第八章 日新公及び其の時代
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第八章 日新公及び其の時代[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【二三】日 新 公[#中見出し終わり]

島津氏《しまづし》十二|代《だい》忠治《たゞはる》、十三|代《だい》忠隆《たゞたか》。共《とも》に十一|代《だい》忠昌《たゞまさ》の子《こ》である。前者《ぜんしや》二十七、後者《こうしや》二十三にて逝《ゆ》いた。其《その》短《みじか》き時代《じだい》は、島津氏《しまづし》衰運《すゐうん》の頂上《ちやうじやう》とも云《い》ふ可《べ》きであらう。而《しか》して十四|代《だい》勝久《かつひさ》も亦《ま》た、忠昌《たゞまさ》の第《だい》三|子《し》で、忠隆《たゞたか》の弟《おとうと》であつた。彼《かれ》は其父《そのちゝ》忠昌程《たゞまさほど》の氣概《きがい》もなく、島津氏《しまづし》歴代《れきだい》に於《おい》て、劣等《れつとう》の君主《くんしゆ》の一であつた。然《しか》も否極《ひきはま》れば泰《たい》となる。島津氏《しまづし》の其大《そのだい》を成《な》すに至《いた》つたのは、此《こ》の時代《じだい》からである。
そは勝久《かつひさ》が、島津忠良《しまづたゞよし》の子《こ》貴久《たかひさ》を養嗣《やうし》として、其家《そのいへ》を彼《かれ》に讓《ゆづ》つたからだ。而《しか》して貴久《たかひさ》の後見《こうけん》として、賢明《けんめい》、智勇《ちゆう》なる忠良《たゞよし》が、島津宗家《しまづそうけ》の軍國《ぐんこく》の務《つとめ》を總攬《そうらん》したからだ。約言《やくげん》すれば、島津氏《しまづし》の再興《さいこう》は、實《じつ》に忠良《たゞよし》其人《そのひと》に負《お》ふ所《ところ》、多大《ただい》である。其子《そのこ》貴久《たかひさ》、貴久《たかひさ》の子《こ》義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》。只《た》だ此丈《これだけ》の名《な》を掲《かゝ》げても、、其《そ》の理由《りいう》は、充分《じゆうぶん》と思《おも》ふ。況《いはん》や忠良《たゞよし》彼自身《かれじしん》の人物《じんぶつ》と、勳業《くんげふ》とは、兩《ふたつ》ながら傳《つた》ふ可《べ》きものあるに於《おい》てをやだ。
島津忠良《しまづたゞよし》は、島津氏《しまづし》にて所謂《いはゆ》る日新公《につしんこう》と稱《しよう》する、傍系《ばうけい》伊作家《いさかけ》の出《しゆつ》である。伊作家《いさかけ》は、島津氏《しまづし》三|代《だい》久經《ひさつね》の二|子《し》、久長《ひさなが》より始《はじま》り、伊作《いさか》を領《りやう》したが故《ゆゑ》に斯《か》く稱《しよう》した。其《そ》の七|代《だい》に至《いた》り、島津氏《しまづし》九|代《だい》忠國《たゞくに》の子《こ》久逸《ひさとし》を迎《むか》へて、八|代《だい》の主《しゆ》とした。久逸《ひさとし》の子《こ》善久《よしひさ》、善久《よしひさ》の子《こ》が忠良《たゞよし》である。然《しか》るに忠良《たゞよし》三|歳《さい》の時《とき》、父《ちゝ》善久《よしひさ》は、其奴《そのど》の爲《た》めに殺《ころ》された。九|歳《さい》の時《とき》、祖父《そふ》久逸《ひさとし》は戰死《せんし》した。彼《かれ》は生《うま》れながらにして、人生《じんせい》の苦杯《くはい》を滿喫《まんきつ》せしめられた。
然《しか》も彼《かれ》には賢母《けんぼ》があつた。其名《そのな》は常磐《ときは》で、日向飫肥《ひふがをぴ》の城主《じやうしゆ》であつた新納忠續《にひろたゞつぐ》の弟《おとうと》、是久《これひさ》の女《むすめ》であつた。彼女《かれ》は才貌共《さいばうとも》に優《まさ》り、寡婦《くわふ》としては餘《あま》りに若《わか》く、且《か》つ秀《ひい》でゝ|居《ゐ》た。されば善久《よしひさ》の從弟《いとこ》、相州家《さうしうけ》の主《しゆ》島津運久《しまづかずひさ》は、屡《しばし》ば人《ひと》を以《もつ》て、我《われ》に再嫁《さいか》せん※[#「こと」の合字、107-12]を説《と》かしめた。常磐《ときは》は斷々乎《だん/\こ》として、之《これ》を峻拒《しゆんきよ》した。運久《かずひさ》は手《て》を代《か》へ、品《しな》を換《か》へ、遂《つひ》に其《そ》の連子《つれこ》たる菊《きく》三|郎《らう》─|忠良《たゞよし》─に家《いへ》を讓《ゆづ》る※[#「こと」の合字、107-13]を條件《でうけん》として、其《そ》の承諾《しようだく》を求《もと》めた。常磐《ときは》は此《これ》にて其《そ》の心《こゝろ》動《うご》いた。運久《かずひさ》は誓紙《せいし》を送《おく》つた。然《しか》も常磐《ときは》は、是《こ》れのみにては、安心《あんしん》なり難《がた》し、家臣共《かしんども》の意向《いかう》をも確《たしか》めたしとのことにて、更《さら》に家臣等《かしんら》の誓紙《せいし》を送《おく》つた。
此《かく》の如《ごと》くして、伊作家《いさかけ》の寡婦《くわふ》たる常盤《ときは》は、相州家《さうしうけ》の主《しゆ》島津運久《しまづかずひさ》に歸《き》した。是《こ》れが文龜《ぶんき》元年《ぐわんねん》、忠良《たゞよし》十|歳《さい》の時《とき》であつた。相州家《さうしうけ》は亦《ま》た、島津氏《しまづし》九|代《だい》忠國《たゞくに》の子《こ》友久《ともひさ》に始《はじま》り、即《すなは》ち島津氏《しまづし》十|代《だい》の立久《たつひさ》、伊作家《いさかけ》八|代《だい》の久逸《ひさとし》と兄弟《きやうだい》である。運久《かずひさ》は相州家《さうしうけ》の二|代《だい》にて、忠良《たゞよし》の父《ちゝ》善久《よしひさ》とは、從兄弟《いとこ》である。而《しか》して其《そ》の領地《りやうち》は、田布施《たぶせ》、高橋《たかはし》、阿多等《あたとう》であつた。
永正《えいしやう》九|年《ねん》六|月《ぐわつ》、島津運久《しまづかずひさ》は、約束通《やくそくどほ》りに、家《いへ》を忠良《たゞよし》に讓《ゆづ》りて、阿多《あた》に隱居《いんきよ》した。此《こゝ》に於《おい》て忠良《たゞよし》は、伊作家《いさかけ》の領地《りやうち》伊作《いさか》、及《およ》び相州家《さうしうけ》の領地《りやうち》阿多《あた》、田布施《たぶせ》、高橋等《たかはしとう》を併《あは》せ領《りやう》し、島津氏《しまづし》の支族《しぞく》の兩家《りやうけ》は、彼《かれ》の一|身《しん》に合《がつ》せられた。是《こ》れが彼《かれ》の二十一|歳《さい》の時《とき》である。
彼《かれ》は既《すで》に薩州家《さつしうけ》なる島津成久《しまづなりひさ》の女《むすめ》を娶《めと》つた。永正《えいしやう》十一|年《ねん》五|月《ぐわつ》五|日《か》に、其《そ》の嫡男《ちやくなん》貴久《たかひさ》が生《うま》れた。貴久《たかひさ》は實《じつ》に島津氏《しまづし》を大《だい》ならしむ可《べ》き、運命《うんめい》を負《おは》されて生《うま》れた。薩州家《さつしうけ》は出水《いづみ》の領主《りやうしゆ》島津用久《しまづもちひさ》に始《はじま》る。用久《もちひさ》は島津氏《しまづし》八|代《だい》久豐《ひさとよ》の次男《じなん》にて、其子《そのこ》薩摩守國久《さつまのかみくにひさ》、薩摩守成久兄弟《さつまのかみなりひさきやうだい》相繼《あひつ》いだ。成久《なりひさ》は即《すなは》ち忠良《たゞよし》の夫人《ふじん》の父《ちゝ》である。成久《なりひさ》の弟《おとうと》忠興《たゞおき》は、加世田《かせだ》に住《ぢゆう》した。忠興《たゞおき》の子《こ》が島津實久《しまづさねひさ》である。實久《さねひさ》は薩州家《さつしうけ》の五|代《だい》として、谷山《たにやま》、川邊《かはべ》、加世田《かせだ》、高尾《たかを》、阿久根《あくね》、高城《たかぎ》、水引等《みづひきとう》を領《りやう》し、儼然《げんぜん》たる一|大勢力《だいせいりよく》であつた。而《しか》して其姉《そのあね》は、島津氏《しまづし》第《だい》十四|代《だい》勝久《かつひさ》の夫人《ふじん》となつた。
勝久《かつひさ》は今《いま》や宗室《そうしつ》の二|大勢力《だいせいりよく》の間《あひだ》に介在《かいざい》した。伊作《いさか》、相州兩家《さうしうりやうけ》を合《がつ》したる忠良《ただよし》に與《くみ》せん乎《か》。將《は》た薩州家《さつしうけ》の實久《さねひさ》に與《くみ》せん乎《か》。彼《かれ》の一|代《だい》は、此《こ》の兩勢力《りやうせいりよく》の間《あひだ》に彷徨《はうくわう》した。

[#5字下げ][#中見出し]【二四】島津忠良と島津實久[#中見出し終わり]

柔弱《じうじやく》なる島津勝久《しまづかつひさ》は、當初《たうしよ》は其《そ》の夫人《ふじん》の弟《おとうと》、島津實久《しまづさねひさ》に政《まつりごと》を委《ゆだ》ねた。されど實久《さねひさ》は餘《あま》りに放恣《はうし》であつた。彼《かれ》は勝久《かつひさ》の爲《な》すなきを見《み》て、取《と》つて之《これ》に代《かは》らんと欲《ほつ》し、自《みづか》ら其《そ》の世子《せいし》たるを求《もと》めた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]勝久《かつひさ》は遂《つひ》に耐《た》へ得《え》ずして、實久《さねひさ》と反目《はんもく》し、其《そ》の夫人《ふじん》を去《さ》つた。是《これ》が爲《た》めに實久《さねひさ》の怨望《えんばう》と、威嚇《ゐかく》とは、愈《いよい》よ加《くはゝ》つた。勝久《かつひさ》は此《こゝ》に於《おい》てか、他《た》の勢力《せいりよく》に頼《よ》る可《べ》く、餘儀《よぎ》なくせられた。そは云《い》ふ迄《まで》もなく、忠良《たゞよし》其人《そのひと》であつた。
忠良《たゞよし》は固《もと》より無代價《むだいか》に動《うご》かなかつた。勝久《かつひさ》は彼《かれ》に賄《まひな》ふに南郷《なんがう》と、日置《ひおき》の地《ち》とを以《もつ》てした。此《こ》れが大永《たいえい》六|年《ねん》、忠良《たゞよし》卅五|歳《さい》の時《とき》であつた。是《こ》れより忠良《たゞよし》の運《うん》は、逐次《ちくじ》に開展《かいてん》した。彼《かれ》は實久《さねひさ》に代《かは》りて、島津氏《しまづし》の政《まつりごと》を執《と》つた。而《しか》して彼《かれ》の子《こ》虎壽丸《とらじゆまる》は、勝久《かつひさ》の養嗣《やうし》となり、名《な》を貴久《たかひさ》と稱《しよう》し、又《また》三|郎《らう》と改《あらた》めた。是《こ》れは其《そ》の十一|月《ぐわつ》であつた。島津國史《しまづこくし》、西藩野史等《さいはんやしとう》には、忠良《たゞよし》は之《これ》を辭《じ》する再《さい》三、聽許《ちやうきよ》せられず、已《や》むなく之《これ》に應《おう》じたとある。表面《へうめん》の經過《けいくわ》は、恐《おそ》らくは其通《そのとほ》りであつたらう。されど忠良《たゞよし》は、斯《かゝ》る好機《かうき》を閑却《かんきやく》するには、餘《あま》りに政治家《せいじか》であつた。貴久《たかひさ》の宗家《そうけ》を繼《つ》ぐは、事實《じじつ》に於《おい》ては、忠良《たゞよし》自《みづか》ら宗家《そうけ》を繼《つ》ぐ所以《ゆゑん》だ。實久《さねひさ》が勝久《かつひさ》を壓迫《あつぱく》して、自《みづか》ら世子《せいし》たらん※[#「こと」の合字、111-2]を求《もと》めたる、露骨《ろこつ》、粗笨《そほん》の仕打《しうち》と對照《たいせう》すれば、其《そ》の技倆《ぎりやう》の相距《あひさ》る、千|里《り》も啻《たゞ》ならずだ。
其《そ》の十二|月《ぐわつ》には、忠良《たゞよし》は實久《さねひさ》の黨邊川忠直《たうへかはたゞなを》を、帖佐城《てふさじやう》に攻《せ》め、男女《だんぢよ》五百|人《にん》を殺《ころ》し、之《これ》を陷《おとしい》れた。勝久《かつひさ》は更《さ》らに伊集院《いじふゐん》、谷山《たにやま》の地《ち》を以《もつ》て、其《そ》の軍劫《ぐんこう》を賞《しやう》した。此《かく》の如《ごと》くして忠良《たゞよし》の勢力《せいりよく》は、殆《ほとん》ど事實上《じじつじやう》の守護職《しゆごしよく》であつた。
大永《たいえい》七|年《ねん》四|月《ぐわつ》、勝久《かつひさ》は家《いへ》を忠良《たゞよし》の子《こ》貴久《たかひさ》に讓《ゆづ》り、忠良《たゞよし》をして其《そ》の後見《こうけん》たらしめた。而《しか》して自《みづか》ら伊作《いさか》に退隱《たいいん》した。此《こ》の政權受授《せいけんじゆじゆ》には、福昌寺《ふくしやうじ》十三|世《せ》の僧《そう》大應《だいおう》が、其《そ》の斡旋者《あつせんしや》であつた。此《こ》れは勝久《かつひさ》の自發《じはつ》であつた乎《か》、否乎《いなか》は別《べつ》として、極《きは》めて圓滑《ゑんくわつ》に行《おこな》はれた。勝久《かつひさ》は伊作《いさか》に於《おい》て、剃髮《ていはつ》した。忠良《たゞよし》も亦《ま》た剃髮《ていはつ》し、愚谷軒《ぐこくけん》、日新齋《につしんさい》と號《がう》した。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
然《しか》も忠良《たゞよし》は入道《にふだう》して、世捨人《よすてびと》となつたのではない。彼《かれ》の働《はたら》きは、寧《むし》ろ此《こ》れからであつた。彼《かれ》は五|月《ぐわつ》には、再《ふたゝ》び實久《さねひさ》の黨《たう》、島津昌久《しまづまさひさ》を帖佐《てふさ》に、伊地知重貞《いちぢしげさだ》を加治木《かぢき》に討《う》つて、與《とも》に之《これ》を殺《ころ》した。然《しか》るに禍《わざはひ》は却《かへつ》て脚下《あしもと》より生《しやう》じた。出水《いづみ》に在《あ》りて、形勢《けいせい》を觀測《くわんそく》しつゝある實久《さねひさ》は、竊《ひそ》かに川上忠克《かはかみたゞかつ》をして、勝久《かつひさ》に説《と》く所《ところ》があつた。曰《いは》く、御身《おんみ》を伊作《いさか》の山中《さんちう》に押籠《おしこ》め申《まを》すは、如何《いか》にも不埒《ふらち》千|萬《ばん》である、必《かなら》ず再《ふたゝ》び守護職《しゆごしよく》の位《くらゐ》に、迎《むか》へ立《た》て申《まを》さんと。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]勝久《かつひさ》は其心《そのこゝろ》自《おのづ》から搖《うご》かざるを得《え》なかつた。彼《かれ》は實久《さねひさ》に内旨《ないし》を傳《つた》へた。掌中《しやうちう》の珠《たま》は、既《すで》に忠良《たゞよし》より實久《さねひさ》に移《うつ》つた。
流石《さすが》の忠良《たゞよし》に於《おい》ても、勝久《かつひさ》の※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57]忽《しゆくこつ》の反覆《はんぷく》には、意外《いぐわい》であつた。彼《かれ》は帖佐《てふさ》、加治木《かぢき》が鹿兒島《かごしま》の藩籬《はんり》として、要樞《えうすう》の地《ち》なれば、勝久《かつひさ》を此地《このち》に移《うつ》す可《べ》く計企《けいき》し、加治木《かぢき》より船《ふね》にて、鹿兒島《かごしま》の戸柱《とばしら》に至《いた》つたが、此處《こゝ》にて其《そ》の形勢《けいせい》の一|變《ぺん》を聞《き》き、倉皇《さうくわう》として、湯越嶺《ゆごしみね》より田布施《たぶせ》に還《かへ》つた。
島津實久《しまづさねひさ》は、忠良《たゞよし》の帖佐《てふさ》[#ルビの「てふさ」は底本では「てうさ」]、加治木《かぢき》の出陣《しゆつぢん》を覗《うかゞ》ひ、勝久《かつひさ》の意《い》を飜《ひるがへ》し、出水《いづみ》、串木野《くしきの》、市來等《いちきとう》の兵《へい》を率《ひき》ゐて、伊集院城《いじふゐんじやう》を陷《おとしい》れ、又《ま》た加世田《かせだ》、川邊《かはへ》、加兒《かに》、山田等《やまだとう》[#ルビの「やまだとう」は底本では「やまだ」]の兵《へい》を以《もつ》て、谷山城《たにやまじやう》を陷《おとしい》れた。是《こ》れが五|月《ぐわつ》十一|日《にち》の事《こと》である。而《しか》して島津貴久《しまづたかひさ》に向《まか》つて、守護職《しゆごしよく》の返却《へんきやく》を逼《せま》つた。貴久《たかひさ》は十四|歳《さい》の少年《せうねん》だ。其《そ》の後見役《こうけんやく》たる父《ちゝ》忠良《たゞよし》は不在《ふざい》だ。城中《じやうちう》には或《あるひ》は死守《ししゆ》、或《あるひ》は致城退去《ちじやうたいきよ》、群議紛々《ぐんぎふんぷん》だ。然《しか》も鹿兒島《かごしま》も亦《ま》た、實久《さねひさ》の黨《たう》が漸次《ぜんじ》増加《ぞうか》しつゝある。此《こゝ》に於《おい》て五|月《ぐわつ》十五|日《にち》の夜《よ》、侍臣《じしん》六|名《めい》彼《かれ》を護《ご》して、鹿兒島《かごしま》なる清水城《しみづじやう》を出《い》で、漸《やうや》く追兵《つゐへい》の虎口《ここう》を脱《だつ》し、田布施《たぶせ》に達《たつ》した。
島津國史《しまづこくし》には、田布施《たぶせ》に還《かへ》る途中《とちう》、伊作《いさか》に立寄《たちよ》り、勝久《かつひさ》に面會《めんくわい》したとある。西藩野史《さいはんやし》には、先《ま》づ田布施《たぶせ》に還《かへ》つたが、忠良《たゞよし》は貴久《たかひさ》に向《むか》つて、宜《よろ》しく勝久《かつひさ》に謁《えつ》して、暇《いとま》を乞《こ》うて來《きた》れと命《めい》じ、更《さら》に伊作《いさか》に赴《おもむ》かしめたとある。そは何《いづ》れにせよ、貴久《たかひさ》は勝久《かつひさ》に面會《めんくわい》した。好人物《こうじんぶつ》の勝久《かつひさ》は、貴久《たかひさ》に向《むか》つて、實久《さねひさ》の謀反《むほん》は、予《よ》の關知《くわんち》する所《ところ》でないと辨疏《べんそ》し、※[#「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31]待《くわんたい》三|日《か》、然《しか》して後《のち》、田布施《たぶせ》に送《おく》り還《かへ》した。而《しか》して其《そ》の二十一|日《にち》には、勝久《かつひさ》は實久《さねひさ》に誘《いざな》はれて、伊作《いさか》より鹿兒島《かごしま》に復歸《ふくき》した。實久《さねひさ》は再《ふたゞ》び幸運兒《かううんじ》となつた。
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[#6字下げ]貴久島津家を嗣ぐ
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
勝久公の御養子に伊作家より貴久公(大中公)が御成りなされました。貴久公の御實父日新公は文武の御徳が勝れて居りますから、御國の總體がどうしても此御家でなければならぬことになつたものと見えます。それ故に伊作家より遂に宗統を御承けになりましたので、是は單り御國のみならず、日本國中の諸大名は皆さう云ふ風に當時はなつて居ります。其一二を擧げますれば、甲州の武田、越後の長尾(上杉)此二國なども其通り、國中紛亂の時は老臣の輩が合議しまして、一門家の内から器量ある人を選んで跡目を繼がせる。若それをせなければ他國から直ぐに取られる。武田は父を出して子を立て、上杉は兄を除けて弟を立てました。さう云ふ事例が諸國に皆あります。それは唯系圖ばかり守つて居りましては、他國から侵入する。其他國を壓へる程の人を立てなければ、社稷の爲にならぬと申すので、家老大臣の人々が心を合せまして、少しでも賢なる人を立てる。宗統は薩州家の末になりましては、勝久公、伊作家は日新公、其日新公の御子(貴久公)を御貰ひなされ、日新公が後見をなさるれば、彼の日州の伊東、隅州の肝屬等が指すことも出來ない。斯う申す所から自然老臣の人々が一致して賢君を戴くやうになつたのであります。當時伊作家は御學問もあり、又武道に於ては申分の無い日新公の御力で、變亂の鎭定も大いに捗りました。〔重野安釋著薩藩史談集〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二五】忠良と實久の決闘[#中見出し終わり]

形勢《けいせい》は走馬燈《そうまとう》の如《ごと》く變《へん》じた。伊作《いさか》に棲隱《せいいん》したる島津勝久《しまづかつひさ》は、實久《さねひさ》に迎《むか》へられて鹿兒島《かごしま》に入《い》り、再《ふたゝ》び守護職《しゆごしよく》の位《くらゐ》に復《ふく》した。忠良《たゞよし》と貴久《たかひさ》とは、田布施《たぶせ》に逃《のが》れたが、實久《さねひさ》が伊作《いさか》を取《と》らんとするを聞《き》き、此地《このち》は祖先代々《そせんだい/″\》の所領《しよりやう》なれば、他《た》に渡《わた》す可《べ》きにあらずとて、勝久《かつひさ》の殘《のこ》し置《お》きたる守兵《しゆへい》を襲《おそ》うて、之《これ》を取《と》つた。是《こ》れは大永《たいえい》七|年《ねん》七|月《ぐわつ》廿三|日《にち》の事《こと》である。此《こ》れより彼等父子《かれらふし》は伊作《いさか》に雌伏《しふく》して、姑《しば》らく機會《きくわい》の來《きた》るを待《ま》つた。
勝久《かつひさ》は依然《いぜん》たる闇主《あんしゆ》であつた。彼《かれ》は享祿《きやうろく》二|年《ねん》、島津忠朝《しまづたゞとも》、新納忠勝《にひろたゞかつ》、禰寢清年《ねじめきよとし》、肝付兼演《きもつきかねのぶ》、本田董親《ほんだたゞちか》、樺山善久等《かばやまよしひさら》が鹿兒島《かごしま》に會合《くわいがふ》して、國亂《こくらん》を靖《やすん》ぜんと謀《はか》つたが、勝久《かつひさ》が彼等《かれら》を引見《いんけん》せなかつた爲《た》め、何《いづ》れも慍《いか》りて歸《かへ》り去《さ》つた。勝久《かつひさ》は之《これ》に驚《おどろ》き、自《みづか》ら舟《ふね》に乘《の》つて、島津忠朝《しまづたゞとも》─|日向飫肥城主《ひふがをびのじやうしゆ》─を下大隈迄《しもおほすみまで》追《お》うたが、及《およ》ばなかつた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
彼《かれ》は又《ま》た天文《てんぶん》二|年《ねん》、島津忠良《しまづたゞよし》に向《むか》つて、其《そ》の曾《かつ》て貴久《たかひさ》に與《あた》へたる、傳家《でんか》の寳器《はうき》の返却《へんきやく》を促《うなが》した。忠良《たゞよし》は之《これ》を拒《こば》んだ。一|度《たび》與《あた》へたものを取《と》り戻《もど》すとは、無禮《ぶれい》である。縱令《たとひ》御身《おんみ》貴久《たかひさ》と、父子《ふし》の縁《えん》は絶《た》てばとて、寳器《はうき》と何《なん》の關係《くわんけい》あると答《こた》へた。然《しか》も勝久《かつひさ》は執拗《しふね》くも之《これ》を求《もと》めた。此《こゝ》に於《おい》て忠良《たゞよし》は怒《いか》つた。左程《さほど》欲《ほ》しければ、戰場《せんぢやう》にて受授《じゆじゆ》す可《べ》しと答《こた》へた。〔西藩野史〕[#「〔西藩野史〕」は1段階小さな文字]
勝久《かつひさ》が長《なが》く守護職《じゆごしよく》に留《とゞま》る能《あた》はざるは明白《めいはく》だ。其《そ》の取《と》つて代《かは》る者《もの》の問題《もんだい》は、唯《た》だ島津實久《しまづさねひさ》か、忠良父子《たゞよしふし》かであつた。而《しか》して忠良父子《たゞよしふし》は、漸次《ぜんじ》に其《そ》の頭首《とうしゆ》を擡《もた》げて來《き》た。天文《てんぶん》二|年《ねん》三|月《ぐわつ》には、南郷《なんがう》を恢復《くわいふく》し、之《これ》を永吉《ながよし》と改《あらた》めた。其《そ》の八|月《ぐわつ》には、日置《ひおき》を恢復《くわいふく》し、降將《かうしやう》山田有親《やまだありちか》を殺《ころ》した。斯《か》く忠良《たゞよし》の威勢《ゐせい》が旺《さかん》なると與《とも》に、勝久《かつひさ》の方《はう》には、一の異變《いへん》が生《しやう》じた。
そは別儀《べつぎ》にあらず、勝久《かつひさ》が末弘伯耆守《すゑひろはうきのかみ》、小倉武藏守抔《をぐらむさしのかみなど》の新進者《しんしんしや》を寵幸《ちようかう》し、唯《た》だ飮博《いんぱく》を事《こと》として、政務《せいむ》に無頓著《むとんぢやく》であつたから、川上昌久等《かはかみまさひさら》十六|人《にん》の重臣《ぢゆうしん》は、島津實久《しまづさねひさ》に由《よ》りて之《これ》を諫《いさ》めた。勝久《かつひさ》固《もと》より之《これ》を納《い》れず、此《こゝ》に於《おい》て昌久等《まさひさら》は末弘《すえひろ》を殺《ころ》した。勝久《かつひさ》は恐《おそ》れて禰寢《ねじめ》に奔《はし》つた。是《こ》れが天文《てんぶん》三|年《ねん》十|月《ぐわつ》廿五|日《にち》の事《こと》だ。翌《よく》四|年《ねん》四|月《ぐわつ》、勝久《かつひさ》は鹿兒島《かごしま》に還《かへ》り、川上昌久《かはかみまさひさ》を召《め》し、※[#「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70]《せま》りて自殺《じさつ》せしめた。同年《どうねん》九|月《ぐわつ》島津實久《しまづさねひさ》は、昌久《まさひさ》の黨《たう》と與《とも》に、鹿兒島《かごしま》を襲《おそ》ひ、遂《つひ》に之《これ》を占領《せんりやう》した。
斯《か》くて實久《さねひさ》は、人《ひと》をして勝久《かつひさ》に曰《い》はしめた。曩《さき》に公《こう》を伊作《いさか》に迎《むか》へた時《とき》に、政事《せいじ》は一|切《さい》御委任《ごいにん》の審判《しんぱん》を頂戴《ちやうだい》した。今日《こんにち》は如何《いかゞ》でござるかと、勝久《かつひさ》は固《もと》より前約《ぜんやく》の通《とほ》りであると答《こた》へた。實久《さねひさ》は谷山《たにやま》に退《しりぞ》いた。十|月《ぐわつ》には勝久《かつひさ》鹿兒島《かごしま》に居《ゐ》たゝまらず、帖佐《てふさ》に奔《はし》つた。此《こゝ》に於《おい》て實久《さねひさ》は鹿兒島《かごしま》に入《い》りて、恰《あたか》も守護職然《しゆごしよくぜん》として、其《そ》の權力《けんりよく》を※[#「てへん+確のつくり」、117-8]揮《かくき》した。勝久《かつひさ》は爾來《じらい》全《まつた》く流浪《るらう》の客《きやく》となつた。彼《かれ》は帖佐《てふさ》より吉松《よしまつ》に赴《おもむ》き、更《さら》に都城《みやこのじやう》の北郷氏《ほんがうし》に依《よ》る八九|年《ねん》、遂《つひ》に其《そ》の母《はゝ》の家《いへ》大友氏《おほともし》に頼《よ》り、豐後沖濱《ぶんごおきはま》に寓《ぐう》し、天正《てんしやう》元年《ぐわんねん》七十一|歳《さい》にて逝《ゆ》いた。
然《しか》も勝久《かつひさ》の悲運《ひうん》は、寧《むし》ろ忠良《たゞよし》、貴久《たかひさ》の幸運《かううん》となつた。彼等《かれら》は實久《さねひさ》が、勝久《かつひさ》を排《はい》して、自《みづか》ら守護職《しゆごしよく》の位《くらゐ》を僭《せん》するを見《み》、猛然《まうぜん》として起《た》ち、天文《てんぶん》五|年《ねん》三|月《ぐわつ》、伊集院《いじふゐん》を陷《おとしい》れ、六|年《ねん》正月《しやうぐわつ》には、大《おほい》に實久《さねひさ》の軍《ぐん》を破《やぶ》りて、二|月《ぐわつ》鹿兒島《かごしま》に入《はひ》つた。實久《さねひさ》は川邊《かはべ》に奔《はし》り、四|月《ぐわつ》加世田《かせだ》に赴《おもむ》いた。五|月《ぐわつ》忠良《たゞよし》は實久《さねひさ》と講和《かうわ》し、伊集院《いじふゐん》、鹿兒島《かごしま》、谷山《たにやま》、吉田《よしだ》を以《もつ》て、加世田《かせだ》、川邊《かはべ》と易《か》へんとて、自《みづか》ら加世田《かせだ》に赴《おもむ》き、實久《さねひさ》と面議《めんぎ》したが、實久《さねひさ》は之《これ》に應《おう》ぜなかつた。
蓋《けだ》し實久《さねひさ》の素志《そし》は、守護職《しゆごしよく》となるにあつた。されば勝久《かつひさ》の鹿兒島《かごしま》を逃《のが》るゝや、彼《かれ》は都城《みやこのじやう》に至《いた》り北郷忠相《ほんがうたゞすけ》に説《と》き、飫肥《をび》に之《ゆ》き島津忠朝《しまづたゞとも》に説《と》き、其《そ》の同意《どうい》を得《え》て、二|人《にん》及《およ》び清水領主《しみづりやうしゆ》本田董親等《ほんだたゞちから》と、志布志《しぶし》に抵《いた》り、肝付《きもつき》、禰寢《ねじめ》、及《およ》び新納忠勝《にひろたゞかつ》、忠茂《たゞしげ》の父子等《ふしら》と會合《くわいがふ》した。新納父子《にひろふし》が、其議《そのぎ》に應《おう》ぜなかつた爲《た》め、先《ま》づ新納氏《にひろし》の征伐《せいばつ》に取《と》り掛《かゝ》つた。彼《かれ》も中々《なか/\》喰《く》へぬ代物《しろもの》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【二六】島津忠良の成功[#中見出し終わり]

島津忠良《しまづたゞよし》と實久《さねひさ》の決鬪《けつとう》は、尚《な》ほ繼續《けいぞく》した。實久《さねひさ》が大隈《おほすみ》の地《ち》を略《りやく》しつゝある際《さい》に、忠良《たゞよし》は加世田《かせだ》を陷《おとしい》れた。此《こ》の加世田《かせだ》の戰爭《せんさう》は、忠良《たゞよし》一|代《だい》の激戰《げきせん》であつた。天文《てんぶん》七|年《ねん》十二|月《ぐわつ》十八|日《にち》、忠良《たゞよし》は加世田《かせだ》を攻《せ》む可《べ》く、益山《ますやま》の諏訪原《すははら》に屯《たむろ》したが、却《かへつ》て加世田城兵《かせだじやうへい》より、不意打《ふいうち》を喰《く》ひ、諏訪明神祠中《すはみやうじんしちう》に匿《かく》れた。敵兵《てきへい》追《お》ひ來《きた》つたが、祠中《しちう》より鳩《はと》が飛《と》び、地上《ちじやう》より※[#「(島−山)/儿」、119-4]《かもめ》が起《た》つたのを見《み》て、竟《つひ》に忠良《たゞよし》を看過《かんくわ》し去《さ》つた。
天文《てんぶん》七|年《ねん》の大晦日《おほみそか》の夜《よ》、忠良《たゞよし》は貴久《たかひさ》と決死《けつし》して、加世田《かせだ》を襲《おそ》うた。同夜《どうや》三|丸《のまる》を陷《おとしい》れた。翌朝《よくてう》即《すなは》ち天文《てんぶん》八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》元日《ぐわんじつ》、午前《ごぜん》四|時《じ》より本丸《ほんまる》に攻《せ》め掛《かゝ》つた。城代《じやうだい》の阿多《あた》が開門《かいもん》して之《これ》を納《い》れ、二|丸《のまる》を拔《ぬ》いた。又《ま》た新城《しんじやう》の二|丸《のまる》、及《およ》び三|丸《のまる》を拔《ぬ》いた。本丸城代《ほんまるじやうだい》別府《べつぷ》は、降《かう》を請《こ》うたが、忠良《たゞよし》は此際《このさい》に至《いた》りての降參《かうさん》は、卑怯《ひけふ》であるとて、許《ゆる》さなかつたから、餘儀《よぎ》なく城《しろ》を出《で》て、陣《ぢん》に臨《のぞ》んだ。忠良《たゞよし》は自《みづか》ら眉尖刀《なぎなた》を揮《ふる》うて之《これ》を斬《き》り、其首《そのくび》を大手門外《おほてもんぐわい》の樹上《じゆじやう》に梟《けう》した。彼《かれ》は三十九|年振《ねんぶ》りに、祖父《そふ》の怨《うらみ》を霽《はら》したるを悦《よろこ》んだ。蓋《けだ》し島津久逸《しまづひさとし》は、明應《めいおう》九|年《ねん》に、此地《このち》に戰死《せんし》したからである。
此《こ》の一|戰《せん》は、忠良《たゞよし》、實久《さねひさ》の爭霸戰《さうはせん》の廻轉機《くわいてんき》であつた。同年《どうねん》忠良《たゞよし》は谷山《たにやま》、川邊《かはべ》を取《と》り、串木野城《くしきのじやう》を拔《ぬ》き、川上忠克《かはかみたゞかつ》を奔《はし》らしめ、市來本城《いちきほんじやう》を圍《かこ》み、新納忠苗《にひろたゞたね》を降《くだ》らしめた。此《こゝ》に於《おい》て實久《さねひさ》の薩南《さつなん》に於《お》ける勢圜《せいくわん》は、悉《こと/″\》く一|掃《さう》せられた。是《こ》れより忠良《たゞよし》は加世田《かせだ》に住《ぢゆう》し、貴久《たかひさ》は伊集院《いじふゐん》に在《あ》り、父子《ふし》※[#「特のへん+奇」、U+7284、ページ数-行数]角《きかく》の勢《いきほひ》を成《な》して、以《もつ》て實久《さねひさ》を壓《あつ》した。實久《さねひさ》の後半期《こうはんき》は、全《まつた》く落寞《らくばく》となつた。
斯《か》くて天文《てんぶん》十四|年《ねん》三|月《ぐわつ》十八|日《にち》には、飫肥《をび》の主《しゆ》島津忠廣《しまづたゞひろ》、北郷《ほんがう》の主《しゆ》北郷忠相等《ほんがうたゞすけら》、伊集院《いじふゐん》に來《きた》り、貴久《たかひさ》を擁立《ようりつ》して、守護職《しゆごしよく》の任《にん》に就《つ》かしめた。併《しか》し是《こ》れは只《た》だ事實《じじつ》の上《うへ》に、名目《みやうもく》を加《くは》へた迄《まで》であつた。近衞稙家《このゑたねいへ》は、貴久《たかひさ》に衣冠束帶《いくわんそくたい》を贈《おく》つた。稙家《たねいへ》は近衞前久《このゑさきひさ》の父《ちゝ》にて、基通《もとみち》十三|世《せい》の孫《まご》である。此年《このとし》忠良《たゞよし》五十四|歳《さい》、貴久《たかひさ》三十二|歳《さい》、而《しか》して後世《こうせい》薩摩隼人《さつまはやと》に膾炙《くわいしや》したる、忠良《たゞよし》の伊呂波歌《いろはうた》は、實《じつ》に此年《このとし》に成《な》つた。
然《しか》も薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》の天地《てんち》は、未《いま》だ泰平《たいへい》を樂《たの》しむ時節《じせつ》に達《たつ》せなかつた。北薩《ほんさつ》より大隈《おほすみ》にかけては、異姓《いせい》の豪族《がうぞく》、犬牙《けんが》錯綜《さくそう》した。澁谷氏《しぶやし》は東郷《とうがう》、及《およ》び祁答院地方《けたふゐんちはう》に蟠居《ばんきよ》し、其《そ》の同族《どうぞく》たる入來院氏《いりきゐんし》は、入來《いりき》、郡山《こほりやま》にあり、菱刈氏《ひしかりし》は牛屎院《うしくそゐん》、太良院《たらゐん》に據《よ》り、蒲生氏《がまふし》は蒲生《がまふ》、吉田《よしだ》に、北原氏《きたはらし》は眞幸院《まさきゐん》に。而《しか》して大隈南部半島《おほすみなんぶはんとう》の地《ち》には、肝付氏《きもつきし》と禰寢氏《ねじめし》あり、加治木《かぢき》には肝付氏《きもつきし》の支族《しぞく》あり、清水地方《しみづちはう》には本田氏《ほんだし》あり、日向《ひふが》、佐土原《さどはら》には伊東氏《いとうし》あり。而《しか》して島津氏《しまづし》の同族間《どうぞくかん》にも、其《そ》の向背《かうはい》期《き》し難《がた》きもの少《すくな》くなかつた。
されば此《これ》を統《とう》一するは、決《けつ》して容易《ようい》の業《わざ》でなかつた。但《た》だ忠良父子《たゞよしふし》は、苟《いやしく》も機《き》の乘《じよう》ず可《べ》きあれば、油斷《ゆだん》なく之《これ》を捉《とら》へて、其《そ》の勢圜《せいくわん》を擴張《くわくちやう》した。忠良《たゞよし》は軍陣《ぐんぢん》の勇者《ゆうしや》たるのみならず、其《そ》の外交《ぐわいかう》、掛引《かけひき》に於《おい》ても、頗《すこぶ》る優者《いうしや》であつた。彼《かれ》は峻烈《しゆんれつ》を以《もつ》て、敵《てき》に臨《のぞ》んだが、苟《いやしく》も降《くだ》る者《もの》は、概《おほむ》ね之《これ》を綏撫《すゐぶ》した。彼《かれ》は人心《じんしん》を繋《つな》ぐの術《じゆつ》を解《かい》した。彼《かれ》は結婚政策《けつこんせいさく》に於《おい》て、成功《せいこう》した。彼《かれ》の長女《ちやうぢよ》は肝付兼續《きもつきかねつぐ》に、次女《じぢよ》は樺山善久《かばやまよしひさ》(島津國史幸久に作る)[#「(島津國史幸久に作る)」は1段階小さな文字]に、三|女《ぢよ》は肝付兼盛《きもつきかねもり》に嫁《か》した。而《しか》して彼《かれ》の長男《ちやうなん》貴久《たかひさ》は固《もと》より、二|男《なん》忠將《たゞまさ》、三|男《なん》尚久《なほひさ》、何《いづ》れも將材《しやうざい》であつた。而《しか》して其孫《そのまご》義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》に至《いた》りては、更《さ》らに島津氏《しまづし》を大《だい》ならしむ可《べ》き、運命《うんめい》を擔《にな》うた。忠良《たゞよし》は此《かく》の如《ごと》く總《すべ》てに於《おい》て、具足《ぐそく》した。然《しか》も三|州《しう》の統《とう》一は、彼《かれ》の死後《しご》九|年《ねん》、即《すなは》ち天正《てんしやう》五|年《ねん》に至《いた》りて、始《はじ》めて成就《じやうじゆ》した。〔島津日新公〕[#「〔島津日新公〕」は1段階小さな文字]
此《これ》を見《み》ても、如何《いか》に其《そ》の業《げふ》の艱難《かんなん》であつた事《こと》が判知《わか》る。而《しか》して此《かく》の如《ごと》く百|戰《せん》を經來《へきた》りて、統《とう》一したる結果《けつくわ》は、如何《いか》に其《そ》の團結《だんけつ》が鞏固《きようこ》にして、其《そ》の基礎《きそ》の不可拔《ふかばつ》なることが判知《わか》る。如何《いか》なる事業《じげふ》も、一|代《だい》にては成功《せいこう》し難《がた》い。されば大《だい》なる成功《せいこう》は、大《だい》なる繼續《けいぞく》である。而《しか》して大《だい》なる繼續《けいぞく》は、賢子孫《けんしそん》を得《う》る事《こと》である。

[#5字下げ][#中見出し]【二七】日新公と薩摩氣質(一)[#「(一)」は縦中横][#中見出し終わり]

忠良父子《たゞよしふし》の時代《じだい》は、單《たん》に島津氏《しまづし》に於《おい》て、將《は》た薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》に於《おい》て、大切《たいせつ》なる時代《じだい》のみでなく、亦《ま》た日本《にほん》に取《と》りて、大切《たいせつ》なる時代《じだい》であつた。何《なん》となれば、天文《てんぶん》十二|年《ねん》、忠良《たゞよし》五十二|歳《さい》、貴久《たかひさ》三十|歳《さい》の時《とき》には、葡萄牙船《ぽるとがるせん》[#ルビの「ぽるとがるせん」は底本では「ほるとがるせん」]、彼等《かれら》の勢圜《せいくわん》なる種子島《たねがしま》に來泊《らいはく》し、鐵砲《てつぱう》を傳《つた》へた。同《どう》十八|年《ねん》には、聖徒《せいと》の撒美惠《ザビヱー》鹿兒島《かごしま》に上陸《じやうりく》して、耶蘇教《やそけう》を傳《つた》へた。然《しか》も是皆《これみな》な只《た》だ彼等《かれら》の領土《りやうど》を、經由《けいゆ》したる迄《まで》である。吾人《ごじん》が忠良《たゞよし》に最《もつと》も重《おも》きを措《お》くは、彼《かれ》が薩摩氣質《さつまかたぎ》の祖師《そし》であるからだ。而《しか》して此《こ》の薩摩氣質《さつまかたぎ》は、明治維新《めいぢゐしん》の歴史《れきし》に、多大《ただい》の勢力《せいりよく》と、感化《かんくわ》とを及《およぼ》した事《こと》を考《かんが》ふれば、今茲《いまこゝ》に少《すこ》しく之《これ》を觀察《くわんさつ》するの必要《ひつえう》がある。
薩摩氣質《さつまかたぎ》の元素《げんそ》は、隼人氣質《はやとかたぎ》だ。即《すなは》ち隼人氣質《はやとかたぎ》に固有《こいう》したる特質《とくひつ》が、時《とき》と與《とも》に發育《はついく》、展成《てんせい》したのだ。是《これ》を忠良《たゞよし》一|人《にん》の製造《せいぞう》に歸《き》す可《べ》からざるは、勿論《もちろん》である。されど忠良《たゞよし》より貴久《たかひさ》、貴久《たかひさ》より義久《よしひさ》、義弘兄弟《よしひろきやうだい》の三|代《だい》に於《おい》て、所謂《いはゆ》る薩摩氣質《さつまかたぎ》なるものは、凝結《ぎようけつ》した。而《しか》して其《そ》の權化《ごんげ》は、實《じつ》に忠良其人《たゞよしそのひと》だ。即《すなは》ち彼《かれ》は其《そ》の開山《かいざん》だ。忠良《たゞよし》を解釋《かいしやく》せねば、薩摩氣質《さつまかたぎ》を解釋《かいしやく》する事《こと》は能《あた》はぬ。忠良《たゞよし》は薩摩氣質《さつまかたぎ》を、殆《ほと》んど美化《びくわ》し、醇化《じゆんくわ》し、善化《ぜんくわ》したる典型《てんけい》である。
勇敢《ゆうかん》にして、死《し》を怖《おそ》れざるは、隼人族《はやとぞく》の天性《てんせい》だ。輕鋭《けいえい》にして久《ひさ》しきを持《ぢ》する能《あた》はざるも、亦《ま》た固有《こいう》の質《しつ》だ。之《こ》れと同時《どうじ》に、能《よ》く周圍《しうゐ》と與《とも》に推移《すゐい》し、凝滯《ぎようたい》、粘著《ねんちやく》せざるも、亦《ま》た其《そ》の本色《ほんしよく》だ。是等《これら》は有史以來《いうしいらい》隼人族《はやとぞく》の、自然《しぜん》に發揮《はつき》したる行動《かうどう》に因《よ》つて、仔細《しさい》に看取《かんしゆ》する事《こと》が能《あた》ふ。然《しか》も忠良《たゞよし》は、更《さら》に如上《じよじやう》の性質《せいしつ》を陶冶《たうや》して、自《みづか》ら其《そ》の模範《もはん》を示《しめ》した。
宋學《そうがく》の幣《へい》は、人《ひと》をして餘《あま》りに窮屈《きゆうくつ》ならしめた。忠孝《ちゆうかう》、節義《せつぎ》の獎勵《しやうれい》はさる※[#「こと」の合字、124-3]ながら、動《やゝ》もすれば人《ひと》をして褊狹《へんけふ》、固陋《ころう》、拗僻《えうへき》、我執《がしつ》の者《もの》たらしめた。然《しか》らざれば小廉《せうれん》、曲謹《きよくきん》の偏屈者《へんくつしや》、或《あるひ》は僞善者《ぎぜんしや》たらしめた。但《た》だ隼人族《はやとぞく》は、本來《ほんらい》物質的《ぶつしつてき》であつた、調和的《てうわてき》であつた、實際的《じつさいてき》であつた。されば宋學《そうがく》は桂菴《けいあん》を經《へ》て、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》に注入《ちゆうにふ》したが、是《こ》れが爲《た》めに隼人族《はやとぞく》本來《ほんらい》の面目《めんもく》を、一|變《ぺん》するが如《ごと》き影響《えいきやう》は、斷《だん》じて與《あた》へなかつた。別言《べつげん》すれば、彼等《かれら》は宋學《そうがく》には中毒《ちうどく》せなかつた、否《い》な彼等《かれら》は中毒《ちうどく》する能《あた》はなかつた。薩摩人《さつまじん》は徳川幕府《とくがはばくふ》を經《へ》て、明治維新《めいじゐしん》に至《いた》る迄《まで》、殆《ほとん》ど何等《なんら》囚《とら》はるゝ|所《ところ》がなかつた。否《い》な彼等《かれら》は、薩摩《さつま》てふ觀念《くわんねん》に囚《とら》はるゝ|以外《いぐわい》には、全《まつた》く無拘束《むかうそく》の人種《じんしゆ》であつた。彼等《かれら》は宋學《そうがく》に縛《ばく》せらるゝよりも、餘《あま》りに臨機應變的《りんきおうへんてき》であつた。
忠良《たゞよし》と前後《ぜんご》して、中國《ちうごく》に毛利元就《まうりもとなり》があつた。彼《かれ》は實《じつ》に長州氣質《ちやうしうかたぎ》の祖師《そし》であつた。而《しか》して長州氣質《ちやうしうかたぎ》は、元就《もとなり》より、其子《そのこ》吉川《きつかは》、小早川《こばやかは》を經《へ》て、漸次《ぜんじ》に結晶《けつしやう》した。元就《もとなり》は忠良《たゞよし》に比《ひ》すれば、其《そ》の輪郭《りんくわく》が更《さ》らに大《だい》なる樣《やう》だ。併《しか》し忠良《たゞよし》の孫《まご》義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》の兄弟《きやうだい》は、元就《もとなり》の孫《まご》、毛利輝元《まうりてるもと》に比《ひ》すれば、其《そ》の人物《じんぶつ》が何《いづ》れも有力《いうりよく》であつたかと思《おも》はるゝ。少《すくな》くとも品性《ひんせい》の力《ちから》、他《た》に感化《かんくわ》を及《およぼ》す力《ちから》は、輝元以上《てるもといじやう》であつたに相違《さうゐ》あるまい。されば薩摩氣質《さつまかたぎ》の完成期《くわんせいき》は、或《あるひ》は關《せき》ヶ|原役以後《はらえきいご》と云《い》うても可《か》なりだ。併《しか》し其《そ》の祖師《そし》が忠良《たゞよし》である事《こと》は、斷《だん》じて疑《うたがひ》を容《い》れぬ。義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》は、血統上《けつとうじやう》忠良《たゞよし》の孫《まご》たるのみならず、彼等《かれら》は全《まつた》く忠良《たゞよし》の衣鉢《いはつ》を襲《おそ》うたるものだ。否《い》な義久《よしひさ》の如《ごと》きは、實《じつ》に忠良《たゞよし》が自《みづか》ら手《て》に掛《か》けて、教育《けういく》したるものだ。
忠良《たゞよし》とやゝ|時代後《じだいおく》れて、信玄《しんげん》とか、謙信《けんしん》とか、何《いづ》れも一通《ひととほ》り以上《いじやう》の學者《がくしや》であつた。されど彼等《かれら》は、畢竟《ひつきやう》自《みづか》ら爲《た》めにするの學問《がくもん》で、他《た》に及《およぼ》すの學問《がくもん》ではなかつた。然《しか》るに忠良《たゞよし》の學問《がくもん》は、寧《むし》ろ他《た》に及《およぼ》すを勗《つと》めた。其《そ》の一|家《け》一|門《もん》より、延《ひ》いて其《そ》の臣下《しんか》に及《およぼ》す可《べ》く勗《つと》めた。彼《かれ》が伊呂波歌《いろはうた》の如《ごと》きは、正《まさ》しく其《そ》の適例《てきれい》である。

[#5字下げ][#中見出し]【二八】日新公と薩摩氣質(二)[#「(二)」は縦中横][#中見出し終わり]

忠良《たゞよし》の學《がく》は、雜學《ざつがく》であつた。彼《かれ》が賢母《けんぼ》常磐《ときは》の手《て》に成長《せいちやう》した事《こと》は、既記《きき》の通《とほ》りである。彼女《かれ》は婦人《ふじん》ながらも、儒學《じゆがく》に志《こゝろざ》し、論語《ろんご》を讀《よ》んだと云《い》へば、其《そ》の忠良《たゞよし》に及《およぼ》したる感化《かんくわ》は、以《もつ》て知《し》る可《べ》しだ。彼《かれ》は七|歳《さい》より十五|歳迄《さいまで》、伊作《いさか》の海藏院《かいざうゐん》に在《あ》りて、頼僧法師《らいぞうほふし》の教育《けういく》を受《う》けた。十五|歳《さい》より新納忠澄《にひろたゞずみ》に學《まな》んだ。忠澄《たゞずみ》は漁隱《ぎよいん》と號《がう》し、常磐《ときは》の姪《をひ》であつた。忠良《たゞよし》は幼少《えうせう》より、兵亂《へいらん》の間《あひだ》に成長《せいちやう》したると與《とも》に、又《ま》た儒佛《じゆぶつ》の雰圍氣中《ふんゐきちう》に成長《せいちやう》した。桂菴《けいあん》の死《し》(永正五年)[#「(永正五年)」は1段階小さな文字]は、彼《かれ》が恰《あたか》も十七|歳《さい》の時《とき》であつた。されば桂菴《けいあん》の大學湯盤銘《だいがくたうのばんのめい》の講義《かうぎ》を聞《き》き、自《みづか》ら日新齊《につしんさい》と稱《しよう》したとの、如竹《じよちく》の説《せつ》は、聊《いさゝ》か疑《うたが》ふ可《べ》きであるが、其《そ》の間接《かんせつ》の感化《かんくわ》を被《かうむ》りたるは、固《もと》より疑《うたが》ふ餘地《よち》はない。
實《じつ》を云《い》へば、彼《かれ》が削髮《さくはつ》して日新齊《につしんさい》と號《がう》したのは、大永《たいえい》七|年《ねん》、其《そ》の卅六|歳《さい》の時《とき》だ。當時《たうじ》彼《かれ》は桂菴《けいあん》の門人《もんじん》舜田《しゆんでん》、舜田《しゆんでん》の門人《もんじん》舜有等《しゆんいうら》と相交《あひまじは》り、特《とく》に舜有《しゆんいう》に就《つい》て、得《う》る所《ところ》多《おほ》かつたと云《い》ふことだ。〔漢學紀源〕[#「〔漢學紀源〕」は1段階小さな文字]
忠良《たゞよし》の學問《がくもん》には、固《もと》より門戸《もんこ》の見《けん》はなかつた。彼《かれ》は實《じつ》に儒佛《じゆぶつ》一|如《じよ》[#ルビの「じよ」は底本では「じ」]であつた。彼《かれ》は孔子聖蹟圖《こうしせいせきづ》を、屏風《びやうぶ》に作《つく》りて、之《これ》を其《そ》の座右《ざいう》に措《お》いた。彼《かれ》の死後《しご》三十|年《ねん》、日新寺《につしんじ》の僧《そう》泰圓《たいゑん》が、著《あらは》したる『日新菩薩記《につしんぼさつき》』に曰《いは》く、
[#ここから1字下げ]
菩薩《ぼさつ》の積學《せきがく》、聖經《せいきやう》、賢傳《けんでん》、四|書《しよ》、七|書《しよ》、歌書《かしよ》、詩法《しはふ》、文章《ぶんしやう》、諸録《しよろく》、窮《きは》めずと云《い》ふ※[#「こと」の合字、127-6]なし。
[#ここで字下げ終わり]
又《ま》た曰《いは》く、
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殿中《でんちう》の趣《おもむき》、尋常《じんじやう》明師《めいし》に投《とう》じて誨《をしへ》を求《もと》め、今《いま》は法華《ほつけ》の説《せつ》、今《いま》は六|經《きやう》の談《だん》、又《また》は日本紀《にほんき》、百|官式目《くわんしきもく》、太平記《たいへいき》、砂石集《させきしふ》に至《いた》るまで、時《とき》を得《え》て、螺《ら》を吹《ふ》かせ、諸宗《しよしゆう》を集《あつ》め、勤《つと》めて學《がく》を勸《すゝ》めし事《こと》、四|時《じ》一|日《にち》も破費《はひ》せしめず。一|朝《てう》一|日《じつ》の他遊《たいう》にも書籍《しよじやく》を携《たづさ》へ、至《いた》る所《ところ》、寸隙《すんげき》を惜《をし》みて、古書《こしよ》を聞《き》き、書義《しよぎ》を尋《たづ》ねて、其要《そのえう》を取《とつ》て機鑑《きかん》とせし故《ゆゑ》に、賢者才人《けんじやさいじん》、遠方《ゑんぱう》より來《きた》りて、喜樂《きらく》のみありつ。
[#ここで字下げ終わり]
と。是《こ》れは彼《かれ》の晩年《ばんねん》、比較的《ひかくてき》平穩《へいをん》なる生活《せいくわつ》を、語《かた》つたのであらうが、然《しか》も其《そ》の好學《かうがく》の、老《お》いて益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》倦《う》まない一|斑《ぱん》が、知《し》らるゝではない乎《か》。
されば永祿《えいろく》十一|年《ねん》、彼《かれ》の七十七|歳《さい》にて逝《ゆ》くや、其《そ》の導師《だうし》たる俊安和尚《しゆんあんをしやう》は、
[#ここから1字下げ]
富潤[#レ]屋蓮經壽[#レ]身《とみはをくをうるほしれんきやうはみをことほぐ》、文經武緯※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56][#二]天眞[#一]《ぶんけいぶゐてんしんにかなふ》。心頭性火發[#レ]明後《しんとうせいくわめいをはつするののち》。三教功名屬[#二]一人[#一]《さんけうこうみやういちにんにぞくす》。
[#ここで字下げ終わり]
と頌《じゆ》した。三|教《けう》とは神《しん》、儒《じゆ》、佛《ぶつ》でる。是《こ》れ亦《ま》た中《あた》らざるも遠《とほ》からざるの言《げん》だ。されば維新公《ゐしんこう》(島津義弘)[#「(島津義弘)」は1段階小さな文字]自記《じき》に『當家代々崇[#二]佛神[#一]《たうけだい/\ぶつしんをあがめ》、敬[#二]先祖[#一]《せんぞをうやまひ》、修[#二]武略[#一]《ぶりやくををさめ》、勤[#二]文教[#一]《ぶんけうをつとめ》、加[#二]忠節[#一]《ちゆうせつをくはふ》。以[#レ]故國代々隆盛也《ゆゑをもつてくにだい/\りゆうせいなり》。』とあるは、單《ひと》り忠良《たゞよし》の本意《ほんい》を紹述《せうじゆつ》したるのみならず、又《ま》た薩摩氣質《さつまかたぎ》の綱領《かうりやう》を語《かた》りて、其要《そのえう》を得《え》たものと云《い》ふ可《べ》きだ。
忠良《たゞよし》が天文《てんぶん》十四|年《ねん》、其《そ》の政敵《せいてき》島津實久《しまづさねひさ》を退治《たいぢ》し、其子《そのこ》貴久《たかひさ》を、名實共《めいじつとも》に守護職《しゆごしよく》たらしめ、其《そ》の一|世中《せいちう》最《もつと》も得意《とくい》の時《とき》に於《おい》て、而《しか》して彼《かれ》が心身《しんしん》兩《ふたつ》ながら老熟《らうじゆく》したる、五十四|歳《さい》の時《とき》に於《おい》ての作《さく》にかゝる、伊呂波歌《いろはうた》の劈頭《へきとう》、
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古《いにしへ》の道《みち》を聞《き》きても唱《とな》へても、我《わ》が行《おこなひ》にせずば甲斐《かひ》なし。
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の一|首《しゆ》は、實《じつ》に實行的《じつかうてき》なる薩摩氣質《さつまかたぎ》の金誡《きんかい》だ。然《しか》も薩摩氣質《さつまかたぎ》が、餘《あま》りに實行《じつかう》を先《さき》にして、理窟《りくつ》を後《あと》にする爲《た》め、往々《わう/\》正邪善惡《せいじやぜんあく》を無視《むし》して、利害得失《りがいとくしつ》の一|方《ぱう》に駛《はし》るの虞《おそれ》なしとせざるも。そは流弊《りうへい》であつて、決《けつ》して作者《さくしや》の本志《ほんし》ではあるまい。又《ま》た、
[#ここから1字下げ]
つらしとて恨《うらみ》かへすな我《わ》れ人《ひと》に、報《むく》い報《むく》いて果《は》てしなき世《よ》ぞ。
[#ここで字下げ終わり]
の如《ごと》き、是《こ》れ私怨《しゑん》を報《はう》ずる勿《なか》れと誨《をし》へたるものだ。隼人族《はやとぞく》は、本來《ほんらい》寛容《くわんよう》の精神《せいしん》を有《いう》したるものにて、最近《さいきん》に至《いた》る迄《まで》、薩摩氣質《さつまかたぎ》の尤《もつと》も嘉尚《かしやう》す可《べ》き一は、寛裕《くわんゆう》の精神《せいしん》である。彼等《かれら》には非常《ひじやう》に敵愾心《てきがいしん》がありつゝ、いざとなれば乍《たちま》ち敵《てき》と握手《あくしゆ》、提携《ていけい》するに遲疑《ちぎ》せぬ。又《ま》た戰陣《せんぢん》に於《お》ける猛者《もさ》たるに比較《ひかく》して、其《そ》の敵意《てきい》を飜《ひるがへ》し來《きた》る者《もの》に對《たい》して、概《おほむ》ね宥恕《いうじよ》の態度《たいど》を失《うしな》はぬ。是《こ》れは薩摩武士《さつまぶし》の、其《そ》の大《だい》を爲《な》したる所以《ゆゑん》の一である。而《しか》して忠良《たゞよし》は自《みづか》ら率先《そつせん》して、其《そ》の標本《へうほん》となつた。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]日新公の母と師
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
尤も日新公が、文武兩道を兼備せられ、其御功勞の三州中に高くありました事は、當時の人は、皆直接に能く存じて居たのでありますけれども、後世よりは、只傳聞いて居るばかりであります。之を細かに分析して御話いたしますれば、此御大徳は、御母堂樣が餘程の賢婦人でありましたので、全く此御母堂樣の御薫陶の功に由ることは、歴々國史にも明かなる所であります。一體御母堂樣は常磐殿と申しまして、元公族なる新納家、之も三家ありまして、其二番目の分家より御出でになつたのであります。彼の關ヶ原陣の時、徳川氏の捕※[#「てへん+虜」の「田」に代えて「田の真ん中の横棒が横につきぬけたもの」、第3水準1-85-1]となりながら、社稷の功に與りて力ある新納旅庵も出ました家で、代々忠節の志を出した筋に見えます。即ち日新公を御産みなされた此御母堂樣は、婦人ながらも當時なか/\學問にも深き御方でありまして、其事は伊地知季安先生の書中に詳かに見えて居りますので、此に由りて始めて能く分りました。古來此の如き明君は、總べて母氏の教育が重もなる關係をなして居る事は、和漢に其例が澤山あります。殷の湯王の母、周の后稷の母も其通りで、特に文王の大任に於ける、武王の大※[#「女+以」、第3水準1-15-79]に於けるなどは、其最も著しきものでありまして、詩經にも詠じてあります。此の如く女徳が、創業の主に關係しますことは顯然な者であります。大方婦人は、内にありて外に出ませぬから、其女徳も現れないことが多く、偶※[#二の字点、1-2-22]詩經などに見えるのは、氣に附きますけれども、其他は分らない。分らない處に、女徳は存するのであります。其常磐殿は、先囘にも申しました樣に、御國に學問が、最も盛んに流行しました時分に、生長せられたのでありまして、桂庵の入薩の時が丁度此夫人は六歳位で、彼が寂しました時に、三十七の御歳であります。此頃が名僧の多く輩出しました時で、此等の名僧に就き、日新公が學問をなさるゝやうになりましたのは、全く此常磐殿御の御教養の功と申さねばなろいませぬ。初め日新公の御修學の師となりましたのは、頼増と云ふ學識のある名僧でありました。それと常磐殿の御姪に新納漁隱齊と云ひ、通稱能登守忠澄と申しまして餘程技倆の優れた人がありましたが、國史には日新公の御後見と書いてありまして、此人が萬事世話をされた筋に見えます。其子に伊勢守康久と申して、日新公の御家老とありますが、斯樣な人もあります。そこで日新公は、御母堂樣と頼増と其外戚の賢者、此三人の御手で御生長なされたのであります。
其時分の出家は、皆學問がありましたから、日新公も頼増に就き、句讀から始め、學問の事は、寺子屋流に、御學びになつたのであります。以後多くの名僧に、御隨身になりましたが、中にも舜田和尚へは餘程深く御歸依になつた筋に見えます。又舜有は舜田の門人で、達磨六十二世の法脈を傳へて居る高僧であります。日新公は即ち其門人でありますから、禪家で申しますれば六十三世に當つて居ります。そこで唯通俗の出家などの學問とは違ひ、禪家の道統に掛る位の深邃なる御造詣があつたのであります。先囘より御話いたしました通り、御國の學問と云へば、佛學と程朱學との二つを合併して出來た者で、謂はゆる頓悟見性などゝ申しまして、人間の心性を定むるのが第一で、一度之を定むれば、國家の大事に移しても、死を視ること歸するが如しの境に達する事も出來ます。斯く心を鍛ひ膽を練つて膓を据ゑる。此主意が能く程朱學と一致して居ります。乃ち理を窮め性を盡くすと易經にもある如く、佛にては此の如き意義に取るのであります。程朱は、之を異端などと排斥しますけれども、頓悟見性の邊は、彼此全く同じで、是で三州の人心を固めたのであります。再言すれば彼の佛學では、宋學を以て來て、謂はゆる程朱の性理學と、佛の見性學とを、融合混化して之を傳へ、以て西藩の士氣を皷舞したのであります。そこで日新公旌旗の指す所、叛賊悉く冑を脱きましたのも故あることで、少しも戰爭に後れを取られた事はありませぬ。そこで三州鼎沸の際より、勝久公と大中公との矛盾、其他に紛擾に至るまで、一々重任を一身に御引受けになりまして、皆能く克定の功を奏せられて、萬事意の如くならざるはなしと云ふ有樣でありました。さうして遂に三國一圓、島津家の領土となるやうになりましたのは、全く此儒佛學の活用に由る次第でありまして、其淵源を尋ねますれば、亦御母堂樣の御教育の力に歸する事は、昭々として一點の疑ひもなき所であります。季安先生が一々之を證明して物せられたのでありまして、其書中に潤公と記するは、此公の事であります。其事蹟を書かれましたのは誠に能く其肯綮を得て居ります。〔重野安繹著薩藩史談集〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二九】日新公と薩摩氣質(三)[#「(三)」は縦中横][#中見出し終わり]

薩摩氣質《さつまかたぎ》は、決《けつ》して一|本調子《ぽんてうし》でない。而《しか》して其《そ》の一|本調子《ぽんてうし》にあらざる所《ところ》に、忠良《たゞよし》の本領《ほんりやう》は存《そん》した。彼《かれ》が三|州《しう》一|統《とう》の基礎《きそ》を定《さだ》めたことが、若《も》し唯《た》だ彼《かれ》の武略《ぶりやく》のみと思《おも》はゞ、そは大《だい》なる誤解《ごかい》だ。彼《かれ》は敵《てき》を挫《ひし》ぐの術《じゆつ》を解《かい》する以上《いじやう》に、敵《てき》を懷《なづ》くるの道《みち》に達《たつ》した。彼《かれ》は必要以外《ひつえういぐわい》に、濫《みだ》りに其《そ》の武力《ぶりよく》を用《もち》ひなかつた。彼《かれ》は平和的手段《へいわてきしゆだん》を藉《か》り得《え》らるゝ[#「ゝ」は底本では「ヽ」]|限《かぎ》りは、是《これ》を藉《か》つた。
永祿《えいろく》四|年《ねん》十|月《ぐわつ》、彼《かれ》が七十|歳《さい》の時《とき》、其《そ》の孫《まご》義久《よしひさ》に與《あた》へた訓戒《くんかい》の書中《しよちう》に、
[#ここから1字下げ]
一、國家《こくか》のためには、身命《しんめい》を輕《かろ》んじ、世《よ》を重《おも》んじ、私《わたくし》を捨《す》て、誤《あやま》りを改《あらた》め、腹立《はらだち》なきにも怒《いか》り、怒《いか》りたきをも耐《こら》へ、聖人《せいじん》の言葉《ことば》をも恐《おそ》れ、理法《りはふ》に心底《しんてい》を任《まか》せられ候《さふら》はゞ、則《すなはち》天道神慮《てんだうしんりよ》、他所《たしよ》にあるべからざる事《こと》。
[#ここで字下げ終わり]
と云《い》ひ。而《しか》して左《さ》の一|首《しゆ》を冒頭《ばうとう》に添《そ》へた。
[#ここから1字下げ]
善《ぜん》も惡《あく》、惡《あく》も善《ぜん》なり、なせばなす。こころよ、こころ、はぢよ、おそれよ。
[#ここで字下げ終わり]
と。是《こ》れ一|心《しん》を以《もつ》て萬事《ばんじ》を宰《さい》する所以《ゆゑん》を示《しめ》したものだ。惟《おも》ふに七十|年來《ねんらい》、彼《かれ》が受用《じゆよう》したる實驗《じつけん》を、有《あり》の儘《まゝ》に傾《かたむ》け盡《つく》したものであらう。善《ぜん》必《かなら》ず善《ぜん》ならず、惡《あく》必《かなら》ず惡《あく》ならず。世《よ》の中《なか》の事《こと》は、決《けつ》して印判《いんばん》で押《お》した通《とほ》りに行《ゆ》くものではない。唯《た》だ其《そ》の時所位《じしよゐ》に應《おう》じて、其《そ》の宜《よろ》しきを得《え》ねばならぬ。其《そ》の宜《よろ》しきを得《う》るが、是《こ》れ一|心《しん》の作用《さよう》だ。解《かい》し來《きた》れば先《ま》づ此《かく》の如《ごと》しだ。
忠良《たゞよし》は決《けつ》して偏屈《へんくつ》なる道學者《だうがくしや》ではなかつた。彼《かれ》が伊呂波歌《いろはうた》の中《なか》には、
[#ここから2字下げ]
廻《めぐ》りては、我身《わがみ》にこそは事《つか》へけれ、先祖《せんぞ》のまつり、忠孝《ちゆうかう》の道《みち》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。我《わ》れ祖先《そせん》を祭《まつ》らば、子孫《しそん》亦《ま》た我《われ》を祭《まつ》らむ。我《わ》れ君父《くんぷ》に忠孝《ちゆうかう》を勵《はげ》まば、我《われ》の臣子《しんし》亦《ま》た我《われ》に向《むか》つて忠孝《ちゆうかう》を勵《はげ》まむ。己《おの》が他《た》に對《たい》して爲《な》す所《ところ》は、他《た》亦《ま》た己《おのれ》に對《たい》して之《これ》を爲《な》さむ。されば善行《ぜんかう》は他《た》の爲《た》めならず、我《わ》が爲《た》めなりと云《い》ふに歸著《きちやく》す。彼《かれ》は此《こ》の平易《へいい》、簡明《かんめい》なる教《をしへ》を以《もつ》て、他《た》を誨導《くわいだう》した。彼《かれ》には神祕《しんぴ》もなく、不思議《ふしぎ》もなく、唯《た》だ人間《にんげん》の世《よ》を渡《わた》るに都合善《つがふよ》き、眞諦《しんてい》あるのみであつた。されば彼《かれ》が伊呂波歌《いろはうた》が、薩摩氣質《さつまかたぎ》の福音書《ふくいんしよ》となり、彼自身《かれじしん》が其《そ》の祖師《そし》となつたのも、決《けつ》して怪《あや》しむに足《た》らぬ。
然《しか》も彼《かれ》には亦《ま》た左《さ》の如《ごと》き、商鞅《しやうあう》、韓非《かんぴ》も跣足《はだし》にて、逃《に》げ出《いだ》す可《べ》き一|首《しゆ》がある。
[#ここから2字下げ]
友《とも》だちと思《おも》ひながらも、敵《てき》と見《み》よ。親子《おやこ》ならでは心《こゝろ》許《ゆる》すな。
[#ここで字下げ終わり]
と。此《こ》れは戰國《せんごく》の時代《じだい》に於《おい》ては、已《や》むを得《え》ぬ次第《しだい》かも知《し》れぬ。信長《のぶなが》の如《ごと》きは、本能寺《ほんのうじ》の變《へん》に際《さい》して、城之介《じやうのすけ》(信忠)[#「(信忠)」は1段階小さな文字]の、別心《べつしん》ではあるまい乎《か》と、疑《うたが》うたと云《い》ふ説《せつ》〔參河物語〕[#「〔參河物語〕」は1段階小さな文字]さへある程《ほど》なれば、親子《おやこ》の間柄《あひだがら》さへも、心許《こゝろゆる》さぬ者《もの》もあつた。斯《かゝ》る時代《じだい》に於《おい》ては、今日《こんにち》の友《とも》、焉《いづくん》ぞ明日《みやうにち》の敵《てき》たらざるを知《し》らん哉《や》だ。斯《か》く看來《みきた》れば、忠良《たゞよし》の歌《うた》も亦《ま》た、時世相應《じせいさうおう》と云《い》はねばならぬ。
更《さ》らに一|首《しゆ》、
[#ここから2字下げ]
世《よ》の中《なか》に、無用《むよう》の物《もの》が二つある。一|向宗《かうしゆう》に數寄《すき》の小座敷《こざしき》。
[#ここで字下げ終わり]
とある。如何《いか》にも痛快《つうくわい》な歌《うた》ではない乎《か》。彼《かれ》は一|向宗《かうしゆう》と、茶《ちや》の湯《ゆ》とを以《もつ》て、社會《しやくわい》に於《お》ける二|個《こ》の無用物《むようぶつ》とした。彼《かれ》は何故《なにゆゑ》に一|向宗《かうしゆう》に反對《はんたい》した乎《か》、そは申《まを》す迄《まで》もなく一|向宗《かうしゆう》が、俗權《ぞくけん》に關係《くわんけい》したからだ。若《も》し一|向宗《かうしゆう》が、彼《かれ》の分國《ぶんこく》に擴張《くわくちやう》せらるゝに於《おい》ては、彼《かれ》は領主《りやうしゆ》たるの威信《ゐしん》を、失墜《しつつゐ》せねばならぬからだ。而《しか》して彼《かれ》が茶《ちや》の湯《ゆ》に反對《はんたい》したる理由《りいう》も、亦《ま》た分明《ぶんみやう》だ。そは茶《ちや》の湯《ゆ》が、人《ひと》を驕奢《けうしや》に導《みちび》き、人心《じんしん》を懦弱《だじやく》に陷《おとしい》るゝの虞《おそれ》ありとしたからだ。彼《かれ》は茶《ちや》の湯《ゆ》の幽玄味《いうげんみ》を解《かい》せぬ程《ほど》の、不風流漢《ぶふうりうかん》でなく、又《ま》た宗教迫害《しゆうけうはくがい》を爲《な》す程《ほど》の、沒分曉漢《ぼつぶんげうかん》ではなかつた。然《しか》も此《こ》の二|者《しや》を排斥《はいせき》したのは、確《たし》かに如上《じよじやう》の理由《りいう》あるからであつた。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]日新公伊呂波歌と點者宗養の批評
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
い いにしへの道をきくてもとなへてもわが行にせずばかひなし
   ○古の道も耳に聞き口にとなふる許にてはかひなきよし、言葉の首尾よく整ひ候。
ろ 樓の上もはにふの小屋も住む人の心にこそは高きいやしき
   ○おもしろく候。
は はかなくも明日の命を頼むかな今日も今日もと學びをばせで
   ○今日不學して來日ありといふ事なかれ、此詞に相叶候。
に 似たるこそ友としよけれ交らば我にます人おとなしきひと
   ○是は又まじはる中のいさめとなりて候。
ほ 佛神他にましまさず人よりも心にはぢよ天地よく知る
   ○心に恥ぢ天地にはづべきよし銘肝骨に入候。
へ 下手ぞとてわれとゆるすな稽古だに積らば塵もやまと言の葉
   ○古今の序に高き山麓のちりひちよりと侍るにあたりて、此やまと言の葉興感至極に候。
と とがありて人をきるとも輕くすな活かす刀もたゞひとつなり
ち 智慧能は身につきぬれど荷にならず人は重んじはづるものなり
り 理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき心の駒の行くにまかすな
   ○兩首ことはり不淺候。
ぬ 盜人はよそより入ると思ふかや耳目の門に戸ざしよくせよ
   ○耳目のかどの戸ざし珍敷候。
る 流通すと貴人や君が物語はじめて聞ける顏もちぞよき
   ○つかふる人のためかくこそあらまほしく候。
を 小車のわが惡行にひかされて勤むる道をうしと見るらん
   ○かく飛出してくさりつゝけ候、ことはりに此車も引きかへすべくや候はん。
わ 私を捨てゝ君にし向はねば恨も起り述懷もあり
か 學問はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそ猶靜なれ
よ 善きあしき人の上にて身を磨け友は鏡となるものぞかし
   ○三首いづれと申がたく殊勝候、我を捨てゝ猶感深候也。
た 種子となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ
   ○あさからぬ心の水なるべし。
れ 禮するは人にするかは人をまたさぐるは人を下ぐるものかは
   ○禮は我にする禮なるよし眼前に候。
そ 誹るにも二つあるべし大かたは主人の爲になるものと知れ
   ○おもひわくべ事。
つ つらしとて恨みかへすな我れ人に報い/\てはてしなき世ぞ
   ○仇は恩にて報するとか候なるをおもひあはせ候。
ね 願はずば隔もあらじ僞の世に誠ある伊勢の神垣
   ○彼神垣たのもしく聞えて忝候。
な 名を今に殺し置ける人も人こゝろも心何かおとらん
   ○思ひくだしつる心もすゝみ出るやうに候。
ら 樂も苦も時過ぎぬれば跡もなし世に殘る名をたゞ思ふべし
   ○是はまたなべてのたもとも心つよかるまじくあはれに候。
む 昔より道ならずして驕る身の天のせめにしあはざるはなし
   ○天責染心府候。
う 憂かりける今の身こそはさきの世とおもへば今ぞ後の世ならん
   ○輪廻の道、哀れふかく候。
ゐ 亥に臥して寅には起くと夕霧の身を徒にあらせじかため
   ○下句感にたへがたく候
の 遁るまじ所をかねて思ひきれ時にいたりてすゞしかるべし
   ○ゆるびなき心かしこく殊勝候。
お おもほへず違ふものなり身の上の欲をはなれて義を守れ人
   ○欲をはなるべきこと其感深く恥入候。
く 苦しくと直道を行け九曲折の末は鞍馬のさかさまの世ぞ
   ○始末の言葉見どころ多く候。
や やはらぐと怒るをいはゞ弓と筆鳥に二つの翼とを知れ
   ○是も上下の句興感ふかきに鳥ならぬ身も飛び立つやうや候はん。
ま 萬能も一心とあり事ふるに身ばし頼むな思案堪忍
け 賢不肖用ゐ捨つるといふ人も必ならば殊勝なるべし
   ○賢不肖の用捨珍敷候。
ふ 不勢とて敵を侮ることなかれ多勢を見ても恐るべからず
   ○弓箭の道のいさめ無[#二]比類[#一]目をよろこばし候。
こ 心こそ軍する身の命なれそろふれば生き揃はねば死す
   ○いくさの場見るやうに候。
え 廻向には我と人とを隔つなよ看經はよししてもせずとも
   ○我と人とを隔てぬ廻向の心珍敷候。
て 敵となる人こそ己か師匠ぞと思ひかへして身をも嗜め
   ○かゝる師匠の候らひけりと愚眼を驚かし候。
あ あきらけき目も呉竹のこの世より迷はゞいかに後のやみぢは
   ○後のやみぢいとなげかしく候。
さ 酒も水ながれも酒となるぞかしたゞ情あれ君が言の葉
   ○情ふかく興をもよほし候。
き 聞くことも又見ることもこゝろからみな迷なりみなさとりなり
ゆ 弓を得て失ふことも大將の心ひとつの手をばはなれず
め めぐりては我身にこそはつかへけれ先祖のまつり忠孝の道
   ○忠孝の道我が身のつかへと成由最さることゝ存候。
み 道にたゞ身をば捨てんと思ひとれ必天のたすけあるべし
   ○天のたすけかたじけなふ兼てより感涙をもよほし候。
し 舌だにも齒のこはきをばしるものを人は心のなからましやは
   ○おもしろくあぢはひふかく候。
ゑ ゑへる世をさましもやらで盃に無明の酒をかさぬるはうし
   ○句々殊勝候。
ひ ひとり身をあはれとおもへ物ごとに民にはゆるす心あるべし
も もろ/\の國やところの政道は人にまづよく教へならせば
せ 善に移りあやまれるをば改めよ義不義は生れつかぬものなり
   ○あやまれることあらためむよし又銘肝候。
す 少しきを足れりとも知れ滿ちぬれば月はほどなく十六夜の空
   ○是もまた君は千代ませの同事ながら滿[#レ]肝ぬとや候はん。〔渡邊盛衞著島津日新公〕
[#ここで字下げ終わり]
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【三〇】忠良の晩年[#中見出し終わり]

忠良《たゞよし》の晩年《ばんねん》は、其《そ》の子《こ》貴久《たかひさ》、忠將《たゞまさ》、其孫《そのまご》義久《よしひさ》、義弘等《よしひろら》、兵馬《へいば》の勞《らう》に服《ふく》したれば、彼《かれ》は加世田《かせた》に在《あ》りて、遙《はる》かに之《これ》を監督《かんとく》するに止《とゞま》つた。天文《てんぶん》十四|年《ねん》、彼《かれ》の子《こ》貴久《たかひさ》が島津家《しまづけ》の本統《ほんとう》を繼《つ》ぎ、十五|代《だい》となつて以來《いらい》、永祿《えいろく》四|年迄《ねんまで》、足掛《あしか》け十七|年《ねん》、北薩《ほくさつ》より隅《ぐう》、日《にち》にかけて、征戰《せいせん》虚日《きよじつ》なしであつた。而《しか》して永祿《えいろく》四|年《ねん》、彼《かれ》が七十|歳《さい》の時《とき》に際《さい》し、彼《かれ》の長女《ちやうぢよ》の婿《むこ》肝付兼繼《きもつきかねつぐ》は、意外《いぐわい》にも兵《へい》を擧《あ》げて反《そむ》いた。
兼繼《かねつぐ》が鹿兒島《かごしま》に來《きた》るや、其《そ》の客館《かくくわん》に貴久《たかひさ》を饗《きやう》した。貴久《たかひさ》の老臣《らうしん》伊集院忠朗《いじふゐんたゞあき》、兼繼《かねつぐ》の臣《しん》藥丸某《やくまるぼう》に戯《たはむれ》て曰《いは》く、今日《こんにち》の馳走《ちそう》は、洵《まこと》に結構《けつこう》ぢや。但《た》だ鶴《つる》の吸物《すひもの》なきは遺憾《ゐかん》であると。藥丸《やくまる》答《こた》へて曰《いは》く、重《かさね》て宴《えん》を開《ひら》かば、狐《きつね》一|疋《ぴき》を給《たま》ふ可《べ》しと。鶴《つる》は肝付氏《きもつきし》の徽章《きしやう》で、狐《きつね》は島津氏《しまづし》の崇《あが》むる所《ところ》の靈獸《れいじう》だ。されば彼等《かれら》は互《たがひ》に惡謔《あくぎやく》を交換《かうくわん》したのだ。忠朗《たゞあき》は怒《いかつ》て刀《たう》を拔《ぬ》き、帷幕《ゐばく》を切《き》つたが、其《そ》の畫《ゑが》く所《ところ》の鶴《つる》の首《くび》を斷《た》つた。兼續《かねつぐ》是《これ》を見《み》て泣《な》いた。鶴《つる》は吾家《わがいへ》累世《るゐせい》の紋《もん》である、その首《くび》を斷《た》つは、我《わ》が首《くび》を斷《た》つも同樣《どうやう》であると。斯《か》くて彼《かれ》は肝付《きもつき》に還《かへ》つて、島津氏《しまづし》と絶《た》つた。忠良《たゞよし》は兼續《かねつぐ》を慰諭《ゐゆ》し、且《か》つ曉《さと》すに利害《りがい》、禍福《くわふく》を以《もつ》てしたが、兼續《かねつぐ》は、遂《つひ》に聽《き》かなかつた。此《こゝ》に於《おい》て更《さら》に一|首《しゆ》の歌《うた》を與《あた》へた。
[#ここから2字下げ]
漏《も》るよとも知《し》らで頼《たの》まば、木《こ》の下《した》に、旅寢《たびね》はさぞな露《つゆ》よしぐれよ。
[#ここで字下げ終わり]
と。然《しか》も彼《かれ》は省《かへり》みなかつた。
斯《か》くて兼續《かねつぐ》は、日向《ひふが》の伊東義祐《いとうよしすけ》と提携《ていけい》して、島津氏《しまづし》に抗《かう》した。伊東氏《いとうし》と島津氏《しまづし》とは、年來《ねんらい》の敵《てき》にて、其《その》前年《ぜんねん》、即《すなは》ち永祿《えいろく》三|年《ねん》には、足利幕府《あしかゞばくふ》は、伊勢備後守《いせびんごのかみ》に内書《ないしよ》を齎《もたら》して、調停《てうてい》せしめた。然《しか》も此《こ》の調停《てうてい》は、今《いま》や立消《たちぎえ》となつた。兼續《かねつぐ》は、永祿《えいろく》四|年《ねん》五|月《ぐわつ》、大隈《おほすみ》の廻城《めぐりじやう》を襲《おそ》うて之《これ》を取《と》つた。而《しか》して其《そ》の七|月《ぐわつ》には、忠良《たゞよし》の二|子《し》忠將《たゞまさ》は、之《これ》を力攻《りよくこう》し、勇士《ゆうし》七十|餘人《よにん》と與《とも》に、亂軍《らんぐん》の中《なか》に斃《たふ》れた。忠將《たゞまさ》は武勇《ぶゆう》を以《もつ》て、三|州《しう》に冠《くわん》たる一|人《にん》であつた。彼《かれ》の向《むか》ふ所《ところ》、必《かなら》ず勝《か》たざるはなかつた。彼《かれ》は死《し》に臨《のぞ》んでも、肝付《きもつき》を討平《たうへい》せねば瞑《めい》せずと云《い》ひつゝ、其墳《そのはか》を肝付《きもつき》に面《めん》して立《た》てしめた。〔薩藩史談集〕[#「〔薩藩史談集〕」は1段階小さな文字]
永祿《えいろく》九|年《ねん》、忠良《たゞよし》七十五|歳《さい》の時《とき》には、其子《そのこ》貴久《たかひさ》は家《いへ》を孫《まご》義久《よしひさ》に讓《ゆづ》り、伯囿齊《はくいうさい》と號《がう》した。時《とき》に貴久《たかひさ》五十三|歳《さい》、義久《よしひさ》三十四|歳《さい》であつた。即《すなは》ち島津氏《しまづし》三|世《せい》の英主《えいしゆ》、同時《どうじ》に相《あ》ひ接續《せつぞく》しつゝあつた。永祿《えいろく》十|年《ねん》には、菱刈隆秋《ひしかりたかあき》が大口《おほぐち》、羽月《はづき》、山野《やまの》、曾木《そぎ》、馬越《まごし》、湯之尾《ゆのを》、平和泉《ひらいづみ》、横河等《よこがはとう》を以《もつ》て、島津氏《しまづし》に抗《かう》した。澁谷氏《しぶやし》も亦《ま》た之《これ》に應《おう》じた。貴久《たかひさ》、義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》、其他《そのた》あらゆる島津氏《しまづし》に屬《ぞく》する薩《さつ》、隅《ぐう》の城主等《じやうしゆら》、皆《み》な來會《らいくわい》した。島津實久《しまづさねひさ》の子《こ》、出水《いづみ》の城主《じやうしゆ》島津義虎《しまづよしとら》も亦《ま》た、來會者《らいくわいしや》の一|人《にん》であつた。茲《こゝ》に愈《いよい》よ大仕掛《おほじかけ》の戰鬪《せんとう》となつた。隆秋《たかあき》は各城《かくじやう》の陷落《かんらく》に拘《かゝは》らず、尚《な》ほ大口城《おほぐちじやう》を嬰守《えいしゆ》し、肥後《ひご》の相良義陽《さがらよしあき》と策應《さくおう》して、屡《しばし》ば兵《へい》を出《いだ》して、寄手《よせて》を逆撃《ぎやくげき》した。
十一|年《ねん》五|月《ぐわつ》には、忠良《たゞよし》の意《い》により、山野《やまの》を相良義陽《さがらよしあき》に與《あた》へて、菱刈氏《ひしかりし》を援《たす》くるなからしめた。而《しか》して其《そ》の十二|月《ぐわつ》十三|日《にち》には、忠良《たゞよし》は七十七|歳《さい》にて、加世田《かせだ》に逝《ゆ》いた。彼《かれ》の辭世《じせい》の歌《うた》に曰《いは》く、
[#ここから2字下げ]
急《いそ》ぐなよ、又《ま》た留《とゞ》むるな、我《わ》が心《こゝろ》。定《さだ》まる風《かぜ》の吹《ふ》かぬ限《かぎ》りは。
[#ここで字下げ終わり]
と。如何《いか》にも自然《しぜん》の化《け》に入《い》る、彼《かれ》の本色《ほんしよく》が判知《わか》る。
彼《かれ》は未《いま》だ三|州《しう》の平定《へいてい》を見《み》ずして逝《ゆ》いた。然《しか》も彼《かれ》は世《よ》にも稀《まれ》なる遺物《ゐぶつ》を留《とゞ》めた、そは其《そ》の賢子孫《けんしそん》である。貴久《たかひさ》は彼《かれ》の死後《しご》二|年半《ねんはん》、即《すなは》ち元龜《げんき》二|年《ねん》六|月《ぐわつ》廿三|日《にち》、五十八|歳《さい》にて逝《ゆ》いたが、爾後《じご》彼《かれ》の遺圖《ゐと》は、彌《いよい》よ恢弘《くわいこう》せられ。其《そ》の二|孫《そん》義久《よしひさ》、義弘《よしひろ》は、三|州《しう》は愚《おろ》か、一|時《じ》は殆《ほとん》ど九|州《しう》の盟主《めいしゆ》たらんとした。彼《か》れ實《じつ》に後《のち》ありと云《い》ふ可《べ》きである。
最後《さいご》に彼《かれ》の死《し》を飾《かざ》る可《べ》き逸話《いつわ》がある。曾《かつ》て彼《かれ》の命《めい》を享《う》けて、四|方《はう》に廻遊《くわいいう》したる、山伏《やまぶし》井尻神力坊《ゐじりじんりきばう》は、二十二|年目《ねんめ》に歸國《きこく》した。而《しか》して其《そ》の報告《はうこく》を致《いた》さんとしたる忠良《たゞよし》は、既《すで》に八|年前《ねんぜん》に他界《たかい》の人《ひと》となつた。此《こゝ》に於《おい》て神力坊《じんりきばう》は、天正《てんしやう》十三|年《ねん》十二|月《ぐわつ》二十七|日《にち》、殉死《じゆんし》した。我《われ》は沙門《しやもん》の身《み》であるから、切腹《せつぷく》す可《べ》きでないとて、自《みづか》ら喬樹《けうじゆ》の上《うへ》より、巖石《がんせき》に向《むか》つて逆落《ぎやくらく》し、其《そ》の腦《なう》を劈《つんざ》いて死《し》した。是《これ》が忠良《たゞよし》に對《たい》する彼《かれ》の忠實《ちゆうじつ》なる手向《たむけ》であつた。

 

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