第一章 秀吉の妥協政略
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高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定

[#割り注]近世日本國民史[#割り注終わり]豐臣氏時代 乙篇

[#地から3字上げ]蘇峰學人

[#4字下げ][#大見出し]第一章 秀吉の妥協政略[#大見出し終わり]

[#5字下げ][#中見出し]【一】秀吉の大度量[#中見出し終わり]

好兒《かうじ》爺《ぢち》の錢《ぜに》を使《つか》はずとかや。秀吉《ひでよし》は信長《のぶなが》の外套《ぐわいとう》を、其儘《そのまゝ》襲《おそ》ひ、信長《のぶなが》の椅子《いす》に、其儘《そのまゝ》據《よ》りたるも、彼《かれ》は信長《のぶなが》の模倣者《もはうしや》ではなかつた。彼《かれ》には獨自《どくじ》一|己《こ》があつた。否《い》な彼《かれ》の特色《とくしよく》は、寧《むし》ろ信長《のぶなが》の流儀《りうぎ》を、逆《ぎやく》に行《ゆ》いた事《こと》であつた。信長《のぶなが》は無比《むひ》の退治屋《たいぢや》であつたが、秀吉《ひでよし》は無《む》二の妥協屋《だけふや》であつた。信長《のぶなが》の退治癖《たいぢへき》が、時《とき》として信長《のぶなが》の累《るゐ》をなしたる如《ごと》く、秀吉《ひでよし》の妥協癖《だけふへき》も亦《ま》た、時《とき》として秀吉《ひでよし》の累《るゐ》をした。併《しか》し彼等《かれら》は、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》其《そ》の特色《とくしよく》を發揮《はつき》して、銘々《めい/\》持前《もちまへ》の仕事《しごと》を仕遂《しと》げた。吾人《ごじん》は兩人《りやうにん》の優劣《いうれつ》を判《はん》ずるよりも、寧《むし》ろ兩人《りやうにん》の性格《せいかく》が、其《そ》の役割《やくわり》に恰當《かふたう》したるを認《みと》めねばならぬ。
信長《のぶなが》は創業者《さうげふしや》である。彼《かれ》の時節《じせつ》には、荒療治《あられうぢ》は、必然《ひつぜん》避《さ》け難《がた》き事《こと》であつた。秀吉《ひでよし》に至《いた》れば、半《なかば》は芟鋤《さんじよ》し、半《なかば》は整理《せいり》する時期《じき》に入《はひ》つた。懷柔《くわいじう》、綏撫《すゐぶ》は、策《さく》の尤《もつと》も得《え》たるものであつた。若《も》し兩者《りやうしや》をして地《ち》を易《か》へしめば、近世日本《きんせいにほん》の統《とう》一|史《し》は、現存《げんそん》のものと、頗《すこぶ》る趣《おもむき》を殊《こと》にしたであらう。秀吉《ひでよし》の後《のち》に信長《のぶなが》來《きた》らずして、信長《のぶなが》の後《のち》に秀吉《ひでよし》の來《きた》つた事《こと》は、實《じつ》に天《てん》の配劑《はいざい》、其《そ》の宜《よろ》しきを得《え》たものと云《い》はねばならぬ。
秀吉《ひでよし》が大《だい》なる妥協屋《だけふや》であつた事《こと》は、彼《かれ》の智術《ちじゆつ》、策略《さくりやく》より根柢《こんてい》したるものと、論定《ろんてい》する者《もの》が多《おほ》い。併《しか》し今《いま》一|層《そう》深《ふか》く立《た》ち入《い》りて考《かんが》ふれば、それのみとは思《おも》はれない。秀吉《ひでよし》は天成《てんせい》の霸才《はさい》であつたに相違《さうゐ》ない。されば天下《てんか》の人物《じんぶつ》を籠絡《ろうらく》し、彼等《かれら》を鼓舞《こぶ》、顛倒《てんたう》せしむるの術《じゆつ》に於《おい》て、殆《ほと》んど遺憾《ゐかん》なき能力《のうりよく》を發揮《はつき》したに相違《さうゐ》ない。併《しか》しながら術《じゆつ》と云《い》ひ、略《りやく》と云《い》ふ丈《だけ》にては、未《いま》だ秀吉《ひでよし》の大氣宇《だいきう》、大度量《だいどりやう》を盡《つく》すに足《た》らぬと思《おも》ふ。手短《てみじ》かに云《い》へば、秀吉《ひでよし》は漫《みだ》りに他《た》を憎惡《ぞうを》する事《こと》の、不可能《ふかのう》なる人間《にんげん》であつた。彼《かれ》には殆《ほと》んど怨讐《えんしう》の念《ねん》なるものがなかつた。彼《かれ》の大腹《たいふく》は、天下《てんか》の英雄豪傑《えいゆうがうけつ》を呑《の》み盡《つく》すも、尚《な》ほ餘裕《よゆう》があつた。
固《もと》より彼《かれ》の爲《た》めに其《そ》の封土《ほうど》を失《うしな》うたる者《もの》あり、家《いへ》を滅《ほろぼ》したる者《もの》あり、身《み》を亡《うしな》うたる者《もの》あり、其《そ》の秀次《ひでつぐ》に對《たい》する措置《そち》の如《ごと》き、彼《かれ》の平生《へいぜい》に不似合《ふにあひ》なる、慘酷《ざんこく》の事《こと》もあつた。併《しか》し彼《かれ》の一|生《しやう》を大觀《たいくわん》すれば、彼《かれ》は概《おほむ》ね怨《うらみ》に酬《むく》ゆるに、怨《うらみ》を以《もつ》てせずして、直《ちよく》を以《もつ》てし、徳《とく》を以《もつ》てした。彼《かれ》は偶《たまた》ま舊好《きうかう》を忘却《ばうきやく》したが、又《ま》た宿憾《しゆくかん》をも忘却《ばうきやく》した。彼《かれ》の一|生《しやう》には、前田利家《まへだとしいへ》の如《ごと》き、死生《しせい》を託《たく》するに足《た》る親友《しんいう》もあつた。加藤清正《かとうきよまさ》の如《ごと》き親臣《しんしん》もあつた。北政所《きたのまんどころ》の如《ごと》き、始終《ししゆう》一|貫《くわん》、互《たがひ》に相《あひ》愛敬《あいけい》したる、糟糠《さうかう》の妻《つま》もあつた。
信長《のぶなが》は他《た》の才《さい》を愛《あい》し、能《のう》を嘉《よみ》する事《こと》を解《かい》した、されど秀吉《ひでよし》は、更《さ》らに其人《そのひと》を親《した》しみ、愛《あい》する事《こと》を解《かい》した。若《も》し襟度《きんど》の瀟洒《せうしや》、磊落《らいらく》にして、大腹《たいふく》、大量《たいりやう》の人《ひと》を求《もと》めば、秀吉《ひでよし》の如《ごと》きは、我《わ》が近世史上《きんせいしじやう》に、殆《ほとん》ど唯《ゆゐ》一の位置《ゐち》を占《し》むる者《もの》と、云《い》はねばなるまい。彼《かれ》を以《もつ》て、唯《た》だ朝《てう》四|暮《ぼ》三の術策《じゆつさく》を弄《らう》する、猿冠者《さるくわんじや》と做《な》すは、未《いま》だ皮相《ひさう》にも達《たつ》せざる管見《くわんけん》である。
徳川幕府《といくがはばくふ》出《い》で來《きた》つてより、史家《しか》概《おほむ》ね其《そ》の始祖《しそ》たる家康《いへやす》に佞《ねい》し、或《あるひ》は小牧戰爭《こまきせんさう》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》の全敗《ぜんぱい》、家康《いへやす》の全勝《ぜんしよう》と説《と》き。或《あるひ》は秀吉《ひでよし》が妹《いもうと》を娶《めあは》し、母《はゝ》を質《ち》とするを見《み》て、秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》に叩頭《こうたう》したりと做《な》す。然《しか》も小牧役《こまきえき》の如《ごと》き、家康《いへやす》の勝利《しようり》は、唯《た》だ長久手《ながくて》一|戰《せん》のみにて、其《そ》の大局《たいきよく》の利《り》は、却《かへ》つて秀吉《ひでよし》に在《あ》つた。秀吉《ひでよし》が家康《いへやす》を懷柔《くわいじう》したる、一|※[#「齒へん+?(印刷不鮮明)」、4-9]《せつ》の如《ごと》きは、其《そ》の觀察《くわんさつ》如何《いかん》によりて、如何樣《いかやう》にも判斷《はんだん》が出來《でき》る。家康側《いへやすがは》より云《い》へば、秀吉《ひでよし》が七|重《へ》の膝《ひざ》を八|重《へ》に折《を》りて、家康《いへやす》に嘆願《たんぐわん》したとも云《い》ひ得《う》可《べ》しだが、秀吉側《ひでよしがは》より云《い》へば、猛虎《まうこ》を手擒《てど》りにしたとも云《い》へる。日本《にほん》統《とう》一の大業《たいげふ》を成就《じやうじゆ》するには、家康《いへやす》を味方《みかた》とするを、第《だい》一|義《ぎ》としたる大見識《だいけんしき》と、遂《つひ》に之《これ》を實行《じつこう》したる大度量《だいどりやう》とは、只《た》だ秀吉《ひでよし》に於《おい》て、之《これ》を見《み》るのみではない乎《か》。
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[#6字下げ]秀吉天下を籠絡す
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[#ここから2字下げ]
英雄之取[#二]天下[#一]、豈有[#レ]他哉、必先籠[#二]絡豪傑之心[#一]、使[#三]弱者俯[#レ]首聽[#レ]命、強者不[#二]敢抗[#一レ]我、而我乘[#二]其機[#一]以定[#二]天下[#一]。是霸者之微權、英雄之妙機、豪傑之士、皆陷[#二]其術中[#一]、而不[#レ]覺也。當[#二]室町之季[#一]、海内裂爲[#二]八九[#一]、如[#二]藝之毛利、越之上杉、奧之伊達[#一]、其尤大者、其人皆負[#二]不世之才[#一]、據[#二]有爲之資[#一]、龍驤虎視、不[#二]相下[#一]。而豐太閤乃起[#二]於人奴[#一]、徒手戡[#二]定禍亂[#一]、向之爲[#レ]龍爲[#レ]虎者、俛[#レ]首搖[#レ]尾、以就[#二]其條※[#「金へん+旋」、5-6][#一]、無[#レ]他、以[#二]其量之大[#一]耳。何則高松之役、前有[#二]強敵[#一]、而變起[#二]乎内[#一]使[#二]恒人處[#一レ]之、必狼狽喪[#二]膽、乘[#レ]夜以遁。今乃明告以[#レ]情、無[#二]一毫懼之色[#一]、於[#レ]是毛利氏果爲[#三]其所[#二]籠絡[#一]而與[#レ]之平矣。其征[#二]定越中[#一]也、率[#二]十餘騎[#一]、踰[#レ]險入[#二]越後[#一]。夫一使之往來、未[#レ]足[#三]以知[#二]其情僞[#一]、而遠度[#二]險阻[#一]使[#二]景勝伏[#レ]兵以擒[#一レ]之、則一力士之事耳。太閤乃單騎深入[#二]其境[#一]、出[#二]彼不意[#一]、於[#レ]是上杉氏亦爲[#三]其所[#二]籠絡[#一]、而盟始成矣。政宗時桀點、素輕[#二]太閤[#一]、不[#レ]從[#二]其命[#一]、及[#二]小田原之役[#一]、始執[#二]謁軍門[#一]、其意以爲太閤必喜[#レ]見[#レ]己、而太閤使[#二]人詰[#一レ]之、然後引見、指[#二]示屯營用兵之要[#一]、放遣[#二]歸其國[#一]、有[#二]請留之者[#一]、而不[#レ]聽、而政宗亦陷[#二]其籠絡[#一]矣。夫能籠[#二]絡豪傑之士[#一]、於[#レ]籠[#二]絡天下[#一]乎何有、能籠[#二]絡天下[#一]於[#レ]定[#二]天下[#一]乎何有。或曰、太閤之量、籠[#二]絡三氏[#一]、而至[#二]吾東照公[#一]、則不[#レ]能[#二]少加[#一]焉、至[#二]質[#レ]母而招[#一レ]之、安得[#レ]謂[#三]籠[#二]絡天下[#一]邪。曰、噫、是以[#レ]不[#二]籠絡[#一]、々[#二]々之[#一]也、公文武智勇、材徳之降、資望之重、冠[#二]天下[#一]。太閤以爲、苟得[#二]其心[#一]、天下不[#レ]足[#レ]定也、而知[#下]其天質英毅、不[#レ]可[#中]以[#二]聲勢[#一]屈[#上]、故首[#レ]之以[#二]玉帛[#一]、次[#レ]之以[#二]婚姻[#一]、終[#レ]之以[#レ]質[#レ]母、公始往見、然後天下翕然歸[#レ]之。是乃太閤之量、能以[#レ]不[#二]籠絡[#一]、而籠[#二]絡之[#一]也、而公亦安能脱[#二]其籠絡[#一]哉。嗚呼太閤之爲[#レ]量、天地未[#レ]足[#レ]爲[#レ]大也、江河未[#レ]足[#レ]爲[#レ]廣也、起[#二]於人奴[#一]、以能鼓[#三]舞顛[#二][#底本では「#三」と「#二」が逆転]倒一世之豪傑[#一]、而使[#三]甘爲[#二]之役[#一]者、抑以[#レ]此也夫。〔飯山文存〕
[#ここで小さな文字終わり]
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[#5字下げ][#中見出し]【二】家康の熟柿主義[#中見出し終わり]

天正《てんしやう》十二|年《ねん》十一|月《ぐわつ》、秀吉《ひでよし》と、信雄《のぶを》と、矢田河原《やたかはら》に於《おい》て會見《くわいけん》以來《いらい》、天正《てんしやう》十四|年《ねん》十|月《ぐわつ》、家康《いへやす》が大阪《おほさか》に抵《いた》り、秀吉《ひでよし》に來謁《らいえつ》する迄《まで》、約《やく》二|箇年間《かねんかん》、秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》とは、全《まつた》く睨合《にらみあ》ひの姿《すがた》であつた。而《しか》して此《こ》の二|箇年《かねん》に於《お》ける、兩人《りやうにん》の勢力權衡《せいりよくけんかう》は、著《いちじる》しく變化《へんくわ》した。即《すなは》ち秀吉《ひでよし》の得《え》たる所《ところ》、大《だい》なりし丈《だけ》、それ丈《だけ》、家康《いへやす》の失《うしな》うたる所《ところ》は、大《だい》であつた。
二|年前《ねんぜん》に於《おい》ては、家康《いへやす》の味方《みかた》として、紀州《きしう》の畠山《はたけやま》、雜賀《さいが》、根來《ねごろ》の徒《と》があつた。四|國《こく》の長曾我部《ちやうそかべ》があつた。北國《ほくこく》の佐々《さつさ》があつた。然《しか》も二|年後《ねんご》に於《おい》ては、彼等《かれら》は皆《み》な秀吉《ひでよし》の爲《た》めに討平《たうへい》せられた。秀吉《ひでよし》は其間《そのあひだ》に於《おい》て、内大臣《ないだいじん》より關白《くわんぱく》に累進《るゐしん》し、豐臣姓《とよとみせい》を稱《とな》へ、中外《ちうぐわい》に向《むか》つて、全《まつた》く天下《てんか》の司配《しはい》たる名《な》と、實《じつ》とを示《しめ》した。而《しか》して信州《しんしう》には眞田昌幸《さなだまさゆき》が、家康《いへやす》に反《そむ》きて、徳川勢《とくがはぜい》を破《やぶ》るあり。岡崎城《をかざきじやう》よりは、城代《じやうだい》石川數正《いしかはかずまさ》の出奔《しゆつぽん》あり。流石《さすが》の家康《いへやす》も、其《そ》の周圍《しうゐ》を見廻《みまは》せば、聊《いさゝ》か落寞《らくばく》の感《かん》を免《まぬか》れぬ譯《わけ》ではあるまい乎《か》。
然《しか》も家康《いへやす》は、進《すゝ》んで秀吉《ひでよし》と、天下《てんか》を爭《あらそ》はんとせざる迄《まで》も─|自《みづ》から秀吉《ひでよし》の分國《ぶんこく》に攻《せ》め入《い》らざる代《かは》りに─|何處迄《どこまで》も自我《じが》を立《た》て透《とほ》した。秀吉《ひでよし》の爲《た》めに、其《そ》の繩張《なはばり》を侵《をか》されざる決心《けつしん》は、堅固《けんご》であつた。彼《かれ》は何《なん》の自《みづか》ら恃《たの》む所《ところ》ありて、飽迄《あくまで》秀吉《ひでよし》の勢圜外《せいくわんぐわい》に、特立《とくりつ》せんとしたる乎《か》。彼《かれ》が信雄《のぶを》の言《げん》を納《い》れて、秀吉《ひでよし》と講和《かうわ》し、秀吉《ひでよし》の望《のぞみ》に應《おう》じて、一|子《し》於義丸《おぎまる》を與《あた》へたるを見《み》れば、家康《いへやす》は必《かなら》ずしも、秀吉《ひでよし》と戰《たゝか》ふを目的《もくてき》としたのではなかつた事《こと》が、分明《ぶんみやう》ぢや。然《しか》も秀吉《ひでよし》の北征以前《ほくせいいぜん》、天正《てんしやう》十三|年《ねん》六|月《ぐわつ》、信雄《のぶを》が家康《いへやす》に向《むか》つて、其《そ》の老臣《らうしん》の質子《ちし》を送《おく》る可《べ》きを勸告《くわんこく》するや、之《これ》に應《おう》ぜなかつた。而《しか》して同年《どうねん》十|月《ぐわつ》廿八|日《にち》、將士《しやうし》を濱松《はままつ》に會《くわい》して、此事《このこと》を評定《ひやうぢやう》したが、群議《ぐんぎ》何《いづ》れも之《これ》を不可《ふか》とし、家康《いへやす》亦《ま》た之《これ》を容《い》れて、却《かへつ》て北條氏直《ほうでううぢなほ》と、其《そ》の盟《めい》を尋《たづ》ねた。
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廿八|日《にち》(天正十三年十月)[#「(天正十三年十月)」は1段階小さな文字]秀吉《ひでよし》へ列國《れつこく》皆《みな》質子《ちし》を獻《けん》ず。是《こゝ》に於《おい》て、神君《しんくん》諸將《しよしやう》を召《めし》て、異見《いけん》を問《と》はるゝ|處《ところ》に、諸大名《しよだいみやう》と同《おなじ》く質人《しちびと》を登《のぼ》せられん事《こと》、然《しか》るべからざる由《よし》、群議《ぐんぎ》一|決《けつ》す。神君《しんくん》も兼《かね》て此趣《このおもむき》欲《ほつ》せらるゝ|故《ゆゑ》、彌《いよ/\》秀吉《ひでよし》の望《のぞみ》を默止《もだし》給《たま》ふ。北條左京大夫氏直《ほうでうさきやうだいふうぢなほ》が臣《しん》廿|人《にん》、起請文《きしやうもん》を神君《しんくん》へ獻《けん》じ、北條家《ほうでうけ》全《まつた》く二|心《しん》なく、徳川家《とくがはけ》へ親炙《しんしや》すべしと云々《うんぬん》。神君《しんくん》も亦《また》老臣《らうしん》、并《ならび》に駿《すん》遠《ゑん》參《さん》の國士《こくし》、大祿《たいろく》の族《ぞく》より、盟書《めいしよ》を小田原《をだはら》へ送《おく》らしめ、當時《たうじ》兩家《りやうけ》違犯《ゐはん》の義《ぎ》あるべからざる事《こと》を告《つげ》らる。〔武徳編年集成〕[#「〔武徳編年集成〕」は1段階小さな文字]
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果《はた》して此《かく》の如《ごと》く、北條氏《ほうでうし》より自發的《じはつてき》に申《まを》し來《きた》りし乎《か》。或《あるひ》は徳川氏《とくがはし》より手入《てい》れして、然《し》かしたる乎《か》。そは想像《さうぞう》に任《まか》するが、何《いづ》れにせよ、北條氏《ほうでうし》との關係《くわんけい》を親密《しんみつ》にして、背後《はいご》の患《うれひ》を絶《た》ち、其《そ》の全力《ぜんりよく》を擧《あ》げて、萬《まん》一の際《さい》には、秀吉《ひでよし》に衝《あた》らんとしたるは、家康《いへやす》の根本政策《こんぽんせいさく》であつたらしい。
家康《いへやす》の一|生《しやう》を通視《つうし》するに、彼《かれ》は徹頭徹尾《てつたうてつび》、熟柿主義《じゆくししゆぎ》であつた。然《しか》も彼《かれ》の熟柿主義《じゆくししゆぎ》は、粗漫《そまん》、荒怠《くわうたい》の熟柿主義《じゆくししゆぎ》ではなかつた。自《みづか》ら不敗《ふはい》の地《ち》を占《し》めて、他《た》の乘《じよう》ず可《べ》き時機《じき》を待《ま》つて居《ゐ》た。而《しか》して他《た》から持《も》ち掛《か》け來《きた》るを、待《ま》ち受《う》けて、我《わ》が思《おも》ふ通《とほ》りの條件《でうけん》にて、其《そ》の取引《とりひき》をした。彼《かれ》は實《じつ》に時間《じかん》の利用者《りようしや》であつた。然《しか》も其《そ》の利用《りよう》は機《き》に先《さきだ》つにあらずして、機《き》の熟《じゆく》するを待《ま》つにあつた。
然《しか》し家康《いへやす》の仕事《しごと》を以《もつ》て、安全第《あんぜんだい》一を主眼《しゆがん》としたと見做《みな》すは、大《だい》なる誤解《ごかい》である。彼《かれ》は臆病《おくびやう》なるが故《ゆゑ》に、小膽《せうたん》なるが故《ゆゑ》に、安逸《あんいつ》を好《この》むが故《ゆゑ》に、危險《きけん》を憚《はゞか》るが故《ゆゑ》に、熟柿主義《じゆくししゆぎ》を取《と》る者《もの》ではなかつた。彼《かれ》が最後迄《さいごまで》踏《ふ》み耐《こら》へたるは、其《そ》の一|切《さい》の物《もの》を捨《す》てゝ|顧《かへり》みざる大決心《だいけつしん》、大覺悟《だいかくご》あるが故《ゆゑ》であつた。別言《べつげん》すれば、家康《いへやす》の熟柿主義《じゆくししゆぎ》は彼《かれ》が最大勇者《さいだいゆうしや》たるが爲《た》めに、其《そ》の効果《かうくわ》を齎《もたら》した。

[#5字下げ][#中見出し]【三】家康の持重[#中見出し終わり]

家康《いへやす》の天正《てんしやう》十三|年《ねん》十|月《ぐわつ》廿八|日《にち》に、諸將《しよしやう》を濱松《はままつ》に召集《せうしふ》して、對《たい》秀吉《ひでよし》の策《さく》を諮《はか》りたるは、恰《あたか》も關原役《せきがはらえき》に際《さい》し、小山驛《こやまえき》にて、諸將《しよしやう》を會《くわい》して、其《そ》の向背《かうはい》を問《と》うたのと、同《どう》一の筆法《ひつぱふ》ぢや。家康《いへやす》は恒《つね》に他《た》より、持掛《もちか》けて來《きた》る樣《やう》に仕向《しむ》け、自《みづ》から据膳《すゑぜん》を喰《く》ふを以《もつ》て能事《のうじ》とした。
諸將《しよしやう》の意見《いけん》、何《いづ》れも家康《いへやす》が秀吉《ひでよし》の幕下《ばくか》となるを、屑《いさぎよし》とせず、若《も》し秀吉《ひでよし》攻《せ》め來《きた》らば、思《おも》ふ存分《ぞんぶん》目《め》に物《もの》見《み》せんと一|決《けつ》した。家康《いへやす》の立場《たちば》より云《い》へば、彼《かれ》は諸將《しよしやう》を驅《か》りて、秀吉《ひでよし》と戰《たゝか》はしむるにあらずして、諸將《しよしやう》は家康《いへやす》を擁《よう》して、秀吉《ひでよし》と對抗《たいかう》せんとするのである。即《すなは》ち萬《まん》一|開戰《かいせん》とならば、是《こ》れ家康《いへやす》一|個《こ》の私鬪《しとう》でなく、參《さん》、遠《ゑん》、駿《すん》、甲《かふ》諸武士《しよぶし》の公憤《こうふん》に基《もとづ》く公鬪《こうとう》である。家康《いへやす》の位置《ゐち》も亦《ま》た堅固《けんご》ではない乎《か》。
彼《かれ》は籠城《ろうじやう》の用意《ようい》を爲《な》さなかつた。彼《かれ》は平然《へいぜん》として、其《そ》の嗜《たしな》みたる鷹獵《たかがり》を事《こと》とした。彼《かれ》の胸中《きようちう》には既《すで》に成竹《せいちく》があつた。火《ひ》の如《ごと》く燃《も》え、虎《とら》の如《ごと》く勇《いさ》みたる、信玄《しんげん》と對抗《たいかう》し來《きた》れる百|戰《せん》の精兵《せいへい》を以《もつ》て、烏合《うがふ》の上方勢《かみがたぜい》を迎《むか》へ撃《う》つ事《こと》は、彼《かれ》に取《と》りて、快心《くわいしん》の業《げふ》であつたに相違《さうゐ》あるまい。而《しか》して若《も》し不幸《ふこう》にして、事《こと》志《こゝろざし》と違《たが》ふ場合《ばあひ》には、一|死《し》固《もと》より其分《そのぶん》である。彼《かれ》は決《けつ》して死《し》を怖《おそ》るゝ|者《もの》でなかつた。凡《およ》そ捨身《すてみ》の勇氣《ゆうき》は、絶望《ぜつばう》の場合《ばあひ》に限《かぎ》る樣《やう》に思《おも》ふ者《もの》あるが、家康《いへやす》には、如何《いか》なる場合《ばあひ》にも、如何《いか》なる時節《じせつ》にも、其《そ》の胸臆《きようおく》の底《そこ》には、此《こ》の勇氣《ゆうき》が潜在《せんざい》した。彼《かれ》は實《じつ》に無双《むさう》の大《だい》熟圖者《じゆくとしや》たると與《とも》に、無双《むさう》の大《だい》冐險者《ばうけんしや》であつた。
併《しか》し其上《そのうへ》には、又《ま》た其上《そのうへ》があつた。秀吉《ひでよし》と家康《いへやす》とは、各※[#二の字点、1-2-22]《おの/\》祕術《ひじゆつ》を殫《つく》して、捕鬼戯《おにごつこ》を做《な》した。家康《いへやす》は鬼《おに》で、秀吉《ひでよし》は捕者《ほしや》であつた。而《しか》して一|方《ぽう》は逃《に》げ得《え》らるゝ|丈《だけ》、逃《に》げ廻《まは》り、他方《たはう》は追《お》ひ廻《まは》す丈《だけ》、追廻《おひまは》した。若《も》し尋常人《じんじやうじん》ならば、とても堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《を》が切《き》るゝ|所《ところ》であつた。併《しか》し秀吉《ひでよし》の大腹《たいふく》には、巨像《きよざう》をも其儘《そのまゝ》嚥下《ゑんか》するの容積《ようせき》があつた。彼《かれ》は巧妙《かうめう》なる漁夫《ぎよふ》の如《ごと》く、其《そ》の池中《ちちう》の水《みづ》を乾《かは》かしつゝ、其《そ》の下流《かりう》に網《あみ》を張《は》りて、魚《うを》の來《きた》るを待《ま》ち受《う》けた。即《すなは》ち一|方《ぱう》には、家康《いへやす》の周邊《しうへん》を削平《さくへい》し、更《さら》に家康《いへやす》の内輪《うちわ》に迄《まで》、動《やゝ》もすれば其手《そのて》を入《い》れんとしつゝ、他方《たはう》にはあらゆる方便《はうべん》を以《もつ》て、家康《いへやす》の來投《らいとう》を促《うなが》した。
家康《いへやす》を知《し》るは、秀吉《ひでよし》に若《し》くは無《な》しぢや。彼《かれ》は家康《いへやす》に向《むか》つて、直接《ちよくせつ》に力《ちから》を用《もち》ふるの不可《ふか》なるを解《かい》した。彼《かれ》は家康《いへやす》は決《けつ》して、他《た》の恫喝《どうかつ》にて威嚇《ゐかく》せらるゝ|者《もの》にあらざるを解《かい》した。所謂《いはゆ》る海道《かいだう》一の弓取《ゆみとり》たる評判《ひやうばん》は、天下《てんか》一|般《ぱん》の公論《こうろん》であると與《とも》に、家康《いへやす》自身《じしん》の自覺《じかく》であつた事《こと》を解《かい》した。されば北陸《ほくろく》平定後《へいていご》、家康《いへやす》が依然《いぜん》舊態《きうたい》を固執《こしつ》し、恭順《きようじゆん》の實《じつ》を表《へう》せざるを見《み》、意《い》を信雄《のぶを》に授《さづ》け、織田長益《おだながます》、瀧川雄利《たきがはかつとし》、土方雄久《ひぢかたたかひさ》等《ら》を、其《そ》の使者《ししや》として、家康《いへやす》に入京《にふきやう》を諭《さと》し、且《か》つ石川數正《いしかはかずまさ》出奔《しゆつぽん》の事《こと》に關《くわん》して、其《そ》の不平《ふへい》を慰藉《ゐしや》せしめた。然《しか》も家康《いへやす》は、之《これ》に應《おう》ぜなかつた。此《かく》の如《ごと》くして天正《てんしやう》十三|年《ねん》も、遂《つひ》に暮《く》れ過《す》ぎた。
然《しか》も秀吉《ひでよし》の熱心《ねつしん》は、愈《いよい》よ加《くはゝ》つた。彼《かれ》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》正月《しやうぐわつ》十三|日《にち》、織田長益《おだながます》、羽柴勝雅《はしばかつまさ》等《ら》を遣《つかは》し、同《どう》二十一|日《にち》には、又《ま》た織田長益《おだながます》、瀧川雄利《たきがはかつとし》、羽柴勝雅《はしばかつまさ》、土方雄久《ひぢかたたかひさ》等《ら》を遣《つかは》し、之《これ》を説《と》かしめたが、家康《いへやす》の決心《けつしん》は、山《やま》の如《ごと》く動《うごか》す可《べ》からずであつた。
當時《たうじ》家康《いへやす》は、三|河《かは》の吉良《きら》に鷹獵《たかがり》してあつた。勝雅《かつまさ》等《ら》は此處《こゝ》にて家康《いへやす》に謁《えつ》し、諄々《じゆん/″\》として其《そ》の利害《りがい》を説《と》いた。
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神君《しんくん》鷹《たか》を臂《ひぢ》にし、此《この》鷹《たか》一|居《すゑ》を以《もつ》て手配《てはい》し、一|戰《せん》を愉《こゝろよ》くせん、吾《われ》何《なん》ぞ秀吉《ひでよし》の下風《かふう》を望《のぞま》んと宣《のたま》ふ。三|使《し》即《すなはち》旅營《りよえい》に退《しりぞ》く。・・・・|翌日《よくじつ》羽柴下總守《はしばしもふさのかみ》(勝雅)[#「(勝雅)」は1段階小さな文字]再《ふたゝ》び謁《えつ》を請《こ》ふ故《ゆゑ》、神君《しんくん》出《いで》て見《まみ》え、汝《なんぢ》等《ら》未《いま》だ去《さら》ずや、早《はや》く歸《かへる》べしと怒《いか》らせ玉《たま》ふ。勝雅《かつまさ》諫《いさめ》て曰《いはく》、使《つかひ》既《すで》に再《さい》三にして、其旨《そのむね》に從《したが》ひ玉《たま》はずば、秀吉《ひでよし》參州《さんしう》に兵《へい》を發《はつ》せん。然《しかる》に今《いま》國中《こくちう》を見《み》るに、城壁《じやうへき》未《いま》だ修《しう》せず、要害《えうがい》ならず、唯《たゞ》放鷹《はうよう》を好《この》み玉《たま》ふのみにては危《あやぶ》からずや。神君《しんくん》勃然《ぼつぜん》として汝《なんぢ》今《いま》無益《むえき》の言《げん》を發《はつ》す。秀吉《ひでよし》が兵《へい》十|萬《まん》に過《すぐ》べからず、吾《わが》五|州《しう》の勢《せい》三四|萬《まん》あるべし。秀吉《ひでよし》が軍卒《ぐんそつ》衆《おほ》しと雖《いへど》も、能《よ》く地形《ちけい》を知《し》らず、吾《わが》士卒《しそつ》少《すくな》しと雖《いへど》も、能《よ》く地理《ちり》を諳《そら》んず。險隘《けんあい》に邀《むか》へ撃《うた》ば、利《り》を得《え》ん事《こと》、掌中《しやうちう》にあり。汝《なんぢ》長久手《ながくて》の捷《かち》を忘《わす》れたる乎《か》。重《かさね》て來《きた》らば其命《そのいのち》殆《あやふ》からんと宣《のたま》ふ。〔武徳編年集成〕[#「〔武徳編年集成〕」は1段階小さな文字]
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果《はた》して此通《このとほ》りの問答《もんだふ》であつた乎《か》、否乎《いなか》は、確《たしか》ならぬが、兎《と》も角《かく》も彼等《かれら》が其《そ》の要領《えうりやう》を得《え》ず、空手《くうしゆ》にして大阪《おほさか》に歸《かへ》つた事《こと》は、明白《めいはく》であつた。此上《このうへ》は秀吉《ひでよし》としては、義理《ぎり》にも、出師《すゐし》せねばならぬではない乎《か》。否々《いな/\》彼《かれ》には妙算《めうさん》があつた。若《も》し家康《いへやす》が人籟《じんらい》であれば、秀吉《ひでよし》は實《じつ》に天籟《てんらい》であつた。

[#5字下げ][#中見出し]【四】秀吉其妹を家康に娶はす[#中見出し終わり]

使者《ししや》の復命《ふくめい》を聞《き》きたる秀吉《ひでよし》は、家康《いへやす》の強情張《がうじやうは》るのを、別段《べつだん》憤《いきどほ》る色《いろ》もなく、却《かへつ》て一|種《しゆ》の興味《きようみ》を以《もつ》て、如何《いか》にして此《こ》の難物《なんぶつ》を、懷柔《くわいじう》す可《べ》き乎《か》と考慮《かうりよ》した。彼《かれ》は傍人《ぼうじん》に向《むか》つて、近《ちか》き内《うち》に彼者《かれ》を、我等《われら》膝《ひざ》の上《うへ》へ上《あ》げて見《み》せんと云《い》ひつゝ、大笑《たいせう》して寢室《しんしつ》に入《はひ》つた。〔柏崎物語〕[#「〔柏崎物語〕」は1段階小さな文字]而《しか》して其《そ》の方略《はうりやく》とは、別儀《べつぎ》にあらず、彼《かれ》の異父妹《いふまい》朝日姫《あさひひめ》をもて、家康《いへやす》に娶《めあは》すことであつた。
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或夜《あるよ》秀吉《ひでよし》深更《しんかう》に及《およん》で、俄《にはか》に信雄《のぶを》、並《ならび》に其《その》臣《しん》羽柴勝雅《はしばかつまさ》を營中《えいちう》に招《まね》いて、寢殿《しんでん》より片手《かたて》に脇差《わきざし》、片手《かたて》に紅《きれなゐ》の細帶《ほそおび》を携《たづさ》へ、一|童《どう》に燭《しよく》を秉《と》らしめ、出《いで》て信雄《のぶを》、勝雅《かつまさ》に對顏《たいがん》し、予《よ》多日《たじつ》思惟《しゐ》し、家康《いへやす》を上京《じやうきやう》あらしめんと宣《のたま》ふ。二|人《にん》驚《おどろい》て其《その》詞《ことば》を出《いだ》さず。秀吉《ひでよし》曰《いは》く、吾《われ》妹《いもうと》を以《もつ》て、家康《いへやす》に嫁《か》すべし。・・・・|既《すで》に嫁娶《かしゆ》を遂《と》げても、家康《いへやす》猶《なほ》其《その》疑《うたが》ひ晴《はれ》ざる時《とき》は、大廳《おほまんどころ》を送《おく》り質《ち》とせば、家康《いへやす》の上洛《じやうらく》猶豫《いうよ》すべからずと宣《のたま》ふ。〔武徳編年集成〕[#「〔武徳編年集成〕」は1段階小さな文字]
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此《こ》の朝日姫《あさひひめ》は、秀吉《ひでよし》の母《はゝ》大政所《おほまんどころ》と、繼父《けいふ》筑阿彌《ちくあみ》との間《あひだ》に生《しやう》じたる末女《まつぢよ》にして、當時《たうじ》佐治日向守《さぢひふがのかみ》の妻《つま》であつた。秀吉《ひでよし》は人《ひと》を以《もつ》て、天下治平《てんかぢへい》の爲《た》めなれば、其《その》妻《つま》を離別《りべつ》せよと諭《さと》した。佐治《さぢ》は旨《むね》を領《りやう》したが、さりとて天下《てんか》の人《ひと》に對《たい》して、顏《かほ》を合《あは》せ難《がた》しとて自殺《じさつ》した。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は曰《いは》く、朝日姫《あさひひめ》は、副田甚兵衞《そへだじんべゑ》の妻《つま》であつた。彼《かれ》但馬《たじま》の多伊城《たいじやう》を守《まも》つたが、一|揆《き》の爲《た》めに、其《その》城《しろ》を奪《うば》はれたるの故《ゆゑ》を以《もつ》て、秀吉《ひでよし》其《その》妹《いみうと》を取《と》り返《かへ》した。然《しか》も副田《そへだ》は猶《な》ほ秀吉《ひでよし》に勤仕《きんし》した。〔武家事記〕[#「〔武家事記〕」は1段階小さな文字]或《あるひ》は曰《いは》く、尾州《びしう》烏森城主《からすもりじやうしゆ》副田吉成《そへだよしなり》の妻《つま》であつた。副田《そへだ》は秀吉《ひでよし》の命《めい》を聞《き》いて、妻《つま》と別《わか》れたが、此《こ》れが賠償《ばいしやう》として、五|萬石《まんごく》の祿《ろく》を賜《たま》はる可《べ》しとの命《めい》を辭《じ》し、薙髮《ちはつ》して烏森邑《からすもりいふ》に退隱《たいいん》し、隱齋《いんさい》と號《がう》したと。〔尾張志〕[#「〔尾張志〕」は1段階小さな文字]何《いづ》れにしても秀吉《ひでよし》は、家康《いへやす》と義兄弟《ぎきやうだい》となる可《べ》く、其《そ》の妹《いもうと》を家康《いへやす》に與《あた》へんとしたのであつた。
秀吉《ひでよし》は天正《てんしやう》十四|年《ねん》二|月《ぐわつ》廿二|日《にち》、羽柴勝雅《はしばかつまさ》、富田信廣《とだのぶひろ》等《ら》をして、三|州《しう》吉田《よしだ》に赴《おもむ》き、先《ま》づ酒井忠次《さかゐたゞつぐ》に就《つい》て、此事《このこと》を謀《はか》らしめた。忠次《たゞつぐ》は彼等《かれら》を家康《いへやす》に見《まみ》えしめた。家康《いへやす》は考慮《かうりよ》の上《うへ》、若《も》し秀吉《ひでよし》にして、左《さ》の三|箇條《かでう》に異存《いぞん》なくば、婚儀《こんぎ》取結《とりむす》ぶも苦《くる》しからずと答《こた》へた。其《その》一は既《すで》に嫡子《ちやくし》長丸《ながまる》(秀忠)[#「〔秀忠〕」は1段階小さな文字]あれば、今後《こんご》男子《だんし》を擧《あ》ぐるも、嗣子《しし》となす可《べ》からざる事《こと》。其《その》二は嗣子《しし》を人質《ひとじち》たらしめざる事《こと》。其《その》三は家康《いへやす》の分國《ぶんこく》參《さん》、遠《ゑん》、駿《すん》、甲《かふ》、信《しん》五|國《こく》は、相違《さうゐ》なく嗣子《しし》に與《あた》ふ可《べ》き事《こと》であつた。然《しか》るに秀吉《ひでよし》も豫《あらかじ》め旨《むね》を淺野長政《あさのながまさ》に授《さづ》け、彼《かれ》を清洲《きよす》迄《まで》差《さ》し下《くだ》し置《お》きたれば、兎《と》も角《かく》も浅野《あさの》を呼《よ》び迎《むか》へ、右《みぎ》の條件《でうけん》を告《つ》げたるに、淺野《あさの》は待《ま》ち構《かま》へたりと云《い》はん許《ばか》りに、懷中《くわいちう》より秀吉《ひでよし》の起請《きしやう》を取《と》り出《いだ》し、之《これ》を示《しめ》した。そは逐《ちく》一|家康《いへやす》の要求《えうきう》と符合《ふがふ》し、宛《あたか》も家康《いへやす》の胸中《きようちう》を洞察《どうさつ》して、之《これ》を起草《きさう》したるものゝ|如《ごと》くにあつた。此《こゝ》に於《おい》て流石《さすが》の家康《いへやす》も、欣然《きんぜん》たらざるを得《え》なかつた。斯《か》くして縁談《えんだん》も全《まつた》く定《さだま》つた。〔改正參河後風土記〕[#「〔改正參河後風土記〕」は1段階小さな文字]
四|月《ぐわつ》二十三|日《にち》、家康《いへやす》は本多忠勝《ほんだたゞかつ》をして、大阪《おほさか》に抵《いた》り、結納《ゆひなふ》を齎《もたら》した。秀吉《ひでよし》は本多《ほんだ》を優遇《いうぐう》して、多大《ただい》の引出物《ひきでもの》を與《あた》へた。同《どう》二十八|日《にち》、朝日姫《あさひひめ》は淺野長政《あさのながまさ》等《ら》に護送《ごそう》せられて、大阪《おほさか》を發《はつ》した。何事《なにごと》にも大仕掛《おほじかけ》なる秀吉《ひでよし》は、其《その》妹《いもうと》の婚儀《こんぎ》にも、思《おも》ひ切《き》つて華美《くわび》を盡《つく》した。其《そ》の相《あひ》從《したが》ふ婢妾《ひせふ》のみにても、百五十|餘人《よにん》あつた。途中《とちう》の行列《ぎやうれつ》は、衆目《しゆうもく》を驚《おどろ》かさんが爲《た》めに、斯《か》く仰山《ぎやうさん》にしたとも云《い》ひ得《う》可《べ》きであつた。彼等《かれら》の一|行《かう》は、五|月《ぐわつ》十四|日《か》濱松《はままつ》に著《ちやく》し、婚儀《こんぎ》を修《をさ》めた。而《しか》して五|月《ぐわつ》廿六|日《にち》、榊原康政《さかきばらやすまさ》を遣《つかは》して、婚儀《こんぎ》首尾克《しゆびよ》く相《あひ》濟《す》みたる旨《むね》を、秀吉《ひでよし》に告《つ》げしめた。
云《い》ふ迄《まで》もなく、此《こ》の結婚《けつこん》は、秀吉《ひでよし》の側《がは》より見《み》るも、家康《いへやす》の側《がは》より見《み》るも、全《まつた》く政略的《せいりやくてき》であつた。朝日姫《あさひひめ》は既《すで》に四十四|歳《さい》の中嫗《ちうう》であつた。家康《いへやす》は四十五|歳《さい》の分別盛《ふんべつざか》りであつた。彼等《かれら》の間《あひだ》には、幸福《かうふく》もなく、不幸《ふかう》もなく、只《た》だ秀吉《ひでよし》と、家康《いへやす》との提携《ていけい》の方便《はうべん》たる、要務《えうむ》を了《れう》した迄《まで》であつた。併《しか》し家康《いへやす》は、秀吉《ひでよし》と義兄弟《ぎきやうだい》となつた許《ばか》りで、容易《ようい》に秀吉《ひでよし》に屈下《くつか》しなかつた。
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