高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]第二章 家康の外交手腕[#大見出し終わり]
[#5字下げ][#中見出し]【五】家康の外交[#中見出し終わり]
家康《いへやす》は決《けつ》して馬車馬《ばしやうま》ではなかつた。彼《かれ》は實《じつ》に前《まへ》を瞻《み》、後《うしろ》を顧《かへり》みる動物《どうぶつ》であつた。彼《かれ》は天正《てんしやう》十一|年《ねん》七|月《ぐわつ》以來《いらい》、北條氏直《ほうでううぢなほ》を其《その》聟《むこ》とした。彼《かれ》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》の初《はじめ》に於《おい》て、秀吉《ひでよし》の妹聟《いもうとむこ》たる可《べ》く定《さだま》つた。即《すなは》ち後《うしろ》には關《くわん》八|州《しう》の主《しゆ》たる義子《ぎし》あり。前《まへ》には天下人《てんかびと》たる義兄《ぎけい》あり。彼《かれ》の位置《ゐち》は、寔《まこと》に安全《あんぜん》至極《しごく》である。是《こ》れ何人《なんびと》も高枕《かうちん》、安臥《あんぐわ》す可《べ》き一|時《じ》である。然《しか》も家康《いへやす》は、斯《かゝ》る樂天的《らくてんてき》の漢《をのこ》でない、斯《かゝ》る呑氣《のんき》の漢《をのこ》でない。彼《かれ》は寧《むし》ろ其《そ》の反對《はんたい》を考慮《かうりよ》した。
戰國《せんごく》の世《よ》の中《なか》では、天下《てんか》を爭《あたそ》ふ爲《た》めに、家族《かぞく》を顧《かへり》みぬ事《こと》は、有《あ》り觸《ふ》れた事《こと》だ。手近《てぢか》き例《れい》は、吾《わが》聟《むこ》たる氏直《うぢなほ》さへも、動《やゝ》もすれば小牧《こまき》の合戰《かつせん》最中《さいちう》に、我《わが》虚《きよ》に乘《じよう》ぜんとしたではない乎《か》。今《いま》我《わ》れ秀吉《ひでよし》の妹《いもうと》を娶《めと》ればとて、此《これ》が爲《た》めに、秀吉《ひでよし》の我《われ》に對《たい》する禍心《くわしん》を杜絶《とぜつ》す可《べ》き理《り》は、萬々《ばん/\》あるまい。
加之《しかのみならず》、北條《ほうでう》にして若《も》し、我《われ》が秀吉《ひでよし》と縁類《えんるゐ》となりたりと聞《き》かば、更《さら》に我《われ》を疑《うたが》ひ、我《われ》を秀吉《ひでよし》と合體《がつたい》したるものと猜《さい》し、却《かへつ》て我《われ》に向《むか》つて、敵意《てきい》を挾《さしはさ》むに到《いた》るも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からずだ。而《しか》して我《われ》と、北條《ほうでう》との關係《くわんけい》疎隔《そかく》するは、秀吉《ひでよし》の尤《もつと》も望《のぞ》む所《ところ》で、宛《あたか》も我《われ》を孤立《こりつ》せしめんとする、秀吉《ひでよし》の術中《じゆつちう》に陷《おちい》るものと云《い》はねばならぬ。されば我《わ》が即今《そくこん》の位置《ゐち》は、表面《へうめん》安全《あんぜん》なるが如《ごと》くして、其實《そのじつ》は最大危險《さいだんきけん》と云《い》はねばならぬ。
果《はた》して然《しか》らば、此《こ》の危險《きけん》を轉《てん》じて、安全《あんぜん》と爲《な》すの手段《しゆだん》は奈何《いかん》。そは北條氏《ほうでうし》との舊交《きうかう》を温《あたゝ》める事《こと》だ。萬障《ばんしやう》を排《はい》しても、北條氏《ほうでうし》の驩心《くわんしん》を繋《つな》ぎ置《お》く事《こと》だ。均《ひと》しく油斷《ゆだん》は出來《でき》ぬとしても、豐臣氏《とよとみし》は腹心《ふくしん》の病《やまひ》である。目指《めざ》す相手《あひて》は、只《た》だ秀吉《ひでよし》のみだ。萬《まん》一の際《さい》には、全力《ぜんりよく》を傾《かたむ》けて、秀吉《ひでよし》と雌雄《しゆう》を爭《あらそ》はねばならぬ。斯《か》くせんには、北條氏《ほうでうし》の後援《こうゑん》は勿論《もちろん》、左《さ》なき迄《まで》も嚴正中立《げんせいちうりつ》は必要《ひつえう》だ。或《あるひ》は我《わ》が北條氏《ほうでうし》との同盟《どうめい》堅固《けんご》なるを見《み》て、慧眼《けいがん》なる秀吉《ひでよし》は、我《われ》に向《むか》つて其《その》手《て》を控《ひか》へるかも知《し》れぬ。果《はた》して然《しか》る場合《ばあひ》は、戰《たゝか》はずして勝《か》つ譯《わけ》だ。若《も》し之《これ》に反《はん》し、此儘《このまゝ》浮々《うか/\》と過《す》ぎ行《ゆ》かば、北條《ほうでう》よりは痛《いた》くもなき腹《はら》を探《さぐ》られ、秀吉《ひでよし》よりは我《わ》が弱點《じやくてん》に乘《じよう》ぜられ、其極《そのきよく》虻蜂取《あぶはちと》らずの窮地《きゆうち》に陷《おちい》る※[#「こと」の合字、20-3]となるやも、未《いま》だ知《し》る可《べ》からざるだ。何《なに》は兎《と》もあれ、北條氏《ほうでうし》と提携《ていけい》を鞏《かた》くするは、秀吉《ひでよし》に對《たい》する和戰《わせん》兩樣《りやうやう》の道《みち》に於《おい》て、即今《そくこん》必須《ひつしゆ》の一|大《だい》要件《えうけん》だ。
家康《いへやす》の意中《いちう》を忖度《そんたく》すれば、概《がい》して上《かみ》の通《とほ》りであらう。家康《いへやす》は必要《ひつえう》の前《まへ》には、何事《なにごと》をも忍《しの》ばざる所《ところ》なき漢《おのこ》であつた。彼《かれ》は律義者《りちぎもの》として、一|般《ぱん》に通用《つうよう》せられ居《を》る漢《をのこ》であつたが、彼《かれ》の律儀《りちぎ》は、時《とき》と場合《ばあひ》とに於《おい》て、如何樣《いかやう》にも融通《ゆうづう》が出來《でき》た。彼《かれ》は全《まつた》く無《な》しと云《い》ふ能《あた》はざるも、感情《かんじやう》の奴隷《どれい》となつた例《れい》は、尤《もつと》も稀有《けう》であつた。彼《かれ》は本來《ほんらい》人《ひと》を人臭《ひとくさ》しとも思《おも》はぬ、傲骨頭《がうこつとう》の漢《をのこ》であつた。されど屈《くつ》す可《べ》き場合《ばあひ》には、思《おも》ひ切《き》り屈《くつ》し、縮《ちゞ》む可《べ》き場合《ばあひ》には、思《おも》ひ切《き》りて縮《ちゞ》めた。彼《かれ》は決《けつ》して一|本調子《ぽんてうし》の漢《をのこ》でなかつた。信長《のぶなが》と戰《たゝか》ふ時《とき》には、今川氏《いまがはし》を後援《こうゑん》とした。信玄《しんげん》に向《むか》つて伸《の》びたる時《とき》には、信長《のぶなが》に向《むか》つて縮《ちゞ》めた。彼《かれ》は如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、敵《てき》の包圍《はうゐ》攻撃《こうげき》に遭《あ》ふが如《ごと》き、下策《げさく》に陷《おちい》らなかつた。其《そ》の獨力《どくりよく》を以《もつ》て、天下《てんか》を制《せい》するに至《いた》る迄《まで》は、必《かなら》ず彼《かれ》には隨時《ずゐじ》隨處《ずゐしよ》に、其《そ》の與國《よこく》、若《も》しくは與黨《よたう》があつた。而《しか》して是《こ》れ皆《み》な彼《かれ》の不息《ふそく》、不休《ふきう》の努力《どりよく》、熟慮《じゆくりよ》、深慮《しんりよ》の結果《けつくわ》であつた。
徳川氏《とくがはし》の天下《てんか》を取《と》りたるを見《み》て、單《たん》に其《そ》の武力《ぶりよく》のみと思《おも》ふは、大《だい》なる見當違《けんたうちが》ひである。彼《かれ》は海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》なれども、彼《かれ》の外交《ぐわいかう》手腕《しゆわん》は、更《さら》に其上《そのうへ》であつた。彼《かれ》は他人《たにん》が放下《はうか》し、油斷《ゆだん》する時節《じせつ》に於《おい》て、最《もつと》も緊肅《きんしゆく》し、最《もつと》も戒愼《かいしん》した。彼《かれ》が秀吉《ひでよし》と握手《あくしゆ》の曉《あかつき》に於《おい》て、却《かへつ》て其《そ》の背後《はいご》なる北條氏《ほうでうし》と會見《くわいけん》し、其《そ》の盟《めい》を尋《たづ》ねたるが如《ごと》きは、其《そ》の昭著《せうちよ》なる適例《てきれい》だ。併《しか》し家康《いへやす》の周匝《しうさう》なる外交《ぐわいかう》掛引《かけひき》の基礎《きそ》には、恒《つね》に充實《じうじつ》して精鋭《せいえい》なる武力《ぶりよく》があつた。其《そ》の武力《ぶりよく》の基礎《きそ》には、一|身《しん》を萬死《ばんし》の中《うち》に投《とう》ずる、一|大決心《だいけつしん》があつた。詮《せん》じ來《きた》れば、外交《ぐわいかう》も亦《ま》た腹藝《はらげい》の一と云《い》はねばならぬ。
[#5字下げ][#中見出し]【六】北條徳川の會見[#中見出し終わり]
家康《いへやす》は北條氏《ほうでうし》に向《むか》つて、會見《くわいけん》を申《まを》し込《こ》んだ。北條《ほうでう》父子《ふし》は、是《こ》れ固《もと》より望《のぞ》む所《ところ》、但《た》だ國境《くにざかひ》たる黄瀬川《きせがは》を越《こ》して來《きた》らるゝと、或《あるひ》は迷惑《めいわく》ならんと存《ぞん》じ、此方《こなた》よりは差《さ》し控《ひか》へた。若《も》しそれに構《かま》ひなくば、悦《よろこ》んで相《あひ》迎《むか》へむと返答《へんたう》した。徳川氏《とくがはし》の老臣《らうしん》酒井忠次《さかゐたゞつぐ》の如《ごと》きは、斯《かく》ては北條氏《ほうでうし》の幕下《ばくか》に就《つ》き給《たま》ふに似《に》たりと諫《いさ》めたが、家康《いへやす》は左樣《さやう》なる位爭《くらゐあらそ》ひ無用《むよう》なりとて、一|向《かう》に平氣《へいき》であつた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
家康《いへやす》は、天正《てんしやう》十四|年《ねん》三|月《ぐわつ》十一|日《にち》、駿河《するが》、伊豆《いづ》の境《さかひ》なる黄瀬川《きせがは》を越《こ》えて、北條氏《ほうでうし》の領内《りやうない》に赴《おもむ》いた。北條《ほうでう》は黄瀬川《きせがは》の東《ひがし》に新館《しんやかた》を設《まう》け、北條《ほうでう》一|門《もん》、關《くわん》八|州《しう》宗徒《むねと》の輩《はい》群參《んぐんさん》して、家康《いへやす》一|行《かう》を待《ま》ち受《う》けた。徳川方《とくがはがた》にては、北條《ほうでう》は本來《ほんらい》伊勢家《いせけ》で、禮式《れいしき》の家元《いへもと》なれば、作法《さはふ》も定《さだ》めて嚴重《げんぢゆう》ならんと、何《いづ》れも長袴《ながばかま》を著《つ》けたが、北條方《ほうでうがた》は、何《いづ》れも革袴《かはばかま》であつたから、此方《こなた》も革袴《かはばかま》に改《あらた》めた。
家康《いへやす》よりは氏政《うぢまさ》へ縅《しゞら》二百|反《たん》、虎豹皮《こへうのかは》各々《おの/\》五|枚《まい》、猩々緋《せう/″\ひ》二|間《けん》、盛家《もりいへ》の刀《かたな》、一|文字《もんじ》の太刀《たち》、長刀《なぎなた》、南蠻象眼《なんばんざうがん》の鐵炮《てつぱう》を贈《おく》り、氏直《うぢなほ》へ國俊《くにとし》の刀《かたな》、吉光《よしみつ》の脇差《わきざし》を贈《おく》つた。氏政《うぢまさ》よりは鷹《たか》十二|連《れん》、馬《うま》十|疋《ぴき》、雄劍《をつるぎ》二|振《ふり》を酬《むく》い、氏直《うぢなほ》は其《その》舅《しうと》なれば、自《みづか》ら出《い》でて家康《いへやす》を迎《むか》へた。酒宴《しゆえん》の席《せき》には、家康《いへやす》自《みづか》ら自然居士《じねんこじ》の曲舞《くせまひ》をなした。酒井忠次《さかゐたゞつぐ》は、例《れい》によりて海老撈《えびすく》ひの舞《まひ》をした。氏政《うぢまさ》は忠次《たゞつぐ》に賞《しやう》するに、金《きん》の熨斗付《のしつき》菊《きく》一|文字《もんじ》の刀《かたな》、貞宗《さだむね》の脇差《わきざし》等《とう》を以《もつ》てした。酒井《さかゐ》は之《これ》を手《て》にし、北條《ほうでう》の老臣《らうしん》松田尾張守《まつだをはりのかみ》に向《むか》ひ、是《こ》れ見《み》られよ、箇樣《かやう》の海老《えび》を撈《すく》ひ得《え》たりと云《い》うた。氏政《うぢまさ》、氏直《うぢなほ》父子《ふし》も、興《きよう》に入《い》りて笑《わら》うた。
要《えう》するに徳川《とくがは》、北條《ほうでう》の會見《くわいけん》は、決《けつ》して對等《たいとう》ではなかつた。其《その》状《じやう》は小國《せうこく》の君主《くんしゆ》が、大國《たいこく》の霸主《はしゆ》に向《むか》つて、其《そ》の服從《ふくじゆう》の誠意《せいい》を表《へう》するが如《ごと》きであつた。不器用《ぶきよう》なる家康《いへやす》が、自《みづ》から能樂《のうがく》を舞《ま》ひ、其《そ》の老臣《らうしん》酒井忠次《さかゐたゞつぐ》をして、海老撈《えびすく》ひの舞《まひ》を演《えん》ぜしめたる如《ごと》き、彼等《かれら》君臣《くんしん》が、如何《いか》に北條氏《ほうでうし》の驩心《くわんしん》を得《う》るに汲々《きう/\》たるか、見《み》え透《す》くではない乎《か》。
當時《たうじ》の北條氏《ほうでうし》は、早雲《さううん》以來《いらい》、創業《さうげふ》の艱難《かんなん》を閑却《かんきやく》し、既《すで》に富貴《ふき》の桎梏《しつこく》に囚《とら》はれたる、時勢後《じせいおく》れの門閥家《もんばつか》であつた。彼等《かれら》は唯《た》だ北條氏《ほうでうし》あるを知《し》りて、天下《てんか》が如何《いか》に廻轉《くわいてん》しつゝあるかを知《し》らなかつた。彼等《かれら》が家康《いへやす》を以《もつ》て、眇焉《べうえん》たる一|被官視《ひくわんし》したるもの、固《もと》より怪《あや》しむに足《た》らなかつた。惟《おも》ふに、生《うま》れながら父祖《ふそ》の霸業《はげふ》を相續《さうぞく》し、増長《ぞうちやう》、我慢《がまん》の驕兒《けうじ》として、漸《やうや》く老《お》いつゝある氏政《うぢまさ》と、全《まつた》く世間《せけん》を知《し》るの機會《きくわい》に接《せつ》せぬ氏直《うぢなほ》とが、如何《いか》に徳川氏《とくがはし》が我《われ》に向《むか》つて、恭順《きようじゆん》を表《へう》したるに、滿足《まんぞく》したる可《べ》きよ。而《しか》して家康《いへやす》が如何《いか》に、其《そ》の計策《けいさく》の著々《ちやく/\》其圖《そのづ》に中《あた》りたるに、滿足《まんぞく》したるよ。所謂《いはゆ》る滿足《まんぞく》は双方《さうはう》にあるも、其《そ》の滿足《まんぞく》の理由《りいう》は、全《まつた》く別樣《べつやう》であつた。思《おも》へば家康《いへやす》も中々《なか/\》罪《つみ》の深《ふか》い漢《をのこ》である。
家康《いへやす》は其《そ》の歸途《きと》には、自《みづか》ら請《こ》うて、北條《ほうでう》の老臣《らうしん》山角紀伊守《やまずみきいのかみ》を伴《ともな》ひ、沼津《ぬまづ》三|枚橋《まいばし》に到《いた》つた。而《しか》して紀伊守《きいのかみ》を召《め》し、氏直《うぢなほ》を我《わが》聟《むこ》とすれば、北條家《ほうでうけ》に對《たい》し、何等《なんら》心置《こゝろお》く事《こと》更《さら》に無《な》し、されば只今《たゞいま》堺目《さかひめ》の城《しろ》を破却《はきやく》す可《べ》しとて、其《そ》の眼前《がんぜん》に於《おい》て、沼津城《ぬまづじやう》の城壁《じやうへき》を一|切《さい》打破《うちやぶ》らしめた。紀伊守《きいのかみ》は之《これ》を目撃《もくげき》して、氏政《うぢまさ》父子《ふし》に還《かへ》り報《はう》じた。氏政《うぢまさ》父子《ふし》の欣喜《きんき》、知《し》る可《べ》しぢや。彼等《かれら》は甘《うま》くも、家康《いへやす》藥籠中《やくろうちう》の物《もの》となつた。
されば彼等《かれら》は家康《いへやす》が、眞田昌幸《さなだまさゆき》退治《たいぢ》に際《さい》しては、必《かなら》ず援兵《ゑんぺい》を出《いだ》す可《べ》く準備《じゆんび》した。併《しか》し此事《このこと》は、秀吉《ひでよし》の口入《くにふ》にて、一|時《じ》沙汰止《さたや》みとなつたから、北條《ほうでう》も、その援兵《ゑんぺい》を繰《く》り出《いだ》すに及《およ》ばなかつた。併《しか》し此《こ》の一|會見《くわいけん》の爲《た》めに、北條《ほうでう》と、徳川《とくがは》との關係《くわんけい》は、家康《いへやす》の注文通《ちゆうもんどほ》りに緊密《きんみつ》となつた。最早《もはや》家康《いへやす》は、背後《はいご》に何等《なんら》の掛念《けねん》なく、自由《じいう》の手腕《しゆわん》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》と對抗《たいかう》するを得《う》可《べ》き立場《たちば》となつた。
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