高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第十五章 島津軍南豐侵入[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【五〇】島津勢豐後を侵す[#中見出し終わり]
島津方《しまづがた》は、當初《たうしよ》より秀吉《ひでよし》を莫迦《ばか》にして掛《かゝ》つた。彼等《かれら》は惡言《あくげん》して曰《いは》く、猿《さる》に似《に》たる關白《くわんぱく》來《きた》るとも、恐《おそ》るゝに足《た》らず、我君《わがきみ》をして九|州《しう》に主《しゆ》たらしむる事《こと》、豈《あ》に彼《かれ》が力《ちから》に頼《よ》らん哉《や》と。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]而《しか》して彼等《かれら》は豐後口《ぶんごぐち》、及《およ》び肥筑口《ひちくぐち》の双方《さうはう》より、大友氏《おほともし》を侵《をか》さんとしたが、霧島神社《きりしまじんじや》の御籤《みくじ》にて、先《ま》づ肥筑口《ひちくぐち》に向《むか》ひ、筑紫廣門《つくしひろかど》を降《くだ》し、高橋紹運《たかはしせううん》を斃《たふ》し、勝尾《かつを》、岩屋《いはや》、寳滿等《はうまんとう》の諸城《しよじやう》を收《をさ》め、而《しか》して立花城《たちばなじやう》を拔《ぬ》く能《あた》はずして、軍《ぐん》を廻《かへ》した事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りだ。
然《しか》るに立花宗茂《たちばなむねしげ》は、薩軍《さつぐん》の退《しりぞ》くと與《とも》に、高鳥居城《たかとりゐじやう》を拔《ぬ》き、星野兄弟《ほしのきやうだい》を殺《ころ》したるのみならず、更《さ》らに岩屋《いはや》、寳滿《はうまん》二|城《じやう》を恢復《くわいふく》し。而《しか》して筑紫廣門《つくしひろかど》も亦《ま》た、竊《ひそ》かに大善寺《だいぜんじ》の拘幽所《こういうじよ》より脱《だつ》して、八|月《ぐわつ》二十七|日《にち》五|箇山城《かさんじやう》に入《い》り、翌日《よくじつ》勝尾城《かつをじやう》を取《と》り戻《もど》した。是《こゝ》に於《おい》て薩軍《さつぐん》の兩筑《りやうちく》に於《お》ける戰捷《せんせふ》は、殆《ほとん》ど徒勞《とらう》に屬《ぞく》した。
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度々《たび/\》(義久より)[#「(義久より)」は1段階小さな文字]筑前表《ちくぜんおもて》へ被[#二]罷居[#一]候衆《まかりをられさふらふしゆう》へ、被[#二]仰登[#一]候《おほせのぼされさふらふ》は、廣門事不[#レ]被[#二]討果[#一]《ひろかどことうちはたされず》、中途《ちうと》に被[#二]作置[#一]候也《なしおかれさふらふや》、言語同斷曲事《ごんごどうだんきよくじ》に被[#二]思召[#一]候《おぼしめされさふらふ》。せめて其分候《そのぶんさふら》はゞ|早々如[#二]爰元[#一]《さう/\こゝもとのごとく》(八代)[#「(八代)」は1段階小さな文字]被[#レ]遣候《つかはされさふらう》て可[#レ]然候旨《しかるべくさふらふむね》、被[#レ]仰候處《おほせられさふらふところ》、各歸陣之折節召列候《おの/\きぢんのをりふしめしつれさふらふ》ずるなど被[#レ]申候《まをされさふらう》て、結句油斷候《けつくゆだんさふらう》て如[#レ]此候《かくのごとくにさふらふ》。〔土井覺兼日記〕[#「〔土井覺兼日記〕」は1段階小さな文字]
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乃《すなは》ち薩軍《さつぐん》は義久《よしひさ》の誨《をしえ》を聞《き》かず、意《い》驕《おご》り、氣《き》滿《み》ちて、此《かく》の如《ごと》く脚下《あしもと》より鳥《とり》を立《た》たしむるに至《いた》つた。然《しか》も薩兵《さつぺい》驕慢《けうまん》の失敗《しつぱい》は、此《こ》の一|事《じ》にのみ限《かぎ》らなかつた。
却説《さて》今囘《こんくわい》は、再《ふたゝ》び霧島神社《きりしまじんじや》の御籤《みくじ》を取《と》りて、愈《いよい》よ豐後《ぶんご》に向《むか》ふ可《べ》く、支度《したく》した。豐後《ぶんご》には既《すで》に入田《いりた》、志賀抔《しがなど》の内應者《ないおうしや》が、島津勢《しまづぜい》の來《きた》るを待《ま》ち構《かま》へて居《ゐ》た事《こと》は、是《こ》れ亦《ま》た既記《きき》の通《とほ》りである。而《しか》して特使《とくし》鎌田等《かまだら》の齎《もたら》し歸《かへ》れる、七|月迄《ぐわつまで》に、秀吉《ひでよし》に、返答《へんたふ》す可《べ》き行《ゆ》き掛《がゝ》りに就《つい》ては、更《さら》に長壽院盛淳《ちやうじゆゐんせいじゆん》、及《およ》び大善房兩人《だいぜんばうりやうにん》を使者《ししや》とし、九|月《ぐわつ》二十七|日附《にちづけ》を以《もつ》て、羽柴秀長《はしばひでなが》に辯疏《べんそ》の書《しよ》を與《あた》へ。又《ま》た同月日《どうぐわつぴ》にて、石田《いしだ》三|成《なり》に向《むか》ひ、
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隨而初秋之比《したがつてしよしうのころ》、筑州境之干戈《ちくしうさかひのかんくわは》、無[#二]別之仔細[#一]候《べつのしさいなくさふらふ》。連々表裏之者《つら/\へうりのもの》、依[#レ]致[#二]増長[#一]《ぞうちやういたすにより》、且者勵[#二]京儀之忠勤[#一]《かつはきやうぎのちゆうきんをはげまし》、且者爲[#レ]懲[#二]領内之惡黨[#一]《かつはりやうないのあくたうをこらすために》、遂[#二]一戰[#一]《いつせんをとげ》、過半任[#二]存分[#一]候《くわはんぞんぶんにまかせさふらふ》。聊以對[#二]京都隣邦[#一]《いさゝかもつてきやうとりんぱうにたいし》、毛頭不[#レ]存[#二]緩疎[#一]候之處《まうとうくわんそをぞんぜずさふらふのところ》、四國中國衆至《しこくちうごくのしゆうにいたるまで》、當方被[#二]引率[#一]之段《たうはうにいんそつせらるゝのだん》、普風聞《あまねくふうぶんし》、更不[#レ]令[#二]納得[#一]候《さらになつとくせしめずさふらふ》。是非共邪正御糺明之儀大望候《ぜひともじやせいごきうめいのぎたいまうにさふらふ》。
と。且《か》つ自家《じか》が肥筑《ひちく》の間《かん》に於《お》ける、戰伐《せんばつ》を辯護《べんご》し、且《か》つ征討軍《せいたうぐん》の下向《げかう》に就《つい》て、抗議《かうぎ》を提出《ていしゆつ》して居《を》る。島津《しまづ》は一|言《ごん》も秀吉《ひでよし》の諭示《ゆじ》に就《つい》ては、答《こた》ふる所《ところ》なく、却《かへつ》て我《わ》が言《い》はんと欲《ほつ》する所《ところ》を、勝手放題《かつてはうだい》に陳《の》べて居《を》る。此上《このうへ》は硬取《かうしゆ》以外《いぐわい》に、秀吉《ひでよし》としては手《て》の著《つ》け樣《やう》がない。
斯《か》くて薩軍《さつぐん》は、天正《てんしやう》十四|年《ねん》十|月《ぐわつ》、大擧《たいきよ》して豐後《ぶんご》を襲《おそ》うた。一|軍《ぐん》は義弘《よしひろ》をして、三|萬《まん》七百|餘《よ》を率《ひき》ゐ、肥後阿蘇郡《ひごあそごほり》より南郡《なんぐん》に向《むか》はしめ。一|軍《ぐん》は家久《いへひさ》をして、一|萬餘《まんよ》を率《ひき》ゐ、日向梓山《ひふがあづさやま》より三|重《へ》に向《むか》はしめた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]而《しか》して十|月《ぐわつ》十八|日《にち》、義久《よしひさ》自《みづか》ら一千|餘兵《よへい》を率《ひき》ゐ、鹿兒島《かごしま》を發《はつ》し、日向鹽見《ひふがしほみ》に至《いた》つた。家久《いへひさ》は先《ま》づ豫《かね》て内應《ないおう》を約《やく》したる、三|重《へ》の土豪《どがう》麻生紹和《あさふせうくわ》を案内者《あんないしや》として、松尾城《まつをじやう》〔大野郡〕[#「〔大野郡〕」は1段階小さな文字]を取《と》り、此處《ここ》を根據《こんきよ》とし、又《ま》た部將《ぶしやう》をして、緒方城《をがたじやう》を拔《ぬ》かしめた。
義弘《よしひろ》は十|月《ぐわつ》二十一|日《にち》、阿蘇《あそ》に至《いた》り野尻《のじり》に屯《たむろ》し、二十二|日《にち》高城《たかしろ》を攻《せ》め之《これ》を下《くだ》した。而《しか》して入田宗和《いりたそうくわ》、志賀道益等《しがだうえきら》、千|餘人《よにん》を以《もつ》て來《きた》り迎《むか》へ、神原城《かんばらじやう》を開《ひら》いて之《これ》を容《い》れた。松尾《まつを》、鳥嶽《とりがたけ》二|城《じやう》は、自《みづか》ら燒《や》いて去《さ》つた。二十三|日《にち》片《かた》ヶ|世城《せじやう》を陷《おとしい》れた。柏瀬《かしはせ》、一萬|田《だ》、鎧嶽《よろひだけ》、久多見《くたみ》、滑《なめり》、瀧田等《たきだとう》の諸城《しよじやう》、風《ふう》を望《のぞ》んで降《くだ》つた。唯《た》だ戸次攝津入道源珊《べつきせつつにふだうげんさん》は、津加牟禮城《つがむれじやう》に據《よ》りて、抗戰《かうせん》し、又《ま》た志賀道益《しがだうえき》の父《ちゝ》道輝《だうき》と、道益《だうえき》の子《こ》親次《ちかつぐ》とは、岡城《をかじやう》に據《よ》り、病《やまひ》と稱《しよう》して至《いた》らなかつた。然《しか》も諸將《しよしやう》は宗和《そうくわ》、道益等《だうえきら》と與《とも》に津賀牟禮城《つがむれじやう》を攻《せ》め、遂《つひ》に入道源珊《にふだうげんさん》を降《くだ》した。義弘《よしひろ》は其《そ》の本陣《ほんぢん》を、神原城《かんばらじやう》より此處《こゝ》に移《うつ》した。〔島津國史、西藩野史〕[#「〔島津國史、西藩野史〕」は1段階小さな文字]
飜《ひるかへ》つて家久《いへひさ》の方面《はうめん》を見《み》れば、十一|月《ぐわつ》三|日《か》、部將《ぶしやう》をして栂牟禮城《つがむれじやう》に向《むか》はしめた。初《はじ》め家久《いへひさ》は使者《ししや》を派《は》して、城主《じやうしゆ》佐伯惟定《さへぎこれさだ》を招降《せうかう》せんとしたが、却《かへつ》て彼《かれ》の誘殺《いうさつ》する所《ところ》となつた。薩兵《さつへい》は鋭《えい》を盡《つく》して攻撃《こうげき》したが、容易《ようい》に其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》せず、之《これ》を中止《ちゆうし》した。而《しか》して家久《いへひさ》は、十一|月《ぐわつ》廿五|日《にち》松尾山《まつをやま》を發《はつ》し、細口村《ほそぐちむら》に進《すゝ》み、武山城《たけやまじやう》を陷《おとしい》れ、使《つかひ》を利光城《としみつじやう》に遣《つかは》して、其《そ》の降《かう》を勸《すゝ》めた。時《とき》に守將《しゆしやう》利光宗匡《としみつむねまさ》は、出《い》でて筑後方面《ちくごはうめん》に在《あ》つた。其《そ》の子《こ》統久等《むねひさら》、佯《いつは》つて質《ち》を出《いだ》し降參《かうさん》したが、二十六|日《にち》宗匡《むねまさ》の歸城《きじやう》し、其《そ》の兵勢《へいぜい》の増加《ぞうか》するや、乍《たちま》ち前約《ぜんやく》を變《へん》じ、薩軍《さつぐん》の營《えい》を應當村《おうたうむら》に襲《おそ》ひ、二十八|日《にち》には又《ま》た、其《そ》の斥候《せつこう》を利光川《としみつがは》に掩撃《えんげき》した。然《しか》も城兵《じやうへい》は、十二|月《ぐわつ》三|日《か》の出撃《しゆつげき》には、小筒井川《こづゝゐがは》にて、敗北《はいぼく》した。
家久《いへひさ》は利光城《としみつじやう》の頑強《ぐわんきやう》なる反抗《はんかう》を見《み》て、彌《いよい》よ其《そ》の全力《ぜんりよく》を傾《かたむ》けて、攻撃《こうげき》を開始《かいし》した。十二|月《ぐわつ》五|日《か》には、先《ま》づ右側《うそく》掩護《えんご》の爲《た》めに、若干兵《じやくかんへい》を分《わか》つて、大友宗麟《おほともそうりん》─|當時《たうじ》の名《な》は宗滴《そうてき》─の立《た》て籠《こも》れる臼杵城《うすきじやう》を監視《かんし》せしめ、自《みづか》ら本軍《ほんぐん》を提《ひつさ》げて梨尾山《なしをやま》に營《えい》し。六|日《か》第《だい》一|隊《たい》を追手《おふて》より、第《だい》二|隊《たい》を搦手《からめて》より城《しろ》に逼《せま》らしめ、第《だい》三|隊《たい》又《ま》た第《だい》一|隊《たい》と協力《けふりよく》して、三|之丸《のまる》を燒《や》き、遂《つひ》に二|之丸《のまる》を陷《おとしい》れた。然《しか》も城兵《じやうへい》本丸《ほんまる》を固守《こしゆ》し、木石《ぼくせき》を投下《とうか》し、寄手《よせて》をして仰《あふ》ぎ攻《せ》むる能《あた》はざらしめた。七|日《か》黄昏《くわうこん》、寄手《よせて》は姑《しば》らく梨尾山《なしをやま》に退却《たいきやく》し、城兵《じやうへい》之《これ》を追撃《つゐげき》したが、城主《じやうしゆ》宗匡《むねまさ》は、櫓《やぐら》より之《これ》を指揮《しき》し、寄手《よせて》の狙撃《そげき》に斃《たふ》れた。然《しか》も城兵《じやうへい》は尚《な》ほ屈《くつ》せず、善《よ》く戰《たゝか》うた。寄手《よせて》は同夜《どうや》其《そ》の汲水路《きゆうすいろ》を絶《た》ち、八|日《か》再《ふたゝ》び包圍《はうゐ》したが、城兵《じやうへい》力拒《りよくきよ》、更《さ》らに數晝夜《すちうや》を支持《しぢ》し、其《その》來援《らいゑん》を府内城《ふないじやう》にある大友義統《おほともよしむね》に請《こ》うた。
[#5字下げ][#中見出し]【五一】戸次川の失態[#中見出し終わり]
利光城《としみつじやう》の存亡《そんばう》は、何等《なんら》大局《たいきよく》に關係《くわんけい》はない。但《た》だ是《こ》れが後詰《ごづめ》として、四|國勢《こくぜい》は出掛《でか》け、却《かへつ》て島津勢《しまづぜい》に散々《さん/″\》打《う》ち叩《たゝ》かれて敗走《はいそう》し、秀吉《ひでよし》の武威《ぶゐ》を、劈頭《へきとう》第《だい》一に傷《きずつ》けたるは、大《だい》なる失態《しつたい》と云《い》はねばならぬ。今《いま》其《そ》の顛末《てんまつ》を語《かた》れば左《さ》の如《ごと》し。
秀吉《ひでよし》は中國勢《ちうごくぜい》を驅《か》り催《もよほ》すと同時《どうじ》に、四|國勢《こくぜい》をば先發《せんぱつ》せしめた。乃《すなは》ち土佐《とさ》の長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》、讃岐《さぬき》の十河存保等《そがうまさやすら》の兵《へい》合計《がふけい》六千|餘人《よにん》、伊豫今治《いよいまはる》より豐後沖《ぶんごおき》ノ濱《はま》に航《かう》し、九|月《ぐわつ》十二|日《にち》より上野原《うへのはら》の屯《たむろ》し、讃岐《さぬき》の仙石秀久《せんごくひでひさ》は、其《そ》の軍監《ぐんかん》であつた。十|月中《ぐわつちう》には、大友義統《おほともよしむね》は、此等《これら》の諸將《しよしやう》と與《とも》に、東豐前《ひがしぶぜん》、及《およ》び筑後方面《ちくごはうめん》の鎭撫《ちんぶ》に向《むか》うたが、薩軍《さつぐん》の日向《ひふが》より侵入《しんにふ》し、漸次《ぜんじ》府内《ふない》に逼《せま》らんとする警報《けいはう》に接《せつ》し、十一|月初旬《ぐわつしよじゆん》には、相率《あひひき》ゐて歸城《きじやう》した。
然《しか》るに今《いま》や利光城《としみつじやう》より急《きふ》を告《つ》げて來《き》た。仙石秀久《せんごくひでひさ》は一|刻《こく》も猶豫《いうよ》す可《べ》きでない。直《たゞ》ちに出兵《しゆつぺい》して、薩軍《さつぐん》を撃破《げきは》せんと逸《はや》つた。元親《もとちか》、存保等《まさやすら》、交《こもご》も之《これ》を不可《ふか》として曰《いは》く、今《いま》や西征本軍《せい/\ほんぐん》の來《きた》る、近《ちか》きにあり。聊爾《れうじ》の擧動《ふるまひ》を爲《な》す勿《なか》れとは、關白《くわんぱく》の令旨《れいし》にあらずや。又《ま》た黒田《くろだ》、小早川《こばやかは》の諸將《しよしやう》も、豐前《ぶぜん》に在《あ》れば、兎《と》も角《かく》も相談《さうだん》の上《うへ》、進止《しんし》を決《けつ》す可《べ》きであると。然《しか》も一|徹《てつ》の秀久《ひでひさ》は、頭《かしら》を掉《ふ》りつゝ、慨然《がいぜん》として曰《いは》く、持重《ぢちよう》の令旨《れいし》は、予《われ》固《もと》より之《これ》を承《うけたまは》る。然《しか》も利光城《としみつじやう》の危急《ききふ》を傍觀坐視《ばうくわんざし》するは、丈夫《ぢやうふ》の業《わざ》でない、諸君《しよくん》同心《どうしん》なくば、我《わ》が一|手《て》にて後詰《ごづめ》せんと。是《こゝ》に於《おい》て元親等《もとちから》は、無謀《むぼう》の擧《きよ》なる※[#「こと」の合字、252-10]を知《し》りつゝも、軍監《ぐんかん》たる仙石《せんごく》の申分《まをしぶん》を通《とほ》さぬ譯《わけ》にも參《まゐ》らず、餘儀《よぎ》なく之《これ》に從《したが》ひ、天正《てんしやう》十四|年《ねん》十二|月《ぐわつ》十二|日《にち》拂曉《ふつげう》、諸隊《しよたい》を擧《あ》げて府内《ふない》を發《はつ》し、大友《おほとも》の兵《へい》戸次統常以下《べつきむねつねいか》、百|餘人《よにん》を※[#「郷+向」、252-12]導《きやうだう》として、戸次川《べつきかは》の左岸《さがん》竹中山《たけなかやま》に著《ちやく》した。
右翼隊《うよくたい》は、長曾我部《ちやうそかべ》の兵《へい》三千を三|隊《たい》に分《わか》ち、第《だい》一は元親《もとちか》の部將《ぶしやう》桑名太郎左衞門《くはなたらうざゑもん》之《これ》を率《ひき》ゐ、第《だい》二は元親《もとちか》の長子《ちやうし》信親《のぶちか》之《これ》を率《ひき》ゐ、第《だい》三は元親《もとちか》自《みづか》ら率《ひき》ゐた。左翼隊《さよくたい》も亦《ま》た三千にて、第《だい》一は十河存保等《そがうまさやすら》一千を率《ひき》ゐ、第《だい》二は仙石秀久《せんごくひでひさ》二千を率《ひき》ゐた。而《しか》して豫備隊《よびたい》として、大友義統《おほともよしむね》亦《ま》た若干《じやくかん》の兵《へい》を率《ひき》ゐた。
薩軍《さつぐん》は後詰《ごづめ》の兵《へい》到《いた》ると聞《き》き、急《きふ》に利光城《としみつじやう》の圍《かこみ》を解《と》き、阪原山《さかはらやま》に退《しりぞ》き、斥候《せきこう》を影《かげ》ノ木《き》、應當《おうたう》の二|村《そん》に派《は》し、精《せい》を集《あつ》め、鋭《えい》を蓄《たくは》へ、敵状《てきじやう》に應《おう》じて、作戰《さくせん》の計畫《けいくわく》を定《さだ》めんとした。
輕慓《けいへう》なる秀久《ひでひさ》は、薩軍《さつぐん》の退却《たいきやく》を聞《き》き、直《たゞ》ちに戸次川《べつきがは》を渡《わた》らんとした。然《しか》も元親《もとちか》は之《これ》を諫《いさ》めて曰《いは》く、此地《このち》は防禦《ばうぎよ》に便利《べんり》だ。寧《むし》ろ敵《てき》の渡河《とが》を誘《いざな》うて、而《しか》して後《のち》攻勢《こうせい》に轉《てん》ずるに若《し》かずと。存保《まさやす》も亦《ま》た之《これ》を賛《さん》した。然《しか》も強情《がうじやう》なる秀久《ひでひさ》は、斯《かゝ》るまぬるき方法《はうはふ》を屑《いさぎよし》とせず、午前《ごぜん》十|時頃《じごろ》、獨《ひと》り其隊《そのたい》を率《ひき》ゐて渡《わた》つた。元親等《もとちから》亦《ま》た之《これ》を座視《ざし》するを得《え》ず、餘儀《よぎ》なく之《これ》に繼《つ》ぎ、右翼隊《うよくたい》は山崎《やまざき》に、左翼隊《さよくたい》は迫《せこ》ノ口《くち》に陣《ぢん》を布《し》き、將《まさ》に利光城《としみつじやう》と聯絡《れんらく》せんとした。然《しか》も此《かく》の如《ごと》くして、彼等《かれら》は正《まさ》しく薩軍《さつぐん》の乘《じよう》ずる所《ところ》となつた。
薩軍《さつぐん》の主將《しゆしやう》、島津家久《しまづいへひさ》は、斥候《せきこう》によりて、敵兵《てきへい》の優勢《いうせい》ならざるを知《し》り、彌《いよい》よ逆撃《ぎやくげき》を企《くはだ》てた。先《ま》づ一|部隊《ぶたい》を留《とゞ》めて、城兵《じやうへい》を監視《かんし》せしめ、自餘《じよ》の兵力《へいりよく》を、三|隊《たい》に分《わか》ち、別《べつ》に自《みづか》ら豫備隊《よびたい》を率《ひき》ゐ、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》林中《りんちう》に潛伏《せんぷく》し、仙石等《せんごくら》の來《きた》るを待《ま》ち、其《そ》の悉《こと/″\》く渡河《とか》し畢《をは》るを見《み》て、今《いま》は頃合《ころあひ》なりとて、第《だい》一|隊《たい》の伊集院久宣《いじふゐんひさのぶ》、先《ま》づ右翼隊《うよくたい》なる長曾我部《ちやうそかべ》の諸隊《しよたい》を攻撃《こうげき》したが、新鋭《しんえい》の長曾我部勢《ちやうそかべぜい》に斫《き》りまくられ、遂《つひ》に利光村《としみつむら》へ退却《たいきやく》し、第《だい》二|隊《たい》の新納大膳《にひろだいぜん》之《これ》を承《う》け、漸《やうや》く敵《てき》の追躡《つゐせふ》ゐ撃退《げきたい》した。是《こ》れと同時《どうじ》に第《だい》三|隊《たい》の本莊主税助《ほんじやうちからのすけ》は、迫《せこ》ノ口《くち》に、豫備隊《よびたい》の島津家久《しまづいへひさ》は、山崎《やまざき》に向《むか》ひ、攻勢《こうせい》に轉《てん》じ、第《だい》一|隊《たい》の伊集院《いじふゐん》も亦《ま》た再進《さいしん》し、全軍《ぜんぐん》一|齊總攻撃《せいそうこうげき》を行《おこな》ひ、何《いづ》れも薩摩隼人《さつまはやと》の本色《ほんしよく》を發揮《はつき》し、短兵接戰《たんぺいせつせん》、敵軍《てきぐん》を戸次川《べつきがは》に迫蹙《はくしゆく》し、遂《つひ》に四|國勢《こくぜい》の大敗北《だいはいぼく》となり、長曾我部信親《ちやうそかべのぶちか》、十河存保以下《そがうまさやすいか》將士《しやうし》數《す》十|人《にん》、何《いづ》れも奮鬪《ふんとう》して斃《たふ》れた。桑名《くはな》も亦《ま》た之《これ》に殉《じゆん》した。
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桑名太郎左衞門《くはなたらうざゑもん》は、信親《のぶちか》の眞先《まつさき》にて鑓《やり》を合《あは》せ、少《しばらく》の間《あひだ》敵《てき》を白《しら》ませ、信親《のぶちか》の方《かた》へ手遣《てや》りして、急《いそ》ぎ給《たま》へと申《まをし》けれども、引給《ひきたま》はず。頓《やが》て引給《ひきたま》へ/\と頻《しきり》に申《まをし》けれども、信親《のぶちか》少《すこし》も足並《あしなみ》を亂《みだ》し給《たま》はず、馬《うま》より下《お》り立《たち》て、得道具《えだうぐ》四|尺《しやく》三|寸《ずん》の大長刀《なぎなた》を以《もつ》て、向《むか》ふ者《もの》を只《たゞ》一|所《しよ》に八|人《にん》薙伏《なぎふせ》らる。次第《しだい》に手許近《てもとちか》く責來《せめきた》るに依《よつ》て、太刀《たち》を拔持《ぬきもち》て、又《また》六|人《にん》切居《きりすゑ》らるゝ。物《もの》の具《ぐ》の上《うへ》なれば、最早《もはや》太刀《たち》の刄《は》打損《うちそん》じ、大勢《たいぜい》に手負《てお》はせ、あたりを追拂《おひはら》うて、腹《はら》を切《き》らんとし給《たま》ふ處《ところ》に、大勢《たいぜい》競懸《きそひかゝ》り、其所《そのところ》にて打果給《うちはてたま》ふ。此時《このとき》細川源左衞門《ほそかはげんざゑもん》、福富隼人佐《ふくとみはやとのすけ》は、元親《もとちか》へ暇乞《いとまごひ》申《まをし》て取《とつ》て返《かへ》し、信親供《のぶちかのとも》して打死《うちじに》す。〔長曾我部元親記〕[#「〔長曾我部元親記〕」は1段階小さな文字]
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信親《のぶちか》の奮鬪振《ふんとうぶ》りは、此《かく》の如《ごと》く目覺《めざま》しきものであつた。彼《かれ》は實《じつ》に織田信長《おだのぶなが》を名乘親《なのりおや》として、辱《はづか》しからぬ好男兒《かうだんじ》であつた。
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信親《のぶちか》其時《そのとき》生年《しやうねん》廿二|歳《さい》なり。男《をとこ》の器量《きりやう》長《たけ》六|尺《しやく》一|寸《すん》あり。不斷指《ふだんざし》の刀《かたな》は、三|尺《じやく》五|寸《すん》、兼光《かねみつ》の刀也《かたななり》。總別《そうべつ》、兵法其外輕態無[#二]並者[#一]《ひやうはふそのほかけいたいならぶものなし》、此《この》刀《かたな》を指《さ》して飛々《とび/\》をせらるゝに、走飛《はしりとび》に二|間《けん》の中《うち》飛付《とびつき》、此《この》刀《かたな》を拔《ぬ》かれたり。是《こ》れ程《ほど》の人《ひと》なれば、果《いま》はの御働《おんはたらき》、寔《まこと》に異國《いこく》の樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《はんくわい》にも、やはか劣《おと》り給《たま》ふ可《べ》きやと、敵方《てきがた》にも沙汰《さた》せしと也《なり》。信親《のぶちか》其日《そのひ》帶給《おびたま》ひし太刀《たち》は、先年《せんねん》信長卿《のぶながきやう》と實名《じつみやう》御契約《ごけいやく》(信親の信は、信長の信也)[#「(信親の信は、信長の信也)」は1段階小さな文字]の時《とき》、其《その》祝儀《しうぎ》と有《あつ》て、拜領有《はいりやうあり》し左文字《さもんじ》の刀也《かたななり》。〔長曾我部元親記〕[#「〔長曾我部元親記〕」は1段階小さな文字]
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元親《もとちか》は信親等《のぶちから》の戰歿《せんぼつ》を聞《き》き、返戰《へんせん》せんとした。
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元親《もとちか》は信親《のぶちか》の被[#二]打果[#一]《うちはてらるゝ》を見給《みたま》うて、一|所《しよ》に打果《うちは》てんと、馬《うま》より下《お》り立《たち》て、太刀《たち》を拔持《ぬきもち》て、待懸《まちかけ》らる。元親《もとちか》の乘馬《じようば》は、頓《やが》て馬取々放《うまとり/\はな》し、行方《ゆくへ》なし。爾《しか》る所《ところ》に十|市新右衞門尉《いちしんゑもんのじよう》は、元親《もとちか》を見付申《みつけまをし》、扨々無[#二]勿體[#一]御有樣哉《さて/\もつたいなきおんありさまかな》、何《なに》とて退給《のきたま》はぬぞ。此馬《このうま》に乘《の》せ申《まを》さんとする所《ところ》へ、元親《もとちか》の乘給《のりたま》ひし内記黒《ないきぐろ》と云《いふ》馬《うま》、元親《もとちか》の前《まへ》へ走來《はしりきた》る。即《すなは》ち新右衞門《しんゑもん》取《とつ》て乘《の》せ申《まを》して、上《うへ》の原《はら》の城《しろ》へ引取《ひきと》りたり。〔長曾我部元親記〕[#「〔長曾我部元親記〕」は1段階小さな文字]
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他日《たじつ》元親《もとちか》は信親等《のぶちから》の爲《た》めに、土佐《とさ》の長濱《ながはま》に一|宇《う》の伽藍《がらん》を建立《こんりふ》し、又《ま》た高野山《かうやさん》徃生谷《わうじやうたに》藤《ふじ》ノ坊《ばう》に石塔《せきたふ》を立《た》てた。卒塔婆《そとば》の偈《げ》に云《いは》く、『功名永留武門中《こうみやうながくとゞむぶもんのうち》。按[#レ]劒雄夫勢有[#レ]空《けんをあんじてゆうふいきほひくうあり》。能動[#二]山川[#一]流[#二]汗血[#一]《よくさんせんをうごかしかんけつをながす》。臘天《らふてん》十二一|陣風《ぢんのかぜ》。』と。信親《のぶちか》、存保等《まさやすら》の鬪死《とうし》は、敗軍《はいぐん》ながらも、聊《いさゝ》か四|國勢《こくぜい》の爲《た》めに氣《き》を吐《は》いた。
[#5字下げ][#中見出し]【五二】薩軍豐後を占領す[#中見出し終わり]
戸次川《べつきがは》の合戰《かつせん》は、九|州役《しうえき》に於《お》ける島津方《しまづがた》唯《ゆゐ》一の手柄《てがら》であつた。此《こ》の一|捷《せふ》微《なか》りせば、島津《しまづ》の武勇《ぶゆう》も、秀吉《ひでよし》の前《まへ》には、猫《ねこ》の前《まへ》の鼠《ねずみ》に過《す》ぎなかつた。而《しか》して秀吉《ひでよし》に取《と》りては、其《そ》の大計畫《だいけいくわく》を實行《じつかう》せんとする鼻先《はなさき》に於《おい》ての、一|大手違《だいてちがひ》を來《きた》した。秀吉《ひでよし》が仙石秀久《せんごくひでひさ》の節度《せつど》に背《そむ》きたるを咎《とが》め、その讃岐高松《さぬきたかまつ》の封《ほう》を褫《うば》ひたるも、當然《たうぜん》と云《い》はねばならぬ。
長曾我部元親《ちやうそかべもとちか》は、沖《おき》ノ濱《はま》より伊豫日振島《いよひぶりじま》に遁《のが》れた。仙石秀久《せんごくひでひさ》は、淡路洲本《あはぢすもと》に還《かへ》つた。大友《おほとも》の部將《ぶしやう》吉弘統幸《よしひろむねゆき》は、府内城《ふないじやう》に在《あ》りて、此《こ》の敗報《はいはう》に接《せつ》し、三百|餘兵《よへい》を率《ひき》ゐ、祗園河原《ぎをんがはら》に出《い》でゝ、薩軍《さつぐん》の追撃《つゐげき》に備《そな》へた。大友義統《おほともよしむね》は、士卒《しそつ》散亡《さんばう》して、府内城《ふないじやう》の守《まも》る可《べ》からざるを見《み》、十二|日《にち》(天正十四年十二月)[#「(天正十四年十二月)」は1段階小さな文字]の夜《よ》高崎城《たかさきじやう》に奔《はし》り、十五|日《にち》更《さら》に龍王城《りゆうわうじやう》に移《うつ》り、十六|日《にち》黒田《くろだ》、小早川《こばやかは》、吉川等《よしかはら》に援助《ゑんじよ》を請《こ》うた。
薩軍《さつぐん》は勝《かち》に乘《じよう》じ、其《そ》の一|支隊《したい》をして、鶴崎城《つるさきじやう》を攻撃《こうげき》せしめ、島津家久《しまづいへひさ》自《みづか》ら主隊《しゆたい》を率《ひき》ゐて、敵兵《てきへい》の禽奔獸竄《きんぽんじうざん》するを追撃《つゐげき》し、大分川《おほいたがは》に至《いた》り、守岡《もりをか》の高地《かうち》に露營《ろえい》し、翌《よく》十三|日《にち》輕卒《けいそつ》百二十|人《にん》をして、府内城《ふないじやう》を偵察《ていさつ》せしめ、之《これ》を占領《せんりやう》した。是《これ》より鶴崎《つるざき》、利光《としみつ》も亦《ま》た開城《かいじやう》した。此《かく》の如《ごと》くして、幾《いくばく》もなく島津家久《しまづいへひさ》の威《ゐ》は、府内《ふない》一|帶《たい》の地《ち》に振《ふる》ひ、殆《ほとん》ど大友氏《おほともし》の根據《こんきよ》を覆《くつがへ》した。
却説《さて》、肥後《ひご》より豐後南郡《ぶんごなんぐん》に入《い》りたる、島津義久《しまづよしひさ》の一|軍《ぐん》は、大野《おほの》、直入《なほいり》兩郡《りやうぐん》に徇《とな》へたるも、獨《ひと》り降將《かうしやう》志賀道益《しがだうえき》の子《こ》親次《ちかつぐ》、其《そ》の祖父《そふ》道輝《だうき》と與《とも》に岡城《をかじやう》を守《まも》りて下《くだ》らず、入田宗和《いりたそうくわ》、志賀道益等《しがだうえきら》、屡《しばし》ば招諭《せうゆ》するも、之《これ》に應《おう》ぜず。義弘《よしひろ》も聊《いさゝ》か手古摺《てこず》りつゝある際《さい》、家久《いへひさ》の一|軍《ぐん》、長驅《ちやうく》して、既《すで》に府内《ふない》に入《い》りたるの報《はう》を得《え》、或《あるひ》は進《すゝ》んで之《これ》に合《がつ》す可《べ》しと云《い》ひ、或《あるひ》は南郡《なんぐん》に蹈《ふ》み止《とゞま》る可《べ》しと云《い》ひ、評議最中《ひやうぎさいちう》に、秋月種實《あきづきたねざね》の使《つかひ》來《きた》りて、速《すみや》に玖珠《くす》、日田《ひた》二|郡《ぐん》を攻略《こうりやく》し、以《もつ》て兩筑《りやうちく》の友軍《いうぐん》を聲援《せいゑん》す可《べ》しとの依頼《いらい》を聽《き》き、義弘《よしひろ》は姑《しば》らく岡城《をかじやう》を閤《さしお》き、十二|月《ぐわつ》二十二|日《にち》營《えい》を菅迫城《すがさこじやう》に移《うつ》し、二十四|日《か》更《さら》に朽網城《くたみじやう》に轉《てん》じ、新納忠元《にひろたゞもと》、川上久信《かはかみひさのぶ》、町田久倍等《まちだひさますら》をして、各自《かくじ》の兵《へい》、及《およ》び阿蘇《あそ》の兵《へい》[#ルビの「へい」は底本では「いへ」]を率《ひき》ゐ、玖珠郡《くすごほり》を攻略《こうりやく》せしめた。而《しか》して忠元《たゞもと》は、其《そ》の子《こ》忠増等《たゞますら》を分遣《ぶんけん》して、府内方面《ふないはうめん》に進《すゝ》み、双石《なめし》、船《ふね》ヶ|尾《を》、松《まつ》ヶ|尾等《をとう》を攻略《こうりやく》し、權現嶽城《ごんげんたけじやう》を降《くだ》した。此《かく》の如《ごと》くして豐後《ぶんご》の大半《たいはん》は、殆《ほとん》ど薩軍《さつぐん》の占領《せんりやう》に歸《き》した。
秀吉《ひでよし》は先《ま》づ不敗《ふはい》の地《ち》を占《し》めて、而《しか》して後《のち》敵《てき》に克《か》たんと期《き》した。吾人《ごじん》が既記《きき》の通《とほ》り、彼《かれ》が繰《く》り返《かへ》し、毛利《まうり》、小早川《こばやかは》、吉川《きつかは》、黒田《くろだ》、安國寺《あんこくじ》、宮木等《みやぎら》の先發者《せんぱつたい》に與《あた》へたる命令書《めいれいしよ》は、悉《こと/″\》く之《これ》を證明《しようめい》して居《を》る。而《しか》して彼《かれ》は先發隊《せんぱつたい》をして、飽迄《あくまで》も持重《ぢちよう》せしめた。『立花表《たちばなおもて》より島津不[#二]引取[#一]樣《しまづひきとらざるやう》に、無[#二]合戰[#一]《かつせんなく》かけとめ候《さふらう》て、可[#レ]有[#二]注進[#一]候《ちゆうしんあるべくさふらふ》。其次第《それしだい》に一|騎驅《きが》けなされ、即時《そくじ》に可[#レ]被[#二]討果[#一]候《うちはたさるべくさふらふ》。』是《こ》れは天正《てんしやう》十四|年《ねん》八|月《ぐわつ》十四|日附《かづけ》にて、秀吉《ひでよし》が、安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》、宮木《みやぎ》に與《あた》へたる書中《しよちう》の一|節《せつ》だ。即《すなは》ち島津勢《しまづぜい》が、筑前迄《ちくぜんまで》出《い》で來《きた》りたる報《はう》に接《せつ》しての指圖《さしず》だ。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
敵味方《てきみかた》、春《はる》に成候《なりさふら》はゞ、草臥候《くたびれさふらう》て、大欠伸有[#レ]之而可[#レ]令[#二]迷惑[#一]候處《おほあくびこれありてめいわくせしむべくさふらふところ》へ、段々《だん/″\》に被[#レ]遣[#二]御人數[#一]《ごにんずつかはされ》、被[#レ]出[#二]御馬[#一]候者《おうまをいだされさふらはば》、彼惡逆人《かれあくぎやくにん》(島津)[#「(島津)」は1段階小さな文字]は獨《ひと》り轉《ころ》びを可[#レ]到候條《いたすべくさふらふでう》、手間不[#レ]入《てまいらず》に、一|人《にん》も不[#二]相殘[#一]可[#レ]刎[#レ]首候儀《あひのこらずくびをはぬべくさふらふぎ》、手《て》に取《と》らせらるゝやう被[#二]思召[#一]候條《おぼしめされさふらふでう》、片時《へんじ》もはやく年《とし》の暮《くれ》にも成《なり》、春《はる》を待《まち》かね候間《さふらふあひだ》、被[#レ]得[#二]其意[#一]可然候由《そのいをえられしかるべくさふらふよし》、可[#二]申渡[#一]候事《まをしわたすべくさふらふこと》。
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是《こ》れは十|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》にて、又《ま》た安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》、宮木《みやぎ》に當《あ》てたる命令書《めいれいしよ》である。將《は》た十二|月《ぐわつ》朔日附《ついたちづけ》にて、小早川《こばやかは》、安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》に申遣《まをしつかは》したる書中《しよちう》にも、『豐後國四方節所之由候間《ぶんごのくにしはうせつしよのよしにさふらふあひだ》、島津方不[#二]破軍[#一]樣《しまづがたはぐんせざるやう》にかけ留《とめ》、豐後之内《ぶんごのうち》にて、島津首《しまづのくび》を刎度被[#二]思召[#一]候之間《はねたくおぼしめされさふらふのあひだ》・・・・・|島津不[#レ]退樣《しまづのかざるやう》、被[#二]懸留[#一]度《かけとめられたく》と、思食候《おぼしめしさふらふ》。』とある。
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》は薩兵《さつぺい》の剽悍《へうかん》なるを熟知《じゆくち》して居《ゐ》る。されば先《ま》づ彼等《かれら》をして獨角力《ひとりずまふ》を取《と》り、其《そ》の鋭氣《えいき》を挫《くじ》かしめ、其《そ》の惰氣滿々《だきまん/\》を見濟《みすま》して、之《これ》を一|撃《げき》に撃破《げきは》せんとしたのだ。然《しか》るに秀吉《ひでよし》が、此《かく》の如《ごと》き深慮《しんりよ》あるに抱《かゝは》らず、彼《か》の仙石《せんごく》の輩《はい》、漫《みだ》りに輕擧《けいきよ》して、薩軍《さつぐん》の元氣《げんき》方《ま》さに旺盛《わうせい》の鋭鋒《えいほう》に衝《あた》らんとした。其《そ》[#ルビの「そ」は底本では「その」]の失敗《しつぱい》の覿面《てきめん》なる、固《もと》より必然《ひつぜん》だ。されば秀吉《ひでよし》が同|月《ぐわつ》廿四|日附《かづけ》にて、毛利輝政《まうりてるまさ》に與《あた》へたる書中《しよちう》に、
[#ここから1字下げ]
今度《このたび》豐後《ぶんご》にて、若輩《じやくはい》の奴原《やつばら》、殿下之背[#二]御置目[#一]《でんかのおんおきめにそむき》、不屆動仕《ふとゞきのはたらきつかまつり》、越度《をちど》を取由候條《とりしよしにさふらふでう》、千《せん》(仙)[#「(仙)」は1段階小さな文字]石權兵衞尉儀《ごくごんしやうゑのじようぎ》、跡職闕所申付《あとしよくけつしよまをしつけ》、讃岐之儀《さぬきのぎ》、尾藤左衞門尉《びとうさゑもんのじよう》に奉行被[#二]仰付[#一]候《ぶぎやうおほせつけさふらふ》。爰《こゝ》を以《もつ》て、先々《さき/″\》の者共《ものども》、分別有[#レ]之樣《ふんべつこれあるやう》に被[#二]申付[#一]《まをしつけられ》、被[#レ]出[#二]御馬[#一]候以前無[#二]越度[#一]樣《おうまをいだされさふらふいぜんをちどなきやう》に專用候事《せんようにさふらふこと》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
島津相動《しまづあひうごき》、何《ど》の城《しろ》へ取懸候共《とりかゝりさふらふとも》、分別有[#レ]之而卒爾之行用候《ふんべつこれありてそつじのてだてむようにさふらふ》。自然不[#二]相届[#一]動候者《しぜんあひとゞけずうごきさふらふものは》、子々孫々迄《しゝそん/\まで》も可[#レ]爲[#二]曲事[#一]候之事《きよくじたるべくさふらふのこと》。
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と云《い》ふ。仙石等《せんごくら》の不都合《ふつがふ》を責《せ》め、更《さ》らに將來《しやうらい》に向《むか》つて、鄭寧反覆《ていねいはんぷく》、輝元等《てるもとら》に訓諭《くんゆ》し、戒愼《かいしん》せしめたのは、秀吉《ひでよし》に於《おい》て、其《そ》の廟算《べうさん》既《すで》に定《さだま》つたものがあるからだ。
詮《せん》する所《ところ》、仙石等《せんごくら》の輕擧《けいきよ》は、失敗《しつぱい》は失敗《しつぱい》に相違《さうゐ》ないが、却《かへつ》て後車《こうしや》の戒《いましめ》となつて、秀吉《ひでよし》の九|州征伐《しうせいばつ》をして、愈《いよい》よ違算《ゐさん》なからしむるの効果《かうくわ》を來《きた》した。是《こ》れ所謂《いはゆる》禍《わざはひ》を轉《てん》じて、福《さいはひ》と爲《な》すものではなるまい乎《か》。
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[#6字下げ]仙石の臆病
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太閤秀吉公、長曾我部元親父子、仙石權兵衞尉を大將として、四國勢を大友加勢として差越され、島津義久と豐州脇津(留)さこの口等にて合戰あり。初め脇津留の戰には、長曾我部、仙石利を得るといへぢも、さこの口の戰に利を失ひ、四國勢敗亡す。長曾我部嫡子信重(親)戰死、仙石權兵衞尉は、小舟に乘りて阿波の淵(洲)本に渡りけりといひて、其頃の落書に
仙石は四國を指して逃にけり三國一の臆病者かな
義久四國勢に打勝ち、府内を攻めんとす。此間鶴賀城、竹田城を攻む。
同十四年十二月に、薩州勢、府内に亂入し、臼杵、利光、戸次の庄、仁王が座口の切通平口、水口城、高知尾の城にて合戰あり。天正十四年より同十五年の三四月迄の事なり。〔大友公御家覺書〕[#「〔大友公御家覺書〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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