し]【八六】秀吉の凱旋と聚樂の造營[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は七|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、箱崎《はこざき》を發《はつ》し、二|日《か》關門海峽《くわんもんかいけふ》を渡《わた》り、三|日《か》既記《きき》の如《ごと》く、赤間關《あかまがせき》にて、毛利輝元《まうりてるもと》の饗應《きやうおう》を受《う》け、四|日《か》以降《いかう》山陽道《さんやうだう》を陸行《りくかう》しつゝ、十|日《か》備前岡山《びぜんをかやま》に著《ちやく》した。
[#ここから1字下げ]
但《たゞし》此處迄《こゝまで》姫君樣《ひめぎみさま》(前田利家の女にして、秀吉の養女、宇喜多秀家の夫人。)[#「(前田利家の女にして、秀吉の養女、宇喜多秀家の夫人。)」は1段階小さな文字]御迎《おむかへ》に御座候而《ござさふらうて》、種々樣々《しゆ/″\さま/″\》の御馳走《ごちさう》に付而《ついて》、中《なか》一|日《にち》御逗留《ごとうりう》、同《どう》十二|日《にち》に夜通《よどほし》に、片上《かたがみ》まで還御候《くわんぎよさふらう》て、其《それ》より御舟《おふね》に被[#レ]召《めされ》、同《どう》十四|日《か》巳刻《みのこく》(午前十時)[#「(午前十時)」は1段階小さな文字]に至[#二]大坂[#一]御歸座候《おほさかにいたりごきざにさふらふ》。上下萬民《じやうげばんみん》の喜悦不[#レ]可[#二]勝斗[#一]候《きえつあげてはかるべからずさふらふ》。海陸共《かいりくとも》に御迎之舟車《おむかへのふねくるま》、立鳥《たつとり》も足《あし》を可[#レ]休《やすむべき》やう無[#レ]之候《これなくさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
即《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、岡山《をかやま》に一|日《にち》滯在《たいざい》し、片上《かたがみ》より乘船《じようせん》し、十四|日《か》大阪《おほさか》に還《かへ》つた。三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》大阪《おほさか》發程《はつてい》以來《いらい》、約《やく》四|箇月半《かげつはん》であつた。
彼《かれ》の出征《しゆつせい》に際《さい》しては、御陽成天皇《ごやうぜいてんわう》には、特使《とくし》を下《くだ》して、勅《みことのり》を賜《たま》ひ。其《そ》の出征中《しゆつせいちう》は、三|月《ぐわつ》十三|日《にち》、十四|日《か》にかけて神宮祭主《じんぐうさいしゆ》、及《およ》び神祇大副等《じんぎだいふくら》に勅《みことのり》し、其《そ》の平安《へいあん》と戰※[#「捷の異体字」、U+3A17、442-5]《せんせふ》とを祈《いの》らしめた。又《ま》た四|月《ぐわつ》三|日《か》より一|週間《しうかん》、清涼殿《せいりやうでん》に於《おい》て、不動法《ふどうはふ》を修《しう》せしめ給《たま》うた。而《しか》して三|月《ぐわつ》二十四|日《か》、權大納言《ごんだいなごん》廣橋兼勝《ひろはしかねかつ》を勅使《ちよくし》として、夏衣《なつい》五|領《かさね》を賜《たま》ひ、陣中《ぢんちう》の勞《らう》を慰《ゐ》し給《たま》うた。其《そ》の凱旋《がいせん》に際《さい》して、又《ま》た權大納言《ごんだいなごん》權修寺晴豐《ごんしうじはるとよ》を勅使《ちよくし》として、七|月《ぐわつ》十二|日《にち》京都《きやうと》を發《はつ》し、之《これ》を郊勞《かうらう》せしめ給《たま》うた。正親町上皇《あふぎまちじやうわう》も亦《ま》た同樣《どうやう》の特使《とくし》を下《くだ》し給《たま》うた。二十五|日《にち》秀吉《ひでよし》京都《きやうと》に入《い》り、二十九|日《にち》入朝《にふてう》して、生絹《きぎぬ》十、越後布《ゑちごふ》十五、彩絲《あやいと》二十|斤《きん》、緞子《どんす》二十|卷《まき》を獻《けん》じ、西征《せい/\》の經過《けいくわ》を奏上《そうじやう》して、其《そ》の恩《おん》を謝《しや》した。秀長《ひでなが》は七|月《ぐわつ》上旬《じやうじゆん》、小倉城《こくらじやう》の修繕《しうぜん》を監《かん》し、二十二|日《にち》分國《ぶんこく》大和《やまと》に還《かへ》り、八|月《ぐわつ》四|日《か》入京《にふきやう》した。
建築癖《けんちくへき》の秀吉《ひでよし》は、九|州役中《しうえきちう》に拘《かゝは》らず、盛《さか》んに聚樂第《じゆらくてい》を造營《ざうえい》した。
[#ここから1字下げ]
その年《とし》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]の夏《なつ》の始《はじめ》より、近江《あふみ》(八幡山城にありたる)[#「(八幡山城にありたる)」は1段階小さな文字]の中將《ちうじやう》秀次《ひでつぐ》を都《みやこ》に殘《のこ》し置《おき》、うち野《の》に秀吉《ひでよし》住給《すみたま》ふべき殿《やかた》、作《つく》り構《かま》へさせ給《たま》ひしが、秋《あき》の程《ほど》には、事《こと》なりぬれば、冬《ふゆ》の始《はじめ》に大坂《おほさか》よりも、爰《こゝ》に移《うつ》りて、聚樂《じゆらく》と名《なづ》け住給《すみたま》ふ。隨《したが》ふ人々《ひと/″\》、皆《み》な我《われ》まさらんと家居《いへゐ》はげまし造《つく》りみがきければ、又《また》都《みやこ》を一つ添《そ》へたらん樣《やう》に賑《にぎは》ひ合《あ》へる樣《さま》、思《おも》ひやるべし。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れには冬《ふゆ》の始《はじめ》とあるが、九|月《ぐわつ》十三|日《にち》には、秀吉《ひでよし》既《すで》に大阪《おほさか》より移轉《いてん》した。〔言經卿記〕[#「〔言經卿記〕」は1段階小さな文字]惟《おも》ふに此《こ》の造營《ざうえい》が、如何《いか》なる結構《けつこう》であつた乎《か》、將《は》た其《そ》の目的《もくてき》が那邊《なへん》にあつた乎《か》。
[#ここから1字下げ]
今上皇帝《きんじやうくわうてい》(御陽成天皇)[#「(御陽成天皇)」は1段階小さな文字]十六|歳《さい》にして、御即位有《ごそくゐあり》・・・・・・|秀吉公《ひでよしこう》のやうなる大臣《おとゞ》出給《いでたま》ふも、天氣《てんき》淳《じゆん》に、尊體《そんたい》胖《ゆた》かなる故也《ゆゑなり》。此《この》帝徳《ていとく》を秀吉《ひでよし》いと有《あり》がたく思《おも》はれしかば、爭《いか》で行幸《ぎやうかう》を催《もよほ》しみざらんやとて、天正《てんしやう》十三|年《ねん》の春《はる》、内野《うちの》に城※[#「てへん+郭」、443-11]《じやうくわく》のいとなみを思《おぼ》し立給《たちたま》ふに、成就《じやうじゆ》に及《およ》びなば、必可[#レ]奉[#レ]進[#二]於行幸[#一]《かならずぎやうかうをすゝめたてまつるべし》となり。
其《その》御志《おんこゝろざし》根《ね》深《ふかく》して蔕《ほぞ》固《かた》かりしかば、漸《やうやく》調《とゝのは》り聚樂《じゆらく》と號《がう》し、里第《りだい》を構《かまへ》、四|方《はう》三千|歩《ぶ》の石《いし》のついがき山《やま》の如《ごと》し。樓門《ろうもん》の固《かため》は、鐵《くろがね》の柱《はしら》、銅《あかがね》の扉《とびら》、瑤閣《えうかく》星《ほし》をかすり、瓦《かはら》の縫目《ぬひめ》は、玉虎《ぎよくこ》風《かぜ》に嘯《うそぶ》き、金龍《きんりゆう》雲《くも》に吟《ぎん》ず。如[#レ]此造畢《かくのごとくつくりおへ》せしかば、天正《てんしやう》十五|年《ねん》九|月《ぐわつ》十八|日《にち》、從[#二]大坂[#一]聚樂《おほさかよりじゆらく》へ御移徒有《おんわたましあり》しなり。萬之調度《よろづのてうど》、金銀《きん/″\》積《つ》みたる船《ふね》、數《す》百|艘《さう》淀《よど》に至《いたつ》て著《つき》にけり。淀《よど》よりは車《くるま》五百|輛《りやう》、人足《にんそく》五千|人《にん》にて京著《きやうちやく》有《あり》しなり。御迎《おむかへ》として公家衆《くげしゆう》、諸侯大夫《しよこうだいふ》、淀鳥羽邊《よどとばあたり》に滿々《まん/\》と並居在々《なみゐまし/\》しかば、いかめしやかにゆゝしかりけり。翌日《よくじつ》より九|月《ぐわつ》下旬《げじゆん》に至《いたつ》て、御祝儀《ごしうぎ》を奉《たてまつ》る事《こと》、恰《あたかも》門前市《もんぜんいち》をなすが如《ごと》し。
儲《まうけ》の御所《ごしよ》は、檜皮葺《ひはだぶき》なり。御《み》はしの間《あひだ》に、御輿寄《おこしよせ》あり、庭上《ていじやう》に舞臺《ぶたい》有《あり》、左右《さいう》に樂屋《がくや》有《あり》。後宮《こうきう》の局《つぼね》に至《いた》るまで、百|工《こう》心《こゝろ》を碎《くだ》き、丹青《たんせい》手《て》を盡《つく》し侍《はべ》りしかば、華麗《くわれい》尤《もつとも》甚《はなはだ》し。人皆《ひとみな》目《め》なれぬ事《こと》をのみ云《いひ》あへりけり。〔甫庵太閤記〕[#「〔甫庵太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは精確《せいかく》を缺《か》くが、大體《だいたい》に於《おい》て、其要《そのえう》を得《え》て居《を》る。豐鑑《ほうかん》には天正《てんしやう》十五|年《ねん》の夏《なつ》よりと云《い》ひ、甫庵太閤記《ほあんたいかふき》には、天正《てんしやう》十三|年《ねん》の春《はる》と云《い》ふが、其《そ》の實《じつ》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》二十一|日《にち》〔安土桃山時代史論〕[#「〔安土桃山時代史論〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》入京《にふきやう》し、京都《きやうと》の内野《うちの》、即《すなは》ち舊大内裏《きうだいだいり》の趾《あと》を相《さう》し、廿三|日《にち》より繩打《なはうち》を始《はじ》め、經營《けいえい》に著手《ちやくしゆ》した。
固《もと》より豪華《がうくわ》なる秀吉《ひでよし》の氣質《きしつ》、其《そ》の儘《まゝ》を表現《へうげん》す可《べ》く、巨大《きよだい》なる材料《ざいれう》を、夫役《ふえき》を督《とく》して、近畿《きんき》は勿論《もちろん》、材木《ざいもく》の如《ごと》きは四|國《こく》、東國《とうごく》の果迄《はてまで》も募《つの》り、其《そ》の壯歡《さうくわん》を構《かま》へしめた。
其《そ》の區域《くゐき》は、北《きた》は一|條《でう》から、南《みなみ》は二|條《でう》に至《いた》り、東《ひがし》は堀河《ほりかは》より、西《にし》は内野《うちの》を限《かぎ》り、其間《そのあひだ》を城地《じやうち》として、四|方《はう》に三千|歩《ぶ》の石垣《いしがき》を築《きづ》き、繞《めぐ》らすに深池《しんち》を以《もつ》てし、築《きづ》くに高※[#「土へん+喋のつくり」、第4水準2-4-94]《かうてふ》を以《もつ》てし、巨樓鐵門《きよらうてつもん》頗《すこぶ》る壯麗《さうれい》を極《きは》め、内《うち》には二|重《ぢゆう》の郭《くるわ》があり、樓門殿宇《ろうもんでんう》其間《そのあひだ》に滿《み》ち、四|面《めん》に諸將《しよしやう》の邸宅《ていたく》を設《まう》け、一|族《ぞく》、諸大名《しよだいみやう》、諸將士《しよしやうし》をして、之《これ》に居《を》らしめた。殿閣《でんかく》には七|寳《はう》を鏤《ちりば》め、甍《いらか》には金《きん》の鯱《しやち》を掲《かゝ》げ、金箔《きんぱく》を塗《ぬ》つた瓦《かはら》を以《もつ》て葺《ふ》いた。庭《には》には名木《めいぼく》奇石《きせき》を聚《あつ》め、鐵《てつ》を以《もつ》て飾《かざ》つた黒門《くろもん》には、鳥獸草木《てうじうさうもく》を彫刻《てうこく》した日暮門《ひぐらしもん》で、頗《すこぶ》る華麗《くわれい》を極《きは》めた。
秀吉《ひでよし》の立身《りつしん》を見《み》るに、天正《てんしやう》十三|年《ねん》三|月《ぐわつ》十|日《か》に内大臣《ないだいじん》となり、七|月《ぐわつ》十一|日《にち》に關白《くわんぱく》となり、從《じゆ》一|位《ゐ》に叙《じよ》せられ、織田氏《おだし》傳來《でんらい》の平姓《たいらせい》を、藤原姓《ふぢはらせい》に改《あらた》めた。されば聚樂第建築《じゆらくていけんちく》の思立《おもひたち》は、甫庵太閤記《ほあんたいかふき》の如《ごと》く、或《あるひ》は天正《てんしやう》十三|年《ねん》、彼《かれ》が内大臣《ないだいじん》を拜命《はいめい》したる頃《ころ》よりかも知《し》れぬ。天正《てんしやう》十四|年《ねん》には豐臣《とよとみ》の姓《せい》を賜《たま》はり、その十二|月《ぐわつ》十九|日《にち》には太政大臣《だじやうだいじん》に任《にん》ぜられた。彼《かれ》が聚樂第《じゆらくてい》の造營《ざうえい》を、愈《いよい》よ取《と》り急《いそ》いだのは、當然《たうぜん》と云《い》はねばならぬ。此《こ》れは彼《かれ》が關白太政大臣《くわんぱくだじやうだいじん》の縉紳《しん/\》最高位《さいかうゐ》に躋《のぼ》り、入朝《にふてう》退潮《たいてう》の便宜上《べんぎじやう》、其《そ》の足溜《あしだま》りの爲《た》めのみでなく、更《さ》らに一|層《そう》他《た》に深甚《しんじん》の意味《いみ》あつた事《こと》は、前掲《ぜんけい》甫庵太閤記《ほあんたいかふき》の記事《きじ》が、之《これ》を盡《つく》して居《を》る。即《すなは》ち至尊《しそん》の行幸《ぎやうかう》を仰《おふ》ぐ下心《したごゝろ》があつた爲《た》めだ。
彼《かれ》は天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十四|日《か》、更《さら》に木石《ぼくせき》を近邑《きんいふ》に徴《ちよう》して、工事《こうじ》を督促《とくそく》し、二|月《ぐわつ》七|日《か》には、親王公家以下《しんわうくげいか》、聚樂第《じゆらくてい》にて、秀吉《ひでよし》に賀正《がせい》をして居《を》るを見《み》れば、其《そ》の建築《けんちく》も、概略《がいりやく》成就《じやうじゆ》したものと思《おも》はる。されば同年《どうねん》七|月《ぐわつ》十四|日《か》大阪《おほさか》に、九|州《しう》より凱旋《がいせん》し、廿五|日《にち》入京《にふきやう》するや、直《たゞ》ちに聚樂第《じゆらくてい》に入《い》り、八|朔《さく》の賀《が》も、此處《こゝ》にて受《う》けた。而《しか》して九|月《ぐわつ》十三|日《にち》は、愈《いよい》よ移轉式《いてんしき》を擧行《きよかう》した。同日《どうじつ》未刻《ひつじのこく》(午後二時頃)[#「(午後二時頃)」は1段階小さな文字]大政所《おほまんどころ》(秀吉の母)[#「(秀吉の母)」は1段階小さな文字]入洛《じゆらく》せられた。其《そ》の行列《ぎやうれつ》は、輿《こし》十五|丁《ちやう》、乘物《のりもの》六|丁《ちやう》、騎馬《きば》四|人《にん》、諸大夫衆《しよたいふしゆう》、赤將束《あかせうぞく》にて太刀《たち》をはいた。次《つぎ》に本願寺北方《ほんぐわんじきたかた》(顯如上人の夫人)[#「(顯如上人の夫人)」は1段階小さな文字]輿《こし》十二|丁《ちやう》、次《つぎ》に北政所《きたのまんどころ》(秀吉夫人)[#「(秀吉夫人)」は1段階小さな文字]輿《こし》百|丁《ちやう》、乘物《のりもの》二百|丁《ちやう》、長櫃《ながひつ》無數《むすう》。洛中《らくちう》洛外《らくぐわい》の貴賤《きせん》、人山《ひとのやま》人海《ひとのうみ》をなし、道路《だうろ》填塞《てんそく》、立錐《りつすゐ》の地《ち》もなき程《ほど》であつた。而《しか》して十六|日《にち》以來《いらい》、移居《いきよ》を賀《が》するもの、親王《しんわう》、公卿《くげ》を始《はじ》めとして、連日《れんじつ》門前市《もんぜんいち》を成《な》した。
秀吉《ひでよし》は宮室《きうしつ》の壯麗《さうれい》を以《もつ》て、天下《てんか》の人心《じんしん》を、此處《こゝ》に繋《つな》ぐの策《さく》を取《と》つたのみでなく、皇室《くわうしつ》の御稜威《みゐづ》を藉《か》りて、天下《てんか》を一|統《とう》し、群雄《ぐんゆう》を賀御《がぎよ》するの遠慮《ゑんりよ》、深謀《しんぼう》あつた事《こと》は、聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》が、之《これ》を證明《しようめい》して餘《あま》りありだ。
[#5字下げ][#中見出し]【八七】肥後の一揆[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》の九|州《しう》を去《さ》るや、國侍《くにざむらひ》の輩《はい》、何《いづ》れも其《そ》の新状態《しんじやうたい》に安著《あんちやく》せず、死灰《しくわい》復《ま》た燃《も》え出《いだ》さんとした。黒田孝高《くろだよしたか》、毛利吉成《まうりよしなり》の封《ほう》ぜられたる豐前《ぶぜん》、佐々成政《さつさなりまさ》の封《ほう》ぜられたる肥後《ひご》は、愈《いよい》よ爆發《ばくはつ》した。但《た》だ豐前方面《ぶぜんはうめん》の一|揆《き》は、肥後《ひご》の一|揆《き》に饗應《きやうおう》したものだ。黒田《くろだ》、毛利《まうり》が、肥後《ひご》一|揆《き》退治《たいぢ》の爲《た》めに出兵《しゆつぺい》した留守《るす》を覗《うかゞ》うて、首《くび》を擡《もた》げたる、所謂《いはゆ》る空巣狙《あきすねら》ひの徒《と》だ。加《くは》ふるに、其《そ》の一|衣帶水《いたいすゐ》を隔《へだ》てたる中國《ちうごく》に、毛利《まうり》の大勢力《だいせいりよく》ありて、其《そ》の援兵《ゑんぺい》を繰《く》り出《いだ》し、且《か》つ何事《なにごと》にも拔目《ぬけめ》なく、機敏《きびん》、快活《くわいくわつ》に切《きつ》て廻《まは》す黒田孝高《くろだよしたか》あり。さしもの一|揆《き》も、兎《と》も角《かく》退治《たいぢ》し、特《とく》に城井谷《しろゐだに》の險城《けんじやう》に立《た》て籠《こも》りて、黒田勢《くろだぜい》を惱《なや》ましたる宇都宮鎭房《うつのみやしげふさ》も、遂《つひ》に降參《かうさん》した。而《しか》して黒田長政《くろだながまさ》が、鎭房《しげふさ》の後患《こうくわん》を爲《な》すを虞《おそ》れ、之《これ》を欺《あざむ》き殺《ころ》したのは、其後《そののち》の事《こと》であつた。
然《しか》るに肥後《ひご》の方面《はうめん》には、大事件《だいじけん》を出來《しゆつたい》せしめた。元來《ぐわんらい》五十二|名《めい》の國侍《くにざむらひ》ありて、何《いづ》れも御山《おやま》の大將《たいしやう》を以《もつ》て任《にん》じ居《を》るに、佐々成政《さつさなりまさ》入國以來《にふごくいらい》、之《これ》に向《むか》つて大干渉《だいかんせふ》を加《くは》へたから、宛《あたか》も蜂《はち》の巣《す》を撞《つ》き破《やぶ》りたるが如《ごと》き騷動《さうどう》を惹起《じやくき》した。此《こ》れは天正《てんしやう》十五|年《ねん》八|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》の箱崎《はこざき》發程後《はつていご》一|箇月餘《かげつよ》、佐々《さつさ》の受封《じゆほう》二|箇月餘《かげつよ》の事《こと》であつた。其《そ》の原因《げんいん》に就《つい》ては、
[#ここから1字下げ]
肥後《ひご》の一|揆《き》も、内藏助《くらのすけ》手《て》あらく彼[#レ]仕候故《つかまつられさふらふゆゑ》なり。檢地《けんち》を仕《つかまつ》り、其上《そのうへ》に昔《むかし》是《これ》より三|里《り》と申處《まをすところ》をば、五|里《り》の津《つ》出仕候《しゆつしさふら》へ、五|里所《りどころ》をば、八|里《り》も可[#レ]仕《つかまつるべき》のよし、彼是《かれこれ》に仕置《しおき》あらく被[#二]申付[#一]故《まをしつけられしゆゑ》、一|揆《き》起《おこ》り申候《まをしさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。或《あるひ》は又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
肥後《ひご》は思之外大國《おもひのほかたいこく》なる由《よし》、兼《かね》て聞及《きゝおよび》しが、實《じつ》にさも有《ある》べきと佐々《さつさ》思《おも》ひつゝ、領地之目録《りやうちのもくろく》を不[#レ]知《しらず》ば、受領《じゆりやう》せし甲斐《かひ》もなしとて、さしたし[#割り注]是は百姓一人/\控へし田畠の高いか程と、記し付、さし出す事也。[#割り注終わり]を申付取《まをしつけとり》つるに、悉《こと/″\》く田畠《たばた》の員數《ゐんすう》を記《しる》し付《つけ》さし出《いだ》しけり。然處《しかるところ》に菊池郡桑部《きくちごほりくはべ》(隈部親永)[#「(隈部親永)」は1段階小さな文字]が領内《りやうない》に至《いたつ》て、得《え》こそ差出《さしだ》し申《まをす》まじけれと、言《ことば》を放《はな》つていなみ不[#二]承引[#一]《うけひかざり》しを、佐々《さつさ》奇怪《きくわい》に思《おも》ひこめ、頓《やが》て菊池郡《きくちごほり》へ桑部《くはべ》(隈部親永)[#「(隈部親永)」は1段階小さな文字]を可[#二]誅果[#一]《うちはたすべく》、天正《てんしやう》十五|年《ねん》八|月《ぐわつ》六|日《か》、三千|餘騎《よき》を差《さ》し向《む》けたり。〔甫庵太閤記〕[#「〔甫庵太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
更《さ》らに此《こ》れよりも適切《てきせつ》に、騷亂《さうらん》の原因《げんいん》を指摘《してき》したるは、天正《てんしやう》十五|年《ねん》九|月《ぐわつ》十三|日附《にちづけ》にて、秀吉《ひでよし》の京都《きやうと》より黒田孝高《くろだよしたか》に答《こた》へたる、書中《しよちう》の一|節《せつ》である。
[#ここから1字下げ]
陸奧守《むつのかみ》(佐々成政)[#「(佐々成政)」は1段階小さな文字]天下背[#二]御下知[#一]《てんかのごげちにそむきて》、國侍共《くにざむらひども》に御朱印之面《ごしゆいんのめん》、知行《ちぎやう》をも不[#二]相渡[#一]付《あひわたさゞるについ》て、堪忍不[#レ]成候故《かんにんならずさふらふゆゑ》、構[#二]別心[#一]儀《べつしんをかまふるぎ》に候《さふらふ》。領地方糺明之儀《りやうちかたきうめいのぎ》も、先成次第《さきなりしだい》に申付《まをしつけ》、到[#二]來年[#一]到[#二]檢地[#一]《らいねんにいたりてけんちにいたり》、いかにも百|姓《しやう》をなで付《つけ》、下々有付候樣《しも/″\ありつきさふらふやう》にと、度々被[#レ]加[#二]御意[#一]候處《たび/″\ぎよいをくはへられさふらふところ》、左《さ》も無[#レ]之《これなく》、法度以下猥成故《はつといかみだらなるゆゑ》、一|揆起《きおこ》る。彼是以無[#二]是非[#一]次第候《かれこれもつてぜひなきしだいにさふらふ》。縱被[#二]仰付[#一]之旨申付《たとひおほせつけらるゝのむねをまをしつけ》、其上《そのうへ》にて不慮出來候共《ふりよしゆつたいさふらふとも》、越度《おちど》には成間敷候處《なるまじくさふらふところ》、條々背[#二]御下知[#一]付《でう/″\ごげちにそむくについ》て如[#レ]此候《かくのごとくにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
最早《もはや》此上《このうへ》説明《せつめい》の必要《ひつえう》はない、探討《たんたう》の必要《ひつえう》はない。佐々《さつさ》が一|揆《き》を挑發《てうはつ》したる責任《せきにん》は、到底《たうてい》免《まぬか》れぬ事《こと》である。
併《しか》し流石《さすが》は佐々《さつさ》だ。一たび國侍等《くにざむらひら》蜂起《ほうき》するや、彼《かれ》は之《これ》を討平《たうへい》するに於《おい》て、餘力《よりよく》を剩《あま》さなかつた。然《しか》も國内《こくない》を擧《あ》げての蜂起《ほうき》で、形勢《けいせい》頗《すこぶ》る不容易《ふようい》であつた。
[#ここから1字下げ]
肥後面《ひごおもて》の儀《ぎ》、陸奧守《むつのかみ》(佐々)[#「(佐々)」は1段階小さな文字]國衆又《くにしうまた》は百|姓以下《しやういか》へ被[#二]申付[#一]樣惡敷候哉《まをしつけらるゝさまあしくさふらふや》、一|揆等少々相起《きとうせう/\あひおこり》、猥成候由申越候《みだらなるさふらふよしまをしこしさふらふ》。隆景《たかかげ》えも[#「(えも)」は1段階小さな文字]不[#二]相構[#一]注進《あひかまはずちゆうしん》、肥後境目之者共《ひごさかひめのものども》、人數相催候《にんずあひもよほしさふらう》て、陸奧守所《むつのかみどころ》に早々加勢可[#レ]然候《はや/″\かぜいしかるべくさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ秀吉《ひでよし》が、八|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》、廿三|日附《にちづけ》、兩回《りやうくわい》の肥後《ひご》一|揆《き》に關《くわん》する黒田孝高《くろだよしたか》よりの注進状《ちゆうしんじやう》に對《たい》する、九|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》、訓令《くんれい》の一|節《せつ》だ。
秀吉《ひでよし》は小早川隆景《こばやかはたかかげ》、黒田孝高《くろだよしたか》、毛利吉成《まうりよしなり》、小早川秀包《こばやかはひでかね》、龍造寺政家等《りゆうざうじまさいへら》、肥後附近《ひごふきん》の大小名《だいせうみやう》に命《めい》じて、一|揆鎭定《きちんてい》の命《めい》を下《くだ》した。然《しか》も佐々《さつさ》は軍事《ぐんじ》にかけて、老功《らうこう》の士《し》だ。彼《かれ》は應援《おうゑん》の來《きた》るを待《ま》つに遑《いとま》あらず、獨力《どくりよく》にて、頗《すこぶ》る苦戰《くせん》した。又《ま》た
[#ここから1字下げ]
冬《ふゆ》になりて筑紫《つくし》肥後國《ひごのくに》には、國人《くにびと》山家《やまが》(山鹿)[#「(山鹿)」は1段階小さな文字]の何《なに》がしといへる者《もの》、(隈部親永の子有動某)[#「(隈部親永の子有動某)」は1段階小さな文字]佐々陸奧守《さつさむつのかみ》をそむき從《したが》はざりければ、彼《かれ》を討《う》たんとて、山家《やまが》(山鹿)[#「(山鹿)」は1段階小さな文字]の城《しろ》に寄責《よせせめ》ける。折《をり》ふし國人《くにびと》の武士《ぶし》ども、悉《こと/″\》く陸奧守《むつのかみ》に背《そむ》き、討《うた》んとて、さし違《ちがへ》て、熊本《くまもと》の城《しろ》に推寄《おしよ》す。留守《るす》の者《もの》纔《わづ》かに殘《のこ》りてありければ、二三の構《かまへ》をば敗《やぶ》られ、本丸計《ほんまるばかり》にて拒《ふせ》ぎ戰《たゝか》ふ處《ところ》に、陸奧守《むつのかみ》、山家《やまが》(山鹿)[#「(山鹿)」は1段階小さな文字]の軍《ぐん》をさし置《おき》、はせ歸《かへつ》て戰《たゝか》ひけり。國人《くにびと》は二|萬計《まんばかり》もありけるにや、陸奧守《むつのかみ》纔《わづか》に二千|計《ばかり》の勢《ぜい》にて、敵《てき》の中《なか》へ一|文字《もんじ》にかけ入《いり》ければ、國人《くにびと》四|方《はう》に追散《おひちら》され、うたるゝ|者《もの》千|人《にん》に餘《あま》れりとなん。陸奧守《むつのかみ》、固《もと》よりすぐれて剛《がう》なる武士《ものゝふ》なればなるべし。私《わたくし》の軍《いくさ》しかるべからざるむねを、秀吉公《ひでよしこう》よりしめされければ、そののち軍《いくさ》はなくて、互《たがひ》に上《かみ》へうつたへたり。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》くして天正《てんしやう》十五|年《ねん》は、佐々《さつさ》對《たい》國侍《くにざむらひ》睨合《にらみあ》ひの姿《すがた》にて過《す》ぎた。
[#5字下げ][#中見出し]【八八】佐々成政の切腹[#中見出し終わり]
佐々《さつさ》も秀吉《ひでよし》の訓令《くんれい》に違背《ゐはい》し、是《こ》れが爲《た》めに大騷動《だいさうどう》を惹《ひ》き起《おこ》したるに就《つい》ては、中心《ちうしん》懊惱《あうなう》に勝《た》へなかつたであらう。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》を召喚《せうくわん》した。或《あるひ》は曰《いは》く、彼《かれ》は寧《むし》ろ熊本《くまもと》に立《た》て籠《こも》りて、其《そ》の成行《なりゆき》を待《ま》たんとも思案《しあん》した。併《しか》し安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》が、彼《かれ》に説《とい》て申《まを》す樣《やう》は、孤城《こじやう》を嬰守《えいしゆ》して、天下《てんか》の兵《へい》を動《うご》かしたる最後《さいご》は、御身《おんみ》の破滅《はめつ》ぢや、寧《むし》ろ自《みづか》ら進《すゝ》んで關白《くわんぱく》に罪《つみ》を謝《しや》し、其《そ》の宥恕《いうじよ》を請《こ》ふに若《し》かずと。成政《なりまさ》も其《そ》の氣《き》になりて、上京《じやうきやう》したと。何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》は尼崎《あまがさき》法華寺《ほつけじ》に於《おい》て、天正《てんしやう》十六|年《ねん》五|月《ぐわつ》十四|日《か》、秀吉《ひでよし》の命《めい》によりて切腹《せつぷく》した。
成政《なりまさ》の切腹《せつぷく》に就《つい》ては、種々《しゆ/″\》の説《せつ》がある。或《あるひ》は曰《いは》く、秀吉《ひでよし》が佐々《さつさ》に肥後《ひご》の大封《たいほう》を與《あた》へたのは、寛濶《くわんくわつ》の度量《どりやう》を示《しめ》し、織田氏《おだし》舊臣《きうしん》の心《こゝろ》を安《やすん》ずる手段《しゆだん》で、其《そ》の失策《しつさく》を見《み》るや、直《たゞ》ちに之《これ》を辭柄《じへい》として殺《ころ》したのだ。或《あるひ》は曰《いは》く、淺野長政《あさのながまさ》の讒訴《ざんそ》による。或《あるひ》は曰《いは》く、黒百合《くろゆり》の祟《たゝ》りだと。淺野《あさの》の讒訴《ざんそ》は、曾《かつ》て秀吉《ひでよし》越中陣《ゑつちうぢん》にて、成政《なりまさ》降參《かうさん》の折《をり》、淺野《あさの》が秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、成政《なりまさ》は謀反人《むほんにん》なれば、御面會《ごめんくわい》御無用《ごむよう》と申《まを》したる噂《うわさ》を聞《き》き、成政《なりまさ》は憤懣《ふんまん》の餘《あまり》、稠人廣座《ちうじんくわうざ》の中《なか》にて、淺野《あさの》を叱罵《しつば》して、斯《か》く云《い》うた。
[#ここから1字下げ]
彈正《だんじやう》(長政)[#「(長政)」は1段階小さな文字]能《よく》聞候《きゝさふら》へ、秀吉《ひでよし》とは只今迄《たゞいままで》肩《かた》を並《なら》べたる傍輩《はうばい》なり。仕合能《しあはせよく》ば此《この》内藏助《くらのすけ》も、信長公《のぶながこう》御切腹後《ごせつぷくご》は、天下《てんか》を心掛《こゝろがけ》たる我《われ》なり。右《みぎ》より秀吉《ひでよし》の内《うち》の者《もの》にてあらばこそ、謀反《むほん》とは可[#レ]申者《まをすべきもの》なり。聞《きこ》えざる彈正申樣哉《だんじやうのまをしやうかな》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
と。即《すなは》ち此《こ》の意趣《いしゆ》によりて、淺野《あさの》が秀吉《ひでよし》に讒訴《ざんそ》したのだと。
黒百合《くろゆり》の祟《たゝり》とは、成政《なりまさ》が肥後《ひご》の大封《たいほう》を得《え》た感謝《かんしや》の意《い》を表《へう》す可《べ》く、秀吉《ひでよし》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》に、地侍《ぢざむらひ》に託《たく》して、加賀白山《かがはくさん》より黒百合《くろゆり》を獻《さゝ》げた。北政所《きたのまんどころ》は、之《これ》を見《み》て、天下無比《てんかむひ》の珍花《ちんくわ》として、秀吉《ひでよし》の側室《そくしつ》淀君等《よどぎみら》を招《まね》き、茶會《ちやくわい》を催《もよほ》した。然《しか》るに淀君《よどぎみ》は、其《そ》の珍花《ちんくわ》の出處《しゆつしよ》を偵知《ていち》し、人《ひと》を加賀白山《かがはくさん》に遣《つか》はして、之《これ》を採收《さいしう》せしめ、三|日《か》の後《のち》、花摘供養《はなつみくやう》を催《もよほ》して、北政所等《きたのまんどころら》を招《まね》いた。北政所《きたのまんどころ》は黒百合《くろゆり》が、他《た》の撫子等《なでしことう》の凡卉《ぼんき》と共《とも》に、無雜作《むざうさ》に、投《な》げ込《こ》み、生《い》け捨《すて》にせられつゝあるを見《み》て、慚恚《ざんい》禁《きん》じ難《がた》く、此《こ》れより淀君《よどぎみ》との仲違《なかたが》ひとなり、而《しか》して成政《なりまさ》も其《そ》の恨《うら》む所《ところ》となり、やがて肥後《ひご》をも沒收《ぼつしう》せられたと。
上記《じやうき》の三|説《せつ》は、何《いづ》れも取《と》るに足《た》らぬ。黒百合《くろゆり》の祟《たゝり》に至《いた》つては、固《もと》より事實《じじつ》のあり得可《うべ》きものでない。佐々《さつさ》が淺野《あさの》を叱罵《しつば》し、淺野《あさの》が之《これ》を啣《ふく》んだのは、或《あるひ》は事實《じじつ》かも知《し》れぬ。併《しか》し此《こ》れが成政《なりまさ》破滅《はめつ》の原因《げんいん》とは思《おも》はれぬ。但《た》だ第《だい》一|説《せつ》は、聊《いさゝ》か尤《もつと》もらしく聞《きこ》ゆるが、當時《たうじ》の事實《じじつ》と、秀吉《ひでよし》の位置《ゐち》とを考《かんが》ふれば、是《こ》れ亦《ま》た見當違《けんたうちが》ひの説《せつ》たるを免《まぬか》れぬ。秀吉《ひでよし》は既《すで》に天下人《てんかびと》である。家康《いへやす》さへも叩頭《こうとう》した。信雄《のぶを》の如《ごと》きも、下風《かふう》に就《つ》いた。此際《このさい》心《こゝろ》にもなき優待《いうたい》を、成政《なりまさ》に加《くは》へて、織田氏《おだし》の舊臣《きうしん》の心《こゝろ》を安《やすん》ぜねばならぬ必要《ひつえう》はなかつたのだ。
吾人《ごじん》が繰《く》り返《かへ》し云《い》ふ通《とほ》り、秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の如《ごと》く、人材《じんざい》に熱中《ねつちう》し、殆《ほとん》ど材能《ざいのう》に淫《いん》すと云《い》ふ漢《をのこ》である。而《しか》して信長《のぶなが》よりも、舊怨《きうえん》を忘《わす》るゝの襟度《きんど》を有《いう》した。乃《すなは》ち成政《なりまさ》の如《ごと》きも、二|度《ど》も我《われ》に反抗《かんかう》したるに拘《かゝ》はらず、彼《かれ》の降《くだ》るや、越中《ゑつちう》の一|郡《ぐん》を與《あた》へ、御伽衆《おとぎしゆう》として、大阪《おほさか》に招《まね》きて※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]待《くわんたい》し、九|州役《しうえき》にも、幕賓《ばくひん》として伴《ともな》うた。其《そ》の肥後《ひご》を與《あた》へたるは、正《まさ》しく成政《なりまさ》の材《ざい》の用《もち》ふ可《べ》きを熟知《じゆくち》したからだ。
成政《なりまさ》は織田信秀以來《おだのぶひでいらい》の舊臣《きうしん》にて、其《そ》の兄《あに》二|人《にん》と共《とも》に、小豆坂《あづきざか》七|本槍《ほんやり》の一|人《にん》だ。爾後《じご》の戰功《せんこう》は、少《すくな》くとも前田利家《まへだとしいへ》と伯仲《はくちう》の間《あひだ》にあつた。秀吉《ひでよし》が彼《かれ》に肥後《ひご》を與《あた》へたのは、啻《たゞ》に※[#「糸+弟」、第4水準2-84-31]袍戀々《ていはうれん/\》故人《こじん》の情《じやう》のみでなく、以《もつ》て九|州中央《しうちうわう》の鎭《しづめ》とするに足《た》ると認《みと》めたからだ。此《こ》れは成政《なりまさ》の長所《ちやうしよ》のみを見《み》れば、當然《たうぜん》だ。併《しか》し彼《かれ》は餘《あま》りに自惚強《うぬぼれづよ》くあつた。餘《あま》りに剛愎《がうふく》であつた。餘《あま》りに自己中心《じこちうしん》であつた。餘《あま》りに人情《にんじやう》を諒解《りやうかい》し、周邊《しうへん》を調和《てうわ》するの術《じゆつ》に疎《そ》であつた。而《しか》して其《そ》の結果《けつくわ》が、乃《すなは》ち肥後《ひご》の大騷動《だいさうどう》となつた。秀吉《ひでよし》が期待《きたい》したる、九|州中央《しうちうわう》の鎭臺《ちんだい》は、却《かへつ》て九|州《しう》騷亂《さうらん》の火元《ひもと》となつた。斯《か》く迄《まで》裏切《うらぎ》られたるに於《おい》て、秀吉《ひでよし》が其《そ》の罪《つみ》を糺《たゞ》したのは、當然《たうぜん》ではあるまい乎《か》。
既記《きき》秀吉《ひでよし》の書簡《しよかん》の示《しめ》す如《ごと》く、秀吉《ひでよし》が成政《なりまさ》を罪《つみ》したのは、單《たん》に騷擾《さうじやう》を惹起《じやくき》した爲《た》めではなかつた。秀吉《ひでよし》の訓令《くんれい》に違背《ゑはい》して、之《これ》を惹起《じやくき》したが爲《た》めであつた。若《も》し訓令通《くんれいどほ》りに遵奉《じゆんぽう》し、而《しか》して是《こ》れが爲《た》めに、或《あるひ》は此《こ》れにも拘《かゝ》はらず、騷擾《さうじやう》が出來《でき》たとすれば、秀吉《ひでよし》は固《もと》より其《そ》の咎《とが》を成政《なりまさ》に歸《き》す可《べ》き筈《はず》がない。但《たゞ》し秀吉《ひでよし》の信頼《しんらい》を裏切《うらぎ》り、其《そ》の訓令《くんれい》を無視《むし》して、斯《かゝ》る始末《しまつ》に立《た》ち到《いた》つては、之《これ》を處分《しよぶん》するが當然《たうぜん》ではない乎《か》。
[#ここから1字下げ]
肥後《ひご》の一|揆蜂起《きほうき》の義《ぎ》は、内藏助《くらのすけ》仕置《しおき》、時分《じぶん》をはからず、あらく申付候故《まをしつけさふらふゆゑ》、天下《てんか》の騷《さわ》ぎ仕出候《しいだしさふらふ》。小早川隆景《こばやかはたかかげ》にも、あら國《くに》へ被[#レ]遣候《つかはされさふら》へども、何事《なにごと》も神妙《しんめう》に仕置仕候故《しおきつかまつりさふらふゆゑ》、目出度《めでたく》相鎭《あひしづ》め申候《まをしさふらふ》と、聞召被[#レ]屆候《きこしめしとゞけられさふらふ》。やがて東國《とうごく》へ御馬《おうま》を可[#レ]被[#レ]向《むけらるべく》と被[#二]思召[#一]候處《おぼしめされさふらふところ》に、西國《さいこく》に事《こと》出來《でき》たる樣《やう》に、東國《とうごく》への響《ひゞ》き奇怪《きくわい》に被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、其上《そのうへ》諸大名《しよだいみやう》への自今以後《じこんいご》見《み》せしめの爲《ため》との上意《じやうい》にて、内藏助切腹被[#二]仰付[#一]候《くらのすけせつぷくおほせつけられさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れが秀吉《ひでよし》の心事《しんじ》の十|中《ちう》七八を得《え》たるものと思《おも》はる。或《あるひ》は封土《ほうど》沒收《ぼつしう》のみにて、然《しか》る可《べ》しとの議論《ぎろん》もあるが、秀吉《ひでよし》の懲罰《ちようばつ》は、此《こ》れにて滿足《まんぞく》は出來《でき》なかつた。そは佛《ほとけ》の顏《かほ》も三|度《ど》と云《い》ふではない乎《か》。況《いはん》や成政《なりまさ》を以《もつ》て、他《た》の殷鑒《いんかん》とするに於《おい》てをやだ。信賞必罰《しんしやうひつばつ》は、秀吉《ひでよし》が天下《てんか》を駕御《がぎよ》するの一|大方便《だいはうべん》だ。彼《かれ》の寛大《くわんだい》は、決《けつ》して婦人《ふじん》の仁《じん》の寛大《くわんだい》ではなかつた。
[#ここから1字下げ]
内藏助《くらのすけ》庭《には》の泉水《せんすゐ》へ被[#二]罷出[#一]候《まかりいでられさふらう》て、石《いし》へ腰《こし》を掛《かけ》、主馬《しゆめ》を呼出《よびいだ》し、金《きん》三十|枚《まい》、其外《そのほか》身廻《みのまは》り衣裳以下《いしやういか》を主馬《しゆめ》に出《いだ》し、此石《このいし》は内藏助腰掛石《くらのすけこしかけいし》と披露《ひろう》せられよとて、腹《はら》十|文字《もんじ》にかき切《きり》、臟腑《ざうふ》をつかみ出《だ》し、時分《じぶん》はよきぞとて、頸《くび》を被[#二]指延[#一]候處《さしのべられさふらふところ》を、藤堂和泉殿《とうだういづみどの》介錯《かいしやく》とも申《まをし》、又《また》小姓《こしやう》の介錯《かいしやく》とも後《のち》に沙汰仕候事《さたつかまつりさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
成政《なりまさ》の死《し》も亦《ま》た壯烈《さうれつ》であつた。彼《かれ》は安心《あんしん》して死《し》する程《ほど》に、其《そ》の運命《うんめい》を自覺《じかく》せなかつた。惟《おも》ふに彼《かれ》の死《し》は、彼自《かれみづ》から求《もと》めたに相違《さうゐ》なきも、そは彼《かれ》が餘《あま》りに過去《くわこ》に執著《しふちやく》して、現在《げんざい》の境遇《きやうぐう》に適應《てきおう》する能《あた》はざるが爲《た》めであつた。云《い》はゞ|彼《かれ》が時代後《じだいおく》れの爲《た》めであつた。此《こ》れは彼《かれ》一|人《にん》に限《かぎ》つた事《こと》ではない。古往今來《こわうこんらい》、有力《いうりよく》なる人間《にんげん》の免《まぬか》れ難《がた》き弱點《じやくてん》である。
肥後《ひご》の善後策《ぜんごさく》は、黒田孝高《くろだよしたか》、淺野長政《あさのながまさ》、加藤清正《かとうきよまさ》、小西行長等《こにしゆきながら》により行《おこな》はれた。隈部父子《くまべふし》は、一|揆《き》の張本《ちやうほん》なれば、喧嘩兩成敗《けんくわりやうせいばい》として、切腹《せつぷく》せしめた。其他《そのた》はそれ/″\|處分《しよぶん》した。秀吉《ひでよし》は肥後《ひご》を中分《ちうぶん》し、緑川以北《みどりがはいほく》を、加藤清正《かとうきよまさ》に、その以南《いなん》を、小西行長《こにしゆきなが》に與《あた》へた。彼等《かれら》が征韓《せいかん》の兩先鋒《りやうせんぽう》たる機《き》は、既《すで》に此時《このとき》に發生《はつせい》した。
―――――――――――――――
[#6字下げ]陸奧守前後惡逆之事
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、天正拾壹年柴田、殿下へたいし、謀叛あいかまへ、江州北郡よご表、亂入いたし候に付て、關白殿自身かけ付させられ、切崩、其足にて越前北之庄、討果させられ候處、むつのかみ、しば田も令[#二]同意[#一]、越中國に有[#レ]之、加賀國かなさわの城佐久間玄蕃居城、柴田相果候より、明退候處、陸奧守、かなさわの城へかけ入、相踏候間、從[#二]越前[#一]、直御馬をいだされ、彼かなさわの城とりまかせられ候處、あたまをそりて、被[#レ]刎[#レ]首由申候て、走入候間、かうべをばはねさせられず、如[#二]先々[#一]越中一國被[#レ]下、飛騨國取次迄被[#二]仰付[#一]候事。
一、天正十二年に、信雄尾張國に有[#レ]之、不[#二]相屆[#一]刻、彼むつのかみ、又候哉、人質を相捨、別儀をいたし、加賀國はしへ令[#二]亂入[#一]、城々をこしらへ候間、則被[#レ]出[#二]御馬[#一]、は城うちはたさせられ、越中陸奧守居城と(富山)の城とりまかさせられ候之處、又候哉、むつのかみ、あたまをそり、走入候間、あはれと思召、不[#レ]被[#レ]作[#レ]刎[#レ]首、城をうけとられ越中國半國被[#レ]下、女子をつれ、在大阪有[#レ]之に付て、不便に被[#二]思召[#一]、津の國のせ郡一職に、女子爲[#二]堪忍分[#一]被[#レ]下、剩、位を公家にまで、被[#二]仰付[#一]候事。
一、津くし御成敗、天正十五年殿下被[#レ]出[#二]御馬[#一]、一へんに被[#二]仰付[#一]候刻、むつのかみ、信長御時、武者の覺かい見きかましきと人申成、殿下にも、見およはせられ、つくしの内、肥後國よき國候間、一國被[#二]仰下[#一]、兵粮、鐵砲の玉藥以下迄、城々えいれさせられ、普請等まで被[#二]仰付[#一]、陸奧守に被[#レ]下候事。
一、御開陣之刻、國人、くまもとの城主、宇土城主、八代之城主、かうべをゆるさせられ、堪忍分を被[#レ]下、城主女子、共に大坂へ被[#二]召連[#一]、國にやまいのなき樣に被[#二]仰付[#一]、其外、殘國人之儀、人質をめし被[#レ]置、女子共、陸奧守有[#レ]之、在くまもとに、被[#二]仰付[#一]候處、國人くまべ但馬、豐坂と令[#二]一味[#一]、日來無[#二]如在[#一]者儀に候間、本知事は不[#レ]及[#レ]申、新知一倍被[#レ]下ものゝ所へ、大坂へ一往の御屆不[#レ]申、陸奧守、取懸しに付て、くまべ、あたまをそり、陸奧守所へ走入候之處、其子式部大輔、親につられ候とて、山賀之越え、引入在[#レ]之、國人並一揆をおこし、くまもとへ取懸候て、陸奧守及[#二]難儀[#一]候間、小早川・龍造寺・立花左近を始、被[#二]仰付[#一]、くまもとへ通路、城へ兵粮入させられ候へ共、はか不[#レ]行に付て、毛利右馬頭被[#二]仰付[#一]、天正十六年正月中旬、寒天之時分、如何雖[#下]被[#二]思召[#一]候[#上]、右之人數被[#二]仰付[#一]、肥後一國平均に罷成事。
一、右之曲事、條々雖[#レ]有[#レ]之、其儀をかゑり見させられず、肥後國被[#二]仰付[#一]候に、日を一ヶ月共不[#二]相立[#一]、國に亂をいたし候儀、殿下迄、被[#レ]失[#二]面目[#一]候間、御糺明なしにも、むつのかみ、腹をきらせらるべきと、被[#二]思召[#一]候へ共、人の申成も有[#レ]之かと思召、淺野彈正・生駒雅樂・蜂須賀阿波守・戸田民部少輔・福島左衞門大夫・加藤主計頭・森壹岐守・黒田尠解由・小西攝津守被[#二]仰付[#一]右之者共、人數二三萬召連、肥後國へ、爲[#二]上使[#一]被[#レ]遣、くまもとに有[#レ]之、陸奧守をば、曲事に被[#二]思召[#一]候間、先八代へ被[#レ]遣、國の者共をば、忠不忠をわけ、悉可[#レ]刎[#レ]首由、被[#二]仰遣[#一]候處、又候哉むつのかみ、上使にも不[#二]相構[#一]、大坂へ越候間、如[#二]一書條々[#一]、曲事者候條、尼崎追籠、番衆を被[#二]付置[#一]、つくしへ被[#レ]遣候上使、歸次第、各國之者共成敗仕樣をも被[#二]聞召[#一]、其上にて、陸奧守をば、國をはらはせられ候歟、又は腹をきらせ候歟、二箇條に一箇條、可[#二]仰付[#一]と被[#二]思召[#一]處、肥後事は不[#レ]及[#レ]申、九州悉相靜、國人千餘刎[#レ]首、其内に而大將分百計、大坂へもたせ上候、然者、喧嘩のあい手、國之者共刎[#レ]首、むつのかみ、相たすけさせられ候へば、殿下御紛かと國々のもの共、存候へば、如何被[#二]思召[#一]候條、不便ながら、後五月十四日陸奧守に、腹をきらせ候事。
一、むつのかみ、肥後に有[#レ]之者共、曲事にあらず候間、其ぶん/\に知行可[#レ]被[#レ]下候條、くまもとに、堪忍可[#レ]仕事。
[#4字下げ](天正十六年)
[#5字下げ]閏五月十四日[#地から1字上げ]關 白朱印
[#7字下げ]小早川左衞門佐とのへ
[#地付き]〔豐公遣文〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
―――――――――――――――
[#改ページ]