高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第二十章 秀吉の對耶蘇教政策[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【六七】秀吉の耶蘇教處分[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は肥薩《ひさつ》の堺《さかひ》を踰《こえ》てよりは、往路《わうろ》を取《と》り、五|月《ぐわつ》廿八|日《にち》肥後水俣《ひごみなまた》を發《はつ》し、六|月《ぐわつ》七|日《か》、筑前箱崎《ちくぜんはこざき》に抵《いた》り、二十|餘日《よじつ》滯在《たいざい》し、一|切《さい》戰後《せんご》の處分《しよぶん》を了《れう》し。七|月《ぐわつ》朔日《ついたち》此地《このち》を發《はつ》し、翌日《よくじつ》關門海峽《くわんもんかいけふ》を踰《こ》えた。
吾人《ごじん》は此《こ》の二十|餘日《よじつ》彼《かれ》が箱崎《はこざき》滯在《たいざい》に就《つい》て、語《かた》る可《べ》き要件《えうけん》がある。そは申迄《まをすまで》もなく耶蘇教處分《やそけうしよぶん》の事《こと》だ。
形容《けいよう》して云《い》へば、九|州《しう》には二|個《こ》の王國《わうこく》があつた。一は島津王國《しまづわうこく》で、他《た》は耶蘇教王國《やそけうわうこく》だ。此《こ》の二|者《しや》は、何《いづ》れも日本《にほん》の統《とう》一に妨《さまた》げある團體《だんたい》であつた。されば秀吉《ひでよし》は、先《ま》づ第《だい》一の難物《なんぶつ》たる島津《しまづ》を征伐《せいばつ》して、之《これ》を日本統《にほんとう》一の圜内《くわんない》に入《い》れた。其次《そのつぎ》に來《きた》る者《もの》は、固《もと》より耶蘇教王國《やそけうわうこく》だ。若《も》し秀吉《ひでよし》が此《こ》の王國《わうこく》の九|州《しう》に存在《そんざい》するを看過《かんくわ》し、其《そ》の處分《しよぶん》を拠却《ほうきやく》して歸陣《きぢん》せん乎《か》。秀吉《ひでよし》の九|州征伐《しうせいばつ》は、殆《ほとん》ど其《そ》の意義《いぎ》を失《しつ》したるものと云《い》はねばならぬ。吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の耶蘇教《やそけう》處分《しよぶん》を見《み》て、流石《さすが》に彼《かれ》が經世的眼識《けいせいてきがんしき》と、手腕《しゆわん》とを兼備《けんび》したることを識認《しきにん》せざるを得《え》ない。而《しか》して秀吉《ひでよし》が、島津征服前《しまづせいふくぜん》に於《おい》てせず、其後《そのご》に於《おい》てしたるは、洵《まこと》に其《そ》の順序《じゆんじよ》を得《え》たものと云《い》はねばならぬ。吾人《ごじん》は此事《このこと》を諒解《りやうかい》する爲《た》めに、秀吉《ひでよし》と耶蘇教《やそけう》との關係《くわんけい》、九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の現状《げんじやう》、及《およ》び秀吉《ひでよし》が當時《たうじ》に於《お》ける、耶蘇教《やそけう》處分《しよぶん》の顛末《てんまつ》に就《つい》て、觀察《くわんさつ》するの必要《ひつえう》を覺《おぼ》ゆる。請《こ》ふ姑《しば》らく吾人《ごじん》の語《かた》る處《ところ》を聽《き》け。
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秀吉《ひでよし》は耶蘇教《やそけう》に對《たい》し、其《そ》の當初《たうしよ》は全《まつた》く信長《のぶなが》の政策《せいさく》を踏襲《たふしふ》した。即《すなは》ち耶蘇教《やそけう》を優遇《いうぐう》し、且《か》つ之《これ》を利用《りよう》した。或《あるひ》は利用《りよう》せんが爲《た》めに、優遇《いうぐう》したと云《い》うても可《か》なりだ。但《た》だ秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》よりも、總《すべ》ての宗教《しゆうけう》に對《たい》して、より自由《じいう》であり、より虚心《きよしん》であり、より解放的《かいはうてき》であつた。信長《のぶなが》は佛教《ぶつけう》の敵《てき》ではなかつたが、其《そ》の坊主《ばうず》を憎《にく》む點《てん》に於《おい》て、聊《いさゝ》か囚《とら》はれたる氣味《きみ》があつた。乃《すなは》ち信長《のぶなが》は比叡山《ひえいざん》を燒《や》いたが、秀吉《ひでよし》は之《これ》を再建《さいこん》した。信長《のぶなが》は高野山《かうやさん》を驅《か》りて、敵《てき》たらしめたが、秀吉《ひでよし》は高野山《かうやさん》の木食上人《もくじきしやうにん》を驅使《くし》して、犬馬《けんば》の勞《らう》を效《いた》さしめた。乃《すなは》ち一|向宗《かうしう》の如《ごと》きも、信長時代《のぶながじだい》には、終始《しゆうし》一|貫《くわん》、其《そ》の怨讎《ゑんしう》であつたが、秀吉時代《ひでよしじだい》には、御用宗教《ごようしゆうけう》となつた。顯如上人《けんによしやうにん》が、秀吉《ひでよし》に先《さきだ》つて、入薩《にふさつ》したる説《せつ》は、信《しん》ず可《べ》からずとするも、其《そ》の九|州出征《しうしゆつせい》の際《さい》に、『本願寺《ほんぐわんじ》並《ならびに》京堺《きやうさかひ》の徳人以下多勢御供《とくじんいかたぜいおとも》に被[#二]召具[#一]《めしぐせらる》。』〔多聞院日記〕[#「〔多聞院日記〕」は1段階小さな文字]とあれば、彼《かれ》が京《きやう》、堺《さかひ》の豪商《がうしやう》と與《とも》に、本願寺《ほんぐわんじ》の代表者《だいへうしや》─|顯如上人《けんによしやうにん》なるや否《いな》やは確《たし》かならざるも─をも同行《どうかう》したるは、明白《めいはく》の事實《じじつ》である。即《すなは》ち彼《かれ》は本願寺《ほんぐわんじ》を利用《りよう》したのだ。斯《かゝ》る次第《しだい》であれば、彼《かれ》が耶蘇教《やそけう》を毛嫌《けぎらひ》す可《べ》き理由《りいう》は決《けつ》してない。否《い》な彼《かれ》としては耶蘇教《やそけう》も、宣教師《せんけうし》も其《そ》の包容《はうよう》し得《え》らるゝ|限《かぎ》りは、之《これ》を包容《はうよう》し、而《しか》して其《そ》の利用《りよう》し得《え》らるゝ|限《かぎ》りは、之《これ》を利用《りよう》したに相違《さうゐ》あるまい。
併《しか》し秀吉《ひでよし》は、外國宣教師《ぐわいこくせんけうし》の宣教機關《せんけうきくわん》となる程《ほど》の、呆氣者《うつけもの》でない。彼《かれ》は信長《のぶなが》の如《ごと》き忌克《きこく》、嚴※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]《げんれい》、露骨《ろこつ》に自《みづか》ら用《もち》ふるを喜《よろこ》ぶ者《もの》でなかつたが、然《しか》も其《そ》の繩張内《なはばりうち》には、何人《なんびと》も踏《ふ》み込《こ》むを容《ゆる》さなかつた。其《そ》の腹底《ふくてい》に於《お》ける締屋《しまりや》としては、決《けつ》して信長《のぶなが》に劣《おと》らなかつた。但《た》だ信長《のぶなが》は徹上徹底《てつじやうてつてい》の締屋《しまりや》であり、彼《かれ》は外《ほか》は潰焉《くわいえん》たる不締屋《ふしまりや》の如《ごと》くして、内《うち》は却《かへつ》て嚴密《げんみつ》なる締屋《しまりや》であつた。然《しか》るに耶蘇宣教師等《やそせんけうしら》は、秀吉《ひでよし》の彼等《かれら》に對《たい》して、大度《たいど》なるを濫用《らんよう》し、勝手《かつて》の註文《ちゆうもん》を持《も》ち出《だ》した。秀吉《ひでよし》も當座《たうざ》は之《これ》を忍容《にんよう》せぬでもなかつた。併《しか》し親《みづか》ら九|州《しう》に赴《おもむ》き、其《そ》の實地《じつち》に就《つ》いて見《み》れば、耶蘇宣教師《やそせんけうし》の勢力《せいりよく》は、思《おも》ひの外《ほか》に強大《きやうだい》であつた。天《てん》に二|日《じつ》なしと云《い》ふも、若《も》し此儘《このまゝ》に經過《けいくわ》せば、日本《にほん》の主權《しゆけん》は─|少《すくな》くとも其《そ》の教徒等《けうとら》に對《たい》しては─|孰《いづ》れに歸《き》す可《べ》き乎《か》。頗《すこぶ》る重大《ぢゆうだい》なる禍機《くわき》が、此間《このかん》に潜伏《せんぷく》する事《こと》を確《たしか》めた。是《こゝ》に於《おい》てか秀吉《ひでよし》は、其《そ》の好機《かうき》を見計《みはから》うて、一|大打撃《だいだげき》を下《くだ》した。彼《かれ》は耶蘇教《やそけう》に何等《なんら》の好意《かうい》なきが如《ごと》く、何等《なんら》の惡意《あくい》をも持《も》たなかつた。彼《かれ》の處分《しよぶん》は、全《まつた》く政治的《せいぢてき》であつた。
[#5字下げ][#中見出し]【六八】秀吉と耶蘇教[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》と耶蘇教《やそけう》とは、本來《ほんらい》因縁《いんえん》なしでもなかつた。朝山日乘《あさやまにちじよう》と宣教師《せんけうし》フロヱー[#「フロヱー」に傍線]とが、信長《のぶなが》の面前《めんぜん》にて、論難《ろんなん》の際《さい》に、和田惟政《わだこれまさ》と與《とも》に、日乘《にちじよう》の手《て》より刀《かたな》を奪《うば》ひ取《と》つたのは、秀吉《ひでよし》であつた。〔參照 織田氏時代中篇、五二、耶蘇教と其の反對者〕[#「〔參照 織田氏時代中篇、五二、耶蘇教と其の反對者〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》が明智《あけち》、柴田等《しばたら》を退治《たいぢ》し、其《そ》の勢力《せいりよく》を中原《ちうげん》に定《さだ》むるや、豫《かね》て信長《のぶなが》に信寵《しんちよう》せられたるオルガンチン[#「オルガンチン」に傍線]は、天正《てんしやう》十一|年《ねん》高山右近《たかやまうこん》の紹介《せうかい》にて、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》して拜賀《はいが》した。秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》同樣《どうやう》の待遇《たいぐう》を彼《かれ》に與《あた》へたるのみならず、其《そ》の宣教《せんけう》の爲《た》めに、從前《じゆうぜん》に倍《ばい》するの自由《じいう》と、便宜《べんぎ》とを與《あた》へた。而《しか》して若《も》し宗規《しゆうき》が今少《いますこ》しく寛大《くわんだい》であれば、予《よ》も亦《ま》た耶蘇教徒《やそけうと》とならんと云《い》うた。〔日本西教史〕[#「〔日本西教史〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は日本人《にほんじん》の修道士《しうだうし》魯連須《ローレンス》を昵近《じつきん》せしめた。魯連須《ローレンス》は眇目《すがめ》にて、滑稽《こつけい》なる面貌《めんばう》の持主《もちぬし》であつたのみならず、其人《そのひと》も亦《ま》た滑稽《こつけい》であつた。秀吉《ひでよし》は彼《かれ》に調戯《てうぎ》して曰《いは》く、若《も》し耶蘇教《やそけう》が、一|夫《ぷ》一|婦《ぷ》の戒律《かいりつ》を勵行《れいかう》せずんば、予《よ》は悦《よろこ》んで信徒《しんと》たらむと。而《しか》して天正《てんしやう》十三|年《ねん》、小牧《こまき》の役《えき》了《をは》るや、秀吉《ひでよし》の免許《めんきよ》によりて支持《しぢ》せられたる─|信長《のぶなが》の免許《めんきよ》によりて建立《こんりふ》せられたる、安土《あづち》の學校《がくかう》を、信長《のぶなが》の死後《しご》京都《きやうと》に移《うつ》し、更《さ》らに京都《きやうと》より高山右近《たかやまうこん》の領地《りやうち》高槻《たかつき》に、而《しか》して右近《うこん》移封《いほう》の後《のち》、秀吉《ひでよし》の免許《めんきよ》にて大阪《おほさか》に移轉《いてん》したる─|宣教師學校《せんけうしがくかう》に赴《おもむ》き、校長《かうちやう》と懇談《こんだん》の末《すゑ》、語《かた》りて曰《いは》く、耶蘇教《やそけう》の規法《きはう》、悉《こと/″\》く皆《み》な予《よ》の意《い》に適《てき》す。但《た》だ一|夫《ぷ》一|婦《ぷ》の制《せい》以外《いぐわい》に、予《よ》は之《これ》を遵守《じゆんしゆ》するに於《おい》て、何等《なんら》の困難《こんなん》を感《かん》ぜぬ。若《も》し此《こ》の一|條《でう》微《なか》りせば、予《よ》は即時《そくじ》に信徒《しんと》とならむと。此《こ》れは秀吉《ひでよし》が眞面目《まじめ》の話《はなし》であつた乎《か》、將《は》た揶揄的《やゆてき》であつた乎《か》。そは想像《さうざう》の限《かぎ》りでない。
兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》は、オルガンチン[#「オルガンチン」に傍線]の請《こひ》によりて、大阪《おほさか》に教會堂《けうくわいだう》の設立《せつりつ》を許可《きよか》したのみならず、大阪城《おほさかじやう》の附近《ふきん》にて、最《もつと》も爽※[#「土へん+豈」、U+584F、347-7]《さうがい》の地點《ちてん》をば、秀吉《ひでよし》自《みづ》から踏査《たふさ》して、之《これ》を授《さづ》けた。高槻《たかつき》より明石《あかし》に移封《いほう》したる高山右近《たかやまうこん》は、直《たゞ》ちに建築《けんちく》を經始《けいし》した。而《しか》して一五八三|年《ねん》(天正十一年)[#「(天正十一年)」は1段階小さな文字]の耶蘇降誕祭日《クリスマス》には、最初《さいしよ》の彌撒祭《ミサさい》を、此《こ》の新教會堂《しんけうくわいだう》にて擧行《きよかう》した。斯《か》くて學校《がくかう》及《およ》び學校生徒《がくかうせいと》も、悉《こと/″\》く高槻《たかつき》より大阪《おほさか》に引《ひ》き移《うつ》つた。『秀吉《ひでよし》は耶蘇教徒《やそけうと》を信任《しんにん》した、彼等《かれら》の風習《ふうしふ》を嘆美《たんび》した。要《えう》するに彼《かれ》は、其《そ》の財寶《ざいはう》も、其《そ》の秘密《ひみつ》も、其《そ》の重要《ぢゆうえう》なる城寨《じやうさい》も、耶蘇教徒《やそけうと》に一|任《にん》し、而《しか》して彼《かれ》に接近《せつきん》する諸大名《しよだいみやう》の子弟《してい》が、吾人《ごじん》の習慣《しふくわん》、規法《きはふ》に遵由《じゆんゆ》するを見《み》て、之《これ》を悦《よろこ》ぶの色《いろ》あり。』とは、天正《てんしやう》十二|年《ねん》に於《お》ける、宣教師年報《せんけうしねんぱう》の一|節《せつ》である。
一五八四|年《ねん》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]十二|月《ぐわつ》(太陽暦)[#「(太陽暦)」は1段階小さな文字]、秀吉《ひでよし》の侍醫《じい》曲直瀬道《まなせだう》三の洗禮《せんれい》を受《う》けたる事《こと》は、多大《ただい》の印象《いんしやう》を周邊《しうへん》に與《あた》へた。彼《かれ》は當時《たうじ》に於《お》ける有名《いうめい》なる碩學《せきがく》にして、又《ま》た賢者《けんしや》の譽《ほま》れある人物《じんぶつ》であつた。此人《このひと》にして耶蘇教《やそけう》を信奉《しんぽう》するは、當時《たうじ》の社會《しやくわい》に耶蘇教《やそけう》の信用《しんよう》を崇《たか》むるに於《おい》て、非常《ひじやう》なる効果《かうくわ》がある可《べ》きは、固《もと》より論《ろん》を俟《ま》たぬのだ。
高山右近《たかやまうこん》─|長房《ながふさ》─が、耶蘇教《やそけう》の熱心《ねつしん》なる歸依者《きえしや》たるは勿論《もちろん》、彼《かれ》は高槻《たかつき》より明石《あかし》に移封《いほう》せらるゝや、其《そ》の領内《りやうない》に三|萬《まん》の異教者《いけうしや》あるを見《み》て、之《これ》に嚴命《げんめい》して曰《いは》く、耶蘇教徒《やそけうと》なるを欲《ほつ》せざる者《もの》は、速《すみや》かに我《わ》が領内《りやうない》を去《さ》れと。而《しか》して天正《てんしやう》十二|年《ねん》には、其《そ》の改宗的《かいしゆうてき》努力《どりよく》を、彼《かれ》が在邸《ざいてい》の地《ち》たる大阪《おほさか》に迄《まで》波及《はきふ》せしめ、魯連須《ローレンス》をして、士人《しじん》五十|人餘《にんよ》に、洗禮《せんれい》を授《さづ》けしめた。其《そ》の一|人《にん》は、實《じつ》に小西行長《こにしゆきなが》であつた。其《そ》の兄《あに》如清《じよせい》、其《そ》の父《ちゝ》隆佐《たかすけ》、及《およ》び其《そ》の母《はゝ》亦《ま》た信徒《しんと》となつた。母《はゝ》は秀吉《ひでよし》の大奧《おほおく》に事《つか》へて、右筆《いうひつ》であつた。而《しか》して小西《こにし》の父母《ふぼ》は亦《ま》た、十|人《にん》の士人《しじん》を改宗《かいしゆう》せしめた。其《そ》の中《うち》の一|人《にん》は、實《じつ》に黒田孝高《くろだよしたか》であつた。
高山《たかやま》が其《そ》の領内《りやうない》の人民《じんみん》に、耶蘇教《やそけう》を強制《きやうせい》した事《こと》は、頗《すこぶ》る佛教徒《ぶつけうと》の反抗《はんかう》を惹起《じやくき》した。彼等《かれら》は秀吉《ひでよし》の夫人《ふじん》によりて、佛教《ぶつけう》の保護《ほご》を嘆願《たんぐわん》した。夫人《ふじん》は秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、之《これ》を取次《とりつ》いだが、秀吉《ひでよし》は高山《たかやま》の領地《りやうち》は、高山《たかやま》の隨意《ずゐい》に管理《くわんり》せしめよと云《い》ひ、毫《がう》も干渉《かんせふ》せなかつた。
此《かく》の如《ごと》く秀吉《ひでよし》は、其《そ》の諸大名《しよだいみやう》、及《およ》び近臣《きんしん》の信仰《しんかう》は勿論《もちろん》、將《は》た大奧《おほおく》侍女《じぢよ》の教會堂《けうくわいだう》參詣《さんけい》をも許《ゆる》した。彼《かれ》は其《そ》の信徒《しんと》たる彼女等《かれら》の操行端正《さうかうたんせい》なるを見《み》て、寧《むし》ろ之《これ》を獎勵《しやうれい》した。而《しか》して其《そ》の大阪《おほさか》に教會堂《けうくわいだう》の成《な》るや、自《みづか》ら献堂式《けんだうしき》に參列《さんれつ》した。今《いま》や秀吉《ひでよし》と耶蘇教《やそけう》とは、極《きは》めて親密《しんみつ》の間柄《あひだがら》となつた。宣教師《せんけうし》は、秀吉《ひでよし》に於《おい》て、恰《あたか》も信長《のぶなが》に於《お》けるが如《ごと》く、其《そ》の有力《いうりよく》にして、且《か》つ聰明《そうめい》なる外護者《げごしや》を見出《みいだ》した。知《し》らず此《こ》の關係《くわんけい》は、何時迄《いつまで》繼續《けいぞく》するものぞ。
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[#6字下げ]耶蘇教徒の増加
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千五百八十七年(天正十五年)日本國内の基督教信者を算ふるに、二萬人の餘に至れり、此内、國主、貴族、將校、大臣等の貴人あり、概して之を言へば、日本の貴人中の撰と云ふ可きなり、關白殿下は聖教を尊敬せる説教者、及び之を保護する所の者を寵愛し、或は佛徒を輕視し、之を其寺院より放逐し、殿堂を燒き、且偶像を毀たしめ、或は基督信者たる諸侯に與へられたる土地は、特別なる管理をなし、或は其臣等に洗禮を受るを許可し、或は眞神の爲に寺院を建設せしめ、或は宮中に、屡師父等を招致せる而巳ならず、ガスパル、ケロ師長船中に在るとき自ら行て懇親に談話せらる、此の如く、師父等を厚惠せられたるを以て、聖教を奉ずる者の員數は、日々に増加せり、然れども殿下は、聖教を毫も感覺せることなく、却て自ら神とならんことを欲し、且歐羅巴諸國を奪領し、名聲を輝さんと欲せる、大望ある人なり。〔日本西教史〕
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[#5字下げ][#中見出し]【六九】秀吉とコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]との會見(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》と耶蘇教《やそけう》の關係《くわんけい》は、天正《てんしやう》十四|年《ねん》(クラセ、及びシャルレウオは、天正十三年とするも、ムルドック日本史は、當時通譯の任に當りたるフロヱーの言に據りて、之を天正十四年に繋ぐ。)[#「(クラセ、及びシャルレウオは、天正十三年とするも、ムルドック日本史は、當時通譯の任に當りたるフロヱーの言に據りて、之を天正十四年に繋ぐ。)」は1段階小さな文字]日本《にほん》に於《お》ける耶蘇會《ゼスイツト》の支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]が、大阪城《おほさかじやう》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》したる顛末《てんまつ》によりて、之《これ》を洞察《どうさつ》するに餘《あま》りありだ。
彼《かれ》は長崎《ながさき》より京都《きやうと》の信徒《しんと》を見舞《みま》ふ可《べ》く、一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]の春《はる》、東上《とうじやう》の際《さい》、大阪《おほさか》に於《おい》て、高山《たかやま》、小西《こにし》、黒田等《くろだら》の大名信徒《だいみやうしんと》に勸《すゝ》められて、五|月《ぐわつ》四|日《か》(太陽暦)[#「(太陽暦)」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》を求《もと》め、秀吉《ひでよし》及《およ》び其《そ》の夫人《ふじん》に謁見《えつけん》の禮物《れいもつ》を捧《さゝ》げた。彼《かれ》はフロヱー[#「フロヱー」に傍線]を通譯《つうやく》として伴《ともな》うた。他《た》に七|人《にん》の耶蘇會友《やそくわいいう》、十五|人《にん》の日本人傳道師《にほんじんでんだうし》、及《およ》び六|人《にん》の耶蘇學校《やそがくかう》を卒業《そつげふ》したる、日本士人《にほんしじん》を引具《ひきぐ》した。十五|人《にん》の日本傳道師《にほんでんだうし》の中《なか》には、勿論《もちろん》例《れい》の魯連須《ローレンス》もあつた。
京都《きやうと》にある耶蘇會徒《やそくわいと》は、何《いづ》れも平昔《へいせき》豪横《がうわう》の態度《たいど》を熟知《じゆくち》したるを以《もつ》て、支部長《しぶちやう》に對《たい》して、非禮《ひれい》、不恭《ふきよう》の待遇《たいぐう》を與《あた》へんことを危惧《きぐ》した。然《しか》も秀吉《ひでよし》の待遇《たいぐう》は、全《まつた》く意外《いぐわい》であつた。否《い》な厚遇《こうぐう》せらる可《べ》しと豫期《よき》したる支部長《しぶちやう》さへも、其《その》餘《あま》りの厚遇《こうぐう》に驚《おどろ》いた。
師父等《しふら》は先《ま》づ姑《しば》らく虎皮《こひ》、及《およ》び他《た》の獸皮《じうひ》を敷《し》かれたる待合室《まちあひしつ》に案内《あんない》せられた。秀吉《ひでよし》は禮物《れいもつ》を實見《じつけん》して、之《これ》を嘉納《かなふ》し、軈《やが》て施藥院《せやくゐん》全宗《ぜんそう》をして、師父等《しふら》を、其《そ》の謁見室《えつけんしつ》に誘導《いうだう》せしめた。秀吉《ひでよし》は華麗《くわれい》なる臺上《だいじやう》に、儼然《げんぜん》として坐《ざ》した。室内《しつない》には前田利家《まへだとしいへ》、丹後《たんご》の大名《だいみやう》─|細川忠興《ほそかはたゞおき》?─|及《およ》び毛利家《まうりけ》の使者等《ししやら》、皆《み》な秀吉《ひでよし》の命《めい》にて、師父等《しふら》の來《きた》るを待《ま》ち設《まう》けて居《ゐ》た。師父等《しふら》は秀吉《ひでよし》の容貌《ようばう》を、僅《わづ》かに觸目《しよくもく》し得《う》る程《ほど》の遠方《ゑんぱう》に座《ざ》し、膝行頓首《しつかうとんしゆ》の禮《れい》を行《おこな》うた。彼等《かれら》が式禮《しきれい》了《をは》りて退出《たいしゆつ》せんとするや、秀吉《ひでよし》は特《とく》に彼等《かれら》を召還《せうくわん》し、其《そ》の高座《かうざ》に接近《せつきん》して座《ざ》を賜《たま》うた。而《しか》して從來《じゆうらい》よりの信徒《しんと》たる高山《たかやま》一|人《にん》を除《のぞ》き、他《た》の大名等《だいみやうら》には、何《いづ》れも退出《たいしゆつ》せしめた。斯《か》くて秀吉《ひでよし》は、師父等《しふら》が萬里《ばんり》の海洋《かいやう》を渉《わた》りて、布教《ふけう》の爲《た》めに、來朝《らいてう》したる熱心《ねつしん》と、勇氣《ゆうき》とを賞《しやう》し、印度《いんど》の近状等《きんじやうとう》を質問《しつもん》し、侍臣《じしん》に命《めい》じて、日本《にほん》の食膳《しよくぜん》に、美味《びみ》の菓物《くわぶつ》を盛《も》り持《も》ち來《きた》らしめ、之《これ》を師父等《しふら》に侑《すゝ》めた。而《しか》して其《そ》の給仕者《きふじしや》は、何《いづ》れも皆《みな》信徒《しんと》のみであつた。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》は高座《かうざ》を下《お》りて、師父等《しふら》の側《かたはら》に來《きた》り、頗《すこぶ》る打《う》ち解《と》けた懇話《こんわ》をした。彼《かれ》は先《ま》づ一五六八|年《ねん》─|永祿《えいろく》十一|年《ねん》─|來《らい》の舊識《きうしき》たる通譯者《つうやくしや》フロヱー[#「フロヱー」に傍線]と、懷舊談《くわいきうだん》を始《はじ》め、須臾《しゆゆ》にして、眼《め》を支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]に轉《てん》じ、胸中《きようちう》の秘密《ひみつ》を吐《は》いた。曰《いは》く、予《よ》は國内《こくない》の禍亂《くわらん》を戡定《かんてい》して、其《そ》の秩序《ちつじよ》と、平和《へいわ》とを保《たも》つを目的《もくてき》とす、而《しか》して一たび其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》せば、更《さら》に支那《しな》を征服《せいふく》せんと欲《ほつ》す。今《いま》や是《こ》れが爲《た》め二千|艘《さう》の戰艦《せんかん》を造《つく》る命《めい》を下《くだ》さんとす。予《よ》が卿等《けいら》に需《もと》むる所《ところ》は他《た》なし、希《こひねがは》くは堅牢《けんらう》にして、武裝《ぶさう》したる葡萄牙《ほるとがる》の大船《たいせん》二|隻《せき》を周旋《しうせん》せよ、代價《だいか》、恩賞《おんしやう》は望《のぞみ》に任《まか》す可《べ》し。此《こ》の準備中《じゆんびちう》に、日本《にほん》の一|半《ぱん》は、耶蘇教國《やそけうこく》たらしむ可《べ》し。支那征服《しなせいふく》の後《のち》は、自餘《じよ》の一|半《ぱん》をも耶蘇教國《やそけうこく》たらしむ可《べ》し。予《よ》は其《そ》の時《とき》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》ばゞ、全國《ぜんこく》の都市邑村《としいふそん》に、悉《こと/″\》く教會堂《けうくわいだう》を建立《こんりふ》せしめ、人民《じんみん》をして悉《こと/″\》く耶蘇教徒《やそけうと》たらしむ可《べ》く命令《めいれい》を發《はつ》す可《べ》しと。〔日本西教史〕[#「〔日本西教史〕」は1段階小さな文字]以上《いじやう》はクラセ[#「クラセ」に傍線]の所記《しよき》であるが、更《さ》らにフロヱー[#「フロヱー」に傍線]の所傳《しよでん》として、ムルドック[#「ムルドック」に傍線]は下《しも》の如《ごと》く記《しる》して居《を》る。
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秀吉《ひでよし》はコヱルホ[#「コヱルホ」]に語《かた》りて曰《いは》く、予《よ》が日本全國《にほんぜんこく》を平定《へいてい》するの日《ひ》は近《ちか》きにあり。此上《このうへ》は土地《とち》も、富《とみ》も望《のぞ》む所《ところ》でない、唯《た》だ赫々《かく/\》たる威名《ゐめい》を、萬古《ばんこ》に傳《つた》ふるの一|事《じ》のみぢや。是《こ》れが爲《た》めに、日本《にほん》の國務《こくむ》に秩序《ちつじよ》を注入《ちゆうにふ》し、一|切《さい》を鞏固《きようこ》の基礎《きそ》に措《お》き、之《これ》を弟《おとうと》秀長《ひでなが》に依託《いたく》し、親《みづ》から進《すゝ》んで朝鮮《てうせん》、支那《しな》の征服《せいふく》に從事《じゆうじ》する筈《はず》ぢや。今《いま》や大兵《たいへい》輸送《ゆそう》の爲《た》めに、戰艦《せんかん》二千|艘《さう》を造《つく》る可《べ》く、樹木《じゆもく》伐採《ばつさい》の命《めい》を布《し》かんとする所《ところ》である。予《よ》は師父等《しふら》に、何等《なんら》の註文《ちゆうもん》なし、但《た》だ彼等《かれら》の力《ちから》によりて、葡萄牙《ほるとがる》より二|個《こ》の巨大《きよだい》にして、武裝《ぶさう》したる船《ふね》を獲來《えきた》る丈《だけ》の事《こと》のみだ。予《よ》は潤澤《じゆんたく》に其《そ》の代價《だいか》を拂《はら》ひ、且《か》つ船員等《せんゐんら》にも、最高《さいかう》の給料《きふれう》を與《あた》ふ可《べ》し。假令《たとひ》予《よ》は中途《ちうと》にて斃《たふ》るゝも、毫《がう》も遺憾《ゐかん》がない。何《なん》となれば、此《かく》の如《ごと》き偉大《ゐだい》なる計畫《けいくわく》の實行者《じつかうしや》たる名《な》は、不朽《ふきう》であるからだ。若《も》し成功《せいこう》して、支那人《しなじん》悉《こと/″\》く皆《み》な予《よ》に恭順《きようじゆん》せんか、予《よ》は支那人《しなじん》より支那《しな》を奪《うば》ふを欲《ほつ》せず、又《ま》た予《よ》自《みづか》ら支那《しな》にあるを欲《ほつ》せず。予《よ》は唯《た》だ支那人《しなじん》をして、予《よ》を其《そ》の君主《くんしゆ》と認《みと》めしむるを以《もつ》て、足《た》れりとするのみ。然《しか》る時《とき》には、其《そ》の全土《ぜんど》に教會堂《けうくわいだう》を建《た》てしめ、總《すべ》ての人民《じんみん》に令《れい》して、耶蘇教徒《やそけうと》たらしめ、聖律《せいりつ》に遵由《じゆんゆ》せしむ可《べ》し。
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と。此《これ》では秀吉《ひでよし》は、支那《しな》を征服《せいふく》して、而《しか》して後《のち》支那全國《しなぜんこく》に耶蘇教《やそけう》を強制《きやうせい》し。或《あるひ》は耶蘇教《やそけう》を強制《きやうせい》せんが爲《た》め、支那全國《しなぜんこく》を征服《せいふく》せんとする意味《いみ》とも受取《うけと》られる。
以上《いじやう》二|者《しや》の叙《じよ》する所《ところ》、多少《たせう》の異同《いどう》はあるも、秀吉《ひでよし》が夙《つと》に朝鮮《てうせん》、支那征服《しなせいふく》の志《こゝろざし》を懷《いだ》きたると、其《そ》の志望遂行《しばうすゐかう》の機關《きくわん》として、耶蘇教《やそけう》、及《およ》び宣教師《せんけうし》を利用《りよう》せんとしたる事丈《ことだけ》は、一|致《ち》して居《を》る。果然《くわぜん》秀吉《ひでよし》には秀吉《ひでよし》の目的《もくてき》があり、宣教師等《せんけうしら》には又《ま》た宣教師等《せんけうしら》の目的《もくてき》があつた。而《しか》して此《こ》の目的《もくてき》が、扞格《かんかく》、齟齬《そご》せざる限《かぎ》りは、互《たがひ》に圓滿《ゑんまん》の關係《くわんけい》を維持《ゐぢ》した。
[#5字下げ][#中見出し]【七〇】秀吉とコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]との會見(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》は朝鮮《てうせん》、支那經略《しなけいりやく》の大抱負《だいはうふ》を語《かた》りて後《のち》、更《さ》らにコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]一|行《かう》に、大阪城内《おほさかじやうない》を見物《けんぶつ》せしむ可《べ》く、其《そ》の案内《あんない》を、高山右近《たかやまうこん》に命《めい》じた。彼等《かれら》が壯麗《さうれい》なる各室《かくしつ》を縱覽中《じゆうらんちう》に、秀吉《ひでよし》は再《ふたゝ》び平服《へいふく》にて、手《て》に鍵《かぎ》を持《も》ちたる削髮《さくはつ》の侍女《じぢよ》と、盛裝《せいさう》して劍《けん》と帶《おび》とを捧《さゞ》げたる、十三|歳《さい》の少女《せうぢよ》とを隨《したが》へ、飄然《へうぜん》として出《い》で來《きた》つた。因《ちなみ》に記《しる》す、當時《たうじ》城内《じやうない》に於《お》ける、秀吉《ひでよし》の身《み》の廻《まは》りは、一|切《さい》婦人《ふじん》を使用《しよう》した。一五八四|年《ねん》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]には、百二十|人《にん》であつたが、やがて三百|人《にん》となつた。〔フロヱー〕[#「〔フロヱー〕」は1段階小さな文字]宣教師等《せんけうしら》は之《これ》を見《み》て驚《おどろ》いたが、秀吉《ひでよし》は笑《わら》つて曰《いは》く、予《よ》は諸師《しよし》を敬愛《けいあい》する事《こと》、右近《うこん》に劣《おと》る事《こと》を欲《ほつ》せず、いざ予《よ》自《みづか》ら案内《あんない》せんとて、侍女《じぢよ》をして、其《そ》の室《しつ》を開《ひら》かしめた。此等《これら》の諸室中《しよしつちう》には、種々《しゆ/″\》の珍寶《ちんぱう》が堆《うづたか》くあつた。或室《あるしつ》は全部《ぜんぶ》黄金《わうごん》を以《もつ》て飾《かざ》られ、或室《あるしつ》は全部《ぜんぶ》白銀《はくぎん》を以《もつ》て裝《よそほ》はれた。而《しか》して或室《あるしつ》には、歐洲《おうしう》の什器《じふき》と、家具《かぐ》とにて裝飾《さうしよく》せられ、四|個《こ》の寢臺《しんだい》さへも、据《す》ゑえられた。
彼等《かれら》は秀吉《ひでよし》に導《みちび》かれ、高《たか》き梯子《はしご》を躋《のぼ》りて、第《だい》八|級《きふ》の樓《たかどの》に上《のぼ》つた。此處《こゝ》よりの展望《てんばう》は、實《じつ》に絶佳《ぜつか》であつた。遙《はる》かに畿甸《きでん》の形勢《けいせい》を眺《なが》め、近《ちか》くは壕中《がうちう》に、六|萬《まん》の人夫《にんぷ》が、力役《りよくえき》しつゝあるを見《み》た。斯《か》くて更《さ》らに樓《たかどの》を下《くだ》り、秀吉《ひでよし》は自《みづか》ら茶《ちや》を點《けん》じ、先《ま》づ支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]に侑《すゝ》め、それより師父《しふ》、修道士等《しうだうしら》にも與《あた》へた。會話《くわいわ》は更《さ》らに二三|時《じ》に渉《わた》りて繼續《けいぞく》せられたが、其中《そのうち》に秀吉《ひでよし》は、左《さ》の如《ごと》き物語《ものがたり》をした。
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予《よ》は南方諸州《なんぱうしよしう》を分割《ぶんかつ》せまく欲《ほつ》す。或者《あるもの》は削《けづ》り、若《も》し命《めい》に抗《かう》するものあれば、之《これ》を覆《くつがへ》さんと欲《ほつ》すと。彼《かれ》の斯《か》く語《かた》るや、其《そ》の語氣《ごき》は眞率《しんそつ》に、其《そ》の顏色《がんしよく》は快活《くわいくわつ》に、更《さ》らに一|點《てん》の猜疑《さいぎ》の陰翳《いんえい》をも、宣教師等《せんけうしら》に向《むか》つて、被《かうむ》らしめざるを、承認《しようにん》せしむるに於《おい》て、充分《じゆうぶん》であつた。而《しか》して彼《かれ》は又《ま》た語《かた》つた。日本帝國《にほんていこく》の國土分割《こくどぶんかつ》の場合《ばあひ》には、その座《ざ》に侍《じ》したる高山右近《たかやまうこん》、小西隆佐《こにしたかすけ》─|行長《ゆきなが》の父《ちゝ》─|等《ら》に、肥前《ひぜん》を與《あた》ふ可《べ》し。而《しか》して教會《けうくわい》の爲《た》めに、長崎《ながさき》を保留《ほりう》す可《べ》し、其《そ》の保障《ほしやう》として、特許状《とくきよじやう》を下附《かふ》す可《べ》し。唯《た》だ其事《そのこと》たるや、全《まつた》く日本《にほん》を平定《へいてい》し、總《すべ》ての人質《ひとじち》を取《と》りたる後《のち》に於《おい》てす可《べ》し。何《なん》となれば、彼《かれ》は師父等《しふら》が他《た》の憎惡《ぞうを》、嫉妬《しつと》を受《う》けざる樣《やう》、諸事《しよじ》圓滑《ゑんくわつ》に解決《かいけつ》せん※[#「こと」の合字、357-8]を望《のぞ》めばなりと。而《しか》して彼《かれ》は附《つ》け加《くは》へて云《い》うた、是《こ》れ他人《たにん》の請要《せいえう》によりて然《し》かせず、唯《た》だ予《よ》が自發的《じはつてき》の布施《ふせ》として然《しか》る事《こと》を、承知《しようち》せよと。彼《かれ》が師父等《しふら》に向《むか》つて、フロヱー[#「フロヱー」に傍線]|及《およ》び魯連須《ローレンス》と朝山日乘《あさやまにちじよう》が、往年《わうねん》信長《のぶなが》の面前《めんぜん》にて、對論《たいろん》の際《さい》、日乘《にちじよう》が狂態《きやうたい》を演《えん》じたる事《こと》に言及《げんきふ》したるは、實《じつ》に當時《たうじ》の餘談《よだん》であつた。〔ムルドック日本史、クラセ日本西教史〕[#「〔ムルドック日本史、クラセ日本西教史〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の宣教師《せんけうし》優待《いうたい》は、其《そ》の傍人《ばうじん》を驚《おどろ》かしめた。秀吉《ひでよし》は何故《なにゆゑ》に他《た》の大名《だいみやう》に對《たい》する以上《いじやう》の待遇《たいぐう》を、彼等《かれら》に與《あた》へたる乎《か》。而《しか》して其《そ》の最《もつと》も不可解《ふかかい》であつたのは、宣教師《せんけうし》彼等自身《かれらじしん》であつたらう。彼等《かれら》は唯《た》だ之《これ》を神《かみ》の御惠《みめぐみ》に一|任《にん》し去《さ》つた。
翌日《よくじつ》施藥院法印《せやくゐんほふいん》は、宣教師等《せんけうしら》を訪《と》うて、昨日《さくじつ》謁見《えつけん》の大成功《だいせいこう》を賀《が》し、且《か》つ親《した》しく耶蘇學校《やそがくかう》に來《きた》り學《まな》ぶ貴族《きぞく》の子弟等《していら》を見《み》、師父《しふ》に向《むか》つて、其《そ》の萬艱《ばんかん》を凌《しの》ぎ、天涯《てんがい》の異郷《いきやう》に來《きた》り、費用《ひよう》と勞力《らうりよく》とを愛《をし》まず、宣教《せんけう》に從事《じゆうじ》し、少年《せうねん》を教養《けうやう》するを嘉《よ》みし、何事《なにごと》にもあれ我身《わがみ》に叶《かな》ふ事《こと》は、必《かなら》ず助力《じよりよく》す可《べ》しと云《い》うて還《かへ》つた。而《しか》して豈《あ》に料《はか》らんや、他日《たじつ》宣教師《せんけうし》追放論《つゐはうろん》の發頭人《ほつとうにん》は、此《こ》の巧言令色《かうげんれいしよく》なる施藥院法印《せやくゐんほふいん》ならんとは、實《じつ》に油斷《ゆだん》の出來《でき》ぬ世《よ》の中《なか》である。
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宣教師等《せんけうしら》謁見《えつけん》の夜《よ》、秀吉《ひでよし》は其《そ》の夫人《ふじん》に向《むか》つて、耶蘇教《ゼスイツト》、及《および》其《そ》の教門《けうもん》に就《つい》て語《かた》り、夫人《ふじん》が師父等《しふら》を見《み》ざるを遺憾《ゐかん》とした。夫人《ふじん》は答《こた》へて、斯《かゝ》る考《かんがへ》が御身《おんみ》に出《い》で來《きた》る可《べ》き筈《はず》なし。本來《ほんらい》此《こ》の城内《じやうない》にて、婦人《ふじん》たる者《もの》が、男子《だんし》と相見《あひみ》る可《べ》きものではないからと。然《しか》も秀吉《ひでよし》はそは決《けつ》して不都合《ふつがふ》とは思《おも》はぬ。師父等《しふら》は異邦人《いはうじん》であり、且《か》つ善良《ぜんりやう》なる人物《じんぶつ》であり、日本《にほん》と一|切《さい》の習慣《しふくわん》が殊《ことな》つて居《を》るからと辯《べん》じた。のみならず、予《よ》は彼等《かれら》の献上《けんじやう》したる道服《だうふく》が氣《き》に入《い》つたとて、夫人《ふじん》に之《これ》を著《ちやく 》せしめ、其《そ》の室内《しつない》を數回《すうくわい》歩《ある》かしめ、而《しか》して此《こ》の會話中《くわいわちう》、彼女《かれ》をして之《これ》を脱《だつ》せしめなかつた。斯《か》くて夫人《ふじん》は秀吉《ひでよし》に向《むか》ひ、予《よ》は御身《おんみ》が師父《しふ》を丁寧《ていねい》に待遇《たいぐう》し給《たま》うた事《こと》を聞《き》き、欣悦《きんえつ》に堪《た》へず、予《よ》は希《こひねが》ふ通《とほ》りの好遇《かうぐう》を、師父等《しふら》に與《あた》へ給《たま》はぬであらうと惧《おそ》れた。今《い》ま謹《つゝし》んで御身《おんみ》に向《むか》つて之《これ》を謝《しや》すと云《い》うた。夫人《ふじん》が宣教師等《せんけうしら》に慈惠《じけい》を與《あた》へたるは、洵《まこと》に神《かみ》の恩寵《おんちよう》である。何《なん》となれば、是迄《これまで》彼女《かれ》は聖法《せいはふ》に反《はん》し、我等《われら》の事《こと》に、無頓著《むとんぢやく》であつたからだ。
[#ここで字下げ終わり]
以上《いじやう》はフロヱー[#「フロヱー」に傍線]が、傳聞《でんぶん》によりて記《しる》したる年報《ねんぱう》の一|節《せつ》である。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》の左右《さいう》には、耶蘇信徒《やそしんと》多《おほ》かりしかば、何事《なにごと》も響《ひゞき》の物《もの》に應《おう》ずる如《ごと》く、宣教師等《せんけうしら》には、通報《つうはう》せられたものと思《おも》はる。
[#5字下げ][#中見出し]【七一】宣教師三箇條の要求[#中見出し終わり]
宣教師等《せんけうしら》は、秀吉《ひでよし》の好意《かうい》を利用《りよう》した。否《い》な率直《そつちよく》に云《い》へば濫用《らんよう》した。彼等《かれら》は甘《うま》く其《そ》の潮合《しほあひ》を測《はか》りて、小西行長《こにしゆきなが》の母《はゝ》、教徒名《けうとめい》デレン[#「デレン」に傍線]によりて、秀吉《ひでよし》の夫人《ふじん》に近《ちかづ》き、三|箇條《がでう》の要求《えうきう》を秀吉《ひでよし》に取次《とりつ》がんことを願《ねが》うた。夫人《ふじん》は之《これ》を承諾《しようだく》し、免許状《めんきよじやう》の書式《しよしき》を記《しる》して、是《これ》を提出《ていしゆつ》す可《べ》く命《めい》じた。三|箇條《がでう》の一は、秀吉《ひでよし》の分國内《ぶんこくない》に於《おい》て、傳道《でんだう》の自由《じいう》を得《う》る事《こと》であつた。二は耶蘇會士《やしけうと》の家屋《かおく》、及《およ》び教會堂《けうくわいだう》は、普通佛教寺院《ふつうぶつけうじゐん》の如《ごと》く、兵役《へいえき》の爲《た》めに往來《わうらい》する、兵士《へいし》の屯營《とんえい》たらしめざる事《こと》。三は大名《だいみやう》小名《せうみやう》が、其《そ》の管下《くわんか》の人民《じんみん》に課《か》する諸税《しよぜい》、諸役《しよえき》より免除《めんじよ》する事《こと》であつた。
最初《さいしよ》の一|條《でう》は、姑《しばら》く措《お》き、第《だい》二|條《でう》、第《だい》三|條《でう》は、宣教師《せんけうし》として、隨分《ずゐぶん》蟲《むし》の善《よ》き話《はなし》である。ムルドック[#「ムルドック」に傍線]が之《これ》を評《ひやう》して、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]等《ら》は、彼等《かれら》が好遇《かうぐう》せられつゝある帝國内《ていこくない》に於《おい》て、自個《じこ》及《およ》び其《そ》の一|味《み》の爲《た》めに、特權《とくけん》ある位置《ゐち》を占《し》めんと企《くはだ》てたのである。試《こゝろ》みに地《ち》を代《か》へて、佛教徒《ぶつけうと》の宣教師等《せんけうしら》が西班牙《すぺいん》、及《およ》び葡萄牙王《ほるとがるわう》非律布《フイリツプ》第《だい》二|世《せい》、若《もし》くは其《そ》の他《た》歐洲《おうしう》の加特力派《カトリツクは》の君主《くんしゆ》に、同樣《どうやう》の請要《せいえう》を持出《もちいだ》したりとせば、如何《いか》に面白《おもしろ》き事《こと》であらうと、皮肉《ひに》くりたるは、良《まこと》に合理《がふり》の批判《ひはん》と云《い》はねばならぬ。そは兎《と》も角《かく》もコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、秀吉夫人《ひでよしふじん》の命《めい》を承《う》け、愼重《しんちよう》に其《そ》の文書《ぶんしよ》を拵《こしら》へて差《さ》し出《いだ》した。
夫人《ふじん》は其《そ》の都合《つがふ》を見謀《みはか》りて、之《これ》を秀吉《ひでよし》に取《と》り次《つ》いだ。併《しか》し當初《たうしよ》は左程《さほど》の好首尾《かうしゆび》ではなかつた。秀吉《ひでよし》は其《そ》の一|條《でう》に就《つい》て、斯《か》く云《い》うた。予《よ》は天下人《てんかびと》である。今更《いまさ》ら予《よ》が分國抔《ぶんこくなど》と、限定《げんてい》する必要《ひつえう》はない。日本全國《にほんぜんこく》として然《しか》る可《べ》き事《こと》だ。第《だい》三|條《でう》は無用《むよう》である。今日《こんにち》誰《たれ》しも師父等《しふら》に難題《なんだい》を、持《も》ち掛《か》けんとする者《もの》はないではない乎《か》。併《しか》し秀吉《ひでよし》の聰明《そうめい》なる、如上《じよじやう》の三|箇條《かでう》を、免許状《めんきよじやう》に明記《めいき》する必要《ひつえう》ある理由《りいう》を、聽取《ちやうしゆ》するや、彼《かれ》は乍《たちま》ち之《これ》を承諾《しようだく》した。而《しか》して二|通《つう》の書類《しよるゐ》を差出《さしだ》す可《べ》く命《めい》じた。其《そ》の一|通《つう》は、之《これ》を日本《にほん》に留《とゞ》め置《お》き、他《た》の一|通《つう》は、歐洲《おうしう》に送《おく》り、如何《いか》に秀吉《ひでよし》が耶蘇教《やそけう》を惠顧《けいこ》するかを、耶蘇教國《やそけうこく》の諸君主《しよくんしゆ》に知《し》らしむ可《べ》く。而《しか》して兩通共《りやうつうとも》に朱印《しゆいん》を捺《お》したるのみならず、秀吉《ひでよし》自《みづか》ら其《そ》の花押《くわあふ》を書《しよ》して、之《これ》を與《あた》へた。〔ムルドック日本史〕[#「〔ムルドック日本史〕」は1段階小さな文字]
コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は此《こ》の免許状《めんきよじやう》を受取《うけと》り、オルガンチノ[#「オルガンチノ」に傍線]と與《とも》に、謝恩《しやおん》の爲《た》めに參殿《さんでん》した。秀吉《ひでよし》の彼等《かれら》を待《ま》つ、前回《ぜんくわい》に比《ひ》して、更《さ》らに一|層《そう》の慇懃《いんぎん》と、懇切《こんせつ》とを加《くは》へた。會話《くわいわ》三|時間《じかん》、師父等《しふら》の退出《たいしゆつ》せんとするや、秀吉《ひでよし》は特《とく》に彼等《かれら》を留《とゞ》めて、其《そ》の居室《きよしつ》に於《おい》て、晩餐《ばんさん》を共《とも》にし、宛《あたか》も國主《こくしゆ》大名《だいみやう》同樣《どうやう》の饗應《きやうおう》をした。彼等《かれら》は更《さ》らにマデレン[#「マデレン」に傍線]─|小西行長《こにしゆきなが》の母《はゝ》─によりて、夫人《ふじん》に感謝《かんしや》するや、夫人《ふじん》は又《ま》た皿《さら》に美菓《ぶくわ》を盛《も》りて、之《これ》を賜《たま》うた。而《しか》して其《そ》の意《い》を傳《つた》へしめて曰《いは》く、今回《こんくわい》の事《こと》は、予《よ》が尤《もつと》も滿足《まんぞく》する所《ところ》、今後《こんご》とても師父等《しふら》の爲《た》めには、必《かなら》ず吾力《わがちから》の及《およ》ぶ限《かぎ》り盡《つく》す可《べ》しと。
秀吉《ひでよし》の宣教師等《せんけうしら》に對《たい》する態度《たいど》は、大《おほ》いに天下《てんか》を驚《おどろ》かした。此《こ》の風説《ふうせつ》を聞《き》きたる者共《ものども》は、早晩《さうばん》秀吉《ひでよし》が耶蘇教徒《やそけうと》となるべきを信《しん》じた。〔日本國史〕[#「〔日本國史〕」は1段階小さな文字]浮田秀家《うきたひでいへ》の如《ごと》きも、小西行長《こにしゆきなが》に勸《すゝ》められ、秀吉《ひでよし》の與《あた》へたる免許状《めんきよじやう》と同樣《どうやう》のものを、其《そ》の分國内限《ぶんこくないかぎ》りに於《おい》て、宣教師等《せんけうしら》に與《あた》へた。黒田孝高《くろだよしたか》は、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]の爲《た》めに、毛利氏《まうりし》を説得《せつとく》した。トレー[#「トレー」に傍線]の山口《やまぐち》を追《お》はれて以來《いらい》三十|年《ねん》、毛利氏《まうりし》の領土《りやうど》、復《ま》た宣教師《せんけうし》の隻影《せきえい》だになかつた。然《しか》も黒田《くろだ》の盡力《じんりよく》にて、其《そ》の分國内《ぶんこくない》の傳道《でんだう》の自由《じいう》を得《え》たるのみならず、宣教師等《せんけうしら》は山口《やまぐち》、赤間關《あかまがせき》、伊豫《いよ》の三|所《しよ》に、其《そ》の居住《きよぢゆう》の免許《めんきよ》を得《え》た。此《かく》の如《ごと》くして豫《あらかじ》め薩兵《さつぺい》が豐後《ぶんご》を蹂躙《じうりん》して後《のち》、宣教師等《せんけうしら》が其《そ》の完全《くわんぜん》の隱家《かくれが》を得可《うべ》き準備《じゆんび》は、神意冥々《しんいめい/\》の裡《うち》に調《とゝの》うた。〔クラセ所記〕[#「〔クラセ所記〕」は1段階小さな文字]
[#5字下げ][#中見出し]【七二】秀吉の疑心[#中見出し終わり]
秀吉《ひでよし》の表面《へうめん》耶蘇教師《やそけうし》を厚遇《こうぐう》するの態度《たいど》は、毫《がう》も渝《かは》る所《ところ》なかつた。天正《てんしやう》十四|年《ねん》より十五|年《ねん》にかけて、耶蘇教《やそけう》は、秀吉《ひでよし》周邊《しうへん》の最大《さいだい》流行物《りうかうぶつ》の一となつた。多《おほ》くの大名等《だいみやうら》は、耶蘇教《やそけう》に隨喜《ずゐき》し、是《こ》れが爲《た》めに、師父等《しふら》は説教《せつけう》や、洗禮《せんれい》や、將《は》た聖餐禮《せいさんれい》施行《しかう》の準備《じゆんび》を教誨《けうくわい》する事《こと》やらにて、維《こ》れ日《ひ》も足《た》らぬ有樣《ありさま》であつた。而《しか》して其《そ》の中《なか》には、秀吉《ひでよし》の姪《をひ》にして、其《そ》の嗣子《しし》たるべき秀次《ひでつぐ》もあつた。他日《たじつ》シヤレウオ[#「シヤレウオ」に傍線]は、斯《か》く浩嘆《かうたん》した。有名《いうめい》なる改宗者《かいしゆうしや》の續出《ぞくしゆつ》する情態《じやうたい》よりして、我等《われら》は日本《にほん》が早晩《さうばん》耶蘇教《やそけう》の爲《た》めに、都合善《つがふよ》き大革命《だいかくめい》を來《き》たす可《べ》く豫期《よき》したるに、最後《さいご》に至《いた》りて踏《ふ》み止《とゞ》まつた者《もの》は、僅《わづ》かに一|兩人《りやうにん》に過《す》ぎなかつたと。此《こ》れは全《まつた》くの事實《じじつ》だ。云《い》はゞ|耶蘇教《やそけう》も、一|時《じ》の流行物《りうかうぶつ》に過《す》ぎなかつた。
秀吉《ひでよし》は此《こ》の情態《じやうたい》を見《み》て、餘《あま》りに愉快《ゆくわい》には思《おも》はなかつた。彼《かれ》は心《こゝろ》から耶蘇教《やそけう》を信《しん》ずるでもなく、又《ま》た耶蘇教師等《やそけうしら》を愛《あい》するでもなかつた。彼《かれ》は必竟《ひつきやう》之《これ》を利用《りよう》せんが爲《た》めに、一|時《じ》の方便《はうべん》として、厚遇《こうぐう》したのだ。然《しか》も其《そ》の影響《えいきやう》の餘《あま》り重大《ぢゆうだい》なるを見《み》て、心竊《こゝろひそ》かに鬼胎《きたい》を懷《いだ》かぬでもなかつた。
一|日《じつ》彼《かれ》は公然《こうぜん》明言《めいげん》した。曰《いは》く、歐洲《わうしう》の師父等《しふら》の道徳《だうとく》堅固《けんご》なるは、僞善《ぎぜん》の假面《かめん》を被《かぶ》り、日本《にほん》に對《たい》する禍心《くわしん》を包藏《はうざう》する事《こと》を、陰蔽《いんぺい》する手段《しゆだん》ではあるまい乎《か》。宛《あたか》も大阪《おほさか》の專制君主《せんせいくんしゆ》たりし、本願寺《ほんぐわんじ》門跡《もんぜき》の足跡《そくせき》を辿《たど》らんとするものではあるまい乎《か》。本願寺《ほんぐわんじ》は宛《あたか》も耶蘇教師《やそけうし》の如《ごと》く、出世間法《しゆつせけんはふ》を説《と》き、教徒《けうと》を驅《か》りて、精鋭《せいえい》の兵《へい》とした。彼《かれ》の極樂《ごくらく》は、無上《むじやう》の安樂卿《あんらくきやう》にて、教徒《けうと》は此卿《このきやう》に入《い》る可《べ》く、如何《いか》なる危險《きけん》をも冐《をか》すを敢《あへ》てせしめた。斯《かゝ》る手段《しゆだん》にて、此《こ》の賣僧《まいす》は、一|大勢力《だいせいりよく》となり、信長《のぶなが》をして、之《これ》を討平《たうへい》するに、他《た》の悉皆《しつかい》の敵《てき》を合《がつ》したよりも、より大《だい》なる困難《こんなん》と、面倒《めんだう》とを感《かん》ぜしめた。惟《おも》ふに耶蘇教徒等《やそけうとら》、亦《ま》た此類《このるゐ》ではあるまい乎《か》と。
此《こ》れは秀吉《ひでよし》としては、當然《たうぜん》生《しやう》ず可《べ》き疑問《ぎもん》であつた。彼《かれ》が耶蘇教《やそけう》を、一|向宗《かうしゆう》と對照《たいせう》し、其《そ》の俗權《ぞくけん》以外《いぐわい》に、若《も》しくは以上《いじやう》に、教權《けうけん》を特立《とくりつ》せしめんとする一|點《てん》を看破《かんぱ》し、是《これ》を以《もつ》て日本《にほん》統《とう》一|事業《じげふ》の障礙物《しやうがいぶつ》たる可《べ》く懸念《けねん》したるは、流石《さすが》に大活眼《だいくわつがん》、大見識《だいけんしき》と云《い》はねばならぬ。併《しか》し秀吉《ひでよし》は決《けつ》して輕卒《けいそつ》に事《こと》を做《な》すを好《この》まなかつた。彼《かれ》は一|方《ぱう》には斯《かゝ》る疑心《ぎしん》を懷《いだ》きつゝ、他方《たはう》には依然《いぜん》師父等《しふら》を厚遇《こうぐう》し、彼等《かれら》の要求《えうきう》、若《も》しくは希望《きばう》を聽納《ちやうなふ》するに遲疑《ちぎ》せなかつた。されば當時《たうじ》に於《おい》ては、彼等《かれら》の多《おほ》くの者《もの》が、秀吉《ひでよし》を見《み》て、改宗宣教《かいしゆうせんけう》の偉大《ゐだい》なる機關《きくわん》と做《な》したるも、決《けつ》して不思議《ふしぎ》ではなかつた。
秀吉《ひでよし》が耶蘇教《やそけう》の處分《しよぶん》を、九|州征伐後迄《しうせいばつごまで》差《さ》し控《ひか》へたのは、何故《なにゆゑ》であつた乎《か》。其《その》一は、彼等《かれら》を九|州《しう》、及《およ》び海外經略《かいぐわいけいりやく》に利用《りよう》する爲《ため》であつたらう。吾人《ごじん》は如何《いか》なる程度迄《ていどまで》、秀吉《ひでよし》が九|州征伐《しうせいばつ》に耶蘇教師《やそけうし》を利用《りよう》したかを、確《たしか》む可《べ》き資料《しれう》を持《も》たぬ。併《しか》しながら彼《かれ》が唐津《からつ》、博多《はかた》の豪商《がうしやう》を利用《りよう》し、本願寺《ほんぐわんじ》を利用《りよう》し、あらゆる者《もの》を利用《りよう》したる事情《じじやう》より類推《るゐすゐ》すれば、必《かなら》ず利用《りよう》する所《ところ》あつたに相違《さうゐ》あるまい。
大友《おほとも》を首《はじめ》として、秀吉側《ひでよしがは》は所謂《いはゆ》る切支丹大名《きりしたんだいみやう》が少《すくな》くなかつた。耶蘇教《やそけう》は九|州《しう》に龍蟠虎踞《りゆうばんこきよ》した。されば少《すくな》くとも彼等《かれら》を諜報機關《てふはうきくわん》の一に使用《しよう》したに相違《さうゐ》あるまい。コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]が一五八四|年《ねん》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]の末《すゑ》、長崎《ながさき》より上方《かみがた》に赴《おもむ》かんとするや、有馬晴信《ありまはるのぶ》は、之《これ》を延期《えんき》せんことを請《こ》うた。そは今《いま》や晴信《はるのぶ》は薩摩《さつま》に赴《おもむ》かんとするに際《さい》し、耶蘇教支部長《やそけうしぶちやう》が、此行《このかう》あるは、甚《はなは》だ當惑《たうわく》と云《い》ふ理由《りいう》であつた。即《すなは》ち晴信《はるのぶ》は耶蘇教徒《やそけうと》で、且《か》つ當時《たうじ》島津《しまづ》の與國《よこく》であつたから、其《そ》の師父《しふ》が上方《かみがた》に赴《おもむ》くは、島津《しまづ》より痛《いた》くもなき腹《はら》を探《さぐ》らるゝを惧《おそ》れたのだ。
加之《しかのみならず》、一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]十二|月《ぐわつ》、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]が船《ふね》に乘《の》り纜《ともづな》を解《と》かんとするや、薩摩《さつま》の使者《ししや》たる二|個《こ》の士人《しじん》來《きた》り、師父《しふ》に向《むか》つて、決《けつ》して豐後《ぶんご》若《も》しくは上方《かみがた》に赴《おもむ》くなからんことを請《こ》ひ、若《も》し之《これ》を聽《き》かざるに於《おい》ては、刺殺《せきさつ》す可《べ》き内命《ないめい》を受《う》けて來《き》た旨《むね》を告《つ》げた。是《こ》れが爲《た》めにコヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]は、一五八六|年《ねん》(天正十四年)[#「(天正十四年)」は1段階小さな文字]三|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]迄《まで》延期《えんき》した。薩摩側《さつまがは》にて、師父等《しふら》の上京《じやうきやう》を、斯《か》く迄《まで》抑留《よくりゆう》したる理由《りいう》は、却《かへつ》て如何《いか》に秀吉《ひでよし》が師父等《しふら》を、九|州征伐《しうせいばつ》に利用《りよう》したる、一の證案《しようあん》と見《み》る可《べ》きではあるまい乎《か》。
[#5字下げ][#中見出し]【七三】九州に於ける耶蘇教の勢力[#中見出し終わり]
耶蘇教《やそけう》は、九|州《しう》に於《おい》て、其《そ》の容易《ようい》に動《うご》かす可《べ》からざる根據《こんきよ》を見出《みいだ》した。而《しか》して長崎《ながさき》は實《じつ》に、耶蘇會師父等《やそくわいしふら》の領土《りやうど》と認《みと》む可《べ》きものであつた。彼等《かれら》は年々《ねん/\》長崎《ながさき》、及《およ》び茂木《もぎ》より若干《じやくかん》の收入《しうにふ》を獲《え》たるのみならず、一五八四|年《ねん》(天正十二年)[#「(天正十二年)」は1段階小さな文字]有馬晴信《ありまはるのぶ》が、島津氏《しまづし》の兵《へい》を假《か》りて、島原《しまばら》に於《おい》て、龍造寺氏《りゆうざうじし》に※[#「捷の異体字」、U+3A17、367-8]《か》つや、浦上《うらかみ》をも彼等《かれら》に與《あた》へた。事實《じじつ》に於《おい》ては宣教師等《せんけうしら》は、是等《これら》の地方《ちはう》に於《お》ける領主《りやうしゆ》であつた。クラセ[#「クラセ」に傍線]は曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
耶蘇教師等《やそけうしら》が、長崎《ながさき》に居住《きよぢゆう》を定《さだ》むる時《とき》は、戸數《こすう》五百に充《み》たなかつたが、其《そ》の後《ご》歐洲《おうしう》の船舶《せんぱく》來舶《らいはく》し、日《ひ》を追《おう》て繁昌《はんじやう》に赴《おもむ》き、一五九〇|年《ねん》(天正十八年)[#「(天正十八年)」は1段階小さな文字]に於《おい》ては、歐洲《おうしう》の商船《しやうせん》、三|月《ぐわつ》より六|月迄《ぐわつまで》碇泊《ていはく》するの際《さい》、各地《かくち》より來往《らいわう》する商工《しやうこう》を除《のぞ》き、土著《どちやく》の者《もの》のみにて、五千|人《にん》の多《おほ》きに達《たつ》した。
[#ここで字下げ終わり]
と。又《ま》た大村家覺書《おほむらけおぼえがき》に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
元龜《げんき》元年《ぐわんねん》庚午[#「庚午」は1段階小さな文字]|春《はる》、南蠻人《なんばんじん》長崎《ながさき》に入津《にふしん》して、商賣《しやうばい》せん事《こと》を、純忠《すみたゞ》(大村)[#「(大村)」は1段階小さな文字]に請《こ》ふ。元龜《げんき》二|年《ねん》辛未[#「辛未」は1段階小さな文字]三|月《ぐわつ》、純忠家士《すみたゞかし》朝長對馬《ともながつしま》に命《めい》じて、長崎町割奉行《ながさきまちわりぶぎやう》とし、島原町《しまばらまち》、大村町《おほむらまち》、文知町《もんちまち》、外浦町《そとうらまち》、平戸町《ひらとまち》、横瀬浦町《よこせうらまち》を地割《ぢわり》す。右《みぎ》六|町《ちやう》を内町《うちまち》と云《い》ふ、是所《こゝ》を蠻船商估《ばんぱくしやうこ》の津《つ》と定《さだ》む。爾後《じご》南蠻船《なんばんせん》年々《ねん/\》入津《にふしん》繁榮《はんえい》によりて、段々《だん/″\》町數《まちかず》立添《たちそひ》、慶長年中《けいちやうねんちう》には、内外《ないぐわい》の町數《ちやうすう》合《がつ》して、六十六|町《ちやう》となれり。
[#ここで字下げ終わり]
と。何《いづ》れにもせよ、長崎《ながさき》の繁昌《はんじやう》は、異常《いじやう》であつた。此《かく》の如《ごと》き要地《えうち》を、宣教師等《せんけうしら》の專有《せんいう》に一|任《にん》するは、決《けつ》して日本統《にほんとう》一を目的《もくてき》とする、秀吉《ひでよし》の容認《ようにん》し得《う》る限《かぎ》りでなかつた。
宣教師等《せんけうしら》は、傳道《でんだう》の手段《しゆだん》として、先《ま》づ大名《だいみやう》を擒《とりこ》にする事《こと》を、※[#「捷の異体字」、U+3A17、368-13]徑《せふけい》と認《みと》めた。日本《にほん》に於《おい》ては、改宗《かいしゆう》は上《かみ》より命令的《めいれいてき》に宣告《せんこく》す可《べ》きものであるとは、彼等《かれら》が實驗上《じつけんじやう》の知識《ちしき》であつた。而《しか》して九|州《しう》に於《おい》て、彼等《かれら》に其《そ》の實例《じつれい》を示《しめ》したるは、大友《おほとも》、大村《おほむら》、有馬等《ありまら》の諸大名《しよだいみやう》であつた。當時《たうじ》彼等《かれら》の文章《ぶんしよ》に徴《ちよう》すれば、大友《おほとも》フランソアー[#「フランソアー」に傍線](宗麟)[#「(宗麟)」は1段階小さな文字]大村《おほむら》バルテルミー[#「バルテルミー」に傍線](純忠)[#「(純忠)」は1段階小さな文字]の如《ごと》きは、殆《ほとん》ど模範的《もはんてき》聖徒《せいと》らしくあつた。吾人《ごじん》は二|人《にん》が果《はた》して、然《しか》るや否《いな》やを詳《つまびら》かにせぬ、併《しか》し二|人《にん》が宣教師《せんけうし》をして、斯《かゝ》る頌徳表《しようとくへう》を上《たてまつ》らしむる丈《だけ》に、彼等《かれら》に隨喜渇仰《ずゐきかつかう》した事《こと》は、確《たし》かに事實《じじつ》だ。此《こ》の事實《じじつ》は大日本統《だいにほんとう》一|者《しや》たる秀吉《ひでよし》として、決《けつ》して見逃《みのが》す可《べ》からざるものだ。二|人《にん》のみならず、總《すべ》ての切支丹大名《きりしたんだいみやう》、若《も》しくは小名《せうみやう》なるものが、何《いづ》れも同樣《どうやう》であつた事《こと》は、云《い》ふ迄《まで》もない。
今《い》ま假《か》りに一|切《さい》の強制的《きやうせいてき》壓力《あつりよく》を控除《こうぢよ》して、秀吉《ひでよし》は右《みぎ》せよ、宣教師《せんけうし》は左《ひだり》せよと云《い》はゞ、此《こ》の切支丹大小名《きりしたんだいせうみやう》は、何《いづ》れに與《く》みしたであらう乎《か》。吾人《ごじん》は悉《こと/″\》く皆《み》な然《しか》りとは斷言《だんげん》せぬ。併《しか》し多《おほ》くの場合《ばあひ》に於《おい》て、師父等《しふら》は、切支丹大小名《きりしたんだいせうみやう》の教導者《けうだうしや》であり、支配者《しはいしや》であつた事《こと》は、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。大友《おほとも》一|家《け》の如《ごと》きは、殆《ほとん》ど宣教師等《せんけうしら》の爲《た》めに、家國《かこく》を掻《か》き廻《まは》された。其《そ》の他《た》程度《ていど》こそ相違《さうゐ》あれ、大體《だいたい》に於《おい》て、大村《おほむら》でも、有馬《ありま》でも、天草種元《あまくさたねもと》でも、概《おほむ》ね然《しか》らざるはなしと云《い》ひ得可《うべ》きであらう。
宣教師等《せんけうしら》は、天國《てんごく》の鍵《かぎ》と與《とも》に、貿易《ぼうえき》の鍵《かぎ》を握《にぎ》つた。されば九|州《しう》に於《お》ける非耶蘇教《ひやそけう》の大名《だいみやう》たる、松浦《まつうら》でも、龍造寺《りゆうざうじ》でも、島津《しまづ》でも、此《こ》れには少《すくな》からず痛手《いたで》を感《かん》じた。島津《しまづ》の如《ごと》きも、若《も》し宣教師等《せんけうしら》にして、商船《しやうせん》の來舶《らいはく》さへ保障《ほしやう》すれば、此方《このはう》に於《おい》ても、宣教《せんけう》の保障《ほしやう》を與《あた》ふ可《べ》しと云《い》うた。島津義久《しまづよしひさ》は、一五八二|年《ねん》(天正十年)[#「(天正十年)」は1段階小さな文字]鹿兒島《かごしま》に、耶蘇會《ゼスイツト》の足溜《あしだまり》を作《つく》らんとしたが、是《こ》れが爲《た》めに騷擾《さうぜう》を惹起《じやくき》し、彼《かれ》の寵臣《ちようしん》の一|人《にん》が、アルメーダ[#「アルメーダ」に傍線]と懇親《こんしん》なりし故《ゆゑ》を以《もつ》て暗殺《あんさつ》せられた等《とう》の事故《じこ》より、之《これ》を中止《ちうし》した。而《しか》して其《そ》の暗殺《あんさつ》の一|味《み》の者《もの》は、逃《のが》れて秀吉《ひでよし》に投《とう》じて、却《かへつ》て探偵《たんてい》の用《よう》をなした。〔ムルドック日本史〕[#「〔ムルドック日本史〕」は1段階小さな文字]島津《しまづ》とても根本的《こんぽんてき》に耶蘇教《やそけう》の敵《てき》ではなかつた。
阿久根《あくね》には、或《あ》る葡萄牙人《ほるとがるじん》が、二|人《にん》の子《こ》ある日本婦人《にほんふじん》の妾《せふ》と同棲《どうせい》しつゝあり。アルメーダ[#「アルメーダ」に傍線]は彼《かれ》に向《むか》つて、結婚《けつこん》すべき旨《むね》を諭告《ゆこく》した。此《こ》れは一五六一|年《ねん》(永祿四年)[#「(永祿四年)」は1段階小さな文字]の事《こと》であつた。斯《かゝ》る事實《じじつ》は薩人《さつじん》と、葡萄牙人《ほるとがるじん》との交通《かうつう》の如何《いかん》を見《み》るに足《た》るではない乎《か》。一五七六|年《ねん》(天正四年)[#「(天正四年)」は1段階小さな文字]九|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]ガブラル[#「ガブラル」に傍線]書簡《しよかん》に、『最近《さいきん》三|年間《ねんかん》、薩摩君主《さつまくんしゆ》は、書簡《しよかん》及《およ》び贈物《おくりもの》を齎《もた》らして、頻《しき》りに宣教師《せんけうし》を送《おく》らんことを求《もと》めた。只今《たゞいま》も二|人《にん》の僧侶《そうりよ》が、其《そ》の特使《とくし》として、同樣《どうやう》の要請《えうせい》を催告《さいこく》す可《べ》く來《きた》つた。』とあり。又《ま》た一五八二|年《ねん》(天正十年)[#「(天正十年)」は1段階小さな文字]二|月《ぐわつ》(陽暦)[#「(陽暦)」は1段階小さな文字]の年報中《ねんぱうちう》にも、薩摩君主《さつまくんしゆ》は、葡萄牙商船《ほるとがるしやうせん》が、來舶《らいはく》せんことを欲《ほつ》し、若《も》し教會堂《けうくわいだう》あり、耶蘇信徒《やそしんと》あらば、來泊《らいはく》に便宜《べんぎ》多《おほ》からんとて、此等《これら》の事《こと》に付《つ》き、師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]、支部長《しぶちやう》コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]と商議《しやうぎ》せんことを求《もと》めた。而《しか》して師父《しふ》が豐後《ぶんご》より、島津《しまづ》の領土《りやうど》を經由《けいゆ》するや、島津《しまづ》は彼《かれ》を驩迎《くわんげい》し、刀劍《たうけん》及《およ》び名馬《めいば》を、印度副王《いんどふくわう》に贈《おく》り、師父等《しふら》、及《およ》び葡萄牙人《ほるとがるじん》と懇親《こんしん》を求《もと》めた。師父《しふ》が上船《じやうせん》せんとするや、更《さ》らに其《そ》の都府《とふ》に於《おい》て、師父等《しふら》の住宅《ぢゆうたく》、及《およ》び教會堂《けうくわいだう》の敷地《しきち》を寄附《きふ》し、其《そ》の領内《りやうない》に於《おい》て、何人《なんびと》たりとも信徒《しんと》たるの自由《じいう》を與《あた》ふ可《べ》く約《やく》した。但《た》だ義久《よしひさ》は僧侶等《そうりよら》の反對《はんたい》の爲《た》めに、之《これ》を斷行《だんかう》し得《え》なかつたのみであつたと、特筆《とくひつ》して居《ゐ》る。
乃《すなは》ち龍造寺《りゆうざうじ》の如《ごと》きも、耶蘇宣教師《やそせんけうし》よりは、異端《いたん》の權化《ごんげ》として、取《と》り扱《あつか》はれたるも、尚《な》ほ外國人《ぐわいこくじん》の唐津《からつ》に來《きた》らんことを望《のぞ》み、隆信《たかのぶ》の第《だい》三|子《し》は、受洗《じゆせん》せんと申《まを》し出《い》でた。但《た》だワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]の掛引《かけひき》が、餘《あま》りに龍造寺《りゆうざうじ》に向《むか》つて、辛辣《しんらつ》なりしが爲《た》めに、遂《つひ》に不調《ふてう》になつた。乃《すなは》ち秋月《あきづき》の如《ごと》きも、其《そ》の博多《はかた》を取《と》るや、亦《ま》た宣教師《せんけうし》に交讓《かうじやう》し、貿易《ぼうえき》の利《り》に與《あづか》らんとした。然《しか》も其《そ》の意《い》の如《ごと》くならざりしが爲《た》めに、遂《つひ》に其《そ》の領内《りやうない》に於《おい》て、耶蘇教《やそけう》の宣布《せんぷ》を禁止《きんし》したのだ。
ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]は、耶蘇會《やそくわい》の勢力《せいりよく》を、九|州《しう》の治者階段《ちしやかいだん》に扶植《ふしよく》せんが爲《た》めに、有馬《ありま》に於《おい》て學校《がくかう》を建立《こんりふ》した。此《こ》れは貴族《きぞく》の少年子弟《せうねんしてい》を教養《けうやう》するものにして、其《そ》の科目《くわもく》は、日本語《にほんご》、葡萄牙語《ほるとがるご》、拉典語等《らてんごとう》にて、圖畫《づぐわ》、彫刻《てうこく》、音樂《おんがく》、特《とく》に加特力教《カトリツク》の神學《しんがく》を、學習《がくしふ》せしむるが爲《た》めであつた。而《しか》して日本《にほん》より羅馬法皇《ろーまほふわう》に特派《とくは》したる、大友《おほとも》、大村《おほむら》、有馬《ありま》の使節《しせつ》たる四|人《にん》の少年《せうねん》は、何《いづ》れも其《そ》の一|年《ねん》を、此《こ》の學校《がくかう》に送《おく》つた者共《ものども》であつた。彼等《かれら》の出立《しゆつたつ》は、天正《てんしやう》十|年《ねん》の初《はじめ》であつた。
九|州《しう》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》最初《さいしよ》の流行地《りうかうち》たる豐後《ぶんご》には、一五八六|年《ねん》(天正十四年)[#「(天正十四年)」は1段階小さな文字]一|萬《まん》五千|人《にん》の受洗者《じゆせんしや》あり、六|萬《まん》の信徒《しんと》あり。有馬《ありま》、及《およ》び大村《おほむら》に於《おい》ては、十二|萬人《まんにん》の改宗者《かいしゆうしや》あり。九|州全土《しうぜんど》を擧《あ》ぐれば、二十|萬《まん》に庶幾《ちか》かつた。然《しか》も其《そ》の勢力《せいりよく》は、數《すう》よりも質《しつ》にあつた。彼等《かれら》は九|州《しう》に於《お》ける大名《だいみやう》、及《およ》び諸將《しよしやう》を支配《しはい》し、且《か》つ貿易《ぼうえき》の鍵《かぎ》を以《もつ》て、與奪《よだつ》、操縱《さうじゆう》の權《けん》を逞《たくまし》うした。宣教師等《せんけうしら》は、時《とき》としては諸大名《しよだいみやう》の内治外交《ないちぐわいかう》にも、關係《くわんけい》した。時《とき》としては双方《さうはう》の調停者《てうていしや》ともなつた。時《とき》としては一|方《ぱう》の後援者《こうゑんしや》ともなつた。兵器彈藥《へいきだんやく》さへも、彼等《かれら》の手《て》によりて供給《きようきふ》せられたのみならず、兵士《へいし》、戰艦《せんかん》をも亦《ま》た然《し》かせし場合《ばあひ》もあつた。彼等《かれら》は九|州《しう》に於《おい》て、潜在《せんざい》したる耶蘇王國《やそわうこく》を建設《けんせつ》した。大日本統《だいにほんとう》一の使命《しめい》を負《お》ふ秀吉《ひでよし》は、此《こ》の形勢《けいせい》を看過《かんくわ》する譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。
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[#6字下げ]長崎耶蘇教徒の有となる
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一、長崎甚左衞門純景(長崎邑主)始は軍中にて頼純と名乘、二十五歳の時本國の城主大村丹後守の聟となる、然に甚左衞門に實子なきゆゑに有馬修理大夫の末子龍松と云兒を養子せり、時に一百七代正親町院御宇元龜元庚午年肥前佐賀の城主龍造寺隆信より大村丹後守を責んとする由沙汰あり、此時甚左衞門は大村の聟たりし故に長崎を質物に入て銀百貫目南蠻人に借用し軍器を調達して大村に籠城す、其後長崎には不[#レ]還、南蠻人の地となりぬ、今大村之家中に大村|工匠《たくみ》助と代々名乘るは龍松が子孫なり。
一、其後甚左衞門に實子ありて今長崎を苗字とするは甚左衞門の的孫なり、其時大村新八郎入道理專より時津村を給はる、甚左衞門七十三歳まで存命せり、時に長崎村浦上村の田畠は銀の代に南蠻人奇觀(耶蘇教)の知行處に證文改之者也。
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或本には大村利仙、有馬仙岩とある、又專岩と文字に異同あり、奇觀とは邪宗寺の事なり。
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一、其比は長崎に十一ヶ所の奇觀あり、其内三所は本寺なり、三所年番にて此處を領地せり、此事は島原の城主有馬修理大夫義純入道專岩と大村の城主大村新八郎入道理專と兩人してあつかひなり。〔肥前國彼杵郡長崎邑略記〕
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