高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第九章 九州諸豪勢力の消長[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【三一】島津氏と伊東氏[#中見出し終わり]
忠良《たゞよし》の死後《しご》、未《いま》だ十|年《ねん》ならずして、島津氏《しまづし》は、全《まつた》く薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》を確實《かくじつ》に支配《しはい》し、延《ひ》いて九|州《しう》の一|大勢力《だいせいりよく》となつた。乃《すなは》ち永祿《えいろく》十二|年《ねん》には、大口《おほぐち》の菱刈氏《ひしかりし》も、開城《かいじやう》して肥後《ひご》相良氏《さがらし》に奔《はし》つた。元龜《げんき》元年《ぐわんねん》には澁谷氏《しぶやし》下《くだ》り、大隈半島以外《おほすみはんたういぐわい》、薩《さつ》、隅《ぐう》の地《ち》は平定《へいてい》した。天正《てんしやう》二|年《ねん》には肝付氏《きもつきし》亦《ま》降《くだ》り、大隈半島《おほすみはんたう》彌《いよい》よ島津氏《しまづし》に歸《き》した。而《しか》して天正《てんしやう》五|年《ねん》の末《すゑ》には、日向《》の伊東氏《いとうし》亦《ま》た豐後《ぶんご》に退去《たいきやく》した。是《こ》れ實《じつ》に忠良《たゞよし》逝《ゆ》いてより、九|年後《ねんご》の事《こと》であつた。
島津氏《しまづし》が九|州《しう》に於《お》ける爭霸戰《さうはせん》は、肥後《ひご》の相良氏《さがらし》、日向《ひふが》の伊東氏《いとうし》、豐後《ぶんご》の大友氏《おほともし》、肥前《ひぜん》の龍造寺氏等《りゆうざうしら》に對《たい》してであつた。而《しか》して其《そ》の徑路《けいろ》は、伊東氏《いとうし》に克《か》つて、豐後《ぶんご》の大友氏《おほともし》と接觸《せつしよく》し、大友氏《おほともし》に克《か》つて、其《そ》の勢圜《くわん》を肥後《ひご》に及《およ》し、遂《ゆひ》に龍造寺氏《りゆうざうじし》と衝突《しようとつ》するに至《いた》つた、されば順序《じゆんじよ》として、少《すこ》しく伊東氏《いとうし》との戰爭《せんさう》を語《かた》る必要《ひつえう》がある。
伊東氏《いとうし》は工藤祐經《くどうすけつね》の裔《えい》だ。祐經《すけつね》の子《こ》祐時《すけとき》、頼朝《よりとも》より日向地頭職《ひふがぢとうしよく》に補《ほ》せられ、是《こ》れより日向《ひふが》に、其《そ》の根據《こんきよ》を定《さだ》めた。伊東祐堯《いとうすけたか》の時《とき》に至《いた》りて、島津《しまづ》、澁谷《しぶや》を除《のぞ》くの外《ほか》は、日向《ひふが》、薩摩《さつま》、大隈《おほすみ》の國人等《こくじんら》は、悉《こと/″\》く伊東《いとう》の家人《けにん》たる可《べ》しと、寛政《くわんせい》三|年《ねん》三|月《ぐわつ》十四|日《か》の足利幕府《あしがゞばくふ》の御下文《ごかもん》ありて、違命《ゐめい》の輩《yから》を打隨《うちしたが》へ、威《ゐ》を鎭西《ちんぜい》に振《ふる》うた。
伊東氏《いとうし》と島津氏《しまづし》とが、干戈《かんくわ》を交《まじ》ふるの起源《きげん》は、何時《いつ》にある乎《か》を詳《つまびらか》にせぬが、二|強《きやう》隣《となり》を接《せつ》すれば、勢《いきほ》ひ戰《たゝか》はねばならぬは、戰國《せんごく》の常態《じやうたい》であつた。兎《と》に角《かく》祐堯《すけたか》の子《こ》祐國《すけくに》は、弟《おとうと》祐邑《すけむら》と與《とも》に、島津氏《しまづし》と飫肥《おび》を爭《あらそ》ひ、文明《ぶんみ》十七|年《ねん》六|月《ぐわつ》には、三十八|歳《さい》にて、戰死《せんし》した。されば爾來《じらい》、伊東氏《いとうし》に取《と》りては、島津氏《しまづし》は累世《るいせい》の讐《あだ》であつた。
伊東義祐《いとうよしすけ》は祐國《すけくに》の孫《まご》である。彼《かれ》は如何《いか》にしても祖父《そふ》の讐《あだ》を復《ふく》せんと欲《ほつ》し、島津氏《しまづし》に向《むか》つて、其刄《そのやいば》を磨《みが》いた。天文《てんぶん》十|年《ねん》十|月《ぐわつ》、薩摩《さつま》に向《むか》つて出兵《しゆつぺい》した。鬼《おに》ヶ|城《じやう》、陽野《あけの》の城《じやう》を始《はじ》として、日井《ひゐ》、新山等《にひやまとう》の城《しろ》を攻《せ》め落《おと》し、島津氏《しまづし》の侍大將《さむらひだいしやう》多《おほ》く討《う》ち取《と》つた。其《そ》の二十九|年《ねん》九|月《ぐわつ》には姑《しば》らく島津氏《しまづし》と和《わ》したが。幾《いくばく》もなく復《ま》た戰爭《せんさう》となつた。義祐《よしすけ》は島津氏《しまづし》の内訌《ないこう》に乘《じよう》じ、其《そ》の反將等《はんしやうら》[#ルビの「はんしやうら」は底本では「はしやうら」]と策應《さくおう》し、屡《いばし》ば島津氏《しまづし》の兵《へい》を破《やぶ》つた。而《しか》して永祿《えいろく》十一|年《ねん》八|月《ぐわつ》には、義祐《よしひろ》遂《つひ》に飫肥城《をびじやう》を取《と》つた。島津忠昌《しまづたゞまさ》の時《とき》に、島津忠廉《しまづたゞかど》を此地《このち》に封《ほう》じたが、八十三|年《ねん》を經《へ》て、遂《つひ》に伊東氏《いとうし》の有《いう》となつた。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]而《しか》して其《そ》の勢力《せいりよく》は延《ひ》いて、大隈《おほすみ》より薩摩《さつま》にも及《およ》ばんとした。
されば義久《よしひさ》の弟《おとうと》、義弘《よしひろ》(當時忠平と稱す)[#「(當時忠平と稱す)」は1段階小さな文字]は、永祿《えいろく》七|年以來《ねんいらい》、飯野城《いひのじやう》に移《うつ》つて、專《もつぱ》ら伊東氏《いとうし》に備《しな》へた。而《しか》して伊東氏《いとうし》の勢力《せいりよく》に、一|大打撃《だいだげき》を及《およ》ぼしたるは、實《じつ》に元龜《gんき》三|年《ねん》五|月《ぐわつ》、木崎原《きざきはら》の一|戰《せん》であつた。此《こ》の戰爭《せんさう》は、薩人《さつじん》が琵琶歌《びはうた》に作《つく》り、其《そ》の成功《せいこう》を、後世《こうせい》に赫灼《かくしやく》たらしめたるものゝ一で、特《とく》に主將《しゆしやう》義弘《よしひろ》の武勇《ぶゆう》は、剽悍《へうかん》なる隼人武士《はやとぶし》の中《なか》に於《おい》てさへ、超群《てうぐん》、絶倫《ぜつりん》であつた。此《こ》の戰爭《せんさう》は、一|種《しゆ》の遭遇戰《さうぐうせん》にて、伊東勢《いとうぜい》が加久藤城《かくふぢじやう》の備《そなへ》あるを見《み》て、退《しりぞ》いて木崎原《きざきはら》に屯《たむろ》した。義弘《よしひろ》直《たゞ》ちに孤軍《こぐん》を提《ひつさ》げて之《これ》に薄《せま》つた。然《しか》も衆寡《しゆうくわ》敵《てき》せず、義弘《よしひろ》の先鋒《せんぽう》破《yぶ》れ退《しりぞ》くもの六百|歩《ぽ》、其《そ》の隊伍《たいご》亂《みだ》れんとするを見《み》るや、旗下《きか》の將士《しやうし》、決死《けつし》して奮鬪《ふんとう》した。義弘《よしひろ》は此《こ》の機會《きくわい》に於《おい》て、再《ふたゝ》び隊伍《たいご》を立《た》て直《なほ》し、自《みづか》ら槍《やり》を取《と》つて敵將《てきしやう》の一|人《にん》、伊東新次郎《いとうしんじらう》を突殺《つきころ》した。而《しか》して島津勢《しまづぜい》亦《ま》た、其《そ》の側面《そくめん》、及《およ》び背面《はいめん》より來《きた》り迫《せま》る。此《こゝ》に於《おい》て伊東勢《いとうぜい》は、全《まつた》く潰亂《くわいらん》して遁走《とんそう》した。伊東氏《いとうし》の將校《しやうかう》、伊東又次郎《いとうまたじらう》、上別府《かみべつぷ》、稻津《いなづ》、肥田《ひだ》、米良以下《めらいか》百六十|餘人《よにん》、爰《こゝ》に戰死《せんし》した。義弘《よしひろ》は更《さ》らに追撃《つゐげき》し、鬼塚原《おにづかはら》に至《いた》り、敵將《てきしやう》柚木丹後守《ゆづきざきたんごのかみ》を※[#「金+從」、U+93E6、148-7]殺《さうさつ》した。此《こ》の一|戰《せん》、敵《てき》を斬《き》る五百|餘級《よきふ》、島津勢《しまづぜい》の殺傷《さつしやう》、亦《ま》た此《これ》に半《なかば》ばした。而《しか》して伊東氏《いとうし》の勢力《せいりよく》、是《こ》れよりして俄然《がぜん》衰退《すゐたい》した。
斯《か》くて天正《てんしやう》五|年《ねん》十二|月《ぐわつ》に至《いた》り、義弘《よしひろ》は日州《にちしう》の野尻城《のじりじやう》を陷《おとしい》れた。野尻《のじり》は伊東方《いとうがた》の要衝《えいいよう》にて、福永丹後守《ふくながたんごのかみ》を守將《しゆしやう》とした。彼《かれ》は本來《ほんらい》伊東義祐《いとうよしすけ》に向《まか》つて、怨望《ゑんばう》を懷《いだ》いた。島津方《しまづがた》高原《たかはら》の城主《じやうしゆ》上原尚近《うへはらなほちか》、之《これ》を知《し》りて彼《かれ》を誘《いざな》うた。福永《ふくなが》陰《ひそか》に之《これ》に應《おう》じた。然《しか》るに義祐《よしすけ》は福永《ふくなが》の態度《たいど》に疑念《ぎねん》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さしはさ》み、其子《そのこ》を取《と》つて質《ち》とした。福永《ふくなが》は之《これ》が爲《た》めに、猶豫《いうよ》して決《けつ》せなかつた。上原《うえはら》は爲《た》めに反間書《はんかんしよ》を投《とう》じた。伊東大炊太夫《いとうおほゐだいう》は、之《これ》を得《え》て義祐《よしすけ》に示《しめ》した。義祐《よしすけ》は群下《ぐんか》と與《とも》に福永《ふくなが》を誅《ちゆう》せんと謀《はか》つた。此議《このぎ》に預《あづか》る野村備中守《のむらびつちうのかみ》も亦《ま》た、福永《ふくなが》の同腹者《どうふくしや》であつた。彼《かれ》は福永《ふくなが》の事《こと》の急《きふ》を告《つ》げた。福永《ふくなが》は十二|月《ぐわつ》七|日《か》、上原《うえはら》に告《つ》げて、島津《しまづ》の兵《へい》を迎《むか》へた。義弘《よしひろ》は難《なん》なく野尻城《のじりじやう》を取《と》つた。
八|日《か》には義弘《よしひろ》は、戸崎城《とざきじやう》を攻《せ》め之《これ》を取《と》つた。紙屋地頭《かみやぢとう》米良越後守《めらゑちごのかみ》は迎《むか》へ降《くだ》つた。九|日《か》には進《すゝ》んで富田城《とみたじやう》に向《むか》うた。守將《しゆしやう》湯池出雲守《ゆちいづものかみ》迎《むか》へ降《くだ》つた。十二|日《にち》義久《よしひさ》は高原《たかはら》に如《ゆ》いた。義弘《よしひろ》は勝《かち》に乘《じやう》じて進《すゝ》み、其勢《そのぜい》破竹《はちく》の如《ごと》く、伊東義祐《いとうよしすけ》は其《そ》の二|男《なん》祐岳《すけたけ》と與《とも》に、豐後《ぶんご》に赴《おもむ》き、大友宗麟《おほともそうりん》に頼《よ》つた。此《かく》の如《ごと》くして、二百四十|年《ねん》、島津氏《しまづし》と相抗《あひかう》したる、伊東氏《いとうし》の勢力《せいりよく》は、全《まつた》く日向《ひふが》より一掃《さう》され去《さ》つた。
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[#6字下げ]覺頭(加久藤)合戰敗北事
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眞幸表の働は、辛未の九月より翌元龜三年壬申五日迄、九ヶ月の間、飯野にかゝつて防ぎ戰爭數度なり、然るに壬申五月四日に、山東の大軍を起し、伊東加賀守、伊東新次郎、伊東又次郎、伊東修理進、彼四人を爲[#二]大將[#一]發向也、先飯野を押へて覺頭表を破らんとの僉議にて、伊東加賀守飯野の押へに定て、妙現の尾に備へらる、三大將は總軍を引卒し、覺頭表の麓を打破り、敵數多討捕、此競を以て放火し引退く所に、飯野の園少踏破りて、薩州の士卒飯野城内に追籠、岡尾平迄引退く、勝にのつて敵をあなどり、軍法みだりに有そかば、各僉議して、備を堅して引取玉へと制しけれども、過半若き大將にて下知不[#レ]調、薩州の士卒如何計の事をか仕出すべき、竹竿一本にて打破らんものをと聲々に喚りて、折節五月の事なれば暑さはあつし、皆水をあびて時刻を送りける程に、なじかはよかるべき、兵庫頭斥候を出し、油斷の體を見すまし、栗野横河五里の間より馳續き、合より急に蒐て突崩す、山東の諸大將是を見て、足を亂さず尋常に鑓を合せん者哉と、我も吾もと互に突出、火出る程ぞ戰ける、俄に備を立兼、薩州勢に懸立られ、はやり切たる若侍、數を不[#レ]知討れにけり、伊東加賀守、伊東修理進數をまとひ引退、然れども誰々戰死と追々に告たりしかば、各馳返し/\忠死を遂、中にも伊東源四郎討死と告たりければ、加賀守聞玉ひ取て返し、島津兵庫頭を目に懸て、敵の眞中に割て入、戰死して失られけり、此加賀守は勇氣智謀兼備して、伊東の人傑たりしかば、皆人惜みけるとぞ。〔日向記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【三二】大友氏の勢力[#中見出し終わり]
若《も》し傳説《でんせつ》にして信《しん》ず可《べ》くんば、大友氏《おほともし》も亦《ま》た島津氏《しまづし》と與《とも》に、頼朝《よりとも》の落胤《らくいん》である。そは大友經家《おほともつねいへ》の女《むすめ》が、頼朝《よりとも》に侍《じ》し、姙《はら》むありて藤原親能《ふぢはらちかよし》に嫁《か》して産《うま》れた子《こ》が、即《すなは》ち大友氏《おほともし》の祖《そ》能直《よしなほ》であると云《い》へば也《なり》。そは兎《と》も角《かく》も、大友能直《おほともよしなほ》は、建久年間《けんきうねんかん》、豐前《ぶぜん》、豐後《ぶんご》の守護職《しゆごしよく》に補《ほ》せられ、鎭西《ちんぜい》の奉行《ぶぎやう》となつた事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りである。
能直《よしなほ》より七|世《せい》氏時《うぢとき》の二|男《なん》、親世《ちかよ》の代《だい》に至《いた》つて、大友氏《おほともし》は大《おほ》いに振《ふる》うた。彼《かれ》は菊池氏《きくちし》と戰《たゝか》ふ、七十一|囘《くわい》であつたが、遂《つひ》に一|度《ど》も勝《か》たなかつた。而《しか》して最後《さいご》に、自《みづか》ら死《し》せりと稱《しよう》し、敵《てき》を懈《おこた》らしめ、其《そ》の不意《ふい》を襲《おそ》うて、之《これ》を破《やぶ》つた。遂《つひ》に其勢《そのいきほひ》に乘《じよう》じて、二|豐《ほう》、二|筑《ちく》、二|肥《ひ》の六|國《こく》を併《あは》せ、自《みづか》ら請《こ》うて、九|州《しう》の探題《たんだい》と稱《しよう》した。而《しか》して大友氏《おほともし》十一|代《だい》─|大友記《おほともき》には、十七|代《だい》と云《い》ふ─は、即《すなは》ち義鑑入道宗玄《よしあきにふだうそうげん》である。
宗玄《そうげん》は武略《ぶりやく》に於《おい》て、祖業《そげふ》を墜《おと》さぬのみならず、又《ま》た富國《ふこく》の術《じゆつ》に於《おい》て、卓越《たくゑつ》した。彼《かれ》は海外《かいぐわい》と貿易《ぼうえき》するの利益《りえき》を看取《かんしゆ》し、外舶《ぐわいはく》を豐後神宮浦《ぶんごじんくううら》に招致《せうち》した。彼《かれ》には三|人《にん》の子《こ》があつたが、其《そ》の嫡子《ちやくし》義鎭《よししげ》に家《いへ》を讓《ゆづ》るを欲《ほつ》せず、其《そ》の後妻《ごさい》の出《しゆつ》なる末子《ばつし》、到明《ゆきあき》に讓《ゆづ》らん※[#「こと」の合字、152-4]を企《くはだ》てた。而《しか》して此事《このこと》を國老《こくらう》の入田親誠《いりたちかのぶ》に託《たく》した。親誠《ちかのぶ》は快《こゝろよ》く之《これ》を承諾《しようだく》した。宗玄《そうげん》は義鎭《よししげ》を別府温泉《べつぷおんせん》に赴《おもむ》かしめ、更《さ》らに齋藤《さいとう》、小佐井《をさゐ》、津久見《つくみ》、田口等《たぐちら》を召《め》して、之《これ》を諮《はか》つた。四|人《にん》皆《み》な之《これ》を諫《いさ》めた。宗玄《そうげん》は事《こと》の可《か》ならざるを見《み》て、其《そ》の日暮《ひぐれ》に、更《さ》らに齋藤《さいとう》、小佐井《をさゐ》を召《め》して、之《これ》を大門《だいもん》の側《かたはら》に誅《ちゆう》した。津久見《つくみ》、田口《たぐち》は病《やまひ》と稱《しよう》して赴《おもむ》かざりしが、此事《このこと》を聞《き》き、裏門《うらもん》より入《い》り、先《ま》づ到明《ゆきあき》を殺《ころ》し、到明《ゆきあき》の母《はゝ》を害《がい》し、更《さ》らに進《すゝ》んで宗玄《そうげん》を斬《き》つた。此《こ》れは天文《てんぶん》十九|年《ねん》の二|月《ぐわつ》の事《こと》とも云《い》ひ、或《あるひ》は九|月《ぐわつ》の事《こと》とも云《い》ふ。〔大友記、野史〕[#「〔大友記、野史〕」は1段階小さな文字]
義鎭《よししげ》は別府《べつぷ》より還《かへ》り、直《たゞ》ちに其後《そのあと》を襲《つ》いだ。入田親誠《いりたちかのぶ》は奔《はし》りて阿蘇惟豐《あそこれとよ》に投《とう》じたが、惟豐《これとよ》は之《これ》を戮《りく》した。義鎭《よししげ》は天文《てんぶん》二十|年《ねん》には、菊池義宗《きくちよしむね》を伐《う》つて肥後《ひご》を併《あは》せた。功治《こうぢ》二|年《ねん》には、師《し》を豐前《ぶぜん》に出《いだ》して、宇佐《うさ》を下《くだ》した。三|年《ねん》には筑前《ちくぜん》の秋月清種《あきづききよたね》を攻《せ》めて、其地《そのち》を取《と》つた。彼《かれ》の弟《おとうと》義長《よしなが》は、陶晴賢《すゑはるかた》に迎《むか》へ立《た》てられて、大内義隆《おほうちよしたか》の後繼者《こうけいしや》となつたが、遂《つひ》に毛利元就《まうりもとなり》の爲《た》めに滅《ほろぼ》され、是《こ》れが爲《た》めに、豐前《ぶぜん》の一|半《ぱん》は、毛利氏《まうりし》に應《おう》じたが。彼《かれ》は杉重吉《すぎしげよし》を松山城《まつやまじやう》に圍《かこ》み、十|月《ぐわつ》に之《これ》を拔《ぬ》き、轉《てん》じて三|賀岳《がだけ》─|或《あるひ》は馬岳《うまがだけ》に作《つく》る─|及《およ》び佐野《さの》の諸城《しよじやう》を攻《せ》め、其《そ》の兵威《へいゐ》九|州《しう》に振《ふる》うた。
義鎭《よししげ》の肥後《ひご》を併《あは》するや、小原入道宗意《をはらにふだうそうい》を其《そ》の目代《もくだい》とした。然《しか》るに宗意《そうい》貮心《じしん》を懷《いだ》いたから、永祿《えいろく》元年《ぐわんねん》五|月《ぐわつ》、攻《せ》めて之《これ》を殺《ころ》した。四|年《ねん》六|月《ぐわつ》戸次鑑連等《べつきあきつらら》をして、兵《へい》を豐前《ぶぜん》に出《いだ》さしめ、九|月《ぐわつ》には進《すゝ》んで門司城《もじじやう》を圍《かこ》んだ。毛利隆元《まうりたかもと》、小早川隆景等《こばやかはたかかげら》、海《うみ》を濟《わた》りて後詰《ごづめ》をなし、互《たがひ》に交綏《かうすゐ》した。
彼《かれ》は九|州《しう》を平定《へいてい》するの志《こゝろざし》を懷《いだ》き、永祿《えいろく》五|年《ねん》自《みづか》ら府城《ふじやう》を、長子《ちやうし》義統《よしむね》に讓《ゆづ》り、削髮《さくはつ》して三|非齊宗麟《ぴさいそうりん》と稱《しよう》し、新《あら》たに丹生島《にぶじま》に築《きづ》いて遷居《せんきよ》した。六|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、書《しよ》を尼子義久《あまこよしひさ》に與《あた》へて、毛利氏《まうりし》を夾撃《けふげき》し、其地《そのち》を分有《ぶんいう》せんと議《ぎ》し、兵《へい》を豐前《ぶぜん》に出《いだ》し、防長《ばうちやう》に航《かう》せんとしたが、足利將軍《あしかゞしやうぐん》義輝《よしてる》は、奏請《そうせい》して、聖護院道澄《しやうごゐんだうちやう》を毛利氏《まうりし》に、權大納言《ごんだいなごん》源通興《みなもとのみちおき》を大友氏《おほともし》に遣《つかは》し、調停《てうてい》せしめた。
當時《たうじ》筑後《ちくご》は、小雄《せうゆう》並立《へいりつ》し、統《とう》一する所《ところ》がなかつた。されば宗麟《そうりん》は、毛利氏《まうりし》との平和《へいわ》を好機《かうき》として、其《そ》の方面《はうめん》に働《はたら》いた。乃《すなは》ち永祿《えいろく》七|年《ねん》三|月《ぐわつ》、筑後《ちくご》に入《い》り、諸城《しよじやう》を略《りやく》し、殆《ほとん》ど筑後《ちくご》一|國《こく》を平定《へいてい》した。八|年《ねん》四|月《ぐわつ》には、立花鑑載《たちばなかねこと 》反《そむ》いたが、戸次道雪《べつきだうせつ》を遣《つかは》して、之《これ》を平《たひら》げ、立花城《たちばなじやう》を取《と》つた。道雪《だうせつ》は、戸次鑑連《べつきあきつら》が、入道後《にふだうご》の名《な》である。
彼《かれ》は善《よ》く宗麟《そうりん》を諫《いさ》めた。宗麟《そうりん》は美女《びじよ》を分國《ぶんこく》より集《あつ》め、伎樂《ぎがく》を上方《かみがた》より招《まね》き、遊宴《いうえん》に耽《ふけ》つた。而《しか》して荒怠《くわうたい》、放逸《はういつ》、自《みづか》ら政《まつりごと》を見《み》なかつた。道雪《だうせつ》は苦々敷《にが/\し》き事《こと》に思《おも》うたが、宗麟《そうりん》に接近《せつきん》するに由《よし》なかつた。是《こゝ》に於《おい》て自《みづか》ら少女《せうぢよ》を集《あつ》めて、歌舞《かぶ》を練習《れんしふ》せしめた。宗麟《そうりん》は之《これ》を聞《き》き、月見《つきみ》、花見《はなみ》、酒宴《しゆえん》、亂舞《らんぶ》を厭《いと》ふ道雪《だうせつ》が、斯迄《かくまで》爲《な》すには、何《なん》ぞ仔細《しさい》あらんとて、之《これ》を見《み》ん※[#「こと」の合字、154-11]を求《もと》めた。是《こゝ》に於《おい》て道雪《だうせつ》は、其《そ》の少女等《せうぢよら》に三|拍子《びやうし》の舞《まひ》を、三|度《ど》躍《をど》らせた。宗麟《そうりん》は善《よ》しと稱《しよう》した。道雪《だうせつ》は其機《そのき》に投《とう》じて、涙《なみだ》を流《なが》して宗麟《そうりん》の非《ひ》を匡《たゞ》した。宗麟《そうりん》は其《そ》の苦言《くげん》を聞《き》き、再《ふたゝ》び政《まつりごと》を見《み》た。道雪《だうせつ》は、實《じつ》に宗麟《そうりん》に取《と》りては、社稷《しやしよく》の臣《しん》であつた。
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[#6字下げ]豐府の繁榮
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能直より二十代の嫡孫をば、大友左衞門督義鎭とぞ申ける、父義鑑の時より數ヶ國を領し、殊に義鎭跨竈の才ありて、智謀いみじかりければ、武威列國に輝き、名ある武士皆其麾下に屬して、豐府の繁榮前代に超過し、京鎌倉にもをさ/\劣るべからず、異國の商舶、初めは筑前の博多の浦に着けるを、永祿二年の秋より、豐後の府に着さしめられければ、都鄙遠國の商人きそひ娶りて、人馬常に駢※[#「門<眞」、第3水準1-93-54]として、道を避るに地なく、港には入船出船舳艫をきしつて、舟子の叫聲雜沓として嘩し、富榮の謳歌巷に滿つ、誠に名に逢《あふ》豐國の、榮る家こそ目出度けれ。〔豐薩軍記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【三三】龍造寺氏の勃興[#中見出し終わり]
足利氏《あしかゞし》の末期《ばつき》に於《おい》ては、九|州《しう》三|家《け》の中《うち》にて、島津氏《しまづし》、大友氏《おほともし》、何《いづ》れも振《ふる》うたが、獨《ひと》り少貳氏《せうにし》のみは、衰微《すゐび》して、龍造寺氏《りゆうざうじし》之《これ》に代《かは》つたと云《い》ふ状態《じやうたい》を、現出《げんしゆつ》した。其《そ》の先《せん》は鎭守府將軍《ちんじゆふしやうぐん》藤原秀郷《ふぢはらひでさと》より出《い》で、七|代《だい》の孫《まご》季喜《すゑよし》、源爲朝《みなもとのためとも》に從《したが》つて、九|州《しう》に下《くだ》り、肥前《ひぜん》に土著[#「土著」は底本では「上著」]《どちやく》し、其子《そのこ》季家《すゑいへ》、文治中《ぶんぢちう》、龍造寺《りゆうざうじ》の地頭職《ぢとうしよく》に補《ほ》せられ、爾來《じらい》龍造寺《りゆうざうじ》を姓《せい》とした。
季喜《すゑよし》十二|代《だい》家兼《いへかね》に至《いた》りて、龍造寺《りゆうざうじ》の門戸《もんこ》、漸《やうや》く大《おほ》きくなつた。家兼《いへかね》は剃髮《ていはつ》して剛忠《がうちゆう》と號《がう》した。彼《かれ》は英敏《えいびん》にして武《ぶ》を嗜《たしな》み、神佛《しんぶつ》を崇信《すうしん》して、慈仁《じじん》人《ひと》を愛《あい》した。〔野史〕[#「〔野史〕」は1段階小さな文字]彼《かれ》は天文《てんぶん》十五|年《ねん》三|月《ぐわつ》、九十三|歳《さい》の長壽《ちやうじゆ》にて沒《ぼつ》した。其子《そのこ》家純《いへずみ》、家純《いへずみ》の子《こ》周家《かねいへ》、周家《かねいへ》の子《こ》が、即《すなは》ち島津《しまづ》、大友《おほとも》二|氏《し》と、九|州《しう》に於《おい》て、三|分割據《ぶんかつきよ》の勢《いきほひ》を成《な》したる、隆信《たかのぶ》である。
隆信《たかのぶ》の小字《せうじ》は長法師《ながほふし》と云《い》うた。七|歳《さい》にして其《そ》の季父《きふ》豪覺《がうかく》に從《したが》うて僧《そう》となり、圓月《ゑんげつ》と稱《しよう》した。然《しか》るに其《そ》の曾祖父《そうそふ》剛忠《がうちゆう》の死《し》するに際《さい》し、彼《かれ》を還俗《げんぞく》せしめよ、彼《かれ》は大器《たいき》である、龍造寺家《りゆうざうじけ》を興隆《こうりゆう》する者《もの》は、彼《かれ》であると遺言《ゆゐごん》した。此《こゝ》に於《おい》て天文《てんぶん》十六|年《ねん》、族人《ぞくじん》相議《あひぎ》し、彼《かれ》を寶珠院《はうじゆゐん》より迎《むか》へて還俗《げんぞく》せしめた。時《とき》に十八|歳《さい》。天文《てんぶん》十八|年《ねん》、大内義隆《おほうちよしたか》に請《こ》うて元服《げんぷく》を加《くは》へ、隆信《たかのぶ》と名《なづ》け、山城守《やましろのかみ》と稱《しよう》し、肥前守護代《ひぜんのしゆごだい》の家跡《かせき》を襲《つ》いだ。
享祿《きやうろく》三|年《ねん》、肥前佐賀郡《ひぜんさがごほり》の地頭《ぢとう》、龍造寺家兼入道剛忠《りゆうざうじいへかねにふだうがうちゆう》が、苦戰《くせん》の折《をり》から、赤熊《しやぐま》一|揆《き》の兵《へい》、來援《らいゑん》して敵《てき》を打破《うちやぶ》つた。剛忠《がうちゆう》は勝軍《かちいくさ》の後《のち》、其《そ》の人々《ひと/″\》を召《め》して、何者《なにもの》たるを問《と》うた。曰《いは》く、當國《たうごく》本莊《ほんじやう》の浪人《らうにん》鍋島茂尚《なべしましげなほ》、長男《ちやうなん》清正《きよまさ》、二|男《なん》清房《きよふさ》、並《ならび》に一|族郎等《ぞくろうとう》と答《こた》へた。此《こゝ》に於《おい》て二|男《なん》清房《きよふさ》を、家兼《いへかね》の嫡子《ちやくし》家純《いへずみ》の聟《むこ》となし、駿河守《するがのかみ》に受領《じゆりやう》せしめ、本莊《ほんじやう》八十|町《ちやう》の地《ち》を與《あた》へた。是《こ》れが龍造寺氏《りゆうざうじし》と鍋島氏《なべしまし》との、關係《くわんけい》の始《はじま》りだ。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
要《えう》するに大友《おほとも》、少貳《せうに》、龍造寺《りゆうざうじ》、鍋島《なべしま》、何《いづ》れも同流《どうりう》の藤原氏《ふぢはらし》だ。而《しか》して鍋島《なべしま》の家《いへ》は、少貳氏《せうにし》の庶流《しよりう》である。彼《かれ》は龍造寺氏《りゆうざうじし》に對《たい》しては、臣下《しんか》と云《い》はんよりも、其《そ》の客將《かくしやう》として、恒《つね》に扶翼《ふよく》した。
扨《さ》ても鍋島清房《なべしまきよふさ》は、天文《てんぶん》十七|年《ねん》八|月《ぐわつ》に、其妻《そのつま》を亡《うしな》うた。
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斯《か》くて駿河守清房《するがのかみきよふさ》、年《とし》ごろの妻《つま》に後《おく》れて、獨《ひとり》住《す》みけるに、山城守隆信《やましろのかみたかのぶ》が母《はゝ》、清房《きよふさ》を召《め》して、和殿《わどの》子息等《しそくら》が母《はゝ》、失《うしな》うて只《たゞ》獨《ひとり》ずみと聞《き》く。われらは媒《なかだち》して、老《おい》の寢覺《ねざめ》の友《とも》、迎《むかへ》てまゐらせんとありしに、清房《きよふさ》謹《つゝしみ》て領承《りやうしよう》す。既《すで》に其期《そのき》に至《いた》りて、隆信《たかのぶ》の母上《はゝうへ》より參《まゐ》らせらるゝ|旨《むね》にて、輿《こし》迎《むか》へ取《とつ》て、相見《あひみ》るに、隆信《たかのぶ》の母《はゝ》なりけり。清房《きよふさ》以《もつ》ての外《ほか》に驚《おどろ》き恐《おそ》る。隆信《たかのぶ》の母《はゝ》、清房《きよふさ》に向《むか》ひ、隆信《たかのぶ》未《いま》だ稚《をさな》く、祖父《そふ》と父《ちゝ》とに離《はな》れまゐらせ、頼《たの》もしき人《ひと》、一|人《にん》もなし。わどのゝ|子供《こども》、尋常《じんじやう》の人《ひと》にあらず、わらは子《こ》として、隆信《たかのぶ》の兄弟《きやうだい》とせんと思《おも》へば、かく計《はから》ひし所《ところ》なり、さのみな怪《あや》しみ給《たま》ひそとて、清房《きよふさ》が妻《つま》となりし上《うへ》は、信房《のぶふさ》、信生《のぶを》〔後に直茂〕[#「〔後に直茂〕」は1段階小さな文字]、隆信《たかのぶ》が兄弟《きやうだい》とは成《なつ》てけり。〔藩翰譜〕[#「〔藩翰譜〕」は1段階小さな文字]
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隆信《たかのぶ》の母《はゝ》は、流石《さすが》に烱眼《けいがん》であつた。鍋島直茂《なべしまなほしげ》は、龍造寺家《りゆうざうじけ》の興隆《こうりゆう》に取《と》りては、實《じつ》に缺《か》く可《べ》からざる第《だい》一|人《にん》となつた。斯《か》くて龍造寺氏《りゆうざうじし》の勢力《せいりよく》は、肥前《ひぜん》、筑後《ちくご》の二|國《こく》に跨《またが》り、延《ひ》いて肥後《ひご》に及《およ》ばんとした。
然《しか》るに大友宗麟《おほともそうりん》、曩《さ》きに肥後《ひご》を併《あは》せ、又《ま》た肥前《ひぜん》に於《お》ける有馬氏《ありまし》と通《つう》じて、攪亂《かくらん》[#ルビの「かくらん」は底本では「かうらん」]を企《くわだ》て、而《しか》して更《さ》らに筑後《ちくご》に亂入《らんにふ》した。此《かく》の如《ごと》くして龍造寺氏《りゆうざうじし》との衝突《しようとつ》は、必然《ひつぜん》の勢《いきほひ》となつた。大友氏《おほともし》よりは、龍造寺氏《りゆうざうじし》謀反《むほん》したと云《い》うて居《ゐ》る。〔大友記〕[#「〔大友記〕」は1段階小さな文字]此《こ》れは眇焉《べうえん》たる小名《せうみやう》の龍造寺《りゆうざうじ》は、本來《ほんらい》大友屋形《おほともやかた》の附庸《ふよう》であり、且《か》つ附庸《ふよう》たる可《べ》きものであるからだ。されど龍造寺氏《りゆうざうじし》より云《い》はしむれば、大友氏《おほともし》の※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2-92-73]《あ》くなき侵掠《しんりやく》に對《たい》しては、之《これ》を防禦《ばうぎよ》し、之《これ》に抵抗《ていかう》するは、已《や》むを得《え》ざる自衞《じゑい》である。況《いはん》や龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》の志《こゝろざし》は、決《けつ》して是《これ》に止《とゞま》らざるに於《おい》てをや。彼《かれ》も亦《ま》た大友宗麟《おほともそうりん》に劣《おと》らざる野心《やしん》を有《いう》し、少《すくな》くとも肥前《ひぜん》、肥後《ひご》、筑後《ちくご》を、其《そ》の勢圜《せいくわん》たらしめんとした。斯《か》くて大友氏《おほともし》と龍造寺氏《りゆうざうじし》とは、併立《へいりつ》し難《がた》き敵《てき》となつた。
[#5字下げ][#中見出し]【三四】大友宗麟[#中見出し終わり]
宗麟《そうりん》の子《こ》、大友義統《おほともよしむね》が、不肖《ふせう》の子《こ》であることは、疑《うたがひ》もない。但《た》だ宗麟《そうりん》は、未《いま》だ必《かなら》ずしも不肖《ふせう》の父《ちゝ》ではなかつた。大友氏《おほともし》を大《だい》ならしめたのも、彼《かれ》であつた。然《しか》も大友氏《おほともし》を小《せう》ならしめたのも、亦《ま》た彼《かれ》であつた。彼《かれ》は策《さく》もあり、略《りやく》もあり、多少《たせう》の勇氣《ゆうき》もあつた。然《しか》も彼《かれ》の意志《いし》は、薄弱《はくじやく》であり、且《か》つ肉欲《にくよく》の奴隷《どれい》であつた。彼《かれ》は要《えう》するに、小才子《せうさいし》の雄《ゆう》であつた。彼《かれ》には眞骨頭《しんこつとう》がなかつた。彼《かれ》の人物《じんぶつ》は、耶蘇宣教師側《やそせんけうしがは》の觀察《くわんさつ》と、他《た》の日本人側《にほんじん》の觀察《くわんさつ》とによりて、非常《ひじやう》なる懸隔《けんかく》がある。後者《こうしや》は彼《かれ》を見《み》て、箸《はし》にも棒《ぼう》にも掛《かゝ》らぬ、愚將《ぐしやう》の如《ごと》く見做《みな》して居《を》る。前者《ぜんしや》は彼《かれ》を以《もつ》て、殆《ほとん》ど聖徒《せいと》に庶幾《ちか》しとして居《を》る。併《しか》し、何《いづ》れにもせよ、彼《かれ》には豪傑《がうけつ》の資格《しかく》はなかつた。
宗麟《そうりん》の長臣《ちやうしん》高橋鑑種《たかはしかねたね》は、一萬田彈正《いちまだだんじやう》の弟《おとうと》である。宗麟《そうりん》は彈正《だんじやう》の妻《つま》の美《び》なるを見《み》て、其夫《そのをつと》を殺《ころ》し、之《これ》を奮《うば》うて其妾《そのめかけ》とした。是《こゝ》に於《おい》て鑑種《かねたね》は、憤慨《ふんがい》の餘《あま》り、筑前《ちくぜん》の巖谷《いはや》、寶滿《たからま》二|城《じやう》に據《よ》りて反《そむ》き、秋月種實《あきづきたねざな》と相諜《あひてふ》して、龍造寺隆信《りゆうざうじたかのぶ》に通《つう》じ、毛利元就《まうりもとなり》に援《ゑん》を乞《こ》うた。元就《もとなり》は吉見正頼《よしみまさより》を遣《つかは》して、之《これ》を扶《たす》けた。爾來《じらい》交鬪虚日《かうとうきよじつ》なく、永祿《えいろく》十二|年《ねん》には、宗麟《そうりん》自《みづか》ら六|箇國《かこく》の大軍《たいぐん》を催《もよほ》して、筑後高良山《ちくごたからやま》に陣《ぢん》し、龍造寺《りゆうざうじ》を剿絶《さうぜつ》す可《べ》く、肥前佐賀《ひぜんさが》に薄《せま》つた。然《しか》も毛利氏《まうりし》の兵《へい》、海《うみ》を越《こ》えて、其《そ》の背面《はいめん》を襲《おそ》はんとするを聞《き》き、師《し》を旋《かへ》した。
高橋鑑種《たかはしかねたね》は、事《こと》志《こゝろざし》と違《たが》ひ、城《しろ》を出《い》でて、罪《つみ》を謝《しや》した。彼《かれ》は後《のち》に中國《ちうごく》に奔《はし》つた。宗麟《そうりん》は吉弘鑑理《よしひろかねたゞ》の二|男《なん》を、其後《そのあと》とした、是《こ》れが高橋鎭種《たかはししげたね》、即《すなは》ち紹運《せううん》である。蓋《けだ》し高橋紹運《たかはしせううん》と、戸次《べつき》─|立花《たちばな》─|道雪《だうせつ》とは、大友衰亡史《おほともすゐばうし》の卷末《くわんまつ》を飾《かざ》る可《べ》き、二|雄《ゆう》である。而《しか》して紹運《せううん》の子《こ》統虎《むねとら》、養《やしな》はれて道雪《だうせつ》の子《こ》となる者《もの》、即《すなは》ち碧蹄館《へきていくわん》の一|戰《せん》に、明兵《みんぺい》の膽《きも》を寒《さむ》からしめたる、立花宗茂《たちばなむねしげ》である。古川《ふるかは》に水多《みづおほ》しとは眞理《しんり》だ。
宣教師側《せんけうしがは》の説《と》く所《ところ》によれば、宗麟《そうりん》の妻《つま》は、大友家《おほともし》の權臣《けんしん》、田原紹恩《たはらせうおん》の妹《いもうと》であつた。彼女《かれ》は及兄《だいけい》と與《とも》に、頑冥《ぐわんめい》なる佛教徒《ぶつけうと》で、耶蘇教《やそけう》の敵《てき》であつた。宗麟《そうりん》は妻《つま》の爲《た》めに、屡《しばし》ば苦《くる》しめられたが、遂《つひ》に彼女《かれ》を離別《りべつ》して、其子《そのこ》親家《ちかいへ》の妻《つま》の母《はゝ》を、後妻《ごさい》とした。親家《ちかいへ》は義統《よしむね》の弟《おとうと》である。而《しか》して彼女《かれ》と與《とも》に洗禮《せんれい》を受《う》けた。此《こ》れは一五七八|年《ねん》八|月《ぐわつ》二十八|日《にち》─|天正《てんしやう》六|年《ねん》七|月《ぐわつ》十四|日《か》─の事《こと》で、宗麟《そうりん》四十九|歳《さい》の時《とき》であつた。而《しか》して實《じつ》に彼《かれ》が撒美惠《ザビヱー》に面《めん》して、其《そ》の教《をしへ》を聞《き》いてより、二十七|年目《ねんめ》であつた。
彼《かれ》は撒美惠《ザビヱー》を崇信《すうしん》するの餘《あまり》、其《そ》の名《な》フランソアーを、師父等《しふら》に請《こ》うて、自《みづか》ら名乘《なの》つた。而《しか》して日向《ひふが》の一|角《かく》に、耶蘇教徒《やそけうと》のみ住《ぢゆう》する新市街《しんしがい》を作《つく》り、撒美惠《ザビヱー》の祭日《さいじつ》に、其《そ》の國務《こくむ》を義統《よしむね》に讓《ゆづ》り、臼杵《うすき》より此《こゝ》に移《うつ》つた。而《しか》して義統《よしむね》に向《むか》つて、府内《ふない》、及《およ》び臼杵《うすき》にある師父等《しふら》を好遇《かうぐう》し、諸事《しよじ》彼等《かれら》に諮議《しぎ》して、而《しか》して後《のち》之《これ》を行《おこな》ふ可《べ》しと命《めい》じた。斯《か》くて放縱《はうじゆう》、柔弱《にうじやく》、淫逸《いんいつ》なる義統《よしむね》も亦《ま》た、自《みづか》ら信徒《しんと》たらんことを、師父等《しふら》に告《つ》げた。
以上《いじやう》宣教師側《せんけうしがは》の諸説《しよせつ》は、果《はた》して如何《いか》なる程度迄《ていどまで》、事實《じじつ》の眞相《しんさう》を得《え》たるやを、詳《つまびらか》にせぬが。宗麟《そうりん》が志《こゝろざし》は、決《けつ》して日向《ひふが》に退隱《たいいん》して、祈祷《きとう》、斷食《だんじき》、懺悔《ざんげ》、苦行《くぎやう》、修道院的《しうだうゐんてき》の生涯《しやうがい》を以《もつ》て、一|生《しやう》を了《れう》せんとするにあらずして、進《すゝ》んで島津氏《しまづし》と、衡《かう》を日向《ひふが》に爭《あらそ》ふにあつた事《こと》は、豪《がう》も疑《うたが》ふ可《べ》き理由《りいう》がない。即《すなは》ち日向遷居《ひふがせんきよ》も、恐《おそ》らくは是《これ》が爲《た》めであつたと思《おも》はるゝ。
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天正《てんしやう》六|年《ねん》、戊寅《つちのえとら》八|月中旬《ぐわつちうじゆん》の頃《ころ》、大友宗麟公《おほともそうりんこう》、豐筑肥《ほうちくひ》の大軍《たいぐん》を催《もよほ》し、日州《にちしう》に御馬《おうま》を被[#レ]向《むけらる》。日向國《ひふがのくに》は豐州《ほうしう》の分國《ぶんこく》として、本《もと》は雖[#レ]屬[#二]幕下[#一]《ばくかにぞくすといへども》、近年《きんねん》は漸《やうや》く半國計《はんごくばかり》り御手《おんて》に屬《ぞく》し、餘《よ》は皆《みな》御手《おんて》に不[#レ]隨《したがはず》、因[#レ]茲《これによりて》半國《はんごく》の中《うち》、土持《つちもち》の城《しろ》を、御隱居所《ごいんきよじよ》として、宗麟公《そうりんこう》御座《ぎよざ》を被[#レ]移《うつされ》畢《をはん》ぬ。依然《いぜん》餘《あまる》半國《はんごく》を可[#レ]被[#レ]隨《したがへらるべき》ため、大軍《たいぐん》を起《おこ》し、及[#二]御弓箭[#一]《おんゆみやにおよぶ》。諺《ことわざに》曰《いはく》、欲《よく》の※[#「蜩のつくり+鳥」、第3水準1-94-62]《くまだか》、※[#「胯」の「夸−大」に代えて「汚のつくり」、163-4]《また》さかずとは、後《のち》にぞ思《おも》ひ知《し》られける。〔高橋紹運記〕[#「〔高橋紹運記〕」は1段階小さな文字]
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寧《むし》ろ是《これ》が正黨《せいたう》の見解《けんかい》ではあるまい乎《か》。宣教師等《せんけうしら》の説《せつ》は、人《ひと》を欺《あざむ》く爲《た》めではあるまい乎《か》。兎角《とかく》色目鏡《いろめがね》にて判斷《はんだん》する故《ゆゑ》に、自《みづか》ら欺《あざむ》くの結果《けつくわ》、動《やゝ》もすれば人《ひと》を欺《あざむ》く※[#「こと」の合字、163-8]となるのだ。要《えう》するに宣教師等《せんけうしら》は、或《あ》る意味《いみ》に於《おい》て、宗麟《そうりん》より一|杯《ぱい》喰《くは》されたのではあるまい乎《か》。
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[#6字下げ]毛利元就高橋鑑種を援く
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一、高橋參河守鑑種、毛利元就に語らはれ、逆心を企て、岩屋、寳滿に兩城に籠られ、國人を手につけ、豐府をうかがふ。是に依つて、討手を差向けられ、先手の大將戸次丹後鑑連入道道雪、吉田參河守、吉弘左近大夫鑑理、臼杵越中守鑑運、其外、侍大將數輩、其勢二萬五千、竈山の麓にて、矢合は高橋勢戰負けて引取る。豐後勢岩屋の城迄追討ち、臼杵越中守が手より岩屋の城を乘取る。寳滿の城は、高橋鑑種破られじと、堅く守りければ、寄手も攻あぐみ、麓に向陣を取り、數日を送る。其内に足輕迫合度々あり。(中略)
一、毛利元就、秋月筑紫、高橋が後詰として渡海、豐前の城々大半攻落し、立花の城を攻むる。城代田北民部大輔、鶴原掃部助、之を防ぎ破られず。豐府より大友宗麟公御出馬、又寳滿の城押には、戸次、臼杵、吉弘が一族を殘置き、道雪鑑理は毛利勢に向ふ。御備衆先陣は、戸次鑑連入道道雪、左は田原の親弘、右、臼杵鑑連其勢七千二百餘。二番田原親堅、左志賀親安、右白仁の志賀鑑高、并字佐卅六人衆、是に組して六千八百餘。三番一萬田鑑實、左宗像、右筑紫親元其勢六千餘。四番吉弘、左清田鎭忠、左朽綱鑑安筑後國の蒲池、彼是相備へ四千七百餘。五番北原、古渡、木村、五□[#「くち」ではなく「しかく」だと思われる]田、大津留、以上五頭五千餘。六番竹田津、服部、柴田、田村、筑前の三原五頭五千三百餘。七番吉庄、寒田、肥後の赤星、津口、五條五頭三千二百餘。八番御旗本吉岡、大神、并に日田、玖珠兩郡の人數二千餘。左小佐井二千餘、右齊藤二千、後備戸次加賀守親文、利光鑑教、并津久見の人數相加へ、以上五頭千五百餘。横鑓戸次山城守鎭秀、同中務小輔鑑方、田北大和守入道紹哲、同左近將監鑑元、毛利鎭實、相良義元、九備筑前衆以上八千餘、都合五萬五千八百餘の御勢なり。所々に於て度々迫合あり。今度も毛利戰負けて中國に引取る。雙方討死多し。軍場は、門司、小倉、柳が浦、筑前多々良濱へ蘆屋、宗像、長者が原、名島、川内の松原、立花の麓等なり。此軍、豐府方の勝利なりたるは、吉岡宗歡が計略にて、大内太郎左衞門尉輝弘子息武弘に、三千餘の軍兵を相添へ、四國へ助けさせらる。又番船を出し、中國勢の兵糧運送を妨げければ、彼是防ぎがたく敗亡に及ぶと云々。大内太郎左衞門尉輝弘は、四國の先主大内義隆の〔[#割り注]此本原本半丁缺文[#割り注終わり]〕秋月文種が次男なるを、鑑種取立てゝ、父子契約をなす。後高橋右近大夫と號するは此人なり。然る後、高橋譜代家臣、屋山、伊藤、福田、北原等、豐府へ歎き訴へ申しけるは、高橋は古來より武家なり。今此時に斷絶せん事、歎息あまりあり。哀《あはれ》屋形の貴族一人養主に仕り、高橋の名字を取立て申度き由、頻に望み申すにより、吉弘が次男主膳正を高橋鑑種と名乘らせ、鑑種が遺跡を繼がせられけり。後紹運と號す。〔大友公御家覺書〕
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