高島秀彰、入力
田部井荘舟、校正予定
[#4字下げ][#大見出し]豐臣氏時代乙篇刊行に就て[#大見出し終わり]
豐臣氏《とよとみし》乙篇《おつへん》は、秀吉《ひでよし》の一|代中《だいちゆう》、最《もつと》も油《あぶら》の乘《の》りたる時節《じせつ》である。彼《かれ》が妹《いもうと》を娶《めあ》はせ、母《はゝ》を質《ち》として、家康《いへやす》を其《そ》の傘下《さんか》に致《いた》し、妥協《だけふ》の目的《もくてき》を達《たつ》し、東顧《とうこ》の憂《うれひ》を絶《た》ち、此《こゝ》に於《おい》て多年《たねん》の宿望《しゆくばう》たる、九|州征伐《しうせいばつ》に赴《おもむ》き、遂《つひ》に島津氏《しまづし》を降《くだ》し、九|州《しう》を平定《へいてい》し、西國《さいこく》に於《お》ける耶蘇教《やそけう》の處分《しよぶん》を了《れう》し、凱旋《がいせん》の餘威《よゐ》を以《もつ》て、主上《しゆじやう》を聚樂第《じゆらくてい》に迎《むか》へ奉《たてまつ》り、御前《ごぜん》に於《おい》て、家康《いへやす》、信雄《のぶを》を首《はじめ》として、天下《てんか》の諸侯《しよこう》をして、悉《こと/″\》く貮心《じしん》なきを盟《ちか》はしめたに至《いた》る。即《すなは》ち天正《てんしやう》十四|年《ねん》より同《どう》十六|年《ねん》、秀吉《ひでよし》五十一|歳《さい》より五十三|歳《さい》迄《まで》の期間《きかん》である。
然《しか》も書中《しよちう》の一|半《ぱん》は、殆《ほと》んど秀吉《ひでよし》と何等《なんら》の關係《くわんけい》なき島津氏《しまづし》、及《およ》び島津氏《しまづし》と所縁《しよえん》ある薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》の事《こと》で占《し》めて居《を》る。此《こ》れは何故《なにゆゑ》である乎《か》。
讀者《どくしや》若《も》し著者《ちよしや》の目的《もくてき》の、『明治天皇《めいぢてんわう》御宇史《ぎようし》』を編述《へんじゆつ》するにあるを知《し》らば、其《そ》の疑問《ぎもん》は直《たゞ》ちに解釋《かいしやく》せらるゝであらう。維新中興《ゐしんちうこう》の事《こと》を叙《じよ》するには、是非共《ぜひとも》薩長《さつちやう》其物《そのもの》を諒會《りやうくわい》する必要《ひつえう》がある。薩長《さつちやう》を好《この》む者《もの》にせよ、薩長《さつちやう》を好《この》まざる者《もの》にせよ、維新中興《ゐしんちうこう》の歴史《れきし》に、薩長《さつちやう》が其《そ》の大《だい》なる働《はたら》きを做《な》した事《こと》を、否定《ひてい》する譯《わけ》には參《まゐ》らぬ。而《しか》して所謂《いはゆ》る明治時代《めいぢじだい》に於《お》ける薩長藩閥《さつちやうはんばつ》なるものは、薩長《さつちやう》の維新中興《ゐしんちうこう》に於《お》ける勳勞《くんらう》の結果《けつくわ》だ。然《しか》も彼等《かれら》が維新中興《ゐしんちうこう》の大舞臺《だいぶたい》に於《おい》て、其《そ》の目醒《めざま》しき働《はたら》きを做《な》した所以《ゆゑん》は、決《けつ》して一|朝《てう》一|夕《せき》の故《ゆゑ》ではない。薩摩氣質《さつまかたぎ》も、長州氣質《ちやうしうかたぎ》も、決《けつ》して西郷南洲《さいがうなんしう》や、木戸松菊《きどしようきく》の、間《ま》に合《あは》せ的《てき》に製造《せいざう》したものではない。其《そ》の淵源《ゑんげん》に溯《さかのぼ》らねば、吾人《ごじん》が眼前《がんぜん》に見《み》たる薩長藩閥《さつちやうはんばつ》さへも、之《これ》を理解《りかい》することは能《あた》はぬ。
著者《ちよしや》は決《けつ》して薩長《さつちやう》に對《たい》して、偏頗《へんぱ》でない。然《しか》も『明治天皇《めいぢてんわう》御宇史《ぎようし》』に達《たつ》する前提《ぜんてい》として、彼等《かれら》の重要《ぢゆうえう》なる位置《ゐち》を識認《しきにん》せねばならぬ。されば其《そ》の時代《じだい》の歴史《れきし》としては、寧《むし》ろ毛利氏《まうりし》、及《およ》び山陰《さんいん》山陽《さんやう》の事《こと》に關《くわん》し、重《おも》きを措《お》き過《す》ぐる程《ほど》、織田氏《おだし》中篇《ちゆうへん》、及《およ》び下篇《げへん》に於《おい》て叙述《じよじゆつ》した。即《すなは》ち同《どう》一の理由《りいう》は、著者《ちよしや》をして本篇《ほんぺん》に於《おい》て、島津氏《しまづし》、及《およ》び其《そ》の所縁《しよえん》の薩《さつ》、隅《ぐう》、日《にち》に就《つい》て、尋常《じんじやう》一|般《ぱん》の割《わ》り前《まへ》より以上《いじやう》の割前《わりまへ》を與《あた》へたのである。乃《すなは》ち水戸《みと》の如《ごと》きも、維新中興《ゐしんちうこう》の大業《たいげふ》に、多大《ただい》の感化貢献《かんくわこうけん》を爲《な》して居《ゐ》るが故《ゆゑ》に、單《たん》に當時《たうじ》の感化《かんくわ》其物《そのもの》に就《つい》てのみならず、又《ま》た適當《てきたう》の場合《ばあひ》には、其《そ》の淵源《えんげん》に遡《さかのぼ》りて、之《これ》を叙述《じよじゆつ》せんとするものである。
要《えう》するに著者《ちよしや》の功科《こうくわ》は、其《そ》の牛歩《ぎうほ》の遲々《ちち》たるに關《くわん》せず、未《いま》だ嘗《かつ》て其《そ》の目的《もくてき》の『明治天皇《めいぢてんわう》御宇史《ぎようし》』にあるを忘《わす》れたる※[#「こと」の合字、3-5]がない。但《た》だ滔々《たう/\》、浩々《こう/\》たる洪流《かうりう》を詳《つまびらか》にせんとするには、其《そ》の源流《げんりう》に遡《さかのぼ》らざるの必要《ひつえう》を感《かん》ずるが故《ゆゑ》に、孜々《しゝ》、兀々《こつ/\》として、其《そ》の遼遠《れうゑん》なる長途《ちやうと》を辿《たど》るのだ。而《しか》して是《こ》れが爲《た》めに、動《やゝ》もすれば旁溪《ばうけい》、支流《しりう》さへも、蹈査《たうさ》の煩《はん》を厭《いと》はぬのだ。
斯《かゝ》る目的《もくてき》を眼前《がんぜん》に控《ひか》へて居《ゐ》る著者《ちよしや》が、本年《ほんねん》に於《おい》て、收穫《しうくわく》の比較的《ひかくてき》少《すく》なかつたのは、甚《はなは》だ遺憾《ゐかん》である。單《たん》に修史事業《しうしじげふ》よりすれば、大正《たいしやう》九|年《ねん》は、昨年《さくねん》の大厄歳《だいやくどし》─|予《よ》が母《はゝ》を亡《うしな》ひ、且《か》つ自《みづ》から難症《なんしやう》に罹《かゝ》りたる歳《とし》─に比《ひ》してさへも、尚《な》ほ不作《ふさく》の歳《とし》だ。何《なん》となれば、昨年《さくねん》は織田氏《おだし》中篇《ちうへん》(大正《たいしやう》八|年《ねん》六|月《ぐわつ》二十|日《か》)織田氏《おだし》後篇《こうへん》(同年《どうねん》十|月《ぐわつ》十五|日《にち》)の二|册《さつ》を刊行《かんかう》し、且《か》つ豐臣氏《とよとみし》甲篇《かふへん》(大正《たいしやう》八|年《ねん》六|月《ぐわつ》五|日《か》稿了《かうれう》)同《どう》乙篇《おつへん》(同年《どうねん》十|月《ぐわつ》五|日《か》稿了《かうれう》)同《どう》丙篇《へいへん》(同年《どうねん》十二|月《ぐわつ》二十三|日《にち》稿了《かうれう》)三|篇《ぺん》を脱稿《だつかう》した。
然《しか》るに本年《ほんねん》は昨年來《さくねんらい》の病《やまひ》、漸《やうや》く癒《い》え、氣力《きりよく》稍※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》恢復《くわいふく》せんとしたるに拘《かゝは》らず、唯《た》だ僅《わづ》かに豐臣氏《とよとみし》甲篇《かふへん》(大正《たいしやう》九|年《ねん》三|月《ぐわつ》十五|日《にち》)一|册《さつ》を刊行《かんかう》し、今《いま》や漸《やうや》く其《そ》の乙篇《おつへん》を刊行《かんかう》せんとするに止《とゞ》まるからだ。而《しか》して其《そ》の脱稿《だつかう》したるものも、僅《わづ》かに豐臣氏《とよとみし》丁篇《ていへん》(大正《たいしやう》九|年《ねん》九|月《ぐわつ》一|日《じつ》起稿《きかう》、同年《どうねん》十二|月《ぐわつ》六|日《か》稿了《かうれう》)に止《とゞ》まるからだ。是《こ》れ實《じつ》に著者《ちよしや》自身《じしん》に取《と》りては、豫想外《よさうぐわい》の事《こと》だ。
然《しか》も飜《ひるがへつ》て考《かんが》ふるに、著者《ちよしや》は大正《たいしやう》九|年《ねん》の一|月《ぐわつ》六|日《か》より、七|月《ぐわつ》十五|日《にち》に至《いた》る迄《まで》、『大戰後《たいせんご》の世界《せかい》と日本《にほん》』なる大題目《だいだいもく》の下《もと》に、無慮《むりよ》二百十|回《くわい》の長篇《ちやうへん》を稿《かう》し、逐次《ちくじ》之《これ》を『國民新聞《こくみんしんぶん》』に掲載《けいさい》した。而《しか》して一|書《しよ》として、(十|月《ぐわつ》一|日《じつ》)之《これ》を刊行《かんかう》した。其《そ》の分量《ぶんりやう》より云《い》へば、恰《あたか》も近世日本國民史《きんせいにほんこくみんし》の二|册分《さつぶん》に當《あた》る。而《しか》して此《こ》の一|書《しよ》が、如何《いか》なる影響《えいきやう》を、天下《てんか》に與《あた》へ、且《か》つ與《あた》へつゝあるかは、著者《ちよしや》自《みづ》から説《と》くを欲《ほつ》せぬが、然《しか》も其《そ》の徒勞《とらう》に歸《き》せなかつたことは、著者《ちよしや》の敢《あへ》て告白《こくはく》して憚《はゞ》からぬ所《ところ》だ。修史上《しうしじやう》の功科《こうくわ》より云《い》へば、少《すくな》くとも二|册分《さつぶん》の收穫《しうくわく》を減《げん》じたが、新聞記者《しんぶんきしや》の身分《みぶん》より云《い》へば、聊《いさゝ》か社會奉仕《しやくわいほうし》の一|端《たん》を遂《と》げたのである。若《も》し之《こ》れを犧牲的《ぎせいてき》と云《い》はゞ、寧《むし》ろ甘受《かんじゆ》す可《べ》き犧牲的《ぎせいてき》だ。著者《ちよしや》にして今少《いますこ》しく精力《せいりよく》が饒富《ぜうふ》であつたならば、一|方《ぱう》に修史《しうし》の功科《こうくわ》を畢《を》へ、他方《たはう》に新聞記者《しんぶんきしや》としての奉公《ほうこう》も出來《でき》たであらうが、現時《げんじ》の状態《じやうたい》では、そは出來《でき》ない相談《さうだん》だ。彼《かれ》に増《ま》せば此《これ》に減《げん》ぜざるを得《え》ず、此《これ》に増《ま》せば彼《かれ》に減《げん》ぜざるを得《え》ず。著者《ちよしや》が暫時《ざんじ》たりとも、畢生《ひつせい》の事業《じげふ》としたる修史《しうし》の筆《ふで》を中止《ちゆうし》して、『大戰後《たいせんご》の世界《せかい》と日本《にほん》』の著作《ちよさく》に從《したが》うたのは、自《みづ》から禁《きん》ぜんと欲《ほつ》して禁《きん》ずる能《あた》はざるものがあつたからだ。然《しか》も著者《ちよしや》は決《けつ》して此《こ》の半歳間《はんさいかん》の努力《どりよく》を悔《く》ゆるものではない。單《たん》に修史上《しうしじやう》の功科表《こうくわへう》より見《み》れば、本年《ほんねん》は極《きは》めて不成績《ふせいせき》の樣《やう》だが、文章報國《ぶんしやうはうこく》の素志《そし》より見《み》れば、著者《ちよしや》は決《けつ》して此《こ》の一|歳《さい》を徒費《とひ》しなかつた。否《い》な聊《いさゝ》か働《はた》らき甲斐《がひ》ある歳月《さいげつ》と共《とも》に、其《そ》の健康《けんかう》の漸次《ぜんじ》に恢復《くわいふく》し、豫定《よてい》の如《ごと》く、今後《こんご》に於《お》ける、修史《しうし》の科程《くわてい》が、時々刻々《じじこく/\》、進捗《しんちよく》す可《べ》きを期待《きたい》して、自《みづ》から意《い》を強《つよ》うするものである。
豐臣氏《とよとみし》丁篇《ていへん》は征韓役《せいかんえき》を以《もつ》て始《はじ》まるのだ。予《よ》は既《すで》に丁篇《ていへん》を稿了《かうれう》したが、其《そ》の叙述《じよじゆつ》したのは、漸《やうや》く其《そ》の序幕《じよまく》に過《す》ぎなかつた。以下《いか》戊篇《ぼへん》、己篇《きへん》の二|册《さつ》、即《すなは》ち合計《がふけい》三|册《さつ》を以《もつ》て、征韓役《せいかんえき》を了《れう》する積《つも》りだ。此《こ》れは餘《あま》りに過大《くわだい》ではないかとの疑《うたがひ》もある可《べ》きであるが、本來《ほんらい》日本《にほん》にも征韓役《せいかんえき》に關《くわん》しては、種々《しゆ/″\》の著述《ちよじゆつ》があるが、未《いま》だ支那《しな》、朝鮮《てうせん》の史料《しれう》より研究《けんきう》し來《きた》つたものはない。偶《たまた》ま一二あるも、近代的《きんだいてき》史識《ししき》を以《もつ》て、之《これ》を審定《しんてい》したものではない。云《い》はゞ|征韓役《せいかんえき》は、前人未墾《ぜんじんみこん》の地《ち》だ。されば此《こ》の題目《だいもく》に向《むか》つて、努力《どりよく》するのは、如何《いか》にも愉快《ゆくわい》なる勞作《らうさく》だ。今日《こんにち》世論《せろん》動《やゝ》もすれば、霞關《かすみがせき》外交《ぐわいかう》の失體《しつたい》を説《と》く。然《しか》も外交《ぐわいかう》の失體《しつたい》は、秀吉《ひでよし》以來《いらい》の事《こと》だ。秀吉《ひでよし》さへも、外交《ぐわいかう》では失敗《しつぱい》した。日本人《にほんじん》の外交《ぐわいかう》に拙劣《せつれつ》であるのは、歴史上《れきしじやう》の事實《じじつ》だ。因襲的《いんしふてき》だ、傳統的《でんとうてき》だ。今《いま》を見《み》るの目《め》を以《もつ》て、古《いにしへ》を見《み》れば、古《いにしへ》の事《こと》が愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》分明《ぶんみやう》だ。古《いにしへ》を見《み》るの目《め》を以《もつ》て、今《いま》を見《み》れば、今《いま》の事《こと》が益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》鮮明《せんめい》だ。著者《ちよしや》が征韓役《せいかんえき》に多大《ただい》の興味《きようみ》を感《かん》じ、之《これ》に向《むか》つて渾身《こんしん》の努力《どりよく》を竭《つく》さんとするも、、所謂《いはゆ》る歴史《れきし》は過去《くわこ》の政治《せいぢ》で、政治《せいぢ》は現在《げんざい》の歴史《れきし》であるからだ。
尚《な》ほ更《さ》らに『桃山時代《もゝやまじだい》』の一|篇《ぺん》を以《もつ》て、秀吉時代《ひでよしじだい》に於《お》ける、國民的《こくみんてき》生活《せいくわつ》と、思想《しそう》とを叙述《じよじゆつ》せんとする積《つも》りだ。此《かく》の如《ごと》くして豐臣氏時代《とよとみしじだい》は、甲《かふ》、乙《おつ》、丙《へい》、丁《てい》、戊《ぼ》、己《き》、庚《かう》の七|册《さつ》を以《もつ》て、完了《くわんれう》する積《つも》りだ。而《しか》して大正《たいしやう》十|年中《ねんちう》には、固《もと》より全部《ぜんぶ》稿了《かうれう》の積《つも》りだ。併《しか》し何《いづ》れも豫期《よき》である。人間《にんげん》の事《こと》は、豫期通《よきどほ》りに參《まゐ》らぬが、寧《むし》ろ原則《げんそく》の樣《やう》だ。されば著者《ちよしや》は、自《みづ》から豫期《よき》の通《とほ》り、必《かなら》ず之《これ》を實行《じつかう》し得《え》るものと斷言《だんげん》はせぬ、保證《ほしよう》はせぬ。但《た》だ最善《さいぜん》の努力《どりよく》を以《もつ》て、此《こ》の豫期《よき》に向《むか》つて、驀進《ばくしん》するのみである。
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大正九年十二月初七午後三時半、逗子觀瀾亭に於て。時に朝來の風雪愈※[#二の字点、1-2-22]劇甚を加へ、庭前の殘楓雪を帶び、一種の奇觀を呈す。
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[#地から1字上げ]蘇 峰 學 人
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