第六章 島津氏の初期
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第六章 島津氏の初期[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一六】島津氏の起源[#中見出し終わり]

七百|年來《ねんらい》、隼人族《はやとぞく》の代表的勢力《だいへうてきせいりよく》として存在《そんざい》し、維新《ゐしん》の舞臺《ぶたい》に、大《だい》なる働《はたら》きを爲《な》したる島津氏《しまづし》は、本來《ほんらい》の隼人族《はやとぞく》ではなかつた。抑《そもそ》も彼《かれ》は何者《なにもの》である乎《か》。
島津家《しまづけ》の始祖《しそ》忠久《たゞひさ》は、頼朝《よりとも》の庶長子《しよちやうし》である。彼《かれ》の母《はゝ》は、頼朝《よりとも》の乳母《うば》比企禪尼《ひきぜんに》の女《むすめ》、丹後局《たんごのつぼね》である。彼女《かれ》が姙《はら》むや、頼朝《よりとも》の夫人《ふじん》政子《まさこ》怒《いか》りて、人《ひと》をして殺《ころ》さしめんとした。頼朝《よりとも》は彼女《かれ》を日向《ひふが》に流《なが》す可《べ》く、宣言《せんげん》して、陰《いん》に彼女《かれ》の兄《あに》比企判官能員《ひきはんぐわんよしかず》に託《たく》して、逃《のが》れしめた。曰《いは》く、若《も》し女《むすめ》を産《う》めば、汝《なんぢ》の隨意《ずゐい》にせよ、男《をとこ》ならば我《われ》に告《つ》げよと。彼女《かれ》は攝津《せつつ》住吉社《すみよししや》の下《もと》に至《いた》る時《とき》に、端《はし》なく男《をとこ》を生《う》んだ。是《こ》れが則《すなは》ち忠久《たゞひさ》である。此《こ》れは治承《ぢしよう》三|年《ねん》の事《こと》だ。當時《たうじ》偶《たまた》ま關白《くわんぱく》近衞基通《このゑもとみち》が、社參《しやさん》するに際《さい》した。赤子《あかご》の泣《な》くを異《あやし》み、此《これ》を問《と》はしめた。局《つぼね》は其實《そのじつ》を答《こた》へた。基通《もとみち》は母子《ぼし》[#ルビの「ぼし」は底本では「ぼ」]を携《たづさ》へて還《かへ》り、其旨《そのむね》を頼朝《よりとも》に報《はう》じた。頼朝《よりとも》は其子《そのこ》を三|郎《らう》と名《なづ》け、局《つぼね》を八|文字民部大輔惟宗廣言《もんじみんぶたいうこれむねひろのり》に嫁《か》せしめた。三|郎《らう》も亦《ま》た連子《つれこ》として此《これ》に赴《おもむ》いた。因《よつ》て惟宗姓《これむねせい》を冐《をか》した。〔島津國史、西藩野史〕[#「〔島津國史、西藩野史〕」は1段階小さな文字]
右《みぎ》は世間通用《せけんつうよう》の傳説《でんせつ》だ。併《しか》し是《こ》れには隨分《ずゐぶん》異論《いろん》もある。大日本史《だいにほんし》には、比企禪尼《ひきぜんに》の長女《ちやうぢよ》を丹後内侍《たんごないじ》と曰《い》ひ、二|條院《でうゐん》に事《つか》へたりしが、惟宗廣言《これむねひろのり》と私《わたくし》して、島津忠久《しまづたゞひさ》を生《う》み、後《のち》關東《くわんとう》に還《かへ》りて、安達盛長《あだちもりなが》に嫁《か》した。〔比企能員傳〕[#「〔比企能員傳〕」は1段階小さな文字]とある。又《ま》た新井白石《あらゐはくせき》の藩翰譜《はんかんふ》には、島津《しまづ》もと惟宗姓《これむねせい》なり、源氏《げんじ》にあらず。其《その》系圖《けいづ》の傳《つた》ふる如《ごと》く、頼朝《よりとも》の御子《おんこ》ならば、源氏《げんじ》たること勿論《もちろん》なり。如何《いか》なる故《ゆゑ》にか、惟宗姓《これむねせい》をば名《な》のりしや、覺束《おぼつか》なき事《こと》どもなりと云《い》うて居《を》る。彼《かれ》は頼朝《よりとも》の落胤《らくいん》のみならず、又《ま》た近衞攝政基道《このゑせつしやうもとみち》の落胤《らくいん》と云《い》ふ説《せつ》もある。又《ま》た伊地知季安《いちぢすゑやす》、栗原柳庵等《くりはらりうあんら》は、高倉宮以仁王《たかくらのみやもちひとわう》の御落胤説《ごらくいんせつ》を唱《とな》へて居《を》る。要《えう》するに其母《そのはゝ》の丹後局《たんごのつぼね》、或《あるひ》は丹後内侍《たんごのないし》である事《こと》には、概《おほむ》ね一|致《ち》して居《ゐ》るが、其父《そのちゝ》の何人《なんびと》たることが、問題《もんだい》となつて居《ゐ》る。
併《しか》し此《こ》れは格別《かくべつ》、問題《もんだい》と爲《な》す可《べ》き必要《ひつえう》はない。頼朝《よりとも》の庶子《しよし》でも、近衞基通《このゑもとみち》の落胤《らくいん》でも、其他《そのた》惟宗廣言《これむねひろのり》の子《こ》でも、深《ふか》く論究《ろんきう》するに及《およ》ばない。但《た》だ島津氏《しまづし》は、忠久以來《たゞひさいらい》三十|代《だい》、七百|年《ねん》の舊家《きうか》であり、而《しか》して忠久《たゞひさ》は、其《そ》の始祖《しそ》であると云《い》ふ丈《だけ》にて澤山《たくさん》だ。徳川幕府《とくがはばくふ》の外樣大名《とざまだいみやう》は、何《いづ》れも織《しよし》、豐時代《ほうじだい》に勃興《ぼつこう》したものである。其《そ》の先祖《せんぞ》は兎《と》も角《かく》も、概《おほむ》ね風雲《ふううん》の會《くわい》に乘《じよう》じたものだ。
但《た》だ島津氏《しまづし》は、時《とき》に泰否《たいひ》あり、勢《いきほひ》に盛衰《せいすゐ》はあつたが、鎌倉幕府以來《かまくらばくふいらい》、其地《そのち》に據《よ》り、其人《そのひと》を率《ひき》ゐたものと云《い》はねばならぬ。此《か》くの如《ごと》き舊家《きうか》は、殆《ほとん》ど比類《ひるゐ》なしと云《い》うても可《か》なりだ。徳川氏《とくがはし》の如《ごと》きは、島津氏《しまづし》に比《ひ》すれば、新参者《しんざんもの》と云《い》はねばならぬ、成上《なりあが》り者《もの》と云《い》はねばならぬ。強《し》ひて以仁王《もちひとわう》の御落胤《ごらくいん》とせざるも、島津氏《しまづし》の舊家《きうか》たるには、何等《なんら》の妨《さまた》げはない。而《しか》して或《あ》る意味《いみ》に於《おい》ては、舊家《きうか》即《すなは》ち名家《めいか》である。
文治《ぶんぢ》元年《ぐわんねん》六|月《ぐわつ》、三|郎《らう》七|歳《さい》の時《とき》、頼朝《よりとも》は彼《かれ》を鎌倉鶴岡《かまくらつるがをか》に召見《せうけん》し、畠山重忠《はたけやましげたゞ》をして元服《げんぷく》せしめ、其《そ》の一|字《じ》を頒《わか》ち、名《なづ》けて忠久《たゞひさ》と云《い》はしめた。同年《どうねん》八|月《ぐわつ》、彼《かれ》を以《もつ》て島津御莊《しまづごしやう》の下司職《げすしよく》と爲《な》した。是《こ》れが島津氏《しまづし》と、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|國《ごく》との交渉《かうせふ》の創始《さうし》である。此年《このとし》頼朝《よりとも》は、大江廣元《おほえひろもと》の議《ぎ》を容《い》れ、朝廷《てうてい》に伺《うかゞ》うて、諸國《しよこく》に守護地頭《しゆごぢとう》を措《お》くことゝした。即《すなは》ち國《くに》には守護《しゆご》を措《お》き、莊園《しやうゑん》に地頭《ぢとう》を措《お》き、以《もつ》て一|般《ぱん》の警備治安《けいびちあん》に任《にん》ぜしめ、其《そ》の經費《けいひ》として、公田《こうでん》、私田《しでん》を問《と》はず、悉《こと/″\》く一|段毎《だんごと》に五|升《しやう》を課《くわ》することゝした。此《かく》の如《ごと》くして兵馬《へいば》の權《けん》は、正《まさ》しく鎌倉幕府《かまくらばくふ》に歸《き》した。文治《ぶんぢ》二|年《ねん》正月《しやうぐわつ》、忠久《たゞひさ》を以《もつ》て、島津御莊《しまづごしやう》總地頭職《そうぢとうしよく》に任《にん》じ、姓《せい》島津氏《しまづし》、及《およ》び十|字紋章《じもんしやう》を賜《たまは》つた。文治《ぶんぢ》三|年《ねん》九|月《ぐわつ》、忠久《たゞひさ》を以《もつ》て、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》の守護職《しゆごしよく》に任《にん》じた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
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[#6字下げ]島津莊と島津氏祖先
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我忠久公が鎌倉の沙汰に依つて三ヶ國を御支配なされますと云ふものは、頼朝鎌倉に幕府を開きまして、さうして諸國に守護を置き、莊園には地頭を悉く置きました。その守護地頭の起りは前囘にも述べましたから、自然に今までの國司といふものは無くなつて仕舞ひました。唯國司と云ふ空名だけはありますけれども、事實は全く守護地頭で取つて仕舞ひました。其少し前に、忠久公は近衞家の島津の莊の下司に頼朝からなされた、是が始まりであります。島津の莊と云ふ者は前中した通り 是は京都の關白家、關白家の中でも近衞家であります。近衞家の頼通が島津の莊をば薩隅日三州の内に置きまして、隨分澤山あつた筋に見えます。其中で島津の莊の根本は今の日州の内であります、即ち都城邊の莊内と申しますのは島津の莊内と云ふ事で、あの邊が本であります。其他大隈にあるのも薩摩にあるのも矢張島津の莊という名目であります。そこで忠久公は右の島津の莊の下司と云ふ者に御成りなされたのが始まり、此後には種々の所を御貰ひになりましたが、是が始まりであります。
頼朝は忠久公をば重く取立てられたに相違ありませぬが、其所以は、比企ノ判官能員が姨(或は母とも云ひます)を比企ノ禪尼と申しました。其比企ノ禪尼の夫は掃部允と云ふ人で、元武州比企郡の豪族であつて、比企郡ノ内に六十餘ヶ所の地を有疎して居つたと云ふことで、餘程の豪富のいえと見えます。さうして掃部允の夫人が即ち後に比企ノ禪尼となりました。此比企ノ禪尼が頼朝を育てました。乳母と書いてありますが、その時分は乳母と申しても今の乳母と云ふやうな者とは違ひます。昔の乳母と云ふものは隨分貴い者に見えますが、兎も角も乳母と申す者であります。頼朝は尾張熱田の大宮司の娘の腹に生れました人で、生れは熱田であります、熱田で生れて鎌倉で生長いたしました、それ故に比企ノ禪尼が乳母となりました。(中略)義朝は前に鎌倉に居住しました。即ち只今の壽福寺が義朝の舊宅であります。この上に源氏山と云ふ山があります。義家以後、鎌倉は源氏の由緒地でありますから、それで義朝は彼處の居りました。さうして平治の亂の時には鎌倉から出立したと見えます。兵破れて遂に義朝は尾張で殺され、頼朝は蛭ヶ小島に流された。その時頼朝は十三歳、それから二十年の間は今の比企ノ禪尼が鎌倉から始終介抱して、何もかも禪尼の世話になつたと云ふことでありますが、是が二十年、さうして三十三歳の時に石橋山の合戰をいたしたのであります。二十年の間比企ノ禪尼が世話をいたしたと云へば、餘程の恩のあることでありまして、その禪尼の娘が丹後局(丹後ノ内侍ともあります)即ち忠久公の御生母でありますから、頼朝も餘程大切にいたした筋に見えます。
然るに忠久公の事に就いては、御國の國史竝に大日本史其他に種々の説がありますが、是も一通りは御承知になつて居るが宜しからうと思ひます。御國の傳へは山田聖榮の自記と申すが丁度文明年間、足利時代の中頃に出來ましたもので、此中に頼朝の御子であると云ふことを書かれました。それ故に御國の方では其説に從つて頼朝の落胤と云ふことになつて居ります。併し御姓は初めは惟宗忠久、島津の莊の下司に御成りなさる時分は固より惟宗と云ふ御姓であります。それから島津という苗字を御名乘りになつても矢張四五代の間、姓は惟宗であつた。さうして源氏を御名乘りなされたのは舊幕の時、寛永系圖と云ふものが幕府の命で諸藩で出來ました、其寛永系圖に御書上げになつた時は源氏と成つて居ります。それから初め惟宗から源氏に御成りなさるまでの間は藤原氏を御名乘りなされた事が見えて居ります。これは或は日光の献燈とか、或は奈良の大佛の献燈にも矢張藤原姓であります。この藤原姓と云ふのは近衞家に御由緒のある所から、且つは島津の莊を御預りなされて、即ち近衞家の莊園でありますから、彼此以て藤原姓を御名乘りなされたのでありませう。そこで頼朝の御子孫と云ふことに就いて異論を起したのは新井白石。白石の藩翰譜に、頼朝の落胤と云ふものが三つある、先づ島津、大友、それから常陸の志筑に居る交代寄合の本堂、此三氏が頼朝の後胤と稱するが、いづれも疑はしいとあります。又大日本史は比企能員の傳に吉見系圖と云ふものを引きまして、惟宗ノ廣言の子としてあります。それは丹後局が惟宗ノ廣言に通じてその長男が即ち忠久公である。斯う云ふことが吉見系圖にある。その吉見系圖と云ふものは蒲ノ※[#「寇」の「攴」に代えて「女」、U+5BBC、78-1]者範頼の末裔が武州|甲山《かぶと》の邊に居る、其處の寺にある範頼の家系で、其家系にさう見えて居る。それを大日本史は引用いたしました。是が一ツの異説であります。
それから鹿兒島の方でも御記録所の調べが段々精密になりまして、さうして近頃の伊地知小十郎季安先生が一説を立てまして、これは高倉ノ宮の御落胤であると斯う云ふ事を申しました。慥か、さうだと存じますが、或は間違ひがあるかも知れませぬ。それから又栗原孫之丞柳庵と申す系圖家は、これも高倉ノ宮の王子であると云ふ説でありました。能く覺えませぬが、兎も角も久光公へ自分の考へを書きまして上げましたものがありますから、それを見ると能く分ります。高倉ノ宮と高倉ノ院とは別でありますから思違ひのない樣に申上げておきます。高倉ノ院と申せば即ち二條ノ院と御兄弟であります。その時分に又謂はゆる高倉ノ宮以仁王、彼の源氏が令を奉じまして平家を討ちました、其以仁王が高倉ノ宮と申しました。是は院と宮との一字ちがひで紛はしうありますが、其高倉ノ宮以仁王の御落胤である。斯う云ふ説を立てました。それは何故と申すに、丹後ノ内侍は宮仕を多年いたして居つた人であります。吉見系圖などにもさう見えて居ります。又丹後ノ内侍は絶代の歌人なりとあります。それ故に内侍であつたことは固より明かであります。唯忠久公の御誕生が頼朝の落胤、又或は高倉ノ宮の御落胤と云ふ説が二ツ三ツ分れて居ります。
兎角落胤説と云ふものはむづかしいのであります。愈よ確かな事の分らぬのは是は當然のものと見えます。それ故に大日本史などは落胤説をとりませぬ。獨り一休和尚は後小松天皇の落胤であると云つて皇子傳に入れましたが、是れも能く調べて見ると引用書が慥かならぬ樣に思はれます。〔重野安繹著薩藩史談集〕
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[#5字下げ][#中見出し]【一七】島津忠久[#中見出し終わり]

頼朝《よりとも》が、未《いま》だ十|歳《さい》に滿《み》たぬ忠久《たゞひさ》を、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の守護職《しゆごしよく》と爲《な》したのは、何故《なにゆゑ》である乎《か》。我《わ》が恩人《おんじん》─|即《すなは》ち頼朝《よりとも》が伊豆流寓《いづりうぐう》の二十|年間《ねんかん》、恒《つね》に其《そ》の世話《せわ》になりたる─|比企禪尼《ひきぜんに》の孫《まご》であつたが爲《た》め乎《か》。將《は》た併《あは》せて我《わ》が子《こ》であつたが爲《た》め乎《か》。何《いづ》れにもせよ、忠久《たゞひさ》は頼朝《よりとも》より優遇《いうぐう》せられた事《こと》は、間違《まちが》ひない。
彼《かれ》は建久《けんきう》七|年《ねん》、十八|歳《さい》の時《とき》、始《はじ》めて鎌田《かまだ》、酒匂《さかは》、猿渡抔《さるわたりなど》の諸臣《しよしん》を從《したが》へ、薩摩《さつま》に下《くだ》り、出水《いづみ》の木牟禮城《きむれじやう》に入《い》り。更《さら》に船《ふね》にて市來港《いちきかう》に抵《いた》り、日向《ひふが》の島津莊《しまづしやう》に赴《おもむ》き、祝吉城《しうきちじやう》に滯在《たいざい》した。然《しか》も當時《たうじ》の薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》は、實《じつ》に四|分《ぶん》五|裂《れつ》の状態《じやうたい》で、守護職《しゆごしよく》たる彼《かれ》も、殆《ほとん》ど當惑《たうわく》の姿《すがた》であつた。志布志《しぶし》には仁禮氏《にれし》あり、鹿兒島《かごしま》には矢上氏《やがみし》あり、其他《そのた》梅北《うめきた》、肝屬《きもつき》、北原《きたはら》、税所抔《さいしよなど》と云《い》ふ、所謂《いはゆる》國人《くにびと》の豪族《がうぞく》、何《いづ》れも諸方《しよはう》に割據《かつきよ》し、容易《ようい》に其命《そのめい》に服《ふく》す可《べ》くもなかつた。島津氏《しまづし》は覊旅《きりよ》の身《み》である。彼《かれ》は此《こ》の割據《かつきよ》を打破《だは》し、三|州《しう》を打《う》つて一|丸《ぐわん》と成《な》すには、其力《そのちから》が不足《ふそく》であつた。併《しか》し兎《と》も角《かく》も處理《しより》し得《え》らるゝ|丈《だけ》は處理《しより》し、再《ふたゝ》び出水《いづみ》の木牟禮《きむれ》に引《ひ》き返《かへ》し、此處《こゝ》を本據《ほんきよ》とした。
彼《かれ》は建仁《けんにん》三|年《ねん》九|月《ぐわつ》四|日《か》に、一|時《じ》三|州《しう》の守護職《しゆごしよく》を罷《や》められた。是《こ》れは彼《かれ》の母《はゝ》丹後局《たんごのつぼね》の兄弟《きやうだい》、或《あるひ》は從兄弟《いとこ》とも云《い》ふ、比企能員《ひきよしかず》の事件《じけん》に連坐《れんざ》しての事《こと》であつた。能員《よしかず》の妻《つま》は、頼朝《よりとも》の子《こ》頼家《よりいへ》の乳母《うば》であつた。頼家《よりいえ》が頼朝《よりとも》の跡《あと》を襲《おそ》うに※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53]《およ》んで、能員《よしかず》の女《むすめ》は、頼家《よりいへ》に寵《ちよう》せられて、子《こ》一|幡《まん》を生《う》んだ。能員《よしかず》は北條氏《ほうでうし》の專横《せんわう》を憤《いきどほ》り、頼家《よりいえ》と謀《はか》りて、北條氏《ほうでうし》を滅《ほろぼ》さんとしたが、却《かへつ》て北條氏《ほうでうし》の爲《た》めに謀《はか》られて族滅《ぞくめつ》した。而《しか》して忠久《たゞひさ》の養父《やうふ》たる─|若《も》しくは實父《じつぷ》とも云《い》ふ─|惟宗廣言《これむねひろのり》も、亦《ま》た殺《ころ》された。〔安國寺申状〕[#「〔安國寺申状〕」は1段階小さな文字]されば忠久《たゞひさ》が此際《このさい》に、多少《たせう》の災難《さいなん》を被《かうむ》るも、決《けつ》して意外《いぐわい》の事《こと》でなかつた。
然《しか》も彼《かれ》は罷職《ひしよく》より一|週間《しうかん》を過《す》ぎざる、建仁《けんにん》三|年《ねん》九|月《ぐわつ》十|日《か》には、再《ふたゝ》び三|州《しう》の守護職《しゆごしよく》に復《ふく》した。是《こ》れは何故《なにゆゑ》であつた乎《か》、如何《いか》なる事情《じじやう》であつた乎《か》。何《いづ》れにもせよ、此《こ》の事實《じじつ》によりて、彼《かれ》と北條氏《ほうでうし》との間柄《あひだがら》が、頗《すこぶ》る圓滿《ゑんまん》であつたことが判知《わか》る。爾來《じらい》彼《かれ》は恒《つね》に北條氏《ほうでうし》と、其《そ》の運命《うんめい》を共《とも》にした。和田義盛《わだよしもり》の騷動《さうどう》にも、北條氏《ほうでうし》に與《くみ》し、泰時《やすとき》を扶《たす》けて努力《どりよく》した。而《しか》して其賞《そのしやう》として、和田《わだ》の舊領《きうりやう》、甲斐國《かひのくに》の波加利庄《はかりしやう》を與《あた》へられたるのみならず、又《ま》た薩摩總體《さつまそうたい》の地頭職《ぢとうしよく》となつた。地頭職《ぢとうしよく》は、守護職《しゆごしよく》よりも、位地《ゐち》は卑《ひく》きも、收入《しうにふ》は多《おほ》い。
彼《かれ》は此《かく》の如《ごと》くして、名實共《めいじつとも》に三|國《こく》の領主《りやうしゆ》たる可《べ》きであつたが、國人《こくじん》跋扈《ばつこ》し、土豪《どがう》割據《かつきよ》し、其《そ》の實際《じつさい》の所領《しよりやう》は、纔《わづ》かに薩摩《さつま》の北方《ほくはう》、大隈《おほすみ》の一|部《ぶ》に過《す》ぎなかつたと云《い》ふ。〔薩摩史談集〕[#「〔薩摩史談集〕」は1段階小さな文字]
忠久《たゞひさ》は承久《じようきう》の亂《らん》にも、亦《ま》た北條方《ほうでうがた》として働《はたら》いた。特《とく》に忠久《たゞひさ》の子《こ》忠時《たゞとき》は奮鬪《ふんとう》して、敵兵《てきへい》を虜《とりこ》にし、其弟《そのおとうと》忠季《たゞすゑ》、忠康等《たゞやすら》は戰死《せんし》した。而《しか》して此《こ》の戰功《せんこう》によりて、忠久《たゞひさ》は、更《さ》らに越前《ゑちぜん》の守護職《しゆごしよく》を贏《か》ち得《え》、其《そ》の次子《じし》忠綱《たゞつな》を、守護代《しゆごだい》とした。
彼《かれ》は四十九|歳《さい》にて、鎌倉《かまくら》に沒《ぼつ》した。實《じつ》に安貞《あんぢやう》元年《ぐわんねん》六|月《ぐわつ》十八|日《にち》であつた。彼《かれ》は如何《いか》なる性格《せいかく》の漢《をのこ》であつた乎《か》、其《そ》の詳《つまびらか》なるを語《かた》る能《あた》はぬ。併《しか》し建保《けんぽ》元年《ぐわんねん》二|月《ぐわつ》實朝《さねとも》の近侍《きんじ》として、文武材藝《ぶんぶざいげい》ある者《もの》、十八|人《にん》を選拔《せんばつ》したる際《さい》に、北條泰時《ほうでうやすとき》と、彼《かれ》とが首選《しゆせん》であつた。〔薩藩史談集、西藩野史〕[#「〔薩藩史談集、西藩野史〕」は1段階小さな文字]唯《た》だ此《こ》の一|事《じ》によつても、想像《さうぞう》する※[#「こと」の合字、82-6]が可能《かな》ふ。
然《しか》も更《さ》らに是《これ》よりも、彼《かれ》が非凡《ひぼん》なる人物《じんぶつ》であつた證據《しようこ》は、彼《かれ》が嫌疑《けんぎ》の間《あひだ》に介在《かいざい》して、能《よ》く其身《そのみ》を保《たも》ち、其家《そのいへ》を全《まつた》うしたる事《こと》である。彼《かれ》は如何《いか》なる妙策《めうさく》を以《もつ》て、北條氏《ほうでうし》と結託《けつたく》したる乎《か》。餘事《よじ》は姑《しば》らく措《お》き、單《たん》に此《こ》の一|事《じ》を以《もつ》てしても、彼《かれ》は處世《しよせい》の道《みち》に於《おい》[#ルビの「おい」は底本では「お」]て、他《た》の企《くはだ》て及《およ》ぶ能《あた》はざる、手腕《しゆわん》を有《いう》したものと思《おも》はる。

[#5字下げ][#中見出し]【一八】島津氏の態度[#中見出し終わり]

北條氏《ほでうし》の盛時《せいじ》に於《おい》ては、島津氏《しまづし》は恒《つね》に、其《そ》の忠實《ちゆうじつ》なる味方《みかた》であつた。文永《ぶんえい》、弘安《こうあん》の役《えき》に於《おい》ても、島津氏《しまづし》は能《よ》く働《はたら》いた。文永《ぶんえい》十一|年《ねん》の役《えき》には、島津氏《しまづし》の將《しやう》島津資長《しまづすけなが》は、薩摩隼人《さつまはやと》の兵《へい》を率《ひき》ゐて、肥後《ひご》の竹崎季長《たけざきすゑなが》と殊勳《しゆくん》を奏《そう》した。弘安《こうあん》の役《えき》には、第《だい》三|代《だい》の久經《ひさつね》は、博多警衞《はかたけいゑい》の役目《やくめ》に膺《あた》つた。彼《かれ》は文永《ぶんえい》十一|年《ねん》より弘安《こうあん》四|年迄《ねんまで》凡《およ》そ六|箇年《かねん》、殆《ほとん》ど此地《このち》に詰《つ》め切《き》りであつた。而《しか》して如何《いか》に薩摩隼人《さつまはやと》が、弘安《こうあん》の役《えき》に奮鬪《ふんとう》したかは、竹崎季長《たけざきすゑなが》の蒙古襲來《もうこしふらい》の繪卷物《ゑまきもの》に、十|文字《もんじ》の旗《はた》を押《お》し立《た》て、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の兵《へい》が蒙古軍《もうこぐん》に向《むか》つて、防戰《ばうせん》しつゝある圖《づ》を見《み》ても、判知《わか》る。而《しか》して久經《ひさつね》は、遂《つひ》に弘安《こうあん》七|年《ねん》、筑前筥崎《ちくぜんはこざき》にて死《し》した。
島津氏《しまづし》は此《かく》の如《ごと》く、外《ほか》に向《むか》つて努力《どりよく》しつゝあるに拘《かゝは》らず、其《そ》の薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の本據《ほんきよ》は、尚《な》ほ頗《すこぶ》る不定《ふてい》、不安《ふあん》の状態《じやうたい》であつた。其《そ》の入國以前《にふこくいぜん》土著《どちやく》の豪族《がうぞく》のみか、其《そ》の入國後《にふこくご》、種々《しゆ/″\》の事情《じじやう》によりて、上國《じやうこく》より流《なが》れ込《こ》んだ豪族《がうぞく》がある。例《れい》せば、武州秩父黨《ぶしうちゝぶたう》の一なる澁谷氏《しぶやし》が、薩摩《さつま》の中央《ちうあう》に闖入《ちんにふ》して、其《そ》の要部《えうぶ》を占領《せんりやう》し、其《そ》の一|族《ぞく》を繁殖《はんしよく》せしめた。東郷《とうがう》、吉岡《よしをか》、鶴田《つるた》、入來《いりき》、高城《たかぎ》諸氏《しよし》は、皆《み》な澁谷《しぶや》の分支《ぶんし》である。而《しか》して鎌倉《かまくら》の二|階堂氏《かいだうし》が、又《ま》た阿多北方《あたほくはう》の地頭《ぢとう》を、幕府《ばくふ》より命《めい》ぜられ、此處《こゝ》に居据《ゐすわ》りとなつた。斯《かゝ》る類《るゐ》は猶《な》ほ多《おほ》くあつた。されば三|州《しう》の守護職《しゆごしよく》は、云《い》はゞ一|種《しゆ》の名譽職《めいよしよく》で、確實《かくじつ》に島津氏《しまづし》の支配《しはい》する領土《りやうど》は、纔《わづ》かに其《そ》の一|分《ぶ》に過《す》ぎなかつた。
大觀《たいくわん》すれば、鎌倉以來《かまくらいらい》九|州《しう》を三|分《ぶん》して、三|個《こ》の勢力《せいりよく》が鼎立《ていりつ》しつゝあつた。第《だい》一は筑前《ちくぜん》を本據《ほんきよ》とし、豐前《ぶぜん》、肥前《ひぜん》に及《およ》ぶ少貳氏《せうにし》だ。第《だい》二は豐後《ぶんご》を本據《ほんきよ》とし、筑後《ちくご》、肥後《ひご》に及《およ》ぶ大友氏《おほともし》だ。第《だい》三は云《い》ふ迄《まで》もなく薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の島津氏《しまづし》だ。是《こ》れは頼朝《よりとも》が建久《けんきう》四|年《ねん》、鎌倉《かまくら》に霸業《はげふ》を開《ひら》きし後《のち》、少貳資頼《せうにすけより》を鎭西《ちんぜい》の守護《しゆご》とし、大友能貞《おほともよしさだ》を鎭西《ちんぜい》の奉行《ぶぎやう》とし、島津忠久《しまづたゞひさ》を薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の守護職《しゆごしよく》とした以來《いらい》の事《こと》である。而《しか》して此《こ》の鼎立《ていりつ》の姿《すがた》は、依然《いぜん》足利氏《あしかゞし》の初期《しよき》、若《も》しくは中期迄《ちうきまで》繼續《けいぞく》した。
島津氏《しまづし》は後醍醐天皇《ごだいごてんわう》の上半期《かみはんき》に際《さい》して、尚《な》ほ北條側《ほうでうがは》であつた。第《だい》五|代《だい》の貞久《さだひさ》は、北條氏《ほうでうし》の爲《た》めに上國《じやうこく》に出兵《しゆつぺい》し、元弘《げんこう》元年《ぐわんねん》には、楠正成《くすのきまさしげ》の赤坂城《あかさかじやう》を陷落《かんらく》せしめた。其《そ》の恩賞《おんしやう》として、元弘《げんこう》二|年《ねん》の十二|月《ぐわつ》に、彼《かれ》は北條高時《ほうでうたかとき》より周防國《すはうのくに》柳井莊《やなゐしやう》を與《あた》へられた。併《しか》し北條氏《ほうでうし》の勢力《せいりよく》愈《いよい》よ頼《たの》む可《べ》からず、支《さゝ》ふ可《べ》からずと見《み》るや、貞久《さだひさ》は豐後《ぶんご》の大友貞宗《おほともさだむね》、筑前《ちくぜん》の少貳貞經《せうにさだつね》と合體《がつたい》して、九|州探題《しうたんだい》の北條英時《ほうでうひでとき》を攻《せ》め殺《ころ》した。而《しか》して彼《かれ》は建武《けんぶ》元年《ぐわんねん》には、足利尊氏《あしかゞたかうぢ》より少貳《せうに》、大友《おほとも》と與《とも》に、筑紫鎭撫《つくしちんぶ》の命《めい》を享《う》け、博多《はかた》の松江《まつえ》に在營《ざいえい》した。
其《そ》の南北朝《なんぼくてう》の亂《らん》となるや、島津氏《しまづし》が足利氏《あしかゞし》に黨《たう》し、北朝方《ほくてうがた》となつたのは、頼朝《よりとも》以來《いらい》、恒《つね》に霸府側《はふがは》に立《た》つた、行掛《ゆきがゝ》りより見《み》ても、決《けつ》して不思議《ふしぎ》はない。但《た》だ南北朝《なんぼくてう》の亂《らん》は、少《すくな》からず島津氏《しまづし》に内顧《ないこ》の憂《うれひ》を釀《かも》さした。そは薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|州《しう》の豪族等《がうぞくら》が、此《こ》れを好機《かうき》として、南朝方《なんてうがた》に與《くみ》し、島津氏《しまづし》に反抗《はんかう》したからである。而《しか》して九|州《しう》には、肥後《ひご》の菊池氏《きくちし》、南朝方《なんてうがた》の中堅《ちうけん》となり、征西將軍《せい/\しやうぐん》懷良親王《かねながしんわう》を奉《ほう》じ、錦旗《きんき》を飜《ひるがへ》したれば、此《これ》に與《くみ》する者《もの》は、決《けつ》して少數《せうすう》ではなかつた。
延元年間《えんげんねんかん》に於《おい》ては、北朝側《ほくてうがは》では島津貞久《しまづさだひさ》が、薩摩《さつま》の守護職《しゆごしよく》であつたが、南朝側《なんてうがは》では阿蘇惟時《あそこれとき》が、其《そ》の守護職《しゆごしよく》であつた。而《しか》して肥後《ひご》に接《せつ》する出水地方《いづみちはう》は、阿蘇領《あそりやう》となり、又《ま》た澁谷《しぶや》一|黨《たう》の如《ごと》きは、概《がい》して南朝《なんてう》に屬《ぞく》した。一|時《じ》は征西將軍府《せい/\しやうぐんふ》が、鹿兒島《かごしま》より二|里《り》を隔《へだ》てたる、谷山《たにやま》に措《お》かれた程《ほど》であつた。而《しか》して薩摩《さつま》の過半《くわはん》、亦《ま》た南朝方《なんてうがた》となつた。されば貞久《さだひさ》も、其《そ》の晩年《ばんねん》には、一|時《じ》南朝《なんてう》に降《くだ》つた。
併《しか》し概説《がいせつ》すれば、島津氏《しまづし》は始終《しじゆう》尊氏《たかうぢ》の味方《みかた》として、働《はたら》いたものと云《い》ふ可《べ》きであらう。尊氏《たかうぢ》が其《そ》の大敗《たいはい》の餘《よ》を承《う》けて、倉皇《さうくわう》九|州《しう》に逃《のが》れ、幾《いくばく》もなく又《ま》た攻《せ》め上《のぼ》り、一|擧《きよ》して勝《か》ち誇《ほこ》りたる南朝《なんてう》の勢力《せいりよく》に、大打撃《だいだげき》を加《くは》へたるものは、其《そ》の率《ひき》ゐ來《きた》れる九|州《しう》の兵《へい》に負《お》ふ所《ところ》、多《おほ》しと云《い》はねばならぬ。而《しか》して九|州兵《しうへい》の中《うち》にて、最《もつと》も勇敢《ゆうかん》なものは、隼人族《はやとぞく》である※[#「こと」の合字、86-9]は、云《い》ふ迄《まで》もない。

[#5字下げ][#中見出し]【一九】足利時代に於ける島津氏[#中見出し終わり]

足利義滿《あしかゞよしみつ》の時《とき》に、今川貞世《いまがはさだよ》が、探題《たんだい》として九|州《しう》に下《くだ》つた。貞世《さだよ》は細川頼之《ほそかはよりゆき》に次《つ》いで、足利將軍家《あしかゞしやうぐんけ》に於《お》ける能臣《のうしん》であつた。彼《かれ》が鎭西《ちんぜい》の探題《たんだい》となつたのは、單《たん》に九|州《しう》に於《お》ける南朝側《なんてうがは》の主力《しゆりよく》、菊池氏《きくちし》の根據《こんきよ》を覆《くつがへ》すが爲《た》めのみならず、又《ま》た九|州土著《しうどちやく》の勢力《せいりよく》たる、少貳《せうに》、大友《おほとも》、島津《しまづ》を削平《さくへい》して、將軍家《しやうぐんけ》の威令《ゐれい》を、遺憾《ゐかん》なく徹底《てつてい》せしめんが爲《た》めと、推定《すゐてい》す可《べ》き理由《りいう》がある。
されば彼《かれ》は、天授《てんじゆ》元年《ぐわんねん》─|北朝《ほくてう》の永和《えいわ》元年《ぐわんねん》─|肥後《ひご》菊池郡水島《きくちごほりみづしま》に屯《たむろ》し、島津氏久《しまづうぢひさ》、大友親世《おほともちかよ》、少貳冬資等《せうにふゆすけら》を召集《せうしふ》した。氏久《うぢひさ》は島津氏《しまづし》の六|代《だい》である。而《しか》して先《ま》づ氏久《うぢひさ》と會合《くわいがふ》して、驩《くわん》を※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70]《つく》し、更《さ》らに氏久《うぢひさ》をして、少貳冬資《せうにふゆすけ》を招《まね》かしめた。然《しか》るに冬資《ふゆすけ》の來《きた》るや、貞世《さだよ》は之《これ》に酒《さけ》を飮《の》ましめ、其《そ》の酣《たけなは》なるに際《さい》して、彼《かれ》を殺《ころ》した。斯《か》くて氏久《うぢひさ》に告《つ》げて曰《いは》く、少貳《せうに》は南朝《なんてう》に二心《ふたごゝろ》がある。筑紫《つくし》の擾亂《ぜうらん》も、畢竟《ひつきやう》此《こ》れが爲《た》めに生《しやう》じた。故《ゆゑ》に彼《かれ》を處分《しよぶん》した。委詳《ゐしやう》は面陳《めんちん》せんと。氏久《うぢひさ》の臣下《しんか》は、何《いづ》れも貞世《さだよ》の陣《ぢん》に赴《おもむ》くの、不可《ふか》なるを諫《いさ》めた。強《し》ひて往《ゆ》くならば、兵《へい》を率《ひき》ゐて往《ゆ》く可《べ》しと云《い》うた。されど氏久《うぢひさ》は、頭《かうべ》を掉《ふ》つて曰《いは》く、往《ゆ》かぬは臆病《おくびやう》であると。僅《わづか》に數人《すにん》の從者《じゆうしや》と與《とも》に、貞世《さだよ》に會見《くわいけん》した。貞世《さだよ》は少貳《せうに》を殺《ころ》した理由《りいう》を陳《の》べた。氏久《うぢひさ》は之《これ》を聽《き》き、其《そ》の儘《まゝ》袂《たもと》を拂《はら》うて起《た》つた。而《しか》して貞世《さだよ》の爲《た》めに賣《う》られた※[#「こと」の合字、88-4]を憤《いきどほ》り、少貳《せうに》の遺族《ゐぞく》と戮力《りくりよく》して、彼《かれ》を討《う》たんとしたが、諸臣《しよしん》の止《とゞ》むるが爲《た》めに、貞世《さだよ》に絶書《ぜつしよ》を投《とう》じて、歸國《きこく》し、姑《しば》らく南朝側《なんてうがは》に就《つ》いた。〔島津國史〕[#「〔島津國史〕」は1段階小さな文字]
今川貞世《いまがはさだよ》は、政治家《せいぢか》である。彼《かれ》は或《あ》る程度迄《ていどまで》は、其《そ》の目的《もくてき》を達《たつ》した。足利將軍《あしかゞしやうぐん》の威令《ゐれい》は、九|州《しう》の全部《ぜんぶ》と云《い》ふ能《あた》はざるも、其《そ》の多《おほ》くの部分《ぶぶん》に行《おこな》はれ、島津氏《しまづし》の如《ごと》きも、幾《いくばく》もなく其《そ》の懷柔《くわいじう》する所《ところ》となつた。天授《てんじゆ》四|年《ねん》貞世《さだよ》が、菊池武朝《きくちたけとも》と、肥後《ひご》の託摩原《たくまがはら》に戰《たゝか》ふや、島津伊久《しまづこれひさ》は、其弟《そのおとうと》久安《ひさやす》、及《およ》び新納左近將監《にひろさこんしやうげん》をして、赴《おもむ》き援《たす》けしめ、而《しか》して二|人共《にんとも》に戰死《せんし》した。
七|代《だい》の元久《もとひさ》《もとひさ》は、禪僧《ぜんそう》石屋禪師《せきをくぜんじ》に歸依《きえ》して、福昌寺《ふくしやうじ》を建《た》てた。石屋《せきをく》は伊集院忠國《いじふゐんたゞくに》の子《こ》で、當時《たうじ》有名《いうめい》の僧《そう》であつた。元久《もとひさ》は奉佛《ほうぶつ》の熱心《ねつしん》よりして、其《そ》の繼嗣《けいし》たる可《べ》き一|子《し》梅壽《ばいじゆ》をして、其《そ》の門下《もんか》たらしめた。是《こ》れが福昌寺《ふくしやうじ》三|世《せ》の仲翁和尚《ちうをうをせう》である。彼《かれ》は又《ま》た足利將軍《あしかゞしやうぐん》と、蜜邇《みつじ》した。明徳《めいとく》四|年《ねん》、彼《かれ》は京師《けしし》に朝《てう》するの期《き》を愆《あやま》つた※[#「こと」の合字、89-3]を、陳謝《ちんしや》せんが爲《た》めに、特使《とくし》を遣《つかは》して、虎皮《こひ》三|枚《まい》、豹皮《へうひ》二|枚《まい》、梅畫《ばいぐあ》四|幅《ふく》、料足《れうそく》一|萬匹《まんびき》を献《けん》じた。而《しか》して應永《おうえい》十七|年《ねん》六|月《ぐわつ》には、自《みづか》ら樺山《かばやま》、北郷《ほんがう》、平田《ひらた》、阿多《あた》、北原《きたはら》、加治木《かぢき》、蒲生《がまふ》、肝付等《きもつきら》の諸將《しよしやう》を率《ひき》ゐて上洛《じやうらく》した。
彼《かれ》が日向《ひふが》の油津《あぶらつ》より乘船《じようせん》せんとするや、彼《かれ》の弟《おとうと》久豐《ひさとよ》は、突如《とつじよ》としてやつて來《き》た。久豊《ひさとよ》は、兄《あに》元久《もとひさ》の命《めい》を待《ま》たずして、伊東祐安《いとうすけやす》[#ルビの「いとうすけやす」は底本では「とうすけやす」]の女《むすめ》を娶《めと》り、此《こ》れよりして兄弟《きようだい》相善《あひよ》からず。されば元久《もとひさ》の隨從者《ずゐじゆうしや》が、其《そ》の來《きた》るを見《み》て、戒心《かいしん》を生《しやう》じたるは、怪《あや》しむに足《た》らなかつた。然《しか》も元久《もとひさ》は、平氣《へいき》にて其弟《そのおとうと》を待《ま》ち、囑《しよく》するに留守中《るすちう》の事《こと》を以《もつ》てした。彼《かれ》は室町第《むろまちだい》に於《おい》て、將軍義持《しやうぐんよしもち》に謁《えつ》し、將軍《しやうぐん》亦《ま》た彼《かれ》の京邸《きやうてい》に臨《のぞ》んだ。彼《かれ》が献上品《けんじやうひん》は、太刀《たち》、錢《ぜに》、武具《ぶぐ》、馬等《うまとう》のみならず、小袖《こそで》、絹帛《けんぱく》、皮革《ひかく》、蠻酒《ばんしゆ》、砂糖《さたう》、畫幅《ぐわふく》、麝香等《じやかうとう》の類《るゐ》があつた。
此《こ》れは内地《ないち》の生産品《せいさんひん》でなくして、何《いづ》れも海外《かいぐわい》の貿易品《ばうえきひん》であつた事《こと》は、前《まへ》に掲《かゝ》げたる、虎豹《こへう》の皮抔《かはなど》と同樣《どうやう》である。是《こ》れを見《み》ても島津氏《しまづし》が、恒《つね》に内外《ないぐわい》にかけて、攻戰《こうせん》に從事《じゆうじ》しつゝあるに拘《かゝは》らず、其《そ》の反面《はんめん》には、貿易《ぼうえき》の利《り》を享用《きやうよう》しつゝあつた事《こと》が判知《わか》る。此《こ》れは必《かなら》ずしも、島津氏《しまづし》のみに限《かぎ》つた事《こと》ではない。要《えう》するに九|州各地《しうかくち》が、海外《かいぐわい》との接觸《せつしよく》に、多《おほ》くの便宜《べんぎ》を有《いう》し、其《そ》の便宜《べんぎ》が九|州《しう》の生活《せいくわつ》、及《およ》び思想《しさう》に、多《おほ》くの感化《かんくわ》を及《およぼ》した事《こと》は、疑《うたがひ》を容《い》れぬ事實《じじつ》だ。而《しか》して薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》が九|州《しう》の奧地《おくち》として、更《さ》らにより大《だい》なる便宜《べんぎ》を有《いう》したる事《こと》も、亦《ま》た記憶《きおく》す可《べ》き事實《じじつ》だ。
         ―――――――――――――――
[#6字下げ]元 久 上 洛
[#ここから1段階小さな文字]
[#ここから2字下げ]
然る處、元久御上洛の旨、度々に於て、將軍家より御教書、成下され候の間、先づ屋形作の爲に、伊集院霜臺、慶永十四年、御先に上洛あり。既に御所の御目に懸けられ、赤松方の取成さるゝ事なれば、急々に道行。同十七年、元久、御上洛候。堺津に御着き候へば、京都に其左右聞え、伊集院殿堺へ下り、赤松方よりも、然るべく使者下され、京都の仁儀、禮法、先づ大方談合ありて、後日|間《あひ》候て御上洛あり。管領赤松殿御取成に任せられ、吉日を以て、御所に出仕御申候。赤松殿より案内者として、御供にて、騎馬長野、大寺兩人なり。何事も赤松殿の取成すまゝに依つて、更に此方の了簡に及ばず。始めて御所に、御目に懸りなさるゝの時、一獻分に、料足千貫、其外種々進上物不及申候。
其後御屋形に御成の時、麝香百積、金紫花盆御前に置き候。
御所に千貫きんの類、金紫花の盆に、麝香のほそ百包にて御進上候。
御所の御盃御酌にて、元久御給候時、御腰の物金丸拔の御鞘卷、直に御給ひ候。
御親類に、北郷[#割り注]中務少輔になる[#割り注終わり]、阿多[#割り注]加賀守になる[#割り注終わり]、肝付[#割り注]河内守になる[#割り注終わり]、飫肥[#割り注]伊豆守になる[#割り注終わり]、樺山[#割り注]安藝守になる[#割り注終わり]、平田[#割り注]左馬助になる[#割り注終わり]、[#「、」は底本では「 」]野邊[#割り注]薩摩守になる[#割り注終わり]、北原[#割り注]左馬助になる[#割り注終わり]、加治木[#割り注]能登守になる[#割り注終わり]、蒲生[#割り注]美濃守になる[#割り注終わり]。
一、御所の御目に懸かられ候方々、何れも太刀一腰料足百貫、都合千貫、管領の御酌にて、御酒御給はり候。
進上物、赤松殿子息の中、一々取上げ申さる。夫より種々興ども御座候ひけるに、畠山將監殿仰せけるは、御近習若御方々、島津殿の荷をさがされ候て、此麝香を取られ候はではと、仰せられける程に、御前に御方々も、時々興なれば、同前に候の處、御所も御笑ひ候ひける程、餘々荷なども、見苦しく候。如何に元久思召して、麝香の殘、又御家景に御尋ね候へば、一つ二つゞつ置きければ、盆に積みて、御座敷に出さる。其時、御近習の畠山將監殿を始めとして、思々に奪取り、御前を忘られ候程に、興も出來候ひけると、下向の御供方々、物語承傳へ候畢。其後御用意貯への弓と矢を取出し/\、同じ征矢箭櫃より抱き出し、末座落の間に出され候。是は何と上意下され、元久國に於て合戰仕る用意に候、舟中の用心候と、畠山將監殿に對し、仰せられ候へば、弓の中選び候て、召され候。二三張、五六張取られ候方もあり。御所の御前を憚らざる樣候ひける事は、島津殿屋形の位に、御成候の故、忝くも上聞に御叶ひ候。赤松方の取成候の上は、題目此謂候か。猿樂觀世太夫參り、能仕候。島津殿より、七尺餘る九貫の大太刀給はる。其外料足風情は、書付に及ばざる所なり。
一、赤松殿に、内儀御談合あるを以て、諸事に就き御越度候ては如何に思召して、御暇御申し、京都より伊勢へ御參詣あるに依つて、關々を明けらる。是れ一の名譽にあらずや。伊勢の守護土岐與安方に、仰付けらるゝに依つて、島津殿伊勢詣は、往復の者迄、付けられければ、人數夥しくぞありける。夫より堺に御着き候へば、京都より諸大名の使者引出物、更に憚なく候ひけるなり。〔從道鑿五代記〕
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