第五章 上代の薩、隅、日
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第五章 上代の薩、隅、日[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一三】薩、隅、日の地利[#中見出し終わり]


舞臺《ぶたい》一|轉《てん》、吾人《ごじん》は秀吉《ひでよし》の九|州役《しうえき》を語《かた》らねばならぬ。然《しか》も其《そ》の順序《じゆんじよ》として、先《ま》づ九|州《しう》の一|大勢力《だいせいりよく》たる島津氏《しまづし》に就《つい》て、若干《じやくかん》の豫備知識《よびちしき》を必要《ひつえう》とする。而《しか》して是《こ》れは單《たん》に九|州役《しうえき》のみならず、延《ひ》いて維新史《ゐしんし》の解説《かいせつ》にも、亦《ま》た必須《ひつしゆ》の要件《えうけん》である。何《なん》となれば、島津氏《しまづし》は殆《ほとん》ど七百|年《ねん》に亙《わた》り、三十|代《だい》連綿《れんめん》として、九|州《しう》の一|角《かく》に、時《とき》として其《そ》の大半《たいはん》に蟠《わだかま》りたる、雄族《ゆうぞく》であつたからだ。
併《しか》し島津氏《しまづし》を叙《じよ》する以前《いぜん》に、會得《ゑとく》せねばならぬは、薩摩《さつま》、及《およ》び其《そ》の種族《しゆぞく》たる隼人《はやと》である。既《すで》に薩摩《さつま》と云《い》へば、大隈《おほすみ》も、日向《ひふが》も、此中《このうち》に含《ふく》んで居《ゐ》る。島津氏《しまづし》が九|州《しう》に雄視《ゆうし》したる所以《ゆゑん》は、此《こ》の隼人族《はやとぞく》を率《ひき》ゐて、此《こ》の薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》に據《よ》りたるからである。即《すなは》ち地《ち》と人《ひと》とは、兩《ふたつ》ながら島津氏《しまづし》をして、九|州《しう》に有力《いうりよく》に、時《とき》としては天下《てんか》に有力《いうりよく》ならしめた。薩摩《さつま》、大隈《おほすみ》は、本來《ほんらい》日向《ひふが》より分《わか》れて二|國《こく》となつたもので、其《そ》の人情《にんじやう》、風俗《ふうぞく》の上《うへ》から云《い》へば、先《ま》づ一|國《こく》と云《い》ふも可《か》なりだ。而《しか》して此《こ》の三|國《ごく》は、九|州《しう》でも、奧《おく》三|國《ごく》と稱《しよう》して、其《そ》の地勢《ちせい》の他《た》と隔絶《かくぜつ》したる關係上《くわんけいじやう》、自《おのづ》から別天地《べつてんち》を成《な》して居《ゐ》た。
鎭西山脈《ちんぜいさんみやく》は、宛《あたか》も障壁《しやうへき》の如《ごと》く、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》、三|國《ごく》の國境《こくきやう》を簇擁《ぞくよう》し、天然《てんねん》の防禦《ばうぎよ》たらしめた。其《そ》の長《なが》くして、出入屈曲《しゆつにふくつきよく》せる海岸線《かいがんせん》は、幾多《いくた》の港灣《かうわん》を作《な》し、外洋《ぐわいやう》に面《めん》し、大小《だいせう》の島嶼《たうしよ》は、飛石《ひせき》の如《ごと》く、琉球《りうきう》に連《つら》なり延《ひ》いて支那大陸《しなたいりく》の福州《ふくしう》に接《せつ》した。陸地《りくち》より云《い》へば、袋《ふくろ》の底《そこ》だ。されば種々《しゆ/″\》の物《もの》は、上國《じやうこく》より此處《ここ》に落《お》ち込《こ》み來《きた》り、一たび落《お》ち込《こ》めば、容易《ようい》に出《い》づることが能《あた》はぬ。海上《かいじやう》より云《い》へば、袋《ふくろ》の口《くち》だ。外來《ぐわいらい》の物質《ぶつしつ》、知識等《ちしきとう》、何《いづ》れも期《き》せずして、此處《ここ》に來《きた》る可《べ》き、自然《しぜん》の傾向《けいかう》がある。要《えう》するに陸《りく》に閉《とざ》して、海《うみ》に開《ひら》き、鎖國《さこく》と開國《かいこく》との便宜《べんぎ》、利益《りえき》を、同時《どうじ》に得《え》たのは、人力《じんりよく》と云《い》はんよりも、寧《むし》ろ地利《ちり》の然《しか》らしむる所《ところ》と、云《い》ふ可《べ》きである。
されば我《わ》が神代史《じんだいし》に於《おい》ても、瓊々杵尊《にゝぎのみこと》が、高千穗《たかちほ》に降臨《かうりん》し給《たま》ふや、其《その》都《みやこ》を薩摩《さつま》の阿多《あた》(吾田)[#「(吾田)」は1段階小さな文字]に定《さだ》め給《たま》うた。
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笠狹御碕《かささのみさき》は、薩摩國《さつまのくに》の西邊《せいへん》にて、地觜《ちし》あり、海中《かいちう》に突出《とつしゆつ》す。接壤《せつじやう》の處《ところ》は、東方《とうはう》にて、地觜《ちし》は西《にし》に向《むか》ふ。其《その》長《なが》さ凡《およそ》四|里《り》、其地《そのち》の尖觜《せんし》を御碕《みさき》と云《い》ふ。是《こ》れ日本書紀《にほんしよき》に見《み》えたる吾田長屋笠狹之碕《あたながやかささのみさき》にて、瓊々杵尊《にゝぎのみこと》高千穗峰《たかちほのみね》に天降《あまくだり》の後《のち》、都《みやこ》すべき地《ち》を尋《たづね》て、到《いた》り給《たま》ひし處《ところ》なり。〔三國名勝圖會〕[#「〔三國名勝圖會〕」は1段階小さな文字]
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此《かく》の如《ごと》く天孫《てんそん》の降臨《かうりん》、建都《けんと》が、此《こ》の日本《にほん》の一|隅《ぐう》にあるは、決《けつ》して不思議《ふしぎ》でない。陸《りく》より見《み》れば、終局《しゆうきよく》なれども、海《うみ》より見《み》れば、起頭《きとう》である。日本《にほん》のみの地積《ちせき》より考《かんが》ふれば、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》は、全《まつた》くの片田舍《かたゐなか》であるが、支那《しな》、南洋《なんよう》、其他《そのた》の關係《くわんけい》より云《い》へば、海外交通《かいぐわいかうつう》の門戸《もんこ》と云《い》うても、差支《さしつかへ》ない。交通《かうつう》の不便《ふべん》とは、唯《た》だ内地《ないち》の陸上《りくじやう》に限《かぎ》つた事《こと》である。海上《かいじやう》に於《おい》ては、潮流《てうりう》の關係《くわんけい》より云《い》ふも、島嶼《たうしよ》の碁布點在《きふてんざい》より云《い》ふも、港灣《かうわん》より云《い》ふも、最《もつと》も便宜《べんぎ》の地點《ちてん》であつたに相違《さうゐ》ない。
薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|國《ごく》に據《よ》つて、天下《てんか》を爭《あらそ》ふ事《こと》は、日本《にほん》の地勢《ちせい》が之《これ》を容《ゆる》さない。運輸《うんゆ》不便《ふべん》の當時《たうじ》に於《おい》ては、縱令《たとひ》海上《かいじやう》よりするも、尚《な》ほ懸軍長驅《けんぐんちやうく》の患《うれひ》を免《まぬ》かるゝを得《え》ない。併《しか》し是《こ》れと同時《どうじ》に、自《みづか》ら守《まも》るには、極《きは》めて好都合《かうつがふ》であつた。苟《いやしく》も之《これ》を取《と》らんとするには、天下《てんか》の兵《へい》を動《うごか》すにあらざれば、能《あた》はぬことだ。然《しか》も是《こ》れ勞《らう》多《おほ》くして効《かう》少《すくな》きものではない乎《か》。
島津氏《しまづし》七百|年間《ねんかん》に、之《これ》を試《こゝろ》みて成功《せいこう》したるものは、唯《た》だ一の秀吉《ひでよし》あるのみだ。然《しか》も其《そ》の秀吉《ひでよし》さへも、寧《むし》ろ征服《せいふく》に寛《くわん》にして、綏撫《すゐぶ》に急《きふ》なるものがあつた。乃《すなは》ち意地惡《いぢあ》しき徳川幕府《とくがはばくふ》さへも、三百|年間《ねんかん》腫物《はれもの》に觸《ふ》るゝが如《ごと》く、手柔《てやはら》かに之《これ》を取扱《とりあつか》うた。方隅割據《はうぐんかつきよ》には、島津氏《しまづし》は確《たし》かに地《ち》の利《り》を得《え》て居《ゐ》た。

[#5字下げ][#中見出し]【一四】薩摩隼人[#中見出し終わり]


島津氏《しまづし》は隼人族《はやとぞく》でない。然《しか》も其《そ》の率《ひき》ゐたる士民《しみん》の多數《たすう》は、隼人族《はやとぞく》である。抑《そもそ》も隼人族《はやとぞく》とは、何者《なにもの》である乎《か》。本居宣長《もとをりのりなが》は云《いは》く、隼人《はやと》と云《い》ふ者《もの》は、今《いま》の大隈《おほすみ》、薩摩《さつま》二|國《こく》の人《ひと》にて、其《そ》の國人《こくじん》は絶《すぐ》れて敏捷《はや》く、猛勇《たけ》きが故《ゆゑ》に、此名《このな》あるなり。景行《けいかう》、仲哀《ちうあい》の御世《みよ》の頃《ころ》、熊會《くまそ》と云《いひ》し者《もの》も、是《こ》れにて、即《すなはち》其國《そのくに》を熊會國《くまそのくに》と云《いひ》きと。〔古事記傳〕[#「〔古事記傳〕」は1段階小さな文字]而《しか》して彼等《かれら》の祖先《そせん》は、古事記《こじき》には、『火照命《ほてりのみこと》、此《これ》は隼人阿多《はやとあた》の君《きみ》の祖《そ》なり。』と特筆《とくひつ》してある。即《すなは》ち隼人族《はやとぞく》の祖先《そせん》は、神武天皇《じんむてんわう》の祖父君《そふぎみ》なる、彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》の兄《あに》である。此《こ》の兄弟《きやうだい》にて海《うみ》の幸《さち》と、山《やま》の幸《さち》とを爭《あらそ》ひまして、遂《つひ》に兄君《あにぎみ》火照命《ほてりのみこと》─一|名《めい》火闌降命《ほのすせりのみこと》─の負《ま》けとなつた話《はなし》は、我《わ》が神話中《しんわちう》の尤《もつと》も興味多《きようみおほ》き一である。而《しか》して兄君《あにぎみ》が、其《そ》の降伏《かうふく》の誓《ちかひ》として、『僕《あ》は今《いま》より以後《のち》、汝命《ながみこと》の晝夜《ひるよる》の守護人《まもりびと》となりて仕奉《つかへまつ》らむ。』〔古事記〕[#「〔古事記〕」は1段階小さな文字]と宣《のたま》ひ。又《ま》た『從[#レ]今《いまより》以往《いくさき》吾《やつがれの》子孫《うみのこの》八十連屬《やそつゞき》恒《つねに》當《いまし》爲[#二]汝俳人[#一]《みことのわざびととなり》亦《また》爲[#二]狗人[#一]《いぬびととならん》』〔日本書紀〕[#「〔日本書紀〕」は1段階小さな文字]と宣《のたま》うた。此《かく》の如《ごと》くして、隼人族《はやとぞく》は、爾後《じご》、守衞《しゆゑい》と俳優《はいいう》の二|役《やく》を勤《つと》めたとある。
若《も》し此説《このせつ》の通《とほ》りであれば、隼人族《はやとぞく》は正《まさ》しく皇別《くわうべつ》である。併《しか》しそは吾人《ごじん》の知《し》る所《ところ》でない。但《た》だ彼等《かれら》は火照命《ほてりのみこと》の誓言《せいごん》の爲《た》めである乎《か》、否乎《いなか》は別《べつ》として、王朝《わうてう》の時迄《ときまで》も、皇宮《くわうきゆう》の守衞《しゆゑい》に任《にん》じ、八|年《ねん》若《も》しくは六|年毎《ねんごと》に交代《かうたい》した。彼等《かれら》は又《ま》た歌舞《かぶ》をも奏《そう》した。爾後《じご》隼人族《はやとぞく》が、上國《じやうこく》に土著《どちやく》するに及《およ》び、其《その》交代《かうたい》を一|年《ねん》とし、專《もつぱ》ら近畿《きんき》其他附近《そのたふきん》の隼人《はやと》を招集《せうしふ》し、兵部省《ひやうぶしやう》に隼人司《はやとつかさ》を設《まう》けて、之《これ》を支配《しはい》せしめた。而《しか》して彼等《かれら》は、行幸《ぎやうかう》の際《さい》には、帶刀《たいたう》、騎馬《きば》若《も》しくは執戟徒歩《しつげきとほ》にて、供奉《ぐぶ》の列《れつ》に加《くはは》り、今來隼人《いまきはやと》(新參者)[#「(新參者)」は1段階小さな文字]は行幸《ぎやうかう》の道筋《みちすぢ》にて、吠聲《べいせい》を發《はつ》し、其《そ》の風俗《ふうぞく》の歌舞《かぶ》を奏《そう》した。又《ま》た大嘗會《だいじやうゑ》の節《せつ》には、御門衞《ごもんゑい》を勤《つと》め、狗《いぬ》の面《めん》を被《かむ》りて、狗吠《くべい》の役《やく》をなした。而《しか》して彼等《かれら》は、恒《つね》に禁廷《きんてい》の警衞《けいゑい》に任《にん》じた。〔重野安繹著薩藩史談集〕[#「〔重野安繹著薩藩史談集〕」は1段階小さな文字]
所謂《いはゆ》る隼人族《はやとぞく》が、他《た》の日本人《にほんじん》と如何《いか》なる關係《くわんけい》にてある乎《か》は、姑《しば》らく措《お》き、彼等《かれら》には確《たし》かに其《そ》の特色《とくしよく》があつた。朝廷《てうてい》が彼等《かれら》を以《もつ》て、禁廷《きんてい》の警衞《けいゑい》に任《にん》じ給《たま》うたのは、恐《おそ》らくは此《こ》の特色《とくしよく》を、認識《にんしき》あらせられた爲《た》めであらう。そは申《まを》す迄《まで》もなく、彼等《かれら》が慓悍《へうかん》にして死《し》を怖《おそ》れざる事《こと》だ。薩摩《さつま》の老學《らうがく》故《こ》重野博士《しげのはかせ》は、斯《か》く云《い》うて居《を》る。神武天皇《じんむてんわう》は、薩摩《さつま》の吾田《あた》より出發《しゆつぱつ》して、東征《とうせい》せられた。其《そ》の禁軍《きんぐん》の來目部《くめべ》が、最《もつと》も能《よ》く奮鬪《ふんとう》した。而《しか》して來目部《くめべ》は、即《すなは》ち隼人族《はやとぞく》だ。當時《たうじ》の軍歌《ぐんか》が、日本書紀《にほんしよき》、古事記《こじき》にも殘《のこ》つて居《ゐ》る。戰國時代《せんごくじだい》の隼人《はやと》が、軍歌《ぐんか》にて、士氣《しき》を鼓舞《こぶ》したのも、其《そ》の遺風《ゐふう》である。又《ま》た一|條兼良《でうかねよし》の説《せつ》を援《ひ》いて、當時《たうじ》の武器《ぶき》、頭槌《かぶづち》、石槌《いしづち》の刀《かたな》は、足利時代迄《あしかゞじだいまで》も薩摩隼人《さつまはやと》の帶《お》びつゝある所《ところ》だと云《い》うて居《を》る。
薩摩琵琶歌《さつまびはうた》の存在《そんざい》が、果《はた》して神武東征時代《じんむとうせいじだい》の久米歌《くめうた》の、隼人族《はやとぞく》より出《い》でたるを證《しよう》するに足《た》る乎《か》。一|條兼良《でうかねよし》が日本書紀《にほんしよき》に註《ちゆう》して、頭槌《かぶづち》は劍首《けんしゆ》が槌《つち》の如《ごと》くなつて居《ゐ》る、今尚《いまな》ほ隼人《はやと》は、此劍《このつるぎ》を帶《たい》して居《ゐ》るとの言《げん》が、果《はた》して隼人《はやと》が、神武天皇《じんむてんわう》の旗下《きか》に奮鬪《ふんとう》し、長髓彦《ながすねひこ》を討平《たうへい》したものと、判斷《はんだん》するの證據《しようこ》たるを得可《うべ》き乎《か》。そは銘々《めい/\》の判斷《はんだん》に一|任《にん》するとしても、彼等《かれら》が剽悍《へうかん》死《し》を怖《おそ》れぬ特色《とくしよく》は、我《わ》が國史《こくし》に歴々《れき/\》として間違《まちがひ》あるまい。
此《こ》れと同時《どうじ》に、彼等《かれら》は又《ま》た持久《ぢきう》、堅忍《けんにん》の資質《ししつ》を缺《か》き、能《よ》く勢《いきほひ》を見《み》て變化《へんくわ》した。即《すなは》ち善《よ》く云《い》へば、融通無礎《ゆうづうむげ》であり、惡《わる》く云《い》へば、投機寡信《とうきくわしん》であつた。その例《れい》としては、隼人族《はやとぞく》は、屡《しばし》ば謀反《むほん》したが、直《たゞ》ちに降伏《かうふく》した。天武天皇《てんむてんわう》の大寶《たいはう》二|年《ねん》にも、薩摩《さつま》の多※[#「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86]《たね》の隼人《はやと》が反《そむ》いた。元正天皇《げんしやうてんわう》の養老《やうらう》四|年《ねん》にも、大隈《おほすみ》の隼人《はやと》が叛《そむ》いた。聖武天皇《しやうむてんわう》の天平《てんぴやう》十二|年《ねん》、藤原廣嗣《ふぢはらひろつぐ》の亂《らん》にも、三|國《ごく》の隼人《はやと》は、之《これ》に應《おう》じた。然《しか》れども彼等《かれら》は、勇悍《ゆうかん》なる割合《わりあひ》に、戰亂《せんらん》が蚤《はや》く片附《かたづ》いた。其《そ》の理由《りいう》として、重野博士《しげのはかせ》は。
兎《と》に角《かく》兵《へい》は、なか/\|強《つよ》いもので、餘程《よほど》の精兵《せいへい》であつた。併《しか》しながら、氣早《きばや》い隼人《はやと》でありますから、何時《いつ》までも謀叛《むほん》をして居《ゐ》ると云《い》ふことは、いたしませずして、官軍《くわんぐん》が向《むか》へば、直《す》ぐ鎭定《ちんてい》になります。
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と云《い》ひ。又《ま》た
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隼人《はやと》は皇別《くわうべつ》の子孫《しそん》でもあり、其《その》氣象《きしやう》が、また勇悍《ゆうかん》でありますから、チヨツと荒立《あらだ》つてやるやうなことはありますけれども、思《おも》ひ返《かへ》しが早《はや》いから、直《す》ぐに又《また》朝廷《てうてい》に從《したが》ひます。
藤原廣嗣《ふぢはらひろつぐ》が謀叛《むほん》しました時《とき》も、隼人《はやと》が第《だい》一|番《ばん》に加《くは》はつた筋《すぢ》に見《み》えますが、筑前《ちくぜん》の板櫃川《いたひつがは》と云《い》ふ所《ところ》に、其《そ》の兵隊《へいたい》が出《で》まして、そこで官軍《くわんぐん》が陣頭《ぢんたう》で詰問致《きつもんいた》しましたれば、早速《さつそく》隼人《はやと》は川《かは》を渡《わた》つて、降參《かうさん》をいたしました。其《その》利害得失《りがいとくしつ》を能《よ》く説《と》き聞《き》かせて、朝廷《てうてい》に叛《そむ》いてはならぬと言《い》へば、直《す》ぐに平《たひら》ぎました。是《これ》で隼人《はやと》の人氣《にんき》が鋭《するど》くして、何時迄《いつまで》もグヅ/\して居《ゐ》ると云《い》ふやうなことの無《な》いのが、分《わか》ります。
隼人《はやと》の人氣《にんき》はさう云《い》ふもので、國史《こくし》を見《み》ますと、幾《いく》つも斯《か》う云《い》ふことがありますが、能《よ》く利害得失《りがいとくしつ》が分《わか》りますれば、直《す》ぐに其方《そのはう》に向《む》きます。謂《い》はゆる頑冥不靈《ぐわんめいふれい》と云《い》ふやうなことはない。是《これ》が隼人《はやと》の氣質《きしつ》であります。〔薩藩史談集〕[#「〔薩藩史談集〕」は1段階小さな文字]
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と云《い》うた。此《こ》れは隼人族《はやとぞく》の側《がは》に立《た》てる、隼人族《はやとぞく》特質《とくしつ》の見解《けんかい》として、極《きは》めて確的《かくてき》である。小兒《せうに》は大人《たいじん》の父《ちゝ》ぢや。近世《きんせい》の薩摩武士《さつまぶし》を解《かい》せんと欲《ほつ》せば、先《ま》づ古代《こだい》の隼人族《はやとぞく》を解《かい》せねばならぬ。
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[#6字下げ]隼人の音樂歌舞
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偖又隼人が音樂歌舞を善くしまする事は前にも述べました通り、朝廷に罷出づる都度、必ず風俗の歌舞を奏しまする。是も火闌降命の優人と御成りなされた先例の傳はりたるもの。白尾國柱大人の薩藩名勝考の鹿兒島の催馬樂《せはる》村は隼人が居住せし所であつて、日夜音樂を教習して居つたから村の名となり、其太鼓の聲が※[#「革+且」、U+977B、65-2]々鼕々と響き聲えたから、催馬樂村の下に「たんたどう」と云ふ地名があるとあります。又催馬樂村の南方に「とんだ」と云ふ地名がある。是は隼人が屯田した處であるとの説、成程隼人は朝廷の兵隊でありますから、今の北海道の屯田兵と同樣であつたと見えます。さて隼人の風俗歌舞に就いて思考して觀ますに、御國で座頭歌(琵琶歌とも云ふ)其他侍踊の歌、御田踊、太鼓踊の類、ションガ節など異樣な他國に無いものがありますが、これは矢張隼人の風俗歌舞に淵源して居る事であらうかと、豫ねて考へて居ます。拙者は風俗歌舞源流考と申すものを先年書きまして、それに委しく言うて置きました。我日本で歌舞の事は總べて雅樂寮が管轄して居りますが、大體皆外國の樂であります。其外國樂は御承知の通り第一、唐樂、それから高麗樂、百濟樂、新羅樂、或は呉樂、或は林邑(今の安南)樂など、いづれも外國樂で、其純粹なる日本の歌舞と申すものは先づ神樂、それから催馬樂などで、歌をうたうて、さうして舞をいたします。外國樂は大抵聲あつて舞がなく、隨唐樂など總べて形ばかりでありますが、聲あつて、さうして形のあるものは、日本で出來たもので、即ち隼人の風俗歌舞がそれであつて、後世までも傳習して居ました。
隼人の古代と云ふものは大樣右申した通りであります。隼人の遺風として我國に琵琶歌とか侍踊とか云ふやうなものが段々ある。それと引合せて考へますと、今の軍歌の中に大室屋の戰さなどの時の軍歌が載つて居ますから、あれが矢張來目部の兵隊の歌ではありますけれども、おもに此隼人の歌が主になつて居るかと推察せられます。それ故に前に申しました通り、御國には他國に ない異樣の音樂類があります。琵琶歌、それから侍踊の歌とか種々なものがありまして、今度皇太子殿下の行啓に付きまして、さう云ふ歌などを御聽きに入れて、殿下も大層御悦び遊ばされたと申すことでありますが、矢張古來の隼人の歌と聯帶して居るやうに思はれるのであります。どうも他所には一向さう云ふ[#「云ふ」は底本では「云うふ」]ものが遺つて居りませぬ。一體軍氣を引立てるのは必ず音曲歌謠にあるものでありますから、何處ぞに、さう云ふ風俗が遺つて居るかと考へて見ますに、どうもさう云ふものを聞き及びませぬ。所が御國に於ては、それが不思議に能く遺つて居ります。シヨンガ節など云ふものまで矢張遺風であらうか、どうも音聲の鹽梅が淫聲を全く帶びずして武張つて居ります。矢張軍樂から轉じたものであらうと考へますが、是はマア一の考證になることでありますから愚見だけ申上げて置きます。〔重野安繹著薩藩史談集〕
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[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【一五】薩、隅、日の土地制度[#中見出し終わり]


朝權《てうけん》の廢弛《はいし》するや、其《そ》の影響《えいきやう》を最初《さいしよ》に被《かうむ》るものは、僻遠《へきゑん》の地《ち》である。好武好戰的《かうぶかうせんてき》特質《とくしつ》を有《いう》する、隼人族《はやとぞく》が、互《たがひ》に割據《かつきよ》の風《ふう》を馴致《じゆんち》したのは、寧《むし》ろ當然《たうぜん》の事《こと》と云《い》はねばならぬ。加《くは》ふるに此地《このち》は袋《ふくろ》の底《そこ》である。日本《にほん》の中央《ちうあう》に動搖《どうえう》ある毎《ごと》に、何者《なにもの》かゞ|此地《このち》に落《お》ち込《こ》み、流《なが》れ込《こ》み、滑《すべ》り込《こ》み來《きた》るは、是亦《これまた》必然《ひつぜん》の勢《いきほ》ひだ。
天慶《てんけい》の亂後《らんご》、藤原純友《ふぢはらすみとも》の子《こ》直純《なほずみ》が、鹿兒島《かごしま》に隱《かく》れ、孫《まご》の永純《ながずみ》が、鹿兒島《かごしま》の郡司《ぐんじ》となつたが如《ごと》きは、其《そ》の一|例《れい》である。阿多忠景《あたたゞかげ》が、肥前《ひぜん》より來《きた》り、其婿《そのむこ》源爲朝《みなもとためとも》を伴《ともな》ひて九|州《しう》を荒《あ》れ廻《まは》り[#「廻《まは》り」底本では「廻《まは》」]、其《そ》の勢力《せいりよく》を南島迄《なんたうまで》も及《およぼ》したのも、亦《ま》た一|例《れい》である。此《かく》の如《ごと》く土著《どちやく》の豪族《がうぞく》に加《くは》ふるに、外來《ぐわいらい》の豪族《がうぞく》を以《もつ》てし、薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》三|國《ごく》は、殆《ほとん》ど手《て》の著《つ》け樣《やう》もなき、群雄割據《ぐんゆうかつきよ》の状態《じやうたい》を現出《げんしゆつ》した。
更《さ》らに此勢《このいきほひ》に、油《あぶら》を澆《そゝ》ぎたる理由《りゆう》がある。そは此《こ》の三|國《ごく》は、開國《かいこく》の當初《たうしよ》より、土地制度《とちせいど》に於《おい》て、殆《ほとん》ど特殊《とくしゆ》の取扱《とりあつかひ》を受《う》けて居《ゐ》た事《こと》である。そは此地《このち》の僻遠《へきゑん》なるが爲《た》めに、一|切《さい》の墾田《こんでん》を公田《こうでん》に繰《く》り入《い》れず、その儘《まゝ》墾田《こんでん》として、調庸《てうよう》の義務《ぎむ》もなく、極《きは》めて輕税《けいぜい》を課《くわ》した。公田《こうでん》とは其名《そのな》の如《ごと》く、朝有《てういう》の田《た》にして、墾田《こんでん》とは、自《みづか》ら開墾《かいこん》した田《た》である。然《しか》るに朝綱《てうかう》の弛《ゆる》ぶに從《したが》ひ、其《そ》の輕《かる》き納税《なふぜい》さへも、何時《いつ》の間《ま》にやら抛却《はうきやく》するに至《いた》つた。斯《かゝ》る便宜《べんぎ》の邦土《はうど》なれば、此《こ》の方面《はうめん》に、莊園《しやうゑん》が充溢《じゆういつ》したのも、是《こ》れ亦《ま》た自然《しぜん》の結果《けつくわ》と云《い》はねばならぬ。
莊園《しやうゑん》とは、云《い》ふ迄《まで》もなく私領地《しりやうち》を意味《いみ》する。一|體《たい》我國《わがくに》上代《じやうだい》に於《おい》ては、臣《おみ》、連《むらじ》、供造《とものみつくり》、國造等《くにのみつくりとう》の勢力《せいりよく》あるものが、何《いづ》れも廣大《くわうだい》なる土地《とち》を私有《しいう》して居《ゐ》たのであるが、大化改新《たいくわかいしん》の時《とき》、一|切《さい》之《これ》を收《おさ》めて國家《こくか》の所有《しよいう》とし、國有《こくいう》の土地《とち》を均分《きんぶん》に、斑《わか》ちて、百姓《ひやくしやう》に耕作《かうさく》せしめた。但《たゞ》しこの制度《せいど》は、充分《じうぶん》徹底的《てつていてき》には行《おこな》はれず、尚《な》ほ諸所《しよしよ》に私有《しいう》の田《た》をもつて居《ゐ》るものがあつたらしい。加之《しかのみならず》、天智天皇《てんぢてんわう》の滋賀《しが》の朝《てう》から奈良朝《ならてう》にかけて、社會《しやくわい》が進歩《しんぽ》し、人口《じんこう》が増加《ぞうか》するに從《したが》つて、從前《じうぜん》の公田《こうでん》だけでは、人民《じんみん》に割《わり》あてるに足《た》らない。そこで新《あたら》しく荒地《あれち》を開墾《かいこん》させたが、それを私有《しいう》にしてやらなければ、どうしても百|姓《しやう》が本氣《ほんき》になつて、開墾《かいこん》をし、耕作《かうさく》をすることをせない。已《や》むを得《え》ず、初《はじ》めは一|代間《だいかん》の私有《しいう》を許《ゆる》し、次《つ》ぎに子孫《しそん》三|代間《だいかん》の私有《しいう》を許《ゆる》したが、それでも結果《けつくわ》がよくないから、遂《つひ》には永世《えいせい》の私有《しいう》を許《ゆる》すと云《い》ふことにした。斯《か》くて天智天皇《てんぢてんわう》が建《た》て給《たま》うた、土地國有《とちこくいう》の制度《せいど》は、破壞《はくわい》の端《たん》を啓《ひら》き、再《ふたゝ》び全國《ぜんこく》に私有地《しいうち》が多《おほ》くなつた。
さて一|旦《たん》私有《しいう》を許《ゆる》さるれば、開墾《かいこん》をやるものは、ます/\|多《おほ》くなり、特《とく》に京都《きやうと》あたりの權門《けんもん》、勢家《せいか》、神社《じんじや》、佛院《ぶつゐん》は、盛《さかん》に開墾私有《かいこんしいう》をやつた。固《もと》より原則《げんそく》は、尚《な》ほ國有《こくいう》であるから、權門勢家《けんもんせいか》は、別莊《べつさう》の園池《ゑんち》といふ名義《めいぎ》で、その土地《とち》を私有《しいう》することにした。この外《ほか》特殊《とくしゆ》の勳功《くんこう》によつて、朝廷《てうてい》から一|時《じ》頂《いたゞ》いて、賜田《しでん》とか、功田《こうでん》とかを、そのまゝ|頂《いたゞ》ききりにして、私有《しいう》としたものもあつた。社寺《しやじ》の寄附田《きふでん》も勿論《もちろん》、社寺《しやじ》の私有《しいう》であつた。これが皆《み》な莊園《しやうゑん》というものになつたのである。
而《しか》してこの莊園《しやうゑん》には、役人《やくにん》が居《を》つて、之《これ》を支配《しはい》し、租税《そぜい》を取立《とりた》てゝ、所有者《しよいうしや》なる領家《りやうけ》(或《あるひ》は本家《ほんけ》ともいふ)に收《をさ》めて居《を》つたのであるが、この莊園《しやうゑん》は國家《こくか》の所有《しよいう》でなく、全然《ぜん/″\》個人《こじん》のものであるから、國家《こくか》に對《たい》する負擔《ふたん》は非常《ひじやう》に輕《かる》い。故《ゆゑ》に百姓《ひやくしやう》は公田《こうでん》を去《さ》つて、莊園《しやうゑん》に赴《おもむ》き、公田《こうでん》は甚《はなは》ださびれる樣《やう》になつた。
且《か》つ地方《ちはう》の大地主《おほぢぬし》とか、豪族《がうぞく》とかは、表向《おもてむ》き私有《しいう》の土地《とち》を、京都邊《きやうとへん》の權門《けんもん》、勢家《せいか》、神社《じんじや》、佛寺等《ぶつじとう》に寄進《きしん》し、これをその莊園《しやうゑん》として、自《みづか》らはそこの下司職《げすじよく》となり、而《しか》してその土地《とち》に關《くわん》する一|切《さい》の實權《じつけん》は、自分《じぶん》が握《にぎ》つて、これを子孫《しそん》に相續《さうぞく》させる※[#「こと」の合字、69-13]にした者《もの》も、澤山《たくさん》ある。實《じつ》はこの種類《しゆるゐ》の莊園《しやうゑん》が、甚《はなは》だ多《おほ》いのである。
其外《そのほか》買占《かひしめ》の莊園《しやうゑん》もある。甚《はなは》だしきは公田《こうでん》を占有《せんいう》して、莊園《しやうゑん》としたものもある。かくの如《ごと》くして莊園《しやうゑん》ます/\|増加《ぞうか》し、朱雀天皇《すじやくてんわう》の御代《みよ》─|將門純友《まさかどすみとも》反亂《はんらん》の時代《じだい》─には、全國《ぜんこく》公田《こうでん》の數《すう》は、僅《わづ》かに百|分《ぶんの》一になつたと、國史《こくし》に記載《きさい》せられて居《ゐ》る。されば國衙《こくが》の收入《しうにふ》は、だん/″\|減少《げんせう》するばかりであるから、後《ご》三|條天皇《でうてんわう》は、この弊害《へいがい》を矯《た》めんとて、努力《どりよく》なされたけれども、甚《はなは》だしき効果《かうくわ》も著《あらは》れなかつた。爾來《じらい》關白兼實《くわんぱくかねざね》の如《ごと》きも『抑《そもそも》我朝者《わがてうは》偏《ひとへに》依[#二]莊園[#一]《しやうゑんによつて》滅亡者也《めつばうするものなり》。』〔玉海〕[#「〔玉海〕」は1段階小さな文字]と慷慨《かうがい》した。けれども固《もと》より積弊《せきへい》の致《いた》す所《ところ》、一|朝《てう》にして改《あらた》むべき樣《やう》もなく、遂《つひ》には天皇《てんわう》、上皇《じやうわう》、女院《によゐん》、妃嬪《きひん》より下《しも》は白拍子《しらびやうし》まで、莊園《しやうゑん》の所有者《しよいうしや》となることになつた。而《しか》して此《こ》の莊園《しやうゑん》の最《もつと》も繁昌《はんじやう》したのは、實《じつ》に薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の三|國《ごく》であつた。
水《みづ》は卑《ひく》きに就《つ》く、土地《とち》の私有者《しゆうしや》は、負擔《ふたん》の少《すくな》きを撰擇《せんたく》する。鎌倉時代《かまくらじだい》に録進《ろくしん》したる太田文《おほたぶみ》には、大隈國《おほすみのくに》田額《でんがく》三千十七|町餘《ちやうよ》にて、其内《そのうち》八|幡神領《まんしんりやう》一千二百九十六|町餘《ちやうよ》、島津莊《しまづしやう》七百五十|町《ちやう》、寄郡《よせごほり》七百十五|町餘《ちやうよ》、而《しか》して國領《こくりやう》は僅《わづ》かに二百五十|町《ちやう》に過《す》ぎず。然《しか》も其内《そのうち》十六|町《ちやう》の府社領《ふしやりやう》と一百三十|餘町《よちやう》の不輸田《ふゆでん》とを控除《こうじよ》すれば、剩《あま》す所《ところ》只《た》だ百|町内外《ちやうないぐわい》である。即《すなは》ち事實上《じじつじやう》の公田《こうでん》は、三百|分《ぶん》の一に過《す》ぎぬ。大隈《おほすみ》既《すで》に然《しか》り、薩摩《さつま》、日向《ひふが》も亦《また》知《し》る可《べ》きではない乎《か》。
特《とく》に茲《こゝ》に注意《ちゆうい》す可《べ》きは、島津莊《しまづしやう》である。是《こ》れは御堂關白道長《みだうくわんぱくみちなが》の子《こ》、宇治關白頼道《うぢくわんぱくよりみち》の時代《じだい》に起《おこ》つたもので、當初《たうしよ》は日向《ひふが》なる現在《げんざい》の都城附近《みやこのじやうふきん》に、島津莊《しまづしやう》があつた。此《こ》れより大隈《おほすみ》、薩摩《さつま》に及《およ》び、三|國《ごく》に散布《さんぷ》したる莊園《しやうゑん》を何《いづ》れも島津莊《しまづしやう》と稱《しよう》した。而《しか》して其《そ》の莊園《しやうゑん》は、莊長《しやうちやう》、莊司《しやうじ》、或《あるひ》は下司職《げすしよく》が之《これ》を支配《しはい》し、其《そ》の收納《しうなふ》をば、領家《りやうけ》たる近衞家《このゑけ》に差出《さしいだ》した。保延中《ほえんちう》には、攝政忠道《せつしやうたゞみち》、新《あらた》に大隈《おほすみ》に島津莊《しまづしやう》を立《た》てたが、其大《そのだい》一|國《こく》の四|分《ぶん》の一に居《を》ると記《しる》してある。〔莊園考〕[#「〔莊園考〕」は1段階小さな文字]

 

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