第十一章 島津龍造寺の對抗
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十一章 島津龍造寺の對抗[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【三九】龍造寺と有馬[#中見出し終わり]

義久《よしひさ》は果《はた》して信長《のぶなが》、及《およ》び前久《さきひさ》の言《げん》を聞《き》きたる乎《か》、否乎《いなか》。彼《かれ》は天正《てんしやう》九|年《ねん》六|月《ぐわつ》二十八|日附《にちづ》けを以《もつ》て、前久《さきひさ》の執事《しつじ》伊勢貞知《いせさだとも》に書《しよ》を與《あた》へて、上樣《うへさま》御朱印《ごしゆいん》の趣《おもむき》き、委細《ゐさい》敬承《けいしよう》す。猶《な》ほ御家門樣《ごかもんさま》の調護《てうご》を祈《いの》るとの意味《いみ》を答《こた》へた。上樣《うへさま》とは信長《のぶなが》、御家門樣《ごかもんさま》とは、前久《さきひさ》の事《こと》である。
然《しか》も島津《しまづ》は豐後方面《ぶんごはうめん》に向《むか》つて、兵《へい》を出《いだ》す※[#「こと」の合字、185-7]を中止《ちうし》したのみで、肥後方面《ひごはうめん》には、盛《さか》んに活動《くわつどう》した。而《しか》して其《そ》の結果《けつくわ》は、龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》との衝突《しようとつ》となつた。斯《か》くて天正《てんしやう》十|年《ねん》信長《のぶなが》の死《し》は、再《ふたゝ》び島津氏《しまづし》をして大友氏《おほともし》と絶《た》ち、龍造寺氏《りゆうざうじし》と結《むす》ばしめた。
當時《たうじ》大友氏《おほともし》の勢圜《せいくわん》にありたる兩筑《りやうちく》、兩豐《りやうほう》、兩肥《りやうひ》の諸豪《しよがう》は、朝《あした》に龍造寺《りゆうざうじ》に與《くみ》し、夕《ゆうべ》に島津《しまづ》に與《くみ》し、恒《つね》に形勢《けいせい》を歡望《くわんばう》した。然《しか》も龍造寺《りゆうざうじ》は武略《ぶりやく》、權詐《けんさ》、兩《ふたつ》ながら能《よ》く用《もち》ひ、或《あるひ》は兩筑《りやうちく》に、或《あるひ》は兩肥《りやうひ》に、其《そ》の領土《りやうど》を擴《ひろ》げ、其《そ》の勢力《せいりよく》、居然《きよぜん》たる一|霸國《はこく》となつた。
特《とく》に龍造寺《りゆうざうじ》の幕下《ばくか》には、鍋島直茂《なべしまなほしげ》の如《ごと》き策士《さくし》もあつた。彼《かれ》は嚮《さき》に毛利氏《まうりし》と通《つう》じて、大友氏《おほともし》に當《あた》る可《べ》く計企《けいき》し、更《さ》らに毛利氏《まうりし》に由《よ》りて、足利義昭《あしかゞよしあき》に通《つう》じ、元龜《げんき》二|年《ねん》義昭《よしあき》より龍造寺氏《りゆうざうじし》に、鎭西《ちんぜい》追討《つゐたう》の内旨《ないし》を申《まを》し受《う》けた。天正《てんしやう》十|年《ねん》信長《のぶなが》の死《し》するや、天下《てんか》の必《かなら》ず秀吉《ひでよし》に歸《き》す可《べ》きを察《さつ》し、先《ま》づ音信《おんしん》を秀吉《ひでよし》に通《つう》じた。此《こ》れが鎭西《ちんぜい》の大名《だいみやう》より秀吉《ひでよし》に音信《おんしん》したる、嚆矢《かうし》であつたれば、秀吉《ひでよし》の驩心《くわんしん》を博《はく》したのは、勿論《もちろん》であつた。
龍造寺《りゆうざうじ》と島津《しまづ》とは、其《そ》の勢《いきほひ》兩立《りやうりつ》し難《がた》くなつた。彼等《かれら》は肥後《ひご》、及《およ》び肥前《ひぜん》の一|部《ぶ》に於《おい》て、幾度《いくたび》か相《あひ》戰《たゝか》うた。時《とき》としては、有明《ありあけ》洋上《やうじやう》にて、水戰《すゐせん》をも交《まじ》へた。島津義久《しまづよしひさ》は、天正《てんしやう》十一|年《ねん》十|月《ぐわつ》、筑前《ちくぜん》の秋月種實《あきづきたねざね》の口入《くにふ》により、寧《むし》ろ此際《このさい》大友氏《おほともし》と絶《た》つて、龍造寺《りゆうざうじ》と結《むす》ぶ可《べ》しとの議《ぎ》に任《まか》せ、戌兵《じゆへい》を置《お》きて、軍《ぐん》を旋《かへ》したに拘《かゝは》らず、然《しか》も其《そ》の翌年《よくねん》三|月《ぐわつ》に、又《ま》た破裂《はれつ》した。そは有馬晴信《ありまはるのぶ》が其《そ》の救《すくひ》を、島津氏《しまづし》に乞《こ》うたからである。
有馬氏《ありまし》は藤原純友《ふぢはらすみとも》の末葉《ばつえふ》にて、數代《すだい》肥前高來郡《ひぜんたかきごほり》を領《りやう》し、有馬城《ありまじやう》に住《ぢゆう》した。天正《てんしやう》の初期《しよき》には、有馬義直《ありまよしなほ》、大友宗麟《おほともそうりん》に志《こゞろざし》を通《つう》じ、同國《どうこく》の千葉胤連《ちばたねつら》を討《う》ち、小城郡《をぎごほり》を併《あは》せんとしたが、龍造寺氏隆家《りゆうざうじたかいへ》千葉《ちば》を助《たす》けたれば、有馬《ありま》は一|戰《せん》にて敗北《はいぼく》し、爾來《じらい》龍造寺《りゆうざうじ》は榮《さか》え、有馬《ありま》は衰《おとろ》へ、漸《やうや》く高來《たかき》一|郡《ぐん》の舊領《きうりやう》を、把持《はぢ》する迄《まで》となつた。而《しか》して義直《よしなほ》は、其《そ》の嫡子《ちやくし》義純《よしずみ》の女《むすめ》を、隆信《たかのぶ》の子《こ》政家《まさいへ》に娶《めあは》せ、暫《しば》らく仲直《なかなほ》りの姿《すがた》となつた。
然《しか》も義直《よしなほ》の二|男《なん》、晴信《はるのぶ》の時《とき》に至《いた》りて、又《ま》た龍造寺氏《りゆうざうじし》と相《あひ》鬩《せめ》いだ。隆信《たかのぶ》は其《そ》の二|男《なん》江上家種《えがみいへたね》を大將《たいしやう》として、之《これ》を討伐《たうばつ》せしめた。十|年《ねん》十一|月《ぐわつ》島津氏《しまづし》は、川上久隅《かはかみひさずみ》をして有馬《ありま》に赴《おもむ》き、晴信《はるのぶ》を援《たす》けしめた。
有馬氏《ありまし》は豐後《ぶんご》の大友氏《おほともし》、肥前《ひぜん》の大村氏《おほむらし》と與《とも》に、九|州《しう》に於《お》ける切支丹大名《きりしたんだいみやう》の其《そ》の一であつた。而《しか》して大村純忠《おほむらすみたゞ》は、有馬晴純入道仙岩《ありまはるずみにふだうせんがん》の第《だい》二|子《し》であつて、有馬晴信《ありまはるのぶ》の父《ちゝ》義直《よしなほ》の弟《おとうと》であつた。純忠《すみたゞ》は蚤《つと》に耶蘇教《やそけふ》を信《しん》じ、外國貿易《ぐわいこくぼうえき》の利《り》を占《し》めたれば、義直《よしなほ》も亦《ま》た之《これ》に倣《なら》ひ、其《そ》の領内《りやうない》の口《くち》ノ|津《つ》を開港場《かいかうぢやう》となし、耶蘇教《やそけう》を保護《ほご》した。爾後《じご》外船《ぐわいはく》の口《くち》ノ|津《つ》に來《きた》らぬを見《み》て、純忠《すみただ》の故《ことさ》らに妨害《ばうがい》したものと認《みと》め、純忠《すみただ》と隙《げき》を構《かま》へたが、後《のち》に悟《さと》る所《ところ》あり、天正《てんしやう》四|年《ねん》の春《はる》には、自《みづか》ら改宗《かいしゆう》して信徒《しんと》となり、大《おほい》に領内《りやうない》の民《たみ》を導《みちび》いた。されば同年《どうねん》の冬《ふゆ》、彼《かれ》が死《し》するや、既《すで》に二萬|人《にん》の信徒《しんと》が出來《でき》た。彼《かれ》の長子《ちやうし》義純《よしずみ》は、元龜《げんき》二|年《ねん》に死《し》したから、二|男《なん》晴信《はるのぶ》が其《そ》の跡目《あとめ》を繼《つ》いだ。
晴信《はるのぶ》は當初《たうしよ》父《ちゝ》に反《はん》して、耶蘇教《やそけう》を忌《い》み、宣教師《せんけうし》を追放《つゐはう》せんと試《こゝろ》みたが。遂《つひ》に師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]に勸《すゝ》められ、天正《てんしやう》七|年《ねん》彼《かれ》が二十|歳《さい》の頃《ころ》に、熱心《ねつしん》なる信徒《しんと》となり其《そ》の夫人《ふじん》と共《とも》に受洗《じゆせん》した。
抑《そもそ》も彼《かれ》が受洗《じゆせん》の動機《どうき》は、左《さ》の如《ごと》くであつた。當時《たうじ》龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》は、兵力《へいりよく》を以《もつ》て、彼《かれ》の境内《けいない》に迫《せま》つた。彼《かれ》は師父《しふ》ワリニヤーニ[#「ワリニヤーニ」に傍線]に請《こ》うて、以《もつ》て龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》に説《と》き、其《そ》の兵《へい》を退《しりぞ》けんとした。師父《しふ》は數日《すじつ》其《そ》の期《き》を延《のば》した。晴信《はるのぶ》は師父《しふ》の發程《はつてい》に先《さきだ》ち、受洗《じゆせん》を希望《きばう》した。師父《しふ》は欣諾《きんだく》して之《これ》を伴《ともな》ひ、直《たゞ》ちに隆信《たかのぶ》に至《いた》り、講和《かうわ》に斡旋《あつせん》した。隆信《たかのぶ》は其《そ》の言《げん》を聽《き》き、乃《すなは》ち鋒《ほこ》を轉《てん》じて肥後《ひご》に赴《おもむ》いた。師父《しふ》は此《かく》の如《ごと》く、有馬晴信《ありまはるのぶ》に、其《そ》の現世的《げんせいてき》利益《りえき》を與《あた》へた。晴信《はるのぶ》は之《これ》を感荷《かんか》し、爾後《じご》師父《しふ》の言《げん》を容《い》れて、有馬《ありま》に耶蘇會《ゼスイツト》の學校《がくかう》を設立《せつりつ》した。此《こ》の學校《がくかう》は、信長《のぶなが》が安土《あづち》に設立《せつりつ》を許可《きよか》したる學校《がくかう》と、東西《とうざい》相對《あひたい》する、耶蘇教文化《やそけうぶんくわ》の中止點《ちうしんてん》となつた。而《しか》して有馬《ありま》の學校《がくかう》は、安土《あづち》に比《ひ》すれば、其《そ》の勢力《せいりよく》、感化《かんくわ》、久《ひさ》しく且《か》つ遠《とほ》きものがあつた。
然《しか》も龍造寺《りゆうざうじ》の侵略《しんりやく》は、頻年《ひんねん》熄《や》まなかつた。而《しか》して龍造寺《りゆうざうじ》は、耶蘇教《やそけう》反對《はんたい》であつて、其《そ》の勝利《しようり》は、耶蘇教《やそけう》の迫害《はくがい》を意味《いみ》した。されば耶蘇會《ゼスイツト》師父等《しふら》は、極力《きよくりよく》[#ルビの「きよくりよく」は底本では「ごくくりよく」]晴信《はるのぶ》に向《むか》つて、龍造寺《りゆうざうじ》に降《くだ》るなからん※[#「こと」の合字、189-8]を勸《すゝ》め、其《そ》の志《こゝろざし》を鞏《かた》うし、其《そ》の心《こゝろ》を勵《はげま》す可《べ》く、羅馬法王《ろーまほふわう》より、特《とく》に日本切支丹大名《にほんきりしたんだいみやう》への賜物《たまもと》として、贈《おく》られたる、黄金《わうごん》、及《およ》び七|寳《はう》にて作《つく》りたる整骨匣《せいこつばこ》を彼《かれ》に呈《てい》した。されど整骨《せいこつ》の威靈《ゐれい》も、龍造寺《りゆうざうじ》の攻撃《こうげき》には、多《おほ》くの効果《かうくわ》を與《あた》へなかつた。此《こゝ》に於《おい》て晴信《はるのぶ》は、又《ま》たしも異教徒《いけうと》の魁《くわい》たる、島津義久《しまづよしひさ》に向《くか》つて、其《そ》の援兵《ゑんぺい》を請《こ》うた。

[#5字下げ][#中見出し]【四〇】島津、龍造寺の爭霸戰(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》は、天正《てんしやう》十二|年《ねん》の春《はる》、其《そ》の嫡男《ちやくなん》政家《まさいへ》を大將《たいしやう》として、有馬城《ありまじやう》を攻《せ》めしめたが、有馬晴信《ありまはるのぶ》は、何《なに》か自《みづか》ら恃《たの》む所《ところ》あるものゝ|如《ごと》く、堅守《けんしゆ》して降《くだ》らなかつた。隆信《たかのぶ》は之《これ》を見《み》て、罵《のゝしつ》て曰《いは》く、汝《なんぢ》は婦家《ふか》─|正家《まさいへ》の妻《つま》は、有馬義純《ありまよしずみ》の女《むすめ》である─の爲《た》めに、攻撃《こうげき》を緩慢《くわんまん》にする乎《か》。いざ乃公《だいこう》親《みづ》から征《せい》せむ。肥《ひ》、豐《ほう》、筑《ちく》三|前國人《ぜんこくじん》は、皆《み》な師《いくさ》に有馬《ありま》に從《したが》へ。其《そ》の他《た》は直《たゞ》ちに薩摩《さつま》に打《う》ち入《い》り、我《わ》が來《きた》るを竢《ま》てと※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]言《やうげん》した。當時《たうじ》隆信《たかのぶ》に疎外《そぐわい》せられて、柳川《やながは》を守《まも》りたる鍋島直茂《なべしまなほしげ》は、有馬《ありま》出師《すゐし》の不可《すか》を説《と》き、自《みづか》ら隆信《たかのぶ》に代《かは》りて往《ゆ》かむと云《い》うたが、隆信《たかのぶ》は意氣昂揚《いきかうやう》、遂《つひ》に之《これ》に耳《みゝ》を假《か》さなかつた。隆信《たかのぶ》は決《けつ》して薩兵《さつぺい》を怖《おそ》れなかつた。彼《かれ》は先年《せんねん》薩人《さつじん》が、有馬《ありま》の援兵《ゑんぺい》として、肥前《ひぜん》の安徳《あんとく》に入《い》りたる時《とき》に、之《これ》を撃退《げきたい》したる、愉快《ゆくわい》なる經驗《けいけん》を有《も》つて居《ゐ》た。
島津義久《しまづよしひさ》は、有馬晴信《ありまはるのぶ》の求援《きうゑん》を、快諾《くわいだく》した。彼《かれ》は到底《たうてい》龍造寺《りゆうざうじ》に一|撃《げき》を加《くは》へねば、鎭西《ちんぜい》の盟主《めいしゆ》たる能《あた》はぬ事《こと》を、克《よ》く知《し》つて居《ゐ》た。されば義久《よしひさ》自《みづか》ら肥後《ひご》の佐敷迄《さじきまで》出張《しゆつちやう》し、此處《ここ》を策源地《さくげんち》とした。其《そ》の弟《おとうと》義弘《よしひろ》も亦《ま》た來《きた》り會《くわい》し、其《そ》の附庸《ふよう》たる人吉《ひとよし》の相良忠房《さがらたゞふさ》─|相良義陽《さがらよしひ》の子《こ》─も亦《ま》た來《きた》り見《まみ》えた。斯《か》くて義久《よしひさ》は、其《そ》の末弟《ばつてい》家久《いへひさ》を主將《しゆしやう》として、島津彰久《しまづあきひさ》─|同忠長《どうたゞなが》、平田光家《ひらたみついへ》、新納忠元《にひろたゞもと》、川上久隅《かはかみひさずみ》、同忠智《どうたゞとも》、同忠堅等《どうたゞかたら》をして、海《うみ》を渡《わた》りて、島原《しまばら》に向《むか》はしめた。貴久《たかひさ》には四|人《にん》の男子《だんし》があつた。義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》、歳久《としひさ》の三|人《にん》は同腹《どうふく》であつた。最後《さいご》の家久《いへひさ》のみは、庶子《しよし》であつたが、其《そ》の勇猛《ゆうまう》に於《おい》ては、兄弟《きやうだい》の中《うち》に於《おい》て、更《さ》らに傑出《けつしゆつ》であつた。彼《かれ》は實《じつ》に、島津氏《しまづし》對《たい》龍造寺氏《りゆうざうじし》の運命《うんめい》を定《さだ》む可《べ》き、鍵《かぎ》の持主《もちぬし》であつた。
薩摩《さつま》の謀臣《ぼうしん》、勇士《ゆうし》の中《なか》には、寧《むし》ろ隆信《たかのぶ》島原陣《しまばらぢん》の虚《きよ》に乘《じよう》じて、肥後《ひご》より攻《せ》め入《い》らんとの議《ぎ》もあつたが、家久《いへひさ》は斷乎《だんこ》として之《これ》に反《はん》し、自《みづか》ら責任者《せきにんしや》となり、部下《ぶか》の義勇兵《ぎゆうへい》を率《ひき》ゐて、之《これ》に赴《おもむ》いたと云《い》ふ説《せつ》もある。〔ムルドツク日本近世史〕[#「〔ムルドツク日本近世史〕」は1段階小さな文字]然《しか》も吾人《ごじん》は、島原《しまばら》に於《おい》て、隆信《たかのぶ》と、一|擧《きよ》に雌雄《しゆう》を決《けつ》せんとしたるは、島津氏《しまづし》の廟算《べうさん》であつたと信《しん》ずる。即《すなは》ち此《こ》の戰爭《せんさう》は、家久《いへひさ》一|個《こ》の戰爭《せんさう》でなく、島津氏《しまづし》全體《ぜんたい》の戰爭《せんさう》であり、且《か》つ其名《そのな》は有馬氏《ありまし》を扶《たす》くと云《い》ふも、其實《そのじつ》は島津《しまづ》對《たい》龍造寺《りゆうざうじ》の、爭霸戰《さうはせん》であつたと信《しん》ずる。
今《いま》試《こゝろ》みに、宣教師側《せんけうしがは》の記事《きじ》によりて、此《こ》の戰爭《せんさう》を語《かた》れば、概《がい》して左《さ》の如《ごと》し。四|月《ぐわつ》廿四|日《か》(即ち我が三月廿四日)[#「(即ち我が三月廿四日)」は1段階小さな文字]薩摩勢《さつまぜい》は、島原《しまばら》の前面《ぜんめん》の高地《かうち》に屯《たむろ》し、更《さ》らに後著《ごちやく》の兵《へい》を待《ま》ち、而《しか》して後《のち》龍造寺勢《りゆうざうじぜい》の據守《きよしゆ》する、島原城《しまばらじやう》を攻《せ》めんとした。然《しか》るに龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》は、卒然《そつぜん》大兵《たいへい》を率《ひき》ゐて出《い》で來《きた》つた。其《そ》の數《すう》二|萬《まん》五千、其中《そのなか》の九千|人《にん》は、銃《じゆう》を持《ぢ》し、其他《そのた》は槍《やり》、長刀《なぎなた》、弓《ゆみ》、其他《そのた》の武器《ぶき》を携《たづさ》へた。彼《かれ》は良《や》や久《ひさ》しく島津《しまづ》、有馬《ありま》の聨合軍《れんがふぐん》の陣容《ぢんよう》を見《み》、而《しか》して傲然《がうぜん》として曰《いは》く、是《こ》れ敵《てき》勝利《しようり》を我《われ》に献《さゝ》ぐるなりと、直《たゞ》ちに其兵《そのへい》を三|個《こ》に分《わか》ち、島津《しまづ》、有馬《ありま》の聨合軍《れんがふぐん》一|萬《まん》三千に當《あた》らしめた。
中隊《ちうたい》は街道《がいだう》よりし、他《た》の一|隊《たい》は海濱《かいひん》よりし、別《べつ》の一|隊《たい》は丘陵《きうりよう》の路《みち》よりした。而《しか》して海濱《かいひん》より進《すゝ》む兵士《へいし》は、海岸近《かいがんちか》く遊弋《いうよく》せる有馬《ありま》の船隊《せんたい》の射撃《しやげき》に惱《なやま》され、特《とく》に二|個《こ》の大砲《たいはう》の射撃《しやげき》は、非常《ひじやう》なる損害《そんがい》を被《かうむ》らしめた。一|丸《ぐわん》を放《はな》つ毎《ごと》に、二十|人《にん》乃至《ないし》三十|人《にん》を斃《たふ》した。是《これ》が爲《た》めに敵兵《てきへい》は潰亂《くわいらん》したが、其《そ》の多勢《たぜい》なるが故《ゆゑ》に、又《ま》た隊伍《たいご》を立《た》て直《なほ》して、相戰《あひたゝか》うた。午前《ごぜん》八|時《じ》に始《はじま》り、正午《しやうご》に至《いた》つて、未《いま》だ勝敗《しようはい》を決《けつ》せなかつた。有馬兵《ありまへい》の陣中《じんちう》には、六十|個《こ》の十|字形《じがた》の旌《はた》、海風《かいふう》に吹《ふ》き靡《なび》かされた。晴信《はるのぶ》は奮闘《ふんとう》したが、龍造寺勢《りゆうざうじぜい》の爲《た》めに、城濠《じやうごう》の際迄《きはまで》、追《お》ひ詰《つ》められた。然《しか》も晴信《はるのぶ》は薩將《さつしやう》と與《とも》に、兵士《へいし》を勵《はげま》した。兵士《へいし》は敵兵《てきへい》に肉薄《にくはく》したから、敵兵《てきへい》は銃《じゆう》を發《はつ》するに遑《いとま》なかつた。斯《か》くて兩軍《りやうぐん》接觸《せつしよく》し、遂《つひ》に白兵戰《はくへいせん》となつた。
薩摩《さつま》の隊將《たいしやう》は、自《みづか》ら深《ふか》く龍造寺《りゆうざうじ》の軍中《ぐんちう》に突入《とつにふ》した。而《しか》して其《そ》の眼前《がんぜん》に、輿中《よちう》に座《ざ》したる大將《たいしやう》が、六|人《にん》の兵士《へいし》に、其《そ》の輿《こし》を舁《かつ》がせ、其《そ》の周圍《しうゐ》には高良山《かうらざん》の高※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]《かうさう》、及《およ》び十六|人《にん》の※[#「にんべん+會」、第4水準2-3-1]侶《そうりよ》、山伏《やまぶし》に取《と》り捲《ま》かれて居《ゐ》るのを見《み》た。隆信《たかのぶ》は陣中《ぢんちう》の騷擾《さうぜう》をば、味方同志《みかたどうし》の喧嘩《けんくわ》と認《みと》め、叱呼《しつこ》して曰《いは》く、靜止《せいし》せよ、隆信《たかのぶ》の此處《こゝ》に在《あ》るをしらぬ乎《か》と。薩兵《さつぺい》は此言《このげん》を聞《き》くや、驀地《まつしぐら》に直進《ちよくしん》して、其《そ》の輿側《よそく》に近《ちかづ》いた。川上左京《かはかみさきやう》は、吾等《われら》は御身《おんみ》を尋《たづ》ねて此處《こゝ》に來《き》たと、聲《こゑ》を掛《か》くるや、否《いな》や一|撃《げき》の下《もと》に、彼《かれ》の首《くび》を取《と》つた。
龍造寺兵《りゆうざうじへい》は潰走《くわいそう》した、死者《ししや》三千|人《にん》、傷者《しゃうしや》五千|人《にん》。而《しか》して薩兵《さつぺい》の死者《ししや》二百五十|人《にん》。有馬兵《ありまへい》に至《いた》りては、其《そ》の死者《ししや》僅《わづ》かに二十|人《にん》のみであつた。戰勝《せんしよう》の利益《りえき》は、全《まつた》く薩人《さつじん》の占《し》むる所《ところ》となつた。彼等《かれら》は島原《しまばら》一|帶《たい》の地《ち》を占領《せんりやう》し、其《そ》の租税《そぜい》を以《もつ》て、戌兵《じゆへい》の費《ひ》に供《きよう》した。
以上《いじやう》は、師父《しふ》フロヱー[#「フロヱー」に傍線]の年報《ねんぱう》によりて、其《そ》の大意《たいい》を掲《かゝ》げたものである。吾人《ごじん》は更《さ》らに、日本人側《にほんじんがは》の觀察《くわんさつ》に就《つい》て語《かた》らねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【四一】島津、龍造寺の爭霸戰(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

薩軍《さつぐん》は皆《み》な決死《けつし》して出陣《しゆつぢん》した。大將《たいしやう》の島津家久《しまづいへひさ》は、十五|歳《さい》なる其子《そのこ》の又《また》七|郎豐久《らうとよひさ》が、健氣《けなげ》なる軍裝《ぐんさう》を見《み》て、天晴《あつぱれ》なる武者振《むしやぶり》よ、但《た》だ上帶《うはおび》の結《むす》び樣《やう》は斯《か》くするものぞと、結《むす》び直《なほ》し。脇差《わきざし》を拔《ぬい》て、其《そ》の端《はし》を切《き》りて曰《いは》く、若《も》し此軍《このぐん》に打勝《うちかつ》て死《し》せずば、我《われ》自《みづか》ら汝《なんぢ》が爲《た》めに之《これ》を解《と》く可《べ》し。若《も》し屍《かばね》を戰場《せんぢやう》に曝《さら》さんには、流石《さすが》は島津《しまづ》の家《いへ》に生《うま》れたる者《もの》よと、敵《てき》も感《かん》じ、我《われ》も地下《ちか》に喜《よろこ》ばむと。家久《いへひさ》は固《もと》より一|死《し》を分《ぶん》としたのであつた。〔薩藩舊傳集〕[#「〔薩藩舊傳集〕」は1段階小さな文字]
又《ま》た開戰《かいせん》の當日《たうじつ》、即《すなは》ち三|月《ぐわつ》廿四|日《か》の黎明《れいめい》、家久《いへひさ》は、出陣《しゆつぢん》に際《さい》し、諸將《しよしやう》と杯《さかづき》を交《まじ》へて、其《そ》の門出《かどで》を祝《しゆく》した。時《とき》に裨將《ひしやう》の一|人《にん》、廿七|歳《さい》の壯年《さうねん》、川上忠堅《かはかみたゞかた》(左京)[#「(左京)」は1段階小さな文字]は大酌滿引《たいしやくまんいん》して曰《いは》く、今日《こんにち》隆信《たかのぶ》の首《くび》を切《き》る者《もの》は、斯《か》く申《まを》す拙者《せつしや》で御座《ござ》ると。驍將《げうしやう》新納忠元《にひろたゞもと》、之《これ》を咎《とが》めて曰《いは》く、弱輩《じやくはい》の身《み》として、斯《かゝ》る大言《たいげん》を吐《は》くは、何事《なにごと》ぞ。若《も》し其《そ》の言通《ことばどほ》りに成《な》し遂《と》ぐる克《あた》はざる時《とき》には、汝《なんぢ》は如何《いかに》せんとするぞと。忠堅《たゞかた》怒《いかつ》て曰《いは》く、公《こう》は我《われ》を以《もつ》て、果《はた》して隆信《たかのぶ》の首《くび》を切《き》る能《あた》はずとする乎《か》と、憤然《ふんぜん》として起《た》つた。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにしても、薩兵《さつぺい》の意氣込《いきごみ》は、上下《しやうか》を擧《あ》げて、實《じつ》にすさまじきものであつた。
家久《いへひさ》は、浦々《うら/\》にある舟《ふね》の纜《ともづな》を斷《た》つて、必死《ひつひ》の決心《けつしん》を示《しめ》した。而《しか》して島原《しまばら》に陣《ぢん》を取《と》り、森島《もりしま》を根城《ねじろ》に、深田《ふかだ》を前《まへ》に控《ひか》へ、柵《さく》を結《むす》び、溝《みぞ》を深《ふか》うし、林中《りんちう》に伏兵《ふくへい》を措《お》き、砦《とりで》二|個《こ》を構《かま》へて、龍造寺《りゆうざうじ》を待《ま》ち受《う》けた。我《わ》が三千を以《もつ》て、敵《てき》の五|萬《まん》に當《あた》る。其《そ》の大膽《だいたん》や、驚《おどろ》く可《べ》きではない乎《か》。
龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》は、下村《しもむら》、久納《くなふ》、相良《さがら》、田尻《たじり》の諸將《しよしやう》をして、薩軍《さつぐん》の後《うしろ》を斷《た》たしめた。三|月《ぐわつ》二十四|日《か》、自《みづか》ら大兵《たいへい》を率《ひき》ゐて、島原《しまばら》に至《いた》つた。薩兵《さつぺい》先《ま》づ銃《じゆう》を發《はつ》して、戰《たゝかひ》を挑《いど》んだ。龍造寺兵《りゆうざうじへい》は其《そ》の小勢《こぜい》なるを見《み》て、只《たゞ》一|揉《もみ》に揉潰《もみつぶ》さんと輕擧《けいきよ》して進《すゝ》んだ。薩兵《さつぺい》は輕《かる》く引《ひ》き退《しりぞ》き、弓銃《きゆうじゆう》を發《はつ》して、悉《こと/″\》く進《すゝ》み來《きた》る敵兵《てきへい》を射殺《しやさつ》した。龍造寺兵《りゆうざうじへい》は進《すゝ》まん乎《か》、前《まへ》は深田《ふかだ》である。退《しりぞ》かん乎《か》、後《あと》よりは味方《みかた》の勢《せい》、雲霞《うんか》の如《ごと》く詰《つ》め寄《よ》せ來《きた》る。されば彼等《かれら》は只《た》だ的《まと》となりて、斃《たふ》るゝのみであつた。
隆信《たかのぶ》は軍使《ぐんし》を以《もつ》て、先手《さきて》の模樣《もやう》を尋《たづ》ねしめた。然《しか》るに軍使《ぐんし》は其《そ》の命令《めいれい》を誤《あやま》り傳《つた》へて、大將《たいしやう》は御腹立《おはらだち》にて候《さふら》ぞ、無《む》二|無《む》三に蒐《かゝ》り候《さふら》へと、大呼《たいこ》して馳《は》せ還《かへ》つた。隆信《たかのぶ》は軍使《ぐんし》の要領《えうりやう》を得《え》ざるを見《み》て、忿然《ふんぜん》自《みづか》ら旗下《きか》を横樣《よこざま》に進《すゝ》めて、敵《てき》に當《あた》つた。龍造寺兵《りゆうざうじへい》は之《こ》れを見《み》て、何《いづ》れも深田《ふかだ》に飛《と》び入《い》り、攻《せ》め掛《か》けた。島津勢《しまづぜい》は豫定《よてい》の計企《けいき》、全《まつた》く圖《づ》に中《あた》り、林中《りんちう》の伏兵《ふくへい》起《おこ》り、弓《ゆみ》、鐵砲《てつぱう》を放《はな》つ雨《あめ》の如《ごと》し。然《しか》も龍造寺兵《りゆうざうじへい》は、深田《ふかだ》の中《なか》にて、進退《しんたい》自由《じいう》ならず、偶《たまた》ま畔《あぜ》にある者《もの》は、人《ひと》は吾《われ》を楯《たて》となし、吾《われ》は人《ひと》を面《めん》になす。之《これ》を見《み》て赤裝束《あかしやうぞく》して、繩手襷《なはだすき》したる武者《むしや》一|列《れつ》、雷《らい》の如《ごと》く、火《ひ》の如《ごと》く、突喊《とつかん》して來《き》た。龍造寺兵《りゆうざうじへい》は之《これ》を支《さゝ》ふるに由《よし》なく、總崩《そうくづ》れとなり、右往左往《うわうさわう》に散亂《さんらん》した。小川武藏守《をがはむさしのかみ》、龍造寺下總守《りゆうざうじしもふさのかみ》、同左馬大輔《どうさまたいう》、納富能登守《なとみのとのかみ》、千|布因幡守《ふいなばのかみ》、原豐後守《はらぶんごのかみ》、徳島甲斐守《とくしまかひのかみ》、綾部土佐守以下《あやべとさのかみいか》、究竟《くつきやう》の一|族老臣《ぞくらうしん》、悉《こと/″\》く討死《うちじに》した。
隆信《たかのぶ》は運命《うんめい》極《きは》まりぬと諦《あきら》め、泰然自若《たいぜんじじやく》として、床机《しやうぎ》に腰《こし》を掛《か》けて居《ゐ》た。隆信《たかのぶ》を亂軍《らんぐん》の中《うち》に求《もと》めつゝある川上忠堅《かはかみたゞかた》は、其《そ》の側《かたはら》に進《すゝ》み寄《よ》り、其《そ》の鎧上《がいじやう》に袈裟《けさ》を掛《か》けたるを見《み》、問《とう》て曰《いは》く、『如何是劍刄上《いかんせんこれけんじんのうへ》』。隆信《たかのぶ》答《こたへ》て曰《いは》く、『紅※[#「火+慮」、U+7208、197-8]上一點雪《こうろじやういつてんのゆき》』と。忠堅《たゞかた》即《すなは》ち三|拜《ぱい》して、隆信《たかのぶ》の首《くび》を申《まを》し受《う》けた。近臣《きんしん》圓城寺美濃《ゑんじやうじみの》、成松遠江守《なりまつとほたふのかみ》、百武志摩守《もゝたけしまのかみ》、田原伊勢守《たはらいせのかみ》、福地藏人以下《ふくちくらんどいか》の侍《さむらひ》、一|人《にん》も殘《のこ》らず討死《うちじに》した。〔肥陽軍記〕[#「〔肥陽軍記〕」は1段階小さな文字]
隆信《たかのぶ》も亦《ま》た一|種《しゆ》の梟勇《けうゆう》であつた。彼《かれ》は島津《しまづ》、大友《おほとも》の間《あひだ》に崛起《くつき》して、當初《たうしよ》は眇乎《べうこ》たる地方大名《ちはうだいみやう》であつたが、遂《つひ》に一|方《ぱう》には大友氏《おほともし》を凌《しの》ぎ、他方《たはう》には島津氏《しまづし》に抗《かう》し、儼然《げんぜん》たる第《だい》三|勢力《せいりよく》となつた。然《しか》も彼《かれ》は剛愎《がうふく》、猜忌《さいき》にして、人心《じんしん》を得《う》る能《あた》はず、遂《つひ》に五十六|歳《さい》にて、空《むな》しく戰場《せんぢやう》の露《つゆ》と消《き》えた。彼《かれ》の首《くび》は、薩兵《さつぺい》第《だい》一の戰利品《せんりひん》として、肥後佐敷《ひごさしき》に致《いた》し、義久《よしひさ》の一|覽《らん》に供《そな》へた。
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[#6字下げ]島津家久の剛勇
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島津中務大輔家久肥前に攻入り島原の城を攻め落したる所に、龍造寺隆信大軍にて押寄たり、家久纔かに三千許なりしを、幾重とも無く取圍む、家久是を物ともせず、明日の合戰吾先陣すべし貝を合圖に切懸るべしと定めて、夜の明るを待つ、朝霧深く、物の色も分たず、家久將机に倚て時間を待ち、稍々朝日出て晴渡りしに、子の又七郎豐久十五歳に成りけるを近付け、天晴武者振よ、只上帶の結び、斯くするものぞとて、結ひ直し、脇指を抽て其端を切て後、善く聞け、若し軍に打勝て死せずば、此上帶我解くべし、今日の軍に屍を戰場に暴さんに、島津が家に生れたる者の、思ひ切たりと、敵も知り、我も黄泉に悦ばんものを、と云ひも敢へず、貝吹立させ、眞先に隆信の旗本へ切て懸る、島津家の弓箭は先駈の兵は、矢一筋持たせ、射放ちて弓を捨、長き刀を抽て切て蒐る、今日も又爾したりけり、隆信の旗本亂れ立敗北すれば、隆信、キタなし返せと下知し、遂に蹈止り討死せられけり、家久、勝て誇らず、人數を纏め陣を整へける處に、龍造寺の臣惠藤某[#割り注]○江里口藤七兵衞[#割り注終わり]首二つ血に染みたる刀に持添、大將は何國《いづく》に御座しまし候ぞ、功名の印の候と言て家久に近寄り、首を投捨てゝ、馬の上なる家久を一ト太刀斬たりしに、家久心疾く馬より飛下りたれば、左の草摺を切て、餘る刀、膝に中りけり、惠藤を中に取籠めて討たんとすれば、家久アタラ者を討つなと下知しければ、生捕らんとすれども、素より今日を最後と思ひ定め、切り廻りし程に、終に討たれけり、惠藤とのみ云ひて名をば名乘らず、家久、惠藤か首を膝の上に置き、並び無き剛の者、義勇の士とは是をこそ言べけれ、生捕て對面し、龍造寺に送り返さんと思ひしに、思ひ切たる戰死せられしかば、力及ばずとて、近所の僧を請じ、惠藤が弔の事、念頃に沙汰し、其有樣詳に記して其僧に頼み、故郷に遣られけり、偖豐久を呼て、今朝の約の如く上帶を解たりしとかや、家久は島津家の士大將なり、豐久後又中務と稱したり、關原に於て義弘の身に代り討死ありしは此人なり。〔常山紀談、薩藩舊傳集〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【四二】島原戰後の形勢[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》島原《しまばら》に於《お》ける、島津《しまづ》對《たい》龍造寺《りゆうざうじ》の戰爭《せんさう》は、元龜《げんき》三|年《ねん》五|月《ぐわつ》木崎原《きざきはら》に於《お》ける、島津《しまづ》對《たい》伊東《いとう》の戰爭《せんさう》、天正《てんしやう》六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》耳川《みゝかは》に於《お》ける、島津《しまづ》對《たい》大友《おほとも》の戰爭《せんさう》と、同樣《どうやう》の効果《かうくわ》を齎《もたら》した。前者《ぜんしや》の一|戰《せん》にて、伊東氏《いとうし》は日向《ひふが》より驅逐《くちく》せられた。中者《ちうしや》の一|戰《せん》にて大友氏《おほともし》は、鎭西《ちんぜい》に於《お》ける第《だい》一|流《りう》の勢力《せいりよく》より、第《だい》二|流《りう》に墜《お》ちた。後者《こうしや》の一|戰《せん》にて、龍造寺《りゆうざうじ》の新興《しんこう》の勢力《せいりよく》は、全滅《ぜんめつ》に瀕《ひん》した。然《しか》も此《こ》の戰爭《せんさう》や、龍造寺《りゆうざうじ》は殆《ほとん》ど全力《ぜんりよく》を擧《あ》げ、隆信《たかのぶ》自《みづか》ら之《これ》を率《ひき》ゐ、島津《しまづ》は纔《わづ》かに裨將《ひしやう》家久《いへひさ》をして、之《これ》に當《あた》らしめたるに、端《はし》なく隆信《たかのぶ》を馘《くびき》り、其《そ》の全軍《ぜんぐん》を覆《くつがへ》したるは、島津氏《しまづし》にとりては、他《た》の二|戰《せん》に比《ひ》して、望外《ばうぐわい》の奇勝《きしよう》と云《い》はねばならぬ。
豫《かね》て形勢《けいせい》を歡望《くわんばう》したる大友氏《おほともし》は、龍造寺《りゆうざうじ》の敗北《はいぼく》を見《み》て、一|面《めん》龍造寺氏《りゆうざうじし》に向《むか》ひ、復讐《ふくしう》の師《し》を出《いだ》さん※[#「こと」の合字、200-6]を慫慂《しようよう》し。更《さ》らに他《た》の一|面《めん》には、島津氏《しまづし》に向《むか》ひ、相《あひ》戮協《りくけふ》して、龍造寺《りゆうざうじ》の所領《しよりやう》を分割《ぶんかつ》せん※[#「こと」の合字、200-7]を、勸説《くわんぜい》した。然《しか》も島津氏《しまづし》の野心《やしん》は、九|州統《しうとう》一にありて、他《た》の勢力《せいりよく》と併立《へいりつ》するは、其《そ》の屑《いさぎよし》とせざる所《ところ》だ。而《しか》して龍造寺側《りゆうざうじがは》にも、鍋島直茂《なべしまなほしげ》の如《ごと》き遠謀《ゑんぼう》、深慮《しんりよ》の士《し》あり、若《も》し此際《このさい》に機宜《きぎ》を失《しつ》すれば、龍造寺氏《りゆうざうじし》は島津《しまづ》、大友《おほとも》兩勢力《りやうせいりよく》の香餌《かうじ》となりて、所謂《いはゆ》る虻《あぶ》も蜂《はち》も取《と》らざる始末《しまつ》に、立《た》ち到《いた》るを看取《かんしゆ》し。隆信《たかのぶ》の子《こ》正家《まさいへ》を勸《すゝ》めて、肥後《ひご》を割讓《かつじやう》して、島津氏《しまづし》に降《くだ》らしめた。
當時《たうじ》の龍造寺《りゆうざうじ》に於《おい》ては、肥後半國《ひごはんごく》は、愛《を》しむ可《べ》きでなかつた。若《も》し間違《まちが》へば、筑後《ちくご》は愚《おろ》か、肥前《ひぜん》さへも、他《た》に奪《うば》はるゝの危險《きけん》が有《あ》つた。此《こ》の危機《きき》を悟《さと》りて、却《かへつ》て正面《しやうめん》の敵《てき》島津《しまづ》に降《くだ》つた、龍造寺《りゆうざうじ》の政策《せいさく》は、實《じつ》に非凡《ひぼん》、且《か》つ妥當《だたう》と云《い》はねばならぬ。而《しか》して島津氏《しまづし》としては、九|州統《しうとう》一の大計《たいけい》より、寧《むし》ろ龍造寺《りゆうざうじ》を先手《さきて》として、筑豐《ちくほう》の大友氏《おほともし》に薄《せま》らしむるを、得策《とくさく》としたるは、云《い》ふ迄《まで》もない。此《かく》の如《ごと》くして、島津《しまづ》對《たい》龍造寺《りゆうざうじ》の間《あひだ》には、天正《てんしやう》十二|年《ねん》十|月《ぐわつ》、和親《わしん》の約束《やくそく》が成立《せいりつ》した。而《しか》して是《こ》れと前後《ぜんご》して、大友氏《おほともし》との關係《くわんけい》は、彌《いよい》よ再《ふたゝ》[#ルビの「ふたゝ」は底本では「ふたゞ」]び破裂《はれつ》した。
島津《しまづ》と大友《おほとも》とは、本來《ほんらい》相容《あひい》れなかつた。但《た》だ將軍《しやうぐん》義昭《よしあき》、織田信長《おだのぶなが》、近衞前久等《このゑさきひさら》が、頻《しきり》りに調停《てうてい》を試《こゝろ》みたる爲《た》め、一|時《じ》平和《へいわ》の姿《すがた》を示《しめ》したが、然《しか》も島津《しまづ》は機會《きくわい》さへあれば、其《そ》の侵略《しんりやく》を逞《たくまし》うせんとし、大友《おほとも》も亦《ま》た、其《そ》の舊領《きうりやう》を恢復《くわいふく》せんとした。天正《てんしやう》十二|年《ねん》三|月《ぐわつ》島津氏《しまづし》島原《しまばら》の※[#「捷」の異字体か?、201-9]《かち》あるや、其《そ》の五|月《ぐわつ》には大友義統《おほともよしむね》は、賀状《がじやう》と與《とも》に、定家《ていか》眞蹟《しんせき》の新勅撰集《しんちよくせんしふ》を、島津義弘《しまづよしひろ》に贈《おく》つた。而《しか》して其《そ》の八|月《ぐわつ》には、其《そ》の軍勢《ぐんぜい》を催《もよほ》し、大友氏《おほともし》の宿將《しゆくしやう》戸次《べつき》(立花)[#「(立花)」は1段階小さな文字]道雪《だうせつ》、高橋紹運等《たかはしせううんら》は、黒木《くろき》を攻《せ》め、九|月《ぐわつ》には阪東寺《ばんどうじ》に屯《たむろ》し、柳川《やながは》に逼《せま》つた。大友《おほとも》は正《まさ》しく火事場泥棒《くわじばどろぼう》を爲《な》さんとしたのであつた。
耳川《みゝかは》の一|戰《せん》以來《いらい》、大友《おほとも》の武《ぶ》は、頗《すこぶ》る振《ふる》はなかつた。されど古川《ふるかは》に水《みづ》多《おほ》しとかや。大友《おほとも》の舊家《きうか》には、尚《な》ほ幾許《いくばく》の被官《ひくわん》、古老《こらう》があつた。道雪《だうせつ》、紹運《せううん》兩人《りやうにん》の如《ごと》きは、實《じつ》に大友氏《おほともし》の末路《まつろ》に、光彩《くわうさい》を添《そ》ふ可《べ》き武士《ぶし》で、或《あるひ》は九|州武士《しうぶし》の典型《てんけい》と云《い》ふも、差支《さしつかへ》なき人物《じんぶつ》であつた。彼等《かれら》は克《よ》く戰《たゝか》うた。島津《しまづ》は大友《おほとも》に斯《か》く申《まを》し向《む》けた、吾《われ》既《すで》に龍造寺氏《りゆうざうじし》と講和《かうわ》したれば、此《こ》の上《うへ》は漫《みだ》りに筑後《ちくご》の地《ち》を侵《をか》す勿《なか》れ、若《も》し兩人《りやうにん》にして退去《たいきよ》せざれば、島津《しまづ》は大友《おほとも》を敵《てき》と爲《な》す可《べ》しと。然《しか》も彼等《かれら》は此《こ》の威嚇《ゐかく》には、耳《みゝ》を假《か》さず、依然《いぜん》として其《そ》の軍《ぐん》を高良山《かうらざん》に屯《たむろ》した。而《しか》して筑後《ちくご》を擧《あ》げて、殆《ほとん》ど風靡《ふうび》した。然《しか》るに豐後《ぶんご》の田原親家《たはらちかいへ》の如《ごと》きは、
[#ここから1字下げ]
縱御弓箭向後被[#レ]得[#二]勝利[#一]候《たとひおんゆみきやうごしようりえられさふらふ》とも、道雪《だうせつ》、紹雲《せううん》の武功《ぶこう》にのみ成《なり》、豐後《ぶんご》の者共《ものども》(大友氏直參の者)[#「(大友氏直參の者)」は1段階小さな文字]如何《いか》に軍勞《ぐんらう》を盡候《つくしさふらふ》とも、役《やく》に不[#レ]立《たゝず》。只《たゞ》人《ひと》を彩色《いろどり》たるまでにて、側《わき》より隣《となり》の寳《たから》を算《かぞへ》ては不[#レ]入者《いらざるもの》と、私欲出候《しよくいでさふらふ》は、偏《ひとへ》に豐後家《ぶんごけ》(大友氏)[#「(大友氏)」は1段階小さな文字]も末《すゑ》に成《なり》たるとぞ見《み》えける。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
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燒餠《やきもち》は武夫《ものゝふ》にもある。斯《かゝ》る次第《しだい》にて、豐後勢《ぶんごぜい》は退陣《たいぢん》し、紹運《せううん》、道雪《だうせつ》兩人《りやうにん》のみは、棄子《すてご》同樣《どうやう》にて、取《と》り殘《のこ》された。彼等《かれら》はそれにも拘《かゝは》らず、高良山《かうらざん》に滯陣《たいぢん》して、天正《てんしやう》十二|年《ねん》を送《おく》つた。而《しか》して彼等《かれら》は翌《よく》十三|年《ねん》も、依然《いぜん》此地《このち》に於《おい》て、奮鬪《ふんとう》したが、
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後《のち》には敵《てき》も不[#二]近付[#一]《ちかづかず》、徒《いたづら》に日《ひ》を被[#レ]送候《おくられさふらふ》。されば河邊北野村《かはべきたのむら》に御陣替可[#レ]有《ごぢんがへあるべし》とて、道雪公《だうせつこう》は天神社壇《てんじんしやだん》に御移被[#レ]成《おうつりなされ》、紹運公《せううんこう》は赤司村《あかしむら》に御陣《ごぢん》を被[#レ]替候處《かへられさふらふところ》に、道雪公御煩付《だうせつこうおんわづらひつき》、既《すで》に御命《おんいのち》も危《あやふ》く奉[#レ]見候《みたてまつりさふら》へば、御遺言《ごゆゐごん》には、我死《われしゝ》たらば鎧甲《よろひかぶと》を被[#レ]著《きせられ》、高良山吉見岳《かうやざんよしみがたけ》に、柳川《やながは》の方《はう》に奉[#レ]向可[#二]掘埋[#一]《むけたてまつりほりうづむべき》のよし被[#二]仰置[#一]《おほせおかれ》、若此旨於[#二]相違[#一]《もしこのむねあひたがふにおいて》は、惡靈《あくりやう》と成《なら》せられ、家老共子々孫々可[#レ]被[#二]取殺[#一]《からうどもしゝそん/″\とりころさるべき》のよし、はげしき御諚《ごぢやう》にて、酉《とり》の九|月《ぐわつ》十一|日《にち》七十二|歳《さい》にて、終《つひ》にはかなく成給《なりたま》ふ。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
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立花道雪《たちばなだうせつ》は、實《じつ》に武士《ぶし》として生《い》き、武士《ぶし》として逝《ゆ》いた。
道雪《だうせつ》は、戸次伯耆守鑑連《べつきはうきのかみあきつら》である、彼《かれ》は大友能直《おほともよしなほ》の後衞《こうゑい》戸次親家《べつきちかいへ》の嫡子《ちやくし》にて、大友家《おほともけ》と同宗《どうそう》であつた。後《の》ち、筑前立花山《ちくぜんたちばなやま》に築城《ちくじやう》して居住《きよぢゆう》したから、立花氏《たちばなし》を稱《しよう》した。天文《てんぶん》元年《ぐわんねん》十七|歳《さい》にて、初《はじ》めて戰場《せんじやう》に赴《おもむ》きし以來《いらい》、中國《ちうごく》の毛利《まうり》、九|州《しう》の島津《しまづ》、龍造寺《りゆうざうじ》と、大小《だいせう》三十七|戰《せん》、遂《つひ》に一|度《ど》も不覺《ふかく》を取《と》つたことはなかつた。〔戸次軍談〕[#「〔戸次軍談〕」は1段階小さな文字]壯時《さうじ》雷《らい》に打《う》たれ、足《あし》痿《な》え、歩行《ほかう》心《こゝろ》に任《まか》せず、常《つね》に手輿《てごし》に乘《の》つて、戰場《せんじやう》を往來《わうらい》した。戰《たゝかひ》に臨《のぞ》む毎《ごと》に、二|尺《しやく》七|寸《すん》の刀《かたな》と、種子島《たねがしま》の鐵砲《てつぱう》を、輿中《よちう》に措《お》き、三|尺計《じやくばか》りの棒《ぼう》に、腕貫《うでぬき》をして手《て》を提《ひつさ》げ、長刀《ちやうたう》を帶《お》びたる壯士《さうし》百|餘人《よにん》を、手輿《てごし》の左右《さいう》に引具《ひきぐ》し、戰《たゝかひ》始《はじ》まれば、手輿《てごし》を此等《これら》の壯士《さうし》に舁《か》かせ、棒《ぼう》を取《と》つて手輿《てごし》を叩《たゝ》き、エイとうと聲《こゑ》を揚《あ》げ、其《そ》の輿《こし》を敵《てき》の眞中《まんなか》に舁《か》き入《い》れよとて拍子取《ひやうしと》り、遲《おそ》き時《とき》は、輿《こし》の前後《ぜんご》を叩《たゝ》いた。されば輿側《こしわき》の壯士《さうし》、何《いづ》れも三|尺餘《じやくよ》の長刀《ちやうたう》を拔《ぬ》き連《つ》れ、眞《ま》一|文字《もんじ》に敵陣《てきぢん》に斫《き》り入《い》り、先陣《せんぢん》の者共《ものども》、すはや例《れい》の音頭《おんど》よと、我先《われさき》にと競《きそ》ひ蒐《かゝ》りたれば、如何《いか》なる堅陣《けんぢん》も、切《き》り崩《くづ》さずと云《い》ふことなかつた。〔常山紀談〕[#「〔常山紀談〕」は1段階小さな文字]
道雪《だうせつ》は、其《そ》の養子《やうし》宗茂《むねしげ》に於《おい》て、其《そ》の相續者《さうぞくしや》を見出《みいだ》した。宗茂《むねしげ》は紹運《せううん》の實子《じつし》にて、天正《てんしやう》十一|年《ねん》八|月《ぐわつ》、道雪《だうせつ》の懇望《こんもう》にて、其《そ》の養子《やうし》となつた。彼《かれ》は其《そ》の実父《じつぷ》たる紹運《せううん》、養父《やうふ》たる道雪《だうせつ》の衣鉢《いはつ》を相續《さうぞく》するに於《おい》て、愧《はづ》かしからぬ武士《ぶし》であるのみならず、實《じつ》に大友氏《おほともし》の末路《まつろ》に、一|段《だん》の光彩《くわうさい》を添《そ》へたる、好男兒《かうだんじ》であつた。

 

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