第十九章 九 州 平 定
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十九章 九 州 平 定[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【六一】薩軍の降伏[#中見出し終わり]

却説《さて》、日向口《ひふがぐち》に集中《しふちう》したる薩軍《さつぐん》の主力《しゆりよく》は、根白坂《ねじろざか》の夜襲《やしふ》に失敗《しつぱい》し、愈《いよい》よ上方勢《かみがたぜい》の侮《あなど》る可《べ》からざるを知《し》り、加《くは》ふるに筑肥方面《ちくひはうめん》の敗報《はいはう》、櫛《くし》の齒《は》を挽《ひ》く如《ごと》く、士氣《しき》頗《すこぶ》る沮喪《そさう》した。是《こゝ》に於《おい》てか講和論《かうわろん》は期《き》せずして、薩軍《さつぐん》の中《うち》より湧《わ》き出《い》でた。然《しか》も薩軍《さつぐん》に其《そ》の機會《きくわい》を與《あた》へたるは、足利義昭《あしかゞよしあき》の特派《とくは》したる講和使《かうわし》であつた。此《こ》れは義昭《よしあき》の自發的《じはつてき》であつた乎《か》、將《は》た秀吉《ひでよし》の諷示《ふうし》に出《い》でたる乎《か》、その詮議《せんぎ》は姑《しば》らく措《お》き、義昭《よしあき》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》十二|月《ぐわつ》四|日附《かづけ》を以《もつ》て、島津義久《しまづよしひさ》に當《あ》て、
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今度秀吉其國鉾楯之段《このたびひでよしそのくにむじゆんのだん》、無[#二]心元[#一]候《こゝろもとなくさふらふ》。然者和睦之儀《さればわぼくのぎ》、是非共相※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]度候《ぜひともあひあつかひたくさふらふ》。就[#レ]其差[#二]下一色駿河守[#一]《それにつきいつしきするがのかみをさしくだす》(明秀)[#「(明秀)」は1段階小さな文字]條《でう》、入眼可[#二]目出[#一]《にふがんめでらるべく》、猶昭光《なほあきみつ》(眞木島)[#「(眞木島)」は1段階小さな文字]可[#レ]申候也《まをすべくさふらふなり》。
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との書《しよ》を與《あた》へ、而《しか》して義久《よしひさ》は之《これ》に向《むか》つて、四|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》にて、眞木島昭光《まきじまあきみつ》(玄蕃頭)[#「(玄蕃頭)」は1段階小さな文字]に當《あ》て、左《さ》の答書《たふしよ》を與《あた》へて居《を》る。
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去《さる》十二|月《ぐわつ》四|日《か》御内書《ごないしよ》、三|月《ぐわつ》五|日《か》謹而頂戴《つゝしんでちやうだい》、忝次第候《かたじけなきしだいにさふらふ》。抑就[#二]不慮防戰[#一]《そも/\ふりよのぼうせんにつき》、爲[#二]御※[#「口+愛」、第3水準1-15-23][#一]被[#レ]加[#二]御下知[#一]候事《おんあつかひのためごげちをくはへられさふらふこと》、誠外聞實儀《まことにぐわいぶんじつぎ》、過當至極候《くわたうしごくにさふらふ》。然者雖[#二]愚意多々候[#一]《さればぐいたゝさふらふといへども》、奉[#レ]任[#二]貴命[#一]候之上者《きめいにまかせたてまつりさふらふうへは》、敢不[#レ]在[#二]別心[#一]候《あへてべつしんをそんせずさふらふ》。仍太刀一腰《なほたちひとふり》、御馬一疋致[#二]進上[#一]候《おうまいつぴきしんじやういたしさふらふ》。以[#二]此旨[#一]可[#レ]然之樣《このむねをもつてしかるべくやう》、可[#レ]預[#二]御披露[#一]候《ごひろうにあづかるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
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四|月《ぐわつ》三|日《か》は、根白坂《ねじろざか》夜襲《やしふ》(四月十七日の夜)[#「(四月十七日の夜)」は1段階小さな文字]の約《やく》二|週間以前《しうかんいぜん》である。今《い》ま此《こ》の文句通《もんくどほ》りに解釋《かいしやく》すれば、義久《よしひさ》には隨分《ずいぶん》云《い》ふ可《べ》き苦情《くじやう》は多《おほ》[#ルビの「おほ」は底本では「おへ」]いが、舊將軍家《きうしやうぐんけ》の※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《あつかひ》とありては、光榮至極《くわうえいしごく》に付《つき》、兎《と》も角《かく》も思召《おぼしめし》に一|任《にん》すと云《い》ふ事《こと》だ。即《すなは》ち彼等《かれら》は講和《かうわ》を承諾《しようだく》したのである。此《こ》れは果《はた》して義久《よしひさ》の眞意《しんい》であつた乎《か》、否乎《いなか》は別《べつ》として、兎《と》も角《かく》も講和《かうわ》の餘地《よち》を存《そん》し置《お》きたる事《こと》が判知《わか》る。否《い》な義久《よしひさ》が、羽柴秀長《はしばひでなが》、石田《いしだ》三|成等《なりら》に與《あた》へたる兩囘《りやうくわい》(天正十四年九月廿七日、同十五年正月十九日)[#「(天正十四年九月廿七日、同十五年正月十九日)」は1段階小さな文字]の書状《しよじやう》を見《み》ても、彼等《かれら》は公々然《こう/\ぜん》と秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、敵意《てきい》を宣告《せんこく》せず、唯《た》だ防守的《ばうしゆてき》態度《たいど》を示《しめ》した※[#「こと」の合字、307-12]が判知《わか》る。薩摩隼人《さつまはやと》は上國《じやうこく》の形勢《けいせい》に通《つう》ぜず、其《そ》の進退《しんたい》の措置《そち》を誤《あやま》つたが、然《しか》も彼等《かれら》が先天的《せんてんてき》智慮《ちりよ》は、如何《いか》なる窮地《きゆうち》に陷《おちい》るも、尚《な》ほ若干《じやくかん》の餘地《よち》を留《とゞ》め得《え》た。
世《よ》は薩摩隼人《さつまはやと》の猪勇《ちよゆう》を誇《ほこ》りとするが、吾人《ごじん》は寧《むし》ろ其《そ》の一|本調子《ぽんてうし》ならざる點《てん》に於《おい》て、彼等《かれら》の及《およ》ぶ可《べ》からざる特色《とくしよく》を見出《みいだ》す。彼等《かれら》は如何《いか》なる戰鬪《せんとう》も、其《そ》の終局《しゆうきよく》は平和《へいわ》である事《こと》を忘却《ばうきやく》せぬ。如何《いか》なる敵《てき》でも、他日《たじつ》は味方《みかた》たる可《べ》き事《こと》を閑却《かんきやく》せぬ。されば一|方《ぱう》には驀地《まつしぐら》に鎬《しのぎ》を削《けづ》る最中《さいちう》にも、他方《たはう》には握手《あくしゆ》するの餘地《よち》を存《そん》して置《お》く。此《こ》れは一|時《じ》、一|處《しよ》に限《かぎ》りたる事《こと》でなく、彼等《かれら》の特色《とくしよく》だ。一たび此《こ》の鍵《かぎ》を握《にぎ》れば、薩摩隼人《さつまはやと》に關《くわん》する、一|切《さい》の疑問《ぎもん》は、乍《たちま》ち解釋《かいしやく》し得《え》らるゝと思《おも》ふ。
却説《さて》、足利義昭《あしかゞよしあき》の使者《ししや》、一|色昭光《しきあきみつ》と、僧《そう》興山《こうざん》即《すなは》ち高野山《かうやさん》の木食上人《もくじきしやうにん》の二|人《にん》は、三|月《ぐわつ》十五|日《にち》義昭《よしあき》の書《しよ》を携《たづさ》へて、府内《ふない》に抵《いた》り、島津義弘《しまづよしひろ》に向《むか》つて、講和《かうわ》を勸告《くわんこく》した。然《しか》も諸將《しよしやう》皆《み》な之《これ》を不可《ふか》としたから、義弘《よしひろ》は温言以《をんげんもつ》て兩使《りやうし》に謝《しや》し、歸國《きこく》の上《うへ》、熟議《じゆくぎ》して之《これ》に應《おう》ず可《べ》しと答《こた》へた。斯《か》くて兩使《りやうし》は、やがて船《ふな》にて、四|月《ぐわつ》七|日《か》日向細島《ひふがほそじま》に著《ちやく》し、風雨《ふうう》に沮《はゞ》まれ、同《どう》十二|日《にち》漸《やうや》く都於郡《とおごほり》に來《きた》り、義久《よしひさ》に面《めん》して、頻《しき》りに講和《かうわ》を勸告《くわんこく》した。是《こゝ》に於《おい》て義久《よしひさ》は、諸將《しよしやう》を會《くわい》して評定《ひやうぢやう》した。北郷《ほんがう》一|雲《うん》は其《そ》の邑莊内《いふしやうない》に據《よ》りて、決戰《けつせん》すべきを主張《しゆちやう》したが、喜入秀久《きいれひでひさ》、鎌田政近《かまだまさちか》、本田親貞等《ほんだちかさだら》、何《いづ》れも和議《わぎ》を執《と》り、特《とく》に有力《いうりよく》なる伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》は、協力《きよくりよく》講和《かうわ》の得策《とくさく》を説《と》いた。
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伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》、中務大輔《なかつかさたいう》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]に談合仕《だんがふつかまつ》り、義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》に被[#レ]申《まをされ》けるは、今《いま》は早《はや》弓折《ゆみを》れ矢盡《やつ》きる道理也《だうりなり》。薩摩《さつま》の運盡《うんつ》き、叶《かな》ふべきやう無《な》し。近年《きんねん》肥後《ひご》、肥前《ひぜん》、筑後《ちくご》の陣旅《ぢんりよ》、去年《きよねん》十|月《ぐわつ》より豐後《ぶんご》の出陣《しゆつぢん》に、三ヶ|國《こく》の者共《ものども》、皆《みな》疲《つか》れ、物具《もののぐ》兵糧《ひやうらう》も、難[#レ]續覺《つゞきがたくおぼ》え候《さふらふ》。日本國勢《にほんこくぜい》を引受《ひきうけ》、籠城《ろうじやう》或《あるひ》は一|戰《せん》を成《な》すと云《い》ふとも、終《つひ》には其功《そのこう》なからんか。死《し》を一|方《ぱう》にし、一|戰《せん》を好《このん》で、若《も》し仕損《しそん》じなば、其家《そのいへ》の極《きはま》りと存候《ぞんじさふらふ》。唯《たゞ》乞[#二]降參[#一]《かうさんをこひ》和平《わへい》とも成《な》しなば、縱《たと》ひ三ヶ|國《こく》を被[#二]公領[#一]《こうりやうせらる》と云《いふ》とも、若《もしく》は一ヶ|國《こく》殘《のこ》る事《こと》もや候《さふらふ》べき。左《さ》もあらば御家《おいへ》は殘《のこ》るべきかと存候《ぞんじさふらふ》と申《まをし》ければ、義久《よしひさ》尤然《もつともしか》り、不[#レ]及所《およばざるところ》を強《しひ》てするは、愚《ぐ》の至《いた》りなり。不[#レ]應[#レ]理《りにおうぜざる》ときは、義《ぎ》を以《もつ》てす。不[#レ]及[#レ]勇《ゆうのおよばざる》ときは、和《わ》を以《もつ》てすと云《い》へり。・・・・・・|此度《このたび》の大難《だいなん》を遁《のが》れなば、一|度《たび》又《また》本意《ほんい》を遂《と》げん事《こと》もこそあらん。〔勝部兵右衞門聞書〕[#「〔勝部兵右衞門聞書〕」は1段階小さな文字]
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義久《よしひさ》は薩人《さつじん》の魁《くわい》である。彼《かれ》は模範的《もはんてき》薩人《さつじん》である。彼《かれ》は無理《むり》をやり通《とほ》すが如《ごと》き野暮漢《やぼかん》でない。秀吉《ひでよし》の命《めい》に抗《こう》し、九|州《しう》の霸主《はしゆ》とならんとしたのも、降參《かうさん》して、其《そ》の運命《うんめい》を、秀吉《ひでよし》に一|任《にん》せんとしたのも、所謂《いはゆ》る彼《かれ》も一|時《じ》、此《こ》れも一|時《じ》だ。是《こゝ》に於《おい》て義久《よしひさ》は、高岡《たかをか》の僧《そう》善哉房《ぜんざいばう》をして、其《そ》の旨《むね》を秀長《ひでなが》に申《まを》し入《い》れ、四|月《ぐわつ》廿一|日《にち》忠棟《たゞむね》を出《いだ》して質《ち》となし、二十六|日《にち》高城《たき》を致《いた》し、守將《しゆしやう》山田有信《やまだありのぶ》は、二十九|日《にち》退去《たいきよ》し、五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、秀長《ひでなが》は宮部繼潤《みやべけいじゆん》をして、之《これ》に代《かは》らしめた。而《しか》して同日《どうじつ》都於郡《とおごほり》の營《えい》を撤《てつ》し、義弘《よしひろ》は眞幸《まさき》に、義久《よしひさ》は鹿兒島《かごしま》に歸城《きじやう》した。
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京勢《きやうぜい》大軍《たいぐん》打下《うちくだ》りし處《ところ》に、比《ころ》は卯月《うげつ》中旬《ちうじゆん》の事《こと》なれば、晴間《はれま》もなく、雨《あめ》は頻《しき》りに降《ふ》り、所々《しよ/\》の大河《おほかは》も水《みづ》増《まさ》り、人《ひと》の通《かよ》ひも成難《なりがた》し。兵粮《ひやうらう》運送《うんそう》も調《とゝのひ》がたければ、折角《せつかく》に及《および》ける處《ところ》に、降參《かうさん》の由《よし》聞《き》き、諸大名《しよだいみやう》大《おほい》に喜《よろこん》で、秀長卿《ひでながきやう》に斯《かく》と申入《まをしいれ》、即《すなはち》和平《わへい》と成《なり》にける。・・・・・・|和平《わへい》と成《な》れば、佐土原《さどはら》、都於郡《とおごほり》にも京勢《きやうぜい》亂入《らんにふ》、如此《かくのごとく》成行《なりゆき》は、義久《よしひさ》も内輪《うちわ》の體《てい》無[#二]覺束[#一]《おぼつかなし》とて、如[#二]薩摩[#一]《さつまのごとく》御歸陣《ごきぢん》ある。義弘《よしひろ》も求麻口《くまぐち》の雜説《ざつせつ》(人吉の城主相良頼房の反覆)色々《いろ/\》に相聞《あひかん》[#ルビの「かん」はママ]えければ、先《まづ》如[#二]眞幸[#一]《まさきのごとく》ぞ歸《かへ》らせ給《たま》ふ。〔勝部兵右衞門聞書〕[#「〔勝部兵右衞門聞書〕」は1段階小さな文字]
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請《こ》ふ薩摩隼人《さつまはやと》の先勇後怯《せんゆうこうけふ》を嗤《わら》ふ勿《なか》れ。時《とき》に從《したが》ひ、勢《いきほひ》に應《おう》じて、變通《へんつう》するは、彼等《かれら》本來《ほんらい》の面目《めんもく》である。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》は、薩軍《さつぐん》の請《こひ》を容《い》れ、其《そ》の士《し》福智長通《ふくちながみち》をして、伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》と與《とも》に、秀吉《ひでよし》の本營《ほんえい》なる肥薩方面《ひさつはうめん》に赴《おもむ》き、其《そ》の寛宥《くわんいう》を願《ねが》はしめ、自《みづか》ら營《えい》を都於郡《とおごほり》に移《うつ》し、更《さ》らに五|月《ぐわつ》十四|日《か》野尻《のじり》に進《すゝ》んだ。

[#5字下げ][#中見出し]【六二】秀吉と秀長[#中見出し終わり]

五|月《ぐわつ》三|日《か》、秀吉《ひでよし》が大※[#方へん+飾のつくり、311-7]《たいはい》を、太平寺《たいへいじ》に進《すゝ》むるや、日向口《ひふがぐち》の主將《しゆしやう》秀長《ひでなが》より、島津《しまづ》降服《かうふく》の報《はう》を齎《もたら》し、其《そ》の允可《いんか》を請《こ》うた。此《こ》れは秀吉《ひでよし》としては、固《もと》より待《ま》ち設《まう》けたる事《こと》とて、彼《かれ》は即刻《そくこく》之《これ》を容《い》れ、直《たゞ》ちに日向《ひふが》、大隈《おほすみ》に就《つい》ての措置《そち》を返示《へんじ》した。
抑《そもそ》も秀吉《ひでよし》には決《けつ》して島津氏《しまづし》を、拔本的《ばつぽんてき》に退治《たいぢ》する意《い》はなかつた。元來《ぐわんらい》秀吉《ひでよし》は其《そ》の本領《ほんりやう》として、退治家《たいぢか》でなく、妥協家《だけふか》である。況《いはん》や島津《しまづ》とは、恩怨《おんゑん》兩《ふたつ》ながら無《な》く、又《ま》た島津《しまづ》の勢力《せいりよく》を左程《さほど》畏《おそ》れても居《を》らず。されば其《そ》の恭順《きようじゆん》に拘《かゝは》らず、尚《な》ほ之《これ》を窮地《きゆうち》に追《お》ひ詰《つ》むる必要《ひつえう》は、毫《がう》も之《これ》を感《かん》じなかつた。況《いはん》や窮鼠《きゆうそ》却《かへつ》て猫《ねこ》を噛《か》む、秀吉《ひでよし》は長途遠征《ちやうとゑんせい》の大軍《たいぐん》を、曠日彌久《くわうじつびきう》して、漫《みだ》りに薩摩隼人《さつまはやと》と、小《こ》ぜり合《あひ》にて、痛手《いたで》を被《かうむ》るの危險《きけん》をも、計上《けいじやう》せぬ譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。
惟《おも》ふに高野山《かうやさん》の木食上人《もくじきしやうにん》─|僧《そう》興山《こうざん》─は、秀吉《ひでよし》の紀州退治《きしうたいぢ》以來《いらい》、信親《しん/\》する一|人《にん》であつた。彼《かれ》が義昭《よしあき》の使者《ししや》一|色昭秀《しきあきひで》と同伴《どうはん》して、豐後《ぶんご》、日向《ひふが》の間《あひだ》を彷徨《はうくわう》したるは、恐《おそ》らくは秀吉《ひでよし》の内意《ないい》を承《う》けての事《こと》であつたらう。即《すなは》ち一|歩《ぽ》を進《すゝ》んで云《い》へば、本尊《ほんぞん》たる義昭《よしあき》自身《じしん》さへも、秀吉《ひでよし》に利用《りよう》せられたのではあるまい乎《か》。凡《およ》そ世《よ》の中《なか》に、秀吉《ひでよし》程《ほど》の利用家《りようか》はあるまい。彼《かれ》は茶人《ちやじん》の利休《りきう》でも、歌人《かじん》の幽齊《いうさい》でも、商人《しやうにん》の宗湛《そうたん》でも、本願寺法主《ほんぐわんじほつす》でも、皆《み》なそれ/″\|此役《このえき》、及《およ》び其《そ》の前後《ぜんご》に利用《りよう》した。秀吉《ひでよし》には、一として無用《むよう》の長物《ちやうぶつ》はなかつた。木食上人《もくじきしやうにん》の如《ごと》きも、其《そ》の一|例《れい》ではあるまい乎《か》。
斯《かゝ》る次第《しだい》なれば、秀吉《ひでよし》は巧妙《かうめう》なる獵夫《れふふ》が、鳥《とり》を網《あみ》に追《お》ひ込《こ》む如《ごと》く、一|方《ぱう》には硬手段《かうしゆだん》にて、島津《しまづ》を威迫《ゐはく》し。他方《たはう》には軟手段《なんしゆだん》にて、島津《しまづ》を懷柔《くわいじう》す可《べ》く、當初《たうしよ》より計企《けいき》したのであらう。されば秀長《ひでなが》の報知《はうち》は、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、意外《いぐわい》の驚駭《きやうがい》でなく、寧《むし》ろ豫定《よてい》の畫策《くわくさく》が、其《そ》の圖《づ》に中《あた》つたものであつたならむ歟《か》。彼《かれ》が秀長《ひでなが》の報知《はうち》に接《せつ》して、一|議《ぎ》にも及《およ》ばず、即刻《そくこく》に之《これ》を甘諾《かんだく》したのは、素《もと》より是《こ》れが爲《た》めであつたらう。
秀吉《ひでよし》は秀長《ひでなが》に向《むか》つて、善後《ぜんご》の措置《そち》を授《さづ》けた、大隈《おほすみ》、日向《ひふが》兩國《りやうこく》の人質《ひとじち》を徴《ちよう》せしめ、抗《かう》するを討《たう》じ、降《くだ》るを撫《な》でしめた。日向《ひふが》の那珂郡《なかごほり》を伊東祐兵《いとうすけたけ》に與《あた》へ、其《そ》の他《た》を大友宗滴《おほともそうてき》(前名宗麟)[#「(前名宗麟)」は1段階小さな文字]に、大隈《おほすみ》の内《うち》一|郡《ぐん》─|肝屬《きもつき》─を伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》に、其《そ》の他《た》を長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》に與《あた》へしめた。大友《おほとも》、長曾我部《ちやうそかべ》共《とも》に之《これ》を辭《じ》した。而《しか》して宗滴《そうてき》は、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、島津《しまづ》に對《たい》する無念《むねん》を晴《は》らすを得《え》て、四|月《ぐわつ》廿三|日《にち》に逝《ゆ》いた。秀吉《ひでよし》は又《ま》た秀長《ひでなが》に其地《そのち》に留《とゞま》りて、機宜《きぎ》の措置《そち》を做《な》さしめ、且《か》つ毛利輝元《まうりてるもと》、小早川隆景《こばやかはたかかげ》、吉川元長《きつかはもとなが》、黒田孝高等《くろだよしたから》に、太平寺《たいへいじ》に來《きた》る可《べ》く命《めい》じた。而《しか》して最後《さいご》に秀長《ひでなが》に向《むか》つて、
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今度高城之儀者《このたびたきのぎは》、御意《ぎよい》を不[#レ]請儀《こはざるぎ》、分別違候得共《ふんべつちがひにさふらえども》、免候儀《ゆるしさふらふぎ》、其方爲《そなたのた》めには、外聞可[#レ]爲[#二]迷惑[#一]之間《ぐわいぶんめいわくたるべきのあひだ》、其旨諸事《そのむねしよじ》に存出《ぞんじいだ》し、可[#レ]然候《しかるべくさふらふ》。高城之樣成義《たきのやうなるぎ》に御意《ぎよい》を不[#レ]請候《こはずさふら》はゞ、重而《かさねて》は成敗可[#二]申付[#一]候《せいばいまをしつくべくさふらふ》。得[#二]其意[#一]尤候事《そのいをうることもつともにさふらふこと》。
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と戒飭《かいちよく》した。此《こ》れは秀長《ひでなが》が、克《よ》く秀吉《ひでよし》の意中《いちう》の事《こと》を實行《じつかう》したに拘《かゝは》らず、彼《かれ》が獨斷《どくだん》にて島津氏《しまづし》に對《たい》して、其《そ》の和議《わぎ》を許《ゆる》し、秀吉《ひでよし》に向《むか》つて、事後承諾《じごしようだく》を求《もと》めたる姿《すがた》あり、聊《いさゝ》か專恣《せんし》の趣《おもむき》あつたが爲《た》めであつた。秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》に比《ひ》して、萬事《ばんじ》寛裕《くわんゆう》であつた。殊《こと》に血族《けつぞく》、親縁《しんえん》の恩愛《おんあい》は、寧《むし》ろ濃厚《のうこう》に過《す》ぎる程《ほど》であつた。然《しか》るに拘《かゝは》らず、尚《な》ほ其《そ》の弟《おとうと》秀長《ひでなが》に向《むか》つて、此《かく》の如《ごと》き嚴重《げんじゆう》なる譴責《けんせき》の言《げん》を與《あた》へたるは、國《くに》の大器《たいき》は、容易《ようい》に他《た》に假《か》す可《べ》からざるが爲《た》めであらう。秀吉《ひでよし》の上衣《うはぎ》の紐《ひも》は緩《ゆる》かつたが、其《そ》の下衣《したぎ》の紐《ひも》は緊《きび》しかつた。
吾人《ごじん》は序《ついで》ながら、秀長《ひでなが》に就《つい》て一|言《げん》せねばならぬ。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の將校《しやうかう》として、江北《かうほく》の戰陣《せんぢん》、中國役《ちうごくえき》、山崎合戰《やまざきかつせん》、其他《そのた》に於《おい》て、何《いづ》れも戰功《せんこう》があつた。特《とく》に四|國征伐《こくせいばつ》は、彼《かれ》が總督《そうとく》であつた。併《しか》し彼《かれ》は單《たん》一の武將《ぶしやう》でなく、少《すくな》くとも秀吉《ひでよし》の弟《おとうと》たるを、辱《はづか》しめざる襟度《きんど》があつた。彼《かれ》は大《だい》なる調和劑《てうわざい》であつた。徳川家康《とくがはいへやす》の如《ごと》きも、彼《かれ》の取持《とりもち》によりて、秀吉《ひでよし》との關係《くわんけい》を圓滿《ゑんまん》ならしむるを得《え》た。但《た》だ彼《かれ》は其《そ》の兄《あに》に秀吉《ひでよし》の如《ごと》き大豪傑《だいがうけつ》を頂《いたゞ》き、且《か》つ中途《ちうと》にして逝《ゆ》いた爲《た》め、其《そ》の眞價《しんか》を認《みと》められなかつた。然《しか》も天下《てんか》亦《ま》た聊《いさゝ》か這般《しやはん》の消息《せうそく》を、解《かい》し居《を》る者《もの》がある。
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或人《あるひと》の曰《いは》く、關白殿下《くわんぱくでんか》、十|萬《まん》の兵《へい》を用《もち》ひ給《たま》はゞ、日向州《ひふがのくに》山險《やまけん》たりとも、猛勢《まうせい》の切所《せつしよ》なければ、府内《ふない》より逃《にぐ》るを逐《おう》て、日州《につしう》に入《い》り、敵《てき》の脚《あし》を屯《たむろ》させず、大隈迄《おほすみまで》追詰《おひつめ》、敵《てき》の首《くび》を刎《はね》て、猛威《まうゐ》を天下《てんか》に震《ふる》ひ給《たま》ふべき也《なり》。中納言殿《ちうなごんどの》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]の兵制《へいせい》猛《たけ》からずと云《い》へり。我《われ》(南海治亂記著者香西成資)[#「(南海治亂記著者香西成資)」は1段階小さな文字]之《これ》に示《しめ》して曰《いはく》、然《さ》に非《あ》らず、用兵《ようへい》の道《みち》、地《ち》に因《よ》り、人《ひと》に因《よ》り、時勢《じせい》に因《よ》る也《なり》。何《なん》ぞ一|定《てい》の形《かたち》あらんや。一|夫《ぷ》突撃《とつげき》するときは、三|軍《ぐん》無[#レ]當《あたるなし》と云《いふ》は、日向《ひふが》の州《くに》の事也《ことなり》。敵《てき》は島津中書《しまづちうしよ》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]大剛《たいがう》の武將也《ぶしやうなり》。無左《むざ》と敵《てき》を輕《かる》んじ、一|擧《きよ》誤《あやまり》を取《と》るときは、後難《こうなん》量《はか》るべからず。中納言殿《ちうなごんどの》の用兵《ようへい》や、大軍《たいぐん》を揚《あげ》て、險阨《けんやく》の地《ち》に入《い》り、山陣《さんぢん》を取《とつ》て固《かた》く守《まも》る。是《こ》れ攻《せむ》るを以《もつ》て守《まもり》と爲《な》す。敵《てき》は大軍《たいぐん》の虚《きよ》あらん事《こと》を窺《うかゞ》ふ。是《こ》れ守《まも》るを以《もつ》て、攻《せむる》を爲《な》す也《なり》。能《よ》く兵《へい》を用《もち》ふる者《もの》、客《きやく》を變《へん》じて主《しゆ》とし、主《しゆ》を變《へん》じて客《きやく》とし、其《その》宜《よろしき》に合《あひ》て、勝《かち》を制《せい》す。是《こ》れ良將《りやうしやう》の謀也《はかりごとなり》。敵《てき》は急迫《きふはく》にして心《こゝろ》を攻《せ》め、我《われ》は悠緩《いうくわん》にして心《こゝろ》を平《たひらか》にす。兵威《へいゐ》を以《もつ》て敵《てき》を壓《あつ》し、和《わ》を以《もつ》て敵《てき》を誘《おび》き、刄《やいば》に衂《ちぬ》らずして敵《てき》を降《くだ》し、能《よ》く懷《なづ》けて舊好《きうかう》の恩《おん》を爲《な》さしむ。是《こ》れ仁將《じんしやう》と謂《いひ》つべし。仁者《じんしや》に敵無《てきな》しと云《い》ふときは、此君《このきみ》長命《ちやうめい》ならば、羽柴《はしば》の家《いへ》、永《なが》く傳《つた》へん乎《か》。孰《た》れか短命《たんめい》を不[#レ]惜哉《をしまざらんや》。〔南海治亂記〕[#「〔南海治亂記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは秀長《ひでなが》の心中《しんちう》を忖度《そんたく》して、極《きは》めて其《そ》の要領《えうりやう》を得《え》て居《を》る。仁將《じんしやう》の二|字《じ》は、秀長《ひでなが》に取《と》りて、敵評《てきひやう》である。秀吉《ひでよし》の大度《たいど》なる、奚《なん》ぞ此《こ》の仁將《じんしやう》の仁《じん》を利用《りよう》せざらん哉《や》だ。

[#5字下げ][#中見出し]【六三】太平寺の會見[#中見出し終わり]

扨《さて》も島津義久《しまづよしひさ》は、鹿兒島《かごしま》に歸城《きじやう》するや否《いな》や、河野道貞《かうのみちさだ》を使者《ししや》として、太平寺《たいへいじ》に致《いた》し、和議《わぎ》の成否《せいひ》を質《たゞ》し、且《か》つ伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》の申告《しんこく》によりて、秀吉《ひでよし》の眞意《しんい》を確《たし》かめ。五|月《ぐわつ》六|日《か》鹿兒島《かごしま》を發《はつ》し、途中《とちう》伊集院郷《いじふゐんがう》の雪窓院《せつそうゐん》にて、髮《かみ》を削《けづ》り、名《な》を龍伯《りゆうはく》と改《あらた》め、八|日《か》太平寺《たいへいじ》に赴《おもむ》き、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》して、其《そ》の罪《つみ》を謝《しや》した。
吾人《ごじん》は極所《きよくしよ》に於《お》ける、義久《よしひさ》の行動《かうどう》に就《つい》て、間然《かんぜん》する所《ところ》がない。否《い》な此《これ》によりて、彼《かれ》は實《じつ》に薩《さつ》隅《ぐう》日《にち》三|州《しう》に於《お》ける、第《だい》一|流《りう》の人物《じんぶつ》であつた事《こと》を、認《みと》めざるを得《え》ない。(第一)彼《かれ》は極《きは》めて思《おも》ひ切《き》りが善《よ》かつた。(第二)彼《かれ》の進退《しんたい》は綽々乎《しやく/\こ》として、餘裕《よゆう》があつた。(第三)方向轉換《はうかうてんくわん》の妙《めう》を得《え》、善《よ》く新事態《しんじたい》に順應《じゆんおう》した。(第四)彼《かれ》には何等《なんら》の田舍武士《ゐなかざむらひ》臭《くさ》き野習《やしふ》がなく、褊吝《へんりん》、頑冥《ぐわんめい》の地侍風《ぢざむらひふう》がなく、洒々《しや/\》、落々《らく/\》、一|點《てん》の塵《ちり》をも留《とゞ》めざる、高人的《かうじんてき》の態度《たいど》があつた。惟《おも》ふに彼《かれ》が秀吉《ひでよし》に傾倒《けいたう》した許《ばか》りでなく、秀吉《ひでよし》も亦《ま》た彼《かれ》に傾倒《けいたう》したであらう。彼《かれ》は正《まさ》しく、然《し》かせらる可《べ》き價値《かち》ある偉丈夫《ゐぢやうふ》であつた。他《た》の義弘《よしひろ》や、歳久《としひさ》や、忠元《たゞもと》の如《ごと》き豪《がう》の者《もの》も、彼《かれ》に比《ひ》して、何《いづ》れも其《そ》の器《うつは》の少《せう》なるを免《まぬか》れぬは、是非《ぜひ》なき次第《しだい》である。
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龍伯樣《りゆうはくさま》(義久)[#「(義久)」は1段階小さな文字]從[#二]日州[#一]御歸被[#レ]成《につしうよりおかへりなされ》、新川内《しんせんだい》へ御指出候《おんさしいでさふら》へば、皆々《みな/\》外城《とじやう》/\へ罷越《まかりこし》、御供衆無[#レ]之《おんともしゆうこれなく》、僅《わづ》か歴々《れき/\》七十|人計候《にんばかりにさふらふ》。御《ご》一|家《か》に、弓詫《きゆうたく》(喜入季久)[#「(喜入季久)」は1段階小さな文字]地頭《ぢとう》に抱節《はうせつ》(伊集院久治)[#「(伊集院久治)」は1段階小さな文字]老中《らうぢう》に町田出羽守入道存松《まちだではのかみにふだうそんしよう》(久倍)[#「(久倍)」は1段階小さな文字]右《みぎ》三|人迄候《にんまでにさふらふ》。伊集院《いじふゐん》の雪窓院《せつそうゐん》にて龍伯樣《りゆうはくさま》御入《おんい》らせ被[#レ]遊《あそばされ》、如[#二]川内[#一]御越候《せんだいにゆきておこしにさふらふ》。雪窓院《せつそうゐん》は、龍伯樣《りゆうはくさま》御懷樣《おふくろさま》御寺《おてら》にて候《さふらふ》。然所御輿舁天丸以下《しかるところおんかごかきてんまるいか》、方々《はう/″\》へ走失候間《はしりうせさふらふあひだ》、伊集院之衆中《いじふゐんのしゆうちう》八|人申合《にんまをしあはせ》、御輿《おんこし》を舁被[#レ]申候《かきまをされさふらふ》。其體故《そのていゆゑ》、中々可[#二]申上[#一]樣無[#レ]之候《なか/\まをしあぐべきやうこれなくさふらふ》。然所思召外《しかるところおぼしめしのほか》、太閤樣《たいかふさま》より、御參候《ごさんさふら》へと御承《おんうけたまはり》、於[#二]太平寺[#一]御禮候《たいへいじにおいておんれいさふらふ》。供《とも》の衆《しゆう》は二|王堂《わうだう》にて、御番衆被[#レ]留候《ごばんしゆうとゞめられさふらふ》。御太刀持《おんたちもち》にて川上久辰《かはかみひさとき》是非《ぜひ》と申《まをし》、罷通《まかりとほり》。又《また》弓詫《きゆうたく》、存松《そんしよう》、抱節《はうせつ》三|人《にん》は、以[#二]御下知[#一]被[#二]罷通[#一]候由候《ごげちをもつてまかりとほられさふらふよしにさふらふ》。太閤樣御機嫌克御禮相濟《たいかふさまごきげんよくおんれいあひすみ》、御腰物大小《おこしのものだいせう》、御小袖拜領《おこそではいりやう》、又《また》三|人《にん》の衆《しゆう》へも、御小袖《おこそで》一|重《かさね》づゝ|被[#レ]下候《くだされさふらふ》。〔喜入忠慶表藁〕[#「〔喜入忠慶表藁〕」は1段階小さな文字]
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義久《よしひさ》の太平寺行《たいへいじゆき》は、頗《すこぶ》る慘《みじ》めなるものであつた。且《か》つ義久《よしひさ》は固《もと》より其《そ》の從士《じゆうし》も、一|死《し》を分《ぶん》とし、危虞《きぐ》交《こもご》も至《いた》つた。然《しか》も思《おも》ひきや、秀吉《ひでよし》は案外《あんぐわい》なる優遇《いうぐう》をした。
[#ここから1字下げ]
義久公《よしひさこう》太平寺《たいへいじ》にて、秀吉公《ひでよしこう》へ御目見《おめみえ》の時《とき》は、雪窓院《せつそうゐん》へ入《い》らせられ、御削髮《ごさくはつ》とて、黒衣《こくえ》にて、山田昌岩《やまだしやうがん》(有信の子)[#「(有信の子)」は1段階小さな文字]以下《いか》十五六|人也《にんなり》。義弘公《よしひろこう》其外《そのほか》、一|人《にん》も御供《おんとも》なし。是《これ》萬《まん》一を危《あやぶ》み給《たま》へば也《なり》。此時《このとき》薩摩山邊迄《さつまやまのべまで》、上方衆《かみがたしゆう》御迎《おんむかへ》として參上也《さんじやうなり》。此時《このとき》の耻《はづか》しさ、忘《わす》られざると昌岩《しやうがん》の物語也《ものがたりなり》。向田邊《むかふだへん》より諸士《しよし》兩邊《りやうへん》に犇《ひし》と相詰《あひつめ》られける中《なか》を御通《おとほり》、太平寺《たいへいじ》白洲《しらす》に御拜伏《ごはいふく》ありける時《とき》、太閤《たいかふ》是《これ》へ/\と御意也《ぎよいなり》。縁頬迄《えんづらまで》御進《おす々》みの時《とき》、龍伯《りゆうはく》慇懃《いんぎん》なり。腰《こし》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《あた》り淋敷《さびし》とて、自《みづか》ら帶《たい》し給《たま》ふ備前包平《びぜんかねひら》、三|條宗近《でうむねちか》を引拔《ひきぬき》、投出《なげだ》し賜《たま》ふ。義久公《よしひさこう》謹《つゝしん》で御頂戴也《おちようだいなり》。扨《さて》盃《さかづき》出《いで》けるに、太閤《たいかふ》盃《さかづき》ごとは、酒《さけ》を盛《も》るに及《およ》ばずと宣《のたまひ》ける。此酒《このさけ》はと不審《ふしん》らしき御心《おこゝろ》、不圖《ふと》浮《うか》びけるに、早《はや》氣《き》を付《つけ》て如[#レ]此也《かくのごとくなり》ける故《ゆゑ》、義久公《よしひさこう》、今迄《いままで》の御敵對《おんてきたい》、甚《はなはだ》御後悔《ごこうくわい》にて、凡慮《ぼんりよ》の及《およ》ぶ所《ところ》にあらずと感《かん》じ給《たま》ふ。〔喜入忠慶表藁按〕[#「〔喜入忠慶表藁按〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
要《えう》するに此《こ》の會見《くわいけん》は、島津氏《しまづし》をして、秀吉《ひでよし》の世《よ》を沒《ぼつ》する迄《まで》も、否《い》な其《そ》の後迄《のちまで》も、其《そ》の忠實《ちゆうじつ》なる味方《みかた》たらしめた。好漢《かうかん》、好漢《かうかん》を識《し》り、惺々《せい/\》、惺々《せい/\》を知《し》る。如何《いか》に秀吉《ひでよし》が好印象《かういんしやう》を義久《よしひさ》に與《あた》へたるかは、想像《さうざう》に餘《あま》りありだ。
秀吉《ひでよし》は翌日《よくじつ》、薩摩《さつま》一|國《こく》安堵《あんど》の印書《いんしよ》を授《さづ》けて、龍伯《りゆうはく》を還《かへ》らしめ、其《そ》の質子《ちし》を徴《ちよう》した。龍伯《りゆうはく》は其《そ》の愛女《あいぢよ》龜壽《きじゆ》─十七|歳《さい》─を出《いだ》した。龜壽《きじゆ》は彼《かれ》の第《だい》三|女《ぢよ》にして、後《のち》に義弘《よしひろ》の二|子《し》忠恒《たゞつね》に配《はい》した。而《しか》して島津征久《しまづゆきひさ》以下《いか》、諸老臣《しよらうしん》亦《ま》た質《ち》を出《いだ》した。義久《よしひさ》は伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》をして、鹿兒島《かごしま》を致《いた》さんと秀吉《ひでよし》に申《まを》し入《い》れた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は之《これ》を受《う》けなかつた。
[#ここから1字下げ]
義久樣《よしひささま》關白樣《くわんぱくさま》へ、御出仕候儀《ごしゆつしさふらふぎ》、相濟候《あひすみさふらふ》。然處《しかるところ》鹿兒島之儀《かごしまのぎ》、可[#レ]被[#レ]成[#二]御渡[#一]候旨《おんわたしなさるべくさふらふむね》、伊右太《いうた》(伊集院忠棟)[#「(伊集院忠棟)」は1段階小さな文字]御請状被[#二]申上[#一]候處《おうけじやうまをしあげられさふらふところ》に、相國樣《しやうこくさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]一|段御機嫌能御座候《だんごきげんよくござさふらう》て、被[#レ]成[#二]御赦免[#一]上者《ごしやめんなさるゝうへは》、鹿兒島《かごしま》も被[#レ]成[#二]御請取[#一]間敷《おんうけとりなされまじく》と被[#二]仰出[#一]候《おほせいでられさふらふ》。〔五月八日附、桑山重晴より島津義弘に與へたる書中の一節〕[#「〔五月八日附、桑山重晴より島津義弘に與へたる書中の一節〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
要《えう》するに島津氏《しまづし》は、極所《きよくしよ》に於《おい》て、甘《うま》くも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉《くわいてん》した。彼等《かれら》は克《よ》く其《そ》の失敗《しつぱい》をして、成功《せいこう》と爲《な》すの術《じゆつ》を解《かい》した。彼等《かれら》の外交《ぐわいかう》は、著々《ちよく/\》機先《きせん》を制《せい》し、痒《かゆ》き所《ところ》を掻《か》く如《ごと》く、其《そ》の要所《えうしよ》に敵中《てきちう》した。觀來《みきた》れば、薩摩隼人《さつまはやと》亦《ま》た人《ひと》なしとせぬ。吾人《ごじん》は此《こ》の成功者《せいこうしや》の一|人《にん》として、伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》を忘却《ばうきやう》してはならぬ。
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[#6字下げ]義久秀吉に謁す
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
或人の物語に、太閤薩摩陣の時、島津隆伯(龍伯)唯一騎にて太閤の陣へ掛入る、人々是を見て隆伯只一騎にて是へ參りたりと云、太閤被[#二]聞召[#一]て、我思たること也、いな事にて遲く來ると在りて、島津參りたりと申ければ、是へ呼べとの御事なり、唯二間有つる御陣屋へ、島津を召さる、島津幕の外迄參り、内へ參ることを遠慮す、太閤曰、何とて時宜有つるぞ、急ぎ内へ入れと在りければ、島津兩腰を脱ぎて投げ、内へ入る、太閤の曰、左りとて島津、聞召たるは田舍侍と思ひしに、少も左なく、能こそ來りたれ、其方心中如何、と在りければ、島津申さく、筑前殿御下向と申共、何程の事や有べき、薩州の内へ古より人を入れたる事なし、隨分一戰可[#レ]仕と存の處に、御旗先を見て、國人共不[#レ]殘頭を下げ、成るまじきとて、我等に歸服せず候故、隆伯不[#レ]任[#レ]心、國の者共、某同前にと存るに於ては、一廉可[#レ]仕と存候へ共、一戰可[#レ]成口惜存るなり、其故に、御陣へ一騎にて御理に伺公《しこう》仕るなり、此上は只今身體を被[#レ]果候共、御意次第と申ければ、太閤被[#二]聞召[#一]、左りとては最の申事なり、其分分別其分に於ては、太閤に至りて、少も別儀なし、則本國無[#二]相違[#一]其方に歸すなり、安堵あるべし、自今以後、渝る事あるまじ、左樣有るに於ては、是迄來る薩摩の國へ不[#レ]入ば弓矢の禮儀如何なり、則其方の城本迄可[#レ]行と有て、其方は爲[#二]支度[#一]急ぎ歸れと有て則暇を賜ふ、島津悦で罷出、四五間島津行延たる時、秀吉公大長刀を手に取、島津々々と呼返し給ふ、側に伺公の人々、是は如何あるべきぞと思ふ所に秀吉公の曰、隆伯、某に初め會《あひ》たる印なくては如何也、此長刀は我等秘藏の大長刀なり 是則引出物にするとて、手づから島津に與へ給ふ。〔翁物語〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六四】秀吉太平寺を去る[#中見出し終わり]

如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、硬派《かうは》と軟派《なんぱ》はあるもの。大局《たいきよく》を察《さつ》して、善《よ》く變通《へんつう》するものと、局部《きよくぶ》に執著《しふぢやく》して、自《みづか》ら動《うご》かざるものとあるもの。義久《よしひさ》の行動《かうどう》は、良《まこと》に綺麗《きれい》に、立派《りつぱ》に、さつぱりとしたが、總《すべ》ての薩摩隼人《さつまはやと》に、悉《こと/″\》く是《これ》を期待《きたい》するは、無理《むり》な註文《ちゆうもん》だ。義弘《よしひろ》、歳久《としひさ》、兩胞弟《りやうはうてい》の如《ごと》き、日向都城《ひふがみやこのじやう》の城主《じやうしゆ》北郷《ほんがう》一|雲《うん》、薩摩大口城主《さつまおほぐちじやうしゆ》新納忠元《にひろたゞもと》の如《ごと》き、其《そ》の主《おも》なる者《もの》であつた。
義弘《よしひろ》は義久《よしひさ》と與《とも》に、秀長《ひでなが》に向《むか》つて、和議《わぎ》を申請《しんせい》した仲間《なかま》であつた。彼《かれ》はすね者《もの》でもなく、又《ま》たすねねばならぬ理由《りいう》もなかつた。然《しか》るに彼《かれ》は眞幸《まさき》に還《かへ》りて、病《やまひ》と稱《しよう》し容易《ようい》に動《うご》かなかつた。秀長《ひでなが》は五|月《ぐわつ》八|日《か》桑山重晴《くはやましげはる》をして、同《どう》十三|日《にち》福智長道《ふくちながみち》をして、之《これ》を諭《さと》さしめた。而《しか》して同《どう》十九|日《にち》には、木食上人《もくじきしやうにん》は、義弘《よしひろ》に向《むか》つて、『片時《へんじ》も被[#二]相濟[#一]《あひすまされ》、一|日《にち》も殿下樣《でんかさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]はやく御上洛《ごじやうらく》なさるゝやうに候《さふら》はゞ、爲[#二]御家[#一]爲[#レ]國可[#二]目出度[#一]候《おんいへのためくにのためめでたかるべくさふらふ》。』と云《い》ひ、又《ま》た『猶々如[#レ]此申上候儀奉[#レ]恐候《なほ/\かくのごとくまをしあげさふらふぎおそれたてまつりさふら》へ共《ども》、餘《あま》りもどかしく存候《ぞんじさふらう》て、憚《はゞか》りを忘《わす》れ候《さふらふ》。府内以來申入候儀《ふないいらいまをしいれさふらふぎ》、一|點《てん》も違《たが》ひ申《まを》すまじく候《さふらふ》。返《かへ》/″\もかやうに遲《おそ》く候《さふらう》ては、此上《このうへ》にて御惡事可[#二]出來[#一]候《おんあくじしゆつたいすべくさふらふ》。』と切言《せつげん》して居《を》る。此《こ》れは勿論《もちろん》、秀吉《ひでよし》の意《い》を受《う》けての文句《もんく》であらう。
併《しか》し面倒《めんだう》なのは、義弘《よしひろ》よりも、歳久《としひさ》である。彼《かれ》は天正《てんしやう》十五|年《ねん》三|月《ぐわつ》七|日《か》病《やまひ》の爲《た》めに、友軍《いうぐん》に先《さきだ》ち、豐後白丹《ぶんごしらに》より肥後《ひご》に去《さ》り、爾來《じらい》其《そ》の領地《りやうち》祁答院《けたふゐん》に立《た》て籠《こも》り、秀吉《ひでよし》の命《めい》に服《ふく》せなかつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》と開戰以前《かいせんいぜん》の和協論者《わけふろんしや》であつた。然《しか》も開戰後《かいせんご》に於《おい》ては、最後迄《さいごまで》敵對《てきたい》の態度《たいど》を持《ぢ》した。義久《よしひさ》は固《もと》より秀吉《ひでよし》も、此《これ》には聊《いさゝ》か當惑《たうわく》せぬではなかつた。
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此所《こゝ》(太平寺)[#「(太平寺)」は1段階小さな文字]より島津《しまづ》居住《きよぢゆう》鹿兒島迄《かごしままで》は、相隔《あひさる》十|里餘《りよ》たる、既可[#レ]被[#レ]寄[#二]御座[#一]之由候處《すでにござをよせらるべきぎのよしにさふらふところ》に、日向口《ひふがぐち》中納言《ちうなごん》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]殿《どの》へ、島津《しまづ》降參《かうさん》の御侘言《おんわびごと》として、家老《からう》に伊集院右衞門大夫《いじふゐんうゑもんだいふ》(忠棟)[#「(忠棟)」は1段階小さな文字]走入《はしりいる》に付而《つきて》、中納言殿《ちうなごんどの》[#ルビの「ちうなごんどの」は底本では「ちゆうなごんどの」]より島津《しまづ》命《いのち》の御懇望《ごこんまう》に付而《つきて》、鹿兒島《かごしま》への被[#レ]止[#二]御動座[#一]候《ごどうざをとゞめられさふらふ》。就[#レ]其《それについて》同《どう》八|日《か》に、島津修理大夫義久《しまづしゆりだいふよしひさ》頭《かしら》を剃《そ》り出仕申候《しゆつしまをしさふらふ》。家老共《からうども》四五|人《にん》同《おなじ》黒衣《こくえ》の姿《すがた》に而《て》御禮申上候《おんれいまをしあげさふらふ》。猶《なほ》證人《しようにん》に實子《じつし》十六(十七?)[#「(十七?)」は1段階小さな文字]に成《なる》息女《そくぢよ》出候事《いだしさふらふこと》。是《これ》より可[#レ]爲[#二]御歸座[#一]《ごきざなさるべき》を、今少《いましばらく》山際《やまぎは》などに構[#二]節所[#一]《せつしよをかまへ》、島津《しまづ》にも不[#レ]隨者就[#レ]在[#レ]之被[#レ]成[#二]御座[#一]候事《したがはざるものこれあるにつきござなされさふらふこと》。爰《こゝ》に中《なか》十四|日《か》被[#レ]成[#二]御逗留[#一]候《ごとうりうなされさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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乃《すなは》ち秀吉《ひでよし》は、一|切《さい》の面倒《めんだう》を惜置[#「惜置」はママ]《そち》す可《べ》く、太平寺《たいへいじ》に約《やく》二|週間《しうかん》滯在《たいざい》した。而《しか》して十八|日《にち》平佐《ひらさ》に、廿|日《か》山崎《やまざき》に、二十二|日《にち》鶴田《つるだ》に次《じ》した。彼《かれ》は親《みづ》から難物共《なんぶつども》を善《よ》く處理《しより》す可《べ》く、故《ことさ》らに別路《べつろ》を取《と》りて、其《そ》の軍《ぐん》を旋《かへ》した。歳久《としひさ》は秀吉《ひでよし》の、其《そ》の領内《りやうない》を通過《つうくわ》するを拒《こば》んだ。秀吉《ひでよし》は旨《むね》を龍伯《りゆうはく》に告《つ》げ、又《ま》た石田《いしだ》三|成《なり》、伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》、木食上人《もくじきしやうにん》をして、歳久《としひさ》を諭《さと》さしめた。
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六|月《ぐわつ》十八|日《にち》秀吉《ひでよし》平佐城《ひらさじやう》に移《うつ》る。此時《このとき》秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》糧《かて》乏《とぼ》しく卒《そつ》饑《う》ゑ、水土《すゐど》に習《なら》はずして、悉《こと/″\》く疾病《しつぺい》を生《しやう》ず。於[#レ]是《こゝにおいてか》京師《けいし》に歸《かへ》らんとす。平佐《ひらさ》を出《い》で川内《せんだい》を溯《さかのぼ》り、山崎《やまざき》に至《いた》る。左衞門督歳久《さゑもんのすけとしひさ》、近《ちか》く宮之城《みやのじやう》にあり、病《やまひ》と稱《しよう》して來謁《らいえつ》せず。秀吉《ひでよし》の兵《へい》、其《その》陰《ひそか》に逆《ぎやく》を謀《はか》らんことを疑《うたが》ひ、五十|餘人《よにん》密《ひそか》に諏訪原《すははら》に至《いた》り、備《そな》へあるや、否《いな》やを察《さつ》す。歳久《としひさ》の兵《へい》、覺《さと》つて是《これ》を追《おう》て牛尾渡《うしをわたり》に至《いた》り、二|人《にん》を殺《ころ》して返《かへ》る。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
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歳久《としひさ》は遂《つひ》に已《や》むを得《え》ず、秀吉《ひでよし》の其《そ》の領内《りやうない》を通過《つうくわ》するに任《まか》せたが、病《やまひ》と稱《しよう》して來《きた》り謁《えつ》せざるのみならず、出來得《できう》る限《かぎ》りの不便《ふべん》、不都合《ふつがふ》を、上方勢《かみがたぜい》に與《あた》へたらしく思《おも》はる。
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秀吉《ひでよし》宮之城《みやのじやう》に至《いた》る、歳久《としひさ》人《ひと》を出《いだ》して前驅《ぜんく》とし、攀折《はんせつ》の嶮路《けんろ》を導《みちび》く。此路《このみち》たるや、山《やま》高《たか》く谷《たに》深《ふか》く、至《いた》つて艱嶮《かんけん》たり。又《また》炎熱《えんねつ》蒸《む》すが如《ごと》し、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》大《おほ》いに苦《くる》しむ。歳久《としひさ》の臣《しん》本田《ほんだ》五|郎左衞門《らうざゑもん》、兵《へい》を山林《さんりん》に匿《かく》し、狙《ねらつ》て秀吉《ひでよし》の駕《かご》を射《いる》。(傳云、空駕立つ處の矢六つ)[#「(傳云、空駕立つ處の矢六つ)」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》變《へん》を畏《おそ》れ、駕《かご》を空《むなしく》し、己《おのれ》は後軍《こうぐん》の中《うち》に在《あ》り。故《ゆゑ》に免《まぬか》るゝことを得《え》たり。秀吉《ひでよし》驚《おどろい》て旁《あまね》く求《もとむ》れども獲《え》ず、諸事《しよじ》疲困《ひこん》して鶴田《つるた》に至《いた》る。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは信《しん》ず可《べ》きである乎《か》、否乎《いなか》は姑《しばら》く措《お》き、歳久《としひさ》が秀吉《ひでよし》に對《たい》して、滿腔《まんかう》の敵愾心《てきがいしん》を發揮《はつき》したのは、掩《おほ》ふ可《べ》からざる事實《じじつ》だ。
斯《か》くて義弘《よしひろ》は、二十二|日《にち》眞幸院《まさきゐん》より、鶴田《つるた》に來《きた》りて、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》した。彼《かれ》は既《すで》に十九|日《にち》野尻《のじり》に赴《おもむ》き、秀長《ひでなが》に謁《えつ》し、質《ち》二|人《にん》を出《いだ》した。
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爰《こゝ》に(鶴田)[#「(鶴田)」は1段階小さな文字]中《なか》三|日《か》御逗留《ごとうりう》、此所《こゝ》にて島津修理太夫《しまづしゆりだいふ》弟《おとうと》兵庫頭《ひやうごのかみ》(義弘)[#「(義弘)」は1段階小さな文字]御禮申上候《おんれいまをしあげさふらふ》。此《この》兵庫《ひやうご》は修理《しゆりの》弟《おとうと》ながら、五三|年《ねん》以前《いぜん》より家《いへ》を讓《ゆづ》り候《さふらふ》。是《これ》も義久《よしひさ》男子《だんし》無[#レ]之故《これなきゆゑ》、義久《よしひさ》同前《どうぜん》に太平寺《たいへいじ》にて御禮可[#二]申上[#一]之處《おんれいまをしあぐべきのところ》に、中納言《ちうなごん》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]殿《どの》と上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]二|手《て》に御働被[#レ]成候《おんはたらきなされさふらふ》、日向口《ひふがぐち》を相防候故《あひふせぎさふらふゆゑ》延引申《えんいんまをし》、鶴田《つるた》に而《て》出仕申《しゆつしまをし》、則《すなはち》兵庫總領《ひやうごそうりやう》十五に成《なる》男子《なんし》、人質《ひとじち》に出《いだ》し候事《さふらふこと》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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義弘《よしひろ》は其《そ》の長子《ちやうし》久保《ひさやす》を質《ち》とし、銀《ぎん》二百|枚《まい》、刀《かたな》一|口《ふり》を獻《けん》じた。秀吉《ひでよし》は義弘《よしひろ》に大隈國《おほすみのくに》(肝屬部を除く)[#「(肝屬部を除く)」は1段階小さな文字]を、久保《ひさやす》に日向諸縣郡《ひふがもろかたごほり》を與《あた》へて、之《これ》を優遇《いうぐう》した。而《しか》して義弘《よしひろ》も亦《ま》た、此《こ》れより誠實《せいじつ》なる秀吉《ひでよし》の味方《みかた》となつた。

[#5字下げ][#中見出し]【六五】新納忠元[#中見出し終わり]

義久《よしひさ》の心配《しんぱい》は、一|通《とほ》りではなかつた。此際《このさい》は素直《すなほ》に秀吉《ひでよし》に恭順《きようじゆん》するが、第《だい》一の策《さく》であり、且《か》つ恐《おそ》らくは唯《ゆゐ》一の策《さく》である。然《しか》るに折角《せつかく》太平寺《たいへいじ》の會見《くわいけん》にて、上首尾《じやうしゆび》なりしものを、親《おや》の心《こゝろ》子《こ》知《し》らずで、部下《ぶか》の者共《ものども》は、動《やゝ》もすれば其《そ》の効果《かうくわ》を打《う》ち壞《こは》さんとした。
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飫肥之事《をびのこと》、伊民《いみん》(伊東祐兵)[#「(伊東祐兵)」は1段階小さな文字]へ可[#レ]被[#レ]渡之段《わたさるべくのだん》、度々申下候之處《たび/″\まをしくだしさふらふのところ》、于[#レ]今堪忍候之哉《いまにたへしのびさふらふのよし》、就[#レ]夫幽齊《それにつきいうさい》(細川藤孝)[#「(細川藤孝)」は1段階小さな文字]石冶少《いしぢせう》(石田三成)[#「(石田三成)」は1段階小さな文字]以之外《もつてのほか》、御氣色惡候《おんけしきあしくさふらふ》。・・・・・・|片時《へんじ》も急可[#レ]相渡[#一]事《いそぎあひわたすべきこと》、肝要候《かんえうにさふらふ》。自然猶々於[#二]難澁[#一]者《しぜんなほ/\なんじふするにおいては》、即當家之爲《すなはちたうけのため》に成間敷候之條《なるまじくさふらふのでう》、聊不[#レ]可[#レ]有[#二]油斷[#一]《いさゝかゆだんあるべからず》。
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とは、義久《よしひさ》が五|月《ぐわつ》廿一|日附《にちづけ》にて、上原尚近等《うへはらなほちから》に諭《さと》したる書中《しよちう》の一|節《せつ》である。乃《すなは》ち尚近等《なほちから》は飫肥《をび》を、伊東祐兵《いとうすけたけ》に引《ひ》き渡《わた》す事《こと》を、牴牾《ていご》、濡滯《じゆたい》し、秀吉《ひでよし》の命《めい》を執行《しつかう》するの責任者《せきにんしや》たる、細川幽齊《ほそかはいうさい》、石田《いしだ》三|成等《なりら》は、頗《すこぶ》る氣《き》を惡《あ》しくし、是《これ》が爲《た》めに義久《よしひさ》が懸念《けねん》したる模樣《もやう》が想像《さうざう》せらるゝ。義久《よしひさ》の來謁《らいえつ》の遲延《ちえん》はまだしもの事《こと》として、歳久《としひさ》の行動《かうどう》の如《ごと》きは、頗《すこぶ》る秀吉《ひでよし》の感情《かんじやう》を害《がい》したるに相違《さうゐ》あるまい。
薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の一|統《とう》は、貴久《たかひさ》より義久《よしひさ》の前半期《ぜんはんき》にかけて、稍《やうや》く成就《じやうじゆ》した。それ迄《まで》は、何《いづ》れも土豪割據《どがうかつきよ》の姿《すがた》であつた。即今《そくこん》の情態《じやうたい》、亦《ま》た聊《いさゝ》か此《こゝ》に逆戻《ぎやくもど》りしつゝあつた。抑《そもそ》も歳久《としひさ》、及《およ》び忠元《たゞもと》、北郷《ほんがう》一|雲等《うんら》の如《ごと》きは、何故《なにゆゑ》に義久《よしひさ》の意《い》に反《はん》して、此《かく》の如《ごと》き行動《かうどう》を敢《あへ》てしたる乎《か》。そは種々《しゆ/″\》の動機《どうき》があつたであらう。一|雲《うん》の如《ごと》きは、都於郡《とおぐん》に於《お》ける講和評定《かうわひやうぢやう》の際《さい》に於《おい》て、尚《な》ほ主戰論《しゆせんろん》を主張《しゆちやう》した一|人《にん》であつた。されば其《そ》の歸服《きふく》の遲々《ちゝ》であつたのは、怪《あや》しむに足《た》らぬ。歳久《としひさ》、忠元《たゞもと》の心事《しんじ》は奈何《いかん》。
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太閤薩摩入《たいかうさつまいり》の時《とき》、日州口《につしうぐち》の兵破《へいやぶ》れ、|請[#二]秀吉の和解[#一]《ひでよしわかひをこひ》、被[#レ][#「#レ」は底本では「#二」]決[#二]御降參[#一]候《おんかうさんにけつせられさふらふ》にも、兵破降[#二]敵陣[#一]候後《へいやぶれてきぢんにくだりさふらふのち》、最初《さいしよ》の變[#レ]約《やくをかへ》、或《あるひ》は沒[#二]收領國[#一]《りやうこくをぼつしうし》、或切腹被[#レ]爲[#二]首刎[#一]《あるひはせつぷくくびをはねさせられ》、殘[#二]大耻[#一]《おほはぢをのこす》の族《やから》、和漢其例難[#レ]數事《わかんそのためしかぞへがたきこと》に候故《さふらふゆゑ》、誠被[#レ]惱[#二]心肺[#一]候處也《まことにしんぱいをなやまされさふらふところなり》。武州《ぶしう》(新納忠元)[#「(新納忠元)」は1段階小さな文字]此時《このとき》も爲[#二]謀主[#一]《ばうしゆとなり》、不[#レ]過[#レ]強不[#レ]見[#レ]弱《つよきにすぎずよはきをみせざる》の籌策《ちうさく》を決《けつ》し、左衞門歳久《さゑもんとしひさ》と二|人合[#レ]志《にんこゝろざしをあはせ》、爲[#二]御家[#一]《おいへのために》、籠[#二]城大口[#一]《おほぐちにろうじやうし》、虎《とら》の山《やま》を後《うしろ》にして奮[#二]猛威[#一]《まうゐをふるつ》て、欲[#レ]當[#二]太閤[#一]《たいかふにあたらんとほつす》。太閤豫識[#二]察其勇敢[#一]《たいかふあらかじめそのゆうかんをしきさつし》、外和睦《ほかわぼく》の約《やく》を表《へう》し給《たま》ふと雖《いへど》も、薩州《さつしう》の武奧深《ぶおくふか》きを恐《おそ》れ、禮《れい》を厚[#二]三公[#一]《さんこうにあつくし》、越[#レ]疆《さかひをこえ》て出[#二]肥後[#一]給《ひごにいでたまひ》ぬ。武州此忠節《ぶしうのこのちゆうせつ》、誠《まこと》に莫大《ばくだい》なり。〔御家兵法純粹〕[#「〔御家兵法純粹〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れも一|説《せつ》である。乃《すなは》ち歳久《としひさ》、忠元《たゞもと》の兩人《りやうにん》は、義久《よしひさ》と内々《ない/\》契合《けいがふ》の上《うへ》、義久《よしひさ》は軟派《なんぱ》に、兩人《りやうにん》は硬派《かうは》に廻《まは》り、島津《しまづ》の社稷《しやしよく》を、萬《まん》一に擁護《ようご》したと云《い》ふ事《こと》だ。又《ま》た島津國史《しまづこくし》には。
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初大口地頭新納忠元與[#二]祁答院領主左衞門督歳久[#一]謀[#レ]撃[#二]關白軍[#一]《はじめおほぐちのぢとうにひろたゞもとけたふゐんりやうしゆさゑもんのすけとしひさとともにくわんぱくぐんをうたんとはかり》、竊言[#二]於公[#一]《ひそかにこうにまをして》(義久)[#「(義久)」は1段階小さな文字]曰《いはく》、關白提[#二]大兵[#一]侵[#二]我疆[#一]《くわんぱくたいへいをひつさげてわがさかひををかす》、曾莫[#二]一人枝梧[#一]《かつていちにんのしごするなし》、天下將[#レ]謂[#レ]無[#二]一男子[#一]也《てんかまさにいつのだんしなしといはんとするなり》、請邀[#二]諸路[#一]撃[#レ]之《こふこれをみちにむかへてこれをうたんと》。公不[#レ]許《こうゆるさず》、曰《いはく》、已納[#二]女子[#一]爲[#レ]質《すでにぢよしをいれてちとなす》、奈何忍[#レ]棄[#レ]之《いかんぞこれをすつるにしのびん》。二子重請曰《にしかさねてこうていはく》、謀[#レ]國者不[#レ]顧[#レ]家《くにをはかるものいへをかへりみず》、且人家男女《かつじんかのだんぢよ》、往々多[#二]夭折[#一]《わう/\えうせつおほし》、願割[#二]所愛[#一]《ねがはくはしよあいをさくを》、視猶[#二]夭折[#一]《みることなほえうせつのごとくせよ》、奈[#レ]之何以[#二]一女子故[#一]《これをいかんぞいつぢよしゆゑをもつて》、廢[#二]國之大事[#一]也《くにのだいじをはいせんとや》。公固不[#レ]許曰《こうかたくゆるさずしていはく》、與[#レ]人講[#レ]和《ひととわをかうじ》、約已成矣《やくすでになれり》。背[#レ]約不義《やくにそむくはふぎなり》。且吾以[#二]社稷之故[#一]祝髮謝[#レ]罪《かつわれはしやしよくのゆゑをもつてしゆくはつしてつみをしやせん》、卿等不[#レ]宣[#レ]負[#レ]我《けいらよろしくわれにそむくべからずと》。二子《にし》(歳久、忠元)[#「(歳久、忠元)」は1段階小さな文字]乃止《すなはちやむ》。
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とある。此《こ》れは前者《ぜんしや》とは、全《まつた》く違《ちが》うたる立場《たちば》の立言《りつげん》である。即《すなは》ち兩人《りやうにん》が義久《よしひさ》の降參《かうさん》に慊《あきた》らずして、武士《ぶし》の意地《いぢ》を發揮《はつき》したのだ。然《しか》も義久《よしひさ》の諭示《ゆじ》にて止《や》んだといふ事《こと》だ。吾人《ごじん》は寧《むし》ろ此方《このはう》が、事實《じじつ》に庶幾《ちか》しと思《おも》ふ。
尚《な》ほ手近《てぢか》き例證《れいしよう》は、忠元《たゞもと》が五|月《ぐわつ》廿四|日附《かづけ》の書簡《しよかん》だ。
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如[#二]承候[#一]《うけたまはりさふらふごとく》。至[#二]大口[#一]關白殿御馬被[#レ]出候先勢者《おほぐちにいたりくわんぱくどのおうまいだされさふらふさきぜいは》、曾木天道尾《そぎてんどうを》に、今日《こんにち》(廿四)[#「(廿四)」は1段階小さな文字]著陣候《ちやくぢんさふらふ》。洪水故《こうずゐゆゑ》に候歟《さふらふか》、川《かは》を未[#レ]渡候《いまだわたらずさふらふ》。然處《しかるところ》に京衆石田冶部少輔殿《きやうしゆういしだぢぶせういうどの》、忠棟《たゞむね》(伊集院)[#「(伊集院)」は1段階小さな文字]以[#二]同心[#一]《どうしんをもつて》、無事之懸引《ぶじのかけひき》、從[#二]菱刈本城[#一]承候分《ひしかりほんじやうよりうけたまはりさふらふぶん》、申[#二]會尺[#一]《ゑしやくまをし》(釋)[#「(釋)」は1段階小さな文字]防戰《ばうせん》一|篇《ぺん》に相定候之處《あひさだめさふらふのところ》、自[#二]太守樣[#一]《たいしゆさまより》(義久)[#「(義久)」は1段階小さな文字]は新納右衞門佐《にひろうゑもんのすけ》(久饒)[#「(久饒)」は1段階小さな文字]殿《どの》、從[#二]武庫樣[#一]《むこさまより》(義弘)[#「(義弘)」は1段階小さな文字]者《は》、伊東右衞門佐殿以《いとううゑもんのすけどのをもつて》、御異見度々《ごいけんどゝ》に及《および》、仰候趣者《おほせさふらふおもむきは》、關白殿《くわんぱくどの》へ可[#二]罷出[#一]之由《まかりいづべくのよし》に付《つき》、御兩殿共《ごりやうでんとも》に御差出之上者《おんさしだしのうへは》、弓箭者不[#レ]可[#レ]然之由被[#二]思召[#一]候《ゆみやはしかるべからざるのよしおぼしめされさふらふ》。其故者御料仁樣《そのゆゑはごれうにんさま》(義久女龜壽)[#「(義久女龜壽)」は1段階小さな文字]又《また》一|郎樣《らうさま》(義弘子久保)[#「(義弘子久保)」は1段階小さな文字]爲[#二]質人[#一]指出御申候《しちびととしてさしだしおんまをしさふらふ》、慮外之拵共候《りよぐわいのこしらへどもつかまつりさふらう》ては、即御敵《すなはちおんてき》たるべき被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》ずると被[#二]仰出[#一]候條《おほせいだされさふらふでう》、不[#レ]及[#レ]力出頭《ちからおよばずしゆつとう》に相定候《あひさだめさふらふ》。下城之分《げじやうのわ》け申達候《まをしたつしさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
右《みぎ》は忠元《たゞもと》籠城《ろうじやう》の噂《うはさ》を聞《き》き、加勢《かせい》の企《くはだ》てをしたる瀧聞《たききゝ》、土持《つちもち》、二|階堂《かいだう》の諸士《しよし》に與《あた》へ、下城《げじやう》の理由《りいう》を説明《せつめい》したるものにて、事理分明《じりぶんみやう》だ。
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猶々籠城之儀被[#二]聞召[#一]《なほ/\ろうじやうのぎきこしめされ》、庄内近邊迄《しやうないきんぺんまで》も被[#レ]仰《おほせられ》、慥御加勢之御企《たしかごかせいのおんくはだて》、無[#二]比類[#一]御心《ひるゐなきおこゝろ》ざし、申《まを》しても/\|盡《つく》しがたく候《さふらふ》。京勢糧《きやうぜいりやう》つまりに成《なり》、長陣成間敷雖[#二]見及候[#一]《ながぢんなるまじくみおよびさふらふといへども》、上意背《じやういそむき》がたき故《ゆゑ》に、一|和《わ》に可[#二]罷成[#一]候《まかりなるべくさふらふ》。誠口惜次第候《まことにくちをしきしだいにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と申添《まをしそ》へて居《ゐ》る。忠元《たゞもと》は秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》が、兵粮《ひやうらう》に窮《きゆう》して、久《ひさ》しきを持《ぢ》する能《あた》はざるを※[#「墟のつくり+見」、第4水準2-88-42]定《しよてい》し、敢《あへ》て其《そ》の兵《へい》を孤城《こじやう》の下《もと》に、喰《く》ひ止《と》めんと企《くはだ》てたのだ。成功《せいこう》、不成功《ふせいこう》は姑《しばら》く措《お》き、彼《かれ》亦《ま》た一|種《しゆ》の見解《けんかい》なきにあらずだ。如上《じよじやう》は忠元《たゞもと》の心事《しんじ》の七八を得《え》たものと思《おも》ふ。
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此所《こゝ》(大隈曾木)[#「(大隈曾木)」は1段階小さな文字]にて新納武藏守出仕申候《にひろむさしのかみのしゆつしまをしさふらふ》。軈而御禮可[#二]申上[#一]之處《やがておんれいまをしあぐべきのところ》に、無事《ぶじ》の果口《はてぐち》を不[#レ]知候事《しらずさふらふこと》を、義久《よしひさ》、伊集院《いじふゐん》、不足《ふそく》に付而島津落著之後《つきてしまづらくちやくののち》まで、御敵《おんてき》を申《まをし》き。島津家老《しまづからう》と申《まをし》ながら、武者之覺又《むしやのおぼえまた》は人數持《にんずもち》にて、千|石《ごく》(仙石)[#「(仙石)」は1段階小さな文字]權兵衞尉討負候時《ごんべゑのじよううちまけさふらふとき》、武藏守先陣《むさしのかみせんぢん》と聞候《きゝさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れは秀吉側《ひでよしがは》の觀察《くわんさつ》である。即《すなは》ち忠元《たゞもと》は、義久等《よしひさら》降服《かうふく》の通告《つうこく》に接《せつ》せず、云《い》はゞ|置《お》き去《ざ》りにせられたる口惜《くや》しさに、最後迄《さいごまで》踏怺《ふみこら》へたと云《い》ふ事《こと》だ。吾人《ごじん》は此《こ》の觀察《くわんさつ》も亦《ま》た、若干《じやくかん》の理由《りいう》ありと思《おも》ふ。當時《たうじ》危急《ききふ》の場合《ばあひ》、伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》が、一|身《しん》を挺《てい》して、秀長《ひでなが》の陣《ぢん》に驅《か》け込《こ》みたる程《ほど》なれば、事前《じぜん》の相談《さうだん》は勿論《もちろん》、事後《じご》の通告《つうこく》も閑却《かんきやく》せられたかも知《し》れぬ。此《こ》れは忠元《たゞもと》のみならず、歳久《としひさ》に取《と》りても、頗《すこぶ》る不愉快《ふゆくわい》の感《かん》を催《もよほ》したに相違《さうゐ》あるまい。義久《よしひさ》に對《たい》しては別《べつ》として、忠棟《たゞむね》の面《つら》が頗《すこぶ》る憎《にく》かつたのは、已《や》むを得《え》まい。
如何《いか》なる時代《じだい》にも、硬派《かうは》と軟派《なんぱ》とあるが、忠元《たゞもと》は流石《さすが》に野暮漢《やぼかん》でない。其《そ》の抵抗《ていかう》するや、飽迄《あくまで》抵抗《ていかう》し、其《そ》の下城《げじやう》して來謁《らいえつ》するや、洒々然《しや/\ぜん》として芥帶《かいたい》を挾《さしはさ》まず。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》の爲《た》めに愛惜《あいせき》せられたのも、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》ではあるまい。
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忠元投[#二]知學寺[#一]祝髮《たゞもとちかくじにとうじてしゆくはつし》、自號[#二]拙齊[#一]《みづからせつさいとがうす》、往見[#二]關白於曾木天堂尾[#一]《ゆいてくわんぱくをそぎてんだうをにみる》。|關白賜[#二]長刀一枚、道服一領[#一]《くわんぱくなぎなたいちまいだうふくひとかさねをたまふ》、再拜而退《さいはいしてしりぞく》。關白喚[#二]囘之[#一]謂曰《くわんぱくこれをよびかへしいつていはく》、武藏汝復與[#レ]我距乎《むさしなんぢまたわれとふせがんかと》。忠元應[#レ]聲答曰《たゞもとこゑにおうじてこたへていはく》、唯寡君命《たゞくわくんのめいのまゝなり》、若使[#三]寡君不[#レ]得[#レ]事[#二]殿下[#一]《もしくわくんをしてでんかにつかふるをえざらしめば》、則臣無[#レ]逃[#レ]命《すなはちしんめいをのがるゝなしと》。關白稱[#レ]善《くわんぱくよしとしようす》。明日《みやうにち》、關白赴[#二]肥後[#一]《くわんぱくひごにおもむく》、忠元逆到[#二]羽月郷園田之間[#一]《たゞもとあらかじめうづきがうそのだのかんにいたり》、駐[#二]馬道側[#一]《うまをだうそくにとゞむ》、相去數町《あひさるすうちやう》、關白遣[#二]騎士[#一]《くわんぱくきしをやりて》、召[#レ]之《これをめす》、忠元即至《たゞもとすなはちいたり》、下馬拜[#二]關白[#一]《げばしてくわんぱくをはいす》。關白親賜[#二]搨疊扇一柄[#一]而去《くわんぱくみづからたふでふせんいつぺいをたまうてさる》。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
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何《なん》となく曹操《さうさう》が關羽《くわんう》と別《わか》れたる面影《おもかげ》が偲《しの》ばるゝ。新納忠元《にひろたゞもと》の如《ごと》きは、實《じつ》に薩摩武士《さつまぶし》の善《よ》き標本《へうほん》である。歳久《としひさ》の幕《まく》は、只《た》だ殺風景《さつぷうけい》に畢《をは》つたが、忠元《たゞもと》の一|齣《せつ》は、窮《きはま》るが如《ごと》くにして通《つう》じ、烟波渺茫《えんぱべうばう》、好個《かうこ》の薩摩軍談《さつまぐんだん》の掉尾《たうび》であつた。
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[#6字下げ]忠元秀吉に謁す
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其時拙齊(忠元)被[#レ]仰候は巧まん弓矢を、仕たる由、巧み申たると承候、拙齊此段は、一々合點申さん對面申儀、曾而罷成不[#レ]申候、箇樣に申内に、幸侃(伊集院忠棟)參るべしとて、大口の屈強の侍を、崎ぢんに御遣被[#レ]成若し幸侃參り候はゞ、一々幸侃に鐵砲打可[#レ]申と被[#レ]仰候、其時幸侃御通りにて、幸侃之顏見知らんかとて、采打ち振り、鐵砲之矢口、留申せとて、飛脚を相立被[#レ]申候、左候て、矢之口何れも留申候、其時幸侃、城の内被[#レ]參候て、拙齊對面有[#レ]之候、幸侃被[#レ]申候は、何とて天下(秀吉)
に對面は被[#レ]成不[#レ]申哉、無[#二]心元[#一]候、其時拙齊被[#レ]申候はイヤ/\、天下に對面不[#二]罷成[#一]樣子は、巧まん弓矢を巧み申たる由被[#レ]仰候間、太閤へ兎角、錆矢を一筋射懸け可[#レ]申と存候、其時幸侃被[#レ]申候は、屋形(義久)の爲にも罷成申間敷候、必らず對面と被[#レ]申候、其時拙齊被[#レ]申候は屋形の爲になるまじくと承候、左候はゞ對面可[#レ]申候、拙齊心に解《ほど》けん(ぬ)事有[#レ]之故、終に太閤へ顏打上げ不[#レ]被[#レ]成候、其時に太閤、拙齊が顏見たく被[#二]思召[#一]候而陣扇被[#レ]下候、其れにても顏を上げ不[#レ]被[#レ]成候、餘り太閤拙齊が顏を見たくして、冑を被[#レ]下候、其れにても顏を上げ不[#レ]被[#レ]成候、其時太閤より拙齊に盃を被[#レ]下候、其れにても面《おもて》を上げ不[#レ]被[#レ]成候、餘り太閤より頬惡さに、歌を御詠み被[#レ]成候、歌に
  はなのあたりを松虫ぞせゝる
拙齊御返歌
  お上わ髭をちんちろりんと拈り上げ鼻のあたりを松虫ぞ栖む
と御詠み被[#レ]成候而、盃を芝原に投捨被[#レ]成而御立被[#レ]成候、其時拙齊被[#レ]仰候は、我等城下は通申事不[#レ]被[#二]罷成[#一]候、其時太閤、堂崎(大口の南)より「たけのせと」御通り被[#レ]成候、太閤御暇乞の爲に、拙齊に御拜領物は長太刀とやら、羽織とやら申事也。〔古物語〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【六六】成功乎不成功乎[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》の島津《しまづ》征伐《せいばつ》は、殆《ほとん》ど總《すべ》ての點《てん》に於《おい》て、成功《せいこう》であつた。人《ひと》或《あるひ》は秀吉《ひでよし》が島津《しまづ》に對《たい》して、餘《あま》りに寛大《くわんだい》であつたのを見《み》て、秀吉《ひでよし》は島津《しまづ》の武威《ぶゐ》に辟易《けきえき》したのであらうと云《い》ふが、決《けつ》して然《しか》らず。秀吉《ひでよし》は本來《ほんらい》島津《しまづ》を潰《つぶ》すつもりでなかつたのみならず、收《をさ》めて我用《わがよう》と做《な》すつもりであつた。
何《いづ》れの地方《ちはう》も、應仁《おうにん》以來《いらい》は、同樣《どうやう》であつたが、取《と》り分《わ》け九|州《しう》は土豪割據《どがうかつきよ》で、特《とく》に薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》は、尤《もつと》も甚《はなは》だしきものであつた。島津《しまづ》の鎌倉《かまくら》以來《いらい》の積勢《せきせい》を以《もつ》てしても、薩《さつ》、隅《ぐう》二|國《こく》を一|統《とう》したるは、辛《から》うじて義久《よしひさ》の前半期迄《ぜんはんきまで》かゝつたではない乎《か》。されば若《も》し一たび島津《しまづ》を潰《つぶ》す日《ひ》には、再《ふたゝ》び亂麻《らんま》の如《ごと》き形勢《けいせい》を、現出《げんしゆつ》す可《べ》きは、毫《がう》も疑《うたがひ》を容《い》れぬ。秀吉《ひでよし》が島津《しまづ》の勢力《せいりよく》を削《けづ》りつゝ、然《しか》も其《そ》の本據《ほんきよ》を覆《くつがへ》さなかつたのは、島津《しまづ》を以《もつ》て、治安《ちあん》の要具《えうぐ》と認《みと》めたからだ。秀吉《ひでよし》は島津《しまづ》を畏《おそ》るゝよりも、寧《むし》ろ之《これ》を利用《りよう》した。
秀吉《ひでよし》は既《すで》に中國《ちうごく》の毛利《まうり》を役《えき》して、九|州《しう》の島津《しまづ》を平《たひら》げた。此上《このうへ》は九|州《しう》の島津《しまづ》を役《えき》して、内《うち》は薩《さつ》、隅《ぐう》鎭壓《ちんあつ》に任《にん》ぜしめ、恐《おそ》らくは更《さら》に之《これ》を海外《かいぐわい》[#ルビの「かいぐわい」は底本では「かいぐわ」]の戰役《せんえき》に從《したが》はしめんとしたのであらう。他日《たじつ》朝鮮役《てうせんえき》に於《お》ける、島津《しまづ》一|黨《たう》の働《はたら》きを見《み》る者《もの》は、必《かなら》ず思《おも》ひ當《あた》る節《ふし》があるであらう。
寛《くわん》と云《い》ひ、嚴《げん》と云《い》ふも、觀察《くわんさつ》の方面《はうめん》による。成程《なるほど》秀吉《ひでよし》の島津《しまづ》に於《お》けるは、信長《のぶなが》の齋藤《さいとう》、淺井《あさゐ》、淺倉《あさくら》、北畠等《きたばたけら》に於《お》けるよりも、寛大《くわんだい》であつたに相違《さうゐ》ない。されど秀吉《ひでよし》の毛利《まうり》、長曾我部等《ちやうそかべら》中國《ちうごく》、南海《なんかい》の諸雄《しよゆう》に於《お》けるよりも、より寛大《くわんだい》であるとは云《い》はれまい。島津《しまづ》は土著《どちやく》の雄《ゆう》として、相當《さうたう》の待遇《たいぐう》を享《う》けたが、決《けつ》して特殊《とくしゆ》の待遇《たいぐう》を受《う》けなかつた。秀吉《ひでよし》は自《みづか》ら鹿兒島《かごしま》に足《あし》を踏《ふ》み入《い》れなかつた、秀吉《ひでよし》は鹿兒島城《かごしまじやう》を差出《さしだ》す可《べ》しと云《い》ふ、島津《しまづ》の提供《ていきやう》を斥《しりぞ》けた。然《しか》も秀吉《ひでよし》は決《けつ》して腫物《はれもの》に觸《さは》るが如《ごと》き態度《たいど》もて、島津《しまづ》に處《しよ》せなかつた。彼《かれ》は人質《ひとじち》を徴《ちよう》した。彼《かれ》は義久《よしひさ》の上洛《じやうらく》を促《うなが》した、彼《かれ》は薩《さつ》、隅《ぐう》二|州《しう》に、島津《しまづ》一|統《とう》のみならず、細川幽齊《ほそかはいうさい》、石田《いしだ》三|成《なり》、の知行所《ちぎやうしよ》を雜《まじ》へ、更《さ》らに公領《こうりやう》をも措《お》いた。彼《かれ》は薩《さつ》、隅《ぐう》に繩《なは》を入《い》れて─|後年《こうねん》─|其《そ》の丈量《ぢやうりやう》を確實《かくじつ》にした。凡《およ》そ薩摩《さつま》、大隈《おほすみ》の一|塊《くわい》の土《つち》、一|片《ぺん》の石《いし》も、秀吉《ひでよし》の勢力《せいりよく》の接觸《せつしよく》せぬものはなかつた。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》としては、立派《りつぱ》に其《そ》の統《とう》一の目的《もくてき》を達《たつ》し得《え》たではない乎《か》。秀吉《ひでよし》は寛大《くわんだい》であつた。併《しか》し彼《かれ》の口《くち》は開《ひら》きて、其《そ》の底《そこ》は締《しま》つて居《ゐ》た。秀吉《ひでよし》は鷹揚《おうやう》であつたが、同時《どうじ》に油斷《ゆだん》も隙間《すき》もなき大將《たいしやう》であつた。此《かく》の如《ごと》くして島津《しまづ》は、全《まつた》く秀吉《ひでよし》の※[#「轂」の「車」に代えて「弓」、第3水準1-84-25]中《こうちう》に落《お》ちたのだ。
飜《ひるがへ》つて島津《しまづ》の側《がは》より見《み》れば、戰《たゝか》はずして和《わ》するに若《し》くはなしであつたが、既《すで》に其《そ》の第《だい》一|著《ちやく》を誤《あやま》りたるからには、刀《たう》折《を》れ矢《や》盡《つ》き、血《ち》みどろになつて降服《かうふく》するよりも、多少《たせう》の餘地《よち》を剩《あま》して降服《かうふく》するが、得策《とくさく》であつたに相違《さうゐ》あるまい。島津《しまづ》の秀吉《ひでよし》に對《たい》する、善《ぜん》の善《ぜん》ではなかつたが、善《ぜん》の中《ちう》であることを失《うしな》はなかつた。田舍者《ゐなかもの》としては、島津《しまづ》も中々《なか/\》能《よ》くさばけたと云《い》はねばならぬ。秀吉《ひでよし》も此《これ》には確《たし》かに共鳴《きようめい》もし、同情《どうじやう》もした。此《かく》の如《ごと》くして秀吉《ひでよし》と、島津《しまづ》との關係《くわんけい》は成立《せいりつ》した。
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秀吉公《ひでよしこう》九|州御動座《しうごどうざ》相濟《あひすみ》御歸《おかへ》りの節《せつ》、日本《にほん》に馬鹿《ばか》が二人《ふたり》有[#レ]此《これあり》と被[#レ]仰候由《おほせられさふらふよし》。一人《ひとり》は先《まづ》秀吉《ひでよし》にて候《さふらふ》。此《この》遠國迄《ゑんごくまで》、大軍《たいぐん》にて地《ち》の利《り》を得《え》たる敵國《てきこく》へ來《きた》ること不覺《ふかく》にて候《さふらふ》。今少《いますこ》し六かしく有[#レ]之候《これありさふら》はゞ、兵粮《ひやうらう》盡《つ》き、生《いき》ては得歸《えかへ》るまじく候《さふらふ》。夫《それ》に付《つき》一人《ひとり》は義久《よしひさ》にて候《さふらふ》。遠國迄《ゑんごくまで》大軍《たいぐん》にて參候《まゐりさふらふ》秀吉《ひでよし》を、地《ち》の利《り》を得《え》ながら、今少《いますこ》しもこたえ候《さふら》はゞ、兵粮《ひやうらう》に詰《つま》り敗軍無[#レ]疑候《はいぐんうたがひなくさふらふ》に、孰《いづ》れ是《これ》も秀吉《ひでよし》が天運《てんうん》にて候《さふらふ》と被[#レ]仰候由《おほせられさふらふよし》。〔薩藩舊傳集〕[#「〔薩藩舊傳集〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《こ》れも一|説《せつ》だ。併《しか》し秀吉《ひでよし》と、義久《よしひさ》とは、二|人《にん》の大莫迦者《おほばかもの》であつた乎《か》、大利巧者《おほりかうもの》であつた乎《か》。秀吉《ひでよし》が兵粮詰《ひやうらうづ ま》りは、薩摩側《さつまがは》では、頻《しき》りに云《い》ひ囃《はや》す説《せつ》なれども、海運《かいうん》の便《べん》ある薩摩《さつま》にて、─|假令《たとひ》中途《ちうと》の山路《やまぢ》にて、一寸《ちよつと》當惑《たうわく》したる場合《ばあひ》はあり得可《うべ》きも─|斯《かゝ》る心配《しんぱい》ある可《べ》き樣《やう》なし。
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米舟《こめぶね》は、國々《くに/″\》よりも著《つ》きにけり、あけても積《つ》まん倉《くら》なしの濱《はま》。
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是《こ》れは此《こ》の戰役《せんえき》に際《さい》して、西下《さいか》しつゝある、細川幽齊《ほそかはいうさい》が、豐前《ぶぜん》に於《おい》て、兵粮舟《ひやうらうぶね》の輻輳《ふくそう》するを見《み》て、同國《どうこく》倉《くら》なしの濱《はま》なる地名《ちめい》を讀《よ》み込《こ》みたる一|首《しゆ》である。秀吉《ひでよし》は此點《このてん》に決《けつ》して違算《ゐさん》ある漢《をのこ》でなかつた。但《た》だ兵粮《ひやうらう》の心配《しんぱい》よりも、雨期《うき》と、炎暑《えんしよ》と、疫病《えきびやう》と、而《しか》して曠日彌久《くわじつびきう》になれば、士氣《しき》の倦怠《けんたい》とが、上方軍《かみがたぐん》に取《と》りては、掛念《けねん》の種子《たね》であつたらう。されば和議《わぎ》の成立《せいりつ》は、島津《しまづ》に取《と》りて有利《いうり》であつた如《ごと》く、秀吉《ひでよし》に取《と》りても有利《いうり》であつたに相違《さうゐ》ない。双方《さうはう》が斯《か》く見切《みき》りを附《つ》けたのは、寧《むし》ろ兩人《りやうにん》を以《もつ》て日本《にほん》一の利巧者《りかうもの》と云《い》ふことが、至當《したう》であらう。
吾人《ごじん》は今茲《いまこゝ》に特筆《とくひつ》す可《べ》き一|人《にん》がある。そは島津家久《しまづいへひさ》だ。彼《かれ》は義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》、歳久《としひさ》の弟《おとうと》にて、前《ぜん》三|人《にん》は同腹《どうふく》であるが、彼《かれ》のみは庶弟《しよてい》であつた。然《しか》も彼《かれ》が戰功《せんこう》は、島原役《しまばらえき》にて、龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》を殪《たふ》し、戸次川《べつきがは》に仙石《せんごく》、長曾我部《ちやうそかべ》を奔《はし》らしたにて判知《わか》る。彼《かれ》は勇《ゆう》なるのみならず、又《ま》た智慮《ちりよ》もあつた。
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中務少輔家久《なかつかさせういういへひさ》、自[#二]根白坂[#一]還[#二]佐上原[#一]《ねじろざかよりさどはらにかへる》、羽柴秀長遣[#レ]兵圍[#レ]之《はしばひでながへいをやりてこれをかこむ》、家久嬰守城堅《いへひさえいしゆしてしろかたし》。藤堂與右衞門尉高虎説[#二]家久[#一]曰《とうだうようゑもんのじようたかとらいへひさにといていはく》、今以[#二]孤城[#一]當[#二]大軍[#一]《いまこじやうをもつてたいぐんにあたる》、終必破矣《つひにかならずやぶれん》、不[#レ]如[#レ]降也《くだるにしかざるなりと》。家久從[#レ]之《いへひさこれにしたがひ》、乃以[#レ]城授[#二]高虎[#一]《すなはちしろをもつてたかとらにさづく》。家久既以[#二]其女[#一]爲[#レ]質《いへひさすでにそのむすめをもつてちとなし》、又請[#下]從[#二]秀長[#一]之[#二]京師[#一]給[#中]事關白[#上]《またひでながにしたがひてけいしにゆきくわんぱくにきふじするをこふ》、關白聞而嘉[#レ]之《くわんぱくきいてこれをよみす》、使[#レ]領[#二]佐土原[#一]如[#レ]故《さどはらをりやうせしむることもとのごとし》。於[#レ]是家久往見[#二]秀長於野尻[#一]《こゝにおいてかいへひさゆいてひでながにのじりにまみゆ》、中[#レ]毒而病《どくにあたりてやみ》、六|月《ぐわつ》五|日《か》卒[#レ]於[#二]佐土原[#一]《さどはらにそつす》。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
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彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の直參《ぢきさん》となりて、其《そ》の幕下《ばくか》に奉仕《ほうし》する志《こゝろざし》があつた。然《しか》るに彼《かれ》は野尻《のじり》に於《おい》て、秀長《ひでなが》に見《まみ》えたる折《をり》、毒《どく》に中《あた》り、四十一|歳《さい》の男盛《をとこざか》りに、空《むな》しく其《そ》の志《こゝろざし》を齎《もたら》して逝《ゆ》いたとある。此《こ》れは如何《いか》にも平仄《ひやうそく》の合《あ》はぬ記事《きじ》ではない乎《か》。前提《ぜんてい》と結論《けつろん》とは、全《まつた》く矛盾《むじゆん》して居《ゐ》[#ルビの「ゐ」は底本では欠落]るではない乎《か》。然《しか》も西藩野史《せいはんやし》には、『秀長《ひでなが》家久《いへひさ》の將略英氣《しやうりやくえいき》群《ぐん》を絶《ぜつ》するを忌《い》み、宴《えん》を開《きら》き※[#「火へん+鳥」、340-2]《ちん》を以《もつ》て之《これ》を殺《ころ》す。』とある。此《こ》れは薩人《さつじん》の邪推《じやすゐ》だ。秀長《ひでなが》は寛厚《くわんかう》の長者《ちやうじや》である。家久《いへひさ》が單《たん》に歸降《きかう》するのみならず、秀長《ひでなが》によりて秀吉《ひでよし》に仕《つか》へんとする程《ほど》の者《もの》を、毒殺《どくさつ》す可《べ》き理由《りいう》は、一もない。但《た》だ四十一|歳《さい》にして、暴《には》かに病《やまひ》を得《え》て死《し》したるが爲《た》めに、斯《か》く附會《ふくわい》したのであらう。此《こ》れは薩人許《さつじんばか》りでなく、當時《たうじ》流行《りうかう》の群衆心理《ぐんしゆうしんり》であつたらしく思《おも》はるゝ。其《そ》の證據《しようこ》には、毒殺説《どくさつせつ》は、他《た》にも桝《ます》にて量《はか》る程《ほど》澤山《たくさん》あるではない乎《か》。
家久《いへひさ》の上京《じやうきやう》は、單獨《たんどく》の行動《かうどう》でなく、義久《よしひさ》とも打合《うちあは》せた事《こと》であつた。五|月《ぐわつ》廿六|日附《にちづけ》の義久《よしひさ》の書簡《しよかん》には、『上洛之樣體《じやうらくのやうたい》、自餘相易儀《じよあひやすきぎ》にて歟候之覽《かさふらふやらん》、無[#二]心元[#一]存候《こゝろもとなくぞんじさふらふ》。是非以不[#レ]可[#レ]背[#二]公界[#一]樣《ぜひもつてこうかいにそむくべからざるやう》、能々分別肝要候《よく/\ふんべつかんえうにさふらふ》。』と云《い》ひ、又《ま》た『尚々上洛《なほ/\じやうらく》、可[#レ]然樣《しかるべきやう》、御納得《ごなつとく》、肝心《かんじん》たるべく候《さふらふ》。』とある。されば彼《かれ》の上洛《じやうらく》は、彼《かれ》の發意《ほつい》よりも、寧《むし》ろ秀吉《ひでよし》、秀長等《ひでながら》の註文《ちゆうもん》であつたかも知《し》れぬ。兎《と》も角《かく》も、彼《かれ》の死《し》は、深甚《しんじん》なる印象《いんしやう》を秀長《ひでなが》に與《あた》へた。秀長《ひでなが》の六|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》、蜂須賀家政《はちすかいへまさ》に與《あた》へたる書中《しよちう》に、『仍島中務《なほしまなかつかさ》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]事不慮《ことふりよ》、不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》、又《また》七(家久の子豐久)[#「(家久の子豐久)」は1段階小さな文字]に心付之儀尤候《こゝろづけのぎもつともにさふらふ》。』と云《い》ひ。又《ま》た六|月《ぐわつ》十|日附《かづけ》豐久《とよひさ》に與《あた》へて、
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誠中務《まことになかつかさ》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]不慮仕合《ふりよのしあはせ》、不[#レ]及[#二]是非[#一]候《ぜひにおよばずさふらふ》[#ルビの「ぜひにおよばずさふらふ」は底本では「ふひにおよばずさふらふ」]、然共生死者[#レ]習候之條《しかれどもしやうしはならひありさふらふのでう》、分別專用候《ふんべつせんようにさふらふ》。就[#レ]夫藤堂《それにつきとうだうを》(高虎)[#「(高虎)」は1段階小さな文字]遣候《つかはしさふらふ》。諸事談合可[#レ]然候《しよじだんがふしかるべくさふらふ》。其方覺悟次第《そのはうのかくごしだい》、向後引立可[#レ]申候間《きやうごひきたてまをすべくさふらふあひだ》、可[#レ]成[#二]其意[#一]候《そのこゝろなさるべくさふらふ》。
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と云《い》うて居《を》る。斯《かゝ》る文句《もんく》は、非常《ひじやう》なる惡黨《あくたう》にあらざる限《かぎ》りは、毒殺者《どくさつしや》の當人《たうにん》より出《い》で來《きた》る可《べ》きものではあるまい。果然《くわぜん》※[#「火へん+鳥」、340-2]殺説《ちんさつせつ》は、全《まつた》くの妄説《まうせつ》である。
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