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高島秀彰、入力 [#4字下げ][#大見出し]第十二章 秀吉征西の發端[#大見出し終わり] 秀吉《ひでよし》は上國《じやうこく》に居《ゐ》つゝも、特《とく》に眼《め》を九|州《しう》に注《そゝ》いだ。彼《かれ》は大友《おほとも》とは、信長《のぶなが》以來《いらい》の交通《かうつう》を繼續《けいぞく》した。島津《しまづ》には其《そ》の見張《みはり》を嚴《げん》にした。彼《かれ》は天正《てんしやう》十一|年《ねん》六|月《ぐわつ》六|日附《かづ》けの答書《たふしよ》にて、大友宗麟《おほともそうりん》に向《むか》ひ、『東國者氏直《とうごくはうぢなほ》、北國者景勝迄《ほくこくはかげかつまで》、筑前《ちくぜん》(秀吉)[#「(秀吉)」は1段階小さな文字]任[#二]覺悟[#一]候《かくごにまかせさふら》へば、東西可[#レ]屬[#二]靜謐[#一]候《とうざいせいひつにぞくすべくさふらふ》。』と云《い》ひ、又《ま》た『信長御時被[#二]仰談[#一]《のぶながのおんときおほせだんぜらるゝ》、以[#二]筋目[#一]《すぢめをもつて》、彌御入魂之旨尤《いよ/\ごじゆこんのむねもつとも》に候《さふらふ》。』と挨拶《あいさつ》して居《を》る。〔武家事紀〕[#「〔武家事紀〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は天正《てんしやう》十二|年《ねん》の頃《ころ》、仙石秀久《せんごくひでひさ》をして、竊《ひそ》かに九|州《しう》を巡遊《じゆんいう》せしめ、肥薩《ひさつ》の境《さかひ》に滯在《たいざい》して、薩摩《さつま》の事情《じじやう》を偵察《ていさつ》せしめて居《を》る。〔仙石家譜〕[#「〔仙石家譜〕」は1段階小さな文字] 秀吉《ひでよし》が島津《しまづ》を知《し》る※[#「こと」の合字、209-9]は、島津《しまづ》が秀吉《ひでよし》を知《し》るよりも、精《せい》且《か》つ確《かく》であつた。而《しか》して彼《かれ》は本願寺《ほんぐわんじ》顯如上人《けんによしやうにん》をも、島津《しまづ》征服《せいふく》の方便《はうべん》に利用《りよう》した。即《すなは》ち上人《しやうにん》は教化《けうか》の爲《た》めと稱《しよう》して、薩摩《さつま》に下向《げかう》し、獅子島《ししじま》の道場《だうぢやう》に留《とゞま》り、上人《じやうにん》の門弟《もんてい》と稱《しよう》して、秀吉《ひでよし》特派《とくは》の若干《じやくかん》の密偵等《みつていら》は、薩摩《さつま》内地《ないち》を往來《わうらい》した。〔豐臣鎭西記〕[#「〔豐臣鎭西記〕」は1段階小さな文字] 仙石《せんごく》、及《およ》び顯如《けんによ》の下向《げかう》は、兩説《りやうせつ》とも疑《うたが》ふ可《べ》き筋《すぢ》なきではないが、兎《と》も角《かく》も秀吉《ひでよし》の用意《ようい》は周到《しうたう》であつたに相違《さうゐ》ない。彼《かれ》は敵情偵察《てきじやうていさつ》に於《おい》て、遺憾《ゐかん》なきに庶幾《ちか》かつた。其《そ》の證據《しやうこ》は、軈《やが》て彼《かれ》が九|州《しう》征伐《せいばつ》の際《さい》に分明《ぶんみやう》である。 秀吉《ひでよし》の目的《もくてき》は、九|州《しう》征服《せいふく》である。若《も》し軟取《なんしゆ》し得可《うべ》くんば、之《これ》を軟取《なんしゆ》し、硬取《かうしゆ》の已《や》む可《べ》からずんば、硬取《かうしゆ》するに遲疑《ちぎ》せぬ覺悟《かくご》だ。されば彼《かれ》は天正《てんしやう》十二|年《ねん》、大友《おほとも》より出兵《しゆつぺい》の請求《せいきう》ありしに拘《かゝは》らず、先《ま》づ大義名分《たいぎめいぶん》を以《もつ》て、島津義久《しまづよしひさ》を諭《さと》した。是《こ》れは十三|年《ねん》十|月《ぐわつ》二|日附《かづけ》で、其《そ》の文句《もんく》は、左《さ》の通《とほ》り堂々《だう/\》たるものであつた。 [#ここから1字下げ] 就[#二]勅諚[#一]染[#レ]筆候《ちよくぢやうについてふでをそめさふらふ》。仍關東不[#レ]殘奧州果迄任[#二]綸命[#一]《さてくわんとうはのこらずあうしうはてまでりんめいにまかせ》、天下靜謐之處《てんかせいひつのところ》。九|州事《しうこと》、于[#レ]今鉾楯之儀《いまにむじゆんのぎ》、不[#レ]可[#レ]然候條《しかるべからずさふらふでう》、國郡境目相論《くにごほりさかひめあひろんじ》、互之存分之儀者《たがひのぞんぶんのぎは》、被[#二]聞召屆[#一]《きこしめしとゞけられ》、追而可[#レ]被[#二]仰出[#一]候《おつておほせいださるべくさふらふ》。先敵味方双方共《まづてきみかたさうはうとも》、可[#レ]相[#二]止弓箭[#一]旨《ゆみやをあひとゞむべきむね》、叡慮候《えいりよにさふらふ》。可[#レ]被[#レ]得[#二]其意[#一]儀尤候《そのいをえらるべきぎもつともにさふらふ》。自然不[#レ]被[#レ]守[#二]此旨[#一]候者《しぜんこのむねをまもられずさふらはゞ》、急度可[#レ]被[#レ]成[#二]御成敗[#一]候之間《きつとごせいばいなさるべくさふらふのあひだ》、此返答各爲《このへんたふおの/\のため》に者《は》一|大事之儀候《だいじのぎにさふらふ》。有[#二]分別[#一]可[#レ]被[#二]言上[#一]候也《ふんべつあつてごんじやうせらるべくさふらふなり》。〔上井覺兼日記〕[#「〔上井覺兼日記〕」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 秀吉《ひでよし》は更《さ》らに義久《よしひさ》と交誼《かうぎ》ある細川幽齊《ほそかはいうさい》、千利休《せんのりきう》をして、其《そ》の國老《こくらう》伊集院忠棟《いじふゐんたゞむね》に一|書《しよ》を與《あた》へ、前書《ぜんしよ》の主旨《しゆし》を布衍《ふえん》せしめた。 然《しか》も島津《しまづ》の一|類《るゐ》は、不幸《ふかう》にも、秀吉《ひでよし》の何人《なんびと》たるを、會得《ゑとく》[#ルビの「ゑとく」は底本では「ゑゑとく」]しなかつた。彼等《かれら》[#ルビの「かれら」は底本では「かれらあ」]は秀吉《ひでよし》の書《しよ》を以《もつ》て、大言《たいげん》他《た》を欺《あざむ》くものとなし、毫《がう》も顧慮《こりよ》する所《ところ》なく、愈《いよい》よ大擧《たいきよ》して、大友氏《おほともし》を侵《をか》すの策《さく》を決《けつ》した。義久《よしひさ》は爲《た》めに分國《ぶんこく》の諸領主《しよりやうしゆ》をして、秀吉《ひでよし》と一|切《さい》交通《かうつう》せざる可《べ》しとの、盟書《めいしよ》を致《いた》さしめた。而《しか》して秀吉《ひでよし》に與《あた》ふ可《べ》き答書《たふしよ》に就《つい》て、評定《ひやうぢやう》した。 或《あるひ》は曰《いは》く、秀吉《ひでよし》關白《くわんぱく》たるも、其《そ》の素性《すじやう》微賤《びせん》也《なり》。以《もつ》て對手《あひて》と爲《な》す可《べ》からず、或《あるひ》は曰《いは》く、微賤《びせん》なるも、關白《くわんぱく》也《なり》、其《そ》の職《しよく》に對《たい》して、相當《さうたう》の應接《おうせつ》を要《えう》すと。衆論《しゆうろん》決《けつ》せず、却《かへつ》て細川幽齊《ほそかはいうさい》に、其《そ》の答書《たひしよ》を與《あた》ふることゝした。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]斯《かゝ》る評定《ひやうぢやう》に就《つい》て見《み》るも、如何《いか》に島津《しまづ》の一|統《とう》が、天下《てんか》の大勢《たいせい》に於《おい》て、※[#「耳+貴」、第4水準2-85-14]々《くわい/\》であつたかゞ|判知《わか》る。然《しか》も其《そ》の答書《たふしよ》は、流石《さすが》に辭令《じれい》の妙《めう》を極《きは》めて居《ゐ》る。 [#ここから1字下げ] 抑依[#レ]令[#二]天下一統靜謐[#一]《そも/\てんかをしていつとうにせいひつならしむるによつて》、從[#二]關白殿[#一]九州之鉾楯可[#二]停止[#一]之段《くわんぱくどのよりきうしうのむじゆんちやうじすべきのだん》、殊更綸言相加候歟《ことさらりんげんあひくはゝりさふらふか》。則屡勅命候《すなはちしば/″\ちよくめいさふらふ》。隨而先年以[#二]信長公才覺[#一]《したがつてせんねんのぶながこうさいかくをもつて》、大御所樣《おほごしよさま》(近衞前久)[#「(近衞前久)」は1段階小さな文字]被[#二]仰刷[#一]《おおせつくろはれ》、豊薩和平之姿罷成候以來《ほうさつわへいのすがたとまかりなりさふらふいらい》、聊無[#二]隔心[#一]之處《いささかかくしんなきのところ》、從[#レ]豊者《ほうよりは》、度々愀變雖[#レ]有[#レ]之《たび/\しうへんこれありといへども》、守[#二]右一諾之筋[#一]《みぎいちだくのすぢをまもり》、于[#レ]今無[#二]干戈之催[#一]候《いまにかんくわのもよほしなくさふらふ》。然處頃至[#二]向肥之國境[#一]《しかるところこのごろかうひのくにざかひにいたり》、數《すう》ヶ|所被[#レ]致[#二]破※[#「土へん+敦」、第3水準1-15-63][#一]候《しよはかくいたされさふらふ》。如[#レ]此彌於[#レ]被[#二]執懸[#一]者《かくのごとくいよ/\とりかゝらるゝにおいては》、自今以後之儀《じこんいごのぎ》、難[#レ]測候《はかりがたくさふらふ》。必竟可[#レ]及[#二]相應之防戰[#一]候哉《ひつきやうさうおうのばうせんにおよぶべくさふらふや》。少《すこし》も不[#レ]可[#レ]爲[#二]當邦之改易[#一]候《たうはうのかいえきたるべからずさふらふ》。以[#二]此旨[#一]被[#レ]成[#二]御用捨[#一]《このむねをもつてごようしやなされ》、宜[#レ]預[#二]御披露[#一]候《よろしくごひろうにあづかるべくさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》 [#ここから3字下げ] 正月十一日(天正十四年)[#「(天正十四年)」は1段階小さな文字] [#ここで字下げ終わり] 義久《よしひさ》は此書《このしよ》を鎌田政廣《かまだまさひろ》、僧《そう》玄昌《げんしやう》に携帶《けいたい》せしめて、其意《そのい》を致《いた》さしめた。玄昌《げんしやう》は、桂菴和尚《けいあんをしやう》の第《だい》四|世《せ》の法嗣《ほふし》、文之和尚《ぶんしをしやう》の事《こと》だ。 強者《きやうしや》に辭柄《じへい》なきを憂《うれ》へず。島津方《しまづがた》では、豐薩《ほうさつ》平和《へいわ》の破壞《はくわい》に關《かん》する一|切《さい》の責任《せきにん》を、大友《おほとも》に嫁《か》し、我《われ》は正當防衞上《せいたうばうゑいじやう》、餘儀《よぎ》なく干戈《かんくわ》を取《と》ると強辯《きやうべん》した。固《もと》より龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》の島原《しまばら》討死《うちじに》を奇貨《きくわ》として、大友氏《おほともし》の武將等《ぶしやうら》が、兵《へい》を筑後《ちくご》に出《いだ》した事《こと》は、事實《じじつ》である。併《しか》し此《こ》れは直接《ちよくせつ》島津氏《しまづし》に戰《たゝかひ》を挑《いど》んだのではなく、云《い》はゞ|大友氏《おほともし》の舊勢圜《きうせいくわん》を、恢復《くわいふく》せんとするに過《す》ぎなかつたのだ。何《いづ》れにもせよ、島津《しまづ》は強《つよ》く、大友《おほとも》は弱《よわ》く、島津《しまづ》は攻《せ》め、大友《おほとも》は守《まも》る。而《しか》して其《そ》の防守《ばうしゆ》さへ克《あた》はず、天正《てんしやう》十四|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、大友宗麟《おほともそうりん》─|當時《たうじ》宗滴《そうてき》と改稱《かいしよう》した─|自《みづか》ら大阪《おほさか》に抵《いた》り、秀吉《ひでよし》に謁《えつ》して、其《そ》の親征《しんせい》を請《こ》うた。秀吉《ひでよし》の九|州征伐《しうせいばつ》の期《き》は、歩《ほ》一|歩《ぽ》づゝ|熟《じゆく》して來《き》た。 [#改ページ]
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