第十七章 日向口合戰
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十七章 日向口合戰[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五六】秀長日向に入る[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は一|方《ぱう》は豐後《ぶんご》、日向《ひふが》、大隈《おほすみ》より薩摩《さつま》に攻《せ》め入《い》り、他方《たはう》は豐前《ぶぜん》、兩筑《りやうちく》、肥後《ひご》より薩摩《さつま》に攻《せ》め入《い》る可《べ》く、計畫《けいくわく》を定《さだ》めた。前者《ぜんしや》の主將《しゆしやう》には、異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》を任《にん》じ、後者《こうしや》は親《みづ》から之《これ》を率《ひき》ゐた。
扨《さて》も秀長《ひでなが》は、二|月《ぐわつ》十|日《か》、大和郡山《やまとこほりやま》を發《はつ》し、三|月上旬《ぐわつじやうじゆん》長府《ちやうふ》に抵《いた》り、輝元《てるもと》、隆景等《たかかげら》に迎《むか》へられ、關門海峽《くわんもんかいけふ》を越《こ》え、豐前築城原《ぶぜんちくじやうがはら》に次《じ》し、豐後《ぶんご》に入《い》り、湯《ゆ》ノ嶽城附近《だけじやうふきん》に陣《ぢん》し。毛利《まうり》、小早川《こばやかは》、吉川《きつかは》、黒田《くろだ》、蜂須賀《はちすか》、加藤嘉明《かとうよしあき》、脇坂安治《わきさかやすはる》、宇喜田秀家《うきたひでいへ》、宮部繼潤《みやべけいじゆん》、筒井定次《つゝゐさだつぐ》、尾藤知定等《びとうともさだら》の諸隊《しよしやう》、及《およ》び大友《おほとも》の兵《へい》、約《やく》十|萬人《まんにん》、以《もつ》て秀吉《ひでよし》の來著《らいちやく》を待《ま》ち受《う》けた。而《しか》して薩軍《さつぐん》の撤退《てつたい》するに際《さい》し、府内《ふない》に入《い》つた。
斯《か》くて三|月下旬《ぐわつげじゆん》、秀吉《ひでよし》より薩軍《さつぐん》を追躡《つゐせふ》し、日向口《ひふがぐち》より進《すゝ》む可《べ》き軍令《ぐんれい》を領《りやう》し。直《たゞ》ちに黒田《くろだ》、蜂須賀《はちすか》、尾藤《びとう》、大友等《おほともら》の諸隊《しよたい》を先鋒《せんぽう》とし。曾《かつ》て日向飫肥《ひふがをび》の領主《りやうしゆ》にして、今《いま》は秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》に身《み》を寄《よ》せたる伊東祐兵《いとうすけたけ》、及《およ》び佐伯惟定《さへきこれさだ》を※[#「郷+向」、333-9]導《きやうだう》とし。同年《どうねん》正月《しやうぐわつ》日振島《ひぶりじま》より臼杵城《うすきじやう》に至《いた》れる長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、毛利氏《まうりし》水軍《すゐぐん》の將《しやう》野島元吉《のじまもとよし》、及《およ》び大友《おほとも》の水軍《すゐぐん》、合計《がふけい》五千|餘《よ》をして、沿海《えんかい》の警備《けいび》に當《あた》らしめ。自《みづか》ら毛利《まうり》、吉川《きつかは》、小早川《こばやかは》、宇喜田《うきた》、宮部等《みやべら》の隊《たい》を率《ひき》ゐ、日向《ひふが》に入《い》り、縣城《あがたじやう》を圍《かこ》んだ。
三|月《ぐわつ》廿九|日《にち》、城主《じやうしゆ》土持久綱《つちもちひさつな》開城《かいじやう》して佐土原《さどはら》に去《さ》るや、之《これ》を收《をさ》め。四|月《ぐわつ》六|日《か》耳川《みゝかは》を渡《わた》り、大軍《たいぐん》にて高城《たき》を取《と》り捲《ま》いた。此處《こゝ》は天正《てんしやう》六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、島津《しまづ》が大友《おほとも》に一|大打撃《だいだげき》を喫《きつ》せしめたる、舊戰場《きうせんぢやう》にて、今《いま》や八|年有半《ねんいうはん》の後《のち》、重《かさ》ねて島津《しまづ》對《たい》西征軍《せいせいぐん》の決戰場《けつせんぢやう》となつた。然《しか》も今囘《こんくわい》の對手《あひて》は、柔弱《にうじやく》なる大友《おほとも》にあらず、島津《しまづ》に取《と》りては、頗《すこぶ》る重大《ぢゆうだい》なる強敵《きやうてき》であつた。
秀長《ひでなが》は高城《たき》の城外《じやうぐわい》に、五十一|個《こ》の壘寨《るゐさい》を築《きづ》き、望樓《ばうろう》を起《おこ》し、城東《じやうとう》に秀長《ひでなが》の兵《へい》一|萬《まん》五千、筒井定次《つゝゐさだつぐ》、大友義統等《おほともよしむねら》同《どう》一|萬《まん》五千、城北《じやうほく》には毛利《まうり》[#ルビの「まうり」は底本では「もうり」]、小早川《こばやかは》の兵《へい》二|萬《まん》五千、城西《じやうせい》には吉川元春《きつかはもとはる》、同廣家《どうひろいへ》の兵《へい》一|萬《まん》、城南《じやうなん》には宇喜田秀家《うきたひでいへ》の兵《へい》一|萬《まん》五千を配置《はいち》し。更《さ》らに援路遮斷《えんろしやだん》の爲《た》め、都於郡方向《とおごほりはうかう》に築壘《ちくるゐ》し、守兵《しゆへい》を左《さ》の如《ごと》く分《わか》ち備《そな》へた。根白坂《ねじろざか》には宮部繼潤《みやべけいじゆん》、南條元續《なんでうもとつぐ》、龜井※[#「玄+玄」、280-2]矩等《かめゐこれのりら》兵《へい》四千|餘《よ》、同東方高地《どうとうはうかうち》には黒田孝高《くろだよしたか》の兵《へい》二千|餘《よ》、同西方高地《どうせいはうかうち》には尾藤知定《びとうともさだ》の兵《へい》三千|餘《よ》、中野《なかの》には蜂須賀家政《はちすかいへまさ》の兵《へい》六千|餘《よ》、別《べつ》に財部城《たからべじやう》に對《たい》して、若干《じやくかん》の監視兵《かんしへい》を備《そな》へた。而《しか》して水軍《すゐぐん》は鴫野《しぎの》に碇泊《ていはく》し、糧秣等《りやうまつとう》の補給《ほきふ》に任《にん》じた。
秀長《ひでなが》は、敵《てき》に對《たい》して尤《もつと》も愼重《しんちよう》の態度《たいど》を持《ぢ》した。功城《こうじやう》は秀吉《ひでよし》の頗《すこぶ》る得意《とくい》としたる所《ところ》にて、凡《およ》そ秀吉《ひでよし》の攻《せ》めたる城《しろ》は、一として落城《らくじやう》せざるはなき事《こと》は、中國征伐以來《ちうごくせいばついらい》の經驗《けいけん》、之《これ》を證《しよう》して餘《あま》りありだ。されば秀長《ひでなが》も自《おのづか》ら其《そ》の筋道《すぢみち》を呑込《のみこ》み、斯《か》くは周到《しうたう》に取《と》り謀《はか》つたものと思《おも》はるゝ。況《いはん》や薩摩隼人《さつまはやと》の剽悍《へうかん》は、其《そ》の久《ひさ》しく聞知《ぶんち》したる所《ところ》たるに於《おい》てをやだ。
然《しか》るに高城《たき》には、薩軍《さつぐん》の驍將《げうしやう》山田有信《やまだありのぶ》ありて、喜入《きいれ》、平田《ひらた》、上原《うへはら》、本田《ほんだ》、三原《みはら》、奈良原《ならはら》の諸將《しよしやう》と與《とも》に之《これ》を守《まも》り、其兵《そのへい》合《がつ》して一千三百、堅守《けんしゆ》して出《い》でず。而《しか》して財部城《たからべじやう》よりは、上井覺兼《かもゐかくけん》、鎌田政親等《かまだまさちから》、屡《しばし》ば出《い》でゝ|西征軍《せいせいぐん》の交通路《かうつうろ》を妨《さまた》げたが、四|月《ぐわつ》十|日《か》、黒田孝高《くろだよしたか》の子《こ》長政《ながまさ》百|餘人《よにん》を率《ひき》ゐて、之《これ》を財部川《たからべがは》に破《やぶ》つた。
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高城《たき》より一|里程先《りほどさき》、同國《どうこく》の内《うち》財部《たからべ》(高鍋)[#「(高鍋)」は1段階小さな文字]と云《い》ふ所《ところ》に、島津《しまづ》の端城《はじろ》あり。其《そ》の方角《はうがく》の海邊《うみべ》に長曾我部元親等《ちやうそかべもとちから》船手《ふなて》の陣所《ぢんしよ》ありて、味方《みかた》の陣所《ぢんしよ》を去事《さること》一|里許《りばかり》なり。高城《たき》海陸《かいりく》寄手《よせて》の下部《しもべ》ども、財部《たからべ》の城《しろ》近《ちか》き所《ところ》の山《やま》に入《い》り、薪《たきぎ》を切《き》り、或《あるひ》は陣屋《ぢんや》の材木《ざいもく》を取歸《とりかへ》る所《ところ》を、財部《たからべ》の城《しろ》より敵兵《てきへい》出《いで》て、度々《たび/\》是《これ》を追散《おひちら》し、切殺《きりころ》し、往來《わうらい》の通路《つうろ》を塞《ふさ》ぎて、味方《みかた》を惱《なや》しける、四|月《ぐわつ》十|日《か》(天正十五年)[#「(天正十五年)」は1段階小さな文字]・・・・・・|吉兵衞《きちべゑ》(黒田長政)[#「(黒田長政)」は1段階小さな文字]は財部《たからべ》の城《しろ》の方《はう》に馬《うま》を進《すゝ》め、耳川《みゝかは》(小丸川)[#「(小丸川)」は1段階小さな文字]を渡《わた》り、馬場原《ばばがはら》と云《い》ふ所《ところ》に馳行《はせゆき》けるに、敵兵《てきへい》三四百|人許《にんばかり》競來《きそひきた》る。吉兵衞《きちべゑ》熊《わざ》と川《かは》より此方《こなた》に人數《にんず》を引揚《ひきあ》げ、敵《てき》の川《かは》を渡《わた》り上《あが》る所《ところ》を討《う》つべしとて、備《そなへ》を立《た》て待《まち》ける所《ところ》に、敵兵《てきへい》逸足《いちあし》を出《いだ》して、喚《をめい》て蒐《かゝ》り來《きた》る。吉兵衞《きちべゑ》其年《そのとし》十九、血氣盛《けつきさかん》なる若武者《わかむしや》なれば、一|番《ばん》に敵《てき》の中《なか》に驅《か》け込《こ》み大勢《おほぜい》を追立《おひた》て、勇猛《ゆうまう》を振《ふる》ひ、能此者《よきむしや》三|人《にん》を討取《うちと》る。・・・・・・|猶《なほ》二三|町《ちやう》も追打《おひう》ちし、勝鬨《かちどき》を擧《あ》げて歸《かへ》りける。〔九州記〕[#「〔九州記〕」は1段階小さな文字]
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然《しか》も是《こ》れはほんの邀戰前《げきせんぜん》の小《こ》ぜり合《あひ》に過《す》ぎぬのだ。吾人《ごじん》は此《こ》れより更《さ》らに進《すゝ》んで、兩軍《りやうぐん》主力《しゆりよく》の大衝突《だいしようとつ》を叙《じよ》せねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【五七】根白坂の夜襲[#中見出し終わり]

島津義久《しまづよしひさ》は、日向都於郡《ひふがとおごほり》に在《あ》りて、薩《さつ》隅《ぐう》三|州《しう》の兵力《へいりよく》を集合中《しふがふちう》であつたが、高城《たき》の危急《ききふ》を見《み》て、之《これ》を救《すく》ふ可《べ》く、四|月《ぐわつ》十七|日《にち》の夜《よ》、義弘《よしひろ》、家久《いへひさ》の兩弟《りやうてい》と與《とも》に、兵《へい》二|萬餘人《まんよにん》を率《ひき》ゐ、北郷《ほんがう》一|雲《うん》を左翼《さよく》の先鋒《せんぽう》とし、伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》を右翼《うよく》の先鋒《せんぽう》とし、西征軍《せいせいぐん》の根白坂《ねじろざか》の營《えい》を襲《おそ》うた。蓋《けだ》し薩軍《さつぐん》精鋭《せいえい》の一|半《ぱん》を擧《あ》げ、決死《けつし》の覺悟《かくご》であつた。其《そ》の攻撃《こうげき》の猛烈《まうれつ》であつた事《こと》は、云《い》ふ迄《まで》もない。
然《しか》も西征軍《せいせいぐん》の守將《しゆしやう》宮部繼潤《みやべけいじゆん》は、兵事《へいじ》に老練《らうれん》であつた。彼《かれ》は豫《あらか》じめ敵《てき》の夜襲《やしふ》を慮《おもんぱか》り、準備《じゆんび》した。
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敵《てき》青竹《あをたけ》に鹿《しか》の角《つの》を結付《むすびつ》け、或《あるひ》は鑓《やり》を附《つ》くるもあり。是《これ》を塀《へい》の手《て》に引掛《ひきかけ》て、引崩《ひきくづ》さんとす。善祥房《ぜんしようばう》(宮部繼潤)[#「(宮部繼潤)」は1段階小さな文字]兼《かね》て期《ご》したる事《こと》なれば、營壘《えいるゐ》を築《きづ》く時《とき》、其前《そのまへ》に深《ふか》さ二|間《けん》、幅《はゞ》三|間《げん》の空壕《からぼり》を掘《ほ》り、其岸《そのきし》に二|間木《けんぎ》を柱《はしら》とし、三|尺《じやく》土中《どちう》に掘立《ほりたて》、三|尺《じやく》土手《どて》に築込《つきこみ》、其上《そのうへ》一|間《けん》を塀《へい》とし、塗《ぬ》り上《あげ》て、其《その》覆《おほひ》に卷藁《まきわら》を結《むす》び付《つけ》たる故《ゆゑ》に、塀《へい》の地《ち》に附《つく》ほど引撓《ひきたわ》むと雖《いへど》も、柱《はしら》不[#レ]拔《ぬけず》して倒《たふ》るゝ|事《こと》なし。敵人《てきびと》塀《へい》の手《て》に手《て》を懸《か》け、乘《の》り入《い》らんとする所《ところ》を、槍《やり》長刀《なぎなた》にて突落《つきおと》し切拂《きりはら》ふ。敵《てき》も新手《あらて》を入替《いれかへ》、終夜《しゆうや》[#ルビの「しゆうや」は底本では「しうゆや」]攻戰《せめたゝか》ひ、堀《ほり》は死人《しびと》にて埋《うづ》みけれども、乘入《のりい》る事《こと》成《な》らず。〔南海治亂記〕[#「〔南海治亂記〕」は1段階小さな文字]
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宮部《みやべ》は防戰《ばうせん》最《もつと》も勗《つと》めた。然《しか》も薩摩隼人《さつまはやと》は、何《いづ》れも決死《けつし》の覺悟《かくご》にて、奮鬪《ふんとう》した。秀長《ひでなが》の重臣《ぢゆうしん》東堂高虎《とうだうたかとら》は、急《きふ》を聞《き》いて來援《らいゑん》した。
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善祥房《ぜんしようばう》手前《てまへ》危《あやふ》く見《み》え候由相聞《さふらふよしあひきゝ》、僅《わづか》の御勢《おんぜい》にて一|里許《りばかり》の程《ほど》を、和泉樣《いづみさま》(高虎)[#「(高虎)」は1段階小さな文字]御驅合被[#レ]成《おんかけあはせられ》、敵《てき》の中《なか》を窺《うかゞ》ひ、城《しろ》(柵)[#「(柵)」は1段階小さな文字]中《なか》へ御乘込《おのりこみ》、善祥房《ぜんしやうばう》一|所《しよ》に御働《おんはたらき》、木戸《こど》を開《ひら》き、大勢《おほぜい》を御突崩《おんつきくづ》し、鑓付《やりつ》け、頓《やが》て多勢《たぜい》を以《もつ》て、大納言殿《だいなごんどの》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]後詰可[#レ]有[#レ]之候間《ごづめこれあるべくさふらふあひだ》、城中《じやうちう》(柵)[#「(柵)」は1段階小さな文字]可[#レ]爲[#二]堅固[#一]旨《けんごたるべきむね》、武略之下知《ぶりやくのげち》を被[#レ]成《なされ》、御働候時《おんはたらきさふらふとき》、敵《てき》悉《こと/″\》く敗軍《はいぐん》、善祥房得[#二]大利[#一]被[#レ]申《ぜんしやうばうたいりをえまをさる》。〔藤堂家覺書〕[#「〔藤堂家覺書〕」は1段階小さな文字]
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宮部《みやべ》は藤堂《とうだう》と協力《けふりよく》して、終夜《しゆうや》惡戰苦鬪《あくせんくとう》した。十八|日《にち》黎明《れいめい》には黒田《くろだ》、小早川《こばやかは》の諸隊《しよたい》來《きた》り會《くわい》した。是《こゝ》に於《おい》て西征軍《せいせいぐん》の士氣《しき》は、大《おほ》いに振《ふる》うた。而《しか》して薩軍《さつぐん》の鋭鋒《えいほう》も、之《これ》が爲《た》めに稍《や》や曲《まが》り鈍《にぶ》れた。
蓋《けだ》し薩軍《さつぐん》の戰略《せんりやく》は、一|氣苛成《きかせい》に、敵《てき》の前營《ぜんえい》を破《やぶ》るにあつた。惟《おもへ》らく前營《ぜんえい》既《すで》に破《やぶ》れなば、後陣《ごぢん》は戰《たゝか》はずして潰《つひ》えんと。此《こゝ》に於《おい》て喊聲《かんせい》を相圖《あひづ》として、兩翼《りやうよく》同時《どうじ》に敵營《てきえい》に突貫《とつくわん》すべしと約《やく》した。然《しか》も兩翼《りやうよく》の喊聲《かんせい》相聞《あひきこ》えず、左翼《さよく》の北郷隊《ほんがうたい》は、既《すで》に深《ふか》く敵營《てきえい》に薄《せま》るも、右翼《うよく》の伊集院《いじふゐん》は尚《な》ほ後方《こうはう》にあり。是《こ》れが爲《ため》に其《そ》の計畫《けいくわく》に、齟齬《そご》を來《きた》し、加《くは》ふるに敵兵《てきへい》防備《ばうび》を嚴《げん》にし、善《よ》く戰《たゝか》ひ、爲《た》めに北郷《ほんがう》の部下《ぶか》、敵柵《てきさく》數《す》十|間《けん》を破《やぶ》り、突貫《とつくかん》して死《し》するもの三百|餘人《よにん》、壕《ほり》の内外《ないぐわい》に於《お》ける死傷《ししやう》數《かず》を知《し》らず。義久《よしひさ》の女婿《ぢよせい》たる島津義虎《しまづよしとら》の二|子《し》にて、義久《よしひさ》の胞弟《はうてい》歳久《としひさ》に養《やしな》はれ、其《そ》の嗣子《しし》となりたる忠隣《たゞちか》も亦《ま》た、十九|歳《さい》の花武者《はなむしや》として戰死《せんし》した。殺傷《さつしやう》過當《くわたう》、薩軍《さつぐん》遂《つひ》に其《そ》の志《こゝろざし》を得《え》ず、其《そ》の附近村落《ふきんそんらく》に放火《はうくわ》して去《さ》つた。〔日本戰史、九州役〕[#「〔日本戰史、九州役〕」は1段階小さな文字]
此《こ》の一|戰《せん》は、確《たし》かに薩摩隼人《さつまはやと》に、上方勢《かみがたぜい》の手並《てなみ》を見《み》せ、深甚《しんじん》の打撃《だげき》を與《あた》へた。されば兵機《へいき》を見《み》るに敏《びん》なる小早川《こばやかは》、黒田等《くろだら》は、此機《このき》を逸《いつ》せず、薩軍《さつぐん》を追撃《つゐげき》せんとて、秀長《ひでなが》を勸《すゝ》めたが、軍監《ぐんかん》尾藤知定《びとうともさだ》の諫止《かんし》にて、遂《つひ》に果《はた》さなかつた。
秀吉《ひでよし》は宮部《みやべ》の功《こう》を賞《しやう》し、日本無双《にほんむさう》の感状《かんじやう》を與《あた》へた。彼《かれ》は既《すで》に六十|歳《さい》の老兵《らうへい》であつた。〔續武將感状記〕[#「〔續武將感状記〕」は1段階小さな文字]藤堂《とうだう》も亦《ま》た此《こ》の戰功《せんこう》によりて、從《じゆ》五|位《ゐ》に叙《じよ》し、佐渡守《さどのかみ》に任《にん》じ、一|萬石《まんごく》を加増《かぞう》せられた。〔藤堂家譜〕[#「〔藤堂家譜〕」は1段階小さな文字]而《しか》して尾藤《びとう》は、是《これ》が爲《た》めに讃岐《さぬき》の新封《しんぽう》を褫《うば》はれた。彼《かれ》は天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、仙石《せんごく》の後《のち》を襲《おそ》うて、讃岐《さぬき》に封《ほう》ぜられ、僅《わづ》かの數月《すげつ》にして改易《かいえき》せられた。
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赤間關《あかまがせき》にて、(秀吉九州役の歸途)[#「(秀吉九州役の歸途)」は1段階小さな文字]搦手《からめて》の軍《いくさ》の樣《さま》、聞正《きゝたゞ》し給《たま》ひ、善祥房《ぜんしやうばう》陣所《ぢんしよ》を責兼《せめかね》て引《ひき》しとき、追《おひ》かけば、島津兵庫頭《しまづひやうごのかみ》(義弘)[#「(義弘)」は1段階小さな文字]を始《はじ》め、悉《こと/″\》く討留《うちと》むべきに、左《さ》もせざりしを、如何《いか》に臆《おく》せるやと咎《とが》め給《たま》へり。其頃《そのころ》尾藤左衞門佐《びとうさゑもんのすけ》(知定)[#「(知定)」は1段階小さな文字]とて、秀吉公《ひでよしこう》の心《こゝろ》に叶《かな》ひ、讃岐國《さぬきのくに》給《たま》はり、時《とき》めかし給《たま》へば、勢《いきほひ》夥《おびたゞ》しくて、あたりに人無《ひとな》きが如《ごと》くなり。殊《こと》に軍《いくさ》の事《こと》、彼《かれ》に計《はか》らふべしとて、美濃守秀長《みのゝかみひでなが》に加《くは》へて、日向《ひふが》の口《くち》へ向《む》けられし。彼《か》れ如何《いかゞ》思《おも》ひけん、強《しひ》て止《とゞ》めければ、力《ちから》なく追討《おひうち》に及《およ》ばざりしと、日向《ひふが》へ赴《おもむ》きし人々《ひと/″\》、同《おな》じ樣《やう》に云《いひ》ければ、尾藤《びとう》主《ぬし》をかうし、讃岐國《さぬきのくに》をも取放《とりはな》ち給《たま》ひぬ。〔豐鑑〕[#「〔豐鑑〕」は1段階小さな文字]
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仙石《せんごく》は猪突《ちよとつ》の爲《た》めに、其《そ》の罪《つみ》を獲《え》、尾藤《びとう》は狐疑《こぎ》の爲《た》めに、其《そ》の罪《つみ》を獲《う》。過《す》ぎたるも、及《およ》ばざるも、秀吉《ひでよし》の眼《め》には、必罰《ひつばつ》の條件《でうけん》は具《そなは》りて居《ゐ》た。
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[#6字下げ]島津忠隣の戰死
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京勢は、日數も次第に延引、陣を堅く構へ、暫く退治し難くこそ見えにけれ、就中先陣の大將の其中に、是常坊、[#割り注](宮部善祥坊繼潤)[#割り注終わり]根白原に陣を取、諸陣よりも能兵を勝つて籠置、普請掻楯丈夫にし、專に持たる剛陣に、隅薩の人々、彼先陣をさへ切崩したらんには、後陣は自ら臆すべしとて、大手搦手一動に時を擧げ、昆《ひた》攻に責べしと約したれども、薩摩の運や薄かりけん、大手の吐氣は搦手に不聞、搦手の吐氣は大手に不聞、無評議して、各々村々にぞ蒐りける、先陣は、堀を越、堀を引破り、死生を不知戰へとも、後陣は未續、攻|惡《あぐ》んでぞ見えにける、此に歳久の續子島津三郎二郎忠隣、廿歳に足らぬ若大將なるが、慈《みかた》の勢臆したる氣を見て、中務大輔[#割り注]○家久[#割り注終わり]に遇ふて仰せけるは、我等は勿論若輩たれば、未だ譽の名を不[#レ]得、家久は聞る覺え御座《おはす》ならば、今日の師に於て不劣と存候と、云も敢えず驅けられける、慈の軍勢是を見て、一音に時を揚げ、曳《えい》や聲にて攻入、堀二重攻破り、陣内に切て入、北郷一雲の手の者共、堀二三十間引破り、陣中に切て入、三百計、無下に打死したりけり、左れども事ともせず、攻入々々戰へば、陣も危く見ゆる處に、忠隣[#割り注]享年十九、法名桂山昌久大禪定門#割り注終わり]鐵砲に中らせ給へば、大將子を負給ふぞとて、慈《みかた》亂足に成りける、敵は數千挺の鐵砲を揃へ、兩霰の降如く、此を專途と打ければ、慈は皆堀底に射伏られ、過半手負に成、若干打死する者有れば、薩摩の勢は無力、野白に成てぞ引にける。〔勝部兵右衞門聞書〕[#「〔勝部兵右衞門聞書〕」は1段階小さな文字]
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