第十三章 島津軍北筑進出
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十三章 島津軍北筑進出[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【四五】島津氏の態度[#中見出し終わり]

島津義久《しまづよしひさ》は、單《たん》に開戰《かいせん》の責《せめ》を、大友《おほとも》に嫁《か》するのみならず、其《そ》の特使《とくし》鎌田政廣《かまたまさひろ》、僧《そう》玄昌《げんしやう》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》に向《むか》ひ、九|州《しう》の守護職《しゆごしよく》たらん※[#「こと」の合字、214-4]を求《もと》めた。是《こ》れは餘《あま》りに蟲《むし》の善《よ》き申分《まをしぶん》だ。然《しか》も秀吉《ひでよし》は、能《あた》ふ可《べ》くんば平和手段《へいわしゆだん》にて、九|州《しう》を統《とう》一せんと欲《ほつ》し、大隈《おほすみ》、薩摩《さつま》は、島津《しまづ》の本領《ほんりやう》なれば、相違《さうゐ》ある可《べ》からず。又《ま》た日向《ひふが》、肥後《ひご》、筑後《ちくご》、各《かく》半國《はんごく》を賜《たま》はる可《べ》し。日向《ひふが》の半國《はんごく》は、伊東《いとう》の本領《ほんりやう》なれば、彼《かれ》に返《かへ》し、豊前《ぶぜん》に、筑後《ちくご》、肥後《ひご》の半國《はんごく》は、大友《おほとも》に返《かへ》し、肥前《ひぜん》を毛利《まうり》に、筑前《ちくぜん》を公領《こうりやう》に献《けん》ず可《べ》しと申《まを》し渡《わた》した。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》は四|度《ど》も鎌田《かまだ》を引見《いんけん》し、其《そ》の五|月《ぐわつ》歸國《きこく》するや、物《もの》を賜《たま》ひ、且《か》つ七|月《ぐわつ》迄《まで》には、屹度《きつと》復命《ふくめい》せよ、左《さ》なくば征伐《せいばつ》するぞと申《まを》し渡《わた》した。
是《こ》れは秀吉《ひでよし》としては、極《きは》めて寛典《くわんてん》であつた。當時《たうじ》秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》と和《わ》したけれども、未《いま》だ家康《いへやす》の上洛《じやうらく》を見《み》ず。されば其《そ》の全力《ぜんりよく》を、九|州《しう》に向《むか》つて傾《かたむ》くるの機會《きくわい》を得《え》ず、姑《しば》らく此《こ》れを以《もつ》て、島津《しまづ》の向背《かうはい》を卜《ぼく》したのだ。若《も》し島津《しまづ》にして上國《じやうこく》の形勢《けいせい》に通《つう》じ、秀吉《ひでよし》の何者《なにもの》たるを解《かい》したらんには、彼《かれ》は悦《よろこ》んで此《こ》の差圖《さしづ》に應《おう》ず可《べ》きであつた。されど勝《か》ち誇《ほこ》りたる島津《しまづ》の眼中《がんちう》には、固《もと》より秀吉《ひでよし》はなかつた。彼《かれ》は勝手《かつて》に喧嘩《けんくわ》の發頭人《ほつとうにん》を大友《おほとも》に誣《し》ひつゝ、遠慮《ゑんりよ》、會釋《ゑしやく》なく、肥後口《ひごぐち》、豐後口《ぶんごぐち》の双方《さうはう》にかけて、大友《おほとも》の領土《りやうど》を侵掠《しんりやく》した。
島津《しまづ》は當初《たうしよ》より、秀吉《ひでよし》の勢力《せいりよく》を度外視《どぐわいし》して、九|州《しう》の霸權《はけん》を占斷《せんだん》せんとした。彼《かれ》は一五八五|年《ねん》(天正十三年)[#「(天正十三年)」は1段階小さな文字]十二|月《ぐわつ》、二|人《にん》の使者《ししや》を長崎《ながさき》に在《あ》る宣教師《せんけうし》、コヱルホ[#「コヱルホ」に傍線]の許《もと》に遣《つかは》し、其《そ》の京都《きやうと》、大阪《おほさか》に赴《おもむ》く事《こと》を、一|箇年《かねん》延期《えんき》せんことを申《まを》し向《む》けた。其《そ》の理由《りいう》は申《まを》す迄《まで》もなく、翌春《よくしゆん》大擧《たいきよ》して、大友《おほよも》と戰端《せんたん》を開《ひら》かんと目論見《もくろみ》、其事《そのこと》の上方《かみがた》に漏洩《ろうえい》せん※[#「こと」の合字、215-11]を虞《おそ》れたからであつた。〔ムルドック日本歴史〕[#「〔ムルドック日本歴史〕」は1段階小さな文字]
當時《たうじ》大友《おほとも》の被官《ひくわん》に、豐後《ぶんご》南郡《みなみごほり》の入田宗和《いりたそうくわ》なる者《もの》あつた。彼《かれ》は大友義統《おほともよしむね》より、其《そ》の領地《りやうち》を奮《うば》はれたるを憾《うらみ》とし、島津《しまづ》に降《くだ》つた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]又《ま》た志賀道益《しがだうえき》なる者《もの》は、大友宗麟《おほともそうりん》の聟《むこ》であつたが、大友義統《おほともよしむね》の妾《せふ》と私《わたくし》あり、罪《つみ》を獲《え》、遂《つひ》に宗和《そうくわ》に頼《よ》りて、亦《ま》た島津《しまづ》に降《くだ》り、豐後《ぶんご》の地圖《ちづ》を獻《けん》じた。〔薩藩舊傳集〕[#「〔薩藩舊傳集〕」は1段階小さな文字]島津《しまづ》は之《これ》を奇貨《きくわ》として、豐後《ぶんご》攻略《こうりやく》の計《けい》を定《さだ》めた。
然《しか》も島津《しまづ》の働《はたら》きは、豐後《ぶんご》のみに止《とゞま》らなかつた。彼《かれ》は大友氏《おほともし》退治《たいぢ》の爲《た》めに、龍造寺正家《りゆうざうじまさいへ》、秋月種實《あきづきたねざね》、筑紫廣門等《つくしひろかどら》の質《ち》を求《もと》めたが、廣門《ひろかど》が之《これ》を肯《がへん》ぜなかつたから、先《ま》づ之《これ》を伐《う》つた。天正《てんしやう》十四|年《ねん》七|月《ぐわつ》義久《よしひさ》は、進《すゝ》んで肥後《ひご》の八|代《しろ》に次《じ》し、諸將《しよしやう》を遣《つかは》して筑後《ちくご》の高良山《かうらざん》に屯《たむろ》し、六|日《か》に鷹取城《たかとりじやう》を陷《おとしい》れ、又《ま》た日當山城《につたうざんじやう》を陷《おとしい》れ、進《すゝ》んで勝尾城《かつをじやう》に逼《せま》り。十|日《か》遂《つひ》に廣門《ひろかど》をして、降《かう》を請《こ》はしめた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
廣門《ひろかど》は少貳氏《せうにし》と同族《どうぞく》で、少貳貞經《せうにさだつね》弟《おとうと》資法《すけのり》七|世尚門《せいなほかど》、筑前國《ちくぜんのくに》三|笠郡《かさごほり》筑紫《つくし》を食《は》み、始《はじ》めて筑紫氏《つくしし》を名乘《なの》つた。廣門《ひろかど》の父《ちゝ》惟門《これかど》は秋月文種《あきづきふみたね》と與《とも》に、※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]《くわん》を毛利元就《まうりもとなり》に通《つう》じ、大友氏《おほともし》に叛《そむ》き、戰敗《せんぱい》の餘《よ》、父子《ふし》相與《あひとも》に身《み》を以《もつ》て藝州《げいしう》に遁《のが》れた。永祿《えいろく》十|年《ねん》、高橋鑑種《たかはしかねたね》が大友氏《おほともし》に反《そむ》くや、廣門《ひろかど》は藝州《げいしう》より肥前《ひぜん》に還《かへ》り、爾來《じらい》肥筑《ひちく》の間《あひだ》に、一|個《こ》の勢力《せいりよく》として存立《そんりつ》し、屡《しばし》ば大友氏《おほともし》の兵《へい》と戰《たゝか》うた。天正《てんしやう》十三|年《ねん》の冬《ふゆ》、廣門《ひろかど》、及《およ》び秋月種實等《あきづきたねざねら》、何《いづ》れも龍造寺政家《りゆうざうじまさいへ》と一|味《み》したが、政家《まさいへ》が、種實《たねざね》のみを厚遇《こうぐう》したから、廣門《ひろかど》は之《これ》を不快《ふくわい》とし、其女《そのむすめ》を岩屋城主《いはやじやうしゆ》高橋紹運《たかはしせううん》の子《こ》(立花宗茂の弟)[#「(立花宗茂の弟)」は1段階小さな文字]統増《むねます》に娶《めあは》せ、〔野史〕[#「〔野史〕」は1段階小さな文字]斯《か》くて愈《いよい》よ島津氏《しまづし》と、矛盾《むじゆん》の立場《たちば》となつた。
廣門《ひろかど》一たび島津《しまづ》に降《くだ》れば、肥筑《ひちく》の野《や》、殆《ほとん》ど無人《むじん》の地《ち》の如《ごと》く、薩摩隼人《さつまはやと》の蹂躙《じうりん》する所《ところ》となる可《べ》きであつた。然《しか》るに唯《た》だ筑前岩屋城《ちくぜんいはやじやう》に高橋紹運《たかはしせううん》あり、立花城《たちばなじやう》に紹運《せううん》嫡子《ちやくし》立花宗茂《たちばなむねしげ》あり、寳滿城《はうまんじやう》に紹運《せううん》次男《じなん》高橋統増《たかはしむねます》あり。此《こ》の三|城《じやう》のみは、嬰守《えいしゆ》して敢《あへ》て降《くだ》らなかつた。
抑《そもそ》も高橋紹運《たかはしせううん》とは、何者《なにもの》である乎《か》。高橋氏《たかはしし》は秋月氏《あきづきし》と同祖《どうそ》で、大藏姓《おほくらせい》である。中世《ちうせい》の祖《そ》光種《みつたね》、足利尊氏《あしかゞたかうぢ》に從《したが》うて九|州《しう》に下《くだ》り、後《のち》大友氏《おほともし》の被官《ひくわん》となつた。紹運《せううん》の養父《やうふ》、高橋鑑種《たかはしかねたね》は、大友氏《おほともし》の枝脈《しみやく》一萬|田氏《だし》より入《い》りて、其家《そのいへ》を繼《つ》いだが、材武《ざいぶ》拔群《ばつぐん》にて、宗麟《そうりん》に重用《ぢゆうよう》せられた。偶《たまた》ま宗麟《そうりん》が、鑑種《かねたね》の實兄《じつけい》の妻《つま》を奪《うば》はんが爲《た》めに、實兄《じつけい》を殺《ころ》したるを憾《うら》んで、毛利元就《まうりもとなり》に通《つう》じ、其兵《そのへい》を誘《いざな》ひ來《きた》りて、大友氏《おほともし》と戰《たゝか》うた。然《しか》も交戰《かうせん》三|年《ねん》の後《のち》、鑑種《かねたね》は困弊《こんぺい》の餘《よ》、吉弘鑑理《よしひろかねたゞ》によりて、遂《つひ》に大友氏《おほともし》に降《くだ》つた。〔野史、高橋紹運記〕[#「〔野史、高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
高橋《たかはし》の舊臣等《きうしんら》は、高橋《たかはし》の名家《めいか》を再興《さいこう》す可《べ》く、宗麟《そうりん》に請《こ》うた。是《こゝ》に於《おい》て宗麟《そうりん》は、吉弘鑑理《よしひろかねたゞ》の次男《じなん》、鎭種《しげたね》をして、高橋氏《たかはしし》を冐《をか》さしめた。是《こ》れが元龜《げんき》元年《ぐわんねん》で、鎭種《しげたね》二十三|歳《さい》の時《とき》であつた。彼《かれ》は後《のち》に削髮《はくはつ》して紹運《せううん》と稱《しよう》した。乃《すなは》ち大友氏《おほともし》末期《ばつき》の名將《めいしやう》、立花道雪《たちばなだうせつ》と並《なら》び稱《しよう》せられたる高橋紹運《たかはしせううん》とは、彼《かれ》の事《こと》である。
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[#6字下げ]大友宗麟上洛並[#「並」は1段階小さな文字]乞師
[#ここから1段階小さな文字]
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天正十四年、正月も過ぎ、二月にも爲りしに、大友同意の人々相談しけるは、島津強大に成ぬれば、今は秀吉公の御助勢を申請けずして叶ふまじ、屋形父子に、一人上洛然るべしとぞ究めける、義統は若年なればとて、宗麟上洛有りけり。長束大藏大輔[#割り注]○正家[#割り注終わり]を奏者として、秀吉公に對面す、土器獻酬の禮畢りて、宗麟言上申しけるは、大友は、頼朝公の御時より只今まて連續せり、其上、代々九國の管領職を賜はり、豐筑肥の六箇國を治め、薩隅日の三州も、當家の旗下たるべきに、島津義久、探題別揆の由を申し、薩隅二箇國を押取て、日州にも手を掛候間、當家より制し候へば、却て合戰を挑み候ひぬ、且又、肥前の龍造寺、筑紫廣門、筑前の秋月等も、我意を構へ、隣國の惡黨を催せしに、國々の者共、彼凶徒に組し、方々募合せ、恣に國郡を押領仕り候、唯今當家一味の者とては、立花左近將監統虎、高橋主膳入道紹運、此二人は始終の約を變ぜず、度々の軍にも勝利を得候、筑紫廣門も去冬より子細候て、當家と和睦仕り候、彼等三人の外は、皆島津幕下に成り候、其故は去春龍造寺隆信を島津が手に討取、其勢を以て肥後筑紫を討從へ、秋月長野等隨身仕り、隆信が子政家迄も和平致し候へば、自餘の小身者共は、異議に及ばず候、當年は當家と無二の合戰仕る可き用意有之由、其聞え候、御勢を差下され御征伐候はゞ、御先を仕り、九州平治の功を建つべく候と、申されければ、殿下御機嫌歡然として、九國の逆徒退治の事、去年以來思召立つ所なり彌以て毛利三家其外差下す可き也と宣ひける間、宗麟頓て歸國せられにけり、斯くて其後、島津勢豐後の國へ切入ける間、義統より殿下秀吉公へ註進して、島津勢國中に攻入候、急に御勢を下され候へと言上す、島津義久よりも、隅州正興寺の文之和尚、鎌田刑部左衞門を以て、秀吉公に、九州一圓に義久か下知に任せらるべき由の訴訟申されけるに、殿下御返答には、六隅薩摩並に肥後半國、日向半國、筑後半國は、義久が下知たるべし、日向半國は伊東に賜はる可し、豐前筑後及肥後半國は、豐後に添て大友領す可し、肥前一國は毛利に賜ふ可し、筑前一國は吉川元春に與ふ可し、と仰出さる、此由、兩使の未た下らさるに先立て、薩州に聞えける間、義久大に腹を立、九州は元來島津が旗下に必定屬せらるべきと思ふに、相違の御返事なり、所詮早く大友を追崩せとて筑前筑後にぞ討出ける。〔陰徳太平記〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【四六】高橋紹運の戰死[#中見出し終わり]

高橋紹運《たかはしせううん》は、自《みづか》ら一|死《し》を分《ぶん》として、岩屋城《いはやじやう》に在《あ》り、島津《しまづ》の大軍《たいぐん》を待《ま》ち受《う》けた。立花城《たちばなじやう》に立《た》て籠《こも》れる、其《そ》の實子《じつし》立花宗茂《たちばなむねしげ》は、十|時攝津《ときせつつ》を遣《つかは》し、紹運《せううん》に岩屋《いはや》を去《さ》りて、寳滿《はうまん》に入《い》らんとを勸《すゝ》めたが、紹運《せううん》は既《すで》に切腹《せつぷく》を覺悟《かくご》すれば、何處《いづこ》にあるも、同樣《どうやう》ぢやとて、依然《いぜん》岩屋城《いはやじやう》に躡《ふ》み止《とゞま》つた。
薩軍《さつぐん》は島津忠長《しまづたゞなが》、伊集院忠棟等《いじふゐんたゞむねら》を主將《しゆしやう》として、先《ま》づ天拜山《てんぱいざん》に上《のぼ》り、天正《てんしやう》十四|年《ねん》七|月《ぐわつ》十二|日《にち》、岩屋《いはや》を圍《かこ》んだ。秋月種實《あきづきたねざね》、龍造寺政家《りゆうざうじまさいへ》、城井友綱《しろゐともつな》、長野《ながの》三|郎左衞門尉《らうざゑもんのじよう》、草野宗養《くさのそうやう》、原田伊賀守《はらだいがのかみ》、星野《ほしの》九|左衞門《ざゑもん》、伯耆顯孝《はうきあきたか》、問注所統景《もんちゆうじよむねかげ》、其《そ》の他《た》筑後《ちくご》、肥後《ひご》、肥前《ひぜん》の軍《ぐん》、皆《み》な來《きた》り會《くわい》した。〔島津國史、四藩野史、高橋紹運記〕[#「〔島津國史、四藩野史、高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]眇然《べうぜん》たる孤城《こじやう》、此《こ》の大軍《たいぐん》にいかで抗《かう》し得可《うべ》き。然《しか》も紹運《せううん》は善《よ》く人心《じんしん》を攬《と》つた、紹運《せううん》は兵機《へいき》を知《し》つた、紹運《せううん》は最後《さいご》の決心《けつしん》を有《いう》した。されば薩摩隼人《さつまはやと》が、與國《よこく》の衆《しゆう》を率《ひき》ゐて、猛烈《まうれつ》に之《これ》を包圍《はうゐ》、攻撃《こうげき》するも、容易《ようい》に其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》し得《え》なかつた。
天正《てんしやう》十四|年《ねん》の三|月《ぐわつ》、大友宗麟《おほともそうりん》(當時宗滴と稱す)[#「(當時宗滴と稱す)」は1段階小さな文字]の上阪《じやうはん》して秀吉《ひでよし》に見《まみ》ゆるや、高橋紹運《たかはしせううん》、立花宗茂父子《たちばなむねしげふし》を推擧《すゐきよ》して、其《そ》の直參《ぢきさん》たらしめん※[#「こと」の合字、221-2]を請《こ》うた。紹運父子《せううんふし》は此《かく》の如《ごと》くして、關白《くわんぱく》の幕下《ばくか》となつた。紹運《せううん》は島津方《しまづがた》より、投降《とうかう》を歡誘《くわんいう》するに對《たい》して、左《さ》の如《ごと》く答《こた》へた。島津家《しまづけ》も、今日《こんにち》こそ九|州《しう》に威《ゐ》を振《ふる》ふが、數年前迄《すねんぜんまで》は、根占《ねじめ》、肝屬《きもつき》、北郷《ほんがう》、北原《きたはら》の士卒《しそつ》は、鹿兒島迄《かごしままで》も亂入《らんにふ》し、一|國《こく》は愚《おろ》か、一|郡《ぐん》さへも治《をさ》め兼《か》ねたではない乎《か》。大友《おほとも》も頼朝公《よりともこう》より、豐前《ぶぜん》、豐後《ぶんご》を賜《たま》はり、二三|代前迄《だいぜんまで》は、九|州《しう》の探題職《たんだいしよく》であつた。近年《きんねん》不幸《ふかう》にして、合戰《かつせん》に利《り》を失《うしな》うたれども、大友《おほとも》なればこそ、今尚《いまな》ほ一|兩國《りやうこく》[#ルビの「りやうこく」は底本では「りやこく」]を維持《ゐぢ》するなれ。頓《やが》て秀吉公《ひでよしこう》進發《しんぱつ》あらば、島津《しまづ》の滅亡《めつばう》、覿面《てきめん》ならむと。〔豐薩軍記〕[#「〔豐薩軍記〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は島津《しまづ》よりも、大局《たいきよく》の形勢《けいせい》に通《つう》じて居《ゐ》た。島津《しまづ》の勢力《せいりよく》は、全《まつた》く槿花《きんくわ》一|朝《てう》の榮《えい》たる※[#「こと」の合字、221-10]を熟知《じゆくち》した。
斯《か》くて薩摩勢《さつまぜい》は、夜中《やちう》に間諜《かんてう》を捉《とら》へたが、其《そ》の者《もの》は毛利氏《まうりし》の裨將《ひしやう》神田元忠《かんだもとたゞ》が、紹運《せううん》に與《あた》ふるの書《しよ》を携《たづさ》へて居《ゐ》た。曰《いは》く、能《よ》く籠城《ろうじやう》せよ、上方《かみがた》及《およ》び中國《ちうごく》の援兵《ゑんぺい》は、不日《ふじつ》に至《いた》る可《べ》しと。此《こ》れを見《み》て、寄手《よせて》は一|刻《こく》も速《すみや》かに、攻《せ》め落《おと》す必要《ひつえう》を認《みと》め、七|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、彌《いよい》よ決死的《けつしてき》總攻撃《そうこうげき》に取《と》り掛《かゝ》つた。如何《いか》に其《そ》の總攻撃《そうこうげき》が、猛烈《まうれつ》であつたかは、『大形素肌責申候《おほかたすはだにてせめまをしさふらふ》、混甲《ひたかぶと》三百|人《にん》は無[#レ]之《これなし》。』〔薩藩舊傳集〕[#「〔薩藩舊傳集〕」は1段階小さな文字]にて判知《わか》る。即《すなは》ち薩摩隼人《さつまはやと》は、赤裸々《せきらゝ》にて、攻《せ》め附《つ》けたのだ。尚《な》ほ其《そ》の模樣《もやう》は、左《さ》の記事《きじ》にて推察《すゐさつ》せれるゝ。
[#ここから1字下げ]
七|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、寅《とら》(午前四時)[#「(午前四時)」は1段階小さな文字]の一|天《てん》、萬方《ばんぱう》より押寄《おしよせ》て、平詰《ひらづめ》にこそ被[#レ]攻《せめられ》けれ。城内《じやうない》の人々《ひと/″\》は、大手《おほて》の口《くち》に指合《さしあひ》て、防《ふせ》ぐ事《こと》は無[#レ]限《かぎりなし》。於[#レ]是《こゝにおいて》伊集院左近《いじふゐんさこん》、蓑田彌《みのだや》四|郎《らう》、矢上太郎《やがみたろ》五|郎《らう》、至[#二]手柄[#一]《てがらをいたして》戰死也《せんしなり》。久留米津介《くるめつのすけ》痛手《いたて》を蒙《かうむ》り引退《ひきしりぞ》く、其《そ》の儘《まゝ》敵《てき》は詰《つめ》の城《しろ》に取籠《とりこも》る處《ところ》を追詰《おひつ》めて、板城戸口《いたしろとぐち》にて、長谷場兵部小輔《はせばひやうぶせういう》太刀始《たちはじ》め仕《つかまつ》る。同心《どうしん》に向江宮内左衞門尉《むかえくないさゑもんのじよう》、中島右衞門尉《なかじまうゑもんのじよう》合戰《かつせん》す。肥州隈本《ひしうくまもと》の住人《ぢゆうにん》に、井手田親綱《ゐでたちかつな》、主從《しゆじゆう》二|人《にん》、同國《どうこく》八|代《しろ》の住人《ぢゆうにん》に的場《まとば》五|藤《とう》、貮|番合戰《ばんかつせん》被[#レ]到《いたされ》、其《そ》の軍勞《ぐんらう》は申許《まをすばかり》も無《な》かりけり。又《ま》た取添《とりぞへ》の方《かた》にては、喜入攝州《きいれせつしう》(秀久)[#「(秀久)」は1段階小さな文字]の御次男《ごじなん》と有馬彌《ありまや》六、宮原越中守《みやばらゑつちうのかみ》討死《うちじに》す。
追手《おふて》搦手《からめて》一|同《どう》に息《いき》を延《の》べず攻《せめ》ければ、野鎖《のぐさり》もかれに相同《あひおな》じ、吐氣《とき》を作《つく》りて攻上《せめのぼ》る。塀添《へいぞひ》に寄《よ》せ付《つ》け切《き》り突落《つきおと》す。其《そ》の中《なか》に山田越前守《やまだゑちぜんのかみ》(有信)[#「(有信)」は1段階小さな文字]上井伊勢守《かもゐいせのかみ》(覺兼)[#「(覺兼)」は1段階小さな文字]宮原左近將監《みやはらさこんしやうげん》は、骨《ほね》を打碎《うちくだ》きてぞ被[#レ]落《おとさる》。此外《このほか》、處々《しよ/\》の兵《つは》ものも、戰[#二]致死[#一]《せんしいたし》數《かず》餘多《あまたなり》。
一二の丸《まる》は事果《ことはた》し、詰《つめ》の城《しろ》に切《き》り入《い》れば、高橋入道《たかはしにふだう》、痛手《いたで》負《おひ》て、郎等《らうとう》の兵《つは》ものに養生《やうじやう》せさせて居《ゐ》たりしが、最後《さいご》ぞと思《おも》ひつゝ、矢藏《やぐら》の上《うへ》にて、十|念《ねん》唱《とな》へて、もんじんす。寄手《よせて》の兵《つは》もの落合《おちあひ》て、法師首《ほふしのくび》取《とり》て出《いで》にけり。既《すで》に此日《このひ》も申《さる》の半《なかば》(午後五時)[#「(午後五時)」は1段階小さな文字]になりければ、觀世音寺《くわんぜおんじ》の西《にし》の方《かた》に、打頸《うちくび》聚《あつめ》て實驗《じつけん》し、勝吐氣《かちどき》畢《をは》れば、軍兵《ぐんぴやう》は陣所《ぢんしよ》/\に打歸《うちかへ》り、悦《よろこ》ぶ事《こと》は無[#レ]限《かぎりなし》。〔長谷場越前自記〕[#「〔長谷場越前自記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れは寄手方《よせてがた》の語《かた》つた所《ところ》であるが、如何《いか》に此《こ》の勝利《しようり》が、島津《しまづ》に取《と》つて廉價《れんか》でなかつた乎《か》が判知《わか》る。
紹運《せううん》は豫《かね》ての覺悟《かくご》なれば、『かばねをば、岩屋《いはや》の苔《こけ》に埋《うづ》めてぞ、雲井《くもゐ》の空《そら》に、名《な》を留《とゞ》むべき。』との辭世《じせい》を殘《のこ》し、岩屋城《いはやじやう》の高櫓《たかやぐら》にて切腹《せつぷく》した。時《とき》に三十九|歳《さい》であつた。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は曰《いは》く、四十二|歳《さい》。〔野史〕[#「〔野史〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》は四十|前後《ぜんご》にして、死《し》した。而《しか》して最《もつと》も其《そ》の死所《ししよ》を得《え》た。彼《かれ》は實《じつ》に七十二|歳《さい》にして死《し》したる立花道雪《たちばなだうせつ》と、大友氏《おほともし》の双璧《さうへき》として、光《ひかり》を爭《あらそ》ふものである。
紹運《せううん》の一|死《し》は、決《けつ》して徒死《とし》ではなかつた。勝利《しようり》を得《え》たる薩軍《さつぐん》は、其《そ》の餘《あま》りに高價《かうか》を拂《はら》うたるが爲《た》めに、其《そ》の氣勢《きせい》を一|頓《とん》した。即《すなは》ち寄手《よせて》には、大將《たいしやう》たる武士《ぶし》二十七|騎《き》、士卒《しそつ》九百|餘騎《よき》、戰死《せんし》す。手負《ておひ》千五百|人《にん》。此外《このほか》雜兵《ざふひやう》記《き》するに及《およ》ばずと云《い》ふ事《こと》であつた。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
されば寄手《よせて》は、敵《てき》味方《みかた》亡靈《ばうれい》の爲《た》めに、秋月《あきづき》より茂林東堂《もりんとうだう》を請《こ》うて、大施餓鬼《おほせがき》を執行《しゆぎやう》した。卒都婆《そとば》の頌《じゆ》に曰《いは》く、
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一將功成冠[#二]九州[#一]《いつしやうこうなつてきうしうにくわんたり》。戰場血入染[#二]河流[#一]《せんぢやうのちはいつてかりうをそむ》。殺人刀焉活人劍《さつじんのたうくわつじんのつるぎ》。月白風高岩山秋《つきはしろくかぜはたかしがんじやうのあき》。
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と。斯《か》くて寳滿城《はうまんじやう》に在《あ》る紹運《せううん》の二|男《なん》統増《むねます》は、薩軍《さつぐん》[#ルビの「さつぐん」は底本では「さぐん」]の強要《きやうえう》に應《おう》じて、開城《かいじやう》した。
寳滿城《はうまんじやう》は本來《ほんらい》高橋氏《たかはしし》と、筑紫氏《つくしし》と相持《あひもち》の城《しろ》にて、廣門《ひろかど》の島津《しまづ》降伏後《かうふくご》、紹運《せううん》は其《そ》の次男《じなん》統増《むねます》を入《い》れ置《お》き、之《これ》を守《まも》らしめたのだ。十五|歳《さい》の少年《せうねん》たる彼《かれ》は、如何《いか》に筑紫《つくし》の聟《むこ》とは云《い》へ、筑紫《つくし》の家人共《かじんども》を、勝手《かつて》に驅使《くし》す可《べ》きにあらず。遂《つひ》に衆議《しゆうぎ》を容《い》れ、紹運《せううん》の妻《つま》、及《およ》び統増《むねます》は、立花城《たちばなじやう》に入《い》る※[#「こと」の合字、225-2]を約束《やくそく》にて、已《や》むなく開城《かいじやう》して、寳滿《はうまん》を薩軍《さつぐん》に致《いた》した。然《しか》も其《そ》の約《やく》に反《そむ》き、紹運《せううん》の妻《つま》を筑後北《ちくごきた》ノ關《せき》に、統増《むねます》を肥後吉松《ひごよしまつ》に拘置《こうち》した。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
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[#6字下げ]紹運の首實驗并に葬送の事
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紹運の首を實驗に備へければ、敵ながらも惜むべき良將なりとて、兩將、(忠長、忠棟)床机を下て禮拜し、岩屋の向ふ二日市の山上に是を葬らる、島津は慈仁を專とせし故、敵味方の討死したる冥福追修の爲めにとて、秋月より佛心宗の茂林和尚と云けるを招請し、梁武の時より成初ける大施餓鬼の法筵を、形の如くに執り行はれける、卒都婆の頌に曰、一將功成冠[#二]九州[#一]、戰場血入染[#二]川流[#一]、殺人刀焉活人劍、月白風高岩山秋、晋の文公は介子推が爲めに封[#二]綿山[#一]祭[#レ]之、唐太宗は散[#レ]帛遺骸を歛めしむ、勇士の殊恩に預る事、古昔も今も替らざりけりと、各※[#二の字点、1-2-22]之を感稱す、其後紹運の躯《むくろ》をば、立花宗重、岩屋の本城に葬り歛めらる、今に至て岩屋二日市の兩山、共に相對し、首塚躯塚とて二墳※[#「儡のつくり/糸」、第3水準1-90-24]々として年々春の草生ず、哀れなりし事どもなり、誠なる哉、大友家に於て立花道雪、高橋紹運とて車の兩輪、鳥の兩翼ある如く、爪牙股肱の譽有つて、忠臣の節義を守り智勇兼備へて諸人其威名を怖れつるに斯る生害に及びしこと、是れ偏に大友父子武運傾きぬるの驗なり、〔豐薩軍記〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【四七】立花宗茂の勳功[#中見出し終わり]

島津勢《しまづぜい》は岩屋《いはや》を陷《おとしい》れ、寳滿《はうまん》を取《と》り、今《いま》は片言以《へんげんもつ》て立花城《たちばなじやう》を落《おと》す可《べ》く、使者《ししや》を以《もつ》て、降服《かうふく》を促《うなが》した。然《しか》も守將《しゆしやう》立花宗茂《たちばなむねしげ》は、二十|歳《さい》の若年《じやくねん》(陰徳太平記には十八歳とある)[#「(陰徳太平記には十八歳とある)」は1段階小さな文字]ながら、慨然《がいぜん》として之《これ》に答《こた》へて云《い》うた。
[#ここから1字下げ]
岩屋《いはや》、寳滿《はうまん》、黨城《たうじやう》(立花)[#「(立花)」は1段階小さな文字]の儀《ぎ》は、秀吉公《ひでよしこう》御朱印《ごしゆいん》を以《もつ》て、預《あづか》り候《さふら》へば、島津《しまづ》の下知《げち》に從《したが》へとある條《でう》、更《さら》に心得《こゝろえ》ず。紹運《せううん》已《すで》に義死《ぎし》を遂《と》げ候上《さふらふうへ》は、某《それがし》も立花《たちばな》の岸根《きしね》に軍勢《ぐんせい》を引請《ひきう》け、紹運《せううん》追善《つゐぜん》の爲《た》めに、一合戰《ひとかつせん》仕《つかまつ》り、其後《そののち》こそ申談《まをしだん》ずべけれと。〔立齊奮聞記〕[#「〔立齊奮聞記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
宗茂《むねしげ》は七|月《ぐわつ》二十八|日《にち》を以《もつ》て、危急《ききふ》の現状《げんじやう》を、秀吉《ひでよし》に報《はう》じ、其《そ》の援兵《ゑんぺい》を請《こ》うた。彼《かれ》は早晩《さうばん》秀吉《ひでよし》の親征《しんせい》ある可《べ》きを豫知《よち》した。故《ゆゑ》に島津《しまづ》の九|州《しう》に於《お》ける威勢《ゐせい》も、不日《ふじつ》に銷沈《せうちん》す可《べ》きを豫測《よそく》した。而《しか》して薩軍《さつぐん》の徒《いたづ》らに聲勢《せいせい》を張大《ちやうだい》にしつゝ、其《そ》の實力《じつりよく》の困疲《こんぴ》しつゝあるを、偵察《ていさつ》した。故《ゆゑ》に彼《かれ》は此《こ》の場合《ばあひ》に於《おい》て、克《よ》く敵《てき》の恫喝《どうかつ》に屈《くつ》せず、孤城《こじやう》に據《よ》りて、之《これ》に當《あた》る可《べ》き覺悟《かくご》を定《さだ》めた。其《そ》の模樣《もやう》は、島津側《しまづがは》の記事《きじ》に就《つい》て、之《これ》を證明《しようめい》する事《こと》が能《あた》ふ。
[#ここから1字下げ]
八|月《ぐわつ》二十四|日《か》云々《うんぬん》、此日《このひ》忠長《たゞなが》(島津)[#「(島津)」は1段階小さな文字]忠棟《たゞむね》(伊集院)[#「(伊集院)」は1段階小さな文字]より當初《たうしよ》(肥後八代)[#「(肥後八代)」は1段階小さな文字]總持院《そうぢゐん》にて御申候也《おんまをしさふらふなり》。立花表樣子懸引之體《たいばなおもてのやうすかけひきのてい》、彼院使僧被[#レ]申候條《かのゐんのしそうまをされさふらふでう》、進覽候《しんらんさふらふ》。最前《さいぜん》は事能申候間《ことよくまをしさふらふあひだ》、※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]之談合候處《あつかひのだんがふにさふらふところ》、頃是非共《このごろぜひとも》、立花之事《たちばなのこと》、すえ付《つけ》に被[#二]召置[#一]候《めしおかれさふら》はば、御馬之先《おうまのさき》に立可[#レ]申候《たちまをすべくさふらふ》。無[#二]其儀[#一]候《そのぎなくさふら》はば、下城難[#レ]申候由候條《げじやうまをしがたくさふらふよしにさふらふでう》、此方之使僧《このはうのしそう》に、秋月殿使被[#二]指添[#一]候《あきづきどのつかひさしそへられさふらう》て、異見《いけんの》ごとくに被[#レ]仰候趣《おほせられさふらふおもむき》は、是非《ぜひ》/\|下城可[#レ]然候《げじやうしかるべくさふらふ》。左候《ささふら》はゞ|早良《さうら》三|郡《ぐん》(筑前)[#「(筑前)」は1段階小さな文字]に荒平《あらひら》(同郡入部村重富の内)[#「(同郡入部村重富の内)」は1段階小さな文字]と申名城相副《まをすめいじやうあひそへ》、立花《たちばな》の辺地《へんち》に可[#レ]被[#レ]遣樣《つかはさるべきやう》に取成候《とりなしさふらふ》ずる由《よし》、謂送《いひおく》られ候《さふらふ》。〔上井覺兼日記〕[#「〔上井覺兼日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
此《かく》の如《ごと》く立花方《たちばながた》も、當初《たうしよ》は温言《をんげん》もて、薩軍《さつぐん》を釣《つ》り置《お》き、遂《つひ》に斷《だん》じて立花城《たちばなじやう》を去《さ》らずと明言《めいげん》し。是《こゝ》に於《おい》て島津側《しまづがは》は、其《そ》の使僧《しそう》に、秋月種實《あきづきたねざね》の使者《ししや》を差添《さしそ》へ、代地《かへち》を與《あた》ふ可《べ》ければ、是非《ぜひ》下城《げじやう》せよと申《まを》し送《おく》つた、然《しか》るに宗茂《むねしげ》は、何《なん》と返事《へんじ》したる乎《か》。
[#ここから1字下げ]
其《そ》の返事《へんじ》に、順逆立花之事《じゆんぎやくたちばなのこと》は、羽柴殿《はしばどの》へ申入《まをしいれ》、統虎《むねとら》(宗茂當時の名)[#「(宗茂當時の名)」は1段階小さな文字]名字之事《みやうじのこと》も、立花《たちばな》と名乘《なのり》、人《ひと》など承候在所《うけたまはりさふらふざいしよ》の事候條《ことにさふらふでう》、下城申《げじやうまを》すまじく候《さふらふ》。殊更頃中國《ことさらこのごろちうごく》より加勢之由候間《かせいのよしにさふらふあひだ》、彼方《かなた》へ質人差出候條《しちびとさしいだしさふらふでう》、二方《ふたかた》へ兎角《とかく》は申候《まをしさふらふ》ずる事《こと》は、罷成間敷候《まかりなるまじくさふらふ》。中國《ちうごく》よりも鐵砲數多被[#レ]籠抔候《てつぱうあまたこめらるゝなどにさふらふ》。今更下城之事《いまさらげじやうのこと》は難[#レ]成通申離候《なりがたきとほりまをしはなしさふらふ》。〔上井覺兼日記〕[#「〔上井覺兼日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
立花城《たちばなじやう》は、既《すで》に關白《くわんぱく》秀吉《ひでよし》の知《し》る所《ところ》となり。某《それがし》が立花氏《たちばなし》を名乘《なの》るも、天下《てんか》に隱《かく》れなき事也《ことなり》。今更《いまさ》ら何《なに》を苦《くるし》んで下城《げじやう》せんや。且《か》つ既《すで》に毛利氏《まうりし》の來援《らいゑん》を約《やく》し、その爲《た》めに質《ち》を容《い》れて居《ゐ》る。毛利氏《まうりし》よりは、既《すで》に鐵砲《てつぱう》數多《あまた》差《さ》し送《おく》つて居《ゐ》る。今更《いまさ》ら何《なに》を苦《くるし》んで下城《げじやう》せんやと。如何《いか》にも正々堂々《せい/\だう/\》の返事《へんじ》ではない乎《か》。
[#ここから1字下げ]
然處秋月方被[#レ]申候《しかるところあきづきがたまをされさふらふ》は、薩摩衆之事《さつましゆうのこと》は、長々軍勞苦候間《なが/\のぐんらうにくるしみさふらふあひだ》、先々歸陣可[#二]目出[#一]候《まづ/\きぢんめでたかるべくさふらふ》。立花《たちばな》一|城之事《じやうのこと》は、秋月《あきづき》、草野《くさの》、星野《ほしの》、原田《はらだ》、宗像《むねかた》など談合申候《だんがふまをしさふらう》て、聢可[#レ]抽候《しかとぬくべくさふらふ》。御心遣入間敷由《おこゝろづかひいるまじきよし》、頻被[#レ]申候《しきりにまをされさふらふ》。就[#レ]夫去《それにつきさる》二十一|日《にち》、二|日《か》、秋月衆《あきづきしゆう》は、立花表《たちばなおもて》へ陣替《ぢんがへ》たるべく候《さふらふ》。其《そ》の陣所《ぢんしよ》など被[#二]見合[#一]《みあはされ》、此方軍衆之事《こなたぐんしゆうのこと》は、今日《こんにち》(二十四日)[#「(二十四日)」は1段階小さな文字]明日《みやうにち》より打立《うちたち》、歸陣可[#レ]有[#レ]之候由也《きぢんこれあるべくさふらふよしなり》。〔上井覺兼日記〕[#「〔上井覺兼日記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
島津勢《しまづぜい》は、宗茂《むねしげ》の斷乎《だんこ》たる返事《へんじ》に、其《そ》の軍《ぐん》を回《かへ》し、秋月《あきづき》其他《そのた》與國《よこく》の兵《へい》をして、其後《そのうしろ》を防《ふせ》がしめた。上井覺兼《かもゐかくけん》は、島津氏《しまづし》の將帥《しやうすゐ》にて、日向《ひふが》の諸地頭《しよぢとう》を率《ひき》ゐ、高橋紹運《たかはしせううん》の岩屋城《いはやじやう》の攻圍軍《こうゐぐん》に參加《さんか》したる一|人《にん》である。されば其《そ》の記事《きじ》の島津側《しまづがは》に偏《へん》するは、當然《たうぜん》であるが、然《しか》も其《そ》の所記《しよき》此《かく》の如《ごと》きを見《み》れば、薩軍《さつぐん》が戰《たゝか》はずして退《しりぞ》きたる事情《じじやう》、以《もつ》て知《し》る可《べ》きではない乎《か》。
されば立齊舊聞記《りつさいきうぶんき》に、
[#ここから1字下げ]
一|度《ど》ならず、兩度迄《りやうどまで》手《て》を替《か》へて、扱《あつか》ひたれども、中々《なか/\》返答《へんたう》に及《およ》ばず。島津方《しまづがた》も今《いま》は責滅《せめほろ》ぼすより外《ほか》はあらざれども、大暑《たいしよ》の折柄《をりから》、永陣《ながぢん》に士卒《しそつ》疲《つか》れ、其《そ》の上《うへ》岩屋《いはや》にて宗徒《むねと》の勇士《ゆうし》二十七|人《にん》討死《うちじに》し、殘《のこ》る兵《へい》も多《おほ》く手負《ておひ》なりければ。此《こ》の勞兵《らうへい》を以《もつ》て、堅城《けんじやう》に攻蒐《せめかゝ》らば、軍兵《ぐんぴやう》大半《たいはん》討《うた》るべし。城《しろ》をも得落《えおと》さず、※[#「(來+攵)/心」、第4水準2-12-72]《なまじ》ひなる事《こと》を仕出《しいだ》し、夜《よ》に紛《まぎ》れ引《ひか》んより、只今《たゞいま》引取《ひきと》る可《べ》しとて、近所《きんじよ》の在所《ざいしよ》に火《ひ》を掛《か》け、天正《てんしやう》十四|年《ねん》八|月《ぐわつ》廿四|日《か》に、陣《ぢん》を拂《はらつ》て引退《ひきしりぞ》く。是《こ》れ偏《ひとへ》に紹運《せううん》岩屋《いはや》の城《しろ》にて粉骨《ふんこつ》を盡《つく》されし故《ゆゑ》、今《いま》立花《たちばな》の助《たすけ》とは成《な》りにける。
[#ここで字下げ終わり]
と記《しる》したるは、事理分明《じりぶんみやう》、以《もつ》て上井覺兼日記《かもゐかくけんにつき》の註脚《ちゆうきやく》と見《み》て、差支《さしつかへ》あるまい。
宗茂《むねしげ》は寄手《よせて》の去《さ》るや、否《いな》や、直《たゞ》ちに之《これ》を追撃《つゐげき》した。而《しか》して翌《よく》八|月《ぐわつ》廿五|日《にち》は、不意《ふい》に高鳥居城《たかとりゐじやう》に押《お》し寄《よ》せ、星野兄弟《ほしのきやうだい》を討取《うちと》つた。秀吉《ひでよし》は九|月《ぐわつ》十|日附《かづけ》を以《もつ》て、
[#ここから1字下げ]
去《さる》廿四|日《か》(天正十四年八月)[#「(天正十四年八月)」は1段階小さな文字]敵引退候刻《てきひきのきさふらふこく》、足輕《あしがる》を相付《あひつけ》、數多討捕儀《あまたうちとるぎ》、手柄之上《てがらのうへ》に、重而高鳥居東西責破《かさねてたかとりゐのとうざいをせめやぶり》、城主星野中務大輔《じやうしゆほしのなかつかさたいう》(鎭胤)[#「(鎭胤)」は1段階小さな文字]同民部小輔《どうみんぶせういう》(鎭元)[#「(鎭元)」は1段階小さな文字]を初《はじめ》、其外不[#レ]殘數《そのほかのこらずす》百|人打捕《にんうちとり》、首之注文到來《くびのちゆうもんたうらい》、誠粉骨之段《まことにふんこつのだん》、中々不[#レ]及[#レ]申候《なか/\まをすにおよばずさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
との感状《かんじやう》を、宗茂《むねしげ》に與《あた》へ、尚《な》ほ、
[#ここから1字下げ]
是以後者《このいごは》、聊爾《れうじ》なる働之儀《はたらきのぎ》、可[#レ]爲[#二]無用[#一]候《むようたるべくさふらふ》。人數追々差遣《にんずおひ/\さしつかはし》、其上輝元《そのうへてるもと》(毛利)[#「(毛利)」は1段階小さな文字]元春《もとはる》(吉川)[#「(吉川)」は1段階小さな文字]隆景《たかかげ》(小早川)[#「(小早川)」は1段階小さな文字]兩《りやう》三|人《にん》一|左右次第《さうしだい》、殿下《でんか》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]にも被[#二]出馬[#一]《しゆつばせられ》、九|州逆徒等《しうぎやくとら》、悉可[#レ]被[#レ]刎[#レ]首候之條《こと/″\くくびをはねらるべくさふらふでう》、得[#二]其意[#一]尤候《そのいをうるもつともにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
との訓示《くんじ》、獎勵《しやうれい》を與《あた》へて居《を》る。
要《えう》するに紹運《せううん》、宗茂《むねしげ》の父子《ふし》は、一|死《し》、一|生《せい》、其跡《そのあと》同《おな》じからざるも、秀吉《ひでよし》の爲《ため》に、九|州《しう》の大局《たいきよく》を支持《しぢ》したる勳功《くんこう》に至《いた》りては、則《すなは》ち其揆《そのき》を一にするものと云《い》はねばならぬ。
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