高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第三章 秀吉家康の提携[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【七】家康上洛に決す[#中見出し終わり]
測《はか》り難《がた》きは、家康《いへやす》の胸中《きようちう》ぢや。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の妹聟《いもうとむこ》となりつゝ、其《そ》の秀吉《ひでよし》に對《たい》する態度《たいど》は、依然《いぜん》舊時《きうじ》の通《とほ》りであつた。彼《かれ》は少《すこ》しも秀吉《ひでよし》の希望《きばう》を容《い》れて、上洛《じやうらく》す可《べ》き氣色《けしき》なかつた。彼《かれ》は眼中《がんちう》秀吉《ひでよし》無《な》きものゝ|如《ごと》く、勝手《かつて》に振舞《ふるま》うた。是《こ》れ無神經《むしんけい》乎《か》、否《いな》、是《こ》れ自惚《うぬぼれ》乎《か》、否《いな》。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》の何者《なにもの》たるを解《かい》せぬ程《ほど》の、盲者《まうしや》でなかつた。彼《かれ》は又《ま》た己《おのれ》の何物《なにもの》たるを評値《ひやうち》せぬ程《ほど》の、昧者《まいしや》でなかつた。彼《かれ》は已《や》むを得《え》ずんば、尾參《びさん》の野《や》に、秀吉《ひでよし》と一|快戰《くわいせん》を試《こゝろ》む可《べ》しと決心《けつしん》した。三|方原《かたがはら》に於《おい》て、信玄《しんげん》の大軍《たいぐん》を邀撃《えうげき》したる當年《たうねん》の勇氣《ゆうき》は、今《いま》尚《な》ほ當時《たうじ》の如《ごと》しであつた。
然《しか》も上《うへ》には其《その》上《うへ》がある。若《も》し家康《いへやす》を鐵船《てつぶね》とすれば、秀吉《ひでよし》は水《みづ》である。如何《いか》なる頑丈《ぐわんぢやう》なる鐵船《てつぶね》も、水上《すゐじやう》に浮《うか》ばぬ譯《わけ》には參《まゐ》らなかつた。秀吉《ひでよし》が其《その》母《はゝ》を質《ち》として、家康《いへやす》を迎《むか》へた事《こと》には、從來《じゆうらい》の史家《しか》に、頗《すこぶ》る異論《いろん》があつた。併《しか》し秀吉側《ひでよしがは》より云《い》はしむれば、既《すで》に妹《いもうと》を家康《いへやす》に娶《めあは》せたれば、其《その》妹《いもうと》に面會《めんくわい》す可《べ》く、其《その》母《はゝ》を家康《いへやす》の方《はう》に旅行《りよかう》せしむるに、何《なん》の不合理《ふがふり》かある。母子《ぼし》相《あひ》見《み》るは、人倫《じんりん》の常《つね》ではない乎《か》。母《はゝ》が其《その》娘《むすめ》の家《いへ》に行《い》くに、何《なん》の不都合《ふつがふ》ある乎《か》。斯《かゝ》る繩墨《じようぼく》の論《ろん》は姑《しばら》く置《お》き、秀吉《ひでよし》は能《よ》く家康《いへやす》を解《かい》した。家康《いへやす》は決《けつ》して故《ゆゑ》なくして、秀吉《ひでよし》の母《はゝ》を殺《ころ》すが如《ごと》き、沒《ぼつ》分曉漢《ぶんげうかん》でなき事《こと》を解《かい》した。而《しか》して母《はゝ》を質《ち》とするは、遂《つひ》に家康《いへやす》を致《いた》す所以《ゆゑん》たるを解《かい》した。秀吉《ひでよし》は天成《てんせい》の孝子《かうし》であつた。彼《かれ》は決《けつ》して其《そ》の母《はゝ》を犧牲《ぎせい》として顧《かへり》みざる程《ほど》の、殘忍者《ざんにんしや》でなかつた。併《しか》し其《その》母《はゝ》に、大《だい》なる危害《きがい》を冐《おか》さしめざる程度《ていど》に於《おい》ては、天下《てんか》の爲《た》めに、若干《じやくかん》の面倒《めんだう》と、窮屈《きゆうくつ》とを、忍《しの》んで貰《もら》はんとしたのである。
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彦右衞門《ひこうゑもん》(蜂須賀)[#「(蜂須賀)」は1段階小さな文字]被[#レ]申《まをさるゝ》樣《やう》には、こはいかに昔《むかし》が于[#レ]今《いまに》至《いた》るまで、天下人《てんかびと》より其《その》下《した》に人質《ひとじち》を御出《おだ》し候《さふらふ》天下主《てんかぬし》の先例《せんれい》は、未《いま》だ不[#レ]承《うけたまはらず》候《さふらふ》。是《こ》は以《もつて》之《の》外《ほか》のようちに覺《おぼえ》申《まをし》候《さふらふ》と申上《まをしあげ》候《さふら》得《え》ば、秀吉《ひでよし》御返事《ごへんじ》には、各々《おの/\》申上通《まをしあぐるとほり》尤《もつとも》也《なり》。去《さ》りながら秀吉《ひでよし》昔《むかし》が于[#レ]今《いまに》至《いたる》まで、下天《げてん》にも先例《せんれい》なき事《こと》を秀吉《ひでよしが》仕置《しおきて》、日本《にほん》之《の》後記《こうき》に可[#レ]留《とゞむべき》ぞや。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》の氣宇《きう》、世《よ》を蓋《おほ》ひし所以《ゆゑん》の一は、其《そ》の先例《せんれい》を無視《むし》し、我《われ》より古《いにしへ》を作《な》すにあり。此《こ》の調子外《てうしはづ》れの大業《おほわざ》に於《おい》ては、前《まへ》に信長《のぶなが》なく、後《のち》に家康《いへやす》なしと云《い》ふ可《べ》きであらう。
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秀吉《ひでよし》に隨《したが》ふ國《くに》、いまや三十ヶ|國《こく》に及《およ》ぶ也《なり》。家康卿《いへやすきやう》は甲斐國《かひのくに》と四ヶ|國《こく》也《なり》。秀吉《ひでよし》威光《ゐくわう》日《ひ》を追《おう》て募《つの》りなば、この人質《ひとじち》家康《いへやす》請取《うけとり》被[#レ]置《おかれ》候《さふらふ》共《とも》、秀吉《ひでよし》我《われ》に不[#レ]隨《したがはざる》もの、此《この》人質《ひとじち》はた物《もの》にかけ、火《ひ》あぶりにせんなどゝは被[#レ]申《まをされ》間敷《まじき》ぞや。此上《このうへ》は彌《いよ/\》位詰《くらゐづめ》に可[#レ]成《なるべき》なり。右《みぎ》之《の》人質《ひとじち》の合點《がてん》も、家康《いへやす》無[#レ]之《これなく》候《さふら》はゞ、此上《このうへ》の分別《ふんべつ》有[#レ]之《これある》也《なり》。皆々《みな/\》聞《きゝ》候《さふら》へ。家康《いへやす》と和談《わだん》澄《すみ》候《さふら》へば、東國《とうごく》は奧州《あうしう》外《そと》の濱《はま》までも、即時《そくじ》に可[#二]討隨[#一]《うちしたがへべき》者《もの》也《なり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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是《こ》れ實《じつ》に能《よ》く秀吉《ひでよし》の意中《いちう》を、明々地《あからさま》に、描《ゑが》き出《いだ》したものと思《おも》ふ。
秀吉《ひでよし》の身邊《しんぺん》にも、其《そ》の異父弟《いふてい》秀長《ひでなが》の如《ごと》きは、甚《はなは》だ不服《ふふく》を唱《とな》へた。我《わが》母《はゝ》を質《ち》として、他《た》に渡《わた》すは、匹夫《ひつぷ》も耻《は》づる所《ところ》也《なり》。何故《なにゆゑ》に正々堂々《せい/\だう/″\》、上杉《うへすぎ》と諜《しめ》し合《あは》せ、家康《いへやす》を討伐《たうばつ》し給《たま》はざるやと、涙《なみだ》を流《なが》して諫《いさ》めた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》は之《こ》れに答《こた》へて、卿《おんみ》は我《われ》より後《のち》に生《うま》るゝ|間《あひだ》、合點《がてん》あるまじき、我《われ》に任《まか》せよとて、其《その》旨《むね》を家康《いへやす》に申《まを》し通《つう》じた。〔三將御物語覺書〕[#「〔三將御物語覺書〕」は1段階小さな文字]
秀吉《ひでよし》は今度《こんど》九|州《しう》に事《こと》あらんとすれば、是非《ぜひ》對面《たいめん》して、軍議《ぐんぎ》を凝《こら》したし、安心《あんしん》の爲《た》めには、老母《らうば》を其《その》地《ち》に差《さ》し下《くだ》しても苦《くる》しからず、枉《ま》げて上洛《じやうらく》あれと。天正《てんしやう》十四|年《ねん》八|月《ぐわつ》廿六|日《にち》、淺野長政《あさのながまさ》を使《つかひ》として、家康《いへやす》に※[#「ごんべん+念」、29-6]《つ》げた。家康《いへやす》も秀吉《ひでよし》の此《この》言《げん》には、聊《いさゝ》か薄氣味惡《うすきみわる》く感《かん》ぜざるを得《え》なかつた。秀吉《ひでよし》が斯《か》く迄《まで》我《われ》に求《もと》むるに、我《われ》之《これ》を峻拒《しゆんきよ》せば、其《そ》の結果《けつくわ》は如何《いかゞ》であらう乎《か》。我《わが》武《ぶ》を傷《きづゝ》けざるの保障《ほしやう》は、此《これ》にて既《すで》に十|分《ぶん》である。此上《このうへ》行《ゆ》き過《す》ぎると、却《かへつ》て亢龍《かうりゆう》悔《くい》ありの憾《うらみ》を、現出《げんしゆつ》せぬとも限《かぎ》らぬ。果《はた》して然《しか》らば、最早《もはや》此邊《このへん》が恰《あたか》も秀吉《ひでよし》と妥協《だけふ》する、好潮合《かうしほあひ》ではあるまい乎《か》。酒井忠次《さかゐたゞつぐ》を始《はじ》め、參河侍《みかはざむらひ》の衆議《しゆうぎ》は、飽迄《あくまで》も上洛《じやうらく》を不可《ふか》としたけれども、家康《いへやす》は熟圖《じゆくと》の上《うへ》、愈《いよい》よ應諾《おうだく》の返事《へんじ》を與《あた》へた。即《すなは》ち家康《いへやす》は秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、所謂《いはゆ》る位詰《くらゐづめ》にされたのであつた。
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家康上洛の會議
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秀吉於義丸を養君となし、また御妹を濱松へ參らせ玉ひしかば、徳川殿も都に上り給ふべしと議せらる、忠次此事ゆめ/\然るべからず、東西再び軍起るとも、京家の者共が軍、心にくき事候はず、幾度も打破り參らすべし、關白まゐらせ玉はん事、ひらに思召とゞまらせ給ふべきにて候と、言葉を盡して止め申てければ、御一門の人々を先として、譜代相傳の御家人等、みな此議に同ず、徳川殿聞召て、かた/\が申止むる所神妙なり、家康思ふ子細あり、たとへ關白に斯かるゝ事ありとも悔ゆべからず、まづ人の个程までに、我心を取らんには、など其心に替へざらん、且は家康關白と中違うて、東西軍起るとも、かた/\が心を一つになして戰はんに、何程の事かあるべき、さりながら、勝たんと思ふ軍にも負け、負けんと覺ゆる軍にもかつ、勝負かならず定め難きは、凡そ戰のならひなり、抑我朝二百餘年に及んで、四海盡く亂れて、人民一日も安からず、然るに今、世既にやゝ靜ならんとするに臨み、東西又軍起て、月を累ね年を積まば、我國々の事は、扨おきぬ、天下また亂れて、人民悉く亡び失はん事、尤も不便の至りなり、されば罪なうして失はれん者共の爲に家康一人が代て死せん事、なんぼうゆゝしき事ならずや、かた/″\も此旨を存知して、よしなき罪作りせんと思ふべからずと仰ければ、忠次かしこまり、さほどに思召し極められん上、何事をか更に申べき、さらば御上洛あるべしとぞ申ける。〔藩翰譜〕
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[#5字下げ][#中見出し]【八】勝利は何方に歸す可き乎[#中見出し終わり]
徳川時代《とくがはじだい》の史家《しか》は、概《おほむ》ね秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》に致《いた》されたと、判定《はんてい》して居《を》る。一と通《とほ》りの觀察《くわんさつ》では、尤《もつと》もらしい見解《けんかい》ぢや。併《しか》し家康《いへやす》が喰《く》へぬ代物《しろもの》ならば、秀吉《ひでよし》も亦《ま》た喰《く》へぬ代物《しろもの》だ。家康《いへやす》が手取《てど》りならば、秀吉《ひでよし》は猶更《なほさ》ら手取《てど》りだ。秀吉《ひでよし》は百|計《けい》盡《つ》きて、其《そ》の母《はゝ》さへも人質《ひとじち》とした、秀吉《ひでよし》は全《まつた》く行《ゆ》き詰《づま》りであると思《おも》ふは、大《だい》早計《さうけい》の話《はなし》だ。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》を力攻《りよくこう》する能《あた》はざるにあらず、唯《た》だそれが不經濟《ふけいざい》であると云《い》ふ許《ばか》りだ、されば家康《いへやす》が、愈《いよい》よ秀吉《ひでよし》の平和的《へいわてき》解決《かいけつ》に應《おう》ぜぬとあらば、秀吉《ひでよし》にも奧《おく》の手《て》があつた。
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承《うけたまは》り候《さふらふ》衆《しゆう》被[#レ]申《まをさるゝ》は、家康卿《いへやすきやう》人質《ひとじち》の御合點《ごがてん》不[#レ]被[#レ]仕《つかまつられず》候《さふら》はゞ、其上《そのうへ》の御分別《ごふんべつ》と御意《ぎよい》候《さふらふ》は、何《なん》と思召《おぼしめし》候《さふらふ》御分別《ごふんべつ》にて御座《ござ》候《さふらふ》哉《や》と、被[#二]申上[#一]《まをしあげられ》候《さふらふ》處《ところ》に。其《その》儀《ぎ》也《なり》。矢矧川《やはぎがは》を東《ひがし》に當《あたつ》て池鯉鮒《ちりふ》の原《はら》に付城《つけじろ》を三つ普請《ふしん》、逞《たくま》しく丈夫《ぢやうぶ》にすべき也《なり》。是《これ》は家康《いへやす》軍兵《ぐんぴやう》を可[#レ]引出[#一]《ひきいだすべき》ため也《なり》。此時《このとき》家康卿《いへやすきやう》合戰《かつせん》とさだめ被[#レ]出《いでらるゝ》ならば、池鯉鮒《ちりふ》の原《はら》は、よき場《ば》也《なり》。備《そなへ》人數《にんず》何程《なにほど》も可[#レ]立《たつべき》自由《じいう》なる所《ところ》なり。普請《ふしん》かたまり候《さふらは》ば、北《きた》にまはり、秀吉《ひでよし》かねて見置《みおき》候《さふらふ》に、遠州《ゑんしう》に二|股《また》と云《いふ》在所《ざいしよ》あり。それより光明《くわうみやう》、秋葉《あきば》抔《など》と云《いふ》所《ところ》あり。彼《か》の二|股《また》より軍兵《ぐんぴやう》を入《いれ》、天龍《てんりゆう》の川《かは》を東《ひがし》の後《うしろ》に當《あたつ》て陣取《ぢんどり》、丈夫《ぢやうぶ》に普請《ふしん》を固《かた》め、兵粮米《ひやうらうまい》は海上《かいじやう》より付《つけ》させなば、兵粮《ひやうらう》に手《て》をつく事《こと》有《ある》まじき也《なり》。三|河《かは》、遠州《ゑんしう》は百|姓《しやう》ばらこと/″\く一|向宗《かうしう》也《なり》。門跡《もんぜき》より彼《かの》二ヶ|國《こく》の末寺《まつじ》/\えの状《じやう》を取付《とりつけ》、一|揆《き》を起《おこ》させ、何樣《なにやう》にも秀吉《ひでよし》次第《しだい》との状《じやう》を付《つけ》させ、百|姓《しやう》には耕作《かうさく》をさせ、作《つく》り取《ど》りにさすべき也《なり》。其上《そのうへ》少《すこし》も非[#レ]分《ぶんにあらざる》惡《あし》きあてがひ申付《まをしつけ》間敷《まじき》也《なり》。是《これ》にては日數《につすう》も立《たち》可[#レ]申《まをすべく》候《さふらふ》。去《さり》ながら終《つひ》には家康《いへやす》國《くに》の痛《いたみ》に可[#レ]成《なるべき》也《なり》。家康《いへやす》の國《くに》四ヶ|國《こく》を一つに取卷《とりまき》たると同前《どうぜん》ぞや。是《これ》も昔《むかし》が于[#レ]今《いまに》至《いたる》まで四ヶ|國《こく》を籠城《ろうじやう》さする事《こと》、日本《にほん》の後記《こうき》に可[#レ]留《とゞむべき》にてはなきか、如何《いか》に/\との御意《ぎよい》也《なり》。〔川角太閤記〕[#「〔川角太閤記〕」は1段階小さな文字]
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秀吉《ひでよし》が果《はた》して斯《かゝ》る懷抱《くわいはう》を、其《そ》の謀士《ぼうし》等《ら》に漏《もら》した乎《か》、否乎《いなか》は、確《たしか》ではないが、少《すくな》くとも彼《かれ》の胸中《きようちう》には、萬々《まん/\》一|止《や》むを得《え》ざるに於《おい》ては、持久《ぢきう》の長策《ちやうさく》を建《た》て、家康《いへやす》を包圍《はうゐ》し、坐《ゐ》ながら彼《かれ》を困罷《こんひ》、屏息《へいそく》せしむる計畫《けいくわく》が、あつたであらうと思《おも》はるゝ。
野戰《やせん》に於《おい》ては、上方兵《かみがたへい》は、到底《たうてい》家康《いへやす》百|戰《せん》の精兵《せいへい》に敵《てき》す可《べ》くもない。されど秀吉《ひでよし》流儀《りうぎ》に、敵《てき》に接《せつ》して付城《つけじろ》を造《つく》り、ジリ/\と詰《つ》めよせる場合《ばあひ》には、如何《いか》に參河武士《みかはぶし》の勇氣《ゆうき》も、之《これ》を用《もち》ふる所《ところ》がない。而《しか》して秀吉《ひでよし》獨特《どくとく》の調略《てうりやく》を以《もつ》て、煽動《せんどう》するに於《おい》ては、家康《いへやす》の脚下《あしもと》より、地《ぢ》すべりを來《きた》し、所謂《いはゆ》る土崩瓦解《どほうぐわかい》を見《み》るに到《いた》るやも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。
彼《かれ》を知《し》り己《おのれ》を知《し》るに於《おい》て、拔目《ぬけめ》なき家康《いへやす》が、いかでか此《こ》の極所《きよくしよ》に、思《おも》ひ及《およ》ばざる事《こと》ある可《べ》き。されば家康《いへやす》は、今《いま》は思《おも》ひ切《き》り時《どき》と諦《あきら》め、其《そ》の臣下《しんか》等《ら》の反對《はんたい》をも顧《かへり》みず、斷然《だんぜん》秀吉《ひでよし》の希望《きばう》を容《い》れて、大政所《おほまんどころ》の東下《とうか》と與《とも》に、西上《せいじやう》する旨《むね》を決答《けつたう》したのであらう。此《こ》れが家康《いへやす》の北條氏政《ほうでううぢまさ》等《ら》と、其《その》科《しな》を殊《こと》にしたる所以《ゆゑん》である。北條氏政《ほうでううぢまさ》の如《ごと》きは、既《すで》に剛《がう》なる能《あた》はず、又《ま》た柔《じう》なる能《あた》はず、有邪無邪《うやむや》の間《あひだ》に、其《その》機會《きくわい》を失墜《しつつゐ》し、遂《つひ》にみじめなる最後《さいご》を招《まね》いた。然《しか》るに家康《いへやす》に至《いた》りては、剛《がう》なる可《べ》き場合《ばあひ》には、飽迄《あくまで》も剛《がう》にて推《お》し透《とほ》し、柔《じう》なる可《べ》き場合《ばあひ》には、又《ま》た飽迄《あくまで》柔《じう》を徹底《てつてい》し、其《その》局面轉換《きよくめんてんくわん》の鮮《あざや》かなる、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》きものがあつた。
家康《いへやす》の勇氣《ゆうき》は、非常《ひじやう》であつたが、其《そ》の勇氣《ゆうき》を調節《てうせつ》して、之《これ》を濫用《らんよう》せざる妙機《めうき》に至《いた》りては、更《さら》に何人《なんびと》も彼《かれ》に追隨《つゐずゐ》するを許《ゆる》さなかつた。彼《かれ》は實《じつ》に剛《がう》柔《じう》寛《くわん》猛《まう》、兼《か》ね濟《な》したる豪傑《がうけつ》であつた。家康側《いへやすがは》から見《み》れば、固《もと》より秀吉《ひでよし》を致《いた》したと云《い》ふことが可能《かな》ふ。併《しか》し秀吉側《ひでよしがは》から見《み》れば、亦《ま》た家康《いへやす》を致《いた》したと云《い》ふことが可能《かな》ふ。此《こ》の取組《とりくみ》は、先《ま》づ五|分《ぶ》/\と云《い》ふが、公平《こうへい》であらう。
そは兎《と》も角《かく》家康《いへやす》が、秀吉《ひでよし》の一|生《しやう》を通《つう》じて、特殊《とくしゆ》待遇《たいぐう》を享《う》けたるも、畢竟《ひつきやう》此《こ》の鹽辛《しほから》く、腹黒《はらぐろ》く、意地惡《いぢわる》く、腰強《こしつよ》く、即《すなは》ち最後《さいご》迄《まで》踏《ふ》み怺《こら》へたる結果《けつくわ》であるが、秀吉《ひでよし》が爾來《じらい》四|年《ねん》ならずして、全《まつた》く日本全國《にほんぜんこく》を統《とう》一したのも、猛虎《まうこ》を甘《うま》くも檻中《かんちう》に導《みちび》きたる如《ごと》く、家康《いへやす》を懷柔《くわいじう》し得《え》た効果《かうくわ》であつた。
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[#5字下げ][#中見出し]【九】家康の上洛[#中見出し終わり]
家康《いへやす》は愈《いよい》よ上洛《じやうらく》と決《けつ》し、井伊《ゐい》、本多《ほんだ》、榊原《さかきばら》等《ら》より、其《そ》の親族《しんぞく》の人質《ひとじち》を、大阪《おほさか》に送《おく》らしめた。秀吉《ひでよし》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》十|月《ぐわつ》四|日《か》、家康《いへやす》を執奏《しつそう》して權中納言《ごんちうなごん》に進《すゝ》めた。同《どう》十五|日《にち》には、家康《いへやす》濱松《はままつ》より岡崎《をかざき》に赴《おもむ》き、大政所《おほまんどころ》の東下《とうか》を待《ま》ち受《う》けた。大政所《おほまんどころ》は其《その》女《むすめ》に面會《めんくわい》と稱《しよう》して、十|月《ぐわつ》十|日《か》大阪《おほさか》を發《はつ》し、十八|日《にち》岡崎《をかざき》に著《ちやく》し、家康《いへやす》夫婦《ふうふ》と會見《くわいけん》した。家康《いへやす》の臣下《しんか》には、大政所《おほまんどころ》が、或《あるひ》は替人《かへびと》にてはなき乎《か》と、疑《うたが》うた輩《やから》もあつたが、其《そ》の輿《こし》を下《お》りるや否《いな》や、朝日姫《あさひひめ》と相《あひ》擁《よう》して、互《たが》ひに涙《なみだ》に咽《むせ》びたるを見《み》て、扨《さて》は眞《しん》の母子《おやこ》であると安心《あんしん》した。參河武士《みかはぶし》には、未《いま》だ田舍漢《でんしやかん》たる臭味《くさみ》が、充滿《じゆうまん》して居《ゐ》た。
家康《いへやす》は井伊直政《ゐいなほまさ》、大久保忠世《おほくぼたゞよ》、本多重次《ほんだしげつぐ》等《ら》をして、岡崎城《をかざきじやう》を守《まも》らしめ、以《もつ》て大政所《おほまんどころ》を監護《かんご》せしめ。同月《どうげつ》二十|日《か》、酒井忠次《さかゐたゞつぐ》、本多忠勝《ほんだたゞかつ》、榊原康政《さかきばらやすまさ》等《ら》を率《ひき》ゐて西上《さいじやう》し、廿六|日《にち》大阪《おほさか》に著《ちやく》し、秀長《ひでなが》の邸《やしろ》に入《はひ》つた。
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廿四|日《か》家康《いへやす》六|萬騎《まんき》程《ほど》にて在京《ざいきやう》、明日《みやうにち》廿六|日《にち》大阪《おほさか》へ被[#レ]越《こさるゝに》付《つき》、|於[#二]宰相殿(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]宿所[#一]《さいしやうどのしゆくしよにおいて》、爲[#レ]翫《なぐさみのため》藝能《げいのう》可[#レ]有[#レ]之《これあるべし》とて、神人《しんじん》並《ならびに》猿樂衆《さるがくしゆう》被[#二]召寄[#一]《めしよせられ》、方々《はう/″\》より盃臺《さかづきだい》以下《いかを》遣《つかはし》、寺門《じもん》よりもみぞれ酒《ざけ》五|荷《か》、盃臺《さかづきだい》以下《いか》承仕使《しようじつかひ》にて被[#レ]遣《つかはされ》了《をはんぬ》と。
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此《こ》れは多聞院日記《たもんゐんにつき》の一|節《せつ》である。六|萬騎《まんき》とは、頗《すこぶ》る仰山《ぎやうさん》の話《はなし》であるが、如何《いか》に家康《いへやす》の上洛《じやうらく》が、當時《たうじ》近畿《きんき》の人心《じんしん》に影響《えいきやう》を與《あた》へたるかゞ、想《おも》ひやらるゝ。
何事《なにごと》にも先手《せんて》を打《う》つ秀吉《ひでよし》は、家康《いへやす》の到著《たうちやく》の夜《よ》、卒然《そつぜん》として非公式的《ひこうしきてき》に、彼《かれ》を其《そ》の寓所《ぐうしよ》に訪問《はうもん》した。
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直《たゞち》に神君《しんくん》の御手《おて》をとり、今度《このたび》御上洛《ごじやうらく》有《あつ》て、秀吉《ひでよし》に天下《てんか》を取《と》らせ下《くだ》され、忝《かたじけ》なしと御手《おんて》をいたゞき、長篠《ながしの》以來《いらい》十二|年目《ねんめ》にて、對面《たいめん》せしとて、悦《よろこび》大方《おほかた》ならず。持參《ぢさん》の行厨《かうち》取出《とりいだ》し、酒肴《しゆかう》自分《じぶん》試《こゝろみ》て參《まゐ》らせ、其後《そのご》御耳《おんみゝ》に口《くち》よせ、さゝやき給《たま》ふは、秀吉《ひでよし》今《いま》官位《くわんゐ》人臣《じんしん》を極《きは》め、天下《てんか》兵馬《へいば》の權《けん》を主宰《しゆさい》し、四|海《かい》の豪傑《がうけつ》半《なかば》に過《すぎ》て、旗下《きか》に屬《ぞく》すといへども、兼々《かね/″\》徳川殿《とくがはどの》御存《ごぞんじ》の如《ごと》く、秀吉《ひでよし》其昔《そのむかし》奴僕《ぬぼく》より出身《しゆつしん》し、織田殿《おだどの》に取立《とりたて》られ、今《いま》此身《このみ》に至《いた》るとは皆《みな》知《し》る所《ところ》なり。被官《ひくわん》共《ども》も皆《みな》昔《むかし》の同僚《どうれう》傍輩《はうばい》共《ども》なり。故《ゆゑ》に實々《じつ/″\》主君《しゆくん》と敬《うやま》う心《こゝろ》なし。近日《きんじつ》諸大名《しよだいみやう》集會《しふくわい》の所《ところ》にて、對面《たいめん》すべし。其時《そのとき》如何《いか》にも秀吉《ひでよし》諸人《しよにん》尊敬《そんけい》せん樣《やう》に、御慇懃《ごいんぎん》禮儀《れいぎ》をなして給《たま》ふべし。我《われ》は頗《すこぶ》る尊大《そんだい》の體《れい》をなすべし。此事《このこと》ひたすら頼《たの》み奉《たてまつ》ると、御背《おんせ》をたゝき給《たま》へば、神君《しんくん》聞召《きこしめし》、既《すで》に御妹《おんいもうと》に添參《そひまゐ》らせ、またかく上洛《じやうらく》いたす上《うへ》は、兎《と》も角《かく》も御爲《おんため》よきにはからひ申《まをす》べし。殊更《ことさら》懇《ねんごろ》の御詞《おことば》を蒙《かうむ》り、いかで違背仕《ゐはいつかまつ》らんと御返答《ごへんたう》ましませば、關白《くわんぱく》大《おほい》に悦《よろこ》び歸《かへ》り給《たま》ふ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》れは其場《そのば》の光景《くわうけい》を實見《じつけん》した樣《やう》な話《はなし》であるが、恐《おそ》らくは中《あた》らずと雖《いへど》も、遠《とほ》からずであらう。現《げん》に參州《さんしう》深溝城主《ふかみぞじやうしゆ》松平家忠《まつだひらいへたゞ》の日記《につき》にも、
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晦日《みそか》(天正十四年十月)[#「(天正十四年十月)」は1段階小さな文字]殿樣《とのさま》(家康)[#「(家康)」は1段階小さな文字]去《さ》る廿六|日《にち》に大坂《おほさか》へ御著《ごちやく》被[#レ]成《なされ》候《さふらふ》。御宿《おやど》は美濃守《みのゝかみ》也《なり》。(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]明《みやう》二十七|日《にち》關白樣《くわんぱくさま》より御對面《ごたいめん》可[#レ]被[#レ]成《なさるべく》候《さふらふ》處《ところ》、秀吉《ひでよし》待《まち》かね被[#レ]成《なされ》其夜《そのよ》御宿《おやど》へ御越《おんこし》、殿樣《とのさまの》御手《おて》を取《と》らせられ候《さふらう》て、奧《おく》の御座敷《おざしき》へ被[#レ]成[#二]御座[#一]《ござなされ》、御存分《ごぞんぶんに》被[#レ]仰《おほせられ》、御入魂共《ごじゆこんとも》中々《なか/\》無[#二]申計[#一]《まをすばかりなく》候《さふらふ》。則《すなはち》御酒《おさか》もりに被[#レ]成《なされ》、關白樣《くわんぱくさま》御酌《おんしやく》にて御盃《おさかづき》を殿樣《とのさま》へ被[#レ]進《すゝめられ》候《さふらふ》。又《また》御酌《おしやく》を殿樣《とのさま》とらせられ候《さふらう》て、關白樣《くわんぱくさま》へ被[#レ]進《すゝめられ》候《さふらふ》事《こと》、・・・・・・|岡崎《をかざき》より御注進《ごちゆうしんに》候《さふらふ》。
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とある。兩雄《りやうゆう》交驩《かうくわん》の模樣《もやう》は、蚤《はや》くも岡崎《をかざき》に達《たつ》し、岡崎《をかざき》よりして、諸方《しよはう》に通達《つうたつ》せられた事《こと》と思《おも》はる。此《こ》れにては、是迄《これまで》氣《き》を張《は》り詰《つ》めたる參河武士《みかはぶし》も、聊《いさゝ》か氣脱《きぬ》けの風情《ふぜい》であつたらう。
秀吉《ひでよし》の大度量《だいどりやう》は、其《そ》の無頓著《むとんちやく》にあつた。其《そ》の眞率《しんそつ》にあつた。其《そ》の赤裸々《せきらゝ》にあつた。斯《か》く迄《まで》思《おも》ひ切《き》つて、打《う》ち明《あ》け話《ばなし》を持《も》ち掛《か》けられては、流石《さすが》の家康《いへやす》も、首《くび》を横《よこ》に掉《ふ》る譯《わけ》には參《まゐ》るまい。まして彼《かれ》も天下《てんか》の大勢《たいせい》は、既《すで》に秀吉《ひでよし》に歸《き》しつゝあると知《し》つて居《を》る。彼《かれ》は決《けつ》して此《こ》の大勢《たいせい》に、反抗《はんかう》せんとするが如《ごと》き、無分別者《むふんべつもの》ではなかつた。但《た》だ十二|分《ぶん》の地歩《ちほ》を占《し》めて、此《この》大勢《たいせい》に順應《じゆんおう》せんとした迄《まで》であつた。今《いま》や即《すなは》ち順應《じゆんおう》す可《べ》き時節《じせつ》が到來《たうらい》したのだ。彼《かれ》は既《すで》に強項《きやうかう》を以《もつ》て、其《そ》の秀吉《ひでよし》より取《と》る可《べ》き總《すべ》てを取《と》つた。彼《かれ》は此《これ》よりして、恭順《きうじゆん》を以《もつ》て、其《そ》の秀吉《ひでよし》に與《あた》ふ可《べ》き、多《おほ》くを與《あた》へねばならぬ。而《しか》して此《こ》の與《あた》ふる事《こと》が、他日《たじつ》に於《おい》て彼《かれ》の取《と》りとなる事《こと》は、家康《いへやす》は固《もと》より覺悟《かくご》の前《まへ》であつた。
同夜《どうや》秀長《ひでなが》の邸《やしき》にて、雨戸《あまど》を繰《く》る音《おと》を聞《き》き、家康《いへやす》の從者《じゆうしや》等《ら》は、扨《さて》こそ大事《だいじ》と驚《おどろ》いたが、富田知信《とみたとものぶ》が、其《そ》の事由《じいう》を辨《べん》じたから、彼等《かれら》も稍※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》安心《あんしん》した。此《こ》れは當時《たうじ》關東《くわんとう》の家《いへ》には、未《いま》だ雨戸《あまど》の設《まうけ》がなかつたからだ。〔秀吉譜〕[#「〔秀吉譜〕」は1段階小さな文字]
此《こ》の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さふわ》は、田舍武士《ゐなかぶし》の面目《めんもく》、丸出《まるだ》しではない乎《か》。家康《いへやす》の強項《きやうかう》なるを得《え》たる所以《ゆゑん》は、固《もと》より此《こ》の武士《ぶし》あるが爲《た》めであつた。併《しか》し其《そ》の秀吉《ひでよし》と與《とも》に、天下《てんか》を爭《あらそ》ふ能《あた》はざる所以《ゆゑん》も亦《ま》た、或《あるひ》は此《こゝ》に存《そん》したであらう。
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[#6字下げ]神君上洛
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神君御手筆の御書簡を以て、九月中には御上洛有へき旨仰遣はさる、關白悦斜ならず、十月四日關白の執奏にて、神君を權中納言にあけ給ふ、十五日には神君岡崎に渡らせ給ひ、大政所の下向を待せらる、大政所池鯉鮒に着せ給ふ十八日也、松平主殿助家忠御迎に參る、廿日岡崎城に着給ふ、此時本多左衞門重次神君に申けるは、京都には内裏上臈の老たる者、あまたありと聞ゆ、秀吉殿樣たばからんと思ひ、何方より老婆を大政所にこしらへて、越れたりしもしるべからず、爰は大切の御分別所に候と諫奉る、神君尤なり然らば北方をむかへか逢せ申へしと仰らる、北方には五六日も過て御對面有へしと、兼て定め給ひしか、早々岡崎へ御越有て、御母子御對面有へしと仰遣さる、北方いそかせ給へとも、御支度にひまとり、廿日の夕方に岡崎へわたらせ給へば、大政所かくと聞給ひ、御輿の戸あくるをまちかね給ひ、北の方御輿よりおり給ふと、其儘抱付て御母子とも涙を流し給ふ、是を見る女房達御母子の御心のうち思ひやられ、涙に咽はさる者なし、皆々是を聞傳へて、始て安心す、神君は廿一日岡崎を御發輿あり、今朝大政所に見え給ひ、井伊直政、本多重次に大政所を懇に守護し奉るべしと命せられ、今晩吉田に御泊り有、井伊直政一人を召て、ひそかに仰下されしは、今度信雄、丹羽五郎左衞門、蒲生飛騨守、堀久太郎、長谷川藤五郎、織田源五郎等、内々我等に一味の誓紙を送るといへとも、それに心ゆるす我にはあらず、今度京にて、秀吉表裏のふるまひあらば、我は早々京都に於て東山へ取籠るへし、秀吉急に寄來る事叶ふまじ、遲くとも三日の間には濱松へ聞ゆへし、其時は汝か屬兵一萬餘人廿備とし、酒井、榊原か殘し置備、その外松平一族御旗本備ともに廿備とし、尾州佐夜を廻り、千種越近江の日野より瀬田へ出て、一概に押破り八坂の邊に屯し、酒井か屬兵一萬餘、如意か獄北長良山へおしのぼせば、秀吉もたまらで大坂へ逃行べし、其時追討する程ならば、秀吉に桂川を越させまじと御諚尤隱密なり。[#割り注]柏崎物語閑談[#割り注終わり]濱松御留守は石川日向守命ぜらる、廿二日は熱田、廿三日は勢州四日市、廿四日關の地藏、廿五日土山、廿六日石部、廿七日御入洛、驛々に米殼魚鳥の設け、道路橋梁の灑掃、みな關白より令せられ、御旅館上下の饗應、尤華美を極めたり。〔改正參河後風土記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【一〇】兩雄の會見[#中見出し終わり]
案《あん》ずるよりも産《う》むが易《やす》いとは、兩雄《りやうゆう》會見後《くわいけんご》の状態《じやうたい》だ。彼等《かれら》が會見《くわいけん》する迄《まで》は、互《たが》ひに趣向《しゆかう》を凝《こら》して、註文《ちゆうもん》を附《つ》け、頗《すこぶ》る面倒《めんだう》であつたが、いざ會見《くわいけん》となれば、それからの事《こと》は、何《なん》の造作《ざうさ》もなく、さら/\と運《はこ》んだ。
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廿七|日《にち》、大神君《だいしんくん》大阪《おほさか》の城《しろ》に渡御《とぎよ》あり。秀吉《ひでよし》庭上《ていじやう》に迎《むか》へ奉《たてまつ》る。尾州《びしう》の内府《ないふ》信雄《のぶを》同《おな》しく城《しろ》に登《のぼ》る。大神君《だいしんくん》信雄《のぶを》に禮《れい》有《あつ》て先《さ》きに行給《ゆきたま》はず、信雄《のぶを》辭《じ》して歩《あゆ》まず、秀吉《ひでよし》大神君《だいしんくん》の御手《おて》を執《とつ》て、信雄《のぶを》より先《さき》に大神君《だいしんくん》を請《せう》じ入《い》れ奉《たてまつ》る。大神君《だいしんくん》の家臣等《けしんら》、秀吉《ひでよし》の旨《むね》をうけて皆《みな》室内《しつない》に入《い》る。秀吉《ひでよし》の臣《しん》は敢《あへ》て入《い》る事《こと》を得《え》ず。〔増補家忠日記〕[#「〔増補家忠日記〕」は1段階小さな文字]
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此《これ》にて家康《いへやす》の位置《ゐち》は定《さだま》つた。彼《かれ》は秀吉《ひでよし》一|人《にん》を除《のぞ》けば、何者《なにもの》も彼《かれ》に先《さきん》ずること能《あた》はざる位置《ゐち》を取得《しゆとく》した。天下《てんか》の英雄《えいゆう》は、使君《しくん》と予《われ》とのみは、秀吉《ひでよし》の識認《しきにん》したる所《ところ》であつた。而《しか》して家康《いへやす》も亦《ま》た、恰《あたか》も二十|年間《ねんかん》、秀吉《ひでよし》の與國《よこく》となりて、信長《のぶなが》の爲《た》めに働《はたら》きたる如《ごと》く、此《こ》れよりして秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》となつて、秀吉《ひでよし》の爲《た》めに盡《つく》した。彼等《かれら》が公式《こうしき》の會見《くわいけん》の模樣《もやう》は、恰《あたか》も秀吉《ひでよし》の註文通《ちゆうもんどほ》りに擧行《きよかう》せられた。
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關白《くわんぱく》は上段《じやうだん》に坐《ざ》し給《たま》ふ。新庄駿河守直寄《しんじやうするがのかみなほより》披露《ひろう》して、神君《しんくん》より御太刀《おんたち》一|振《ふり》[#割り注]蒔繪[#割り注終わり]、御馬《おうま》十|疋《ぴき》、黄金《わうごん》百|枚《まい》進《しん》ぜらる。兼《かね》て約《やく》し給《たま》ふ如《ごと》く、神君《しんくん》いかにも敬屈《けいくつ》して、禮《れい》を厚《あつ》く拜《はい》させ給《たま》ふ。諸大名《しよだいみやう》是《これ》を見《み》て、大政所《おほまんどころ》質《ち》に取《とり》て上洛《じやうらく》ありし徳川家《とくがはけ》さへ、斯《か》く敬禮《けいれい》を盡《つく》し給《たま》へば、秀吉公《ひでよしこう》實《じつ》に天下《てんか》の主也《しゆなり》と思《おも》ひ、是《これ》より關白《くわんぱく》を實《じつ》に敬《けい》する事《こと》、是迄《これまで》に倍《ばい》せりとぞ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
秀吉《ひでよし》が手《て》を代《か》へ品《しな》を換《か》へ、家康《いへやす》を幕下《ばくか》に致《いた》さんとしたるは、家康《いへやす》一|個《こ》の爲《た》めにあらず、家康《いへやす》を囮《をとり》として、天下《てんか》の群雄《ぐんゆう》を籠絡《ろうらく》せんが爲《た》めであつた。此《こ》の目的《もくてき》を達《たつ》する代價《だいか》としては、如何《いか》なる物《もの》を以《もつ》てするも、廉價《れんか》である。秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》を待《ま》つに、慇懃《いんぎん》、懇款《こんくわん》を極《きは》めたのも、決《けつ》して偶然《ぐうぜん》でない。而《しか》して此《こ》の厚遇優待《こうぐういうたい》は、家康《いへやす》一|個《こ》のみならず、併《あは》せて其《そ》の周邊《しうへん》の參河武士等《みかはぶしら》をも、滿足《まんぞく》、隨喜《ずゐき》せしめた。
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三|日《か》(天正十四年十一月)[#「(天正十四年十一月)」は1段階小さな文字]大坂《おほさか》へ遣《つかは》したる飛脚《ひきやく》歸候《かへりさふらふ》。彌《いよ/\》御仕合能候《おんしあはせよくさふらう》て、御能《おのう》も候由候《さふらふよしにさふらふ》。〔家忠日記〕[#「〔家忠日記〕」は1段階小さな文字]
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從來《じゆうらい》今川氏《いまがはし》より虐役《ぎやくえき》せられ、武田氏《たけだし》より壓迫《あつぱく》せられ、織田氏《おだし》より驅使《くし》せられ、是《こ》れが爲《た》めに根性《こんじやう》も硬《かた》くなり、僻《ひが》み來《きた》りたる參河武士等《みかはぶしら》も、今《いま》や春風春水《しゆんぷうしゆんすゐ》、一|時《じ》に來《きた》りたる感《かん》をなしたであらう。秀吉《ひでよし》は家康《いへやす》に酬《むく》ゆるに、白雲茶壺《しらくものちやつぼ》、政宗短刀《まさむねたんたう》、三|好郷《よしがう》の刀《かたな》、巣大鷹《すおほたか》、唐草《からくさ》の羽織《はおり》〔家忠日記〕[#「〔家忠日記〕」は1段階小さな文字]等《とう》を以《もつ》てした。而《しか》して此《こ》の羽織《はおり》に就《ちい》ては、尚《な》ほ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話《さうわ》があつた。即《すなは》ち秀長《ひでなが》、及《およ》び淺野長政等《なあさのがまさら》が、竊《ひそか》に意《い》を家康《いへやす》に通《つう》じ、稠人廣座《ちうじんくわうざ》の裡《うち》に於《おい》て、家康《いへやす》をして秀吉《ひでよし》に請《こ》はしめたと云《い》ふことぢや。
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關白《くわんぱく》赤地《あかぢ》に桐唐草《きりからくさ》を縫《ぬひ》たる陣羽織《ぢんばおり》を著《ちやく》して出《いで》らる。諸大名《しよだいみやう》皆《みな》側《そば》に侍坐《じざ》しけるを御覽《ごらん》じ、其《その》御羽織《おはおり》を拜領《はいりやう》せんと仰《おほせ》らる。關白《くわんぱく》是《これ》は我等《われら》軍用《ぐんよう》の品《しな》なりと宣《のたま》へば、家康《いへやす》かくて侍《はべ》れば、今《いま》より殿下《でんか》に甲冑《かつちゆう》は著《き》せ申《まをす》まじきと仰《おほせ》らる。此《こゝ》に於《おい》て關白《くわんぱく》機嫌斜《きげんなゝめ》ならず、秀吉《ひでよし》果報《くわはう》もの也《なり》。よき聟《むこ》を取《とつ》て、我等《われら》に軍《いくさ》はさせまじと申《まを》さるぞと宣《のたま》ひ、陣羽織《ぢんばおり》を脱《ぬぎ》て、神君《しんくん》に着《き》せ給《たま》ふ。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
[#ここで字下げ終わり]
狂言《きやうげん》は甘《うま》く中《あた》つた。
十一|月《ぐわつ》一日《ついたち》には、家康《いへやす》京都《きやうと》に入《い》り、五|日《ひ》には正《しやう》三|位《み》に叙《じよ》した。而《しか》して聚樂附近《じゆらくふきん》に第《てい》を營《いとな》ましめ、秀長《ひでなが》の長臣《ちやうしん》藤堂高虎《とうだうたかとら》をして、其事《そのこと》を監《かん》せしめた。而《しか》して近江《あふみ》守山附近《もりやまふきん》に於《おい》て、湯沐《たうもく》の邑《いふ》として、三|萬石《まんごく》を賜《たま》うた。其《そ》の從行《じゆうかう》の臣《しん》、忠勝《たゞかつ》、康政等《やすまさら》、何《いづ》れも從《じゆ》五|位下《ゐげ》に叙《じよ》し、十一|月《ぐわつ》十一|日《にち》には、無事《ぶじ》岡崎《をかざき》に歸著《きちやく》し。翌日《よくじつ》井伊直政《ゐいなほまさ》は、大政所《おほまんどころ》を護《ご》して、上方《かみがた》に向《むか》ひ、十八|日《にち》には著京《ちやくきやう》した。此《かく》の如《ごと》くして秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》との會見《くわいけん》は、好首尾《かうしゆび》に了《をは》つた。而《しか》して其《そ》の効果《かうくわ》は、双方《さうはう》の互《たがひ》に滿足《まんぞく》する所《ところ》を齎《もたら》した。
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[#6字下げ]家康大政所各歸る
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かくて、供奉の輩を叙爵せらる、酒井左衞門尉は譽の名なれば、從五位下に叙しても名は改めず、本多平八郎は中務大輔、榊原小平太は式部大輔、阿部善右衞門は伊豫守、永井傳八郎は右近大夫、内藤新五、都築與左衞門は布衣の侍となる、此後は度々上洛有べきため、聚樂近邊に第宅を營造せらるべしとて、秀長卿の家司藤堂與右衞門高虎奉行し造營す、徳川家より伊吹一右衞門を留勤番せしめらる、又近江の守山にて、馬草場十萬石參ら有んと有しを、固く辭し給ひ、三萬石受取給ふ、左衞門尉にも櫻屋敷を賜り、馬草料をも授らる、さて大政所も御對面をいそかせ給へば、徳川家には早く御下向有べし、且大政所御歸洛あらん時、井伊直政を付たまふべしと仰せられ、御暇乞濟ければ、十一月五日京都を出給ふ、この日又正三位にのぼせ給ふ、十一日參州岡崎へ御歸城ましませば、御家人は申に及ばす、百姓町人まて悦ぶ事限なし、是より先岡崎にては神君御上洛の後、大政所住せ給ふ御殿の四方に、山の如く柴薪を積重ねたり、大政所に付添し女房ども大に驚き、これはそも何故ならんと不審する所に、井伊[#「井伊」は底本では「伊井」]直政參りければ、女房達あの薪は何のため、かくおびたゞしく積れたるそと問に、直政某は會てしらざる事と答ふ、其後も直政は毎度大政所の御機嫌をうかがひ、御菓子御肴なと時々進らすれば、大政所をはじめ女房達も皆井伊殿/\と奔走す、本多作左衞門は女房達へ詞をかけし事もなく、荒々しくのみ振舞しが、此の薪積置しは京都にて秀吉公あしき擧動ありと問へば、忽に此薪に火を放て大政所をはじめ惣女中みな燒殺さんとの、作左衞門か斗策なりと聞て、大政所をはじめ女房達本多を惡鬼の如く思ひ、胸をひやし作左衞門を憎みけり、神君御歸國ありければ、大政所をもさま/\饗し給ひ、都へ歸らせらる、御送は殿下望の如く井伊直政ぞ參りたり、十八日に大政所歸路まします、秀吉公悦給ひ、熱田まて御迎に參り給ひ、久しき覊旅の勞を慰め給ふ、大政所は岡崎に有し間、井伊と本多作左衞門兩人、彼等に付添守護しつるが、直政は年若けれとも情深き人にて、おり/\彼等か機嫌をもとひ、うさをもなぐさめ、時々のくだもの肴なとも進らせて懇なる事どもなりき、作左衞門とかいふあらけなき田舍侍が、情なきふるまひし、我住所廻りに柴をやまの如く積置て、都にて不慮の事もあれは、この柴に火を放つて、我等はじめ我召連れし女房等、一々に燒殺さんと用意し、日夜に高聲して番人共油斷すなと詈り立うとましさおそろしれし女房等、一々に燒殺さんと用意し、日夜に高聲して番人共油斷すなと詈り立うとましさおそろしさ、命ありとも思はざりしと恨かこち給ふ、關白いつにかはらぬ三河武士か忠義かなと感ぜられ、さて井伊はいづこにかと宣へば、直政出て拜しけるに、いくつになるぞと問せ給ふ、廿六歳と答ふ、關白問給ひ、徳川がよく/\見所ありと見えて、我等か母へ年若な其方を付置れた、長久手にて赤鬼とよばれたる萬千代な、さあ/\上京せよと仰られ、關白は大政所打つれて聚樂へ歸り給ふ。〔改正參河後風土記〕
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[#5字下げ][#中見出し]【一一】家康始めて中央の舞臺に出づ[#中見出し終わり]
家康《いへやす》も秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》し、中央舞臺《ちうあうぶたい》に乘《の》り出《いだ》す迄《まで》は、田舍漢《でんしやかん》の雄《ゆう》たるに過《す》ぎなかつた。況《いはん》や彼《かれ》の下《もと》なる參河武士《みかはぶし》をやだ。當時《たうじ》中央《ちうあう》と、地方《ちはう》との、時務的《じむてき》知識《ちしき》の懸隔《けんかく》は實《じつ》に非常《ひじやう》であつた。
北條氏《ほうでうし》の如《ごと》きは、全《まつた》く時勢後《じせいおく》れの爲《た》めに、自滅《じめつ》した。彼等《かれら》は時勢《じせい》を解《かい》せざるが如《ごと》く、時勢《じせい》の好運兒《かううんじ》たる秀吉《ひでよし》をも、解《かい》し得《え》なかつた。否《い》な、自家《じか》と姻戚《いんせき》の關係《くわんけい》ある家康《いへやす》さへも、解《かい》し得《え》なかつた。
家康《いへやす》が北條父子《ほうでうふし》と、黄瀬川《きせがは》に會見《くわいけん》したる際《さい》の如《ごと》きは、北條《ほうでう》の君臣《くんしん》にして、若《も》し時務《じむ》に通《つう》ぜば、是《こ》れ眉《まゆ》に唾《つば》す可《べ》き、政局變轉《せいきよくへんてん》の機《き》であると覺《さと》らねばならぬ。然《しか》るに彼等《かれら》は、家康《いへやす》の屈敬《くつけい》を、眞面目《まじめ》に受取《うけと》り、家康《いへやす》が自然居士《じねんこじ》の曲《くせ》を舞《ま》ひ、『黄帝《くわうてい》の臣《しん》に貨狄《くわてき》と云《い》へる士卒《しそつ》』と謠《うた》ふや。北條《ほうでう》の老臣《らうしん》松田《まつだ》、大道寺等《だいだうじら》同音《どうおん》に、徳川殿《とくがはどの》は、當家《たうけ》の臣下《しんか》となられたと囃《はや》し、氏政《うじまさ》も亦《ま》た、笑壺《えつぼ》に入《い》つたと云《い》ふ事《こと》ぢや。〔駿河土産〕[#「〔駿河土産〕」は1段階小さな文字]
併《しか》し時務《じむ》に昧《くら》き點《てん》に於《おい》ては、北條《こうでう》の臣下《しんか》も、徳川《とくがは》の臣下《しんか》も、五十|歩《ぽ》、百|歩《ぽ》であつた。但《た》だ徳川《とくがは》の臣下《しんか》は、何《いづ》れも創業《さうげふ》の氣分《きぶん》に饒《と》み、北條《ほうでう》の臣下《しんか》は、何《いづ》れも潰蕩《くわいとう》の空氣《くうき》が漂《たゞよ》うた丈《だけ》の相違《さうゐ》だ。而《しか》して更《さら》に大《だい》なる相違《さうゐ》は、主將《しゆしやう》たる家康《いへやす》と、氏政《うぢまさ》、氏直父子《うぢなほふし》との懸隔《けんかく》であつた。併《しか》し、その家康《いへやす》さへも、秀吉《ひでよし》の垢拔《あかぬ》けしたる外交《ぐわいかう》に比《ひ》すれば、何處《どこ》やら粘皮《ねんぴ》の點《てん》が無《な》いでもなかつた。況《いはん》や其《そ》の臣下《しんか》に於《おい》てをやだ。
參河武士《みかはぶし》には、二|個《こ》の缺點《けつてん》があつた。其《その》一は田舍臭味《ゐなかしうみ》であり、其《その》二は繼兒根性《まゝここんじやう》であつた。田舍臭味《ゐなかしうみ》は、自餘《じよ》の國侍《くにざむらひ》と共通《きようつう》であつたが、繼兒根性《まゝここんじやう》は、參河武士《みかはぶし》特有《とくいう》と云《い》うてもよからう。そは彼等《かれら》の境遇《きやうぐう》が然《しか》らしめたのぢや。即《すなは》ち今川《いまがは》に致《いた》され、武田《たけだ》に致《いた》され、織田《おだ》に致《いた》され、小《せう》を以《もつ》て大《だい》に役《えき》せられざれば、小《せう》を以《もつ》て大《だい》に敵《てき》し、未《いま》だ嘗《かつ》て一|日《にち》の安《やす》きを得《え》なかつた結果《けつくわ》は、彼等《かれら》をして片意地者《かたいぢもの》たらしめた。
田舍漢《でんしやかん》は本來《ほんらい》固陋《ころう》である。それに他《た》より※[#「にんべん+福のつくり」、第4水準2-1-70]仄《ひよくそく》せられたる彼等《かれら》は、滿腔《まんこう》唯《た》だ敵慨心《てきがいしん》のみとなつた。觀察《くわんさつ》の方面《はうめん》を改《あらた》めて云《い》へば、二|個《こ》の缺點《けつてん》は、宛《あたか》も亦《ま》た彼等《かれら》の強點《きやうてん》であつた。要《えう》するに彼等《かれら》は、亭々《てい/\》たる※[#「さんずい+嫺のつくり」、48-9]畔《かんぱん》の松《まつ》ではなかつたが、日《ひ》となく、夜《よ》となく、潮風《しほかぜ》に吹《ふ》かれ、波濤《はたう》に叩《たゝ》かれたる海濱《かいひん》の松《まつ》にて、屈曲《くつきよく》したる幹枝《かんし》と、根柢《こんてい》とは、何者《なにもの》も折《を》る能《あた》はず、拔《ぬ》く可《べ》からざるものたらしめた。此《かく》の如《ごと》き片意地《かたいぢ》にして、向《むか》ふ見《み》ずの臣下《しんか》を率《ひき》ゐたればこそ、家康《いへやす》も海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》たる名《な》を、天下《てんか》に博《はく》したのである。
併《しか》し彼等《かれら》と與《とも》に、一|地方《ちはう》に龍蟠《りゆうばん》、虎踞《こきよ》するには、或《あるひ》は餘《あま》りありとも云《い》ふ可《べ》けれ、天下《てんか》を取《と》るには、頗《すこぶ》る物足《ものた》らぬ憾《うらみ》がある。家康《いへやす》が秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》したのは、何《なん》となく蛹蟲《さなぎ》が繭《まゆ》を破《やぶ》りて、蛾《が》となつた状《じやう》がある。即《すなは》ち地方的《ちはうてき》霸者《はしや》より、天下《てんか》の大舞臺《だいぶたい》に乘出《のりだ》さしめたものだ。而《しか》して參河武士《みかはぶし》に中《なか》にも、間々《まゝ》或《あるひ》は其《そ》の主人《しゆじん》の後《あと》を趁《お》うて、追々《おひ/\》と垢脱《あかぬ》けし、天下《てんか》を狹《せま》しとする氣分《きぶん》になつて來《き》た者《もの》もあつた。
家康《いへやす》の上洛《じやうらく》に就《つい》ては、比較的《ひかくてき》解事者《かいじしや》の酒井忠次《さかゐたゞつぐ》さへも、最後迄《さいごまで》反對論者《はんたいろんじや》であつた。〔參河物語〕[#「〔參河物語〕」は1段階小さな文字]本多重次《ほんだしげつぐ》の如《ごと》きは、大政所《おほまんどころ》を岡崎《をかざき》に守護《しゆご》しつゝ、其《その》館《やかた》の周圍《しうゐ》に薪柴《まきしば》を積《つ》み、若《も》し家康《いへやす》に萬《まん》一の變《へん》あらば、直《たゞ》ちに燒《や》き殺《ころ》さんとの準備《じゆんび》をした。生《は》え拔《ぬ》きの參河武士《みかはぶし》としては、此《こ》れしきの事《こと》は仕兼《しか》ねまじき事《こと》であらう。
又《ま》た大久保忠教《おほくぼたゞのり》の『參河物語《みかはものがたり》』に、
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然共《しかれども》六ヶ|敷《しく》や思召《おぼしめし》けるか、其後《そのご》に御毒《おどく》を參《まゐ》らせんとて、御振舞《おんふるまひ》の時《とき》遣《つか》はされけるに、大和大納言《やまとだいなごん》(秀長)[#「(秀長)」は1段階小さな文字]と並《なら》ばせ給《たま》ひて、上座《かみざ》に御座被[#レ]成候《ござなされさふらひ》つるに、御運《ごうん》の強《つよ》きによつて、御膳《おぜん》の出《いづ》る時《とき》、御《おん》しきだいを被[#レ]成《なされ》て、大和大納言殿《やまとだいなごんどの》を、上座《かみざ》へ上《あげ》させ給《たま》ひて、下座《しみざ》へ居替《ゐかは》らせ給《たま》ふ故《ゆゑ》に、其《その》御膳《ごぜん》が大和大納言殿《やまとだいなごんどの》へ据《すわ》りて、家康《いへやす》のきこしめされん御毒《おどく》を、大和大納言《やまとだいなごん》の參《まゐり》て、果《はて》させ給《たま》ふ。扨《さて》其《その》後年《こうねん》に御上洛成《ごじやうらくな》されけるに、相違《さうゐ》もなし。
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と。極《きは》めて確實《かくじつ》の事《こと》として傳《つた》へて居《を》るが、是等《これら》も、大久保彦左衞門《おほくぼひこざゑもん》一|流《りう》の觀察《くわんさつ》と云《い》はねばなるまい。秀吉《ひでよし》に、家康《いへやす》を毒殺《どくさつ》するの意衷《いちう》がなかつた事《こと》は、云《い》ふ迄《まで》もなく。秀長《ひでなが》の死《し》は、天正《てんしやう》十九|年《ねん》正月《しやうぐわつ》二十二|日《にち》で、〔多聞院日記〕[#「〔多聞院日記〕」は1段階小さな文字]然《しか》も其《そ》の病氣《びやうき》は、天正《てんしやう》十八|年《ねん》正月《しやうぐわつ》前後《ぜんご》からであつた。其《そ》の飼毒《しどく》の時《とき》も、何年《なんねん》何月《なんぐわつ》何日《なんにち》であつたか分《わか》らぬが、毒《どく》を喰《くら》うて、一|年以上《ねんいじやう》も生存《せいぞん》して居《ゐ》るとは、頗《すこぶ》る受取《うけと》り難《がた》き話《はなし》である。
天下《てんか》の大舞臺《だいぶたい》は、從來《じゆうらい》の面目《めんもく》を株守《しゆしゆ》したる、參河武士等《みかはぶしら》の能《よ》く、經營《けいえい》し得《う》る所《ところ》ではなかつた。彼等《かれら》の落伍者《らくごしや》は、秀吉《ひでよし》を解《かい》し得《え》なかつたのみならず、後《のち》には其《そ》の主人《しゆじん》たる家康《いへやす》をも解《かい》し得《え》なかつた。要《えう》するに、上國《じやうこく》との聯絡《れんらく》が出來《でき》て、始《はじ》めて家康《いへやす》、及《およ》び參河武士《みかはぶし》も、中央舞臺《ちうあうぶたい》に於《お》ける、大勢力《だいせいりよく》の一となる可《べ》き資格《しかく》を取得《しゆとく》し、而《しか》して正《まさ》しく大勢力《だいせいりよく》の一となつた。