第十章 大友島津の對抗
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第十章 大友島津の對抗[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【三五】大友、島津の爭霸戰[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》六|年《ねん》十一|月《ぐわつ》に於《お》ける、大友《おほとも》、島津耳川《しまづみゝかは》の一|戰《せん》は、單《たん》に兩家《りやうけ》の運命《うんめい》に、大關係《だいくわんけい》あるのみならず、亦《ま》た九|州《しう》の大勢《たいせい》に、深甚《しんじん》の影響《えいきやう》を及《およぼ》した。宣教師側《せんけうしがは》は、宗麟《そうりん》が其《そ》の退隱《たいいん》の新市街《しんしがい》に良法《りやうはふ》を布《し》き、居民《きよみん》に安寧《あんねい》の生活《せいくわつ》を遂《と》げしめつゝある間《あひだ》に、薩摩國主《さつまこくしゆ》は、大兵《たいへい》を擧《あ》げて、此《こ》の平和郷《へいわきやう》に侵入《しんにふ》したと云《い》ふが、事實《じじつ》は寧《むし》ろ其《そ》の反對《はんたい》であつた。
伊東義祐《いとうよしすけ》は、日向《ひふが》を追《お》ひ出《いだ》されて、豐後《ぶんご》に來《きた》り、大友氏《おほともし》の援兵《ゑんぺい》を請《こ》うて、其《そ》の舊領《きうりやう》を恢復《くわいふく》せんとした。此《こ》れが天正《てんしやう》五|年《ねん》の末《すゑ》だ。宗麟《そうりん》は其請《そのこひ》を容《い》れ、諸老臣《しよらうしん》の諫《いさめ》を用《もち》ひず、出陣《しゆつぢん》に決《けつ》した。但《た》だ宣教師側《せんけうしがは》の記事《きじ》は、何《いづ》れも田原紹恩《たはらせうおん》を、耶蘇教《やそけう》の敵《てき》としてあるが、大友記抔《おほともきなど》は同人《どうにん》を以《もつ》て、無《む》二の耶蘇教徒《やそけうと》となし、神社《じんじや》、佛閣《ぶつかく》の破壞《はくわい》、社人《しやにん》、僧侶《そうりよ》の殺戮《さつりく》の張本人《ちやうほんにん》として居《を》る。何《いづ》れにもせよ、宗麟《そうりん》は伊東義祐《いとうよしすけ》の請《こひ》を容《い》れ、島津氏《しまづし》と日向《ひふが》を爭《あらそ》ふ可《べ》く、出陣《しゆつぢん》したに相違《さうゐ》ない。
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去程《さるほど》に宗麟公《そうりんこう》總人數《そうにんづ》三|萬《まん》五千三百の著到《ちやうたう》にて、天正《てんしやう》六|年《ねん》戊寅《つちのえとら》八|月中旬《ぐわつちうじゆん》に、府内《ふない》を御立《おたち》ある。先《まづ》戰場《せんぢやう》[#ルビの「せんざやう」は底本では「せんぎやう」]に向《むかふ》門出《かどで》に、由須原《ゆすがはら》八|幡宮《まんぐう》へ、矢《や》一|筋《すぢ》奉《たてまつ》れと有《あり》ければ、足輕《あしがる》二三百|打《うち》より、弓鐵砲《ゆみてつぱう》をそろえ、射《い》かけ奉《たてまつ》る。扨《さて》又《また》道《みち》惡《あ》しき所《ところ》にては、佛神《ぶつしん》の尊容《そんよう》を取《とり》はめ/\、是《これ》を蹈《ふん》で通《とほり》しは、前代未聞《ぜんだいみもん》の惡行《あくぎやう》なり。〔大友記〕[#「〔大友記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは事實《じじつ》と思《おも》はるゝ。何《なん》となれば、是《こ》れ宗麟《そうりん》が受洗後《じゆせんご》、一|箇月以内《かげついない》の事《こと》であれば、彼《かれ》が軍隊《ぐんたい》をして、此《かく》の如《ごと》き狂態《きやうたい》を演《えん》ぜしめたのも、怪《あや》しむに足《た》らぬ。而《しか》して宣教師側《せんけうしがは》の記事《きじ》にも、亦《ま》た之《こ》れと暗合《あんがふ》するものがある。宗麟《そうりん》は實《じつ》に其《そ》の陣中《ぢんちう》に、耶蘇會《ゼスイツト》支部《しぶ》師父《しふ》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]、師父《しふ》アルメダ[#「アルメダ」に傍線]、及《およ》び七|人《にん》の耶蘇會《ゼスイツト》修道士《しうだうし》を伴《ともな》うた。彼等《かれら》が本國《ほんごく》に送《おく》りたる、一五七九年(天正七年)[#「(天正七年)」は1段階小さな文字]の年報中《ねんぱうちう》には、左《さ》の意味《いみ》の記事《きじ》がある。
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宗麟《そうりん》は其《そ》の徇《とな》ふる所《ところ》の土地《とち》に於《おい》て、神社《じんじや》[#ルビの「じんじや」は底本では「じんざや」]、佛閣《ぶつかく》を放火《はうくわ》し、破壞《はくわい》しつゝ、屡《しばし》ば師父《しふ》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]に向《むか》つて曰《い》うた。此國《このくに》に於《おい》て、立派《りつぱ》なる耶蘇宗門《やそしゆうもん》を扶植《ふしよく》し、其《そ》の美名《びめい》は羅馬《ろーま》に達《たつ》す可《べ》く、而《しか》して耶蘇教徒《やそけうと》の法《はふ》に由《よ》つて、此國《このくに》を支配《しはい》せん※[#「こと」の合字、168-4]を期《き》すと。彼《かれ》は二|個《こ》の佛教寺院《ぶつけうじゐん》の收入《しうにふ》を擧《あ》げて、我等《われら》の家《いへ》を作《つく》り、且《か》つ他《た》の師父等《しふら》の生活費《せいくわつひ》に供《きよう》し、而《しか》して更《さ》らに居住《きよぢゆう》に必需《ひつじゆ》の物《もの》は、何《なん》にても與《あた》ふ可《べ》しと約《やく》した。彼《かれ》は直《たゞ》ちに重要《じゆうえう》なる城寨《じやうさい》の中《うち》に、教會堂《けうくわいだう》の建立《こんりふ》を命《めい》じ、寒冷《かんれい》の候《こう》なる十一|月《ぐわつ》に於《おい》て、其《そ》の自《みづか》ら居《を》る所《ところ》より、若干《じやくかん》の距離《きより》あるにも拘《かゝは》らず、毎朝《まいあさ》此《こ》[#ルビの「こ」は、底本では「この」]の突嗟《とつさ》の間《あひだ》に、建立《こんりふ》せられたる教會堂《けうくわいだう》に、彌撒《ミサ》聖祭《せいさい》に列《れつ》す可《べ》く參集《さんしふ》した。彼《かれ》は懺悔《ざんげ》し、白状《はくじやう》し、祈祷《きたう》し、其《そ》の我等《われら》に對《たい》する、立《た》て隔《へだ》てなき一|切《さい》の言動《げんどう》は、宛《あたか》も我《わ》が仲間《なかま》の修道士《しうだうし》の、一|人《にん》の如《ごと》くであつた。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の從臣《じゆうしん》に向《むか》つて、聖教《せいけう》を學《まな》ばん※[#「こと」の合字、168-11]を獎勵《しやうれい》し、是《こ》れが爲《た》めに我等《われら》をして、應接《おうせつ》に遑《いとま》なからしめた。從臣等《じゆうしんら》は何《いづ》れも軍務《ぐんむ》に鞅掌《あうしやう》し、我等《われら》は軍隊《ぐんたい》と一|日半《にちはん》の行程《かうてい》を隔《へだ》てたるに拘《かゝは》らず、我等《われら》と彼等《かれら》との談義《だんぎ》、問答《もんだふ》の際《さい》には、未《いま》だ一|囘《くわい》も、彼《かれ》の參列《さんれつ》せない事《こと》はなかつた。
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若《も》し此《こ》の報告通《はうこくどほ》りであれば、宗麟《そうりん》は島津氏《しまづし》と戰《たゝか》ふ爲《た》めに、出陣《しゆつぢん》したの乎《か》。將《は》た耶蘇教《やそけう》弘布《ぐふ》の爲《た》めに出陣《しゆつぢん》したの乎《か》。聊《いさゝ》か疑問《ぎもん》とせねばならぬ、彼等《かれら》は何《なん》となく大友宗麟《おほともそうりん》を以《もつ》て、十|字軍《じぐん》の大將視《たいしやうし》し、此《こ》の戰爭《せんさう》を以《もつ》て、異教征伐《いけうせいばつ》と認《みと》めたるかの如《ごと》く察《さつ》せらるゝ。
そは兎《と》も角《かく》も、宗麟《そうりん》の帷幄中《ゐあくちう》には、耶蘇教《やそけう》宣教師等《せんけうしら》が、最《もつと》も優待《いうたい》せられた。宗麟《そうりん》は果《はた》して神《かみ》の力《ちから》を藉《か》りて、異教徒《いけうと》たる島津氏《しまづし》を、退治《たいぢ》せんとした乎《か》。宣教師《せんけうし》の手《て》より、外國《ぐわいこく》の武器《ぶき》、其《そ》の他《た》を輸入《ゆにふ》して、奇功《きこう》を博《はく》せんとした乎《か》。將《は》た曾《かつ》て婦人《ふじん》に耽《ふけ》り、飮酒《いんしゆ》に耽《ふけ》り、歡樂《くわんらく》に耽《ふけ》りたる如《ごと》く、耶蘇教《やそけう》に耽《ふけ》り、宣教師《せんけうし》に耽《ふけ》りたる乎《か》。當時《たうじ》の戰利品《せんりひん》として、大友氏《おほともし》より分捕《ぶんど》りたる大砲《たいはう》二|門《もん》、今猶《いまな》ほ島津氏《しまづし》の鹿兒島磯邸《かごしまいそやしき》にありと云《い》へば、其《そ》の眞消息《しんせうそく》を知《し》るに於《おい》て、餘師《よし》あらむ歟《か》。

[#5字下げ][#中見出し]【三六】耳川の敗軍[#中見出し終わり]

大友勢《おほともぜい》の日向《ひふが》に入《い》るや、伊東氏《いとうし》の舊領民《きうりやうみん》の中《なか》には、舊主《きうしゆ》を慕《した》うて、島津氏《しまづし》に反《そむ》きたるものも、少《すくな》からずあつた。されば其《そ》の當初《たうしよ》に於《おい》ては、自《おのづ》から大友勢《おほともぜい》に有利《いうり》であつた。義統《よしむね》が捷報《せふはう》を聞《き》くや、彼《かれ》は如何《いか》なる心意氣《こゝろいき》であつた乎《か》。
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彼《かれ》は馬上《ばじやう》にて、書簡《しよかん》を受取《うけと》つた。而《しか》して其《そ》の捷報《せふぱう》を讀《よ》んで、未《いま》だ了《をは》らざるに、乍《たちま》ち馬《うま》より飛《と》び下《お》り、跪《ひざまづ》きつゝ|兩手《りやうて》を揚《あ》げ、我兵《わがへい》を傷《きづゝ》くる※[#「こと」の合字、170-6]なくして、此《かく》の如《ごと》き大捷《たいせふ》を得《え》た※[#「こと」の合字、170-7]を、神《かみ》に感謝《かんしや》した。彼《かれ》の隨從者《ずゐじゆうしや》は、何《いづ》れも其《そ》の何故《なにゆゑ》たるを解《かい》せず、驚異《きやうい》した。彼《かれ》は全文《ぜんぶん》を讀《よ》んで聞《きか》せた、隨從者中《ずゐじゆうしやちう》の耶蘇教信徒《やそけうしんと》に向《むか》つて、謝恩《しやおん》の祈祷《きたう》を神《かみ》に捧《さゝ》ぐ可《べ》く命《めい》じた。彼《かれ》は直《たゞ》ちに特使《とくし》を、我等《われら》の許《もと》に馳《は》せ、告《つ》げ且《か》つ謝《しや》して曰《いは》く、是《こ》れ畢竟《ひつきやう》、師父《しふ》、修道士等《しうだうしら》の献祭《けんさい》と、祈祷《きたう》とによりて、獲《え》たる大捷《たいせふ》なりと信《しん》ずと。
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此《これ》は宣教師等《せんけうしら》の、年報《ねんぱう》に記《しる》したる一|節《せつ》の意味《いみ》である。宣教師《せんけうし》、及《およ》び大友父子《おほともふし》は或《あるひ》は斯《か》く信《しん》じたるやも知《し》れぬが、大友勢《おほともぜい》の過半《くわはん》、及《およ》び其他《そのた》は、宗麟父子《そうりんふし》が、遠《とほ》からず、神罰《しんばつ》、佛刑《ぶつけい》の覿面《てきめん》に來《きた》る可《べ》きを、豫期《よき》して居《ゐ》た。併《しか》し神明《しんめい》の加護《かご》や、冥罰《みやうばつ》やは姑《しば》らく措《お》き、豐後勢《ぶんごぜい》は、到底《たうてい》薩摩勢《さつまぜい》の敵《てき》ではなかつた。
豐後勢《ぶんごぜい》は其《そ》の主將《しゆしやう》たる宗麟《そうりん》が、其《そ》の名《な》のみの主將《しゆしやう》で、其《そ》の指揮權《しきけん》を、最《もつと》も不人望《ふじんばう》なる田原紹恩《たはらせうおん》に委《ゆだ》ねた。從《したが》つて統制力《とうせいりよく》が缺《か》け、又《ま》た將校間《しやうかうかん》の統《とう》一が附《つ》かなかつた。又《ま》た宗麟《そうりん》の破異教的行動《はいけうてきかうどう》は、軍隊《ぐんたい》の大部分《だいぶぶん》をして、反感《はんかん》を生《しやう》ぜしめ、若《も》しくは鬼胎《きたい》を懷《いだ》き、疑倶《ぎぐ》の念《ねん》を起《おこ》さしめた。是《こ》れが爲《た》めに、其《そ》の士氣《しき》を沮喪《そさう》したる事《こと》、多大《ただい》であつた。而《しか》して其《そ》の兵《へい》の素質《そしつ》に於《おい》ても、剽悍《へうかん》なる薩摩隼人《さつまはやと》には、固《もと》より及《およ》ぶ可《べ》くもなかつた。されば勝敗《しようはい》の數《すう》は、今《いま》だ戰《たゝか》はざるに先《さきだ》ち、既《すで》に分明《ぶんみやう》であつたと云《い》ふも、可《か》なりだ。
高城《たき》は兩軍《りやうぐん》の接觸點《せつしよくてん》であつた。高城《たき》の守將《しゆしやう》は、島津氏《しまづし》の勇將《ゆうしやう》山田有信《やまだありのぶ》であつた。大友勢《おほともぜい》の來寇《らいこう》を聞《き》くや、日向《ひふが》に於《お》ける要地《えうち》の諸城主《しよじやうしゆ》、皆《み》な此處《こゝ》に來《きた》り合《がつ》した。即《すなは》ち佐土原城主《さどはらじやうしゆ》島津家久《しまづいへひさ》、鹽見《しほみ》の地頭《ぢとう》吉利忠澄《よしとしただずみ》、都於城主《つおじやうしゆ》鎌田政近《かまだまさちか》、其《そ》の他《た》比志島國貞等《ひしじまくにさだら》、何《いづ》れも力《ちから》を戮《あは》せ、三千|餘人《よにん》心《こゝろ》を一にして防守《ばうしゆ》し、援軍《ゑんぐん》の到《いた》るを待《ま》つた。大友勢《おほともぜい》は城《しろ》の汲道《きふだう》を絶《た》つた。然《しか》も古檣《こしやう》の下《もと》、清水《せいすゐ》混々《こん/\》として、自《おのづ》から湧《わ》き出《いだ》した。衆《しゆう》皆《み》な以《もつ》て天佑《てんいう》となし、兵氣《へいき》十|倍《ばい》した。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
義久《よしひさ》は天正《てんしやう》六|年《ねん》十|月《ぐわつ》二十五|日《にち》、鹿兒島《かごしま》を發《はつ》し、十一|月《ぐわつ》朔日《ついたち》、佐土原《さどはら》に次《じ》した。義弘《よしひろ》は飯野《いひの》を發《はつ》し、十一|月《ぐわつ》十|日《か》財部城《たからべじやう》に入《はひ》つた。此《こ》の間《かん》屡《しばし》ば小戰《せうせん》あつたが、何《いづ》れも斥候戰《せつこうせん》、前衞《ぜんゑい》の衝突《しようとつ》に過《す》ぎなかつた。而《しか》して大衝突《だいしようとつ》は、十一|月《ぐわつ》十二|日《にち》であつた。豐後勢《ぶんごぜい》は、大擧《たいきよ》して進攻《しんこう》した。佐伯宗天《さへぎそうてん》、田北鎭周《たきたしげちか》、其《そ》の先鋒《せんぽう》であつた。義久《よしひさ》は軍《ぐん》を五|段《だん》に分《わ》けた。先鋒《せんぽう》本田親冶《ほんだちかはる》、北郷久盛《ほんがうひさもり》、二|隊《たい》島津義弘《しまづよしひろ》、左翼《さよく》島津征久《しまづゆきひさ》、右翼《うよく》島津忠長《しまづたゞなが》、而《しか》して、義久《よしひさ》自《みづか》ら總豫備隊《そうよびたい》を率《ひき》ゐて、中軍《ちうぐん》に控《ひか》へた。大友勢《おほともぜい》は猛烈《まうれつ》に戰《たゝか》うて、親冶《ちかはる》、久盛《ひさもり》を殪《たふ》した。義弘《よしひろ》突撃《とつげき》した。先鋒《せんぱう》の敗兵《はいへい》、亦《ま》た憤激《ふんげき》して返《かへ》し戰《たゝか》うた。征久《ゆきひさ》、忠長《たゞなが》の兩翼《りやうよく》は挾撃《けふげき》した。義久《よしひさ》は其《そ》の總豫備隊《そうよびたい》を大《おほい》に縱《はな》つた。高城《たき》の城中《じやうちう》よりは、城門《じやうもん》を開《ひら》き、家久《いへひさ》、有信《ありのぶ》、政近《まさちか》、忠澄《たゞずみ》、國貞等《くにさだら》突出《とつしゆつ》した。
此日《このひ》天候《てんこう》も亦《ま》た、大友勢《おほともぜい》に不利《ふり》であつた。暴風《ばうふう》旗《はた》を吹《ふ》き、礫《こいし》を飛《とば》し、面《おもて》を向《む》く可《べ》くもなかつた。是《こゝ》に於《おい》て大友勢《おほともぜい》は大《おほい》に亂《みだ》れて、潰走《くわいそう》した。義久《よしひさ》の軍《ぐん》を出《いだ》すや、一|夜《や》夢中《むちう》に句《く》を得《え》た。曰《いは》く、『伐《う》つ敵《てき》は、龍田《たつた》の川《かは》の紅葉《もみぢ》かな。』と。戰場附近《せんぢやうふきん》に大池《おほいけ》あり、敗兵《はいへい》の之《これ》に陷《おちい》り死《し》するもの數《す》百、人馬《じんば》旌旗《せいき》の水《みづ》に浮沈《ふちん》する、恰《あたか》も紅葉《もみぢ》の秋水《しうすゐ》に浮《うか》ぶが如《ごと》くあつた。此《こゝ》に於《おい》て義久《よしひさ》も、靈夢《れいむ》の符号《ふがふ》を知《し》り、天佑《てんいう》の偶然《ぐうぜん》ならざるに感《かん》じたと云《い》ふ。〔島津國史、西藩野史〕[#「〔島津國史、西藩野史〕」は1段階小さな文字]
扨《さて》も島津氏《しまづし》は大友勢《おほともぜい》を追撃《つゐげき》し、高城《たき》より耳川《みゝかは》に至《いた》つた。七|里《り》の間《あひだ》、伏屍地《ふくしち》を掩《おほ》うた。而《しか》して家久《いへひさ》力戰《りよくせん》尤《もつと》も勗《つと》めた。其《そ》の一|隊《たい》は彦嶽《ひこだけ》に向《むか》つて奔《はし》つた。山田有信《やまだありのぶ》之《これ》を尾撃《びげき》した。田原紹恩《たはらせうおん》は、自《みづか》ら敗軍《はいぐん》に殿《でん》して退《しりぞ》いたが、遂《つひ》に耳川《みゝかは》に擠《おと》され、之《こ》れが爲《た》めに死《し》する者《もの》、無數《むすう》であつた。大友勢《おほともぜい》の死者《ししや》四千|人《にん》、其《そ》の將《しやう》吉弘鑑直《よしひろかねなほ》、臼杵鎭次《うすきしげつぐ》、田北鎭周等《たきたしげちから》、皆《み》な鬪沒《とうぼつ》した。蒲池鑑盛《がまちかねもり》は、民屋《みんをく》に入《い》りて、自殺《じさつ》した。而《しか》して島津勢《しまづぜい》は、翌日《よくじつ》大《おほい》に勝鬨《かちどき》を擧《あ》げ、耳川《みゝかは》を濟《わた》りて日向《ひふが》の諸地《しよち》を略《りやく》し、廿九|日《にち》には、義久《よしひさ》は鹿兒島《かごしま》に還《かへ》つた。

[#5字下げ][#中見出し]【三七】敗軍と宗麟[#中見出し終わり]

吾人《ごごん》は猶《な》ほ此《こ》の敗軍《はいぐん》の際《さい》に於《おけ》る、大友宗麟《おほともそうりん》の態度《たいど》に就《つい》て、觀察《くわんさつ》す可《べ》き興味《きようみ》を持《も》つて居《ゐ》る。大友宗麟《おほともそうりん》の日向《ひふが》の住居《ぢゆうきよ》は、縣《あがた》であつた。縣《あがた》は日向《ひふが》の豐後《ぶんご》に境《さかひ》する、臼杵郡《うすきごほり》の中《うち》の、英田郷《あがたがう》にて、現時《げんじ》延岡附近《のべをかふきん》邑里《いうり》の總稱《そうしよう》である。彼《かれ》は此《こ》の敗報《はいはう》に接《せつ》して、如何《いか》に狼狽《らうばい》したるよ。
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敗兵《はいへい》が宗麟《そうりん》の本營《ほんえい》に逃《に》げ來《きた》りて、注進《ちゆうしん》するや、宗麟《そうりん》の從臣共《じゆうしんども》の恐怖《きようふ》と、混雜《こんざつ》とは、何《なん》とも名状《めいじやう》されぬ程《ほど》であつた。師父《しふ》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]は、極力《きよくりよく》之《これ》を鎭靜《ちんせい》せんと勗《つと》め、宗麟《そうりん》に向《むか》つて急遽《きふきよ》に退却《たいきやく》する勿《なか》れ、須《すべか》らく敗兵《はいへい》を收拾《しうしふ》せよ。御身《おんみ》は今《い》ま要害《えうがい》に據《よ》る、敵《てき》は決《けつ》して卒然《そつぜん》として、來《きた》り襲《おそ》ふ※[#「こと」の合字、174-9]|克《あた》はぬ。味方《みかた》の死亡《しばう》の夥多《くわた》なりとは、斯《かゝ》る際《さい》の報告《はうこく》には、珍《めづら》しからぬ例《れい》にて、其《そ》の實際《じつさい》は左程《さほど》ではあるまい抔《など》、言葉《ことば》を盡《つく》して姑《しば》らく此處《こゝ》に、踏《ふ》み止《とゞま》られたしと諫《いさ》めた。斯《か》く漸《やうや》く納得《なつとく》せしめたる、宗麟《そうりん》の決心《けつしん》は、復《ま》た忽《たちま》ちにして飜《ひるがへ》つた。彼《かれ》の從臣共《じゆうしんども》の高《たか》く叫《さけ》ぶ騷擾《さうぜう》や、愁訴《しうそ》や、其《そ》の極《きはま》りなき恐慌《きようくわう》や、動搖《どうえう》や、宗麟《そうりん》もやがて、其中《そのなか》に捲《ま》き込《こ》まれた。而《しか》して彼《かれ》は其《そ》の從臣等《じゆうしんら》と共《とも》に、急遽《きふきよ》、潰亂《くわいらん》して豐後《ぶんご》に逃《のが》れた。彼《かれ》は同夜《どうや》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]に使《つかひ》を遣《つか》はし、最早《もはや》一|刻《こく》も待《ま》つ可《べ》き時間《じかん》のなきを告《つ》げ、速《すみや》かに修道士等《しうだうしら》を率《ひき》ゐ、退去《たいきよ》せよと告《つ》げた。同夜《どうや》の心配《しんぱい》や、混雜《こんざつ》の、如何《いか》に非常《ひじやう》であつたかは、彼《かれ》の老臣《らうしん》、及《およ》び從者共《じゆうしやども》が、食料《しよくれう》の用意《ようい》を拠却《はうきやく》した事《こと》にて察《さつ》せらるゝ。其《そ》の豐後《ぶんご》に至《いた》る三四|日路《かぢ》に於《おい》て、彼等《かれら》は何《いづ》れも飢餓《きが》と、疲勞《ひらう》との爲《た》めに、困殺《こんさつ》せられんとし、而《しか》して宗麟《そうりん》、及《およ》び其《そ》の夫人《ふじん》さへも、途中《とちう》頗《すこぶ》る當惑《たうわく》した。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは間違《まちがひ》なき宣教師側《せんけうしがは》の報告《はうこく》である。而《しか》して師父《しふ》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]、及《およ》び七八|名《めい》の耶蘇會士《やそくわいし》は、其《そ》の教會堂《けうくわいだう》に火《ひ》を放《はな》ち、立《た》ち退《の》いた。然《しか》も彼等《かれら》は、實《じつ》に※[#「りっしんべん+參」、175-10]《みじ》めなる目《め》に遭《あ》うた。敵《てき》は固《もと》より、大友勢《おほともぜい》も、今囘《こんくわい》の敗北《はいぼく》は、全《まつた》く彼等《かれら》耶蘇坊主共《やそばうずども》の所爲《しよゐ》と認《みと》めたれば、彼等《かれら》は敵《てき》よりも、寧《むし》ろ味方《みかた》を恐《おそ》れねばならぬ、始末《しまつ》となつた。彼等《かれら》は四|日間《かかん》、寒氣《かんき》と戰《たゝか》ひ、飢餓《きが》と戰《たゝか》ひ、霜野《さうや》に寢《い》ね、寒氷《かんぴやう》を渉《わた》り、徒歩《とほ》の儘《まゝ》、漸《やうや》く府内《ふない》に到著《たうちやく》した。然《しか》も形勢《けいせい》は一|變《ぺん》した。
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猛惡《まうあく》なるイセベル〔宗麟の前妻田原紹恩の妹〕[#「〔宗麟の前妻田原紹恩の妹〕」は1段階小さな文字]は、其《そ》の兄弟《きやうだい》、及《およ》び今囘《こんくわい》の戰爭《せんさう》にて、其《そ》の父兄《ふけい》、子弟《してい》を喪《うしな》うたる大身等《たいしんら》と與《とも》に、其《そ》の敗北《はいぼく》の因《いん》を以《もつ》て、我等《われら》の豐後《ぶんご》に來《き》た事《こと》と、神社《じんじや》、佛閣《ぶつかく》の破壞《はくわい》とにあるとなし、我等《われら》を殺《ころ》す可《べ》く、左《さ》なくも放逐《はうちく》す可《べ》く、決心《けつしん》した。戰死者《せんししや》の數《すう》は、頗《すこぶ》る多《おほ》く、市中《しちう》の大半《たいはん》は喪《も》に服《ふく》し、是《こ》れが爲《た》めに我等《われら》を瞋《いか》る者《もの》、滔々《たう/\》皆《み》な然《しか》りであつた。されば彼等《かれら》が限《かぎ》りなき暴行《ばうかう》、無禮《ぶれい》を逞《たくまし》うし、侮蔑怒罵《ぶべつどば》の文句《もんく》を浴《あび》せ掛《か》ける爲《た》めに、我等《われら》は市街《しがい》に出《い》づることさへ能《あた》はなかつた。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは師父《しふ》ガブラル[#「ガブラル」に傍線]等《ら》の自白《じはく》であつた。併《しか》し宗麟《そうりん》は、猶《な》ほ彼等《かれら》を擁護《ようご》する事《こと》を忘《わす》れなかつた。狼狽《らうばい》の餘《あまり》、日向《ひふが》より退去《たいきよ》に際《さい》して、食料《しよくれう》を携帶《けいたい》する事《こと》さへ忘《わす》れたる宗麟《そうりん》は、自《みづか》ら教會堂《けうくわいだう》に出掛《でか》けて、其《そ》の尤《もつと》も貴重《きちよう》としたる十|字架《じか》を、取《と》り還《かへ》る事《こと》を忘《わす》れなかつた。ガブラル[#「ガブラル」に傍線]が教會堂《けうくわいだう》に至《いた》るや、宗麟《そうりん》は既《すで》に先《ま》づ在《あ》りて、彼《かれ》が今《い》ま享《う》けつゝある試煉《しれん》と、苦難《くなん》とに就《つい》て、双手《さうしゆ》を揚《あ》げて、神《かみ》に感謝《かんしや》しつゝあつた。
斯《か》くて彼《かれ》は、竊《ひそか》にガブラル[#「ガブラル」に傍線]に語《かた》つて曰《いは》く。
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今囘《こんくわい》の敗軍《はいぐん》は、我《わ》が領民《りやうみん》を神《かみ》に導《みちび》く爲《た》めの、天意《てんい》ぢやと思《おも》ふ。そは神聖《しんせい》なる福音《ふくいん》の廣布《くわうふ》を妨害《ばうがい》し、神聖《しんせい》なる規法《きはふ》の怨敵《をんてき》たる、あらゆる城主《じやうしゆ》、大身共《たいしんども》は。概《おほむ》ね此《こ》の一|戰《せん》にて打死《うちじに》した。假令《たとひ》戰捷《せんせふ》を得《え》ても。若《も》し彼等《かれら》にして生存《せいぞん》せば、我等父子《われらふし》は、如何《いか》に心《こゝろ》は聖教《せいけう》を領内《りやうない》に布《し》くに、熱心《ねつしん》なるも、到底《たうてい》之《これ》を實行《じつかう》するを得《え》ぬからぢや。
[#ここで字下げ終わり]
と。是《こ》れ果《はた》して、宗麟《そうりん》の本心《ほんしん》より出《い》で來《きた》つた言葉《ことば》である乎《か》。將《は》た宣教師共《せんけうしども》に對《たい》する、當座《たうざ》の氣休《きやす》め文句《もんく》であつた乎《か》。何《いづ》れにしても、笑止千萬《せうしせんばん》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。
要《えう》するに宗麟《そうりん》は、其《そ》の國崩《こくほう》─|宗麟《そうりん》が自《みづか》ら稱《とな》へたる大砲《たいはう》の名《な》─を得《え》んが爲《た》めに、却《かへつ》て自《みづ》からの國《くに》を崩《くづ》した。彼《かれ》が外國《ぐわいこく》宣教師等《せんけうしら》を懷柔《くわいじう》して、得《え》たる所《ところ》と、失《うしな》うたる所《ところ》とを計較《けいかく》すれば、彼《かれ》は寧《むし》ろ損失者《そんしつしや》であつた。若《も》し彼《かれ》の眞意《しんい》が、果《はた》して此言《このげん》の通《とほ》りとすれば、彼《かれ》は正《まさ》しく亡國《ばうこく》の君主《くんしゆ》と云《い》はねばならぬ。

[#5字下げ][#中見出し]【三八】九州に於ける變局[#中見出し終わり]

耳川《みゝかは》の敗報《はいはう》は、九|州各地《しうかくち》に於《お》ける、城主《じやうしゆ》、土豪等《どがうら》、甚大《じんだい》の衝動《しようどう》を與《あた》へた。而《しか》して大友氏《おほともし》は、此《こ》の一|敗《ぱい》の爲《た》めに、其《そ》の分國《ぶんこく》の被官《ひくわん》、附庸《ふよう》をして、離反《りはん》せしめ、隨《したが》つて九|州《しう》の大勢《たいせい》に、一|大變局《だいへんきよく》を生《しやう》ぜしめた。戰利品《せんりひん》は戰勝者《せんしようしや》に歸《き》す。大友氏《おほともし》の失墜《しつつゐ》したる物《もの》を、收納《しうなふ》したるは、云《い》ふ迄《まで》もなく島津氏《しまづし》であつた。即《すなは》ち此《こ》の一|戰《せん》の爲《た》めに、大友氏《おほともし》は九|州《しう》に於《お》ける、第《だい》二|流《りう》の勢力《せいりよく》となり下《さが》り、島津氏《しまづし》は殆《ほとん》ど、獨專的《どくせんてき》第《だい》一|流《りう》の勢力《せいりよく》となつた。但《た》だ此際《このさい》に於《おい》て、島津氏《しまづし》に取《と》りて、障礙物《しやうがいぶつ》とす可《べ》きは、肥前《ひぜん》の龍造寺氏《りゆうざうじし》であつた。彼《かれ》は一|方《ぱう》に於《おい》ては、島津氏《しまづし》と提携《ていけい》して、大友氏《おほともし》を伐《う》たんと※[#「風にょう+昜」、第3水準1-94-7]言《やうげん》しつゝ、〔天正七年八月二十八日、龍造寺隆信の、伊集院忠棟に與へたる書を見よ、島津國史〕[#「〔天正七年八月二十八日、龍造寺隆信の、伊集院忠棟に與へたる書を見よ、島津國史〕」は1段階小さな文字]他方《たはう》に於《おい》ては、島津氏《しまづし》と、大友氏《おほともし》の獲物《えもの》を爭《あらそ》はんとした。
大友氏《おほともし》の勢圜《せいくわん》の中《うち》にて、最初《さいしよ》に分解《ぶんかい》したのは、肥後《ひご》であつた。宇土《うど》の城主《じやうしゆ》伯耆顯孝《はうきあきたか》、隈本《くまもと》の城主《じやうしゆ》城親賢等《じやうちかかたら》、先《ま》づ款《くわん》を島津氏《しまづし》に通《つう》じた。而《しか》して從來《じゆうらい》島津氏《しまづし》に對《たい》して、眼上《めのうへ》の瘤《こぶ》たる相良氏《さがらし》も亦《ま》た、力《ちから》屈《くつ》して遂《つひ》に降《くだ》つた。
相良氏《さがらし》は九|州《しう》に於《お》ける、舊家《きうか》の一である。彼《かれ》は藤原左大臣武智麿《ふぢはらさだいじんたけちまろ》の四|男《なん》乙麿《おとまろ》より出《い》で、第《だい》一|世《せい》惟兼《これかね》の孫《まご》周頼《ちかより》、遠州相良《ゑんしうさがら》の庄《しやう》を領《りやう》し、始《はじ》めて相良氏《さがらし》を名乘《なの》り。第《だい》八|世《せい》長頼《ながより》、建久《けんきう》九|年《ねん》肥後球磨郡人吉《ひごくまごほりひとよし》の庄《しやう》を領《りやう》し、爾來《じらい》鎭西《ちんぜい》の御家人《ごけにん》となつた。當時《たうじ》の相良氏《さがらし》は、恰《あたか》も第《だい》二十五|世《せい》義陽《よしひ》であつた。彼《かれ》は球磨《くま》、八代《やつしろ》、葦北《あしきた》の三|郡《ぐん》を領《りやう》し、日向《ひふが》、大隈《おほすみ》、薩摩《さつま》に境《さかひ》し、肥後《ひご》の南部《なんぶ》に於《お》ける一|勢力《せいりよく》であつた。時《とき》としては大隈《おほすみ》の菱刈《ひしかり》、大口等《おほぐちとう》、及《およ》び日向《ひふが》の一|部《ぶ》をも占領《せんりやう》した。されば島津氏《しまづし》の日向《ひふが》に出《い》でんとするにも、相良氏《さがらし》は伊東氏《いとうし》と※[#「特のへん+奇」、U+7284、179-11]角《きかく》して、往々《わう/\》之《これ》を妨《さまた》げた。然《しか》も島津氏《しまづし》が肥後《ひご》に出《い》でんには、是非共《ぜひとも》道《みち》を相良氏《さがらし》に假《か》るにあらざれば、能《あた》はなかつた。
相良氏《さがらし》は大友《おほとも》、島津《しまづ》兩勢力《りやうせいりよく》の間《あひだ》に介在《かいざい》して、時《とき》としては兩屬《りやうぞく》し、時《とき》としては大友氏《おほともし》の被官《ひくわん》となり、時《とき》としては獨立《どくりつ》した。然《しか》も小敵《せうてき》は大敵《たいてき》の擒《とりこ》であつて、島津氏《しまづし》の爲《た》めに攻略《こうりやく》せられ、薩摩《さつま》に接《せつ》する水俣城《みづまたじやう》は開城《かいじやう》し、更《さ》らに津奈木《つなぎ》、佐敷《さしき》、湯浦《ゆのうら》、日名子《ひなご》、高田等《かうだとう》の諸城《しよじやう》を割《さ》き、其《そ》の二|子《し》を質《ち》とし、相良義陽《さがらよしひ》は、佐敷《さしき》に於《おい》て、島津義久《しまづよしひさ》に會見《くわいけん》して降《くだ》つた。是《こ》れは天正《てんしやう》九|年《ねん》の九|月《ぐわつ》であつた。
當時《たうじ》龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》は、頻《しき》りに肥後《ひご》の北部《ほくぶ》を侵《をか》した。島津氏《しまづし》としては、一|日《にち》も速《すみや》かに大友氏《おほともし》の領地《りやうち》に徇《とな》ふるの必要《ひつえう》がある。されば義久《よしひさ》は、書《しよ》を相良義陽《さがらよしひ》に致《いた》して、彼《かれ》を先鋒《せんぽう》として、先《ま》づ御船城主《みふねじやうしゆ》甲斐宗運《かひそううん》を攻《せ》めしめた。宗運《そううん》は阿蘇氏《あそし》の老將《らうしやう》にて、大友氏《おほともし》の被官《ひくわん》であつた。相良氏《さがらし》は甲斐氏《かひし》と先代《せんだい》より好《よしみ》を通《つう》じ、特《とく》に義陽《よしひ》と宗運《そううん》とは、誓詞《せいし》を交換《かうくわん》したる間柄《あひだがら》であつた。然《しか》も義陽《よしひ》は島津義久《しまづよしひさ》に強要《きやうえう》せられ、天正《てんしやう》九|年《ねん》十二|月《ぐわつ》朔《さく》、兵《へい》を率《ひき》ゐて人吉《ひとよし》を出《い》で、甲佐《かふさ》、堅志田《かたしだ》、御船《みふね》、隈莊等《くまのしやうとう》を燒《や》いた。然《しか》も宗運《そううん》は烟雨晦冥《えんうくわいめい》に乘《じよう》じ、師《し》を濳《ひそ》め義陽《よしひ》の軍後《ぐんご》に出《い》で、掩撃《えんげき》して義陽《よしひ》を殪《たふ》した。而《しか》して天正《てんしやう》十|年《ねん》には、相良氏《さがらし》の領《りやう》八|代郡《しろごほり》も亦《ま》た、島津氏《しまづし》の有《いう》に歸《き》した。此《かく》の如《ごと》くして、肥後《ひご》の南部《なんぶ》は、殆《ほと》んど島津氏《しまづ》の勢圜《せいくわん》に歸《き》した。
信長《のぶなが》は豫《かね》てより九|州《しう》に著眼《ちやくがん》した。彼《かれ》は九|州《しう》に於《お》ける各勢力《かくせいりよく》の消長《せうちやう》には、少《すくな》からざる注意《ちゆうい》を拂《はら》うた。足利義昭《あしかゞよしあき》は、頻《しき》りに内書《ないしよ》を島津氏《しまづし》に發《はつ》し、毛利氏《まうりし》と提携《ていけい》して、足利將軍家《あしかゞしやうぐんけ》の恢復《くわいふく》を謀《はか》らしめた。毛利氏《まうりし》は又《ま》た島津氏《しまづし》に書《しよ》を與《あた》へ、大友氏《おほともし》の後《のち》を躡《ふ》ましめん※[#「こと」の合字、181-4]を謀《はか》つた。而《しか》して大友氏《おほともし》は、本來《ほんらい》毛利氏《まうりし》と相容《あひい》れざれば、彼《かれ》が始《はじめ》より信長《のぶなが》に好《よしみ》を通《つう》じたのは、必然《ひつぜん》の成行《なりゆき》と云《い》はねばならぬ。
斯《かゝ》る次第《しだい》なれば、信長《のぶなが》は、島津《しまづ》が大友《おほとも》を衰亡《すゐばう》せしめ、若《も》しくは全滅《ぜんめつ》せしむるを、欲《ほつ》せなかつた相違《さうゐ》ない。彼《かれ》は理由《りいう》なくして、島津《しまづ》の惡感情《あくかんじやう》を估《か》ふを好《この》まず、されば彼自《かれみづか》ら手《て》を九|州《しう》の切《き》り盛《も》りに下《くだ》さゞる迄《まで》も、其《そ》の現状維持《げんじやうゐじ》の必要《ひつえう》を認《みと》めたに相違《さうゐ》ない。
[#ここから1字下げ]
雖[#下]未[#二]相通[#一]候[#上]令[#レ]啓候《いまだあひつうぜずさふらふといへどもけいせしめさふらふ》。仍大友與鉾楯事《さておほともとむじゆんのこと》、不[#レ]可[#レ]然《しかるべからず》、所詮和合尤候歟《しよせんはわがふもつともにさふらふか》。將又此面事《はたまたこのおもてのこと》、近年本願寺令[#二]緩急[#一]之條《きんねんほぐわんじをしてくわんきふせしむるのでう》、令[#レ]赦免[#一]《しやめんせしめ》、至[#二]紀州雜賀[#一]罷[#二]退之[#一]《きしうさいがにいたるまでこゝをまかりのき》、畿内無[#二]殘所[#一]屬[#二]靜謐[#一]候《きないのこるところなくせいひつにぞくしさふらふ》。來年於[#二]藝州[#一]可[#二]出馬[#一]候《らいねんはげいしうにしゆつばすべくさふらふ》。其刻別而御入魂《そのときべつしてごじゆこん》、對[#二]天下[#一]可[#レ]爲[#二]大忠[#一]候《てんかにたいしてだいちゆうたるべくさふらふ》。尚近衞殿可[#レ]被[#レ]仰《なほこのゑでんおほせらるべき》に付《つき》、閣[#レ]筆候《ふでをおきさふらふ》。恐々謹言《きよう/\きんげん》。
[#ここから2字下げ]
八月十二日(天正八年)[#「(天正八年)」は1段階小さな文字]
[#地から2字上げ]信   長
[#ここから6字下げ]
島津修理太夫殿
[#ここから15字下げ]
御 宿 所
[#ここで字下げ終わり]
信長《のぶなが》の一|書《しよ》は、實《じつ》に島津氏《しまづし》に對《たい》して、重大《じゆうだい》なる警告《けいこく》を意味《いみ》した。
信長《のぶなが》は更《さ》らに島津氏《しまづし》と舊縁《きうえん》薄《うす》からざる、近衞前久《このゑさきひさ》をして、此事《このこと》を斡旋《あつせん》せしめた。而《しか》して前久《さきひさ》は、信長《のぶなが》の注意《ちゆうい》によりて、再《さい》三、再《さい》四、島津義久《しまづよしひさ》に向《むか》つて、信長《のぶなが》の意《い》に奬順《しやうじゆん》し可《べ》く諭《さと》した。
[#ここから1字下げ]
抑其國豐州之儀《そも/\そのくにほうしうのぎ》、于[#レ]今被[#二]申結[#一]由候《いまにまをしむすばるよしにさふらふ》。大友之事《おほとものこと》、對[#二]信長公[#一]無[#二]疎略[#一]候《のぶながこうにたいしそりやくなくさふらふ》。殊更藝州邊《ことさらげいしうへん》も可[#レ]及[#レ]行調談候處《てだてにおよぶべくてうだんさふらふところ》、如[#レ]此之段無[#二]勿體[#一]候《かくのごときのだんもつたいなくさふらふ》。義久存分雖[#レ]在[#レ]之《よしひさぞんぶんこれありといへども》、此刻可[#二]申扱[#一]候《このときまをしあつかふべくさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
是《こ》れは天正《てんしやう》八|年《ねん》九|月《ぐわつ》十三|日《にち》附《づけ》にて、前久《さきひさ》より義久《よしひさ》の重臣《ぢゆうしん》喜入久道《きいれひさみち》に與《あた》へて、義久《よしひさ》をして、速《すみや》かに大友《おほとも》と、和睦《わぼく》せしめよと申遣《まをしつかは》したのだ。而《しか》して天正《てんしやう》九|年《ねん》三|月《ぐわつ》二|日《か》附《づ》にて前久《さきひさ》は又《ま》た島津攝津守《しまづせつつのかみ》に向《む》け、
[#ここから1字下げ]
仍去年豐薩兩國和睦之事《なほきよねんほうさつりやうこくわぼくのこと》、以[#二]御朱印[#一]被[#二]申下[#一]候筋目《ごしゆいんをもつてまをしさげられさふらふすぢめ》、屹度入眼之樣《きつとじゆがんのやう》に、異見肝要候《いけんかんえうにさふらふ》。自然於[#二]相滯[#一]者不[#レ]可[#レ]然候《しぜんあひとゞこほるにおいてはしかるべからずさふらふ》。其故者至[#二]藝州[#一]不圖可[#レ]被[#レ]及[#レ]行之由候間《そのゆゑはげいしうにいたりふとてだてにおよばるべきのよしにさふらふあひだ》、早速御請尤候《さつそくおうけもつともにさふらふ》。
[#ここで字下げ終わり]
と申入《まをしい》れた。即《すなは》ち信長《のぶなが》は既《すで》に藝州《げいしう》の毛利氏《まうりし》をも、手《て》に入《い》るゝ|調略《てうりやく》が附《つ》きつゝある。此際《このさい》信長《のぶなが》の命《めい》に抗《かう》し、大友《おほとも》と相鬪《あひたゝか》ふは、島津氏《しまづし》が天下《てんか》に孤立《こりつ》する所以《ゆゑん》であると、諭《さと》したのだ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]耳川戰後の形勢
[#ここから1段階小さな文字]
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一、今年薩州の島津義久、宗麟公と隅州高城、並日州耳川にて合戰。初めは豐州勢打勝ち、長手大江の城を乘取るといへども、後には利を失ひ、豐後の歴々數輩討死。田北鎭周が一族郎徒百廿餘人、佐伯宗天父子一族郎徒百六十餘人、齋藤鎭([#割り注]脱アルカ[#割り注終わり])、同進士百卅餘人、臼杵新介・同惣衞門尉・柴田何右衞門尉、此外戸次・志賀・一萬田・吉岡・古庄・朽網等が一族朗徒討死、其數を知らず。筑後の蒲池・宗雪・豐鐃等も討死、此軍より大友家の威勢衰へたり。此合戰は天正六年十月十二日なり。
一、今年隅州高城、日州耳川にて大友家敗北により、又國々の城主、郡主大友に背く。肥前の龍造寺隆信、肥・筑を打靡け、大友・島津を亡さんと計る。同國小田重光をたばかりて閨中に殺し、筑後の蒲池鎭漣を舞樂に事よせ、肥州與賀宮にて殺す。兩人共に隆信の婿なり。又松浦・波多・大村・有田等を攻むる。或は降參、或は籠城して、大友に加勢を乞ふもあり。筑前には秋月種實、肥前五箇山の城主筑紫惟門と同心し、叛逆を企て、城井・千手・長野・上原・原田・麻生・杉・宗像等を手につけて、筑前・豐前を治めんとす。肥には宇土城・川尻・合志・託摩・赤星・和仁・相良・有動・小代・隈部・本山・天草山・山田・津守等、大友の下知に從はず、島津に内通し、龍造寺に同心し、筑後には田尻・蒲池・三池・江上豐持・豐饒・黒木・齋藤・草野・大鳥井等、皆龍造寺隆信に打負けて、隆信の幕下となる。生葉郡井上城主問註所が一家と、高良山良寛法印ばかり、始終大友味方として忠を盡す。〔大友公御家覺書〕
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