第四章 秀吉の皇室尊崇提携
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#4字下げ][#大見出し]第四章 秀吉の皇室尊崇提携[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一二】御陽成天皇の即位[#中見出し終わり]


秀吉《ひでよし》は勤王《きんわう》の一|事《じ》に於《おい》て、最《もつと》も信長《のぶなが》の紹成者《せうせいしや》であつた。彼《かれ》は單《たん》に自《みづか》ら皇室《くわうしつ》を尊崇《そんしう》したるのみならず、他《た》をして皇室《くわうしつ》を尊崇《そんしう》せしむ可《べ》く努《つと》めた。普天《ふてん》の下《もと》、率土《そつど》の濱《ひん》、皇威《くわうゐ》の及《およ》ばざる所《ところ》なからしむ可《べ》く努《つと》めた。別言《べつげん》すれば、彼《かれ》は朝命《てうめい》の遵奉者《じゆんぽうしや》として、宣傳者《せんでんしや》として、更《さら》に執行者《しつかうしや》として、他《た》の勢力《せいりよく》に臨《のぞ》んだ。彼《かれ》は西《にし》の島津氏《しまづし》に向《むか》つても、東《ひがし》の北條氏《ほうでうし》に向《むか》つても、彼等《かれら》が朝命《てうめい》に奬順《しやうじゆん》せずして、濫《みだ》りに戰伐《せんばつ》を事《こと》とし、地方《ちはう》に割據《かつきよ》し、暴戻《ばうれい》、放恣《はうし》、自《みづか》ら獨立國《どくりつこく》の體《たい》を做《な》しつゝあるを咎《とが》めた。所謂《いはゆ》る名正《なたゞ》しく言順《げんじゆん》とは、此事《このこと》である。
信長《のぶなが》は草創《さう/\》の時代《じだい》に在《あ》つた。彼《かれ》の事業《じげふ》としては、自《みづか》ら王事《わうじ》に勤《つと》め、其《そ》の模範《もはん》を他《た》に示《しめ》すに止《とゞま》つた。秀吉《ひでよし》に至《いた》りては、直《たゞ》ちに自《みづか》ら朝臣《てうしん》の魁《さきがけ》となり、朝威《てうゐ》の權化《ごんげ》となり、朝權《てうけん》の代表者《だいへうしや》となり、朝意《てうい》[#ルビの「てうい」は底本では「てういい」]の實行者《じつかうしや》となつた。信長《のぶなが》は秀吉《ひでよし》に於《おい》て、實《じつ》に其《そ》の出藍《しゆつらん》の門人《もんじん》を見出《みいだ》した。
秀吉《ひでよし》と朝廷《てうてい》の關係《くわんけい》の圓滿《ゑんまん》であつた事《こと》は、彼《かれ》が織田氏《おだし》の將校《しやうかう》として、一|時《じ》京都《きやうと》の衞戍總督《ゑいじゆそうとく》─|永祿《えいろく》十二|年《ねん》、秀吉《ひでよし》三十四|歳《さい》の時《とき》─であつた時《とき》よりの事《こと》と思《おも》はる。山崎合戰以後《やまざきかつせんいご》は既記《きき》の通《とほ》りである。彼《かれ》は皇室《くわうしつ》に對《たい》しては、恒《つね》に其《そ》の誠意《せいい》を表《へう》した。『就中《なかんづく》專[#二]禁中之事[#一]《きんちうのことをもつぱらに》、仰[#二]公卿[#一]《くげをあふぎ》憐[#二]諸臣[#一]《しよしんをあはれみ》、依[#二]其器量[#一]《そのきりやうによりて》、加[#二]増領知[#一]《りやうちをかぞうす》。』〔四國御發向並御動座之事〕[#「〔四國御發向並御動座之事〕」は1段階小さな文字]と、大村由己《おほむらいうき》が特筆《とくひつ》した通《とほ》りであつた。彼《かれ》は皇室《くわうしつ》の供御《くご》を周《あまね》くした。而《しか》して彼《かれ》の官位《くわんゐ》の増進《ぞうしん》と與《とも》に、朝廷《てうてい》の舊儀《きうぎ》も、漸次《ぜんじ》に恢復《くわいふく》せられ、應仁以來《おうにんいらい》式微《しきび》の状態《じやうたい》は、殆《ほとん》ど一|掃《さう》せられた。
當時《たうじ》の皇儲《くわうちよ》、即《すなは》ち正親町天皇《あふぎまちてんわう》第《だい》一の皇子《わうじ》誠仁親王《のぶひとしんわう》と、秀吉《ひでよし》の間柄《あひだがら》が、極《きは》めて親《した》しかつた事《こと》は、彼《かれ》が定家卿《ていかきやう》眞筆《しんぴつ》の古今集《こきんしふ》を献《けん》じて、台感《たいかん》を忝《かたじけな》うした一|事《じ》にても、判知《わか》る。而《しか》して秀吉《ひでよし》は、御讓位《ごじやうゐ》の前提《ぜんてい》として、仙洞御所《せんどうごしよ》を營《いとな》み、前田玄以《まへだげんい》をして、其事《そのこと》を司《つかさど》らしめた。
天正《てんしやう》十四|年《ねん》には、正月《しやうがつ》十四|日《か》、入朝《にふてう》して、正《せい》を賀《が》し、十六|日《にち》には、黄金製《わうごんせい》の家《いへ》を献《けん》じた。天井《てんじやう》、敷居《しきゐ》、障子《しやうじ》の骨等《ほねとう》、唯《たゞ》純金《じゆんきん》にて作《つく》り、臺子《だいす》、風爐釜等《ふろがまとう》、何《いづ》れも同樣《どうやう》にて、猩々緋《せう/″\ひ》を疊《たゝみ》とした。洵《まこと》に結構《けつこう》を極《きは》めたる裝飾物《さうしよくぶつ》であつて、之《これ》を内裡《だいり》の小御所《こごしよ》に措《お》いた。正親町天皇《あふぎまちてんわう》には、皇儲《くわうちよ》誠仁親王以下《のぶひとしんわういか》を具《ぐ》し給《たま》うて臨御《りんぎよ》あり。盃酒《はいしゆ》を捧《さゝ》げ、天顏《てんがん》殊《こと》に麗《うるは》しかつた。
同年《どうねん》二|月《ぐわつ》廿八|日《にち》には、秀吉《ひでよし》復《ま》た入朝《にふてう》して、宛《あたか》も禁苑觀櫻《きんえんくわんおう》の佳期《かき》に會《くわい》した。天皇《てんわう》は權大納言《ごんだいなごん》藤原晴豐《ふぢはらはるとよ》をして、御製《ぎよせい》の和歌《わか》を賜《たま》うた。
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木立《こだち》より色香《いろか》も殘《のこ》る花《はな》ざかり、ちらで雲井《くもゐ》の春《はる》やへぬらむ。
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と。秀吉《ひでよし》も亦《ま》た返歌《へんか》を上《たてまつ 》つた。
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忍《しの》びつゝ|霞《かすみ》とともに眺《なが》めしも、露《あら》はれけりな花《はな》の木《こ》のもと。
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と。如何《いか》に朝廷《てうてい》と秀吉《ひでよし》との間《あひだ》が、接近《せつきん》しつゝあつたかは、此《こ》れにても推察《すゐさつ》せらるゝ。
然《しか》るに天皇《てんわう》は、未《いま》だ御讓位《ごじやうゐ》の機《き》を得給《えたま》はざるに、皇儲《くわうちよ》誠仁親王《のぶひとしんわう》は、同年《どうねん》七|月《ぐわつ》廿四|日《か》急病《きふびやう》にて、薨去《こうきよ》あらせられた。秀吉《ひでよし》は警《けい》を聞《き》いて、上洛《じやうらく》したが、既《すで》に及《およ》ばなかつた。即日《そくじつ》太上天皇《だじやうてんわう》の尊號《そんがう》を賜《たまは》り陽光院《やうくわうゐん》と諡《おくりな》した。而《しか》して誠仁親王《のぶひとしんわう》の御子《おんこ》周仁親王《かねひとしんわう》は、同年《どうねん》九|月《ぐわつ》廿|日《か》、十六|歳《さい》にして、元服《げんぷく》あらせられ、秀吉《ひでよし》は加冠《かくわん》の役《やく》を勤《つと》めた。斯《か》くて十一|月《ぐわつ》七|日《か》には、土御門里内裏《つちみかどさとだいり》[#ルビの「つちみかどさとだいり」は底本では「つちかかどさとだいり」]に於《おい》て、御受禪《ごじゆぜん》あり。同月《どうげつ》廿五|日《にち》、櫻町《さくらまち》の下御所《しもごしよ》より劍璽《けんじ》渡御《とぎよ》せられ、即位《そくゐ》の式《しき》を、紫宸殿《ししんでん》にて行《おこな》はせられた。此《こ》れが御陽成天皇《ごやうぜいてんわう》である。同年《どうねん》十二|月《ぐわつ》十九|日《にち》、秀吉《ひでよし》は太政大臣《だじやうだいじん》の命《めい》を拜《はい》した。〔大臣補任〕[#「〔大臣補任〕」は1段階小さな文字]
吾人《ごじん》は此際《このさい》秀吉《ひでよし》と、朝廷《てうてい》との間《あひだ》に介在《かいざい》して、恒《つね》に周旋《しうせん》の勞《らう》を取《と》りたる、今出川晴季《いまでがははるすゑ》ある事《こと》を忘《わす》れてはならぬ。彼《かれ》は恐《おそ》らくは朝廷向《てうていむ》きに於《お》ける、秀吉《ひでよし》の懷刀《ふところがたな》であつたらう。秀吉《ひでよし》は實《じつ》に隨處《ずゐしよ》に、其《そ》の適材《てきざい》を見出《みいだ》した。此《こ》れも彼《かれ》が、人物《じんぶつ》を使用《しよう》し、駕御《がぎよ》するの道《みち》を解《かい》したからである。

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