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高島秀彰、入力 [#4字下げ][#大見出し]第十四章 征西軍活動の開始[#大見出し終わり] 毛利氏《まうりし》一|家《け》は。萬障《ばんしやう》を排《はい》して、秀吉《ひでよし》の命《めい》に奬順《しやうじゆん》せんことを勗《つと》めた。吉川元春《きつかはもとはる》は、本來《ほんらい》の硬漢《かうかん》にて、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、驅使《くし》せらるゝを屑《いさぎよし》とせざりしも、宗家《そうけ》の一|大事《だいじ》と觀念《くわんねん》し、病《やまひ》を推《お》して、輝元《てるもと》、隆景《たかかげ》と與《とも》に、努力《どりよく》した。即《すなは》ち輝元《てるもと》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》の覺書《おぼえがき》に接《せつ》し、取《と》り敢《あ》へず、長井筑後守等《ながゐちくごのかみら》を赤間關《あかまがせき》に派《は》し、守備《しゆび》を嚴《げん》にせしめ。七|月《ぐわつ》薩軍《さつぐん》の、筑紫廣門《つくしひろかど》の勝尾城《かつをじやう》を圍《かこ》むと聞《き》くや、更《さ》らに椙森少輔《すぎもりせういう》四|郎《らう》を、赤間關《あまかがせき》に派《は》し、敵情《てきじやう》を偵察《ていさつ》せしめた。 秀吉《ひでよし》は八|月《ぐわつ》三|日附《かづけ》にて、吉川元春《きつかはもとはる》に、『所詮片時茂早々越[#二]關戸[#一]《しよせんへんじもはや/″\せきのとをこえ》、門司要害等《もじのえうがいとう》、彌堅固申付《いよ/\けんごにまをしつけ》、御表味岡可[#レ]及[#レ]行儀肝要候《おんおもてあぢおかにてだてにおよぶべきぎかんえうにさふらふ》。』との催告状《さいこくじやう》を與《あた》へ。同月《どうげつ》五|日附《かづけ》にて、小早川隆景《こばやかはたかかげ》に、『豐後與關戸之間《ぶんごとせきのとのあひだ》、通路不[#レ]切之樣《つうろをきられざるのやう》に被[#二]取續[#一]《とりつゞけられ》、其分別專要候《そのふんべつせんえうにさふらふ》。』と注意《ちゆうい》し。『其許國之習《そのもとくにのならひ》にて、下々申度儘《しも/″\まをしたきまゝ》に存分通有[#レ]之付而《ぞんぶんのとほりにこれあるについて》、諸事手遲候由聞及候間《しよじておくれにさふらふよしきゝおよびさふらふあひだ》、彌用[#二]脚力[#一]候《いよ/\きやくりよくをもちひさふらふ》。』と警告《けいこく》し。又《ま》た同月日附《どうぐわつびづけ》にて、安國寺惠瓊《あんこくじゑけい》にも、『其元國習《そのもとくにのならひ》にて、諸事手遲候由《しよじておくれさふらふよし》、被[#二]聞召及[#一]候間《きこしめしおよばれさふらふあひだ》、重而被[#二]仰遣[#一]候《かさねておほせつかはされさふらふ》。』と云《い》ひ。又《ま》た『總樣《そうやう》は天下《てんか》の爲《た》めと申《まをし》ながら、且《かつ》は毛利家之面目《まうりけのめんもく》、爲[#二]國之[#一]旁候間《くにのためかた/″\にさふらふあひだ》、彼是下々迄《かれこれしも/″\まで》も、心《こゝろ》も有[#レ]之侍《これあるさむらひ》は、可[#レ]令[#二]滿足[#一]與思召候《まんぞくせしむべしとおぼしめしさふらふ》。大《おほ》ぬる山《やま》の方《はう》も可[#レ]有[#レ]之候條《これあるべくさふらふでう》、萬々才覺此時候《ばん/\さいかくこのときにさふらふ》。』と、督勵状《とくれいじやう》を與《あた》へて居《を》る。 如上《じよじやう》の文句《もんく》を見《み》れば、如何《いか》に秀吉《ひでよし》が意氣軒昂《いきけんかう》、叱咤雄奮《しつたゆうふん》の風情《ふぜい》が、想見《さうけん》せらるゝよ。而《しか》して何《なん》となく、信長《のぶなが》の面影《おもかげ》が偲《しの》ばれぬでもない。殊《こと》に大緩山《おほぬるやま》とは、信長《のぶなが》が平生《へいぜい》口《くち》を衝《つ》いて、他《た》の鈍間漢《どんまかん》を罵《のゝし》つたる、常套語《じやうたうご》であつた。何《なに》は兎《と》もあれ、秀吉《ひでよし》は毛利氏《まうりし》に向《むか》つて、再《さい》三、再《さい》四、鐵鞭《てつべん》を加《くは》へた。前囘《ぜんくわい》に掲《かゝ》げたる同月日附《どうぐわつびづけ》の安國寺《あんこくじ》、黒田《くろだ》、宮木宛《みやぎあて》の覺書《おぼえがき》も、亦《ま》た同樣《どうやう》だ。 されば毛利《まうり》一|家《け》も、秀吉《ひでよし》の註文《ちゆうもん》に背《そむ》かぬ樣《やう》、精々《せい/″\》奮發《ふんぱつ》した。即《すなは》ち輝元《てるもと》は八|月《ぐわつ》十|日《か》、部將《ぶしやう》神田元忠等《かんだもとたゞら》三千|人《にん》を先發《せんぱつ》せしめ、十六|日《にち》には、親《みづか》ら[#ルビの「ら」は底本では「ち」]若干《じやくかん》の兵《へい》を率《ひき》ゐて之《これ》に繼《つ》ぎ、管内《くわんない》の兵士《へいし》を赤間關《あかまがせき》に集合《しふがふ》せしめ、九|月《ぐわつ》五|日《か》には防府《ばうふ》に次《じ》した。而《しか》して隆景《たかかげ》は八|月末《ぐわつすゑ》伊豫《いよ》より、元春《もとはる》は出雲《いづも》より、何《いづ》れも出發《しゆつぱつ》した。 八|月下旬《ぐわつげじゆん》、薩軍《さつぐん》の立花城《たちばなじやう》に薄《せま》る頃《ころ》、神田隊《かんだたい》は、關門海峽《くわんもんかいけふ》を越《こ》え、門司城《もじじやう》に入《い》り。二十六|日《にち》薩軍《さつぐん》の與黨《よたう》高橋元種《たかはしもとたね》の屬城《ぞくじやう》小倉《こくら》を攻《せ》む可《べ》く、大里《だいり》に進《すゝ》んだが、伏兵《ふくへい》に陷《おちい》り苦戰《くせん》し、又《ま》た敵《てき》の後續隊《こうぞくたい》の來《きた》りて横撃《わうげき》するに遭《あ》ひ、門司《もじ》に引《ひ》き返《かへ》した。是《こ》れが毛利勢《まうりぜい》と、島津方《しまづがた》の與黨《よたう》との、接戰《せつせん》の嚆矢《かうし》である。 九|月《ぐわつ》二十四|日《か》、吉川元春《きつかはもとはる》は赤間關《あかまがせき》に來《きた》り、黒田孝高《くろだよしたか》、小早川隆景等《こばやかはたかかげら》と相會《あひくわい》した。孝高《よしたか》は八|月《ぐわつ》十一|日《にち》、一たび大阪《おほさか》に赴《おもむ》き、九|州《しう》の事情《じじやう》を、秀吉《ひでよし》に具申《ぐしん》し、九|月《ぐわつ》九|日《か》、再《ふたゞ》び此地《このち》に來著《らいちやく》した。孝高《よしたか》は急《きふ》に海峽《かいけふ》を渡《わた》り、小倉城《こくらじやう》を攻《せ》めんことを主張《しゆちやう》したが、兵員《へいゐん》の集合《しふがふ》未《いま》だ完《まつた》からざるを以《もつ》て、姑《しば》らく延期《えんき》し。十|月《ぐわつ》三|日《か》、輝元以下《てるもといか》悉《こと/″\》く門司《もじ》に航《かう》し、四|日《か》小倉城《こくらじやう》を攻《せ》め、之《これ》を取《と》つた。城兵《じやうへい》は香春嶽《かはるだけ》に逃《のが》れた。馬《うま》ヶ|嶽城主《だけじやうしゆ》長野種信《ながのたねのぶ》先《ま》づ降《くだ》り、筑前《ちくぜん》劍《つるぎ》ヶ|岳《だけ》、淺川《あさかは》、古賀等《こがとう》の諸城《しよじやう》、悉《こと/″\》く風靡《ふうび》した。 吉川元春《きつかはもとはる》は、更《さ》らに土寇《どこう》の據守《きよしゆ》せる宮山城《みややまじやう》を攻《せ》め、小早川《こばやかは》、黒田《くろだ》と與《とも》に松山城《まつやまじやう》に進《すゝ》んだ。此時《このとき》元春《もとはる》は病《やまひ》に罹《かゝ》り、其《そ》の子《こ》元長《もとなが》之《これ》に代《かは》つたが、十一|月《ぐわつ》七|日《か》、宇留津城《うるつじやう》を包圍《はうゐ》し、之《これ》を陷《おとしい》れ、斬首《ざんしゆ》五百四十|餘級《よきふ》、俘虜《ふりよ》男女《だんぢよ》四百|餘人《よにん》、悉《こと/″\》く之《これ》を磔殺《たくさつ》した。〔日本戰史九州役〕[#「〔日本戰史九州役〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》は十一|月《ぐわつ》廿|日附《かづけ》にて、 [#ここから1字下げ] 豐前宇留津城《ぶぜんうるつじやう》、去《さる》七|日《か》に責崩《せめくづし》、千|餘首《よしゆ》を被[#レ]刎《はねられ》、其外男女不[#レ]殘《そのほかなんによのこらづ》、はた物《もの》に相《あひ》かけられ候儀《さふらふぎ》、心地《こゝち》よき次第候《しだいにさふらふ》。手柄之段《てがらのだん》、無[#二]申計[#一]候《まをすばかりなくさふらふ》。殊敵方味方中《ことにてきかたみかたちう》、覺《おぼえ》と云《いひ》、御祝著之儀《ごしうちやくのぎ》、難[#レ]盡[#二]筆紙[#一]《ひつしにつくしがたく》、被[#二]思食[#一]候《おぼしめされさふらふ》。 [#ここで字下げ終わり] との感状《かんじやう》を與《あた》へた。左手《ゆんで》に鞭《むち》を加《くは》へ、右手《めて》にて之《これ》を撫《な》づ。秀吉《ひでよし》の人《ひと》を駕御《がぎよ》する、毫《がう》も拔目《ぬけめ》がなかつた。毛利勢《まうりぜい》は十五|日《にち》更《さ》らに障子嶽城《しやうじがたけじやう》に向《むか》ひ、之《これ》を取《と》つた。此日《このひ》吉川元春《きつかはもとはる》は病死《びやうし》した。秀吉《ひでよし》は十二|月《ぐわつ》四|日附《かづけ》にて、小早川隆景《こばやかはたかかげ》に向《むか》ひ、 [#ここから1字下げ] 今度吉川駿河守《このたびきつかはするがのかみ》(元春)[#「(元春)」は1段階小さな文字]死去候由《しきよさふらふよし》、誠於[#二]國本[#一]《まことくにもとにおいて》は、養生等可[#レ]爲[#二]自由[#一]候處《やうじやうとうじいうたるべくさふらふところ》、陣中寒天之時分相煩《ぢんちうかんてんのじぶんにあひわづらひ》、如[#レ]此之段《かくのごときのだん》、併對[#二]殿下[#一]忠節思召候《あはせてでんかにたいしてはちゆうせつにおぼしめしさふらふ》。別而雖[#二]笑止候[#一]《わけてせうしにさふらふといへども》、生死之段不[#レ]及[#二]是非[#一]候《しやうしのだんぜひにおよばずさふらふ》。冶部少輔《ぢぶせういう》(元長)[#「(元長)」は1段階小さな文字]藏人《くらんど》(經言、後に廣家と改む)[#「(經言、後に廣家と改む)」は1段階小さな文字]兩人《りやうにん》へ、相心得可[#レ]被[#二]申渡[#一]候也《あひこゝろえまをしわたさるべくさふらふなり》。 [#ここで字下げ終わり] との弔状《てうじやう》を與《あた》へた。元春《もとはる》の一|死《し》は、其《そ》の宗家《そうけ》の位置《ゐち》を、鞏固《きやうこ》ならしめ、安全《あんぜん》ならしむるに於《おい》て、決《けつ》して徒爾《とじ》ではなかつた。 却説《さて》毛利勢《まうりぜい》は、吉川元春《きつかはもとはる》の死《し》に關《くわん》せず、香春嶽《かはるだけ》に向《むか》ひ、攻撃《こうげき》二十|日《にち》。其《そ》の汲道《きふだう》を絶《た》ち、晝夜《ちうや》を分《わか》たず、攻《せ》め附《つ》けた。而《しか》して吉川《きつかは》の士《し》香川春繼《かがははるつぐ》、粟屋就光等《あはやなりみつら》、夜《よ》に乘《じよう》じて三|之嶽《のたけ》を占領《せんりやう》し、次《つぎ》に本丸《ほんまる》なる一|之嶽《のたけ》、二の丸《まる》なる二|之嶽《のたけ》に逼《せま》りて築壘《ちくるゐ》し、強襲《きやうしふ》數《す》十|囘《くわい》、城主《じやうしゆ》高橋元種《たかはしもとたね》も、今《いま》は詮《せん》すべなく、十二|月上旬《ぐわつじやうじゆん》遂《つひ》に開城《かいじやう》した。 尚《な》ほ豐前《ぶぜん》なる廣津《ひろつ》、時枝《ときえだ》、宇佐等《うさとう》の諸城主《しよじやうしゆ》は、九|月《ぐわつ》十|月《ぐわつ》の交《かう》、已《すで》に質子《ちし》を容《い》れて、疑《くわん》を通《つう》じ、筑前《ちくぜん》なる龍《りゆう》ヶ|岳《たけ》、花尾等《はなをとう》も相接《あひせつ》して、降《かう》を乞《こ》うた。是《こゝ》に於《おい》て吉川隊《きつかはたい》は、香春嶽《かはるだけ》に、黒田隊《くろだたい》は馬《うま》ヶ|嶽《だけ》に、小早川隊《こばやかはたい》は松山《まつやま》に冬營《とうえい》を布《し》き、討伐本軍《たうばつほんぐん》の來《きた》るを待《ま》つた。此《かく》の如《ごと》くして毛利氏《まうりし》は、秀吉《ひでよし》の九|州征伐《しうせいばつ》の爲《た》めに、其《そ》の先驅者《せんくしや》たる報効《はうかう》を竭《つく》した。 ――――――――――――――― [#6字下げ]九州御退治之事并[#「(并)」は1段階小さな文字]小倉合戰之事 [#7字下げ]付[#「(付)」は1段階小さな文字]輝元公豐前御渡海之事 [#ここから1段階小さな文字] [#ここから2字下げ] 天正十四年秀吉公九州御退治の儀被思召立、御先手に御當家御頼み被成候て、御領國の諸勢可有渡海の旨被仰出候に付、輝元公より松山源次郎衞を大將に被仰付、桂兵部大輔、三刀屋彈正左衞門、福間彦右衞門、其外歴々被指添、人數三千餘下關渡海被仰付、門司の城番に被籠置候、然る處に高橋方の端城小倉より足輕を出し、鐵炮せり合仕候に付、先小倉の城を責取可申と源次兵衞在候折節、稻津見羽右衞門と申候者、人數五百計にて門司の近所へ働き候、源次兵衞此樣子を見て定て小倉の城兵半分は出べし、爰にて此勢を討留候に於ては籠城は成間敷候、あれ打取れと下地して三千餘の城兵悉く引卒し突て懸る刻、又小倉より二千計人數出て羽右衞門と一所に成て和戰、即時小倉勢を突立追崩す處に秋月一千餘の人數にて加勢し、此方の人數の右の方より横を打に付、門司かた忽ち突立られ既に危く見え候に付、福間彦右衞門十文字の鑓を以敵數多かけ倒し、其身も其場にて討死する、桂兵部少三刀屋彈正此樣體を見て、爰を退ては武士たる者の恥辱なり、一足も退くまじくと申合せ、居敷てひかへ候、小倉勢は勝に乘て切て懸る、桂兵部少備にて請留追つ返しつ相戰ふといへども、敵多數なれば遂に兵部少討死する、三刀屋家來是を見て桂殿はやうたれ給ひて候、早速御懸りあれと諫めければ、彈正聞て懸るも引も時の見合なり、勝に乘競ひ懸る敵にかゝるといふ法はなし、我等家中の者共は一人も懸るべからず、皆居敷て其場を不去打死すべしと下知して待處に、案のごとく敵兵競來て突てかゝる、三刀屋家人十七人同じ枕に討死する、彈正少しも騷かず鑓先を揃へ待かけゝれば、小倉勢不得掛して次第々々に引退く、こゝに依て三刀屋十死を免て門司へ歸城仕るなり、松山源次兵衞は高橋に討負無是非存候處に、備中より三村紀伊守罷下に付、三刀屋三村に談合仕、其後七曲と云所に伏兵を置て、源次兵衞城兵二千餘人引卒し、小倉の城へ押寄る、高橋秋月是を見て今日は一人も残すまじ可討取とて、勇み進て打てかゝる、源次兵衞少々矢軍なと仕り引退く、敵兵彌競ひ追かゝる處を思ふ圖に引請、源次兵衞取て返す、三刀屋三村兩將の伏兵七百餘一時に起て切て懸る、小倉勢前後の敵を防き兼て足々に成て引退く、松山勢追ひ懸數十人打取得勝利候也、其後吉川元春、小早川隆景、吉川元長、同藏人、御分國總人數三萬餘人一同に小倉へ御渡海候、秀吉公より御檢使は黒田官兵衞殿なり、輝元公も長府迄御出張被遊候、然處に小倉の兩川殿御渡海を聞て城を明、香春の嶽へつぼみ候に付、黒田官兵衞小倉の城へ入替り被申候、吉川殿小早川殿は牛房原に御陣を居たまふ、又小倉の近邊大野と申在所に宮山と云城あり、一揆共籠り居候に付吉川殿衆押寄せ山下の民屋放火仕候刻、城より打て出防戰仕る、境外記、山縣木工助家人安田神助、廣岡源兵衞高名仕候、山縣木工助、綿貫權内、千代延與助、手負候に付、味方の旗色惡敷なり、既に敗軍すべき樣に見え候處に、佐伯兵右衞門鐵砲にて敵の足輕大將と見え候者を馬上より打落しければ、敵兵騷き立に付味方是に力を得て、旗色なほり候、かゝる處に敵二百計の別手來て先を遮きるといへとも、境外記、松岡安右衞門射拂々々引退に付、總勢も能凌き罷退候、敵も夫よりは不付送城中へ引込候、其後隆景、元長、經言、同國神田松山へ御陣を替られ候へば、輝元公小倉へ御渡海被遊候、元春御事は腫物御煩ひ候て小倉に御在宿被成候、左候處に秀吉公より寒氣の時分御軍勞爲御尋、森勘八、森兵橘爲上使御差下被成、彌九州御退治の儀御頼み被遊の旨御意にて、輝元公吉川殿小早川殿へ御朱印被成下候事。〔吉田物語〕 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