第十八章 秀吉本陣の戰況
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十八章 秀吉本陣の戰況[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五八】巖石城の攻陷[#中見出し終わり]

吾人《ごじん》は姑《しば》らく搦手《からめて》なる日向口《ひふがぐち》より、眼《まなこ》を秀吉《ひでよし》の大手口《おほてぐち》に轉《てん》ぜねばならぬ。
秀吉《ひでよし》は既記《きき》の如《ごと》く、三|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、赤間關《あかまがせき》に著《ちやく》し。翌日《よくじつ》附近《ふきん》の地形《ちけい》を視察《しさつ》し、増田長盛《ますだながもり》を、此地《このち》に止《とゞ》め、毛利高政《まうりたかまさ》、同吉安兄弟《どうよしやすきやうだい》に、船舶《せんぱく》の事《こと》を掌《つかさど》らしめ。大手《おほて》、搦手《からめて》、兩軍《りやうぐん》一|切《さい》の部署《ぶしよ》を定《さだ》め、廿八|日《にち》關門海峽《くわんもんかいけふ》を渡《わた》りて、小倉《こくら》に抵《いた》り、廿九|日《にち》馬《うま》ヶ|嶽《たけ》なる長野種信《ながのたねのぶ》の城《しろ》に入《はひ》つた。晦日《みそか》には羽柴秀勝《はしばひでかつ》、蒲生氏郷《がまふうぢさと》、前田利長等《まへだとしながら》をして、巖石城《がんじやくじやう》を監視《かんし》せしめ、細川忠興《ほそかはたゞおき》、中川秀政《なかがはひでまさ》、堀秀政等《ほりひでまさら》をして秋月《あきづき》を攻撃《こうげき》す可《べ》く、筑前《ちくぜん》に入《い》り、自《みづか》ら繼《つ》いで進《すゝ》まんとしたが、巖石城《がんじやくじやう》が、筑前《ちくぜん》の境上《きやうじやう》に臨《のぞ》み、交通《かうつう》の要衝《えうしよう》に在《あ》るを以《もつ》て、先《ま》づ之《これ》を拔《ぬ》くの必要《ひつえう》を感《かん》じた。
秀吉《ひでよし》は其《そ》の攻撃《こうげき》を、麾下《きか》の部隊《ぶたい》に命《めい》ぜんとするの際《さい》、蒲生《がまふ》、前田等《まへだら》の懇請《こんせい》に任《まか》せ、四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、彼等《かれら》をして、其《そ》の事《こと》に當《あた》らしめた。
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此《この》がんじやく無[#レ]隱名城也《かくれなきめいじやうなり》。高山《かうざん》にてつゞく山《やま》なし。然《しか》るを蒲生飛騨守《がまふひだのかみ》、前田孫《まへだまご》四|郎兩人《らうりやうにん》として被[#二]申請[#一]《まをしうけられ》、是非共《ぜひとも》兩人《りやうにん》に城攻之儀被[#二]仰付[#一]候樣《しろぜめのぎおほせつけられさふらふやう》にと、達而被[#レ]申《たつてまをされ》、先陣《せんぢん》を給候《たまはりさふらう》て、被[#二]押詰[#一]候《おしつめられさふら》へ共《ども》、節所《せつしよ》の事《こと》に候得《さふらえ》ば、無[#二]左右[#一]乘破難《さうなくのりやぶりがた》き處《ところ》に、上樣《うへさま》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]右之山《みぎのやま》の麓迄《ふもとまで》、御陣《ごぢん》がへにて、助勢《じよせい》に丹波少將《たんばせうしやう》(羽柴秀勝)[#「(羽柴秀勝)」は1段階小さな文字]殿《どの》をさし被[#レ]加候《くはへられさふらふ》。以[#二]其競[#一]《そのきそひをもつて》、御陣替之日《ごぢんがへのひ》、四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》に落城《らくじやう》、丈夫《ぢやうぶ》に雖[#二]相支候[#一]《あひさゝへられさふらふといへども》、御馬之前之事《おうまのまへのこと》に候《さふら》へば、四|方《はう》より乘込《のりこみ》、大將《たいしやう》を始《はじめ》、一|人《にん》も不[#レ]殘被[#二]討果[#一]候《のこらずうちはたされさふらふ》。此城《このしろ》は筑前之國主《ちくぜんのこくしゆ》に秋月《あきづき》(種實)[#「(種實)」は1段階小さな文字]と云者《いふもの》の取出也《とりでなり》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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事實《じじつ》は全《まつた》く此《こ》の通《とほ》りであつた。
巖石城《がんじやくじやう》は秋月《あきづき》の屬城《ぞくじやう》にて、熊谷久重《くまがやひさしげ》、芥田《あくただ》六|兵衞等《べゑら》、三千の兵《へい》にて立《た》て籠《こも》つた。四|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、寄手《よせて》は午前《ごぜん》四|時《じ》を期《き》し城下《じやうか》に抵《いた》り、蒲生隊《がまふたい》は大手《おほて》なる添田《そへだ》より、前田隊《まへだたい》は搦手《からめて》なる赤村《あかむら》より、同時《どうじ》に攻撃《こうげき》を開始《かいし》した。城兵《じやうへい》手勁《てづよ》く防戰《ばうせん》したが、蒲生隊《がまふたい》は、箭《や》や、銃丸《じゆうぐわん》の、雨霰《あめあられ》と飛《と》び散《ち》る間《あひだ》を凌《しの》ぎて、外部《ぐわいぶ》を占領《せんりやう》し、城門《じやうもん》に肉薄《にくはく》した。
此時《このとき》秀吉《ひでよし》自《みづか》ら柞原山《ゆずばるやま》に來《きた》りて、戰況《せんきやう》を視察《しさつ》し、屡《しばし》ば使《つかひ》を馳《は》せて、各隊《かくたい》を勵《はげま》し、即時《そくじ》に攻陷《こうかん》せしむ可《べ》きを命《めい》じた。氏郷《うぢさと》乃《すなは》ち身《み》を挺《てい》し、自《みづ》から士卒《しそつ》に先《さきん》じて奮鬪《ふんとう》し、二|之丸《のまる》に入《はひ》つた。而《しか》して秀勝《ひでかつ》の豫備隊《よびたい》、亦《ま》た別路《べつろ》より來《きた》りて之《これ》を援《たす》け、前田隊《まへだたい》亦《ま》た頗《すこぶ》る力戰《りよくせん》し、蒲生隊《がまふたい》と呼應《こおう》して追撃《つゐげき》し、共《とも》に火《ひ》を上風《じやうふう》に放《はな》ち、乍《たちま》ちにして二|之丸《のまる》、本丸《ほんまる》を燒《や》き盡《つく》した。城兵《じやうへい》狼狽《らうばい》、走路《そうろ》を失《うしな》ひ、秀勝隊《ひでかつたい》の正面《しやうめん》に逃《のが》れ來《きた》つた。蒲生隊《がまふたい》追躡《つゐせふ》して、之《これ》を鏖《みなごろし》にした。久重《ひさしげ》、六|兵衞以下《べゑいか》、城兵《じやうへい》の死人《しにん》四百|餘人《よにん》、午後《ごご》四|時《じ》、全《まつた》く陷落《かんらく》した。
惟《おも》ふに眇《べう》たる田舍《ゐなか》の弧城《こじやう》、其《そ》の存亡《そんばう》は、何等《なんら》大局《たいきよく》に關係《くわんけい》なき樣《やう》である。然《しか》も黒田孝高《くろだよしたか》が、『九|州《しう》の輩《やから》は皆《みな》田舍武者《ゐなかむしや》にて、未《いま》だ秀吉公《ひでよしこう》の威光《ゐくわう》を知《し》らず、漫《みだ》りに我意《がい》を立《たつ》ると見《み》えたり。』〔豐薩軍記〕[#「〔豐薩軍記〕」は1段階小さな文字]との觀察《くわんさつ》は、全《まつた》く其《そ》の通《とほ》りである。彼等《かれら》に之《これ》を知《し》らしむるは、實物教育《じつぶつけういく》に若《し》くはなし。秀吉《ひでよし》が萬障《ばんしやう》を排《はい》して、一|氣《き》に此《こ》の堅城《けんじやう》を攻《せ》め落《おと》したのは、交通聯絡《かうつうれんらく》の必要《ひつえう》あるのみならず、又《ま》た如上《じよじやう》の理由《りいう》に基《もとづ》くものと思《おも》はる。
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御馬《おうま》を早《はや》められ候《さふら》へば、巖石《がんじやく》の城下《じやうか》、丸山《まるやま》と申《まをす》小山《こやま》に御馬《おうま》を被[#レ]上候《あげられさふらふ》。御瓢箪《おんふくべ》(馬標)[#「(馬標)」は1段階小さな文字]を被[#レ]立候《たてられさふらふ》。扨《さて》御旗本衆《おはたもとしゆう》打續《うちつゞき》御馬印《おうまじるし》を見掛《みかけ》、海道《かいどう》は一|面《めん》に御人數《ごにんず》なり。彼山《かのやま》より御人數《ごにんず》續《つゞ》き申體《まをすてい》見下候《みおろしさふらふ》に、金銀《きん/″\》の指物《さしもの》、金《きん》の幟《のぼり》見渡候《みわたしさふらふ》。日《ひ》の頃《ころ》は朝《あさ》一|丈計《ぢやうばか》りも上《のぼ》り候《さふらふ》時分《じぶん》なり。椎《しひ》樫《かし》の木《き》の葉《は》に露《つゆ》たまり候《さふらふ》に、朝日《あさひ》の光《ひかり》、金銀《きん/″\》の指物《さしもの》、色《いろ》にうつろひ、木《こ》の間《ま》より雲《くも》すきに見下《みおろ》し候《さふら》へば、色々《いろ/\》の花《はな》など散《ちる》ごとくにして、ヶ樣成《かやうなる》面白《おもしろき》見物《けんぶつ》、上古《じやうこ》も今日《こんにち》も難《かた》きはと、人々《ひと/″\》の氣《き》いさみ渡《わた》り、城攻《しろぜめ》を一|目《め》、御人數《ごにんず》の有樣《ありさま》を|一目《め》、兩《ふたつ》を無[#レ]障《さはりなく》見物《けんぶつ》に、後々《のち/\》御供衆《おんともしゆ》雜談《ざふだん》にて承《うけたまは》り候事《さふらふこと》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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如何《いか》にも其《そ》の光景《くわうけい》が、面白《おもしろ》く描《えが》き出《いだ》されて居《ゐ》る。秀吉《ひでよし》の威光《ゐくわう》が、四邊《あたり》に赫灼《かくしやく》たるの状《じやう》、以《もつ》て知《し》る可《べ》しだ。
案《あん》の如《ごと》く巖石城《がんじやくじやう》の攻落以來《こうらくいらい》、秀吉《ひでよし》の前程《ぜんてい》は、殆《ほとん》ど無人《むにん》の地《ち》を行《ゆ》くが如《ごと》くであつた。大友《おほとも》、島津《しまづ》、龍造寺《りゆうざうじ》三|者《しや》の間《あひだ》に介在《かいざい》して、權謀術數《けんばうじゆつすう》を弄《ろう》し、隨分《ずゐぶん》と九|州《しう》をかき廻《まは》したる秋月種實《あきづきたねざね》も、今《いま》は唯《た》だ一|命《めい》を乞《こ》ふの他《ほか》はなかつた。秀吉《ひでよし》は四|月《ぐわつ》二|日《か》筑前《ちくぜん》に入《い》り、大隈城《おほくまじやう》に次《じ》した。
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此所《こゝ》に中《なか》一|日《にち》御逗留中《ごとうりうちう》に、筑前國主《ちくぜんこくしゆ》秋月居城《あきづきのきよじやう》を、淺野彈正《あさのだんじやう》(長政)[#「(長政)」は1段階小さな文字]森壹岐守《もりいきのかみ》(毛利吉成)[#「(毛利吉成)」は1段階小さな文字]に相渡候《あひわたしさふらう》て、頭《かしら》を削《そ》り、父子共《ふしとも》に御禮《おんれい》に罷出候《まかりいでさふらふ》。此《この》秋月《あきづき》と云者《いふは》、筑前《ちくぜん》一|國《こく》、筑後《ちくご》半國《はんごく》、豐前《ぶぜん》半國《はんごく》の屋形《やかた》と被[#レ]仰候《おほせられさふらう》て、今迄《いままで》二十一|代《だい》を保《たも》ちたる侍也《さむらひなり》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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乃《すなは》ち四|月《ぐわつ》三|日《か》秋月種實《あきづきたねざね》、種長父子《たねながふし》削髮《さくはつ》して、其《そ》の城《しろ》を淺野《あさの》、毛利《まうり》に致《いた》し、降《かう》を乞《こ》うた。
四|日《か》秀吉《ひでよし》秋月《あきづき》に次《じ》した。
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但《たゞし》中《なか》五|日《か》御休息《ごきうそく》にして、行先《ゆくさき》へ兵粮之調義《ひやうらうのてうぎ》など被[#二]仰付[#一]候《おほせつけられさふらふ》。爰《こゝ》にて秋月息女《あきづきそくぢよ》十六になるを人質《ひとじち》にあげ、其上《そのうへ》に、日本《にほん》に無[#二]其隱[#一]《そのかくれなき》楢柴《ならしば》と云《い》ふ肩衝《かたつき》、金《きん》百|兩《りやう》、八|木《ぎ》二千|石《ごく》進上申候《しんじやうまをしさふらふ》。
彼《かの》秋月事《あきづきこと》は、今迄《いままで》相[#二]構表裏[#一]《へうりをあひかまへ》立身《りつしん》の者《もの》に候間《さふらふあひだ》、命《いのち》をたすけさせられ候上《さふらふうへ》には、何《なに》を進上申候《しんじやうまをしさふらう》ても、御不足《ごふそく》に思召事候《おぼしめすことにさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》も秋月《あきづき》の老猾《らうくわつつ》を熟知《じゆくち》した。されば既《すで》に一|命《めい》を容《ゆる》すに於《おい》ては、彼《かれ》が何物《なにもの》を献《けん》じても、決《けつ》して足《た》れりとは認《みと》めなかつた。併《しか》し不殺《ふさつ》は、秀吉《ひでよし》の本領《ほんりやう》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【五九】秀吉隈本に入る[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》が天正《てんしやう》十四|年《ねん》十二|月《ぐわつ》二|日附《にちづけ》にて、小早川《こばやかは》、安國寺《あんこくじ》、黒田等《くろだら》に與《あた》へたる書中《しよちう》に、『筑紫乍[#二]見物[#一]《つくしをけんぶつながら》、島津居城可[#二]取卷[#一]《しまづのきよじやうをとりまくべし》。』との文句《もんく》は、今《いま》や實現《じつげん》せられた。秀吉《ひでよし》は何等《なんら》の障礙《しやうがい》なく、悠々《いう/\》として兩筑《りやうちく》の野《や》を過《す》ぎた。四|月《ぐわつ》四|日《か》秋月城《あきづきじやう》の附近《ふきん》荒平《あらひら》に次《じ》し、五|日《か》立花宗茂《たちばなむねしげ》來謁《らいえつ》した。
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宗茂《むねしげ》は淺野彌兵衞《あさのやひやうゑ》(長政)[#「(長政)」は1段階小さな文字]を取次《とりつぎ》として、秀吉《ひでよし》へ目見《まみえ》に出《いで》らる。秀吉《ひでよし》は唐織《からおり》の夜衣《よぎ》を召《め》し、鐵漿《かね》を著《つ》け掛《かゝ》りて御座候《おはしさふらひ》つるが、立花《たちばな》參《まゐ》りたるか、其處《そこ》へ出《いで》られよと、無[#二]殘所[#一]《のこるところなき》御機嫌《ごきげん》にて、則《すなは》ち蘆毛《あしげ》の馬《うま》に、召料《めしれう》の鞍《くら》を置《お》かせられ被[#レ]下《くだされ》。筑紫者《つくしもの》は野郎《やらう》とやらんとて、長刀《ちやうたう》を好《す》くげなとて、越前《ゑちぜん》の進上候由《しんじやうさふらふよし》にて、三|尺許《じやくばかり》の刀《かたな》を被[#レ]下《くださる》。〔武功雜記〕[#「〔武功雜記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、孤城《こじやう》に嬰《かゝ》りて、島津《しまづ》の大敵《たいてき》を撃退《げきたい》したる、此《こ》の若者《わかもの》の田舍武士《ゐなかぶし》は、頗《すこぶ》る秀吉《ひでよし》の嘉獎《かしやう》する所《ところ》となつた。秀吉《ひでよし》は東國《とうごく》に本多平《ほんだへい》八|郎忠勝《らうたゞかつ》あり、鎭西《ちんぜい》に立花左近將監宗茂《たちばなさこんしやうげんむねしげ》あり、天下《てんか》一|双《さう》の勇士《ゆうし》なりと讃《さん》した。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]宗茂《むねしげ》は單《たん》に其《そ》の實父《じつぷ》高橋紹運《たかはしせううん》、養父《やうふ》立花道雪《たちばなだうせつ》を、天下《てんか》に顯《あらは》したるのみならず、又《ま》た九|州武士《しうぶし》の爲《た》めに、萬丈《ばんぢやう》の氣※[#「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87]《きえん》を吐《は》いたと云《い》はねばならぬ。
秀吉《ひでよし》は此處《こゝ》に數日《すじつ》滯在《たいざい》して、薩《さつ》日《にち》の兩方面《りやうはうめん》に、水軍《すゐぐん》を派遣《はけん》し、且《か》つ高橋元種《たかはしもとたね》、長野種信《ながのたねのぶ》、麻生鎭里《あさふしげさと》、原田信種《はらだのぶたね》、杉連竝《すぎれんへい》、城井鎭房《しろゐしげふさ》、波多親等《はたちかとも》、あらゆる近國《きんこく》の諸城主《しよじやうしゆ》を引見《いんけん》した。乃《すなは》ち彼等《かれら》及《および》び立花宗茂《たちばなむねしげ》、秋月種實等《あきづきたねざねら》を先鋒《せんぽう》として、十|日《か》筑後《ちくご》に入《い》り、高良山《かうらざん》に次《じ》した。龍造寺政家《りゆうざうじまさいへ》、筑紫廣門《つくしひろかど》亦《ま》た來《きた》り謁《えつ》した。乃《すなは》ち彼等《かれら》をも先鋒《せんぽう》に加《くは》へ、速《すみや》かに肥後《ひご》に入《い》らしめた。
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此所《こゝ》へ(高良山)[#「(高良山)」は1段階小さな文字]肥前國主《ひぜんのこくしゆ》龍造寺《りゆうざうじ》と云《いふ》仁《ひと》、御禮申上候《おんれいまをしあげさふらふ》。此《この》龍造寺《りゆうざうじ》は肥前《ひぜん》一|國《こく》と筑後半國之主也《ちくごはんごくのしゆなり》。元來《ぐわんらい》島津《しまづは》親《おや》の敵《かたき》に(して)[#「(して)」は1段階小さな文字]意趣雖[#レ]在[#レ]之《いしゆこれありといへども》、時之權《ときのけん》に隨候而《したがひさふらうて》、近來《きんらい》は屬[#二]島津[#「島津」は底本では「島津に」][#一]候《しまづにぞくしさふら》へども、去年《きよねん》御味方申上《おみかたまをしあげ》、無《む》二の者《もの》に感《かん》じ被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらう》て、九|州《しう》御國分《おくにわけ》の時《とき》も、肥前《ひぜん》一|國《こく》御扶助候《ごふじよさふらふ》。九|州《しう》にて第《だい》一の大國也《たいこくなり》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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龍造寺《りゆうざうじ》は九|州大名《しうだいみやう》の中《うち》にて、處世《しよせい》の術《じゆつ》に於《おい》て、最《もつと》も違算《ゐさん》なき一|人《にん》であつた。此《こ》れが全《まつた》く鍋島直茂《なべしまなほしげ》の方寸《はうすん》より出《で》た事《こと》は、秀吉《ひでよし》の看破《かんぱ》した所《ところ》であつた。
十一|日《にち》には進《すゝ》んで肥後南關《ひごなんくわん》に入《はひ》つた。十三|日《にち》には高瀬《たかせ》に次《じ》した。大雨《たいう》の爲《た》めに川止《かはどめ》となり、二|日《か》滯留《たいりう》し、十六|日《にち》には隈本《くまもと》(熊本)[#「(熊本)」は1段階小さな文字]に抵《いた》つた。城主《じやうしゆ》城久基《じやうひさもと》は、質《ち》を出《いだ》し、銀《ぎん》三十|枚《まい》、米《こめ》三百|石《こく》、及《およ》び茶器《ちやき》を献《けん》じて降《くだ》つた。
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此所《こゝ》は肥後國《ひごのくに》の府中也《ふちうなり》。城《じやう》十|郎太郎《らうたらう》と云者《いふもの》、相踏候《あひふまへさふらふ》。數年《すねんに》相拵《あひこしらへ》たる名城也《めいじやうなり》。五千|斗《ばかり》の大將《たいしやう》、さしも島津《しまづ》一|方之固《はうのかため》を爲[#レ]頼《たのみとなす》侍《さむらひ》といへども、就[#二]御動座[#一]《ごどうざについて》、無[#二]一支[#一]《ひとさゝへもなく》居成《いなりに》に降參申《かうさんまをし》、證人《しようにん》を出《いだし》、御味方參候《おみかたにさんじさふらふ》。爰《こゝ》に中《なか》一|日《にち》御休息候事《ごきうそくさふらふこと》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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飜《ひるがへ》つて此《こ》の方面《はうめん》に於《お》ける、薩軍《さつぐん》の動靜《どうせい》を察《さつ》すれば、島津義弘《しまづよしひろ》の率《ひき》ゐたる豐後南郡《ぶんごみなみごほり》に在《あ》りし一|半《ぱん》は、主將《しゆしやう》義弘《よしひろ》と與《とも》に、野上《のがみ》より府内《ふない》に入《い》り、更《さ》らに日向《ひふが》に去《さ》つた。他《た》の一|半《ぱん》たる島津征久《しまづゆきひさ》、町田久倍《まちだひさます》、新納忠元等《にひろたゞもとら》は、三|月《ぐわつ》十一|日《にち》、義弘《よしひろ》の命《めい》により、野上《のがみ》を去《さ》り。伊集院《いじふゐん》、犬童《いんどう》は十四|日《か》菅《すげ》ノ迫《せこ》を棄《す》て、肥後《ひご》に向《むか》ひ。大野久高《おほのひさたか》、弟子《でし》九宗盛《くむねます》、桂忠※[#「日+方」、第3水準1-85-13]《かつらたゞあき》、樺山太郎《かばやまたらう》二|郎等《らうら》は、坂梨城《さかなしじやう》に駐《とゞま》つたが、二十五|日《にち》、岡城主《をかじやうしゆ》志賀親次《しがちかつぐ》の兵《へい》來《きた》つて、之《これ》を包圍《はうゐ》した。
親次《ちかつぐ》は前《さ》きに、岡城《をかじやう》に據《よ》りて、薩軍《さつぐん》に抗《かう》し、堅守屈《けんしゆくつ》せず。二|月《ぐわつ》十八|日《にち》には、西征軍《せい/\ぐん》來迫《らいはく》の風評《ふうひやう》の爲《た》めに、人心《じんしん》の動搖《どうえう》に乘《じよう》じ、小牧《こまき》、鍋田《なべた》兩城《りやうじやう》を攻陷《こうかん》し、薩軍《さつぐん》の退却《たいきやく》に際《さい》して、三|月《ぐわつ》十二|日《にち》には神原城《かみはらじやう》を陷《おとしい》れて、入田宗和《いりたそうくわ》を奔《はし》らしめ。十四|日《か》には田北城《たきたじやう》を陷《おとしい》れ、薩《さつ》の部將《ぶしやう》佐多《さた》を殪《たふ》した。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の連勝《れんしよう》に乘《じよう》じて、一|擧《きよ》坂梨城《さかなしじやう》を陷《おとしい》れんとしたのだ。
然《しか》るに征久《ゆきひさ》、久倍《ひさます》、忠元等《たゞもとら》は、秋月種實《あきづきたねざね》に協戮《けふりく》せんが爲《た》め、筑後《ちくご》に向《むか》はんとしたが、府内附近《ふないふきん》の友軍《いうぐん》悉《こと/″\》く日向《ひふが》に退《しりぞ》きたるを聞《き》き。路《みち》を肥後《ひご》に轉《てん》じ、二十|日《か》北《きた》ノ里《さと》に入《い》り、廿五|日《にち》隈本《くまもと》に抵《いた》らんとするに際《さい》し、坂梨《さかなし》の警報《けいはう》に接《せつ》し。廿六|日《にち》忠元《たゞもと》、久倍《ひさます》、及《およ》び伊集院久信《いじふゐんひさのぶ》は宮地《みやぢ》に赴《おもむ》き、大野久高等《おほのひさたから》を救《すく》ひ出《いだ》し、忠元《たゞもと》は竹迫《たけせこ》に久信父子《ひさのぶふし》は津守《つもり》に、征久《ゆきひさ》、久倍《ひさます》は御船《みふね》に分屯《ぶんとん》し、姑《しば》らく西征軍《せい/\ぐん》の模樣《もやう》を偵察《ていさつ》した。
斯《か》くて彼等《かれら》は秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》、肥後《ひご》に進《すゝ》み來《きた》るを聞《き》き、隈本城《くまもとじやう》に據《よ》りて、之《これ》を防《ふせ》がんとしたが、隈本城主《くまもとじやうしゆ》城久基《じやうひさもと》、宇土城主《うどじやうしゆ》伯耆顯孝等《はうきあきたから》、皆《み》な背《そむ》いて敵《てき》に降《くだ》りたるを見《み》て。四|月《ぐわつ》十四|日《か》、即《すなは》ち秀吉《ひでよし》の先鋒《せんぽう》が、隈本《くまもと》に入《い》りたる當日《たうじつ》、其《そ》の營《えい》を火《や》き、豊福《といぷく》、小川《をがは》を經《へ》て、高田《かうだ》に抵《いた》つた。隈《くま》ノ庄《しやう》の守將《しゆしやう》宮原景種《みやばらかげたね》は、征久《ゆきひさ》の隊《たい》に合《がつ》せんとしたが、土寇《どこう》に襲《おそ》はれて死《し》した。忠元《たゞもと》、久信《ひさのぶ》は十七|日《にち》谷山城《たにやまじやう》を陷《おとしい》れ、征久《ゆきひさ》は關城《せきじやう》に、久倍《ひさます》は八代城《やつしろじやう》に入《い》り、十八|日《にち》兩城《りやうじやう》を去《さ》り、球磨川《くまがは》沿岸《えんがん》を溯《さかのぼ》り、廿|日《か》人吉《ひとよし》を經《へ》て、二十一|日《にち》、忠元《たゞもと》の居城《きよじやう》大口《おほぐち》に退《しりぞ》いた。
谷山城《たにやまじやう》は、小川城主《おがはじやうしゆ》松浦久次《まつうらひさつぐ》の屬城《ぞくじやう》だ。久次《ひさつぐ》は薩摩譜代《さつまふだい》の士《し》であつたが、罪《つみ》を得《え》て上京《じやうきやう》し、堀秀政《ほりひでまさ》に屬《ぞく》し、西征役《せい/\えき》の案内者《あんないしや》となつた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》大軍《たいぐん》の西下《せいか》に先《さきだ》ち、肥後《ひご》に入《い》り、隨分《ずゐぶん》と才覺《さいかく》をした。今《いま》や薩軍《さつぐん》の退却《たいきやく》に際《さい》し、谷山城《たにやまじやう》に據《よ》りて、之《これ》を阻止《そし》せんとした。故《ゆゑ》に薩軍《さつぐん》は鋭意《えいい》之《これ》を陷《おとしい》れた。
薩軍《さつぐん》の肥後《ひご》を去《さ》るや、頗《すこぶ》る苦心慘淡《くしんさんたん》であつた。征久《ゆきひさ》、久倍等《ひさますら》が八代《やつしろ》を去《さ》るに際《さい》して、
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宴《えん》を城中《じやうちう》に開《ひら》き、大《おほい》に士人《しじん》を會《くわい》す。其《そ》の子弟《してい》の未《いまだ》成童《せいどう》に滿《みた》ざるを召《め》して、膳《ぜん》を奉《ほう》じ、酒《さけ》を汲《く》ましむ。衆《しゆう》大《おほい》に沈醉《ちんすゐ》す。於[#レ]是《こゝにおいて》月明《げつめい》に乘《じよう》じて、城《しろ》を出《い》で、子弟《してい》を率《ひき》ゐて質《ち》とす。明日《あくるひ》(十九日)[#「(十九日)」は1段階小さな文字]安勢地《あせち》を越《こえ》て後《のち》、質《ち》を返《かへ》し謝《しや》して曰《いは》く、止《や》む※[#「こと」の合字、298-9]を得《え》ずして、此《この》謀《はかりごと》をなす、願《ねがは》くは怨《うらみ》を構《かま》ふなかれ。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
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彼等《かれら》は此《かく》の如《ごと》くして、八代《やつしろ》を去《さ》つた。
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球磨《くま》を過《す》ぐる時《とき》、深水宗芳《ふかみそうはう》(相良氏の重臣)[#「(相良氏の重臣)」は1段階小さな文字]人吉城《ひとよしじやう》を守《まも》る、病《やまひ》と稱《しよう》して出《い》でず。忠元《たゞもと》猝《には》かに城《しろ》に入《い》り、宗芳《そうはう》を見《み》て云《いはく》、病《やまひ》を忍《しの》んで、我軍《わがぐん》の歸《かへ》るを送《おく》れ。宗芳《そうはう》止《や》むを得《え》ず出《いで》て、此《これ》を送《おく》る。大岩瀬川《おほいはせがは》に至《いたつ》て、忠元《たゞもと》手《て》を執《とつ》て別《わか》る。於[#レ]是《こゝにおいて》薩軍《さつぐん》一|人《にん》も損《そん》せず、國《くに》に歸《かへ》るを得《え》たり。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
薩將《さつしやう》亦《ま》た機略《きりやく》あり。此《かく》の如《ごと》く彼等《かれら》が、兎《と》も角《かく》も軍《ぐん》を全《まつた》うして歸國《きこく》したのは、大友軍《おほともぐん》の禽奔獸竄《きんぽんじうざん》に比《ひ》して、天地《てんち》の懸隔《けんかく》がある。併《しか》し彼等《かれら》が當時《たうじ》、秀吉《ひでよし》の命《めい》に抗《かう》して、兵《へい》を四|境《きやう》の外《ほか》に出《いだ》し、攻略《こうりやく》を擅《ほしいまゝ》にしたる効果《かうくわ》、今《いま》焉《いづ》くにある乎《か》。斯《か》く觀察《くわんさつ》し來《きた》れば、少《すくな》くとも島津方《しまづがた》の天正《てんしやう》十四|年《ねん》以來《いらい》の行動《かうどう》は、不可解《ふかかい》である。即《すなは》ち一|言《げん》すれば、輕擧盲動《けいきよまうどう》と云《い》ふの他《ほか》はあるまい。

[#5字下げ][#中見出し]【六〇】秀吉太平寺に著す[#中見出し終わり]

西征軍《せい/\ぐん》の先鋒《せんぽう》は、四|月《ぐわつ》十六|日《にち》木山《きやま》に、十七|日《にち》宇土《うど》に、二十四|日《か》には、薩摩《さつま》の出水《いづみ》に進《すゝ》んだ。島津忠永《しまづたゞなが》─|實久《さねひさ》の孫《まご》、義虎《よしとら》の子《こ》、後《のち》に忠辰《たゞとき》と改稱《かいしよう》す─は、八代《やつしろ》附近《ふきん》の高田城《かうだじやう》を守《まも》つたが、西征軍《せい/\ぐん》の近《ちか》く薄《せま》らんとするを聞《き》き。且《か》つは島津《しまづ》の與國《よこく》たる、肥前《ひぜん》日野江城主《ひのえじやうしゆ》有馬晴信《ありまはるのぶ》、島津《しまづ》に反《そむ》き、兵船《へいせん》を泛《うか》べ、八代《やつしろ》に出《い》で、日奈久《ひなぐ》を火《や》きたるが爲《た》めに、其《そ》の居城《きよじやう》出水《いづみ》に逃《のが》れたが、是《こゝ》に於《おい》て迎《むか》へ降《くだ》つた。而《しか》して廿九|日《にち》には、西征軍《せい/\ぐん》の先鋒《せんぽう》は、川内川《せんだいがは》に抵《いた》つた。
秀吉《ひでよし》は四|月《ぐわつ》十八|日《にち》、隈本《くまもと》(熊本)[#「(熊本)」は1段階小さな文字]より隈《くま》ノ庄《しやう》に、十九|日《にち》八代《やつしろ》に至《いた》つた。前年來《ぜんねんらい》秀吉《ひでよし》に聘問《へいもん》を通《つう》じたる、平戸城主《ひらどじやうしゆ》松浦鎭信《まつうらしげのぶ》は、此處《こゝ》に來《きた》り謁《えつ》し、金《きん》十|枚《まい》、米《こめ》五百|石《こく》、及《およ》び茶器《ちやき》を献《けん》じ、兵船《へいせん》を以《もつ》て、薩摩《さつま》に向《むか》はん※[#「こと」の合字、300-6]を請《こ》ひ、之《これ》を許《ゆる》された。
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此地《このち》は八代《やつしろ》とて、無[#レ]隱名城也《かくれなきめいじやうなり》。尾崎舟《をざきぶね》に、八つ城《しろ》を拵候所也《こしらへさふらふところなり》。島津《しまづ》身《み》に代《かは》らんする者《もの》、數《す》千|入置《いれおき》、雖[#二]相防[#一]《あひふせぐといへども》、恐[#二]御動座[#一]《ごどうざをおそれ》、無[#二]一支[#一]敗北候《ひとさゝへもなくはいぼくさふらふ》。先陣追懸數多追討《せんぢんおひかけあまたおひうち》に申付候《まをしつけさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》は此處《こゝ》に四|日《か》滯在《たいざい》し、二十五|日《にち》佐敷《さしき》に次《じ》した。人吉城主《ひとよしじやうしゆ》相良頼房《さがらよりふさ》は、二十一|日《にち》島津方《しまづがた》なる日向軍《ひふがぐん》より歸城《きじやう》し、來《きた》り謁《えつ》した。二十六|日《にち》肥《ひ》薩《さつ》の境《さかひ》なる水俣《みなまた》に次《じ》し、二十七|日《にち》出水《いづみ》に入《はひ》つた。島津忠永《しまづたゞなが》は、其子《そのこ》を質《ち》とし、金《きん》二十|枚《まい》、米《こめ》五百|石《こく》を献《けん》じた。
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此處《こゝ》は無[#レ]隱名城《かくれなきめいじやう》に而《て》、島津名字總領《しまづみやうじそうりやう》に、薩摩守《さつまのかみ》と云侍相抱候《いふさむらひあひかゝへさふらふ》。五千の大將《たいしやう》、數《す》千|間家數在[#レ]之大庄也《げんのいへかずこれあるおほしやうやなり》。就[#二]御動座[#一]無[#二]一支[#一]《ごどうざにつきひとさゝへもなく》、即《すなはち》人質《ひとじち》に實子《じつし》を奉候《たてまつりさふらう》て、降參申候事《かうさんまをしさふらふこと》。爰《こゝ》に中《なか》二|日之御休息也《かのごきうそくなり》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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出水《いづみ》は、島津《しまづ》一|門中《もんちう》の魁《くわい》とも云《い》ふ可《べ》き、薩州家《さつしうけ》の支配《しはい》にして、既《すで》に忠永迄《たゞながまで》七|代《だい》相續《さうぞく》した。是《こ》れ實《じつ》に薩摩《さつま》に取《と》りては、重要無比《ぢゆうえうむひ》の關門《くわんもん》である。然《しか》るに彼《かれ》は、一|支《さゝへ》もなく迎《むか》へ降《くだ》つた。西征軍《せい/\ぐん》の前途《ぜんと》、以《もつ》て知《し》る可《べ》しである。乃《すなは》ち高尾野《たかをの》、野田《のだ》、阿久根《あくね》、高城《たき》、水引《みづひき》、東郷《とうがう》、高江《たかえ》、隈《くま》ノ城《じやう》の諸城《しよじやう》、皆《み》な風《ふう》を望《のぞ》んで開城《かいじやう》した。但《た》だ新納忠元《にひろたゞもと》は、豐肥《ほうひ》より還《かへ》りて大口城《おほぐちじやう》に據《よ》るも、籠城《ろうじやう》が精《せい》一|杯《ぱい》の仕事《しごと》で、固《もと》より迎《むか》へ撃《う》つ可《べ》き力《ちから》はない。
秀吉《ひでよし》の行軍《かうぐん》は、非常《ひじやう》の長途《ちやうと》にて、其《そ》の困難《こんなん》は容易《ようい》の業《わざ》でなかつた。若《も》し島津方《しまづがた》に於《おい》て、兵《へい》を四|境《きやう》の外《ほか》に出《いだ》し、自《みづか》ら疲罷《ひはい》するなく、當初《たうしよ》より薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の三|州《しう》に立《た》て籠《こも》り、險要《けんえう》の地《ち》に據《よ》りて、其《そ》の精鋭《せいえい》を蓄《たくは》へ、我《わ》が逸《いつ》を以《もつ》て、彼《かれ》の勞《らう》を待《ま》たば、假令《たとひ》最後《さいご》の勝利《しようり》は、西征軍《せい/\ぐん》に歸《き》したとしても、多大《ただい》の損傷《そんしやう》を與《あた》ふる事《こと》が出來《でき》たであらう。然《しか》も薩軍《さつぐん》が其《そ》の本國《ほんごく》に引揚《ひきあ》げ來《きた》りたる時《とき》は、何《いづ》れも強弩《きやうど》の末《すゑ》であつた。彼等《かれら》は敵《てき》の惰氣《だき》に乘《じよう》ずるに先《さきだ》ち、自《みづか》ら惰氣《だき》に陷《おちい》つた。
當時《たうじ》秀吉《ひでよし》行軍中《かうぐんちう》の模樣《もやう》は、神谷宗湛《かみやそうたん》の日記《につき》にて、其《そ》の一|斑《ぱん》が想像《さうざう》せらるゝ。宗湛《そうたん》は博多《はかた》の豪商《がうしやう》にて、朝鮮《てうせん》、支那《しな》、南蠻《なんばん》との貿易《ぼうえき》に從事《じゆうじ》し。天正《てんしやう》十四|年《ねん》十|月《ぐわつ》上方《かみがた》に赴《おもむ》き、十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》秀吉《ひでよし》に謁見《えつけん》し、其《そ》の殊遇《しゆぐう》を忝《かたじけな》うし、爾來《じらい》秀吉《ひでよし》の一|生《しやう》を通《つう》じて、其《そ》の寵商《ちようしやう》の一|人《にん》であつた。恐《おそ》らくは彼《かれ》も亦《ま》た、秀吉《ひでよし》の西征《せい/\》に關《くわん》して、將《は》た此《こ》れに連亙《れんこう》したる海外政策《かいぐわいせいさく》に關《くわん》して、貢獻《こうけん》した一|人《にん》であらう。
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四|月《ぐわつ》十八|日《にち》、唐津村《からつむら》を出《いで》、(宗湛は、當時唐津を本據とした。)[#「(宗湛は、當時唐津を本據とした。)」は1段階小さな文字]關白樣《くわんぱくさま》御見舞《おみまひ》として、薩摩《さつま》を指《さし》て罷下也《まかりくだるなり》。同《どう》廿四|日《か》、肥後八代《ひごやつしろ》の熊《くま》(球磨)[#「(球磨)」は1段階小さな文字]川《がは》の側《はた》にて、石田冶少《いしだぢせう》(三成)[#「(三成)」は1段階小さな文字]に逢《あ》ひ候《さふらう》て、後《あと》を尋《たづね》、廿六|日《にち》水俣《みなまた》にて、御陣《ごぢん》に參《まゐ》り候《さふらふ》。石冶少《いしぢせう》より馬《うま》の秣糧迄被[#二]仰付[#一]候也《はみまでおほせつけられさふらふなり》。廿七|日《にち》卯刻《うのこく》(午前六時)[#「(午前六時)」は1段階小さな文字]より御供仕《おともつかまつり》、薩州出水《さつしういづみ》に著也《ちやくなり》。同《どう》廿八|日《にち》出水《いづみ》の御城《おしろ》にて、御目見仕《おめみえつかまつる》。石冶少《いしぢせう》御取合也《おんとりあひなり》。御進物之事《ごしんもつのこと》、白鳥大壹高麗胡桃《はくてうたいこまくるみ》十|袋也《ふくろなり》。御前《ごぜん》に被[#二]召出[#一]《めしいだされ》、金《きん》の天目《てんもく》にて御茶被[#レ]下也《おちやくださるなり》。臺子御茶湯《だいすおちやゆ》にて、小性《こしやう》は除《の》きて、同坊衆手前也《どうばうしゆうてまへなり》。則《すなはち》冶少御取合《ぢせうおんとりあひ》て御暇給《おいとまたまはり》て、其日《そのひ》より唐津《からつ》の如《ごと》く罷歸也《まかりかへるなり》。其節《そのせつ》上下《じやうげ》大雨《たいう》にて苦勞《くらう》、不[#レ]及[#二]是非[#一]也《ぜひにおよばざるなり》。
[#ここで字下げ終わり]
金《きん》の天目《てんもく》にて、茶《ちや》の湯《ゆ》をなしつゝ|行軍《かうぐん》したる秀吉《ひでよし》も、大雨《たいう》には閉口《へいこう》であつたらう。然《しか》も大敵《たいてき》の彼《かれ》の前途《ぜんと》を遮《さへぎ》るものなかりしは、彼《かれ》に取《と》りて寧《むし》ろ僥倖《げうかう》であつた。
但《た》だ豐後《ぶんご》より肥後《ひご》を經《へ》て、四|月《ぐわつ》廿四|日《か》、平佐《ひらさ》に歸城《きじやう》したる桂忠※[#「日+方」、第3水準1-85-13]《かつらたゞあき》のみは、三百|人《にん》の兵《へい》にて立《た》て籠《こも》り、四|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、秀吉《ひでよし》の水軍《すゐぐん》小西行長《こにしゆきなが》、加藤嘉明《かとうよしあき》、脇坂安治《わきさかやすはる》、九|鬼嘉隆等《きよしたから》之《これ》を攻《せ》め、城兵《じやうへい》中々《なか/\》手勁《てづよ》く防戰《ばうせん》して、一|時《じ》寄手《よせて》も攻《せ》めあぐんだが、遂《つひ》に城中《じやうちう》の僧《そう》、講代坊《かうだいばう》が仲介《ちうかい》となりて、休戰《きうせん》を乞《こ》ひ、翌日《よくじつ》二|人《にん》の質《ち》を容《い》れて、開城《かいじやう》した。
秀吉《ひでよし》は五|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、阿久根《あくね》に著《ちやく》し、浮梁《うきはし》を川内川《せんだいがは》に架《か》せしめ、躬《みづ》から之《これ》を巡視《じゆんし》し、二|日《か》高城《たき》を經《へ》て、三|日《か》には太平寺《たいへいじ》に入《はひ》つた。而《しか》して川内川《せんだいがは》の左岸《さがん》なる猪子嶽《ゐのこだけ》、猫嶽《ねこだけ》、安養寺岡等《あんやうじをかとう》に築壘《ちくるゐ》して、守兵《しゆへい》を措《お》き、其《そ》の河口《かこう》なる京泊《きやうどまり》に、運送船《うんそうせん》を碇繋《ていけい》して、糧秣《りやうまつ》、物資《ぶつし》の供給《きようきふ》に任《にん》ぜしめた。
[#ここから1字下げ]
薩州《さつしう》の内《うち》千代《せんだい》(川内)[#「(川内)」は1段階小さな文字]川《がは》の流《ながれ》に添《そひ》、太平寺《たいへいじ》と云《いふ》大伽藍《だいがらん》有《あり》、秀吉《ひでよし》の御陣《ごぢん》を被[#レ]居《すゑられ》、京泊《きやうどまり》とて、宜《よろ》しき湊《みなと》あり、兵粮船《ひやうらうせん》、數《す》千|艘《そう》着岸《ちやくがん》せしかば、諸勢《しよぜい》に扶持方《ふちかた》下行《げぎやう》し給《たま》ふ。運送《うんそう》の事《こと》繁《しげ》きに、京泊《きやうどまり》の町人《ちやうにん》、事外《ことのほか》に賑《にぎ》はひつゝ、南去北來《なんきよほくらい》、往反《わうへん》の袖振《そでふ》りも多《おほ》く、又《また》本地《ほんち》安堵《あんど》せる人々《ひと/″\》は、枕《まくら》を泰山《たいざん》の安《やすき》に措《お》きし故《ゆゑ》、其《その》下々《しも/″\》思《おも》ひの外《ほか》なる君《きみ》にあひ奉《たてまつ》り、永《なが》く榮《さかえ》むとて悦《よろこ》びあへりけり。千代川《せんだいがは》は船橋《ふなばし》を掛《かけ》させ、往還《わうくわん》自由《じいう》を得《え》たり。奉行《ぶぎやう》は九|鬼大隈守《きおほすみのかみ》、脇坂中務少輔《わきざかなかつかさせういう》、加藤左馬助等也《かとうさまのすけらなり》。〔甫庵太閤記〕[#「〔甫庵太閤記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
抑《そもそ》も太平寺《たいへいじ》より、島津《しまづ》の府城《ふじやう》たる鹿兒島迄《かごしままで》は、十|餘里《より》の距離《きより》にして、一|日程《にちてい》に過《す》ぎず。今《いま》や秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》は、一|擧《きよ》にして之《これ》を攻《せ》めんとす。島津《しまづ》たる者《もの》、將《は》た如何《いかん》せんとする。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]千臺川平野上方軍勢
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
千臺川(川内川)へは兵船數千艘乘込み、河下の京泊まで三里の間、繋ぎ雙べたり、並に京堺の京人船、何十艘とも無く乘入、警固の兵船の如く、昇指物、幕を打ち、飾立たれば、河風に飜り、松風波の音に動搖す、陸は京勢數萬騎、其外筑紫大名小名打合、諸軍勢、十三里四方には尺地も無くこそ見えけれ、如何なる島津なりとも、此大勢には自ら成[#レ]恐、太閤公千臺へ御着陣に於ては、遂に御侘事參陣の覺悟とぞ聞えける。〔高橋紹運記〕
[#ここで字下げ終わり]
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