第二十四章 泰平氣象の催進
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第二十四章 泰平氣象の催進[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【八九】太平の氣分を鼓吹する[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の趣味《しゆみ》は、多方面《たはうめん》であつた。秀吉《ひでよし》は歡樂《くわんらく》の追求者《つゐきうしや》であつた。秀吉《ひでよし》は獨《ひと》り樂《たの》しむを欲《ほつ》せず、衆《しゆう》と偕《とも》に樂《たの》しむを欲《ほつ》した。乃《すなは》ち天正《てんしやう》十五|年《ねん》十|月《ぐわつ》の北野大茶湯《きたのおほちやのゆ》の如《ごと》き、若《もし》くは十六|年《ねん》四|月《ぐわつ》の聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》の如《ごと》きは、其《そ》の顯著《けんちよ》なる例《れい》であつた。
惟《おも》ふに是《こ》れ唯《た》だ秀吉《ひでよし》が、本能《ほんのう》の動《うご》く儘《まゝ》に、隨意《ずゐい》、自然《しぜん》の振舞《ふるまひ》であつた乎《か》。將《は》た政治家的《せいぢかてき》、若《もし》くは經世家的《けいせいかてき》考慮《かうりよ》が、其《そ》の根本動機《こんぽんどうき》であつた乎《か》。そは兎《と》も角《かく》も、其《そ》の結果《けつくわ》の、戰爭《せんさう》同樣《どうやう》、若《もし》くはそれ以上《いじやう》の効果《かうくわ》を齎《もたら》し來《きた》つた事《こと》は明白《めいはく》だ。
政治家《せいぢか》の仕事《しごと》は、其《そ》の有意《いうい》と、無心《むしん》とに論《ろん》なく、一|切《さい》を政治化《せいぢくわ》する傾向《けいかう》がある。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》が、一|擧手《きよしゆ》一|投足《とうそく》も、悉《こと/″\》く皆《み》な經營慘淡《けいえいさんたん》たる打算《ださん》の上《うへ》より、發現《はつげん》したものとは思《おも》はぬ。秀吉《ひでよし》はそれ程迄《ほどまで》の窮屈屋《きゆうくつや》でなく、又《ま》たそれ程迄《ほどまで》の修飾者《しうしよくしや》でもなかつた。併《しか》し其《そ》の何處迄《どこまで》が自然《しぜん》で、何處迄《どこまで》が人巧《じんかう》であるかは、容易《ようい》に判定《はんてい》し難《がた》い。要《えう》するに秀吉《ひでよし》は、天成《てんせい》の一|大俳優《だいはいいう》であることゝ、一|種《しゆ》他人《たにん》の企《くはだ》て及《およ》ばざる一|大成金氣分《だいなりきんきぶん》が、彼《かれ》の一|生《しやう》を始終《ししゆう》したことは、恒《つね》に記憶《きおく》する必要《ひつえう》がある。而《しか》して北野大茶湯《きたのおほちやのゆ》と云《い》ひ、聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》と云《い》ひ、何《いづ》れも秀吉《ひでよし》の本能的《ほんのうてき》嗜好《しかう》を、經世的《けいせいてき》方便《はうべん》に利用《りよう》した事《こと》は、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。
秀吉《ひでよし》は太平《たいへい》の社會《しやくわい》を打出《だしゆつ》するには、先《ま》づ太平《たいへい》の氣分《きぶん》を鼓吹《こすゐ》するが、※[#「捷の異体字」、U+3A17、462-6]徑《せふけい》であると考《かんが》へた。乃《すなは》ち人々《ひと/″\》が太平《たいへい》の氣分《きぶん》となれば、人力《じんりよく》を藉《か》らず、自《おのづ》から世《よ》は太平《たいへい》となるものと考《かんが》へた。されば彼《かれ》は是《こ》れが爲《た》めには、殆《ほとん》ど餘力《よりよく》を愛《を》しまなかつた。彼《かれ》が土木《どぼく》の爲《た》めに民力《みんりよく》を罷疲《ひひ》せしめ、驕奢《けうしや》、逸遊《いついう》の爲《た》めに、國帑《こくど》を消耗《せうかう》したとて、之《これ》を咎《とが》むる者《もの》、古《いにしへ》より頗《すこぶ》る多《おほ》い。されど若《も》し彼《かれ》をして其《そ》の本音《ほんね》を吐《は》かしめん乎《か》、此《こ》れは太平《たいへい》の社會《しやくわい》を製造《せいざう》する、製造費《せいざうひ》であると答《こた》へたであらう。
吾人《ごじん》の所見《しよけん》によれば、秀吉《ひでよし》の藥《くすり》は、寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》の豫望以上《よばういじやう》に利《き》き過《す》ぎた。秀吉《ひでよし》が餘《あま》りに太平《たいへい》の氣分《きぶん》を鼓吹《こすゐ》したる結果《けつくわ》は、天下《てんか》の梟將《けうしやう》、猛士《まうし》をして、却《かへつ》て其《そ》の雄心《ゆうしん》を消麿《せうま》せしめ、安逸《あんいつ》に耽《ふけ》らしめた。征韓《せいかん》の失敗《しつぱい》の如《ごと》き、其《そ》の一|因《いん》は、確《たし》かに此《こゝ》にありと云《い》はねばならぬ。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》が太平《たいへい》の氣分《きぶん》を鼓吹《こすゐ》したる結果《けつくわ》は、手《て》に餘《あま》る亂世《らんせい》の奸雄《かんゆう》をして、半《なかば》は去勢《きよせい》せしめた。天下《てんか》の總《すべ》ての人《ひと》が、悉《こと/″\》く皆《み》な秀吉《ひでよし》であつたならば、一方《ぱう》には醇酒《じゆんしゆ》、美人《びじん》、金殿《きんでん》、玉樓《ぎよくろう》の生活《せいくわつ》をなし、他方《たはう》には鐵衣《てつい》、悍馬《かんば》、風餐《ふうさん》、露宿《ろしゆく》の生活《せいくわつ》を甘《あまん》ぜしめ得《え》たかも知《し》れぬ。されど、秀吉《ひでよし》は、天下《てんか》只《た》だ一|人《にん》の秀吉《ひでよし》だ。彼等《かれら》は本來《ほんらい》野猪《やちよ》であつた、然《しか》るに秀吉《ひでよし》は彼等《かれら》を馴《な》らして、豚《ぶた》とした。既《すで》に豚《ぶた》となれば、再《ふたゝ》び之《これ》を驅《か》りて、野猪《やちよ》の役目《やくめ》を勤《つと》めしめんとするも、亦《ま》た無理《むり》である。
固《もと》より物《もの》には惰力《だりよく》がある。習慣《しふくわん》は第《だ》二の天性《てんせい》である。されば豚《ぶた》となりても、偶《たまた》ま野猪《やちよ》の前生活《ぜんせいくわつ》を裏切《うらぎ》らぬ事《こと》がないとも限《かぎ》らぬ。併《しか》し概《がい》して論《ろん》ずれば、竹《たけ》となれば直《たゞ》ちに筍《たけのこ》には復《かへ》ることが出來《でき》ぬ。雛《ひな》となれば直《たゞ》ちに卵《たまご》に復《かへ》ることは出來《でき》ぬ。社會《しやくわい》の調子《てうし》が、既《すで》に太平《たいへい》となれば、之《これ》に創業《さうげふ》の氣分《きぶん》を漂《たゞよ》はせんとするも、其《そ》の大勢《たいせい》が不可能《ふかのう》である。
吾人《ごじん》は固《もと》より天下《てんか》の太平《たいへい》が、悉《こと/″\》く皆《み》な秀吉《ひでよし》一|人《にん》の力《ちから》であるとは思《おも》はぬ。云《い》はゞ|世《よ》の中《なか》が、自然《しぜん》に泰平《たいへい》に近《ちかづ》きつゝあるに際《さい》し、秀吉《ひでよし》が之《これ》を推《お》し進《すゝ》めた丈《だ》けの事《こと》だ。併《しか》し此《こ》の推進力《すゐしんりよく》の多大《ただい》であつた事《こと》も、亦《ま》た無視《むし》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。否《い》な其《そ》の推進力《すゐしんりよく》の餘《あま》りに多大《ただい》であつたが爲《た》めに、秀吉《ひでよし》をして事《こと》志《こゝろざし》と反《はん》するの結果《けつくわ》を來《きた》さしめたのを、笑止《せうし》千|萬《ばん》と思《おも》ふ。
古人《こじん》は居《きよ》は志《こゝろざし》を移《うつ》すと云《い》うた。秀吉《ひでよし》の天下《てんか》を驅《か》つて、歡樂《くわんらく》を追求《つゐきう》せしめたのは、天下《てんか》の亂《らん》を思《おも》ふ志《こゝろざし》を移《うつ》さしむる所以《ゆゑん》であつた。秀吉《ひでよし》は單《たん》に個人《こじん》に催眠術《さいみんじゆつ》を施《ほどこ》すを解《かい》したのみならず、又《ま》た社會《しやくわい》に向《むか》つて、之《これ》を施《ほどこ》すことをも解《かい》した。然《しか》も一たび施《ほどこ》したる後《のち》には、秀吉《ひでよし》の力《ちから》を以《もつ》てしても、復《ま》た如何《いかん》ともする能《あた》はなかつた。天正《てんしやう》十五六|年《ねん》の社會《しやくわい》は、永祿《えいろく》十|年頃《ねんごろ》の社會《しやくわい》とは、或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、別世界《べつせかい》となつた。

[#5字下げ][#中見出し]【九〇】北野大茶湯[#中見出し終わり]

北野《きたの》の大茶湯《おほちやのゆ》は、九|州征伐《しうせいばつ》凱旋《がいせん》祝賀《しゆくが》の一|大園遊會《だいゑんいうくわい》であつた。秀吉《ひでよし》が極《きは》めて平民的《へいみんてき》に、普遍的《ふへんてき》に、昇平《しようへい》の氣象《きしやう》を發揚《はつやう》し、人心《じんしん》を緩和《くわんわ》す可《べ》き一|大方便《だいはうべん》であつた。而《しか》して此事《このこと》が、豪快《がうくわい》、洒落《しやらく》、群衆《ぐんしゆう》と與《とも》に其《そ》の樂《たのしみ》を偕《とも》にせんとする、彼《かれ》の心意氣《こゝろいき》の反射《はんしや》であつたことは、云《い》ふ迄《まで》もない。
秀吉《ひでよし》の大阪《おほさか》に凱旋《がいせん》したのは、天正《てんしやう》十五|年《ねん》七|月《ぐわつ》十四|日《か》であつた。其《そ》の自《みづか》ら聚樂《じゆらく》の新第《しんてい》に移轉《いてん》したのは、九|月《ぐわつ》十八|日《にち》であつた。而《しか》して北野《きたの》の茶湯《ちやのゆ》は、十|月《ぐわつ》の朔日《ついたち》より開始《かいし》せられた。甫菴太閤記《ほあんたいかふき》には、天正《てんしやう》十三|年《ねん》十|月《ぐわつ》朔日《ついたち》とあり、豐鑑《ほうかん》には同《どう》十六|年《ねん》の秋《あき》とあれども、北野大茶湯之記《きたのおほちやのゆのき》には十五|年《ねん》とある。此《こ》れが正確《せいかく》であるを證《しよう》す可《べ》きは、
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天正《てんしやう》十五|年《ねん》丁亥《ひのとゐ》十|月《ぐわつ》一|日《にち》、於[#二]北野[#一]被[#レ]成[#二]大茶湯[#一]候之間《きたのにおいておほちやのゆなされさふらふのあひだ》、宗湛可[#二]罷上[#一]《そうたんまかりのぼるべき》の由《よし》、被[#レ]成[#二]御朱印[#一]候《ごしゆいんなされさふらふ》。宗及老御取次《そうきふらうおとりつぎ》にて飛脚到來候事《ひきやくたうらいさふらふこと》。〔宗湛日記〕[#「〔宗湛日記〕」は1段階小さな文字]
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とあるにても判知《わか》る。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は此《こ》の一|大圓遊會《だいゑんいうくわい》に、參加《さんか》せしむ可《べ》く、九|州《しう》の寵商《ちようしやう》にさへも、招状《せうじやう》を發《はつ》したのだ。宗湛《そうたん》は、
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八|日《か》(十月)[#「(十月)」は1段階小さな文字]に上京《じやうきやう》聚樂《じゆらく》に著《つ》く。其日從[#二]大津[#一]《そのひおほつより》 還御《くわんぎよ》にて、午刻《うまのこく》に聚樂《じゆらく》宗及《そうきふ》の表《おもて》にて、關白樣《くわんぱくさま》に對面仕候也《たいめんつかまつりさふらふなり》。宗及御取合也《そうきふおとりあひなり》。則《すなはち》御諚《ごぢやう》には、可愛《かはゆ》や、遲《おそ》く上《のぼ》りたるよ、やがて茶《ちや》を飮《の》ませうぞと被[#レ]成[#二]御意[#一]候《ぎよいなされさふらふ》。忝《かたじけなし》と申上候也《まをしあげさふらふなり》。〔宗湛日記〕[#「〔宗湛日記〕」は1段階小さな文字]
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とある。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が關白《くわんぱく》の身《み》を以《もつ》て、氣輕《きがる》であり、快活《くわいくわつ》であり、平民的《へいみんてき》であつた事《こと》は、此《こ》れにて想《おも》ひやらるゝ。
宣傳好《せんでんず》きの秀吉《ひでよし》は、左《さ》の如《ごと》き制札《せいさつ》を洛《らく》の上下《じやうげ》、奈良《なら》、堺等《さかひとう》に立《た》てしめた。
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來《きた》る十|月朔日《ぐわつついたち》、於[#二]北野松原[#一]《きたのまつばらにおいて》、可[#レ]令[#レ]興[#二]行茶湯[#一]候《ちやのゆをこうぎやうせしむべくさふらふ》。不[#レ]寄[#二]于貴賤[#一]《きせんによらず》、不[#レ]拘[#二]于貧富[#一]《ひんぷにかゝはらず》、望之面々令[#二]來會[#一]《のぞみのめん/\らいくわいせしめ》、可[#レ]催[#二]一興[#一]《いつきようをもよほすべく》、禁[#二]美麗[#一]好[#二]儉約[#一]營《びれいをきんじけんやくをこのみいとな》み可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。秀吉《ひでよし》十|年求置《ねんもとめおき》し、諸道具《しよだうぐ》、かざり立《たて》おくべきの條《でう》、望次第可[#二]見物[#一]者也《のぞみしだいけんぶつすべきものなり》。
  八月二日[#地から1字上げ]〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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又《ま》た更《さら》に左《さ》の高札《かうさつ》をも立《た》てた。
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  御定之事《おさだめのこと》
一 於[#二]北野森[#一]《きたのゝもりにおいて》、十|月朔日《ぐわつついたち》より十|日之間《かのあひだ》に、天氣次第《てんきしだい》に可[#レ]被[#レ]成[#二]御茶湯[#一]《おんちやのゆをなさるべく》、御沙汰《ごさた》に付而《ついて》、御名物共不[#レ]殘與[#レ]仰《おんめいぶつどものこらずおほせにより》、相揃《あひそろへ》、數寄執心之者《すきしふしんのもの》に可[#レ]被[#二]仰見[#一]《おほせみせらるべき》ために、如[#レ]此被[#レ]仰相催候事《かくのごとくおほせられあひもよほしさふらふこと》。
一 茶湯執心之者《ちやのゆしふしんのもの》は、若黨《わかたう》、町人《ちやうにん》、百|姓已下《しやういか》によらず、釜《かま》一つ、つるべ一つ、のみ物《もの》一つ、茶《ちや》はこがしにても苦《くる》しからず候《さふらふ》、ひつさげ來可[#レ]然事《きたることしかるべきこと》。
一 座舖之儀《ざしきのぎ》は、松原《まつばら》にて候條《さふらふでう》、疊《たゝみ》二でう。
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但侘者《たゞしわびもの》は、とぢ付《つき》にても、いなはきにても不[#レ]苦候事《くるしからずさふらふこと》。
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一 遠國之者迄可[#レ]被[#二]仰見[#一]之儀《ゑんごくのものまでおほせみせらるべきのぎ》、十|月《ぐわつ》十|日迄日限相延被[#レ]成候事《かまでにちげんあひのべなされさふらふこと》。
右之被[#二]仰出[#一]之儀《みぎのおほせいだされのぎ》、侘者《わびもの》をふびんに思召候處《おぼしめしさふらふところ》、此度不[#二]罷出[#一]者《このたびまかりいでざるもの》は、向後《きやうご》に於《おい》て、こがしをもたて候義無用《さふらふぎむよう》との御異見《ごいけん》に候《さふらふ》。不[#二]罷出[#一]者之所《まかりいでざるもののところ》へ參候族迄《まゐりさふらふやからまで》も、同前《どうぜん》たるべき事《こと》。
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附《つけたり》、遠國之者《ゑんごくのもの》によらず、御手前《おてまへ》にて、御茶可[#レ]被[#レ]下旨被[#レ]仰候事《おちやくださるべきむねおほせられさふらふこと》。
[#地から3字上げ]奉 行 福原右馬允
[#地から3字上げ]蒔田權介
[#地から3字上げ]中江式部大輔
[#地から3字上げ]宮本右京大夫
[#地から1字上げ]〔北野大茶之湯記〕[#「〔北野大茶之湯記〕」は1段階小さな文字]
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若《も》し此《こ》の文句通《もんくどほ》りに讀《よ》まば、今日《こんにち》の圓遊會《ゑんいうくわい》よりも、寧《むし》ろより開放的《かいはうてき》であり、無差別的《むさべつてき》であつたと云《い》はねばならぬ。
如何《いか》に秀吉《ひでよし》が此事《このこと》に熱心《ねつしん》であつたかは、聚樂《じゆらく》移轉《いてん》の翌日《よくじつ》、即《すなは》ち九|月《ぐわつ》十九|日《にち》より、材木《ざいもく》を北野《きたの》に運《はこ》ばせ、前田玄以《まへだげんい》を奉行《ぶぎやう》とし、大工《だいく》吉右衞門《きちゑもん》、平《へい》三|郎等《らうら》をして、小屋《こや》を建《た》て始《はじ》めしめ、乍《たちま》ちにさしもに廣《ひろ》き北野《きたの》に、無慮《むりよ》八百|有餘《いうよ》の茶湯小屋《ちやのゆごや》が、出來《しゆつたい》したので判知《わか》る。
斯《か》く秀吉《ひでよし》が勸進元《くわんじんもと》であれば、天下《てんか》の數寄者《すきしや》と、天下《てんか》の名器《めいき》とは、殆《ほとん》ど剩《あま》す所《ところ》なく、此處《こゝ》に蒐集《しうしふ》せられたのは當然《たうぜん》だ。而《しか》して秀吉《ひでよし》は第《だい》一|番《ばん》に、廣告通《くわうこくどほ》りに其《そ》の道具《だうぐ》を飾《かざ》つた。第《だい》二|番《ばん》には千利休《せんのりきう》、第《だい》三|番《ばん》には堺《さかひ》の天王寺屋宗及《てんのうじやそうきふ》、第《だい》四|番《ばん》には同《おなじ》なやの宗久等《そうきふら》、各座敷《かくざしき》を構《かま》へ、其《そ》の諸道具《しよだうぐ》を並《なら》べ、幽賞者《いうしやうしや》を待《ま》つた。
その他《た》大木《たいぼく》の蔭《かげ》、松原《まつばら》の邊抔《へんなど》、寂《さ》びかへつて、圍《かこ》ひ傘《がさ》一|本《ぽん》の下《した》で、茶《ちや》を立《た》つる者《もの》あり、或《あるひ》は擔《にな》ひ茶屋《ぢやや》に事《こと》よせた者《もの》もあり、五百|餘人《よにん》の數寄者《すきしや》、銘々《めい/\》趣向《しゆかう》を凝《こ》らし、北野《きたの》方《はう》一|里《り》の間《あひだ》は、茶《ちや》の湯《ゆ》の世界《せかい》と化《くわ》し去《さ》つた。
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秀吉公《ひでよしこう》御《お》かこひは、三ヶ|所《しよ》、かろがろとし給《たま》うて、諸道具《しよだうぐ》をかざり給《たま》ひつゝ、
一|番《ばん》に信輔公《のぶすけこう》(近衞)[#「(近衞)」は1段階小さな文字] 輝資卿《てるすけきやう》(日野)[#「(日野)」は1段階小さな文字] 家康卿《いへやすきやう》 信雄卿《のぶをきやう》 穴津侍從[#「穴津侍從」は1段階小さな文字]|信兼《のぶかね》
二|番《ばん》に秀長卿《ひでながきやう》 秀次卿《ひでつぐきやう》 利家《としいへ》 氏郷《うぢさと》 貞通《さだみち》 利休《りきう》
三|番《ばん》に有樂《いうらく》 秀勝《ひでかつ》 頼隆《よりたか》 秀家《ひでいへ》 忠興《たゞおき》
如[#レ]此御手前《かくのごときおてまへ》にて、御茶《おちや》を被[#レ]下《くだされ》てより、珍《めづ》らしき數寄《すき》を御覽有《ごらんある》べきとて、御小姓衆《おこしやうしゆう》十|人許召連《にんばかりめしつ》れられ、先蜂屋出羽守座敷《まづはちやではのかみざしき》へ入《いら》せ給《たま》ふ。御茶《おちや》を上《あが》り、立出給《たちいでたま》ひ、即蜂屋《すなはちはちや》をも被[#二]召連[#一]《めしつれられ》、御相伴《おしやうばん》に加《くはへ》られ、立入給《たちいりたま》ふ座敷《ざしき》/\にて、御機嫌《ごきげん》なるに依《よつ》て、出羽守狂言綺語《ではのかみきやうげんきぎよ》し侍《はべ》れば、主悦《あるじよろこび》あへりけり。今度集《このたびあつ》まりし茶具《ちやぐ》めづらしき事共《ことども》、言語《げんご》の及《およぶ》べきにあらず。或《あるひ》は數寄屋《すきや》のかるき作意《さくい》、或《あるひ》は異風體《いふうてい》に興《きよう》ぜし有《あり》て、御機嫌事外《ごきげんことのほか》にぞ見《み》えける。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》は自《みづか》ら茶《ちや》を立《た》てゝ、重《おも》なる人々《ひと/″\》を饗《きやう》した。而《しか》して此《こ》れより諸々《もろ/\》の數寄屋《すきや》を見舞《みま》うた。
秀吉《ひでよし》自《みづか》ら歡樂《くわんらく》の音頭取《おんどとり》となりて、囃《はや》し立《た》つるに於《おい》ては、如何《いか》で周邊《しうへん》の者《もの》ども、滿醉《まんすゐ》、飽享《はうきやう》せざらむや。秀吉《ひでよし》の北野大茶湯《きたのおほちやのゆ》を以《もつ》て、信長《のぶなが》の馬揃《うまぞろへ》に比《ひ》すれば、其《そ》の極所《きよくしよ》の目的《もくてき》は、大差《たいさ》なきも、如何《いか》に其《そ》の氣分《きぶん》の相違《さうゐ》が著《いちじる》しきよ。彼《かれ》は肅殺《しゆくさつ》であり、此《これ》は和薫《わくん》である。所謂《いはゆ》る天下《てんか》と與《とも》に春風《しゆんぷう》に坐《ざ》する心持《こゝろもち》は、秀吉《ひでよし》の擅場《せんぢやう》と云《い》うても、溢辭《いつじ》ではあるまい。彼《かれ》は事實《じじつ》に於《おい》て此《こ》の通《とほ》りであつた。

[#5字下げ][#中見出し]【九一】聚樂第行幸の眞相[#中見出し終わり]

聚樂第行幸《じゆらくていぎやうかう》は、秀吉《ひでよし》一|世《せ》一|代《だい》の分水嶺《ぶんすゐれい》である。彼《かれ》の前半生《ぜんはんせい》は、此《こゝ》にて終結《しゆうけつ》した。此《こ》れより以後《いご》は、後半生《こうはんせい》である。而《しか》して其《そ》の一|生《しやう》を通《つう》じて、是《これ》が絶頂《ぜつちやう》である。此《こ》れよりして彼《かれ》の天下《てんか》に於《お》ける勢威《せいゐ》は、彌《いよい》よ加《くは》はつたに相違《さうゐ》ないが、史的眼孔《してきがんこう》より見《み》れば、秀吉《ひでよし》其《そ》の人《ひと》としては降《くだ》り坂《ざか》である。小田原役《をだはらえき》、征韓役《せいかんえき》、漸次《ぜんじ》に頽唐《たいたう》の期《き》に近《ちか》づいて來《き》た。それは秀吉《ひでよし》の肉體《にくたい》の健康如何《けんかういかん》にもよつたであらうが、それよりも彼《かれ》の精神《せいしん》が、其《そ》の健全《けんぜん》なる常調《じやうてう》を逸《いつ》し來《き》たらしく思《おも》はるゝ。手緊《てきび》しく約言《やくげん》すれば、秀吉《ひでよし》も亦《ま》た他《た》の英雄漢《えいゆうかん》と同樣《どうやう》、成功中毒症《せいこうちうどくしやう》に罹《かゝ》つたものであらう。
      * * * * * * *
有體《ありてい》に云《い》へば、秀吉《ひでよし》は京都附近《きやうとふきん》に、聚樂第《じゆらくてい》を構《かま》へたから、偶然《ぐうぜん》に行幸《ぎやうかう》を仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》つたのでなく、豫《あらかじ》め行幸《ぎやうかう》を仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》る可《べ》く、京都附近《きやうとふきん》に聚樂第《じゆらくてい》を構《かま》へたのだ、彼《かれ》が行幸《ぎやうかう》を仰《あふ》ぎ奉《たてまつ》つたのは、決《けつ》して當座即時《たうざそくじ》の出來心《できごゝろ》ではなかつた。それは其《そ》の第中《ていちう》に、御座所抔《ござしよなど》や、舞臺《ぶたい》や、總《すべ》て其《そ》の豫備的施設《よびてきしせつ》をしたのでも判知《わか》る。
秀吉《ひでよし》は尊王《そんわう》に於《おい》て、最《もつと》も信長《のぶなが》の衣鉢《いはつ》を相續《さうぞく》した。彼《かれ》は永祿《えいろく》十一|年《ねん》、信長《のぶなが》の義昭《よしあき》を奉《ほう》じて、上洛以來《じやうらくいらい》、信長《のぶなが》の命《めい》を受《う》けて、禁裡向《きんりむき》、將軍家向《しやうぐんけむき》の事柄《ことがら》に、屡《しばし》ば關係《くわんけい》した。彼《かれ》は信長《のぶなが》の諸將校中《しよしやうかうちう》、唯《ゆゐ》一と云《い》ふ能《あた》はずんば、第《だい》一の京都通《きやうとつう》であつた。されば天正《てんしやう》十|年《ねん》山崎役以來《やまざきえきいらい》、彼《かれ》は未《いま》だ須臾《しゆゆ》も、此《こ》の方面《はうめん》との接觸《せつしよく》を閑却《かんきやく》した事《こと》はなかつた。是《こ》れが彼《かれ》の成功《せいこう》の一|大要素《だいえうそ》となつたのだ。
彼《かれ》は皇室《くわんしつ》が式微《しきび》に在《ましま》したるに拘《かゝは》らず、皇澤《くわうたく》の人心《じんしん》に入《い》るの、甚深《じんしん》であることを解《かい》した。即《すなは》ち皇權《くわうけん》振《ふる》はざるに拘《かゝは》らず、其《そ》の潜在權《せんざいけん》の偉大《ゐだい》なるを解《かい》した。天下《てんか》に號令《がうれい》し、天下《てんか》を統《とう》一するには、只《た》だ天皇《てんわう》の御名《ぎよめい》より他《ほか》なきを解《かい》した。彼《かれ》は徒《いたづ》らに皇室《くわうしつ》の御寵榮《ごちようえい》を、一|身《しん》に私《わたくし》せんとは思《おも》はなかつた。寧《むし》ろ此《これ》を擁《よう》して天下《てんか》に臨《のぞ》み、日本統《にほんとう》一の大業《たいげふ》を完成《くわんせい》せんと企《くはだ》てた。此《こ》れは何《いづ》れも信長《のぶなが》の故智《こち》を襲《おそ》うたに相違《さうゐ》ないが、然《しか》も其《そ》の應用《おうよう》の巧妙《かうめう》であつたことは、其師《そのし》の信長《のぶなが》さへも、企《くはだ》て及《およ》ぶ所《ところ》でなかつた。聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》の如《ごと》きは、此《こ》れが具體化《ぐたいくわ》した標本《へうほん》だ。
秀吉《ひでよし》は亦《ま》た皇室《くわうしつ》の周邊《しうへん》にある、公家《くげ》の一|團體《だんたい》を、無視《むし》せなかつた。藤原氏《ふじはらし》全盛當時《ぜんせいたうじ》に比《ひ》すれば、保元《ほげん》、平治以後《へいぢいご》の公家《くげ》は、物《もの》の數《かず》でもなかつた。併《しか》し如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、公家《くげ》は一の勢力《せいりよく》であつた。頼朝《よりとも》が藤原兼實《ふぢはらかねざね》に結《むす》んだのも、是《こ》れが爲《た》めであつた。鎌倉政治以來《かまくらせいぢいらい》、動《やゝ》もすれば霸府《はふ》は、公家《くげ》の陰謀《いんぼう》の爲《た》めに、手《て》を燒《や》いた。秀吉《ひでよし》は此《こ》の方面《はうめん》に、其《そ》の懷刀《ふところがたな》たる今出川晴季《いまでがははるすゑ》を得《え》た。而《しか》して公家《くげ》の政治的《せいぢてき》一|勢力《せいりよく》たるを、認識《にんしき》すると同時《どうじ》に、又《ま》た如何《いか》にして、之《これ》を懷柔《くわいじう》するかを解《かい》した。要《えう》するに皇室《くわうしつ》と、公家《くげ》とは、數《す》百|年間《ねんかん》、其《そ》の禍福得失《くわふくとくしつ》を與《とも》にしたる因縁《いんえん》がある。皇室《くわうしつ》より公家《くげ》を切《き》り離《はな》すことは、到底《たうてい》不可能《ふかのう》である。秀吉《ひでよし》が皇室尊崇《くわうしつそんしう》と同時《どうじ》に、公家《くげ》を周救《しうきう》したのは、寔《まこと》に拔目《ぬけめ》なき措置《そち》と云《い》はねばならぬ。此《かく》の如《ごと》くして、皇室尊崇《くわうしつそんしう》も、徹底的《てつていてき》なるを得《え》た。聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》が、一|擧《きよ》して、皇室《くわうしつ》、公家双方《くげさうはう》の滿足《まんぞく》を博《はく》するを得《え》た事實《じじつ》は、追《おつ》て語《かた》るであらう。
元來《ぐわんらい》至尊《しそん》が、人臣《じんしん》の私第《してい》に行幸《ぎやうかう》在《あら》せらるゝ|事《こと》は、王朝時代《わうてうじだい》は珍《めづ》らしくないが、武家時代《ぶけじだい》となりては、應永《おうえい》十五|年《ねん》に、後小松天皇《ごこまつてんわう》が、足利義滿《あしかゞよしみつ》の北山殿《きたやまでん》に、行幸《ぎやうかう》あらせられ、永享《えいきやう》九|年《ねん》に、後花園天皇《ごはなぞのてんわう》が、足利義教《あしかゞよしのり》の室町第《むろまちてい》に行幸《ぎやうかう》あらせられた以來《いらい》、絶無《ぜつむ》の事《こと》であつた。秀吉《ひでよし》は是等《これら》の故例《これい》に稽《かんが》へ、諸家《しよけ》の舊記《きうき》、典故等《てんことう》を參考《さんかう》し、前田玄以《まへだげんい》を、其《そ》の奉行《ぶぎやう》とし、天正《てんしやう》十六|年《ねん》正月《しやうぐわつ》に、行幸《ぎやうかう》を奏請《そうせい》して、勅許《ちよくきよ》を得《え》、其《そ》の期日《きじつ》も、三|月《ぐわつ》十五|日《にち》に定《さだま》つたが、當年《たうねん》は五|月《ぐわつ》に閏月《うるふづき》あれば、餘寒《よかん》甚《はなは》だしく、風雪《ふうせつ》ありしかば、更《さ》らに之《これ》を四|月《ぐわつ》十四|日《か》に延期《えんき》した。
蓋《けだ》し聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》は、秀吉《ひでよし》自個《じこ》の豪華《がうくわ》を誇《ほこ》り、榮耀《えいえう》を衒《てら》ふが爲《た》めのみならず。又《ま》た天下《てんか》に向《むか》つて、昇平《しようへい》の雰圍氣《ふんゐき》を鼓吹《こすゐ》するのみならず。皇室《くわうしつ》の御稜威《みいづ》を天下萬民《てんかばんみん》に顯彰《けんしやう》し、之《これ》を藉《か》りて、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》を籠絡《ろうらく》し、悉《こと/″\》く我《わ》が命令《めいれい》の下《もと》に、歸服《きふく》せしめんとする、一|大政治的機略《だいせいぢてききりやく》の存《そん》したる事《こと》は、やがて事實《じじつ》が證明《しようめい》した。

[#5字下げ][#中見出し]【九二】鳳輦渡御[#中見出し終わり]

聚樂第《じゆらくてい》の造營《ざうえい》は、前提《ぜんてい》である。聚樂第行幸《じゆらくていぎやうかう》は、結論《けつろん》である。扨《さて》も天正《てんしやう》十五|年《ねん》四|月《ぐわつ》十四|日《か》、秀吉《ひでよし》は早朝《さうてう》參内《さんだい》し、奉行職《ぶぎやうしよく》を集《あつ》めて、其《そ》の準備《じゆんび》を警《いま》しめ、其《そ》の落度《おちど》なき樣《やう》、氣《き》を注《つ》け、一|切《さい》の事《こと》を、親《した》しく指揮命令《しきめいれい》した。此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りて、一|世《せ》一|代《だい》の大事《だいじ》であるからだ。要《えう》するに此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りて、平和的施設中《へいわてきしせつちう》の一|大要件《だいえうけん》であつて、此《こ》の遂行《すゐかう》には、多大《ただい》の心配《しんぱい》をしたに相違《さうゐ》あるまい。
御陽成天皇《ごやうぜいてんわう》には、南殿《なんでん》に出御在《しゆつぎよましま》し、御束帶《ごそくたい》の御衣《ぎよい》は、山鳩色《やまはといろ》にて、如何《いか》にも神々《かう/″\》しく。御殿《ごてん》より長橋《ながはし》の後《あと》まで、筵道《むしろみち》にて布氈《ふせん》を敷《し》き連《つら》ねたる所《ところ》は、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら陛下《へいか》の御裾《おんすそ》を取《と》りて、導《みちび》き奉《たてまつ》り、鳳輦《ほうれん》を御階《おんきざはし》の端《はし》に寄《よ》せ、御乘《おの》せ申《まを》し上《あ》げた。四|脚《きやく》の御門《ごもん》を北《きた》へ、正親町《あふぎまち》を西《にし》へ、聚樂第迄《じゆらくていまで》十五|町《ちやう》の間《あひだ》、各《おの/\》の辻《つじ》、警固《けいご》の士《さむらひ》、六千|餘人《よにん》あつた。
行列《ぎやうれつ》の次第《しだい》は、先《ま》づ烏帽子《ゑぼし》の侍《さむらひ》、それより國母《こくぼ》の准后《じゆんこう》(新上東門院)[#「(新上東門院)」は1段階小さな文字]と、女御《によご》の御輿《おんこし》を初《はじ》め、大典侍御局《だいてんじおつぼね》、勾當御局《こうたうおつぼね》、其《そ》の外《ほか》女中衆《ぢよちうしゆう》御輿《おんこし》三十|丁餘《ちやうよ》、御輿副《おんこしぞへ》百|餘人《よにん》、その後《あと》に塗輿《ぬりこし》十四五|丁《ちやう》あり、此《こ》れには供奉《ぐぶ》の衆《しゆう》が乘《のつ》て居《ゐ》る。其中《そのうち》には六宮知仁親王《ろくのみやともひとしんわう》を始《はじ》め、伏見殿《ふしみでん》、九|條殿《でうでん》、一|條殿《でうでん》、二|條殿《でうでん》、菊亭晴季《きくていはるすゑ》、徳大寺公維《とくだいじきんずみ》、飛鳥井雅春《あすかゐまさはる》、四|辻公遠《つじきんとほ》、勸修寺晴豐《ごんしうじはるとよ》、大炊御門經頼《おほゐみかどつねより》、中山親綱《なかやまちかつな》、伯《はく》三|位《み》雅朝王等《まさともわうら》、何《いづれ》も隨身《ずゐしん》、烏帽子著《ゑぼしぎ》、馬副《うまぞへ》、布衣侍《ほいざむらひ》、雜色《ざつしき》、笠持等《かさもちとう》を具《ぐ》した。
此《こ》れから前驅《ぜんく》、次《つぎ》に近衞次弟《このゑじてい》、次《つぎ》に貫首《くわんす》、何《いづ》れも藏人《くらんど》、侍從《じじゆう》、少將《せうしやう》、中將等《ちうじやうら》、左右《さいう》に併行《へいかう》し、次《つぎ》に大將《たいしやう》として、鷹司大納言信房《たかつかさだいなごんのぶふさ》は左《ひだり》に、西園寺大納言實益《さいをんじだいなごんさねます》は右《みぎ》に、何《いづ》れも其《そ》の從者《ずさ》を具《ぐ》し、次《つぎ》に伶人《れいじん》四十五|人《にん》、安城樂《あんじやうがく》を奏《そう》し、かくて鳳輦《ほうれん》は晩春初夏《ばんしゆんしよか》の薫風《くんぷう》に、渡《わた》らせ給《たま》うた。御跡《おんあと》には、左大臣《さだいじん》近衞信輔《このゑのぶすけ》、内大臣《ないだいじん》織田信雄《おだのぶを》、烏丸光宣《からすまるみつのぶ》、日野輝資《ひのてるすけ》、久我敦道《こがあつみち》、徳川家康《とくがはいへやす》、豐臣秀長《とよとみひでなが》、持明院基孝《ぢみやうゐんもとたか》、庭田重道《にはだしげみち》、正親町季秀《あふぎまちすゑひで》、廣橋兼勝《ひろはしかねかつ》、坊城盛長《ばうじやうもりなが》、豐臣秀次《とよとみひでつぐ》、菊亭季持《きくていすゑもち》、花山院家雅《くわざんゐんいへまさ》、三|條公仲《でうきみなか》、吉田兼見《よしだかねすけ》、藤永孝《ふぢながたか》、宇喜田秀家《うきたひでいへ》の、大中納言等《だいちうなごんら》、列《れつ》を正《たゞ》して進《すゝ》み、其次《そのつぎ》に秀吉《ひでよし》は輿《こし》に乘《の》りて供奉《ぐぶ》した。
秀吉《ひでよし》の前驅《ぜんく》としては増田長盛《ますだながもり》、石田《いしだ》三|成等《なりら》七十|餘人《よにん》の親臣《しんしん》、馬上《ばじやう》にて練《ね》り行《ゆ》き、輿後《こしあと》には秀吉《ひでよし》の官位《くわんゐ》に相當《さうたう》する諸隨身人《しよずゐしんにん》諸式具等《しよしきぐとう》、其他《そのた》牽替《ひきかへ》の牛《うし》二|頭《とう》に至《いた》る迄《まで》、隨從《ずゐじゆう》し。次《つぎ》に舍人《とねり》、車副《くるまぞへ》、御沓持《おんくつもち》、御笠持《おんかさもち》、烏帽子著《ゑぼしぎ》、れき/\五百|餘人《よにん》、三|行《ぎやう》に列《れつ》して行《ゆ》き、最後《さいご》に前田利家《まへだとしいへ》、織田信兼《おだのぶかね》より木下勝俊《きのしたかつとし》、長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》に至《いた》る迄《まで》、歴々《れき/\》廿七|名《めい》の大名行《だいみやうゆ》き。其他《そのた》つぎ/\の侍《さむらひ》は、其數《そのすう》を知《し》らなかつた。
以上《いじやう》が行列《ぎやうれつ》の概略《がいりやく》であつた。供奉者《ぐぶしや》の裝束《しやうぞく》の如何《いか》に美麗《びれい》であつたか、當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の祐筆《いうひつ》であつた楠正虎《くすのきまさとら》の書《か》いた、『聚樂行幸記《じゆらくぎやうかうき》』に、
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五|色《しき》の地《ぢ》に、四|季《き》の花鳥《くわてう》を唐織《からおり》、浮織《うきおり》、りうもん縫《ぬひ》箔繪《はくゑ》にして、呉蜀紅《ごしよくこう》の綾羅《りようら》、錦繍《きんしう》、目《め》もあやなり、吉野山《よしのやま》の春《はる》の景色《けしき》、龍田川《たつたがは》の秋《あき》のよそほひも、いかゞと覺侍《おぼえはべ》り。
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と記《しる》したるにて、其《そ》の一|斑《ぱん》が想像《さうざう》せらるゝ。而《しか》して此《こ》の行幸《ぎやうかう》が、如何《いか》に、當時《たうじ》の人心《じんしん》に印象《いんしやう》を與《あた》へたるかは、左《さ》に掲《かゝ》ぐる『甫菴太閤記《ほあんたいかふき》』が之《これ》を證明《しようめい》して餘《あま》りありだ。
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五|畿《き》の近《ちか》きは固《もと》よりも、七つの道《みち》の遠《とほ》きより、貴賤老少《きせんらうせう》踵《きびす》を連《つら》ね、裳《もすそ》を重《かさ》ねて上《のぼ》りつどひつゝ、寔《まこと》に音《おと》にのみ聞侍《きゝはべ》りし御幸《みゆき》を、拜《をが》み奉《たてまつ》らんと、十三|日《にち》の暮《くれ》よりも、町屋《まちや》を頼《たの》み、鳳輦《ほうれん》に心《こゝろ》をうつし、待居《まちゐ》たるこそ久《ひさ》しけれ。げに天公《てんこう》も感應《かんおう》ましますにや、天晴上《あつぱれのぼ》る日影《ひかげ》も、一きは鮮《あざや》かなり。やう/\|伶人《れいじん》ほの見《み》え、管絃《くわんげん》の聲《こゑ》聞《きこ》えつゝ、殊勝《しゆしよう》さ、中々《なか/\》いはん方《かた》もなし。始《はじめ》の程《ほど》は、これかれの制法《せいはふ》など、云《いひ》かはす聲々《こゑ/″\》に物騷《ものさわ》がしう侍《はべ》りしが、いつとなく、靜《しづま》り反《かへつ》て、寒《さむ》き夜《よ》の霜《しも》をも聞《きゝ》つべうぞ覺《おぼ》えたる。左右《さいう》の前驅《ぜんく》過了《すぎをは》り、しばし程《ほど》へて、鳳輦《ほうれん》ゆるぎ出《いだ》させ給《たま》ひければ、見《み》る人《ひと》頭《かうべ》を地《ち》に付《つけ》、目《め》をそばめてぞ侍《はべ》りける。こしかたありつる、行幸《ぎやうかう》、御幸《みゆき》の記録《きろく》には、儲《まうけ》の御所《ごしよ》總門《そうもん》の外《そと》まで、時《とき》の主《あるじ》御迎《おむかひ》の規式《ぎしき》なりしが、關白殿《くわんぱくどの》は敬恭《けいきよう》を盡《つく》し、供奉《ぐぶ》し侍《はべ》られけり。
[#ここで字下げ終わり]
應仁以來《おうにんいらい》大亂《たいらん》打《う》ち續《つゞ》き、信長《のぶなが》に到《いた》りて、漸《やうや》く安寧《あんねい》、秩序《ちつじよ》の端緒《たんちよ》を啓《ひ》らき、今《いま》や吉祥《きつしやう》の天地《てんち》、瑞雲靉靆《ずゐうんあいたい》の裡《うち》に、此《かく》の如《ごと》き鳳輦《ほうれん》の渡御《とぎよ》を見《み》る。其《そ》の社會《しやくわい》に平和《へいわ》の福音《ふくいん》を宣傳《せんでん》する、豈《あ》に此《これ》より妙法《めうはふ》あらんやだ。而《しか》して此《こ》の四|海寧《かいねい》一の成功者《せいこうしや》たる秀吉《ひでよし》が、從來《じゆうらい》の記録《きろく》を破《やぶ》りて、至尊《しそん》を門前《もんぜん》に迎《むか》へ奉《たてまつ》らず、自《みづか》ら供奉《ぐぶ》の列《れつ》に加《くは》はり、恭敬《きようけい》を盡《つく》したるが如《ごと》き、從來《じゆうらい》武將《ぶしやう》とは、皇權《くわうけん》に立《た》ち入《い》り、皇室《くわうしつ》を閑却《かんきやく》するものと思《おも》はれたのが、今《いま》や却《かへつ》て此《こ》の通《とほ》りであれば、其《そ》の深甚《しんじん》、良好《りやうかう》の印象《いんしやう》を、衆庶《しゆうしよ》に與《あた》へたるは云《い》ふ迄《まで》もない事《こと》だ。而《しか》して又《ま》た斯《か》く秀吉《ひでよし》が、自《みづか》ら供奉《ぐぶ》したのは、單《たん》に恭敬《きようけい》の誠《まこと》を致《いた》すばかりでなく、亦《ま》た彼《かれ》の天下《てんか》に對《たい》して、其《そ》の赫灼《かくしやく》たる威勢《ゐせい》を示《しめ》すの、一|大廣告《だいくわうこく》であつた事《こと》は、故《ことさ》らに説明《せつめい》する迄《まで》もない。
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[#6字下げ]行幸御事始
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
關白太政大臣秀吉公そのとし微若の古より勇猛人にこえ、智計世にすぐれ御座まして、東夷をたいらげ西戎を伐てより、文武兼備へ、上をあふぎ下をあはれぶ。是によりて一天の風おさまり四海の波おだやかなり。去天正十年冬のはじめ、天氣を得、次第昇進して、忝も重職極官にいたる。時に、今上皇帝十六歳にして御位に即せ給ふ、百官巾子をかたぶけ、萬民掌を合せずといふ者なし。寔君臣合躰時を得たり・・・・延喜天暦の政にも又多く讓らず、爰において行幸有べしとて、聚樂と號して里第をかまへ。四方三千歩の石のつい垣山のごとし、樓門のかためは鐵にはしら、鐵の扉、瑤閣星を摘でたかく、瓊殿天に連て、そびえたり。甍のかざり瓦の縫めには、玉虎風にうそぶき、金龍雲に吟ず、儲の御所は檜皮葺也、御はしのまに御輿よせあり、庭上に舞臺左右の樂屋をたてらる。後宮の局/\に至迄、百工心をくだき、丹青手をつくす。その美麗あげていふべからず。抑そのかみの供奉いくたびといふことをしらず、此度は北山殿(義滿)應永(御小松)十五年、室町殿(義教)永享(後花園)九年の行幸の例とぞきこえける。鳳連牛車その外の諸役以下、事も久しくすたれたる事なれば、おほつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録故實など尋さぐり相勤らる。かゝる大功に財を惜むべきにあらず。昔の行幸に増倍して馳走すべしとて、諸役者に仰て即時に調進せしむ。大器は晩成と云ふことは故へなきに似たり。さて良辰をえらび、三月中旬と聞くが、當年は五月閏あるによりてや、三春嚴冬のごとくにして餘寒ことに甚し、されば四月十四日までさしのべらる。その日になりぬれば、殿下とく參り給て奉行職事をめして、尅限午時以前のよしいそがせ給ふ。かねてよりみな設けの御所の御氣色をうかゞふによりて、衞府の倫弓箭をたいし、上達部以下まいりつどふ。御殿御留守の事など、たれたれと仰さだめらる。〔聚樂第行幸記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【九三】皇室と公家に對する誠意[#中見出し終わり]

鳳連《ほうれん》の御車寄《みくるまよせ》に著《ちやく》するや、右大臣《うだいじん》菊亭晴季《きくていはるすゑ》は、御車《みくるま》の簾《みす》を掲《かゝ》げ、下車《げしや》し參《まゐ》らせ、萬里小路頭辯充房《までのこうぢとうべんみつふさ》は、御裾《おんすそ》を取《と》り、内《うち》へ導《みちび》き奉《たてまつ》つた。秀吉《ひでよし》も四|脚門《きやくもん》より、設《まうけ》の座《ざ》に入《い》り、先《ま》づ御前《ごぜん》に罷《まか》り出《い》でゝ|御氣色《みけしき》を伺《うかゞ》ひ奉《たてまつ》りて退出《たいしゆつ》した。陛下《へいか》には御殿《ごてん》の裝束《しやうぞく》を改《あらた》め給《たま》ひ、秀吉《ひでよし》亦《ま》た參候《さんこう》して、著座《ちやくざ》の儀式《ぎしき》となつた。此《こ》れより御配膳《ごはいぜん》の人《ひと》を定《さだ》め、饗宴《きやうえん》が始《はじま》つた。初献《しよこん》の御土器《おんかはらけ》より、御氣色《みけしき》麗《うる》はしく、三|献《こん》には、秀吉《ひでよし》に天酌《てんしやく》にて天盃《てんぱい》を賜《たま》うた。五|献《こん》に及《およ》んで、秀吉《ひでよし》より盆香合《ぼんかうがふ》、七|献《こん》には御劍《ぎよけん》を奉進《ほうしん》した。御肴《おんさかな》には菓物《くだもの》、羹《あつもの》、金銀《きんぎん》の造花《つくりばな》、折臺《をりだい》には蓬莱島《ほうらいじま》に鶴龜《つるかめ》、松竹等《まつたけなど》を配《はい》し、何《いづ》れも目《め》を眩《げん》ずるばかりであつた。
御酒宴《ごしゆえん》畢《をは》りて、西表《にしおもて》の御几帳《おんきちやう》を掲《かゝ》ぐれば、若葉《わかば》、青葉《あをば》、新緑《しんりよく》の裡《うち》に、殘櫻《ざんあう》、杜鵑花等《つゝじなど》點綴《てんけい》し、老鶯《らうあう》樹間《じゆかん》に啼《な》き、池汀《ちてい》杜若《かきつばた》、山吹《やまぶき》咲《さ》き亂《みだ》れ、青柳《あをやぎ》の絲《いと》は、徐《おもむ》ろに薫風《くんぷう》に櫛《くしけづ》られ、夜《よ》に入《い》れば、月《つき》は音羽《おとは》の山《やま》の梢《こずゑ》より、溢《こぼ》れかゝる樣《さま》、雲間《くもま》より出《いで》て、至尊《しそん》にも此《こ》の良夜《りやうや》を如何《いか》にせんとの思召《おぼしめし》であつた。此《こゝ》に於《おい》て、御氣色《みけしき》を伺《うかゞ》ひ、夜遊《やいう》の管絃《くわんげん》は催《もよほ》された。
一|番《ばん》五|常樂《じやうがく》、二|番《ばん》郢曲《えいきよく》、三|番《ばん》太平樂《たいへいがく》で箏《さう》、琵琶《びは》、笙《しやう》、笛《ふゑ》、郢曲《えいきよく》奏《そう》せられた。陛下《へいか》には、自《みづか》ら箏《さう》を彈《だん》じ給《たま》ひ、四|辻前大納言《つじさきのだいなごん》、持明院中納言《ぢみやうゐんちうなごん》、五|辻左馬頭等《つじさまのかみら》、
[#2字下げ]徳是北辰椿葉陰二改[#「二改」は1段階小さな文字] 尊尚南面松花色十回[#「十回」は1段階小さな文字]
を繰《く》り返《かへ》し朗詠《らうえい》した。斯《か》くて月光《げつくわう》愈《いよい》よ晴《は》れ渡《わた》り、曲《きよく》終《をはり》宴《えん》止《やみ》て、逸興《いつきよう》湧《わ》くが如《ごと》く、龍顏《りゆうがん》殊《こと》の外《ほか》、目出度《めでた》く、夜更《よふ》けて、漸《やうや》く寢殿《しんでん》に入《い》らせ給《たま》うた。
本來《ほんらい》此《こ》の行幸《ぎやうかう》は、三|日間《かかん》の豫定《よてい》であつたが、斯《か》く迄《まで》叡慮《えいりよ》に適《かな》うたれば、五|日《か》に延長《えんちやう》し給《たま》ふことゝなつた。此《こ》れは秀吉《ひでよし》に取《と》りては、意外《いぐわい》と云《い》はん乎《か》、意中《いちう》と云《い》はん乎《か》。何《いづ》れにせよ、寔《まこと》に大成功《だいせいこう》であつた。
第《だい》二|日《にち》には、秀吉《ひでよし》は朝廷《てうてい》の御料《ごれう》として、洛中《らくちう》の地子《ぢし》を悉《こと/″\》く末代迄《まつだいまで》、献上《けんじやう》することゝした。
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就[#二]今度聚樂行幸[#一]《このたびじゆらくぎやうかうにつき》、京中銀子地子《きやうちうぎんすぢし》五千五百三十|兩《りやう》、爲[#二]禁裡御料所[#一]奉[#二]進上[#一レ]之《きんりごれうしよとしてこれをしんじやうたてまつる》、并[#「并」は1段階小さな文字]|米地子《こめぢし》八百|石《こく》、内《うち》三百|石院御所《こくゐんごしよ》え[#「え」は1段階小さな文字]進[#二]上[#一レ]之《これをしんじやうし》、五百|石爲[#二]關白[#一]《こくくわんぱくのため》六|宮《のみや》え[#「え」は1段階小さな文字]進[#レ]之《これをすすめ》、洛中地子米銀子不[#レ]殘奉[#二]進献[#一レ]之了《らくちうぢしまいぎんすのこらずこれをしんけんしたてまつる》。次諸公家諸門跡於[#二]近江高島郡[#一]《つぎにしよくげしよもんぜきあふみのくにたかしまごほりにおいて》八千|石《ごく》、以[#二]別紙之朱印[#一]令[#二]分配[#一レ]《べつしのしゆいんをもつてこれをぶんぱいせしむ》。自然於[#下]無[#二]奉公[#一]輩[#上]者《しぜんほうこうなきやからにおいては》、爲[#二]叡慮[#一]被[#二]相計[#一レ]之《えいりよのためこれをあひはからはれ》、可[#レ]被[#三]仰付[#二]忠勤之族[#一]之状如[#レ]件《ちうきんのやからにおほせつけらるべきのじやうくだんのごとし》。
  天正十六年四月十五日[#地から3字上げ]秀   吉
   菊   亭殿
   勸 修 寺殿
   中   山殿
[#ここで字下げ終わり]
此《これ》は秀吉《ひでよし》が皇室《くわうしつ》、及《および》公家《くげ》に對《たい》する物質的《ぶつしつてき》、即《すなは》ち具體的《ぐたいてき》誠意《せいい》の表現《へうげん》であつた。
從來《じゆうらい》の御料《ごれう》は、信長《のぶなが》の規定通《きていどほ》りであつたが、此《こ》れより京中《きやうちう》の地子銀《ぢしぎん》五千五百三十|兩《りやう》を、御料《ごれう》に充《あ》て、米地子《こめぢし》三百|石《こく》を正親町院御所《あふぎまちゐんごしよ》、五百|石《こく》を、六|宮知仁親王《のみやともひとしんわう》に差上《さしあ》げる※[#「こと」の合字、483-9]とした。又《ま》た江州高島郡《がうしうたかしまごほり》の八千|石《ごく》を、大覺寺門跡《だいがくじもんぜき》とか、青蓮院門跡《じやうれんゐんもんぜき》とかの諸門跡《しよもんぜき》、及《およ》び公家《くげ》一|般《ぱん》に分配《ぶんぱい》した。是《こ》れ實《じつ》に秀吉《ひでよし》が、皇室《くわうしつ》を圍繞《ゐねう》する團體《だんたい》の感情《かんじやう》を、緩和《くわんわ》する所以《ゆゑん》の手段《しゆだん》であつた。此《こ》の書付《かきつけ》の名當《なあて》の菊亭晴季《きくていはるすゑ》、勸修寺晴豐《ごんしうじはるとよ》、中山親綱《なかやまちかつな》は、何《いづ》れも傳奏《でんそう》であつた。
公家《くげ》は門閥《もんばつ》の權化《ごんげ》である、格式《かくしき》の權化《ごんげ》である、舊典故範《きうてんこはん》の權化《ごんげ》である。秀吉《ひでよし》如何《いか》に天下《てんか》の大豪傑《だいがうけつ》でも、本來《ほんらい》一|匹夫《ひつぷ》であつた。然《しか》るに彼《かれ》が近衞《このゑ》、二|條等《でうら》の攝家《せつけ》を踰《こ》えて、一|躍《やく》、關白太政大臣《くわんぱくだじやうだいじん》となつたのは、其《そ》の競爭者《きやうさうしや》とも云《い》ふ可《べ》き、即《すなは》ち秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、關白《くわんぱく》を辭《じ》するを餘儀《よぎ》なくせられたる二|條昭實《でうあきざね》や、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、其《そ》の進路《しんろ》を塞《ふさ》がれたる近衞信輔等《このゑのぶすけら》のみならず、一|般公家仲間《ぱんくげなかま》に、片腹痛《かたはらいた》く、苦々敷《にが/\しく》思《おも》ふ事《こと》、多《おほ》かつたに相違《さうゐ》あるまい。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が、懷柔政策《くわいじうせいさく》を以《もつ》てしても、此《こ》の先天的《せんてんてき》公家《くげ》の憎疾《ぞうしつ》、反抗《はんかう》を一|掃《さう》するのは、頗《すこぶ》る困難《こんなん》であつたに相違《さうゐ》あるまい。
但《た》だ當時《たうじ》の公家《くげ》は、貧乏《びんばふ》であつた。彼等《かれら》は外出《ぐわいしゆつ》するに差支《さしつかへ》ある程《ほど》、其《そ》の衣裳《いしやう》さへも不足《ふそく》した。亂世《らんせい》の際《さい》には、高等食客《かうとうしよくかく》として、若《も》しくは高等乞食《かうとうこじき》として、群雄《ぐんゆう》に頼《たよ》る便宜《べんぎ》も多《おほ》かつたが、天下統《てんかとう》一の後《のち》に於《おい》ては、それ程《ほど》の事《こと》も、出來《でき》なかつた。秀吉《ひでよし》は乃《すなは》ち此《こ》の究所《きうしよ》を握《にぎ》りて、公家《くげ》の感情《かんじやう》を緩和《くわんわ》す可《べ》く勗《つと》めた。彼《かれ》は全《まつた》く成功《せいこう》したとは云《い》へぬ、されど若干《じやくかん》の成功《せいこう》をしたには、相違《さうゐ》あるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【九四】大名御前に誓ふ[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は、聚樂第行幸《じゆらくていぎやうかう》を機《き》として、朝廷《てうてい》、及《およ》び公家《くげ》と密邇《みつじ》し、緩和《くわんわ》したるのみならず、又《ま》た全國《ぜんこく》の大名《だいみやう》を結束《けつそく》して、我《われ》に忠順《ちうじゆん》を誓《ちか》はしめた。此《こ》れは表面《へうめん》行幸《ぎやうかう》の副産物《ふくさんぶつ》であるが、其《そ》の實際《じつさい》は、主産物《しゆさんぶつ》と云《い》ふ可《べ》しだ。彼《かれ》は如何《いか》なる辭柄《じへい》を設《まう》けて、此《こ》の目的《もくてき》を達《たつ》したのであらう乎《か》。そは楠長諳《くすのきちやうあん》の『聚樂行幸記《じゆらくぎやうかうき》』が詳悉《しやうしつ》して居《ゐ》る。此《こ》れは特《とく》に秀吉《ひでよし》の命《めい》を受《う》けて編《へん》したるものなれば、最《もつと》も信《しん》を措《お》くに足《た》りる。
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殿下《でんか》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]つら/\|行末《ゆくすゑ》の事《こと》など工夫《くふう》ましますに、只今《たゞいま》雲上《うんじやう》になしおかるゝ|人々《ひと/″\》は、皆《みな》殿下《でんか》の恩惠《おんけい》淺《あさ》からず、掛卷《かけま》くも忝《かたじけ》なき殿上《でんじやう》の交《まじはり》をゆるされ、此《こ》の行幸《ぎやうかう》に逢《あ》ひ奉《たてまつ》るものかなと、感悦《かんえつ》する輩也《やからなり》。子々孫々《しゝそん/″\》に至《いた》つては、若《もし》この薫徳《くんとく》を忘《わす》れ、無道《ぶだう》の事《こと》もやあらんと思召《おぼしめ》して、新《あら》たに昇殿《しやうでん》有《あり》し人々《ひと/″\》、尾州《びしう》の内府《ないふ》(信雄)[#「(信雄)」は1段階小さな文字]駿州《すんしう》の大納言《だいなごん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]を始《はじ》め、皆《み》な禁忠《きんちう》へ對《たい》し奉《たてまつ》り、誓紙《せいし》をしてあげらるゝに於《おい》ては、悦《よろこび》おぼしめさるべき由也《よしなり》。
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち現在《げんざい》月卿雲客《げつけいうんかく》に擢《ぬきん》でられたる人々《ひと/″\》の、報謝戴恩《はうしやたいおん》の至誠《しせい》は、勿論《もちろん》であるが、その子孫《しそん》の末《すゑ》には、如何《いか》なる者《もの》出《い》で來《きた》る可《べ》き。されば今日《こんにち》誓紙《せいし》を上《たてまつ》りて、萬代不易《ばんだいふえき》の保障《ほしやう》を致《いた》し置《お》かば、如何《いか》に上《かみ》は宸襟《しんきん》を安《やすん》じ奉《たてまつ》り、下《しも》は秀吉《ひでよし》の滿足《まんぞく》たる可《べ》きと云《い》ふ意味《いみ》だ。
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そのかみ皆《みな》人《ひと》の遺言《ゆゑごん》をなす事《こと》、その末期《まつご》にのぞみて、領地《りやうち》財寶《ざいはう》をゆづる事《こと》のみ也《なり》。我世《わがよ》盛《さか》んなるをりに、領地《りやうち》財寶《ざいはう》を具《そな》へまゐらするこそ、誠《まこと》の心《こゝろ》ざしにてあらめやと宣《のたま》ふをきゝて、滿座《まんざ》感涙《かんるゐ》を催《もよ》ほし侍《はべ》りぬ。
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從來《じゆうらい》人《ひと》は其《そ》の死際《しにぎは》に於《おい》て、領地《れうち》、財寶《ざいはう》を讓《ゆづ》るの遺言《ゆゐごん》をなすものである。然《しか》も秀吉《ひでよし》は其《そ》の盛時《せいじ》に於《おい》て、料地《れうち》、財寶《ざいはう》を献《さゝ》げ參《まゐ》らするを以《もつ》て、誠心《せいしん》の發揮《はつき》であると思《おも》ふのだ。斯《か》く秀吉《ひでよし》が云《い》うたから、何《いづ》れも感涙《かんるゐ》を催《もよほ》して、我等《われら》も此《こ》の盛時《せいじ》に於《おい》て、百|歳《さい》の後《のち》を謀《はか》り、誠心《せいしん》を献《さゝ》ぐ可《べ》しと云《い》ふ氣《き》になつたと云《い》ふことである。
惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》の憂《うれひ》としたる所《ところ》は、信雄《のぶを》、家康《いへやす》の百|世子孫《せいしそん》の事《こと》でなく、信雄《のぶを》、家康《いへやす》當人等《たうにんら》の事《こと》であつた。而《しか》して其《そ》の忠順《ちうじゆん》を要催《えうさい》したるは、朝廷《てうてい》に對《たい》してよりも、秀吉《ひでよし》に對《たい》してゞあつた。然《しか》も流石《さすが》に秀吉《ひでよし》は、他《た》を綵撫《すゐぶ》するの術《じゆつ》を解《かい》した。如上《じよじやう》の理由《りいう》を以《もつ》て臨《のぞ》めば、何人《なんびと》も誓詞《せいし》を上《たてまつ》らざるを得《え》ない譯《わけ》だ。
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各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》尤《もつとも》とて、則《すなはち》誓詞《せいし》を書《かゝ》せ給《たま》ふ。其《そ》の詞《ことば》に云《いふ》。
一 就[#二]今度聚樂第行幸[#一]被[#二]仰出[#一]之趣《このたびじゆらくていぎやうかうにつきおほせいださるゝのおもむき》、誠以難[#レ]有催[#二]感涙[#一]事《まことにもつてありがたくかんるゐをもよほすこと》。
一 禁裡御料所地子以下《きんりごれうしよぢしいか》、並[#「並」は1段階小さな文字]|公家門跡衆所々知行等《くげもんぜきしゆうしよ/\ちぎやうとう》、若無道之族《もしぶだうのやから》、於[#レ]有[#レ]之者《これあるにおいては》、爲[#レ]各堅加[#二]意見[#一]《おの/\のためかたくいけんをくはへ》、當分之儀不[#レ]及[#レ]申《たうぶんのぎはまをすにおよばず》、子々孫々無[#二]異儀[#一]之樣《しゝそん/″\いぎなきのやう》、可[#二]申置[#一]事《まをしおくべきこと》。
一 關白殿被[#二]仰聽[#一]之趣《くわんぱくどのおほせきけらるゝのおもむき》、於[#二]何篇[#一]聊不[#レ]可[#レ]申[#二]違背[#一]事《なんべんにてもいさゝかゐはいまをすべからざること》。
右之條々《みぎのでう/\》、若雖[#レ]爲[#二]一事[#一]《もしいちじたりといへども》、於[#レ]令[#二]違背[#一]者《ゐはいせしむるにおいては》、梵天帝釋四大天王《ぼんてんたいしやくしだいてんわう》、惣日本國中《そうじてにつぽんこくちう》六十|餘州大小神祇《よしうだいせうしんぎ》、殊王城鎭守《ことにわうじやうちんじゆ》、別氏神春日大明神《べつしてはうぢがみかすがだいみやうじん》、八|幡大菩薩《まんだいぼさつ》、天滿大自在天神《てんまだいじざいてんじん》、部類眷屬《ぶるゐけんぞく》、神罰冥罰《しんばつみやうばつ》、各可[#二]罷蒙[#一]者也《おの/\まかりかうむるべきものなり》。仍起請如[#レ]件《よつてきしやうくだんのごとし》。
  天正十六年四月十五|日[#地から3字上げ]右近衞勸少將 豐臣利家
[#地から3字上げ]參議左近衞中將 豐臣秀家
[#地から3字上げ]勸 中 納 言 豐臣秀次
[#地から3字上げ]勸 大 納 言 豐臣秀長
[#地から3字上げ]大  納  言 源 家康
[#地から3字上げ]内  大  臣 平 信雄
  金  吾殿
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此《こ》の通《とほ》りに、彼等《かれら》は天皇《てんわう》の御前《ごぜん》にて、起請《きしやう》をした、寔《まこと》に曠代《くわうだい》の盛事《せいじ》である。
惟《おも》ふに此《こ》の誓紙《せいし》の眼目《がんもく》は、『關白殿被[#二]仰聽[#一]之趣《くわんぱくどのおほせきけらるゝのおもむき》、於[#二]何篇[#一]聊不[#レ]可[#レ]申[#二]違背[#一]事《なんべんにてもいさゝかゐはいまをすべからざること》。』の一|節《せつ》だ。秀吉《ひでよし》は只《た》だ此《こ》の一|節《せつ》の誓紙《せいし》の爲《た》めに、種々《しゆ/″\》の方便《はうべん》を取《と》つたのだ。皮肉《ひにく》に云《い》へば、彼《かれ》は皇室《くわうしつ》への地子銀《ぢしぎん》、地子米《ぢしまい》を奉納《ほうなふ》して、却《かへつ》て天下《てんか》の梟雄《けうゆう》の服從《ふくじゆう》を贏《か》ち得《え》たのだ。即《すなは》ち此《こ》の誓紙《せいし》は、朝廷《てうてい》への保障《ほしやう》と云《い》ふよりも、寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》への保障《ほしやう》であつた。
然《しか》も秀吉《ひでよし》は、固《もと》より皇室《くわうしつ》への忠順《ちうじゆん》を、閑却《かんきやく》したのではない。されど群雄《ぐんゆう》既《すで》に秀吉《ひでよし》に忠順《ちうじゆん》なれば、秀吉《ひでよし》が群雄《ぐんゆう》を率《ひき》ゐて、皇室《くわうしつ》に忠順《ちうじゆん》なるは、論《ろん》を俟《ま》たぬ。但《た》だ信雄《のぶを》は先君《せんくん》の子《こ》である、家康《いへやす》も從前《じゆうぜん》は高級《かうきふ》の大名《だいみやう》であつた。利家《としいへ》、其他《そのた》の諸將《しよしやう》にも、傍輩《はうばい》、同列《どうれつ》の徒《と》少《すくな》からなかつた。斯《かゝ》る場合《ばあひ》に於《おい》て、彼等《かれら》を一|齊《せい》に秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、膝《ひざ》を屈《くつ》し、頭《かしら》を叩《たゝ》かしむるは、只《た》だ皇室《くわうしつ》忠順《ちうじゆん》の大義名分《たいぎめいぶん》より他《た》に良法《りやうはふ》はないのだ。即《すなは》ち皇室《くわうしつ》忠順《ちうじゆん》は皮《かは》にて、秀吉《ひでよし》忠順《ちうじゆん》は餡《あん》だ。言葉《ことば》は彼《かれ》にありて、意味《いみ》は此《これ》にありだ。
秀吉《ひでよし》が皇室《くわうしつ》を挾《はさ》んで、天下《てんか》に令《れい》したを以《もつ》て、漫《みだ》りに霸者《はしや》の仕業《しわざ》と咎《とが》むる勿《なか》れ。天下《てんか》何人《なんびと》か沒自我《ぼつじが》の英雄《えいゆう》あらんや。但《た》だ大義名分《たいぎめいぶん》を辯《べん》じ、自《みづか》ら皇室《くわうしつ》の第《だい》一|忠順《ちうじゆん》の臣《しん》として、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》に向《むか》つて、己《おのれ》に忠順《ちうじゆん》なるを要催《えうさい》したる秀吉《ひでよし》は、寧《むし》ろ遠《とほ》くは頼朝《よりとも》に比《ひ》し、近《ちか》くは家康《いへやす》に比《ひ》して、純臣《じゆんしん》に庶幾《ちか》しと云《い》はねばならぬ。
同時《どうじ》に侍從《じじゆう》少將等《せうしやうら》の織田信兼《おだのぶかね》、豐臣秀勝《とよとみひでかつ》、豐臣秀康《とよとみひでやす》、里見義康《さとみよしやす》、長谷川秀一《はせがはひでかず》、堀秀政《ほりひでまさ》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、細川忠興《ほそかはたゞおき》、三吉信秀《みよしのぶひで》、毛利秀頼《まうりひでより》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》、前田利長《まへだとしなが》、丹羽長重《にはながしげ》、織田長益《おだながます》、池田輝政《いけだてるまさ》、稻葉貞通《いなばさだみち》、大友義統《おほともよしむね》、筒井定次《つゝゐさだつぐ》、森忠政《もりたゞまさ》、井伊直政《ゐいなほまさ》、京極高次《きやうごくたかつぐ》、木下勝俊《きのしたかつとし》、長曾我部元親等《ちやうそかべもとちから》廿三|人《にん》の、連署《れんしよ》にて、上記《じやうき》同樣《どうやう》の誓詞《せいし》を差《さ》し出《いだ》した。此《こ》の中《なか》には一|人《にん》も、秀吉《ひでよし》譜第《ふだい》の徒《と》はなかつた。そは當時《たうじ》彼等《かれら》の總《すべ》てが、何《いづ》れも五|位《ゐ》諸大夫《しよだいふ》の上《うへ》に出《い》でなかつたからだ。乃《すなは》ち此《こ》の誓紙《せいし》に關係《くわんけい》したものは、外樣《とざま》の大名《だいみやう》、及《およ》び秀吉《ひでよし》の一|族《ぞく》のみであつた。但《た》だ此中《このなか》に家康《いへやす》の臣《しん》、井伊直政《ゐいなほまさ》が加《くは》はり居《を》るを以《もつ》て、不思議《ふしぎ》に思《おも》ふものもあるが、井伊《ゐい》は當時《たうじ》侍從《じじゆう》で、行幸《ぎやうかう》に陪《ばい》した一|人《にん》であつたからだ。而《しか》して當名《あてな》の金吾殿《きんごどの》とあるは、他日《たじつ》小早川隆景《こばやかはたかかげ》の養嗣子《やうしし》となりたる、金吾中納言秀秋《きんごちうなごんひであき》だ。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》の弟《おとうと》、木下家定《きのしたいへさだ》の五|男《なん》で、襁褓《むつぎ》の中《うち》より彼女《かれ》に養《やしな》はれ、從《したが》つて秀吉《ひでよし》に子《こ》として愛《あい》せられ、秀次《ひでつぐ》の弟分《おとうとぶん》としてあつた。即《すなは》ち彼《かれ》は秀吉《ひでよし》を代表《だいへう》する、謂《い》はゞ|豐臣合名會社《とよとみがふめいくわいしや》の代表社員《だいへうしやゐん》であつたのだ。

[#5字下げ][#中見出し]【九五】和歌の御會[#中見出し終わり]

豫定《よてい》によれば、十五|日《にち》は和歌《わか》の御會《ぎよくわい》催《もよほ》さる可《べ》きであつたが、御逗留《ごとうりう》日取《ひどり》延長《えんちやう》の爲《た》めに、十六|日《にち》に延《の》ばされたれば、十五|日《にち》起請文《きしやうもん》提出《ていしゆつ》の濟《す》みたる後《のち》は、聚樂《じゆらく》殿上《でんじやう》の光景《くわうけい》は、極《きは》めて悠長《いうちやう》に、落著《おちつ》いて來《き》た。秀吉《ひでよし》は諸務《しよむ》を沙汰《さた》して、午後《ごご》四|時頃《じごろ》殿上《でんじやう》に罷《まか》り出《い》で、献上物《けんじやうもの》をした。
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一 御手本《おてほん》、宋人張即之筆跡《そうじんちやうそくのひつせき》千|字文《じもん》、金《きん》の折枝《をりえ》に附《つ》けて。
一 御繪《おんゑ》、三|幅《ぷく》一|對《つゐ》。
一 沈香《ぢんかう》百|斤《きん》、方《はう》五|尺餘《しやくよ》の臺《だい》に、紅《くれなゐ》の絲《いと》をもて、網《あみ》をかけ、六|人《にん》して舁《かつ》ぎて參《まゐ》る。
[#ここで字下げ終わり]
此外《このほか》攝家《せつけ》、御門跡《ごもんぜき》、清華《せいくわ》、雲客《うんかく》に至《いた》る迄《まで》、それ/″\|引出物《ひきでもの》をした。先《ま》づ伏見殿《ふしみでん》、九|條《でう》、一|條《でう》、二|條《でう》、近衞等《このゑら》の諸攝家《しよせつけ》、菊亭晴季《きくていはるすゑ》、織田信雄《おだのぶを》、徳大寺前内大臣等《とくだいじさきのないだいじんら》には、繪《ゑ》二|幅《ふく》、虎皮《とらのかは》一|枚《まい》、堆朱盆《つゐしゆぼん》一、小袖《こそで》三|重《かさね》、太刀《たち》一|腰宛《こしづゝ》を、領地《りやうち》分與《ぶんよ》の折紙《をりがみ》を副《そ》へてへて頒《わか》つた。されば秀吉《ひでよし》退去《たいきよ》の後《のち》は、何《いづ》れも大滿足《おほまんぞく》にて、酒杯《しゆはい》を重《かさ》ね、夜《よ》に入《い》り歡《くわん》を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》した。
三|日目《かめ》即《すなは》ち十六|日《にち》は、愈《いよい》よ和歌《わか》御會《ぎよくわい》の日《ひ》となつた。
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朝《あさ》けより、日《ひ》の色《いろ》かきくもり、雨《あめ》にやならんといふよりも、はや一つ二つこぼれ落《お》ち、しめやかに降《ふ》り出《い》で、檜皮《ひはだ》の軒《のち》をつたふ玉水《たまみづ》の音《おと》、昨日《きのふ》の琴筑《きんちく》のひゞきを殘《のこ》すかとおぼしめされて、物靜《ものしづ》かなり。〔聚樂第行幸記〕[#「〔聚樂第行幸記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
斯《かゝ》る天氣模樣《てんきもやう》にて、斯《かゝ》る會合《くわいがふ》には、尤《もつと》も殊勝《しゆしよう》であつた。懷紙《くわいし》は廿八|番《ばん》で、下※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《げらふ》よりおかれた。一|番《ばん》大和大納言《やまとだいなごん》(豐臣秀長)[#「(豐臣秀長)」は1段階小さな文字]、二|番《ばん》駿河大納言《するがだいなごん》(徳川家康)[#「(徳川家康)」は1段階小さな文字]、三|番《ばん》鷹司右大將《たかつかさうだいしやう》、四|番《ばん》久我大納言《こがだいなごん》、五|番《ばん》日野大納言《ひのだいなごん》、六|番《ばん》烏丸大納言《からすまるだいなごん》、七|番《ばん》中山大納言《なかやまだいなごん》、八|番《ばん》大炊御門大納言《おほゐみかどだいなごん》、九|番《ばん》勸修寺大納言《ごんしうじだいなごん》、十|番《ばん》西園寺左大將《さいをんじさだいしやう》、十一|番《ばん》四|辻大納言《つじだいなごん》、十二|番《ばん》飛鳥井前大納言《あすかゐさきのだいなごん》、十三|番《ばん》尾州右府《びしううふ》(織田信雄)[#「(織田信雄)」は1段階小さな文字]、十四|番《ばん》徳大寺前内大臣《とくだいじさきのないだいじん》、十五|番《ばん》菊亭右府《きくていうふ》、十六|番《ばん》近衞左府《このゑさふ》、十七|番《ばん》梶井宮《かぢゐのみや》、十八|番《ばん》妙法院宮《めうほふゐんのみや》、十九|番《ばん》二|條前關白《でうさきのくわんぱく》、二十|番《ばん》青蓮院宮《じやうれんゐんのみや》、廿一|番《ばん》一|條准后《でうじゆんごう》、廿二|番《ばん》九|條准后《でうじゆんごう》、廿三|番《ばん》聖護院准后《しやうごゐんじゆんごう》、廿四|番《ばん》仁和寺宮《にんなじのみや》、廿五|番《ばん》伏見殿《ふしみでん》、廿六|番《ばん》室町准公《むろまちじゆんごう》、廿七|番《ばん》六|宮《のみや》。廿八|番《ばん》は即《すなは》ち秀吉《ひでよし》彼自身《かれじしん》であつた。
主上《しゆじやう》の御懷紙《ごくわいし》は、異臺《ことだい》に奉置《ほうち》し、又《ま》た中納言《ちうなごん》參議以下《さんぎいか》の懐紙《くわいし》も、別《べつ》に取《と》り集《あつ》めて重《かさ》ね措《お》かれた。此《こ》れは餘《あま》りに多《おほ》くして、披講《ひかう》し難《がた》き爲《た》めであつた。座配《ざはい》に就《つい》ては、去《さ》る天正《てんしやう》十三|年《ねん》七|月《ぐわつ》、親王《しんわう》、准后《じゆんごう》は、交互《かうご》に隔座《かくざ》の由《よし》定《さだ》め置《お》かれたれば、それに準《じゆん》じた。又《ま》た織田信雄《おだのぶを》、徳川家康《とくがはいへやす》、豐臣秀長《とよとみひでなが》、同秀次《どうひでつぐ》、宇喜田秀家《うきたひでいへ》は、精華《せいくわ》たる可《べ》き勅裁《ちよくさい》にて、御相伴《おしやうばん》に召《め》された。當日《たうじつ》は、九|献《こん》の用意《ようい》がしてあつたが、餘《あま》りに長座《ちやうざ》になればとて、七|献《こん》とした。献々《こん/\》の間《あひだ》に、秀吉《ひでよし》の奉進物《ほうしんもつ》は、黄金《わうごん》百|兩《りやう》、金襴《きんらん》二十|卷《まき》、麝香臍《じやかうのほぞ》二十|斤《きん》、御小袖《おこそで》百、黄金《わうごん》建盞《けんさん》を黄金《わうごん》の臺《だい》に据《す》ゑ、銀盆《ぎんぼん》に載《の》せたるもの、及《およ》び御馬《おうま》十|疋《ぴき》であつた。
やがて披講《ひかう》は始《はじ》まつた。奉行《ぶぎやう》、題者《だいしや》、讀者《とうし》、發聲《はつしやう》、それ/″\の役目《やくめ》は定《さだ》まつた。御製讀師《ぎよせいとうし》は、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら之《これ》を勤《つと》めた。御製《ぎよせい》は大高檀紙《おほたかだんし》に、そのまゝ三|行《ぎやう》三|字《じ》の宸筆《しんぴつ》を染《そ》め給《たま》うた。御題《ぎよだい》は『詠寄松祝《まつによするのいはひをえいず》』にて、
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わきてけふ待《まつ》かひあれや松《まつ》が枝《え》の、世々《よゝ》の契《ちぎり》をかけて見《み》せつゝ。
[#ここで字下げ終わり]
而《しか》して秀吉《ひでよし》のは、「夏日待[#二]行幸聚樂第[#一]《かじつぎやうかうにじゆらくていにじし》、同詠[#二]寄松祝[#一]《おなじくまつによするいはひをえいず》』にて、
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萬代《よろずよ》の君《きみ》が御幸《みゆき》になれなれん、みどり木高《こだか》き軒《のき》のたま松《まつ》。
[#ここで字下げ終わり]
又《ま》た徳川家康《とくがはいへやす》のは、同題《どうだい》にて、
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緑《みどり》たつ松《まつ》の葉《は》ごとに此君《このきみ》の、千《ち》とせの數《かず》を契《ちぎ》りてぞ見《み》る。
[#ここで字下げ終わり]
とある。此《こ》れは勿論《もちろん》代作《だいさく》であらう。
其《そ》の他《た》、侍從連《じじゆうれん》の武將中《ぶしやうちう》には、本色《ほんしよく》の歌人《かじん》たる、細川忠興《ほそかはたゞおき》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》の如《ごと》きあれば、又《ま》た臨時《りんじ》の歌人《かじん》も、數《かず》多《おほ》かつたであらう。總計《そうけい》九十七|人《にん》の披講《ひかう》が濟《す》んで、主上《しゆじやう》は入御《じゆぎよ》ましました。それより御膳《おぜん》が出《い》で、又《ま》た今夜《こんや》も、御酒宴《ごしゆえん》夜半《やはん》に及《およ》んだ。實《じつ》に昇平《しようへい》の氣象《きしやう》は、此《こ》の君臣和樂《くんしんわらく》の中《うち》に、靉靆《あいたい》たらしめた。

[#5字下げ][#中見出し]【九六】秀吉の一大功徳[#中見出し終わり]

行幸《ぎやうかう》四|日目《かめ》、即《すなは》ち四|月《ぐわつ》十七|日《にち》は、舞《まひ》御覽日《ごらんび》であつた。萬歳樂《ばんざいらく》、延喜樂《えんぎらく》、太平樂《たいへいらく》、狛桙《こまほこ》、陵王《りようわう》、納蘇利《なつそり》、採桑老《さいさうらう》、古鳥蘇《ことりそ》、還城樂《げんじやうらく》、拔頭等《ばとうなど》、一|番《ばん》より十|番迄《ばんまで》であつた。樂奉行《がくぶぎやう》は四|辻大納言《つじだいなごん》で、左右樂屋《さいうがくや》に、五|間《けん》の幕《まく》を張《は》り、樂屋《がくや》の前《まへ》に大太鼓《おほだいこ》あり、羯鼓《かつこ》、笙《しやう》、笛《ふえ》、篳篥等《ひちりきなど》、調子《てうし》を取《と》つて、先《ま》づ亂聲《らんじやう》を吹《ふ》き、振桙《えんぶ》を始《はじめ》てより萬歳樂《ばんざいらく》に移《うつ》つた。伶人《れいじん》の裝束《しやうぞく》は、赤地紋紗袍唐錦《あかぢもんしやはうからにしき》、袴《はかま》はあかぢの金襴打掛《きんらんうちかけ》にて、鷄冠《けいくわん》を被《かぶ》り、石帶《しやくたい》を纒《まと》ひ、糸鞋《いとわらじ》を著《つ》け、其《そ》の美麗《びれい》云《い》ふ計《ばか》りもなかつた。採桑老《さいさうらう》は、天王寺《てんのうじ》の伶人《れいじん》之《これ》を舞《ま》ひ、其《そ》の服《ふく》は、御賜《おんし》の白衣《びやくえ》であつた。而《しか》して其面《そのめん》、鳩杖《はとのつえ》、笛等《ふえとう》は、皆《み》な恩貸《おんたい》の御物《ぎよぶつ》であつた。
舞樂《ぶがく》畢《をは》り、御座《ぎよざ》を改《あらた》め給《たま》うて、酒宴《しゆえん》となつた。七|献《こん》過《すぎ》て、金吾秀秋《きんごひであき》侍從《じじゆう》を以《もつ》て、御小袖《おこそで》二十|重《かさね》、沙金袋《さきんぶくろ》に入《い》れたる黄金《わうごん》五十|兩《りやう》、香爐《かうろ》一、堆朱《つゐしゆ》の盆香合《ぼんかうがふ》一、麝香臍《じやかうのほぞ》廿、高檀紙《たかだんし》十|帖《でふ》を、北政所《きたのまんどころ》より献《けん》じ。御小袖《おこそで》十|重《かさね》、沙金袋《さきんぶくろ》に入《い》れたる黄金《わうごん》五十|兩《りやう》、香爐《かうろ》一、堆朱盆香合《つゐしゆぼんかうがふ》一、麝香臍《じやかうのほぞ》十、高檀紙《たかだんし》十|帖《でふ》を、大政所《おほまんどころ》より献《けん》じた。當日《たうじつ》も數々《かず/\》の祝《いはひ》に紛《まぎ》れ暮《く》れつゝ、入相《いりあひ》の鐘《かね》も寂《しづ》かなるに、郭公《ほとゝぎす》の一|聲《こゑ》、二|聲《こゑ》音信《おとづ》れて、興趣《きようしゆ》愈《いよい》よ加《くは》はり、主上《しゆじやう》も御心《みこゝろ》靜《しづ》かに御偃息遊《ごえんそくあそ》ばされた。斯《かゝ》る折《をり》しも正親町上皇《あふぎまちじやうくわう》より、御短册《ごたんざく》が參《まゐ》つた。
[#ここから2字下げ]
萬代《よろづよ》に又《また》八百よろづを重《かさ》ねても、猶《なほ》限《かぎ》りなき時《とき》は此時《このとき》。
[#ここで字下げ終わり]
と。秀吉《ひでよし》は之《これ》を棒讀《ほうどく》して、感激《かんげき》に勝《た》へず、直《たゞ》ちに左《さ》の一|首《しゆ》を返《かへ》し奉《たてまつ》つた。
[#ここから2字下げ]
言《こと》の葉《は》の濱《はま》の眞砂《まさご》はつくるとも、限《かぎり》あらじな君《きみ》が齡《よはひ》は。
[#ここで字下げ終わり]
同夜《どうや》は、主上《しゆじやう》を始《はじ》め奉《たてまつ》り、諸人《しよにん》の當座《たうざ》の詠歌《えいか》があつた。
斯《かく》て愈《いよい》よ還幸《くわんかう》の日取《ひどり》たる、十八|日《にち》となつた。秀吉《ひでよし》は還幸《くわんかう》の御祝《おいはひ》を催《もよ》し、又《ま》た將來《しやうらい》の行幸《ぎやうかう》を御契《おちぎ》り申《まを》し上《あ》げて、御暇《おいとま》を申《まを》し、陛下《へいか》は正午過《しやうごす》ぎより鳳輦《ほうれん》に御《ぎよ》し給《たま》うて、行幸《ぎやうかう》當日《たうじつ》同樣《どうやう》の式《しき》を以《もつ》て、御心《みこゝろ》閑《のどか》に還幸《くわんかう》あらせられた。但《た》だ行幸《ぎやうかう》の際《さい》には、見《み》るを得《え》ざりし高蒔畫《たかまきゑ》したる長櫃《ながびつ》の、菊《きく》の御紋《ごもん》をつけたる金銀《きんぎん》のかな物《もの》打《うち》たるに、紫地《むらさきぢ》の唐織《からおり》に、精巧《せいかう》に菊《きく》の御紋《ごもん》縫《ぬ》ひたるを蓋《おほ》うたる三十|枝《えだ》と、唐櫃《からびつ》二十|荷《か》の、前驅《ぜんく》の先《さき》に行《ゆ》けるは、是《こ》れ秀吉《ひでよし》の献上物《けんじやうもの》を入《い》れたるものであつた。斯《か》くて伶人《れいじん》の還城樂《げんじやうらく》を奏《そう》する中《うち》に、愛度《めでた》く主上《しゆじやう》には禁中《きんちう》に入《い》り給《たま》うた。天顏《てんがん》喜《よろこ》びあり、晴《はれ》の御膳《おぜん》の御式《おんしき》あつて、茲《こゝ》に此《こ》の空前《くうぜん》の行幸《ぎやうかう》は、首尾克《しゆびよ》く相濟《あひす》んだ。
四|月《ぐわつ》の天氣《てんき》、變《かは》り易《やす》く、翌《よく》十九|日《にち》には、午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》より俄《にはか》に疾風暴雨《しつぷうばうう》となり、廿|日《か》に到《いた》りて、尚《な》ほ止《や》まなかつた。而《しか》して行幸以前《ぎやうかういぜん》にも亦《ま》た、天氣模樣《てんきもやう》は甚《はなは》だ惡《あ》しかつた。然《しか》るに行幸還幸《ぎやうかうくわんかう》の當日《たうじつ》は、何《いづ》れも一|天晴明《てんせいめい》、陽光和麗《やうくわうわれい》であつた。是《こ》れ天《てん》も亦《ま》た感應《かんおう》したのではあるまい乎《か》。秀吉《ひでよし》は自《みづか》ら抃喜《べんき》の情《じやう》に勝《た》へず、左《さ》の三|首《しゆ》を詠出《えいしゆつ》して、之《これ》を主上《しゆじやう》、及《およ》び上皇《じやうわう》に奉呈《ほうてい》した。
[#ここから2字下げ]
時《とき》を得《え》し玉《たま》の光《ひかり》のあらはれて、御幸《みゆき》ぞけふのもろ人《びと》の袖《そで》。
空《そら》までも君《きみ》が御幸《みゆき》をかけて思《おも》ひ、雨《あめ》降《ふり》すさぶ庭《には》の面《おも》かな。
御幸《みゆき》猶《なほ》思《おも》ひしことのあまりあれば、かへるさをしき雲《くも》の上人《うへびと》。
[#ここで字下げ終わり]
其《そ》の添状《そへじやう》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
今度行幸忝次第《このたびのぎやうかうかたじけなきしだい》、即令[#二]參内[#一]《すなはちさんだいせしめ》、雖[#下]可[#二]申上[#一]候[#上]《まをしあぐべくさふらふといへども》、先爲[#二]祝詞[#一]《まづしゆくじとして》、此三首進上之候《このさんしゆをしんじやうのさふらふ》。宜預[#二]御披露[#一]候《よろしくごひろうにあづかりさふらふ》。仙洞《せんどう》へも被[#レ]懸[#二]御目[#一]《おんめにかけられ》、可[#レ]然候者《しかるべくさふらはゞ》、取成專一候也《とりなしせんいちにさふらふなり》。謹言《きんげん》。
 四月廿日[#地から2字上げ]御  判
  菊   亭殿
  勸 修 寺殿
  中   山殿
[#ここで字下げ終わり]
三|首《しゆ》の歌《うた》、叡聞《えいぶん》に達《たつ》するや否《いな》や、御感《ぎよかん》斜《なゝ》めならず。左《さ》の御製《ぎよせい》を返《かへ》し賜《たま》はつた。
[#ここから2字下げ]
玉《たま》を猶《なほ》磨《みが》くにつけて世《よ》にひろく、あふぐ光《ひかり》をうつす言《こと》の葉《は》。
かきくらし降《ふり》ぬる雨《あめ》も心《こゝろ》あれや、晴《はれ》てつらなる雲《くも》の上人《うへびと》。
あかざりし心《こゝろ》をとむるやどりゆゑ、猶《なほ》かへるさのをしまるゝ|哉《かな》。
[#ここで字下げ終わり]
正親町上皇《あふぎまちじやうわう》も亦《ま》た、
[#ここから2字下げ]
うづもれし道《みち》をたゞしき折《をり》にあひて、玉《たま》の光《ひかり》の世《よ》にくもりなき。
[#ここで字下げ終わり]
の御製《ぎよせい》を賜《たま》はつた。
蓋《けだ》し此《こ》の行幸《ぎやうかう》が、至尊《しそん》にも、聖衷《せいちゆう》より御滿足《ごまんぞく》にあらせられた事《こと》は、上記《じやうき》の御製《ぎよせい》にても、拜想《はいさう》するに難《かた》からぬ事《こと》である。固《もと》より秀吉《ひでよし》が心《こゝろ》に心《こゝろ》を入《い》れ、手《て》に手《て》を盡《つく》したる上《うへ》なれば、總《すべ》ての事《こと》が、豫定以上《よていいじやう》の成績《せいせき》であつたのは、當然《たうぜん》だ。
凡《およ》そ秀吉程《ひでよしほど》、粗枝大葉《そしたいえふ》はなく、又《ま》た秀吉程《ひでよしほど》、精細※[#「糸+眞」、第4水準2-84-51]密《せいさいしんみつ》はない。彼《かれ》は天下《てんか》を箒《はうき》にて掃《は》くが如《ごと》く、大雜把《おほざつぱ》であるかと思《おも》へば、三|疊《でふ》四|疊《でふ》の數寄屋《すきや》の一|花《くわ》、一|瓶《ぺい》の居措《きよそ》さへも、工夫《くふう》し、研究《けんきう》し、凝視《ぎようし》した。而《しか》して此《こ》の聚樂第行幸《じゆらくていぎやうかう》は、彼《かれ》が大處大觀《たいしよたいくわん》、小處細觀《せうしよさいくわん》の、大小兩面《だいせうりやうめん》の全力《ぜんりよく》を傾《かたむ》け來《きた》りたるものなれば、其《そ》の成功《せいこう》は、毫《がう》も不思議《ふしぎ》ではない。それにしても彼《かれ》が、幾《いく》百|年《ねん》武將專制《ぶしやうせんせい》の中《うち》に、其《そ》の光輝《くわうき》を埋沒《まいぼつ》したる皇室《くわうしつ》を、國民《こくみん》の上《うへ》に奉戴《ほうたい》、尊宗《そんしう》し、所謂《いはゆ》る天日《てんじつ》をして、再《ふたゝ》び光《ひかり》あらしめたるは、實《じつ》に彼《かれ》の一|大功徳《だいくどく》と云《い》はねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【九七】秀吉家康の合奏[#中見出し終わり]

日本《にほん》は數《す》百|年來《ねんらい》、否《い》な千|有餘年來《いうよねんらい》の門閥國《もんばつこく》であつた。頼朝《よりとも》にせよ、尊氏《たかうぢ》にせよ、何《いづ》れも歴《れき》としたる家柄《いへがら》の總領《そうりやう》であつた。信長《のぶなが》に至《いた》りては、それ程《ほど》の家柄《いへがら》ではなかつたが、尚《な》ほ信秀以來《のぶひでいらい》の大名《だいみやう》であつた。單《ひと》り秀吉《ひでよし》は、匹夫《ひつぷ》も匹夫《ひつぷ》、全《まつた》くの匹夫《ひつぷ》であつた。彼《かれ》が土《つち》を離《はな》るゝ三|尺《じやく》ならざる位置《ゐち》より、人臣《じんしん》の極位迄《きよくゐまで》躋《のぼ》りつめたる辛苦《しんく》は、決《けつ》して傍人《ばうじん》の想像《さうざう》の及《およ》ぶ所《ところ》ではなかつた。王公將相《わうこうしやうしやう》寧《なん》ぞ種《しゆ》あらんやとは、支那《しな》では通用《つうよう》したが、日本《にほん》では通用《つうよう》しなかつた。然《しか》るに之《これ》を通用《つうよう》せしめたのは、秀吉《ひでよし》だ。是《こ》れ誰《たれ》が力《ちから》ぞ。全《まつた》く秀吉《ひでよし》の自力《じりき》だ。
彼《かれ》が成功《せいこう》の後《あと》に於《おい》て、其《そ》の素性《すじやう》に就《つ》き、日輪《にちりん》懷《ふところ》に入《い》ると云《い》ひ、其母《そのはゝ》が偶然《ぐうぜん》至尊《しそん》に接近《せつきん》したと云《い》ふが如《ごと》き、小説《せうせつ》を作爲《さくゐ》したのは、〔大村由己『秀吉事始』、秀吉朝鮮國王に與ふるの書〕[#「〔大村由己『秀吉事始』、秀吉朝鮮國王に與ふるの書〕」は1段階小さな文字]、磊落《らいらく》、淡泊《たんぱく》たる彼《かれ》には、聊《いさゝ》か不似合《ふにあひ》であるが、そは畢竟《ひつきやう》世間《せけん》の崇閥的《しうばつてき》偏僻心《へんぺきしん》に調和《てうわ》せんとしたる、一の手段《しゆだん》に過《す》ぎなかつたのだ。此《こ》れを見《み》ても、崇閥的《しうばつてき》偏僻心《へんぺきしん》が、當時《たうじ》に於《おい》て、如何《いか》に有力《いうりよく》であつたかゞ|思《おも》ひやらるゝ。從《したがつ》て亦《ま》た之《これ》を超乘《てうじよう》して驀進《ばくしん》したる、秀吉《ひでよし》の努力《どりよく》の如何《いか》に多大《ただい》なるかゞ、思《おも》ひやらるゝ。他日《たじつ》秀吉《ひでよし》が、鎌倉《かまくら》にて頼朝《よりとも》の像《ざう》を撫《な》でゝ、徒手《としゆ》天下《てんか》を取《と》つたのは、御身《おんみ》と我《われ》のみだ、併《しか》し御身《おんみ》は名族《めいぞく》の積威《せきゐ》を藉《か》りたが、我《われ》は人奴《じんど》より起《た》つたので、其《そ》の骨折《ほねをり》も尋常《じんじやう》ではなかつたと、述懷《じゆつくわい》した〔日本外史〕[#「〔日本外史〕」は1段階小さな文字]のも、此《こ》の譯合《わけあひ》だ。
如何《いか》に彼《かれ》の織田氏《おだし》の將校《しやうかう》たる出身《しゆつしん》が、天下人《てんかびと》たる後迄《のちまで》も、邪魔《じやま》をしたかは、九|州役《しうえき》に際《さい》して、幕下《ばくか》の諸將《しよしやう》が、秀吉《ひでよし》の命《めい》に違背《ゐはい》し、是《こ》れが爲《た》めに、秀吉《ひでよし》は隨分《ずゐぶん》苦心《くしん》したことで判知《わか》る。
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一 背[#二]御置目[#一]《おんおきめにそむきし》、面々任[#二]覺悟[#一]候段者《めん/\かくごにまかせさふらふだんは》、其以前御傍輩知音《そのいぜんごはうばいちおん》たるによつて、其旨《そのむね》を相《あ》ひ違《たが》はず、被[#レ]輕[#二]御下知[#一]候《ごげちをかろんぜられさふらふ》かと、察思召候《さつしおぼしめしさふらふ》。則可[#レ]被[#レ]違[#二]御中[#一]《すなはちおんなかをたがへらるべき》に被[#二]相究[#一]候《あひきはめられさふら》へ共《ども》、前々《ぜん/\》より御存知者《ごぞんじのもの》に候間《さふらふあひだ》、不便《ふびん》に被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、御覺悟被[#二]引直[#一]候事《おんかくごひきはなされさふらふこと》。〔松下文書〕[#「〔松下文書〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは秀吉《ひでよし》が、天正《てんしやう》十五|年《ねん》四|月《ぐわつ》九|日附《かづけ》にて、幕下《ばくか》の諸將《しよしやう》に與《あた》へたる訓示《くんじ》の一|節《せつ》だ。即《すなは》ち卿等《けいら》が予《よ》が命《めい》に違背《ゐはい》したのは、從來《じゆうらい》予《よ》と爾汝《じぢよ》の間柄《あひだがら》であつたから、予《よ》を輕視《けいし》したる故《ゆゑ》であらうと思《おも》ひ、斷然《だんぜん》處分《しよぶん》せんとしたが、是迄《これまで》の交誼《かうぎ》もあることなればと、思《おも》ひ返《かへ》して、今回丈《こんくわいだけ》は勘辨《かんべん》し置《お》くとの意味《いみ》だ。
秀吉《ひでよし》が懷柔《くわいじゆう》するに、骨《ほね》の折《を》れたのは、單《たん》に公家《くげ》、門跡《もんぜき》の類《るゐ》のみでなかつた。別《わ》けて武家《ぶけ》の大立者《おほだてもの》、織田信雄《おだのぶを》、徳川家康《とくがはいへやす》の如《ごと》きは、其《そ》の尤《いう》であつた。併《しか》し蛇《じや》の道《みち》は蛇《へび》で、此變《このへん》の意味合《いみあひ》は、家康《いへやす》は篤斗《とくと》承知《しようち》し、逐《ちく》一|秀吉《ひでよし》と調子《てうし》を合《あは》せた。兩人《りやうにん》の合奏《がつそう》で、秀吉《ひでよし》の天下《てんか》は首尾《しゆび》よく一|統《とう》した。
家康《いへやす》は決《けつ》して單純《たんじゆん》の強《つよ》がり屋《や》ではなかつた。小牧役以來《こまきえきいらい》、槓杆《てこ》でも動《うご》かず。遂《つひ》には秀吉《ひでよし》をして、其母《そのはゝ》大政所《おほまんどころ》を人質《ひとじち》とまでせしめた家康《いへやす》は、其《そ》の一たび上洛《じやうらく》するや、態度《たいど》は、忽《たちま》ち一|變《ぺん》した。彼《かれ》は一|切《さい》の過去《くわこ》を忘《わす》れて、秀吉《ひでよし》に恭順《きようじゆん》した。秀吉《ひでよし》の九|州役《しうえき》には、家康《いへやす》の子《こ》、秀吉《ひでよし》の養子《やうし》、十四|歳《さい》の三|河守秀康《かはのかみひでやす》も陪從《ばいじゆう》し、又《ま》た本多廣孝《ほんだひろたか》も、家康《いへやす》の命《めい》を受《う》けて、軍中《ぐんちう》に在《あ》つた。而《しか》して彼《かれ》は秀吉《ひでよし》より、行平《ゆきひら》の太刀《たち》、黄金《わうごん》十|枚《まい》の餞《はなむけ》を受《う》けて、大宰府《だざいふ》にて、秀吉《ひでよし》に先《さきだ》ち歸東《きとう》し、六|月《ぐわつ》廿二|日《にち》駿府《すんぷ》に著《ちやく》して、家康《いへやす》に九|州役《しうえき》の顛末《てんまつ》を報告《はうこく》した。家康《いへやす》は七|月《ぐわつ》十四|日《か》、駿府《すんぷ》を發《はつ》し、八|月《ぐわつ》四|日《か》入洛《じゆらく》して、秀吉《ひでよし》に面會《めんくわい》し、其《そ》の凱旋《がいせん》を駕《が》した。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》の推擧《すゐきよ》にて、八|月《ぐわつ》八|日《か》從《じゆ》二|位《ゐ》權大納言《ごんだいなごん》に躋《のぼ》り、而《しか》して其《そ》の子《こ》長丸《ながまる》は、元服《げんぷく》して、秀吉《ひでよし》の偏諱《へんゐ》を賜《たま》はり秀忠《ひでたゞ》と名乘《なの》り、從《じゆ》五|位下《ゐげ》侍從《じじゆう》に任《にん》じた。
聚樂行幸《じゆらくぎやうかう》の際《さい》には、家康《いへやす》は天正《てんしやう》十六|年《ねん》三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、駿府《すんぷ》を發《はつ》し、井伊《ゐい》、本多《ほんだ》(忠勝)[#「(忠勝)」は1段階小さな文字]、榊原《さかきばら》、平岩《ひらいは》、本多《ほんだ》(廣孝)[#「(廣孝)」は1段階小さな文字]等《ら》を伴《ともな》ひ、十八|日《にち》入洛《じゆらく》した。秀吉《ひでよし》は大《おほ》いに悦《よろこ》び、博多臺芋頭《はかただいいもがしら》の水指小壺《みづさしこつぼ》、小鳥天目《ことりてんもく》、羽箒《はねばうき》、茶杓等《ちやしやくとう》、天下《てんか》の名物《めいぶつ》に加《くは》へて、精米《せいまい》三千|俵《ぺう》を與《あた》へ、十九|日《にち》には聚樂《じゆらく》にて、種々《しゆ/″\》の饗應《きやうおう》ありて、行幸以前《ぎやうかういぜん》に、井伊直政《ゐいなほまさ》を從《じゆ》五|位下《ゐげ》の侍從《じじゆう》に叙任《じよにん》し、其他《そのた》の諸臣《しよしん》、皆《みな》それ/″\|叙任《じよにん》した。而《しか》して水《みづ》到《いた》り渠《きよ》成《な》りて、乃《すなは》ち四|月《ぐわつ》十五|日《にち》、聚樂第《じゆらくてい》に於《お》ける御前誓紙《ごぜんせいし》とはなつた。
從來《じゆうらい》官位《くわんゐ》と云《い》ひ、家柄《いへがら》と云《い》ひ、信雄《のぶを》は家康《いへやす》の前《まへ》に在《あ》つた。然《しか》も秀吉《ひでよし》の眼中《がんちう》、只《た》だ家康《いへやす》あるのみだ。家康《いへやす》が小牧役後《こまきえきご》、最初《さいしよ》の上洛《じやうらく》に際《さい》し、信雄《のぶを》と與《とも》に、秀吉《ひでよし》に大阪城《おほさかじやう》に謁《えつ》した。
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大權現《だいごんげん》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]使[#二]信雄先行[#一]《のぶををしてせんかうせしむ》、信雄辭[#レ]之《のぶをこれをじす》。是時秀吉自執[#二]大權現之手[#一]曰《このときひでよしみづからだいごんげんのてをとつていはく》、公是先行矣《こうそれまづゆけと》。乃相語而入《すなはちあひかたつている》。〔林道春、秀吉譜〕[#「〔林道春、秀吉譜〕」は1段階小さな文字]
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恐《おそ》らくは此《こ》れが事實《じじつ》であつたらう。家康《いへやす》を我物《わがもの》とせざる以前《いぜん》こそ、信雄《のぶを》は手品《てじな》の種《たね》として、珍重《ちんちよう》す可《べ》きであつたが。既《すで》に家康《いへやす》を得《う》れば、信雄《のぶを》は全《まつた》く活《い》ける千|里《り》の駿馬《しゆんめ》を得《え》たる後《のち》の、千|金《きん》の馬骨《ばこつ》に過《す》ぎなかつた。
併《しか》し流石《さすが》は家康《いへやす》だ。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の究所《きうしよ》を能《よ》く熟知《じゆくち》した。而《しか》して此《こ》の究所《きうしよ》に觸《ふ》るゝの、最《もつと》も危險《きけん》なるを、より能《よ》く熟知《じゆくち》した。されば彼《かれ》は秀吉《ひでよし》に對《たい》して、特《とく》に恭敬《きようけい》であつた。聊《いさゝ》かたりとも秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》を害《がい》し、秀吉《ひでよし》の嫉視《しつし》を招《まね》き、秀吉《ひでよし》の猜疑心《さいぎしん》を惹起《じやくき》するが如《ごと》き事《こと》は、極力《きよくりよく》之《これ》を避《さ》けた。彼《かれ》が聚樂第《じゆらくてい》に於《お》ける御前誓紙《ごぜんせいし》に署名《しよめい》したのは、彼《かれ》に於《おい》ては業《すで》に既《すで》に熟慮《じゆくりよ》、審思《しんし》の結果《けつくわ》であつた。豈《あに》啻《た》だ此《こ》れのみならんやだ。家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、其《そ》の履《くつ》さへも直《なほ》した。
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太閤《たいかふ》の或時《あるとき》、宇喜田殿《うきたどの》にて、能《のう》を見物《けんぶつ》し給《たま》ふに、庭《には》に下《お》り給《たま》ふ時《とき》、東照宮《とうせうぐう》下《お》りて、履《くつ》を正《たゞ》しく仕給《したま》ふを、太閤《たいかふ》手《て》を以《もつ》て、肩《かた》を押《おさ》へて、徳川殿《とくがはどの》に、履《くつ》を直《なほ》させ申事《まをすこと》よと宣《のたま》ふ。〔武野燭談〕[#「〔武野燭談〕」は1段階小さな文字]
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家康《いへやす》に及《およ》ぶ可《べ》からざる所《ところ》は、尋常《じんじやう》人《ひと》の忍《しの》ぶ能《あた》はざる所《ところ》を忍《しの》ぶにあつた。併《しか》し家康《いへやす》をして、斯迄《かくまで》に辛抱《しんばう》を餘儀《よぎ》なくせしめた、秀吉《ひでよし》の力《ちから》も、亦《ま》た偉大《ゐだい》と云《い》はねばならぬ。

 

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