第二十一章 秀吉の耶蘇教に對する制裁
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第二十一章 秀吉の耶蘇教に對する制裁[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【七四】青天の霹靂[#中見出し終わり]

九|州征伐《しうせいばつ》の際迄《さいまで》は、秀吉《ひでよし》は宣教師等《せんけうしら》に對《たい》して、何等《なんら》敵視《てきし》の態度《たいど》を露《あらは》さなかつた。但《た》だ高山右近《たかやまうこん》は、之《これ》を以《もつ》て暴風前《ばうふうぜん》の平穩《へいをん》と見做《みな》し、頗《すこぶ》る懸念《けねん》する所《ところ》あつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》が、師父等《しふら》は不逞《ふてい》の禍心《くわしん》を包藏《はうざう》するものと猜定《さいてい》し、遠《とほ》からず耶蘇教《やそけう》破滅《はめつ》の期《き》あるを豫覺《よかく》した。彼《かれ》は師父等《しふら》と、九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の情況《じやうきやう》を談《だん》ずるに際《さい》し、慨然《がいぜん》として曰《いは》く、今《いま》や耶蘇教徒《やそけうと》の頭上《づじやう》に、暴風《ばうふう》將《ま》さに至《いた》らんとす。教會堂《けうくわいだう》は顛覆《てんぷく》せられ、師父《しふ》は追放《つゐはう》せられ、信徒《しんと》は背宗者《はいしゆうしや》の爲《た》めに殺戮《さつりく》せられ、復《ま》た殿下《でんか》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]の恩顧《おんこ》に浴《よく》する機會《きくわい》ある可《べ》からずと。されど師父等《しふら》は、左程迄《さほどまで》とは思《おも》はなかつた。それも其《そ》の筈《はず》である。
秀吉《ひでよし》が天正《てんしやう》十五|年《ねん》二|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]赤間關《あかまがせき》に着《ちやく》し、薩兵《さつぺい》豐後《ぶんご》に亂入《らんにふ》の詳報《しやうはう》に接《せつ》するや、其《そ》の最初《さいしよ》の質問《しつもん》は、宣教師等《せんけうしら》の安否《あんぴ》如何《いかん》、支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は今《いま》焉《いづ》くに在《ある》や奈何《いかん》であつた。コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は當時《たうじ》山口《やまぐち》に在《あ》つたが、此事《このこと》を聞《き》き、秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》す可《べ》く、直《たゞ》ちに其《そ》の跡《あと》を趁《お》うて、九|州《しう》に赴《おもむ》き、肥後《ひご》にて漸《やうや》く追《お》ひ付《つ》いた。時《とき》宛《あたか》も或《あ》る城寨《じやうさい》降服《かうふく》し、其《そ》の守將等《しゆしやうら》數人《すうにん》刎首《ふんしゆ》せらる可《べ》き、宣告《せんこく》の際《さい》であつた。
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支部長《しぶちやう》の到著《たうちやく》は、是等《これら》不幸者共《ふかうものども》に取《と》りて、甚《はなは》だ仕合《しあはせ》の事《こと》であつた。支部長《しぶちやう》は關白《くわんぱく》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]の異常《いじやう》なる懇情《こんじやう》と、恭敬《きようけい》とを以《もつ》て、彼《かれ》を接遇《せつぐう》したるを見《み》て、是等《これら》不幸者共《ふかうものども》の爲《た》めに、命《いのち》を乞《こ》はんとした。秀吉《ひでよし》は之《これ》を容《い》れた。而《しか》して其《そ》の恩人《おんじん》の誰《たれ》なるかを、彼等《かれら》に覺知《かくち》せしむ可《べ》く、其《そ》の赦免《しやめん》は全《まつた》く支部長《しぶちやう》の懇請《こんせい》に因《よ》る事《こと》を、告知《こくち》せしめた。〔日本耶蘇會年報〕[#「〔日本耶蘇會年報〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の箱崎《はこざき》に凱旋《がいせん》するや、彼《かれ》はコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]を屡《しばし》ば引見《いんけん》した。コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は從來《じゆうらい》博多《はかた》に。教會堂等《けうくわいだうとう》ありしに拘《かゝは》らず、一五五九|年《ねん》(永祿二年)[#「(永祿二年)」は1段階小さな文字]僧侶《そうりよ》の爲《た》めに放逐《はうちく》せられたる事實《じじつ》を援《ひ》き、新《あら》たに教會堂《けうくわいだう》、及《およ》び住宅《ぢゆうたく》の敷地《しきち》を與《あた》へんことを、秀吉《ひでよし》に請《こ》うた。秀吉《ひでよし》は直《たゞ》ちに之《これ》を承諾《しようだく》し、更《さ》らに博多《はかた》には、佛教寺院《ぶつけうじゐん》、及《およ》び神社等《じんじやとう》を設《まう》けざる事《こと》をさへ約《やく》した。而《しか》して所謂《いはゆ》る、九|州《しう》に於《お》ける切支丹大名《きりしたんだいみやう》の所領《しよりやう》安堵《あんど》、及《およ》び増封等《ぞうほうとう》に就《つ》き語《かた》つた。コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、其《そ》の教運《けううん》の全盛《ぜんせい》なる可《べ》きに、歡喜《くわんき》した。されど其《そ》の反面《はんめん》には、シヤルレウオ[#「シヤルレウオ」に傍線]が、左《さ》の如《ごと》く※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]言《やうげん》した通《とほ》りの事實《じじつ》があつた。
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萬事《ばんじ》宣教師等《せんけうしら》に向《むか》つて、笑顏《ゑがほ》を呈《てい》した。彼等《かれら》が信用《しんよう》の高《かう》且《か》つ大《だい》なる、未《いま》だ此時《このとき》の如《ごと》きはなかつた。關白麾下《くわんぱくきか》の軍隊《ぐんたい》は、耶蘇教徒《やそけうと》によりて統率《とうそつ》せられた。九|州征服《しうせいふく》の結果《けつくわ》、關白《くわんぱく》は征服者《せいふくしや》の權能《けんのう》によりて、其《そ》の領土《りやうど》を、熱心《ねつしん》なる信徒《しんと》、若《も》しくは公然《こうぜん》たる耶蘇教《やそけう》の外護者《げごしや》に分配《ぶんぱい》した。然《しか》も飜《ひるがへ》つて他《た》の一|面《めん》を觀察《くわんさつ》すれば、是等《これら》の耶蘇教《やそけう》諸君主《しよくんしゆ》は、最早《もはや》獨立《どくりつ》の主權者《しゆけんしや》ではなかつた。而《しか》して是《こ》れが爲《た》めに、日本《にほん》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の基礎《きそ》を、動搖《どうえう》せしむるに到《いた》りたるは、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。九|州征伐以前迄《しうせいばついぜんまで》は、萬《まん》一|本土《ほんど》に於《おい》て、耶蘇教《やそけう》禁制《きんせい》の命《めい》下《くだ》るも、九|州《しう》は宣教師等《せんけうしら》の安全《あんぜん》なる隱家《かくれが》であり、耶蘇教徒《やそけうと》の自由郷《じいうきやう》であつたが、今《いま》や關白《くわんぱく》の政令《せいれい》は、九|州《しう》の隅《すみ》から隅迄《すみまで》行《ゆ》き屆《とゞ》き、復《ま》た如何《いかん》ともす可《べ》からざる情態《じやうたい》となつた。
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此《こ》れは洵《まこと》に透徹《とうてつ》したる見解《けんかい》であつた。事實《じじつ》全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りであつた。加《くは》ふるに九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教徒《やそけうと》の双柱《さうちう》とも云《い》ふ可《べ》き大村純忠《おほむらすみたゞ》は、一五八七|年《ねん》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]五|月《ぐわつ》二十四|日《か》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]に死《し》し、大友宗麟《おほともそうりん》は、六|月《ぐわつ》六|日《か》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]に逝《ゆ》いた。前者《ぜんしや》は耶蘇教《やそけう》の爲《た》めに、富國強兵《ふこくきやうへい》の目的《もくてき》を達《たつ》し、後者《こうしや》は寧《むし》ろその反對《はんたい》の結果《けつくわ》を來《きた》したが、宣教師等《せんけうしら》に取《と》りては、兩者共《りやうしやとも》に九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の擁護者《ようごしや》として、大切《たいせつ》の人物《じんぶつ》であつたに相違《さうゐ》ない。未《いま》だ知《し》らず耶蘇教《やそけう》の前途《ぜんと》は、幸運乎《かううんか》、惡運乎《あくうんか》。
當時《たうじ》平戸港《ひらとかう》に、巨大《きよだい》、壯麗《さうれい》なる葡萄牙船《ほるとがるせん》來泊《らいはく》した。秀吉《ひでよし》はコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]に請《こ》うて、閲覽《えつらん》に供《きよう》す可《べ》く、此船《このふね》を博多《はかた》に廻航《くわいかう》せんことを船長《せんちやう》に要《もと》めた。船長《せんちやう》は直《たゞ》ちに他《た》の小船《こぶね》に乘《じよう》じて博多《はかた》に抵《いた》り、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]と與《とも》に、秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》して謝《しや》して曰《いは》く、尊名《そんめい》に應《おう》ずる能《あた》はざるは、是《こ》れ不可能《ふかのう》の事《こと》なれば也《なり》。該船《がいせん》の吃水《きつすゐ》にては、到底《たうてい》此《こ》の遠淺《とほあさ》なる博多灣《はかたわん》に入港《にふかう》する能《あた》はずと。秀吉《ひでよし》は此《こ》の申譯《まをしわけ》に滿足《まんぞく》し、兩人《りやうにん》を丁寧《ていねい》に接待《せつたい》した。兩人《りやうにん》は安心《あんしん》して、其《そ》の夕《ゆふ》、船《ふね》に歸《かへ》つた。秀吉《ひでよし》は翌日《よくじつ》の午後《ごご》、親《みづ》からコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]及《およ》び船長《せんちやう》を其船《そのふね》に訪《と》ひ、彼等《かれら》と與《とも》に懇談《こんだん》して、三|時間《じかん》を過《すご》した。
此《こ》れより數時間《すうじかん》の後《のち》、即《すなは》ち午夜《ごや》に於《おい》て、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は其《そ》の船《ふね》の寢室《しんしつ》より猝《には》かに喚《よ》び起《おこ》された。曰《いは》く、關白《くわんぱく》より至急《しきふ》の使者《ししや》あり、面談《めんだん》を要《えう》すと。コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は甲板《かんぱん》に上《のぼ》り見《み》れば、岸上《がんじやう》より一|人《にん》彼《かれ》に挨拶《あいさつ》し、速《すみや》かに上陸《じやうりく》す可《べ》き命令《めいれい》を傳《つた》へた。其《そ》の命令《めいれい》の文句《もんく》は、頗《すこぶ》る横柄《わうへい》であつたが、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は唖然《あぜん》として、之《これ》に服從《ふくじゆう》した。

[#5字下げ][#中見出し]【七五】五箇条の詰問[#中見出し終わり]

コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]が秀吉《ひでよし》の使者《ししや》に面會《めんくわい》するや、彼《かれ》は五|箇条《こでう》の詰問《きつもん》に接《せつ》した。
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(第一)[#「第一」は縦中横]彼《かれ》及《およ》び彼《かれ》の仲間《なかま》は、如何《いか》なる權威《けんゐ》によりて、秀吉《ひでよし》の臣下《しんか》を、耶蘇教徒《やそけうと》たらしむ可《べ》く強制《きやうせい》する乎《か》。
(第二)[#「第二」は縦中横]何故《なにゆゑ》に宣教師等《せんけうしら》は、其《そ》の門弟《もんてい》、教徒《けうと》を誘《いざな》うて、神社佛閣《じんじやぶつかく》を破壞《はくわい》せしむる乎《か》。
(第三)[#「第三」は縦中横]何故《なにゆゑ》に僧侶《そうりよ》を迫害《はくがい》する乎《か》。
(第四)[#「第四」は縦中横]何故《なにゆゑ》に彼等《かれら》及《およ》び葡萄牙人《ほるとがるじん》は、耕作《かうさく》に必要《ひつえう》なる牛《うし》を食用《しよくよう》とする乎《か》。
(第五)[#「第五」は縦中横]何故《なにゆゑ》に耶蘇會支部長《やそくわいしぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、其《そ》の國民《こくみん》が、日本人《にほんじん》を購買《こうばい》して、之《これ》を奴隷《どれい》として印度《いんど》に輸出《ゆしゆつ》するを、認容《にんよう》する乎《か》。
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コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は此《こ》の詰問《きつもん》に答辯《たふべん》す可《べ》く、未《いま》だ考案《かうあん》の時間《じかん》さへなきに、更《さ》らに二|回目《くわいめ》の特使《とくし》は來《きた》りて、只今《たゞいま》發布《はつぷ》せられたる、高山右近《たかやまうこん》改易《かいえき》の命令書《めいれいしよ》を讀《よ》み聞《きか》せ、一|語《ご》をも交《まじ》へずして立《た》ち去《さ》つた。
コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は只《た》だ呆《あき》れ入《い》る許《ばか》りであつた。如何《いか》に人情《にんじやう》の反覆《はんぷく》、波瀾《はらん》に似《に》たりとは申《まを》せ、その前日《ぜんじつ》の午後《ごご》には、關白《くわんぱく》親《した》しく本船《ほんせん》を見舞《みま》ひ、師父《しふ》に向《むか》つて、※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]洽《くわんかふ》交々《こも/″\》到《いた》り、師父《しふ》及《およ》び耶蘇教《やそけう》の爲《た》めには、如何《いか》なる恩惠《おんけい》をも愛《を》しむ所《ところ》なき旨《むね》を語《かた》りつゝ、其舌《そのした》未《いま》だ乾《かは》かざるに、今《いま》や却《かへつ》て此《かく》の如《ごと》き手荒《てあ》らき仕打《しうち》に會《あ》はんとは。彼《かれ》が茫然《ばうぜん》として言《い》ふ所《ところ》を知《し》らざるや、特使《とくし》は、其《そ》の回答《くわいたふ》を催告《さいこく》した。
今《い》ま試《こゝろ》みに、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]の答辯《たふべん》の要領《えうりやう》をムルドック[#「ムルドック」に傍線]の記事《きじ》に據《よ》りて擧《あ》ぐれば、概《おほむ》ね左《さ》の通《とほ》りであつた。
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第《だい》一|條《でう》に就《つい》ては、一五八六|年《ねん》(天正十四年)[#「(天正十四年)」は1段階小さな文字]五|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》の布教免許状《ふけうめんきよじやう》があつた。師父等《しふら》は之《これ》を遵奉《じゆんぽう》した迄《まで》である。
第《だい》二|條《でう》、第《だい》三|條《でう》に就《つい》ては、〔シヤルレウオの所記に據れば〕[#「〔シヤルレウオの所記に據れば〕」は1段階小さな文字]宣教師等《せんけうしら》は、決《けつ》して暴力《ばうりよく》を用《もち》ひた事《こと》はない。新《あら》たに改宗《かいしゆう》したる信徒《しんと》が、自發的《じはつてき》に神《かみ》や佛《ほとけ》の虚僞《きよぎ》なるを認《みと》め、神社佛閣《じんじやぶつかく》を破壞《はくわい》するを以《もつ》て、其《そ》の職分《しよくぶん》と思《おも》ひ、之《これ》を斷行《だんかう》するが如《ごと》きは、決《けつ》して宣教師《せんけうし》に歸《き》す可《べ》き咎《とが》でない。但《た》だ切支丹大名等《きりしたんだいみやうら》が、此事《このこと》を獎勵《しやうれい》したるに就《つい》ては、宣教師等《せんけうしら》も、無論《むろん》之《これ》を賛助《さんじよ》した。
且《か》つ宣教師等《せんけうしら》は、決《けつ》して佛教僧侶《ぶつけうそうりよ》を迫害《はくがい》した事《こと》がない。但《た》だ公會《こうくわい》の席上《せきじやう》、對論《たいろん》によりて、僧侶等《そうりよら》の誤謬《ごびう》を指摘《してき》したる迄《まで》の事《こと》に止《とゞ》まる。
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此《こ》の兩條《りやうでう》の答辯《たふべん》は、何《いづ》れも詭※[#「辧」の「刀」に代えて「力」、第3水準1-92-50]《きべん》である。宣教師等《せんけうしら》が神社佛閣《じんじやぶつかく》の破壞《はくわい》を煽動《せんどう》し、教唆《けうさ》したる事《こと》は、彼等《かれら》が本國《ほんごく》に寄《よ》せたる年報《ねんぱう》によりて、歴々《れき/\》之《これ》を證明《しようめい》することが能《あた》ふ。且《か》つ僧侶《そうりよ》を迫害《はくがい》したる事《こと》の、單《たん》に對決論判《たいけつろんぱん》に止《とゞま》らなかつたのも、亦《ま》た然《しか》りだ。虚僞《きよぎ》も方便《はうべん》としては、差支《さしつかへ》なしと云《い》へば、それ迄《まで》の事《こと》だが、宣教師等《せんけうしら》は、隨分《ずゐぶん》手前勝手《てまへがつて》の言譯《いひわけ》をしたものだ。
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第《だい》四|條《でう》に就《つい》ては、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は曰《いは》く、我等《われら》は偶《たまた》ま望《のぞ》む葡萄牙人《ほるとがるじん》の食卓以外《しよくたくいぐわい》には、決《けつ》して牛肉《ぎうにく》を喫《きつ》した事《こと》がない。我等《われら》及《およ》び同國《どうこく》の商人共《しやうにんども》は、本來《ほんらい》肉食《にくしよく》は、自國《じこく》の習慣《しふくわん》であるから、是《こ》れが爲《た》めに、日本《にほん》の感觸《かんしよく》を害《がい》す可《べ》きものとは思《おも》はなかつた。然《しか》も殿下《でんか》にして、若《も》し此事《このこと》を懌《よろこ》び給《たま》はぬとあらば、爾來《じらい》決《けつ》して之《これ》を喫《きつ》せざる可《べ》し。
第《だい》五|條《でう》に就《つい》て曰《いは》く、師父等《しふら》は、葡萄牙人《ほるとがるじん》が、日本人《にほんじん》を買《か》ひて、之《これ》を奴隷《どれい》として、印度《いんど》に鬻《ひさ》ぐを防止《ばうし》するに、餘力《よりよく》を剩《あま》さなかつた。然《しか》も殿下《でんか》にして、若《も》し其《そ》の臣民《しんみん》に向《むか》つて、此《こ》の商賣《しやうばい》を禁遏《きんあつ》し、之《これ》に關《くわん》して、諸港《しよかう》に法令《はふれい》を下《くだ》し給《たま》はゞ、此《こ》の弊事《へいじ》を杜絶《とぜつ》するや、容易《ようい》の事《こと》であらう。
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更《さ》らにクラセ[#「クラセ」に傍線]の所記《しよき》によれば、左《さ》の如《ごと》し。曰《いは》く、殿下《でんか》既《すで》に宣教《せんけう》の自由《じいう》を許《ゆる》し給《たま》ふ、是《こ》れ從《したが》つて偶像《ぐうざう》を拜《はい》するを禁《きん》じ、眞神《しんしん》に害《がい》ある社寺《しやじ》の破壞《はくわい》を、許《ゆる》し給《たま》ふ所以《ゆゑん》である。我等《われら》と佛僧《ぶつそう》とが、明暗兩立《あいあんりやうりつ》せざるは、殿下《でんか》の先代《せんだい》信長公《のぶながこう》以來《いらい》、歴然《れきぜん》の事實《じじつ》である。是《こ》れ殿下《でんか》の熟知《じゆくち》し給《たま》ふ所《ところ》である。彼等《かれら》を迫害《はくがい》こそせざれ、彼等《かれら》と一|和《わ》し難《がた》きは勿論《もちろん》である。牛肉《ぎうにく》を喫《きつ》する一|事《じ》は、歐洲《おうしう》に於《お》けるが如《ごと》く、我等《われら》皆《み》な然《しか》りだが、若《も》し殿下《でんか》の意《い》に反《はん》せば、爾來《じらい》喫《きつ》せざる可《べ》し。奴隷賣買《どれいばいばい》に就《つい》ては、我等《われら》其《そ》の事實《じじつ》を詳《つまびらか》にせず、從《したがつ》て又《ま》た其《そ》の責《せめ》に任《にん》ぜず。又《ま》た之《これ》を禁止《きんし》するの權能《けんのう》なし。偶《たまた》ま葡萄牙人《ほるとがるじん》に向《むか》つて、日本人《にほんじん》を買《か》ふ勿《なか》れと戒《いまし》めたるも、此《こ》れ以上《いじやう》の折檻《せつかん》は、我等《われら》の能《あた》はざる所《ところ》である。殿下《でんか》若《も》し葡萄牙人《ほるとがるじん》の出入《しゆつにふ》する諸港《しよかう》、及《およ》び京都《きやうと》の奉行《ぶぎやう》に向《むか》つて、嚴刑《げんけい》の下《もと》に、奴隷賣買《どれいばいばい》の禁令《きんれい》を降《くだ》し給《たま》はゞ、直《たゞ》ちに其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》し得可《うべ》しと。
兩者《りやうしや》所記《しよき》の答辯《たふべん》、何《いづ》れも大同小異《だいどうせうい》であるが、此《こ》の五|箇條《かでう》の詰問《きつもん》は、確《たし》かに宣教師等《せんけうしら》に取《と》りて、痛手《いたで》であつたに相違《さうゐ》ない。特《とく》に最後《さいご》の奴隷賣買《どれいばい/″\》の一|件《けん》は、宣教師等《せんけうしら》が顧《かへり》みて他《た》を云《い》ふ態度《たいど》を取《と》りたるに拘《かゝは》らず、彼等《かれら》の詭辯《きべん》にても、之《これ》を抹殺《まつさつ》し難《がた》き著明《ちよめい》の罪惡《ざいあく》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【七六】奴隷賣買[#中見出し終わり]

五|箇條詰問《かでうきつもん》の中《うち》にて、奴隷賣買《どれいばい/\》の一|件《けん》は、最《もつと》も重大《ぢゆうだい》であつた。然《しか》もコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、唯《た》だ言葉《ことば》を濁《にご》して、申譯《まをしわ》けしたるのみにて、其《そ》の事實《じじつ》を否定《ひてい》すること能《あた》はなかつた。それも其《そ》の筈《はず》だ。此《こ》れは葡萄牙商人《ほるとがるしやうにん》が、公々然《こう/\ぜん》行《おこな》ふ所《ところ》の罪惡《ざいあく》であつたからだ。其《そ》の詳細《しやうさい》の顛末《てんまつ》は、レオン・パゼー[#「レオン・パゼー」に傍線]がマドリッド[#「マドリッド」に二重傍線]府《ふ》の歴史學士院《れきしがくしゐん》の文庫《ぶんこ》を搜索《そうさく》して得《え》たる文書《ぶんしよ》を、其《そ》の日本耶蘇教史《にほんやそけうし》の附録《ふろく》に、採録《さいろく》したるもので分明《ぶんみやう》だ。其《そ》の一|節《せつ》に曰《いは》く、
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葡萄牙《ほるとがる》の商人《しやうにん》は勿論《もちろん》、其《そ》の水夫《すゐふ》、厨奴等《ちゆうどら》の賤《いや》しき者迄《ものまで》も、日本人《にほんじん》を奴隷《どれい》として買收《ばいしう》し、携《たづさ》へ去《さ》つた。而《しか》して其《そ》の奴隷《どれい》の多《おほ》くは、船中《せんちう》にて死《し》した。そは彼等《かれら》を無暗《むやみ》に積《つ》み重《かさ》ね、極《きは》めて混濁《こんだく》なる裡《うち》に籠居《ろうきよ》せしめ。而《しか》して其《そ》の持主等《もちぬしら》が、一たび病《やまひ》に罹《かゝ》るや─|持主《もちぬし》の中《うち》には、葡萄牙人《ほるとがるじん》に使役《しえき》せらるゝ|黒奴《こくど》も少《すくな》くなかつた─|此等《これら》の奴隷《どれい》には、一|切《さい》頓著《とんぢやく》なく、口《くち》を糊《こ》する食糧《しよくりやう》さへも、與《あた》へざる事《こと》が屡《しばし》ばあつた爲《た》めである。此《こ》の水夫等《すゐふら》は、彼等《かれら》が買收《ばいしう》したる日本《にほん》の少女《せうぢよ》と、放蕩《はうたう》の生活《せいくわつ》をなし、人前《ひとまへ》にて其《そ》の醜惡《しうあく》の行《おこなひ》を逞《たくまし》うして、敢《あへ》て憚《はゞ》かる所《ところ》なく、其《そ》の澳門《まかを》歸航《きかう》の船中《せんちう》には、少女等《せうぢよら》を自個《じこ》の船室《せんしつ》に連《つ》れ込《こ》む者《もの》さへあつた。予《よ》は今茲《いまこゝ》に葡萄牙人等《ほるとがるじんら》が、異教國《いけうこく》に於《お》ける其《そ》の小男《せうだん》、少女《せうぢよ》を増殖《ぞうしよく》─|私生兒《しせいじ》濫造《らんざう》─したる、放恣《はうし》、狂蕩《きやうたう》の行動《かうどう》と、是《これ》が爲《た》めに異教徒《いけうと》をして、呆然《ばうぜん》たらしめたる事《こと》を説《と》くを、見合《みあは》す可《べ》し。
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と。而《しか》してムルドック[#「ムルドック」に傍線]の如《ごと》きは、此《こ》の奴隷賣買《どれいばい/″\》を杜絶《とぜつ》したるは、秀吉《ひでよし》及《およ》び其《そ》の繼續者《けいぞくしや》の力《ちから》にして、耶蘇會宣教師《やそくわいせんけうし》の力《ちから》にあらざる事《こと》を、特筆《とくひつ》して居《ゐ》る。〔ムルドツク日本史〕[#「〔ムルドツク日本史〕」は1段階小さな文字]
固《もと》より此《こ》の罪惡《ざいあく》の責《せめ》は、全《まつた》く葡萄牙人《ほるとがるじん》にのみ存《そん》すとは云《い》へまい。賣《う》る者《もの》あればこそ買《か》ふ者《もの》もあれ。九|州《しう》の諸大名《しよだいみやう》が、其《そ》の戰利品《せんりひん》として、敵《てき》より掠《かす》めたる俘虜《ふりよ》の或《あ》る者《もの》、若《も》しくは罪囚《ざいしう》を、賣《う》り飛《と》ばした事《こと》もあらう。然《しか》も葡萄牙人《ほるとがるじん》が、日本國民《にほんこくみん》の或者《あるもの》を、專《もつぱ》ら商品《しやうにん》とし、輸出品《ゆしゆうひん》としたる事《こと》は、事實《じじつ》であつた。而《しか》して宣教師等《せんけうしら》が、之《これ》を袖手傍觀《しうしゆばうくわん》したのも、事實《じじつ》であつた。彼等《かれら》が此事《このこと》に干渉《かんせふ》したのは、一五九六|年《ねん》(慶長元年)[#「(慶長元年)」は1段階小さな文字]耶蘇教徒《やそけうと》たる長崎《ながさき》の年寄《としより》が、秀吉《ひでよし》の奴隷賣買禁止《どれいばい/″\きんし》の嚴令《げんれい》と、此《こ》れを犯《をか》して嚴科《げんくわ》に處《しよ》せられたる事實《じじつ》に原《もとづ》き、師父等《しふら》の反省《はんせい》を促《うなが》したるが爲《た》めに、監督《かんとく》マルチネー[#「マルチネー」に傍線]は、始《はじ》めて奴隷購買者《どれいこうばいしや》に向《むかつ》て、破門《はもん》の令《れい》を布《し》いたに過《す》ぎなかつた。
吾人《ごじん》は飜《ひるがへ》つて此《こ》の方面《はうめん》に就《つい》て、尚《な》ほより確實《かくじつ》なる資料《しれう》を持《も》つて居《ゐ》る。そは當時《たうじ》筆《ふで》に載《の》せて、九|州役《しうえき》に從《したが》ひ、秀吉《ひでよし》の座側《ざそく》に侍《じ》したる大村由己《おほむらいうき》が、其《そ》の懇親者《こんしんしや》に寄《よ》せたる文《ぶん》の一|節《せつ》である。
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一 最前便風候《さいぜんびんふうさふらう》て、そと申越候《まをしこしさふら》へ共《ども》、定而相屆間敷候《さだめてあひとゞけまじくさふらふ》。今度伴天連等能時分《こんどバテレンらよきじぶん》と思候《おもひさふらう》て、種々樣々《しゆ/″\さま/″\》の寳物《はうもつ》を山《やま》と積《つみ》、彌《いよ/\》一|宗繁昌廻[#二]計略[#一]《しゆうはんじやうのけいりやくをめぐらし》、既後戸《すでにごと》(五島)[#「(五島)」は1段階小さな文字]平戸《ひらど》、長崎抔《ながさきなど》にて、南蠻舟付毎《なんばんふねつきごと》に完備《くわんび》して、其國之國主《そのくにのこくしゆ》を傾《かたむ》け、諸宗《しよしゆう》を我邪法《わがじやほふ》に引入《ひきいれ》、それのみならず、日本仁《にほんじん》(人)[#「(人)」は1段階小さな文字]を數《すう》百|男女《だんぢよ》によらず、黒船《くろふね》へ買取《かひとり》、手足《てあし》に鐵《てつ》の鎖《くさ》りを付《つ》け、舟底《ふなぞこ》へ追入《おひいれ》、地獄《ぢごく》の呵責《かしやく》にもすぐれ、其上牛馬《そのうへぎうば》を買取《かひとり》、生《いき》ながら皮《かは》を剥《は》ぎ、坊主《ぼうず》も弟子《でし》も手《て》づから食《しよく》し、親子兄弟《おやこきやうだい》も無[#二]禮儀[#一]《れいぎなく》、只今世《たゞこんぜ》より畜生道有樣《ちくしやうだうのありさま》、目前之樣《もくぜんのやう》に相聞候《あひきこえさふらふ》。見《み》るを見《み》まねに、其近所《そのきんじよ》の日本仁《にほんじん》(人)[#「(人)」は1段階小さな文字]何《いづれ》も其姿《そのすがた》を學《まなび》、子《こ》を賣《う》り親《おや》を賣《う》り妻女《さいぢよ》を賣《う》り候由《さふらふよし》、つく/″\|被[#レ]及[#二]聞召[#一]《きこしめしおよばれ》、右之一宗御許容《みぎのいつしゆうごきよう》あらば、忽日本外道之法《たちまちにほんげだうのほふ》に可[#レ]成事案中候《なるべきことあんのぢうにさふらふ》。然《しかれ》ば佛法《ぶつぽふ》も王法《わうはふ》も、可[#二]相捨[#一]事《あひすてるべきこと》を歎《なげき》、被[#二]思召[#一]《おぼしめされ》、忝《かたじけなく》も大慈大悲被[#レ]廻[#二]御思慮[#一]候《だいじだいひのごしりよをめぐらされさふらう》て、既伴天連《すでにバテレン》の坊主《ぼうず》、本朝追拂之由被[#二]仰出[#一]候《ほんてうおひはらひのよしおほせいだされさふらふ》。就[#レ]其高山右近亮《それにつきたかやまうこんのすけ》、元來彼宗旨《ぐわんらいかのしゆうし》を其身信敬《そのみしんけいする》のみならず、主分領《しゆぶんりやう》の僧侶理不盡《そうりよりふじん》に、右《みぎ》の宗門《しゆうもん》になし候事《さふらふこと》、被[#二]聞召[#一]候《きこしめされさふらう》て、俗弟子《ぞくでし》の手《て》かたに、彼右近亮御分國被[#レ]成[#二]御拂[#一]候《かのうこんのすけのぶんこくをおんはらひなされさふらふ》。彌佛法王法繁昌《いよ/\ぶつぽふわうはふはんじやう》、天下靜謐之基《てんかせいひつのもとゐ》、不[#レ]可[#レ]過[#レ]之候《これにすぐべからずさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れをバセー[#「バセー」に傍線]の所記《しよき》と對比《たいひ》すれば、頗《すこぶ》る照應《せうおう》する點《てん》がある。
奴隷購買《どれいこうばい》は勿論《もちろん》、其《そ》の虐待《ぎやくたい》の程度《ていど》が、思《おも》ひやらるゝではない乎《か》。斯《かゝ》る事實《じじつ》を、如何《いか》に同人種《どうじんしゆ》の行爲《かうゐ》たりとて、同宗者《どうしうしや》の行爲《かうゐ》たりとて、同類《どうるゐ》の行爲《かうゐ》たりとて、平氣《へいき》にて、知《し》らぬ顏《かほ》にて、默止《もくし》して居《ゐ》たとは、耶蘇教《やそけう》の宣教師《せんけうし》として、甚《はなは》だ不都合《ふつがふ》ではない乎《か》。果《はた》して然《しか》らば、咎《とが》められたる者《もの》が惡《あ》しき乎《か》、之《これ》を咎《とが》めたる者《もの》が惡《あ》しき乎《か》。少《すくな》くとも此事丈《このことだけ》は、秀吉《ひでよし》の措置《そち》が、人道扶植《じんだうふしよく》の筋《すぢ》に合《がつ》して居《を》るものと、判斷《はんだん》せねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【七七】耶蘇教師退去の嚴命[#中見出し終わり]

コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は答辯《たふべん》の書付《かきつけ》を差《さ》し出《いだ》した。秀吉《ひでよし》は之《これ》を一|覽《らん》するや否《いな》や、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]に向《むか》つて、平戸《ひらど》に退去《たいきよ》を命《めい》じ、總《すべ》ての教師等《けうしら》を糾合《きうがふ》し、六ヶ|月以内《げついない》に、日本國内《にほんこくない》を立《た》ち去《さ》る可《べ》く云《い》ひ渡《わた》した。而《しか》して其《そ》の翌日《よくじつ》、一五八七|年《ねん》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]七|月《ぐわつ》二十五|日《にち》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]左《さ》の指令《しれい》に捺印《なついん》して、之《これ》をコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]に交付《かうふ》し、且《か》つ博多《はかた》に掲示《けいじ》した。
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一 日本者神國《にほんこくはしんこく》たる處《ところ》に、切利支丹國《きりしたんこく》より邪法《じやほふ》を授候儀《さづけさふらふぎ》、甚以不[#レ]可[#レ]然事《はなはだもつてしかるべからざること》。
一 其國郡之者《そのくにごほりのもの》を近付《ちかづけ》、門徒《もんと》に成《なし》、神社佛閣《じんじやぶつかく》を打破《うちやぶ》らせ、前代未聞《ぜんだいみもん》に候《さふらふ》。國郡《くにごほり》、在所《ざいしよ》、知行等給人《ちぎやうとうきふにん》に被[#レ]下候儀者《くだされさふらふぎは》、當時之事《たうじのこと》に候《さふらふ》。天下《てんか》よりの御法度相守《ごはつとあひまもり》、諸事可[#レ]得[#二]其意[#一]候處《しよじそのいをうべくさふらふところ》に、下々《しも/″\》として猥成儀曲事候事《みだらなるぎきよくじにさふらふこと》。
一 伴天連其智慧之法《バテレンそのちゑのほふ》を以《もつ》て、心《こゝろ》ざし次第《しだい》、檀那《だんな》を持候《もちさふら》はんと被[#二]思召[#一]候處《おぼしめされさふらふところ》に、如[#レ]右日域之佛法《みぎのごとくにちゐきのぶつぽふ》を相破候事《あひやぶりさふらふこと》、曲事《きよくじ》に候條《さふらふでう》、伴天連之儀《バテレンのぎ》、日本之地《にほんのち》には被[#レ]爲[#レ]居間敷候間《をらせられまじくさふらふあひだ》、今日《こんにち》より廿|日《か》の間《あひだ》に用意仕《よういつかまつ》り、可[#二]歸國[#一]候《きこくすべくさふらふ》。其内下々伴天連《そのうちしも/″\バテレン》に不[#レ]謂[#レ]族申懸者《やからといはずまをしかくるもの》あらば、可[#レ]爲[#二]曲事[#一]候《きよくじたるべくさふらふ》。
一 黒船之儀《くろふねのぎ》は商賣《しやうばい》の事《こと》に候間《さふらふあひだ》、各別《かくべつ》に候事《さふらふこと》。年月《ねんげつ》を經《へ》、諸事賣買可[#レ]仕事《しよじうりかひつかまつるべきこと》。
一 自今佛法《じこんぶつぽふ》の妨《さまたげ》を不[#レ]成輩《なさゞるやから》は、商人《しやうにん》の儀《ぎ》は不[#二]申及[#一]候《まをすにおよばずさふらふ》、何《なに》にても切利支丹國《きりしたんこく》より往還不[#レ]苦候條《わうくわんくるしからずさふらふでう》、可[#レ]成[#二]其意[#一]事《そのいをなすべきこと》。
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試《こゝろ》みに是《これ》を以《もつ》て、宣教師等《せんけうしら》の年報《ねんぱう》と對照《たいせう》すれば、大體《だいたい》に於《おい》て一|致《ち》して居《ゐ》る。但《た》だ彼等《かれら》の記《き》するは、『葡萄牙商人《ほるとがるしやうにん》は、其《そ》の慣行《くわんかう》の商業《しやうげふ》を營《いとな》む可《べ》く、日本《にほん》の港灣《かうわん》に入《い》るを許可《きよか》す、且《か》つ營業上《えいげふじやう》必要《ひつえう》の時間丈《じかんだけ》は、日本國《にほんこく》に滯在《たいざい》するを得《う》。然《しか》も決《けつ》して耶蘇教師《やそけうし》を連《つ》れ來《きた》るを嚴禁《げんきん》す、若《も》し此禁《このきん》を犯《をか》せば、其《そ》の船舶《せんぱく》、物貨等《ぶつくわとう》は悉《こと/″\》く沒收《ぼつしう》す可《べ》し。』との末項《まつかう》の一|節丈《せつだけ》が、聊《いさゝ》か詳明《しやうめい》を加《くは》へて居《ゐ》るのみだ。
コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、在日本《ざいにほん》の宣教師《せんけうし》を擧《あ》げて、二十|日以内《かいない》に立《た》ち去《さ》るの絶對的《ぜつたいてき》不可能《ふかのう》なる事情《じじやう》を具申《ぐしん》して、其《そ》の寛典《くわんてん》を乞《こ》うた。そは即今《そくこん》葡萄牙船《ほるとがるせん》の日本《にほん》に在《あ》るもの、僅《わづ》かに一|隻《せき》、然《しか》も其《そ》の出帆《しゆつぱん》は六ヶ|月以後《げついご》ならざれば能《あた》はぬ。此《こゝ》に於《おい》て秀吉《ひでよし》は兎《と》も角《かく》も、最初《さいしよ》に日本《にほん》より解纜《かいらん》の葡萄牙船《ほるとがるせん》にて、立《た》ち去《さ》る可《べ》し。其《そ》の場合《ばあひ》には、日本《にほん》の耶蘇會徒《やそくわいと》をも、宣教師等《せんけうしら》と一|纒《まと》めに立《た》ち去《さ》る可《べ》しと命《めい》じた。
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に、斯《か》く掌《てのひら》を反《か》へす如《ごと》く、前《まへ》には耶蘇教師《やそけうし》を寵遇《ちようぐう》して、今《い》ま乍《たちま》ち之《これ》を迫害《はくがい》した乎《か》。此《こ》れは當時《たうじ》の宣教師等《せんけうしら》は勿論《もちろん》、當時《たうじ》の日本耶蘇教史家《にほんやそけうしか》クラセ[#「クラセ」に傍線]、シヤルレウオ[#「シヤルレウオ」に傍線]抔《など》が、揣摩《しま》百|端《たん》して、尚《な》ほ其《そ》の眞相《しんさう》を摸捉《もそく》するに苦《くる》しむ所《ところ》である。
クラセ[#「クラセ」に傍線]が、此事《このこと》の遠因《ゑんいん》として擧《あ》げたるは、葡萄牙商人《ほるとがるしやうにん》の不品行《ふひんかう》である。
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日本《にほん》は平穩無事《へいをんぶじ》に、耶蘇教化《やそけうくわ》しつゝあるに際《さい》し、耶蘇《やそ》の魔敵《まてき》は、之《これ》を妨《さまた》ぐ可《べ》く、邪魔《じやま》を入《い》れた。歐羅巴《よーろつぱ》より日本《にほん》に貿易《ぼうえき》の爲《た》めに、渡來《とらい》する商人等《しやうにんら》の内《うち》に、度外《どぐわい》の放蕩漢《はうたうかん》ありて、日本《にほん》の改宗者《かいしゆうしや》に迄《まで》、嘆《たん》ず可《べ》き汚辱《をじよく》を與《あた》へた。彼等《かれら》は晝夜《ちうや》を分《わか》たず、船中《せんちう》に日本《にほん》の婦女《ふぢよ》を誘拐《いうかい》し、淫逸《いんいつ》、放縱《はうしよう》至《いた》らざる所《ところ》なかつた。されば日本人《にほんじん》は、恒《つね》に曰《いは》く、歐洲僧侶《おうしうそうりよ》の言《げん》に反《はん》し、其《そ》の商人共《しやうにんども》は、實《じつ》に不都合《ふつがふ》の事《こと》を爲《な》すと。耶蘇會友《やそくわいいう》は此等《これら》商人共《しやうにんども》を説諭《せつゆ》し、戒飭《かいちよく》するも、彼等《かれら》は毫《がう》も之《これ》を聽《き》かず、彌《いよい》よ其《そ》の肉慾《にくよく》の娯樂《ごらく》を逞《たくまし》うし、故《ことさ》らに師父等《しふら》の在住《ざいぢゆう》せざる港《みなと》に投錨《とうべう》した。
此《こ》の評判《ひやうばん》が大《おほい》に世間《せけん》に流布《るふ》したから、關白《くわんぱく》は之《これ》を聞《き》き、耶蘇教《やそけう》は不良《ふりやう》の教《をしへ》なりと想像《さうざう》し、師父等《しふら》の信仰《しんかう》は虚飾《きよしよく》にして、耶蘇教徒《やそけうと》たる大名《だいみやう》を擁《よう》して、日本國《にほんこく》を服從《ふくじゆう》せしめんとする陰謀《いんぼう》を、懷《いだ》く者《もの》と信《しん》じた。而《しか》して此事《このこと》を最初《さいしよ》に氣付《きづき》たるは、高山右近《たかやまうこん》であつた。
[#ここで字下げ終わり]
と。此《こ》れは一|應《おう》尤《もつと》もなる觀察《くわんさつ》だ。然《しか》もクラセ[#「クラセ」に傍線]は、寧《むし》ろ其《そ》の近因《きんいん》、否《い》な其《そ》の眞因《しんいん》を、他《た》の二|事《じ》に歸《き》して居《ゐ》る。其《その》一は、秀吉《ひでよし》が葡萄牙《ほるとがる》の巨舶《きよはく》を、平戸《ひらど》より博多《はかた》に廻航《くわいかう》せしめ、之《これ》を親閲《しんえつ》せんとしたるに、船長《せんちやう》が博多灣《はかたわん》の遠淺《とほあさ》なるを口實《こうじつ》として、其《そ》の命《めい》を奉《ほう》ぜざるを瞋《いか》り、其《そ》の尊嚴《そんげん》を傷《きずつ》けたるを憤《いきどほ》りて、乍《たちま》ちに師父等退去《しふらたいきよ》の命《めい》を下《くだ》したるなりと云《い》ひ。其《その》二は、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら神樣《かみさま》たらんと欲《ほつ》した、然《しか》も耶蘇教徒《やそけうと》は、之《これ》に抵抗《ていかう》するを知《し》つた爲《た》めに、教徒等《けうとら》が黨《たう》を結《むす》ばざる以前《いぜん》に、之《これ》に打撃《だげき》を加《くは》へたのであると。
是等《これら》は果《はた》して秀吉《ひでよし》の意《い》を得《え》たるものである乎《か》、否乎《いなか》。燕雀《えんじやく》安《いづく》んぞ鵠鴻《こうこう》の志《こゝろざし》を知《し》らんやだ。秀吉《ひでよし》の心事《しんじ》は、恐《おそ》らくは這般《しやはん》耶蘇教史家等《やそけうしから》の、克《よ》く端倪《たんげい》し得《う》る所《ところ》ではあるまいと思《おも》ふ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]禁令を受けたる耶蘇教徒の態度
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
秀吉耶蘇禁令を發すると同時に高山右近の明石の所領を奪ひ之を流刑に處せり。時に右近は博多附近の陣中にありしが、此の命を聞き、自ら秀吉の面前に出でゝ辯解せんとしたるも、友人危みて之を止め、右近に佛教に改宗すべきを勸めたるも、右近聽かず、士卒に告別して明石に歸り、小西行長の厚意に頼り、行長の領内湯ノ島に匿る。オルガンチノ師も、亦難を湯ノ島に避けたり。(小西肥後に國替の後、高山は前田利家に仕へて三萬石を食む、小田原の役殊功を立てゝ秀吉の寵を復せんと試みたれども、秀吉之を稱讃せしのみにて、直臣とはなさざりき)。天正十五年十月、秀吉大阪に歸らんとするに臨み、命じて有馬氏大村氏の領内にある教會堂及某々の城柵を毀たしめ、以て其の西教信者に對する餘怒を漏したりと云ふ。又大村氏に告ぐるに、長崎を收めて公邑とせんとする旨を以てし、命を葡萄牙商人に傳へ、再び宣教師を伴ひ來ること勿らしめ、又大阪、京都及堺に於ける教會堂及ゼシュイツト僧徒の住所を沒收せしめたり。コヱルホ師はゼシュイツト僧徒の一時に日本を退去すべき便船なきを理由として、六箇月の緩期を請ひ、平戸に集會して善後の策を議す、時に日本には伴天連四十人、無位の僧七十三人ありて其の中四十七人は日本人なりき、皆相約して、公開説教を止め、務めて嫌疑を避け、十二人は大村純忠の子|喜前《よしあき》に依り、五人は平戸の籠手田氏に依り、二人は毛利秀包に依り、九人は天草に、二人は五島に、其の餘は皆有馬氏に依りて時期を待ちたり。〔開國五十年史〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
         ―――――――――――――――

[#5字下げ][#中見出し]【七八】其の眞原因[#中見出し終わり]

クラセ[#「クラセ」に傍線]は更《さ》らに秀吉《ひでよし》の耶蘇教師《やそけうし》迫害《はくがい》を以《もつ》て、寂印《じやくいん》─|施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》─の讒訴《ざんそ》に歸《き》して居《を》る。其《そ》の要領《えうりやう》は左《さ》の如《ごと》しだ。
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秀吉《ひでよし》は三百の婢妾《ひせふ》を、大阪《おほさか》に殘《のこ》し置《お》いた。施藥院《せやくゐん》は、還俗僧《げんぞくそう》で、秀吉《ひでよし》の侍醫《しい》となり、且《か》つ幇間《ほうかん》である。彼《かれ》は九|州《しう》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、美人《びじん》を漁《あさ》りあるいた。彼《かれ》は此《こ》の目的《もくてき》に向《むか》つて、有馬氏《ありまし》の領地《りやうち》に赴《おもむ》いたが、宣教師《せんけうし》、及《およ》び耶蘇信者《やそしんじや》の爲《た》めに妨《さまた》げられ、復讐《ふくしう》の念《ねん》に滿《み》ちつゝ、博多《はかた》に還《かへ》つた。それは七|月《ぐわつ》廿四|日《か》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]の午後《ごご》で、秀吉《ひでよし》が三|時間《じかん》に亙《わた》りて、船中《せんちう》にコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]を訪《と》ひ、歸營《きえい》したる後《のち》であつた。恰《あたか》も秀吉《ひでよし》は船中《せんちう》より齎《もた》らし來《きた》れる、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]等《ら》献上《けんじやう》の葡萄酒《ぶだうしゆ》に醉《ゑ》ひつゝある際《さい》に、施藥院《せやくゐん》の復命《ふくめい》を聽《き》き、怒《いか》り心頭《しんとう》に發《はつ》し、大聲疾呼《たいせいしつこ》して曰《いは》く、速《すみや》かに有馬《ありま》に於《お》ける耶蘇教徒婦女《やそけうとふぢよ》の咽吭《いんかう》を刺割《せきかつ》せよと。惡僧《あくそう》─|施藥院《せやくゐん》─は、好機《かうき》乘《じよう》ず可《べ》しとなし、其《そ》の怒《いか》りの少《すこ》しく鎭《しづ》まるを見《み》て、徐《おもむろ》に曰《いは》く、婦女《ふぢよ》何《なん》の罪《つみ》かある、殿下《でんか》宜《よろ》しく、殿下《でんか》の歡樂《くわんらく》を妨《さまた》げ、嚴威《げんゐ》を冐涜《ばうとく》したる耶蘇教師《やそけうし》を處罰《しよばつ》し給《たま》へ。彼等《かれら》は宛然《ゑんぜん》九|州《しう》の君主《くんしゆ》の如《ごと》し。耶蘇教信者《やそけうしんじや》は、一|人《にん》として彼等《かれら》の命令《めいれい》に從《したが》はぬものはなく、又《ま》た殿下《でんか》の命令《めいれい》に從《したが》ふものはない。殊《こと》に高山右近《たかやまうこん》の如《ごと》きは、最《もつと》も油斷《ゆだん》のならぬ者《もの》なれば、速《すみや》かに處分《しよぶん》し給《たま》へ。
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と。シヤルレウオ[#「シヤルレウオ」に傍線]も亦《ま》た此《こ》の物語《ものがたり》に就《つい》て、呶々《どゞ》の辯《べん》を費《つひや》して居《を》る。
然《しか》も秀吉《ひでよし》が一|婦人《ぷじん》の爲《た》めに、對耶蘇教《たいやそけう》の政策《せいさく》を豹變《へうへん》したと云《い》ふは、餘《あま》りに秀吉《ひでよし》を見縊《みくび》りたる判斷《はんだん》である。勿論《もちろん》秀吉《ひでよし》は婦人關係《ふじんくわんけい》に於《おい》て、最《もつと》も暗黒面《あんこくめん》が多《おほ》かつた。されど彼《かれ》が其《そ》の肉慾《にくよく》を逞《たくまし》うする能《あた》はざるの故《ゆゑ》に、其《そ》の怒《いかり》を耶蘇教師《やそけうし》に移《うつ》して、傳來《でんらい》の政策《せいさく》を反覆《はんぷく》したとは思《おも》へない。論《ろん》より證據《しようこ》、當時《たうじ》宣教師中《せんけうしちう》の古參者《こさんしや》たるフロヱー[#「フロヱー」に傍線]の、一五九七|年《ねん》(慶長二年)[#「(慶長二年)」は1段階小さな文字]の文書《ぶんしよ》には、此《こ》の事件《じけん》に就《つい》て、明白《めいはく》の解説《かいせつ》を與《あた》へて居《を》るではない乎《か》。
此《こ》の文書《ぶんしよ》によりて見《み》れば、曾《かつ》て一五八六|年《ねん》(天正十四年)[#「(天正十四年)」は1段階小さな文字]五|月《ぐわつ》五|日《か》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]宣教師《せんけうし》に向《むか》つて、蜜《みつ》の如《ごと》き甘言《かんげん》を浴《あび》せたる施藥院全宗《せやくゐんぜんそう》は、師父等《しふら》が上流社會《じやうりうしやくわい》を改宗《かいしゆう》せしむ可《べ》く、努力《どりよく》しつゝある事《こと》を擧《あ》げて、秀吉《ひでよし》の注意《ちゆうい》を促《うな》がし、彼等《かれら》は人《ひと》の靈魂《れいこん》を救《すく》ふと稱《しよう》するも、其實《そのじつ》は日本《にほん》を征服《せいふく》せんとする方便《はうべん》であると誣《し》ひた。且《か》つ高山右近《たかやまうこん》は尤《もつと》も危險人物《きけんじんぶつ》である、何《なん》となれば、彼《かれ》は宣教師《せんけうし》の云《い》ふ儘《まゝ》に盲從《まうじゆう》する、狂信者《きやうしんじや》であると讒《ざん》した。されど秀吉《ひでよし》は、當初《たうしよ》其言《そのげん》の邪推深《じやすゐぶか》きを嘲笑《てうせう》した。然《しか》も九|州征伐《しうせいばつ》の爲《た》めに下向《げかう》し、大名共《だいみやうども》が其《そ》の家來《けらい》と與《とも》に、耶蘇教信徒《やそけうしんと》となり、同宗者《どうしゆうしや》互《たが》ひに團結《だんけつ》し、何《いづ》れも非常《ひじやう》に師父等《しふら》に歸嚮《ききやう》するを見《み》、乍《たちま》ち施藥院《せやくゐん》の言《げん》を想起《さうき》し、耶蘇教《やそけう》の宣傳《せんでん》は、帝國《ていこく》の安全《あんぜん》に有害《いうがい》なるを諒解《れうかい》した。是《こ》れ即《すなは》ち彼《かれ》が即今《そくこん》※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]言《やうげん》したる、耶蘇教嫌忌《やそけうけんき》の眞原因《しんげんいん》であると。
吾人《ごじん》は最早《もはや》フロヱー[#「フロヱー」に傍線]の解説《かいせつ》に、蛇足《だそく》を添《そ》ふる必要《ひつえう》はない。秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》耶蘇教《やそけう》を愛好《あいかう》したものではなかつた。彼《かれ》は一として耶蘇教師《やそけうし》と共鳴《きようめい》す可《べ》きものを持《も》たなかつた。然《しか》も耶蘇教師等《やそけうしら》が、彼《かれ》を利用《りよう》した如《ごと》く、彼《かれ》も亦《ま》た耶蘇教師《やそけうし》を利用《りよう》し、且《か》つ利用《りよう》せんとした。然《しか》も彼《かれ》は九|州《しう》に於《おい》て、親《した》しく耶蘇教王國《やそけうわうこく》の儼存《げんそん》するを見《み》た。彼《かれ》が九|州凱旋《しうがいせん》の際《さい》に、之《これ》に向《むか》つて大打撃《だいだげき》を加《くは》へたのは、日本統《にほんとう》一の大政策《だいせいさく》より割《わ》り出《だ》したる應機《おうき》、適當《てきたう》の施設《しせつ》と云《い》はねばならぬ。
吾人《ごじん》は決《けつ》して耶蘇會《ゼスイツト》の宣教師等《せんけうしら》を擧《あ》げて、日本征服《にほんせいふく》の野心《やしん》ある者《もの》とは認《みと》むる事《こと》能《あた》はぬ。少《すくな》くとも彼等《かれら》の或者《あるもの》は、尚《な》ほ聖撒美惠《セントザビヱー》の心《こゝろ》を心《こゝろ》としたる者共《ものども》であつたらう。彼等《かれら》は眞《しん》に神《かみ》を信《しん》じ、人《ひと》を愛《あい》する心《こゝろ》よりして、日本《にほん》を耶蘇國《やそこく》たらしめんとしたであらう。されど彼等《かれら》の手段《しゆだん》の大膽《だいたん》であり、不謹愼《ふきんしん》であり、無頓著《むとんぢやく》であり、其《そ》の目的《もくてき》の爲《た》めには、爲《な》さゞる所《ところ》なく、忍《しの》ばざる所《ところ》なかりしことは、彼等《かれら》が其《そ》の禍《わざはひ》を招《まね》いた所以《ゆゑん》の一であると、云《い》はねばばらぬ。
他日《たじつ》フランシスカン|派僧侶《はそうりよ》が、西班牙國王《すぺいんこくわう》に上《たてまつ》りし書中《しよちう》に、耶蘇會《ゼスイツト》の僧侶《そうりよ》に關《くわん》して、左《さ》の言《げん》があつた。當時《たうじ》耶蘇會切支丹《ゼスイツトきりしたん》の勢力《せいりよく》は、九|州諸大名《しうしよだいみやう》を歡誘《くわんいう》して、比律賓大守《ひりつぴんたいしゆ》の命《めい》を奉《ほう》ぜしむるに餘《あま》りあつた。然《しか》るに大友氏《おほともし》をして、此策《このさく》に出《い》でしめず、援《たすけ》を秀吉《ひでよし》に乞《こ》はしめたのは、耶蘇會《ゼスイツト》の僧侶等《そうりよら》が、西葡兩國主《せいほりやうこくしゆ》に對《たい》して、忠義《ちうぎ》の念《ねん》を缺《か》いたが爲《た》めだと。〔日本基督教氏〕[#「〔日本基督教氏〕」は1段階小さな文字]此《こ》れは寧《むし》ろ耶蘇會《ゼスイツト》に取《と》りて、雪冤《せつえん》の文字《もんじ》と認《みと》む可《べ》きであらう。
併《しか》し飜《ひるがへ》つて考《かんが》ふれば、耶蘇會《ゼスイツト》にせよ、他《た》の派《は》にせよ、當時《たうじ》外國《ぐわいこく》より來《きた》れる耶蘇宣教師等《やそせんけうしら》の中《うち》に、斯《かゝ》る不逞《ふてい》の徒《と》が、存在《そんざい》した事《こと》も、全《まつた》く否認《ひにん》は能《あた》ふまい。又《ま》た當初《たうしよ》よりして、國《くに》を擧《あ》げ、外國《ぐわいこく》の君主《くんしゆ》に歸《き》する程《ほど》の禍信《くわしん》はなき迄《まで》も、若《も》し日本《にほん》に於《お》ける主權《しゆけん》と、宣教師等《せんけうしら》の意見《いけん》と、兩立《りやうりつ》せざる場合《ばあひ》あらば、温順《をんじゆん》なる耶蘇會《ゼスイツト》の宣教師《せんけうし》と雖《いへど》も、其《そ》の信徒《しんと》をして、我意《わがい》に從《したが》はしむるは必然《ひつぜん》の事《こと》である。否《い》な平生《へいぜい》から斯《かゝ》る傾向《けいかう》に、其《そ》の信徒《しんと》を養成《やうせい》したに相違《さうゐ》ない。
其《そ》の結果《けつくわ》は奈何《いかん》。是《こ》れ一の本願寺《ほんぐわんじ》を去《さ》りて、他《た》の本願寺《ほんぐわんじ》を來《きた》したものではない乎《か》。されば日本《にほん》の治安《ちあん》に害《がい》ありとして、秀吉《ひでよし》が耶蘇會《ゼスイツト》に向《むか》つて、打撃《だげき》を加《くは》へたのは、無理《むり》でもなく、無體《むたい》でもなく、無法《むはふ》でもない。吾人《ごじん》は寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》の先見《せんけん》の明《めい》に感謝《かんしや》せねばなるまい。
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