第十六章 兩軍の進退
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十六章 兩軍の進退[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【五三】秀吉の西征[#中見出し終わり]

秀吉《ひでよし》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》秋冬《しうとう》の交《かう》を以《もつ》て、親《みづ》から西征《せい/\》せんと企《くはだ》てた。然《しか》も其《そ》の先發隊《せんぱつたい》たる毛利輝元《まうりてるもと》、及《およ》び吉川《きつかは》、小早川等《こばやかはら》は、冬期航海《とうきかうかい》の不便《ふべん》を説《と》き、明春《みやうしゆん》に延期《えんき》せん※[#「こと」の合字、263-5]を請《こ》うた。『當年《たうねん》にも御馬《おうま》を可[#レ]被[#レ]出《いださるべく》と被[#二]仰出[#一]候處《おほせいだされさふらふところ》、春迄可[#二]相延[#一]旨《はるまであひのばすべきむね》、安國寺《あんこくじ》、渡邊石見守《わたなべいはみのかみ》、黒田尠解由《くろだかげゆ》を以言上候條《もつてごんじやうさふらふでう》、被[#レ]任[#二]異見[#一]《いけんにまかせられ》、當年者《たうねんは》、不[#レ]被[#レ]出[#二]御馬[#一]候故《おうまをいださせられずさふらふゆゑ》、無[#二]心本[#一]被[#レ]思召[#一]候付《こゝろもとなくおぼしめされさふらふにつき》、來春《らいしゆん》は其方《そちら》へ無[#レ]屆《とゞけなく》、早々可[#レ]被[#レ]出[#二]御馬[#一]候條《さう/\おうまをいださるべくさふらふでう》、被[#レ]得[#二]其意[#一]尤候《そのいをえられもつともにさふらふ》。』とは、秀吉《ひでよし》が十一|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、吉川父子《きつかはふし》に與《あた》へたる書中《しよちう》の一|節《せつ》である。
惟《おも》ふに先發隊《せんぱつたい》の異見《いけん》なきも、秀吉《ひでよし》は對《たい》家康《いへやす》の措置《そち》、未《いま》だ全《まつた》く完了《くわんれう》せざりし爲《た》め、自《おのづ》から延期《えんき》の已《や》むなきものあつたかも知《し》れぬ。是《こ》れが爲《た》めに、或《あるひ》は黒田等《くろだら》を諷《ふう》して先發隊《せんぱつたい》より延期《えんき》の異見《いけん》を、提出《ていしゆつ》せしめたかも知《し》れぬ。何《なん》となれば、九|月《ぐわつ》晦日《みそか》小早川當《こばやかはあて》の書簡《しよかん》にも、『來春《らいしゆん》は可[#レ]爲[#二]御動座[#一]之間《ごどうざなさるべきのあひだ》、可[#レ]被[#レ]成[#二]其意[#一]候《そのいなさるべくさふらふ》。』と云《い》ひ。又《ま》た十|月《ぐわつ》十|日附《かづけ》、小早川《こばやかは》、安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》への書簡《しよかん》にも、『春《はる》は被[#レ]出[#二]御馬[#一]《おうまをいだされ》、島津《しまづ》一|城《じやう》を被[#二]取籠[#一]《とりこめられ》、可[#レ]被[#レ]刎[#レ]首儀《くびをはねらるべきぎ》、案《あん》の内《うち》と思召候《おぼしめしさふらふ》。」とある。されば天正《てんしやう》十五|年《ねん》春《はる》の出馬《しゆつば》は、何《いづ》れにもせよ、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、本來《ほんらい》豫定《よてい》の計畫《けいくわく》であつたらしく思《おも》はるゝ。而《しか》して十四|年《ねん》十|月《ぐわつ》には、家康《いへやす》も愈《いよい》よ上洛《じやうらく》したれば、今《いま》は何《なん》の氣掛《きがゝ》りもなく、愈《いよい》よ大袈裟《おほげさ》なる西征《せい/\》の準備《じゆんび》に、著手《ちやくしゆ》したものと信《しん》ぜらる。
秀吉《ひでよし》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》十二|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、命令《めいれい》を畿内《きない》、東海《とうかい》、東山《とうさん》、北陸《ほくろく》、山陰《さんいん》、山陽《さんやう》、南海《なんかい》の二十四|國《こく》に發《はつ》し、翌年《よくねん》二|月《ぐわつ》廿|日迄《かまで》に、出師《すゐし》を準備《じゆんび》せしめ、小西隆佐等《こにしたかすけら》をして、兵《へい》三十|萬《まん》、馬《うま》二|萬匹《まんひき》に對《たい》する、一|年間《ねんかん》の糧秣《りやうまつ》を、兵庫《ひやうご》、尼《あま》ヶ|崎地方《さきちはう》に集積《しふせき》せしめ、石田《いしだ》三|成《なり》、大谷吉繼《おほたによしつぐ》、長束正家《ながつかまさいへ》に、其《そ》の供給《きようきふ》を管掌《くわんしやう》せしめ。又《ま》た隆佐等《たかすけら》をして、諸國《しよこく》の船舶《せんぱく》を徴發《ちようはつ》し、糧《かて》十|滿石《まんごく》を、赤間關《あかまかせき》に輸送《ゆそう》せしめた。
秀吉《ひでよし》は曾《かつ》て先發隊《せんぱつたい》に向《むか》つては、一|騎驅《きがけ》にて攻《せ》め寄《よ》するとか、無屆《むとゞけ》にて飛《と》び出《いだ》すとか、極《きは》めて手輕《てがる》に申《まを》し聞《き》けたが、其《そ》の實《じつ》は中々《なか/\》仰山《ぎやうさん》のものであつた。
秀吉《ひでよし》は更《さ》らに天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》元日《ぐわんたん》、上記《じやうき》二十四|國《こく》に向《むか》つて、正月《しやうぐわつ》二十五|日《にち》を第《だい》一|期《き》として、第《だい》二|期《き》以下《いか》五|日毎《かごと》に、逐次《ちくじ》出發《しゆつぱつ》の令《れい》を布《し》いた。而《しか》して更《さ》らに『九|州御出勢《しうごしゆつぜい》に付《つき》、御諚之條々《ごぢやうのでう/\》」を頒《わか》つた。
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一 兵粮並馬之飼料《ひやうらうならびにうまのかひれう》、九|州之地令[#二]參著[#一]之日《しうのちにさんちやくせしむるのひ》より、可[#レ]被[#二]下行[#一]之事《くだしおこなはるべきのこと》。
一 別紙出勢之日次《べつししゆつぜいのひなみ》二|月《ぐわつ》十|日《か》より、無[#二]相違[#一]立出《さうゐなくたちいで》、泊々不[#二]差合[#一]《とまり/\さしあはざる》やうに、宿奉行次第《やどぶぎやうしだい》、可[#レ]守[#二]於其旨[#一]之事《そのむねをまもるべきのこと》。
一 喧嘩口論出來候《けんくわこうろんしゆつたいさふら》はゞ、双方其罪遁《さうはうそのつみのがる》まじき事《こと》。
一 追立夫《おひたてふ》、押買《おしがひ》、狼藉等《らうぜきとう》、有《ある》まじき事《こと》。
一 奉公人《ほうこうにん》、先主《せんしゆ》に暇《いとま》を乞《こ》はず、主取《しゆとり》を仕有[#レ]之處《つかまつりこれあるところを》、先主見付候《せんしゆみつけさふらう》て、理不盡《りふじん》に成敗仕候者《せいばいつかまつりさふらはゞ》、却《かへつ》て可[#レ]爲[#二]越度[#一]《をちどたるべく》。見付次第《みつけしだい》、當主人《たうしゆじん》に相理《あひことわり》、其上《そのうへ》を以《もつて》、急度可[#二]申付[#一]《きつとまをしつくべく》。又屆有[#レ]之奉公人《またとゞけあるほうこうにん》を逃《にが》し候《さふら》はゞ、其主人越度《そのしゆじんをちど》たるべき事《こと》。
一 城《しろ》を打圍《うちかこ》む事《こと》、相定《あひさだま》る攻手《せめて》の外《ほか》、一|切令[#二]停止[#一]事《さいちやうじせしむること》。
一 合戰《かつせん》に出立《いでたち》、先陣後陣之儀《せんぢんごぢんのぎ》[#ルビの「せんぢんごぢんのぎ」は底本では「せんじんごぢんのぎ」]、軍奉行次第《いくさぶぎやうしだい》、下知《げち》を相守可[#レ]申之事《あひまもりまをすべきのこと》。
右軍法《みぎぐんぱふ》を背《そむ》き、自由《じいう》の掛引有[#レ]之《かけひきこれある》に於《おい》ては、可[#レ]被[#レ]處[#二]嚴科[#一]者也《げんくわにしよせらるべきものなり》。依如[#レ]件《よつてくだんのごとし」》。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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號令《がうれい》は實《じつ》に嚴明《げんめい》であつた。而《しか》して姪《をひ》秀次《ひでつぐ》、前田利家《まへだとしいへ》、中村一氏《なかむらかずうぢ》、一柳直末《ひとつやなぎなほすゑ》、堀尾吉晴《ほりをよしはる》、山内一豐等《やまのうちかづとよら》に三萬|人《にん》を附《ふ》し、以《もつ》て京畿《けいき》の留守《るす》とし、三|月《ぐわつ》朔日《ついたち》大阪《おほさか》を出發《しゆつぱつ》した。
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其日《そのひ》の裝束《しやうぞく》には、緋威《ひおどし》の鎧《よろひ》鍬形《くわがた》打《うち》たる甲《かぶと》を、緒首《ゐくび》に著《き》なし、赤地《あかぢ》の錦《にしき》の直垂《ひたたれ》、いとはなやかに出立給《いでたちたま》ふ。供奉《ぐぶ》の人々《ひと/″\》、老《おい》たるは猶《なほ》若《わか》き出立《いでたち》、言語《ごんご》を絶《ぜつ》したり。奇麗《きれい》古今《ここん》あるまじき事《こと》なりと云《いひ》あへりぬ。〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]
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又《ま》た多聞院日記《たもんゐんにつき》には、
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一 關白殿《くわんぱくどの》朔日《ついたち》に出馬《しゆつば》一|定也《ぢやうなり》。馬數《うまかず》三千、總人數《そうにんず》二萬五千|云々《うんぬん》・・・・・・|金子《きんす》の利覽《りらん》、紅《べに》の緒《を》にて繋《つな》ぎて、一一|員宛《かずづゝ》五|人《にん》ワキカケに被[#レ]持[#レ]之《これをもたされ》、金銀《きんぎん》を負《おひ》たる馬《うま》十二|匹《ひき》云々《うんぬん》・・・・・・|本願寺《ほんぐわんじ》并《ならびに》京《きやう》堺《さかひ》の徳人《とくびと》(富豪)[#「(富豪)」は1段階小さな文字]以下《いか》多勢《おほぜい》御供《おとも》に被[#レ]召[#二]具之[#一]《これをめしぐされ》・・・|女房衆《にようばうしう》も悉被[#二]召具[#一]了《こと/″\くめしぐされをはんぬ》。事《こと》の樣《さま》、高麗《こま》、南蠻《なんばん》、大唐迄《だいとうまで》も可[#二]切入[#一]《きりいるべし》と聞《きこ》えたり。
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とあり。如何《いか》に軍容《ぐんよう》の豪麗《がうれい》にして、意氣《いき》の旺盛《わうせい》であつたか、想像《さうざう》せらるゝではない乎《か》。
彼《かれ》は三|月《ぐわつ》十二|日《にち》、備後赤阪《びんごあかさか》にて、鞆《とも》に閑居《かんきよ》したる、前將軍《ぜんしやうぐん》義昭《よしあき》を引見《いんけん》し、酒《さけ》を酌《く》んで今昔《こんじやく》を談《だん》じた。
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此所《ここ》へ公方樣《くばうさま》、御出候《おんいでさふらふ》て、御太刀折紙《おんたちをりがみ》にて、御禮《おんれい》を被[#レ]仰候《おほせられさふらふ》。御酒上《ごしゆのうへ》に、互《たがひ》に銘作《めいさく》の御腰物被[#レ]爲[#レ]參候《おこしのものまゐらせられさふらふ》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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榮枯得失《えいことくしつ》、地《ち》を替《かへ》へたる兩人《りやうにん》は、定《さだ》めて相見《あひみ》て、互《たが》ひに無量《むりやう》の感慨《かんがい》があつたであらう。
同《どう》十八|日《にち》には嚴島《いつくしま》に詣《けい》した。
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中《なか》一|日有[#二]御逗留[#一]《にちごとうりうあり》、嚴島《いつくしま》へ被[#レ]成[#二]御參詣[#一]《ごさんけいなされ》、種々御慰御歌《しゆ/″\おんなぐさみおんうた》など被[#レ]遊候《あそばされさふらう》て、堂社大破《どうしやたいは》の體《てい》、被[#レ]成[#二]御覽[#一]候《ごらんなされさふらう》て、八木《やぎ》五千|石當座《ごくたうざ》に御寄進《ごきしん》。〔九州御動座記〕[#「〔九州御動座記〕」は1段階小さな文字]
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斯《か》くて三|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、滯《とゞこほ》りなく赤間關《あかまがせき》に著《ちやく》した。
秀吉《ひでよし》の西征《せい/\》に就《つい》て、如何《いか》に毛利氏《まうりし》が肝煎《きもい》りたるかは、天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十六|日附《にちづけ》にて輝元《てるもと》が、其《そ》の重臣《ぢゆうしん》桂少輔《かつらせういう》五|郎等《らうら》に當《あ》てたる、書簡《しよかん》にて判知《わか》る。
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關白樣御宿誘之事《くわんぱくさまおやどさそひのこと》、不[#レ]及[#レ]申候《まをすにおよばずさふら》へ共《ども》、少《すこし》も無[#レ]緩可[#二]相調[#一]事《ゆるみなくあひとゝのへべきこと》、專一候《せんいつにさふらふ》。隨而桂少輔《したがつてかつらせういう》五|郎被[#レ]申候《らうまをされさふらふは》、城廻《しろまは》り掃除《さうぢ》、並町中掃除之事《ならびにまちぢうさうぢのこと》、一|段念被[#レ]入可[#二]申付[#一]候《だんねんをいれられまをしつくべくさふらふ》。道之事《みちのこと》、是又堅固《これまたけんご》に可[#レ]被[#二]申付[#一]候《まをしつけらるべくさふらふ》。町入口狹《まちのいりくちせま》き由《よし》、申候間《まをしさふらふあひだ》、是又家《これまたいへ》を退候而可[#レ]然候《のけさふらうてしかるべくさふらふ》。橋梁無[#レ]之所《はしこれなきところ》、早々可[#二]相調[#一]候《さう/\あひとゝのへべくさふらふ》。何篇油斷候而《なんべんゆだんさふらうて》は不[#レ]可[#レ]然候《しかるべからずさふらふ》。
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されば秀吉《ひでよし》も、毛利氏《まうりし》の接待《せつたい》の行《ゆ》き屆《とゞ》きたるには、滿足《まんぞく》した。

[#5字下げ][#中見出し]【五四】島津廟算奈何[#中見出し終わり]

戸次川《べつききがは》の勝利《しようり》は、結局《けつきよく》島津側《しまづがは》に取《と》りて、利《り》であつた乎《か》、害《がい》であつか乎《か》。其《そ》の士氣《しき》を振作《しんさ》した効能《かうのう》はあつたらう。然《しか》も九|州《しう》に於《お》ける薩摩隼人《さつまはやと》の先鋒《せんぽう》は、向《むか》ふ所《ところ》敵《てき》なく、殊更《ことさら》此《こ》の勝利《しようり》によりて、振作《しんさ》せねばならぬ必要《ひつえう》はなかつた。効果《かうくわ》は寧《むし》ろ豫《かね》て驕氣充溢《けうきじゆういつ》したる薩軍《さつぐん》が、之《こ》れが爲《た》めに一|轉《てん》して、惰氣滿々《だきまん/\》となつたのみだ。『諸將已入[#二]豐後[#一]《しよしやうすでにぶんごにいり》、邀[#レ]賞求[#レ]封《しやうをむかへほうをもとめ》、莫[#レ]有[#二]鬪志[#一]《とうしあるなし》。家久以爲《いへひさおもへらく》、將驕卒惰《しやうおごりそつおこたる》、難[#二]與成[#一レ]功《ともにこうをなしがたし》。』とは、島津國史《しまづこくし》の特筆《とくひつ》したる所《ところ》、恐《おそ》らくは是《これ》が眞相《しんさう》であつたらう。彼等《かれら》は未《いま》だ其《そ》の對手《あひて》の何者《なにもの》たるを、十|分《ぶん》に理會《りくわい》せない中《うち》に、既《すで》に戰勝《せんしよう》に沈醉《ちんすゐ》した。
島津氏《しまづし》は早晩《さうばん》西征軍《せい/\ぐん》に來《きた》るを、豫期《よき》した。天正《てんしやう》十三|年《ねん》、秀吉《ひでよし》の四|國《こく》を平定《へいてい》するや、上方勢《かみがたぜい》來攻《らいこう》の流言《りうげん》は、一|再《さい》にてはなかつた。されば島津氏《しまづし》は、當時《たうじ》それ/″\の對策《たいさく》を講《かう》じた。爾來《じらい》島津《しまづ》と秀吉《ひでよし》との交渉《かうせふ》は、愈《いよい》よ具體的《ぐたいてき》となつて來《き》たが、『彼《かれ》藤吉郎《とうきちらう》猿冠者《さるくわんじや》の分《ぶん》として、上洛《じやうらく》せよとは片腹痛《かたはらいた》き事《こと》なんめり。寔《まことに》頼朝卿《よりともきやう》の近習《きんじふ》大友《おほとも》の一|法師《ぽふし》より爾來《じらい》、上洛《じやうらく》すべし事抔《ことなど》の觸《ふれ》、近衞殿《このゑどの》より外《ほか》、※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53][#二]于今[#一]其例《いまにおよぶまでそのためし》なし。』〔甫菴太閤記〕[#「〔甫菴太閤記〕」は1段階小さな文字]とは、蓋《けだ》し島津側《しまづがは》の心意氣《こゝろいき》を、道破《だうは》したものであらう。彼等《かれら》は實物教育《じつぶつけういく》を受用《じゆよう》する迄《まで》は、遂《つひ》に秀吉《ひでよし》を諒解《りやうかい》し得《え》なかつた。
島津《しまづの》の外交《ぐわいかう》は、何處迄《どこまで》も頑強《ぐわんきやう》であつた、圖太《ずぶと》かつた。横紙破《よこがみやぶ》りであつた。然《しか》も亦《ま》た可《か》なりの辭令《じれい》を具《そな》へて居《ゐ》た。彼等《かれら》が曩《さ》きに兩筑《りやうちく》に於《お》ける侵掠《しんりやく》に就《つい》て、辯疏《べんそ》したる如《ごと》く、其《そ》の豐後《ぶんご》に於《お》ける侵掠《しんりやく》に就《つい》ても、亦《ま》た恰當《かふたう》の辭柄《じへい》ゐ見出《みいだ》した。彼等《かれら》は何處迄《どこまで》も、正當防衞《せいたうばうゑい》の立場《たちば》である※[#「こと」の合字、270-5]を、強辯《きやうべん》した。義久《よしひさ》は日向鹽見《ひふがしほみ》より、天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十九|日附《にちづけ》にて、秀吉《ひでよし》の異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》に當《あ》て、左《さ》の如《ごと》く申《まを》し送《おく》つた。
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然者千《しかればせん》(仙)[#「(仙)」は1段階小さな文字]石殿《ごくどの》、長曾我部殿《ちやうそかべどの》、被[#レ]爲[#二]一致[#一]之段《いつちなさるゝのだん》、其聞得候之間《そのきこえさふらふのあひだ》、到[#二]右兩手[#一]《みぎりやうてにいたり》、今度出馬之儀《このたびしゆつばのぎ》、縱關白殿雖[#レ]爲[#二]御下知[#一]《よしくわんぱくどのゝごげちたりといへども》、從[#二]當家[#一]對[#二]京都[#一]《たうけよりきやうとにたいし》、聊不[#レ]存[#二]緩疎[#一]者《いさゝかくわんそをぞんぜざれば》、何條可[#レ]有[#二]御遺恨[#一]歟《なんでうごゐこんあるべきか》。可[#レ]爲[#二]用捨肝要[#一]之旨《ようしやかんえうたるべきのむね》、遮而雖[#二]申渡候[#一]《さへぎつてまをしわたしさふらふといへども》、無[#二]承引[#一]被[#二]相懸[#一]候《しよういんなくあひかゝられさふらふ》、難[#二]默止[#一]《もだしがたく》、一戰得[#二]勝利[#一]候《いつせんしようりをえさふらふ》。剩豐之衆依[#二]敗軍[#一]《あまつさへほうのしゆうはいぐんにより》、千《せん》(仙石)[#「(仙石)」は1段階小さな文字]長《ちやう》(長曾我部)[#「(長曾我部)」は1段階小さな文字]諸勢之不[#レ]分[#二]差異[#一]《しよぜいのさいをわかたず》、數千騎討果候《すせんきうちはたしさふらふ》、案外之至《あんぐわいのいたり》、今更不[#レ]及[#二]是非[#一]候《いまさらぜひにおよばずさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
乃《すなは》ち仙石《せんごく》、長曾我部《ちやうそかべ》が、大友《おほとも》を援《たす》け、強《し》ひて我《われ》に喧嘩《けんくわ》を賣《う》り附《つ》けたが爲《た》めに、餘儀《よぎ》なく買《か》うたが、其《そ》の結果《けつくわ》は案外《あんぐわい》にも、玉石倶《ぎよくせきとも》に焚《や》き、彼等《かれら》に大打撃《だいだげき》を喫《きつ》せしめた。
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然共深重爲[#二]申入[#一]筋者《しかれどもしんちようにまをしいれをなすすぢは》、京都四國之士卒《きやうとしこくのしそつ》、於[#二]府内表[#一]《ふないおもてにおいて》、無[#二]爲方[#一]砌《せんかたなきみぎり》、弟中務大輔《おとうとなかつかさたいう》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]爲[#レ]※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《あつかひのため》大船《たいせん》三四|艘程《そうほど》、堅固被[#レ]遂[#二]出船[#一]《けんごのしゆつせんをとげられ》、不[#レ]可[#二]其隱[#一]候《そのかくれあるべからずさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
然《しか》も其《そ》の敗餘《はいよ》の將卒《しよそつ》をして、遁逃《とんたう》の餘地《よち》あらしめ、之《これ》に便宜《べんぎ》を與《あた》へたるは、我《わ》が秀吉《ひでよし》に對《たい》して、隔意《かくい》なきを證《しよう》するもの。されば貴方《きはう》に於《おい》ても、斟酌《しんしやく》ありて然《しか》る可《べ》きにあらずやと云《い》うて居《を》る。
義久《よしひさ》は更《さ》らに、殆《ほとん》ど同《どう》一の意味《いみ》を、石田三成《いしだみつなり》にも、申《まを》し送《おく》つた。島津《しまづ》は決《けつ》して這般《しやはん》の辭柄《じへい》を以《もつ》て、秀吉大軍《ひでよしたいぐん》の西下《せいか》を、中止《ちうし》せしめ得可《うべ》しとは、信《しん》ぜなかつたであらう。併《しか》し何處迄《どこまで》も、其《そ》の立場《たちば》を立派《りつぱ》に爲《な》し措《お》く必要《ひつえう》を、感《かん》じたのであらう。薩摩隼人《さつまはやと》は、外交《ぐわいかう》にかけては、何時《いつ》も拔目《ぬけめ》なき者《もの》であつた。
島津方《しまづがた》にも、秀吉《ひでよし》と抗衡《かうかう》するの不利《ふり》なるを識破《しきは》せる者《もの》、皆無《かいむ》とは云《い》はれまい。否《い》な義久《よしひさ》の庶弟《しよてい》歳久《としひさ》の如《ごと》きは、恭順論《きやうじゆんろん》の首唱者《しゆしやうしや》であつた。〔晴蓑生害之記、薩摩御家兵法純粹〕[#「〔晴蓑生害之記、薩摩御家兵法純粹〕」は1段階小さな文字]恐《おそ》らくは伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》の如《ごと》きも、その一|人《にん》であつたらう。然《しか》も逸《はや》りに逸《はや》りたる薩摩隼人《さつまはやと》の眼中《がんちう》には、いかでか秀吉《ひでよし》ある可《べ》き。彼等《かれら》は騎虎《きこ》の勢《いきほひ》にて、遂《つひ》に秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》を、其《そ》の四|境《きやう》の中《うち》に引《ひ》き受《う》けた。
然《しか》も彼等《かれら》は、果《はた》して何等《なんら》の廟算《べうさん》ありし乎《か》、否乎《いなか》。吾人《ごじん》は此《こゝ》に至《いた》りて、彼等《かれら》の餘《あま》りに無謀《むばう》なるに驚《おどろ》かざるを得《え》ぬ。元來《ぐわんらい》九|州《しう》諸土豪《しよどがう》、諸大名《しよだいみやう》の島津氏《しまづし》に服《ふく》したるは、心服《しんぷく》したるにあらず、屈服《くつぷく》したのだ。左《さ》なきだに、事大的《じだいてき》なる彼等《かれら》が、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》西下《せいか》するを聞《き》くや、いかで之《これ》を驩迎《くわんげい》せざる可《べ》き。特《とく》に龍造寺《りゆうざうじ》の如《ごと》きは、元來《ぐわんらい》島津《しまづ》に宿怨《しゆくゑん》ありて、新恩《しんおん》なき者《もの》ではない乎《か》。されば天正《てんしやう》十二|年《ねん》の秋以來《あきいらい》、龍造寺《りゆうざうじ》は島津《しまづ》の與國《よこく》となり、其《そ》の軍役《ぐんえき》を扶《たす》けつゝ、天正《てんしやう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》六|日附《かづけ》にて島津義久《しまづよしひさ》は、龍造寺政家《りゆうざうじまさいへ》と、親交不渝《しんかうふゆ》の起請文《きしやうもん》を交換《かうくわん》したるに拘《かゝは》らず、龍造寺《りゆうざうじ》はその以前《いぜん》より、秀吉《ひでよし》と音信《いんしん》し、同年《どうねん》三|月《ぐわつ》十五|日《にち》には、既《すで》に人質《ひとじち》をも送《おく》つた程《ほど》であつた。而《しか》して同年《どうねん》九|月上旬《ぐわつじやうじゆん》には、愈《いよい》よ島津《しまづ》に絶交《ぜつかう》を通告《つうこく》し、鍋島直茂《なべしまなほしげ》と共《とも》に筑後《ちくご》に入《い》り、三|池郡《いけごほり》に放火《はうくわ》し、薩軍《さつぐん》が北關《ほくくわん》に拘置《こうち》したる、立花宗茂《たちばなむねしげ》の母《はゝ》を奪還《だつくわん》し、之《これ》を立花城《たちばなじやう》に送《おく》り、遂《つひ》に肥後《ひご》の玉名郡《たまなごほり》を犯《をか》した。
龍造寺《りゆうざうじ》既《すで》に然《しか》り、其《そ》の他《た》は推《お》して知《し》る可《べ》しだ。乃《すなは》ち多年《たねん》島津《しまづ》の攻略《こうりやく》したる領土《りやうど》は、宛《あたか》も積雪《せきせつ》の、太陽《たいやう》の光《ひかり》に照《てら》されて融《と》くるが如《ごと》く、今《いま》や唯《た》だ島津《しまづ》一|手《て》にて薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》を退守《たいしゆ》するの外《ほか》は、手段《しゆだん》も方策《はうさく》もなくなつた。
若《も》し今日《こんにち》に於《おい》て、斯《かゝ》る非境《ひきやう》に陷《おちい》るを知《し》らば、島津《しまづ》は何故《なにゆゑ》に、當初《たうしよ》秀吉《ひでよし》が提供《ていきよう》したる薩《さつ》、隅《ぐう》二|國《こく》、及《およ》び日向《ひふが》、肥後《ひご》、筑後《ちくご》、各半國《かくはんごく》にて滿足《まんぞく》せざりし乎《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【五五】薩軍の退却[#中見出し終わり]

島津《しまづ》は秀吉《ひでよし》の西征《せい/\》を、豫期《よき》す可《べ》きであつた、否《い》な豫期《よき》したのであつた。然《しか》るに其《そ》の眼中《がんちう》には、唯《た》だ對《たい》大友《おほとも》のみにて、殆《ほとん》ど何等《なんら》の防備《ばうび》も整《とゝの》へなかつた。即《すなは》ち島津《しまづ》の與國《よこく》たる九|州《しう》の諸大名《しよだいみやう》、諸土豪《しよどがう》の質子《ちし》を徴《ちよう》し、秀吉《ひでよし》と交通《かうつう》せずとの誓書《せいしよ》を求《もと》めたる以外《いぐわい》には、何等《なんら》の計畫《けいくわく》も、設備《せつび》も爲《な》さなかつた。されば秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》が西下《せいか》するに際《さい》して、倉皇《さうくわう》、狼狽《らうばい》、只管《ひたす》ら境外《きやうぐわい》の兵《へい》を撤《てつ》するに汲々《きふ/\》たりしは、洵《まこと》に餘儀《よぎ》なき仕合《しあはせ》と云《い》はねばならぬ。
日向口《ひふがぐち》の主將《しゆしやう》、島津家久《しまづいへひさ》は、府内《ふない》に於《おい》て越年《をつねん》したが、折角《せつかく》豐後《ぶんご》を占領《せんりやう》しても、到底《たうてい》久《ひさ》しきを持《ぢ》する能《あた》はざるを察《さつ》し。正月《しやうぐわつ》十八|日《にち》、樺山忠助《かばやまちゆうすけ》を松尾山《まつをやま》の營《えい》に派《は》し、後方《こうはう》との聯絡《れんらく》を保《たも》たしめ、退却《たいきやく》に手配《てはい》をした。然《しか》るに案《あん》の如《ごと》く、秀吉《ひでよし》の大軍《たいぐん》、赤間關《あかまがせき》に到《いた》れりとの風説《ふうせつ》行《おこな》はれ、既降《きかう》の士民《しみん》、何《いづ》れも離叛《りはん》の色《いろ》を現《あらは》した。二|月《ぐわつ》十八|日《にち》には岡城《をかじやう》の兵《へい》小牧《こまき》、鍋田《なべた》の兩城《りやうじやう》を陷《おとしい》れ、三|重附近《へふきん》十三の壘寨《るゐさい》の士民《しみん》、皆《み》な反旗《はんき》を飜《ひるがへ》し、松尾山《まつをやま》を守《まも》る樺山忠助《かばやまちゆうすけ》より、頻《しきり》に援助《ゑんじよ》を求《もと》めて來《き》た。是《こゝ》に於《おい》て家久《いへひさ》は、府内《ふない》を去《さ》り松尾山《まつをやま》に移《うつ》つた。
肥後口《ひごぐち》の主將《しゆしやう》島津義弘《しまづよしひろ》は、家久《いへひさ》と策應《さくおう》して、互《たが》ひに※[#「特のへん+奇」、U+7284、274-10]角《きかく》の勢《いきほひ》を爲《な》し、以《もつ》て豐後《ぶんご》を席捲《せつけん》したが、天正《てんしやう》十五|年《ねん》正月《しやうぐわつ》五|日《か》には、家久《いへひさ》は義弘《よしひろ》の營《えい》、朽綱《くたみ》に抵《いた》りて、軍議《ぐんぎ》を凝《こら》し、正月《しやうぐわつ》廿六|日《にち》には、義弘《よしひろ》は朽綱《くたみ》より野上《のがみ》に移《うつ》つた。〔日本戰史、九州役〕[#「〔日本戰史、九州役〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は其《そ》の移陣《いぢん》の決《けつ》して專斷《せんだん》にあらざるを、島津義久《しまづよしひさ》に辯疎《べんそ》す可《べ》く、天正《てんしやう》十五|年《ねん》二|月《ぐわつ》七|日附《かづけ》、喜入季久宛《きいれすゑひさあて》にて左《さ》の如《ごと》く申遣《まをしつかは》した。
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霧島《きりしま》へ伺[#二]御神慮[#一]候《ごしんりよをうかゞひさふら》へば、陣易之儀《ぢんがへのぎ》、野上《のがみ》へとおり申候《まをしさふらふ》。個樣《かやう》に兩度《りやうど》まで御神慮相成候《ごしんりよあひなりさふらふ》まゝ|中書《ちうしよ》(家久)[#「(家久)」は1段階小さな文字]を朽綱《くたみ》へ相頼候《あひたのみさふらう》て、此方《こなた》へ罷越候《まかりこしさふらふ》。然處以[#二]氣任[#一]令[#二]陣易[#一]候之由《しかるところきまかせをもつてぢんがへせしめさふらふよし》、太守樣《たいしゆさま》(義久)[#「(義久)」は1段階小さな文字]被[#二]思召[#一]候哉《おぼしめされさふらふやに》、承候《うけたまはりさふらう》て心遣千萬候《こゝろづかひせんばんにさふらふ》。曾以私之非[#二]分別[#一]候《まへかどもつてわたくしのふんべつにあらずさふらふ》。種々致[#二]談合[#一]《しゆ/″\だんがふいたし》、其上御神慮重《そのうへごしんりよおもく》く存《ぞんじ》、如[#レ]此候《かくのごとくにさふらふ》。
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神慮《しんりよ》は兎《と》も角《かく》も、談合《だんがふ》の結果《けつくわ》、此《こゝ》に至《いた》りしは、疑《うたがひ》を容《い》れぬ。
斯《か》くて秀吉《ひでよし》の前軍《ぜんぐん》、羽柴秀長等《はしばひでながら》既《すで》に豐前《ぶぜん》に到《いた》ると聞《き》くや。策《さく》を背進《はいしん》に決《けつ》し、島津征久《しまづゆきひさ》、新納忠元《にひろたゞもと》、町田久倍等《まちだひさますら》をして、日田郡《ひたぐん》より秋月《あきづき》を過《す》ぎ、上筑後《かみちくご》に出《い》でしめた。自《みづか》ら一|部隊《ぶたい》を率《ひき》ゐ、三|月《ぐわつ》十一|日《にち》、野上《のがみ》を去《さ》り、武宮《たけみや》に宿《しゆく》し、權現嶽城主《ごんげんだけじやうしゆ》狹間鎭秀《はざましげひで》の夜襲《やしふ》を撃退《げきたい》し、十二|日《にち》府内城《ふないじやう》に入《い》り、十五|日《にち》附近各地《ふきんかくち》の兵《へい》に撤退《てつたい》[#ルビの「てつたい」は底本では「てつてい」]を令《れい》し。夜半《やはん》退軍《たいぐん》を開始《かいし》し、途中《とちう》に要撃《えうげき》する大友《おほとも》の兵《へい》を排撃《はいげき》し、平田宗純等《ひらたむねずみら》は之《これ》に死《し》した。十六|日《にち》の朝《あさ》松尾山《まつをやま》に抵《いた》り、家久《いへひさ》と合《がつ》した。鶴崎城《つるさきじやう》の守將《しゆしやう》伊集院久宣《いじふゐんひさのぶ》、白浜重政《しらはましげまさ》、野村文綱《のむらふみつな》、亦《ま》た伏《ふく》に陷《おちい》りて斃《たふ》れた。〔日本戰記、九州役〕[#「〔日本戰記、九州役〕」は1段階小さな文字]
三|月《ぐわつ》十七|日《にち》には、義弘《よしひろ》、家久《いへひさ》相拉《あひたづさ》へて、松尾山《まつをやま》を退《しりぞ》きて宇目《うめ》に次《じ》し、十八|日《にち》梓峠《あづさたうげ》を越《こ》え日向《ひふが》の縣《あがた》に入《はひ》つた。志賀親次《しがちかつぐ》は、十七|日《にち》一千五百|餘人《よにん》を以《もつ》て、緒方地方《をがたちはう》より、佐伯惟定《さへぎこれさだ》は同日《どうじつ》二千|餘人《よにん》を以《もつ》て、三|川内《かうち》より、交《こもご》も襲撃《しふげき》した。薩軍《さつぐん》防戰《ばうせん》頗《すこぶ》る勗《つと》め、大寺安辰《おほでらやすとき》、阿多筑後守等《あたちくごのかみら》之《これ》に死《し》し。義弘《よしひろ》、家久等《いへひさら》亦《ま》た自《みづか》ら奮鬪《ふんとう》し、樺山忠助《かばやまちゆうすけ》、同規久等《どうのりひさら》殿戰《でんせん》した。十九|日《にち》高城《たき》に次《じ》し、二十|日《か》都於郡《とをごほり》に達《たつ》し、鹽見《しほみ》より此地《このち》に轉營《てんえい》したる義久《よしひさ》に會《くわい》し、家久《いへひさ》は二十二|日《にち》、佐土原《さどはら》に還《かへ》つた。
薩軍《さつぐん》の撤兵《てつぺい》は、秀吉《ひでよし》に取《と》りては、大《だい》なる獲物《えもの》を取《と》り逃《にが》したる憾《うらみ》があつた。秀吉《ひでよし》の戰略《せんりやく》は、島津勢《しまづぜい》を其《そ》の境外《きやうぐわい》に掛《か》け留《と》め、一|擧《きよ》して之《これ》を殲《つく》すにあつた。されば彼《かれ》は先發隊《せんぱつたい》に命《めい》じて、呉々《くれ/\》も取《と》り逃《にが》さぬ樣《やう》注意《ちゆうい》した。天正《てんしやう》十五|年《ねん》三|月《ぐわつ》十六|日附《にちづけ》にて黒田孝高《くろだよしたか》に與《あた》へたる書中《しよちう》にも、
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敵不[#二]引退[#一]樣《てきひきのかざるやう》に懸留《かけとめ》、山取有[#レ]之而《やまとりこれありて》、關白殿御著座《くわんぱくどのごちやくざ》[#ルビの「くわんぱくどのごちやくざ」は底本では「くわんぱくでんごちやくざ」]を可[#二]相待[#一]儀《あひまつべきぎ》、肝要候事《かんえうにさふらふこと》。
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と云《い》ひ。又《ま》た、
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敵不[#レ]退候樣《てきのかずさふらふやう》に於[#二]掛留[#一]《かけとむるにおいて》は、急度以[#二]飛脚[#一]可[#二]注進[#一]候《きつとひきやくをもつてちゆうしんすべくさふらふ》。一|騎《き》がけに御座候而《ござさふらうて》、被[#二]御覽[#一]《ごらんぜられ》、ひとりころびをいたし候樣《さふらふやう》に、可[#レ]被[#二]仰付[#一]候間《おほせつけらるべくさふらふあひだ》、成[#二]其意[#一]《そのいをとげ》、可[#二]注進[#一]候《ちゆうしんすべくさふらふ》。聊不[#レ]可[#レ]有[#二]油斷[#一]候也《いさゝかゆだんあるべからずさふらふなり》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》うて居《を》る。然《しか》るに敵《てき》も中々《なか/\》さる者《もの》じや。其《そ》の手《て》を喰《くら》はず、狐《きつね》の穴《あな》に藏《かく》るゝ|如《ごと》く、鼈《すつぽん》の首《くび》を縮《ちゞ》むる如《ごと》く、引《ひ》き取《と》つた。
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薩摩《さつま》の奴原《やつばら》、武篇《ぶへん》にて一|戰《せん》を致《いた》し負《ま》け候《さふらう》ては、不[#レ]及[#二]是非[#一]候處《ぜひにおよばずさふらふところ》に、合戰《かつせん》をも致《いた》さず、先手《さきて》の備《そなへ》を見《み》、敗軍候段《はいぐんさふらふだん》、中々弱者共可[#レ]被[#二][#二]仰出[#一]樣無[#レ]之候《なか/\じやくしやどもおほせいださるべきやうこれなくさふらふ》。彼薩摩《かのさつま》の臆病者《おくびやうもの》には太刀《たち》も刀《かたな》も入《いる》まじく候間《さふらふあひだ》、追付追廻《おひつきおひまはし》、城々《しろ/″\》を取卷可[#レ]申事《とりまきまをすべきこと》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れ前書《ぜんしよ》より足掛《あしかけ》五|日《か》を隔《へだ》てたる三|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、秀吉《ひでよし》が周防《すはう》の途上《とじやう》より、黒田《くろだ》に與《あた》へたる書簡《しよかん》の一|節《せつ》である。
併《しか》し如何《いか》に秀吉《ひでよし》に罵《のゝし》らるゝにせよ、薩軍《さつぐん》としては、是《こ》れより他《た》に方策《はうさく》のある可《べ》き筈《はず》がない。薩摩隼人《さつまはやと》は、決《けつ》して猪武者《いのしゝむしや》でない、彼等《かれら》は進《すゝ》む事《こと》を解《かい》すると同時《どうじ》に退《しりぞ》くことを解《かい》した。

 

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