第二十二章 九州役の總勘定
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第二十二章 九州役の總勘定[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七九】博多の再興[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の箱崎《はこざき》滯在《たいざい》は、單《たん》に長途久陣《ちやうときうぢん》の骨休《ほねやす》めのみならず、又《ま》た耶蘇教處分《やそけうしよぶん》のみならず、更《さ》らに其《そ》の最後《さいご》の事業《じげふ》たる、海外經略《かいぐわいけいりやく》の準備《じゆんび》の爲《た》めであつた。所謂《いはゆ》る博多《はかた》の再興《さいこう》の如《ごと》きも、恐《おそ》らくは其《そ》の一であつたと思《おも》はる。
秀吉《ひでよし》の西征《せいせい》が、九|州統《しうとう》一に止《とゞま》らず、九|州《しう》を策源地《さくげんち》として、朝鮮《てうせん》、支那《しな》、琉球《りうきう》、南蠻等《なんばんとう》に及《およ》ばんとしたのは、彼《かれ》が信長《のぶなが》の將校《しやうかう》として、中國征伐《ちうごくせいばつ》の任《にん》に膺《あた》りたる、當初《たうしよ》よりの企圖《きと》であつた。而《しか》して此《こ》の企圖《きと》は、彼《かれ》が須臾《しゆゆ》も閑却《かんきやく》する能《あた》はざる所《ところ》であつた。そは天正《てんしやう》十四|年《ねん》八|月《ぐわつ》五|日附《かづけ》にて、彼《かれ》が安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》、宮木等《みやぎら》に與《あた》へたる書簡中《しよかんちう》に、『唐國《からのくに》まで成共《なりとも》、可[#レ]被[#二]仰付[#一]《おほせつけらるべく》と被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、御存分之通候條《ごぞんぶんのとほりにさふらふでう》、島津背[#二]御意[#一]幸之儀候《しまづぎよいにそむきさいはひのぎにさふらふ》。』とあるにても判知《わか》るではない乎《か》。又《ま》た同年《どうねん》八|月《ぐわつ》十五|日附《にちづけ》にて、九|州出陣《しうしゆつぢん》の觸書《ふれがき》に、『龜井琉球守《かめゐりうきうのかみ》(茲矩)[#「(茲矩)」は1段階小さな文字]どのへ』とあるを見《み》れば、亦《ま》た以《もつ》て彼《かれ》が海外經略《かいぐわいけいりやく》の片鱗《へんりん》を覗《うかゞ》ふ可《べ》きではない乎《か》。龜井《かめゐ》は秀吉《ひでよし》中國役《ちうごくえき》の際《さい》、其《そ》の手引者《てびきしや》の一|人《にん》で、豫《かね》て出雲《いづも》を與《あた》ふ可《べ》しとの豫約《よやく》あつたが、本能寺變後《ほんのうじへんご》、毛利氏《まうりし》との講和《かうわ》の爲《た》め、之《これ》を果《は》たすこと能《あた》はなかつたから、龜井《かめゐ》は其《そ》の代《かは》りとして、琉球《りうきう》を得《え》ん※[#「こと」の合字、400-5]を願《ねが》うた。秀吉《ひでよし》は直《たゞ》ちに手《て》にしたる扇面《せんめん》に、龜井琉球守《かめゐりうきうのかみ》と書《しよ》して與《あた》へたと云《い》ふ。琉球守《りうきうのかみ》の出所《しゆつしよ》は、乃《すなは》ち此《こ》の通《とほ》りである。
更《さ》らに天正《てんしやう》十五|年《ねん》五|月《ぐわつ》十五|日附《にちづけ》、薩摩《さつま》太平寺《たいへいじ》の大本營《だいほんえい》より、加須屋内膳正《かすやないぜんのかみ》(糟屋武則)[#「(糟屋武則)」は1段階小さな文字]に與《あた》へたる書簡中《しよかんちう》には、
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一 島津《しまづ》一|類被[#二]召連[#一]可[#レ]被[#レ]成[#二]御上洛[#一]候《るゐめしつれられきじやうらくなさるべくさふらふ》。其上人質不[#レ]殘進上候事《そのうへひとじちのこらずしんじやうさふらふこと》。
一 然上爰許被[#レ]成[#二]御逗留[#一]《しかるうへこゝもとごとうりうなされ》、國之置目等被[#二]仰付[#一]《くにのおきめとうおほせつけられ》、御隙明次第《おんひまあきしだい》、筑前國至[#二]博多[#一]被[#レ]移[#二]御座[#一]《ちくぜんのくにはかたにいたりござをうつされ》、彼地自[#二]大唐南蠻國々[#一]著船候間《かのちはたいとうなんばんのくにぐによりちやくせんさふらふあひだ》、丈夫《ぢやうぶ》に城普請可[#レ]被[#二]仰付[#一]候《しろぶしんおほせつけらるべくさふらふ》。然者高麗國《さればこまのくに》へ被[#レ]差[#二]遣人數[#一]《にんずをさしつかはされ》、可[#レ]被[#レ]成[#二]御成敗[#一]事《ごせいばいなさるべきこと》。
一 壹岐《いき》、對馬《つしま》、南國《なんごく》(種子、屋久、鬼界等の諸島を稱す)[#「(種子、屋久、鬼界等の諸島を稱す)」は1段階小さな文字]者共《ものども》、悉被[#二]出仕[#一]候事《こと/″\くしゆつしせられさふらふこと》。
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とある。平《ひら》たく言《い》へば、博多《はかた》が海外交通《かいぐわいかうつう》の咽吭《いんこう》であるから、此地《このち》に堅城《けんじやう》を築《きづ》き、之《これ》を本據《ほんきよ》として、朝鮮《てうせん》に人數《にんず》を差《さ》し向《む》く可《べ》しと云《い》ふことだ。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》の博多再興《はかたさいこう》の主意《しゆい》の何《いづ》くにあるかは、此《こ》れにて分明《ぶんみやう》ではない乎《か》。
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七|日《か》(天正十五年六月)[#「(天正十五年六月)」は1段階小さな文字]博多《はかた》に至《いた》り給《たま》うて、箱崎《はこざき》の八|幡宮寳殿《まんぐうはうでん》を伏拜《ふしをが》み給《たま》ふ。即《すなは》ち此所《ここ》に御殿《ごてん》を立《たて》させ給《たま》うて、御逗留《ごとうりう》あり。御備《おんそなへ》の衆《しゆう》、前後左右《ぜんごさいう》、町屋作《まちやづく》りに、小屋《こや》を營《いとな》み、不[#二]我劣[#一]《われおとらじ》と結構《けつこう》を盡《つく》しけり。秀吉《ひでよし》八|幡《まん》の寳殿《はうでん》に端居《はしゐ》し給《たま》ひて、慰《なぐさ》み給《たま》ふ序《ついで》に、斯《か》くなん。
[#2字下げ]千歳《ちとせ》をも疊《たゝ》み入《い》れたる箱崎《はこざき》の、松《まつ》の花咲《はなさく》折《をり》に逢《あ》はゞや。
古《いに》しへは博多箱崎《はかたはこざき》の在家《ざいけ》十萬|軒《けん》在《あり》て、泉州堺《せんしうさかひ》の津《つ》にも劣《おと》らざる富家《ふか》多《おほ》かりしが、肥前龍造寺《ひぜんりゆうざうじ》と、豐後《ぶんご》の大友宗麟《おほともそうりん》と及[#二]鉾楯[#一]《むじゆんにおよび》、其亂《そのらん》十|餘《よ》ヶ|年《ねん》に及《およ》びしかば、形許《かたちばか》りに荒果《あれは》て、哀《あは》れに見《み》えにけり。秀吉《ひでよし》絶《たえ》たるを起《おこ》さばやと覺《おぼ》され、竪横《たてよこ》の町割《まちわり》十|町宛《ちやうづゝ》に定《さだ》められ、博多《はかた》の古老《こらう》を呼出《よびいだ》され、打渡《うちわた》し給《たま》ふ。町人《ちやうにん》是《こ》は有難《ありがた》き御再興《ごさいこう》かなと悦《よろこ》び、晝夜《ちうや》を分《わか》ず、家々《いへ/\》の急《いそ》ぎ甚《はなはだ》し。〔甫庵太閤記〕[#「〔甫庵太閤記〕」は1段階小さな文字]
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概略《がいりやく》此《こ》の通《とほ》りであるが、尚《な》ほ秀吉《ひでよし》の寵商《ちようしやう》の一|人《にん》たる、神谷宗湛《かみやそうたん》の日記中《につきちう》にも、左《さ》の如《ごと》き面白《おもしろ》き記事《きじ》がある。
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同《どう》十|日《か》(天正十五年六月)[#「(天正十五年六月)」は1段階小さな文字]に關白樣《くわんぱくさま》博多《はかた》のあと可[#レ]有[#二]御覽[#一]《ごらんあるべし》とて、社頭《しやとう》(箱崎)[#「(箱崎)」は1段階小さな文字]の前《まへ》より、フスタと申候《まをしさふらふ》南蠻船《なんばんせん》にめされ、博多《はかた》に御著候《おちやくさふらふ》。御船《おふね》に乘候《のりさふらふ》ものは、バテル(伴天連)[#「(伴天連)」は1段階小さな文字]兩人《りやうにん》、宗湛《そうたん》其《そ》の外《ほか》小姓衆也《こしやうしゆうなり》。博多《はかた》の濱《はま》にて、御進物《ごしんもつ》を上《あ》げ申候《まをしさふら》へば、其《そ》の内《うち》銀子《ぎんす》一|枚《まい》ばかり被[#二]召上[#一]候《めしあげられさふらふ》。其《そ》の外《ほか》の物《もの》は、博多《はかた》に被[#レ]下候也《くだされさふらふなり》。
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惟《おも》ふに博多再興《はかたさいこう》に就《つい》ては、秀吉《ひでよし》は神谷宗湛等《かみやそうたんら》の進言《しんげん》に待《ま》つ所《ところ》、少《すくな》くなかつたであらう。
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六|月《ぐわつ》十一|日《にち》より、秀吉公《ひでよしこう》博多町《はかたまち》を建《たて》んとて、指圖《さしづ》を書《かゝ》せ給《たま》ひ、翌《よく》十二|日《にち》より町割《まちわり》を仕給《したま》ふ。經營《けいえい》は黒田孝高《くろだよしたか》に被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、奉行《ぶぎやう》は瀧川《たきがは》三|郎兵衞《ろべゑ》(下總守雄利)[#「(下總守雄利)」は1段階小さな文字]長束大藏大輔《ながつかおほくらたいう》、山崎志摩守《やまざきしまのかみ》、小西攝津守等《こにしせつつのかみら》なり。下奉行《したぶぎやう》三十|人《にん》あり。此所《ここ》の老人共《らうじんども》を呼出《よびいだ》し、博多《はかた》の町《まち》を十|町《ちやう》四|方《はう》に定《さだ》め、竪横《たてよこ》の小路《こうぢ》を割《わ》り、民屋《みんをく》を營《いとな》み作《つく》らせらる。博多《はかた》の津《つ》は、古昔《そのむかし》異賊防禦《いぞくばうぎよ》の所《ところ》として、大宰府《だざいふ》への道路《だうろ》なれば、北《きた》を外面《ぐわいめん》とし、南《みなみ》を内面《ないめん》とし、町割《まちわり》は南北《なんぼく》を縱《たて》とし、東西《とうざい》を横《よこ》とせり。南《みなみ》の外《そと》の外部《ぐわいぶ》には、横《よこ》二十|間餘《けんよ》の湟《ほり》を掘《ほ》り、瓦町《かはらまち》の西南《せいなん》の隅《すみ》より辻堂《つじだう》の東《ひがし》に至《いた》る。是《これ》を南方《なんぱう》の要害《えうがい》の固《かため》とす。
秀吉公《ひでよしこう》此町《このまち》を再興《さいこう》し給《たま》ふ時《とき》も、奉行人《ぶぎやうにん》、昔《むかし》の古實《こじつ》を尋《たづ》ね、南北《なんぼく》を縱《たて》とし道《みち》を廣《ひろ》くす。屋宅《をくたく》を廣《ひろ》くして、多《おほ》くは富人《ふじん》居《を》れり。是《これ》を本町《ほんまち》とす。縱町《たてまち》凡《およ》そ九|筋《すぢ》あり。昔《むかし》大宰府《だざいふ》へ通《かよ》ひし、且又《かつまた》唐船《からふね》の著《つき》し海邊《かいへん》に通《つう》ずるが爲《た》めに、南北《なんぼく》の道《みち》を廣《ひろ》くせしなるべし。東西《とうざい》を横《よこ》として道《みち》狹《せま》し、屋宅《をくたく》も狹《せま》くして、富人《ふじん》は稀也《まれなり》。秀吉公《ひでよしこう》斯《かく》の如《ごと》く、廢《すた》れたるを發《おこ》し、絶《た》えたるを繼《つい》で、博多《はかた》の町《まち》を建《た》て給《たま》ひしかば、博多《はかた》の者共《ものども》、再《ふたゝ》び世《よ》に出《いで》たる心地《こゝち》して、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》本土《ほんど》に立歸《たちかへ》り、思《おも》ひ/\に屋宅《をくたく》を建並《たてなら》べ、人《ひと》の集《あつ》まること元《もと》の如《ごと》し。此時《このとき》博多《はかた》の富商《ふしやう》神谷宗湛《かみやそうたん》、島井宗室《しまゐそうしつ》兩人共《りやうにんども》に、表口《おもてぐち》十三|間半《げんはん》に屋宅《をくたく》を賜《たまは》り、永《なが》く町役《まちやく》を除《のぞ》かる。〔筑前國續風土記〕[#「〔筑前國續風土記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れにて再興《さいこう》の約略《やくりやく》が判知《わか》る。尚《な》ほ神谷宗湛日記《かみやそうたんにつき》には、
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同《どう》十一|日《にち》(天正十五年六月)[#「(天正十五年六月)」は1段階小さな文字]博多町《はかたまち》のさし圖《づ》を書付《かきつけ》られて、十二|日《にち》よりの町割《まちわ》り也《なり》。博多町割奉行衆事《はかたまちわりぶぎやうしゆうこと》、瀧川《たきがは》三|郎兵衞殿《ろべゑどの》、長束大藏殿《ながつかおほくらどの》、山崎志摩殿《やまざきしまどの》、小西攝州《こにしせつしう》、此《この》五|人《にん》なり、下奉行《したぶぎやう》卅|人《にん》なり。
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とある。兎《と》も角《かく》も博多町《はかたまち》は、秀吉《ひでよし》の努力《どりよく》で、一|氣呵成《きかせい》に再興《さいこう》せられた。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》が南蠻船《なんばんせん》に乘《じよう》じて、博多灣《はかたわん》を遊弋《いうよく》した際《さい》には、遙《はる》かに玄海洋《げんかいなだ》の雲濤《うんたう》を見《み》て、其《そ》の心《こゝろ》は鵬程《ほうてい》萬|里《り》の外《ほか》に馳《は》せたであらう。
         古代の博多
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日本後紀曰(中略)新羅人辛波古智等二十六人、漂[#二]著筑前國博多津[#一](中略)是博多の名、國史に見えたる始なり、其時すでに博多津の號あり、其初はいつの頃より立けん不[#レ]知、今案に博多は、古來唐土船の著し所にて、大宰府に近ければ、(其間四里あり)上代大宰府を置れしより、博多町も立けるならん、續日本後紀には、任明天皇の御宇新羅の人、筑前大津に來るといへり、大津は博多をさしていへり(中略)僧萬里が梅庵集、送[#二]超公然叟歸省[#一]詩序曰、超公然叟、石城人、其境有[#二]島津[#一]、有[#二]十里松[#一]、註曰、石城、即筑前博多なり、有[#二]島津[#一]又號[#二]冷泉津[#一]といへり、唐土の書には、博多を覇家臺、或八角島など書り、是は別に名付たるにあらず、博多の音を聞て如[#レ]斯書るなり、海東諸國記にも博多|成《なる》冷泉津と稱し、又石城府とも云よし見えたり、日本に上世より異國船の來りつどひし所にて、大宰府に近ければ、往古より繁榮の地なることむべなり(中略)げにも此博多津は往古唐土船のつどひし所にて、我日本の國々よりも、各其土物を載て爰に聚り、民軒を並て富人門をつらね、肆には萬の財多く、民生日用の食貨乏しからず、且古寺名刹又多し、誠に四方輻湊の地にして、天府の邑といひつべし、此所南北の中程に、古は東西に通れる入海有て、袖の湊と號せり、是唐船の入し湊なり。〔筑前續風土記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【八〇】九州役の眞相[#中見出し終わり]

要《えう》するに九|州役《しうえき》は、朝鮮役《てうせんえき》の序幕《じよまく》と見《み》なければ、其《そ》の徹底《てつてい》したる意義《いぎ》を會得《ゑとく》する※[#「こと」の合字、405-11]|能《あた》はぬ。秀吉征韓《ひでよしせいかん》の企圖《きと》が、端《たん》を此際《このさい》に發《はつ》したと云《い》ふ説《せつ》には、賛成《さんせい》が出來《でき》ぬ。然《しか》も其《そ》の企圖《きと》が、此際《このさい》に具體化《ぐたいくわ》したと云《い》ふ事《こと》は、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。吾人《ごじん》は今少《いますこ》しく、此《こ》れに就《つい》て語《かた》るであらう。
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昨日《さくじつ》薩摩《さつま》の國《くに》より、肥後《ひご》の國迄《くにまで》引申候間《ひきまをしさふらふあひだ》、御心安《おこゝろやす》く候《さふらふ》べく候《さふらふ》。六|月《ぐわつ》五|日頃《かごろ》に筑前《ちくぜん》の國《くに》博多迄《はかたまで》參可[#レ]申候《まゐりまをすべくさふらふ》。此《これ》は早《は》や/\|半分《はんぶん》引申候《ひきまをしさふらふ》。大坂《おほさか》へは半分道《はんぶんみち》にて候《さふらふ》。博多《はかた》にて普請申付《ふしんまをしつけ》、六|月中《ぐわつちう》に五|分《ぶ》、七|月《ぐわつ》は十|日頃《かごろ》に大坂《おほさか》へかへり可[#レ]申候《まをすべくさふらふ》。御心安《おこゝろやす》く候《さふらふ》べく候《さふらふ》。壹岐《いき》、對馬《つしま》の國迄《くにまで》、人質《ひとじち》を出《いだ》し、隨身申事《ずゐじんまをすこと》、又《また》高麗《こま》の方迄《はうまで》、日本《にほん》の内裡《だいり》え、隨身可[#レ]申由《ずいじんまをすべきよし》、早船《はやふね》を仕立申遣候《したてまをしつかはしさふらふ》。出仕不[#レ]申候《しゆつしまをさずさふら》はゞ、來年《らいねん》成敗可[#レ]申由申遣候《せいばいまをすべきよしまをしつかはしさふらふ》。唐國迄《からくにまで》手《て》に入《い》れ、我等《われら》一|期《ご》の内《うち》に申付《まをしつ》く可候《べくさふらふ》。下墨《さげすみ》を致候得《いたしさふらえ》ば、一|段《だん》骨折申候《ほねをりまをしさふらふ》。今度《こんど》の陣《ぢん》に年寄《としより》、早《は》や/\|白髮《しらが》が、多《おほ》く出來申候《できまをしさふらう》て、拔《ぬ》き申事《まをすこと》もいり不[#レ]申候《まをさずさふらふ》。御目《おめ》に懸《かゝ》り候《さふら》はん事《こと》、耻《はづ》かし、そもじへばかり苦《くる》しからずと存候《ぞんじさふら》へども、迷惑候《めいわくにさふらふ》。
五|月《ぐわつ》十|日《か》の文《ふみ》、今日《こんにち》廿八|日《にち》、肥後《ひご》の國《くに》佐敷《さしき》にて拜見候《はいけんさふらふ》。明日《みやうにち》は八代迄《やつしろまで》越可[#レ]申候《こしまをすべくさふらふ》。(以下略)[#「(以下略)」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此書《このしよ》は秀吉《ひでよし》が、薩摩《さつま》よりの歸途《きと》、五|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、肥後佐敷《ひごさしき》にて、其《そ》の夫人《ふじん》北政所《きたのまんどころ》大坂發《おほさかはつ》五|月《ぐわつ》十|日《か》の書《しよ》に接《せつ》し、其《そ》の返書《へんしよ》を認《したゝ》めたるもので、當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の公私《こうし》に關《くわん》する胸中《きようちう》を披瀝《ひれき》したものだ。北政所《きたのまんどころ》は、秀吉《ひでよし》に相應《さうおう》した女傑《ぢよけつ》であつた。秀吉《ひでよし》が鏡中《きやうちう》の白髮《はくはつ》を嘆《たん》じて、彼女《かれ》の閨閤《けいかふ》の情《じやう》に訴《うつた》へたると與《とも》に、其《そ》の海外經略《かいぐわいけいりやく》の大企圖《だいきと》を吐露《とろ》して、我《わ》が雄志《ゆうし》を洩《も》らし、其《そ》の共鳴《きやうめい》を求《もと》めたのは、毫《がう》も不思議《ふしぎ》はない。秀吉當人《ひでよしたうにん》が最親《さいしん》の夫人《ふじん》に向《むか》つて語《かた》る所《ところ》、此《こ》の通《とほ》りであれば、此上《このうへ》何等《なんら》揣摩《しま》、憶測《おくそく》の必要《ひつえう》はない。
又《ま》た六|月《ぐわつ》朔日附《ついたちづけ》、本願寺宛《ほんぐわんじあて》の秀吉書簡《ひでよししよかん》には、
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一 筑前筑後兩州小早川《ちくぜんちくごりやうしうこばやかは》に被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》。然《しかる》に、博多津《はかたつは》、大唐《だいたう》、南蠻《なんばん》、高麗《こま》、自[#二]國々[#一]船著候間《くに/″\よりふねつきさふらふあひだ》、殿下號[#二]御座所[#一]《でんかござしよとなづけ》、普請申付《ふしんまをしづけ》、爲[#二]留守居[#一]小早川在城之事《るすゐとしてこばやかはざいじやうのこと》。
一 高麗國《こまのくに》より以[#二]對馬者[#一]《つしまものをもつて》、色々御調物《いろ/\おんみつぎもの》を備《そなへ》、重々人質《ぢゆう/\ひとじち》を可[#レ]到[#二]進上[#一]《しんじやういたすべく》、雖[#二]懇望申候[#一]《こんまうまをしさふらふといへども》。御調物等事不[#レ]入儀《おんみつぎものとうのこといらざるぎ》、我朝之覺候間《わがてうのおぼえにさふらふあひだ》、高麗國王可[#二]參内[#一]《こまこくわうさんだいすべく》、此旨被[#二]仰遣[#一]候《このむねおほせつかはされさふらふ》。若於[#レ]滯者《もしとゞこほるにおいては》、彼國《かのくに》へ相越《あひこし》、人數被[#二]相究[#一]成敗候事《にんずあひきはめられせいばいさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は朝鮮《てうせん》より宗對馬守《そうつしまのかみ》を以《もつ》て、人質《ひとじち》、貢物等《みつぎものとう》を献《さゝ》げんとの申請《しんせい》に對《たい》し、(此事は恐らくは、宗氏限りの取計らひで、朝鮮政府は知らぬ事であらう。)[#「(此事は恐らくは、宗氏限りの取計らひで、朝鮮政府は知らぬ事であらう。)」は1段階小さな文字]それよりも朝鮮王自《てうせんわうみづ》から入朝《にふてう》せよと諭《さと》し、然《しか》らざれば之《これ》を征伐《せいばつ》す可《べ》しと申《まを》し送《おく》つたのである。吾人《ごじん》は尚《な》ほ此事《このこと》を確《たし》かむ可《べ》く、大村由己《おほむらいうき》の記事《きじ》を援《ひ》かねばならぬ。
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一 筑紫《ちくぜん》九ヶ|國《こく》の事《こと》は、不[#レ]及[#レ]申候《まをすにおよばずさふらふ》。唐土《もろこし》、高麗堺《こまざかひ》の島々《しま/″\》(壹岐、對馬等)[#「(壹岐、對馬等)」は1段階小さな文字]よりも、無[#二]殘所[#一]悉實子《のこるところなくこと/″\くじつし》を男女《だんぢよ》によらず、人質《ひとじち》を上《あ》げ申候《まをしさふらふ》。人《ひと》により上方《かみがた》へ被[#二]召具[#一]《めしぐせらるゝ》もあり、又相寄次第肥後國筑前筑後《またあひよりしだいひごのくにちくぜんちくご》に殘《のこ》し被[#レ]爲[#レ]置《おかせらるゝ》も在[#レ]之《これあり》、誠鉋削《まことにかんなけづ》りの上《うへ》を、木賊磨《とくさみが》きにて候《さふらふ》。
一 高麗國《こまのくに》へも、被[#二]仰遣[#一]意趣《おほせつかはされしいしゆ》は、日本王宮《にほんわうきう》へ、來年中《らいねんちう》に、御對面《ごたいめん》なされ候樣《さふらふやう》にとの被[#レ]仰樣《おほせらるゝやう》に候《さふらふ》。不[#レ]入義《いらざるぎ》に候《さふら》へども、後代名《こうだいな》を殘《のこ》さるべきとの御事候《おんことにさふらふ》。對馬國主勿論別義有間敷候間《つしまのこくしゆはもちろんべつぎあるまじくさふらふあひだ》、明年《みやうねん》は高麗《こま》の王《わう》を供奉可[#レ]被[#レ]申由候《ぐぶまをさるべきよしにさふらふ》。今迄對馬《いままでつしま》の屋形《やかた》に從《したが》はれ候間《さふらふあひだ》、明年必定《みやうねんはひつぢやう》、日本地《にほんのち》へ可[#レ]有[#二]御渡[#一]事案中候《おんわたりあるべきことあんのぢうにさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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以上《いじやう》所記《しよき》によりて、秀吉企圖《ひでよしきと》の存《そん》する奧底《おくそこ》を知《し》る可《べ》しだ。
但《た》だ若《も》し朝鮮問題《てうせんもんだい》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》を誤《あやま》りたる者《もの》ありとせば、其《そ》の隨《ずゐ》一は、所謂《いはゆ》る對馬者《つしまもの》と云《い》はねばなるまい。彼等《かれら》は日本本土《にほんほんど》と朝鮮《てうせん》の間《あひだ》に介在《かいざい》し、巧《たく》みに兩方《りやうはう》に向《むか》つて、媒酌的態度《ばいしやくてきたいど》を取《と》つた。即《すなは》ち朝鮮《てうせん》に向《むかつ》ては、秀吉《ひでよし》の眞意《しんい》を傳《つた》へず、秀吉《ひでよし》に向《むかつ》ては、朝鮮《てうせん》の眞相《しんさう》を傳《つた》へず。而《しか》して其《そ》の文飾《ぶんしよく》、巧詐《かうさ》、依違《いゐ》、苟且《こうしよ》の結果《けつくわ》は、双方《さうはう》に取《と》りて、取《と》り返《かへ》しの附《つ》かぬ大事件《だいじけん》を惹起《じやくき》した。
然《しか》も秀吉《ひでよし》亦《ま》た其《そ》の責任《せきにん》なしとせぬ。彼《かれ》が海外《かいぐわい》の事情《じじやう》を探討《たんたう》するに於《おい》て、問屋的知識《とひやてきちしき》よりも、受賣的知識《うけうりてきちしき》に信頼《しんらい》し、直接知識《ちよくせつちしき》よりも、間接知識《かんせつちしき》に信頼《しんらい》し、是《こ》れが爲《た》めに濟《すく》ふ可《べ》からざる損害《そんがい》を招《まね》きたるは、其《そ》の自業自得《じごふじとく》と云《い》はねばならぬ。大村由己《おほむらいうき》は、當時《たうじ》筆《ふで》を載《の》せて、秀吉《ひでよし》の幕中《ばくちう》に在《あ》つた一|人《にん》だ。彼《かれ》の語《かた》る所《ところ》は、秀吉《ひでよし》周邊《しうへん》の雰圍氣《ふんゐき》の反射《はんしや》に他《ほか》ならぬ。之《これ》を讀《よ》めば、如何《いか》に秀吉《ひでよし》及《およ》び其《そ》の幕僚《ばくれう》が、對手國《あひてこく》に關《くわん》する知識《ちしき》の孟浪《まんらん》、杜撰《づさん》であつた事《こと》が、想像《さうざう》せらるゝ。乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》征韓失敗《せいかんしつぱい》の禍根《くわこん》は、此《こゝ》に存《そん》すと云《い》ふも、過言《くわごん》ではあるまい。
將《は》た秀吉《ひでよし》の海外經略《かいぐわいけいりやく》を以《もつ》て、『後代《こうだい》名《な》を殘《のこ》さるべきとの御事候《おんことにさふらふ》。』と云《い》うたのは、尤《もつとも》千萬であるが、然《しか》も秀吉《ひでよし》は唯《た》だ其《そ》の大名《だいめい》を、末代《まつだい》に耀《かゞや》かす爲《た》めのみならず、國家富強《こくかふきやう》の爲《た》めに、立《た》ち入《い》りて云《い》へば、富《とみ》を得《え》んが爲《た》めに、此事《このこと》を企《くはだ》てたに相違《さうゐ》あるまい。凡《およ》そ秀吉程《ひでよしほど》、富《とみ》の價値《かち》を解得《かいとく》したる者《もの》はない。彼《かれ》は天下《てんか》を支配《しはい》する勢力《せいりよく》の一|半《ぱん》の、此《こゝ》に存《そん》するを看取《かんしゆ》した。彼《かれ》は決《けつ》して黷武者流《とくぶしやりう》でない、彼《かれ》は正《まさ》しく物質的目的《ぶつしつてきもくてき》の爲《た》めに、此《こ》の企圖《きと》を抱《いだ》いたのだ。而《しか》して此《これ》に參畫《さんくわく》したるは、猛將《まうしやう》、武夫等《ぶふら》よりも、寧《むし》ろ京《きやう》、大阪《おほさか》、堺《さかひ》、博多《はかた》、其他《そのた》の豪商等《がうしやうら》が、少《すく》なくなかつた事《こと》と想像《さうざう》せらるゝ。神谷宗湛《かみやそうたん》の如《ごと》きも、正《まさ》しく其《そ》の一|人《にん》に相違《さうゐ》なかつた事《こと》と信《しん》ぜらるゝ。

[#5字下げ][#中見出し]【八一】九州善後の處分(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

九|州平定《しうへいてい》に就《つ》き、其《そ》の善後《ぜんご》の處分《しよぶん》として、島津義久《しまづよしひさ》に薩摩《さつま》、同義弘《どうよしひろ》に大隅《おほすみ》、義弘《よしひろ》の子《こ》久安《ひさやす》に日向《ひふが》の諸縣《もろがた》一|郡《ぐん》を能《あた》へたことは、既記《きき》の通《とほ》りである。而《しか》して六|月《ぐわつ》二|日《か》肥後隈本《ひごくまもと》に於《おい》て、肥後《ひご》を佐々成政《さつさなりまさ》に與《あた》へ、人吉城主《ひとよしじやうしゆ》相良頼房《さがらよりふさ》、宇土城主《うどじやうしゆ》伯耆顯孝《はうきあきたか》、隈府城主《わいふじやうしゆ》隈部親永《くまべちかなが》、其《そ》の他《た》五十二|人《にん》の國侍《くにざむらい》を、與力《よりき》とした。
[#4字下げ]定《さだめ》
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一 五十二|人之國人《にんのくにびと》、如[#二]先規[#一]知行可[#二]相渡[#一]之事《せんきのごとくちぎやうあひわたすべきのこと》。
一 三|年檢地有《ねんけんちある》まじき事《こと》。
一 百|姓等不[#レ]痛樣《しやうらいたまざるやう》に肝要之事《かんえうのこと》。
一 一|揆《き》おこらざる樣《やう》に可[#レ]有[#二]遠慮[#一]之事《ゑんりよあるべきのこと》。
一 上方普請《かみがたふしん》三|年令[#二]免許[#一]之事《ねんめんきよせしむるのこと》。
 天正《てんしやう》十五|年《ねん》六|月《ぐわつ》六|日《か》[#地付き]〔甫庵太閤記〕[#「〔甫庵太閤記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の佐々《さつさ》に訓令《くんれい》したのは、果《はた》して此通《このとほ》りの文句《もんく》であつたか、否《いな》かは、保證《ほしよう》の限《かぎ》りでないが、其《そ》の内容《ないよう》は、先《ま》づ此位《このくらゐ》の事《こと》と思《おも》はる。
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に、二|度迄《どまで》も反覆《はんぷく》したる佐々《さつさ》に、此《こ》の大國《たいこく》を與《あた》へたの乎《か》。佐々《さつさ》は柳瀬役《やながせえき》の後《のち》、一たび秀吉《ひでよし》に降《くだ》り、小牧役《こまきえき》の後《のち》、再《ふたゝ》び秀吉《ひでよし》に降《くだ》り、曾《かつ》ては柴田《しばた》、瀧川《たきがは》、丹羽《には》の間《あひだ》に※[#「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35]翔《かうしやう》し、羽振善《はぶりよ》き漢《をのこ》であつたが、今《いま》は越中《ゑつちう》一|郡《ぐん》の主《あるじ》に微祿《びろく》した者《もの》だ。秀吉《ひでよし》は何《なん》の見《み》る所《ところ》ありて、今更《いまさ》ら此者《このもの》に重任《ぢゆうにん》を託《たく》したる乎《か》。
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肥後國中《ひごこくちう》を、能々被[#二]見及[#一]候《よく/\みおよばされさふらふ》に、此國《このくに》は一|揆共《きども》の持《も》ちたる國《くに》なれば、・・・・・・|平和《へいわ》の者《もの》に被[#レ]遣者《つかはさるゝもの》ならば、一|揆《き》發《はつ》すべき事《こと》必定《ひつぢやう》なり。さらば佐々内藏助《さつさくらのすけ》を被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、此國《このくに》にはめ可[#レ]被[#レ]置《おかるべき》なりと思召被[#レ]付《おぼしめしつかれ》、其《そ》の時《とき》内藏助《くらのすけ》を被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、拔目《ぬけめ》なしに一|國《こく》内藏助《くらのすけ》に被[#二]宛行[#一]候《あておこなはれさふらふ》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れが確《たし》かに其《そ》の理由《りいう》の重《おも》なる一であつたらう。即《すなは》ち佐々《さつさ》の功《こう》を賞《しやう》するでもなく、佐々《さつさ》の勞《らう》に酬《むく》ゆるでもなく、佐々《さつさ》なる信長仕込《のぶながじこみ》の老功者《らうこうもの》、大立者《おほたてもの》を、肥後《ひご》に据置《すゑお》いて、一|揆《き》を鎭定《ちんてい》せんとしたのであらう。而《しか》して是《こ》れと同時《どうじ》に、佐々《さつさ》を以《もつ》て島津《しまづ》を牽掣《けんせい》せしめんとしたのであらう。
秀吉《ひでよし》は人材《じんざい》に對《たい》しては、恩怨《おんゑん》兩《ふたつ》ながら無視《むし》した。瀧川《たきがは》の如《ごと》きも、信雄《のぶを》、家康《いへやす》を向《むか》ふに廻《ま》はして取《と》り組《く》んだる際《さい》には、起用《きよう》せんと試《こゝろ》みたではない乎《か》。彼《かれ》が我《わ》が同輩《どうはい》であつた─|否《い》な當初《たうしよ》は先輩《せんぱい》であつた─|佐々《さつさ》を擧《あ》げて、九|州探題《しうたんだい》の一としたのは、決《けつ》して不思議《ふしぎ》ではない。
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御米《おんこめ》二萬|石《ごく》大坂《おほさか》てんほうにて被[#レ]遣候《つかはされさふらふ》。銀子《ぎんす》千|枚《まい》、鞍置馬《くらおきうま》五十|疋《ぴき》、内藏助《くらのすけ》拜領《はいりやう》にて候《さふらふ》。肥後國《ひごのくに》え御《おん》はめ置被[#レ]成候事《おきなされさふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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兎《と》も角《かく》も佐々《さつさ》は、思《おも》ひ掛《が》けなき仕合者《しあはせもの》として、大國《たいこく》の主《あるじ》となつた。
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肥後國事《ひごのくこと》、五十|町《ちやう》道《みち》四十|里計《りばかり》、横《よこ》は廣《ひろ》き所《ところ》廿|里計《りばかり》、其《そ》の間《あひだ》田地計候《でんぢばかりにさふらふ》。狹《せま》き所者《ところは》、海端《うみばた》まで、二|里《り》三|里《り》も可[#レ]有[#レ]之候哉《これあるべくさふらふか》。か樣《やう》の大國《たいこく》、殿下《でんか》にも被[#レ]成[#二]御覽[#一]《ごらんなされ》たる儀《ぎ》無[#レ]之候間《これなくさふらふあひだ》、此國《このくに》に御隱居有難被[#二]思召[#一]事候《ごいんきよありたくおぼしめされしことにさふらふ》。はやく各《おの/\》へも被[#レ]見度《みせられたく》、思召迄候事《おぼしめすまでにさふらふこと》。
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とは、天正《てんしやう》十五|年《ねん》四|月《ぐわつ》廿|日《か》、肥後八代《ひごやつしろ》より、秀吉《ひでよし》が毛利輝元《まうりてるもと》に與《あた》へたる書中《しよちう》の一|節《せつ》だ。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が肥後《ひご》に重《おも》きを措《お》いたかは、此《こ》れにて判知《わか》るではない乎《か》。此《こ》の肥後《ひご》を佐々《さつさ》に與《あた》へたのを見《み》れば、彼《かれ》が佐々《さつさ》に重《おも》きを措《お》いたのも、亦《ま》た分明《ぶんみやう》と云《い》はねばならぬ。
五|月《ぐわつ》廿八|日《にち》肥前《ひぜん》の三|根《ね》、神崎《かんざき》、佐賀《さが》、小城《をぎ》、杵島《きしま》、藤津《ふぢつ》の六|郡《ぐん》は龍造寺正家《りゆうざうじまさいへ》に、北高來郡《きたたかきごほり》及《およ》び養父郡《やぶごほり》の半《なかば》は、其《そ》の執政《しつせい》鍋島直茂《なべしまなほしげ》に、同《どう》六|月《ぐわつ》七|日《か》大村《おほむら》に於《お》ける大村喜前《おほむらよしあき》(純忠の子)[#「(純忠の子)」は1段階小さな文字]南高來郡《みなみたかきごほり》に於《お》ける有馬晴信《ありまはるのぶ》、北松浦郡《きたまつうらごほり》、及《およ》び壹岐《いき》に於《お》ける松浦鎭信《まつうらしげのぶ》、東西松浦郡《とうざいまつうらごほり》に於《お》ける波多親《はたちかし》、南松浦郡《みなみまつうらごほり》に於《お》ける五|島純玄等《たうすみはるら》、何《いづ》れも其《そ》の舊《きう》に仍《よ》りて、本領《ほんりやう》を安堵《あんど》した。
七|月上旬《ぐわつじやうじゆん》豐後《ぶんご》一|國《こく》は、復《ま》た從前《じゆうぜん》の如《ごと》く、大友義統《おほともよしむね》に與《あた》へた。日向《ひふが》は島津領以外《しまづりやういぐわい》に、伊東祐兵《いとうすけたけ》に那珂郡《なかごほり》を復舊《ふくきう》せしめて、飫肥《をび》に居《を》らしめ、臼杵郡《うすきごほり》を高橋元種《たかはしもとたね》に與《あた》へ縣《あがた》に居《を》らしめ、兒島郡《こじまごほり》を秋月種實《あきづきたねざね》に與《あた》へ財部《たからべ》に居《を》らしめた。而《しか》して對馬《つしま》は依然《いぜん》、宗義智《そうよしとも》の領《りやう》する所《ところ》となつた。
其《そ》の他《た》既記《きき》の如《ごと》く、七|月《ぐわつ》二|日《か》尾藤知定《びとうともさだ》の臆病《おくびやう》にして、軍機《ぐんき》を誤《あやま》りたる罪《つみ》を正《たゞ》し、之《これ》を追放《つゐはう》し、八|月《ぐわつ》十|日《か》其《そ》の舊領《きうりやう》讃岐《さぬき》に生駒親政《いこまちかまさ》を移封《いほう》し、小早川《こばやかは》の舊領《きうりやう》たる伊豫《いよ》を、秀吉《ひでよし》近臣《きんしん》の有功者《いうこうしや》に分配《ぶんぱい》し、福島正則《ふくしままさのり》を湯月《ゆづき》に─|後《のち》國府《こくぶ》に移《うつ》る─|戸田勝隆《とだかつたか》を板島《いたじま》に封《ほう》じ、脇坂安治《わきざかやすはる》に大洲《おほす》を、加藤嘉明《かとしよしあき》に松前《まつまへ》を加封《かほう》し、又《ま》た秀長《ひでなが》をして、其《そ》の士《し》藤堂高虎《とうだうたかとら》の祿《ろく》一萬|石《ごく》を増《ま》さしめた。
九|州《しう》の處分《しよぶん》に就《つい》て、秀吉《ひでよし》の方針《はうしん》は、信長流《のぶながりう》の拔本的《ばつぽんてき》でなく、寧《むし》ろ綏撫的《すゐぶてき》、現状維持的《げんじやうゐぢてき》であつた。
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先方之侍共《せんぱうのさむらひども》其《それ》/″\|忠節之者《ちゆうせつのもの》には、加増《かぞう》を被[#二]仰付[#一]《おほせつけられ》、其國《そのくに》に御朱印《ごしゆいん》にて、立被[#レ]爲[#レ]置候也《たておかせられさふらふなり》。
一 壹岐國《いきのくに》、對馬國《つしまのくに》、其《その》まゝ|居城《きよじやう》に、本主《ほんしゆ》に被[#レ]下候《くだされさふらふ》。高麗《こま》、唐土《もろこし》へ舟《ふね》通用可[#レ]被[#二]仰付[#一]《つうようおほせつけらるべく》と相聞候《あひきこえさふらふ》。後戸《ごと》(五島)[#「(五島)」は1段階小さな文字]平戸《ひらど》も本主《ほんしゆ》に被[#レ]下候《くだされさふらひ》き。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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但《た》だ縱令《たとひ》舊領《きうりやう》其儘《そのまゝ》を維持《ゐぢ》するも、そは從來《じゆうらい》の行掛《ゆきがゝ》りによりて、我物《わがもの》とするにあらずして、新《あら》たに秀吉《ひでよし》の朱印《しゆいん》にて、下賜《かし》せられたるものとして然《しか》る事《こと》は、茲《こゝ》に特筆《とくひつ》す可《べ》き必要《ひつえう》がある。此《かく》の如《ごと》くして、秀吉《ひでよし》の統《とう》一|的威力《てきゐりよく》は、九|州《しう》に及《およ》んだ。

[#5字下げ][#中見出し]【八二】九州善後の處分(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は又《ま》た原田《はらだ》、麻生《あさふ》、宗像等所領《むなかたらしよりやう》を除《のぞ》きたる筑前《ちくぜん》一|國《こく》、筑後《ちくご》の御原《みはら》、御井《みゐ》二|郡《ぐん》、肥前《ひぜん》の基肆《きし》一|郡《ぐん》、養父半郡《やぶはんぐん》を、六|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》に與《あた》へ。怡土郡高祖《いどごほりたかす》の城主《じやうしゆ》原田信種《はらだのぶたね》、遠賀郡花尾《をんがごほりはなを》の城主《じやうしゆ》麻生家氏《あさふいへうぢ》、及《およ》び宗像大宮司《むなかただいぐうじ》の遺族等《ゐぞくら》を附屬《ふぞく》せしめた。同《どう》二十八|日《にち》筑後《ちくご》の生葉《きば》、竹野《たけの》、山本《やまもと》の三|郡《ぐん》を隆景《たかかげ》の季弟《きてい》、小早川秀包《こばやかはひでかね》に與《あた》へ、上妻《かみづま》一|郡《ぐん》を筑紫廣門《つくしひろかど》に與《あた》へ、矢部城主《やべじやうしゆ》五|條鎭定《でうしげさだ》を、筑紫《つくし》に附屬《ふぞく》せしめ。立花宗茂《たちばなむねしげ》を賞《しやう》するに、山門《やまと》、三|潴《つま》、三|池《いけ》の三|郡《ぐん》を以《もつ》てし、柳川《やながは》に居《を》らしめ、其《そ》の弟《おとうと》高橋統増《たかはしむねます》、及《およ》び三|池鎭員《いけしげかず》を、之《これ》に附屬《ふぞく》せしめた。七|月《ぐわつ》三|日《か》豐前《ぶぜん》の京都《きやうと》、仲津《なかつ》、築城《つきき》、上毛《かみげ》、下毛《しもげ》、及《およ》び宇佐《うさ》─|妙見嶽《めうけんだけ》、龍王《りゆうわう》二|城《じやう》を除《のぞ》く─六|郡《ぐん》を黒田孝高《くろだよしたか》に、企救《きく》、田川《たがは》二|郡《ぐん》を毛利吉成《まうりよしなり》に與《あた》へた。
如上《じよじやう》の論功行賞《ろんこうかうしやう》を見《み》て、小早川隆景《こばやかはたかかげ》が餘《あま》りに多《おほ》きに失《しつ》し、黒田孝高《くろだよしたか》が餘《あま》りに少《すくな》きに失《しつ》する感《かん》ある者《もの》、恐《あそ》らくは鮮《すくな》くあるまい。此《こ》れも一|理《り》ある事《こと》だ。若《も》し一|個人《こじん》として、九|州役《しうえき》に殊勳者《しゆくんしや》を求《もと》めば、其《そ》の始終《しじゆう》を一|貫《くわん》して、黒田孝高《くろだよしたか》であらう。彼《かれ》は實《じつ》に秀吉親征《ひでよししんせい》に關《くわん》する、一|切《さい》の準備委員《じゆんびゐゐん》であつた。多年《たねん》中國《ちうごく》に龍蟠《りゆうばん》、虎踞《こきよ》し、厖大《ばうだい》なる勢力《せいりよく》たる毛利《まうり》一|家《け》を刺戟《しげき》し、之《これ》を驅《か》りて、秀吉露拂《ひでよしつゆばらひ》の役目《やくめ》を遂《と》げしめたのも、彼《かれ》の力《ちから》である。九|州全部《しうぜんぶ》に秀吉乘込《ひでよしのりこみ》の廣告《くわうこく》をなし、九|州《しう》の土豪《どがう》をして、其《そ》の向背《かうはい》を定《さだ》めしめたのも、彼《かれ》の力《ちから》である。彼《かれ》は巨舶《きよはく》ではなかつたが、巨舶《きよはく》を動《うご》かす柁機《だき》の用《よう》をなした。之《これ》に加《くは》ふるに、彼《かれ》は播州《ばんしう》三|萬石《まんごく》の小身《せうしん》として、三千─|或《あるひ》は曰《いは》く四千─の兵《へい》を率《ひき》ゐ、其《そ》の子《こ》長政《ながまさ》を首《はじめ》として、部下諸士《ぶかしよし》の攻城野戰《こうじやうやせん》の勞《らう》も、亦《ま》た多大《ただい》であつた。されば若《も》し論功行賞《ろんこうかうしやう》の日《ひ》には、彼《かれ》を筆頭第《ひつとうだい》一にす可《べ》きは、當然《たうぜん》であるまい乎《か》。
此《こ》の見解《けんかい》よりして、人《ひと》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》が孝高《よしたか》の奇智《きち》、異能《いのう》を猜疑《さいぎ》し、其《そ》の大功《たいこう》を知《し》りつゝも、九|州戰役前《しうせんえきぜん》、一|國《こく》を與《あた》ふべしとの豫約《よやく》を取《と》り消《け》し、其《そ》の後《のち》に至《いた》りて、故《ことさ》らに小祿《せうろく》を與《あた》へたと云《い》ふものがある。併《しか》し吾人《ごじん》は、豐前《ぶぜん》六|郡《ぐん》を以《もつ》て、決《けつ》して小祿《せうろく》とは思《おも》はぬ。三|萬石《まんごく》より一|躍《やく》して、十二|萬《まん》三千|石《ごく》─|或《あるひ》は曰《いは》く、十八|萬石《まんごく》─に取《と》り立《た》てたるは、必《かなら》ずしも吝嗇《りんしよく》なる賞賜《しやうし》ではない。但《た》だ之《これ》を小早川《こばやかは》の筑前《ちくぜん》一|國《こく》に、肥前《ひぜん》一|郡半《ぐんはん》、筑後《ちくご》二|郡《ぐん》の七十|餘萬石《よまんごく》に比《ひ》すれば、釣合《つりあひ》が取《と》れぬが、そは小早川《こばやかは》と黒田《くろだ》との身分《みぶん》が、本來《ほんらい》それ丈《だけ》の相違《さうゐ》があるからだ。
小早川隆景《こばやかはたかかげ》は、毛利《まうり》一|家《け》の代表者《だいへうしや》であつた。總本家《そうほんけ》の輝元《てるもと》は固《もと》より、吉川父子《きつかはふし》、小早川《こばやかは》、其《そ》の他《た》一|家總幕《けそうまく》出揃《でぞろ》ひにて、九|州役《しうえき》に從事《じゆうじ》した。吉川《きつかは》の如《ごと》きは、元春《もとはる》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》十一|月《ぐわつ》豐前《ぶぜん》に於《おい》て逝《ゆ》き、其《そ》の長子《ちやうし》元長《もとなが》亦《ま》た翌《よく》十五|年《ねん》六|月《ぐわつ》、日向《ひふが》の陣中《ぢんちう》に逝《ゆ》いた。惟《おも》ふに毛利《まうり》|一家《け》の九|州役《しうえき》に於《お》ける兵員《へいゐん》は、黒田《くろだ》の十|倍《ばい》を出《い》でたであらう。刺戟者《しげきしや》、誘導者《いうだうしや》は黒田《くろだ》であつたが、活動者《くわつどうしや》、實行者《じつかうしや》は毛利《まうり》であつた。況《いはん》や小早川《こばやかは》の如《ごと》きは、其《そ》の背景《はいけい》たる毛利《まうり》一|家《け》の他《ほか》に、天正《てんしやう》十|年《ねん》五|月《ぐわつ》より秀吉《ひでよし》に恭順論《きようじゆんろん》を貫徹《くわんてつ》し、爾來《じらい》其《そ》の智謀《ちぼう》、遠慮《ゑんりよ》、亦《ま》た黒田《くろだ》と異曲同巧《いきよくどうかう》にして、秀吉《ひでよし》に貢獻《こうけん》した所《ところ》も多《おほ》かつた事《こと》と、思《おも》はるゝに於《おい》てをやだ。
秀吉《ひでよし》が毛利《まうり》の代表者《だいへうしや》として、小早川《こばやかは》を指定《してい》したのは、流石《さすが》に炯眼《けいがん》と云《い》はねばならぬ。小早川《こばやかは》は既《すで》に伊豫《いよ》の國主《こくしゆ》であつた。此時《このとき》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》んで彼《かれ》が毛利家《まうりけ》の代表者《だいへうしや》として、百|萬石《まんごく》の大々名《だい/″\みやう》となるも、決《けつ》して不思議《ふしぎ》はない筈《はず》だ。惟《おも》ふに秀吉《ひでよし》が、隆景《たかかげ》を特《とく》に筑前《ちくぜん》に措《お》きたるは、彼《かれ》及《およ》び毛利氏《まうりし》の勢力《せいりよく》を、海外經略《かいぐわいけいりやく》の用《よう》に供《きよう》する見當《けんたう》もあつたであらう。
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尠解由殿《かげゆどの》(孝高)[#「(孝高)」は1段階小さな文字]智慧分別《ちゑふんべつ》人《ひと》に超《こ》え、武邊《ぶへん》も勝《すぐ》れたるより、太閤樣《たいかふさま》取分《とりわ》け御祕藏《ごひざう》に思召《おぼしめし》たるは、世上《せじやう》に無[#レ]隱候《かくれなくさふらふ》。然《しか》らば大國《たいこく》をも可[#レ]被[#レ]下《くださるべき》に、一|國《こく》さへ賜《たま》はらざること不審《ふしん》に存候《ぞんじさふらふ》。御不審《ごふしん》尤《もつとも》に候《さふらふ》。尠解由《かげゆ》餘《あま》りかしこ過《す》ぎ、武邊《ぶへん》も勝《すぐ》れ候《さふらふ》に付《つき》、太閤樣《たいかふさま》天下《てんか》を御治被[#レ]成候節《おをさめなされさふらふせつ》は、萬《よろづ》大事《だいじ》に思召《おぼしめし》、御内談被[#レ]成《ごないだんなされ》けるに、少《すこし》も大事《だいじ》に不[#レ]思《おもはず》、六ヶ|敷事《しきこと》の樣《さま》なく、輕々《かる/″\》と所存《しよぞん》を申上候事共《まをしあげさふらふことども》、上樣《うへさま》色々御思案被[#レ]成《いろ/\ごしあんなされ》たる最《さい》一の處《ところ》に不[#レ]違事《たがはざること》のみに依《よつ》て、御祕藏《ごひざう》に思召《おぼしめし》けれ共《ども》、天下《てんか》治《をさま》りすましたると御覽被[#レ]成候《ごらんなされさふらう》ては、又《また》以來《いらい》六ヶ|敷被[#二]思召[#一]《しくおぼしめされ》、兎角《とかく》大身《たいしん》には被[#レ]成間敷《なされまじき》、曲者《くせもの》と被[#二]思召入[#一]《おぼしめしいらせられ》、豐前《ぶぜん》六|郡被[#レ]下候《ぐんくだされさふらふ》。其身《そのみ》も御心根《おんこゝろね》能《よく》知《しり》たる事《こと》なれば、上樣《うへさま》へ不足《ふそく》を可[#レ]存樣《ぞんずべきやう》もなく、皆《みな》我心《わがこゝろ》より起《おこ》る事也《ことなり》、乍[#レ]去《さりながら》げすわらべ共《ども》に、是《これ》を喰《くう》て泣《な》くなと云《い》ひたるに不[#レ]違《たがはず》と笑《わら》ひける。〔故郷物語〕[#「〔故郷物語〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは黒田《くろだ》の立場《たちば》より見《み》たる、最《もつと》も面白《おもしろ》き解説《かいせつ》である。
吾人《ごじん》は黒田《くろだ》、小早川《こばやかは》の行賞《かうしやう》を見《み》て、秀吉《ひでよし》常識《じやうしき》の圓滿《ゑんまん》なる働《はたら》きを、認《みと》むるを、禁《きん》じ得《え》ない。されど此《こ》の問題《もんだい》を離《はな》れて、兎《と》も角《かく》も孝高《よしたか》の智謀《ちぼう》、才器《さいき》の餘《あま》りに溌剌《はつらつ》として、其《そ》の鋒鋩頴脱《ぼうばうえいだつ》し、却《かへつ》て其《そ》の身《み》の累《わづらひ》となつた事《こと》は、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。而《しか》して是《こ》れが爲《た》めに、秀吉《ひでよし》に調法《てうはふ》がられつゝも、危險人物視《きけんじんぶつし》せられた事《こと》も、恐《おそ》らくは有《あ》り得可《うべ》き事《こと》であつたらう。
秀吉《ひでよし》と云《い》ひ、孝高《よしたか》と云《い》ひ、兩人共《りやうにんとも》に、並々《なみ/\》ならぬ曲者《くせもの》なれば、這般《しやはん》の消息《せうそく》は、以心傳心《いしんでんしん》にて相通《あひつう》じ、互《たが》ひに諒解《れうかい》もし、容認《ようにん》もしたであらう。要《えう》するに秀吉《ひでよし》は、決《けつ》して慘酷《ざんこく》、少恩《せうおん》の冷酷漢《れいこくかん》ではなかつたのだ。公平《こうへい》に云《い》へば、黒田《くろだ》も小《せう》に失《しつ》せず、小早川《こばやかは》も大《だい》に失《しつ》せずだ。彼等《かれら》は當然《たうぜん》其《そ》の得可《うべ》き或物《あるもの》を得《え》た。
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